2017.06.21 Wednesday

『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(3) 一応完結

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    今日は、 テロ(戦争)と神(神のようなもの)の関係について、触れてみたい。一応、本日でこの連載を終わりたい。お付き合い頂いた方には、心より御礼申し上げる。

     

    神のかたち(こころ)を凍らせ、こころを押しつぶすテロ

    テロは、笑い事ではない。無辜の民が被害に合うだけでなく、どうにもならない絶望を日常を生きる人々に経験せしめるのであるから、個人的には、怒りすら覚える。それと同時に、その原因を作る無差別爆撃ないし、圧倒的な物量で行われる爆撃行為には、何より怒りを覚える。自軍の被害を最小化するという側面では致し方ないことはわかる。しかし、そうだからといって、職業軍人が民間人を攻撃していいわけではない。ただし、現代の戦闘状況で、民間人も安易に戦闘に参加する状況下では、職業的戦闘員と民間人との境が極めて曖昧であるために、自軍の被害の最小化のための有効な方策としては、まず、大量の物量を投入し、安全を確保してから、職業的軍人を投入するということになるのだろう。倫理的妥当性は別として、職業的軍人が考える現実的な解としてはそうならざるをえないだろう。しかし、それは、本当にまともな対応策なのだろうか。他国で戦闘を行う際の、このような方策の無効性はベトナム戦争でかなり、明らかになったのではないだろうか。しかし、そうであっても、他に方法がないためか、このような一般人を巻き込んだ戦闘行為が行われる。そして、被害者は、以下の動画で出てくる少年のように、恨みをもちながら、敵兵に当たる人びとと共生することを余儀なくされるになる。


    Good Morning Vietnumのワンシーン

     

    その意味で、ヴェトナム戦争のころから、テロと現代の近代軍の特殊部隊のするような戦闘のみならず、通常軍の戦闘であっても、民間人を否応なく巻き込んでいくという意味で、殆ど変わらなくなっているし、テロにしても、現代の戦闘にしても、報復に次ぐ報復という不幸な連鎖を生んでいる。

     

    戦争やテロの背景にあるもの

    前回の記事でも少し触れたが、戦争や戦闘の背景には、人びとのどうしようもない怒りがあるように思う。そして、テロの背景には、絶望がある。絶望があるからこそ、そして、言語によるコミュニケーションにおいての、どうしようもない絶望があるように思う。そして、言語でコミュニケーションができない、相手に自分と自分たちの主張を聞かせるための最後の手段として、自爆テロやテロが用いられる。

     

    非常に後あじが悪かったエピソードであるが、Law and OrderのSVUのエピソードに、アフリカの少年兵だった青年が、NY市警の警官隊と銃撃戦状態にあえて陥り、それをメディアに報道させることで、メディアを巻き込んで、アフリカの内戦状態の悲劇に無関心なアメリカ国民たちの目を向けさせようというエピソード(Season 10 Episode 17)がある。結局、彼は自ら警察部隊の市民への誤射事件を意図的に起こさせることで、自殺的行為を通して、自分の主張、いや、自分たちの国家に起こっている悲劇にアメリカ国民の目を向けさせようとした、ということを描いたエピソードであった。そのときに、このエピソードの一人に、「君たちはこうでもしないと見ようとしないだろう」といわせていたことが印象的であった。たd,この元少年兵は、他人を被害に巻き込まなかったとして描かれているものの。

     

    これはテロではないが、一種のテロ的事件ではある。平和なアメリカ社会の中での抗議行動としてのテロの一種であるが、そうでもしないと気が付かない、完成の鈍さのような部分が人間にはあるのではないだろうか。

     

    神の名を騙っての戦争

    尊敬するものがディスられて起きる争い

    ところで、過去、神の名を騙った戦争が多数行われてきた。実は、自国の領土欲であったり、富を求める思いであったり、経済的な回復であったり、あるいは、国家としての名誉が原因、つまらない自国優位主義だったりするのに、それでは、流石に市民の戦争遂行の士気(モラル)を鼓舞できないので、神の名が騙られることがある。要するに、名目として神や信仰、宗教を持ち出しているだけなのだ。

     

    人間はこういう崇高な目的とか、名目によってでも、戦争をしようとする人びとの裏の意図が覆い隠されてしまうと、つい、その挑発に載ってしまうのだ。あるいは愛するものが貶められることでも争いは起きる。

     

    今の悪童はどういっているかは知らないが、昔の悪童は、「お前のかぁちゃんデベソ」と挑発したものである。子どもにとって、生活がかかっている母親を悪く言われたら、人間は突然常識やユーモアが消え去って、「あぁ、デベソだけど、それが何か?」とは言えなくなるのである。それが、自分の信仰する神となれば、何をか言わんや。

     

    こういう挑発の事例は、旧約聖書にかなりの数、出てくる。

     

    戦争に勝利するということは、自分たちの神や王が相手の神や王よりは、優れているということであり、敗者の神や王は、基本的にその能力を少なくとも疑われるという目に合うのである。まさに、「お前の母ちゃんデベソ」ならぬ、「お前の王は無能」、「お前の神は無能」、ということを戦争での勝利によって示すのが、古くからの地中海世界の戦争であり、戦闘に関する理解であった。その意味で、王や皇帝はもちろん、民が信仰する神の沽券に関わるので、負けるわけにはいかなかったのである。

     

    列王上の18章におけるバアルの祭司と対決してみせたエリヤや、以下に紹介するギデオンの事例は、その意味で、その世界の世界観をきわめてよく反映したものといえるだろう。

    【口語訳聖書】 士師記
     6:25 その夜、主はギデオンに言われた、「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、
     6:26 あなたの神、主のために、このとりでの頂に、石を並べて祭壇を築き、第二の雄牛を取り、あなたが切り倒したアシラの木をもって燔祭をささげなさい」。
     6:27 ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。
     6:28 町の人々が朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は打ちこわされ、そのかたわらのアシラ像は切り倒され、新たに築いた祭壇の上に、第二の雄牛がささげられてあった。
     6:29 そこで彼らは互に「これはだれのしわざか」と言って問い尋ねたすえ、「これはヨアシの子ギデオンのしわざだ」と言った。
     6:30 町の人々はヨアシに言った、「あなたのむすこを引き出して殺しなさい。彼はバアルの祭壇を打ちこわしそのかたわらにあったアシラ像を切り倒したのです」。
     6:31 しかしヨアシは自分に向かって立っているすべての者に言った、「あなたがたはバアルのために言い争うのですか。あるいは彼を弁護しようとなさるのですか。バアルのために言い争う者は、あすの朝までに殺されるでしょう。バアルがもし神であるならば、自分の祭壇が打ちこわされたのだから、彼みずから言い争うべきです」。
     6:32 そこでその日、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきです」と言ったので、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。

     


    その意味で、神とか見の戦いを、人間と人間の代理戦争でやって示してみようとする世界理解であるが、傭兵が戦闘能力の大半であった古代社会の戦闘においても、近代戦時代においても、こういう牽強付会的な、というよりは、屁理屈のような理由が戦争の際には用いられるが、実態は、結局自分たちの経済的、あるいは領土的な問題が、宗教や、信仰や、正義と言った、単純には解決付かない問題にすり替えられ、持ち出されているだけにすぎないと思う。

     

    数年前、コーランを焼いた米国のテキサスの牧師の方が居られたが、その方は、エリヤ気取りだったのかもしれない。コーランを焼こうとして見せれば、それがアラーの神の神秘によって止まるとでも思ったのだろうか。もし、エリヤ気取りだとしても、実は、その焼こうとするコーランの中にイルヤースという名前で、エリヤは登場するのである。そのあたりのこともご存知で、コーランを焼こうとしておらえるのなら、どのようなお考えであったのであろうか。よくわからない。

     

     

    コーランを燃やしたテリー・ジョーンズさん@テキサス

    http://www.dailymail.co.uk/news/article-1372442/Pastor-Terry-Jones-defiant-Koran-burning-led-2-UN-staff-beheaded.html から

     

    問は簡単でもその答えは簡単ではない

    N.T.ライトさんは、『シンプリー・ジーザス』のまえがき部分で、簡単な質問ではるが、答えるのはそう簡単にはいかない問題があるということを明確に述べている。戦争の際に持ち出される理屈というのか、理由(例えば、民主主義社会を守るとか、人民を守るとか、自国民保護とか・・・)は、簡単で、明確で力強く見えるが、その実情は本当にそうは言えないような歴史上の戦争の事例は少なくない。その意味で、神と戦闘の問題は実に多様であり、単純化して語ることができない問題の一つでもある。

     

    いや、世の中、よく考えて見れば、質問はシンプルであるけれども、その回答がシンプルとはならず、複雑になるもののほうが多い。複雑なものをあえて単純化しようとすると、かえって、単純化しすぎて誤解を生むことが多いようなきがする。しかし、テレビなどの番組では、それでは視聴者に納得感がないので、あえて単純化して伝えることが多く、その意味で、きちんと考えずにものごとを単純化してラベルを貼っておしまいにすることは実はかなり危ないことなのだ。それは、聖書理解においてもそうであると同様に、この世界で起きていることについても同様である。

     

     

    ところで、キリスト教国は、同じキリスト教同士で戦闘して来たことは事実であるし、さらに、神学の世界でも、キリスト教界は互いに自己の神学の優位性を巡って論戦しているような部分がない訳ではないことも、事実である。そこには、流血と分断が、神の名、聖書解釈によって起こされているのだ。実に複雑な気分にもなるし、もうちょっと余裕を持って、お互いを思い合うことができないのか、とも思う。ただ、先にも述べたように、同じキリスト教同士であるが、民族の違い、信仰形態の微妙な違いにおける互いの優位性、経済的な比較優位を巡って、分裂を繰り返した歴史を、キリスト教の世界は繰り広げてきた。最近同じ聖書信仰という単語をつけたタイトルの書籍が同じ出版社から、2冊出たが、あれは、基本的にはきっとものすごく有益な議論のための出版であり、建徳的な目的のために、後発の書籍が出されたのだろうと、個人的には思っている。

     

     

    社会の不満が爆発する時

    さて、余談はさておいて、このような戦争に巻き込まれ、そして、その挙句の果てに神を持ち出す、ということの社会的意味を少し考えてみたい。どうも、社会に不安がある時に、人々は血の気が多くなるのか、社会の中の不満や不安のプレッシャーが大きくなるのか、混乱をあえて起こすようである。

     

    先日のこの連載でご紹介した、冥土喫茶ぴゅあらんどでの今回のゲストは、白波瀬さんで、大阪のスラム地区とも呼ばれた釜ヶ崎(あいりん地区と現在は総称される)について研究者の立場からのお話をしてくださった。こういう話が聞けるから、冥土喫茶ぴゅあらんど通いはやめられない。

     

     

    あいりん地区での騒擾事件

    http://www.koueisyasin.com/portfolios/docu/08/kama/01.html から

     

    その中で、現代までの直近、すなわち、記録に残っている最後に起きた暴動というか騒擾事件は、大阪府警本部は暴動とは呼ばず別の呼び方をしているらしいが、2008年6月の第28次暴動の原因は、行政との対決や、警察との対決ではなく、飲食店の支払いを巡る争いが、多くの人を巻き込んだ、騒擾事件に発展したのである。世界金融危機由来の経済的な不況が、これらの単純作業をしていた社会を底辺から支えてひた人びとの収入の機会を奪い、その結果、不満が社会に充満していたのだろう。その社会に渦巻く不満が引火性ガスのようなかたちで充満しているところに、火花のような小さな事件である、飲食店の支払いをめぐる揉め事が起き、景気のいいときなら、適当に処理できていたものが、対応の不味さなどもあり、爆発反応を起こして、炎上し、暴動に発展したのであろう。ツィッターなんかの炎上も、どこかに社会に対して、あるいは、世の中に対して、あるいは他人に対して、八つ当たりをしたくなり、そして炎上につながるのだろう。その意味で、暴動が起きるための理由は、社会の不満が高まっている場合には、理由なぞ、実は、なんでもいいのである。

     

    日本人は割とおとなしいというか、エネルギーが他の国の国民より明らかに低い気がする。アメリカなんかで生活していると、彼らのテンションの高さ(結構中高年でもテンションが高い人が多い)に参ってしまうことがある。日本人だと、70歳以上の高齢者が30代の人と同じくらいのような気がする。

     

    聖書の中の騒擾事件

    実は旧約聖書にも、暴動事件ではないが、暴動事件に似た騒擾事件はある。

     

    【口語訳聖書】
    出エジプト記
     32:1 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。
     32:2 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。
     32:3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
     32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
     32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
     32:6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。
     32:7 主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。
     32:8 彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。
     32:9 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。
     32:10 それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。
     32:11 モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
     32:12 どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、
     32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。
     32:14 それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。
     32:15 モーセは身を転じて山を下った。彼の手には、かの二枚のあかしの板があった。板はその両面に文字があった。すなわち、この面にも、かの面にも文字があった。
     32:16 その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。
     32:17 ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。
     32:18 しかし、モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。
     32:19 モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。
     32:20 また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。
     32:21 モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。
     32:22 アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。
     32:23 彼らはわたしに言いました、『わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセは、どうなったのかわからないからです』。
     32:24 そこでわたしは『だれでも、金を持っている者は、それを取りはずしなさい』と彼らに言いました。彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです」。

     

    しかし、ここでのアロンのモーセの事情聴取への説明は、まるで小学校低学年の男子か幼稚園児のようないいわけである。思わず笑ってしまった。アロン先輩にはちょっと申し訳ないが。

     

    新約聖書の中の記述であわや騒擾事件もどきは、イエスの時代の出来事としてもいくつか記載されている。

     

    【口語訳聖書】
    マタイによる福音書 
     21:8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
     21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
     21:10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
     21:11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
     21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
     21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
     21:14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。
     21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
     21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

     

    あるいは

     

    【口語訳聖書】
    マタイによる福音書
     27:15 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。
     27:16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。
     27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。
     27:18 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。
     27:19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。
     27:20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。
     27:21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。
     27:22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
     27:23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
     27:24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
     27:25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

     

    また、パウロに対して、次のような事件が起きる。

     

    【口語訳聖書】
    使徒行伝
     14:11 群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。
     14:12 彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。
     14:13 そして、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、ふたりに犠牲をささげようと思って、雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきた。

     

    それだけではなく、さらに、パウロに関する暴動としての他の礼としては、次のようなものをあげることができるかもしれない。

     

    【口語訳聖書】使徒行伝
     19:24 そのいきさつは、こうである。デメテリオという銀細工人が銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人たちに少なからぬ利益を得させていた。
     19:25 この男がその職人たちや、同類の仕事をしていた者たちを集めて言った、「諸君、われわれがこの仕事で、金もうけをしていることは、ご承知のとおりだ。
     19:26 しかるに、諸君の見聞きしているように、あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。
     19:27 これでは、お互の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、大女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジヤ、いや全世界が拝んでいるこの大女神のご威光さえも、消えてしまいそうである」。
     19:28 これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びつづけた。
     19:29 そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、いっせいに劇場へなだれ込んだ。
     19:30 パウロは群衆の中にはいって行こうとしたが、弟子たちがそれをさせなかった。
     19:31 アジヤ州の議員で、パウロの友人であった人たちも、彼に使をよこして、劇場にはいって行かないようにと、しきりに頼んだ。
     19:32 中では、集会が混乱に陥ってしまって、ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた。
     19:33 そこで、ユダヤ人たちが、前に押し出したアレキサンデルなる者を、群衆の中のある人たちが促したため、彼は手を振って、人々に弁明を試みようとした。
     19:34 ところが、彼がユダヤ人だとわかると、みんなの者がいっせいに「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけた。

     

     

    社会に渦巻く不満の影響を受けた民衆とその民衆の圧力がかかった状態(ブースト状態)の社会というのは、ちょっとした反応が、暴動に繋がったり、金の子牛を作ろうという動きになったり、ダビデの子にホサナという幼子の声を聞いた、祭司長や律法学者を苛つかせ、あるいはピラトによるバラバの釈放に繋がったり、パウロはゼウスと呼ばれたり、エペソでの騒動のような事件が起きたりするのだ。その意味で、ふつふつと爆発を待つ火山のマグマのような人びとの不満の渦というのは怖いのである。少しのきっかけで爆発するのは、古今東西変わらない。最近では、ロスアンゼルス市警察のアフリカ系市民への不当な暴力(ロドニー・キング事件)を端緒に暴動が起きているし、ハリケーン・カトリーナのときにも、商店島の略奪騒動が起きている。

     

    実は、このような人びとのふつふつとした心理的圧力を社会にとって被害が軽い形となるように、コントロール可能な形で放出するのが、実は、盆踊りや、夏祭り、秋祭り、春祭りや十字架行や、イースターなどのパレードであり、それを、定期的に行うことで、社会にこれらの社会の暴走のコントロールの方法を社会の中に蓄積していくのが、祭りの役割として、社会の中に制度化されているようにも思うのだ。

     

    戦争が引き起こす神のかたちの圧縮と停止

    戦争でも、テロでも、暴動でも同じことだと思うのだ。戦争やテロや暴動に関与するのはその場の雰囲気とかがあるにせよ、個人としての関与として、始まるように思うのだが、基本的には、ある物事にとらわれてしまい、心が柔軟さを失って、集団的ヒステリーを起こし、常軌を逸する事があるのではないか、と思う。本来人間は神のかたちであるにも拘らず、その神のかたちが、一時的に完全に圧縮され、変形された状態で、固化してしまい、神のかたちであることを停止してしまうことがあると思うのだ。

     

    このあたり、ヨベルの『従順という心の病い』が参考になるだろう。

     

    ロドニー・キング事件をきっかけに発生したロスアンゼルス暴動時の写真(被害総額 3億2千万ドル)

    http://www.chicagotribune.com/chi-insurance-civil-unrest-riots-bix-gfx-20141126-htmlstory.html から

     

     

    そして、人は争いに巻き込まれ、暴動や集団ヒステリーに関与していくことになる。では、これは、防ぎうるか、と問われたら、これまた、簡単な質問であるが、答えは複雑とならざるをえない問題である。個人的には、結論だけ言ってしまえば、可能であるが、困難である、ということだと思っている。その答えを考えるためには、深い黙想が必要である、とだけ申し上げておく。

     

     

    みなさんも、聖書と向き合う中で、そして、神と向き合う中で、たまにはこのようなことを、お考えになられると良いかもしれない。

     

    以上で、このシリーズは終了である。

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    N・T・ライト
    あめんどう
    ¥ 2,970
    (2017-03-20)
    コメント:イエス時代のユダヤの社会状況の整理の入門書として、大変参考になる

    評価:
    価格: ¥ 864
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:薄いけど、きわめて重要な本

    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    ¥ 879
    (2009-09-22)
    コメント:薄いけれども、きわめて重要な黙想の断面が描かれている

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