2018.06.11 Monday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1

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    本日は、教会にいるn世(nは、2以上の自然数、すなわち2世以降)の若者たちの教会の皆さんへのお願い、というか、悲痛な叫びシリーズを書いてみたい、とおもいます。この連載は、神戸の某青谷というところで開催されている通称「事例研」の中から、出てきた話題である。そこの主催者のK先生(医者なので、先生扱い)からミーちゃんはーちゃんに大命降下があったので、書くことにしました。ある事例研で、若い信者さんのお子さんのかなりかわいそうな話が話題に上ったことが発端となっています。

     

    このシリーズは、このブログの常に上位を占める、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 の拡張版だ、といってもよいと思います。その記念すべきかどうかはよくはわからないのですが、第1回目、「勝手に期待しないで・・・」について、書いてみたい、と思います。

     

    時代の最先端を行く教会

    現在の教会は、危機的な状態である。どのくらい危機的な状態かと言うと、限界集落(構成人口のかなりの部分が65歳以上の方が占めていて、コミュニティとしての基礎的活動が困難な地域における集落のこと、詳しくはこちら)を抱える市町村、あるいは、議会が機能しなくなるのではないか、と危惧する基礎的自治体、あるいは、半ばまじめに、自治体消滅が危惧されるほどの危機なのではないか、と思うのです。まさに、「やばいよぉ、やばいよぉ」と出川哲郎氏のようにいわないといけない状態ではないか、と思います。

     

     

    子供たちが「やばいよ、やばいよ」をマネされている出川哲郎さん

     

    急速な高齢化におびえる自治体…

    ところで、刺抜き地蔵があり、お年寄りの原宿『巣鴨』を抱える豊島区長なんか、もう半ば本気で、生き残り対策を考えておられるらしいです。まだ、そこまで、深刻ではないはずなのですが…

     

    危機感を覚えている豊島区に関するニュースクリップ(埼玉県秩父市は、姥捨て自治体にされる模様・・・MJSK?)

     

    お年寄りの原宿 巣鴨のアイドル(ゆるきゃら) すがもん http://sugamon.jp/?page_id=14 より

     

     

    厚生労働省の人口統計の推移をグラフ化した動画

     

    このような人口変化の状態は、祈ろうが何しようがやがて、やってくる現実ではないかと思うのです。おそらく多くの教会の人口ピラミッドは、現在の2018年現在で、2030年の人口ピラミッドと同じような形をしている教会が多いのではないか、と思うのです。なぜかというと、教会で人口が急増した時期である1950年代とか1960年代に、教会に来はじめた皆さんが、教会に参加し始めたのが、これらの皆様方が、お若かった高校生、大学生(15歳から20歳くらい)のころであったからです。つまり、現在の人口ピラミッド構造がそのまま、15歳から20歳先にあると思えばよいのです。その意味で、教会の人口構成は、日本の15年から20年くらい先を行っている時代の最先端を切っている状態なのではないか、と思うのです。このような状態になっていることが多いのが、社会的人口移動の結果、若者がいなくなってそうなっている過疎地と、教会に存続している高齢者が、結果として多くなっているような教会なのではないか、と思うのです。

     

    過疎地の教会なら、人口構造の先行分20年先に加え、人口減少、過疎化効果で10年から20年先への移動効果もあり、結果として、全国の人口ピラミッドの30年から40年くらい先にいっているかもしれないなぁ、と思ったりもするのです。こうなると、まさに、時代の最先端が現れていると思われるのが、(過疎地の)教会なのではないか、と思うのです。時代の最先端を行っているから、「かっこいい」とかと、気取っていっている場合では、とてもないのではないか、と思うのです。

     

     

    東海道新幹線に乗っていると「時代の最先端を行く雑誌として」売り子のお姉さんがたから紹介される雑誌「Wedge

    https://www.amazon.co.jp/Wedge-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B8-2017%E5%B9%B4-9%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C-ebook/dp/B074TF6RD9 から

     

    クリスチャンn世代に美田どころか、不良債権を残す教会って…

    しかし、この雑誌Wedgeの2017年9月号の特集ではなですけれども、どこぞのキリスト教雑誌で、「教会漂流に歯止めを」、「捨てられる教会」、「対策とらない宗教法人、ツケを払う次世代信徒」とかって特集しないかしらん、と思ったりもしたくなります。

     

    教会には、先の動画で紹介した、豊島区長のように「埼玉県秩父市に高齢者は移住してもらおう」(ありていに言えば、埼玉県秩父市には、悪いけれども、そして、秩父市には大変失礼な話であるようにはおもうのですがが、豊島区にとっての姥捨て山になってもらおう」)というような計画を考えてくれる教団議長や、教団本部は残念ながらおられないように思うのです。

     

    その結果、現場において起きそうなのは、「土地漂流」ならぬ「教会漂流」ではないか、とも思ったりもするのですし、さらに、その結果として「(ごみ同然に)捨てられた教会(これは地方部ではすでに起きていると思います)」の大量発生ではないか、と思いますし、そこで不良債権化した教会についての「ツケを払わされるクリスチャンn世(ただし、nは2以上の自然数)の量産」ではないか、と思うのです。

     

    ご高齢者のクリスチャンの方からすれば、クリスチャンの次世代、次々世代に伝道の拠点としての教会という資源と資産あるいは、優良資本という美田をのこされたおつもりかもしれませんが、それは、クリスチャン次世代、次々世代にとっては、メンテナンスのための経費負担を自分たちが引き受けねばならない、不良債権(会計学でいう貸方勘定にある債権・他人資本)になっているように思うのは、私だけなんでしょうか。このあたり、イエス様は、邸宅を建てるときにきちんと計算しないいるでしょうか、とおっしゃっているように思うのですが…次の聖書の言葉を、今の日本の教会はどう受け止めるのでしょうか。

     

     

    【口語訳聖書】ルカによる福音書

     14:28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
     14:29 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、
     14:30 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。

     

    人々から、「あの人たちを教会を建てかけたが、仕上げができなかった」残念な人々であった、と言われないことを、個人的には願っています。

     

     

    次回へと続く…

     

     

     

     

     

     

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    株式会社ウェッジ
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    (2017-08-19)
    コメント:いやぁ、びっくりしましたなぁ。

    2018.06.13 Wednesday

    クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2

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      前回のあらすじ)))

       

      高齢化で、時代の超最先端を行く教会になっており、このままいくと、捨てられる教会が出てきかねないこと、捨てられる教会になったら、それは何かを生み出すための資産ではなく、片付けや処理が必要な不良債権となること、そして、教会を建て始めたものの、建てることができなかった日本の教会となりかねないことをご紹介いたしました。

       

      それで、今日は、続編です。

       

      教会のリバイバルを求めることは悪くないかも
      これを防ぐために、現在多くのキリスト教会が取り組み始めているのは、「(現在の高齢信徒が大量に入信したころの)教会の輝きを今もう一度・・・」ということになることが多いかもしれません。もちろん、このようなことを教会として、神に祈りもとめることは、悪いことではないだろう、とは思います。

       

      とはいえ、教会の不良債権化(維持するだけで資金が減少していくような教会の状態)を防ぐために、現在多くのキリスト教会が取り組み始めているのは、「(現在の高齢信徒が若かりし頃に大量の若者の皆さんが入信したころの)教会の輝きを今もう一度・・・」ということになりやすいのではないか、と愚考します。

       

      私淑しているドクター(外科医だから)と呼ばれた、ロイドジョンズ先輩の「リバイバル」という本には、リバイバルが起きる前には、多くの皆さんの熱心な祈りがあったと書いてあったし、そのことは否定するつもりはありません。元きよめ派に分類可能な一キリスト者集団にいた一信徒として。

       

       

      ロイドジョンズ先輩 https://www.youtube.com/watch?v=2w1NyU-_bbU から

       

      ロイドジョンズ先輩の説教音源(祈りの力について) Wales訛りが素敵

       

      本当に、現在多くの日本の教会がしなければいけないのは、神の哀れみを求め、祈ることではないか、とも思うのです。そこで、アングリカンのチャペルに寄留させてもらっているものとしては祈りたいと思います。

       

      Lord have mercy,
      Christ have mercy,
      Lord have mercy,
      (Silence)
      Hear our prayer.

       

       

      Lord have mercy というワーシップソング

       

       

      教会が若者で満ち満ちていたころ(1950年代の教会)
      教会が、昔若者で満ち溢れたころに回帰しようとすると、どうしても、勢い教会員(特に高齢者)の目は、数少ない青年、青少年、30代以下に目を向けられることになってしまうように思います。

       

      そして、「自分たちが若いころは、若い人たちで教会がいっぱいだった・・・・」と目を半開きにし、涙で潤ませながら、語るのに若者は、喜んでか、いやいやながらかはよくわかりませんが(たいていの場合、いやいやだと思います。それを口に出せないほど、彼らは品が良いのです…たぶん)、ご高齢の信徒の皆様の昔話に拝聴するかのような状況に教会の数少ない若者は陥ることになりやすいのではないでしょうか。

       

      さらに、「自分たちが若いころには、友達を教会に誘ったら、みんなすぐ来たものだった・・・」と武勇伝が始まることになって、こうなるともう、昔話がかなり長い間、続くように思うのですが…。昔話で終われば、それはそれで麗しい情景ではなかろうか、とは存じますが、教会によっては、ご高齢の信徒さんから、「今の君たちは…」となったりすることは予想される教会は皆無でしょうか。「今の君たちは、自分たちに比べ・・・・」というご高齢の信徒さんから、若者に向けてのお言葉が、予想されない教会の信徒の皆様は、本当に幸せな教会におられる、といってよいだろう思います。

      昔、教会が若者で満ち満ちていたころ、現在はすでにご高齢になっておられる信徒の皆さん方も、確かに熱心に伝道に励まれたことでしょう。そして、教会は満ち満ちていたことでしょう。その中には、数々の武勇伝をお持ちのご高齢の方もいらっしゃるでしょう。

       

      ご存知、オリエンタルラジオの武勇伝

       

      そして、「この教会を立派にしたのは、私だ・・・」とオリラジの中田あっちゃんよろしくおっしゃる信徒の方が出てくる教会もないわけではないように思います。こうなると、聞いている若者の側は、オリラジの藤森君よろしく「あっちゃん、かっこいぃ〜〜〜」ではなく、「じぃちゃん、カッコうぃい〜〜〜〜」、「ばぁちゃん、カッコうぃい〜〜〜」とチャラ男キャラよろしく、お追従するのが、おそらく精いっぱいでしょう。

       

      冗談はさておき。

       

      なぜ空しいかというと、お話になっておられる方が、若く美しかったころの思い出に浸るような昔話をしたところで、今の教会が直面している現実には何の解決にもならない、と思うからです。そして、その当時の伝道にまつわる環境と、現在、2018年の伝道環境は、果たして完全に同じと言えるでしょうか?
      個人的には、かなり違うのではないか、と思うのです。このあたりについて、昭和30年代の文化について、次回ご紹介していきたい、と思います。

       

       

       

       

      教会の変化をめぐる空しさの中で…
      ところで、現在、ご高齢となられた皆さんの昔話からも学ぶことがあるように思うのです。というのは、現在の教会の姿は、昔最先端だった時代の名残であるということを学ぶことができるのではないでしょうか。最先端であったものも、いずれは、古び、その存在はかすんでいくことが学べるのではないか、といってもよいように思うのです。

       

      昭和20年代後半から30年代に、いわゆるミッション系の大学、女子大学、女子短大は、時代の最先端でした。いわゆる○○学院大学、○○女学院、○○女学院短大、これらは、時代の最先端であったわけです。ちょうど、昔のNHKの朝ドラの「花子とアン」が描き出したように。

       

      NHK 朝の連続ドラマ 花子とアン

       

      その意味で、考えてみれば、今の教会の姿は、結果として、昔の最先端だ、と思っていたものが、時代を経過していくうちに古くなり、そして、そのまま、その形態が保持された結果となっているように思うのです。こないだ、日本大学の悪質タックル事件でその相手方になった関西学院大学(くわんせい がくいん だいがく)はアメリカ型メソディスト系のミッションスクールですが(校是は、Mastery for Service ラテン語でないあたりがアメリカン)、メソディスト系教会も、ウェスレー兄弟が当時の英国国教会(The Church of England)内の運動として始めたころは、最先端だと思って「新しいメソッドなんだ」といいまくったので、つけられたあだ名がメソディストだった、と記憶しています。このあたりは、藤本満先生がご翻訳になられた『はじめてのウェスレー』をお読みいただければ、と思います。野呂先生の名著よりは、格段に読みやすいと思います。

       

      その意味で、教会は、この2000年間、変化し続けてきました。新しい、と言われるものが、大変たくさん出てきました。そして、いつの間にか古びていく、という実に空しさを感じざるを得ない、歴史的発展をたどってきたようにも思います。このあたりの発展の歴史をお考えになりたければ、藤本満先生の『歴史』という本をお読みくだされば、と思います。宗教改革以降の、プロテスタント教会の歴史的展開の入門書として大変名著だと思います。

       

      しかし、このように、歴史を振り返るとき、ある種、実に空しい時間だけがただ流れているようにお感じになるかもしれません。

       

      確かに、空しい時間が過ぎていくのは、実際に存在しうる事ではないか、とおもいます。聖書の中には、そのことについて、次のように書かれているのではないでしょうか。

       

      【口語訳聖書】伝道者の書(コヘレトの書)
       1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
       1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
       1:4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
       1:5 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
       1:6 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
       1:7 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
       1:8 すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
       1:9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
       1:10 「見よ、これは新しいものだ」と
         言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
       1:11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。

       

       

      評価:
      D.M. ロイドジョンズ
      いのちのことば社
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      (2004-10)
      コメント:なかなかよろしいか、と思います。

      評価:
      W.J. エイブラハム
      教文館
      ¥ 2,052
      (2013-07)
      コメント:このシリーズは手軽に読めて、非常によろしい。藤本先生の翻訳も読みやすいです。

      評価:
      価格: ¥ 2,592
      ショップ: 楽天ブックス
      コメント:プロテスたんの発展の概観をする上では極めて有益な歴史神学入門書

      2018.06.17 Sunday

      クリスチャンn世代の若者からのお願い(4) 勝手に期待しないで・・・ その4

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        これまでのまとめ

        これまで、第1回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1 では、

         

        日本の教会が、高齢化という意味では、時代の最先端を行っている可能性があること、その中で、適切な見直しをしないと、教会という建物と土地が不良債権化しかねないこと、

         

        第2回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2  では、

         

        さらに、そのような環境の中で、ご高齢の信徒さんから若い信徒さんへの期待やご自身が若かりし頃の武勇伝が述べられて、もっと人を連れてこい、と武勇伝交じりで語られかねないこと、かつては、教会に通うことが一種の時代の最先端を行くかのようなライフスタイルであった可能性があること

         

        第3回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(3) 勝手に期待しないで・・・ その3 では、

         

        ご高齢の信徒さんの皆さんが若かりし頃がどのような日本であり、その中で、どのような役割を教会が担ったのか、というあたり、音響機器メーカーのパイオニアの前身や教会と讃美歌、外国ということと教会

         

        というお話をしてきました。

         

        本日は、前回触れそびれました、ミッションスクールと呼ばれるキリスト教学校について、お話してみたいと思います。

         

        ミッション・スクールという存在

        第2回の連載では、日本におけるミッション・スクールがその舞台のかなりの部分を占めたNHKの朝ドラ『花子とアン』を触れながら、お話してきました。

         

        日本では、同志社、関西学院大学、青山学院大学といった大学ももちろんですが、女子高等教育機関として、ミッション・スクールは大きな役割を果たしてきました。なぜ、そのようになっているか、と言いますと、1800年代のアメリカのメインラインと呼ばれる主流派のキリスト教の世界では、実は女子高等教育が一種のブームであったようです。確かに、米国の名門女子大学は、この時期に開設されたものが多いです。それがそのまま、日本にも流れ込んでいた感じがします。特に、明治期、大正期ごろまでは田村直臣先輩がお書きになられた『日本の花嫁』事件に見られるように、女性の地位が異様に低く、女性の地位向上をめざして、高等教育機関が、宣教団体(ミッション)からの資金援助(当時の日本は貧乏だったので、海外からの資金は少額でもその効果は絶大)で建てられていきました。各地にある○○女学院という名前の大学は、そのころのものが多いことは確かです。

         

        カトリックのミッション・スクールに関しては、上智大学の川村 信三先生のご研究がございますが、カトリックにおいては、困窮者対策としての教育の系譜に連なる学校と、社会の指導層でなる人々への影響を考えての教育の系譜につながる教育機関とに別れるようでございます。

         

        ヨーロッパの大学の基礎としての神学部と日本の大学

        ミッション・スクールは、ある面、日本のキリスト教伝道の中で、大きな役割を果たしましたし、今も果たしているように思います。とはいえ、一般の学生さんを見ていると、もともとミッションスクールであったことをうかがい知るのはかなり難しい(大変失礼な話で申し訳ないのですが)にもかかわらず、ウェスレー先輩の銅像(誰かを知っている現役学生さんはかなり少ないらしい)青山学院大学の神学部は学生運動の大波の中で、1960年代に廃止となり(現在では東京神学大学に引き継がれている)、関東学院大学の神学部も、同じく1970年代に廃部になり、と神学部が相次いで閉鎖される憂き目にあっています。立教大学も文学研究科にあった組織神学専攻を2009年に募集停止しておられます。神学教育組織が組織として今なお残る我が国の大手ミッションスクールとしては、関西学院大学、同志社大学、西南学院大学くらいになってしまっています。

         

        青山学院大学前のウェスレー先輩像

         

        ヨーロッパの大学は、教会付属施設 → 修道院 → 神学部から出発している大学(最古の大学のスペインのボローニャ大学などが典型的)からすれば、神学を扱わない大学(ウニベルシタス Universityの語源))は、高等教育機関であっても、大学あるいはウニベルシタスとは言えないはずで、神学があって初めて大学というのがヨーロッパ的な伝統での大学の位置づけです。

         

        振り返って、我が国の国立大学では、神学研究をしておられる先生はおられるにせよ、神学部を有しない以上、どこで、どう頑張ってもウニベルシタス 大学とはならないけれども、大学と称されてきました。多くのミッション系大学が、自ら、普遍であり、ウニベルシタスであるための担保であるはずの神学を放棄している(これは、アメリカのハーバード、イェールなどの名門校でも同様の傾向)のは、実に残念だ、と思います。このあたりに関しては、最下部で紹介しております、ハゥワワースの『大学のあり方 諸学の知と神の知 』が大変参考になろうか、と思います。舌鋒というか筆鋒は鋭いですが…

         

        さて、余談は別にしまして、キリスト教を教育ということを手掛かりにして、日本で広めようとするための教育機関がミッションスクールしたわけていったわけですし、物理的に外洋船に乗って、太平洋やインド洋の波頭を超えていかねばならなかった外国へのアクセスの窓口でもありました。その意味で、日本人がアクセス可能な外国への窓口であり、キリスト教の入り口でもあったわけです。

         

        それが証拠に、以下の動画でご紹介いたしますペギー葉山女史の学生時代という歌声喫茶の定番曲(前回の記事でもNHKの取材時に歌っているので一部が収録されている)では、ミッションスクールが背景のメタファーとして用いられています。そして、冒頭部分に教会の鐘楼から慣らされている信徒を集める鐘の音(これが、ムスリム世界になるとアザーンにかわる)と思われる音が用いられています。

         

         

        ペギー葉山の『学生時代』

         

        以上これまでこの連載を含めて3回の連載で紹介してきましたように、今の教会におられる高齢信徒の皆様と今の若いクリスチャンn世代が置かれた環境は根本的に異なるのです。オフピークであれば5万円もあれば、アメリカに渡れ、テレビではCNNが流れ、スマートフォンやタブレットで、HuluとかNetflixでアメリカの動画が見られる時代になりました。

         

        しかし、今教会におられる皆さん方が多く集まられたお若い時代の身近な外国としては、教会やミッションスクール以外には、関東や中国地方西部ではラジオの米軍放送であるFEN放送を上げることができるかもしれません。これらもまた、外国文化への手近な 入口となっていました。また、日本のラジオ放送でのディスクジョッキーのかたちに影響することになりました。

         

        FENのタイトルコール めっちゃ懐かしい

         

        FENなどに影響を受けた小林克也さんのアメリカンポップス紹介番組

         

        身近な別世界へのアクセス手段が増えた社会の中で…

        その意味で、身近な別世界へのアクセスの口が多様化し、若者自体が、いろいろなイベントがあり、海外旅行に外貨持ち出し規制もなく、安価で行けるようになり、バックパッカーとして旅行ができるようになるわ、東京とか関東圏にいれば、海外のアーティストのコンサートなんかにも、かなり自由に参加できるようになる中で、もはや、以前の教会が持っていた外国(ありていに言えば、西ヨーロッパ文化圏と北米文化圏)へのアクセスのとっかかりとしての魅力は相対的に低下していると言わざるを得ませんし、さらに言うと、昔のマジメ君、ヨシコさんたちが理想としていた、形而上的な抽象的理解や、”真理”に関心を持つ人であることの価値が、多元化したポストモダン社会の中で減り、自分の手が届く範囲、スマートフォンを含めて、自分の周り10メートルくらいでアクセスできる範囲の内容のほうが重要になった社会の中で、建物としての教会、あるいは教会イベントの意義は相対的に下がっているように思うのです。

         

        そうなっているとすると、教会で新規来会者を誘うような、呼び寄せ型のイベントをしたとしても、来る人は限られ、それを契機にした伝道というのは、かなり厳しい、ということになります。それに、「お友達を動員してくれ」と言われても、また、そのことを高齢信徒の皆さんから、期待されたとしても、教会のn世代のクリスチャンたちは、ただただ困惑を覚えることしかできない、ということになります。なぜなら、誘ったところで、よほどの魅力(例えば、レディ・ガガのコンサートクラス)がなければ、さそったところで、アテネのギリシア人たちのように「また今度聞くことにしよう」と言われて終わりになる、というのがせいぜいではないでしょうか。

         

         

        The SimpsonsでSpringfieldというシンプソン家の人たちが住む町にレディーガガさまがコンサートした時のエピソードの一部

         

        身近な別世界へのアクセスを利用しては?

        さて、現代の若者は、1960年代の若者に比べ、別世界への入り口をたくさん、自分たちの手の中にあるスマートフォンの中に持っている、ということをお話してきました。

         

        とはいえ、1960年代に若者であった皆さんも、らくらくスマホとかで、すでに、意識しておられる、おられないにかかわらず、インターネットの世界を間接的にご利用になるのが当たり前の時代に現在なっています。

         

        らくらくスマホ https://www.amazon.co.jp/dp/B00B59W152から

         

        そうだとしたら、その身近な別世界へのアクセスの手段を教会の皆さんも利用されてみてはどうでしょうか。それが、ウェブサイトなのか、ツィッターなのか、Facebookなのか、Instagramなのか、他のSNSなのかは知りませんが、「あれは、カインの末らが作ったものだから」とか言って、触らぬ神に祟りなし、で対応するのではなく、逆に、聖四文字なるかた、神からの祝福にしたがって、スマートフォンは神の直接の被造物ではありませんが、被造物である人間が作り出したものを治める(管理する)必要があるのではないでしょうか。このあたりのことをお考えになられたい方には、

         

        【口語訳聖書】 創世記
        1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

         

        このあたりの、地にあって、被造世界をどう生きるかを考えられたい方には、最下部で紹介しています「シャーローム 神のプロジェクト」などがご参考になるかもしれません。

         

        とはいえ、どうすればいいのか、わからない、という教会もございましょう。自分でできない、できたら安心できる外注先があれば…、安心してください。あります。名古屋の業者さんですが、Bread and Fish(間違っても、英国のB級グルメ Fish and Chips ではない)という教会専門のウェブサイト構築会社があります。この会社は、技術的にも確かです。

         

        英国のB級グルメ Fish and Chips

         

        教会の「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ?

        ところで、ここでFacebookのお友達がシェアしておられた東洋経済新報社のブログ記事 地方は結局「若者」を排除して自ら衰退する 〜「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ〜 から、引用してみたいと思います。

        さらに、3つ目は「イノベーション人材」の喪失です。若者が特段の迷惑をかけていないことでさえも、自分たちに理解できないことは、頭ごなしで「ダメだ」「劣化している」と決めつけがちです。匿名性の低い地方においては、そのような圧力によって、新たな芽がつぶされてしまう危険性があります。

        たとえば、北九州市の成人式などはマスコミによって、「変な格好しているヤンキー」くらいに報道されたりして、つぶされそうになったことがあります。しかし、実際には地元でまじめに働く若者たちが何十万円もかけて衣装を作ったり、レンタル衣装を借りて、自分たちの文化として発信しているのです。そもそも、それだけのおカネを持っているということは、しっかりと働き、さらに計画的に預金を積み立てているからこそ、できることです。北九州市の知人によれば最近では「同じような衣装を着て写真を撮りたい」とわざわざ北九州市に来る人さえいるそうです。

        このごろはよく「イノベーション人材を地方へ!」などという話で盛り上がりますが、そもそもイノベーションとは、従来のサービスや構造が、新しいものに置き換わることを意味します。自分たちに理解できない若者文化などを攻撃し、排除してしまっては、イノベーションもへったくれもありません。自分が理解できないことを否定しないことが、地方でイノベーションを起こす第一歩なのです。

        もし、いま挙げたような「3つの人材」を排除していくと、結果として地方には上役の言いなりになる、「年齢こそ若いものの考え方は保守的で硬直的な人たち」が残っていきます。その結果、どうなるかは言うまでもありません。

        これ、教会が抱える問題と全く同じ構造じゃないでしょうかねぇ。

         

        教会も、「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、年配者から見ると、これまでにない取り組みで、若者のむちゃくちゃにみえるかもしれない行動や方針変更という新しい芽をつぶしまくっているとしたら、若者は、腐ってしまいます。逆に腐ってしまわないとしたら、その若者は、よほどの人格者だと思います。

         

        ところで、教会は、教会にいる若者に「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、高齢者の期待するやり方で活躍することを暗に期待していないでしょうか。若者を自分たちが引いたレールの上での自由のみを認めた形での活躍、あるいは、若者の自由を完全に奪ったうえでの活躍、のような形で。

         

        こうすることは、手足を太いマニラ麻のロープでがちがちに縛って、「ほら、自由に泳いでご覧」というようなものです。荒くれ物の多い、アメリカ海兵隊US Marine Corps(海軍の一部でありながら、実体的にはかなり独立した存在 )よりも、すごいとされるNavy Sealsのような皆さんでない限り、おぼれ死んでしまうんじゃないでしょうか。

         

        Navy Sealsの皆さん

         

        宗教改革を起こしたルターは、多分変な若者だったんでしょう。であるからこそ、宗教改革は生まれまたのではないでしょうか。ウェスレーブラザーズ(ジョンと、チャールズ)も、とっても変な若者だったと思います。その変な若者がいて、勢いでムーブメントを起こしたから、今のプロテスタント教会のかなりの部分があるのではないでしょうか。もし、私たちがプロテスタント(プロテスタティオ)だというなら、これらの飛び跳ねた若者の後継者のハズなわけです。

         

        こうして、キリスト教は、この2000年間変革し続けてきました。カトリックも変革し続けてきました。アッシジのフランシスコ(現教皇の名前の由来)は教会制度を変革しました。イエズス会を始めたイグナチオ・デ・ロヨラや、フランシスコ・ザビエル(小学生男子の人気者)も、イエズス会を始めた当時は若者でした。そして、フランシスコ・ザビエル(スペイン風に読むと、ハビエル)は日本に伝道し、ジパングという国に、聖書を伝えました。そして、カトリック教会制度の変革(まともにラテン語を読めない司祭が多かった時代に、きちんとラテン語を扱える司祭を増やすといった意味での改革)に貢献しました。様々な人々たちが、教会を変革し続けてきたのです。プロテスタント、カトリック問わず。

         

        イグナチオ・デ・ロヨラ

        小学生の歴史教科書のアイドル ザビエル君(ハビエル)

         

        いえ、あえて言いましょう。誤解を恐れずに。

         

        ナザレのイエスも、ユダヤ社会の、田舎もん(ガリラヤ、あるいはナザレ)扱いを受けた、変な”にーちゃん”だったんです。当時の祭司長、律法学者にとっては。違うでしょうか。イエスは、ある面、ガリラヤの鉄砲玉、あるいは、薄い紙で作った、急ごしらえの将棋の歩のような存在です(角でも、飛車でもなく…本当は王か玉なのに)。王であり、ダビデの末であり、ホザナと声を限りに人々が叫ぶべき方であったにもかかわらず、何も持たず、権力者の誰からもまともに相手にされなくとも、ひたすら、吹けば飛ぶような将棋の歩のコマのように、一歩一歩、自らの足でユダヤを歩き回り、ただ、ひたすら神の国が近づいた、と説いた、という意味では変な”にーちゃん”だったように思います。

         

         

        エチオピア正教のホサナ

         

        コプト正教会のホサナ(歌詞は英語だけど、音楽は完全にアラビア風)

         

        ブルガリア正教会のホサナ

         

        ハングルでの現代風ホサナ(なぜかスペイン語字幕)

         

        タガログ語でのホサナ(子供向け)

        もし、私たちが、イエスの弟子であるというのなら、将棋の駒でいう歩みたいなイエスの弟子でもあるのではないでしょうか。

         

        とすれば、現代の鉄砲玉のような若者を腐らせるのではなく、彼らのやることをぬるく見守る知恵と彼らのやることを受け入れる度量とキリスト者の愛を高齢信徒の皆さんには余るところなく示してほしいなぁ、と思いました。

         

        そうでなければ、地方の地域社会の未来がどんより暗いのと同じように、教会の未来もどんより暗いものに意図せずしているかもしれないなぁ、と思います。

         

        鉄砲玉のような若者の皆様へのお願い

        若い時は、急進的になったり、思い通りに教会や教界が変わらないことにイライラするかもしれません。しかし、忍耐が必要です。こないだ、同志社大学で講演したハゥワワースとジャン・ヴァニエによる共著の本『暴力の世界で柔和に生きる』(最下部でご紹介)という書籍の中でハゥワワース先輩が書いておられた部分にある記述がありました。それは、ハゥワワース先輩が参加しておられた教会での出来事です。

         

        それは、ハゥワワース先輩が依然参加しておられた教会が聖餐を毎週するまでの過程のことがちょっこし書いてありました。その教会では、毎週の聖餐実施となるまでに、9年かけたそうです。本来、もっとも大切な教会の中心であるべき聖餐をごく当たり前の姿に戻すのに、9年という歳月がかかる。

         

        これが教会の実情です。その意味で、忍耐と、愛における受容が大切だ、と思うのです。

         

        時間はかかるでしょう。でも、待ちましょう。慌てずに。焦らずに。

         

        期待する対象が違うかも

        個人的には、高齢信徒の皆さんが望みをかけ、期待しておられる対象が間違っているのではないか、と思います。我々が期待を置くべきものは、全きもののはず、ではないでしょうか。それを全きものではありえないはずの人間に、そして、全きものであるはずのない若者に、期待するのはどうなんでしょうか、とは思うのです。

         

        聖書の中にこのようにあります。

         

        【口語訳聖書】コリント 第二の手紙
        12:20 わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。

         

         

        そして

         

        【口語訳聖書】 コリント 第1の手紙
         13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
         13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
         13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

         

        いったんこのシリーズは一時休憩をします。次のシリーズは、「私の将来について、祈らないでほしい編」です。

         

         

         

         

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        コメント:翻訳に課題のある章がいくつか見られるが、ハゥワワースの主張はごもっとも。

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        (2017-09-10)
        コメント:地にあって、被造世界をどう生きるかを考えられたい方には、大変おすすめの1冊です。

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        コメント:薄いけど、大変大事なことが書いてある本

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