2014.08.11 Monday

献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(3)

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     さて、これまでの2回で、第1回は、現代の若者(というよりは一般の皆様)の宗教事情で、軽く宗教施設と、等距離外交でお付き合いになっておられるさま)について触れ、続く第2階は、キリスト教(あるいはユダヤ教・キリスト教)の神と人間の付き合い方、一般に思う献金意識とキリスト教徒の献金意識の違い、祈りに関する違い、カジュアルでない神の愛について触れた。

     これまでの2回は、こちらから。

    献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(1)(2014.08.04)


    献金と賽銭 日本の若者の宗教への関与(2)(2014.08.06)



     賽銭というのは、こういう文化の中で生きてきたわけではないので、あまりよくわからないが、寺社にお参りをした時、あるいは寺社に対して、何らかの祈願をお願いをした時にチャランチャランと賽銭箱に入れていくものなのだろう。本来は祈願成就の御礼という側面が強いらしいが。

     今回は、これらの現代日本人(の若者)の賽銭意識と大分違うキリスト教にとっての献金とは何なのか、ということについて、触れてみたい。

    献金はお願いの手付金ではありません
     キリスト教会における献金とは、祈願の保障というのか、手付金として出すものではなく、また、祈願成就の御礼として出すものですらなく、みんなのもの(自分が通っている教会とは限らない)にするために自分が受けたものの中から、主体的に神の前にある共同体に対して、お渡ししていくものなのだろうと思う。ミーちゃんはーちゃん個人としては、別に、十分の一献金を絶対にしないとキリスト者だとは思わない。その意味で、十分の一献金は、一種のガイドラインであり、それ以上でもなければそれ以下でもない。その意味で、十分の一献金原理主義者ではない。また、1コドラントを投げ入れたやもめの例に倣い、全財産をささげるべきだ言う主張には同意できないし、健康を害するほど無理なことをして献金をすべきだとも思わない。また、たくさん献金をしたら神様からの祝福があるとも思わない。奉仕も、これまた同様。一生懸命、いっぱい奉仕したからと言って、経済的な祝福があるとか、霊的な祝福があるなどということは微塵も思っていない。

     確かに、人情として、献金として、これだけ努力したし、誠意見せたのだから、ちっとは祝福(ご利益)があっても…、と思いたい気持ちはすごくよくわかる。しかし、それは、神をドラえもんにし、自らをのび太にすることに等しいと思うのだ。ねぇ。これだけのこと(献金)してあげたんだから、なんかいいこと起してくれ、って。それ、自分が中心であり、神のお心が中心になってないんじゃん。

    キリスト教会と献金
    神の民の共同体のための資金として

     むしろ、キリスト者の献金は、神への祈願の実現のための先払いや着手金ではなく、神から受けたもののごく一部を神の民のコミュニティ(神の民としての集団)のものにすることでしかないのだと思う。もちろん、自分が通っている教会への預金や先払いでもない。その時々に応じて、自分たちのものである教会(目に見える教会だけでなく幅ひろいキリストの体)を支えるためのものとして、用いてくれそうなところに自分の意思で主体的にお渡しするものだと思う。

     使徒の働き(使徒行伝)の最初の状態における献金の扱いを見ていると、神の民のコミュニティと献金の関係が非常によくわかると思う。また、共同体全体の存続を支えるために献金が集まったがゆえに、当時の社会的弱者であるやもめたちが集まったのでもあろうし、そのやもめの中にいろいろ混じっていた、という事実も、忘れてはならないだろう。


    献金は牧師のためだけではない
    ”はず”です

     献金は、もちろん、一部牧師にわたる。それは、牧者とはいえ、かすみ食って生きるわけにいかないからである。牧師もある面、神のコミュニティの一部であり、その一部を形成するものとして、教会を支援していて、教会の諸々にほぼフルタイムで携わっておられるし、また、手直におられるので、その分割り当てられる金額が多いということなのだろうと思う。 このあたりのことについては、次回、ソジャーナーズの記事を紹介した後、次々回に触れてみようと思う。

     一度コメントいただいた方の中には、牧師が自分の趣味に走って献金を持ち逃げ、ドロンしたような悲惨な状況をご紹介くださった方があるが(その牧師と呼ばれた方は自分の関心のために多額の資金が必要であったのであろう。そのため、高額の献金を会衆に要求したのかもしれない)、そういう牧師を名乗っておられた方は、献金すると「祝福があります、家庭円満になります、子育てがうまくいきます」とかわけわからんキリスト教を装ったご利益誘導型新興宗教を形成されているのだろうと思う。まぁ、それもキリスト教の枠組みの中にあるのあれば、キリスト教なんだろうけど。

    祝福を目的化するのってどうよ

     神の民に祝福があるのはその通りであるが、その祝福とは、我等の譲りの地としての神のご臨在、聖霊のご臨在そのものではないだろうか。もちろん、この地上のことで祝福を受けることは大事なことだし、悪いことではないと思う。 しかし、それが目的となってしまって、それのみにとらわれ、われらの本来のヴィジョンであり、目的地(テロス 極まったところ、そもそもの目的地、終着地、完成があるところ)であり、目標でもある(あるいは神が我等と共におられることが最終目標である「はず」の)神を忘れるのどうかと思う。キリスト者って、われらのために神の愛の関係の回復を成し遂げるためにこの地上に十字架にかかられ呪われしものとなるために、そして、その十字架の上で全地の王、王の王、主の主、としての王座に着座するために地上に来られしイエスキリストを覚える人々のことではないのだろうか。

     それを忘れ、この地上の現実的な解決のみを求め、神をドラえもんにし、我らをノビタ状態をすることを求めることをよしとするって、どうなのかなぁ、と思う。

     もちろん、聖書に癒しが書いてあり、またイエスが痛みを持った人々のところに向かわれ、慰めを与えようとされたことは否定しない。しかし、イエスが、

    口語訳聖書 ヨハネ  14:27
    わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
    といわれたことも忘れてはならないと思うのだ。それが、我らがキリスト教がキリスト教であるゆえんであることも、忘れてはならないと思うのだ。

     次回、この話題に関係しているフルタイムでの牧師を持つ意味についてのソジャーナーズの関連記事を紹介し、そして、次々回に日本における献金と牧師(海外からの宣教師)との関係などに触れて、このシリーズを終えたい。


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