2017.04.08 Saturday

N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(1)

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    ここのところずぅーと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』をタラタラ紹介中なのですが、それはさておき、N.T.ライトさんの新しい本『シンプリー・ジーザス』のスニーク・プレビューとそれを読みながら思ったことを2回連載でさらっと、ご紹介してみたい。それでも長いという説は素朴に認めよう。

     

    この本は、ある人にとっては、非常に読みにくい本だと思う。そう思う原因は、この本で示されるイエス像は、ある人が従来持ってきた、あるいは従来それがキリストである、とされ教えられてきたイエス様についての理解というか、イエス様のイメージというかとはかなり違うものを見せかねないからである。

    N.T.ライトさんのこの本の表現にぎょっとしてしまって、「なんじゃこりゃ〜〜〜」「この本の言っているイエス様は私の知っているイエス様と違う〜〜〜〜」状態になってしまう方が多いのではないか、と思う。

     

    この本は、イエスがどのようなお方であるのかに関する個人的な、あるいはある教会的な思い込みが含まれた、イエスへの理解あるいは、イエス像を見直したほうがいいのではないか、世の中で広く知られている、あるいは、ある教派群の中で理解され、示されてきたイエス理解、ある教会の中で共有されている、あるいはされてきたイエスが正しいのか、ということをかなり厳しく問う本なのである。

     


    歴史的に人間により変形されたつづけたイエス理解

    みなさんにとって、イエス様はどんな人であろうか。これまで様々なイエスの理解が描かれてきた。金髪碧眼のスカンジナビア人みたいなイエスもあれば、ほぼアフリカ人でないかと思われるイエスもあれば、柔和なイエスもあれば、怒りに燃えるイエスもある。我々は、ある個人を人格的に知っている、というかも知れないが、それは本当に事実であるだろうか。ある人のことを多面的にとらえようとしても、とらえきれない場合が多いのではないだろうか。

     

    http://www.racismreview.com/blog/2015/04/06/on-the-white-jesus/ から

     

    神殿で怒り狂うイエス http://www.pravmir.com/coptic-icons/ から

     

    コプト正教のサマリア人の女とイエスのイコン
    https://www.quora.com/Why-are-so-many-images-of-Jesus-a-white-man-instead-of-the-Arab-Jew-that-he-was から

     

    https://jp.pinterest.com/1956jo/easter/ から エチオピア正教のイコン

     

     

    ミーちゃんはーちゃんは、もともとがいろんなことをやってしまう変な人なので、あなたは何をしている人か、と聞かれることがある。もちろん、生業は、空間情報科学の研究の実施と、講義であるが、経済学の授業など、関連分野の講義も担当しているし、必要とあれば、プログラムも書くし、学生の就職の相談に乗るは、キリスト新聞に情報提供しているは、長靴を履いて、タオルを首に巻いて、麦わら帽子をかぶって、農業者の活動研究をしていることもあるし、そうかと思えば、フォトショップで薄毛を気にしている人の髪の毛を画像上で、増毛したり、ウェブサイト作成したり、N.T.ライト関係のイベントのポスター作りしてたりしている。そして、長いので、短くしてほしいと言われているブログ記事を量産している。自分でも、何をやっている人といったらよいのか、自分でも最近わからなくなっていることが多い。長い記事を短くするのは、実はかなり面倒なのだ。

     

    現代に生きている普通の人でありながらも、それも、自分自身のことでも、こんなにわけがわからないのに、それこそ、ある程度福音書やヨセフスの歴史書に、記録がある程度残っているとは言え、圧倒的に情報量は少ないし、こういう人物に対して、どのような理解をするのか、というのは案外難しい。その分、後世の人が勝手に色々推測し、自分の思い込みをたっぷり入れた人物像を作ることができる、という意味では、非常に格好の人物であるのだ。

     

    イエス理解は、日本で言えば、多分、大伴家持とか、蘇我馬子の理解くらいの感じではないかと思う。神話の登場人物ではなく、実在がある程度確認されていて、おぼろげながら、人物像がつかめる程度の人物ではないか、と思う。そして、このような日本の歴史上の実在の人物に自分の思いを仮託し、様々な自分の思いを投影する人びとがおられる。そういう思い込みで書かれた人物像は、歴史関係の一般雑誌や書店で売っている一般向け歴史小説と行った書籍に様々な事例がみられる。

     

    これまで、イエスについても似たようなことがされてきたことに関して、ライトさんは次のように書く。

     

    さらに悪い事に、イエスその人が(引用者補足: 歴史的探求の結果として示されたイエス像に)不満を感じるだろう、ありとあらゆる理由がある。多くのクリスチャンは、イエスについての「歴史的探究」をだれかが行ってると聞けば、その探求の結果、彼らの願いよりもずっとちっぽけな大して重要でないイエス像が浮かび上がるのではないかと、不安を感じてしまう。実際、多くの本がそんなイエス像を提供している。小ぢんまりしたイエス、偉大な道徳的、宗教的指導者としてのイエス、偉大だけれども、それ以上でもない人物。クリスチャンたちは、いやでもこうした還元主義的なイエスに遭遇することになる。(『シンプリー・クリスチャン』 p.24)

     

    確かに、色んな人が勝手な思い込みで、個人個人の歴史的探求とよばれるものの結果として、イエスについて語ったり、イエスが言ってないことまでも、イエスに仮託して語ろうとしてきた人びとも、おられたようには思う。学問でやる場合には、行き過ぎを防ぐため、より小さめ、うちわに語るのが習慣になっているので、どうしても、「ちっぽけな大して重要でないイエス像」と見える表現しかできないことがある。そのうえで、イエスについて語ろうとする人の観点から関心があるため、より重要だと思える部分をどうしても強調して語ろうとするために、「偉大な道徳的、宗教的指導者としてのイエス、偉大だけれども、それ以上でもない人物」のどれかの部分を強調してイエスを表現して述べることになる。そうなると、どうも、聖書を読みながら思いを巡らしている時に、信仰者が持つイメージ、あるいは信仰者が大事にしてきたイエスの理解(いわゆる 『信仰のイエス』)とは大分違う印象になってしまうように思う。

     

    ところで、ここで、『還元主義』と呼ばれているものは、ある研究対象を、部分部分に細かく分けて、分析的にとらえ、その分析してわかったものを組み合わせれば、もともとの状態が再現でき、さらに、研究対象がすべて理解できるとしがちな考え方である。実は、近代の科学(西洋近代を支えた科学思想や思想体系)は、この還元主義的な、ギリシア自然科学哲学由来の分析的アプローチをしてきた。なぜかというと、いきなり全体を扱うのが困難だからである。このため、わかりやすいところについて、ものの最小単位はどうなっているかまで探り、その上で徹底的に分析して、それを総合(Synthesis)すれば、もともとが再現できるという考え方なのである。

     

    ところが、世の中そうは簡単に問屋が卸さない、となっている。機械などはバラバラにしてしまってもある手順をきちんと踏めば、もとに戻るが、人間とか、社会とか、システムとかは、ばらしてしまって、その部分だけで自律的に動いているかといえば、動かないのだ。一番典型的なのは、非常に低位の生物的反応レベルでおきていることであり、事故などで人間の手足が不幸にして切断された場合であっても、切り離したはずの足の部分が痒かったり、痛みを感じたりするのである。

     

    20世紀中葉までは、この還元主義的な手法が非常にもてはやされたし、それでシステムを考えるシステム理論が流行したが、その後、それではどうしても説明できないことがある、ということで、1960年以降、システムを考える際に着目されたのが、Wholism(あるいはHolism)と呼ばれる概念である。このWholismは、全体主義と言う訳語を当てると妙な誤解を招くので、ホーリズムと訳さずにカタカナ語として用いられる事が多い。総合理解主義とでも言えるとは思うのだが。ミーちゃんはーちゃんはどちらかと言うと、昔は、かなり還元主義的な研究をガリガリとしてきたのだが、その後、流れ流れて、現在は、このホーリスティックな理解に近い立場を取っている。

     

    イエスの弟子たちが伝えようとしたことは何だったか

    さて、来週はイエスが十字架上で殺され、そして、正教会系の教会でも、カトリック教会でも、プロテスタント諸派の教会でも、イエスが復活したことを覚えるイースターあるいは、復活の主日である。なお、教会においては、イースターであっても、それを無視するかのような教会もある。個人的には、ハリストス正教会で覚えた、「ハリストス、死より復活し、死をもて死を打ち破り、墓にあるものにいのちを与え」という歌詞を繰り返し歌うパスハの賛詞という、祈りというか賛美歌は、実にこの内容をコンパクトに表している。

     

    ヴォカロによるパスハの賛詞

     

    その弟子たちが伝えようとしたキリストについての理解の総体が、非常に大きかったことについて、ライトさんは次のように書いている。

    しかし、彼の死から間もなく、彼の同志たちは、今やイエスこそ本物の支配者であると主張し始めた。そして彼らはそれが本当であるかのように行動し始めた。この運動は、西洋世界がここ200年の間考えてきたような意味での「宗教」ではなかった。それは、人生、芸術、宇宙、正義、死、お金のすべてにかかわるものであった。さらに、政治、哲学文化に関するものである。それは現代における普通の宗教的な意味での「神」より、はるかに大きな「神」に関することである。この二つの「神」はあまりにも違いすぎて、とても同じ土俵で考えることなどできない。(同書 p.34)

     

    ここで、重要なのは、「イエスこそ本物の支配者であると主張し始めた」という部分であり、イエスが王である、あるいは、王としてのイエス、という部分である。文化も、哲学も、芸術も、科学も、美しさも、ことばも支配していることばそのものである方という理解である。それが、ヨハネ福音書の1章には非常に強く現れているように思う。

     

    実際、イエスご自身の言葉で言えば、「神の国はあなた方のただ中にある」という部分だと思う。「神の国は、あなた方の中にあった」でもなく、「神の国はあなた方の中に来る」でも、「神の国はあなた方が将来行くところだ」でもなかったし、誰もがそれを受けとろうとして殺到しているとまで言われているのだ。

     

    ところで、ライトさんは、あっさりと「(弟子たちの)この運動は、西洋世界がここ200年の間考えてきたような意味での「宗教」ではなかった」と言っているが、弟子たちが伝えたいと思っていた「キリスト教」と現代のこの200年間のキリスト教徒はかなり異質なものとなっていることを言っている。まぁ、スコット・マクナイトの「福音の再発見」は明らかにそのことを言っているのだが。

     

    さらに、「それは現代における普通の宗教的な意味での「神」より、はるかに大きな「神」に関することである。この二つの「神」はあまりにも違いすぎて、とても同じ土俵で考えることなどできない」という表現は、大事である。ここで、大事なのは、現在の神理解が、古代、中世、近世、近代、現代と経る中で、こねくり回されて、もう、古代人、あるいはイエス時代のユダヤ人が持っていた「神」理解と、現代の「神」理解とでは根本的に違っている可能性があるのである。

     

    これは、後ろからしか物を見れない人間固有の避けがたい現状である。ドラえもんのタイムマシンと翻訳こんにゃくと、どこでもドアでもない限り、理解できないのだ。まず、その時代の状況のある程度漠然とした認識となるのは仕方ないにせよ、状況についての確度ある認識ができない。その上、原語の違いと現代語と古代語の違いがあるし、その語の持つ意味合いというか、雰囲気というかは大分違うのだ。「現代人ならば全部わかる(はず)」というのは、現代人の思い上がりに近いと思う。なぜならば、ミーちゃんはーちゃんのおうちにも高校時代苦しめられた古文のときに使った古語辞典なる辞書があるが、その辞書なしに日本の古典文献を読むことなどは、ミーちゃんはーちゃんには、ほぼ不可能なのであるし、仮に古文書があったとしても古文書の文字が達筆すぎて、中身として何が書いてあるのかすら、想像が困難なことが多い。

     

    同様にして、同じ「神」(エル、とか、アルとか、アルラー)という語を使っていたとしても、そこに込められた意味、その神に対して信仰を持つものが、この地に関与する我らの現実に影響を与える存在として自分自身の生活に関与しているような意味合いを持っていることなどは、説明はできるけど、当時の「神」に関する感覚というか、感性というのはわかりにくいように思うのである。この辺、文化人類学的探求で当時の人達は「神」をいかなるものと考えていたのか、ということを想像するのはいいし、楽しいことではあるのだけど、それは想像に過ぎず、事実として認定できないことは、もう少し考えても良いのではないだろうか。

     

    フランシス・コッポラの娘のソフィア・コッポラの映画作品に、Lost in Translationという映画があるし、これまでさんざん子のブログでも触れてきたところであるが、まさしく、この映画の主要なテーマと同じ、お互いにわかったような気になっているが、実はきちんと理解していない、という悲惨な現実が起きているように思う。つまり、イエスについても、わかったような気になっているけれども、イエスと言う人の実相を本当に現代人がわかっているのか、とライトさんは、我々に問いかけているのだ。

     


    映画 Lost in Trasnlationの日本語予告編

     

     

    歴史としてのイエスをめぐる暴風雨

    ここで、ライトさんは、一時期かなり話題になった(2001年頃)映画『パーフェクト・ストーム』をモチーフに、イエスを巡る議論を語る。このパーフェクトストームは気象学的現象として、大型タンカーですら真っ二つにするような三角波(フリーク波 より詳細はこちら)と呼ばれる波が1980年代にメイン州沖で発生した結果、その中で操業していた漁船の海難事故に関する映画(実話とは違うらしいが、実話をもとに構想されていることは確か)である。

     

     

    映画 パーフェクトストーム 英語版予告編

     

    The Simpsons版のパーフェクト・ストーム パロディ篇

     

    パーフェクトストームのときの気象予報のニュース動画

     

    パーフェクト・ストーム時の風力分布図と似た状態の気象図 メイン沖で赤い部分の強風域があることがわかる

    http://arkansasweather.blogspot.jp/2012/10/sandy-and-arkansas.html から

     

    ところで、なぜ、このパーフェクト・ストームをライトさんがモティーフとして使ったのか、を考えてみると面白い。映画『パーフェクト・ストーム』では、Based on the real storyと冒頭で出てくるが、このBased on the realが曲者で、基づいているが、ドキュメンタリーではなく、事実そのものを描いているわけではない。このBased on the realというと、「ほぼ事実そのもの」という場合から、「事実にちょっと脚色したもの」という場合から、「事実はほとんど含まれておらず、かなりの脚色が大半を占める(多分、『ダビンチ・コード』はこのタイプ)」まで含まれている。その意味で、歴史上イエスがいたかどうかの問題は、仮に「イエスが存在したという事実」を出発点にすると、それぞれの聖書読者や、それぞれの人のお考えで、「奇跡はなかった」「イエスの復活や死者の復活はなかった」「イエスはこうは言わなかった」とか、「イエスはこういったに違いない」とか、「イエスの発言の趣旨はこうだ」…とある話ない話が付け加えられたり、ある部分が取り去られたりして、語られてきた、という意味では、数多くのStories based on the real storyが教会でも語られてきたと言えるかもしれない。なお、みーちゃんはーちゃんにとっての個人的な確信としては、イエスは実在した、であり、そう信じている。それは、ライトさんとも同様だと思うけど。

     

    現代のイエスにまつわる論争は、正にこの映画『パーフェクト・ストーム』のような、フリーク波が逆巻く海洋のような状態で、その中でかろうじて浮かんでいるのがやっとというのが、この分野に関わる現在のキリスト者の存在の表現に近いのかもしれない。その意味で、準備もろくにせずにこのパーフェクト・ストームに突っ込もうものなら沈船覚悟なのだと思う。そのあたりのことを、ライトさんは映画『パーフェクト・ストーム』の構造を背景にしつつ、次のように書く。

     

    イエスについての歴史を書く際に受ける熱帯性台風という名の挑戦は、たとえ文化的圧迫という名の西風(近代懐疑主義)と北から張り出す高気圧(自称「キリスト教」保守主義者)がなかったとしても十分危険なものだ。キリスト教左派と右派からの怒りの声が、この重要問題となる歴史の難しさと掛け合わされると、脅威はさらに増大する。(同書 p.51)

    現代のキリスト教徒にとっては、イエスに出会い、素朴に信仰を持つ、という意味では、ただ波間に浮かんで、「なんか揺れてるよぉ~~~」っていればいいし、それしか対応のしようがないが、まかり間違ってこのイエスについての議論の世界に顔を出そうものなら、近代懐疑主義という波に流されそうになるし、「自称「キリスト教」保守主義者」のみなさんが、「信仰がないとはどうしたことか」「あなたの議論は、聖書の権威性を疑うものだ」「あなたの聖書理解は正しくない」「こんな話は聞いたことがないので、信頼できない」とあっちこっちから炎上騒ぎを起こしてくれる。ろくでもない目に合うのだ。経験者として断言しておこう。
    まぁ、そのめんどくさい状況からの救命ボートの役割を果たしたのが、このN.T.ライトさんの一連の書籍だったし、今行っている元町のSt.Andrews Chapelであった。これらは、少なくとも、北風の防御対策にはなった。

     

    この本の隠しテーマとしての出エジプト

    本書には、出エジプト記のメタファー、エジプトからのイスラエルの民の救出のメタファーがたくさん出てくる。日本では先に訳された『クリスチャンであるとは』の中にも、この救出のメタファーが出てくるが、この本のほうがよりそのメタファーが強く出ているように思うのだなぁ。その一部を紹介してみたい。

     

    このストーリーが急展開を見せるのは、ユダヤの歴史を通過していた高気圧が、一世紀に達する頃、すでに台風のような状態になってしまったことに原因がある。多くのユダヤ人たちがバビロンから連れ戻され、紀元前六世紀の終わりごろには神殿さえ再建していたが、待ち焦がれていたほんものの「新しい出エジプト」(ニュー・エクソダス)はいまだ実現していないという強い思いを抱いていた。(同書 p.73)

     

    旧約聖書には、出エジプト記があり、そして、カナンの地では、強大な異邦人の波間に浮かぶようにイスラエルの民が生存していた時代があり、そこから救出するため(裁くため)、裁きつかさ(預言者)と呼ばれる士師が登場し、イスラエルを導き、ダビデとソロモンで王権が絶頂期に達し、イスラエルの民が守られ、イスラエルの民がバビロンに捕囚され、そこから、また帰還し、ペルシャ王クロスの後援のもと、神殿再建工事に着手はしたものの、その後相当の長期間をかけ再建をし、そして、ヘロデ大王の時に、その第2神殿の拡張工事をしているのである。

     

    【口語訳聖書 歴代下】 

     36:22 ペルシャ王クロスの元年に当り、主はエレミヤの口によって伝えた主の言葉を成就するため、ペルシャ王クロスの霊を感動されたので、王はあまねく国中にふれ示し、またそれを書き示して言った、
     36:23 「ペルシャの王クロスはこう言う、『天の神、主は地上の国々をことごとくわたしに賜わって、主の宮をユダにあるエルサレムに建てることをわたしに命じられた。あなたがたのうち、その民である者は皆、その神、主の助けを得て上って行きなさい』」。

     

    第2神殿の模型 https://en.wikipedia.org/wiki/Second_Temple

     

    しかし、そうこうしているうちに、ローマ帝国が高気圧が張り出すように、東地中海のオリエント王国の中にその勢力圏をぐんぐんと張り出していき、そして、ユダヤを実効支配下に置く。そして、僭主(正統な王権の継承者性に疑問のつく家系出身者)でもあったヘロデ王家には、実際の行政的支配をさせ、徴税権(要するに用心棒代)と治安統治権はローマ帝国が握り、宗教と裁判と法(イスラエルでは近代国家イスラエルであっても、トーラー(律法)を基礎として、世俗法が造られているらしい)は祭司長や律法学者が握り、行政権はヘロデ家が握るという、多重的な権力構造があったようなのである。とは言え、行政権はおそらく、宗教指導者のもとに置かれていたであろう。まぁ、ヘロデ家の皆さんは、土木工事マニアだった田中角栄さんみたいに、エルサレムの神殿拡張による公共工事を結局実施せざるを得なかった(なぜなら、王はダビデの系統でなければならず、神殿の再建は、ダビデの末裔であることを、誰にもわかるかたちで示す行為であった)ので、ヘロデ大王は、これはひょっとしたらあの約束された「メシアかも?」と想定した人たちもいたようである。このあたりのことは、かなり詳しく「シンプリー・クリスチャン」でライトさんは、当時のユダヤ人から「メシアかな?」と思われた人びとだったのに、残念なメシア疑惑で終わってしまった人たちのことを解説している。この辺は面白かった。

     

    目白御殿(今は昔)にお住まいであった故田中角栄さん(新潟の期待の星だった)

    https://matome.naver.jp/odai/2138750574517275601 より

     

     

    すべてを服従させる王としてのイエス

    良寛のような人物像、すなわち子どものお好きなイエス様、とか柔和なイエス像は、多くの人にとって都合が良い。怒り狂うイエスとか、悪をぶちかまし、悪に対する殺戮マシーンのようなイエス様像は、困っている人びとに救済を与えるようなイメージのあるイエスが大好きな現代日本人には、このようなあまり好まれないようである。しかし、イエスは悪と死に勝利した、ということは悪と死を絶滅させ、根絶し、聖絶し、悪の息の根を泊めたのがキリストであり、ナザレのイエスの復活であり、先にも紹介したパスハの賛詞の「ハリストス死より復活し、死をもて死を打ち破り、墓にあるものにいのちを与え」ということは、そういうことであったのである。だって、パウロだってそう書いている。

     

    【口語訳聖書 コリント第1】
    15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
     15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。

     

    これを歌詞にしているのは、ヘンデルのメサイアの一部分である。まさに上の部分の欽定訳を音楽にしたのが、以下の動画である。

     

    ヘンデルのメサイアから 「死よ、お前の棘はどこにあるのか」 O death, where is thy sting

     

    この曲などは、まさに人類最大の敵である、死に対する勝利者イエス、さらには、すべてのものを支配する王であるイエスという側面がよく出ている。このあたりのことについてライトさんは次のように書いている。

     

    このような(引用者註 イエスはとこしえに王として支配する)主張は、私達の感覚でも古代人の感覚でも、単なる「宗教的」なものでは収まりきらない。それは権力や政治、文化や家族など、あらゆるものを包含している。それは、個人な霊性や変容と言った『宗教的な』意味も、倫理や世界観と言った哲学的な意味を含んでいる。しかもこれらすべてを、より大きな一つのヴィジョンの中で言い表すことができる。すなわち、神が今こそ支配される、そして神はイエスにおいて、またイエスを通じて支配される、ということである。(同書 p.107)

     

    たしかに、イエスの存在は、単なる個人の霊性を進化させた人そのもの、という訳だもないし、個人の霊的変容(トランスフォーメーション)でもなく、単なる宗教的存在でもなく、実に幅広い世界の隅々、人間のあるところすべてに影響していることをライトさんはここで書いている。そもそも、神である以上、単なる宗教的存在に留まらないはずだから、非常に幅広い対象に影響を与えている、というのである。

     

    そもそも、神という人間にとって、本来理解不能な存在を、そして神の支配という実体を、適切に語る人間の言葉があるのだろうか。それは、おそらく人間のことばに限界があり、そのため、どのように努力しても、適切に語り尽くしえないのではないかと思う。イエスの言ひ給うた、宣べ伝え給うた「神の国が来た」「神の国が近づいた」「神の国が我らに隣接するようにして存在している」というイエスの主張と、そのことから派生して生まれるイエスの言葉についての手触りというか肌触りのようなものを、現代語がどの程度表現できているか、どの程度その表現から、現代日本人が、あるいは、現代の西欧諸言語を喋る西欧人が、あるいはアメリカ人がその肌触りを感じられているのか、ということは、かなり疑問ではなかろうか、と思うし、もう少し考えられてもいいかもしれない。

     


    福音主義神学会 西部 2017年春季大会参加者にはおすすめ
    先に紹介した、王として支配するという表現、あるいは、次回ご紹介する本書での勝利者としての王というイメージは、非常に重要であると思う。

     

    というのは、4月24日に塩屋の神学校で開催される予定である、日本福音主義神学会 西部部会でのキーノート論文である山口さんのご講演内容と実に本書の九章以降の内容が、実に密接に結びついているからである。同部会にご参加をご予定の方々には、事前に本書を読んでおかれると、山口さんのご講演自体というか、そのご講演の内容に対する多数の補助線が得られるものと思う。

     

    その意味で、本書をざっとでも目を通されて置かれると良いのではないだろうか、と愚考する。もちろん、本書を読んでいなくても、山口さんの論文は、非常に丁寧に書かれており、また、示唆に非常に富んだ論文であるので、充分その論文の内容をご堪能いただけるものであるとは思っているが。

     

    その詳細は、来週月曜日にご紹介予定の部分によく現れているので、月曜日の公開までお待ちいただければ、と思う。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    スコット・マクナイト
    キリスト新聞社
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    (2013-06-25)
    コメント:おすすめしてます。本ブログから書籍になった本。

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