2016.10.05 Wednesday

「教会と地域福祉」フォーラム21 関西 第1回 シンポジウム参加の記録(2)

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    前回に引き続き、神戸市中央区の兵庫県警察葺合警察署の隣にある賀川記念館で開催された、「教会と地域福祉」フォーラム21 関西 第1回 シンポジウムについて、パネラーからのご発言を紹介してみたい。
     

    岩村義雄さんからの問題提起

    まず最初は、岩村義雄さんであった。
    今大学などの高等教育機関でも学術研究に没頭(ミハ氏註 それを言われるとみーちゃんはーちゃんはつらい。そもそも一つのことに没頭できないところがあるしw)できず、ガバナンス(統治)に関与することが求められる(ミハ氏註 もっというと、最近は外部資金と呼ばれる予算確保の申請書作成に結構時間がとられる。科研費の申請書書かなくちゃw)


    先ほどの稲垣先生のご指摘にもあるように、ガバナンスなのか自治なのか、が問題となるというところがあるだろう。

     

    岩村さん

     

    もともと、わたくし(岩村さん)は、神社などのある伝統的な日本の古形が息づく環境の中で育ち、イエズス会の教会に行きキリスト教に触れ、そして、改革派の神学校に行って、牧師となった。その意味で、土付きの福音を考えている。それは、アダムの末ということでもあり、アダムの語源となったアダマー(土から採られたもの)が、アダマーになるということでもあった。

     

    被災地の慰霊祭にて・・・天国観
    被災地の支援の中で、その時の被災とその被害者を覚える公式行事で、被災地の市長が、生かされている天国から見られている死者に恥ずかしくない生き方をしよう、といったのだが、その天国(ミハ氏註 キリスト教用語の一つのはず、本来は死語に行くところではなく、神の支配を表すヘブライ的な語)という神官も仏教者(僧侶)も特に抵抗なく受け入れていた(ミハ氏註 神官にしてみれば、お亡くなりになった方は浄闇の中に入ったことでしょうし、浄土宗的には、お浄土でしょうし、冥土でしょうし、ピュアランドのはずなのである。なお、キティちゃんがいるのは、ちなみにピューロランドですけどね。一応、ミハ氏は 以下に出てくる宗教観対話に協力しているので、一応ピュアランドについても画像を載せておく)。

     

    サンリオ ピューロランド

     

    初回と2回目

    冥土喫茶 ぴゅあらんど 次回は10月22日 土曜日 午後開催

    今度、龍岸寺でやるのは、冥土 (メイド) 喫茶ぴゅあらんど まじめな宗教間対話の時間。

    次回はイスラム宗教者との対話

     

    記念すべき冥土喫茶ピュアランド 第1回の画像

     

    冥土喫茶 ぴゅあらんど 名物 ”ニクタン”によるファシリテーション・グラフィクス (第3回 ユダヤ人編)

     

    仏教とヘブライ聖書と福祉
    仏教と福祉とボランティアを考えるとき、行基がロールモデルであったといえるかもしれない(ミハ氏感想 なんや空海みたいな人なんや) 。 民のための慈悲を見せ、様々な福祉事業のようなことを自力で実施した人物である。


    慈悲というのはヘブライ語的にはヘセッドである。ある面、ヘブライ語聖書の世界では、歴史の中に介入する神(ミハ氏註 なんか、オープン神学の話みたいやなぁ、と思った。ちょうど、この直前にやっていた第6回日本伝道会議でそういう議論をした。詳細は 日本伝道会議 第6回 プロジェクト 聖書信仰の成熟を求めて(オープン神論と物語) をご参照いただきたい)が描かれているが、その動機は神の慈悲であるといえるだろう。

     

    哀れみの心とスプラングニッゾマイ
    最近、岩村さんが東京大学でボランティアの講義をした時、 自治、公共性、 無償性、自発性について話をしたが、自発性、無償性、公共性でいいのだろうか。聖書の中での慈悲は、Compassionであり、ともに苦しむであり、そのギリシア語は スプラングニッゾマイである。それははらわたがよじれるような痛みを示す語である。琉球語では、チムグルシイであるもの( ミハ氏註  これは、どっかで聞いたがどこで聞いたか忘れた、たぶん、大阪で開かれた本田司祭の後援会であったと思う)のであり、もっと素朴な苦しむ人を見捨てておけないという人間の素朴な思いに基づくものかもしれないのに、無償性、自発性、公共性というカギ概念のみで理解してもいいのか問題があるのではないだろうか(ミハ氏註 この共苦の思想とコンパッションとあわれみとについては、ダライラマ・共苦の思想の著者辻村さんと議論したことがあるが、実は微妙に違うという結論には達した。)

     

    ある統計によれば、ダウン症児の94%が人工中絶される日本という国をどう考えるのか、ということは考えたほうが良い(ミハ氏 統計のソースはどこかということを調査したほうが良いかもしれない)のではないだろうか。そして、現代的な課題として、尊厳死をどう考えるか問題(延命停止による死)を考えるエートス、精神性を考えたほうがいいだろう。


    また、相模原事件の観点から考えると、あの障碍者を殺害する行為の根拠は優性思想ということになる。ある面、健康思想をもち、健康帝国を目指したドイツ(ミハ氏註 実は日本の体操の起源はドイツの国民体操にある)で生まれた概念として郵政思想があり、それがユダヤ人を抹殺していくことになった。それに対抗して、チムグルシイというの概念が生まれたといっても過言ではないだろう。

     

    沖縄の宗教世界のユニークさ

    禅鑑という人物が、沖縄に仏教を伝えたのが沖縄と仏教のかかわりであるとされている。この時代、熊野から即身仏になろうとして、出向した僧侶が沖縄に漂流したのが、沖縄仏教の原点らしい(ミハ氏註 実に海流的に面白いルートである。通常、黒潮に乗ったのであれば、アラスカあたりか、カリフォルニアなのだが、なぜか逆方向の沖縄に行ったのが面白い。)


    日本には明確な否定の論理がない。(ミハ氏註 肯定の論理しかないので、なんでも受け入れて、ごちゃ混ぜにする傾向はあるような気がする)ちょうど、日本に優生学という概念が入ってきたころに、血液論も優生思想の一部を担っていて、それが現在の日本人の血液型論好きの根拠となっている。また、和辻哲郎の風土とか、砂漠の一神教が云々という概念は、なんとか日本の優秀性を言いたくて、その背景に優生学の影響があったのではないか。その背景に、彼らのヨーロッパ留学経験で、軽くあしらわれ、言いたいことも言えずで劣等感を持ったという側面があるのではないだろうか。強くあらねば、という1930-1940年代、知識層がそのエトス(思想)を持ったといえるだろう(ミハ氏註 日本人は優れた民族であってほしいという願望が変に出たのが、日猶同祖論だとおもう)

     

    沖縄で島津藩は仏教の伝道布教を禁じた。その意味で、(ミハ氏註 その後、ベッテルハイムの沖縄伝道、明治政府の琉球併合と本土の神道システムの教育と一体化した形での輸入、米軍支配下での福音派およびアメリカ型キリスト教風新興宗教の伝道、…)と、沖縄の歴史は宗教を考えるときに参考になるだろう。

     

     その意味で、異なる信仰者間の対話性が重要ではないか。(ミハ氏註 これは、公共圏につながるなぁ。詳しくはコミュニケーション理論と応用参照)

     

    木原活信さんからの問題提起

    つづいて登壇したのは、木原活信さんであり、キリスト教の歴史を踏まえた立場と社会福祉の立場からの問題提起であった。

     

    木原さん

     

    外的カテゴリ類型論のナンセンスさ
    社会福祉の研究者として 一人のキリスト者として、今日は発言してみたい。人は割と、カテゴリ類型を使って他者を理解しようとする。その意味は、どうなんだろうかと思う。同志社で努めているというと、ある種のイメージがつくし、また、福音派的なファンダメンタリストのグループにいると、ファンダメンタリスト風のイメージで見られることもあるが、私は私であり、この種のラベルはその人を表すことができるのだろうか?その意味で、現代の社会は、外形によって付与された肩書とか言ったラベルで判断する社会であり、その個人を見ていない社会である。

     

    教会のミッションとしての福祉と日本のキリスト教史と福祉
    教会のミッションとしては、伝統的なものとして、以下の3つの概念がある。
    ケリグマ(宣教)・ディアコニア(奉仕)・コイノニア(交わり)

     

    木原さんの分野は、社会福祉、 ソーシャルワーク(社会福祉的な援助者)を育成し、研究する立場であるが、そこで時々言われるのが、ボランティアについて、ボランティアであるから無償性であると主張される人々もおられるが、それよりは、ボランタリズム(ミハ氏註 Voluntarism 主体的に取り組むこと、自らの問題として考えること)であり、無償性が中心というわけではない。そこでの主要な課題は、自治や独立性、抵抗という概念になっていく。貧困や抑圧、貧しさに対する抵抗の方法として、福祉が生まれてきた部分もある。(ミハ氏註 ある面、ヘブライ聖書的な世界では、それがそもそも組み込まれていたと思う。律法における落ち穂を拾わない規定とか、外国人保護指示規定とか、このあたりがいわゆる福音派とかでは読み飛ばされていることが多いのではないか、と思う)

     

    教会と福祉、その実際例

    福祉に教会で取り組むことについて、牧師からの批判があることがある。その例としては、福祉実践をせよといわれると責められているような気分になる、福祉は行政の仕事ではないか、伝道・布教がおろそかになるのではないか、教会の聖性が失われ世俗化するかもしれない、もうすぐ再臨が近いのにそんなことをしても無益ではないか、という批判である。(ミハ氏の感想 Lord have Mercy, Christ have Mercy, Lord have Mercy...と唱えるしかなかった。そもそも、聖性を概念的なもの、神学的な理論と深く関わるものとしか信じていないのではないか、と思う。そもそも、「パウロは福音に力がある」といってたような気がするし、日本伝道会議の講演で、C.ライトさんは、このことをかなり繰り返していたように思う。)


    信徒からの声としては、子供が自閉症で騒ぐといけないから、教会に行けない、といった声もあるし、セクマイを告白すると教会がドン引きしてしまい、教会に行けないようなことになってしまった、と言いう事例もあった。教会は、そのようなことが良いとは言うけれども、どう現実にかかわっていいのか、ということについて具体的にかかわり方を教えないという声を思い出した。

     

    (ミハ氏註 これ、日本の現実の教会ならではのあるあるのご意見だと思った。自分で考えず、誰かがこうしろというのを待っているかのような受動的な生き方であり、目の前をよく見たら、そこに何かはあると思う。それに目を背けているような気もする。本来、神とともに、イエスの真実(ピスティス)にたより、他者に向かっていけばいいだけのことなのだとは思うのだ。この話を聞きながら、英国国教会の祈祷文の一節 

     

    Almighty God, our heavenly Father,
    we have sinned against you
    and against our neighbour
    in thought and word and deed,
    through negligence, through weakness,
    through our own deliberate fault.
    We are truly sorry

    and repent of all our sins.
    For the sake of your Son Jesus Christ,
    who died for us,
    forgive us all that is past
    and grant that we may serve you in newness of life
    to the glory of your name.

     

    を思い起こし、その祈祷文を思わず心のなかで唱えた。)

     

    論点として取り出してみたいのは、これまで教会は、社会派(ミハ氏註 教会よりもやや社会に仕えること、使わされていることをやや重視し、社会に積極的にかかわろうとするグループ)と教会派(ミハ氏註 教会の中だけで聖書の理解を考え、社会に対して消極的なグループ)、リベラル派(ミハ氏註 聖書を歴史的な文献と考え、そこに見出すのは理性的なテキスト理解から生まれた認識を重心とし、聖書の分権性をかなり強調するグループ)・・・といった分断があり、教会と社会のかかわりは、そのようなものでいいのだろうか(ミハ氏註 まるで、C.ライトの日本伝道会議の講演の主張の要約のようだ)。まさに、これらの派閥を作る人々は、イエス時代のサドカイ派、パリサイ派、熱心党と分離していたイスラエルの宗教シーンのようだ。また、我々は、教会の中でパッションを喪失してないだろうか。そもそも、先ほど受苦の思想が出てきたが、それこそがコンパッションである。(ミハ氏註 この辺がダライラマのニンジェ、あるいは共苦、というの思想とのつながりがあるが、聖書的なコンパッションとダライラマ14世のニンジェの思想と、微妙な射程の違いがあるような気がする。おそらく、その背景には、創造者としての神の存在と神の平和を地に如何にしてもたらすかどうか、というあたりの意識の有無のような気がする。聖書的なコンパッションについては、最下部のCompassionをおすすめする。日本語では、『コンパッション(あわれみ)―ゆり動かす愛』 女子パウロ会)

     

    市民的公共の時代の福祉と教会の役割

    市民的公共の時代に福祉とどうかかわるか、ということが教会に問われているのではないだろうか。その意味で、地域に使わされたものとして、地域に仕えているだろうか、地域に出かけているのだろうか、ということは問われてもいいかもしれない。隅谷三喜男さんは、ある本の中で、教会が「学校」のようになっているのではないかと指摘している(ミハ氏註 これは、しょうがないと思う。日本の教会のかなりの部分が、アメリカ型の言語や理性に大きく依拠した聖書理解の伝達、アタマ系の伝達方法を主とするという印象の強い教会形成がされてきたわけであり、日本ハリストス正教会などの正教会系の理性以外のものを活用した体験することによる聖書理解の伝達、あるいは、カラダ全体系の聖書理解の伝達が軽んじられる形で、伝道が行われるとともに、教会形成が行われてきた伝統に大きく依拠しているからであろうと思う)

     

    そして、教会は客を迎えるだけの場所になってしまっており、客として新来会者を迎えることが教会の役割になっているのではないか。ところが、イエスは教会やユダヤ会堂の中にいたのではない、イエスの宣教は、出ていった宣教でもあるし、ゲラサの地に行って出会ったのは、有名な人や知られた人ではなく、だれからも相手にされていなかったゲラサの狂人のところに行ったのである。
    (ミハ氏註 なんか、ここんところの日本伝道会議でのCライトの話を聞いている様だ。その意味で、ミッショナル、地に具体的にも神の平和をもたらすような宣教スタイルであること、をどう考えるかということのご主張があるようだ)

     

    日本のキリスト教史と福祉の歴史
    日本の社会福祉と宗教(教会)の関係の変遷の歴史を振り返ってみよう。


    歴史的に見ると、福祉の実践は宗教と不可分で、とりわけ、キリスト教と不可分である。明治以降、福祉の実践に数多くのキリスト者がかかわっている、山室軍平、石井十次、賀川豊彦・・・とかなりいたはずである。とはいえ、戦後、福祉国家成立以降、宗教と福祉は政教分離原則で福祉と教会がどうしても分離していくことなった。ある面、このようにして、協会と福祉の関わりが分断され、教会は福祉の役割を失ったのではないだろうか。ある意味、国家が措置として、”福祉行政”を担おうとして、その中心的な役割を担う存在の主役が、ボランティアから国家に移ったのではないか。その結果、主体的に福祉に取り組むのではなく、国から言われたことをするようになった。自分のやりたいことを自分でや履帯用に、自分で実現する時代から、国家の制度に従うことが中心になり、自主自律の気風が隅におかれることになっていったのではないだろうか。

     

    2000年以降、教会に求められるもの
    ところが、宗教(教会)と福祉との関係はは、2000年の社会福祉基礎構造改革以降、新たなワールドへ突入していくことになる。その中では、教会が持つ市民的公共圏が重要になるだろう。 その意味で、今は教会から公共へ開かれていく社会に向かっていくことになるだろう。ある面、地についた伝道を目指すことになるだろうし、マタイ10章の小さきイエスに水を与えることになるのではないだろうか。

     

    釈徹宗さんの問題提起
    日本の仏教寺院の現状と宗教とについて触れてみたい、ということで切り出されて始まった。

     

    釈さん

     

    居留者コミュニティと宗教施設

    現在、毎日新聞で、異教の隣人という連載があり、外国系の人々が集まる宗教施設を訪問して、連載記事にすることを行っているが、外国人にとって、母国ではメジャーだけど日本ではマイナーとなる宗教施設を回っての随想を書いている。この過程の中で、様々な施設を回っているが、人間には必要とされる施設の一つとして、宗教施設があるということを強く感じる。

     

    ベトナム人は姫路に多いのだが、宗教施設ができてベトナム系住民社会が活性化している例も見られる。ミッション・アポイオは、ブラジル系教会であるが、南米系の礼拝が捧げられている。そこでは、悲しむ人々に、「兄弟たちよ、一人で泣くな」と声をかけつつ、共に泣く姿が見られる。ところが、知識階級者の多いカトリックの日本人教徒が中心の教会では、労働者階層中心の南米カトリック教徒とはどうも合わない感じがする。また、ミサのフォーマットは同じでも、日本語ミサの場合、その意味が理解できない人が生まれる。(ミハ氏註 もともとのラテン語礼拝だったら、その苦労はあまりないと思う。微妙な違いはあるが、ラテン語を由来とする、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などのラテン語圏なら意味の想像がつく。ラテン語ミサにはラテン語ミサの特徴はあったのに、なんだかとっても残念かもしれない。とはいえ、それで典礼遂行できる司祭が何人いるかというときついなぁ、と思う)その意味で、それぞれの民族集団や言語集団、信仰集団に応じた宗教施設が必要であるし、それによって、外国にいる気流者コミュニティが活性化する(ミハ氏註 先日コプト正教会の献堂式に参加したとき、コプト正教会の人々がこれで、日本で自分たちの言語と様式での礼拝が捧げられると素朴に喜んでおられた姿が忘れられない)

     

    民族として大事なのは、食事規定、お墓の問題、教育であろう。特に、出身国文化の文化継承の場としての宗教施設は重要な役割を果たす。神戸には道教寺院があるが、そこでの祝祭を通して、食文化は3世4世にも継続的に継承されている。特に、福建省系のか今日の歴史文化の継承における道教寺院の存在は小さくない。

     

    ソーシャル・キャピタルの要素
    ソーシャル・キャピタルを議論する時に重要になる基礎的文献としてロバート・パットナムの『孤独なボウリング(Bowling Alone)』があり、その中では、BridgingとBondingが含まれているが、宗教施設は宗教的ボンディング(ミハ氏註 宗教的紐帯)の継承と発展に有効である。

     

    日本の寺院と日本社会

    寺院のお話になるが、7万7千のうち2割が現在休眠状態にある。江戸期には、もともと16万くらいあった。(ミハ氏註 地方の人口減で閉鎖されたわけではなく、明治維新直後期の廃仏毀釈運動の嵐に巻き込まれて大量に閉鎖された部分もあるらしい。特に旧薩摩領(鹿児島)では、率先して薩摩が範を垂れなければならないということもあったためか、寺院がほぼ壊滅状態であるらしい。


    地方自治体の閉鎖の先行形態としての寺院消滅があるのではないか。たしかに、マクロで見ると絶望的でしかない。これから到来する縮小社会としての日本を考えると、地域コミュニティに乗って運営指定化ざるを得ない寺院としては、コミュニティが死ぬとお寺も消滅になる。たしかに、マクロはだめだが、ミクロで見るとおもしろい事例も散見される。

     

    家族経営の寺院とその多様性

    日本の寺は家族経営という世界に類を見ない寺院経営の姿である。本来、出家は妻帯しないものであるので、世界の多くの仏教寺院は、仏教僧の集団からなるサンガにより維持されるものであるが、日本では寺院運営は、家族経営のため、いかに家族の構成員のモティベーションの維持が大事担ってくる。その意味で、寺族で取り組むことになるので、その寺族のモティベーションが重要担ってくる。その中で、寺族のモティベーションを維持するためには、外部からの公共的な評価が重要かもしれない。なお、寺院は、多くの場合個々の寺院が独立しているし、その分多様であるし、事情が寺院寺院ごとに違うので、一般化しにくい。

     

    釈さんの取り組み

    今、自分自身が取り組んでいるのは、大阪府池田市での取り組みであり、認知症患者のグループホームを運営して、現在8人の入所者がおられる。この取組は、そもそもお寺の傍にあって、住む人のいなくなったもともと植木育種業者さんの空き家を利用した活動である。この空き家を利用するのは、立ち上げコストが小であるし、もともとのものがあると早いので、方法論としての有効性があるのではないだろうか。このホーム運営を始めると、寺檀制度の一環としての活動として、檀家のメンバーが、できるときだけ協力するという形で、お寺がやるなら檀家もやる、ということに協力が得られることもある。それは、地域に眠っている人的資源、知的資源の活用にもなる。例えば、退職医療者、例えば、医師、看護師などが協力するなどで、対応コストが下げられるものがある。更に、ヘルパーさんなどを含め、13人雇用できている。その意味で、小さいかもしれないが、地域の経済的活性化につながる。もう一つは、阪急曽根駅前の寺子屋(練心庵)で、講座をやっているのと、そこに若者が集まり、法人格を取らずNPOみたいな形でやっているものがある。

     

    市民社会と寺院とボランティア

    このように市民の参画が求められた背景には、まず、阪神大震災があり、ボランティア概念があり、さらに、高齢化に伴った終活ブームが出て、この頃、日本仏教界は葬式仏教ということで大バッシングを受けた。そういういところに、東日本大震災がおき、その中での寺院が避難先として利用される、あるいは、救援事業の拠点となった、ということを行っていったこと、また、臨床宗教師としての働きにも着目され、社会資源の寺、公共性を持つ施設として再認識されることになった。

     

    ソーシャル・キャピタルと宗教

    パットナムの孤独なボウリングでは、内部の信徒集団としてまとまっていくボンディングと他の団体や他の宗教者との対話であるブリッジングがあるが、おそらく、現代において重視されているのは、ブリッジングではないだろうか。

     

    フロアからの質問

    このような社会福祉は、伝道の場と見ているのか、それとも対話の場と見ているのだろうか、という質問が出て、むつみ庵は他宗教的なメンバーからなっている。個人的には、後ろ手に伝道隠すのはどうかと思っている。また、お世話になっている人からの依頼は断れないので、そのへんの塩梅が社会福祉の場を持つと難しい。個人としては、電動と社会的活動を分けたいと考えている。とは言え、宗教は、どうやってもわかれる声質を持つし、もし、そのような別れるほどの強さがないと人々の生きるための力がないものになる。とはいえ、制度化してビジネスモデル化していかないと対応できないものが出てくるし、制度化すると、固定化するし、なかなかうまくいかなくなる。こうなると、なんのためにやっているのかになる。それをどう考えるのかと言うのは永遠の課題である。

     

    (ミハ氏の感想 のっけから、モロ関西のめっちゃお坊さん風しゃべりだったので、思わず笑いがでそうになった。この人の味だなぁ、と思った)


    パネル・ディスカッション

    釈さんが午前中のみ参加、ということであったので、釈さんの発言が中心になるようにしたい、という稲垣さんからの発言で始まった。

     

    パネル・ディスカッションの様子

     

    稲垣さん)

    まず、確認したいことがある、先程、ボンディングとブリッジングが出たが、Bonding(ボンディング)は内部での結束を強める働きである、Bridging(ブリッジング)は他とのつながりのことである。ボンディングという側面では、真宗門徒の近年の信仰離れはどうだったのだろうか、あるいは、強固なボンディング機能が維持できたのだろうか?あるいは、新宗教と比べて伝統宗教とはどう違うのだろうか。


    釈さん)

    強固なコミュニティもあるし、そうでないのもある。寺院に関しては、都市ではそうでもないし、それには、就業形態が影響する事が多い。協力し合わといけない、条件の悪いところではボンディングが強いと言える。そして、みんなで常に何かをやるところでは、ボンディングの存在そのものが、日常生活に直接的に影響をする。ところが、会社勤めになると変わる。就業形態が変わると、それぞれが別々の場面で行動することになるので、紐帯の弱体化が起きするし、それは池田でもそうであった。宝塚から池田にかけてはほぼ植木屋さん、植木を生産するタイプの植木屋さんであり、それなりに仕事で助け合ったり、共同化することで助け合ってきた。ところが、会社勤めが増えると宗教的行事に関して、熱心さが減るかもしれない。

     

    稲垣さん)

    一向宗の自治精神と言うのは、非常に強い物があるときくが、どうなんでしょう。
    釈さん)

    いまだにある。自分たちが寺を運営している感も強くある。特に加賀では、一向一揆で領主を追い出し経験もある。特に浄土真宗の性質もあり、地内町をつくり、都市ごと独立させて、浄土真宗の門徒で運営した実績もあり、そういう気質が残っているところはあり、住職ももんとと基本的に横並びであり、自分たちで、教義を作っていて、若い住職より年配の門徒のほうが、住職に教えたりすることもある。


    稲垣さん)

    自治の精神を持っていたのは大変興味深い。日本の仏教は、お墓を守ることが主眼友いわれてきたが、そのあたりはどうなのだろう。


    釈さん)

    そもそも、浄土真宗では、お盆もお彼岸もしないという、従来の浄土真宗ならではの習慣が失われてきた。バブル時代から急速に変わった印象がある。そもそも、伝統的に地域により、お葬式の仕方が違っていた。ものすごく近い地域でも葬儀の仕方は異なっていたが、バブル期に葬儀のビジネスモデル化が進見、全国ほぼ均質化した葬儀担ってしまい、葬儀の進め方の地域間の際や多様性が消えた。

     

    稲垣さん)
    市場経済の席巻とカネにものを言わせた生き方が中心になってきたのがバブル期であったろう。


    釈さん)
    たしかに、バブル期から、宗教との関わりの中で、消費者体質へと進んだように思う。葬儀のパッケージングとオプション・サービスの購入スタイルへと変更されていき、葬儀事業者からのオブションを選んでおわりということが起きたように思う。これと同様の現象があらゆる場面で起きている。そして、家庭生活、家族の中にまで浸透している。消費社会、消費主義は、経済的合理性を求める行為減速が支配する社会であるので、コストを下げ、満足度を得る事が大事になっており、贈与とか与えるということは、むしろ不要であるかのような生活モデルが提案されている。ところが、贈与とかという感性がもう一度、東日本で揺さぶられ、今そちらの方向に向かっていったように思う。その中で、互酬性が大事になりつつあるのかもしれない。

     

    稲垣さん)
    登壇者の皆さんから釈さんへの質問は?

     

    木原さん)
    教え子の結婚式が先日あったのだが、人前結婚式というスタイルを取っていた。しかし、従来は、結婚式ならキリスト教式でというのがあったはずだが、それに見られるように宗教性を否定する方向に行っている。また、先程、葬式仏教への反乱という話が出たが、木原さんの友人が、お父様の葬儀をお寺に頼んだときに、経文の内容が意味わからんお経で、解説なしにそれが述べられたので、その後の回忌法要は、僧侶なしに自分達でお経を読んで済ませた事例などもある。このように宗教離れが進んでいるように思う。このような点についてどう考えておられるのか?
    ところで、自殺予防に熱心な浄土真宗であるが、浄土真宗だけがこのことに取り組んでいるのか、それとも、仏教界全体で取り組んでいるのか

     

    釈さん)

    現代人は意味がわからん状態が苦手な人たちで、理性優先になっているかもしれない。儀礼性が重要であり、その意味で、感性ということをもう少し考えてほしいとは思う。
    それと自殺予防に取り組んでいるのが目立つのは、どこにでもいる浄土真宗(ミハ氏註 この話を聞きながら、ユビキタス真宗と失礼ながら思ってしまった。)という側面があり、仏教界の中での 最大だから派閥だからかもしれない。しかし、本来、社会活動よりも信仰優先的であり、どちらかと言うと、信心優先である。真宗は、どちらかと言うと、社会活動に熱心な思想ではなく、仏道そのものに関心があり、弱者に布教することで、弱者の信仰と言うか新人を育成する。ただ、普通、弱者はかなり普遍的な現象として、連携を求めるという性質があるので、弱者への保護が志向されるという側面はあるかもしれない。

    木原さん)

    むつみ庵は NPO法人とかの法人格はどうなっているのですか?

     

    釈さん)

    法人格を取るとややこしいので、法人格は取っていない。個人としては、むつみ庵は施設と自宅の隙間であると考えている。これには、自分自身が、すきまと言った中間的な領域が好きであるというのもあるかもしれない。


    木原さん)
    社会福祉法人格をとらないののですか。


    釈さん)
    法人格を取ると、行政が口出ししてきたり、あれはこうしろといったように、制約が大きくなるので法人格はとらない方向で考えているし、行政も、実際に見に来られてお話する中で、なんとなくわかってくれていて、対応してもらっている。

     

    稲垣さん)
    先程、木原さんの話で、聖性が失われていくという話が出たが、聖俗二元論というのがそのあたりはどうでしょうか。

     

    釈さん)

    日常が仏道であり、日常が聖であるという概念がある。その意味では、聖俗一元ではあるが、基本的な軸は聖にある。とは言え、急速に第1次世界大戦から第2次世界対戦にかけて、聖俗二元論になった、という印象がある。


    岩村さん)
    キリスト教の伝統、特にカトリックの伝統の中では、看想会の伝統がある。その中で、聖性の確保がなされてきた部分がある。モティベーションの維持という意味では、弱き人の中で、御仏を見るという側面や、カトリック教会では、貧しき人の中に神を見る。キリストを見るというところがある。また、被災者の中にキリストを見るということもあろう。今、病院や施設からの直葬の時代の中で、痛んだ人共に生きる出発点として、葬儀の問題はあるかもしれない。
    妙好人(浄土真宗の在家信徒)の面白さの中に、真宗の特徴があるのではないか。ひたすら不条理を受け止めるという側面がある。(ミハ氏註 これは、アーミッシュやメノナイト・ブレズレンの伝統の中にある)


    釈さん)

    こういうのはあまりない。いくら奉仕していても不十分という理解がある、善行したとしても、自分の都合ではないかということが常に耳元でささやかれるところがあり、不完全な慈悲だという側面がある。これは、真宗だけの事情が影響しているかもしれない。
    社会活動を分けて考える傾向が強い。善行するときにも、真宗の教えが批判してくる。つまり、いくらやっても偽物だ、と指摘してくる真宗の教えがある。それだからこそ、続けられるという側面があるのではないか。


    フロアから釈さんに)
    先程、疲弊した介護職の話が出てきたが、疲弊した宗教者のケアをどうするのかについてお考えがあるか。

     

    釈さん)

    介護の現場にいると特にそう思います。介護者の言いたいことを言える場が必要ではないだろうかと思います。尼崎で、介護者の言いたいことをいえる場所つくりが進められているが、そう言い場が必要かもしれない。


     

    (ミハ氏註 キリスト教だと、スピリチュアリティ・ディレクションということや、カトリックやアングリカン・コミュニオン、正教会での司祭のメンタリング・システムがある教派が、こういうのがないと、司祭や牧師の暴走とか、燃え尽きとかが起きるんじゃないかなぁ、と個人的には思う。ケアするものは、ケアされてこそ、ケアするものになれる、というのはナウエンも書いているが、実感として今、ケアされるという経験をさせてもらう中で、強く感じる)

     

    午後のグループ・ディスカッションのテーマとしては、ボンディングとブリッジングを考えてほしい。また、他宗教との協力は可能か。どうやったらいいのかを、皆さんで考えてほしい。


     

    昼食後、グループに別れてディスカッションに移ったがが、昼食時に、PCが不調になったので、記録ができなかった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    ロバート・D. パットナム
    柏書房
    ¥ 7,344
    (2006-04)
    コメント:ソーシャル・キャピタルの出発点になった、非常に良い本。おすすめしています。この本は基礎的文献です。

    評価:
    ---
    法藏館
    ¥ 3,240
    (2016-03-10)
    コメント:仏教宗門の詳細な実態調査や数値調査に基づく人口減少下での仏教寺院とその中での新しい方向性を求めている動きなどについての調査をまとめたもの。これがキリスト教ではできないのが何より残念。

    評価:
    Henri J.M. Nouwen,Donald P. Mcneill,Douglas A. Morrison
    Image
    ¥ 1,281
    (2006-01-17)
    コメント:非常に良い本だと思います。おすすめの一冊です。

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