2017.08.07 Monday

罪という語が与えるイメージについて Doing と Being 再考

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    日本語における「罪」理解

    「罪」という語が普通の日本人に対して与えるイメージについて妄想を巡らせている。この罪理解の問題は案外重要なのではないか、と思っている。多くの場合、日本では、罪は状態を表すことばであるというよりは、悪を為す行為(Doing something wrong)、あるいは、悪をなした行為 (Doing evil)とその行為が導いた結果、ということを示すことばとして理解されているように思う。確かに、手近に辞書で検索しても、(というよりは、Google先生がお示ししてくださる辞書を見る限り)、明らかに行為そのものを指しているのであって、状態を指す言葉としての定義は少ない。

     

    「罪」からの「解放」は、

    誤解されたまま語られてないか

    これが、明治くらいからこの方、近代の西洋伝来というよりは、より正確に言うならば、近代北米地域から伝来したキリスト教が、日本に到来して、日本に入ってきた時以来、この「罪」からの「救い」の誤解が放置されたまま、結構今日まで来ているのではないか、と思う。「罪」からの「救い」は状態変化として捉えたほうがよいと思われるものが、過去の出来事が忘れられたり、なかったり、過去の出来事が水に流される、と言った日本的な理解と読み替えられていることはないだろうか。確かに、牧師先生クラスでは、このようなことはないかもしれないが、信徒レベルでは、案外こういう理解のまま、「罪」からの「救い」が語られているような気がする。

     

    罪のゆるしは、人間の過去を神が水に流すこと?

    こういう理解だとすると、イエスが完成した「救い」や人間が「救われた」という状態の理解は、少し違ったものになるのではないだろうか。つまり、罪のゆるしは、人間がなしたことを神が「忘れること」、「水に流すこと」、「なかったと認定される」ということになり、罪と認められる行為を起こさないように最大限努力するということになるのではないだろうか。それは、本当に、イエスが言った、罪からの解放ということなのだろうか。人間的な努力により、極力罪を犯さないようにするあまり、神経症的な状況に陥る人びとも時々、教会で出るようである。

     

    罪をおかさないように神経症的な生き方をする人びと

    常に罪を犯すのではないか、とビクビク、ドキドキして生きるとか、神は本当にそんなことを望んでおられるのだろうか、とも思う。神はそんな神経症的な生き方を人にのぞみ、人を神経症にするような生き方を被造物としての人間に、本当に望んでおらえるのだろうか。

     

    事柄、あるいは、人が何かすることばかりに、必要以上に注目してしまうと、人は神を見なくなるのではないだろうか。その結果、何が起きるかといえば、自分自身を見つめ続けてしまい、本来、人間が見つめ続けるべき髪を見るのではなく、神が望んでおられる神と和解した状態をみること、そして、神と和解した状態から派生するはずの神との平和を味わうよりは、自分自身が到達しようとする「不完全な正しさ」や「不完全な正しさ」を自分たちが成し遂げることを求め、自分自身が罪を犯してないという誤解の中に浸るようになったりもする。あるいは、人間の側の「不完全な正しさ」あるいは、『不完全な、あるいは安定的ではない一時的な義」を為すことに汲々とすることになってしまったり、自分自身が正しいと思うことを他者に強いることになるのではないだろうか。

     

    罪を無理やり認めるように

    他者に強いるキリスト者達

    それが、一部のキリスト者に対する表現、形容詞として、時に言及されるある種の表現である「一種の精神的な暑苦しさ」や「押し付けがましさ」のようなものを感じる人が出てくるのは、ある面、当然といえるかもしれない。それは、他者が罪をもっているということを無理やり認めさせれば、キリストが必要であることになるので、キリストを信じさせるために、罪を認めることが必要だという論理から、他者に罪の存在を認めるように無理からに言わせようとする人びともおられる。それって、本当に有効なのかなぁ、とは思っているが、まぁ、なんとかの一つ覚えのように、誰彼なく、それを言わせるように強いる人々もいる。よいことだから、と。

     

    その結果、人びとは「暑苦しさ」をそのようなキリスト者に感じるのではないだろうか。ただ、こういう暑苦しい人びとは、他者にこのような印象を与えていても、「自分たちは正しいこと、神の業を為しているのだから、良いではないか。他の関係者もキリスト者ならば、そのプロジェクトにすべからく関与すべきだ」とご主張になられる方もおられる。たとえ、他の関係者が興味もなければ、そのプロジェクトに関与する能力もなくとも、とにかく「良いことなのだから」、「神のためなのだから」すべからく他の信徒も関与すべきだ、と言って、人を突き動かそうとする人々にも、時々出会う。あたかも、自分自身の罪を良いことをすることで埋め合わせようとしたり、原罪の罪という出来事に対して、必死でバランスを取ろうとするかのように、その方の考える「神のためのこと」や「義なること」に自ら邁進されるのみならず、他者まで巻き込む人びともおられる。その「神のためのこと」とは、トラクトを撒くことであったり、教会に行きたくないという他者を無理矢理にでも、教会に引っ張っていって、聖書の話や、神の話を、いやいやであろうと、無理矢理に聞かせるプロジェクトに、他者まで巻き込んで無理矢理にでもその人が考える義なる行為を完遂させようとする方もおられるのである。実にかなわない。

     

    大学院生の頃の出来事

    大学院生の頃、このタイプの「神のためのことプロジェクト」マニアと思われる人から、ある方を介して、その「神のためのことプロジェクト」マニアと思われる方のご親戚か甥っ子か何かが、「ミーちゃんはーちゃんが在学中だった大学の同窓生で、近所に住んでいるから、訪ねてくれ」と何度も言われて、致し方なく、お訪ねしたことがあるが、見知らぬ人がやってきて、ちょっと離されたところで、「はい、左様ですか」と、わけわからないところに一緒に行きましょう、と言われても、普通は行く気がしないだろう。だって、おばさんかなんかに突き動かされて、勝手にやってきた見ず知らずの相手は、誰ともしれないし、最悪、北朝鮮の工作員であるかもしれないのだ。そんな人に拉致されて、わけわからずに、全く見ず知らずの人と教会というところに行くのは、誰だって嫌だろう。どうもこの方との間に立った方からの、お話を聞く限りは、どうもその甥っ子だか、親戚なんだかのご本人が、教会とかに行くことについてのバーニング・ディザイアをお持ち、と言うわけではなかったようである。

     

     

     

    そこで、最初はいやいやであったが、依頼があった以上、ご訪問した。ご訪問した折、おいでにならないようでもあったので、連絡先とトラクトをポストに入れておいたのだが、反応は全くなかった。あんまり、そういうことに関わりたくなかったのであろう。

     

    その事件の後も、この手の面識もない人をたずねてほしい、というご依頼が、どういうわけか直接ではなく、人を介して依頼されることが年に数回あったことがあり、ご依頼をされた方のご移行が真剣なものであったり、訪ねてほしいという方が、真剣にご依頼されていると思ってご訪問したら、何の何の、何も関心がないし、迷惑そうな顔をされたことが、何度もあるので、そこまで思いがあるのなら、どうぞあなた様が直接お伺いされるなり、お手紙をかかれるなりされたら、いかがですか、というようにしている。総お返ししながら、この種のご依頼をお断りすることにしているという関係もあり、流石に、そういうご依頼を持ち込まれる方は、最近はなくなった。

     

    本人に代わって、あまり思いがない代理人として遣わされたところで、あんまりうまくいかないのである。

     

    しかし、面識もない人に、自分が正しいと思うことだから、と、見境もなく「神のことプロジェクト」に関与させ、行為をさせる(Doingを強いる)ということはどうなのだろう。そして、それは、神のみ思いを本当に為すことに繋がるのだろうか、と素朴に思っていたことを思い出した。これは、罪が為すこと(Doing)であると理解されている以上、罪の反対の善も為すことと、誤解されている結果ではないか、と思う。

     

    「罪」とは状態を指しているのかも

    ところが、もし、罪が「状態」であると理解したらどうだろう。ひょっとすると、「義」とは、神の義を無理矢理に、ブルドーザーで、ガァガァ何かを動かすように為すことではなく、「義」が状態であると考えたらどうだろう。神が、(行為において)罪を認めないという状態も神の義であるとは言えなくはないようにも思うが、「義」とは、本来、神との「方向のズレ」がない状態ということなのだと思う。「罪」のギリシア語の原義が「的外れ」であるということが、教会ではときに語られるが、それを聞いた多くの日本人の受け手は、「的はずれな行為をしないこと」と罪を犯さないことや、神の義を理解(誤解)し、「神の義を自らなすこと」と誤解していることはないだろうか。

     

    Beingとしての罪

    Beingとしての義

    このブログの先月、先々月の人気記事には、Doing Being Becoming Creating そして Recreation という記事が上位に含まれたが、そこで言おうとしたのは、基本的に言いたかったのは、DoingかBeingか、といった二項対立で考えるのではなく、神が作り変え荒れる中で、Becomingであり、神によるCreatingな働きが、人間に行われることで、Recreationが起きることを言いたかっただけなのであるし、さらに言えば、DoingかBeingかの二項対立的な理解の限界を示したかっただけである。

     

    個人的には「義である」とは、神と和解している状態にあること、であろうと思っている。このように理解したほうが、聖書、特に新約聖書はわかりやすくなるし、旧約聖書も、理解しやすくなる。そもそも、人間には「義」をもたらす事ができないし、人間が「義である」と思っていることは、先程の訪問の例のように、全く何ももたらさないどころか、かえって、問題を生み出すようにも思うのだ。そもそも、人間が「義」を神の前に云々することは、ちゃんちゃらおかしいことではないか、と思う。

     

     

    義を巡る人々 Justice League の皆さん

    https://blogs.wsj.com/speakeasy/2014/04/27/warner-bros-details-plans-for-justice-league-movie-exclusive/ から

     

    そのあたりのことを、もう少し、教会用語を使わない方法で、教会で用いられる基本的な言葉について、丁寧に表現することを考えてみたほうがいいのかもしれないなぁ、とちょっこし思っている。

     

     

     

     

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