2017.10.11 Wednesday

シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(8)

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    さて、今日もいつもの様に『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』を読んでちょっこし考えてみたことを考えてみたい。そんなに分厚くないこの本に、8回も連載記事を費やしたのは、この本がそれに値する名著であるからであり、さらに言うと、この本が聖書の全体像をある面から聖書の構造をつかんでいて、聖書全体が何を言っているのか、ということを分かりやすく述べた本だからである。この本が示そうとしていることは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』、『シンプリー・ジーザス』、『How God Became King』『クリスチャンであるとは』『Surprised by Hope』等でN.T.ライトが書いている諸概念の要約になっているような感じがする。

     

    絵画的に描かれている終末

    今日ご紹介する部分は第17章、ゴールと題された、いわゆる終末論に関連する部分である。

     

    人間の歴史の終焉が近づく時に起こる出来事について、聖書はさまざまに語っている。これらの記述は私たちの経験を超える事柄について扱っており、言語を用いて説明するには難しい内容である。したがって、聖書は時にその出来事を絵画的に描いて表現する。そのような表現の解釈は非常に困難である。不幸にも、クリスチャンはいわゆる「終末」について多くの議論をかわしてきた。しかし、もし私たちがその絵画的描写をもっと注意深く解釈し、未来について現実離れした推論や予測を持ち込まなければ、そのような議論を避けることができたであろう。(『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』p.167)

    黙示録でかかれた内容が、黙示として示されたものであるということは、人間はその前に「黙」し、「静まり」、受け止めるしかない、本来、人間のことばでは表現しえない部分である。ある種の神秘的な世界ではある。しかし、聖書にあることで、それを何とか理解可能な形で表現したい、理解可能な形で説明したい、という気分になる人々は多かったし、今でも多い。しかし、どういったところで、それを本来は理解可能なかたちでは提示できない、しきれないものではないか、と思うのだ。しかし、引用部分で、「不幸にも、クリスチャンはいわゆる「終末」について多くの議論をかわしてきた。」と書かれているが、それは本当に不幸で不毛な議論であり、それは今なお続いているように思う。そして、「未来について現実離れした推論や予測を持ち込まなければ、そのような議論を避けることができたであろう」と書かれている部分に付された原著訳注では、次のように書かれていた。

     

    (ダービーから始まり、スコフィールド聖書で普及した)いわゆるディスペンセーション神学の立場を私たちは採用しない。

     

    これは、ある意味で、この本の著者の立場であるし、脚注であるとはいえ、このようなことが書いてある本が、日本メノナイトブレザレンの教会系の神学校の先生方が程度評価して、出版されたということは、ある種日本メノナイトブレザレン教団も少し変わってきた、ということの証左なんだろうと思う。同じような名前を持つ、ダービーがその基礎に大きな影響を与えた英国の分離派グループの一つであるプリマス・ブラザレン派でも、少しは変わってきている気配はあるが、しかし、基本的には、キリスト集会派では、このディスペンセーション神学の立場に立つ人々は多いように思う。最近はどうなっているのかは関係が薄くなったので、詳細に知るところではないが。

     

    ところで、図形的なものを言語で表現するのは、案外困難なのである。例えば、空間的関係を表す言語として、人間が会話に用いる自然言語(それは日本語でも、英語でもそうだが)には、決定的に不利な点がある。それは、情報が1次元的にしか流れていかず、二次元的には説明ができないのだ。例えば、以下の絵画で表現されている表現をできるだけ具体的に視覚障害を持つ人にわかるようにあなたの母国語の自然言語で説明せよといわれたら、結構めんどくさいのではないだろうか。

     

     

    http://www.artinsociety.com/titian-prudence-and-the-three-headed-beast.html から

     

    時間を置いて、何度か言語表現してみると、毎回その表現が安定しないことを実際にご体験いただけるのではないか、と思う。その意味で、図や絵画は、ある種有益で情報量の多いコミニケーション手段であることがご理解いただけようか、とは思う。もちろん、言語もコミュニケーション手段としてかなり有効ではあるが、限界もあるのであり、そのあたりはある程度理解しておいた方がいいかもしれない。

     

    終末(神の支配が完全になる時)のプロセス

    さて、絵画的に描かれる終末の話は、2回前の連載  シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(6)でもすでに、パルーシアという語についての記述(6回目の記事の一番最後の部分)で少し触れたが、それがもう一度ここで、指摘されている。

     

    すでにその絵画的表現の一つを私たちは見てきた。公式訪問としての王の到来と人々の歓迎である。この絵画的表現はイエスの再訪を描いている。確かに、人間がその最大の努力を果たす中でゆっくりでも確実にこの世界が完全な社会になる、そのような期待をクリスチャンは抱いていない。同時に聖書は、未来へ希望のない大惨事による世界の終焉など予告もしていない。そうではない教会は主の来臨を待つだけである。主は完全で最終的な神の支配をもたらす。この確信によって、クリスチャンは現在を生きる。(同 p.168)

    ここで、「人間がその最大の努力を果たす中でゆっくりでも確実にこの世界が完全な社会になる、そのような期待をクリスチャンは抱いていない」という部分についてであるが、これは一種社会進化論に近い考えて、時間がたてば世の中進化なのか進歩なのかはよく知らないがよくなるという概念は、うっすらとであるが、現代人に染み込んでいるように思う。でなければ、CMでラーメンが進化したとか、そんな生きてないものが進化するはずは、生物学的な進化論ではないはずだし、物理学ではエントロピーが増大する方向にしか熱力学では動かないこと(このエントロピー概念はのちにシャノンによる情報学関連でも援用されている)になっているはずなのだが、それを人間がとめうるというような考えでもある。個人的には人間が努力によってできることは、エントロピーの増大のスピードを多少遅らせる程度のことであり、そんな劇的に状況が改善するはずはないのだ、とおもう。なお、キリスト者が最も気に留めておかないといけないことは、次のことである。

     クリスチャンたちは、「人間によって、人間の努力によって、この世界は完全な社会になる」とは考えていないと思う。そもそも、人間が不完全で、ダメな存在であり、人間によってはどうにもこうにもならないから、キリスト、キリストと言い出すわけで、もし、人間によって何とかなるなら、神はそもそも論として必要なくなるので時間をかけて完全にはならないというのが、聖書の主張だと思うのだが。

     

    何年か前、創世記における人間の役割とビジネスの意味とかいうことをお話しした時に、当時60歳前後の長く福音派的信仰をお持ちであることが察せられた女性のクリスチャンから、「この地球は核戦争で滅びるんじゃないですか、どうして地をケアする必然性があるんですか」とお話が終わった後に、真顔で詰め寄られて、「この地は崩壊して滅びるんですかねぇ」といったら「だって、新天新地ってそういうことでしょう」と言われて、非常に当惑したことがある。もう、議論しても無意味だと思ったので、「そうかもしれませんねぇ。そういう聖書理解の説は聞いたことがあります」とスルーしたことがある。こういう方々に、「そうじゃないかも」とそれまでお話しした時に紛糾したり、気まずい思いで終わることが多いので、そうしているというだけである。まぁ、そのあと、そのグループからは声がかからなくなったので、お呼びがないならいかなくてもいいよねぇ、と決めたのだけの話である。以前は、ディスペンセイション説バリバリのグループの中にいたが、聖書を読んでいるうちに、終末についての個人の聖書理解が「未来へ希望のない大惨事による世界の終焉など予告もしていない」という理解に変わったからである。そのことへの気付きのきっかけになったのは、確かにN.T.ライトのさまざまな本やバーバラ・ブラウン・テイラーの本を読み始めたことによるけれども。

     

    そして、「主は完全で最終的な神の支配をもたらす。この確信によって、クリスチャンは現在を生きる」ということを共有しているほうがよほど大事であり、人間には理解力には限界があるので、それ以外の細かな聖書理解における解釈論というか、解釈の細かな違いは、基本誤差の範囲であると思い始めたので、スルー力がついたからである。

     

    その新天新地は、現在の天地とは別世界のどこかにあるかもしれない問題だって、「主は完全で最終的な神の支配をもたらす」ほどの神ならぬミーちゃんはーちゃんにとっては確認がしようがない(想像することはできるが)以上、非常に確実でないものについて、議論をし始めたところで、基本堂々巡りに終わるのが関の山であるからである。

     

    その新天新地について、著者は次のように書く。

     

    ヨハネによれば、私たちの目的地は新しい創造、新天新地である。死は克服され、涙はもうない。新しいエルサレムが天から地に降ってくる。地に住む民は、この神の町で永遠に平和に共に暮らす。もちろんこれは絵画的表現である。(同 p.170)

    確かにヨハネでは、地は紛争で満ち溢れるようには書いてあるし、新天新地に至る前に起きるとされている、地での悲惨が描かれはしているけれども、地球が爆発するとも、核爆弾が降ってくるとも、聖書の一部には書いていなかったように記憶するのであるが、それをある点で、確実たる根拠をあまりおかない、思い付きに近いような推量とか、推測で黙示録の内容と現在の状況を延長した内容で黙示としてしか書かれてない内容をよりわかりやすく(誤解しやすく)する内容で埋めてしまっている人々は多いのかもしれない。であるからこそ、ここで著者は、絵画的表現で黙示として示された内容を言語では実際にうまくは表現できないことを示しているのではないか、と思っている。

     

    終末までの期間を生きるキリスト者

     前回も、「終末を生きる神の民」という後藤敏夫さんの本をご紹介したが、その続編ともいうべき、『神の秘められた計画』という本についてのインタビュー番組をCGNTVというところが制作・公開していたので、一応検索の手間を省くために乗せておく。

    CGNTVの『神の秘められた計画』についての後藤敏夫さんのインタビュー

     

    なお、この『神の秘められた計画』という本に関しては、このブログでも取り上げており、後藤敏夫著 『神の秘められた計画』を読んだ シリーズで紹介している。そのブログ記事でも書いているが恵泉塾とそこでの生活については、合う合わないがあるので、個人的にはすべての人に「素晴らしいところです」と必ずしも自信をもってお勧めできない部分もあることを一言触れておく。大体、それはミーちゃんはーちゃんがそこに属していないということを言及するだけで十分であろう。

    神のプロジェクトの実現がイエスの到来によってすでに始まっていると私たちは考えている。キリストの再臨によってこのプロジェクトが完成すると私たちは考えている。従って、既に開始された神のプロジェクトに生きるように、私たちは個々人また教会として召されていると考える。冷静に神のプロジェクトが完成した幻想にも生きない。なぜならば、イエスが再び到来することを私たちは信じ、神のプロジェクトの実現が私たちだけで達成されるのではないことを知っているからである。ただ、確信と熱心をもってプロジェクトに参与する。それは、イエスが私たちの生き方にかかわっているからである。聖霊が私たちの心に神のシャローム・プロジェクトのビジョンを植え付けたからである。(同 pp.171-172)

     

    さて、ではどう生きるのか、というと、一つ大事なことは、「神のプロジェクトが完成した幻想にも生きない」という側面ではないか、と思う。現実が苦しいと、幻想に走りたくなる人が出てくるのは避けられない。しかし、幻想だけを頼りとして生きるようになっていると、どうも生き方に実際性というか現実観が薄い人たちが出てきて、終末が起きて、ご破算になっても自分たちだけは天国と呼ばれるところに入るからいいの、と現実社会での生の意味を軽んじる人々が出てくるのである。ここまで書いた段階で、お気付きかもしれないが、同じことをオウム真理教は実際にやりかけたのである。

     

    というのは、オウム真理教は極めて日本的な習合型の宗教であったがために、ディスペンセイション神学を期限に持つ特殊なキリスト教終末論が入っており、彼らは神の王国、神の支配の代わりにヴァジラヤーナの実現ということと習合させてしまい、国家権力と対立していったのである。恐らく、イエスが、神の王国と言い出した時に、キリスト教の存在は、現代日本におけるオウム真理教的な扱いを受けたのだろうと思う。

     

     それに関連して、上記の引用部分の中での「神のプロジェクトの実現が私たちだけで達成されるのではないことを知っている」ということは大事ではないかと思う。もちろん、地で行われることであるし、キリスト者が神のプロジェクトに関与している以上、そして、創世記にかかれているように、この地を神が人間にケアするようにこの地を任された以上、それは人間のプロジェクトでもあるのだが、人間の関与が強調されることによって、神が最終的な主権者としておられることを無視するような人たちが出てきたり、例えば、エルサレムに第3神殿を作るなどというような人間のより積極的な関与によって、神の国の到来というよりは、終末の到来を早めようとするというようなお考えを持つ人々が出てくるのが困るようにも思うなぁ。あくまで、神のプロジェクトは、神により始められ、神が共に関与され、神ご自身のプロジェクトであるはずであり、人間は関与者、参与者に過ぎないはずなのだが、人間は罪を犯し、神の王座を簒奪しようとし続けてきた側面があるので、神のプロジェクトであるものを自分たち人間のプロジェクトにしやすいということなのだと思う。

     

     

    そして、「確信と熱心をもってプロジェクトに参与する。それは、イエスが私たちの生き方にかかわっているからである」という部分は、「キリスト者とは何者か」ということを理解するうえで、案外私たちが忘れがちな神と人との共同体としての生き方、つまり、キリスト者とは、キリストが、あるいはイエスが、キリスト者にとって本来どういう意味を持っているのか、を厳しく問う一文であるようにも思う。たしかに、日本は宣教地であり、その意味ではキリスト者はかなり少数者ではあるので、なんとなくつながっているという意識で占められたようなキリスト者は少ないだろうが、ヨーロッパでもアメリカでも、あまりに分化の中にキリスト教がロックインされていて、スーパーのチラシにもそういうのがそこはかとなく漂ってくる社会だと、文化基盤としてのかかわりでのキリスト者という存在がでてくるのは致し方ないようにも思う。そうなると、確信と熱心をもってプロジェクトに参与している人々、すなわち、かなり真剣にキリストと積極的な関与して生活をしていないようなキリスト者も出てくることは避けられない。もう少しいうと、すなわち、ガチ勢として熱心に神のシャロームプロジェクトに関与しているようなキリスト者として生きる生き方をしていないにもかかわらず、自らをキリスト教徒とする人々も時々出てくることも、ある面致し方ないようにも思う。しかし、神は、ガチ勢としてのキリスト教徒を求められているようには思う。

     

    ということで、この連載は終了である。今回、大事なことを書いているとは思いつつも、意図的に抜いたところがいくつかあるので、是非、本書をお買い上げいただいて、実際にお読みいただければ、と思っている。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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    コメント:薄いけど、非常に良い本。聖書全体を流れる主要な概念を丁寧に解説した本

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    コメント:薄いけれども大事なことが書いてある本

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    コメント:臼井が非常に良い本。キリスト者の歩みについて考えさせる。

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