2008.02.11 Monday

罪って何だろう?

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    コララさんからの質問で、罪の問題って、ひょっとしたら信者の皆さんに伝わっていないかもしれない、そういえば、教会でしゃべるのを避けていたなぁ、でも、信者の生活にとって重要だよねぇ、ということを改めて、お話ししないといけないかなぁ、と考えさせられたので、今週のお話として(本当は聖書研究会で信者向けのお話しをする時間だったのですが、たまには、基本も良いでしょうということで)、罪についてお話しました。


     


    まず、罪は、これまであまり触れてこなかった理由として、罪の問題は重要だけれども、必要以上に恐怖感や罪悪感を持つ方がおられるので、避けてきました。


     


    また、罪は日本社会や日本語にはない概念なので、分かりにくいですよね。日本の方にご説明するとき、このことって、結構説明が難しいんですよ。じゃ、皆さんはどう説明されます?と参加者の方、求道者の方や、信者の方など何人かの方にお伺いしました。罪は、よく分からないとか、誰かをだます、誰かに悪いことをするということしか出てこなかったので、じゃ、私が説明するとしたら、どう説明するのか、という事で、実は、死ぬことって、人間にとってやな事ですよね。でも、何でイヤなんだろう。死後に何もないなら、恐れる必要はないのに。それと、なんとなく居心地の悪さを感じるようなことがありませんか。日本には、絶対はないんだけれども、なんとなく感じる居心地の悪さ、それが罪の意識だと思います。


    実は、ギリシア人やローマ人にも、絶対という概念がないので、罪って、分かりにくかったんですよ。だから、聖書は、かなり新約聖書で罪の話をしています。


     


    で、今日は、ヨハネの第1の手紙から中心に考えましょう、という事で、罪、愛、赦し、救いは密接に結びついているのですが、その中から罪って何でしょう、ということを中心に触れることにしました。罪って、神様との間で居心地の悪い関係が続くことです。人間関係でも居心地が悪いのはイヤですよね。それと神様との間の関係も同じです。だから、人間でも回復が必要なのと同じように、神様との間の関係でも回復は必要ですよねぇ。そのために、イエス様が地上に来てくださったのです。


     


    で、ヨハネ第1の手紙では、罪についていって、律法に逆らうことだ、といっています。律法に逆らうことって何?ということを考えるのに、イエス様が行っている律法のポイントを考えて見ましょう。二つしかないんです。神様を愛すること、神が創られた人を愛すること、この二つだけなんです。これがうまく行かないとき、罪だと聖書は言っているようです。もっと言うと、私たちを愛している神様の愛を無視すること、神様とその愛に冷淡にすることが罪なんです。神様の愛を裏切ること、それが罪だと思います。


     


    第1ヨハネの 1章7・9節からは、イエス様によって、私たちのすべての罪が例外なしに清められること、赦されること、きよめてくださること


    第1ヨハネの 2章1節2節からは、私たちをイエス様が全力で弁護してくださること、私たち一人一人ではなく、全体についての罪を許してくださる方であること
    第1ヨハネの 3章5節では、キリストは、私たちと神様との居心地の悪さである罪を取り除く為にこられたこと


    が書いてあることをお話しし、でも、これは地上では完全な形では完成せず、天国で完成します。地上では、私たちは義と認められる、ということでしかありません。ローマ人への手紙の3章24節でもそう示していますし、同じローマ4章25節では、私たちが義と認められる(義とされる)ために十字架にかかってくださったのです。


     


    では、罪が許される為には、神様の前での告白が重要です。イエス様ご自身が、ルカの18章10-14節で罪の悔い改めている取税人が神様の前に祈ったことで、義と認められたということをお話しし、その告白があることで、義と認められ、神様との間の関係が回復することになるのだ、というお話をしました。


     


    もし、私たちがこの罪のある状態を解決できないとなるとどうなるか、それは永遠の死、神様の前から永遠に失われることになります。それは、神様は望んでおられないのです。神様は、詩篇23篇に書かれているとおり、私達の敵である罪の前で、私たちを攻め立てる罪の前で、神様との和解が成立している食事の場を設けて下さろうとしているのです。


     


    その意味で、クリスチャンとして、神様との関係が正しい状態にあるかどうかを考えることが重要ですよ、ということをお話ししました。


     


    参加された方が、よく分かってもらえるとうれしいのですが。


    2008.03.09 Sunday

    あなたがほしいもの

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      今週のおはなしは、あなたがほしいもの、というテーマでお話しました。


       


      まず、何人かの方に、皆さんがほしいものは何ですか?とお話をお聞きしました。


       


      答えとしては、本とか、遊戯王カードとか、ほっとした時間とか、特に何もない、というようなお話を伺ったあと、どうも、私たちは、自分たちが理想としているとは言うものの、自分自身持っていないものをほしがっているようだ、というお話をしました。


       


      赤ちゃんなんかはほしいものはすぐわかりますよね。眠いとき、お腹が好いたときには泣いてその必要を叫びますし、ほしいものはそんなにないので、わかりやすいですが、大人はいろんな形で、ごまかしてしまうので、必要なものはわかりにくいですよね。ごまかしてみたり、他の代わりのもので妥協してあきらめてしまうとか、自分たち自身の本当の問題に目をつぶって本当の問題点、ほしいものをごまかしている場合が多いですよね。


       


      聖書が与えようとしているものをお話します、という事でマタイ5章3節『心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』という部分を読んでお話しました。


       


      ここの貧しいという意味は、単に現代の意味である、欠乏感があるとか、不満、不安があるとか、満足感がない、あるいは裕福でないという現代の貧しさではなく、絶望的な生きることすらできない貧しさ、という意味で、ルカ16章に出てくるラザロという貧しい人に使われているのと同じことばであることを説明し、絶望的に貧しいということであることを説明しました。


       


      さらに心が貧しいというのは、精神的に貧しい、というのではなく、霊の意味で、貧しいという意味であることを絶望的な欠乏があることを示していることをお話しました。さらに、神様との関係が欠乏していること、自分自身ではどうにもならない、何も解決できないという絶望感であることをお話し、ここで言う心の貧しさとは、神様との関係が絶望的に不足しているということを素直に認められることです。


       


      もし、このことを認めれば、天の国、神との関係は私たちのものであるというのが、天の御国はあなた方のものです、というのが聖書の約束です。それは、普通の場面であるように、誰かがそれを持つと他の人の取り分が減ったりするというのではなく、みんながともに受け取りながら、それを味わうと同時に、みんなが一緒に楽しむことができるものです。


       


      そして、神の国とは、圧倒的な豊かさであり、どんな欠乏でも満たすことができるものです。もちろん、人間は生きている間は、その豊かさを全て味わうことはできませんが、人間が点の国に言って神様との関係を純粋に味わうようになってから、完全にその豊かさを味わうことができるのだと思います。


       


      さて、皆さんは、欠乏感というのか、漠然とした不安感をお感じになったことがあるのでしょうか。もし、この豊かさについて、味わいたいと思われるのなら、自らの状況をよくお考えください。もし私たちが欠乏があると素直に認めることができるのであれば、神はその欠乏を埋めてくださるとともに、考えることのできない豊かさを私たちに提供しようとされているのですが、みなさんはどうされますか。ぜひお考えください。


       


      という形でお話しました。若い方がこられなかったのは残念でしたが、年配のご夫妻が聞いてくださったので、本当にこの豊かさを味わうようになられれればいいのに、と祈っております。


       


      2008.09.03 Wednesday

      信仰の諸側面 ヘブル11章1-6節

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        ヘブル書10章の復習をしながら、イエスキリストが、人間が生きている世界と、天の世界をつなぐ唯一の存在であること、神の国(神の支配)と地上の生活が並存し、相互に関係を持つ、ということを説明した上で、ヘブル11章のテーマである信仰という問題、つまり、地上において、神の支配のうちに生きる、という問題をご説明しました。


         


        特に11章1節の信仰の定義から、信仰とは、目に見えていないものが、実存することを主体的な行為として認めること、それを第3者に事実であるということを、説得、宣言する行為である、ということをお話しました。


         


        また、新約の内容を見ていると、信仰は、力という概念と密接に関係していること、キリスト者の価値は、その現実のありようではなく、神との関係のあり方にあるということ、ことばに力があり、ことばで世界が作られたこと、信仰とは、自分が喜ぶことではなく、神が喜ばれることを感じ、そのことを喜ぶこと、信仰とは、神に積極的に関係を求め、神自身とともに時間を過ごすことである、ということをお話しました。


         


        今回も、45分をかけたとはいえ、6節分すら、進まなかった。他の方は、1章くらい、あっという間に進んでいかれるのに。まぁ、じっくりと味わって聖書を読んで生きたいと、このところ思っているので、教会の皆さんを巻き込んでしまっているのかなぁ、と反省。


        2008.09.14 Sunday

        今日の福音メッセージ

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          今日は、証をかねた福音のメッセージしました。このブログでもご紹介した100歳を超えて生きておられた信徒の方のご親族の方が来ておられたので、そのかたがたにかなり配慮したお話になりました。


           


          まず、私が高校生の頃、第2次オイルショック、急速なドル安、で日本国内の経済的な不況が深刻化し、それを背景として、ディスペンセーション論がキリスト集会と自称していることが多い福音派のキリスト教会のなかで、大流行したこと。それが私を含めて多くの人々に影響を及ぼしたことをお話し、多くの問題があったということをお話しました。このような具体的な社会事象への聖書の預言のかなり無理な適用が見られたことをお話し、このような無理な適用が聖書の中心的なテーマではなく、その預言の先にある、『ふるさと』にもどることこそが、聖書の基本的なテーマであることをお話しました。


           


          しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11章16節)


           


          『故郷』は、出発点であり、到着点であること。なぜ、出発点かというと、母親の胎盤の中で私達が形作られている間も神の関与があるということは、聖書の基本的な教えであること。その意味で、私たちの出発点で神の関与と関係があること、また、キリスト者が目指している天の故郷とは、単に天国という行き先ではなく、神の関係と関与がある場所であることをお話しました。


           


          もし、私たちの死後に何もないのであれば、私達は、何も恐れる必要はないけれども、私達が恐れるのは、私達が故郷でないところに行くことになることを漠然と理解しているからではないでしょうか。聖書の約束は、私達が、天の故郷に帰ること、そこは故障が沖たる、トラブルが続発するような情けないような場所ではなく、非常にすばらしい場所であることを聖書は主張しています。だからこそ、是非、この天の『故郷』のことをお考え下さい。この故郷は本来、すべての人のものなのです。というお話をしました。


           


          大分、朝の学びとかぶってしまったのですが、まぁ、皆さん、よく聞いてくださったと思います。まだ、神様のことを信じる決心が付いておられない方もたくさんおられなかったので、良かったかなぁ、と思います。


          2008.09.15 Monday

          ヘブル11章11-16節 信仰について再び

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            今日のお話のポイントということで、


            □前回の復習
            □11章前半のユニークさ
            □サラという人物・アブラハムという人物
            □待つということの意味
            □旅人・寄留者ということの意味
            □『故郷』ということの意味


             


            というテーマでお話します、とお話した後、具体的な内容に入りました。
            前回の復習という事で、
            ともに過ごす信仰の側面の重要性、信仰による家族への救いをノアの事例から見ることができること、使徒の働きの中での家族の救いとの関連性、アブラハムの召しへの応答としての信仰について振られていることから、信仰とは、アブラハムのように神の呼びかけに反応していくことであることを8節からお話しました。また、ともに相続、受け継ぐ信仰という側面が、アブラハムとイサクの例を通して、9節にみられること、神の国・神の都・神の支配とともにあるものとしての信仰10節でお話し、神との関係としてお話ししましたが、どうもそれでは不十分であることに気づいたので、今日は、その部分について、お話して以降と思います。という事で、お話していくことにしました。


            最近、ヘンリー・ナウエン「ナウエンとともに読む福音書」(あめんどう)を読むことで、


             


            □ともにあること
            □共同体としての信仰者


             


            ということで聖書を読むことが増えてきました、というお話をした後、神とともに、神とともに歩んだ人の共同体ということを考えると、 ヘブル11章前半のユニークさが見えてくることをお話しました。まず、アダムが含まれないことに、何らかの意味があるそうであること、その反面、アベル・エノク・ノアが含まれることから、より広い神の共同体を意識しているのではということをお話しました。なぜならば、ヘブル人にとっては、アブラハムが出発点なわけですから、アブラハムから始まってもいいようなものですが、アブラハムが始まっていないことから、アブラハムの子孫の中だけで信仰を捉えるという概念を、この作者はあえて否定しているのでは、というお話をしました。


             


            つまり、ヘブル11章前半のユニークさとして、アブラハム・イサク・ヤコブの神を超えた神の概念があるような気がしますし、このアブラハム、イサク、ヤコブの神を超えた神と人との関係、つまり、イエスと神と人間という関係のありかたこそが、ヘブル書全体に流れている通奏低音であるというおはなしをしました。その意味では、ここでは、地域を越え、歴史を超え、神とつながろうとした、神のもとに帰った人々の共同体と信仰との関係が意識されている可能性を感じていることをお話しました。


             


            次に、11節からでは、サラに対する言及があることについて、女性が出てくることに注目したいということをお話しました。なぜならば、旧約聖書の中で、信仰にある女性出会っても、その存在は無視に近い扱いを受けていること、また、ユダヤ社会に限らず、地中海社会で、女性の位置は低いユダヤ・ギリシアでも女性は社会の枠外におかれていたにもかかわらず、サラの存在が取り上げられていることが重要だと思います。
            サラは、あなたに子供が生まれる、といわれて笑ってしまった人物です。なぜ笑ったのか、ということに関しては、よくわかりませんが、信仰がなかったのから笑ったのか、常識人としての反応かも知れない、とお話しました。
            ただ、待つこととサラという観点から見たとき、サラの存在は非常に面白いと思います。サラは、待たされることを余儀なくされた人物です。なぜかというと、子供が生まれなかった上に、アブラハムは、サラをエジプトでパロに差し出して(創世記12章)いますし、また、別の王にも妹だと偽って、サラを差し出しています。そういう意味で言うと、子供が与えられるのを、彼女は、またされ続けたわけですし、またされ続けた人生だったようです。


             


            実は、当時の社会にとって子孫は非常に重要な存在でした。まず、財産の継承のためにも重要だったわけですし、アブラハムは、非常にこのことを心悩ませていました。呂とに財産を譲ることを検討していた印象も受けます。ところが、サラは、現実的には、出産が無理な年齢であるけれども出産しました。この事実は、エリザベツ(バプテスマのヨハネの母)の例を思い起こさせます。そういう意味で言うと、この待たされたと言うことは、何らかの意味を私たちに告げているようです。
            一人の人間としてのアブラハムとサラをみたとき、アブラハムもサラも、不完全な人間といってよいと思います。たとえば、アブラハムは、サラをエジプトのパロ・ゲラルの王アビメレクに妹として差し出しているわけですし、サラは、ハガルとの関係をアブラハムに与えておいて、後にハガルをいじめているわけです。本来的に考えれば、このような人物が信仰の先人として評価されているというのはちょっと理解に苦しみますが、このような人物たちが評価されている意味をもう一度考えてみると、人は罪を犯すが、それでも神は人との交わりを求めておられるということ、救いの意味・十字架の意味・神との関係を深める意味を考えていくと、完全な人間はいないこと、でもそれらが神にあって、歴史的な時間を超えて共同体を形成しうることの意味を教えようとしているのではないでしょうか。
            今日は、もうひとつのテーマとして、待つこととしての信仰ということを考えてみたいと思います。おそらく、信仰とは、待つことだとおもいます。これは、11章の後半のテーマの一つとなっています。最近、ナウエンに請っていて、またまた、ナウエンのご紹介ですが、今週、「待ち望むということ 」(あめんどう)という本を読みました。すごくいい本でした。ぜひ、本を読んで考えていただきたいのすが、簡単にナウエンの主張をまとめると、信仰とは、積極的に待つこと(待ち望むこと)であり、ヘブル書11章1節にある、忍耐をもって待つこと(望んでいることを確信)だろうと思います。このナウエンの本を読んだ後で、もう一度、ヘブル11章10節をみてみました。すると、彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。という表現が出てきます。前回は、信仰とは、神の支配のもと、神の主権のもとにあることを認めることと、天国が我々の希望であることを中心にご説明しましたが、もう一度、待つということの視点で見てみると、『彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。』という表現が出てきます。ここでの、待ち望むという表現は、ギリシア語では、エクデモヒー 『受け取る、期待する、待ち望む』といった意味があり、同じ言葉は、ヘブル10章13節でも出てきます。ここでは、イエス自身も実現していないことを待っておられることとして触れられています。


             


            待つということを考えてみると、ナウエンが言うように、現代人の私たちは不得意です。ただ待つことは、悪いことと考えがちです。あるいは、待つことは、時間の無駄と考えがちです。先週の家族で買い物に行ったのですが、その中での母との会話では、母が待つことが嫌いなので、病院の方が、リハビリなどのタイミングを早めてくれるという話しをしていましたが、私も似たようなところがあって、待つとイライラすることが多いです。でも、本当に、待つとは無駄なことでしょうか?何かすることで、時間を使わなければならないという強迫観念に取り付かれてないでしょうか?本来、待つということの中にあるはずの神との豊かな交わりの時間を忘れてないか?ということを考えていました。



            少なくとも、モーセの時代の人たちは、かなり緩やかな時間の流れの中で、待つという生き方をしていたはずですが、そこでもっていた、豊かな神との交わりといやし、回復の時間があるはずなのですが、積極的に待つこととは、神の主権を認め、神の関与を期待し待つことではないでしょうか。松中で、現実が、自分の思い通りになることを期待してないだろうか?そういう祈りになっていないか、ということを考えることは重要かもしれません。


             



            11章13節 待つこと・旅人・寄留者 というテーマの下で、「 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした」という部分から、待つこと、祈ることは、現実の世界にあるものを手に入れることと必ずしも限らないのではないか、ということがここからも見られるように思います。「地上では旅人であり寄留者である」ということから、現実の世界での実現を待ち望むことが、必ずしも信仰ではないことを暗示しているように思います。旅人であり寄留者であるということは、人間的なつながりに頼りにくいわけですが、人間は、共同体でこそ、生存可能であるわけです。この人間的な地上での共同体との関係が弱いものが、旅人・寄留者なわけです。ところで、我々は、寄留者に過ぎないのかということを考えるとき、前提条件としての『地上では』、というところが重要だと思います。私たちは、地上では寄留者かもしれないけれども、神の共同体にたいしては、旅人・寄留者ではないことは覚えるべきでしょう。ただ、地上の共同体も重要であると思う(寄留者という表現)を考えたとき、アルプスの少女ハイジのオンジになるのであれば別ですが、地上での人のつながりは重要だと思います。
            『故郷』という比喩(メタファー)を考えてみるとき、15節・16節は重要だと思います。
            『故郷』というメタファーにどのようなものが含まれると考えると、故郷とは、出発点であり、帰り着く場所でもあること、現在の状態を一時的なものとして捉える意味があることをお話しました。


             


            故郷ということを考えると、思い起こされるのは放蕩息子のお話です。放蕩息子が、戻ろうとしたのは、彼の故郷であったし、サポートが得られる共同体に戻ろうとしたわけです。また、彼は使用人の一人にしてくれ、と頼んでいることから、富を目指したのではない・生存だけを望んだ帰還であったわけです。



            また、ナウエンですが、ナウエン 『放蕩息子の帰郷』あめんどうを読みました。これほど、深い、放蕩息子の解釈を聞いたことがありません。ところで、この間、ETという映画を見たのですが、ET phone Homeをきいて、私たちはなぜ感動するのでしょうか。なぜ、スピルバーグという監督は、彼にそういわせたのでしょうか。故郷という観点から考えたときに、
            『故郷』には、自分の原点がある
            『故郷』には、自分をはぐくんだものがある
            『故郷』には、自分を支える人々がいる
            『故郷』には、家族がいる
            『故郷』には、待っている人たちがいる


             


            側面があります。さて、私たちは、神の都、天国、神の支配について、それが本当に『故郷』といえるものになっているでしょうか?私たちは、そこを希望にするとともに、私たちが神の国につながっているものとして、ひとつとなっているかどうかが重要ではないか、ということをお話しました。


             


            さらに、『神は彼らの神と呼ばれる』という表現から、クリスチャンにとって、本来の共通部分が神であるべきはずであること、また、信者の共通部分は神であることをお話しました。また、「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」エペソ4:6 にもあるように、神との関係を考えることが重要であるということをお話しました。父というメタファーがエペソ4章6節にもありますが、放蕩息子の帰還と神を重ねて考えてみると、故郷には誰がいるかを考えてみると、放蕩息子は父の元に帰っていますが、ヘブル書では、神の都とされています。神様は、私たちのために、天の国を用意して待っておられる神です。ぜひ、このことを考えながら、今週も過ごしていただければ、と思います。


             


            ということをお話しました。今回、かなり皆さんまじめに聞いてくださった印象があるので、よかったかなぁ、と思いました。


            2008.10.13 Monday

            あなたは誰と逃げますか?

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              今回のお話は、ホテル・ルワンダのラストシーンを使いながら、逃げることというのか、私たちが守るべき永遠のいのちへの対応をどう考えるのか、ということをお話しました。


               


               


              私たちは、ホテル・ルワンダが取り扱っているような銃撃戦や100万人以上が死んだような虐殺の中で生きているわけではないものの、ストレスという銃撃戦や、対人関係の問題、家族内の問題というな困難の中で、精神をすり減らし、たましいをすり減らしながら生きているのでは、というようなお話をしました。


               


              ホテル・ルワンダの総支配人になったポールさんは、国連に守られながら逃げることで命からがら逃げ出しましたが、それと同じように、われわれもさまざまな困難や苦しみに中にあるときに、誰の元に誰と一緒に逃げるのか、それが重要ではないかと問題提起した後、聖書の中から、マルコの福音書8章34−35節で神の元に逃げることをイエスご自身が勧めていること、ヨハネ14章18−20節で神とともに、イエスとともに逃げることができること、をお話しました。


               


              また、クリスチャンになったら不幸な状況に陥らないのではなく、不幸な状況の中にあっても神がともに居られるところが重要なのであり、不幸の中でも神とともに歩むことの重要性、絶望の中を神がともに歩んでくださる、ということを聖書は教えている、このことが重要なのだ、ということをお話しました。


               


              まだ、信じる決心をしておられない方が、6人来て下さったのでよかったなぁ、と思います。聞いていただいた方々の反応を見ている限り、割とわかっていただけたのではないか、と思います。


               


              昨日は、PCをサブ機を含め3台持っていっていたのですが、1台は、電源ケーブルを持っていき忘れ、使えなかったし、1台は、DVD画像が出なかったので、来週予定されている婚約式の式次第の用紙を印刷していたマシンを一時止めて、対応するなんかをしたので、結構準備がぎりぎりであせりました。朝10時からはじめて、印刷が終わったのが、3時40分(途中1時間はパワーポイントでのプレゼンのために利用したけれども)。Illustratorで印刷すると65部といっても結構かかりました。何せ、両面なので。


               



               


              2008.11.24 Monday

              ヘブル書12章4-12節まで

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                 今年中にヘブル人への手紙の学びを終わりましょうという話になっているにもかかわらず、相変わらずじっくりとした学びをしていました。


                 


                今回のテーマは、罪の問題と、聖書の世界から見た教育のお話。


                 


                 まず、4節で、罪と血を流すまで戦う、という表現がでてくるが、これは、他人の罪を裁くことで、罪と戦うのではなく、自分の心のうちにある罪を避けること、つまり、神から離れることをいかにして避けるのか、神から離れないようにすることが非常に大切である、ということをお話しました。


                 


                 5-12節のところでは、懲らしめ、という表現がでてくるが、この表現は、ユダヤ人の教育システムと関係していること、その背景にはエジプトの書記官教育の話があり、そこではむちによる教育システムが用いられいたこと、しかし、神がユダヤ人を教育したそのあり方には、忍耐があり、その上での教育的配慮から、厳しい状況に直面させたこと。


                 


                 さらに、ここからも、信者は、一種の養子として神の家族に迎え入れられていること、そのなかで神が養育されようとしていること、そのなかの一環として、聖餐式を考えることができること、信者としてより深めていくべきことは、神との関係、神にある平安であることをお話しました。


                 


                 この懲らしめとか、訓練ということばがキリスト教カルトとでも使われやすいことから、カルトのどこが間違っているのか、カルト化を防ぐためには、どのように考えればよいのか、についても、最後補論としてふれました。


                 


                 割と皆さん、真面目に聞いてくださったので、よかったかなぁ、と思います。若い方も3人くらい来ておられましたし。


                 


                 しかし、絶対後1月では、ヘブル書は終わらないような気がする。無理やり終わらせてしまうようなことになるでしょうが・・・。しばらく、12章以降13章最後の部分の補論を何回かした方が良いのかもしれない・・・・。


                2008.12.21 Sunday

                老人とクリスマス

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                  これは、2週間前にお話した福音のメッセージです。


                   


                  クリスマスは、若い人たちのものと思われがちですが、実は、老人がいちばん活躍


                   


                  しているというのは、違和感があるかもしれませんが、聖書ではクリスマスの前後に


                   


                  老人が活躍するシーンがたくさんあります。


                   


                  ザカリアとエリザベツ(ルカ1章)



                  高齢者カップルによる出産(ルカ1章5-25)


                  預言をするエリザベツ ルカ1章39-45


                  ザカリアの預言(ルカ1章67-79)


                  シメオンの賛美(ルカ2章25-34)


                  女預言者アンナの伝道(ルカ2章36-38)


                  が代表的ですが、エリザベツとザカリアの話では、バプテスマのヨハネの存在が


                   


                  神の前に立ち返る神を準備し、神の前に整えられることの大切さをしめしていること


                   


                  エリザベツの信仰は、ヘブル書の11章の信仰のあり方に関する評価にも共通する


                   


                  神にあって語られたことは、必ず実現するということが信仰の基本である、という


                   


                  ことを示していることは重要だというお話をしました。


                   


                  ザカリアの預言では、イエスの誕生は、われらの敵(死、恐怖、悲しみ)からの救い


                   


                  (71節)であり、救いとは、開放・その枠外におく といういみであること、



                  われらの生涯全ての日に、(中略)御前に仕えることを許される(74-75節)というこ


                   


                  とはじゅうようかもしれない。とくに、神の前に使えることを求められるのではなく、


                   


                  私たちの主体的な思いを認めて、許してくださるという認識に立つことの重要性を


                   


                  示していることは考えた方がよいかもしれない、とお話しました。


                   


                  シメオンの賛美に関しては、イエスを啓示の光と呼んでいることが重要で、神を


                   


                  知るための啓示の光であることをきちんと認識することの重要性を思いました。


                   


                   高齢者が活躍したことの意味としては、高齢者が闇をよく知っていること、


                   


                  その中の光の価値がわかること、神を近くかんじることができること、などと


                   


                  いうお話をしました。


                   


                  高齢者であるがゆえに闇とその中にさす光の意味を味わうことができること、


                   


                  心のうちにある闇の問題への意識と理解の深まりが若いときにはないけれども


                   


                  年齢が進むにつれて、そのことを深めていくことができることの重要性を示して


                   


                  いるのかも、ということをお話しました。


                   


                  高齢であることは、現代社会ではあまり重視されませんが、実は豊かな恵み


                   


                  であることを



                   



                   


                  2008.12.21 Sunday

                  クリスマス会でのお話

                  0

                    今年のクリスマス会でしたお話です。


                     


                    15分という制約がついていて、子供たちもあまり退屈させないように、ということでお話


                     


                    することとしました。


                     


                     


                    まず、クリスマスはどんな日か、という事でお話しました。


                     


                    最初はクイズ形式で、クリスマスがどんな日か、という


                     


                    ことを皆さんにお聞きしました。


                     


                    イエスの誕生日がクリスマスと思われているけど、


                     


                    クリスマスそのものは、イエスの誕生日ではないこと、


                     


                    イエスの誕生日はよくわからないこと、でも、イエス


                     


                    の誕生を覚える日であることは間違いないこと、という


                     


                    お話をしました。


                     


                     なぜ、イエスの誕生日としてうれしいのか、というと


                     


                    イエスは、私たちのいつまでも続く友達になろうとした


                     


                    からうれしいこと、イエスは、ジャイアンやスネオのよ


                     


                    うな友人ではなく、一緒に過ごすことが楽しい友人で


                     


                    あるということ、イエスは、大人ではなく、子供でもな


                     


                    く、普通の赤ん坊として生まれることで、私たちと同


                     


                    じ人間として生まれることで、私たちの友人であろう


                     


                    とすることを示したことをお話しました。


                     


                     それから、お誕生日会に行くのは、楽しいこと


                     


                    なぜかというと、仲のよいともだちと一緒にいること、


                     


                    そして友達と遊ぶことが楽しいからではないかなぁ、


                     


                    とお話し、イエスは、みんなとそんな友達になりたく


                     


                    て、この地上に来たこと。イエスは、みんなと一緒に


                     


                    過ごしたいなぁ、としてこの地上に来たこと、そして


                     


                    神様がともにいることを知ってもらいたい、インマヌ


                     


                    エルとして、来たことをお話しました。


                     


                    そのあとで、大人向けに、人間の間の友情や愛情


                     


                    は時間や空間に制約されるけれども、神の愛は


                     


                    制約されていないことを示すため、それを伝える


                     


                    ためにこの地上にきたこと、聖書の示す永遠と永


                     


                    遠の愛は人間は完全に理解することはできない


                     


                    けれども、その一端を伝えるためにイエスが存在


                     


                    したこと、そして、神の家族であることを紹介する


                     


                    ために地上に来られたこと、イエスは今も生きて


                     


                    いて、そしてイエスは神が皆さんとともに生きよう


                     


                    としていることをつたえるためにこられた、という


                     


                    テーマでお話しました。


                     


                    全体を15分で収めたのですが、あるていど、来


                     


                    ていた子供たちにも理解してもらったように思い


                     


                    ます。


                     


                    大人向けには、もう少し深めて話したいと思いま


                     


                    したけれども。


                     


                     


                    たち(消し忘れ)


                     


                    2009.01.07 Wednesday

                    人生を幸せにするもの

                    0

                      今回は、人生を幸せにするものというテーマでお話をしました。

                       

                      最初に28Daysというサンドラ・ブロック主演の映画を使ってお話をすることにしていたので、28Daysという映画のあらすじをまず説明しました。

                       

                      この映画は、アルコール中毒になった女性が回復する映画で、主人公の女性は、かなりのアルコール中毒で、ぼやを出したり、ムチャクチャなことをしてすごしている女性の話です。この女性は、
                      アルコール中毒の上に、姉の結婚式で泥酔して、結婚式用のケーキを台無しにして結婚式用のリムジンを泥酔したまま運転し、他人の家に突っ込みます。この事故に関する裁判の結果、28日間の中毒患者用のリハビリ施設での治療を受けることになり、そのリハビリの間の変化についての映画です。
                       このアルコール中毒患者の女性は、生活はアルコール中毒の結果、混乱しているけれども、明るく人気がある女性で、この女性には婚約者がいて、婚約者がリハビリ施設でプロポーズをするシーンからお話することにしていたので、そのシーンについて、まず、解説しました。
                       このシーンの段階では、アルコール中毒の女性は、回復の過程の中で、正常に戻りつつある状況です。そして、このシーンの中で、人生のありかたについて、2人が語っています。
                       この2人の人生の見方は大変対照的なもので、男性側(アルコール中毒患者のフィアンセ)は刹那的、人生には特定の目的はない、とする生き方で、その場、楽しいこと、おしゃれなことの連続として維持しようとする生き方で、ルールは関係ないとする生き方です。人生の楽しい期間は短いし、その期間を楽しむことが重要だといっています。
                       女性側(アルコール中毒患者のほう)は刹那的な生き方が正しいとは、必ずしも限らないということを思い始めていて、普通に生きることの意味を考えようとしているように変わりました。そして、普通に人生を積み重ねていくことに価値がある可能性があることを考えようとしている状況です。

                       たしかに、元々、この女性も、婚約者と同様に考えていたが、セラピーの中で、変化していくその状況が対照的に表されています。注目すべきは、男性の人生が人生の空しさを忘れるためにどうしようとしているかです。


                       注目すべきは、男性の人生が人生の空しさを忘れるためにどうしようとしているかで、オリジナルの英文では、(人生という)ゲームのポイントは、人生の苦痛をどのようにして最小にすることができるかだ、といっています。


                       この対話の中で、男性は人生の痛みを和らげるためにアルコールや薬物で満たしてもいいし、人生は幸せ(Happy)ではないといっています。これに対し、サンドラブロックが演じる女性は人生の痛みを受け入れ、人生を普通のあり方で満たすことが幸せ(Happy)といっています。

                       


                       もちろん、この2人とも人は幸せでありたいとおもい、人生には何か価値があるはず、人生には何か目的があるはず、と思っているのです。私達もそうでしょう。しかし、現実を見ていても、答えが出ないのです。その結果苦しみ、もがき、悩むことになります。そして、現実的な解決策を現実の中に見出そうとすることもあります。
                       確かに、幸せのあり方は人により異なります。映画の中で触れられていたように幸福感を与えるものは、人により異なることは確かです。小学生にとっては、ポケモンカードだったり、珍しいコインなどの場合もあるでしょう。若い人だと、贅沢な生活スタイルや必要なことが満たされることかも知れません。


                      ところで、イエスはなんと言っているのでしょうか。
                      ルカ12章16-31節をご覧下さい。

                       

                      ここでは、金銭的な豊かさ、という事で捕らえているが、これは他のことでも同じことです。この地上で満たすことができるのは、いずれにせよ、一時的なものでしかなく、人生を満たす方法としては、永続的なもので満たすべき、ということをイエスは指摘しています。

                      ここで、イエスは神の国といっていますが、イエスの言う神の国とは、神とともに生きることです。もう少し解説すると、神がいるということを認め、神の存在を確信し、神の存在と関与が個人的に必要不可欠なものとして受け止めることです。
                      人生を幸せにするためのものとされていることのなかに、楽しい、と思えることだと答える人があるかもしれません。また、映画の中の男性のように人生の鎮痛剤だという人もいるでしょう。しかし、その鎮痛剤が人生を破滅に招くこともあります。アルコール・タバコ(薬物)などはその代表例です。以前は、麻薬などの薬物対策に水際作戦が有効だったが、最近はちょっと疑問となっています。まさか、こんな時代が日本に来るとは思いませんでしたが、最近は大学生にまで広がっています。また、痛みそのものが、鎮痛剤となることもあります。

                       さて、皆さんは人生を幸せにするものはどのようなものだと思われますか?

                      人生の鎮痛剤でしょうか?聖書のいう神の国?でしょうか。その選択と決断は皆さんお一人お一人にしかできません。是非、本当に皆さんの人生を幸せにするものを選んでください。

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