2017.05.29 Monday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その62

0

     

     



    Pocket

     

     

     

    音声ファイルダウンロード先

     

    英語の祈りの部分の発音 

       http://www.fromtexttospeech.com/ でイギリス風にテキストから音声に変換してもらった。

     

     

    さて、ここまでライトさんは、いろんな面で人間のかかわりの話を書いてこられたが、かかわりといえば逃すことができない、最も親密にして、もっとも語るのが困難で、更に理解するのが困難なのは、結婚生活だったり性の話だと思う。

     

    ライト先輩、キリスト者の性と生について語る…

    結婚とか、恋愛とか、性とかは、理性で説明できるのか、といわれると、かなり厳しいのではないか、と思うことが多い。その生の問題についても、逃げずに向かうところが、まぁ、流石というか、すごいなぁ、というか、かっこいいなぁ、と思う。ミーちゃんはーちゃんなら、こんなことは書きたくても、書けないが、でもライトさんは正面切って次のように書いておられる。

     

    関わりについての議論をしている中で、自ずと性への問に至るだろう。この点についても、新約聖書は厳格で明確である。怒りのことと同様、たくさんの言い方がなされているとしても、新約聖書は厳格で明確である。怒りのことと同様、たくさんの言い方がなされている。それは、人間の性の逸脱が(現代と同じように古代でもよく知られていた)、どのような言い訳をしようとも、そのもたらす結果から逃れることは決してない、と言おうとしているようだ。街角によくある雑誌販売店に寄ったり、テレビを一日か二日見たり、多くの人が集まる街を歩き回ったりしたあと次のような聖書の言葉に思いを向けてほしい。

      あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。第I コリント 6:9−11

     (『クリスチャンであるとは』pp.323-324)

     

    まぁ、日本では割と多様な性の在り方に寛容な社会であったし、英雄色を好むとか、無茶な言いぶりがされてきたし、豊臣秀吉も、2号さん、3号さんのことをしょっちゅうイエズス会の宣教師から何階も言われていて、結構参っていたらしい。

     

    性に関する倫理というか、婚外性交渉に関しては、ユダヤ教では男女そろって石打ちの刑(公開処刑)が待っていたし、近代化したイスラム社会では、流石にそれは見られなくなっているが、基本イスラム世界では、クォラーン(実質的には旧約聖書を内包する)の指示は明確なので、近代法の支配が及ばないところでは、これに近いことがおこなわれる。近代化した西欧文明から見れば、野蛮といわれても仕方ないような制裁が待っている。

     

    イスラム世界の女性たちが、人前に出る時には、ブルカをかぶったり、ヒジャブをかぶったりすることや、人前で肌を見せないよう肌を覆う習慣はこのあたりの性に対する厳しい教えが根底にあるようであるし、イスラーム女性が働いている会社では、そのイスラーム女性の個人の評価を個人的面談としてする際には、上司が男性である場合、個人面談といいつつも、女性の誰かを同席させないといけないとか、色々と工夫が必要になっているらしい。

     

    なんせ、イスラム世界では写真に女性が写るのも厳禁なので、なかなか以下のような画像もないのが事実なのだが。

     

     

    ブルカをまとった女性たち
    http://www.ibtimes.co.uk/islamic-state-bans-burka-northern-iraq-after-veiled-woman-kills-2-jihadists-1579804

     

     

    ユニクロ製のヒジャブ
    http://www.dailymail.co.uk/femail/article-3492970/UNIQLO-launches-hijab-modest-fashion-range.htmlから

     

    日本の駅売りのスポーツ新聞や週刊誌の中吊り広告も、結構見出しにはえぐいものが多いが、英国のタブロイド判と呼ばれる新聞もかなりひどいのが多いらしい。それがNewsStand(雑誌販売店)と呼ばれる雑誌販売の仮設店舗や一坪ショップのようなところに行くと売れられているらしいのだ。

     

    週刊ポストの中吊り広告
    http://www.weeklypost.com/101105jp/ から

     

    The Sunという英国の大衆向けタブロイド紙の紙面
    https://leftfootforward.org/2015/06/the-sun-is-asking-readers-to-send-in-bikini-pictures-and-subscribe-online/ から

     

    Newsstandの店頭 The Sunが結構いい位置を占めている。 
    https://www.nytimes.com/2017/01/16/world/europe/trump-eu-nato-merkel-brexit-russia-germany-china.html?_r=0から

     

    オックスフォードでのNewsstand 
    http://www.panoramio.com/photo/65442347 から

     

     

    日本の公共の場でのこういう性風俗に纏わるテキストや写真による、露出が多いという話はある。確かに個人的には目を覆いたくなることも多いし、夜中、いわゆる繁華街というところに行くと、おねぇさん方から、お酒を飲んでいかないか、とお誘いいただくこともあるが、早朝起きて仕事をしていることが多い人間としては、とっとと家に帰って寝転んでいる方がよほど幸せなのと、そういうのに興味がないのでお断りしている。

     

    こういうことを考えると、どこの国でも、性に関する問題を抱えていないわけではないことがよくわかるが、多少気になるのは、日本人の大学生の夏場の服装の露出の多さである。最近は、米国で学部の学生を教えたわけではないので、何とも言い難いが、ここ10年余り、流行なのか何なのかは知らないが、えらい肌の露出の多い服が多く、教室で目のやり場に困ることも時には起きる。さすがにブルカをかぶって来いとは言わないが、この感覚で米国に行ったら、路上で性交渉を持ちかける職業婦人たちに間違えられても仕方がないように思う。

     

    NYでのストリートビジネスに励む女性たち
    https://jp.pinterest.com/guidocolacci/whores-angels-muses-junkies-and-dreamers/ から

     

     

    ウェールズのCardiffでバカ騒ぎをする女子学生たち
    http://swns.com/news/carnage-pub-crawl-students-dress-prostitutes-cardiff-25289/ から

     

    まぁ、大学生は思春期の終わりにバカなことをする時期なので、こういうことも起きるのであろう。まぁ、バカなことをする人は、万国共通どこにでもいるということであるが、ただ、そのバカなことをすることの副作用があることや、その副作用が少なくないということは、個人を守る社会的な資本が極めて弱くなる外国に行くときには、十分留意すべきだと思うが、日本の感覚で海外で過ごすような、そのあたりの感覚がない人もおられるようだ。残念ながら。

     

     

    性の問題
     こないだFacebookのある方のスレッドで大頭さんと遊んでいたら、もともとは、「 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター 」と称していた水谷潔さんから、「厨弐病は社会の迷惑だ」といわれてしまった。「そもそも、 厨弐病キリスト者の総本家・家元のような人から言われたくはないなぁ・・・」とはちょっと思ったが…

     

    困るのは、あの手の発信をウェブでしてくれる人が今はいなくなってしまった。「過去記事を見よ」ということなんだろうけど(それはそのとおりであるが)、若者から老人まで、この聖の悩みとは言わないが、性の問題は、その人がその人としてどう生きるのか、神のかたちが神のかたちとしてどう生きるのかと密接にかかわるので、本を買わなくてもアクセスできる、ライブ感のある情報があると本当は助かるのだが。

     

    ご本人は「もう厨弐病から、卒業しちゃったもんねぇ〜」みたいないいぶりをしておられるようでもあるので、まぁ、それは良しとしよう。しかし、置き去りにされた中高生や若者はどうしてくれる、という気分ではある。教会の牧師たちがこういうノリで話してくれる(そんなことは期待するだけ野暮)ことはないし、本来、この種のことは、個人的な司祭や牧師との告解の中で処理してきたはずだし、対応できていたはずであるのだが、そんな告解のようなものを失ってしまって久しい(200年近くたつ)プロテスタント派や福音派では、処理の仕方が案外難しいのである。

     

    信徒を信頼してしゃべったら、教会中に広まってしまい、それが原因で教会に行けなくなった人もいる模様であるし。万人祭司であるが、祭司教育をきちんとしないで、万人祭司をやると、こういう悲劇が起きる。悲劇の犠牲者の方には、こころからのご同情を申し上げる。キリストが嫌いでなければ、この辺の守秘義務がやたらとうるさい伝統教派、カトリック、正教会あたりに、あう合わないもあるので、一度でいいので行かれることをお勧めする。

     

    この性の問題に関しても、ライトさんは次のように語る。

     

     問題は、現代社会において、古代でも大概そうだったわけだが、活発な性生活を当たり前とするだけではなく、普通の人ならそれなしにありえないとみなされるようになったことだ。そんな中で問われるのは、どのようなかたちの性行為が一番興奮をもたらし、満足感を与え、人生を充実したものにするのか、ということだけである。それに対する初期の、また標準的なクリスチャンの伝統は、ユダヤ教の偉大な伝統と、もっと後のイスラム教の伝統でも同じだがこうした古代や現代の異教的なあり方に断固として抵抗し、「否」ということである。
     イエス自身も、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色等々(マルコ7章21−22)の、人の心に湧き上がる欲望について厳しく語った。ここでは性的逸脱行為を他の重要項目と並べているが、それは取り立てて重要なことではないという意味ではない。キリスト教の初期における数世紀に渡って、人間の知りうるあらゆる性的行為は全て、ギリシアとローマ社会で広く行われていた。しかしクリスチャンはユダヤ教徒とともに、性的行為は男女の営む結婚生活のみに限られると主張した。世界の人々は昔もいまも、それを全く馬鹿げていると思っている。悲しいことに、昔と違って今日の教会の半数もそう思っているようだ。(同書 p.325) 

     

    ちょっとびっくりしたのは、「標準的なクリスチャンの伝統は、ユダヤ教の偉大な伝統と、もっと後のイスラム教の伝統」という部分である。この3つを並列させているところなのだ。ライトさんは、イスラムも親類とこの『クリスチャンであるとは』で表現しているが、これについて、現代の日本の多くのクリスチャンは「イスラム」がキリスト教と並列で扱われていることに驚かれるかもしれない。「ユダヤ教の偉大な伝統」はまぁ、理解できるにしても、イスラムですか、と奇異に思われるかもしれないが、個人的には、このライトさんの感覚はわかるのである。

     

    なぜ、これが並列で並ぶか、といえば、標準的なクリスチャンの伝統を含む、この3つは、信仰と行いが一体化していて、世の中のこと、神のことと分けて考えないところなのだと思う。

     

    それは、文化と信仰が一体化している文化だから、という側面は多分にあるが、生活の基礎、行動パターンの基礎が、結果的に旧約聖書を基礎としているからである。そして、神が与え給うた律法(トーラー あるいはモーセ5書)が生活の基盤になっているからではある。

     

    天理大学で昨年末開かれた古代のガリラヤのシナゴーグ遺跡の発掘結果に関する報告会( 天理大学で開催された、イスラエルの発掘報告会に行ってきた  に詳しい)に参加する中で、東大の市川先生という方が、「ユダヤ教とイスラムの方が、キリスト教とユダヤ教より近いのではないか」というご発言をされていたが、それはある断面では、間違っているし、ある断面では正しいと思う。あるいは、正しいといわざるを得ないと思う。

     

    というのは、ライトさんも「しかしクリスチャンはユダヤ教徒とともに、性的行為は男女の営む結婚生活のみに限られると主張した。世界の人々は昔もいまも、それを全く馬鹿げていると思っている。悲しいことに、昔と違って今日の教会の半数もそう思っているようだ」と書かなければならないほど、トーラーを無視する教会とクリスチャンが半数を占めているのであるのならば、トーラーの世界をクォーラン順守という形であるとはいえ、順守しているムスリム(イスラム教徒)の皆さんたちの方がよほど旧約聖書の世界に近いといわざるを得ないのである。その意味で言えば、今日のキリスト教は、リベラルな人も福音派も含め、もはや旧約聖書あるいはトーラーを無視しているという意味においては、本当にキリスト教といっていいのだろうか、ということを思うこともないわけではない。その辺はFacebookで面白いことを言って、刺激をくださるありがたいお友達のMさんの発言の大意、「もはや福音派も、キリスト教といいながら、古代のキリスト教とはかなり別物にちかいのではないか」ということにもつながるのかもしれない。

     

    こういうことを書くと、ちょっと知ったかの人たちは、「イスラムは重婚を認めているではないか」といいだす。しかし、考えてもみられよ。ダビデは重婚どころか、重婚するために殺人事件を起こしている。ソロモンは、重婚どころが、最低でも数百婚をしている。

     

    イスラムでは、確かに重婚あるいは婚姻という形を名目上とるが、それは、本来は、友人や恩義のある人の関係者が戦争や病気で寡婦や孤児となってしまった生活に困窮する弱い立場の女性を、現代のような国家による保護や庇護のない社会において、保護、あるいは、庇護するための便法として認められているのであって、欲望のはけ口としての重婚ではないのである。そもそも論として、第1夫人の任かがないとどうにもならないのであることは事実なのだが。だが、どこの世界でも、まぁ、逃げ道を作ってやりたいことをやる人はいるので、本来の目的に沿わない例はあるだろう。

     

    ではどうすれば・・・
    では、現代のキリスト教会の半分ほどしか、神が与え給うたトーラーを尊重した生活を送ってないとしたらどうすべきなのだろうか。キリストを信じて、改心経験があり、「罪とは、決別した」といっても、罪を犯さないまでも、自分の中の罪の問題にどう解決をつけたらよいのだろうか、と悩む方は少なくないようにも思う。

     

    2017年の福音主義神学会西部の山口さんのキーノート講演「諸力としての罪」の問題でも、山口さんがお世話をしている教会で、お若い方が、信仰を持ったままであるけれども、欲望があったり、罪に支配されていることに悩んでいることが少しだけ触れられていた。「神じゃないので、人間だとすれば、当たり前だよねぇ」とは個人的に思ったが、若い初心な純粋な人にとってみれば、そのような悩みは尽きないのであろう。ミーちゃんはーちゃんクラスのジジイになれば、そんなことはもうあきらめている。まぁ、あきらめているだけではまずいので、神の御思いに沿って生きるよう祈っている。

     

    そこで、ライトさんは古代の祈りを覚える様に次のようにこのあたりのことについて書く。

     

    確かに、神は私たちの心の底にある欲望を知っておられる。しかし、古代の有名な祈りは、この事実を(おののきをもって)受け止め、それがあるのだからそれが満たされ、在るがままに実践すればよい、というのではなく、むしろそれは洗い清められる必要があるとしている。

     

    全能の神よあなたにすべてのこころは開いています。すべての欲望は知られています。隠れているものは何もありません。あなたの聖霊の息吹によって私達のこころの思いを洗ってください。

     

    (同書 pp.327) 
    古代の有名な祈り、って何だ、と思ってその部分を読んだ。本当に、「あぁ、いい祈りだなぁ」と思ってよくよく読んでいたら、なんだ、いつも日曜日の朝の礼拝の始まりの部分で、祈っている祈りの和訳だったんだ、とすぐに気がついた。そして、あれは、そんなに有名な祈りだったんだとは知らなかったが、実に良い祈りである、とこの祈りを最初に祈った、その時以来今に至るまで思っている。

     

    古代の有名な祈り Anglican CommunionのCommon PrayerBookから
    そこで、英国国教会 The Church of Englandの祈祷文からその有名な祈りとその周辺の部分を引用しておく。
    全員
    Almighty God,
    to whom all hearts are open,
    all desires known,
    and from whom no secrets are hidden:
    cleanse the thoughts of our hearts
    by the inspiration of your Holy Spirit,
    that we may perfectly love you,
    and worthily magnify your holy name;
    through Christ our Lord.
    司祭
    God so loved the world
    that he gave his only Son Jesus Christ
    to save us from our sins,
    to be our advocate in heaven,
    and to bring us to eternal life.
                
    Let us confess our sins in penitence and faith,
    firmly resolved to keep God's commandments
    and to live in love and peace with all.
    Amen.
    全員
    Almighty God, our heavenly Father,
    we have sinned against you
    and against our neighbour
    in thought and word and deed,
    through negligence, through weakness,
    through our own deliberate fault.
    We are truly sorry
    and repent of all our sins.
    For the sake of your Son Jesus Christ,
    who died for us,
    forgive us all that is past
    and grant that we may serve you in newness of life
    to the glory of your name.
    Amen.

     

    最初にこの祈りを読んだ時、そして声に唱えたとき、何とも言えない気分になった。これは、福音派でふらふらしていた時には味わったことのない、何とも言えない自分自身の罪の深さを改めて思うことになった。そして、神の緩しということを覚えるようになった。これは、聖書テキストを福音派的な理解を中心にしてその観点から読んでいただけでは得られなかったのである。個人的には、この祈りの内容を心に留められるから、この祈りが唱えられるから、この祈りのためだけでも今の教会にいたい、と思うほどである。

     

    ところで、本書『クリスチャンであるとは』で引用されている部分の1959年版の聖公会祈祷書での対応部分はこちらである。この作業は、故植田真理子先生がなさったことの一つである。植田先生、ありがとう。

     

    故植田先生を最初お見かけした時には、正直ストレートな私としては、ちょっと引いてしまったが、ボウカムさんの講演録 ボウカム先生の講演会の記録   をボウカム先生の講演されたその当日上げたら、速攻でツィッターで褒めてもらいました。びっくりしたけど、ブログ、やっててよかった、とうれしい反応を頂いた記憶は忘れられない。

     

    で、植田先生がその聖公会の1959年版の祈祷書での翻訳はこうなっていた。
    全能の神よ、すべての人の心は主に現われ、すべての望みは主に知られ、すべての蜜事は主に隠るることなし。願わくは聖霊によりて我らの心をきよめ、全く主を愛し、御名の栄光をあらわすことを得させたまえ。主イエス=キリストによりてこいねがい奉る。アーメン

     

    そこで、結婚式の司式をした時に式次第の参考にするために自宅においてあった教団の式文を見ると、多分これが一番近いかなぁ、当のが、主日礼拝式の祈祷文4である。ここに引用しておく。

     

    全能の神に罪を告白しましょう。
    とこしえにいます父なる神よ、私たちはみ言葉を悟らず、不信仰に傾き、自分の力によっては御心にかなうことのできない罪人であることを告白いたします。今、御心を痛めたことを悔い、あなたの憐れみを呼び求めます。どうか、御子イエス・キリストのゆえに、私たちをおゆるし下さい。そして、聖霊の導きによって正しい道を歩むことのできるものとしてくださいますように。主イエス・キリストのみなによって(祈ります)
    アメーン
     
    (日本基督教団 式文(暫定版) pp.61−62)

     

    と、似ているような似てないような…である。探し方が足らないのかもしれないが、「あ、これこれ」というのは見つからなかった。それも、通常のフォント部分は司式者が読み、会衆は太字のみなのだが、会衆の関与がえらい薄いように思えてならない。これでは、会衆が自ら罪の告白をしたことになるのだろうか、と思う。実際に、教団の主日礼拝式に何回か参加したが、その時も、「全く主を愛し、御名の栄光をあらわすことを得させたまえ」という感覚、世に仕えつつ、世をよくしていくために、神の御業を神からの嗣業として我々が実現してくのだ、という感覚はほとんどしなかったし、多くの福音派の礼拝ではなおさら、そのような感覚がなかったことは確かである。ちょっとそういうことを思ったのは、メノナイト・ブレザレン教団の大阪東部の教会に行ったときにちょっと、そういうことは意識したが、そこの知り合いの牧師先生がそういうタイプの人だからかなぁ、とも思った。まぁ、月一以上あちこちで顔を合わせている牧師先生だったからかもしれない。

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

    Calendar
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031   
    << May 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM