N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その52
さて、今日もいつものように、ライトさんの『クリスチャンであるとは』の中から、聖書に関する章の中から読んで、あぁ、面白いなぁ、と思った部分を拾いながら、たらたらとご紹介したいと思う。聖書に関する章のご紹介は、今回でおしまいである。
真理の多様性
まずは、今日も、引き続き、象徴的解釈と字義通りの解釈についての部分である。この部分は、非常に大事なことを、ライトさんは書こうとしておられるようである。今から引用する部分の前には、聖書の放蕩息子のたとえ話の話があり、イエス時代のパレスティナに放蕩息子がいたような家庭が実在したか、事実かどうかという議論がした後、ライトさんは次のように語る。
ただこのことは、たとえ話の中で、いわば勝ちがあるものと認められる部分、つまり具体的に役立つ部分のみが「真理」であるという意味ではない。幾つかの全く異なった層において、「真理」なのである。そのことを認めることは、「本当の『真理』と言えるものは、実際に起きたことではない」ということを意味しているわけではない。真理は(神に感謝すべきことに)、それよりさらに複雑である。というのは、神の世界はそれよりももっと複雑で、事実、さらに興味深いものなのだからである。(『クリスチャンであるとは』 p.273)
この辺の記述を入門的にやるための本が、ライトさんの「新約聖書と神の民」である。そのうちまた、紹介をしてみたいと思っている。
ここの部分を読みながら思ったのは、ある人々の真理についての理解が、割と平板であること、という問題である。別な言い方をすれば、「真理は一つ」という理解から、多くの人々は、「真理の見え方には一つしかない」と言う近代の呪縛に縛られてしまっているように思うのだなぁ、これが。
本来、「真理」ってそんな単純なものじゃないし、そう単純でないとすると、その真理の複雑性、多面性を無視し、「真理は一つ」あるいは「真理の見え方には一つしかない」と思い込んで、その概念で聖書を無理やり読もうとするから、あっちこっちでまずいことが起きる様に思うのである。そして、神の世界について、人間の世界にちらっと関連する部分を拾って理解できる部分だけを、切り取って読んでいるように思う。そして、ある教会では「聖書は真理の書である」ってやるから、大事なことを見逃していたり、本来の豊かな鉱脈を無視して、そこだけを掘るから、結果として石炭殻、あるいは、ボタというもののを延々掘り続けるに近いことになっている気がする。また、聖書を教科書のようなかたちで、所謂”真理”が書かれている書として、読む人びとも多い。それはあながち間違いだとはいえないが、しかし、かなり無理があるのではないか、と思う。
役立たないかもしれない真理
近代から現代では、真理は役立つものであった。いや、科学万能時代には、真理は役立つものと、少なくともそうみなされてきた。ところが、世の中には役立たない、もう少しいうと、真理ではあるけれども、実際上、めんどくさすぎて、ほとんど意味をなさない真理はあるのである。
例えば、電球が6本同時に切れる確率は、負の指数分布にしたがうという”真理”はあるが、世の中で電球6本同時に切れる確率とかは意味を成さない。
あるいは、最近話題の某米系航空会社の関連で言うと、乗員と航空機の機体とのマッチングの割当をすることを決める際に、最小のコストで実行可能な組み合わせを決定するような組み合わせ問題は、数理モデルとして計算できるかもしれない。このタイプの組み合わせ問題については、解が明確に存在しないかどうかについての証明はやろうと思えば多分できるが、おそらくきちんと解が存在しない印相がある。このタイプの問題を業界ではNP完全でないという。このタイプの解が計算によって得られないタイプのある航空会社で、一日に運行する飛行機の機材とルートと、そのルートごとの乗務員の組み合わせ問題があるとして、その乗務員の組み合わせでコストが最小になる組み合わせ問題の解を得るために、スパコンをフル稼働させて、3日かかって、そのような組み合わせは現実には存在しない、という結果を出したのでは、実際上は、意味を成さない。そのような場合、正しい解が存在するにせよ、つまり、そんな実行可能な組み合わせがない、という解が存在するにせよ、実行可能な解がないことを厳密に得るのに、手間と時間がかかりすぎて、飛行機が飛ばせないとすれば、それは、厳密な解を求めることが意味を成さない場合となる。このタイプの問題のことを、問題解決の第4種の過誤という人もいる。その第四種の過誤とは、『問題は正しく定義されていて、そして、問題の解決策にとって、かなり精度の高い解が見つかるものの、問題を解き終わったときにはもう遅すぎて役に立たない状態』という過誤、つまり、遅すぎて意味ないじゃんの過誤である。
一般に想定されるほど、『真理』というのは扱いやすいものではない。そもそも、本来的には、どのような意味で、『真理』なのか、ということをきちんと定義しないと、何も言ってないことと同じ、になってしまうのだ。残念ながら。さらに、ここでライトさんの言うように、真理が我々が思っている以上に複雑だとすると、一体どういうことに成るのか、ということは少し考えたほうがいいかもしれない。
あるテキストについて先験的に決めつけないことの重大さ
文字通りに読むべきテキスト、象徴的に読むべきテキスト、象徴的にも読めるし、文字通りにも読めるテキストなど、多くのタイプのテキストが世の中には存在する。更にいうと、聖書のテキストにかぎっていっても、聖書自体が重層性というか構造の複雑性を持っているので、実際には、そうかんたんではない。
そのあたりのことについて、ライトさんは次のように行っている。
二番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者の誰もが、ある特定の文章について、どの部分が「文字通りの意味」の具体的現実であるかを問う前に、どの部分が「文字通りの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味を持っているかを調べる自由がある、ということである。ということは、前もって「聖書のすべてを文字通りに捉えるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的に捉えるべきだ」とするような単純な決めつけはできない、ということである。(同書 p.276)
この問題は対象に関する言語表現の正確性、確度、ないしは尤度(もっともらしさ)という問題が関係する。数学や物理なら、表現形式が数式て定義されたり、定量化されるため、数式展開や定量化の方法さえ間違わなければ、その展開の結果の確度(妥当する確率)あるいは尤度はほぼ1である。要するに発生する事象(現実や実体)に関する確率空間とその値域を明確に定義できて、その正確さの程度を定量的に評価するということは可能である。その可能性が、数学や物理の世界は、他のものに比べてかなり高いとは言える。それでも、その領域空間や現実が起きる領域空間をどのように測定するのか、という問題がある。このような分野のことを、測度論という分野がある。このあたりのこと、つまり測度論を言い出すと、言語表現の世界では、これまた、すぐに怪しくなるのだが。
それが、社会現象や言語で表現されるものであれば、もう、この測度論の土台となる空間定義がかなり粗雑というのかめちゃくちゃになっていることが多いように思う。
この典型としては、創造論の立場の人で、旧約聖書の預言成就の確率とか言うわけわからんことを言い出す人がいるのだが、そもそも、生起事象空間の定義が、そもそも論として、まず、まともでないし、その聖書預言の重層性があることが無視されて、あとから、ポステリオリに、あるいは後見的に当たった当たってないと、かなり恣意的に判定している印象がある。そうなると、現実社会の中で、聖書預言や聖書表現の実現可能性について、本当に明確に定義できるのか、という聖書の事象に関する測度論上の問題が厳密には存在するのである。
そこまで考えるならば、預言成就の確率とか言い出した瞬間に、その段階でかなり眉唾ものになる。この辺の厳密な議論をやり始めると、ほとんど議論が紛糾するので、基本的には喋っている本人のかたが言っておらえるとおり、疑念も挟まず受け取られていることが一般には多いようである。
なぜ丸呑みが起きるのか、といえば、一般人にとってはどうでもいいめんどくさい議論が展開されることになり、このあたり厳密な議論を始めると、素人はあくびをはじめ、専門家は、議論を勝手に始め、収集が全くつかなくなるからである。しかし、その厳密な手続き論の議論を事前になさない議論は、厳密な意味では科学性がなく、科学ではないし、せいぜい似非科学、疑似科学である。そもそも、科学的と言っている段階で、科学ではありません、あるいは、科学風、科学の装いをしてみました、あるいは、なんちゃって科学でしかない、と自ら吐露しているようなものである。
少なくとも、こういう議論展開の土俵について、定義しないまま、ことばや概念について、定義しないまま、やたらと科学という言葉を使うのは、かなりまずいのである。
その意味で、比喩的にしても、字義通りにしても、比喩風、字義通り風、と言った程度のことであり、言葉自体、本来多義性を持っている以上、その意味で厳密な測度空間を定義した上での議論はできない、とは思う。とは言え、科学は言語的な表現されたことを扱うにあまりに無力である。美は数学的に定義できないだろう。統計的にはできるかもしれないが、統計学的処理には、対象の現象がどのような確率密度関数に従っているのかを含むかのような、確率密度論を含む、またまた、いやらしい世界が待ち構えている。
具体的にはどうする?
それで、具体的にどうすればいいのか、ということに関して、どう読むべきかの議論は、一旦置いておいて、聖書テキストが指し示そうとしていることが何であるのかを考えてみればいい、ということについて、ライトさんは、伝統的な聖書と向き合う方法である、自分自身の先験的な理解を一旦脇において、直接聖書に向き合う方法について、次のように書いている。
こうしたことからわかるように、「字義的解釈」と「比喩的解釈」という、二極化した言い方は混乱をもたらしてきたし、もたらしている。その混乱にとらわれていると思う人は、ゆっくりと深呼吸し、聖書の際立った比喩の部分を読み、著者がそこで言及しようとしている具体的なことを考えてみよう。そして、また比喩に戻ってみよう。(同書 p.278)
結局、人間は徹底して、論理的かつ理詰めで聖書の指し示す内容をカリカリにした表現もできないし、また理詰めでカリカリにしてしまって味わいを飛ばす意味は、実際上殆ど無いし、かと言って比喩的解釈したら、ぐずぐずになるかというと、これがそうでもないし、そのへんの中庸さ、みたいなものを大事にしよう、というのがまぁ、イギリス人らしいライトさんのお立場といえよう。ちょっとずるい感じはするけど。
ミーちゃんはーちゃんとしては、ミーちゃんはーちゃんが個人的にも、どちらか一つでない、という立場を取る以上、そこらをあまり厳密に議論してもしょうがないかなぁ、とは思っている。前回の記事にも少し書いたみたいに、どこまで言っても、人間がやることなんで、所詮いい加減さがつきまとうことになる。したがって、論理的に徹底することは天才でもできないと思っているからでもある。普通の人なら何置かいわんや、である。ミーちゃんはーちゃんを含めて。どっちみち、白黒は付かないし、人間は神ではないので、白黒つけられないし、神は神で、「お前さんたちがグレーでもなんでもいいからわしのところに戻れ」とおっしゃっておられるし、他人様のことに白黒つけることに心血を注ぎこむよりは、もうちょっとやりたいことがいっぱいあるのでやらしてもらいたいなぁ、と個人的には思っている。
教会への贈り物としての聖書と相補性
ここで、ライトさんは、次のテーマにつながるような大事な話、聖書と教会の話をしている。教会で聖書をどう読むか、という点を取り上げながら、次章、教会の概念についても頭出ししながら、聖書とは何であるか、どのようなもので本来あるべきか、ということについて以下のような文章で次章に繋いでいこう、としておられる。
聖書の解釈はそれ故、遠大な、素晴らしい務めである。だからこそ、私達の時間と能力の許す限り取り組む必要のあるものだ。個人として行うだけではなく、教会としても、注意深く、祈り深く行うべきである。教会では、異なったメンバーによる異なった能力と知識を用いて助けあうことができる。
ただし、次のルールをしっかりと心しておくべきだろう。すなわち、聖書は紛れもなく神から教会への贈り物であること、それは教会を整えてこの世界のために貢献するようにさせるためである。そのために聖書を真剣に学ぶことは、天と地が噛み合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの場とするための手立てなのであり、またそうすべきだということである。
聖書は、古代から人間が求め続けてきた義、霊的であること、関わり、美の追求に対する神からの答えを含んでいる。そういうことからも、たゆまず探求し続ける価値がある。(同書 p.279)
ここで、ライトさんは、「教会では、異なったメンバーによる異なった能力と知識を用いて助けあうことができる」と非常に大切なことを述べておられる。教会派、牧師が何でも全部やってしまっていい、というものではないのではないか、ということをおっしゃりたいようだ。ぼくしも信徒も聖書をそれぞれ読み合い、そして、それぞれの人生が聖書と聖霊によって読まれあい、そして、共に学び合う場所だ、相互補完性(相補性)が働く場所であるべきだ、ということをおっしゃっているようだ。その意味で、教会での聖書のよみは、牧師の独擅場ではなく、牧師も信徒の生き方から、信徒の聖書理解から学び、信徒も牧師の生き方や聖書理解から学ぶ事が大事なのだろうなぁ、と素朴に思う。
日本は、宣教地で長らくあったので、今でも宣教地であると思っている。その結果、どうしても教会のことはなんでも宣教師がやらざるを得なかった時代が長らく続いた。それは日本が長らく異教社会であったために、今でもキリスト教的社会でないために、生活に満ち満ちた聖書理解が反映されておらず、社会でのキリストについての象徴性がかけていたこともあり、信徒側での聖書理解や聖書へのアクセスの不十分さもあったからであろう。さらに、聖書自身がこれまでのキリスト教の教会の場合、普通の教会員にはなく、聖書理解を理解したり実行したりすること伴うある種の”おそれ”が伴ったというのもあるかもしれないと思う。
それはある面良いことももたらした側面もあるが、しかし、結局なんでも「俺等にはわかんないから、聖書に関すること(これが味噌)牧師先生お願い」という構造を固定化したのだと思う。そして、何でもかんでも聖書に関することにしてしまい、牧師になんでもかんでも丸投げすることで、信徒は神と向き合うことから逃げることができたし、牧師は、自分の存在を信徒が必要としているという美しい誤解を抱くことができたし、自己のレゾンデートル(存在意義)を、教会内でたからしめ、牧師の権威性を一層強化してきた部分がなかったとはいえないのではないだろうか。そのあげくの果てに起きたことは、信徒が神と人と出会う場所や時間(この本でのライトさんの表現で言うと、天と地が噛み合う場所や時間)から遠ざかる、あるいはそのような場所や時間を信徒が遠ざける要因にもなってきた、ということではないだろうか。これでは、法事に御坊様を呼んで読経してもらったり、お祓いのときに神社の神官にお願いするのと、あまり変わらない構造のように思う。
教会に多様性が存在する意味
教会における多様な人々の存在は、一人ひとりが別の人々に対する相対的な意味での預言者性を持ち、ある人が、あるパターンの生き方に凝り固まった状態や、あるパターンの聖書の理解から、開放することを可能にするのではないかと思うのだなぁ、これが。
「聖書は、人類に対する最大の贈り物である」という表現がキリスト教界隈で、時々、なされることがある。それがもたらすイメージは、日本では、聖書は、「私達一人ひとりに対する神からの最大の贈り物である」と理解されることが多いように思う。その結果、個人個人が自分自身にとって都合が良い様に、聖書テキストを切り刻み、その切り刻まれた聖書テキストを勝手に解釈していいものという印象を与えてしまう。個人が保有する聖書を読む場面で、人類全体という共同体性が消え、マイ聖書理解、個別化された聖書理解が重視されることになる。しかし、本当にそれでいいのだろうか。多分違うように思う。人類全体という巨大な共同体に聖書は与えられたものなのだと思う。
西洋近代は、個人をバラバラにしてしまった。その結果のできごとなのだと思う。しかしながら、教会はそのばらばらにされた人々が集まり、共に神を覚える中で、異なる神の見え方を相互に話し合い、そして、より実際の神の姿とその実情に、わずかでも近い神の理解に全員で到達するところなのだと思う。ただ到達したとしても、同じ理解が完全にマクドナルドのハンバーガーよろしく、共有されているわけではない。
そして、説教は聖書と神についての理解を深めていくためのものであった、はずだと思う。それを信徒が聞いてくれないから、と信徒に親しみやすいものにしようとしたあまり、キリストから最後の衣までをも、引き剥がしたローマ兵のように、キリストから神秘を引き剥がし、神から神秘を引き剥がし、教会から神秘を引き剥がし、本来語るべきことをも説教から引き剥がしてきてしまったような気がする。そして、説教という名の賛美歌付きキリスト漫談大会をするのが習いになった教会もあるように思う。
落語という話芸はもともと、仏教僧の法話がその出発点にある。庶民が仏教僧の法話をなかなか聞かないために、庶民が聞きたがらない法話を、面白おかしく語っているうちにその面白おかしい部分だけが切り分けられ、落語として成立していったのである。落語には、それはそれで価値があるのであるが、あと数百年後、キリスト漫談を続けている教会からは、どんな芸能がこれから生み出されるのだろうか。少し楽しみである。ただ、それは落語がもはや法話としての側面を失ったように、キリスト漫談から派生していった芸能は、もはや説教としての側面を失っているとは思うが。
昨日はイースターであったが、キリストの復活とは、天と地が一つになった場面のうちの最大のものである。だからこそ、エルサレムの神殿の”会見”の天幕が真っ二つに避けたのである。単なる奇跡ではないのである。この会見の天幕が避けたことは、天と地、神と人が一つに繋がった瞬間の象徴であったのではないか、と思うのだなぁ。これが。まじで。
とすれば、その場所と時間と空間は、神と地が一つにつながる、聖書、教会、そして、聖餐式は、天と地が、あるいは、神の世界と人間の世界がこの地で一つにつながることを覚える手がかりとなったということであるといえるんじゃないかなぁ、と思う。それこそ、イエスがサマリアの女に預言したように、礼拝するのはあなた方の父祖が礼拝した場所でも、エルサレムの神殿でもなく、普遍的にどこでも、神を礼拝する、あるいは神を礼拝しながら生きる世界がこの地上に来た、ということが実現したことを印象的に勝つ象徴的に示したのだと思う。もう少し言うと、天と地が噛み合う場所が普遍的に現在も、人びとがアクセス可能な形で、この世界に存在するようになったということではないかなぁ、と思う。
きゃりーぱみゅぱみゅさん で、良すた キャリーさんのこの曲が流れているから、いま毎日がイースターではないw
ライトさんの文章(太字部分)を使いながら、考えてみたい。
聖書が天と地、神の世界と人間の世界が一つになる手がかりであるからこそ、聖書を真剣に学ぶことは、極めて大事なことであり、そこで、聖書を介して神と出会う場所に存在することは、天と地が噛み合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの場にいることなのであり、その意味で、聖書は、天と地が一つになったことを記憶するための手立ての一つとして聖書があるということなのであり、またそう思いながら聖書を共に呼んでいくことをなすべきだということである、ということになるのであろう。
そして、神がおられる場所は、「古代から人間が求め続けてきた義、霊的であること、関わり、美」が実現しているのであるから、これらについて、聖書には、神からの答えを含んでいるはずであり、我々は、そのすべて人間が良いと思うものの出発点である神がおられるところ、すなわち神と共に生きる生活を送る価値がないにもかかわらず、神が招いておられるゆえに、神のお言葉があるが故に、神がおられるところの前を、よろめきつつ、あるときは這いずり回りつつ、またあるときは転げまわりつつ、またあるときは顔を伏せながらも歩くように、その祝宴の場である聖餐に、参加、関与するのではないだろうか。だからこそ、聖餐式は何よりも重要だし、聖餐式は、老いも若きも、王も乞食も、その世界に共に預かるように神はお招きなのだと思う。
これで聖書に関する部分についてのご紹介は終わりである。次は教会という概念について読みながら思ったことを述べていきたい。
次回へと続く。
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評価:
N.T. ライト 新教出版社 ¥ 15,170 (2015-12-10) コメント:高いけど、いいですよ。読みやすいとは言いませんけど。 |
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