N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その40
今日も、いつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の祈りについての部分を読んで、思ったことを考えてみたい。
天と地が交わること
聖書の中には、人間の世界の中に時々天におられるはずの神が地に顔をお出しになった記事がかかれている。お友達の大頭さん風に言えば、神が人の世界に「はみ出してくる」ということになるらしい。典型的には、アダムがエデンの園にいたときがそうだし、ノアもそういうことを経験したろうし、アブラムも行き先を知らずにその父祖の地を出たときがそうだし、ヨブに「オリオン座のベルトを作ったのは誰か」と語り変えたときや、イエスの誕生のときにも、羊飼いにちらっと姿を見せているし、ステパノが息を引き取るときや、パウロがダマスコの途上で目が見えなくなるときも、神がこの世界にチラッと「はみ出してくる」瞬間だったのなのかもしれない。
そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書いている。
クリスチャンの物語(ストーリー)全体の中心点、すなわち、ユダヤ人の物語のクライマックスは、カーテンがすでに開けられ、戸が向こうから開け放たれ、ヤコブのように、天と地の間にかけられたはしごを昇り降りするメッセンジャーを垣間見ることである。『マタイ福音書』でイエスは、「天の王国が近づいた」と語っている。それは、その宣教以降、天に登ることのできる新しい道を提供したというわけではない。そうではなく、天の支配、天の真のいのちが、新しい形で地と重なっていることを告げたのである。(『クリスチャンであるとは』p.232)
https://www.reproduction-gallery.com/oil-painting/1083726600/jacob-s-ladder-by-marc-chagall/ から
日本では、空が割れて出てくるのは、怪獣と決まっているが、聖書の世界では、天(それは文字通りの空という意味だけではなく、神がおられる場所、神のみ座、という理解になっているようだが)がわれたら、けっこう大変なことが起きるのである。
空が割れて出てくる怪獣 バキシム http://blogs.yahoo.co.jp/dqmmc895/33719488.html から
天がわれたとか、天が開けたとは書いてないが、エピファニーのときに覚える聖書箇所でもある、イエスがバプテスマを受けたときには天から声がしているし、変貌山のところでも、神の声が聞こえているという記述があるから、梯子を上り下しは見られなかったものの、神がニューっとこの世界に飛び出した、あるいは、この世界とつながった、あるいは、神がはみ出してこられた、ということになるのだろう。
【口語訳聖書 マタイによる福音書】
3:16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
3:17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
このイエスがバプテスマを受けられた場面の場合は、天使がハシゴを上り下りはしてないが、聖霊が降りてきている。マサない天と地が繋がった瞬間であった。変貌山のうえでは、雲が覆っているし、そのため、ハシゴが見えなかったのかもしれない。個人的にはハシゴはメタファーであって、はしご車の上についている様なハシゴではないと思うけれども。
【口語訳聖書 マタイによる福音書】
17:1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
17:2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
17:3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
17:4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
17:5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
17:6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
Boston消防のはしご車チームとトラック
https://americansecuritytoday.com/boston-fire-dept-dedicates-five-new-ladder-trucks-learn-video/
確かにイエスご自身が言い続けられたのは、「神の国が近づいた。だから、神の国に戻れ。あなた方が本来持つべき神との関係に帰れ。神と共に生きよ」といわれたのであって、「奇跡を起こせ」でもなく、「異邦の神々の宮に油をかけて、それを除け」でもなく、「献金せよ」でもなく、「伝道せよ」でもなく、「天国に人々を無理やり押し込め」でもなく、「癒しをせよ」でも、「天国に行く準備をせよ」なかった様に思う。只々、神のもとに戻れ、といわれているのである。案外忘れがちなことであるが、イエスは次のようにも言っておられることは思いだすべきかもしれない。
【口語訳聖書 ルカによる福音書】
17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
『炎のランナー』という映画の中で、実に印象的なシーンがある。雨の降る陸上競技場の説教の中で、その説教の最後を上のルカの福音書の聖書のことばで締めくくっている。
「天の王国が近づいた」と語っている。それは、その宣教以降、天に登ることのできる新しい道を提供したというわけではない。そうではなく、天の支配、天の真のいのちが、新しい形で地と重なっていることを告げたのである。
そう、我々のうち、within us に天の支配と天の心のいのちが重なっている、という理解なのであろう。それこそが、イエスが命をかけて伝えようとした「福音」であるのだなぁ、と思う。このあたりの事を考えられたい向きには、スコット・マクナイトの『福音の再発見』をお読みになられることをお勧めしたい。
祈り 地にあって天と地をつなぐもの
主の祈りの中で、いつも思うのが、「御心が天においてなるように地にもならせたまえ」(thy will be done on earth as it is in heaven )という部分である。祈っている場所は、この地上の教会やこの地上なのだけれども、神の国と訳されているが、神の支配そのものが地上で起きるということは、まさに、神の支配が地に及ぶ、我々のそばで起きるということでもあるのだなぁ、と思った。
クリスチャンの祈りは、二つに割れた断層の境目に断って祈るようなものである。それは、両側から引っ張られる二本のロープの端をつかみ、必死で結ぼうとするかのように、ゲッセマネの園でひざまずき、天と地を結びつけようと、産みの苦しみで呻くイエスによってかたちづくられている。(同書 p.233)
ゲッセマネの園のイコン
https://jp.pinterest.com/pin/96334879507563953/
ここの帯人さんの文章でも断層が出て来るが、基本的に断層はズレであり、それは、どのような人工物をもってもその断層を止めおくことはできない。圧倒的に断層の力積が大きいのだ。我々にできるのは、その断層(谷)に橋をかけるくらいのことしかできないのである。橋は、断層をつなぎとめているのではなくて、石橋を除いては、割と大きな橋でも、丸木橋がそうであるように断層や谷状の大地の崖の上にそっと乗せているに過ぎないのである。
地上の橋ですら、谷間、あるいはギャップの上に、そっととだけ、載せたようなものではある。とは言え、それはものすごい効果を地域とその橋の周辺に住む人々にもたらすのである。淡路島は、ミーちゃんはーちゃんがいる場所から見えるところにあるが、明石大橋ができる前には、病人が出ようが何が起ころうが、台風や低気圧が来て風が吹けば、連絡船がでなくなり、島の外側には何があっても出られなかったのである。かなりの大風が吹けば、明石大橋も通行止めにはなるようだが。
イエスのゲッセマネの園での苦しみは、想像を絶する苦しみであったが、弟子たちはすやすやお休みであったのである。高いびきをかいていたかどうかまでは、よくわからないが。
ナウエンの「この盃が飲めますか」は、イエスの苦しみと孤独と、静まりの中で神と出会っていくことについての本であるが、一読をおすすめしたい。イエスの苦しみの杯と、弟子たち、そして私達の関係といったあたりのことに関することが書いてある。弟子たちは、イエスの杯のことを十分に知らず、「飲めます」と言ってしまったのだ。まぁ、我々も似たようなことはよくやるが、しかしそれでもイエスがこの弟子たちを弟子とし続けられたところに、我々の希望があるかもしれない。
【口語訳聖書 マタイによる福音書】
20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
レントの期間だけとはいえ、イエスの杯を覚えることすら守れないときは守れないものなのである。
自分でなんでもやりたがる病・・・
先日エホバたんの方が我が家にご訪問になられたらしい。その時、家人に対して、「講演会があって、何でもすべての問題が解決することが学べるのです」という謳い文句で、講演会にお誘いをしてくださったらしい。その話を聞きながら、「何でもすべての問題が解決がつく」のならば、「実際の自然河川に関するナビエ・ストークスの連立微分方程式(水理学に関する流体動的力学モデルを示す方程式体系)を解いてもらおうか」とか、「無料で英文の校正をしてもらうのもいいなぁ」あるいは「ローンの残高を減らすという大問題を解決してくれるのかしら」とか愚にもつかない事を連想して遊んでいた。
現代人は、なんでも自分でやりたがるから、すべての問題がなくなる、とか言われると、フラフラついていく人もいるから彼らはそんなふうなかたちで伝道するだろう。その昔、自分たちのキリスト者集団群でも、そういうことをいわゆる伝道集会という場で、公式に「聖書の中にすべての解決がある」とおっしゃられた人がおられたことは、前に書いたかもしれないが、これもまた無理筋である。本来は、「聖書の中にすべての解決がある(ただし、個人の感想です)」とでも言うべきなのだと思う。理性でも解決できないものは解決できない事がある、と素直に自分の非力さを認めて生きるほうが、よほど素直で良いと思っている。それを、なまじ、啓蒙主義なのか、ロマン主義なのか知らないが、人間が解決できると思っているからややこしいことになるのだと思う。
助けはとくに、私達の前に道を歩んだ人のうちにある。ここでの難しさの根底にあるのは、自分でことを行いたがる私達現代人の傾向である。誰かの助けを得ると、それは「本物」とは言えない、自分の心から出たものではないと心配し始める。そのため、別の誰かが祈った祈りを使用することに、すぐに疑いを持つ。あたかも、自分でデザインして服を作らなければ、正装としてふさわしくないと感じる女性のようなものだ。(同書 p.234)
世俗の仕事で、計算機をいじる仕事をしていると、「未だに計算機はなんでも解決してくれる、職場の人間関係まで解決してくれるのではないか」という美しい誤解をもってご相談をお寄せくださる方々がおられるが、その際、「計算機はそんなことはできません。いまご相談の内容で、計算機がご相談者の方のご苦労を減らすことにご貢献できるのは、ここまでです」と明確に言い渡すことにしている。
もう、いい加減、計算機がかなりデキが悪いことは知られてもいいはずなのだが、最近は、またぞろ、新聞やテレビで、ビッグデータとか、A.I.(人工知能)だとかって言うから、そのことを聞きかじっただけでご相談に来られる方には、冷酷なようだが、人間にできること、計算機にできること、計算機にはできるが人間にはできないこと、計算機にも人間にもできないこと、とわけてご説明するようにしている。
また、ある教会にご訪問したときの出来事であるが、日曜日の礼拝行事を締めくくる、いわゆる祝祷に当たる直前の部分の祈りとなるのではないか、と思う祈りを女性信徒の方が頼まれてしていると思しき場面に出会った。とは言え、その中身が、実は、いわゆるCorrect あるいは 牧会祈祷に当たるものを延々と祈っておられるのだが、間違えたらいけない、ということなのか、祈るべき内容を原稿用紙にびっしりと書いたものを読み上げておられた。相当緊張しておられたのであろう、その祈るべき内容の書かれた紙を持つの手が震えるからか、紙が震えるたびにバリバリと鳴らしながらであった。いたたまれない気持ちになった。そんなんなら、成文祈祷をみんなで祈るほうがよほどいいのではないか、と思ったほどであった。まぁ、そこの教会はそのような一般の信徒さんに関与してもらう文化なんだなぁ、と思いながら、様子を拝見していた。
祈りについての現代の活動って・・・一体?
近代になって分派を繰り返し、分裂を繰り返しているキリスト教プロテスタントグループでは、「祈り」がわからなくなっているのかもしれない。とくに沈黙で放置されると、恐怖を感じるようになっていることを、ナウエンはThe way of the heartで次のように指摘している。
One of our main problems is that in this chatty society, silence become a very fearful thing. For most people, silence creates itchiness and nervousness. Many experience silence not as full and rich, but as empty and hollow.(The way of the heart. p.49)
ミハ氏私訳
現代社会の重要な問題の一つは、このおしゃべりな社会において、沈黙は最も恐ろしいことの一つになってしまっているということだ。多くの人々にとって、沈黙は体をすぐ動かしたくなりそうになったり、落ち着かない気持ちになってしまう。多くの人々は沈黙を満ち満ちたもので豊かなものとして解するのではなく、空虚で怪しげなものと感じている。
そのあたりのことを念頭に置いてであろうが、ライトさんは祈りについて、次のように書く。
率直に言えば、イエスが指摘しているように、心の深くから出てくるものは本物であっても、そう美しくない場合が多々ある。一世紀のユダヤ教の現実的世界から来る新鮮な息吹は、自己陶酔的な(究極においては高慢な)「本物」へのこだわりという霧を吹き払うのに足る。イエスに従うものたちが祈りを教えて下さいと訪ねた時、イエスは彼らをスモールグループに分け、自分たちの心の中を深く見つめなさい、とは求めなかったし、ゆっくりと自分の生涯の経験を振り返りなさいとも求めなかった。各自がどんなタイプの性格かを調べなさい、とも求めなかったし、みずからの隠れた感情に触れる時間を過ごしなさい、とも求めなかった。(同書pp.234-235)
このなかで、「心の深くから出てくるものは本物であっても、そう美しくない場合が多々ある」ということは、おそらく次の聖書箇所が念頭にあるのではないだろうか。
【口語訳聖書 マルコによる福音書】
7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。
7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。
7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
7:21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
7:23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。
まぁ、実際にそうだよなぁ、とは思う。さらにいえば、イエスの例え話に出てくる、パリサイ人の祈りも、彼の心の中から出たものであったのではなかったろうか。
【口語訳聖書 ルカによる福音書】
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
現代では、祈りについて、様々な取り組みをするグループがある。それは、ある面、成文祈祷を捨ててしまい、そのような習慣を、現代のプロテスタント派の教会が宗教改革以降数百年断つうちに、捨て去ってしまったことにあるのかもしれない。そして、自己中心的な祈り、自分のうちにこそ本物の祈りと呼べるものがあり、その本物を神の前に出すべきであり、それ以外は真の祈りではない、という思い込みそれを揶揄してだろうけど、上の文章では、「自己陶酔的な(究極においては高慢な)「本物」へのこだわり」とかかいておられる。あるいは、次のように書いている。
イエスは彼らをスモールグループに分け、自分たちの心の中を深く見つめなさい、とは求めなかったし、ゆっくりと自分の生涯の経験を振り返りなさいとも求めなかった。各自がどんなタイプの性格かを調べなさい、とも求めなかったし、みずからの隠れた感情に触れる時間を過ごしなさい、とも求めなかった。
次回へと続く
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