一体これは何?
神様と出会っていく瞬間に立ち会わせていただいた人々
神様とであった瞬間に立ち会わせていただいた人たちが、何人かいます。何の気なしに、福音をお話したり、教会でお話ししているとき、そして、その後、個人的にお話ししているときに、その経験をされた瞬間に立ち会った方が何人かおられます。真面目な信者でないので、数はそう多くはありませんが。
いまの教会での話は、ちょっと生々しいので以前の教会で神様に出会う、という経験をした瞬間に立ち合わせていただいた方のお話をしたいと思います。
その方が当時50歳代の後半だったでしょうか。木工職人さんでした。私は20代後半の若造でした。私の属していたブラザレンの教会では、講壇はすべての信徒に開放されている、というよりは、諸般の事情もあり、神戸という大都会でキリスト教の宣教が多く行われている場所ではありましたが、私のところは3人しか男性信徒がいないので、イヤでも話す機会が多いという教会だったので、毎週のようにお話していました。そこにひょっこり現れてきた、Yさんという方がおられました。最初はあまり熱心ではなく、時間つぶしで入ってこられた感じだったです。
とはいえ、そのYさんが聖書を真面目に読むようになられ、2-3ヶ月たった頃でしょうか。一度食事にお招きし、お食事を一緒にする中で、イエス様の愛を感じられた瞬間、というのがあったように思います。特に泣き出したり、感極まったりされたわけではありませんが、ほっとした表情をされたのが印象的だったです。あー、たぶん、Yさん。神様とであったんだなぁ、よかったなぁ、と思いました。
しかし、このYさん、ご自分のことはお話になりませんでしたのでよくわからないのですが、ご家庭があまり幸せでなかったのか、あるいはお母様と何かあったのか、母なるものへの思いがものすごく強い方で、マリア崇敬みたいなものが自分にはほしい、といっておられました。
その頃は、ゴチゴチのプロテスタントの権化みたいな石頭君だったので、それは間違いだ、と思います。聖書からはそれは支持さないように思う、と言い放ってしまいました。それからしばらく、Yさんは教会に来てくださいましたが、やはり、マリア崇敬を大事にするカトリックのほうへ行ってしまわれたのか、私の集っていた教会には二度と来られなくなりました。
今なら、時間をかけて、ゆっくりと進んだでしょうが、若気の至りで、Yさんの信仰の成長を待ちきれなかった自分の無謀さというのは思慮のなさを反省したりしています。
コアラさんのブログを読んだり、Foceさんとのミニメールのやり取りをしながら、ふっとYさんのことを思い出してしまいました。Yさんがたとえ手を離そうとしても、それを離さないイエスの力強い手をYさんが今も感じておられるように祈りますし、そうだと確信しています。
神とであった人間は、自ら神の手を振り解こうとするかもしれないけれども、神様はつかんでおられる、そのことを確信していたいし、そのためにおもいだしたときには、ふっと祈っています。
律法と愛
今週、私の通っている集会(教会)の福音集会では、若い人たちが中心となっていろんな話をする時間でした。
そこで、取り上げられていたのは、マタイの福音書22章の律法が神の愛であることについての話をしていました。一生懸命、いろんな工夫をしてお話していたのですが、それを聞きながら、ひとつ思ったことがありました。
第2コリント3章6節の中で、律法について、パウロは次のように言っています。(新改訳聖書 第2版)
神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
このことばを見たとき、イエスが、律法は愛に還元されうる、と発言したことがいかに画期的であったのか、というのを感じます。
もともと、人間を攻め立てるものであった律法が、本質的には愛を問うものであること、人間の行為の根源がどこにあるのか、ということを問われているという概念は、非常に大きな価値転換をもたらすものであるといえる、その価値展開のすごさ、ということをもう少しふれてもらいたくて、最後に一言だけ、律法は、もともと人を攻め立てる可能性があるものであるが、イエスがこの律法を愛として捕らえているというこの問題をぜひ考えてほしい、という発言をいたしました。しかし、この律法をどう捉えるのか、ということは、重要だけれども、なかなか理解されていないものではないか、ということを感じました。
孤独なボーリングを読みながら
最近、仕事の関係で、アメリカ人の社会学者のロバートパットナムの孤独なボーリングを読んでいる。
教会のあり方を考え、なぜ、今教会などでの参加が進まないのか、アメリカでも進んでいないというようなことが書かれている。非常に参考になる視点がえられる。聖書からの学びではないけれども、教会のあり方や今の社会におけるさまざまな組織への参加意識が下がってきたのかを示した名著だと思います。
直接、聖書のお話とは関係ありませんが、とりあえずご紹介。
孤独なボーリングを読みながら 続き
この本については、いろんな人がいろんなことを書いているので、(ソーシャル・キャピタルで検索するといろいろでてきます)教会関係のことだけについて、絞って書きます。
この本は、ある意味で、アメリカ社会の文脈というのか社会背景の中で書かれた本だといえます。アメリカ社会は、何もないところから限られた人間との密接な関係、あるいは、コミュニティを作ること、結構近場での引越しを頻繁にする社会であることから、地縁型組織というもの自体が成立しないので、いろんな社会活動の基礎となるのが教会という宗教組織だったり、ロータリークラブやフリーメーソン、エルククラブといったさまざまな組織やボランティア組織だったりするので、社会集団の区別が明確でないという批判なんかもありますが、アメリカでは、教会という外見から見た場合の宗教組織すら、地縁組織ではなかったりするので、この辺アメリカの教会に通っていないと雰囲気分からないかな、という感じがしました。
で、なぜ、教会の参加率が下がってきたのか、という理由ですが、基本的に社会が個人主義化してしまったこと、(その背景には、アメリカ人の独立意識というのか、一匹狼精神というのかが大きく聞いてきているように思います。この辺は、心の習慣という本が、かなり綿密に書いています。)要するに、アメリカ人の心性が、隣の人々への関心が個性重視や個人重視の結果、近くの人々との関連を深めるよりも、テレビと個や、テレビのような中心性のあるもの(教祖でもよい)と自分という形の1対多の関係を思考したことにあるようです。まぁ、言い代わるかは別として、教会とまったく関係を持たなくても、生きていけるような社会になってしまったということでしょう。結婚式も教会で挙げなくてもよいし(市役所で挙げられる)、墓地に入るのも、教会の信徒でなくてもよくなったし、生まれたときの登録も教会でなくてよくなったこともあるのだろうと思います。18世紀までのヨーロッパ社会あるいはアメリカ社会は、出生、結婚、死亡まで、社会のさまざまなところで教会の関与なしに生きることは事実上不可能だったので、教会が個人の生活に必要以上に関与するのがいいかどうかは別として、教会なしに生きることを可能にしてしまったことが、アメリカ社会のコミュニティを衰えさせたのかもしれません。
あと、ベビーブーマーはコミュニティを作ろうとしたところがあるという指摘もありますが、これは、既存勢力や既存の社会システムに対抗する為に一人ではできないので、コミュニティができたという可能性があるのでは、と思ったりしました。
ところで、テレビといえば、オウム真理教(現アレフ)にしても、麻原対一人一人の信徒という関係が思考された、という意味で、個人主義の行き着いた形を示しているのかもしれません。麻原がテレビ時代の宗教家であることとも、深い関係があるようです。どこかの対談で、お坊ちゃまんくんと麻原は呼ばれて、まんざらでもなかったようですから。
で、余談に行ってしまいましたが、このPutnamというおじさんの主張によれば、Webはリアルのコミュニティ(社会集団)を支援・補完するものの、コミュニティとはなりえないし、コミュニティというには関係性が脆弱だ、という主張のようです。まぁ、そうかな、と思います。
リアルな関係性、家族関係なんかは、抜き差しなりませんし、これは、関係性がかなり強いものですね。
あと、自動車や鉄道で移動能力が高くなったことにより、人間の関係性が広がると同時によわくなってしまったということも、Putnamは指摘していました。そりゃ、アーミッシュのようにロバの引く馬車で移動する範囲がすべて、という人にとっては、住んでいる社会とコミュニティは一致せざるを得ないし、動力を使わない以上、コミュニティなしに生活が成り立たないですから。
Putnamはコミュニオン(聖餐式・礼拝)とコミュニティ、コミュニケーションとの関係で、議論を展開しようとしていて中途半端に終わっている感じがしますが(多分、Putnamは教会との関係が薄い人かもしれません)、実は、聖餐式(コミュニオン)というのは、人間関係の関係の強さと深さを考える上で非常に重要なのだと思います。
あと、仮想社会で真実の個が成立するか、ということですが、個人的には、真実の個(人格としての個人)がサイバーコミュニティで本当に成立しているのかな、と思います。Takachanさんのアノニマスな個(真実ではない個、あるいは個を形成するの一部だけを含む個)は成立するのかもしれませんが、いろいろしていて思うのは、Webであれ、どこであれクリスチャンとして活動しているときの個における不思議さです。
Foceさんや、サトさん、リハビリコアラさん、Takachanさんとのお付き合いが成立しているのは、真実の個がリアルワールドで成立していて、キリストを信じるコミュニティという枠組みがあるからこそ、サイバーコミュニティの中でも、それらの深い関係が成立できるのかなぁ、と思います。Foceさんについても、コアラさんにしても、サトさんにしても、お会いしたことはありませんが、表裏があるようには思えないのは、キリストの体、あるいはキリストを信じるコミュニティという確固とした裏づけがあるからだと思います。だからこそ、サイバー空間という弱い関係性しか作りえない空間で、キリスト者としてのお話ができるのかな、と思います。
いずれにせよ、コミュニオンは、みんながキリストのゆえに集まらないとコミュニオンにならない。信者がいろいろな現実の差を乗り越えて、仮にさまざまな対立があったとしても、それについて神の前の信者同士が、お互いに愛し合い、キリストにあって赦されたことを覚えながら、さまざまの対立を超えて神との和解が成立している事を覚えながら、ユダヤ人やギリシア人も日本人も含め、ひとつの体として集められるところに聖書やキリスト者の集まり(コミュニティ)の不思議さがあるようです。ただ、信者に仕えるのではなく、信者に使えられようとしたり、信者を不当に厚かったり、虐待するような教会の指導者やカルトの指導者は、教会の代表者をしていようが、牧師を自称しようが、神学校をでていようが、按手礼を受けていようが、キリストの体の一部ではない、と思います。
Putnamは政策的に人々が集まり、いろんなことができるような仕掛け作り、政策の必要性を説いていますが、これは、政策でできるものなのだろうか、日本社会、とりわけ、宗教的な背景のない日本社会で、マンションとか団地でコミュニティというものが成立するのかどうかというのは、個人的には疑問かなぁ、と思います。特に、最近は社会の多様化が進んでいるので。
まだまだ、考えていることはありますが、また、これについてはまた改めて。
リーダシップってなんだろう。
一昨日TBSのNews23を見ていたら、トニー・ブレアが出ていた。
彼の発言の中で、一つ面白いことがあった。対談者の筑紫哲也さんは、重要ではないかと思ったのか、きっちり省いていたが、彼がリーダーシップに聞かれた時に開口一番言ったこと。
リーダーシップとは、人の重荷を取り去って、引き受けてあげること。
ブレア君の本音、本当にしたかったことが出たことかもしれない。公僕としてトニー・ブレアはそれが十分出来たかどうかは別として。公共の福祉のために奉仕する首相の立場を表しているヒントになることばであった様に思う。もと、彼は労働党出身だし、このことが頭にあったのかなぁ。
イエスキリストは、確かに人の重荷を取り去って、引き受けた。
教会の牧師、指導者は、本来人の重荷を取り去って、引き受けるべき存在。
教会のリーダーシップって何なのかな。
受難週だけに、考え込んでしまう。
去って行った友に
最近、Cururuよりある人が去ってしまった。
原因はなんとなく推測できるが、緩やかな友情をかんじていただけに残念。
ただ、今は彼の上に平安があるように祈ることしかできない。
箴言25章25節(新共同訳)
渇いた喉に冷い水、遠い地からの良い便り。
多分、これは本来は、
遠い地からの良い便り、渇いた喉に冷い水。
のほうがいいのかな。
個人訳すると、
遠い地からの良い便り、渇いた喉に冷いダイエットコーラ。
アメリカでの砂漠地帯での経験するとね。
ほとんど、放蕩息子を待つ父親の心境。
他の方に示された御心、私に示された御心
今通っている集会では、あんまりこういうことはないのですが、時々クリスチャンの方で、特に熱心そうに見える方の中にありがちのパターンで、かなわないなぁ、と思うことのひとつに
その人に示された(神の)御心を一般化して、一般的に通用する概念として語る(証する)
ということがあります。
(神の)御心って、あくまで個人的に示されるものであって、一般化しにくいもののはずなのだけれども、それを一般化して話される方がおられます。多分、聖書理解が十分でないためかな、と思うので、成熟してほしいなぁ、と思いそういう方のために祈ることが多いのですが。聖書全体の理解からきちんと抑えてほしいなぁ、と思うことが多いです。
実は御心であることを確信する、ってのは意外と難しいのですけれども、時にこのことばがあまりに簡単に用いられるのはどうかな、と思います。
このことばは、下手をすると議論を終わらせるだけの強さを持っているので(ある人に示された御心である、すなわちその人は神の意思を聞いた、ということを意味するので)、実は非常に重たいことばなのですが、時に軽々しく使われる方、特に熱心に見える方がお使いになることが少なくないので、どうなんだろう、と思うことがあります。
というのは、その示された御心に反する意見を持つ、ということは、下手をすると神に反逆するということを意味するということにもなり、神に逆らうものというラベルを自ら自分自身で貼ることにもなりかねないから、御心が示されたと主張する人と違うことを主張することは大変です。
御心、ということを語る、ということの重みを考えると、御心ということばは軽々しく使うべきではないと思うのですが。御心を云々するということは、預言者と等しい、ということを意味するわけですし。もし、御心の理解が間違っているとしたら、旧約時代のイスラエルであれば間違いなく石打ですよね。今なら、悔い改めとお詫びは必要だとは思いますが。
必ずしも、指導者が常に正しいとは限らないし、御心を読み間違うこともあるので、本来慎重であるべきと思います。私も語るものとして気をつけています。
アエラにのった牧師の不品行について思うこと
アエラに、日本聖公会、ホーリネス、日本基督教団での牧師の不品行というのか、性的犯罪事件のことがでていた。日本聖公会については、別件の事から、たまたまこのことを知ることとなり、いろいろな祈りの有無や、言いたい放題というタイトルのブログやウェブサイトで知るところとなり、どうなるんだろうか、とおもっていましたが、こういう形なるとは、思っていませんでした。
聖公会のその母体は、英国国教会であり、英国国教会はブラザレンが分離していった教会でもあるので、うーん、かなり残念だな、と思ってはいたのですがある面、ショッキングでした。
いずれの事件でも、一般信徒が指導者にものが言えないことが問題なのかな、と思います。この背景には、思考停止している日本人があまりに多いこと、自分自身で考えることを止めてしまって、他の社会的評価のある人の発言を鵜呑みにする傾向があることがかなりの部分であると思います。
これは、個人が個人として自立していないところにあるのかなぁ、と思います。個人が自立していない日本であるがゆえに、教会がカルト化しやすいのかもしれないし、教会の指導者との距離をとって考える、ということができないのかもしれません。
先日、御心、という表現が軽々しく用いられることについて、書きましたが、カルト化した教会でなくても、この御心、という表現はやたらと用いられるので、それも、熱心に見える人や指導者がこの表現を使ったときの影響は計り知れないと思います。
きちんと信者一人一人が聖書をもとに、神と交わる中で考えること、祈ること、そして与えられる理解をもとに、他の人がどういっているかとか、他の教会がどうしているかとは関係なく、神に示された良心に従って、行動することの大切さを思わされた1週間でした。
アエラに書かれた事件の被害者になった方の上に豊かな回復と慰めがあるように、祈らざるをえません。本当に。
自然体としてのクリスチャンライフ
コアラさんのブログや、Takachanさんのブログを読みながら、昨日、教会でした聖書研究会の話を思い出していました。
コアラさんのブログの中で、与え続けなければいけないという思いにとらわれ(思い込まされ)、他人に求めることが許されない、という悲惨な指導者像を刷り込まれたことや、Takachanさんのブログで主にあって愛さなければいけないのかな、という話が出ていました。
そのなかで、ピリピ1章の中で言われていることの背景にも、無理して神の福音のために働くことや犠牲的精神でさまざまな取り組みをすることをパウロは主張しているのではなく、自分の与えられた範囲の中で、神との関係を保つことの中で、当たり前のことを当たり前にしていくことをパウロが主張しているのではないか、ということをお話しました。
ピリピ1章5節の新改訳は「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」となっていますが、ギリシア語の原本を見たところ、これは誤解を招きかねない表現となっているようです。原文には「広める」に当たることばは見当たらないので、口語訳や新共同訳のほうがまだ近いけれども、「最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。」では意味が分からないだろうし。聖餐式に参加するように、福音の一部を共有してきた、とか、福音にあるものの一部として存在し続けた、という方が意味なんだろうと思うと、無理して頑張って、与え続けたり、愛したりするのではなく、自然と神様がそういう方向を示されたときに、そのようにこうどうするという、自然体で十分なのかなぁ、と思います。
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