2017.04.22 Saturday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その54

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    今日も、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで見ながら、思ったことをたらたらと、述べてみたい。今日も教会とはなにか、という部分をよみ、かんがえたことをたらたらと書いてみたい。

     

    まずは、教会がどのようなことを信じてきたか、ということを述べている部分である。

     

    復活、それは大事

    この前の日曜日、主日は、イースターであった。イースターとは、きゃりーぱみゅぱみゅさんが『良すた』を歌うためにあるわけではない。イースターは、ホワイトハウスでエッグハントするためにあるわけではない。ギリシアのある島で、大花火大会をするためにイースターが、あるわけではない。キリストが復活したことを覚えるためにあるのである。それは間違ってはいけない。

     

    きゃりーぱみゅぱみゅさんで、『良すた』

     

    今年のホワイトハウスでのエッグハントについての放送(1分10秒あたりから、国歌斉唱の時に胸に手を当てるよう大統領夫人から催促される大統領 w)

     

    ギリシアのCios島のイースターで行われる花火大会 とにかくギリシアでのイースターは派手に喜びを示すのである。

     

     

    ギリシア正教会での復活大祭の模様 2分7秒あたりから  
    大司教が キリストォー・アネェスティー (キリスト復活)と賛美し始めると、しばらくして、鐘が高らかに鳴るは、花火は上がるわ、の大騒ぎになる。5分14秒あたりから、陸軍、海軍兵たちが大きな声で国家を歌っている模様

     

    ギリシア正教会での復活祭の模様 3分30秒あたりから、キリストォー・アネェスティー (キリスト復活)と歌い唱えている。

     

    ここで、キリストォー・アネェスティーと賛美されているのは、「キリストがお目覚めになられた」あるいは、「キリストおめざ」という意味でもある。聖書のギリシア語でキリストォー・アネスティは、「キリストは、お目覚めになられたのだ」という表現なのである。だからこそ、新改訳聖書第3版では、

     

    【新改訳改訂第3版】マタイによる福音書
    28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

    と、起き上がった、朝起きたように復活したから、つまり、キリストォー・アネェスティーであるから、「おはよう」と言われているのであって、イエスが庶民的な人であるから、あるいは、我々に近しい存在の人になろうとして、「おはよう」と言っているわけではない。そこは間違えてはいけない。ちなみに、口語訳聖書はこうである。

     

    【口語訳聖書】 マタイによる福音書
    28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。

    個人的には、こっちのほうが誤解を招かないような気がする。そのまま読むという人向けには。

     

    そして、今の多くの日本のキリスト教徒にとっては、「キリストは復活された」ということになるが、本来、ギリシア語の世界での復活とは、今の日本語のイメージと違っていて、”ぐうぐう寝ている状態から起き上がる”ということでもあったらしい。こういう長い前フリをしておいて、ライトさんの表現に戻ってみよう。

     

    眠る、目覚めるというイメージは初代のクリスチャンたちがよく使った言い方の一つである。そのことはイエスの福音、つまり創造者である神が世界を正すために決定的行動を起こしたという良き知らせが、人々の意識に影響を及ぼす時に起こる。そこにはもっともな理由がる。「眠る」とは、古代ユダヤ人の間では一般に死を意味していた。イエスの復活とともに、世界も目を覚ますようにと招かれている。パウロが書いている通りだ。「眠っている人々よ目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすればキリストが、あなたを照らされる」(エペソ5・14)。

     初期のクリスチャンは実際、復活こそが人間のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時が来て、神が世界を新しくする日のためだけに出はなく、現在の生活において必要なことである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活はその陰に過ぎない。神は、究極の新しい創造においてこそ、新しいいのちを与えようとしている。しかし、新しい創造はすでにイエスの復活によって始まっており、神はいま現在のこのとき、私たちがその新しい現実に目覚めることを願っておられる。(クリスチャンであるとは p.289)


    ここで、エペソ人への手紙からの引用部分があるが、ここで新改訳は、「目をさませ」であるが、口語訳では「起きなさい」となっている。

     

    口語訳聖書 エペソ人への手紙 5:14

    「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」

     

    つまり、眠った状態から、目覚めるという状態が復活、ということのようである。ただ、「目覚めよ」というとこの雑誌。真っ先に思い浮かぶのがこの雑誌・・・

     

     

     

    あーあ。お目汚しをしたので、こちらを。

     

     

    正教会さんの復活のイエスのイコン 

     

    気を取り直して、もとに戻すと、ライトさんは、「実際、復活こそが人間のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時が来て、神が世界を新しくする日のためだけに出はなく、現在の生活において必要なことである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活はその陰に過ぎない」と書いている。復活こそが、人間のすべてに必要であり、現在に生きているものとしても必要であること。そして、最終的に神と共に生きる生活に比べれば、現在の生活も、もちろん大事だが、それは不完全なものでしかない、ということをおっしゃっておられるようだ。

     

    将来に比べれば不完全だからといって、それを疎かにしてはならない、とライトさんはいう。なぜなら、この世界を将来において、より完全なものとし、将来神が造られたこの世界を回復するための訓練期間のようなものが、現代のこの地の生活だからである、というのがライトさんの説明である。そして、神に与えられた才能を、天においてその才能を真に開花させ、天で神と共に生きる生活の中で貢献するためなのだ、とライトさんは別の本か、どこかで書いておられる。

     

    個々人が違う以上、信仰も多様だけど・・・
    近代は、本当は多様で様々な特性を持った人を、自分たちが能力が低くて、うまく適切には扱えないので、あえて精度を落として、粗雑に理解し、同質的だという仮定を置くことで、近代社会を効率的に機能させようとしてきた。そして、本当は平均的な人はいないのに、あたかも平均的な人がいるかのごとく振る舞い、あるいは、様々な人を平均的な人として扱い、その平均的な人と違うパターンの人を退けてきた。

     

    そして、信仰者には共通のものがあるはずだ、できるはずだ、ということで、劇的改心の経験とか、個人が変容した話とか、あるだスゲートのような経験(心が燃えるような経験)とかが求められたり、みんなが異言が語れるとか、こういう話になってくる。すると、こういう経験がない人たちは、どうなるか、というと、本当は全くない劇的改心経験の捏造、霊的変容の経験の捏造、アルダスゲートもどきの話の捏造をして、個人の証とか称して、語るようになるし、ある場合は、威厳が話せもしないのに、異言を語る真似をするようになったり、真似してたら出来るようになる、とか言って、本来の異言ではない可能性があるにも、あるいは、解き明かしもないのに異言だと言ったりして、適当なことをやる人が出てくる場合がある。そして、その結果としてUlalationのような異言をする人々が現れるのだ。

     

    アフリカでの喜びを示すUlalation ウララララララ・・・・という喜びの声

     

     

    神を信仰することはそんなに単純なことではありません
    神を信仰することと、クリスチャンであることの複雑さと多様性について、ライトさんはこう書いている。

     

    「新たな宗教的経験をする」ことが肝要なのではない。そのように感じる人もいれば、感じない人もいるだろう。ある人にとっては、クリスチャンになるとは、深い感情的経験であり、また他の人にとっては、長い間考えてきたことに明瞭な解決を得て、落ち着きを得ることであるだろう。私たちの性格は見事なまでにそれぞれ異なり、神も私たちを素晴らしく異なった仕方で取り扱われる。(同書 p.290)

     

    現代人は、複雑なことを自分たちが理解できていないのに、自分たちが理解した気分になるために、現実を必要以上に単純化するきらいがあるように思う。本当は、単純にしてしまったら、本当にわかったことにならないのに、単純化してわかった気になるのである。そもそも、人間一人一人違うし、別物として神が創造し給うたにも拘らず、それを十把一からげどころか、100人ワンパターン、1000人ワンパターンのものとして、ユニクロなどのファストファッションの服のように扱ってしまったり、本来他者がすべからく同じことをすべきだ、と要求してはならんのに、ひとまとめでみんなこんな事ができるはずだ、と同じような行動することを要求してしまうのだ。

     

    挙句の果てに、敬虔ぶりっ子や改心ぶりっ子が求められる。そして、キャンプとか何かのイベントのたびごとに、これらの改心ぶりっ子や、敬虔ぶりっ子が量産されていくのだが、そのうち元の木阿弥になるのである。人間一度や二度の改心でそんなに変わるようにやわにできていない。人間はイスラエルの民ほどかどうかは、別として、頑固だし、うなじの怖い存在なのだ。

     

    ライトさんは、「私たちの性格は見事なまでにそれぞれ異なり、神も私たちを素晴らしく異なった仕方で取り扱われる」と書いているし、実際にそうなのだが、神ならぬ人間は、ひとりひとり、それぞれ異なったように扱えないし、扱うと不平不満タラタラの人々が生まれることになる。実に残念であるが、それが現実だという気もする。
    本来、スルーしておけばいいものを、スルー力がたらないためにスルーできないため、いらんことを言って、不必要で不用意な混乱をあちこちで巻き起こすのだ。

     

    福音を聞いたけど、何すりゃいいの?

    現代社会では、福音は、非常に影が薄くなっている。「聞いて、それを信じたら、天国に行ける」ような、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)でのラッキーアイテムの一つくらいの印象だと思う。それをもったら、もう、完全に安心で、何もしなくていいし、全く何らしなくてよくなるようなものだとめちゃくちゃ簡便化して理解されているのではないだろうか。

     

    SEKAI NO OWARI さんでRPG

     

    そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書いている。

    福音、即ち創造者である神がイエスにおいて実現したことの「よき知らせ」は、まず何よりも、すでに起こったことに関する知らせである。その知らせに対する最初にして最も適切な反応は、信じることである。神はイエスを知者の中からよみがえらせ、それによって長く待ち焦がれていた神の王国が、イエスにおいてついに開始された。その事を、ただ一度の力強い行動で宣言されたのである。そしてイエスの死とはまさに、世界の悪のすべてがついに滅ぼされた瞬間であり、そうするための手段であった。目覚まし時計がなり始めた。それは、こう告げている。「ここに良い知らせがある。だから、目を覚まして、信じなさい」。(同書 pp.290-291)

     

    しかし、ライトさんのいう福音は、ちょっと安心できたり、何かのときに持っていると安心できたり、役に立ったりするものとはある面、ちょっこし似ているけど、違うようなのだ。

     

    ここで、翻訳文では、傍点付き、引用文では太字で示している部分で、ライトさんは、「すでに起こったことに関する知らせ」であることを強調しておられる。起きたことについて言うのが、エヴァンゲリヲンであり、福音なのだ。

     

    日本語で福音と訳されていることばは、もともとエヴァンゲリオンということばであるが、そのことばは、そもそも他のギリシア語テキストで使われているのは、自国の軍隊の大勝利とか、勝利とか、あるいは、王の正統な後継者の誕生とかを示す、ウルトラ・ビッグ・ニュースと言うような感じの場面で使われているらしいようなのである。

     

    まぁ、関西地方のベタな阪神ファンにとって、阪神がリーグ優勝したり、日本シリーズで十何年ぶりに優勝したりしたことのニュースのようなものである。めったに起きないことが起きたから、ビッグニュースになるのである。あるいは、広島市民にとって、広島カープが何年かぶりに優勝するかのようなニュースのことがエヴァンゲリヲンなのである。少なくともニュースというからには、起きたことに関する報告であって、これから起きることではない。

     

    その意味で、福音というのは、これから起きることではないし、その意味でも、我々が天国に行くことについてのことではないのだろう。ある面、「イエス様、最大の敵である悪に大勝利」とか、「イエス最大の敵である罪に勝利」ということこそが福音なのであり、それが今も起きているから、福音、すなわちビッグ・ニュースなのである。

     

    広島カープのファンの方には、広島カープが、何年かぶりで優勝したときのことを考えてもらいたい。阪神タイガースファンの方には、十数年ぶりに日本シリーズで何処かの野球チームと対決することになったときのことを考えてみてほしい。あるいは、ビートルズファンの方には、ビートルズがオリジナルメンバーで再結成して、武道館でコンサートする(もうありえなくなったが)という事を考えてほしい。もうビッグ・ニュース過ぎて、おちおち眠ってもいられない状態になるのである。

     

    広島カープ優勝の大騒ぎ

     

    阪神タイガース優勝のときの大騒ぎ(このときには、嬉しさのあまりか、集団ヒステリーなのかは、知らないが、道頓堀川に飛び込む人まで出てきた)

     

    あるいは、嵐のファンの方には、嵐のコンサートがあなたの街で開催されることを想像してほしい。

     

    主婦の方には、年末のバーゲンセールとか、正月の福袋が先着100名様限定で、通常1,000円が100円で限定販売されることを考えてほしい。こうなるとお家でグズグズ眠っている場合ではないですよね。

     

    まさにお祭り騒ぎの感がある大阪心斎橋のApple StoreでのiPhone発売時のニュース

     

     

    最近で一番近いのは、上の動画で紹介するApple StoreでiPhoneの新型機種が発売されたり、任天堂のWiiの最新型が発売されるときのお祭り騒ぎなんかが、まさに、「イエス、復活」「キリスト、おめざ」「クリストォ~~~・アネスティ~~~」のときの雰囲気に近いノリかもしれない。乗り遅れてはならないので、みんなが急いで、あるいは、走ってイエスの墓に向かったのである。

     

    こういう状況の場合、ぐうぐうと眠っていいる場合ではないだろう。買い損ねないように、それこそ夜中から起きて並ぶのである。まさにイエスの復活の報に接した弟子の皆さんは、そういうような状況の感じなのではないかなぁ。

     

    あるいは、ちょうど小学校低学年の男子にとって、明日遠足とか誕生日、という日の前夜のような状態、とでも言ったほうが適切かもしれない。目をさましていなさい、とい得のは、まさにワクワク感がいっぱいで、寝ている場合でない、という感じに近いかもしれない。

     

    つまり、興奮のあまり目が冴えてしまって、眠ることができないような状態、ということになるんじゃないだろうか。それほどの喜びが本来イエスの復活にはあったように思うのである。それほどの大事件が、イエスの復活であった、ということとお考えいただければ良いのだと思う。イエスの墓に行って、墓が空っぽであるという女性信徒たちの報告を聞いたときの、弟子たちの興奮冷めやらぬ様子というのは、彼らにとっては、「もはや、おちおち眠っている場合でない」ということだったのだろう、と思う。

     

    月曜日は別の本を紹介するが、水曜日には、この本に戻る予定

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

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