2009.06.02 Tuesday

エッ?スティーブン・ジョブズって、望まれなかった子だったの?

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    あー、いいたい。いいたい。

     

    こんなすごい記事があるぞぉ。

     

    HATTORI先生の晴耕雨読の日々のブログの記事

     

    スティーブン・ジョブズ(アップルコンピュータ(マックとかiPhoneとか

     

    iPodとか作っている会社ね。)は望まれなかった子供で、養子に出

     

    された子供であったことが、書かれていました。

     

    もし、彼の命が奪われていたら、Macは世の中には無かったかもし

     

    れないし、25年以上前からDOSだのIBMコンパチだのにハマッテい

     

    たあっしにはあまり関係もない(とはいいながら、マックをまねた

     

    擬似WYSWYG環境(あまり聞かなくなりましたねぇ)やらWindows

     

    3.0(あったんですよ。日本では売り出してませんでしたが)から

     

    始まって今のWindows Vistaに至るIBM-PCコンパチの世界で

     

    うっすらとは関係があったりします)世界とはいえ、彼はPixarの

     

    創業者でもあるので、彼がいなければ、Toy StoryだのMonsters

     

     Incだの(私は好きだが、あまり子供のウケはよくない)が生まれな

     

    かったかも知れない。

     

    人の命は、本当に大切。子どもの命は、とっても大切。

     

    この記事の中で紹介されているスタンフォード大学での

     

    ジョブズのYouTubeで公開されている講演

     

    内容がいい。英語がちょっと早いが、全部聞いた。

     

    本当に感動した。

     

    途中のところで、スティーブン・ジョブズが彼の死生観について、語

     

    っているところがありますが、感動もの。

     

    若いということ、老いるという事、死ぬということ。Looks Nouwen!

     

    (ナウエンみたい!)と思わずつぶやいてしまったほどのノリです。

     

     

    途中で、Faithを失ってはいけない、という表現が出てきますが、

     

    多分、これは、自信といったほどの意味だとおもう。『聖書で言う信

     

    仰』では無いんじゃないかろうか。ただ、ほとんどいっていることは、

     

    「叩きなさい、そうすれば開かれます。求めなさい、そうすれば、与

     

    えられます。」という聖書の表現に通じるものがある。ちょっと、自己

     

    中心的なのは、アメリカのスタンフォード大学の卒業式なんでしょう

     

    がないかなぁ、と思う。しかし、多分に聖書の表現を意識してしゃべ

     

    っていると思う。(多分、いいたいことは、彼が考えたことばだけれど

     

    も、スピーチ・ライターの手が入っていそうな気がする。)

     

     

    詳しくは、

     

    HATTORIさんのブログ、晴耕雨読の日々 

    2009年5月29日 (金)タイトル 『いい話だ!』

     

    をお読みください。 

    2009.07.02 Thursday

    福音は宣言です。

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       ここのところ、晴佐久さんというカトリックの神父さんの説教集を

      読んでいる。プロテスタントなのに。

       いやぁ。ちょっとカトリック臭い所(秘跡がどうのこうの)とか

      はあるけれども、福音はまっすぐしている。神とともにいることの

      大切さ、神が愛している、と宣言すること、あなたが、神を信じた

      というのなら、それでいいではないか、と宣言することの大切さを

      ひしひしと感じる。

       準備原稿も作らずに(といっても日常生活が準備なんでしょうが)

      その場で感じたことを素直に語っているのが分かるが、根底のとこ

      ろでしっかり神とつながっているんだなぁ、ということを感じる。

      キリストの体の一部としてつながっている感じがする。この人の本

      というよりは説教はすがすがしい。こういう説教をしたい。あなた

      は神の子です。神の子になりたいですか。はい、そうなら、あなた

      はもうすでに神の子です。だってイエスが言っているんだから。

      こういうすがすがしい説教が時にしたい。

       ボンフェッファーの説教論の本を読んでいるが、彼の場合、

      準備、準備、準備、計画、計画、計画。ドイツ人なんだなぁ。

      ボンフェッファーは。

      晴佐久さんはラテン系かな。まさしくリベロ。そんな感じの

      聖書のお話。今度またしてみようか。


      2009.08.03 Monday

      今年も軽井沢に行ってきた

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         今年も、例年通り、軽井沢バイブルハウスで開かれていた、小中学生

        向けキャンプに参加。仕事の都合で、1週間いることができなかった。

        月曜から、金曜までの参加となった(ちょっと残念)。

         とはいえ、行きがけの駄賃、とばかりに三重県の教会訪問を実施。

        朝8時自宅を出発。神戸西ICー中国道ー名神ー第2名神ー伊勢道を

        とおって、久居ICで降りる。三重県のキリスト集会に参加している

        親類がいるので、そこの教会をご訪問。前にした、ブルース・オール

        マイティの映画の一部分を使いながらの聖書のお話。初めて聖書を

        触れるという人が来ておられたようです。まぁ、イエスと個人的に

        出会ってくれるといいのですが。責任者の方が一方的にはじめて

        聖書を触れる方にしゃべっていた。あの方は、話を聞いてほしかっ

        たのではないだろうか。悩みを聞いてほしかったのではないだろう

        か、と思ってしまった。(激しく反省)

         そのあと、親戚全員で、びっくりドンキーに行く。大雨がすごい。

        雷が鳴る。道路は川のよう。子供たちだけで楽しく食事。大人は

        大人で楽しく食事。

         その後宿泊地である榊原温泉へ。日曜の夜なので、宿泊者数は

        少ない。温泉の泉質はなかなか良かった。部屋はちょっとこまかな

        ところで、古さがみられるが、朝食付きで一人税込み5000円

        という破格値なので、仕方ないか。翌日朝の温泉(浴場の男女が朝

        夕で交代)は、泉質が異様に落ちる。明らかに井戸が異なる。昨日

        の温泉のほうがよかった。朝食は、やや豪華。しかし、いかに日

        曜泊とはいえ、この値段で、この朝食出したらねぇ。赤字じゃな

        いかと。

        8時ごろ宿を出発。伊勢道に乗る前に給油。まだ、200キロ

        くらいしか走っていないが、高速で給油を避けるためにも、

        乗る前に給油。出光のGSがあったので、そこで給油。

        伊勢道ー伊勢湾岸道ー東海環状道ー中央道ー長野道と抜けていく。

        途中、家内が不得意な長いトンネルの前では、運転を交代。

        東海環状道路の豊田付近で交代。とりあえず恵那山トンネルを

        越えるまで運転。恵那山トンネルで、故障車が一台いた。

        交通量が多くないので、あまり影響がなく良かった。途中、

        八ヶ岳SAで休憩。無料のホットスポットがある。ラッキー。

        メールのチェック。ごみメールの処理と、返事が必要な

        メールだけ返事をする。

        長野道を抜けて、岡谷で降りる。

        岡谷で降りたら、新和田トンネルを抜け、和田峠越え。

        新和田トンネルの轍の補正ということで、片側通行。

        途中も路面の整備工事があり、結構時間がかかる。

        新和田トンネルを抜けて、長和町(和田村のほうが

        よい)、立科町、佐久を抜ける。佐久に入ったのが、

        午後2時前。佐久の駅近くにスシローがあったので、

        スシローに入る。平日105円のうどんを期待したが、

        なかった。残念。家族でなんだかんだ食べると、

        4000円弱。サービスエリアで食べても、これくらい

        するので、ちょうどよかったかなぁ。

        そのあと、軽井沢に向かう。軽井沢3時ちょっと前に

        到着。あれ、だれもいない。うーん。と思っている間に

        旧知の皆さんに会う。1年ぶりですね。とか言いながら、

        軽く打ち合わせ。

        とりあえず、雨が降っていないうちに荷物の搬入だけを

        すませる。とりあえず、今日の夜以降の準備。今年は

        Golden Keysという中学生向けくらいの神学超入門コー

        スをすることになったらしい。テーマ的には、神学の

        基礎をきちんと押さえている。フムフム。

        軽井沢は、とりあえず涼しい。娘は早速、キッチンの

        ワーカーとして動き始める。うれしい。ちょっと休憩

        して、お風呂に。風呂に入った後、ニーバーのChrist

        and Cultureに手を出すが、頭に入らないので、「聖

        書の日本語」に手を出す。なかなか面白い視点がある。

        そうか。中国語聖書の影響が大きいのだね。なるほど。

        読みながらウトウト。

         夕食の鐘が鳴ったので、オリエンテーションを兼ねた

        夕食の司会。今日は埼玉県のU集会だけ。40人ほどの

        小じんまりしたキャンプの始まり。夕食はミンチカレー。

        辛いカレーもあり、大変おいしい。

         食後、今週の役割分担に関する打ち合わせ。放送と

        中学生クラスの担当となる。

         食後しばらくして祈り会。夜の聖書学級はビデオと

        それに基づいた聖書のお話。お話をされる方は、お話し

        で子供たちをひきつけておられる。その後解散。

        さすがに、連日の長距離運転で疲れが出て、9時過ぎに

        は眠くなり、寝てしまった。


        7月28日 火曜日
        午前5時ごろ目が覚める。しばらくベッドでゴロゴ

        ロしていたが、5時30分くらいから、6時半の放送

        の準備。旧約聖書の場所を探す。放送に使う音楽のCD

        からの選曲。Song4Worshipから、落ち着きのある

        メロディを利用。

        洗面、ひげそりなどをして、6時20分、放送室へ。

        小雨だが、何とか外でラジオ体操はできそう。

        6時30分放送開始。音楽をかける。起床のアナウンス。

        音楽をBGMにし聖書朗読。今日の予定の連絡。放送が

        終わると、いったん部屋に戻って着替え。ラジオ体操の

        準備。ラジオ体操が終わると、朝の歌の時間。讃美歌を

        皆さんで歌いまくる。昨日の夜覚えた歌を体を動かす

        お遊戯をしながら、歌う。朝の祈り。そして昨日の聖書

        学級の復習。なぜ、心をけがしてはならないか。神の霊

        が住む場所である、心を邪悪なものによってごみ箱にし

        てはならないということを説明。そのあと、また20分

        くらい賛美。8時になったので食堂に移動。

        食事の前のガイダンス。祈り。朝の食事がおいしい。

        スタッフの皆さんありがとう。

        食事が終って、売店をちょっとのぞく。ロイドジョンズの

        ローマ書註解の新刊がある。ほしい。山上の説教の新訳も

        ある。ま、これは持っているからいいや。

        朝の祈り会。朝は全体の人数が少ないので、合同クラス。

        ジャングルドクター話を頼まれていたので、それをする。

        4歳くらいの女の子から、ウサギさんが出してほしい、

        ということを頼まれたので、ウサギが出てくるジャング

        ル・ドクターの話になってしまった。まぁ、いっか。どうせ

        私はストーリーテラー。

        午前中は、これでおわり。寝転がって、本を読む。
        2009.08.05 Wednesday

        今年も軽井沢に行ってきた(2)

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          2日目(火曜日)の続き

           お昼ご飯を食べようとして、キャンプ場の中をぶらぶらしていたら、群馬県の

          G集会の皆さんが到着。いやぁ。今晩は増えるんだぁ。にぎやかになっていい

          なぁ、と思っていたら、ちょうどお昼の準備ができる。鐘が鳴る。テントの下

          にサンドイッチが並ぶ。

          曇っていて、ちょっと雨が降りそうかなぁ、という感じだが、雨は降らない。

          外でサンドイッチを食べる。いつものようにおいしい。

           食後に、ある程度人数がそろった、ということもあり、早速ミニミニ運動会を

          することに。今年7月の軽井沢は、雨が多かったせいか、いつも綱引き用の

          グラウンドにしているテニスコートもちょっとぬかるんでいるんで、綱引きは

          なし。簡単な3種目のゲームをする。そこそこ楽しんでもらえた。途中ぽつぽ

          つ雨も降るが、何とか雨ざぁざぁ
          ということにはならなかった。

           買い物に行きたいグループもあるというので、運動会を早めに始めて早めに

          終わる。

          終わった後は、お約束のアイスクリーム。はいはい。勝ったチームの皆さんから

          どうぞ。

          とりあえず、運動会が終わったので、とりあえず予定もないので、埼玉県の

          U集会の皆さんの後を家内と子供で一緒に街に行く。まずは、ユニオンチャ

          ーチ。今年は何をしているのかな?何もしていない。
          Karuizawa Union Church
           残念。とりあえず、お土産用のお菓子を買いに。

          いつもの、栗落雁。ワンパターンだが、数があって、日持ちして、お土産に最高。

          そのあと、サワヤのジャムの前にあるジェラート屋に行く。おいしい。ブルーベリー

          のジェラート最高。ブルベリーとヨーグルトの選択をする。なかなか良い。

           とろとろと、家族で教会のことなど雑談をしながらあるいて帰る。川沿いの道

          が涼しくてよい。買い物をするのでなければ、軽井沢銀座を歩くのは愚の骨頂。

          森林浴をしながら帰る。

           戻ったら3時過ぎなので、早速入浴。汗が落ちてさっぱりする。いくら涼しい

          とはいえ、運動会するとね。結構暑いんですよ。日向にいると。

          部屋に入ってからは、ニーバーのChrist and Cultureを読むが頭に入らない。

          仕方がないので、鈴木範久さんの「聖書の日本語」を読む。なかなか味わい深い。

          そうか、そうだったのか。中国語訳聖書の影響ねぇ。日本人の知識人の中国語

          文化の影響の強さなどを感じつつ、読んでいる。読みながら、ウトウト。軽井

          沢に来るとよく眠れる。暑いのもないからでしょう。気がついたら食事の時間。

          食事の鐘が鳴らない。おかしいので食堂に行ってみたら、最後の到着者。まず

          い。司会なのに。簡単にオリエンテーションの話を繰り返す。道路に出るな。

          風呂はきちんと使ってください。かけ湯して入ってください。聖書学級には

          でましょう。スポーツ用品は使ってもいいけど、片づけてね。売店は、食後

          30分、無人販売します。ご飯はだべれるだけにしてください、ごはんのお

          かわりは、お代わりしていいと言ってから、などなど。

           食事は、豚肉の洋風のあげ煮に、サラダ、ごはん、などなど。デザートが

          去年からつき始めた。おいしい。

           食後、祈り会。皆さんで集まって、祈り会をする。その後、クラス分けの

          放送。行き先の部屋の案内も兼ねて。

           中学生クラスの担当。とりあえず、情報を得るために、紙に名前と住んで

          いる町の名前、信じているかどうかなどを書いてもらう。(当てるのに使う)

          初めての子供(聖書関係のキャンプと知らずに来た子)もいるので、それなり

          に基本教理に沿いながら。聖書は、神からのラブレターだ。ということ、

          神が1人1人の人間を愛しているということがこの聖書のテーマだというこ

          とで、説明。その通りだが、そこまでいいきっていいかと思いつつも、言っ

          ちゃった。まとめすぎだなぁ。

           そんなこんなをしながら、一日が終了。9時30分過ぎには眠気が襲う。

          (次回:水曜日編)

           
          2009.08.17 Monday

          軽井沢キャンプ  金曜日編

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             本日最終日を迎える。本当は、もう一日あるのだが、仕事の

            関係で、帰らないとまずいのでちょっと残念と思いながら過ごす。

            朝4時30分ごろ目覚める。眠いが眠れない。仕方がないので

            5時30分過ぎまでベッドでゴロゴロ。最後の放送の準備。なかなか

            かける曲が決まらない。結局Above Allから選曲する。6時20分放送

            室に入る。最後の朝の放送。朝の放送が終って、着替えをする。

            ラジオ体操の準備。雨が少し激しい。ラジオ体操は結局部屋の中で

            する。その後、放送で、朝の賛美の時間をするので、集まるように

            放送する。朝の歌の時間をする。今回ジャングル・ドクターの話を

            しようかどうか迷ったが、結局一般的な聖書のお話。イエスと一緒

            に生きることについての簡単なメッセージ。ナウエンの話を子供む

            けにしたような話。子供向けすぎるか。まぁ、いいか。あと、歌の

            時間として過ごす。

            8時少し前になったので、子供たちから順番に食堂に移動してもら

            う。食堂で最後の朝食のアナウンス。あー、もう一日いたいのに。

            仕方がない。

             朝食がむちゃくちゃおいしい。クリスチャン・ステッカーさんから、

            大人向けの集会のセッティングをするようにお願いがあったので、

            お話される方がいないのですが、と言ったら、ギュンターさんが来る

            ので、という話になる。じゃ、大人向けの集会をしましょうというこ

            とで、大人向けの集会を急きょ開催することに。


             朝食が終わるころには、雨があがる。雨が降っていないので、乗せ

            られる荷物は自動車に乗せてしまう。朝の祈り会。祈り会の後、また、

            ちょっと石浜さんの話で盛り上がる。9時40分。最後の集会案内の

            放送。今日は場所の入れ替え。高齢の方もおられることでソファーが

            利用でき、こじんまりした交わりをしやすいベテルを大人向けに開放。

            中学生は、集会所で。神奈川県のI集会の中学生の皆さん、群馬県N集

            会の中学生、Mさんのところの娘さん、我が家の子供で、基礎神学の

            うち罪についての勉強会。最初からしようかということを持ちかけたが、

            同じことをするのもどうかという子供たちの意見に押される形で、罪に

            ついての基礎教理を一通りテキストに沿ってする。テキストも悪くはな

            いが、自由度がないので、とテキストから勝手に逸脱しつつ、主に創世

            記の記事などを中心に聖書で言う罪の問題と救いの解説をする。

             少し早めに終わって、子供たちはバトミントンをしに行く。買い忘れ

            たお土産があったので、それを買いに一番近い、サワヤの旧軽井沢の入

            り口の店に行く。戻ってから最後のパッキングをする。ワーカーをして

            いる娘から、今日2時ごろの出発でよいか、と聞かれたので、それでよ

            いということに。少し余裕があるが、家内が部屋の掃除などをしやすい

            ように車に荷物を積みこむ。


             軽井沢での最後の昼食。サンドイッチとパンがおいしい。スタッフとし

            て働いておられるK兄がおられたので、興味を持っていただいた鈴木範久

            氏の「聖書の日本語」をお渡しし、参考になれば、とお持ちでないこと

            を確認し、中村敏さんの「日本宣教史」を進呈する。食後、「聖書とゲ

            ノム」の話をしたりと、有意義な視点をいただく。お近くの図書館で

            お借りになったそうで。なるほど。図書館でも置いているんだ。都立大

            近くで家庭集会をしている方たちが帰られる。昨夜の話が面白かったと

            言ってくださる。うれしいコメント。励みになります。

            ストーリーテラーとしては何よりうれしい。I集会の方が遊びに出発した

            ので、車が出せる。娘が出てきたので、2時より少し早めに出発すること

            にする。

             出発したら、軽井沢は、霧というよりは、雲の中。かなり濃い。霧がこ

            れだけ濃いと事故になりやすいので、道路状況がよく、交通誘導員がいる

            プリンスのアウトレットモールの前を抜けて、碓氷バイパス経由で御代田

            方面へ。御代田まで来ると霧が晴れてきた。御代田から、望月、佐久に抜

            ける。佐久のモールの南西側で道路工事をしている。工事渋滞。5分ほど

            で抜ける。佐久から、立科、和田町と抜ける。いつも、和田峠のふもとに

            ある道の駅で野沢菜を買って帰るので、今回も。ここの野沢菜が一番安い

            上においしい。5000円分くらいの漬物とキュウリやナスを買う。新和

            田トンネルに向かって、南へ。トラックが多い。追い越し車線で抜けるも

            のは抜いていく。新和田トンネルは路盤整備のために片側通行なので、

            20分ほど待ち時間を過ごしていた。新和田トンネルを抜けて、諏訪、

            岡谷方面に抜ける。諏訪まで降りてきたところで、雨が降り始める。雷も

            鳴る。ガソリン入れとかなきゃ。岡谷ICの前の出光で給油。道路は川のよ

            う。岡谷ICから入ったところ、大雨。あーあ。とりあえず中央道を名古屋

            方面に向かう。伊那ICまで来るとさすがに雨も時に小やみに。辰野PAで家

            内と運転手交代。一路南に。阿智PAで恵那山トンネルに向けての交代。

            スムーズに進む。恵那峡SAで一休憩。とりあえず、アイスクリームを食べて、

            40分ほど休憩。恵那峡SAに出発が午後6時ごろ。まだ明るいので、家内

            が運転するというので、運転を交代。小牧JCTを抜け、渋滞がないまま、

            名神へ。養老SAで交代しようかとも思ったが、多賀SAで交代。さらに西へ。

            京都付近で渋滞中というので、車の多さを嫌って、京滋バイパスへ。茨木

            ICを8時30分ごろ通過しようとしたころから雨。吹田JCT付近で大雨。

            雷も鳴っている。視界が異様に悪い。中国道で西に。宝塚IC付近でようや

            く小ぶりに。西宮北ICでは、雨があがる。神戸JCTまで行って、神戸西IC

            まで向かう。神戸西ICを9時30分ごろ通過。例年、名古屋付近で渋滞に

            会うが、今回はなし。ラッキー。とりあえず、この時間で食事ができると

            ころ、ということと、スシローのうどん105円を狙って、近所のスシロ

            ーに。キャンプの前にスシロー、キャンプの後にスシローと一体何だった

            んでしょうね。家に帰りついたら、10時20分過ぎ。車を降りたら、熱

            い。荷物を下ろす。あすの朝の牛乳がないことに気づいたので、牛乳をコ

            ンビニに買いに行く。戻ったら、11時過ぎ。

             ちょっと疲れたけど、いい軽井沢でした。よいリトリートになりました。

             今回、軽井沢では、鈴木範久著『聖書の日本語』とヘンリー・ナウエンの

            「すべてを新たに」読了。「すべてを新たに」は、もう一度深く読みたいな

            ぁ、と思っています。
            2009.08.29 Saturday

            日本のキリスト教会(キリスト集会)について考えた

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              ここのところ、何冊かの本を読んだ、そして考えた。日本の

              キリスト教会というかキリスト集会が特殊ではないか、とい

              うこととその特殊性を考えた。

              まず、最初に隅谷三喜男さんという方の日本の信徒の「神学」

              という本のメタファーが面白かった。日本のキリスト教会は、

              教会が二階建ての家のような構造になっていて、2階では

              高尚な神学がそこに住む学者、牧師、教益者で議論がされて

              いて、その姿を1階に住む信徒はちら、ちらっとみせられて

              いるだけで、1階への影響がほとんどないという現状をモデ

              ルとして提示しておられた。つまり、五臓六腑にしみわたっ

              たような信仰生活を日本のキリスト者が送っていない、とい

              う問題である。ある面、異教社会の中の少数派であるから致

              し方ないという面もあるが、しょせん、プロテスタント派は、

              100年ほどの歴史しかなく、キリスト教的な伝統がなく、

              その世界観が支配していない社会であるが故の問題であるの

              かもしれない。

               このような問題意識は、

              古屋 安雄 著 なぜ日本にキリスト教は広まらないのか

              を読んだ時にも、
               
              中村 敏 著 日本キリスト教宣教史 ―ザビエル以前から今日まで

              をよんだときにも、

              中村 敏 著 著名人クリスチャンの結婚生活 
                ― ルターから三浦光世/綾子夫妻まで ―
              (ファミリー・フォーラム・ジャパン)

              を読んだ時にも感じた。つまり、日本的な伝統をもとに聖書

              を読み、ほかの人々の考えと照らし合わせて考えるという習

              慣がないことが、特殊なキリスト教社会と聖書理解をうみだ

              している様な気がする。

              その結果、「教会生活の疲れ」という問題が出てくるのであ

              ろう。この問題に関しては、

              堀 肇 著 教会生活の「疲れ」とその回復

              でも触れられている。本来的でない聖書の読み方を自己の問

              題として自己批判的に考えず、鵜呑みにしてしまうところに

              問題があると思う。

               本来霊的な憩いの家であり、霊性の回復の場所である、教

              会という場所が、福音宣教という戦場としてとらえられ、霊

              性の成長を妨げている部分が日本のキリスト教会やキリスト

              集会の中にあるような気がする。これは、伝統のなさがなせ

              る結果、日本にキリスト教という一体がしみ込んでいないこ

              とが原因かもしれない。継木型のキリスト教のおかしさのよ

              うな気もする。

               山田耕太著 『ダラム便り』 (すぐ書房)という以前読んだ

              がその内容を十分味わえなかった本を改めて読んだ。イギリ

              スという聖書の理解が多少歪みつつも、生活の端々に根付い

              ている国の姿である。家庭が神の国のモデルとしてとらえら

              れているということになるほど、と思った。そして、ディス

              カッションを通じて、相手の考えを受け入れつつ、自己に批

              判的な目を向け、自分自身の考え方を変えていく柔軟さ、と

              いうことの大切さを感じる。

               聖書の理解が十分体験的に理解でき、基本的な無理のない

              信仰者の姿を作っていくことの大切さを感じる。宣教という

              ことではなく、イエスの精神を手渡していく形、シェアして

              いくスタイルの信仰生活の重要性を感じる。

               その意味で、日本のキリスト教会やキリスト集会という形

              で一般化して語るのは危険だが、それでもあえて言うなら、

              日本のキリスト集会の一部に、ちょこっとだけ二階のある玄

              関だけの薄っぺらな住宅と思える部分があるかもしれない。

              その意味は、神学理解に対して否定的な目を向けるあまり、

              2階部分が非常に弱い。ただ、狭い分だけ、2階と1階の

              間の一体感はある。しかし、歴史を振り返り、信者を成長

              させ、休息を与える家屋のリビングや寝室にあたる部分が

              極めて小さく、とにかく伝道という外に出る玄関のところ

              で、ちょっとだけ休息をとり、伝道しているようなイメー

              ジがある。外に出る玄関だけは大きい。信者の成長のため、

              自分を見つめなおしたり、過去を振り返ることをせず、未

              来にだけ目を向けているような気がする。その意味で、バ

              ランスがかけているのではないか、自分自身を反省してい

              てそう思う。まず、自己の成長のため、教会の成長のため、

              必要なリビングとベッドルームを作ることを考えるべきか

              もしれない。物質的にまた文化的に豊かになった社会にい

              る人々により豊かさを分かち合う教会に慣れれば、と思う。

              ピーター・スキャゼロ著  情緒的に健康な教会をめざして

              (いのちのことば社)をよみながら、まず、自分という信仰

              者の家の構造のおかしさを反省し、自分たちの家の構造の

              薄さや問題点を正確に反省することの大切さを感じた。そ

              して家族とキリスト教会(集会)の在り方についても。い

              たずらに現状の在り方を正当化するのではなく。そして、

              他者を受け入れ、ともに成長するための仕組みというのか、

              神の取り扱いを考えていくことの大切さを感じている。

              イギリス人にとっての家屋のイメージは、何百年も直しな

              がら何世代にわたり、時に所有者を変えながらも使い続け

              変化していくものであるのだろうと思う。日本人の家屋の

              イメージは、建てた人で終わり。スクラップ・アンド・ビ

              ルドの家屋のイメージだと思う。アメリカは、もともと、

              古いものがないので、古いものは高価で取引されるが、

              そうでなければ、どんな豪邸でもスクラップ・アンド・ビ

              ルドに近いと思う。

               日本の教会は、どんな家にこれからしていくのだろうか。

              日本のキリスト集会はどんな家にしていくのだろうか。

              そして、自分はどんなキリストの家を建てていくのだろう

              か。

               いずれにしても、礎石はキリストであることには違いな

              い。とはいえ、どんな家になるかは、建てる人の考えで変

              わるのだろうと思う。建てる人の考え方は重要ではないか

              と思う。礎石は一つでも、いろんな建て方がありえるので。

              パウロが言うように。
              2009.08.31 Monday

              プラグマティズムを考える。

              0
                 
                のらくら者の日記というある牧師さんのブログがある。

                この記事がむちゃくちゃ面白い。


                http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1cb7.html

                今回の選挙で、民主党がバカ勝ちした件に関して、であるが

                英国のブレア政権の成立、米国のオバマ政権の成立、日本の

                民主党政権の成立をみて、国民のプラグマティズムに基づく

                政権選択の結果ではないか、という視点で描かれていた。

                そうであることを期待したい。ただ、どうも、バカ負けした

                自民党総裁を選んでしまうような自民党的体質に、限界を

                感じたプラグマティズムかもしれない。まともなリーダーと

                なりそうな人たちを押しのけて、まともでない人たちが何ら

                かの思惑で選ばれることに対する意思表明だといいが、マス

                コミに踊らされていたのでは、という懸念も大いにあるよう

                に思う。

                北海道のM村さんとか、嫌いだけど、九州のK賀さんとか、

                まだ、まともな人が落ちているのには、ビックらこいた。

                本来、石川出身の元祖問題発言親父Mさんが総理をしたあ

                たりから、おかしいと思う。孫がアイドルか歌手をしてい

                る島根出身のT下さんは、どうかなぁ、と思う姿勢はあった

                が下品な問題発言はしなかったもの。

                 日本が、民主主義の根本である対話と相互理解を重視して

                プラグマティズムを持ち、良識的な判断をする国民となった

                のだろうか。もう少し様子を見てみたい。

                 


                2009.09.04 Friday

                苦しみについて

                0
                   苦しみについて、考えている。

                  一つは、精神的にちょっとつらい、ということころがあるから。

                  もう一つは、今週末参加する予定の聖書研究会が苦しみについて

                  その存在理由について、であるから。この聖書研究会は、創造論

                  的な立場からの研究会なので、たぶん、アダムとエバの善悪の知

                  識の木の実のところからなのであろう。

                  それはそれでよい。

                  しかし、最近、ナウエンとかスキャゼロとか、クラウド・タウン

                  ゼント(バウンダリーズ)を読んでいるせいか、(たぶん、ナウ

                  エンの影響)苦しみの意味を考える。苦しみそのものよりも、苦

                  しみを通してもたらされる荒野の経験というのか。荒野にいる、

                  ということの意味、荒野で経験する深い神との個人的な霊的交流。

                  もちろん、教会では共同体として経験する神との霊的交流がある

                  のだが、荒野での個人と神との交流は非常に深いものをもたらす。

                  そのことの意味を感じる。

                   なぜ、苦しみがあるのか、という問いは、近代人、啓蒙時代人

                  であるがゆえにもつことがゆるされる問いではないか、と思う。

                  というよりは、近代人だから、啓蒙時代を経た人間中心的な思想

                  の結果もたらされた問いだと思う。その背景には、苦しみを悪と

                  とらえる思想、死を悪、生を善としてとらえる思想があるのでは、

                  と思う。

                   聖書のオリジナルの思想に戻れば、本来、死も生も善であるの

                  かもしれない。というよりはいずれも価値から中立的な存在であ

                  る。神の支配下にあるのだから。死も苦しみも中立であり、その

                  まま受け入れるべきもののような気がする。苦しんでいる時はつ

                  らい。それはその通りである。しかし、そこには深い神との交流

                  がある。それを味わうことができるのは、苦しみを通してかもし

                  れない。

                   中世人、とりわけ、中世の普通の庶民にとって、理不尽な苦し

                  みは日常的なものであったと思う。それでも彼らはそれを受け止

                  め、当然のものとして生きてきた。なぜか、そこに神と出会った

                  からではないか。彼らの考えを書いたものはない。しかし、彼ら

                  に希望を与え続けたのは、共同体としての教会であり、共同体そ

                  のものの中の現実の人間のありようだったと思う。

                   そのことをもう少し考えてみたい。自分自身の痛みを通して。



                  2009.09.09 Wednesday

                  苦しみの意味 再考

                  0
                     世の中にはどうにもならない理不尽な苦しみがある。

                    避けられないような苦しみである。悲しみである。

                    今、ハンセン氏病の方々がこれまでの歴史的過程

                    の中で通ってこられた歴史の記述の書を読んでいる。


                    理不尽な悲しみという以外ない。それを受け入れな

                    ければならなかった当事者の方々の痛み、悲しみ、

                    苦しみを考えると耐え難くなる。

                     しかし、一人の人間としてはどうして差し上げるこ

                    ともできない無力感を感じている。その中で、勤務に

                    当たっていたキリスト者の姿を見、そのキリスト者が

                    自死していた事実にその現実の大きさを垣間見るよ

                    うな気がする。

                     苦しみは、神に出会う道であるとともに、他者を責

                    めるのではなく、自らの無力さを認め、神のもとに行

                    く道でもあるような気がする。

                     もう少し、このことを考えてみたい。
                    2009.09.11 Friday

                    信仰告白とバプテスマの間

                    0

                      信仰告白とバプテスマの間

                      いつも愛読している水谷潔さん(小さないのちを

                      守る会代表)のブログ「命と性の日記〜日々是命、

                      日々是性」に、高校生の本音として「バプテス

                      マを受けたのだから、信者らしく○○して欲しい

                      とか、○○してはいけない、とか言われるからバ

                      プテスマを受けるのは・・・」といった内容が書かれ

                      ていて、中高校生たちが信仰告白するものの、バ

                      プテスマにつながっていかない問題を書いておら

                      れた。

                       詳細は、http://blog.chiisana.org/?eid=1255668

                      を参照してください。

                       使徒行伝の記事、あるいは福音書の記事を見る

                      限り、本来、バプテスマと信仰告白ということは

                      基本的に機を一にするはず。

                       しかし、最近読んでいるキリスト教典礼史の本

                      などによると、ローマ時代(使徒時代の直後の教父

                      時代)には、キリスト者となるということが、一種

                      の特権というか社会的ステータスというか(日本語

                      に訳し難いが英語で言うとプリビリッジ)であった

                      ことなどもあり、信仰告白とバプテスマの間に相当

                      の期間がおかれたことが分かる。一種のテスト期間

                      がおかれたようである。誰でも、彼でも信者にしな

                      かった当時のキリスト教会の見識は見識としてあっ

                      て良いとは思う。

                       しかし、上で紹介した高校生のバプテスマに踏み

                      切れない理由をみると、問題は教会側の審査がバプ

                      テスマを受けさせなくしているではなくて、教会側

                      の風紀委員的態度が高校生や中学生を教会から遠ざ

                      けている点だと思う。

                       隅谷三喜男氏は、卒業信者の問題を取り上げたが、

                      これでは、入学辞退信者が量産されているのではな

                      いかと私は思ってしまった。

                       最近、福音書のイエスの言動をよく読んでみると、

                      キリストは倫理的な行動基準についてはあまりうる

                      さく言っていないことが分かる。もちろん、罪を犯

                      さないように、避けるようにとはいっている。悔い

                      改めよともいっている。神のもとに帰れ、といって

                      いるが、それ以上のことは要求していない様に思う。

                      イエスは、弟子たちが誰が偉いか、という議論をし

                      ている時に、一人の子供をイエスの前に立たせ、こ

                      の無力な子供を受け入れるものは、神を受け入れる

                      ものだと話をしている。

                       このとき、イエスは、この子供について、風紀

                      委員のように髪型がどうの、行動がどうの、服装が

                      どうの、とかいうようなことはいっていないような

                      気がする。ありのままの子供を受け入れることがで

                      きるかどうかが、あなた方の信仰を決定付けるので

                      はないか、と弟子たちに問いかけている。

                       教会が、19世紀的倫理観、日本に大量にキリスト

                      教福音派の伝道が行われた時代の1960年代前半以

                      前のアメリカ中産階級の倫理観を維持し続け、それ

                      を、中学生・高校生に要求し続けるなら、キリスト

                      教会の未来はないのではなかろうか。「老兵は死な

                      ず、ただ消え行くのみ」といったマッカーサーのよ

                      うに消え行くことをよしとするのも一つの見識かも

                      しれない。

                       この夏、賀川豊彦とその発言について考え続けて

                      いる。



                       「日本の神学は一体理屈が多くて六ヶし(難し)

                       過ぎる」

                       「今日の教会には一向に行きたい気がしない。

                       感傷的(センチメンタル)な連中のみが徒に

                       多くて、少しも心を引きつけられない」

                       「信仰とは主知的に教条を鵜呑みにすること

                       ではない」

                          (以上:出典 太田出版 季刊 at 15号 )


                      という賀川の批判にどう答えるのか、個人的に問わ

                      れています。答えは見つかっていないけれども。

                       賀川に関係するの本を読む中で、横浜バンドの関

                      係者の植村正久が

                       「我輩の教会に車夫、職工の類はいらない」

                       (出典 太田出版 季刊 at 15号 )

                      といったという記事があったが、キリスト教会が暗黙

                      に漠然とした理念形として持っている都市中産階級の

                      生活理念形というか理念形としての行動規範や倫理観

                      が、中高生の救いを妨げているとしら、どうなのだろ

                      う。

                       現代のこのような教会の姿を見ると、イエスは鞭を

                      持って大暴れし、机をひっくり返して、現代の教会で

                      大激怒するのではないか、と思う。白く塗った壁、と

                      批難されるかもしれない。この批判、この怒りが自分

                      に向けられたものであるとも思う。

                       今しばらく、この問題と取り組んでみよう。

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