2017.04.19 Wednesday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その53

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    今日も、またいつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の中から、ご紹介していきたい。今日からは、教会についての章である、「15章 信じることと属すること」からご紹介していきたい。

     

    小文字のカトリック教会という姿

    小文字のカトリック教会ということについては、小文字のキリスト教、という山崎ハンサム(あ、違う)、山崎ランサム先生の非常に優れた論考がある。福音派の一部分には、自分たちの分離派のキリスト教界群のみが正しいと主張したいがあまり、大文字のカトリック教会(カソリックとか、カトリックとか、天主教会とかとも呼ばれる)が、16世紀末に日本に、文献で確認できる限り初めてキリスト教を伝えた教会群との差別化を図るために、間違っているとか、聖書を理解していないとか、分かってないのに、テキトーなことが言われている教会ではない。そして、実態を知らずにプロテスタントのある一部の人々から、批判の対象にされている教会のことではない。使徒信条に出てくる、聖なる公同の教会を信ず、のなかの、”公同の教会”のことである。

     

    一応使徒信条を上げておく。
    我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
    我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
    主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
    我は聖霊を信ず。
    聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。

     

    この古い使徒信条の”聖なる公同の教会”という部分のことである。聖なる公同の教会とは、自分たちの教会、自分たちの教会の関連教会だけが教会だ、という立場に、ミーちゃんはーちゃんは、立っていない。もし、自分たちの教会が正当的である、とおっしゃるなら、三位一体を否定する教会群の皆さんは別として、その三位一体はどこから来たのか、ということをお調べになればよろしいと思う。その教会やその教会の関連教会の過去の何方かが、三位一体ということを言い出したわけでないことがわかるだろう。当初、三位一体が言われたときと今の教会の理解が必ずしも一致していないことも、わかるかもしれない。同じ三位一体という語を使いながら。

     

    ところで、この三位一体という概念を否定し始めると、キリスト教の教会としての性質を保有しているかどうかまでもが怪しくなるようである。

     

    ライトさんがここで言っている教会とは、個別の教会とか、ある個別教会を含む教団や教会連合のことではない。もっとでかい世界的なキリストを愛する人の集合のことを教会といっている。そこを間違えてはならないことを述べておいて、次のようなライトさんの文章を読んでみたい。

    教会は川のようなものだ、聖書の最後の書で予見者ヨハネは、大群衆があらゆる国からあらゆる群れから、あらゆる部族から、あらゆる民衆から集まって、賛美歌を大合唱しているのを見ている。川のように、それぞれの群れが異なったところから出発し、その小さな流れが合流して一つの大きな流れとなる。川のイメージが説得力をもって教えてくれることは、教会とは、そもそも多様な背景を持った人達によって構成されているが、それが重要であるのは、互いがその一部である力強い流れとなって、同じ一つの方向に向かっていくからである。多様性が一致に至る。(『クリスチャンであるとは』 p.281)

    この文章を読んだ時、まさに、ライトさんの頭のなかでは、多分、「バベルの塔の事件の逆回し」みたいなことが起きているのだろうなぁ、と思ったんだなぁ、これが。バベルの塔の頃には、創世期によると人は一箇所に集まって住んでいたのだが、言語が乱されたことで、人々は全地に出ていくことになる、ということになっている。そういうことで理解しておくので良いのではないか、と思っている。しかし、最後のときには、その逆バージョンが起き、神によって散らされたものが神によって、もう一度集められる、ということだろう。

     

    ちょうど人間の血液のシステムと同じようなことが起きているというイメージなのだろう。つまり、心臓から送られた血液が、大きな大動脈みたいな流れのシステムを通り、次第に枝分かれし、最後は毛細血管に至るまで、細かく別れていったようにして構成されている諸民族、諸言語、神学的サブグループを形成している個別の教会の人々が、今度は、毛細血管を通って、静脈システムを通り、最後に心臓の大静脈を通ってまた心臓に血液が集められるように、もう一度、神のもとに、本来の出発点に集まってくるとういイメージが、ライトさんの頭のなかには、浮かんでいるのかもしれない。

     

    いかにミシシッピ川の流域の河川の流路図を上げておくが、実に複雑な形状をし、時に河川は交差をし、また、分岐しながら、最終的には、メキシコ湾に向かって流れ込むのである。河川の流量が大きく、河道の広い部分だけがミシシッピ川を形成するのではなく、流域の全体、つまりシステムとしてミシシッピ川は構成されているのだ。

     

    ミシシッピの河川システム

    http://www.bsaswampbase.org/mississippi-connection から

     

    ここで、ライトさんは、「多様性が一致に至る」と書いておられるが、ここが大事なのである。時々、ある教会では、多様性がかなり軽視されて、一致だけが強調されることがあり、これができない人は一致を乱すものだから、教会から出ていってほしいとか、教会の一致を乱す人は、教会にいてもらっては困るとか、という教会もあるようである。ただし、他者を追い出すときに口実にされる一致というのは、その際の一致が何を指すのかは議論されないことが多いようであるけれども。一致は無理矢理に、あるいは強制的に作り出されるものではなく、自然に出来上がるのが、本来の神の国の民における一致なのではないかなぁ、と思う。

     

    多くの人を受け入れていった旧約時代の神の民

    ライトさんは、イスラエル民族や、旧約聖書を例に取りながら、その集団が排除的なものではなく、多民族も、神を敬っている限りにおいては受け入れていった事例があることを紹介し、特にイエスが十字架で成し遂げたことによって、すべての民や民族と神との関係が、等しく受け入れられるようになったことを、以下のように書いておられる。

    第一に教会は、何万と分散した支流が形成した一つの大きな川である。初期のイスラエル人は単一の血族であったが、その時でさえ、そこに部外者(例えばルツ。旧約に彼女の名前がついた書物がある)が入る余地が十分にあった。イエスの成し遂げたことが端緒を開き、それが新しい基準となった。どのような人種であれ、どのような地理的、文化的背景を持つ人であれ、どのような姿、形、大きさの人であれ、この新しい民に招かれ、歓迎されるようになった。(同書 p.282)

     

    個人的にはイスラエル単一民族説、単一血族説と誤解されかねないような表現をライトさんはここで書いておられるが、原文では、it was mostly a single family となっていた。mostly であって、言い切りではない。イスラエルおおむねの単一民族だ、という意味ではないか、あるいは、おおむね一つの民族からなっていた、というくらいの意味だと思う。

     

    と言うのは、イスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブの民でもあるが、エジプトから出る段階で、同行する異邦の民をも含んでいたようであるし、ルツや他の異邦の民も登場する。イスラエル民族は血族性による民族ではなく、信仰共同体の側面がどうも強いような気がしてならない。このあたりは、『福音と世界』の2017年1月号に掲載された、山森みか先生の「 ユダヤ教と万人祭司 」という論考が参考になる。

     

    イスラエル民族の世界の中には、例えば、ナアマン、ヨナが伝道したニネベ、様々な諸民族が関係している。このあたりに関しては、D.M.ワイズマンの『旧約時代の諸民族』という本がなかなか良いと思う。

     

    そういう多様な人々が聖四文字なる方を信仰する信仰共同体に招かれていることと、信仰共同体そのものが、イスラエルの民、ということになるのであるし、そうであるが故に、パウロがガラテヤ書の3章で以下に引用するように書いたときの意味は、信仰共同体との関わりで書いていたように、ミーちゃんはーちゃんは思うのだ。

    【口語訳聖書 ガラテヤ書】
    3:6 アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。
    3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。

     

    上記のパウロの表現の背後にある意味は、信仰を持つ人がアブラハムの子にされた、あるいは、ユダヤ人に変わって教会がその立場を受けた、という理解よりは、そもそも、イスラエル民族自体が聖四文字なる方に対する信仰共同体として定義されている以上、そこに参加したい人も、そもそも論として、もともとは外国人であり、異教徒であった改宗者たちも、イスラエルの信仰共同体のメンバーとして受け入れ可能であった、という事を忘れてないか、とパウロは言いたかったんではないかなぁ、と思う。なお、ユダヤ的世界の中では、信仰の父アブラハムは、異邦人ある位は、異教徒になるらしい。

     

    その意味で、最近頻繁に行っている教会で一度だけ賛美したことがある賛美歌のことを思い出すのである。この賛美歌は、非常に神の国、ないし教会(というよりは、アングリカン・コミュニオンの教会理解)の姿をうまく歌詞としても表現している様に思う。

     

    All welcome in this place という賛美歌

     

     

    神は、すべての人を回復させ、ご自身の信仰共同体(それは同じ教理の共有を必ずしも前提としてないとおもうが)に招いておられるように思うのだ。

     

    何のために教会はあるか

    教会は、神を礼拝するところである。これには意義をお持ちの方はおられないだろう。神と人が出会うところでもある。これもおおむね異論がないだろう。しかし、それだけか、それだけでいいのか?ということをライトさんは述べている。つまり、第一コリント四章の「神の国はことばにはなく力にある」というパウロの主張をどう考えるか、ということを、そして、キリストにつながるものであることをどう考えているのか、ということを、次の引用部分では、問題にしておられるような気もする。

     

    第二に教会は、神がアブラハムを召し出された時に飢えられ、無数の枝を大きく広げた木である。その幹はイエスであり、その多くの枝や小枝や葉は、世界中の何百万人というクリスチャンであり、個人である。同じことをパウロにならって聖書的に表現すると、「キリストのからだ」である。一つの体に、あらゆる個人とすべての地域に分散した共同体が、それぞれ肢体として、あるいは器官として結びついている。「からだ」というのは、単なる多様性の一致というイメージだけではなく、キリストのわざを行うために、すなわちこの世にあって、世界のためにキリストのわざを行う手立てとして召されている、という意味である。 (同書 p.283)

     

    アングリカン・コミュニオンの英語の式文で聖餐式の前に読まれる部分に、こういう文章がある。太字部分は全員で読む。

     

    We break this bread
    to share in the body of Christ.
    Though we are many, we are one body,
    because we all share in one bread.
    そもそも、我々人間は、多様性があるもの、すなわちWe are manyであることを認めながら、キリストのパンに共に預かるものとしては、一つであることを聖餐式で、(毎週)覚えるのだ。カトリックもあれば、正教会もあれば、ルーテル派の人々もいれば、改革派の人もいれば、改革長老派の方もあれば、ウェスレヤンの方も、ペンテコステ派の方も、社会派の人もいれば、教会派の人もいればという状態の中で、我々は、キリストの体という聖なる公同の教会の中で神を共にシェアするということなのだと思う。そして、その聖なる公同の教会の中に置かれた存在なのだ。

     

    まさか、社会派のキリストとか、教会派のキリストとか、メノナイトのキリストとか、ウェスレヤンのキリストとか、バプテストのキリストとかがあったら、そりゃあ面白いか知らんが、そんなものは、ないのである。まぁ、キリストを社会派風に提示することが多いとか、教会派風に紹介する事が多い教会はあり、教会ごとに味わいが違うのだけれども。

     

    そう思っているので、個人的には創造科学って、かなり眉唾だと思っていても、創造科学の人とも付き合うし、ちょっと意固地に見える正教会の方々とも付き合うし、もちろん福音主義の諸グループの方とも付き合うし、ペンテコステ派の先生と平気で冗談言い合うし、キリスト新聞社とも付き合うし、新教出版社、ヨベル、あめんどうさんとも、お付き合いさせて貰っている。いのちのことば社の会社全体としての体質はどうかと思うことが多いけれども、微力ながらご支援している。

     

    ただし、いのちのことば社周辺で、こんな本を出した、とかガタガタいのちのことば社に文句だけ言う方がおられるのは、よく存じ上げているので、心からいのちのことば社の皆さんには、ご同情は申し上げている。しかし、我らの神は、色んな形で分断されていても、一つであり、われわれは、一つのからだを形成しているのだ。以下の歌のように。

     

     

    一つのパン、一つの盃という賛美歌 なかなかよろしい、と思いますよ。

     

     

    上でも触れたようにいろんな教派があるけれども、その中の人びとと幅広くお付き合いするのは、それぞれの教会と教会のグループが「世界のためにキリストのわざを行う手立てとして召されている」と思っているからである。あくまで、個人が神の民として何かをするために召されているのではなく、教会がキリストの業を行うために招かれているのである。それを個人一人ひとりが招かれている、として理解するから、おかしなことが起きるように思う。個人ができることは限られているのだ。ロマン主義の時代、冒険承認の時代ならいざ知らず、今は世の中そうはできていないが、相互に協力しながら冒険の旅に出ることはできる。

     

     

    ただ、問題は、「キリストのわざ」が具体的には何か、が聖書には明確に書いてないので、自分で四苦八苦しながら、考えるしかないところである。それ故、教会派、社会派などの分割が起きやすいのだと思う。その意味で、我々はあまりに、マイオピックに、すなわち近視眼的に物事を考えがちなのかもしれない。

     

    その意味で、日本の教会ももっと老人力をつけて老眼になり、遠くがよく見通せるようになる必要があるのだろう。まぁ、現在の日本の教会は全体に高齢化が急速に進んでいるので、老人力はつくのだろう。変な老人力だけを身に着けた、スクルじーじいさんのような人びとだらけの教会になってほしくないなぁ。

     

     

    クリスマスキャロルに出てくるスクールジー
    http://peliculas.disneylatino.com/los-fantasmas-de-scrooge

     

    教会が存在する究極的で中心的な目的とは何か
    教会の目的とは何か、それは神の国のこの世界での実現とそれを指し示す方向表示版となることである、と言うのは、ライトさんの割と重要なテーマである。しかし、それを忘れ、個人的な救いや、天国に行くことや、個人の霊的な成長、心理的な安定、世俗の富の蓄積やその追求が教会の主目的になっていないかを考えたほうがいいかもしれない、ということに関して、ライトさんは、ミーちゃんはーちゃんほどひどくなく、慎まやかに、そして、お上品にお書きである。その部分が次に引用する部分である。

     

    個人的な霊的成長や究極的な救いは、むしろ副産物なのであり、神はより包括的で中心的な目的のために私たちを召しているのだ。その目的は明確である。それは新約聖書の至る所に記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造主であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通して滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒やし刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである。
    言い換えると、教会が存在しているのは、いわゆる「宣教(ミッション)」と呼んでいることのためである。すなわち、イエスが世界の主であると世界に述べ伝えるために存在している。(同書 p.286)

     

    ここで大事なのは、教会の目的である。それについて、ライトさんは、「その目的は明確である。それは新約聖書の至る所に記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造主であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通して滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒やし刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである」と、お書きである。この記述に異存をお持ちのキリスト者はあるまい。ただ、問題となりやすいのはこの先なんじゃないか、と思うんだなぁ。

     

    ただ、知らせるだけでいいのか、信徒にしなくていいのか、信徒にしたからには、それにふさわしく・・・となるように、教会の側でも信徒さんの側でも「頑張らねば・・・」とか、なり始めると、そこで、神の主権ではなく、人間の側の責任や主権ということになりかねない。あるいは、新校舎が、神に向かう道からコースアウト状態になりかねない道が待っている。

     

    しかし、根本的なところは、知らせるところからしか始まらないように思う。そこまでが、人間ができることなのかもしれないなぁ、と思う。それを、先輩信徒が「ああせえ、こうせえ」と具体個別のことに立ち入り、細かなことを言い出すと、とたんにおかしなことになる。聖書的かも知らんが、聖書の主張ではないのではないか、と思う。

     

    まず、大事なことは、「告げ知らせよ」ではないか。弟子としてふさわしく歩むようにするのは、それからだと思う。

     

    まず、「こんなすごいことがおきた」が、本来の意味での”福音”である。「前髪は眉毛まで」とか、「夏は女性はTシャツまで」は多分、”福音”ではないし、まぁ、これに類似するその他もろもろの聖書的とされていることは、「”福音”そのものか?」ということは少し考えたほうがいいだろう。多分、違うんじゃないかなぁ。

     

    では、福音の伝え方は、いろいろだと思う。伝道集会という名の、”賛美歌付き講演会”や”賛美歌大会付きキリスト漫談の会”だけが、”福音”の伝え方ではないだろうし、その伝え方は、来会者と説教者というパラメータによって決まるのだと思う。いくら学術的で面白いことを言っても、幼稚園児には、ただただ退屈で、”何言ってんだ”になるだろうし、大学生や大の大人で信者に、いくら老人向けに受けがいいから、と言って”紙芝居”を延々1時間は、ありえんだろう。
    でも、実際、講演会のある講師のお話の前座を務めたある牧師の方は、講演会のスピーカーを、お待たせしせたまま、延々1時間近く紙芝居をとくとくとして参加者にご覧に入れ、紙芝居をお読み上げになった場面に遭遇したことがある。大の大人の牧師が、大の大人に対して紙芝居を2本分、1時間近くである。どうも、3本めがあったらしいが、それは流石に他の参加者に阻止された。そして、本来多くの人が目的として集まった。講師による講演会の時間がなくなることはなかった。

     

    人も多様である。語りても多様ならば、聞き手も多様である。さらに、状況だって、いろいろだから、説教は、説教者と会衆と会場で作り上げられるのであって、ナントカの一つ覚えのような伝道方法は、おそらく無意味なんじゃないかなぁ、と思う。また、時代だって多様なのだから、それなりの方法論があってもいいんじゃないか、と思うのだなぁ。

     

    このあたりの宣べ伝える、あるいは、”宣教”するということを、まじめにお考えになられたい向きには、昨年日本で講演を行ったクリス・ライトという方の神の宣教シリーズ(全3巻セット)がなかなか良いので、お読みになられることをおすすめする。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

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    コメント:おすすめしています。

    評価:
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    日本基督教団出版局
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    (1998-11)
    コメント:割とまとまっている旧約時代の民族とイスラエル民族との交流史

    評価:
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    コメント:ミッションを考える上では大事かも。

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