クリスチャンn世代の若者からのお願い(3) 勝手に期待しないで・・・ その3
これまでのまとめ
これまで、第1回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1 では、
日本の教会が、高齢化という意味では、時代の最先端を行っている可能性があること、その中で、適切な見直しをしないと、教会という建物と土地が不良債権化しかねないこと、
第2回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2 では、
さらに、そのような環境の中で、ご高齢の信徒さんから若い信徒さんへの期待やご自身が若かりし頃の武勇伝が述べられて、もっと人を連れてこい、と武勇伝交じりで語られかねないこと、かつては、教会に通うことが一種の時代の最先端を行くかのようなライフスタイルであった可能性があること
というお話をしてきました。
そして、その当時の伝道にまつわる環境と、現在、2018年の伝道環境は、果たして完全に同じと言えるでしょうか?ということでお話してきましたし、個人的には、かなり違うのではないか、と思うということを申し述べました。本日は、このあたりについて、昭和30年代の文化について、次回ご紹介していきたい、と思います。
歌声喫茶ならぬ歌声教会
1960年代には、ペギー葉山という方の学生時代という歌謡曲(なんと懐かしい昭和の響きのする言葉でしょう)やなぜか(ヂュークエイセスとか、ボニージャックスの皆さんの影響なのか、彼らが時流に乗ったのか,、どちらかは、よく知らないですが…。)ロシア民謡を歌うというのが、お金をかけない青春の楽しみ方としてありました。ロシア民謡なんかを、みんなでアコーディオンの演奏に合わせて歌う、というのが、1960年代には流行りました。
ボニージャックスの皆さんでロシア民謡
ロシア語による一週間(日本語字幕付き)
個人的には、誇大妄想的なところのあるロシアとしては、この曲のほうが、ロシアの雰囲気をよく表しているような…
ロシア連邦に代わっても、やっぱり、曲はこれ…
何回聞いても吹き出しそうになるエジプト軍楽隊によるロシア連邦の国歌演奏(よく噴出さずにいられると思いました)
そう言えば、朝の連ドラ「ひよっこ」で、金の卵の勤労青年の皆さま方が、アコーディオンの伴奏で歌うというシーンが何回かございましたのをご記憶の皆さんもおられるかもしれません。
http://www.siesta-tokyo.com/article/hiyokko-0510.html より
NHK素人のど自慢のパロディをしているドリフターズ
昭和30年代には、歌声喫茶というのが、各地で流行していた、それを復活させる試みがある、とNHKの夕方のニュース映像で流れていたけれども、そこに集まっている年代層が、微妙に現在の教会に集まっておられる世代とかなり重なるんだなぁ、とちょっと驚いてしまいました。それを見ながら、教会は、歌声喫茶ならぬ、賛美歌喫茶(説教付き)だったのかもしれない、とちょっとし思ってしまいました。
歌声喫茶のようなものを健康歌声サロンとして高齢者向けに復活させたことについてのNHKのニュース映像
カラオケと讃美歌と福音
今なら、カラオケハウスなんでしょうけれども、当時は、そんなものはないので、アコーディオン伴奏(ピアノとかは高いし、移動コストがバカ高いから)で、皆さんで歌って時間を過ごしたのではないでしょうか。その意味で、カラオケ文化の原点は、ひょっとしたら、この歌声喫茶ではなかろうか、と思ってしまいます。
ところで、このカラオケも、レーザーディスク(CDの前身)を開発し、それでカラオケに利用したパイオニア(この会社は、昔、福音商会電機製作所といい、クリスチャン経営の音響関連機器製作メーカーとして出発しています)が販売したことにより、広く世界的な文化基盤を作っていったということを考えると、ある面、この音楽というのは、実に福音伝道とつながっているようには思います。まぁ、そのあたり、メソディスト運動の出発、今のメソディスト系(関西学院大学はこのウェスレー系のミッションスクール)の教会の基礎を作ったウェスレー・ブラザースの弟君チャールズ・ウェスレーが当時のフォークソング(俗謡)にリタジーの文言を載せたり、リタジーの文章に合う讃美歌を作曲して、人々に福音伝道をしていったことを考えると、音楽というのは、実に大切だと思います。
チャールズ・ウェスレーの讃美歌
さて、当時の若者があまりお金をかけずに、健全にみんなで歌いながら、現在のカラオケがわりのものとして楽しんだ歌声喫茶では、どのような飲食物が提供されていたかについては、その当時、ミーちゃんはーちゃんはこの世に存命中でなかったために知る由はありませんが、まぁ、外国を思わせる紅茶やコーヒーなんかが提供されていたんでしょう。多分。
こうかんがえると、当時の教会では、ほうじ茶や番茶が礼拝後出たりするのが、一般的ではなかったか、とは思うのですが、外国人宣教師の方がいるような教会では、コーヒーや紅茶、あるいはコーラが出たかもしれません。そうなると、もう、そこは、歌声喫茶ならぬ、賛美歌喫茶のようなものになっていたのではないか、と思うわけです。
時間がたっぷりあった昔の若者
世帯持ちのミーちゃんはーちゃんからすると、独身の若者も、時間は相当たっぷりあるとは思うのですが、今の若者以上に、昔の若者は、お金はあまりない方が多かったようですが、時間だけはたっぷりありました。時間を持て余している方が多かったわけです。ラジオが高級品、テレビや黒電話などにいたっては、数世帯に1台という時代、近所の人々がテレビがある家に集まるという時代です。学生がテレビを持つのは、異常だった時代です。スマホや、任天堂のゲーム機なんかもありません。外出するのにお金がかかる時代、でも、ちょっとなんか、他の人と違うことがしたい、それで(できるだけお金をかけずに)楽しみたい、という人々が一定数いたわけです。だから、昔の学生は図書館に行って、本を読んで過ごしたわけです。あるいは、各地で開かれている講演会とかや、街頭演説会に参加したり、あるは暇を持て余して、安保闘争に参加する人もいたかもしれません。当時安保闘争に参加することは、かっこいいことだったですから。なんせ、時代の「前衛」(前衛は、一応共産党用語・スポーツ用語ではない)だったわけですから。
60年代の安保闘争の画像
安保闘争に参加するほど、武闘派ではなく、穏健なそして、上昇志向や西欧志向を持つ若者の皆さんにとって、教会というのは案外居心地がいい場所だったかもしれません。なんせ、世界のベストセラーで、当時日本人にとって最先端と思っていた欧米文化の基礎を作ったとされるキリスト教とは何かを、説教という講演会スタイルで(わかりやすかったか、面白おかしかったかどうかは別として)聞かせてくれて、寒くもなく、それほど熱くもなく、雨露に打たれることもなく時間を過ごすことができ、若者の楽しみの音楽を讃美歌ということで楽しませてくれて、お茶が出たりもしたでしょうから、無料の歌声喫茶ならぬ、賛美歌喫茶(ただし、説教付き)としての役割を果たしたのではないでしょうか。まぁ、もう少しいうと、歌声教会といった感じが、当時の教会のイメージだったかもしれません。
自宅やアパートからすぐに行けたプチ外国としての教会
日本は、徳川の大君の御代から、明治帝の大王の御代の最初ごろにいたるまで、高札でご禁制が布告された振興とキリスト教を扱ってきましたので、多くの日本の方は、キリスト教やキリシタン、クリスチャン(当時は耶蘇(ヤソ イェズス、イエス、イシュアスの中国語表記)と揶揄して呼ばれた)が西欧、ないし南蛮渡来のものであることだけは、十分すぎるほどご存知でした。
大木先生と先日召された古屋先生(キリスト新聞さんの記事はこちら)が2001年に共著で著わされた「日本の神学」(ヨルダン社)では、20年単位で繰り返される、社会の国粋化と国際化の波の中で教会も様々な現象に直面してきたことが描かれておりますが、国際化の時には、キリスト教は時流に乗って、その数を増やしていきました。戦後の第2次キリスト教ブーム、1980年代のキリスト教プチブームなどは記憶に新しいところかもしれません。
そのころには、今と比較にならないほど教会に外国人宣教師の方がおられました。理由は様々でしょう。そんな外国人宣教師(といっても、北米大陸、英国、北欧並びにヨーロッパ亜大陸の方がおられる教会は、まさに、自宅からちょっと行けるプチ外国だと思います。今のように、スマホでHuluやNetFlixが見れるわけでもなく、映画は1回1000円(昔からあんまり値段が変わってないから、今の1万円近い感覚だと思いますが)近く、テレビも数世帯に1台という状態では、教会というのは、プチ外国だったわけです。
昔、1ドルは360円の固定相場制でした。ニクソンショックと、その後のスミソニアン協定が結ばれた結果、1970年に円ドルの変動相場制に移行しました。特に1960年代の前半は、日本は敗戦国でしたので、経済的には中進国以下の存在でした。貧しい国でした。今のお若い方からは想像がつかないでしょうけれども。
多くの日本人にとって、外国とは、兼高かおる世界の旅で見る世界、あるいは、パンナム(今はなくなったパン・アメリカン航空)の日本総支配人のヒョーショージョーのおじさん、ないしは、教会とそこにいる宣教師、だったわけです。その意味で、通常の日本にない、珍しい貴重なコンテンツを持っていた組織の一つが教会でした。学生アパートから行ける外国が教会だった、のだろうと思います。
TBSが放送した兼高かおる世界の旅(これ、日曜日の番組だったと思う)
外国への窓口であった教会個人的には、ミーちゃんはーちゃんは伝統教派、なかでもアングリカンへの傾倒が激しいので、これからご紹介する記述をお書きになられた方とは、信仰の様子がかなり違う方なのですが、現在神戸で牧師をしておられるWataru Sugahara さんという方がご自身が信仰を持ったころのこと6月9日にFacebookに記載しておられたので、当時の教会がいかに外国への窓口であったのか、ということについて、ご許可をいただいたので、転載しておきたい、と思います。Wataru Sugawaraさんには、転載の許可をいただいたことをこの場を借りて心から感謝の気持ちを表したいと思います。
私が教会に行くようになったきっかけは、近所に住んでいた米国老婦人宣教師のアパートで英会話の集いがあることを弟が教えてくれたことに端を発している。高校2年の晩秋のことだった。
米国老婦人宣教師の英会話の集いはある程度会話の出来る大人の方たちが中心であって、テーマも自由で完全フリートークの場であったので、私にはチンプンカンプンの世界であった。
英会話の集いをもう辞めとうかなと思っていた高校3年になる春休み、近くに伝道所がスタートしたことを宣教師がチラシを下さってそのことを知った。これが教会に行くきっかけとなった。
教会に行けばもっと多くの宣教師がいるかも知れない。そうすればアメリカ人と多くの友達が出来るだろう。そんな思いで始めて教会の門をくぐったのであった。高校3年の春休み日曜日の夕方であった。
当時、生のアメリカ人と接する機会は殆どなく、教会で身近にアメリカ人と接し英語で話すことは人生初体験の冒険でエキサイティングなことであった。
教会の集会に生れて初めて参加した時、大人の方々が一斉に讃美歌を歌う光景はカルチャーショックで「こんな世界がこの世にあるんだ」と思ったことだった。
教会では日本人が数名、アメリカからの宣教師が数名。映画のスクリーンでしか知らなかったアメリカ人がこんなに身近にいる体験は新鮮であり興奮することであった。
母親、父親の影響で歌謡曲が好きだった私は、聖歌の美しい旋律に違った魅力を感じた。大学受験での挫折の中にいた私の心を癒やすのに充分な出会いであった。宣教師、教会、讃美歌の出会いが私の人生を変えてしまった。
高校3年の春に教会に行き始め、6月のある日曜日の夜の伝道集会で塩屋の神学生が語った、ヨハネ3章16節の聖句からのメッセージが私の人生を変えてしまった。キリストの十字架の意味が明確に分った瞬間であった。
高校3年の6月最後の日曜日の夜、神学生の信仰決心の招きに応じて、涙ながらに罪を悔い改めて講壇前にひざまずき祈りをささげるのであった。そして、次週日曜日に洗礼を受けることが決まった。
信仰決心から洗礼予定の翌週までの7日間は恐怖の日々であった。「大変なことを決断してしまった。これで俺の生涯はキリスト教に縛られて生きて行かねばならなくなる。どうしよう」中止にしたいが、それを言い出すのにも勇気がいる、、。
洗礼日が決まってからの7日間は、恐ろしくて逃げ出すことばかりを考えていた。しかし逃げ出すことも出来ず、当日の日曜日を迎え、礼拝の後、須磨海岸で洗礼を受けるのだが、屠り場に引かれて行く牛のようにうなだれていた。
洗礼場の須磨海岸に車で行くのだが、セドリックに乗せられて両脇には大男の宣教師が座っていて真ん中に私がいて、まるでどこかの刑務所に収監されるような気持ちだった。須磨の交差点では交通事故直後の女性が車輪下から這い出す場面にも遭遇だった。
いよいよ、洗礼が始まって聖歌を歌い、祈りが終わり、宣教師と神学生が待っている沖合に行きました。ザブンと海に沈められ、上がった時には別人のようになっていた。全ての疑心と不安が過ぎ去って平安と信仰と勇気が一気に湧いて来たのだった。
人生で最初に出会ったアメリカ人は老婦人宣教師だった。神戸の下町、長田区の小さなアパートのドアを開いて玄関に立った時、今まで経験したこのない匂いが満ちていた。この老婦人会っていなかったら全く別の人生を歩いていたことだろう。
また、個人的に敬愛して、私淑する百姓トンちゃんこと後藤敏夫さんは、ご自身のブログどこかに泉が湧くように の記事 福音派キリスト教とフランクリン・グラハム伝道大会 では、ご自身の経験を振り返りながら、次のように書いておられます。
私は高校生の時代に、アメリカ人と知り合いになりたくて宣教師の集会に行ってクリスチャンになりました。アメリカは遠い遠い夢の国でした。私たち団塊の世代にとって、新しく格好のいいものはすべてアメリカから来ました。テレビ番組や映画も、雑誌も、「コーク」も「マック」も、カレッジフォークやジャズやロックのような音楽も、アパレル(そんな言葉はありませんでしたが)や車や生活様式も、みんなひっくるめてメイド・イン・USAのファッションでした(そのすべてが私の青春です)。
キリスト教の世界もあまり変わらないかもしれません。私が上京した1967年に2度目の「ビリー・グラハム国際大会」が行われ、英国の歌手クリフ・リチャードが歌い、引退したNYヤンキースの野球選手が証しをしました。戦後民主主義のように、福音派においては神学の世界もアメリカでの学びによって導かれて来たように思います(どちらも決して軽視したり否定したりして言うのではありません。私たちのその子です)。宣教や教会形成に関わる分野では、新しい波は、私が牧師になった70年代から80年代にかけて西海岸の神学校から来ました。日本のバブルに乗ったような右肩上がりの教会成長論や(予算計画を含んだ5年計画や10年計画が教会や牧師のビジョンと呼ばれました)、いわゆる聖霊の第3の波と呼ばれたような、その後のカリスマ運動やリバイバル運動に繋がる動きです。そういう一つひとつが、「あれはいったい何だったのか」という思いの中で自省されることもなく時代の流行のように消えて行き、ただその形跡として崩れたもの、何か大切なものを失った痕跡が残り、そこにまた彼の国の現実や文化の中で生まれたより健やかで洗練された新しい波が太平洋の向こうから来ます。成功例はあるでしょうが、生活や歴史文化に根がないアイディアなので受けとめる側にとっては新しい方法論にならざるを得ません。それらは聖書的な教会論の装いをしてはいても本質はいつも牧師がCEOであるような実利主義的な教会運営論・管理論のように私には思えます。南米や韓国に生まれた運動や人間力学の影響も少なくありませんでしたが、私の印象では基本的にはケチャップとマスタードの味をベースに、より刺激の強いチリペッパーやコチュジャンの味を加えたようなものです。実際、韓国の福音派キリスト教は、儒教的人倫体系を基盤にしていますが、非常にアメリカ的です(ある有名教会に属していた私の友人は、植民地下を生き抜き、教会活動の陰で熱心に祈っていた高齢の婦人たちが天に召されて、教会にはイベントだけが残った、と言っていました)。
これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から——いや戦後の焼け跡の時代から——何も変わっていないのではないかと思わされます。時代とともに変わったものがあるとすれば、もしかしたら、(これもある種のアメリカの福音派の影響で)かつての敬虔主義的福音派が大切にして来た聖書の福音そのものの理解かもしれません。「いのちのことば社」の古い本を読んでいると(たとえば、オズワルド・チェンバーズの『いと高き方のもとに』のような)、そこに語られているような信仰と教理の言葉は、もう私たちの宣教や証しの言葉、そして賛美の歌の言葉にはなくなっていることに気づき愕然とします。時代精神ともに失われたものは、時代や流行とともに変わってはならない、十字架と復活の福音にとって大切な本質的なもののように思えますが、何をいつどう失ったのかも分からなくなっている中で、悪貨が良貨を駆逐している感じがします(たとえば、信仰生活の同じ主題についての本でも、昔書かれたものの方がずっといいのですがもう読まれず、あるいは読む信仰的資質や体力が失われ、今のものは新しい時代感覚で同じ真理が言われているというよりも、新しい感覚から出る言葉がナルシシズムの文化の中で福音の大切な本質からずれてしまっています)。
でも、考えてみると、教会は、外国への一番身近な窓口であるのは、ある面当たり前かもしれません。教会という信仰を持つ人たちの集合体は、異なる概念が支配する世界である外国として、神の国、神の主権、神の支配がそこにある、というサクラメンタルな存在のはずですから。そして、人の子、ナザレのイエスは、次のように言ったはずなのですから。
【口語訳聖書】ルカによる福音書
17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
次回へと続く
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