N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その39
今日も、N.T.ライトさんの「クリスチャンであるとは」の中から、祈りと被造世界との関わりに関する部分を、いつものようにたらたらと読んでみたい。
クリスチャンの祈りについて
主の祈りについて、ライトさんは次のように語っている。
クリスチャンの祈りは単純である。小さな子供でも、イエスの教えた祈りを祈ることができる。しかし、その中身を実際に行おうとし、その要求を満たそうとすると難しい。( 『クリスチャンであるとは』p.228)
確かに、イエスの『主の祈り』は子どもでも唱えられる。ご近所にカトリック系の幼稚園に行かれたお子さんがおられて、幼稚園に入った頃は、毎日のように子供らしい可愛らしい声で、主の祈りを唱えておられた。それを聞きながら、なんとも言えない気分になったことを思い出す。と言うのは、その可愛らしいお子さんの声で、主の祈りを祈られると、その祈りの通りをしているのか、と言われると結構厳しいものがある。
とくに、
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
誘惑にはすぐ負けてしまうミーちゃんはーちゃんは、実に残念な気分にならざるをえない。確かに、この祈りの内容を、実際に、我が身で実現することは、真剣に考えてみると、実際にそれが実現することに関与しようとすることはかなりいろいろ困難な事はあるよなぁ、とは思う。
アラビア語での主の祈り
アラビア語での主の祈りとインドネシア語での説明らしい
ギリシア語での主の祈り
スペイン語での主の祈り
天と地が重なる地点と時点
神を信じて生きる人々にとっては、空間的な意味(この場合は時間軸が無視されることになる)において、その人のいる場所が、人間が生きている場所に、神の霊としての聖神が望むという意味において、その場所は、神と人が交わる地点となる。さらに、時間軸的な意味(この場合は、空間に関する3次元の軸が無視されることになる)において、神とともに人が生きるというその歴史的な時間軸での出来事(カイロスの意味での時間ということになるかもしれないが)において、神と人が交わる時点となる問ういことなのだろう。
私たちは天と地が重なり合う地点で生きることに召されている。――この地は、来るべき日の到来までは完全には贖われない――そして、神の未来とこの世界の現在が重なり合う時点で生きることに召されている。私たちは、天と地、未来と現在が衝突し、地殻変動で地鳴りのするプレート上の小島に幽閉されているようなものだ。(同書 p.229)
ところで、ここで、目が止まったのはライトさんの次の一文である。「私たちは、天と地、未来と現在が衝突し、地殻変動で地鳴りのするプレート上の小島に幽閉されているようなものだ。」我々は激動する社会の中にいる。本来の神の国の論理である、天の論理、神の国で完成した暁に実現する未来の論理と、現在の社会の支配的な論理、地の論理とたしかにその間で押しつぶされようとする騒がしい日々の中で生きていることを強いられている。心の静粛はどこにあるのか、平和はどこにあるのか、という世界の中に我々は生きざるを得ないのである。この記事を見たときに、ここのところ思い起こしているエリヤが神の山で神と出会ったときのことを思い出した。
あそこでは、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大風が有り、火が現れた。この地の恐ろしげなる地震雷火事(親父はいなかったが、神は親父以上だったかもしれない)の中には神はおられず、親父殿である神は、これらの天変動地の中にはおられず、静まり、静粛の中で、エリヤに語られたのである。
【口語訳聖書 列王記 上】
19:8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。
19:9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
19:10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
19:13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
19:14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
19:15 主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。
19:16 またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。
19:17 ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。
19:18 また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。
こういう旧約聖書の場所を見ても、我々は、目の前に繰り広げられる天変動地にとらわれることなく、我々が神と出会う場所である静まりの空間を自らの中に用意することが必要なのだろうと思うし、そのための静まりの期間が、レントや大斎の期間であるし、更にいうと、日曜日は神と人々が出会うため、神のみ前に出て、聖餐を神の体なる教会の人々とともに味わい、我々は多くのものからなっているが、我々は神にあって一つである、ということを覚えるのであろう。ちょうど、先日、ナウエン研究会で読んだところには、このような文章があった。
Our task is to help people concentrate on the real but often hidden event of God's active presence in their lives. Hence the question that must guide all organizing activity in a parish is not how to keep people busy, but how to keep the from being so busy that they can no longer hear the voice of God who speaks in silence.
Calling peole togather, therefore, means calling them away from the fragmenting and distracting wordiness of the dark world to that silence in which they can discover themselves, each other and God. Thus organizing can be seen as the creation of a space where communion becomes possible and community can develop. (The way of the heart pp. 53-54)
ミハ氏私訳司祭たちの仕事は、実際に存在するものの神が隠れておられるものの、生き生きとした実在の中に人々が集中できるようにすることである。したがって地域の中での活動を組織するときには、その活動が、人々を忙しくしているのか、という観点で見るのではなく、むしろ、教会員の皆さん達が忙しすぎるために、神が静まりの中で語られる声がもはや聞こえない、ということがないように注意しなければならない。
したがって、人々が一緒に集まるように教会に集めるのは、彼らがこの世のことばが過剰であるために人々が相別れ、対立し、集中できなくなっている世界から呼び出して、静まりの中で、人々が自分自身の姿と、他者の姿(訳者注 神のかたち)と、神のみ姿を見出すためである。よって、教会の中で環境を整えるということは、共に聖餐をし、ともに共同体を作り上げるためのスペースを作り出すことができるようにするためである。
そう、ナウエンが言うように、牧師や、司祭たちが、天と地が合う場所や環境を整えることは、実に大事なことなのだと思う。
とは言え、賑やかでエネルギッシュな礼拝が嫌いだ、というわけではない。明るい礼拝は好きだが、その中に静粛の一時、神と出会うためのひと時があるともっといいとは思っている。それを大きな音で満たすのは、神と出会う機会を大きく損なうことになるのではないか、と思っている。
なお、この神と出会うと書くと「出会い系キリスト教徒」とか言われそうだが、そうではない。あくまで、神に明け渡し、神に心をひらいていき、そこで語られない神と向き合う、会えないかも知れないが向き合うための時間をとるという意味である。ある面で揺れ動く小島の中にあって、ブレることのないこの世界に働きかけられる神を見たいという思いを持つということである。ミーちゃんはーちゃんは、神が直接語りかけられるのを聞いたとは言わないし、言えない。あくまで、未来を見たい、神を見たいと思っているだけであり、神を直接、見たことがないことは明確に告白しておく。
被造物の管理を任されたものが
被造物と、神の霊とともに呻く レントの季節に
先日のポストである 大斎の意味 という大阪ハリストス正教会での講演会に行ってきた でも少し書いたが、この時期は、自分の弱さを見つめ、その弱さに頼るのではな苦、神に頼るということを学ぶために大斎の期間を過ごす、というお話を伺ったことを書いた。その意味で、このレントの期間、大斎の期間、神の前に完全でない経験をすることは、自分たちがブレることのない力をお持ちの神に頼りながら生きるしかない、ということを、ちょうどバプテスマの前に学んだことを、毎年毎年繰り返す中で、何度でも自らの体験として身につけるために、身にしみて思い知るための期間なのだと思う。
生物学者ではないので、なぜ、人類を霊長類に分類するかは知らない。人類は霊長類の中でも特権的な立場にあるということを、前提においた議論なのかもしれない。
ある面、聖書は、神と語り合う存在として、神と共に生きる存在であるとして人類を描いている。その人類が、事もあろうに神の被造世界を台無しにしてしまい、その台無しにしてしまった影響をブーメラン効果よろしく、人間は自ら受けているのだと思う。人類は霊長だとは言うものの、霊長として神からのこの世界を管理せよ、という命令には完全に失敗しているような気がする。1タラントを与えられたしもべは、その1タラントを増えさせもせず、土の中に埋めたらしいが、人間は、1タラント与えられたのに、10コドラントにしてしまったようなものではないか、と思う。
そして、この地との関係を破綻させてしまった挙句、人は額に汗して働かねばならず、モーセ爺さんの言い分ではないが、人は健やかであっても80年でこの世とおさらばせねばならず、おさらばするときには人は呻かざるをえないようなのである。しかし、神は、創世記での約束を忘れることなく、我らとともにいてくださり、世界の痛み、人類の抱える痛みと共鳴するかたとして、聖霊なる方(聖神)を我らにお遣わしになってくださり、その御方を、われらという仮庵の中にお迎えしているにすぎないのである。神と人との裂け目にモーセが立ったように、人間のうめきを神は、一部ご自身のものにしてくださっているのだろう。
そのあたりのことを、ライトさんは次のように書く。
この不思議な新しい約束(現在のこの地において、新しい世界が始まろうとする中で、苦しむ全被造物の世界の一部をなすものとしてクリスチャンがいること)は、クリスチャンの祈りの特徴であり、汎神論、理神論、その他の多くのものと一線を画す。それは、聖霊によって、神みずからが、世界の真ん中からうめいていることである。なぜなら、神みずからが聖霊によって、世界の痛みに共鳴する者として、私達の心に住んでいてくださるからである。(中略)
その神は今や聖霊によって、世界の苦痛(理神論が決して思い浮かべもしない点だが)に届いている。それは、イエスにあって、また聖霊によって祈る私達のうちで、私達を通して、すべての造られた者のうめきが、私達の心を探る御父ご自身に届くためである。(ローマ8:27)(同書 p.230)
たしかに、神はご自身から人の世界の中に、でしゃばるように出てくるように語られない方のように思う。それが出てくるときにはとんでもないときであることは、旧約聖書を見れば明らかだし、そこに立ち会うことは人間には不可能で、死ぬしかないことが多いようである。しかし、人間の痛みに直接言葉を持って、直接の介入をもって、われわれには答えられないかもしれないが、人間の痛みやうめきを聖神なる神が受け止めになられ、その人間の痛みやうめきを神が聞いてくださる、という期待はあるし、それを思うから、次のように祈ることができるのである。つい最近も、エピファニーのときの式文に、次のような式文があった。
Lord, in your mercy
hear our prayer.
Lord, hear us.
Lord, graciously hear us.
God of love
hear our prayer.
Father of all
hear your children's prayer.
In faith we pray
we pray to you our God.
Lord, meet us in the silence
and hear our prayer.
上の式文の太字の部分は、司祭も、参加者も共に声を出して祈る。この全員で同じ式分を言うときに感じる不思議な感じ、一つにされた感じはなんだろうか、と思う。確かに、昔は式文での祈りはつまらないものだと思っていた。成文祈祷をあまり尊いものとはしてこなかった。以前にも書いたように、成文祈祷は、石のような祈りと思っていたことは確かだ。
しかし、司式者や、司会者や、司祭や牧師が祈っている内容に心を合わせているつもりではあったが、このようないのりを全員で声を合わせて祈る時、つまり、この共同で同じ文章を読む体験をするときには、その時とは違った一種独特のものがある。これは本当になんだろう、と思う。
ところで、この部分を読みながら、天と地が交わるということを考えると、荒野で、アロンが死者と生きている人々の間にたったように、ちょうど聖霊なる神は、あるいは、キリストは、現在と未来の間で、天と地の間、神と人の間におられるのだろう。
【口語訳聖書 民数記】
16:44 主はモーセに言われた、
16:45 「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼそう」。そこで彼らふたりは、ひれ伏した。
16:46 モーセはアロンに言った、「あなたは火ざらを取って、それに祭壇から取った火を入れ、その上に薫香を盛り、急いでそれを会衆のもとに持って行って、彼らのために罪のあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです」。
16:47 そこで、アロンはモーセの言ったように、それを取って会衆の中に走って行ったが、疫病はすでに民のうちに始まっていたので、薫香をたいて、民のために罪のあがないをし、
16:48 すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立つと、疫病はやんだ。
16:49 コラの事によって死んだ者のほかに、この疫病によって死んだ者は一万四千七百人であった。
次回へと続く
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