2018.06.11 Monday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1

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    本日は、教会にいるn世(nは、2以上の自然数、すなわち2世以降)の若者たちの教会の皆さんへのお願い、というか、悲痛な叫びシリーズを書いてみたい、とおもいます。この連載は、神戸の某青谷というところで開催されている通称「事例研」の中から、出てきた話題である。そこの主催者のK先生(医者なので、先生扱い)からミーちゃんはーちゃんに大命降下があったので、書くことにしました。ある事例研で、若い信者さんのお子さんのかなりかわいそうな話が話題に上ったことが発端となっています。

     

    このシリーズは、このブログの常に上位を占める、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 の拡張版だ、といってもよいと思います。その記念すべきかどうかはよくはわからないのですが、第1回目、「勝手に期待しないで・・・」について、書いてみたい、と思います。

     

    時代の最先端を行く教会

    現在の教会は、危機的な状態である。どのくらい危機的な状態かと言うと、限界集落(構成人口のかなりの部分が65歳以上の方が占めていて、コミュニティとしての基礎的活動が困難な地域における集落のこと、詳しくはこちら)を抱える市町村、あるいは、議会が機能しなくなるのではないか、と危惧する基礎的自治体、あるいは、半ばまじめに、自治体消滅が危惧されるほどの危機なのではないか、と思うのです。まさに、「やばいよぉ、やばいよぉ」と出川哲郎氏のようにいわないといけない状態ではないか、と思います。

     

     

    子供たちが「やばいよ、やばいよ」をマネされている出川哲郎さん

     

    急速な高齢化におびえる自治体…

    ところで、刺抜き地蔵があり、お年寄りの原宿『巣鴨』を抱える豊島区長なんか、もう半ば本気で、生き残り対策を考えておられるらしいです。まだ、そこまで、深刻ではないはずなのですが…

     

    危機感を覚えている豊島区に関するニュースクリップ(埼玉県秩父市は、姥捨て自治体にされる模様・・・MJSK?)

     

    お年寄りの原宿 巣鴨のアイドル(ゆるきゃら) すがもん http://sugamon.jp/?page_id=14 より

     

     

    厚生労働省の人口統計の推移をグラフ化した動画

     

    このような人口変化の状態は、祈ろうが何しようがやがて、やってくる現実ではないかと思うのです。おそらく多くの教会の人口ピラミッドは、現在の2018年現在で、2030年の人口ピラミッドと同じような形をしている教会が多いのではないか、と思うのです。なぜかというと、教会で人口が急増した時期である1950年代とか1960年代に、教会に来はじめた皆さんが、教会に参加し始めたのが、これらの皆様方が、お若かった高校生、大学生(15歳から20歳くらい)のころであったからです。つまり、現在の人口ピラミッド構造がそのまま、15歳から20歳先にあると思えばよいのです。その意味で、教会の人口構成は、日本の15年から20年くらい先を行っている時代の最先端を切っている状態なのではないか、と思うのです。このような状態になっていることが多いのが、社会的人口移動の結果、若者がいなくなってそうなっている過疎地と、教会に存続している高齢者が、結果として多くなっているような教会なのではないか、と思うのです。

     

    過疎地の教会なら、人口構造の先行分20年先に加え、人口減少、過疎化効果で10年から20年先への移動効果もあり、結果として、全国の人口ピラミッドの30年から40年くらい先にいっているかもしれないなぁ、と思ったりもするのです。こうなると、まさに、時代の最先端が現れていると思われるのが、(過疎地の)教会なのではないか、と思うのです。時代の最先端を行っているから、「かっこいい」とかと、気取っていっている場合では、とてもないのではないか、と思うのです。

     

     

    東海道新幹線に乗っていると「時代の最先端を行く雑誌として」売り子のお姉さんがたから紹介される雑誌「Wedge

    https://www.amazon.co.jp/Wedge-%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B8-2017%E5%B9%B4-9%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C-ebook/dp/B074TF6RD9 から

     

    クリスチャンn世代に美田どころか、不良債権を残す教会って…

    しかし、この雑誌Wedgeの2017年9月号の特集ではなですけれども、どこぞのキリスト教雑誌で、「教会漂流に歯止めを」、「捨てられる教会」、「対策とらない宗教法人、ツケを払う次世代信徒」とかって特集しないかしらん、と思ったりもしたくなります。

     

    教会には、先の動画で紹介した、豊島区長のように「埼玉県秩父市に高齢者は移住してもらおう」(ありていに言えば、埼玉県秩父市には、悪いけれども、そして、秩父市には大変失礼な話であるようにはおもうのですがが、豊島区にとっての姥捨て山になってもらおう」)というような計画を考えてくれる教団議長や、教団本部は残念ながらおられないように思うのです。

     

    その結果、現場において起きそうなのは、「土地漂流」ならぬ「教会漂流」ではないか、とも思ったりもするのですし、さらに、その結果として「(ごみ同然に)捨てられた教会(これは地方部ではすでに起きていると思います)」の大量発生ではないか、と思いますし、そこで不良債権化した教会についての「ツケを払わされるクリスチャンn世(ただし、nは2以上の自然数)の量産」ではないか、と思うのです。

     

    ご高齢者のクリスチャンの方からすれば、クリスチャンの次世代、次々世代に伝道の拠点としての教会という資源と資産あるいは、優良資本という美田をのこされたおつもりかもしれませんが、それは、クリスチャン次世代、次々世代にとっては、メンテナンスのための経費負担を自分たちが引き受けねばならない、不良債権(会計学でいう貸方勘定にある債権・他人資本)になっているように思うのは、私だけなんでしょうか。このあたり、イエス様は、邸宅を建てるときにきちんと計算しないいるでしょうか、とおっしゃっているように思うのですが…次の聖書の言葉を、今の日本の教会はどう受け止めるのでしょうか。

     

     

    【口語訳聖書】ルカによる福音書

     14:28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
     14:29 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、
     14:30 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。

     

    人々から、「あの人たちを教会を建てかけたが、仕上げができなかった」残念な人々であった、と言われないことを、個人的には願っています。

     

     

    次回へと続く…

     

     

     

     

     

     

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    株式会社ウェッジ
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    (2017-08-19)
    コメント:いやぁ、びっくりしましたなぁ。

    2018.06.13 Wednesday

    クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2

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      前回のあらすじ)))

       

      高齢化で、時代の超最先端を行く教会になっており、このままいくと、捨てられる教会が出てきかねないこと、捨てられる教会になったら、それは何かを生み出すための資産ではなく、片付けや処理が必要な不良債権となること、そして、教会を建て始めたものの、建てることができなかった日本の教会となりかねないことをご紹介いたしました。

       

      それで、今日は、続編です。

       

      教会のリバイバルを求めることは悪くないかも
      これを防ぐために、現在多くのキリスト教会が取り組み始めているのは、「(現在の高齢信徒が大量に入信したころの)教会の輝きを今もう一度・・・」ということになることが多いかもしれません。もちろん、このようなことを教会として、神に祈りもとめることは、悪いことではないだろう、とは思います。

       

      とはいえ、教会の不良債権化(維持するだけで資金が減少していくような教会の状態)を防ぐために、現在多くのキリスト教会が取り組み始めているのは、「(現在の高齢信徒が若かりし頃に大量の若者の皆さんが入信したころの)教会の輝きを今もう一度・・・」ということになりやすいのではないか、と愚考します。

       

      私淑しているドクター(外科医だから)と呼ばれた、ロイドジョンズ先輩の「リバイバル」という本には、リバイバルが起きる前には、多くの皆さんの熱心な祈りがあったと書いてあったし、そのことは否定するつもりはありません。元きよめ派に分類可能な一キリスト者集団にいた一信徒として。

       

       

      ロイドジョンズ先輩 https://www.youtube.com/watch?v=2w1NyU-_bbU から

       

      ロイドジョンズ先輩の説教音源(祈りの力について) Wales訛りが素敵

       

      本当に、現在多くの日本の教会がしなければいけないのは、神の哀れみを求め、祈ることではないか、とも思うのです。そこで、アングリカンのチャペルに寄留させてもらっているものとしては祈りたいと思います。

       

      Lord have mercy,
      Christ have mercy,
      Lord have mercy,
      (Silence)
      Hear our prayer.

       

       

      Lord have mercy というワーシップソング

       

       

      教会が若者で満ち満ちていたころ(1950年代の教会)
      教会が、昔若者で満ち溢れたころに回帰しようとすると、どうしても、勢い教会員(特に高齢者)の目は、数少ない青年、青少年、30代以下に目を向けられることになってしまうように思います。

       

      そして、「自分たちが若いころは、若い人たちで教会がいっぱいだった・・・・」と目を半開きにし、涙で潤ませながら、語るのに若者は、喜んでか、いやいやながらかはよくわかりませんが(たいていの場合、いやいやだと思います。それを口に出せないほど、彼らは品が良いのです…たぶん)、ご高齢の信徒の皆様の昔話に拝聴するかのような状況に教会の数少ない若者は陥ることになりやすいのではないでしょうか。

       

      さらに、「自分たちが若いころには、友達を教会に誘ったら、みんなすぐ来たものだった・・・」と武勇伝が始まることになって、こうなるともう、昔話がかなり長い間、続くように思うのですが…。昔話で終われば、それはそれで麗しい情景ではなかろうか、とは存じますが、教会によっては、ご高齢の信徒さんから、「今の君たちは…」となったりすることは予想される教会は皆無でしょうか。「今の君たちは、自分たちに比べ・・・・」というご高齢の信徒さんから、若者に向けてのお言葉が、予想されない教会の信徒の皆様は、本当に幸せな教会におられる、といってよいだろう思います。

      昔、教会が若者で満ち満ちていたころ、現在はすでにご高齢になっておられる信徒の皆さん方も、確かに熱心に伝道に励まれたことでしょう。そして、教会は満ち満ちていたことでしょう。その中には、数々の武勇伝をお持ちのご高齢の方もいらっしゃるでしょう。

       

      ご存知、オリエンタルラジオの武勇伝

       

      そして、「この教会を立派にしたのは、私だ・・・」とオリラジの中田あっちゃんよろしくおっしゃる信徒の方が出てくる教会もないわけではないように思います。こうなると、聞いている若者の側は、オリラジの藤森君よろしく「あっちゃん、かっこいぃ〜〜〜」ではなく、「じぃちゃん、カッコうぃい〜〜〜〜」、「ばぁちゃん、カッコうぃい〜〜〜」とチャラ男キャラよろしく、お追従するのが、おそらく精いっぱいでしょう。

       

      冗談はさておき。

       

      なぜ空しいかというと、お話になっておられる方が、若く美しかったころの思い出に浸るような昔話をしたところで、今の教会が直面している現実には何の解決にもならない、と思うからです。そして、その当時の伝道にまつわる環境と、現在、2018年の伝道環境は、果たして完全に同じと言えるでしょうか?
      個人的には、かなり違うのではないか、と思うのです。このあたりについて、昭和30年代の文化について、次回ご紹介していきたい、と思います。

       

       

       

       

      教会の変化をめぐる空しさの中で…
      ところで、現在、ご高齢となられた皆さんの昔話からも学ぶことがあるように思うのです。というのは、現在の教会の姿は、昔最先端だった時代の名残であるということを学ぶことができるのではないでしょうか。最先端であったものも、いずれは、古び、その存在はかすんでいくことが学べるのではないか、といってもよいように思うのです。

       

      昭和20年代後半から30年代に、いわゆるミッション系の大学、女子大学、女子短大は、時代の最先端でした。いわゆる○○学院大学、○○女学院、○○女学院短大、これらは、時代の最先端であったわけです。ちょうど、昔のNHKの朝ドラの「花子とアン」が描き出したように。

       

      NHK 朝の連続ドラマ 花子とアン

       

      その意味で、考えてみれば、今の教会の姿は、結果として、昔の最先端だ、と思っていたものが、時代を経過していくうちに古くなり、そして、そのまま、その形態が保持された結果となっているように思うのです。こないだ、日本大学の悪質タックル事件でその相手方になった関西学院大学(くわんせい がくいん だいがく)はアメリカ型メソディスト系のミッションスクールですが(校是は、Mastery for Service ラテン語でないあたりがアメリカン)、メソディスト系教会も、ウェスレー兄弟が当時の英国国教会(The Church of England)内の運動として始めたころは、最先端だと思って「新しいメソッドなんだ」といいまくったので、つけられたあだ名がメソディストだった、と記憶しています。このあたりは、藤本満先生がご翻訳になられた『はじめてのウェスレー』をお読みいただければ、と思います。野呂先生の名著よりは、格段に読みやすいと思います。

       

      その意味で、教会は、この2000年間、変化し続けてきました。新しい、と言われるものが、大変たくさん出てきました。そして、いつの間にか古びていく、という実に空しさを感じざるを得ない、歴史的発展をたどってきたようにも思います。このあたりの発展の歴史をお考えになりたければ、藤本満先生の『歴史』という本をお読みくだされば、と思います。宗教改革以降の、プロテスタント教会の歴史的展開の入門書として大変名著だと思います。

       

      しかし、このように、歴史を振り返るとき、ある種、実に空しい時間だけがただ流れているようにお感じになるかもしれません。

       

      確かに、空しい時間が過ぎていくのは、実際に存在しうる事ではないか、とおもいます。聖書の中には、そのことについて、次のように書かれているのではないでしょうか。

       

      【口語訳聖書】伝道者の書(コヘレトの書)
       1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
       1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
       1:4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
       1:5 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
       1:6 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
       1:7 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
       1:8 すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
       1:9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
       1:10 「見よ、これは新しいものだ」と
         言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
       1:11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。

       

       

      評価:
      D.M. ロイドジョンズ
      いのちのことば社
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      (2004-10)
      コメント:なかなかよろしいか、と思います。

      評価:
      W.J. エイブラハム
      教文館
      ¥ 2,052
      (2013-07)
      コメント:このシリーズは手軽に読めて、非常によろしい。藤本先生の翻訳も読みやすいです。

      評価:
      価格: ¥ 2,592
      ショップ: 楽天ブックス
      コメント:プロテスたんの発展の概観をする上では極めて有益な歴史神学入門書

      2018.06.17 Sunday

      クリスチャンn世代の若者からのお願い(4) 勝手に期待しないで・・・ その4

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        これまでのまとめ

        これまで、第1回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1 では、

         

        日本の教会が、高齢化という意味では、時代の最先端を行っている可能性があること、その中で、適切な見直しをしないと、教会という建物と土地が不良債権化しかねないこと、

         

        第2回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(2) 勝手に期待しないで・・・ その2  では、

         

        さらに、そのような環境の中で、ご高齢の信徒さんから若い信徒さんへの期待やご自身が若かりし頃の武勇伝が述べられて、もっと人を連れてこい、と武勇伝交じりで語られかねないこと、かつては、教会に通うことが一種の時代の最先端を行くかのようなライフスタイルであった可能性があること

         

        第3回 クリスチャンn世代の若者からのお願い(3) 勝手に期待しないで・・・ その3 では、

         

        ご高齢の信徒さんの皆さんが若かりし頃がどのような日本であり、その中で、どのような役割を教会が担ったのか、というあたり、音響機器メーカーのパイオニアの前身や教会と讃美歌、外国ということと教会

         

        というお話をしてきました。

         

        本日は、前回触れそびれました、ミッションスクールと呼ばれるキリスト教学校について、お話してみたいと思います。

         

        ミッション・スクールという存在

        第2回の連載では、日本におけるミッション・スクールがその舞台のかなりの部分を占めたNHKの朝ドラ『花子とアン』を触れながら、お話してきました。

         

        日本では、同志社、関西学院大学、青山学院大学といった大学ももちろんですが、女子高等教育機関として、ミッション・スクールは大きな役割を果たしてきました。なぜ、そのようになっているか、と言いますと、1800年代のアメリカのメインラインと呼ばれる主流派のキリスト教の世界では、実は女子高等教育が一種のブームであったようです。確かに、米国の名門女子大学は、この時期に開設されたものが多いです。それがそのまま、日本にも流れ込んでいた感じがします。特に、明治期、大正期ごろまでは田村直臣先輩がお書きになられた『日本の花嫁』事件に見られるように、女性の地位が異様に低く、女性の地位向上をめざして、高等教育機関が、宣教団体(ミッション)からの資金援助(当時の日本は貧乏だったので、海外からの資金は少額でもその効果は絶大)で建てられていきました。各地にある○○女学院という名前の大学は、そのころのものが多いことは確かです。

         

        カトリックのミッション・スクールに関しては、上智大学の川村 信三先生のご研究がございますが、カトリックにおいては、困窮者対策としての教育の系譜に連なる学校と、社会の指導層でなる人々への影響を考えての教育の系譜につながる教育機関とに別れるようでございます。

         

        ヨーロッパの大学の基礎としての神学部と日本の大学

        ミッション・スクールは、ある面、日本のキリスト教伝道の中で、大きな役割を果たしましたし、今も果たしているように思います。とはいえ、一般の学生さんを見ていると、もともとミッションスクールであったことをうかがい知るのはかなり難しい(大変失礼な話で申し訳ないのですが)にもかかわらず、ウェスレー先輩の銅像(誰かを知っている現役学生さんはかなり少ないらしい)青山学院大学の神学部は学生運動の大波の中で、1960年代に廃止となり(現在では東京神学大学に引き継がれている)、関東学院大学の神学部も、同じく1970年代に廃部になり、と神学部が相次いで閉鎖される憂き目にあっています。立教大学も文学研究科にあった組織神学専攻を2009年に募集停止しておられます。神学教育組織が組織として今なお残る我が国の大手ミッションスクールとしては、関西学院大学、同志社大学、西南学院大学くらいになってしまっています。

         

        青山学院大学前のウェスレー先輩像

         

        ヨーロッパの大学は、教会付属施設 → 修道院 → 神学部から出発している大学(最古の大学のスペインのボローニャ大学などが典型的)からすれば、神学を扱わない大学(ウニベルシタス Universityの語源))は、高等教育機関であっても、大学あるいはウニベルシタスとは言えないはずで、神学があって初めて大学というのがヨーロッパ的な伝統での大学の位置づけです。

         

        振り返って、我が国の国立大学では、神学研究をしておられる先生はおられるにせよ、神学部を有しない以上、どこで、どう頑張ってもウニベルシタス 大学とはならないけれども、大学と称されてきました。多くのミッション系大学が、自ら、普遍であり、ウニベルシタスであるための担保であるはずの神学を放棄している(これは、アメリカのハーバード、イェールなどの名門校でも同様の傾向)のは、実に残念だ、と思います。このあたりに関しては、最下部で紹介しております、ハゥワワースの『大学のあり方 諸学の知と神の知 』が大変参考になろうか、と思います。舌鋒というか筆鋒は鋭いですが…

         

        さて、余談は別にしまして、キリスト教を教育ということを手掛かりにして、日本で広めようとするための教育機関がミッションスクールしたわけていったわけですし、物理的に外洋船に乗って、太平洋やインド洋の波頭を超えていかねばならなかった外国へのアクセスの窓口でもありました。その意味で、日本人がアクセス可能な外国への窓口であり、キリスト教の入り口でもあったわけです。

         

        それが証拠に、以下の動画でご紹介いたしますペギー葉山女史の学生時代という歌声喫茶の定番曲(前回の記事でもNHKの取材時に歌っているので一部が収録されている)では、ミッションスクールが背景のメタファーとして用いられています。そして、冒頭部分に教会の鐘楼から慣らされている信徒を集める鐘の音(これが、ムスリム世界になるとアザーンにかわる)と思われる音が用いられています。

         

         

        ペギー葉山の『学生時代』

         

        以上これまでこの連載を含めて3回の連載で紹介してきましたように、今の教会におられる高齢信徒の皆様と今の若いクリスチャンn世代が置かれた環境は根本的に異なるのです。オフピークであれば5万円もあれば、アメリカに渡れ、テレビではCNNが流れ、スマートフォンやタブレットで、HuluとかNetflixでアメリカの動画が見られる時代になりました。

         

        しかし、今教会におられる皆さん方が多く集まられたお若い時代の身近な外国としては、教会やミッションスクール以外には、関東や中国地方西部ではラジオの米軍放送であるFEN放送を上げることができるかもしれません。これらもまた、外国文化への手近な 入口となっていました。また、日本のラジオ放送でのディスクジョッキーのかたちに影響することになりました。

         

        FENのタイトルコール めっちゃ懐かしい

         

        FENなどに影響を受けた小林克也さんのアメリカンポップス紹介番組

         

        身近な別世界へのアクセス手段が増えた社会の中で…

        その意味で、身近な別世界へのアクセスの口が多様化し、若者自体が、いろいろなイベントがあり、海外旅行に外貨持ち出し規制もなく、安価で行けるようになり、バックパッカーとして旅行ができるようになるわ、東京とか関東圏にいれば、海外のアーティストのコンサートなんかにも、かなり自由に参加できるようになる中で、もはや、以前の教会が持っていた外国(ありていに言えば、西ヨーロッパ文化圏と北米文化圏)へのアクセスのとっかかりとしての魅力は相対的に低下していると言わざるを得ませんし、さらに言うと、昔のマジメ君、ヨシコさんたちが理想としていた、形而上的な抽象的理解や、”真理”に関心を持つ人であることの価値が、多元化したポストモダン社会の中で減り、自分の手が届く範囲、スマートフォンを含めて、自分の周り10メートルくらいでアクセスできる範囲の内容のほうが重要になった社会の中で、建物としての教会、あるいは教会イベントの意義は相対的に下がっているように思うのです。

         

        そうなっているとすると、教会で新規来会者を誘うような、呼び寄せ型のイベントをしたとしても、来る人は限られ、それを契機にした伝道というのは、かなり厳しい、ということになります。それに、「お友達を動員してくれ」と言われても、また、そのことを高齢信徒の皆さんから、期待されたとしても、教会のn世代のクリスチャンたちは、ただただ困惑を覚えることしかできない、ということになります。なぜなら、誘ったところで、よほどの魅力(例えば、レディ・ガガのコンサートクラス)がなければ、さそったところで、アテネのギリシア人たちのように「また今度聞くことにしよう」と言われて終わりになる、というのがせいぜいではないでしょうか。

         

         

        The SimpsonsでSpringfieldというシンプソン家の人たちが住む町にレディーガガさまがコンサートした時のエピソードの一部

         

        身近な別世界へのアクセスを利用しては?

        さて、現代の若者は、1960年代の若者に比べ、別世界への入り口をたくさん、自分たちの手の中にあるスマートフォンの中に持っている、ということをお話してきました。

         

        とはいえ、1960年代に若者であった皆さんも、らくらくスマホとかで、すでに、意識しておられる、おられないにかかわらず、インターネットの世界を間接的にご利用になるのが当たり前の時代に現在なっています。

         

        らくらくスマホ https://www.amazon.co.jp/dp/B00B59W152から

         

        そうだとしたら、その身近な別世界へのアクセスの手段を教会の皆さんも利用されてみてはどうでしょうか。それが、ウェブサイトなのか、ツィッターなのか、Facebookなのか、Instagramなのか、他のSNSなのかは知りませんが、「あれは、カインの末らが作ったものだから」とか言って、触らぬ神に祟りなし、で対応するのではなく、逆に、聖四文字なるかた、神からの祝福にしたがって、スマートフォンは神の直接の被造物ではありませんが、被造物である人間が作り出したものを治める(管理する)必要があるのではないでしょうか。このあたりのことをお考えになられたい方には、

         

        【口語訳聖書】 創世記
        1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

         

        このあたりの、地にあって、被造世界をどう生きるかを考えられたい方には、最下部で紹介しています「シャーローム 神のプロジェクト」などがご参考になるかもしれません。

         

        とはいえ、どうすればいいのか、わからない、という教会もございましょう。自分でできない、できたら安心できる外注先があれば…、安心してください。あります。名古屋の業者さんですが、Bread and Fish(間違っても、英国のB級グルメ Fish and Chips ではない)という教会専門のウェブサイト構築会社があります。この会社は、技術的にも確かです。

         

        英国のB級グルメ Fish and Chips

         

        教会の「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ?

        ところで、ここでFacebookのお友達がシェアしておられた東洋経済新報社のブログ記事 地方は結局「若者」を排除して自ら衰退する 〜「若者に活躍してほしい」は、ほとんど口だけ〜 から、引用してみたいと思います。

        さらに、3つ目は「イノベーション人材」の喪失です。若者が特段の迷惑をかけていないことでさえも、自分たちに理解できないことは、頭ごなしで「ダメだ」「劣化している」と決めつけがちです。匿名性の低い地方においては、そのような圧力によって、新たな芽がつぶされてしまう危険性があります。

        たとえば、北九州市の成人式などはマスコミによって、「変な格好しているヤンキー」くらいに報道されたりして、つぶされそうになったことがあります。しかし、実際には地元でまじめに働く若者たちが何十万円もかけて衣装を作ったり、レンタル衣装を借りて、自分たちの文化として発信しているのです。そもそも、それだけのおカネを持っているということは、しっかりと働き、さらに計画的に預金を積み立てているからこそ、できることです。北九州市の知人によれば最近では「同じような衣装を着て写真を撮りたい」とわざわざ北九州市に来る人さえいるそうです。

        このごろはよく「イノベーション人材を地方へ!」などという話で盛り上がりますが、そもそもイノベーションとは、従来のサービスや構造が、新しいものに置き換わることを意味します。自分たちに理解できない若者文化などを攻撃し、排除してしまっては、イノベーションもへったくれもありません。自分が理解できないことを否定しないことが、地方でイノベーションを起こす第一歩なのです。

        もし、いま挙げたような「3つの人材」を排除していくと、結果として地方には上役の言いなりになる、「年齢こそ若いものの考え方は保守的で硬直的な人たち」が残っていきます。その結果、どうなるかは言うまでもありません。

        これ、教会が抱える問題と全く同じ構造じゃないでしょうかねぇ。

         

        教会も、「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、年配者から見ると、これまでにない取り組みで、若者のむちゃくちゃにみえるかもしれない行動や方針変更という新しい芽をつぶしまくっているとしたら、若者は、腐ってしまいます。逆に腐ってしまわないとしたら、その若者は、よほどの人格者だと思います。

         

        ところで、教会は、教会にいる若者に「若者に活躍してほしい」とか、「君たちに期待しているよ」と言いつつ、高齢者の期待するやり方で活躍することを暗に期待していないでしょうか。若者を自分たちが引いたレールの上での自由のみを認めた形での活躍、あるいは、若者の自由を完全に奪ったうえでの活躍、のような形で。

         

        こうすることは、手足を太いマニラ麻のロープでがちがちに縛って、「ほら、自由に泳いでご覧」というようなものです。荒くれ物の多い、アメリカ海兵隊US Marine Corps(海軍の一部でありながら、実体的にはかなり独立した存在 )よりも、すごいとされるNavy Sealsのような皆さんでない限り、おぼれ死んでしまうんじゃないでしょうか。

         

        Navy Sealsの皆さん

         

        宗教改革を起こしたルターは、多分変な若者だったんでしょう。であるからこそ、宗教改革は生まれまたのではないでしょうか。ウェスレーブラザーズ(ジョンと、チャールズ)も、とっても変な若者だったと思います。その変な若者がいて、勢いでムーブメントを起こしたから、今のプロテスタント教会のかなりの部分があるのではないでしょうか。もし、私たちがプロテスタント(プロテスタティオ)だというなら、これらの飛び跳ねた若者の後継者のハズなわけです。

         

        こうして、キリスト教は、この2000年間変革し続けてきました。カトリックも変革し続けてきました。アッシジのフランシスコ(現教皇の名前の由来)は教会制度を変革しました。イエズス会を始めたイグナチオ・デ・ロヨラや、フランシスコ・ザビエル(小学生男子の人気者)も、イエズス会を始めた当時は若者でした。そして、フランシスコ・ザビエル(スペイン風に読むと、ハビエル)は日本に伝道し、ジパングという国に、聖書を伝えました。そして、カトリック教会制度の変革(まともにラテン語を読めない司祭が多かった時代に、きちんとラテン語を扱える司祭を増やすといった意味での改革)に貢献しました。様々な人々たちが、教会を変革し続けてきたのです。プロテスタント、カトリック問わず。

         

        イグナチオ・デ・ロヨラ

        小学生の歴史教科書のアイドル ザビエル君(ハビエル)

         

        いえ、あえて言いましょう。誤解を恐れずに。

         

        ナザレのイエスも、ユダヤ社会の、田舎もん(ガリラヤ、あるいはナザレ)扱いを受けた、変な”にーちゃん”だったんです。当時の祭司長、律法学者にとっては。違うでしょうか。イエスは、ある面、ガリラヤの鉄砲玉、あるいは、薄い紙で作った、急ごしらえの将棋の歩のような存在です(角でも、飛車でもなく…本当は王か玉なのに)。王であり、ダビデの末であり、ホザナと声を限りに人々が叫ぶべき方であったにもかかわらず、何も持たず、権力者の誰からもまともに相手にされなくとも、ひたすら、吹けば飛ぶような将棋の歩のコマのように、一歩一歩、自らの足でユダヤを歩き回り、ただ、ひたすら神の国が近づいた、と説いた、という意味では変な”にーちゃん”だったように思います。

         

         

        エチオピア正教のホサナ

         

        コプト正教会のホサナ(歌詞は英語だけど、音楽は完全にアラビア風)

         

        ブルガリア正教会のホサナ

         

        ハングルでの現代風ホサナ(なぜかスペイン語字幕)

         

        タガログ語でのホサナ(子供向け)

        もし、私たちが、イエスの弟子であるというのなら、将棋の駒でいう歩みたいなイエスの弟子でもあるのではないでしょうか。

         

        とすれば、現代の鉄砲玉のような若者を腐らせるのではなく、彼らのやることをぬるく見守る知恵と彼らのやることを受け入れる度量とキリスト者の愛を高齢信徒の皆さんには余るところなく示してほしいなぁ、と思いました。

         

        そうでなければ、地方の地域社会の未来がどんより暗いのと同じように、教会の未来もどんより暗いものに意図せずしているかもしれないなぁ、と思います。

         

        鉄砲玉のような若者の皆様へのお願い

        若い時は、急進的になったり、思い通りに教会や教界が変わらないことにイライラするかもしれません。しかし、忍耐が必要です。こないだ、同志社大学で講演したハゥワワースとジャン・ヴァニエによる共著の本『暴力の世界で柔和に生きる』(最下部でご紹介)という書籍の中でハゥワワース先輩が書いておられた部分にある記述がありました。それは、ハゥワワース先輩が参加しておられた教会での出来事です。

         

        それは、ハゥワワース先輩が依然参加しておられた教会が聖餐を毎週するまでの過程のことがちょっこし書いてありました。その教会では、毎週の聖餐実施となるまでに、9年かけたそうです。本来、もっとも大切な教会の中心であるべき聖餐をごく当たり前の姿に戻すのに、9年という歳月がかかる。

         

        これが教会の実情です。その意味で、忍耐と、愛における受容が大切だ、と思うのです。

         

        時間はかかるでしょう。でも、待ちましょう。慌てずに。焦らずに。

         

        期待する対象が違うかも

        個人的には、高齢信徒の皆さんが望みをかけ、期待しておられる対象が間違っているのではないか、と思います。我々が期待を置くべきものは、全きもののはず、ではないでしょうか。それを全きものではありえないはずの人間に、そして、全きものであるはずのない若者に、期待するのはどうなんでしょうか、とは思うのです。

         

        聖書の中にこのようにあります。

         

        【口語訳聖書】コリント 第二の手紙
        12:20 わたしは、こんな心配をしている。わたしが行ってみると、もしかしたら、あなたがたがわたしの願っているような者ではなく、わたしも、あなたがたの願っているような者でないことになりはすまいか。

         

         

        そして

         

        【口語訳聖書】 コリント 第1の手紙
         13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
         13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
         13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

         

        いったんこのシリーズは一時休憩をします。次のシリーズは、「私の将来について、祈らないでほしい編」です。

         

         

         

         

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        コメント:薄いけど、大変大事なことが書いてある本

        2018.09.07 Friday

        クリスチャンn世代の若者からのお願い(5) 勝手なお祈りしないで・・・ その1

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          今回は、シリーズ第2弾、勝手にお祈りしないでシリーズをご紹介したいと思います。

           

          カレドニアさんの以前のコメントとコメントへの応答から

          以前にも、このブログの「いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた」でも、ご紹介したことがありますが、クリスチャンのn世代(2世以降の、両親ないし、片親がキリスト者の人々)にとってみて、年長信者ないし、教会関係者の聞こえがよしの必殺祈り攻撃は、結構厳しいものがあります。このカレドニアさんのコメントにお答えした記事での「必殺、祈り攻撃」の部分を再度引用の形で、ご紹介してみたいと思います。

           

          (カレドニアさんのコメント)

          > (クリスチャンの友人と「私がどんなにダ
          > メな人間か」についての公開裁判&祈り会
          > が開かれる)

          (カレドニアさんのコメント)

           

          を受けて、祈り会での祈りの言葉が裁判の場における検事のような追及のことばになり、祈り会が公開裁判になるという現実は時々あるようです。その時に、ミーちゃんはーちゃんは次のように書きました。

           

          これも、超・わ・か・る!という感じです。反発するだけ野暮ですね。それこそ、反発しようものなら、公開裁判ではなく、それこそ魔女裁判の世界でしょう。それどころか、異端審問裁判ではないか、とおもいます。それこそ、聖書のことばで「聖書的に」(といいつつものちに詳述するSalvation Cultureで)裁かれる、といったような異端審問裁判ではないか、と思います。祈り会というよりは、祈りという名の呪いのことばをかけられているような感じになるのではないか、と思います。「祈り」といわれていても、責められ、非難されているとしたら、呪いの言葉に聞こえる場合もあるのではないか、と思います。

          今から40年ほど前、今では長髪とさえいえないほどの髪の毛の長さにしていた、大学生の信者さんがアメリカ人宣教師の方から、「兄弟、祈りましょう。」と言われて、暗に髪の毛を切るように仕向けられた、ということをお話ししてくださったあと、「あれ、なんだったんだろうねぇ」と30年ほど前にお話ししてくださいましたから。なるほど、「必殺、祈り攻撃」は結構伝統と格式を誇る手段なのかもしれません。

          しかし、中核派・革マル派・連合赤軍の「総括」(人民裁判(集団で責められる話し合い)にかけられて、自己批判を徹底的に言わされ、人民裁判の裁判官というか、自己批判する以外の参加者が納得するまで(これがまた判断基準が微妙)、自己批判すること=総括)のキリスト教版みたいですね。あさま山荘事件の前後にこの総括ということが実際に起きたようです。「必殺、祈り攻撃」は、この総括と構造的には似てますよねぇ。全く神の名を使った「総括」なのかもしれません。

           

          このようなことが時々見られることは、いろいろと多くのキリスト者の方のお話を聞いてみたり、また、牧師先生の修養会に参加させてもらってパラパラ漏れ聞こえてくる内容からは、日本のある教会群でのこういった傾向は、あまり変わっていないように思います。個人的には、この問題は、教会の第n世代の方にとって、小さからぬ問題ではないか、と思います。

           

           

          どのように祈るべきか

          まず、そもそも論としてのこの祈り問題は、まず、人に聞かせる、というよりは、人を操作するいのりであるところです。祈りについて、イエスがどのように言っているかをまず第1に確認してみたいと思います。

           

          【口語訳聖書】マタイによる福音書
           6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
           6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
           6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
           6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
           6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
           6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
           6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
           6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
           6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
           6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
           6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

           

          George HenryBoughton作 Woman Kneeling in Prayer

           

          https://art.thewalters.org/detail/12881/woman-kneeling-in-prayer-2/ より

           

           

           

          人に聞かせるために祈る人って…ひょっとして偽善者?

          このマタイの福音書で見ると、まず、人に見せようとして、人に聞かせようとして祈ることは、偽善者のなすことだ、とイエスご自身は言っているように思います。この部分の聖書翻訳がおかしいとおっしゃるなら、聖書協会さんに文句を言っていただきたいのですが、いくつか、日本語やそのほかの言語の他の翻訳を見ても、上で紹介した口語訳聖書の表現と同じような表現になっているように思います。

           

          さて、本来神に向けてのものであるべき、祈りの言葉を用いて人を説得し、人の行為を変えさせるように操作主義的に祈ることは、祈りと言っても、あまり健全とはいえないような祈りのようです。祈りが神とのコミュニケーションだとしたら、「特定の個人に向けた言葉を含め、祈りのことばを意図的に用いる」ということは、いったいどういう意味を持つのか、ということは考えなければなりません。それが本当に神に向けてのものなのかどうか、ということです。

           

          もちろん、「神に向けての叫びである」という側面が祈りにはあることは確かです。それは否定しません。確かに、旧約聖書の最初の祈りの表現は、創世記にありますが、その記事を見てみましょう。

           

          【口語訳聖書】創世記
          4:26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。

           

          アダムの子供のアベルとカインの後に生まれたセツの子供の段階、つまり、アダムの孫の段階で、人々は、神に向けて、神の名を呼んで叫んでいる(祈っている)わけです。その意味で、神への叫びは祈りと言えますが、人への叫び、人をどうにかしてやろうとして神の名を呼ぶのは、十戒と呼ばれる10の教えの中でいわれている

           

          【口語訳聖書】出エジプト記
          20:7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

           

          ということと等しいことなのではないかなぁ、とは思います。

           

           

          おそらく、冒頭のマタイの福音書で「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」と書かれているのは、結局、この街道やお踊りの辻に立って人々に聞かせるために祈る人々には、出エジプト記にある「主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」ということを、神ご自身である主が、報いとしての罰をお与えになっている、ということなのかもしれません。

           

          隠れたところにおられる神

          ここで、祈りについて、先に引用したマタイの福音書の記述によれば、イエスご自身は、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」ということをおっしゃっているのが、非常に印象的です。この隠れたところにおられる、というのが、実は重要だと思うのです。この「隠れたところ」という表現は、直接、「私の思いはこうだ」とは人間に対して、明確にかつ具体的にご自身の思いを示されることがかなり少ない、ということともかかわっているように思います。もちろん、旧約聖書には、預言者に直接語る神の姿が記載されていますが、その預言者は、人々から石を投げられ、人々からさげすまれ、偽預言者扱いされ、理解もされず、呪いの言葉をかけられた存在、というのが、ほぼ実情ではないか、と思います。

           

          つまり、神の神秘とか、神ご自身のみ思いは、鼻で神に息吹を吹き込まれ、自ら息を始めたものでない、神の力により、鼻で息するものであることを許されているに過ぎない人間が「パッと見てわかるようなものではない」ということも示しているように思えます。たとえ、牧師や司祭、または長い経験を持つ信徒であっても、神のみ思いを図ることは難しいがゆえに、主の祈りにあるように、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と、人間は祈る必要があるし、そのようにイエスは主の祈りで教えているのではないでしょうか。

           

          そのような意味で、人に祈りの言葉を神の名をみだりに唱えることで、意図的に聴かせ、自分の意図に合致するように仕向けようとする祈り、というのはどういうことなのか、ということは、少し考えてみたほうが良いのかもしれないなぁ、と思います。神ならぬ人間に過ぎないものが、神の名を騙る、ということの空恐ろしさを個人的には思います。

           

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          2018.09.11 Tuesday

          クリスチャンn世代の若者からのお願い(6) 勝手なお祈りしないで・・・ その2

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            今日は、前回の記事に続いて、勝手なお祈りをしないでほしいの第2回として、祈りの内容についてのお願い部分について、述べてみたいと思います。前回は、ああしなさい、こうしなさい、という個人に対する実際的な指示になっているという祈りの内容の問題に触れましたが、今回は、個人の祈りとしても、その内容をどう考えるか、の問題について触れたいと思います。

             

            若者への導きの祈りについて

            若者は、進路や結婚相手について、それぞれの夢や希望を持っているのが、現代の特徴でもあります。それこそ、昔は、基本的に家業を継承するのが一般的で、親の決めた許嫁や政略結婚なんかがかなり普通に存在しましたから、就職先や、結婚相手などでの個人の自由などは全く顧みられない時代が日本ではかなり長く続いたと言えましょう。その結果、必ずしもご自身の意志とは一致しない就職先や、配偶者とともにそれなりに幸せな人生を引き受ける人々が多数おられたのもまた、事実です。

             

            なお、進路(就職先)や配偶者は、現行憲法に変わってからは、以前の時代とは違い、職業選択の自由が生まれ、結婚は両性の合意に基づく事になっています。とは言いながら、この両者は未だに日本では、お家騒動の根源になりかねない、曖昧さを持った領域として、時々若者たちを悩ませる問題となっています。

             

            職業選択自由の歌(その名も憲法22条の歌)

             

            親や教会関係者は、子ども時分から、若者たちの成長を見守ってきた、ということなどもあり、このあたりのことにかなり関心があるためと、良かれと思って、割と気軽に会話の糸口として、かなりパーソナルな分野に属することである進路や就職先のことを話題にし、そのことに対して、お話になる傾向が見られないわけではないように思います。それも、ご自身の個人的な経験にのみ基づいてお話になられることが多いような印象がございます。

             

            青年会が壮年会化し、壮年会が老人会化する日本の教会で

            特に、日本社会は急速に少子高齢化が進展しておりますが、それ以上のスピードで少子高齢化が進展している日本のキリスト教界隈に置きましては、高齢者グループへの移動年齢の上昇と、青年部会や壮年部会の加入上限年齢の引き上げが行われ、間もなく来る敬老の日付近の礼拝などでは、老老介護ならぬ、老老敬老が行われるという、実に笑えない敬老の日を迎えられる教会も少なくないのではないか、と思います。もう、完全に逆ピラミッド型構造になっている教会のほうが、多いのではないでしょうか。

             

            現在の若者(といっても35歳以下の世代)に声をおかけになられる高齢者、壮年者(20年前ならば、教会の高齢者会に属していて当たり前の方々)の皆様は、高度経済成長期にお仕事をなさっている関係から、基本的に人手不足社会で、転職先はあまたあり、という状態でその勤務時期の大半をお過ごしであったように思います。また、それらの方々がお勤めでした頃は、定年が50歳とか55歳で、60歳を超えれば、ほとんどお年寄り扱いであった時代でした。

             

            就職氷河期の若者と高齢者予備層の関係性

            ところが、今の若者は、ここ数年の時期を除き、決定的に人手余りの時代、日本が長期ウルトラ低成長経済やとどめを刺すようなリーマン・ショックに苦しんだ時代に就職したみなさんなわけですから、まともな就職先につけない方のほうが大半で、派遣労働や非正規雇用と呼ばれる職種で、昇進もままならず、年収300万円もあれば、それは豊かとされる時代の中で生きざるを得ない方々が案外多いわけです。実は、この様になった構造には、現在の高齢者、壮年者の方々が会社に長らくお勤めになった結果、長期雇用慣行を保持していた日本の企業で、これらの方々が大量におられた関係で、会社としては、労働単価の安い若者を採用したくても、正規雇用として採用することができず、どうしても必要な場合には、派遣労働者やパートと言った非正規型雇用で、雇用するという形態が一般化した関係で、ある年代には、大学卒業者であっても、非正規労働の道を、本人の能力とはあまり関係なく選ばざるを得なかった方々も少なくなかったことも確かです。

             

            そういう就職超氷河期時代の若者からすれば、その方々が直接動向はないにせよ、その世代の方々がどっかと長期雇用の場で、職場におられる関係もあるため、就職先がなくなっている可能性が高く見えるにもかかわらず、「自分たちのときは、ああだった、こうだった」とか言われ、まともな就職先につけ、と言われても、あるのは非正規職ばかりなり、おまけに、日本育英会で奨学金という名の学生ローンを借りていれば、返す目当ても立たず、卒業した段階で数百万円の借金背負っている状態でフラストレーションが溜まるのみならず、「給料は安くても、日曜日は教会があるから休める職場にしなさい」とか、「正社員でないと・・・」とか言われるわけですから、たまらないわけです。力なく笑顔をみせて済ますのが精一杯でしょう。

             

            こんなことを書いていたら、次のようなツィートが流れてきました。これ、って案外リアルな現状の一断面のように思います。

             

            確かに、昔、今の50歳代から70歳代の高度計財政相やバブルを経験された方は、どんな底辺の仕事であっても、正職員で、最低限の給与が保証されていた時代を経験しておられるので、安易にものを考えがちですが、底辺の仕事でなくても、給与は20万円もあれば多いほうで、年金、社会保険、失業保険、所得税、住民税などなどの各種天引きされると、10万円行かないこともあるという事実を認識されておられない方も多いように思います。

             

            ところで、教会には、今若者が、急速に相対的に少なくなっている教会が大半(ペンテコステ派、特に外資系ペンテコステ派を除く)でしょうから、否応なく、なんでも仕事は、教会内にいる若い人に回って来やすい環境がただでさえできているわけで、その一番若いとされる信者さんも今では、30代後半とか、40代、ないしは50歳代とか行った教会は、結構多いかもしれません。

             

            年長の方の視線を厳しく感じる若者たち

            そうなっているとすれば、当然、クリスチャンホームの子どもたちクリスチャンn世代には、ひしひしと、年長の信徒さんからの希望の眼、つまり、教会での様々な役割を果たし、教会での主要な仕事をしてくれるだろうという希望に満ち溢れた視線が矢のように、あるいは雨あられのように、降り注がれる状況になります。そして、教会から若者がいなくなるのを回避するために、進学の場合は、地元の学校に進学するようなプレッシャーがかかり、就職の際にも、地元企業で、転勤の割と少ない職種、あるいは、地面に足を生やして仕事をすることになる公務員や教員といった就職先を考えるように仕向けられていきます。

             

            直接、前回の記事のように公の場で、祈られたりすることはないにせよ、隠れたところで祈られるにせよ、ある特定の仕事につくように、公式、非公式に祈られることになります。本人にそのことは言われないにせよ、祈られているというのは、いい面もあるのですが、その分、仕事に制約が出るような感じが、どうしてもしてしまうように思います。

             

            首都圏という巨大経済的竜巻ないし、人材のブラックホール

            もう少し言うならば、現在はかなり改善したとはいうものの、依然として県庁所在地以下の地方都市やその他の地方部での雇用情勢は厳しく、受けた教育にふさわしい勤務内容と給与の職業があるかというと、かなり厳しいものがあります。基本、昔と同様に大学や雇用機会が大きいことから、若者を吸収する巨大なブラックホールのような首都圏という地域があり、実際には、首都圏に若年人口がよりよい教育機会や、より良い就業機会の存在を移動していることは、明らかです。

             

             

            人口の社会移動状況を示す図 Resasより  

            https://resas.go.jp/population-society/#/map/13/13101/1/1/2017/4.554950321655216/36.870714883905755/145.55377510603486

             

            新規就業者及び進学者のネットの流入・流出地図 Resasより

            https://resas.go.jp/employ-education-localjob-academic/#/map/5.333900736553437/41.42090017812787/142.29371418128918/13/13101/0/0/2016/3/1/10/0/-

             

            この図を見ていただく限り、人口自体、東京一極集中(上の図)していますし、ネットの若年者の新規就職者、進学者(新規就業、新規の進学による流入者ー流出者)を集めている、すなわち、純流入状態にあるのは、東京、京都、大阪、宮城、神奈川、愛知、石川、滋賀、岡山、福岡、の都府県だけになっています。

             

            なお、Resasというサイトについては、誰でもGIS等に関する特段の知識がなくても、簡易に使える総務省さんが旗振りしているサイトであるので、個人的には税金の還付を含めて、利用されるようにおすすめしている。データを取り出せないのが、残念であるが。

             

            日本経済の竜巻の中心としての東京

            あるいは、企業の本社機能やビジネスチャンスが、東京に集中していることからも、たとえ地元採用であっても、東京ないし首都圏勤務となる場合は少なくありません。優秀な人(企業に対してより利益を生んでくれる生産効率の良い人)であればあるほど、本人が希望していない場合でも、企業は地方部でそういう優秀な人材をおいておくはずがありません。よほど特殊な例外的な存在の方を除いては。実際、そこそこ優秀な方で、関西での勤務の長い、何人かの知り合いの方が関東圏の勤務先に転勤や引き抜きで、移動なされ、そのまま家族をおいて単身赴任という方もおられます。

             

            都道府県別の労働生産性(労働者一人あたりの付加価値額)を図にしたもの Resasより

            https://resas.go.jp/municipality-labor/#/map/13/13101/2012/-/-/1/5.108524456778168/38.02192088879871/141.78603091304325/-

             

            都内の市区町村別労働生産性(労働者一人あたりの付加価値額)を図にしたもの Resasより

            https://resas.go.jp/municipality-labor/#/map/13/13101/2012/-/-/2/8.768184324776925/35.668375710000014/139.5558412999998/-

             

             

            首都圏は巨大なビジネスの渦が巻いているために、鳴門の渦ではありませんが、それに引き込まれたらひとたまりもないのです。首都圏というのは、経済的に見れば、巨大な竜巻のような存在だと言えるかもしれません。それも、上の地図を見てもらうと、東京の中でも、千代田区、中央区、港区、品川区、江東区のこの都心南部の5区のみが高く、山梨県の忍野村という例外的な飛び地はありますが、都内の中でも、労働生産性が高いのは、この5区とういことになるわけです。

             

            人は昔から移動してきたけど・・・

            昔から、人は、移動が自由であれば、より豊かで、安心安全な社会がり、経済的にも安定できる可能性が高い生活を求め、移動してきました。ゲルマン民族の大移動にせよ、フン族の大移動にせよ、より良い牧草地を求め、怒涛のように新たな地域に流入していったわけです。そして、現在は、シリアとか、北アフリカとかから、かつてのイスラム勢力がヨーロッパに流入した経路を通り、また、イスラム海賊が海沿いに北上したように、現在のハンガリーやドイツを目指し、海沿いの地域の人々はイタリアやスペインを目指しているわけです。

             

            旧大陸であるヨーロッパから見れば、新大陸であったアメリカ大陸にしても、最初はアイルランドで食いっぱぐれそうな腕っぷしだけが強く、英語に近い言語が喋れる人たち(スコットランド人の英語やアイルランド人の英語はわかりにくい)が流入し、その後、ドイツ系の人々、中央系の人々、ロシア系の人々、そして、今はメキシコ系の人々や中南米系の人々、カリブ海系の人々、そして、中国大陸の人々、アラビア系を始めとする中東系の人々が流入して行ったわけです。

             

             

            「ゲルマン民族の大移動」の画像検索結果

             

            これらの人々の流入を阻止するために、国境管理を厳しくしたくなったり、メキシコ系や中米系の人々が流入してくる人々を阻止するために、万里の長城(The Great Wall)のようなものを作ると、トランプ大統領は、大統領候補当時、公約したのは、この経済的な難民というか、経済的なチャンスを求めて、流入する人々を阻止したい、そして、アメリカ人の雇用を確保できる、という目論見があったようです。とはいえ、これらの、不法移民と呼ばれる人々が働いている職場は、3K1T職場(きつい、きたない、きけん プラス、低賃金)ですから、アメリカ人が本来仕事があると言ってもそこで勤務したくない職場なのです。

             

            ちょうど、今の日本の東京で、夜間のコンビニとか、ファミレスとかのアルバイトや、清掃業務とかが、留学生の労働力によって賄われていたり、農繁期の農作業だの、建設現場での労働が海外からの技術研修制度という国策でやっている低賃金の海外労働力の移入(実質的な経済移民の合法化)なしには、持たない状態になっていますし、さらに言えば、期限付き合法滞在を認めないと、日本経済は回らない状態になっているのと同様に、アメリカでも、これらのメキシコ系移民を含め、カリブ海や中東、フィリピンからの移民なしには済まない状態になっています。また、電話セールスは、流石に減りましたが、夜間のコールセンター業務や、夜間の電話セールスなどは、インドから、インターネット電話回線経由で行われる様になっています。

             

            うまみのある楽な仕事を求める若者たち

            そういう意味でも、昔のように、3K1Tの職場があっても、そこで日本人の若者、ノウハウもスキルもないために単純労働力として期待されている人々が、本人が適正と考える職場か適正と考える賃金が得られないなどの理由から、そのような職場で勤務しないために、結果として、高齢者の勤務先になったり、あるいは、アジアの留学生や、南米へ移民した人々の子孫の方々で現地化された人々や、そのほかの外国人労働者の皆様が流入することになるわけです。その意味で、需要側の問題と供給側の問題を考えないと、問題はうまく処理できない事例が、この労働をめぐる問題には多数見られるように思います。

             

            例えば、以下のCFは、そのような若者が考える職場イメージをよく表していて、自分の持っているセンスと才能(それがどの程度のものかは別として…)を生かせるクリエイティブな仕事(それがまた、他人の努力の上澄みをはねるような虫のいい仕事のような気がしますが…)につきたがる若者を、横澤夏子さんが講演していると思います。こういう困った人が職場に急増していることを、企業の方からはお聞きしています。

             

            会計ソフトのCFに描かれた、現在の若い労働者意識

             

            このような就業意識な日本人に限ったものではありません。現在指導している留学生にも、このような就業意識は伝染しているようであり、留学生の就職指導をする中で、経験することが多いのは、自分の持っているセンスと才能(それがどの程度のものかは別として…)を生かせるクリエイティブな仕事(それがまた、他人の努力の上澄みをはねるような虫のいい仕事のような気がしますが…)につきたがる傾向があり、ある一人の留学生は、きちんとしたメーカー系の仕事を紹介したところ、そんな会社は嫌だと言い出し、どんな才能があるのか聞いたところ、英語ができると言い出したので、TOEICは何点ぐらいなの、と聞いたら、500点前後、日本語の資格はどうなっているの?と聞いたら、N2(大学入学程度の日本語能力)しかないとか、情報処理のスキルはないしねぇ、と普段の指導の中で確認できることをお話して、じゃ、なんだったらあなたは才能があるの?とお尋ねしたところ、「わたしは、人事だったらできます」とのたまわれたので、思わずのけぞりそうになりました。

             

            話を日本の若者たちに戻しますと、日本国憲法で就職先の自由が保障された日本国において、さらに、労働供給側の意識と適正と考える賃金の問題のため、従来であれば日本人の職場であったかもしれない職場に外国人が入っていく現状の中で、若者が、地元で就業できる産業が3K1T職場しかない場合、そこに就職するよう教会で祈られたとしたら、どう教会の若者思うでしょう。東京や、政令指定市クラスでは、さすがに交通手段が高度化されているので、そんなことは少ないですが、政令指定市でない県庁所在地やそうでない地方都市では、地方経済が縮退している関係で、学校教員や、公務員を除けば、残っている産業が3K1T職場というのは、案外少なくない実態ではないか、と思います。

             

            今回は、就業篇について触れましたが、次回は、進学先について、増えていきたいと思います。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            2018.09.13 Thursday

            クリスチャンn世代の若者からのお願い(7) 勝手なお祈りしないで・・・ その3

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              今日は、前回の記事に続いて、勝手なお祈りをしないでほしいの第3回として、祈りの内容についてのお願い部分について、述べてみたいと思います。前前回は、ああしなさい、こうしなさい、という個人に対する実際的な指示になっているという祈りの内容の問題に触れ、前回は、就職先に関して限られる中で、地元に就職する問題を触れましたが、今回は、祈りの内容として、進学先の選択に当たっている若者への問題について触れたいと思います。

               

              さて、前回、就職先として、人々が集まっているのは、大都市圏、特に太平洋ベルトコンベア地域の大都市を抱える都道府県だけであることをお示ししましたが、では、進学だけの部分を見てみるとどうでしょう。基本的に首都圏に集まる傾向は、前回の記事で書いたとおりであり、労働力ないし大学などへの進学での人口吸収力が圧倒的な地域は、首都圏のみであるようです。

               

              地元進学の状況

              では、地元の進学率はどうか見てみますと、同じくResasを使ってみますと、こんな結果になりました。

               

              地元の大学への進学率

               

              地元への大学の進学者数が多いのは、北海道、埼玉県、東京都、神奈川県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、福岡県、次いで高いグループには、千葉県、宮城県、広島県、新潟県、となっている。この結果を見ても、進学先が地元志向でありえるのは、これらの比較的大学が多い、あるいは大規模大学が多い自治体だけに限られます。その意味で、日本には、各都道府県に国公立大学があり、私立大学も含めれば、数があるとはいえ、教会内の若者が自治域内に留まり、さらにその結果としてもともと育った教会に残存してくれる可能性が高いのは、これらの数少ない都道府県に限られるということのようです。つまり、教会の若者の多くは、進学を機会として都市圏に、それまでその教会で育ててきた若者を奪われてしまうと受け取りたくなってしまう構造があるわけです。

               

              若者の成長過程を考えてみれば、まず小学校の間は、教会学校に来てくれるにせよ、中学になると、まずクラブ活動との間で若者の時間をめぐる争いが起き、たいていの場合、学校のクラブ活動にとられ、教会学校の中高生クラスは用意すれど、参加者がほぼゼロの教会が大半ですし、そのうち、その用意していたクラスすらなくなっている教会は多いのではないでしょうか。高校生になると、クラブに大学進学向けの塾や受験準備の時間とがはいり、高校生の時間をめぐる学校、塾、予備校、クラブとの時間の取り合いが発生しますし、たいていの場合ここでも、教会から若者がいなくなってしまうの場合が多いのではないでしょうか。

               

              さて、大学になりますと、地方の教会の場合、若者の進学先がありませんから、基本、都市部の、特に首都圏ないし京阪神地区ある大学に元々数が少ない選りすぐりの若者の信徒さんを奪われることになります。そうなると、もはや、若者が大学後にも教会に残って、参加してくれる可能性はかなり少なくなる場合があるように思います。そうなると、是非とも、地元の大学に合格するように、あるいは、地元の大学にしか合格しないように祈る気持ちになる方々もおられ手も、ある面仕方がないように思います。

               

              若者のために進学先を祈ったら、結果としてこんなことが…

              ところで、大学の場合、定員が限られています。過去、割と大学進学率が高いほうがいいという世論があり、そのような方向もある程度容認してもいいかなぁ、という文部科学省の意向がバブル期前後にあったこともあり、割と定員超過に対してかなりゆるい時期もないわけではなかったですが、近年の少子化の中で、各私立大学が経営の困難さをカバーするために必要以上に定員を超過して学生を集める傾向が見られたため、現在では、定員超過率の目立つ大学にはかなり厳しい行政指導が入るようになっていますし、また、定員不足率の目立つ大学にも、何とか対応するようにと指導が入っているようです。そして、最悪、他の学校法人に身売りする、あるいは、学校法人の解散なども経営陣に示唆するようになっている事例もないわけではないようです。

               

              この定員の厳格化が進められつつある中で、本人の意向と関係なくある若者が特定の大学の特定の学部の特定の学科に合格するように祈ること(あるいは、ほかの学校では不合格になることを祈ること)が、何を意味するかといえば、そのある若者が合格するようにものすごく信仰が篤い方がお祈りした結果、教会の若者が合格した場合、教会に行っていな久手、祈ってもらえない別の若者が、残念ながら不合格になる可能性が出てくるわけです。そして、祈られたほうは、本来その教会の若者が、ぜひとも行きたいと思っていた学校(学科)に不合格になったり、合格したため、不本意な学校であっても、周囲の進めなどから、いやいやながら行く(行かされる)ことになります。それと同時に、この教会の若者が特定の学校の特定の学科に合格するように祈られたために、本来この学校のその特定の学科に合格したくてしたくて仕方がない方が、不合格になる場合も起きるわけです。

               

              もし、そういう現状が起きるとしたら、それこそ理不尽なことになるわけです。もし、仮に、聖書に書いてあるとおり、信仰によって祈り求める対象が、すべて無条件に与えられるのであるとすれば、実に理不尽なこともおきかねない危うさをはらんでいる事にもなりかねないわけです。

               

              朝日新聞の記事より http://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201212300173.html

               

              東大合格の掲示板復活のニュースクリップ

               

              もし、仮にこの聖書の言葉が、病人だけにではなく、すべてのことに対応可能であるとすれば、の話ではありますが。

               

              【口語訳聖書】ヤコブ
              5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。

               

              罪をも許すほどの効果が祈りにあるとするならば、大学入試など合意判定などの結果の変更などはいとも簡単なことになります。(追記による補足 とはいえ、祈れば、希望の大学に問題なく合格するはずである、というつもりもありません。個人的には、祈るよりも、勉強するほうが、将来的なことも考えるとよほど効果的であると思います。賢明な読者の方はコンテキストをよく読み取っていただきたいと思います。)

               

              確かに、100人とか200人の定員のところでは、誤差の範囲で、さほど深刻な問題ではないかもしれませんが、世の中には、少数精鋭教育を目指すために、10人前後の定員の学科もあるわけです。そうなると、その理不尽は、かなり大きな影響を持つのではないでしょうか。そして、ある人のために祈ることは、その人以外の第三者の人生までも変えてしまう結果にいたることを意味しないわけではありません。まぁ、さすがに、ここまで考えて若者のために教会で祈っている人はおられないでしょうが、他者のために祈るということは、こういうことも生みかねない部分があるようにも思います。

               

              第三者の実害以外にも、直接的副作用の大きい祈りの問題

              上にあげた例は、かなり極端な論理構成の例であるとはいえ、しかし、それ以外にも、特定の進路、とりわけ教会に残る方向性を強く感じさせるように若者のために祈ることは、課題が少なくないように思います。

               

              大学人としては、どの大学に行ったところで、さほど違いはない、ということはわかっているのだけれども、受験する方の受験生の皆さんは、そうは思っていなくって、偏差値が1ポイントでも高い大学、名前が通った大学に行けば、何とかなる、あるいはより明るい未来が開けるはず、と思っているから、ほんのわずかな数値化され表現された大学の格差にばかり目が行き、大学が一体何をしているのか、どんな所かを、知らないまま、学習意欲を喪失しきった形で、あるいは、意識高い系ぶりっ子で、高校のような授業をしてくれろという学生(君たち、本当に意識高い人たちは、自分たちで勉強するので、高校のような授業は嫌いなはずなんですよ…と言いたい)が大量にやってくる時代になってしまったようです。

               

              余談はさておき、個人の将来を制約するような祈りの直接的副作用が大きいとはどういうことかを少し考えてみたい、と思います。このような祈りをするということは、このシリーズの「勝手にお祈りしないで…その1」で触れたように、ある人の意志を操作しようとする祈りであるといえると思いますし、それは、カルト的な組織の指導者が、他者の意志と他者の行為を支配し、ある行為可能な枠組みそのものを受け取ってしまい、それを当然のものとし、自ら、その行為可能な枠組みそのものから出られなくしてしまうこととよく似た問題性を含むように思います。

               

              ことばには呪いの要素も

              聖書のことばだけでなく、人のことばには影響力があります。事実でなくても、事実を確認できない人たちは、権威あるものとして語る人々のことばをそのまま、真に受けてしまいます。そして、その人のいう行動枠、というか、行動の限界、あるいは望ましい行動とされることに従っていくようです。そして、他者の評価を気にする人々は、本来、自己の意志から出た行為でなくても、行動そのものをあたかも自分自身が望んだかのようにして実行してしまう部分もあるようです。そのあたりのことは、以下の動画によく表れています。英語版だけですが、参考にはなるでしょう。

               

              説得の化学、と題された言葉が人間にいかに影響するかの動画

               

               

               

              つまり、祈りの言葉で、同じことを聞かされ続けていると、

               

              なんとなくそんな気になる、⇒ なんとなくそうしなければならない気分になる ⇒ 絶対にそうしなければいけない気分になる ⇒ それ以外は神の道ではないような気になる ⇒ それ以外は考えられなくなる 

               

              という経験をすることは割とあるわけです。この種の手法は、いわゆる、セミナー商法と呼ばれる自己成長を謳うセミナーや自己啓発セミナーと呼ばれるある特殊な商法などではよく用いられる手法であり、ある種のマインドコントロール状態に近いと言ってもよいかもしれません。祈りの言葉を聞かせる、あるいは祈りの言葉を浴びせかける、大声で浴びせかけ、他のことを考えらえなくし、その人の考え方(マインドセット)を著しく狭めてしまうということは、このセミナー商法に近いものがあるような気もします。

               

               

              こうやって考えてみますと、祝福と呪いは、表裏一体なのです。その意味で、祈りも、呪いと祝福が表裏一体になったものだといえるように思います。特定の目的をもって、自分自身の希望を祈る、あるいは神に叫ぶということが全く無意味だとか、避けるべきだとかは言いませんが、基本的に社会の中では、割とゼロサム条件(誰かが得すれば、その分誰かが割を食う状態)のことが多いことを考えますと、社会あるいは他者と個人のかかわりがある祈りに関しては、あるい人の祝福(例えば特定の進路への進むチャンス)を一方的に求めることは、すなわち誰かの不幸を求めることにもなるわけです。

               

              【口語訳聖書】 申命記
              11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
               11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。
               11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。

               

              あるいは、大声で祝福することは次のようだとも箴言の筆者は書きます。

               

              【口語訳聖書】箴言
              27:14 朝はやく起きて大声にその隣り人を祝すれば、かえってのろいと見なされよう。

               

              あるいは

               

              【口語訳聖書】ゼカリヤ書
               8:11 しかし今は、わたしのこの民の残れる者に対することは、さきの日のようではないと、万軍の主は言われる。
               8:12 そこには、平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える。わたしはこの民の残れる者に、これをことごとく与える。
               8:13 ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ」。
               8:14 万軍の主は、こう仰せられる、「あなたがたの先祖が、わたしを怒らせた時に、災を下そうと思って、これをやめなかったように、――万軍の主は言われる――
               8:15 そのように、わたしはまた今日、エルサレムとユダの家に恵みを与えよう。恐れてはならない。
               8:16 あなたがたのなすべき事はこれである。あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない。
               8:17 あなたがたは、互に人を害することを、心に図ってはならない。偽りの誓いを好んではならない。わたしはこれらの事を憎むからであると、主は言われる」。

               

              では、若者のために祈るのはだめなのか、若者や知り合いのために祈れなくなるではないか、ということを思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、要は祈り方なのかもしれません。皆様、よくご存じの主の祈りでは、次のように書いてあるように思うのですが。

               

              【口語訳聖書】マタイによる福音書
               6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
               6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

               

              若者のために祈りたいと思われたときは、やはり、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」といのり、その若者たちの上に、神の「みこころが行われることを」祈るので、十分なような気がしますし、それを超えて、自分たちの叫びをぶつけることは、下手をすると、神の領分への侵犯(Trespass) すなわち、神への反逆、もう少しいうと、罪となりかねないように思うんですけれどもねぇ。

               

              もう一回続けます。

               

               

               

               

               

              2018.09.15 Saturday

              クリスチャンn世代の若者からのお願い(8) 勝手なお祈りしないで・・・ その4

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                今日は、前回の記事に続いて、勝手なお祈りをしないでほしいの第4回として、祈りの内容についてのお願い部分について、述べてみたいと思います。第1回は、ああしなさい、こうしなさい、という個人に対する実際的な指示になっているという祈りの内容の問題に触れ、第2回は、就職先に関して限られる中で、地元に就職する問題を触れましたが、第3回は、祈りの内容として、進学先の選択に当たっている若者への問題について触れたいと思います。第4回は、若者にとって深刻な、結婚の問題について、述べてみたいと思います。

                 

                あるエピソードから

                そもそも、この連載をするきっかけは、工藤信夫さんが以前お話してくださったエピソードでした。それは結婚を巡るエピソードだったのです。ある熱心なクリスチャンホームに娘さんが二人おられて、どちらか一方の方は早く結婚されたのですが、もうひとりの方は、なかなか結婚ということにならなかったようです。そのような状況の時に、そのご両親様、娘さんの前で食事の度に、「娘に適切な配偶者が与えられますように」とお祈りされたようです。

                 

                娘さんは、とうとう耐えかねて、ご両親に「もう、私の結婚について、食事の度に祈らないでほしい」とお願いされたそうです。

                 

                結婚について毎度祈られる娘さんの立場を思いながら

                ご両親は、娘さんの幸せを心から願いながら、一日三回、食事の度に祈られたのでしょうが、食事の度に、このように祈られた娘さんには、このご両親の祈りは、「早く嫁に行け、行き遅れるな、早く相手を見つけてこい、一体何をしているのだ…」と言われていて、針の筵の上に座らされているような状態であったのではないか、と思います。

                 

                祈っているご本人たちは、善かれ、と思って、そして、真剣に娘さんの幸せを思っておられるからこそ、毎度毎度食事の度に祈っておられるのでしょうが、祈られている娘さんにしてみれば、かなり耐え難かったのではないか、と思います。

                 

                案外難しい地方部のキリスト者の若者の結婚

                これまでもこの記事でお話した通り、地方部では、キリスト者、非キリスト者問わず、そもそも結婚適齢期の若者が限られます。おられないわけではありませんが、かなり数が限られているわけです。そこで、地図化してしまいました。2017年10月で、結婚適齢期と考えられる20−35歳の若年層の人々がどこにいるのかという人数を地図化したのがこちらの図です。

                 

                20−35歳までの人口数の地図表記

                 

                この地図を見ると、一般に言われている適齢期の人の数が東京都272万人でダントツで多く、大阪府、愛知県、千葉県、神奈川県には、結婚適齢期と言われている方の人数はある程度あるものの、それ以外の都道府県では、かなり少なく、少ない順番から言えば、鳥取県、島根県、高知県、徳島県が人数的に少なく、これら4県では、20−35歳人口は10万人を切っているという結果になっています。日本のクリスチャン人口比率が1%以下だとして、それらの都道府県でも等しいとすると、結婚適齢期の人々は、それらの県では、1000人以下となります。実体として、このあたりの地方部では、クリスチャン人口比率は1%以下でしょうし、そのうち、教会に定期的に来ている教会のアクティブメンバーがクリスチャン人口の半分以下であるとすると、500人以下、ということになります。もちろん、この500人のうち、かなり結婚している人が含まれているでしょうから、その県の中での結婚候補者の数は、おそらく200人以下という感じになるでしょう。これは20−35歳の結婚適齢期の人口総数は、男女ともに含む数値ですから、異性となると100人から150人、特に地方部での男性の信徒数の少なさを考えると、全県合わせて、全キリスト者を合わせての数字ですから、自派のキリスト者とか狭めていくと、もう、両手の指を全部合わせた程度ということになるでしょう。

                 

                 

                増える結婚適齢期の外国人比率

                さて、結婚適齢期人数とは言いながら、それがすべて日本人かというと、そうではなくて、大分県と東京都における20歳から24歳の日本人人口に対する外国人の比率や全体の20−24歳人口に対する外国人比率でも、実は9%以上の値を示しています。群馬県は3番目に20−24歳の外国人比率が高く8%以上の値となっており、実は、人口の国際化は、かなりすすんでいます。

                 

                20−24歳人口で見た外国人比率

                 

                結婚適齢期の20−35歳人口で見た外国人比率を地図にするとこんな感じになります。20−35歳人口の外国人比率が大きい東京都では7.4%、群馬県で6.8%、5%台の県は愛知県、三重県、静岡県、富山県となっています。通常、大都市圏の大阪府、神奈川県、京都府、あるいは福岡県が大きいのかと思いきや、今は、そうではない、という結果になっています。これらの自治体に共通するのは、自動車産業や工業機械系の産業が多い都県で、結婚適齢期の20−35歳人口での外国人比率が高くなっていることがわかります。従来であれば、戦前の大陸から強制的に移住させられた、あるいは自発的に移住してこられた外国人の子孫が多い大都市圏や福岡県といった地域での結婚適齢期の外国人比率が大きいかと思いきや、そうでない地域での外国人比率が大きいことがわかります。東京都以外での結婚適齢期の外国人比率が高い地域では、いわゆる定住系の2世3世の外国人が多いのではなく、いわゆるニューカマーと呼ばれる外国人や、南米への移民の子孫の皆さんで、移民先での国籍をお持ちの方々が、労働力としてこられていたり、いわゆる外国人技能実習生の皆さんが多いのではないだろうか、と思われます。

                 

                20−35歳人口における外国人比率

                 

                こうやって改めてみてみると、テレビや政治に関していうと、「すごい国、日本」みたいなことが根拠なく語られており、ある種の『国粋主義的言説』が広がっている背景には、実は、内なる『国際化』がかなり進んでいるからではないか、という感じがします。

                 

                 

                そういう意味でいうと、先日テニスの大会で優勝された大坂ナオミさんのようなダブルと呼ばれるさまざまな文化背景を持つ存在の方が、実はもっと日本に増えていく、ということを私たちは当然のこととして受け止めていく必要がある、ということなのだと思います。

                 

                 

                ファイル:Naomi Osaka (15307217997).jpg

                大坂ナオミさん

                 

                レッドデータブック入りしかねない日本人キリスト者カップル

                こういう状況を考えると、日本人の配偶者候補を探すのではなく、外国人のキリスト教関係者から配偶者を探す方が、配偶者候補を見出せる確率が高い、ということが起きる日は、そう遠くないかもしれません。もう、こうなったら、イスラエルのように、「ユダヤ人の母親から生まれたら、問答無用にユダヤ人である(父親の血統や国籍、宗教は問わない)」という立場を見習って、古の大和の国の風習である母系制社会の体系を復権させて、「日本人キリスト者の母親から生まれたら日本人キリスト者である(父親の血統や国籍や宗教は問わない)」というような理解を生み出さないと、人数の問題から言っても、日本人キリスト者は消滅するとは言わないまでも、環境省のレッドデータブックに載るような、『絶滅のおそれのある社会的存在(絶滅危惧種)』になってしまうかもしれません。

                 

                関連画像

                レッドデータブック

                 

                結婚相手を見つけるのが厳しい日本のキリスト教界の中で

                という厳しい現状が、今の日本にあり、そして、日本のキリスト教の結婚適齢期の皆さんの人口が極めて少数であることを考えますと、いちばん冒頭に紹介したエピソードのように、一日に何度も、気になるから、と祈ったところで、棚から牡丹餅のように配偶者の候補者が降ってきたり、溜水に湧くボウフラのように、配偶者の候補者が湧いて来るわけではないわけです。子供が針の筵であるように感じるほど熱心に両親が祈ったところで、結婚相手を見つけるのは、外国人を含めたところで、案外難しいのではないか、と思います。

                 

                もちろん、祈り求めることに意味がないとは言いません。祈れば、神が叶えてくださる、という信仰を揶揄するつもりは毛頭ありませんが、しかし、現実がかなり厳しいということも踏まえたほうが良いと思いますし、その意味で、どういう意味でかは別として、『適切』な結婚相手が与えられるように祈るばかりでなく、母系社会で見られたような世話焼きおばさんの再興や、アニメサザエさんに描かれた母系社会の再興を目指す方が、絶滅危惧種になりかけている日本人キリスト教徒の存続と、日本の教会文化の維持、保存ないし保全(もはや現状の変容はありえても、高度経済成長のような急速な人数的発展は望めないように思うので、発展を除いた、この3つにとどめておきます)にとって、祈るよりよほど重要なことではないか、と思いたくなってしまいます。

                 

                婿養子に見える状態のマスオさんが描かれるサザエさん http://legend-anime.com/archives/3650 より

                 

                もちろん、両親にとっても、結婚を求めるお若い信徒さんにとっても、『適切な配偶者が与えられるように』祈ることは重要であるとは思いますが、それだけでは不十分のようにも思います。特に男女比率のアンバランスが著しい日本のキリスト教界隈の結婚適齢期の人々とその周辺の方々にとっては。

                 

                水谷潔さんの過去のブログ記事の

                 

                35歳以上の未婚女性、結婚確率2%? 

                 

                あるいは、

                 

                婚活、婚勝!婚喝?(3)「昭和婚幻想・強制終了」の時代を考える

                 

                あるいは

                 

                婚活、婚勝!婚喝?(2)「導き婚に必要な三つの”A”」 」

                 

                さらには

                 

                婚活、婚勝!婚喝?(3)「昭和婚幻想・強制終了」の時代を考える 」

                 

                をご参考いただきたいのですが、祈るだけではなく、社会変化がどうなっているのかを考えて、結婚を希望する人の側でも、結婚を祈る両親の側でも、考え方を変えるなどの新たなマインドセットが必要なのかもしれないなぁ、と思っています。ただ、冒頭のエピソードの方の情報は、要約したような断片的な情報しか入ってきていないので、どうすればよかった、とか、こうすればよかったのでは、というようなことを述べるのは避けるべきだと思いますし、具体的なことは申し上げにくいのですが、やはり、人々の間にイエスを見出していくように、出会う人々の間にイエスを見出していくように、神の神秘を見ようとすることが、祈ることに加えて大事なような気がします。以下に引用するパウロのような神学理解に立ち、現実社会の認識にたっているのでない限り。

                 

                【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
                 7:37 しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで自分の思いを制することができ、その上で、相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、そうしてもよい。
                 7:38 だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい。

                 

                とはいえ、パウロはこの記事の前に

                 

                【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
                 7:36 もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。

                 

                とは書いているけれども。

                 

                一旦このシリーズは、ここで中断し、後日再開いたします。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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