2018.06.07 Thursday

ペンテコステ第2主日のブルティンからの黙想 安息日をめぐる黙想

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    先日の説教は、マルコ2章23−3章6節までの安息をめぐるイエスと律法学者の対話と、病者の回復についての記事からでした。

     

    世にも奇妙な世界の規則たち

    最初は、世界にいろいろある奇妙なルールがあげられ、いろいろな奇妙なルールの話をまず暴騰してました。

     

    イギリスでは、鮭を変な持ち方をしてはいけない(1986年制定の規則、というツッコミつき)

    スイスでは、裸でハイキングしてはならない

    ポルトガルでは、海の中で排尿してはならない(誰がどう確認するんだ、というツッコミつき)

     

    後、記憶に残ったのは、

      説教者たるもの説教壇で笑ってはいけない

    といったものでした。

     

    この珍妙なルールのソースは、おそらく、このリンク http://www.thisisinsider.com/14-strange-laws-from-around-the-world-2016-7 とそのほかから、取っているのだろう、とは思いますが。

     

    現代イスラエルでの安息日の出来事と安息日の意味

    現代のイスラエルでも、保守派(ウルトラ保守派)の皆さんは、安息日に冷蔵庫を開けたり、エレベータを使うと、電気を使うことになるので、仕事をしたことになるので、これらのものを使わない人々がいるといったこと(これは実話であるらしいようです。お友達のレビ先生(日本人)の方から聞いた話だと、日本人のような外国人なら、安息日のルール外だとおもったのか、レビ先生のアパートの隣の厳格派のユダヤ人のご夫妻が、外国人である日本人に金曜日の日没(金曜日の日没から、安息日が始まるから)以降に、冷蔵庫の電球を外してくれ、と頼みに来たことがあったらしいです)といった、ユダヤ社会の習慣が取り上げられた後、ユダヤ社会では、律法、十戒で知られる、十のことばにある、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」の解説について、司祭が、説教の中で、取り上げていました。

     

    https://www.pinterest.jp/jmoolinger257/s-sabbath/ から

     

    そして、当時の律法学者たちが、律法が何のために、誰のためにあるのかを忘れ、形式化したことをイエス様が批判されたことを述べた後、安息をとるのは、何のためか、という話になり、安息は、神との関係と深め、神との関係に戻るための安息日ではないか、それは、ある意味で、私たちが神を賛美し、神とともに生きる、という本来の人間の役割に戻るということに着目すべきであろう、というのが、ペンテコステ第2主日の説教の概要でした。

     

    奴隷の皆さんにも及んだ安息日

    奴隷であったことを思う安息日

    そして、安息日は、ユダヤ人だけに及んだのではなく、社会全体に及び、社会が一つとなって休んだことが、申命記5章12−15節までの記述から、説明され、すべての人が神との関係に戻ることを神が求めておられ、誰かの犠牲の上に安息が守られる、ということではなかったことも触れられました。これは、本当に大事な視点だ、と思いました。そして、ユダヤの民が、かつて奴隷であったことを思い起こすように指示されていることも、本当に重要な側面であったと思います。

     

    それは、現代の私たちにとって、私たちは、様々なもの、欲望だったり、自分自身の自信、社会的制度だったり、あるいは人の目するのだと思うのですが、それらの奴隷であったことを思い起こす必要性ともつながっている、といったことを、司祭の説教を聞きながら思い起こしていました。

     

    【口語訳聖書】 申命記  5章 12−15節

    安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。 

     

    ともすれば、自分が神との喜びに満ちた安息に入るために、時に他者に、特に社会的に弱い立場の人たちに、犠牲を強いてしまうというのが、人間の弱さの結果ではありますが、そのことの現代的な意味を少し考えていました。

     

    そういえば、この説教を聞きながら、神との安息の大切さ、安息日を守ることの大切さ、を思い出していました。そういえば、いのちのことば社から最近翻訳が出た修養する生活をお書きになられた、スーザン・フィリップス先生の2年前の講演 2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(1)  でも、そのことが触れられていました。

     

    それと同時に、今回の聖書箇所で気になったのは、

     

    第2コリント4:7−11 
    We are like clay jars in which this treasure is stored. The real power come from God and not from us. We often suffer, but we are never crushed. Even when we don't know what to do, we never give up. In times of trouble, God is with us, and when we are knocked down, we get up again, We face death everyday because of Jesus. Our bodies show what his death was like, so that his life can also be seen in us.

     

    日本語の口語訳聖書では、

     

    コリントの信徒への手紙二 4章 7-11節
    ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 
    虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 

     

    どういう関係か、日本語で読むと、自分たちが形状記憶合金のような存在や、はたまたスーパーマンであるべき、という勧めのように聞こえてしまいそうな文章ですが、英語のこのバージョンでの翻訳で同じ部分を読んでみると、人間がスーパーマンのような存在に聞こえるようなところに目が行くのではなく、神がこの粘土でできた体に内在される、吹き込まれるがゆえに、困難な時にも、そこに神の臨在がある、という形に聞こえるから不思議だなぁ、と思いました。

     

    神の霊を土の器に入れていただいている存在として
    まさしく、創造の初め、神が神の霊(聖霊)を人に吹き込まれるまでは、人間は、粘土の塊、粘土の入れ物のような存在だったのだということを思い起こしていました。それは、ミーちゃんはーちゃんの数か月前の姿でもあったわけです。安息の大切さを知りながら、神の安息に憩っていなかった、自分自身の姿を思い起こすことになりました。神の息吹を吹き込まれていることを覚える日、それが安息日なのだろうなぁ、と思いました。

     

     

     

    死海文書が入っていた、粘土製のツボ https://www.awesomestories.com/asset/view/Dead-Sea-Scrolls-Clay-Jars//1 から

     

     

     

     

    ヒゼキア時代の粘土製のツボ https://lukechandler.wordpress.com/2015/06/27/biblical-artifacts-in-the-israel-museum/ から

     

     

    Real help in times of trouble.

     

    そして、この部分を読みながら、響いてきたように思い起こされたのは、祈祷書の次のような文章です。

     

     

    Real help in times of trouble.

     

    レントの時、このリタジー(式文、ないし祈祷文)をよみながら、本当にそうだろうか、と思い悩みつつも、これを皆さんと一緒に読むときに、そうなんだろうなぁ、と思っていました。そして、苦しみの日々、苦々しい日々、闇夜、荒野の中、死の影の谷、海の底のような状態にある時には、この言葉を本当に心からいえないながら、このことを本当に信じているのだろうか、ということを自分自身に問う毎日でした。

     

     

    しかし、今、ほぼその状態から、なぜか抜け出した毎日を過ごす中で、確かにわが神は、

     

     

     

    Real help in times of trouble.

     

    だった、ということができるなぁ、と思い起こします。とはいえ、また、いつ何時、またあの同じ苦しみの日々、苦々しい日々、闇夜、荒野の中、死の影の谷、海の底のような状態に陥らないとは言えないミーちゃんはーちゃんがいます。しかし、そうであっても、神のもとに戻るとき、神の安息日を覚え、神との安息の時間をとるとき、そこに、自分自身が、

     

    Real help in times of trouble.

     

    といいうる希望があるなぁ、と思うのです。そう、神は絶望の神ではなく、希望の神であることを、身を持って体験したような気がするということを再確認する黙想に、この日の説教から導かれました。

     

     

    この黙想を与えたもうた、

     

      主に感謝、主に栄光、Thanks be to God, Glory to you O Lord.

     

    と思っております。 

     

     

     

     

     

     

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