2018.06.04 Monday

サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (4)

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    これまで、

     

    前々々回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (1)

     

    前々回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (2)

     

    前回 サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (3)

     

    とご紹介してきました。

     

    巡礼者の小道からの引用 再び

    今回が、このシリーズの最後になります。まず、前回ご紹介したブログ 巡礼者の小道 の続きのこれら音楽と賛美によるミュージシャンの反省をもう少し引用してみたいと思います。

    ああ、なんというペテン!なんという詐欺!神は礼拝の中で御自身を私たちに与えたいと願っておられるのです。それなのに、私たちは深遠なるこの賜物を拒絶する道を選び、その代りに、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」の‟清められた”バージョンにいそしんでいます。

     

    私はミュージシャンです。これまでの30年に渡り、私は自分の教会の賛美チームを率いてきました。しかし今になって思うのです。ああ、過去に戻ることができるならと。

     

    それが叶うのなら、私はこれまで自分のやってきたこと全てを撤回したい。ロックン・ロールの一切合財をステージから取り下ろしたい。ワーシップという名の元に自分がやってきた露骨な感情の吐露を消し去りたい。そして、、(あえてこの言葉を使いますが)あらゆる偶像礼拝を撤回したい。

     

    What a cheat! What a scam! God wants to give us Himself in our worship. We choose to reject this profound gift and instead engage in the sanctified equivalent of “do a little dance, make a little love, get down tonight”.

    I’m a musician. I led my church’s worship team for nearly 30 years. I wish I could take it all back; all the rock and roll from the stage, all the outpouring of raw emotion in the name of worship, all the—do I dare use the word?— idolatry.

     

    Idolatry?

     

    特に気になったのは、「神は礼拝の中で御自身を私たちに与えたいと願っておられるのです。それなのに、私たちは深遠なるこの賜物を拒絶する道を選び、その代りに、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」の‟清められた”バージョンにいそしんでいます。」「ワーシップという名の元に自分がやってきた露骨な感情の吐露を消し去りたい。」という部分でした。

     

    神の愛と人間の色恋沙汰の混乱 

    上に引用した部分の中で、特に、「私たちは深遠なるこの賜物を拒絶する道を選び、その代りに、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」の‟清められた”バージョンにいそしんでいます。」ということは、結構深刻な影響を持っています。特に、神ご自身を受け止め、神ご自身の臨在とその喜びを示す儀式に代わって、人間世界の喜びが聖書の言葉や敬虔な表現で飾られているとはいえ、人の間の愛が神の愛の代わりに語られ、そして、神の愛と人の間の色恋沙汰との取り換えが起きかねない状態があるとすれば、どうなんだろう、と思ってしまいました。

     

    もちろん、人間の間の色恋沙汰も、大事です。神は、創世記のはじめに、「産めよ、増えよ、地を満たせ」とおっしゃっていますから、色恋沙汰がなければ、「産めよ、増えよ、地を満たせ」というようなことは起きません。ご自分の好きな音楽で、歌い踊ることだって、悪いことではありません。ダビデは裸踊りして、ミカルから、文句を言われていますが、神はそう考えておられなかったかもしれません。

    【口語訳聖書】サムエル記 下
     6:14 そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。
     6:15 こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。
     6:16 主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。
     6:17 人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。
     6:18 ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。
     6:19 そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。
     6:20 ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、「きょうイスラエルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました」。
     6:21 ダビデはミカルに言った、「あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。
     6:22 わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであろう」。
     6:23 こうしてサウルの娘ミカルは死ぬ日まで子供がなかった。

    この記事を見ていると、踊るにせよ、主の主、万軍の主、王の王の主権性がどこにあるか、に依存しているのではないか、と思うのです。つまり、歌うにせよ、踊るにせよ、問題は、そこに神の中心性、神の主権性への人間側からの希求というか、謙遜というか、優先の思いがあるかどうかではないか、と思うのです。ところが、上の文章のように、「ちょっくら踊って、いちゃついて、今晩楽しくやろうぜ」のように、人間の側の都合が最優先になっているとしたら、神への賛美だといいながらも、どこかで人間が中心になっているのではないか、と思うのです。

     

    その辺が問題なのだと思います。

     

    聖餐と聖餐的な何かとの違い

    聖餐は、「神は礼拝の中で御自身を私たちに与え」給うた、ということを具体的に、パンとブドウの実から作ったワインやジュースを受け取ることで示している行為です。つまり、我々がパンを受け取り、そして口にし、我々が、ブドウの実から作ったものを口に含むとき、我々が神が与えようとされた神の御子を受け取り、神の御子を示すパンとブドウの実からつくったものを自分のうちに取り込むことで、我々のうちに神が臨在されることを示す儀式です。その意味で、我々は受け取るだけなのだ、ということを示す儀式であるように思います。

     

    賛美歌を歌うこと、ワーシップソングを歌い踊ることにこの神の御子が与えられたこと、神の接近とその受け取り、そして神を受け止めることと臨在が中心的なテーマとして含まれておらず、「神に仕える私、かっこいい」とか「神のための犠牲となっている、神さまのために苦労している私、ガンガレ〜〜〜〜」「神の愛に感動しているワタシ、なんと敬虔」とか、私の気持ちが中心になっているとしたら、本当に残念だなぁ、と思います。ワーシップに見られるのは、式文(リタジー)の言葉に込められた神の思いの受け止め、というよりは神への個人的感情の吐露であるように思えてなりません。

     

    要するに、問題は、人間側の気持ちが中心なのか、神が一方的に現れること(神の主権性)が中心なのか、ということなのではないか、と思います。

     

    そう思っていると、Facebookでナウエン・ソサエティから流れてきた投稿が気になりました。

     

    重要でありたい、魅力に満ちた存在でありたい、力強い存在でありたい誘惑の存在は、ある意味で、実際の誘惑であり、私たちの人生に付きまとうものだと思うのです。このような誘惑は、非常に強いものです。そして、モバイル社会の中で、上昇志向の流れに乗っていきたいという私たちの欲望と直接的につながっているのです。

     

    このような誘惑は、偽りの自己の幻想に縋りつきたいという誘惑として、理解することができれば、私たちの真実な自己、その中に神がそっと隠れておられる真実の自己を取り戻すことができるきっかけになると思うのです。もし、私たちが私たちの隣人(ともに歩んでいる人たち)に仕え続ける自分たちの姿を見るなら、他の人々と大して変わらなくても、また、ほとんどの人々から称賛されなくても、権力や能力を持ってなくても、神の隠された愛のうちに子供(養子)としてくださった私たちを神がよく知っておられるのと同様に、私たち自身をよく知ることができるようになるのです。

     

    私たちは、この地上(の支配)に属するものではありません。神のうちにあるものなのです。私たちは、イスラエルの民がエジプトに戻りたがったように、キリストの十字架に従って生きる愚かさを否定し、昔の自分の姿を取り戻そうと、様々な方法で試みを受けると思います。しかし、もし、私たちがイエス・キリストに、本当に追随しようとする度に、いつも、私たちは、試みるものに、「下がれサタン あなたの神だけに仕えよ、と書かれている」とイエスのことばを口にすることができるのではないでしょうか。

    (以上、ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)

     

     

     

    "The temptations of being relevant, spectacular, and powerful are real temptations and stay with us all of our lives. They are strong because they play directly on our desire to join others on the upwardly mobile road.


    But when we are able to recognize these temptations as seductive attempts to cling to the illusions of the false self, they can become instead invitations to claim our true self, which is hidden in God alone. When we find ourselves able to continue to serve our fellow human beings even when our lives remain the same, even when few people offer us praise, and even when we have little or no power, we come to know ourselves as God knows us, as sons and daughters hidden in God's love. 

    We do not belong to the world. We belong to God. We always will be tempted in one way or another to reclaim the old self, to return to Egypt, and to reject the foolish way of the cross. But we become true followers of Jesus Christ each time we take his words on our lips and say to the tempter, 'Be off, Satan...you must worship the Lord your God and serve him alone.'" [THE SELFLESS WAY OF CHRIST]

     

    www.henrinouwen.org

     

    いやぁ、この文章を読みながら、本当に、主の祈りの言葉を思わずにはいられませんでした。

     

     And lead us not into temptation, but deliver us from evil.“

     

    我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。

     

    ということを思います。

     

     

    上に紹介したナウエンの文章にも表れていますが、教会の中でのワーシップソングを歌うこと、賛美チームのリーダーになることや、教会の中で重要なメンバーとして認められることが、「重要でありたい、魅力に満ちた存在でありたい、力強い存在でありたい」ということと直結しているなら、「偽りの自己の幻想に縋りつきたいという誘惑」と直結しているのかもしれません。それはかなり危険なことのように思います。そして、そのために力の限りワーシップソングをシャウトしたとしても、そこに神はおられないのかもしれません。

     

    そのことを、エリヤは以下で引用した記述の場面で、経験したのだと思います。

     

    【口語訳聖書】 列王上
     19:8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。
     19:9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
     19:10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
     19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
     19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
     19:13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
     19:14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。

    イエスと変貌山で出会ったように見えた、とされるエリヤですら、この部分を読む限り、「偽りの自己の幻想に縋りつきたいという誘惑」からは無縁ではいられなかった様子が見て取れます。そして、ワーシップソングのシャウト等よりもはるかに大規模な出来事、台風や地震、火災といった事象の中にも神はおられず、声なき声の中にこそ、神のご臨在があったとされていることは、きわめて印象的なことではないかなぁ、と思います。

     

    讃美歌の根源としての祈祷文(Liturgy)

    ミーちゃんはーちゃんは、「賛美歌を教会から排除すべき」だとか、「賛美歌がけしからん」とかいうつもりはありません。問題は、賛美歌が聖餐に代わり、神の臨在を受け止めることに代わって、自己の主張が中心になること、神の臨在に代わって、自己が神の王座を占めていることに違和感があるのです。

     

    ところで、アメリカ経由で日本に伝わった聖歌にしても、賛美歌にしても、ワーシップソングにしても、賛美歌研究家、礼拝様式研究家の中では、ある程度知られていることだとは思いますが、実は、讃美歌というのは、聖書の一部、式文(聖書の言葉を背景に持つ式文)、あるいは、祈祷文、集祷、特別祈祷の文章に曲というか読み方の節をつけたものが多いように思います。

     

    英文から日本語に翻訳した歌詞にしてしまった瞬間に、このあたりの本来式文や祈祷文であったことや、歌いやすさのため、ということがあるにせよ、その式文の内容、式文が与えていた聖書と直結しているその雰囲気が消えてしまっている部分がかなりみられ、実際に現代の日本の讃美歌では、かなり式文や集祷からの乖離が影響しているかのような事例が多くみられるようにおもいます。その点が、個人的には残念で仕方がありません。

     

    古い讃美歌の譜面 ネウマ譜

     

    神の子羊Lamb of God または Agnus Deiの讃美歌から

    現在頻繁に通っているアングリカンの教会では、


    Lamb of god,you take away the sins of the world: 
    have mercy on us.
    Lamb of god,you take away the sins of the world: 
    have mercy on us.
    Lamb of god,you take away the sins of the world: 
    grant us peace.

    ということがリタジー(式文)にありますが、この表現が、聖歌、賛美歌に発展していっ多様に思うのです。その変化の過程をちょっと追ってみたいと思います。同じ、神の子羊を歌った歌で少したどっていきましょう。


    グレゴリアンチャントによるAgnus Dei(上の英語のLamb of god…という文章のラテン語版)

     

    バッハによるAgnus Dei(順序は多少入れ替わっているけど、上の文章のラテン語版)

     

    モーツァルトによるAgnus Dei(上の英語のLamb of god…という文章のラテン語版)ーによるAgnus Dei

     

    ビゼー作曲Agnus Dei

     

    フォーレのAgnus Dei

     

    バーバ(散髪屋ではない)によるAgnus Dei

     

    LiberaによるAgnus Dei

     

    テゼのAgnus Dei(聖餐の様子が見えるのが貴重)

     

    コルシカの地方風のAgnus Dei


     

    モダンなAgnus Dei(かなり、式文通り)

     

    現代Pop風ワーシップソングでのAgnus Dei(式文からの乖離が激しい)

     

    現代の日本での神の子羊(Agnus Dei) もはや式文とは言えない…

     

     

    現代の日本での神の子羊(Agnus Dei) 2

     

    現代の日本での神の子羊(Agnus Dei) 2 のご本家(随分と式文から外れが…)

     

    神の子羊でYoutubeを検索したら、あるところでご一緒することの多い中野先生が出ていたので、ついでにご紹介

     

    これらの讃美歌は、全部、神の子羊ですが、後代になってくると、Liturgy(式文)からの乖離が激しくなり、日本のになると、ほとんど式文の一部だったことを想定することすら困難なものになります。ある面で、本当にこれが生産と言われたり、イエスのことを思い起こすか、と言われれば、どうなんでしょう、と言わざるを得ないように思います。

     

    Hosana Hosana Hosana in the Highestの式文の変容

    イエスがエルサレムに入場したとき、市民が叫んだとされる言葉は、

     

    いと高きところにおられる方にホサナ

    Blessed is he who comes in the name of the Lord, Hosana in the Highest

     

    でしたが、この文章が、聖書の中にもありますし、今言っているアングリカンのチャペルでの式文(Liturgy)の中にも含まれますが、それの中身を変えてしまったものが同じ賛美のことばを使いながら、案外その内実を失ってしまっている讃美歌の事例は、案外多いように思われてなりません。残念なことだなぁ、と思います。ちょうど説教が聖餐の座を簒奪したように、讃美歌は、式文の一部であったことを忘れ、なんでも自分の気持ちを歌えばいいものに成り下がってしまっている部分もないわけではないよう思います。

     

    グレゴリアンチャントによるホサナ

     

    リタジー通りのホサナ(カトリックの聖歌)

     

    一部は式文(Liturgy)通りだけれども、乖離がかなりある

     

     

    かなりの部分は式文(Liturgy)通りだけれども、乖離が少しある

     

    一部乖離が見られるHosana

     

    チョッぴりレゲエ風のHosana(乖離が激しい)

     

    最後に、米国福音ルーテル派の式文そのままを音楽に乗せたチャント(讃美歌の原型)

     

     

    一番最後の米国福音ルーテル派のHosanaの動画にお示ししたように、もともとの讃美歌の歌詞の内容自体は、もともとは式文そのものだったはずですから、長年の検証を経て式文として成立したものに沿っている、といえると思います。その意味で、もともと式文だったのですから、サクラメンタルなものであり、信仰者を神に触れさせるという側面を讃美歌は、持っていたものでしたし、今もなお持っていると思います。だからこそ、讃美歌はやめるべきだ、とは思わないのです。

     

    サクラメンタルとユーカリスティックの混同

    先ほど述べましたように、もちろん、現代のワーシップソングにそのようなサクラメンタルな何かが全く含まれていない、と主張するつもりもありませんし、ワーシップソングはくだらない、と一刀両断のもとに切り捨てるつもりもありません。しかし、ワーシップソングがサクラメンタルなもので満ち満ちているのではなく、時に、個人の感情でまみれ、そして、ワーシップソングの作者たちがいつの間にか、サクラメンタルな何かを追い出し、神への賛美に変わって、個人のカタルシスの感情を呼び起こすような表現で讃美歌満たすとしたら、あるいは、讃美歌を歌う側の会衆や、讃美歌を歌っている人々の気持ちが讃美歌に乗せられていく、としたらどうなんでしょう。

     

    式文は、サクラメントである聖餐に導くための仕掛けというか、象徴というか、構造そのものだと思うのです。その意味でもサクラメンタルだといえようか、と思います。式文はサクラメントではなく、あくまでサクラメンタルな存在です。それは象徴の構造であり、象徴の論理であり、象徴の言葉ですから、キリストのからだという実態はないわけです。キリストを覚え、キリストに倣って(イミタチオ・クリステ)生きるものにしていくためのものであり、どこぞの人間に倣うためのものではないように思うのです。それが担保されている限り、讃美歌でしょう。個人的には、以下のような、フランシスコ会の年老いた修道士の賛美は、私には無理ですが。たぶん、私は、ヘビメタの皆さんにこのチェザーレ神父のように私が遣わされていないからだろう、と思いますけど。

     

    ファザー チェザーレ・ボニッツィ(シーザー・ボニッツィー)ヘビメタのロックについてのインタビュー

     

     

    メタルロッカーを縦乗りさせるファザー チェザーレ・ボニッツィ

     

     

    讃美歌やワーシップソングを歌うことは、サクラメンタルである可能性を含むけれども、ユーカリストそのものではない、ということは重要です。説教もサクラメンタルである可能性を含むけど、ユーカリストそのものでもない。そこの理解を忘れ、サクラメンタルな構造を理解できなくなってしまっている大半のプロテスタント教会は、本来のサクラメントの構造を忘れさせ、神秘に出会う構造を残念ながら、かなりの部分捨ててしまっておられるように思います。それを、説教や讃美歌を通して、必死に何とかその神秘を伝えようとしておられるようにしておられるとしか思えません。

     

    もちろん、そうではないプロテスタント教会も多数ありますが、サクラメントであるユーカリスト(聖餐)を忘れ、この両者の代替物ですらなく、その周辺に過ぎないサクラメンタルな(聖餐に替わる)何か、説教や讃美歌(あるいはリタジー)とがサクラメンタルなものであるというごくわずかの部分にかけていることを頼り、説教やリタジーがごくわずかに、ユーカリスティックな何かであるという非常に弱いリンクから、サクラメントに置き換えた、むしろ、サクラメントを乗っ取ったという残念な現象が起きている教会が多いのではないかなぁ、とこの連載を通じて思ってしまいました。

     

    まとめ

    結局、もし礼拝の時間を何かのもので、埋め尽くそうとしているがゆえに、自分たちのことばによる説教とか讃美歌でで礼拝の時間で埋め尽くそうとしている、聖書が忘れられ、サクラメントが忘れ去られているのだとすれば、どうなんでしょう。

     

    そして、その結果として、サクラメントである聖餐に変わる説教中に眠くなったり、本来、サクラメントである聖餐が占めるべき部分が、自分たちの感情や感性に訴える音楽や感情を吐露する言葉や、それにふさわしいメロディ、リズムで満たそう、としたりしているのだとすれば、本当にどうなんだろう。西洋から伝わってきた教会のスタイルとしては、そのようなスタイルであったのかもしれないけれども、その意味を私たちはわかってやっているのかなぁ、と思ってしまいました。

     

    だとすれば、先日のハゥワワースが作った言葉を使えば、日本におけるキリスト教の制度化、別の表現を使えば、日本でのキリスト教の土着化、あるいは、日本の文化の中での聖書理解の定着、日本におけるキリスト者の生の文脈化をきちんと図るという意味では、教会における方法論や表面的なスタイルの表面的な移入、ものまねを過去150年続けてきたかもしれないという反省に立ち、礼拝、説教、賛美のそれぞれが何のためにあるのか、という本来の意味を考えたうえでの教会の礼拝プログラムの見直しに着手し、これから150年かけて日本におけるキリスト教というよりは、キリスト者としての生き方に資するための制度化、土着化、文脈化ということを考えたほうがいいのかもしれないなぁ、と思いました。

     

    本日の投稿は、讃美歌大会になっちゃいました。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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