N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その44
今日も今日とて、いつものように。N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら、たらたらと考えたことを書いてみたい。前回で”祈り”についての章のご紹介と底で思ったことが終わり、今回からは、第13章 神の霊感による書、と題された章を読みながら、聖書についての章について、書いていきたい。
聖書はどんな書であるか
聖書については、いろいろ言われる。世界最大のベストセラーだとか、聖書にすべて解決があるとか、聖書は理解不能だとか、聖書を読みこなすのが困難だとか。聖書は矛盾に満ちた書物だとか、いやいや、聖書には矛盾がない書物とか、色々言われることがある。とはいえ、教科書や参考書みたいに、わかりやすく書いてくれてはいない本ではあるので、一筋縄で扱いにくい書物であることも確かである。
その聖書について、ライトさんは次のように書いている。
聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。今私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変えうる偉大な力を持つ書物を手にしているのだと。実際、今もそれは変わらない。
(中略)
聖書は、クリスチャンの信仰と生活にとって決定的で不可欠な要素である。聖書なしには何もできない。ただし、あまりに多くのクリスチャンが、聖書にどのように取り組んだらよいかを忘れてしまっているのだ。(『クリスチャンであるとは』pp.245−246)
聖書には、人に影響を与え、人の人生に影響を与え社会を変え、この社会と世界で生きている人が変わることで世界に影響を与える力が書物であることは確かであると思う。
とは言え、聖書は魔法の杖でもなければ、聖書はストレプトマイシンのような特効薬のようなものではない。聖書は、じわじわと効いていく漢方薬のようなものである。
(硫酸)ストレプトマイシン https://www.qlife.jp/meds/rx40570.html から
現代の社会と世界のなかで、人間と人間の関係は分断されており、普通の人の影響はほとんどないように思える。政治家や有名人の方が、社会に対する影響力があると思えるほどであるし、マス・メディアも面倒なので、こういう一部の目立つ人の動きを伝えるのが、マス・メディアの役目だと思っているのではないか、と思うほどである。それに踊らされている一般の人々も、さらに、テレビ、ラジオ、新聞といったマス・メディアで見たことを再言及することで、あたかもその世界にかかわっているかのような誤解をしているのが現代社会だと思う。
それは、資本主義社会の中では、メディアであっても、組織が発行主体になる以上、お金をもらって経営できてナンボということになる。ミーちゃんはーちゃんは、そういうマス・メディアに乗らないもので、本を書いて印刷するほどでもないものを、このブログで壁新聞的にお出ししているだけであり、趣味として、このブログを書いているに過ぎない。そのような意味で、このブログには世界を変える力なぞ、なにもない。
しかし、ミーちゃんはーちゃんは、聖書は神のことばであり、聖書には世界を変える力があると思っている。アパルトヘイトがやんだのも、聖書があったからである。聖書の誤読からとはいえ、KKKが過激な行動したのも、ナチスドイツが生まれたのも、聖書の誤読からとはいえ、聖書がその出発点では影響を与えている、という部分があるようにも思う。
KKKの皆さん http://www.afpbb.com/articles/-/2538525 から
聖書のないキリスト者なんて
聖書は、キリスト者生活において必要不可欠なものである。それは聖書を読んでいるかどうか、ということではない。以前にもこのブログで紹介したが、お金持ちの一般人に聖書が物理的に読めるようになったのが、せいぜい印刷技術が始まって以降、この500年であり、普通の人が聖書の意味を解しているかどうかは別として、音読できる技術を持ったのが、この150年程度である。この世界の90%の人が、聖書を開いて読めるようになるために学校教育が必要だった。
とはいえ、西洋の多くの人々が読めないにせよ、聖書に触れる機会はあった。それは、毎日行われていた教会の行事であり、教会堂そのものが聖書と聖書が指し示そうとする対象を示していたのである。現在は、聖書を万人が一応技術的にはその文字を追う形で、読めることになってしまったために、聖書は読まねばならないものになってしまった。それがよかったのか、悪かったのかは、何とも言えないように思う。
聖書が読めるようになったから、よかったではないか、というのはもちろん物事のある面を示しているとはおもうが、むちゃくちゃな聖書解釈で、トラの威を借りるキツネではないが、聖書の権威を借りる悪人よろしく、人を不幸に巻き込む人々を増やしたという意味では、どっちがよかったのかわからない。まぁ、こういう人は聖書を読まなくても、別の権威を借りてきて、ろくでもないことをしていたに違いないから、あんまり変わらないのかもしれない。
虎の威を借る狐のイラスト
聖書との取り組み方を忘れた現代キリスト者
ここで、ライトさんは、あまりに多くのクリスチャンが、聖書にどのように取り組んだらよいかを忘れてしまっている、と書いておられるが、聖書にどのように取り組むべきなのだろうか。それは、聖書全体に対して自分との関わりがあるものとして真剣に取り組む、ということなのだろう。
聖書のテキストから、カットアンドペーストするように、聖書の一部の切り取りをして、自分の都合の良いように我田引水的に聖書引用をする方のお姿を時にお見受けする。なに、これは、今に始まったことではない。かなり昔からあるのだ。ひどいのは、旧約聖書に触れる機会が全くないという場合も少なくないだろう。パウロが書いたものしか言及されない教会もあるやに聞く。イエス抜きのキリスト教もないわけではないだろう。旧約聖書抜きのキリスト教も十分にありうる。旧約聖書は、日曜学校の教材用として扱って(子供の好きな動物が出て来ることもあるだろうが)、それを大人向けに正面切って語る教会も少なくはないだろう。そして、旧約聖書をあれはユダヤ教のものだから、と軽く見ている部分が我々の中に何処かないだろうか。
また、聖書が読めるから、と言って、1年に何回読んだか、回数を競うような読み方をする人々もいるようである。ただただ、単に数多く読めばいい、というものでもないだろうし、そのように回数を多く読むのが良い、となってくると、速読法よろしく、目を落とし、ページをめくるだけになってしまい、ページを捲っただけで読んだ気になっているだけの、読み方をしている人が、ひょっとしているかもしれない。
聖典として旧約聖書を名目的には否定はしていないものの、実質的に否定しているキリスト者は案外多いのではないだろうか。実に残念なことである。
聖書を巡る論争
聖書そのものについての論争も多いが、聖書をどう読むかについていの論争は多い。典型的には、聖書は文字通り読むべきか、必ずしも文字通り読まなくても構わないか、とか、イエスの復活があったかなかったか論争や奇跡の有無論争や、聖書の各所の著者論争や、成立時期論争、異言の有無論争など、聖書を巡る諸々の論争がある。最近も、聖書信仰を巡って、いくつかの出版物についての反論本のようなもの(それはライトさんとも少し関係する)もでた。
そこらあたりについて、ライトさんはあっさりと次のように書く。
聖書を巡って非常に多くの論争があるのは、このためである。実際、聖書の記述についてと同じぐらい、今日、聖書についての論争がある。それらのあるものは、同じ理由から来ている。兄弟争いである。(同書 p.246)
この後、アベルとカインとかの話も紹介しながら、聖書を巡って、争うということは、カインとアベルの話と似たようなものではないか、とライトさんは書くのである。まぁ、似た者同士の近親憎悪と言われたら、それに近いというところはあると思う。
そもそも、プロテスタント世界の内部は、似たような教会がいっぱいあって、それぞれ独自性を出しているので、他所と自分がどう違うか、ということを言い募る傾向があるようであり、それが炎上体質、戦闘民族体質につながり易いのではないか、と思う。
それは、ある時期の左翼運動の再現のようにみえるのだ。よく言えば、もうすぐ始まるセンバツのような甲子園でやる野球大会とか、野球を見る習慣のないミーちゃんはーちゃんにとって見れば、個人的には、ほとんどどうでも良いWBCみたいなものかもしれない。しかし、ご関心の向きには、それこそ、北朝鮮がミサイルぶっ放すかどうかより、重要な話題であると思っておられるのではないか、という印象がある人びともおられる。それこそ、外部の関係ない人から見たら、聖書を巡って争うキリスト教界の人々のことを、革マル対中核派の内ゲバ事件とよく似ているとか言ったらダメなのかも知らんけど。
中核と革マル https://www.amazon.co.jp/dp/4061341839 より
本来は外に向かって自分たちの正統性を主張するためのものが、キリスト教の内部の人同士、グループ同士に向かって使われ始めたときに、無意味な論争が起き、悲劇が起きるのだろうと思う。
悲劇的なことに、キリスト教の歴史は聖書の読み方で散り散りにされてきた。それは結果的に聖書の口を封じることにもなってしまった。(同書 p.247)
確かに、ここで、ライトさんが言うように、本来一つであるキリスト教世界であるはずのものが、キリスト教のここ200年位の歴史は、聖書の読み方にかんして、確かに引き裂かれた状態という印象があるような感じがするなぁ。
そして、キリスト教界の外部から見たら、「内部で何を争っているんやろうか、何を論争してはるのか、よくわからんけど、なんや細かい、小難しい事言うてはるわ。よう、わからんけど。うちら、あんまり関係ないし。勝手にしはったら?」という感じなのだろうと思う。
まぁ、本来、外から敵が攻めてきているのに、うちわ争いをしている状況のように思うのだが。まぁ、それが、キリスト教界の習い性なら、しょうがないけど。イエス様は、こんなことをおっしゃっておられるのを思い出した。
【口語訳聖書 マタイによる福音書】
12:23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
12:24 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。
12:25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。
12:26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。
12:27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
12:29 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。
12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
12:33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。
12:34 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
12:35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。
まさに、上で引用した福音書から引用しているのが、現在のキリスト教界に近いかもしれない、という感じだろうと思う。現代のキリスト教徒は、集めないもので、散らすものになっているのなのかもしれない。残念ながら。自省を込めて。
なお、ミーちゃんはーちゃんは、悪霊に取りつかれたものである、と同じ教会で同席していた方から、個人的にお手紙でご指摘いただいたことがあることも、ここに記しておく。
次回へと続く
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