2017.10.09 Monday

シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(7)

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    さて、今日もいつものように『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』から、少し引用しつつ、考えたことを書いてみたい。今日はクリスチャンのこの地における生き方の部分についてであるが、この部分も非常に印象的な記述が満載である。

     

    クリスチャンの生き方はどのようなものか

     人は神に出会い、神と共に生きようと思う。その神と共に生きようとする思いのことを、「悔い改め」といったり、「神を信じる」といったりする。あるいは、「神を信じる決心をした」と呼ぶ人々もいる。どのように言おうが、それは神を信じるという思いを持つということは、これまでの神を離れた生き方ではない生き方をしようと思う、ということであるので、その思いはある種の決心である。ところが、困るのは、人間が完全に神とともにいきるという生き方が常にできない、またはそのような思いだけで生き続けることがかなりやりにくいというところである。そして、決心をしたのに、紙から離れてしまい、やっぱりダメだったと落ち込んでしまって、時々立ち上がれなくなる人々もおられる。心が後に揺らごうとも、決心は決心ではある。しかし、近代のように均質性が重視される社会において、この様な決心が揺らぐことや一貫性がない行為というのは批判されることが多いが、人間にせよ、神にせよ、人格を持った存在は、機械的な判断をしないので、こころを変える、あるいは揺らぐということはよくするのである。それは、旧約聖書を見れば、いくらでも例は見つかる。この辺、計算機とか、人工知能とかはあまり賢くないから、定められたルーチンに従って動くので、このあたりの柔軟性がない。あるいは、例外事例がかなりの数入力され、メジャーな事例とならない限り、人工知能の反応が変わるというようなことは、この世界で時々出てくる遺伝的アルゴリズムで用いられるような乱数を用いたような攪乱操作を組み込んでない限り、起こしたくても起こしようがない。

     

    実は、人格を持つということは、上で述べたようなある種の柔軟さを持つということであり、準なんな意思決定や判断という操作がかなり自由に自己の責任においてできるということなのではないかなぁ、と思うのである。

     

    さて、以上は以下の文章の前置きである。

     

    クリスチャンにとってバランスを保つことは困難であり、この緊張関係に生きることの難しさを実感する。古い世界がクリスチャンの考えを支配し、復活とペンテコステが忘れられることがある。そうなると、クリスチャンは古い世界の現実に戻ってしまう。新しい世界への待望に生きようとしなくなる。復活の力にもはや信頼せず、新しい時代の到来を経験しようとしなくなる。霊の力にもはや信頼せず、霊の力を通して神がもたらした「すでに」を経験しようとしなくなる。

     一方別の極端に走ってしまうクリスチャンのグループが常に存在する。もう既にゴールに達していると考えてしまうクリスチャンたちである。今すぐに約束されたものを獲得しようとする。誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える。そのような考え方によれば正しく信じて祈ればすべての病は癒されることになる。(『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』pp.158-159)

     

    ここに二つの極端が書いてあるが、人間はこの二つの極端の間で揺らいでいる存在なのかもしれないように思う。先にも述べたように、人格を持つということは、自己が一人の人格として責任を引き受け、そして、その人格において行為をするということであり、機械ではないので、揺らぎを含めて人格において受け止めるということである。ロボットや人工知能なら、迷わずプログラムされた通り、設計通りに動くので、揺らぎはあまり起こりえないし、揺らぎが起きているということは、大問題が起きているということでもある。人間は人格を持っているが故に揺らぐし、揺らぐが故に緊張関係を持たざるを得ないように思うのである。人間は、神の復活を忘れやすい存在である。

     

    https://www.quora.com/What-is-the-reason-behind-my-website-ranking-fluctuation

     

     

    揺らぎを考えるためのフラクタルの例(マンデルブローのフラクタルの例)の動画

     

    復活と神との関係を忘れないための聖餐という側面

    だからこそ、毎日、週に数回(ミーちゃんはーちゃんはこれくらいの回数)、週に1回、月に1回、年に数回、年に一回なのか、いろいろ教会によって回数はあるが、イエスが最後の晩餐で言われたように、パンとぶどう酒を満たしたコップをとり、「私を覚えて、これを行え」といわれ給うたのである。要するに、飯を食わねば空腹になるように、生きていると生き方や人生の歩みはどうしても揺らぐから、神に対する空腹というか人生における不在を覚えざるを得ない。ミーちゃんはーちゃんは、忘れっぽいので、すぐに神との関係を忘れてしまう。どれくらい忘れっぽいか、というと、アメリカ滞在中に、ミーちゃんはーちゃんの作業部屋のあったフロアの秘書さんから、Truly Absented Minded Professor という真正の鳥頭人間の称号を頂いた位であるからである。従って、神の人生における意識の欠落することは個人的には十分承知しているがゆえに、神との関係を満たしたくなるのであって、人生における神の不在を覚えるのに、ミーちゃんはーちゃんにとっては、聖書も参考になるが、聖餐に与り、紙との関係を再確認することで、忘れっぽいミーちゃんはーちゃんでも多少は覚えることができるという話である。そして、その聖餐の前に神の前に反省することが忘れっぽいミーちゃんはーちゃんにとって、実に有効だ、というだけの話である。

     

    なお、ミーちゃんはーちゃんは、自分自身が揺らぐことも知っているし、ミーちゃんはーちゃんの揺らぎは人間から見たら大きいのかもしれないが、神から見たら、誤差範囲であるとは思うが、それでも、ミーちゃんはーちゃんの日々の人生の中で、時折、神の不在は覚えるので、神との関係における空虚さという形での神の関係における空腹を覚えるので、聖餐に与れる際にはありがたく、預かりたいとは思っている。この聖餐は、確かに「すでに」神の国が来た、神が人の間に来られたことを、忘れっぽい人間が記憶するための手段ではあるのではないか、と思う。

     

    クリスチャンはゴールに達した人なのか

    ところで、先に引用した部分に「もう既にゴールに達していると考えてしまうクリスチャンたちである。今すぐに約束されたものを獲得しようとする。誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える」という記述がある。確かにこのタイプの人びとがおられることも確かである。このタイプの人は、お友達の大頭さんによれば、アメリカンタイプのきよめ派系統の人に多いらしい。つまり、信仰を持ったら、あるいは改心というか決心をしたら、瞬間に二階級特進どころか、兵士の世界から将官の世界にロケットエンジン並みの推力をもって、霊的世界のウルトラ大転換が起きるために、完全になるとかいうタイプの信仰らしい。別にそれがおかしいとか、それが本物でないとか否定はしないが、ミーちゃんはーちゃんのような真正鳥頭人間であり、揺らぎ続けて止まらない人間には、ある時で完全に変わるなどということは、「無理なこってござんす」なのである。それよりは、揺れるからこそ、また神との関係において欠乏が起きる(腹が減る)からこそ、聖餐に与りたい、自らの不甲斐なさを思い直す機会がほしいとは思うのである。

     

    しかし、この「ゴールに達していると考えてしまうクリスチャンたちである。今すぐに約束されたものを獲得しようとする。誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える」というタイプというのは、あるグループの日本のプロテスタント教会の病理というような気がする。そのグループにおけるのこのタイプの考えは、伝染病なのではないか、と思いたくなるほどである。「そのような考え方によれば正しく信じて祈ればすべての病は癒されることになる。」という極端な物言いをする教会は割と少数派であるようには思うが、確かに信じれば、聖書を読めば、そして、祈れば、少なくとも問題は解決したという証言を利かせてもらった教会もある。といっても、テストに合格したとか、バイト先が見つかったとか、お給料が払えるから献金できるようになったとかである。なお、聖書を読んで祈って、バイト先が見つかったという話の直後に、これでバイトして教会に献金ができるようになった、と真顔でお証と称する貴重な証言をされる方のお話を聞くという奇跡的な出来事があったことがある。なお、バイトが見つかって、献金ができると嬉しそうお話になられる若い女性信徒さんのお話(お証とか、証言とか、Testimony)と呼ばれるものをお聞きしながら、「その教会では献金できない会員は、どうも二級教会員扱いされるのかなぁ?」と、正直その話を聞記ながら思った。なお、この教会は、若い信徒さんばかりで、腰痛持ちの爺さまのミーちゃんはーちゃんには、ついていくのがかなり厳しい教会(腰痛に悪い教会)で、実際、教会として使っている集会施設のコンクリの床が、信徒さんが他の賛美の際に飛んだり跳ねたりすることで数ミリは確実に上下動する教会であった。

     

    宣教と伝道の目的とは何か

    さて、先週の土曜日いのふぇすの会場下見を兼ねて出席してきた、岡山の日本キリスト教団主催の講演会でのディスカッションが面白かった。来場歓迎だとチラシに書いてあったので、出席してきたわけであるが。その講演会で、「求道者といういい方は、以前からいかがかと思うのだが、なにかいい言い方はないものか、と思うっている」と、牧師先生が言いだされたあたりの対話が面白かった。その講演者と牧師さんの対話で面白かったのは、「基本的に『伝道』とか『宣教』の教会にとっての目的とは何か?」ということが問われているのではないか、という点に焦点が当たった対話があったことである。、対話(ダイアローグ)が別の方向に行ってしまった。『伝道』の目的が、「バプテスマを受けること(信者にすること)」なのか、そうでないのか、というあたりは、もうちょっと日本の教会は考えた方がいいかもしれないなぁ、とその話を聞きながら、正直思った。

     

     教会に来た人(来会者)に説教して、説得して、解説して、知識を増やして、教会での振舞い方をいろいろな経路を通して教えて、聖書を読むように勧めて、「信仰を持ちました」といわせて、バプテスマを受けさせることが「宣教」や「伝道」の目的だとしたら、それはあまり目的とするにはちょっと残ではないか、と思う。それでは詰まらないのではないか、と思う。それが神の国や神の支配そのものなのだろうか、と思う。なんだろう。

     

    バプテスマは、確かに信仰生活の割と大きな通過点の一つだと、個人的には思っている。ある皆様方によると、バプテスマは信仰生活の出発点だといい方をされることもある。それには確かに一理はある様には思う。確かにバプテスマを受けることは、かたちを通して信仰を表明する出発点といえなくなはいということはないわけではないが、実際の信仰の出発点は、バプテスマの前後になっている人々の場合も、自分自身の長くはない信仰生活を振り返ってみても、案外多いのではないか、と思う。

     

    しかし、教会に人が集まり、人が「宣教」と呼ばれることをなし、「伝道する」と呼ばれることをなす、ということの目的はいったい何なのであろう。個人的には、この神のシャローム・プロジェクトがあり、その存在を示し、その存在を単に示すだけではなく、そのプロジェクトメンバーとして、そのプロジェクトに関与し、そのシャローム・プロジェクトのプロセスのプロジェクトにかかわりたい人々、シャローム・プロジェクトにこれまでかかわってきた先人と共にかかわっていく、参与していく、関与していくなかで、神との関係を深めていくことなのではないだろうか、とは思っている。まぁ、いろんな意見の方があるだろう。それは、それで尊重したい。

     

    とはいえ、結構少なくない教会が「伝道」とか「宣教」といわれる言葉で示されることそのものが目的化しているように思う。例えば、「宣教委員会」とか組織に名前を付けてしまった段階で、その組織の目的は、宣教と呼ばれることを目的とするようになる。実に人間と社会というのは、扱いに困る存在だと、つくづく思う。かと言って、名前を付けないわけにもいかないので、本来「手段」であるはずのものが「目的」と化してしまっている組織は多い。例えば、会議を減らすための会議のための事前会議とか、メタメタ概念とすぐになってしまっていくので、訳が分からなくなってしまう。w

     

    どう考えても、バプテスマをゴールにするというのは、まずいのではないか、と思う。そうやって、バプテスマ前のラブシャワーで来られた方がたの神経を麻痺させておいて、バプテスマを受けた瞬間に労働力として利用しようとするような、教会の人々にないざいする怪しさを来会者はうっすらであるが、きちんと見ているということは、もう少し認識されてもいいかもしれない、と思っている。その意味でも、もう少し、「誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える」とお考えの皆様には、信仰を持つ前から、信仰をもって歩んでいく間のじっくりとしたプロセスとしての信仰生活という側面は、もうちょっと考慮していただきたいなぁ、と思うのである。

     

    プロセスとしての信仰生活

     『終末を歩く神の民』という本を後藤敏夫さんが書いておられるが、我々は、その本でも書かれている通り、神の終末に向かって歩いている民であり、同じ後藤敏夫さんは『神の秘められた計画』という本の中でも、神のシャローム・プロジェクトのことを神の秘められた計画と呼んでおられるように思う。キリスト教徒ないし、「クリスチャンとして歩むことは、聖書を読んで、祈って、教会に行って、献金すること」そして「伝道すること」、即ち言葉で説得したり、「教会に人を連れてきて、牧師の説教を聞かせること」であると理解している人はほとんどおられないとは思うが、では「キリスト教徒やクリスチャンは、いったい何をする人たちのか?」と問われて明白に答えられる信徒さんは、あるいは牧師さんは、どれだけおられるのだろうか。そのあたりのことに関して、本書では次のように書く。

    私たちは「終末の時代の間」を生きている。私たちの現在の経験は、完成の「しるし」ついて意味付けられる。その意味は次の通りである。新しいことが現実に開始した。その新しさを私たちは経験できるし、見ることもできる。一方で、その新しさとはこれから到来する事柄のしるしでしかない、それも事実である。神の霊によって新しさを私たちは経験しているが、それは完成ではなく、到来することがらを指し示すしるしである。(中略)私たちは神の支配の原則によって今日を生きている。それは完成していなくとも、しるしなのである(pp.159-160)

     

    昨日早朝7時から行われた聖餐式に参加した時に読まれた聖書では、「私たちの本国は天にある」という表現があったが、これを読んだ時に、あぁ、なるほど、我々は、この地という植民地というか衛星都市に派遣されていて、基本的に神の支配がある天に我々は属しているのだなぁ、ということなのだろうと思う。それは、我々は神の使者、あるいはエペソ人への手紙の中にある「福音のための使節」であり、この神の存在とその意図を代理人、神の国の外交官として、本国政府ないし本国の王である神の意図を伝える存在なのであろう。

     

    それを指し示す聖書のことばであるが、口語訳聖書では、

     

    【口語訳聖書】ピリピ人への手紙 

    3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

    の部分であり、聖餐式で読まれたのは、植野口語訳ではなく、以下にお示しする新共同訳の部分であった。この本国という訳語の方が、国籍という訳語よりも、ある面で神の国が、死後に行く世界の天国との理解の混同を避けるうえでは有効かもしれないと、読まれる聖書箇所を聞きながら、そのように思った。

     

    【新共同訳聖書】フィリピ人への手紙
    3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

    また、似たような例として、神の思いを伝える存在であるものとして、次のことばがあり、ここでは、神が望んでおられるシャローム・プロジェクトが、神の和解であり、神の側からの和解であることが、より明白に示されている。

    【口語訳聖書】コリント人への手紙 第二
    5:20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

     

    これらのことを踏まえると、「神の霊によって新しさを私たちは経験しているが、それは完成ではなく、到来することがらを指し示すしるしである」ということを考える際に、神の国が将来到来することを指し示すのは、何も言葉だけで指し示すとは限らないということも考えた方がいいのではないか、と思ってしまう。ことばを使う際には、概念の共有や前提知識の共有とそれが多少の誤差があるにせよ、同じ言葉が指し示すものについての話者と聞き手の間に大きな差がないことが前提になる。ところが、宣教地で神のことを伝えようとするうえでの最大の困難は、同じ言葉であってもそれが指し示す内容が話者と聞き手において大きく違ってしまっていて、混乱を起こし、混乱を起こしたまま、相互に同じことを理解していますよね、ということの確認もないまま、ずるずると話が続いていくところにあるのではないか、と思うことは多い。

     

     

    http://moziru.com/explore/Gods%20clipart%20reconciliation/ より

     

     

     

     

     

    次回最終回へと続く

     

     

     

     

     

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