2018.06.07 Thursday

ペンテコステ第2主日のブルティンからの黙想 安息日をめぐる黙想

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    先日の説教は、マルコ2章23−3章6節までの安息をめぐるイエスと律法学者の対話と、病者の回復についての記事からでした。

     

    世にも奇妙な世界の規則たち

    最初は、世界にいろいろある奇妙なルールがあげられ、いろいろな奇妙なルールの話をまず暴騰してました。

     

    イギリスでは、鮭を変な持ち方をしてはいけない(1986年制定の規則、というツッコミつき)

    スイスでは、裸でハイキングしてはならない

    ポルトガルでは、海の中で排尿してはならない(誰がどう確認するんだ、というツッコミつき)

     

    後、記憶に残ったのは、

      説教者たるもの説教壇で笑ってはいけない

    といったものでした。

     

    この珍妙なルールのソースは、おそらく、このリンク http://www.thisisinsider.com/14-strange-laws-from-around-the-world-2016-7 とそのほかから、取っているのだろう、とは思いますが。

     

    現代イスラエルでの安息日の出来事と安息日の意味

    現代のイスラエルでも、保守派(ウルトラ保守派)の皆さんは、安息日に冷蔵庫を開けたり、エレベータを使うと、電気を使うことになるので、仕事をしたことになるので、これらのものを使わない人々がいるといったこと(これは実話であるらしいようです。お友達のレビ先生(日本人)の方から聞いた話だと、日本人のような外国人なら、安息日のルール外だとおもったのか、レビ先生のアパートの隣の厳格派のユダヤ人のご夫妻が、外国人である日本人に金曜日の日没(金曜日の日没から、安息日が始まるから)以降に、冷蔵庫の電球を外してくれ、と頼みに来たことがあったらしいです)といった、ユダヤ社会の習慣が取り上げられた後、ユダヤ社会では、律法、十戒で知られる、十のことばにある、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」の解説について、司祭が、説教の中で、取り上げていました。

     

    https://www.pinterest.jp/jmoolinger257/s-sabbath/ から

     

    そして、当時の律法学者たちが、律法が何のために、誰のためにあるのかを忘れ、形式化したことをイエス様が批判されたことを述べた後、安息をとるのは、何のためか、という話になり、安息は、神との関係と深め、神との関係に戻るための安息日ではないか、それは、ある意味で、私たちが神を賛美し、神とともに生きる、という本来の人間の役割に戻るということに着目すべきであろう、というのが、ペンテコステ第2主日の説教の概要でした。

     

    奴隷の皆さんにも及んだ安息日

    奴隷であったことを思う安息日

    そして、安息日は、ユダヤ人だけに及んだのではなく、社会全体に及び、社会が一つとなって休んだことが、申命記5章12−15節までの記述から、説明され、すべての人が神との関係に戻ることを神が求めておられ、誰かの犠牲の上に安息が守られる、ということではなかったことも触れられました。これは、本当に大事な視点だ、と思いました。そして、ユダヤの民が、かつて奴隷であったことを思い起こすように指示されていることも、本当に重要な側面であったと思います。

     

    それは、現代の私たちにとって、私たちは、様々なもの、欲望だったり、自分自身の自信、社会的制度だったり、あるいは人の目するのだと思うのですが、それらの奴隷であったことを思い起こす必要性ともつながっている、といったことを、司祭の説教を聞きながら思い起こしていました。

     

    【口語訳聖書】 申命記  5章 12−15節

    安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。 あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。 

     

    ともすれば、自分が神との喜びに満ちた安息に入るために、時に他者に、特に社会的に弱い立場の人たちに、犠牲を強いてしまうというのが、人間の弱さの結果ではありますが、そのことの現代的な意味を少し考えていました。

     

    そういえば、この説教を聞きながら、神との安息の大切さ、安息日を守ることの大切さ、を思い出していました。そういえば、いのちのことば社から最近翻訳が出た修養する生活をお書きになられた、スーザン・フィリップス先生の2年前の講演 2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(1)  でも、そのことが触れられていました。

     

    それと同時に、今回の聖書箇所で気になったのは、

     

    第2コリント4:7−11 
    We are like clay jars in which this treasure is stored. The real power come from God and not from us. We often suffer, but we are never crushed. Even when we don't know what to do, we never give up. In times of trouble, God is with us, and when we are knocked down, we get up again, We face death everyday because of Jesus. Our bodies show what his death was like, so that his life can also be seen in us.

     

    日本語の口語訳聖書では、

     

    コリントの信徒への手紙二 4章 7-11節
    ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 
    虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 

     

    どういう関係か、日本語で読むと、自分たちが形状記憶合金のような存在や、はたまたスーパーマンであるべき、という勧めのように聞こえてしまいそうな文章ですが、英語のこのバージョンでの翻訳で同じ部分を読んでみると、人間がスーパーマンのような存在に聞こえるようなところに目が行くのではなく、神がこの粘土でできた体に内在される、吹き込まれるがゆえに、困難な時にも、そこに神の臨在がある、という形に聞こえるから不思議だなぁ、と思いました。

     

    神の霊を土の器に入れていただいている存在として
    まさしく、創造の初め、神が神の霊(聖霊)を人に吹き込まれるまでは、人間は、粘土の塊、粘土の入れ物のような存在だったのだということを思い起こしていました。それは、ミーちゃんはーちゃんの数か月前の姿でもあったわけです。安息の大切さを知りながら、神の安息に憩っていなかった、自分自身の姿を思い起こすことになりました。神の息吹を吹き込まれていることを覚える日、それが安息日なのだろうなぁ、と思いました。

     

     

     

    死海文書が入っていた、粘土製のツボ https://www.awesomestories.com/asset/view/Dead-Sea-Scrolls-Clay-Jars//1 から

     

     

     

     

    ヒゼキア時代の粘土製のツボ https://lukechandler.wordpress.com/2015/06/27/biblical-artifacts-in-the-israel-museum/ から

     

     

    Real help in times of trouble.

     

    そして、この部分を読みながら、響いてきたように思い起こされたのは、祈祷書の次のような文章です。

     

     

    Real help in times of trouble.

     

    レントの時、このリタジー(式文、ないし祈祷文)をよみながら、本当にそうだろうか、と思い悩みつつも、これを皆さんと一緒に読むときに、そうなんだろうなぁ、と思っていました。そして、苦しみの日々、苦々しい日々、闇夜、荒野の中、死の影の谷、海の底のような状態にある時には、この言葉を本当に心からいえないながら、このことを本当に信じているのだろうか、ということを自分自身に問う毎日でした。

     

     

    しかし、今、ほぼその状態から、なぜか抜け出した毎日を過ごす中で、確かにわが神は、

     

     

     

    Real help in times of trouble.

     

    だった、ということができるなぁ、と思い起こします。とはいえ、また、いつ何時、またあの同じ苦しみの日々、苦々しい日々、闇夜、荒野の中、死の影の谷、海の底のような状態に陥らないとは言えないミーちゃんはーちゃんがいます。しかし、そうであっても、神のもとに戻るとき、神の安息日を覚え、神との安息の時間をとるとき、そこに、自分自身が、

     

    Real help in times of trouble.

     

    といいうる希望があるなぁ、と思うのです。そう、神は絶望の神ではなく、希望の神であることを、身を持って体験したような気がするということを再確認する黙想に、この日の説教から導かれました。

     

     

    この黙想を与えたもうた、

     

      主に感謝、主に栄光、Thanks be to God, Glory to you O Lord.

     

    と思っております。 

     

     

     

     

     

     

    2018.12.31 Monday

    説教随想 ホーム・アローン・ゴッド 

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      いつも参加させてもらっている教会での昨日の聖書個所は、イエスが12歳の時のエルサレムに行って、宮で祭司長と律法学者と話し込んでいる間にマリアとヨセフがイエスを神殿に置き去りにして、帰りかけた話のルカ2章41−52節からの部分でした。

       

      いろいろなクリスマス映画

      ちょうど、今はまだクリスマス習慣絶賛実施中です。多くのキリスト教界では、新年モード・迎春モードかもしれませんが、教会歴に沿ってしている教会では、まだクリスマスモードだということもあり、クリスマスシーズンの映画の話から、ということで、Home Aloneもクリスマス映画だよねぇ、という話になって、ある意味で、今日の福音書のルカ2章からの部分と、ホームアローンって、似ているよねぇ、というところから始まりました。

       

      Home Aloneの予告編

       

       

      個人的には、34丁目の奇跡とかJingle All the Wayが個人的には、面白かったような気がします。ほかにも、まぁ、クリスマス時期は、いろいろシーズンに合わせた映画が公開されるので、かなりバラエティが多いシーズンではありますが。

       

      34丁目の軌跡

       

      Jingle All the Way

       

      いろんな事に気を取られてしまっている人間の姿

      そして、親をしている人で、ホーム・アローンのように子供を置き忘れたことがあるか、とかいう話になっていったんですが、ホーム・アローンでは、パリ旅行のためにあれやこれやしなければならないことがあって、大事なことを忘れてしまう人間の姿を描いているよね、ということから、どういうことかはわからないけれども、ヨセフとマリアもほかのことに心をとられていて、イエスをホーム・アローン状態にしたのかもしれないよねぇ、という話で、この大切なことを割と忘れてしまうっていうのは、人間の姿を現しているかもしれないよねぇ、と話が続いていきました。ここで、イエスを忘れたマリアとヨセフは人間の姿を現しているのかもしれないよねぇ、という話になりました。

       

      人間は、実に様々なことに気を取られているのは確かで、仕事のこととか、人生のこととか、健康のこととか、いろんなことに気を取られていて、本来見ておかなければいけないことを見ていないよねぇ、本来、人間が気にかけておくべきことは、神とともに歩むことなんだけれども、それができていないのが人間だけれども、仮に、我々が、時に神とはぐれた、神に目を向けることを忘れていたとしても、神は、常におられるべきところにおられて、我々はそこに戻ることができ、常に、神は我々が神のもとに帰ることを待っておられるのだ、というのが説教の要約です。

       

      ホーム・アローン・ゴッド

      この説教(全部で10分ちょっとくらい)まぁ、聖書のルカの福音書は、父の家にヨセフやマリアからは置き去りにされていましたが、その周りには、祭司だとか、律法学者がいたので、一人ではなかったわけですが、イエスは、我々人間と神がともにいる、という本来の姿を取り戻したいという神の意向を伝えるために、そして、父の家には人間のための空間がある、ということをこの地の人々に伝えるために、本来の神の王座を離れて、残虐な殺され方をするために来たのに、人間の側が割とあっさりと無視していて、ある意味で、神の片思い状態にしているという意味で、神の御座というホームに神だけがいる、という状態になっているよなぁ、ということを思うと、私たち人間は、ホーム・アローン・ゴッドにしているよなぁ、と思ったのでした。

       

      主の祈りから

      ところで、主の祈りの中に、次のような部分があります。

       

      み国が来ますように

      みこころが天に行われるとおり
      地にも行われますように。

      your kingdom come,
      your will be done,
      on earth as in heaven.
      この部分には、神と人間との関係が、遠いものや無関係なものではなく、かなり近いものであること、神の支配がこの地にあることを示しているわけで、神の側が、神にとってのホームである天におられれるだけでなく、人間も天の支配、神の支配というその世界に含まれるということについての祈りであるのだと思うのです。

       

      その意味で、私たちが日常生活の中でともにおられるはずの神を、忙しさや仕事、様々なことのゆえに見ないことはよく起きてしまうわけですし、旧約時代のイスラエルは、神とともに歩みながらも、神を忘れたり、無視したかのような歩みをし続けた民でもあったわけですが、そのイスラエルの民に、神は、「わが子よ、わが元に戻ってこい」ということを言い続けられたわけで、言い続けた内容は、「神を神のホームでもある天にホーム・アローン状態にするな」ということでもあるように思うのです。

       

      神をホーム・アローンにしている人間
      その意味で、キリスト者は、この地に神がキリストという形で歩んだことを知り、キリストを聖餐を通して、自らのうちにな移住していただいているものであり、さらに、キリストのゆえに、神の聖霊(聖神)がおられるということを日々体験している民でありながら、人間の側の都合で、割と、本来、自らのうちにおられる神をホーム・アローン状態にしている部分があるよなぁ、と素朴に思いめぐらせていました。

       

      この神と人がともに歩む、神が人間をホーム(宮)にするというのは、

       

      【口語訳聖書】 コリント人への第一の手紙 3章 17節
      神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 

       

      【口語訳聖書】 コリント人への第一の手紙6章 19節
      自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

      とも書いてあるのだけれども、人間はともすれば本来、神のホームであるにもかかわらず、そのことを自分の思いのあまり、あまりにも無視していることが多いのかもしれないなぁ、ということを教会からの帰り道の道すがら考えておりました。

       

      イスラエルが、道を外れまくりながらも、預言者などの声にこたえる形で神のもとに戻っていったように、神のもとに戻っていく、ということをキリスト者として考える必要があるのだろうなぁ、ということの意味を今週は考えることになりそうです。

       

      ホームアローン状態だった放蕩息子の父

      そういう意味でいうと、放蕩息子の父は、弟君からは、リアルな意味でホーム・アローン・ファーザーにされていたし、兄貴からは、リアルな意味では同居しつつも、精神的な意味で、ホーム・アローン・ファーザーにされていたという意味で、ダブルでホーム・アローン状態にあったという意味で、現代のキリスト者からは、放蕩息子の兄のような状態で、ホーム・アローン・ゴッドにされているのかもしれないなぁ、とも連想してしまっていました。

       

       

      こういうシュワちゃんにドアップで迫られると結構怖いだろうなぁ

      https://imgflip.com/i/1tlx6m から

       

      ちなみに、現在も絶賛クリスマス期間実施中ですので、例年この時期は、電車等での落し物が多い時期でもありますので、皆様も、皆様のクリスマスの精神(Christmas Spirit)をどこかに置き忘れになられませんように。ドンジョバンニに出てくる騎士団長のような、こんな人が出てくるかもしれませんし。

       

      https://www.dailyedge.ie/muppet-christmas-carol-best-christmas-film-3137821-Dec2016/ より

       

      ドン・ジョバンニの最後のシーンに出てくる騎士団長様

       

      とりあえず、来週月曜日まで、年末年始のお休みに入ります。よきクリスマス週と、エピファニーをお迎えください。

       

       

       

       

       

       

       

      2019.01.07 Monday

      2019年のエピファニーの説教黙想

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        昨日はエピファニーでした。、昨日の礼拝では、聖書を読む前には、式文の合間に以下の二曲を歌いました。

         


        We three kings of Orient are



        Gradual: Brightest and best

         

        そして、

        Old Testament Isaiah 60:1-6 (信徒が読む)
        Epistle Ephesians 3:1-12  (信徒が読む)
        Gospel Mathew 2:1-12  (司祭が読む)


        の部分が読まれ、説教となりました。

         

        3人は何だったのか…

        昨日は、エピファニー(クリスマスの最後の日)で、東方の3博士なのか、3人の王なのか、3人の魔法使い(Magi ギリシア語では、magoiと書いてあるはず)なのか、3人の天文学者なのか、3人の占星術師なのか、3人の占い師と呼ぶのかは、いろいろあるのだけれども、その辺は習慣というか伝統が入り込んでいて、なんというべきかいろいろあるのだが、その三人の少なくとも星を見た人がイエスのもとに来たことを記念する日、ということで、それに即する讃美歌などを歌い、それにかかわる以下のような聖書記事を読みました。冒頭の讃美歌(We three kings of Orient are)で歌ったように、なんとなく私たちは、東方から来たのは、王だと思っているけれども実はそうではないかもしれなくて、といった理解や、羊飼いとこれらの三人の博士があたかも同席しているような絵画が描かれたりと、クリスマスやイエスが生まれたときの理解については、いろいろ聖書が成立して以降に持ち込まれた絵画とか、理解とかから持ち込まれた後世の文化的な蓄積があり、その結果から多くの誤解に近い思い込みをしている部分があるよねぇ、というお話になりました。

         

        3人が持ってきたプレゼントについて

        福音書の解説として、3人の王としてが、黄金、没薬(myrrh)、乳香( frankincense)を持ってきたことになっていて、それは、神の子の誕生の際のプレゼントだけれども、普通子供が生まれたら、何を持っていくだろうか、という話になりました。このことの問いかけがあったので、何人かの参加者から、紙おむつとか、粉ミルクとか、バスタオルとか、というアイディアが出ました。それを受けて、司祭は、いろいろ普通は実用的なものを持っていくけど、この3人のMagiのみなさんは、よりにもよって、あまりにも実用的じゃないものと思えるものを持ってきているよねぇ、という話がありました。

         

        https://www.pinterest.jp/pin/284993482647636368/

         

        この3人のMagiの皆さんが持ってきたものに対して、ある聖書学者は、黄金は、イエスが王であること、没薬は、イエスの死と復活、乳香は神への礼拝、と対応っセルことで、これらの贈り物がイエスの生涯を象徴しているという解釈をする人もいて、表しているという解釈ができるとか、言っている場合もあるし、別の神学者によれば、いやいや、これは、高価に転売できるので、のちにイエスがヘロデの手を逃れるために、エジプトに逃れるための資金として、すぐに高価格で転売できたので、問題なかった、というような解釈をしている人たちもいますが・・・という紹介がされました。

         

        神からの全ての人間へのプレゼント

        ところで、この時期は、プレゼントをする時期で、特に日本では、クリスマスにお正月、誕生日プレゼントに時々はお土産も、ある種のプレゼントでもある、ということを考えると、日本というのはプレゼントが多い文化を持っているよねぇ。特にプレゼントということで考えてみると、クリスマスがなぜよろこばしいのか、という意味を考えると、人間への最大のプレゼントは、実は、神の御子が、神であるにもかかわらず、この地に自分自身をプレゼントとしてやってきたことなのではないでしょうか。それを、キリスト者として、この東方からこの三人がわざわざやってきて、神に対して捧げるもの、あるいは、神の御子、王へのプレゼントを持ってきたことを覚えるエピファニーに際して、どう考えたらよいのでしょうか、という問いかけがなされました。

         

        人間が神に捧げることができるもの

        神がご自身を人間に与えたもうたことに対して、私たちは、何をしたらよいのか、ということを考えてみると、我々は、すべてのものを神から受けているにすぎないものである以上、人間が神に何か返すことはできないですし…ということはあるのではないでしょうか、という問いかけがさらにありました。

         

        そうはいっても、この時期は、年初なので、これからの一年を考えるというのを、日本でもよく行うようであるし、多くの文化でするけど、その時に去年と何がどう違うか、去年より生き方を少しちょっと変えてみる、を考えてみるのはいいかもしれない、ということを考えるときに、エピファニーでもあるので、東方のMagiが何かをささげたように、人間がどのように神に何かをささげうるとしたら、何か、ということを考えてほしいのですし、そして、おそらく、人間が唯一神に差し出すことができるものがあるとすれば、神の愛にこたえて、神を愛することがまず第一義的にあるでしょう、そして、これから1年の間に出会う人々、それはとりもなおさず、私たちの隣人である存在である人々に自分自身の存在を差し出すことしかないんじゃないでしょうか、という問いかけで、説教がまとめられました。

         

        説教を聞きながらの黙想

        説教を聞きながら、思っていたのは、次のようなローマ人への手紙の箇所でした。ローマ人の手紙には、確かに次のようにあります。

         

        【口語訳聖書】ローマ人への手紙 12章 1節
        兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

         

        それとともに、また、

         

        【口語訳聖書】コリント人への第一の手紙 13章 2節から3節

        たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 

        たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 

         

        ということも、思い出していました。これを思う時、キリスト者として生きるということは、とりもなおさず、神に対する愛に動機づけられて生きる古都であるということを思いめぐらせていました。つまり、他者から評価を受けるようなことをなすことでもなく、神を愛すること、神とともに生きることが神に対する礼拝であると同時に、旧約聖書の律法と預言者が(旧約聖書の全体)この二つにかかっていると、イエスが言ったことも思い出していました。

         

        【口語訳聖書】マタイによる福音書 22章 35節

        そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、 

        「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 

        イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 

        これがいちばん大切な、第一のいましめである。 

        第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 

        これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 

         

        これらの言葉を、説教を聞きながら思い巡らし、この一年、どんな場面で神の愛をみることになるのだろうか、そして、どんな人々と出会い、どんな人々の隣人になり、その中で、神の愛をどのように示すことになるように導かれていくのだろうか、そして、それが、旧約聖書全体をかけて、神が私たちに示そうとしたことだし、そのことが神がこの地に命がけで来て、人類にとってこれ異常ないプレゼントであることを示し、神がこの地での命をいきるなかで、その神の愛を、神の愛の全体がこの地に突き抜けて神の御座、すなわち神が支配をなしておられる場所からこの地にやってきた、ということについて、その極みまでを示したことについて、個人的には、エピファニーの礼拝と聖餐式が終わって、帰る道すがら、思いをめぐらしていました。

         

        余談

        アメリカの映画などを見ていると、この3人の王を明らかに題材にしたと思えるタイトルの映画なんかもあります。それと、クリスマス、キャロルで出てくる3つのクリスマスのゴースト(過去のゴースト、将来のゴースト、現在のゴーストも、おそらくは、この3人の東方の博士なのか、王なのかのパロディになっているのかも知れないかもなぁ、それぞれが、エベネザー・スクルージにもたらしたものがなんだったかと対応しているのかも、とか礼拝からの帰り道、色々妄想しておりました。

         

         

         

         

         

        2021.02.09 Tuesday

        説教黙想 エピファニーV キリストとその神秘に触れる縁(よすが)

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          本日の聖書箇所は、 

          旧約聖書 イザヤ書  40章 21-31節

          使徒書  1 コリント  9章 16-23節

          福音書  マルコによる福音書 1章 29-39節

           

           

          本日の福音書は、ペテロの姑の病気からの回復について部分であった。

           

          本日のブルティンの表紙(エピファニーの祭色は緑なので、タイトルが緑色)

           

          説教要旨
          基本的な説教要約としては、現在のCOVID19患者が拡大する社会の中で、人々は触れ合うことができなくなり、人と人とが物理的な距離をとるのが標準的な望ましい行為となり、遠ざけ合う関係の中になってしまった。ハグといった肉体接触行為が普通に行われてきた人々にとっては、それをしていた時代が懐かしいし、それに戻りたい、と思っている人も多いであろう。そこでは、人々が触れ合い、人々がそれによって何らかのことを感じてい居たのではないだろうか。『触れる』という行為は何らかの意味があるし、イエスは高熱を発して苦しんでいるペテロの姑を『さわられて』回復されたのである。イエスは日々我らのそばにおられて、我らが病める時も、悲しむときも、喜ぶときも、常にわれわれのそばにおられ、ちょうどペテロの姑をいやしたように、我々に触れ、我々の心に触れられ、回復を与えられるお方であるイエスという存在を覚えること、そしてイエスに日々触れていただく中で回復されていくということが必要なのではなかろうか、というのが主要なメッセージの要約である。

           

          説教中、説教後、この『触れる』という語に思いをめぐらせていた。身体性と象徴性と理解やコミュニケーションにおける身体性と神秘の関連に関する諸概念のかかわりと、触れること、人間の感覚と神秘性が交差する瞬間あるいはカイロスについてである。

           

          黙想

          さて、このような説教から何を黙想したのか、をちょっと紹介してみたい。

           

          世俗化した現代社会における象徴の意味
          現代社会は、世俗化の時代であり、科学性、合理性、論理性、客観性を大きく発展してきた社会であり、それですべてが語られると理解してきた社会であり、あるキリスト教関係のグループの人々の中には、ややバランスを欠いた形で、神秘性や象徴性を軽んじる人々も出てきたことは確かである。その結果、これらの教会の中では、神秘性や象徴性のあるもの(たとえば、聖画やイコン、聖像や聖伝をすべて剥ぎ取り、がらんどうの飾りも何もない空間をよしとする人々も居られた。そして、あるグループの教会では、無機質の箱のような空間として教会がデザインされていくことになる。

           

          建築の分野では、モダニズムというデザイン文化が1920年代から1970年代までは流行した。あくまで合理性、効率性を目指した四角い箱のようなものを設計し、建設されるというのが、流行した時期がある。この時期の代表的な建築家に、ル・コルビジェがおり、日本でもコルビジェのデザインから、数多の建築家が影響を受けた。コルビジェの設計は、単調な直線によりシャープに切り取られたような設計と1階部に配されたピロティと呼ばれる開放空間がその特徴であり、極めて合理的かつムダや遊びのない建築物である。まるで、実にスマートでシャープな改革派の先生方の説教のような建築物であり、近代の理念を絵に書いたような建築物である。そこには、シャープさやスマートさによる神秘性はあるにせよ、ある種、人を寄せ付けないような絶対性というか強さをも感じてしまう(なお、改革派系の先生の大半の方は、普段はお優しいし、良い方が多いので、説教とキャラクターは別ものと考えたほうが良いようである)。

           

           

           

          ル・コルビジェの建築の事例(上野の国立西洋美術館)
          http://museum.tachikawaonline.jp/15_kokuritsuseiyo2/

           

          キリストは死して、キリストは復活し、キリストは再びこの地に戻られるという神秘については、前回の 神秘とその解き明かしについて、思うこと 再臨理解によせて の記事でも触れたが、そもそもキリストの存在、この地での3年半あまりの公生涯についての大半についても、神秘としか言いようがないし、その公生涯以前の記述については、イエス自身が自叙伝などを書いてくれていないので、不思議な沈黙によっておおおわれている。これもまた神秘である。

           

          触れる、触る、触られるということ
          さて、ペテロ(ペトロ)の義理の母の癒やしの場面に関する口語訳聖書の聖書記述(マタイ福音書8章15節)では、

           

           

          そこで、その手にさわられると、熱が引いた。

           

          との記載がある。ここで、イエスは、COVID19のような濃厚接触により感染する伝染性の病気の可能性があってもペテロの姑を触り癒やしておられるのだ。そこに、触る(Touch)すること、触れられること、ぬくもりを感じること、それを通じて我々鼻で息するものは感じるのかもしれない。触れてぬくもりが感じられて他者に初めて伝わるもの(焚き火ぼくし 兼 ピーちゃん牧師(Qちゃんではない) 兼 オレオレ詐欺受け子逮捕協力牧師 である大頭眞一さんによると、イエスの体臭を感じるほどの近さ、それはいかにもまずいので、イエスの体温を感じるとか、イエスのぬくもりを感じるほどの近さとか、最近は言い直しておられるようだが)があるように思うのである。そのことを説教の中でも触れられていたが、我々は、このペテロの姑にイエスが触ったように、日常的に神と我々との関係の回復のために、我々は触ること、いや、イエスに触れられること、イエスを触れることが必要なのかもしれない。神の息吹を与えられているとはいえ、鼻で息するものに過ぎない人間は弱いので、イエスに触れられる体験、イエスに直接触れる体験ということは大きいと思う。

           

          ほんまもんに触れることの強さとメリット
          先日、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展を大阪でやっていたので、無理かなぁ、と諦めかけていたのだが、日曜日の午後で予約が可能な時間帯があったので、緊急事態宣言中ではあったが、堂島付近の大阪の国立近代美術館まで遠征することとした。無論、日常的な体温チェックと、身体的異常がないことを確認した上で、マスク手洗いなど完全準備のもとである。流石に、原発施設で利用するような防護服みたいなものは着用はしなかったが。

           

           

          個人的に、いくつかの作品が気に入った。中でも、英国人で、英国海軍が世界の海の覇者であった時代のターナーの巨大なオデッセイの船と巨人をモティーフにした油彩画「ポリュフェモスを嘲るオデュッセウス」と、まるで不良少女のような座り方をしたマリアとイエスが対話している背景に、泣きそうになりながら料理しているマルタの姿を描いたスペインの画家ベラスケスの名画「マルタとマリア家のキリスト」や、マグダラのマリアに、「汝、我に触るなかれ」という、使い物にならなさそうな園芸用具を持ったイエスの復活直後の姿を描いたティティアンの油絵「ノリ・メ・タンゲレ」などがあった。もちろん、これらの名品については、少し検索すればコンピュータ上のスクリーンに表示される。同行した家人は、本展示の最大の呼び声高いゴッホの黄色の向日葵の前で動かなくなるほど、張り付いていた。

           

          余談はさておき、最近の西欧絵画の画像データの充実とその画像品質の向上もあり、かなりいい線まで再現性の点では行っているが、残念なことに、現物を見て感じるのと同じところまではどうしてもならない。個人的には、キャンバスの大きさが画面上では再現しにくいことや、コンピュータ画面が正対して見る習慣があること、その正対したときに、かなり見やすいようにデバイスが設計されていることもあるのであろう。本来作家さんが油絵を描いたときに、見てほしい位置や絵と鑑賞者の距離や位置関係があるように思うのだ。しかし、これらの位置関係や距離はどうしてもPC画面上では再現されないという問題などもあり、どうも実物(ないしその高精度で再現されたレプリカ)を見た場合とPCやテレビ画面で見たときとの印象が相当違うのである。

           

          おそらく、本物に触れる、ということ、展示会で展示される絵を見るという特権は、作品を作成した絵画作家が本来、このへんで見てほしいかな、と思っている位置関係を実空間において取れることにあるのではないか、と思うのだ。それは、音楽のライブ演奏と録音の演奏の違いでもあるかもしれない。ライブで説教者と空間を同じくして説教を聞くのと、いかにZoomやWebEXが良くなろうとも、オンライン説教とは違うし、説教集を読むこともライブで聞く説教そのものにはどうやってもかなわない。

           

          いかにライブ音源を使ったCDやレコードを再現率の良いステレオセットで聞いたところで、コンサート会場で隣りにいる人の感動や飛んだりはねたりする姿などを目の橋にしつつ感じる感動とその共感を感じ難いように、受ける感じは違うように思うのだ。演奏者が、イツァーク・パールマンであろうが、ヨーヨー・マであろうが、ミッシャ・マイスキーであろうが、アルゲリッチであろうが、ゆりあんレトリバーであろうが、ももクロであろうが、日向坂であろうが、ジャニーズであろうが、石川ヨナ嬢であろうが、それはあまり関係ない。

           

          ライブにはライブのみでしか感じ得ないものがある。それが、現物の強みであるが、近代の世俗化した時代においては、これらの現物や現実を遊離した概念が先走ってしまい、ある意味結晶化した概念のほうが、より優れたもの、象徴や実物を伴うものは、古臭いもの、幼稚なもの、低レベルのもの扱いされてしまうのである。

           

          概念と現実を結ぶ縁(よすが)
          それは、物理的な地理空間上で起きていることを、ぬるく眺めては平常状態を離脱して楽しんでいる変態でもあるる地図屋としては、違うんじゃないかなぁ、と思う。地図は現実を反映するところに意味があるのであって、現実を捨象して結晶化させはするけれども、それは、現実には触れがたい人々のために現実を少しでも脳内で再現できる縁(よすが)を与えるものだと思っている。それが地図空間上に地図記号という記号というか象徴を廃するという意味であるのだ。地形だけがわかればよいのであれば、河川も、田んぼも、広葉樹林や針葉樹林も、道路も橋も描かず、等高線だけ描けばよいのである。等高線だけで、土地利用まで再現できる方は、かなり特殊な方であり、

           

          A)現実の空間に関する知識や土地カンという別の知識体系があり、等高線図見ただけで空間イメージを再現できる方

           

          または
          B) 空間理解だけができれば発狂できるほど嬉しい形状オタク

           

          のいずれかであろう。なお、実際、世の中には、B)のような病気に近いヲタクの人もいることは確かである。

           

          教会と縁(よすが)
          地図も縁(よすが)である。そして、聖画も縁である。イコンも縁であるし、式文(祈祷文)も縁である。式文(祈祷文)にメロディをつけることで成立した賛美歌や詩篇にメロディをつけることで成立した賛美歌(詩篇歌という)も縁である。聖餐も縁であるし、司祭や牧師の所作も縁である。その意味で、礼拝も縁であるし、十字架の形を基本とする事が多い伝統教会建築のデザインも縁であるし、教会堂内部に配された、クローバー型の文様もまた、自分がどこにいるのかを感じさせる様々な教会装飾、ステンドグラスもまた縁である。

           

          なお、念の為申し上げておくが、ミーちゃんハーちゃんは、プラトン主義者ではない。

           

          ジュネーブ詩篇歌という詩篇に節を付けた賛美歌
          (詩篇1篇 この手がお好きな方は、YoutubeでGenevan Psalter ジュネーブ詩篇歌で検索されるとよい。)

           

          聖書ですら、神の実物ではないという意味では人間に与えられた縁に過ぎない。説教もまた、縁の一つである。画像に語らせようが、イコンに語らせようが、説教に語らせようが、聖餐に語らせようが、それらのものは、神そのものに我ら鼻で息するものが接近するための何か、つまり、スクリーンあるいは薄い膜を介して垣間見、感じるための現実空間におけるモノものでしかない。しかし、概念よりモノのほうが、饒舌に語ることも時にはある。

           

          ただ、このような縁を理解するための課題としては、この種類の縁(よすが)をもとに現実に近づくには、ある種の教養というか、センスが必要なのである。隠喩を読み解くセンスと言うか。日本の和歌も、大量の隠喩が使われている上に言葉遊びが満載という文学である。その意味で、本来日本の古典の教養がある人にとっては、この縁を扱うことに長けている人が多いように思う。例えば、本歌取りという和歌の遊びがあるが、あれは、もともとの和歌を知っていて、それをあえてパロディの素材として改作する遊びなのである。このためには、もともとのパロディのもととなった改作のオリジナルを知っているという教養が必要なのだと思う。意外と難しいものである。

           

           

          イエスに触る、触られることという縁(よすが)

          先に聖餐は縁であると言った。パンとぶどう酒という近東では普通に口にされ食べたり飲んだりされていたもの(日本では明治まで、こういうことはなかったから特殊に見えるだけ)を、イエスはこれを裂き、我を覚えよ、我が地に在りて生きたること、汝らとともに歩きたることを記念して、これの食卓を再現し、そしてその縁により、我を覚えよと言われ、また、普通に飲んでいたぶどう酒の入った盃(コップ)を取り、また、常にこれを飲むたび(近東では、カルシウム含有量が多いなど水質が悪いので、当時の近東人は安いぶどう酒を水代わりに飲んでいたであろう)、我を覚えよと、おっしゃったはずだと思うのだ。ぶどう酒を飲んだのは、教会での聖餐式だけでなく、食事の度、仕事の休憩のたびにワインを飲むとき、イエスがいのちの水として、人々に喜びを与え、その喉の渇きをいやすように義に対する渇きをいやし、回復に対する飢えをいやす存在として、地上に来たことを覚えるということを勧めたように思えてならない。妄想がすぎるかもしれないが。教会で飲むぶどう酒だけが、イエスを覚えるための縁ではなかったように思う。ぶどう酒を常時飲用する社会では、イエスが日常生活を通じて、覚えやすく、日常生活の中に染み渡っていきやすい社会であったということも意味するようには思う。

           

          さて、イエスに触った人物と触ってもらう事を避けた人物が福音書にはでてくる。イエスが触られる前に、イエスに触った人物として有名なのは、長血を患う女として知られている、マタイ9章に出てくる女性である。彼女は、イエスに触った。そして、イエスから力が出ていくのを感じた、とイエスが言ったことを福音書記者(これが本当のエヴァンジェリスト)は記録している。彼女も彼女の信仰が、彼女を癒やした、とイエスは宣っておられたように思う。

           

          イエスに触れられるのを回避した人物

          ペテロの姑の直前に記されたセンチュリオン(百人隊長)の話は非常に印象的な聖書箇所である。このセンチュリオンは、イエスから、「その病人のところに行って、癒やしてやろう」と言われたにもかかわらず、「あなたの言葉の権威だけで十分です。お言葉だけで十分です」といった人物である。彼は、イエスがその下僕に触るのを回避している。それは、ある意味で、このセンチュリオンが、賢威という縁、権威あるものが発する言葉の持つ意味とそれを縁とすることに、通暁していたからではないだろうか。ある面で、近代人の走りである。言葉を介して発せられる権威性、ことばと命令、権威という概念という操作に慣れていたからこそ、その信仰の発露として、言葉によって伝わるものを受け取ることができたのかもしれない。

           

          今行っているチャペルのある式文で、聖餐を受け取る前に会衆全員で告白する次の式文による祈りの表現を、思い出す。

           

          Lord, I am not worthy to receive you, but only say the word  and I shall be healed.
          主よ、私はあなたを受け取る価値のないものですが、お言葉だけで私は癒やされるのです。
          我らは、キリストを迎えることができるほどに価値が全くないものであるが、このセンチュリオンが述べた言葉のように、イエス・キリストの口から出る息吹、お言葉、霊によって養われるのであり、我らはキリストの大能と主権にふれていただけるのであることの重要性を思うとき、そのイエスに触れ、イエスに触れられ、現在も語りかけられる聖書のことばに触れるというのは、その聖書のことばの奥におられるイエスの神秘に触れるということなのであろう。あのマタイの福音書に出てくるセンチュリオンのように。

           

           

          その意味で、一切の目に見える縁を教会から排除してしまわれた人々は、個人的に美しいものが教会から排除されたという意味では残念ではあると思うものの、それまた、このセンチュリオンのような信仰者の姿なのかもしれない。

           

          とはいえ、ミーちゃんハーちゃんは、弱いし、縁が大好きな人間であることもあり、聖餐式でパンをもらえるのが嬉しくて仕方ない人物である。今のところ、ぶどう酒(これがまた、甘くてうまいThe Twelve ApostlesというAltar Wine)は感染防止対策として預かれないけど、そして、Draw near with faithと呼ばれても、三密回避のために恵の座にもいけないけれども、多くの人がその縁を受け取ることができないことを考えると、パンという縁だけでももらえていることで良しとするしかないと思っている。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

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          コメント:高いけど、世俗化の中で脱神秘化されてきた経緯を知る上では、必読だと思う。

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