さと☆ひつじさんへ
さと☆ひつじさんへ
あなたの心の痛みをともに分かち合ってくれるイエスがおられること
これまでも、いまも、そして、これからも共におられるイエスであること
これまでいたところ、いまいるところ、これから起こる様々のことにも共におられること
あらしの中を共に弟子たちと船の中にいたこと
海の上を歩きたいといったペテロの手を握った方であること
そのことを共に覚えたいと思っています。神が常に与えようとしている慰めと平安があるように。
さとさんの姿がウェブ上で見かけられないのは、悲しい。
漠然としか祈ってあげられないのは、悲しい。
共に、子供さんの霊の成長の喜びを分かち合えないのは悲しい。
あなたの苦しみを、苦味を感じています。そして祈っています。
回復があるように。
サービス中止しちゃうんだって ブログ移行始めました。
CURURUのサービスが中止されるらしい。
それに伴い、データ以降用のサービスが提供されるらしい。
残念至極なことである。ここでは、Foceaさん、いなくなっち
ゃったけど、さと☆ひつじさん、コアラさんなんかとの出会い
があって、いろんな人とつながるきっかけができかけていた
だけにつらい。
ま、この不景気じゃぁねぇ。ここのスキン、結構きれいなのが
多かっただけに、ちと残念。
一応、JUGEMに移籍しようかと思い、準備を始めました。
ここで書いた内容は、JUGEMかどこかのブログサービスに
移行する予定。
現在利用する予定のブログは、JUGEMです。
アドレスは、こちら。
本当は、Voice_in_Wildernessとかにしたかったのだが、
あまり長いのはダメらしい。いずれにせよ、今後は、JUGEM
で試験運用を始めます。
最新記事は、JUGEMで公開していきます。ただ、お友達
のCURURUブログは、お気に入りからチェックしています。
こんごともよろしく
心からお見舞い申し上げます。
今は、みなさんの安全を祈るしかありません。
特に、帰宅難民になっておられる東京都内の皆さまに、心からお見舞い申し上げます。
皆さん、いろいろと考える素材をありがとうございました。
前回の記事で、大和郷にある教会の小嶋先生におねだりしたら、非常にご丁寧が回答を小嶋先生のブログの記事としていただいきました。小嶋先生には、私の意を十分くんでくださり、ご丁寧な回答をいただき、ありがとうございました。大変参考になりました。とりわけ、先生がお若いころの教会内での取り組み、ということは、ティーネイジャーの信仰の自立環境を考えてやりたい子供と暮らしております私にとりまして、非常に参考になりました。
また、応答していただいたものを拝読していて、一番言いたかった部分、自派の信仰スタイルに対する疑念をもつということの意味、それを相対化して考えることの部分、そして、自派の信仰スタイルの継承自体が信仰の継承ではないこと、ということに焦点を当てていただいて、ありがとうございました。
ご指摘いただきました通り、さまざまな文化的、政治的、社会的コンテキストの違いによる世代間関係の並立(対立)ということが、教会内で問題になるでしょうし、その結果、ご指摘されていたような既存教会の枠組みではとらえにくいようなイマージェントの実態をとらえにくい共同体(ムーブメントという方が正確でしょう)が登場するようなことが起こるのかもしれません。イマージェントのような、非常に緩やかな連携としてのキリスト者集団がバーチャル環境下で登場しているのも、既存教会内では、そのような動きを内在化できないからなのかもしれない、とも思います。ただ、個人的な関心としては、イマージェントのようなキリスト者共同体が、実態としての地域に実在する教会とどのようにかかわり、どのようにその教会によって受け入れられ、地域に実在する教会をどのように変質させていくのか、ということに、ミーちゃんはーちゃんは、非常に関心をもって考えております。
ある面で、イマージェントのような集団は、一種のゲリラ的な組織(正式な組織を作ることなく、なんとなく共通の関心でまとまっている姿が見えない共同体)であるがゆえに、既存の教会からすると不気味に見えるのだろうと思います。とはいえ、このようなイマージェントという既存の価値観とは違う人たちをどのように教会の内部に併存させていくのか、多元的な意識や価値観をもつ人々がともに存在するコミュニティとしての教会とはどのように考えるのか、そのコミュニティについて、聖書からどのように考えていくのか、考えたいなぁ、そして、さまざまな人々がともに神に向かうコミュニティとはどのようなものか、ということが、現在の私にとっての一つの課題となっています。
小嶋先生ご自身の神学校での教育経緯と信仰スタイルの相対化をどう考えるのか、ということについて、お示しいただきまして、ありがとうございました。実は、私と家内は、自派の教会に行くのが困難な状況におかれた中で、他の信仰者共同体に短期的に滞在することで、自己の信仰スタイルを根本的に、そして、批判的に見直すことにつながりました。この短期留学ともいうべき体験がなければ、自己の信仰ということを客観的に、そして、時に批判的に考えることもなく、相対化することもなかっただろうと思います。以前、このブログにコメントをいただいたHKさんは、普通の社会人として、ほかの人たちとの交流を通して、自身の信仰を相対化客観化しておられる、とのコメントを以前頂戴いたしましたが、ミーちゃんはーちゃんのように、自派の中の方だけとのお付き合いが多い場合、どうしても、自己のキリスト者共同体固有のことと、キリストの体、と申しますかコーパスクリスティと申しますか、キリスト者世界と申しますか、広いキリスト者共同体としてのコモンが何であるのか、という問題意識にぶつかることがなかったように思います。
コメントいただいた、YY様には、このような短期留学の経験は集会ジプシーにつながるのでは、というご意見をたまわりましたが、ご指摘のような懸念は私にも確かにございます。それは、消費文明に大きく影響を受け、選択の自由度が高まった社会環境で個人の感性に合う賛美や礼拝スタイル、自己の耳に都合のよいことだけを聞けるという非常に短絡的な理由で、参加する教会をかなり自由に選択する信仰者の登場につながることもある、という水谷先生のご指摘と同一の視点からのご懸念、と思います。また、これは米国で実際に見聞きしたことでもあります。
ひかるさまの非公開コメントでは、ご自身の三代目、四代目のキリスト者としてのご感想をお語りいただいております。非公開をご希望なので、公開いたしておりませんが、拝見しながら、じわじわと考えております。ご指摘いただいた問題は、自主的な信仰の確立が十分に行われていないメキシコ系のカトリックの方々とのお付き合いの中で、その実情を体験いたしました。私共がおりました教会には、マルチカルチュアルの環境の社会において、ヒスパニック系カトリックの方々にイエスを直接知るという経験を伝えたいという使命を感じておられるパスターがおりましたので。
信仰者がコミュニティの中で神と共に歩む民とともにあることで、成長するための示唆を受けることができる(それが牧師や責任者だけからとは限らない)とは、私個人は思っていますし、だからこそ、特定の教会にとどまる、ということは重要だと思うのです。もちろん、それは、小嶋先生がお書きになられた表現を用いれば、摂理的配慮を信者がどのように考えるか、とつながっていく問題だとも思います。摂理的配慮は、大事にすべきものとも思います。ただ、それも、個人的な神との関係において、どのような節理があるのか、ということを考えていくことが重要なのかなぁ、と思います。
しかし、現実には、そのキリスト者集団の人数や年齢構成、さまざまな構成員の人的要因によって、疑問に思ったこと、なんとなく思っていることなどを個人としての信者間交流の中で直接聞けない(聞いたところで、共通理解や問題意識の共通性がないために、適切な回答が得られるとは限らない)あるいは意見交換できないことが、意外と多いのではないか、とも思います。実は、こういった意見交換の機会というのは、教会では意外と少ないのではないかなぁ、と思うのです。私にとって、現在、そんな状況におります。
だからこそ、ネット上で、意見を投げてみて、意見交換がそれぞれの人々の関心に応じて可能であるからこそ、イマージェントのような動きがあるのではないか、と思います。そして、それを可能にするネットというインフラストラクチャーにより、その存立の可能性が一気に広がったのではないか、と思います。
私自身、水谷先生のブログ、小嶋先生のブログ、のらくら者の日記のH先生のブログ、南の島のブログ王子こと久保木先生のブログ、松ちゃん様のブログ、YYさま、HKさま、ひかるさま、minakoさま、UgoUgoさま(順不同です。ごめんなさい)、Ministryの記事などで示されておりますご意見を拝見しながら、思うことを殴り書きすることで、なんとなく自分の教会では聞けないこと、聞いたところで深い対話ができそうにないことなど、ほかの人々からの意見を参考にしながら、自分自身の考えを相対化し、そして反省する機会として、そして、まとまらないまま反省したこと(考えたこと)を書きなぐっているように思います。そんなものにお読みいただいている方にはお付き合いいただいており、申し訳ないのですが。
もちろん、これまでも、書籍や雑誌を読みながら、自己の考え方を抽象化してきましたが、これだと、どうしても書かれたものを読み、自分の中だけで考えてみているだけに終わってしまい、双方向性の対話という形にはなりません。そのような書籍などの場合、自分自身の問題意識とのずれがあった場合、それなりの費用も発生するし、本棚もスペースをとってしまいますし。
私のように、神学教育を受けていないものは、今の話題、気軽な問題提起がしにくいということもあります。さらに、一信徒としてライブの話題について気軽に問題提起というのは、限られているように思います。私が、そう思い込んでいるだけかもしれませんが。
そのようなことから、皆さんからの、ブログでの問題提起やご意見を頂けることで、私自身、考える素材をいただいており、そのことを皆さんに感謝したいと思います。
どうも皆さん。ありがとうございます。
また、これからも、時に触れ、折に触れ書いてまいりますので、よろしければ、突っ込みを入れていたき、私が考えるきっかけを頂戴できれば、とわがままなお願いをお聞きいただければ、大変うれしく存じます。
皆さん、ご参加ありがとうございました。
ハウスバーモントカレーの昔のCFではありませんが、「ミーちゃんはーちゃん、感激ぃ〜!」の世界でございました。
ご講演いただいた、水谷先生。
調整を図っていただいた、セカンドレベルミニストリーのハセさん、
ギター演奏をしてくれた、梶原豊さん、
そして、参加してくださった大勢のみなさん、
みなさま、どうもありがとうございます。本当に皆さんのおかげです。
席上献金に応答していただいて、小さないのちを守る会のご支援いただいた方々にも、深く感謝。
一部では、むちゃくちゃこい神学談義。
めぐまぐま様へのお返事
お手紙としてのコメント、ありがとうございました。
いただいたコメントのほうは、非公開とさせていただきますね。
長くなったので、お返事としての記事をお書きしておきます。
ミーちゃんはーちゃん自身は、信条というものに対して、一切価値を見出さない、やや極端な立場に立つ教会で育ちましたし、現在おりますところの教会も、その立場に立ちます。それはそれで、一つの立場として尊重しておりますし、多少不自由は感じますが、多様な教会の一つの考えとして受け入れ、過ごしております。
信条に冷淡な態度をとるといいましても、聖書の理解や教会の理解に関しては、信条(聖書理解をコンパクトに要約し、わかりやすくしたもの)と基本的に同じであり、それを聖書のお話などを通して来会者の方や信者の方に繰り返して維持しながら、理解していただく、という形をとっております。この方法ですと、確かにやや迂遠かなぁ、と思いますし、信者さんには、ある面、何度もたくさん聖書を読み、理解してもらいながら、信条に近いことの体系を理解していただいているので、大変、しんどい思いをしていただいております。確かに、信条とかがあったらもっと便利なのに、ということを思うことがあります。迂遠な分だけ、鈍行列車の旅のような別な味わいもありますが、鈍行列車であるがゆえに、意味がわかりにくく感じられたり、つらく感じられる方も中にはおられるようです。
しかしながら、信条を唱えていても、ご指摘にもありましたように、信条が表現しようとしている文字の裏側に示そうとされた意味をあまり考えないのであれば、結局のところ、呪文や、呪術文と化したオラショと同じというのはその通りだろうとおもいます。また、どこまで、信条の中に意義と意味を見出そうとしているのか、ということは信徒も教会も問われると思います。そのためには、信条と聖書を照らし合わせるような繰り返し繰り返しの聖書からのお話も必要なのかもしれません。
ただ、聖なる公同の教会と聖徒の交わりにつきましては、海外のしばらくおりました際に他のキリスト教会(Free Evangelical Community Church)に行って思いましたのは、ここも信条は一切口にしなかった教会ですが、初めてお会いする方々とも、共通部分としてのキリストと聖書ということは存在した、それを共有部分にできた、ということでございます。まさしく、聖なる公同の教会、聖徒の交わりの価値といいますかね、そのありがたさを感じました。異国の地で一人でない、ということを感じたのでございました。交わり、というとわかりにくいのですが、あぁ、交わりとは、仲間であると相互に認証することだし、それができることか、ということが理解できたのですね。Fellowshipですし、コイノニアということの意味がおぼろげながら感じられた経験でございました。
どうしても、人間は最初にイエスと出会ったところでの聖書の理解やイエスの理解がその後の信仰生活や聖書を読んでいく際の一つの補助線(というか定規)になってしまう、という側面があるようです。私も例外ではありません。しかし、聖書の理解はもっと多様で、さまざまなものがあってよいように思います。といいますのも、時代が違い、環境が違い、立場が違う人たちを一つの定規に納めて、それで測定してわかったような気になることは、問題が少なくないように思います。律法学者の聖書理解はそのようであったためか、イエスは、それは正しいのだろうか、と問うておられるように思います。ただ、長らく信仰生活を続けておりますと、ある状況が当たり前になりますために、定規のようなものが中にできてしまう、パターンというものができてしまい、それが神の座を占めることや、あまりに当たり前に行われることで、神の領域を侵犯していることに気づかなくなる危険性もまたあるようです。本当に怖いことです。
ところで、私自身も、ここでも書いたように思うのですが、実は、今の教会に行く前に同じ信徒集団の一つの教会を飛び出しております。ま、きっかけは、実にくだらないことだったのですが、ただ、それが発展した結果に納得ができなかった(何が何でも責任者がきめて、それに従うことを求められましたので、それに異論を申し上げたところ、非常に不愉快な思いをした)ため飛び出した、ということでございます。当然、私自身の今もなお続く、コミュニケーション能力の貧相さもあったと現在は、反省していますが。
残念ながら、地上にあるローカルな教会(地域にある教会)は、聖なる公同の教会の一部の性質を持つものの、完全に聖なる公同の教会そのものではないとミーちゃんはーちゃんは理解しておりまして、そこにはパウロの諸書簡にもありますように問題と課題が山積しているところもあるし、全く問題がない完璧な教会も存在しないのだろうと思います。
だからこそ、パウロからほとんど悪口に近い叱責を受けている教会があるのだろうと思います。だからこそ、昔から、また、今なお、パウロの手紙が広く読まれてきたのだろうと思います。そして、課題と問題が今もなお手を変え、品を変え、少しずつ現象を変えながら繰り返されているのだと思います。
思いますに、人間はイエスに抱きしめられるようにして罪がふわっと覆われている存在でしかなく、人間からは根本的には罪が抜き去られていないのではないか、と思ったりしております。このため、信仰者とはいえ、神を見るのではなく、神以外のものに目を奪われたり、思いが行ったりするのではないかと思います。神に心を向けることを忘れ、ほかのものを目を止める、そしてそこに心が奪われることが罪だ、と聖書は主張しているのだと思いますし、イエスはそのことを神の国ととの関連で、あなた方は、神の国とその義を第一としなさいとおっしゃったのだと思います。残念ながら、人間は完全ではありませんゆえに、神が必要なのではありますが、それを忘れ、自らを神とすることがあります。私もかつても、また今もそうだと思います。それが罪なのだろう、と思います。
ミーちゃんはーちゃんも、気をつけておりますけど、今なお、自らを正しいものとすること、つまり、自らを神とすることや、無意識にそのような状態になっていることがございます。このような結果として、教会のさまざまな会話や対話の中でそれがいろいろな部分から破れ出るように、問題や不具合、混乱や、悩み、信徒の痛みとしてあらわれるだろうと思います。
ご指摘のように、教会を出て行った人、出ていかざるを得なかった人、出ていかなかければならなかったことが発生した事実についての真摯な反省をすることは、信徒の群れとしては必要なのだと思いますし、それ以上に不断の努力として、聖書と自らの姿を照らし合わせ、教会や信徒一人ひとりが、自らが神となっていないかどうか、神の領分を領空侵犯していないかどうか、それぞれの聖書の理解の妥当性をきちんと検証していく作業が必要なのだろうと思います。面倒なことですし、つらいことではございますが。ただ、日本では、キリスト教はプロテスタント系教会も、カトリック系(異教化してしまった隠れの方々は除く)教会もおよそ200年弱ですから、まだ、教会も発展途上にあると理解したほうがよいのかもしれません。
日本では教会そのものが発展途上ですが、教会として確立され、発展しているはずの欧州やアメリカでは、信条やそれ以外の神学理解が発展してしまったために、本源的な福音と福音書の理解やそのものが軽んじられる状況にもあるようです。Scot McKnightという方がキング・ジーザス・ゴスペルという本でその旨、ご批判されておられます。また、N.T. Wrightという方が、How God Became Kingという本で福音書の理解をもう一度再検討することの必要性を示しておられるようです。まだ読みかけなので、何とも言えませんが。たぶん、そうだと思います。
ところで、私どもの信徒集団は、かなり流出者が多い集団でもありまして、そのことをアメリカの信徒群をもとに調査された神学校の先生がおられますが、これまた難しい側面を持つようでもあります。流週された信徒を見つけるのが難しい、見つけられたとしてもなかなか調査に応じてもらえない、調査された教会は、暗に批判されたと感じる・・・。
このためには、先ほどもお話しいたしましたように、信徒一人一人、教会一つ一つが、他者のみを批判するのではなく、神との関係の中で、それぞれが自らを神と等しくしていないか、神の領分に領空侵犯していないか、ということを考えるべきなのかなぁ、と存じます。
めぐまぐま様、コメント、本当にありがとうございました。
これまでのめぐまぐま様ご夫妻の通られた厳しい道を考えますと、心からの同情を禁じえませんが、ご夫妻様の上に神との豊かな関係がございますよう、祈っております。公同の教会の一員として。体なるキリストの足か手、あるいはおとった器官だとは、思っておりますが、キリストのからだの一部として。
うわぁ。いじょうだぁ〜。ぴーぽーぴーぽ〜。
そしたら、アクセスがいきなり600越え。
このブログは、マニアックな内容をひたすらマニアックに追及するキリスト教メディアでは怖くてやれない事をやるブログ(キリ新さんは、これに近い事をしてくれるから好き。こんなことを書くから、キリスト新聞社の御用ブログって言われる。でも、Ministry大好き)であるので、常時100−200程度なのだな。そんでもって、200超だと、あー昨日は人数多かったなぁ、と思うのであるが、ここのところ、毎日500アクセスを超えている。うわぁ。い、いじょうだぁ、である。
御紹介いただいた、水谷先生、ありがとうございますた。ミーちゃんはーちゃんマンモスうれピー(と酒井紀子のまねをして遊んでみる。年甲斐もなく・・・・)
上智大学大阪サテライトキャンパスでの講演会のご案内
場所:上智大学 大阪サテライトキャンパス (サクラ・ファミリア)
日時:2月16日(土)13:00-14:30
費用:2500円
上智大学のサイトからの説明の引用
第一部「聖書が説く知恵」(雨宮慧)
聖書の知恵は主に「自然や人間社会を含む世界秩序に関する知恵」を表します。その探求の古い段階では、箴言10章以下の「ソロモンの格言集」のように、体験に基づく知恵が語られましたが、前6世紀の捕囚後になると、秩序の存在への懐疑を特徴とするヨブ記やコヘレトの言葉が現れます。
しかし、前3世紀以降、人間の限界を認識するまで知的活動を徹底する一方で、その極限において神に出会い、「神を畏れることが知恵の初め」と説くシラ書や知恵の書が現れます。この流れを踏まえて、聖書の知恵の特徴を考えてみたいと思います。
詳しくはこちらをクリック。
しかし、雨宮先生のお写真が、大変残念…。もっといい写真があるでしょうに。Ministryなんかで撮影してもらった・・・。(と、Ministryを宣伝しておこう)
講演会の様子については、後日報告予定。
おまっとさんでございます。
このブログで、カレドニア様、ニュッサ様をはじめとする皆様方からコメントを頂戴いたしましたことから、ミーちゃんはーちゃんが出版することになりました、とうとう「福音の再発見」がキリスト新聞社に到着いたしました。ただいま和光のキリスト新聞社から順次書店に向けて発送している最中だそうでございます。
もうちょっとで各地書店に入荷するものと思われます。今しばらくのお待ちを。そして、ぜひともお買い上げいただきたく。こちら様も、あちら様も、どちら様も、隅から隅ま~で、ぁ、ずずずぃ〜〜〜〜〜とご愛顧賜りますように、平に、ぁ、平に〜〜〜〜ぃ、お願い申しあげるしだいでございまする~~~~~~~~。(なぜか厨二病心が出て、歌舞伎の顔見せ風のご挨拶 wwwww)
福音の再発見トークイベント ありがとうございました。m(_ _)m
福音の再発見のトークイベントにライブでご参加いただいた方、ありがとうございました。
当日は、20人以上の方がお越しいただきまして、大変楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。小嶋先生の知性、翻訳者の中村さまのパッション、松ちゃんのクールさ、ミーちゃんはーちゃんのおバカ話、などまぁ、実に楽しい時間でございました。裏話満載の(ブチブチ映像はキレるは、録音、録画できてない部分が出たり、音声も時に切れるはで大変お目汚しになっておりました。 m(_ _)m おゆるし、してたも〜)フラッシュでコリジョン起こす、プロジェクタつないだ瞬間にボタンがみえなっくなるなどの諸事情があり、放送用PCとプロジェクタ用PCを分けた方がよかったと後から気づく始末。
とはいえ、Ustreamの放送も、水谷潔先生のブログで取り上げられたこともあり、結構アクセスがあり、当日ご覧いただいた方が40名ほど、録画でご覧いただいた方が130名ほどでございました。ありがとうございました。
おかげさまをもちまして、第2刷も順調に出ているようで、いや、エポックメーキングな様子らしいです。
どうも、皆様、ありがとうございました。心より、本書の企画をしたものとして、お買い上げいただいた皆様に、こころより御礼申し上げるとともに、皆様に愛され、ご活用されますことを心から祈念いたしております。
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