2017.10.28 Saturday

『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (1)

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    今日は福音と世界の最新号’2017年11月号)を読んでみたところ、大変面白かったので、その中から一部を紹介してみたい。この号は、実に面白かった。今月号の特集は、どれをとっても、めちゃくちゃ面白い。ぜひ、旧約聖書とユダヤ人とに関心を持つ人々に読んでもらいたいし、特に、イスラエルベタ押しのキリスト教福音派の人々には、ぜひお読みいただきたい特集号である。特に、現代ユダヤ人、現代イスラエル人を勝手に騙るのは構わないが(なぜなら、言論は自由だから。でもその責任は問われるけど)、実情はある程度アップデートした上で、語って欲しいと思うなぁ。ガチガチの日ユ同祖論は、論外であるにせよ。

     

    第1論文から

    反ユダヤ主義と現代国家としてのイスラエル国

    ということで、今回は第1論文の早尾貴紀論文『人種差別としての反ユダヤ主義とイスラエル国家』からご紹介してみたい。今ではその情熱が全く薄らいだが、1948年のイスラエル国(王国としてのイスラエル国ではない。この混乱がアメリカ福音派には時々みられる)建国、1970年台前半までの中東戦争にイスラエルが勝利し、その生存基盤というか、存在感を大きくした頃には、当時のオイルショック(これまた中東戦争の余波の一つではあるが)による不況(というよりは経済減速)が全世界中でおきて、イスラエルに対する関心が急速にキリスト者と、そうでない人々の間にまで広まって、キリスト者の中には、「いざ再臨か」とかと言った切迫感をもって一部の人々が生きた時代があった。ミーちゃんはーちゃんもやんごとなきおこちゃまであった頃、そのようなある種の切迫感の中で過ごした一人ではある。

     

     

    やんごとなきみやびなお子ちゃま おじゃる丸

    https://news.biglobe.ne.jp/trend/0330/cin_160330_4588405573.html から

     

    このイスラエル建国には、反ユダヤ主義の反作用としてのシオニズムが濃厚に関わっており、また、ナチス・ドイツ支配下でのユダヤ人迫害に手をこまねいて 拱手傍観するのみであったり、あるいは、それに積極的に、また、消極的にせよホロコーストに加担してしまったことになる、連合国側の人々の第2次世界大戦後の良心の呵責も影響しているようにしか思えない。事実かどうかは、知らないが、思想の自由がある以上、ミーちゃんはーちゃんがそう思っているだけの話である。したがって、ヨーロッパ人の良心の呵責云々のミーちゃんはーちゃんの印象は、与太話の可能性が大であるので、読者は眉に唾きして、ミーちゃんはーちゃんの書いた部分をお読みいただきたい。ミーちゃんはーちゃんが書いた部分は別として、今回の論文からの引用部分は、精度の高いはなしであると思っていることは、付言しておく。

     

    この早尾論文では、『ユダヤ人』と呼ばれる人々がヨーロッパ社会でどのような人種的まとまりを持つ人々として認識され、さらに同定されていくその過程と、その中での血縁関係でのユダヤ人の区別というか差別が存在したこと、それが、非ヨーロッパ人としてのいわゆるブラックと呼ばれるアフリカ系諸国民への定位に果たした役割を明らかにする。本論文は、ヨーロッパでの半ば中途半端なかたちで定着した流浪の民としてのユダヤ教の人々、ユダヤ人がヨーロッパ社会の中で位置づけられていく中で、彼らは、ボグロムやホロコーストといった悲劇に巻き込まれていく。そして、ゲットーに押し込まれ、事あるごとに反感の対象にされる。漸くパレスティナ(ペリシテ人の地と言うくらいの意味)に第2次世界大戦後、定着しかけることができたと思ったら、北から南から軍隊がやってくるわ、警備を過剰にしたら、パレスティナ人の一部過激派からは、爆弾投げ込まれるわ、ミサイル打ち込まれるわ、みたいな状況になっている。この背景には、イスラエル国という近代国民国家自体が、ユダヤ人国家といえるわけでもなく、そうなったのは、過去のわずか70年未満に取った政治的経緯の結果であることを示す。イスラエル国の国民の一定の割合は、ユダヤ教からの影響を受けているとはいえ、純粋にユダヤ教的な宗教国家でもないという、一種キメイラ的な国家であることを明らかにするのである。さて、その記述を見ながら、なぜ、このユダヤ問題が、人種問題として提起されるのか、というあたりのことの導入部を少し以下で紹介してみよう。

     

    キリスト教世界の中に反ユダヤ主義の生成の歴史を詳細に見ることは容易なことではない。というのも、キリスト教徒ユダヤ教の差異の中に原因を探し求めることは、あくまで宗教解釈の次元の議論になるが、反ユダヤ主義は人種差別のイデオロギーだからである。「血の思想」に基づく人種差別を、宗教解釈によって説明することはできない。
    またその点に関連して最初に確認しておかなければならない基本的な問題として、しばしば聞かれる俗説にイエスの十二使徒の一人「イスカリオテのユダ」がイエスを裏切って売り渡したことが反ユダヤ主義の原因であるという聖書由来の物語があるが、これは何の説明にもなっていない。というのも、イエスは古代ユダヤ教の改革者としてはなおユダヤ教徒なのであり(初期キリスト教の成立の目安となる新約聖書の編纂は2世紀頃とされる)、この時点でキリスト教対ユダヤ教の対立図式を持ち込むことは決定的に無理がある。(福音と世界2017年11月号 p.6)

    まず、ここで、早尾論文では、ユダヤ問題という一種の人種差別について、「「血の思想」に基づく人種差別」であり、「宗教解釈によって説明することはできない」と自身のご主張の主要論点を述べておられる。日本でこの問題を考えたり発言したりすることがお好きな皆さんは、割とキリスト教関係者に多く(それはアブラハムの信仰に由来する宗教であるということがキリスト教にはあるからと言うのは、新約聖書のヘブル書に出てくるからだが)、たいていは、ユダのイエスの裏切りがユダヤ人否定の根拠として用いられるが、それを「これは何の説明にもなっていない」と、実にすがすがしく、そして、明快に否定しておられる。

     

    もし、裏切ったユダがユダヤ人だったからユダヤ人は迫害されるべき、というのなら、実際に手をかけたのはローマ人であったし、パウロに至っては、自分がユダヤ人であることを誇っていいなら、自分はガマリエル門下生で、パリサイ派だ、といっている。確かにローマ市民権は持っていたが、彼は母親がユダヤ人女性であったようである。ちなみに、ユダヤ人は母親がユダヤ人であることが重視される。この辺を勘違いしている日本のキリスト者はかなり多いように思う。ユダヤ人であるかどうかに関して言うと、不確実性の強い父系より確実性の強い母系なのである。

     

    そんなことを言ってしまえば初期の弟子たちは、ユダヤ人ばかりであるが、ペテロにいっては、最終的には悔い改めたとはいえ、鶏がなく前に三回「イエスなんてやつはオレっち知らないもんねぇ」とか否定して、裏切りまくっているのである。たしかにイエスを当時の官憲や有力者に売り渡しはしなかったが、裏切りという点では、あまり大差がないように思うのは、ミーちゃんはーちゃんの理解力が不充分であるからであろう。

     

    エル グレコ作 ペテロの改心

    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:El_Greco_-_The_Repentant_St._Peter_-_Google_Art_Project.jpg

     

    そして、そもそも、初期キリスト教は、当時のユダヤ教のシナゴーグで人々が集まっているところにちょこちょこっと、弟子たちが参加して、現地のユダヤ教教会(シナゴーグ)に参加している異邦人(外国人)相手に、「チミたちが読んでいる聖書で預言されていた人と思われる人が、イスラエルでちょっと前まで存在しておられて、そして(十字架にかかって死んで)、死者の中から復活したのだなぁ。チミら知らんだろう」と言い放ったかどうかは定かではないが、異邦人の改宗ユダヤ教徒相手にイエスのことを話したのであって、ある面、使徒時代くらいまでは、ユダヤ教の世界での存在のなかで、なんか、「キリスト、キリスト」というので、どうもこいつら、純正ユダヤ教徒とかなり違っていることを言っている人々ぢゃないか?といった感覚で、当時の人々からキリスト基地外(キリストキリストと狂った様に言う奴ら)とラベルがキリストという人々に貼られたようであり、これが、クリスチャンという語の出発点である。

     

    ところでプロテスタント派の教会の礼拝で、ユダヤ教の名残を見つけるのは、砂漠の中から特定の成分の砂を見つけるようなものなので、その共通性というか名残を見つけるのは、たしかに困難であるが、正教会系の教会に行けば、そのユダヤ教時代の象徴は、少し注意深く見れば、教会のあちこちに見受けられる。カトリックの中での独自の展開の中で、その後の宗教改革のときや、そういうった象徴をとっとと捨ててしまったことにより、今のプロテスタント教会では、それを見出すのができないほどお掃除されている教会が多いし、そういう教会しか見たことがないと、確かに、ユダヤ教とキリスト教は別物と言いたくなり、自分たちは違うのだと言いたくなる気分になる人がいたり、ユダヤ教からの進化系とか発展系だから偉い、とか思いたくなる人が出てくるのは避けられないことだとは思う。進化系が必ずしも良くならないことは、Windowsの短い歴史でも、MacOSの短い歴史でも、まま起きてきたことである。

     

    アブラハム宗教と改心

    ところで、地中海世界における、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという一神教の間での改宗問題は、仏教や日本型宗教、あるいは、神道といった異教世界からキリスト教への改宗とは、かなり違う意味を持っていることについて、次のような記載が早尾論文にはある。本来はもっとあとにあるのだが、ここで先出ししておく。

     

    そもそも改宗は、同じ「唯一神」を抱くこれらの一神教の間では特に珍しいものではない。というのも、『旧約聖書/タナハ』を聖典として共有する「啓典の民」としては、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、イスラームであれ、異なる宗教というよりもむしろ、同じ「アブラハムの一神教」内部での改革運動の結果として分派した「宗派の違い」とさえ言えるからだ。(同誌 p.6)

     

    N.T.ライトは『クリスチャンであるとは』という書籍で、ユダヤ教徒キリスト教を兄弟関係で捉え、イスラームをいとこかあるいは親戚か何かのように記述している部分がある。案外、この3者は非共有部分より、共有部分が大きいようには思う。たしかにクォラーンの叙述と、ヘブライ語版聖書とその翻訳聖書では、創世記伝承に違いは生じているが、基本構造はそのまま維持されている。その意味で、アブラハム宗教という大きなくくりで見ると、宗教のOSは共通で、乗っているアプリやOSのチューニングがかなり違う3台のPCを見ている感じと理解するほうが近いように思う。ただ、OSをいじりすぎて、プロテスタントの側では、共通性が見いだせなくなっているのは、先ほど紹介したとおりである。ただ、ムスリムは絶対帰依を言うので、ムスリムから他の宗派と言うか宗教に移籍すると、あとは死が待っていることになるらしいが。それもまぁ、キリスト教徒やユダヤ教徒で宗祖にいらんことしたやつがいた結果であるらしいけど。

     

    レコンキスタという現象

    もうちょっと、早尾論文の前後をずらして話をしてみたい。それは、レコンキスタというスペインでおきたことで何がユダヤ人たちに置きたのか、ということである。レコンキスタは、イスラム帝国の一部がスペインに北アフリカとスペインの間のダーダネルズ海峡を渡ってイベリア半島に流入した。そのイスラム教徒の皆さんがイベリア半島で定着していたのを、キリスト教側が追い落とし、と言うか、この日までにこの地域から出て行け、と期限付きでキリスト教側が、ムスリムとユダヤ人に対して宣言し、これらの人々をイベリア半島の一部から追放したのである。つまり、イベリア半島のキリスト教国、すなわちキリスト教純化思想を持った王制国家が、ムスリムなどの異教徒、そして、なぜだか当時のユダヤ教徒も、非キリスト教徒であると判定したため(まぁ、十字軍や当時の海賊行為との関わりもあったのだろうが)、イベリア半島から追放されることを選ぶか、改宗を迫られるというの憂き目にあったのである。

     

    ところで、先にも述べたように、ムスリムの場合、キリスト教への改宗は、死を意味した。従って改宗ということはなかったようである。しかしイスラム教徒には、アフリカやアラビアにイスラム帝国があったので、ダーダネルズ海峡を渡って、アフリカに帰るとか地中海を浸かって、アラビアに行くという選択はムスリムの皆さんにはまだあったが、ユダヤ教徒あるいはユダヤ人には行くところがない放浪の民状態になり、半ば強制的に強いられるかたちで所払いされてしまったのである。

     

    その辺の事情について、次のような記述がある。

     

    ところが、強制的かつ集団的な改宗となると、事情は一変する。改宗によってキリスト教徒になったものは、スペイン語で改宗者を意味するコンベルソと呼ばれてきたが、数十万人に達するイベリア半島のユダヤ教徒たちが強制的かつ集団的にキリスト教に改宗させられたとなると、まずは、その改宗そのものに、すなわちキリスト教への信仰心に疑念が差し向けられる。(中略)結果、表向きだけは改宗した「隠れユダヤ教徒」を実際に生み出すことになった。彼らは、キリスト教社会からは、侮蔑的な『豚』という意味で「マラーノ」と呼ばれた。

     

    (中略)

     

    ここに(コンベルソとマラーノの両者の見分けのつかなさ)初めて、信仰に基づく「ユダヤ教徒」ではなく、「血の純血」思想に基づく「ユダヤ人」と言う概念が発生する。もちろんここで言う「血」は、生物学的な血液のことでなく、あくまで「イデオロギーとしての血」であるは強調しておきたい。(中略)改宗がユダヤ教徒集団全員に強いられたことによって、血が変わらない「元ユダヤ教徒集団」が作り出された。個人的な回収であれば生じなかったはずの「血の異なる人種集団」がここに生じたのだ。これによって、仮に祖先の代で改宗していたとても「あのユダヤ人コミュニティ出身のユダヤ人」と言う人種的規定がその子孫にまでつきまとうことになった。
    すなわち、レコンキスタがもたらしたものは、イベリア半島のキリスト教支配だけでなく、その内部に潜む人種的マイノリティ集団としての「ユダヤ人」でもあったのだ。(同誌 p.7−8)

    ここで、早尾論文では、隠れユダヤ教徒という言葉を使っておられるが、これは、実に適切な表現ではなかろうか、と思う。隠れユダヤ教徒の場合は、意図的にユダヤ教徒であることを選択するということであるから、まぁ、下手をしてバレたら、ろくでもない目にあうことになる。その覚悟の上での選択だったのだろう、と思う。ところが、仮にコンベルソの皆さんのように、誠心誠意転向しても、まぁ、宗教とは個人の信念システムとかなり強く結びついているので、「改宗した」と表明したとしても、なかなか信じてもらえず、ギクシャクはする事が多いとは思う。さらに、誠心誠意、真性の改心をしたとしても、キリスト教徒の側から、なかなか、信用してもらえないことは、冤罪事件の被害者というか、加害者と間違えられた冤罪で訴えられた人が、法廷で無罪が確定しても、なかなか信じてもらえないこととよく似ている。いずれにしてもろくでもない目が待っていたのではないか、と思うのだ。冤罪との類似性で言えば、まさにオウム真理教事件のときの河野さんという方がそのような被害に合われた方である。世間だけでなく、マスコミの一部が率先して、河野さんについてのかなり詳細な追っかけをしていたように思う。このように、人がすることは、どこの国でも同じであるし、日本では同様のことが第2次世界大戦中にキリスト者に向けて、発生したように思う。

     

    ムラーノ(豚)とユダヤ人を呼ぶこと
    ところで、ここで、ムラーノという言葉について考えてみたい。最近でこそ、イスラム教徒の生活規定として、ムスリムと食事規定との関係についての理解が広まってきたが(本来ハラールは、個人が信仰によって決めれば良いことであるらしいので、政府による規制を一律で包括的に定めるのは、イスラム法的にいかがかという意見があることは記憶されるべきである)、ユダヤ教でも、食事規定(コシェルとかコーシェルとか呼ばれる)は律法(トーラー)にも記載があり、豚は食べないし、汚れた動物として指定されている。放蕩息子が豚の世話をしているということは、ユダヤ人としてはありえないことであり、豚の世話をさせられているということは、本来ありえないことなのであり、彼は異邦人同様に落ちぶれたものとして描かれているのである。

     

    放蕩息子の息子くんのように、世話をすることすら汚らわしくあり得ないはずの豚(マラーノ)という名前を付されたユダヤ人の心境は想像するにあまりがある。マラーノと呼ばれながらも、それでも生きていくことを選んだユダヤ人たちの思いを考えると、非常に複雑な気持ちがする。ちょうど、キリシタンと呼ばれ、揶揄されながらも極東の島国で行きようとした人達の姿と重なる。しかし、こういう記述を見ると、結局日本型宗教であろうと、ユダヤ教であろうと、人は自分とちょっとでも違うと思えば、いとも容易に他者に対してシンジられないくらい苛烈になれるのであり、洋の東西、宗教の違いは関係ない。東洋的な仏教だと平和かというと、まさにその東洋的な仏教徒が、ロヒンギャと呼ばれるムスリムたちをアジアの南の方の国では迫害しているのである。実に残念なことであるが。仏教だから平和、キリスト教徒だから平和、ムスリムだから平和、ということにはならないことを、我々はもう少し冷静に見つめたほうが良いかもしれない。

     

    それで、レコンキスタが何を生み出したか、というと、早尾論文は次のように書く。「レコンキスタがもたらしたものは、イベリア半島のキリスト教支配だけでなく、その内部に潜む人種的マイノリティ集団としての「ユダヤ人」でもあったのだ」。つまり、レコンキスタによって、ヨーロッパ(少なくともイベリア半島)での被差別対象集団として位置づけられた民族がユダヤ教徒ないしユダヤ人であったし、それはヨーロッパ社会の中での人がしたがらない仕事をするしかないマイノリティの人々として、社会的に位置づけられた、ということができよう。
     

    ((((次回へと続く)))))

     

     

     

     

     

     

     

     

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    2017.10.30 Monday

    『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (2)

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      今回も前回に引き続き、福音と世界の第一論文である早尾論文「人種差別としての反ユダヤ主義とイスラエル国家」から紹介してみたい。前回の論文では、レコンキスタがイベリア半島に生活していたムスリムの皆さんに対する影響をもたらしたばかりでなく、ユダヤ人の中にもコンベルソ(いわゆるキリスト教に改宗したユダヤ人)と呼ばれるユダヤ人と、ユダヤ人にとって実に屈辱的な故障である豚、ないしムラーノと呼ばれるユダヤ人というかたちの差別が生まれたことをご紹介した。ユダヤ人に対する差別と、さらにそのユダヤ人の中での差別が生まれたことをご紹介した。

       

       

       

      1492年という記念すべき年号とレコンキスタ

      我々は、レコンキスタがあったことくらいは、ミーちゃんはーちゃんでも、高等学校時代の世界史の教科書で学んだことはあるが(昔は工学部死亡者であったので、このあたりで知識は留まっている)、世界史を大学受験の科目とし、その中でも記述問題として取り組んだ人でないと、レコンキスタの終了年というか完結した年号をあまり正確には言えないのではないだろうか。

       

      この1492年は、コロンブスがアメリカに向けて出港した年号であることは我々は案外良く知っているように思う。なお、アメリカの子供向け番組では、ギャグとして、本来はインドを目指して出帆したにもかかわらず、事前にコロンブスがアメリカに行けると思って出港したかのような描き方になっているところが、アメリカ人の精神性というか諧謔を含んでいるようで面白い。
       

       

      セサミストリートでのカーミットがニュース速報としてコロンブスの出航を伝える模様

       

      レコンキスタの完成は、しかし実はその外部にもう一つ別の人種差別を生み出すことになった。1492年という年号が世界史で持つ決定的な意味は、コロンブス船団によるアメリカ「新大陸」の「発見」(到達)にあることは言うまでもないだろう。ただ、このコロンブス船団が、レコンキスタを完成させたスペインから、ユダヤ人追放令の期限を迎えた日に、多くのユダヤ教徒船員によって出発したということは十分広く認識されていない。じつはいわゆる『大航海時代』は、追放されたユダヤ教徒たちが避難移住先を持たないために、新世界に安住の地を探し求めたことによって始まったのだ。(p.8)

       

      上の記述にあるように、このコロンブスがインドに向けて出向した日付こそ、イベリア半島からムスリムとユダヤ人がイベリア半島からでていく最終期限として設定された日付であった。そして、上に紹介するようにこのコロンブスの船団の中に、ユダヤ人の乗組員がいたらしいということが本論文で触れられていた。実際、どの程度の数がユダヤ系の乗組員であったのかは、調べられたら調べてみると面白いと思う。その能力は、ミーちゃんはーちゃんにはないけれども。

       

      その意味で、レコンキスタのときも、第2次世界大戦中のホロコーストのときのように、庇護してくれるユダヤ人国民国家はなく、戸惑い、逃げ惑う中で、まさに最後の希望(The last resort)としてコロンボ(コロンブスのイタリア語風の読み)の船に乗って新大陸に逃げ出した人々もいたのかもしれない。

       

      コロンボ警部(コロンブスのイタリア語名から来ているらしい(なお、コロンブスはイタリア人)
      http://www.tvguide.com/tvshows/columbo/tv-listings/100092/ より

       

       

      ヨーロッパとその延長世界で現在までも続く2つの差別
      ユダヤ人差別とアフリカ系住民差別
      コロンブスのアメリカ新大陸の発見というよりは、ヨーロッパ人とカリブ海諸国の人々との遭遇により、スペインとポルトガルは、その支配する植民地の領域を相争っていく。その結果、「西経46度37分から東経142度あたりまではポルトガルの領土と言うか植民地と言うか支配して良い領域、それ以外のところはスペインの領土というか植民地にしてよい領域にしようねぇ」とローマ教皇の仲介によって定められることになった。その植民地化してよい領域としては日本は、ポルトガルの支配下に入る可能性がある土地であった。それが故に、鉄砲を持ち込んだのは、スペイン系ではなくポルトガル系の商人であった。これは案外重要な世界史的現実だと思うのだが、日本史の世界ではあまりそのあたりのことをまともに聞いたことが無い。

       

      〈世界史〉の展開に目を向けると、「1492年」という年号が決定的な意味を持ってくる。この年号に象徴される二つの世界史的出来事は、外形的には異なる様相を持つ二つの別々の人種主義を生み出しつつ、しかしその二つの人種主義は必然的な相互関連を持っていた。
      第一の出来事は、長くイスラーム統治下にありつつ、ムスリムとユダヤ教徒イスラム教徒が共存していたイベリア半島「アル=アンダルス」において、1492年、キリスト教が再征服(レコンキスタ)を果たすとともに、ムスリムとユダヤ教徒に対して「追放令」を出したことに端を発する。(中略)しかし、ユダヤ教徒の場合、大量のユダヤ教徒移民を歓迎するような「ユダヤ教国」は存在しなかった。(同誌 pp.6−7)

       

      ところで、このレコンキスタの結果、イベリア半島から去るように求められたムスリムたちは、北アフリカ、中東のムスリム帝国の各地へと移動していく。しかしながら、ユダヤ人はキリスト教に改宗するか、あまりそのようなことをうるさく言わない地域にほそぼそと展開していくことになる。というのは、「ユダヤ教徒の場合、大量のユダヤ教徒移民を歓迎するような「ユダヤ教国」は存在しなかった」からである。改宗しないことを、あまりうるさく言わない地域とは、ローマから見て辺境であったり、その他の理由のためにローマの教皇庁のいうことをあまり気にしなくてすむ都市国家の国々であった。

       

       ところで、イタリア半島の付け根にベネツィアという都市国家がある。今ではイタリアの主要都市の一つだと思われるかたがおおいであろうが、当時のベネツィアは地中海貿易での成功を背景に、地中海世界の国際決済通貨(今で言うドルとかEUROとか、昔ならポンド)として利用された通貨であるデュカードを発行していた国である。そのベネツィアという海洋国家は、ローマ法王がベネツィアに言うことを聞かそうとして、度々破門宣言がだされた。あんまり何回も出したら、そもそも「破門」の価値が下がるのだが、実際にベネツィアには破門宣言が何度も出され、その度に、破門宣言の価値はやはり案の定下がったようだ。破門宣言が出ても、ベネツィアでは一定程度の市民生活が過ごすことは可能であったようである。

       

       そして、ベネツィアには、当時の出版センターのような側面が有り、当時アルド社を始めとした出版社により、ルネッサンス文化の基礎となるような書籍がベネツィアでは量産体制にあり、新しい文化を形作るような書籍が出版され続けたようである。そうなると、このあたりも、亡命ユダヤ人の流れ着く先になる。

       

      ベネツィアあたりに流れ着いたユダヤ教徒が、文化的なことをしたいと考えるキリスト教徒の求めに応じて、トーラーやネビーム等のヘブライ語テキストを持ち込み、家庭教師のようなかたちでの教育(昔は教育とは、家庭教師というかチューターでするのが当然であった。未だに、英国などの古い大学では、このあたりの精度が行きている)や、ヘブライ語テキストの印刷をできるだけスクロールに近い形でやろうとしていたらしい。このあたりは、昨年のユダヤ思想学会でのご発表があったし、そのときにも手島イザヤ先生がご公演しておられたし、関西凸凹神学会でもお話をお伺いしたことがある。ヘブライテキストに関しては、コデックス版とスクロール版に考え方の相違があり、スクロール版の旧約聖書がヨーロッパに持ち込まれた意味というのは、どうも、宗教改革を考える際に念頭に置いておいたほうが良いようである。

       

      このルネッサンス前期あたりのテキストへの関心の深さなども、テキスト中心主義を採用することになる宗教改革の遠景なのか、背景なのかはよくは知らないが、宗教改革に対してかなり影響していることを考慮しなければならないのではないか、ということのようである。

       

      余談になってしまったが、ユダヤ人差別の問題は、このレコンキスタの完成、すなわち非キリスト教徒のイベリア半島からの追い出しによって、定位されていくことになる。

       

      レコンキスタの結果生まれたユダヤ人という存在

      それで、早尾論文の話に戻したい。レコンキスタの結果生まれたのは、勿論、イベリア半島でのキリスト教国ではあったが、それだけではなかったと早尾論文は指摘する。そのあたりのことについて、同論文では次のように指摘する。

       

      アメリカ大陸の植民地のプランテーションや鉱山で不足した労働力を補うために導入されたのが、アフリカ大陸からの奴隷労働者であった。アフリカ先住民は、一目瞭然なその肌の黒さによって、プランテーションや鉱山労働者として管理するのに便利な存在であった。すなわち「ブラック=黒人」と言う呼称は、単に肌の黒さを示すだけではなく、奴隷であることを指示するものであったのだ。(同誌 pp.8-9) 

       

      このレコンキスタの結果、早尾論文が指摘するように、大航海時代が実質的に始まり(この部分は省略した)、そして、この大航海時代には、ポルトガルは、ラテンアメリカ諸国で、ブラジルのあたりでその拠点支配をする一方、スペインは先にも述べたトルデシリャス協定を根拠に、カリブ海諸国を始めとする、ラテンアメリカの大部分の領域に進出する。両国とも、そこで、現地のインディオを労働力としていくとともに、それだけでは労働力が不足するため、アフリカから一応は銃との交換で入手した一種の交易の形を取りながら、当時の極めて安価な労働力であるアフリカからの人々を強制移民させることになる。

       

      つまり、レコンキスタによって、単純労働力としてのアフリカ人がイベリア半島の両国の支配する植民地を中心とした社会の中に組み入れられ、単純労働力であるがゆえにその能力とは関わりなく、社会の中で差別される存在として定位された。また、イベリア半島内では、その改宗を疑われ続けたマラーノと呼ばれるユダヤ系市民が差別され、ゲットーなどに押し込まれることになったのである。つまり、かなり簡略化(高単純化してよいかどうかは議論があるが、わかりやすくまとめると)、以下の2つの人種主義が生まれたのではないか、というのが、早尾論文の主張である。

       

      ヨーロッパの外なる人種主義 (アフリカ系奴隷)
      ヨーロッパの内なる人種主義 (ユダヤ人問題)

       

      この「ブラック=奴隷」という概念は、英国でも、また、もともとその植民地であった、アメリカでも継続される。特に黒人の場合は肌の色が記号となり、わかりやすい記号であったため、現在もなおそのような固定概念で割りと単純に物を語る人々がおられ、特にアメリカの極端な白人至上主義者の皆さんとかは、白人は優等民族で、黒人は奴隷の身分であるべきだ、とかろくでもないことを公式に発言してはばかられない方は、現在でもおられるように思う。実に残念なことだが。

       

      開放のはずが一周回って排斥に

      フランス革命は、自由、平等、博愛を謳い上げ、すべての人々が平等であるという希望を人々に抱かせたし、その理想は今でも「レ・ミゼラブル」が映画化されるほど、当時の人々の精神を鼓舞するものであった。いわゆるアンシャン・レジームからの開放を、本来は国民国家の成立とともに、ユダヤ人を含むはずのすべての人々に約束するはずであった。そして、この際に、ユダヤ人も普通の市民扱いされるかと思いきや、どうもそうでなく、かえって、自分たちが排斥される状況に直面する。そのあたりについて、早尾論文では次のように記述する。

       

      「血」の思想、「血の純血規約」によって人種化され区別=差別されたキリスト教徒ヨーロッパ人とユダヤ人とは、フランス革命による市民社会・国民国家の展開の中で、人種主義としては第二弾会へと進んでいった。(中略)身分性が廃止されすべての国民が平等な市民権を持つという国民国家の思想は、ユダヤ教徒もキリスト教徒と同様に、その信仰に関わらず同じ市民権を有する国民とすべく、ユダヤ教徒専用居住区「ゲットー」から開放しようという方向に動いたはずだった。しかし、これはユダヤ人差別を根強く残す勢力による強い反発を生み、19世紀ヨーロッパ各地の市民革命の展開とともに「ユダヤ教徒開放論争」をへて、最終的にはユダヤ教徒を非国民として排斥する主張が優勢となり、それを正当化する人種主義が発達した。(同誌 p9)

       

      ここで書かれている状況以外にも、似たような事例としてドレフュス事件というフランス史上有名な事件があるが、フランス陸軍将校であったドレイファス大尉が出自がユダヤ人であることを根拠にスパイ活動に関与したという冤罪で、収監されてしまうという事件である。そして、その余波としてフランス各地で、ユダヤ人排斥運動がおきたらしい。

       

      ここでは、フランス革命がアンシャン・レジームの打倒という以上、本来ユダヤ人をゲットーから開放するはずのものであったし、当然のごとくユダヤ人はゲットーからの開放を期待したフランス革命の結果、結果として、ユダヤ人は非国民扱いされることになったと言う。まぁ、この種のことはヨーロッパでは度々起こってきたので、ユダヤ人の人々のかなりの部分にとっては、またか、ということだったかもしれないが、人間とは期待するとうまく言って当たり前、期待を裏切られたときの落胆は大きいものなので、中には絶望的な気持ちになったユダヤ人もいただろうとは思う。

       

      まぁ、似たようなことは、隠れキリシタン迫害とか、1942年から始まる対英米戦争中のキリスト教に対する様々な圧迫というか、一部には迫害と称するのがふさわしいような状態も、人種主義ではないものの我が国でも発生した。個人的には、そのような圧迫とか迫害に合うことは、無いほうが無論良いが、それでもまたか、というくらいの数百年単位で物事を見る生き方がしたいなぁ、と思っている。

       

      反ユダヤ主義の頂点としてのホロコーストとエセ科学主義

      科学的根拠も妥当性がかなりいい加減でも、エセ科学というのは人々の間からなくならない。現代のエセ科学の代表例は、毎朝テレビで放送される星占いであったり、血液型性格判断であったり、中華系では風水だったり、友引とかの特定日に関する理解だったりする。まぁ、色々あることはある。知識の限界、データ処理能力の低さなど、様々な条件のため、ある時代には非常に合理的かつ科学的と思えたことも、時代の変化によって、その客観性、合理性に疑問が向けられているものが多いというのが実情であろう。ただ、すべてのものが非科学的と一刀のもとに切り捨てることはできない部分がないわけではないが。

       

      ユダヤ人差別の問題を考える際に科学的とされたことに関して、同論文では次のように書かれている。
       

      なお、19世紀に始まるこの科学的人種主義のピークは、周知のように20世紀ドイツにおけるナチス政権によるユダヤ人の大量虐殺、いわゆるホロコースト(ショアー)となる。ドイツの文脈においても「ユダヤ人」は、キリスト教徒対ユダヤ教徒よりも、ゲルマン民族対ユダヤ民族のニュアンスを色濃く帯びるようになり、そこに優等民族による劣等民族の支配・追放・迫害を正当化する優生思想も重なり、最終的に大虐殺が置きた。(同誌 p.10)

       

      ラウシェンブッシュという人の『キリスト教と社会的危機』という本があるが、その本の記述の中に、この人種主義の問題につながる優生学の話が出てきて、ちょっとびっくりしたことをこの記述を読みながら思いだした。そして、優生学とか科学的人種主義(どこが科学的ぢゃと、21世紀に生きる我々から、見たらおかしくてしょうがないのだが)は、100年ほど前までは、優生学にしても人種主義にしても大真面目に科学であったのである。そして、日本では、ハンセン氏病患者において、この優生学的概念に基づ着、断種術とも呼ばれる出生制限や英字殺害などに関連する対処が行われたし、ナチスドイツでは、障害者に対しても、劣勢を持つ存在として、ユダヤ人と同様のことが行われたことが知られている。本来人間の世界を豊かにしようとして、そして、その世界を理解しようとするはずであった科学の名を借りた、大虐殺がおきたことの意味を考えざるを得ないなぁ、とこの部分を読みながら思った。

       

      現代の近代国家としてのイスラエルの持つ複雑性とその成立過程

      アメリカのキリスト教関係者でイスラエルをガチ推しする人々がいる。また、アメリカのキリスト教世界からの影響だ、とは思うのだが、日本のキリスト教徒野中の一部にも、イスラエルをガチ推しし、贔屓の引き倒しをするような発言をする方がたもおられる。何度も繰り返すが、言論は自由であるから、何を発言することも自由であるが、現実の実情を知らずに、勝手なことを言うと、恥ずかしい思いを後にするのは、発言者その人であり、その発言のしっぺ返しも発言者に返ってくるだけである。

       

      この手の恥ずかしい発言あるあるの一つは、「イスラエルはユダヤ人のみでできている純血型ユダヤ人による単一民族国家である」という理解がある。しかし、現実のイスラエルはどうもそうではないらしい。これは、本論文以外にも、現地在住でイスラエルの大学で日本語と日本文化を教えておられる先生から直接お聞きし、様々な本「乳と蜜の流れる地から」などに書いてある。

       

      1948年に建国され現在にいたるイスラエル国家は「ユダヤ人国家」であると自らを規定している。しかしこの規定は、国家が実現してもなお揺れ動く不確かなものたらざるをえない。第1に、建国時に追放してもなお先住パレスティナ人(ムスリムとキリスト教徒)が人口の約2割を占めており、規定の外となるアラブ人が「国民」であるという矛盾をはらむ。(中略)第2に、戦時中そして休戦前後にヨーロッパ(欧米籍)からパレスティナに移民してきたユダヤ教徒だけでは、先住パレスティナ人を圧倒する多数派となることができず、1950年代に入ってすぐに中東世界全域からユダヤ教徒の移民を政策的に強行したことが、国家規定を揺るがしている。というのも、中東出身のユダヤ教徒いわゆるミズラヒームの大半は、アラビア語を母語とするアラブ人である以上(東はイラクから西はモロッコに至る)、イスラエルのユダヤ人口を増やすという目的が、しかし同時にアラブ人口を増やす結果にもつながっているからだ。

      (中略)第3に、ムスリム・キリスト教徒のパレスティナ人をそれでも少数派に押さえ込むために、1980年台からは、旧ソ連とエチオピアの政変に乗じた経済移民をそれぞれ約120万人と15万人受け入れたが(当時の総人口を二割も増やした)、旧ソ連からの移民のうちユダヤ教徒は約半数で、残り半数は親類にユダヤ教徒がおりかつ後で改宗するという名目で移民を認められた実質キリスト教徒である。また、エチオピア移民の殆どがエチオピア正教のキリスト教徒である。(p.11)

       

      読者の皆さんはもうお気づきであると思うが、イスラエルではアラビア語が確実に現役であるし、公的な道路標識などや公的機関の表記の大半も、ヘブライ文字とアラビア文字が併記されているようである。ミーちゃんはーちゃんはイスラエルに行ったことがないのでよくわからないが、最下部で紹介した山森みか先生の「ヘブライ語の世界」で、アラビア語も併用されていることを初めて知った。つまり、10年ほど前までは、そんなことも知らなかったのだ。このアラビア語が併用される背景には、もともとアラビア語を喋る現地の人が存在することに加え、上で紹介した引用部分にあるように、アラビア世界からの移民を大量に抱えこまざるをえなかった、近代イスラエルの政治的現実があるというのは、今回はじめて知った。


       

      イスラエルの道路の標識(ヘブライ文字、アラビア文字、英語)

      https://972mag.com/how-israel-is-erasing-arabic-from-its-public-landscape/114067/ から 

       

      イスラエルの移民関係の役所の表記(ヘブライ文字、アラビア文字、英語、ロシア語表記)

      このあたりのロシア語表記が見られることを考えると、それだけ近年のロシア移民の多さとイスラエルは多言語社会ということが感じられる)

      https://en.wikipedia.org/wiki/Languages_of_Israel から(ここにはなかなか面白いことが書いてある)

      ロシアからユダヤ人を大量受け入れしたことは、日本でもある程度知られているところだろうが、本論文で先にも触れられているわかりやすい記号としての肌の色が浅黒い人々が多いエチオピアから、経済移民としてエチオピア系ユダヤ人を大量に受け入れていることをご存じの方は、日本のキリスト教徒にどの程度おられるだろうか。その意味でも、本論文は読まれるべき論考の一つだと思ったりもする。

       

      エチオピア正教の聖母子像のイコン (おそらくエチオピア人にとって身近な肌の色として、マリアとイエスが描かれている)

      https://johnbelovedhabib.wordpress.com/2017/03/22/my-intriguing-visit-to-an-ethiopian-orthodox-church-a-first-time-coptic-visitors-perspective/ から

       

      同じ画像でもロシアで制作されるとこのような聖母子像になるらしい

      https://www.pinterest.jp/pin/505951339369247681/

       

       

      本論文のこのような記述を見ると、現実のイスラエル国家は、高邁な理想を掲げながら、そして、現実的なユダヤ民族、ないしユダヤ人のための国家であろうとしつつ、ユダヤ人がとりあえず逃げ込める場所を作るという一種の避難地の建設を目指したとは言えるだろう。とは言え、それを実現するために、結果的にはなし崩し的に、ユダヤ人と思われる人々を世界中からかき集め、無理矢理に近代国家としての体裁を整えた、キメイラ的な国家形成がなされているように思えてならない。ある種の美しく素晴らしく見える理想がこの現実世界で実現されたときの同しようもない醜さというものをここにも感じる。

       

      理想世界には摩擦がないという世界が想定され、ニュートン物理学で想定されるような理想世界である。しかし、現実はそうは行かない。そんな都合の良い世界ではないので、どうしても、現実に合わせて対応していくうちに、一個一個は美しい部品であるとはいえ、その美しい部品を現実対応するためにガムテープで貼り合わせるようなかたちにならざるをえないのかもしれない。その結果、美しいものを寄せ集めた結果は、どうしても、ある種の醜さを持つものになってしまう。

       

      なお、なぜエチオピアなのか、ということであるが、それは、本論文を実際に読んでみてのお楽しみとしたい。案外、とんでもないお話(個人的には荒唐無稽な話あるいはナラティブ)に基づいているが、案外、現実世界が動いている世界の中には、こういうお話(ナラティブ)のほうが説得力を持つ世界もあるということの証左と思えてならない。すべての世界が、とは言わないけれども

       

      本論のまとめ

      純粋なユダヤ人国家という幻想

       

      まず、四の五というまえに、この早尾論文の結論をまず、お読みいただきたい。

       

      この3つの要素を直視すると、イスラエルはその建国時から現在に至るまで、「純粋なユダヤ人国家」という不可能な幻影を追いながら、ますます矛盾を抱え込んでいるといえる。その矛盾を覆い隠す唯一の手段が「ユダヤ人種が存在する」というイデオロギーであるが、いつまでこの人種主義は効力を持つのだろうか。アラブ圏いついてだけみても、アブラハムの一神教の中で、キリスト教徒とムスリムだけはアラブ人だが、ユダヤ教徒はユダヤ人種であるなどという説明にもならない破綻した線引など、シオニスト以外にはそもそも通用しない。あるいは、ロシア人とエチオピア人が(どちらもユダヤ教徒であれキリスト教徒であれ)同じユダヤ人種(の縁)であり、それ故イスラエルに住む権利がある」としつつ、パレスティナの先住民はキリスト教徒かムスリムである限り本来の国民ではない、などという非論理もシオニスト以外には通用しない。

      最後に付言すれば、こうした破綻をもたらした根源であるヨーロッパの人種主義であれ、その影響下で作られた現代イスラエルの人種主義であれ、「アブラハムの一神教」の観点から見直せば、どれも非論理的かつ非倫理的なものであることは、これまでの整理で明らかになった。(同誌 p.11)

       

      ここでの引用部分の3つの要素とは、ご紹介した、現地にアラビア語話者が一定数いた事、ただただ数合わせのために1950年代にアラブ世界からのユダヤ人のかき集めたこと、近年の政治的混乱に乗じた経済移民としてのロシア系、エチオピア系ユダヤ人の大量流入の容認ということになろうが、先にも述べたように、結局高邁な理念を掲げつつもどうしても、美しいものでありえない現実世界の如何ともしがたい醜さのようなものを生み出してしまう。

       

      そして、個人的にはキリスト教徒であるので、キリスト教が好きだし、キリストが勿論好きだし、キリスト教がいいとは思っているが、キリスト教が何においても一番であるとは現実世界のキリスト教の姿を見ると到底言えないし、案外キリスト教徒が見失いがちな視点として、キリスト教も客観的に外部の目から見れば、あるいは、ものすごい広角レンズで世界を捉えるように見た場合には、「アブラハムの一神教」というその幅広い世界の中の一部であるという側面があることは、忘れてはならないように思うし、そレを忘れた結果起きた事件であるのが、レコンキスタであり、ホロコーストであった、という、この早尾論文でのご指摘も忘れてはならないだろう。

       

      レコンキスタにせよ、ホロコーストにせよ、当時の能力で最大限考えて、合理的と思える理想を実現しようとした結果、多くの悲惨と直視しがたい醜い現実を高邁な理想を語りながら起こしてきたのである。

       

      また、現在のイスラエルも、高邁な理想を語りながら、世界各地からユダヤ人に近いと思われる人々を寄せ集めるようにして、結果として多民族国家風の国家を形成せざるを得なかった現実があるのである。理想とは、そもそも不可能な幻影似すぎず、それを追い回し、それに振り回されるのは、どう考えても無意味なように思う。

       

      高邁な理想を語る人々の理想はたしかに美しいが、それが現実化したときには、いとも無残に醜いものを生み出していく。これは、キリスト教界とて無縁ではない。これが鼻で息する人間の姿なのだと思う。だからこそ、我々は神の憐れみを希うことしかできないのかもしれない。その意味で極端に理想化された理念に振り回されるということは、もうやめたほうが良いのかもしれない。

       

      そんなことを思いながら、本論文を読んだ。

       

      次は、そのシオニズム運動との関連である赤尾論文を読んでみたい。

       

       

       

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      コメント:社会はキリスト教会の理論的基礎となった本。当時の世界に一大ブームを巻き起こしたらしい。

      評価:
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      コメント:大変良い

      評価:
      山森 みか
      白水社
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      コメント:イスラエルの現地事情も面白い

      2017.10.31 Tuesday

      『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (3)

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        今日は第2論文の「ユダヤ教とシオニズムのもつれた関係」と題された赤尾光春論文について考えてみたい。この論文は、ユダヤ社会とシオニズムの歴史的展開を負いながら、日本人が想像するようなシオニズムの関する単純な構造がユダヤ社会の中にあるのではなく、さまざまな社会潮流や社会環境、そして、思想的な影響を概観した論文であり、その意味で、日本におけるキリスト教徒、とりわけ福音派と呼ばれるキリスト教徒の一部が想定する単純な見方では、当然のことながら現在のイスラエルとユダヤ社会について、かなり理解しがたいような多様な動きがあることを明らかにしている。

         

         

        シオニズムに対するユダヤ社会の中での抵抗

         多くの日本人、そして多くの日本人キリスト者は、シオニズムというときにヨーロッパ系ユダヤ人のイスラエルの移住(あえて”帰還”とは書かない。その理由は前回の記事で引用した早尾論文を参照のこと)運動を考えるかもしれない。しかし、その党のユダヤ人の中にも、シオニズムに抵抗感を持つ人々がいたことを、赤尾論文は明示する。

        シオニズムに抵抗を示したユダヤ人は、リベラル派、「同化主義者」、社会主義者、共産主義者など多岐にわたるが、中でも最も呵責なき闘争を展開してきたのは、改革派と(超)正統派を双璧とするユダヤ教の信奉者に他ならなかった。本稿では、改革派と(超)正統派の半シオニズム闘争をめぐる思想的背景とともにその変遷の過程を辿り、ユダヤ教とシオニズムの間で展開されてきた一筋縄ではいかないもつれた関係について概観してみたい。(『福音と世界』 2017年11月号 p.12)

         

        少なくない人々が、この記述に驚くかもしれない。ユダヤ人なのにシオニズムに抵抗する人々がいたという記述であり、それが、改革派ユダヤ人とユダヤ教のトーラーを重視する人々であるウルトラ保守派の皆さんであるという。個人的には、ウルトラ保守派の皆さんこそ、父祖ダビデの地、父祖アブラハムの地にこだわっているのかと思いきや、そうではなかったらしい。この辺の事情は同論文でおいおい明らかになる。

         

         

        改革派ユダヤ人の皆さんと ルーベン・リブリン 大統領

        https://www.jta.org/2015/12/21/news-opinion/politics/how-israels-president-won-over-reform-jews-and-vice-versa

         

        正統派ユダヤ人の皆さん

        http://religionnews.com/2015/03/23/brooklyn-hot-plate-fire-leads-orthodox-jews-re-evaluate-sabbath-safety/

         

         

        ウルトラ正統派のユダヤ人の子供さん(髪の毛のびんを切らない習慣から おさげに見える)

        http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/london-orthodox-jewish-schools-removing-images-of-women-and-the-mention-of-christmas-a6877941.html

         

        まぁ、よその国のことだからほっとくのが当然だが、これらのユダヤ系の人々の中での緊張関係があり、この写真のように並べておいてみると、イスラエル社会の中で、かなり必死で聖書の言葉通り守ろうとする正統派、ウルトラ正統派の皆さんと、世間の動きと一定の関係を維持しようとうとする改革派の皆さんとの違いが服装や髪の毛のお手入れの仕方からわかるのが面白い。

         

        改革派という存在とその特徴

        この改革派についてであるが、次のように赤尾論文では書かれている。

         

        ドイツの改革派ラビたちは、プロテスタンティズムの影響も受けながら、「家では良きユダヤ教徒たれ、表では良き市民たれ」というモットーの下、ユダヤ教信仰を徹底的に合理化すると同時に、その普遍的要素を強調した。ヘブライ語聖書に代わるドイツ語訳聖書の導入、戒律の細目や食事規定の廃止など、その改革は多岐にわたるが、思想的に最もラディカルだったのはメシア信仰の否定、すなわちシオンへの帰還待望そのものを放棄したことだった。この決定は、居住国家から「二重忠誠」の嫌疑をかけられることに対する懸念にも端を発していたが、半永久的に先送りにされた救済への期待は今や、居住国家におけるユダヤ人開放を通してこそ真に達成されるると合理的かつ世俗的に再解釈されたわけである。

         19世紀末になってアメリカへと中心を移していた改革派は、1885年にピッツバーグ綱領を採択し「我々は自分たちをもはや民族とみなさず、(中略)パレスティナへの帰還も・・・ユダヤ人国家に関するいかなる律法の回復も期待しない」と謳い、伝統的なユダヤ教の核ともいえる信仰箇条すら否定した。(同誌 p.13)

         

        このような記述を見ると、キリスト教における改革派がキリスト教の儀式や様々な祭具などを否定し、時に十字架を掲げることを含めて否定し、そして、キリスト教信仰を「徹底的に合理化すると同時に、その普遍的要素を強調した」を目指して徹底的に改革し続けようとするのが改革派の姿なのだろうなぁ、とみると、確かに、プロテスタントの宗教改革の影響を受けた運動が、ユダヤ教の改革派であることがよくわかる。キーワードは、合理化普遍性への強調である。まさに、このことばは、科学性と普遍性友置き換えがある程度可能で、科学性と普遍性と言うか、単一的な物事の味方を重視した近代社会に適合的な集団がユダヤ教改革派であり、キリスト教における改革派であったと思うと、確かに親類関係にあるというのはよくわかる。

         

        そして、この文章の中でのもう一つの重要なキーワードは、 「二重忠誠」 の問題である。ルター先輩の二王国論(おそらく、神の国としての教会、世俗政治国家としての王国の並立とその関係のある程度の断絶 )ではないが、極限では、この二王国論が世俗国家の側から疑われることがある。日本の戦争中に起きた一部の福音派(ホーリネスやキリスト集会派)にたいする政府からの圧迫は、彼らがこの問題を理屈で説明して、自分自身において、そもそも回避しきれなかったがゆえに、起きたという側面が強いだろう。つまり、世俗国家は世俗国家、キリストはキリストと そこまで割り切れるほど、複雑なのか単純なのかは知らないけれども、その辺の割り切りができなかった不器用な人たちが、あるいは素朴な人たちが、この世俗国家と自らの信仰におけるキリストの王権との関係におおいてうまく乗り切れなかった、ということなのだろうと思う。おそらくその朴訥さが、うまく乗り切れない原因なのではないか、と思う。この問題は案外重要な気がする。平和憲法を擁護するための議論することよりも、自分たちとして、この「二重忠誠」の問題をどう神学的に処理可能なのか、ということの研究のほうがよほど重要だと個人的には思うが。

         

        そして、挙句の果てに、ユダヤ教改革派は、「 パレスティナへの帰還も・・・ユダヤ人国家に関するいかなる律法の回復も期待しない」 、そして、「メシア信仰すら放棄する」に近いことと言ってしまったので、そうなると、基本的に現地の世俗政府に帰属、恭順する同化の道しかなかったのだ。とはいえ、ユダヤ教に祭儀や習慣、あるいは、名前に残るユダヤ系の形跡や痕跡までは消し去れない場合、完全に同化することができず、ナチズムのドイツでは、ゲルマン系市民に狙われ、ホロコーストの犠牲者となっていく。こちらは恭順、同化しようと努力したけれども、それは相手の都合によって、こちらの態度が理解されず、先方の態度がガラッと変えられてしまうという世界史によくある悲劇の一つであったように思う。

         

        そして、アメリカのユダヤ人の間でシオニスト的な理解が広まり、その支持者が拡大していく。そして、米国がイスラエルの独立の事後的に承認する中で、アメリカの改革派ユダヤ人の中でのシオニズム反対運動は下火になっていくことが書かれている。

         

        超正統派(ハレディーム)のユダヤ人の対応

        超正統派ユダヤ人と我々が聞くと、旧約聖書の約束に従い、イスラエルに帰還することが重要だ、ということを強調した人々という印象があるかもしれないが、どうも現実は違うらしい。彼らの神学的理解が、人間の力によるイスラエル帰還ということにNo、否、ニェット、Nonを突き付けたようなのだ。そのあたりの背景に関して、同論文は次のように書く。

         

        ドイツや東欧・ロシアの正統派がパレスティナへの移住を推進したシオニズムに反対したのは、第1に、シオニズムの企てに見られた世俗的かつ政治的な性格が彼らが報じた伝統的なメシア待望論と真っ向から対立したことに起因する。(中略)

        伝統主義的なユダヤ人にとってユダヤの民とは第1に神の選民であり、したがって神やトーラーとの関係を描いたユダヤ人などありえず、ましてや戒律を遵守しないユダヤ人による聖地の支配などもってのほかであった。(中略)

        超正統派の多数派が「ユダヤ人国家」に対する非本質的アプローチをとることによって、伝統的な反シオニスト・イデオロギーを著しく弱めることになったとすれば、少数派はイスラエルに対して本質主義的なアプローチをとることにより、イデオロギー的な一貫性を保ってきた。すなわち異教徒にも等しいユダヤ人が政治的ヘゲモニーを握る国家とは、神に対する反逆以外のないものでもなく、したがって「真のユダヤ人」たるものはその解体に向けた努力を惜しんではならない、という戦闘的な立場である。(同誌 p.14)

         

         

        ウルトラ正統派であるがゆえに、旧約聖書にある記述通り、神の主権により、イスラエルの民が神に率いられて、神権国家を建設するという立場にウルトラ正統派の人々は立つので、タナッハ(旧約聖書)の権威性を認めないような「異教徒にも等しいユダヤ人が政治的ヘゲモニーを握る(イスラエル)国家とは、神に対する反逆以外のなにものでもなく、したがって「真のユダヤ人」たるものはその解体に向けた努力を惜しんではならない 」ということになるらしい。その意味で、彼らにとって、現イスラエル国は、由緒正しく、紙に認められた国家ではない、ということになるらしい。

         

        ところで、「聖書にある記述通り」という表現は、どこかで聞いたようなセリフだが、キリスト教にもこれに対応する言葉があって、それが、現在あちこちで、キリスト教、ムスリム世界、あるいは日本型新宗教の世界でも、宗教にかかわらず、便利なラベルとして用いられる原理主義である。本来のキリスト教コンテキストとしては、原典原理主義、聖典原理主義とすべきではないかと思うが、そんなまどろっこしい表現を使うのはマスコミの皆さんは洋の東西を問わずお嫌いのようなので、簡単に原理主義と何でもまとめて読んでしまい、それが一般に広がるからかなわない。ただし、どうも何らかの権威性、とりわけ、神とか聖書とかの権威性を異様に重視する、この系統の人々はどうも現実の問題等のはあまり関係しないとか、あまり考えずに済む関係だと思われるが、一般に過激化しやすいようで、すぐ、次の記述のような行動に出る人々が少なくないようである。その神とか、聖書とかを持ち出して、正義を神ならぬ人間が振り回す行為というのが、ひょっとすると、神の主権性を侵害することになるとは、このタイプの方々は、神に近しい方々であるためか、あまりお考えにならないように思えてならない。パリサイ人と取税人の祈りのたとえ話ところで、イエスが言われたことを考えると、イエスは正義を人間が振り回して良い、とはお考えになっておられないように思えるが。

         

        そして、捕囚に関する次のような印象的な記述もあった

        すなわち、世俗的な民族国家の再興を神による救済という文脈から切り離し、イスラエルの建国が宣言されようとも、またイスラエルの地に居住していようとも、依然として捕囚は続いていると解釈したのであろう。(p.16)

         

        この捕囚問題は、人間を、そして、ユダヤ人を神との関係で考えるときに重要な概念である。人間を捕囚から解放しうるのは神のみであるという立場に立つのか、それは人間にも可能であるという立場に立つのか、という問題ともつながる。N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の中で、すべての人間は「諸力としての罪」に捕囚されていて、そこからの開放が必要だという主張の記述があり、その諸悪からの開放が実現できるのは、紙だけであるということが書いてあるが、それと同じ構造で、人間的な力による多民族からなる地域の中でとどまるような捕囚からの開放ができるのは、人間ではなく、神だけであるというのがウルトラ正統派のご主張であり、政治的ヘゲモニーの結果、人間的な努力によって存続させているような世俗国家としてのイスラエルなど、世俗国家としてのイスラエルが仮に建国を主張したところで、それは、トーラーにおける神ご自身が約束されたとおりの世界の実現につながってない、という立場なのだろう。

         

        ところで、ウルトラ保守派の人々の生き方について、次のような記述も実に印象的である。つまり、秦のイスラエルは世俗国家としてのイスラエルを認めないということになるらしい。

        彼らはまた、多数派とは違い、アメリカなどに住む裕福な同胞たちによる寄付金にほぼ全面的に依存することで、イスラエルの公共サービスや、宗教施設に関する政府の補助金といった恩恵を一切拒み続けている。(中略)ネトゥレイ・カルタ(引用者註 イスラエルの保守強硬派の一つ 詳しくは赤尾論文参照)は、イスラエル国旗を燃やすなどして、ことあるごとにイスラエル国家への反対を表明し、海外でパレスティナ人による反イスラエルデモがあれば連帯を表明するなど、イスラエルの占領政策に対する抗議運動を今なお継続している。(同誌 p.16-17)

         

        イスラエル国家政策への反対デモをすることが、反イスラエル行為をすることやパレスティナ人への支援を表明することが「あなた方の中の在留異国人に辛く当たってはならない」という律法尾を守ることで、極めて聖書的な行動であり、ユダヤ的な理念の実現にもなるという、一種のパラドックスがここで生じているようである。このウルトラ正統派の皆さんは、現イスラエルの国家の正当性を認めておられないので、もちろん上記のように公共サービスを受けたり補助金を受けることもない代わりに、現世俗国家としてのイスラエル政府の法律に従って納税することもなく、軍役につくこともないそうである。これがまた、税金も払うし軍役にも就く(軍役につくことを本来血税というのであって、重税であるために血を絞られるように感じるから、血税ではない)普通のユダヤ人、すなわち非正統派である世俗派や改革派系のユダヤ人からは、わしらの税金と血税によって守られていて、それでいて、守ってもらっている我々やイスラエル政府にたてつくとは、不逞の輩以外の何物でもない、という立場になるらしい。

         

        今回引用しなかった部分には、イスラエルの内省的、政治的な動向を含めて、非常に印象的な部分があるし、その部分は現在のイスラエルの政治情勢を考える際に重要な記述であるので、ご関心のある方は、ぜひとも、書店に在庫があるうち日本号を手に入れてお読みいただきたい。

         

        まとめの部分から

        イスラエル建国の歴史とそれ以前のシオニズムの歴史について、同論文では、次のようにまとめる。本来、反シオニスト運動であった改革派と正統派ユダヤ人たちが、現実のイスラエル国誕生において、どのような対応をとったかの違いにより、現在の環境が生まれているという。

        改革派と(超)正統派を双璧とするユダヤ教内部における反シオニズム闘争はその体制において、ナチス政権の誕生を境に大きく方向転換し、イスラエルの建国をもって「ユダヤ人国家」の樹立を事後承認する格好となった。第2次世界大戦中から戦後にかけて、アメリカ改革派の主流は親シオニストになり、超正統派は政教分離の原則を確立してイスラエルに対して非シオニスト的アプローチをとった(同誌 p.17)

        結局、現実世界との調和を図る方向に聖書解釈の面でも重きがある改革派のユダヤ人の皆さんは、現実世界として、イスラエルという国家が建国してしまった以上、それをあえて無視することもできず、また、現実的合理的な対応として、それを改革はユダヤ人の皆さんは承認するしかなく、もともと国家との適切な関係をとろうとする改革派であるが故に、現実的かつ合理的な対応をしようとして現実にあるイスラエル国家を認めるしかなく、おまけに、自分が国籍を置き、市民である自国アメリカの国家が事後承認とはいえ、承認してしまった以上、その存在にあえて反対したり、抵抗したりする意味がないので、アメリカの改革は軽ユダヤ人の皆様は、どうしても親シオニスト的な立場にならざるをえず、神のものではない世俗の国家に覚めた目を向ける超正統派は、そんな怪しげな国家なんぞは、ユダヤ人国家と呼ぶに値しない、と冷ややかな視線を向け、非シオニスト的な立場を取ることになったのであろう。ここでも、ユダヤ社会の分断が置きている。ただ、それがおかしいというふうにはおそらくユダヤ人は考えないように思う。違った立場の人がいるほうが、自民族の生存の可能性を増すということを歴史上、何度もユダヤ人は経験しているため、内部に多様性を容認しながら、生存を図ってきた歴史があるからである。日本みたいに、一億総玉砕とか、一億火の玉になって、なんてできない民族性がユダヤ人の世界には、あるらしいのだ。

         

        そのあたりのことをまず抑えていただいて、以下の部分を読んでいただきたい。

         

        ボヤーリン兄弟が提唱した「ディアスポラ主義」のように、排他的なユダヤ人国家としてのイスラエルの現状に対するラディカルな批判を含んだ言説が広く受容されてきた。こうした批判的言説はリアル・ポリティクスの現場では往々にして無力だが、イスラエルの建国をもってユダヤ史のクライマックスとするようなシオニスト史観の批判や、イスラエルに暮らしてこそ「真のユダヤ人」足りうるといったイスラエル中心主義の相対化を通して、「ユダヤ人国家」をめぐる現状に対して論争的な介入を促すポテンシャルを備えていることも確かである。(同誌 p.17)

        ここで触れられている、ボヤーリン兄弟の「ディアスポラ主義」のような、ユダヤ社会としての一体化と言った動きや、ユダヤ人は一つになろう、とか言ったような動きに反対するような動き、ある種預言者的な存在も含めようとするのがユダヤ的な世界観になるらしい。そういえば、東日本大震災のときには、「一つになろう」ということが言われたが、東日本大震災以降について、日本社会は一つにはなり得なかったのではないか、と思う。

         

        東日本大震災の際の「一つになろう」と言うスローガンで思い出したが、先日、仙台市のはずれの大学で学会が開かれたのだが、今なお震災の被災地の現実を抱え、原発事故の処理が一応にしても終わっていない現実を見ると、日本は、福島の被害を含め「一つになった」といえるのか、ということを考えると、どうもなっていないようにしか思えていない。被災地の痛みを、被災地以外は忘れ、次の新たな九州などの直近の災害の被災地の痛みは覚えるものの、とても、日本として東日本大震災後に一つになった、とはいえない状況が現実にはあるのではないか、と紅葉が美しい、そしてハローウィンの浮かれた気分のディスプレイがされている仙台の街を歩き、翌朝には、仙台市内の聖堂付属のチャペルでの早朝礼拝のときに配られた週報の代祷のなかに、福島原発関係被害者についての記述があるのを見ながら、自分自身がこの代祷のように祈っていないことを反省させられた。

         

        仙台の町外れの学校で出会った金属製のワンちゃんたちの群れ

         

        美しかった池 翌日は雨がざぁざぁ

         

        この雨の中(後に台風接近で結構な雨になった)大学女子駅伝をやったらしい

         

         

         

        次回へと続く

         

         

         

         

        2017.11.04 Saturday

        『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4)

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          個人的に2017年11月号の『福音と世界』は、ツボにはまったので、しつこく紹介してみたい。今回は第3論文の山森みか論文『「ユダヤ人」を巡る議論と相対化の試みーいまイスラエルで語られていること』である。これもまた、いろいろと考えさせられることが多い論文であった。

           

          世俗国家としてのイスラエルと

          日本との関係の質的変化

          まず、この論文では、近年の日本と世俗国家としてのイスラエルとの関係の変化について次のように概観したうえで、イスラエルという国家の実像にできるだけ迫るべく、サンドという人物の著作を追いながら、説明する論文である。

          かつて日本でイスラエルのことが報道されるのは紛争が激化した時だけであった。しかし今は、イスラエルがセキュリティ関連を中心にスタートアップの会社が多くあるイノベーション大国なのに、日本が他国に比べてイスラエルに注目してこなかったことが指摘され、ひいてはそのベンチャー精神の源は直接的には皆兵制度(とりわけ情報部のエリート部隊選抜と訓練)、間接的には聖書やタルムードに基づいたユダヤ式教育にあるのだという分析がしきりになされている。実際日イ両国間の経済発展を進める投資協定交渉が2015年末に合意されてからは、多くの日本ビジネス関係者が頻繁にイスラエルを訪れるようになり、イスラエルに来る日本人は宗教か紛争に興味がある人ばかりという、これまでの状況が一変した。

          (中略)私個人は、紛争解決には何の貢献にもならないむやみなイスラエルの怪物化やイスラエル・ボイコット運動には反対であり、日イ両国の経済的協力関係は好ましいと考える立場にあるが、それでも「ユダヤ最強説」といった記事の見出しやビジネス関係者たちの「イスラエル詣で」には戸惑っている。それは例えば「国民皆兵」という言葉から日本人が抱くイメージと、イスラエルで実際に運用されている制度の内実がかけ離れているため、認識のずれが蓄積されていくのではないかという懸念等に基づいている。(2017年11月号 『福音と世界』 pp.18−19)

           

          日本とイスラエルの関係を、1970年代末から1980年代中葉にかけて、中学高校から大学の時期にかけて、ディスペンセイション主義というかなり特殊な終末論の立場から、それも強硬な立場の人々の言説を通して、イスラエルというものについての理解をかなり一方的に流し込まれる形で聞いてきた立場にいた。今は、そこからある程度自由になり、それらの言説を多少批判的に見ることができるようになった現在に至っている。結局現実のイスラエルに関する実像の知識がほとんどないために、マスコミや、自ら自称中東問題研究者を名乗る市井のキリスト教関係者によるいわゆるイスラエル最強説といった扇情的な言説を、積極的に見聞きしないまでも、その影響を受け、それらの人々からもれ伝えられてくる言説の一端に触れるたびに、「この40年余りほとんど変わらないし、様々な言説を自称専門家からの発言であれば、うのみにする人々が案外多いのだなぁ」という印象を持った。人は、本当に説得の技術でいう権威性に弱いということなのだろうなぁ、とは思う。まぁ、テレビでも自称専門家を名乗る元テレビキャスターが語ることをありがたく受け取り、それを再拡散する人々が一向に減らないのも困ったことであるが。まぁ、そのような人びとは「自分たちには調べる能力がないから、信じるしかないではないか」とか言い訳のようなことを、おっしゃるが、それは自らの生き方において、そして他人に語る上で、手抜きをしているということを言い立てているようなもので、努力不足を自ら言明しているようなものではないか、とも思う。

           

           

          行軍するイスラエルの陸軍の皆さん

          https://www.haaretz.com/israel-news/.premium-1.667152 から

           とはいえ、このようなイスラエルに対する美しい誤解の背景には、一つにはイスラエルという国が日本からかなり遠い紛争地帯にある国家であり、その紛争地帯の中での小国であることがあるかもしれない。ちょうど、日露戦争の時に欧米人たちが日本に対して持った当時の大国ロシアに対峙する小国といった構造とそこから派生するある種の判官贔屓のような感情や、その結果小国側を応援しようとする意識と多少は似ているような気がする。いずれにしても無理解、知識の不在あるいは欠如により生じた美しき誤解のような気がしてならない。そして、必要以上に神秘の国として過剰に期待が高まっていることの表れではないか、とも思う。どうも人は身近にない存在に対しては、欠点もよく見えない分だけ、安易に美化しがちなのかもしれない。

           

          シュロモー・サンドという人物とその著作から

          シュロモー・サンドという人物の『ユダヤ人の起源』という書籍の中で主張されたサンドの議論が内包する、国民国家という別種の仮構に依拠した議論の怪しさというか、その仮構にあまりにも依拠する懸念を批判的に触れておられる。国民国家という概念でほとんど多くの近代国家は出来上がっているが、その概念自体はフランス革命で生まれ、そして、現在もなお多くの近代国家において共有されている虚構であるように思う。そして、普段はあまり個人の生活と直接はかかわってはこないものの、国家と個人の立場が対峙するような際、例えば、戦争とか、公害とか、信仰と国家の問題とか、外交関係といったいくつかの社会における現象と時折衝突を起こすことがあるとミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。そして、サンドの近年の著作「私はいかにしてユダヤ人であることをやめたか」の主張を取り上げ、世俗派ユダヤ人(前回この連載でご紹介した改革派ユダヤ人とかウルトラ正統派を含む正統派ユダヤ人とはかなり違った生き方をするユダヤ人の人々)の立場を紹介しつつ、その人たちにとって、「ユダヤ人であること」とは、それらの人々にとってどのような意味を持つのか、ということを触れておられる。

           

          世俗派ユダヤ人とその生き方

          まず、世俗派ユダヤ人についての山森先生の視点からのご理解を紹介してみたい。

          世俗派ユダヤ人とは、戒律を厳格に守る人々とは異なり、基本的に戒律や宗教共同体を重視せず、自由な生活を送っているユダヤ人のことである。イスラエルにおいては、ユダヤ人は一般的に宗教派と世俗派に分けられる。宗教派と世俗派は学校も別々で、居住地域が分かれていることが多い。(中略)厳格な宗教派のユダヤ人は兵役を免除されているし、子供の数が多い宗教派の人たちの社会保険料を払っているのも世俗派なのである。世俗派ユダヤ人はいわば、近代的で合理的判断ができる自分たちこそがマイノリティにも寛容で民主主義を理解しており、実質的にイスラエル国家を運営しているという自負を抱いている。(同誌 p.20)

          つまり、世俗派ユダヤ人とは、宗教とその戒律やユダヤ人としての共同体性とはあまりかかわりなく自由に生きるリベラルな人々のことを指すという理解と言っても良いだろう。ある面、東京を代表例とする多くの都市部に居住する日本人がそうであると同様に、宗教のことをガチ勢として考えるわけでもなく、地方部のように共同体に縛られて生きるのでもない人々とかなり類似する存在のユダヤ系のイスラエルにお住まい人々のことらしい。イスラエルの割と主要な部分を占める存在として、ユダヤ人とはいっても、この世俗派のユダヤ人が一定数はおられるということのようだ。ガチのウルトラ正統派のような人々は、社会における預言者的存在としては貴重ではあっても、結構めんどくさい存在なので、そんな人ばかりだと、国家は立ち行かず、国民国家という虚構はすぐに破綻をきたすので、社会の安定化装置のような存在として、これらの世俗派ユダヤ人が多いように思う。つまり、この社会のバックボーンを担っている世俗派ユダヤ人の皆さんは、文化に定着してしまって、もはや文化とは不可分になった宗教的な理解や生活に関する規定部分に関してはあえてあがらったりして、もめ事を意図的に起こしたりはしないけれども、かといって主体的にユダヤの宗教的な理解に回帰していこうとか、そのユダヤ文化とかユダヤの宗教行事の根底にあるようなヘブライ語聖書などに関する理解を積極的に深めることにあまり価値が見いだせないような人々なのだろう。

           

          ところで、現代のイスラエルの中身を見ると

          リベラル派   世俗派ユダヤ人

          ーーーーー   −−−−−−−−−−

                  改革派

           宗教派    正統派

                  ウルトラ正統派

           

          というバリエーションというかグラデーションの中にユダヤ人の人々がおられる理解がおそらく実情に近いのではないか、と思う。ところが、ネット上で散見される日本でのユダヤ人理解、Facebook上で表明されている日本のキリスト者の一部の人々の間でのユダヤ人理解の表明をみると、どうも、イスラエルは、宗教派、特に、正統派ないしウルトラ正統派の人々のみでなっているかのような印象に誘導する人びともおられる。イスラエルは、ある種の宗教国家であるからこそ、何が何でもイスラエルの安全保障のために祈る必要があるという論調を見るたびに、この人たちはどこまでイスラエルの実情を知ったうえでこのような意見表明をなしておられるのであろうか、と思うことがある。このグラデーションと、そのタイプの人々の人口構成上のウェイトをかけていっ多様な理解についての認識を持ったほうがいいのかもしれないと思う。

           

          イスラエル大使館のゆるキャラ、シャロウムちゃん。

          http://eedu.jp/blog/2013/06/15/israel_character/から

           

          この世俗派ユダヤ人の代表的な思いを、山森論文ではサンドの書籍からそのエッセンスを次のように抽出している。

          サンドは問う。ユダヤ教を信じていない世俗派ユダヤ人が共有するものは何もない。世界に散らばる世俗派ユダヤ人同士が遭遇しても宗教的な基盤はなく、言語も文化もばらばらである。それを同じ民族といえるのか。(中略)ユダヤ教徒になるにはユダヤ教徒に「改宗」すればいい。キリスト教徒になるにも、イスラム教徒になるにも宗教的な手続きがある。しかし非ユダヤ人に生まれた無神論者が、神を信じない世俗派ユダヤ人になる手続きはない。とはいえ、自分にとってイスラエル文化は深く関わりのあるものであり、それを捨てることはできない。また世俗派ユダヤ人というカテゴリーは空虚で内容がないのに対して、イスラエル文化には、混乱状態ではあるがまだ実質がある。だから自分はイスラエル人から降りるのではなく、ユダヤ人から降りるという結論に至ったのだと。(同誌 pp.20−21)

           

          世俗派ユダヤ人の自己のアイデンティティに関するこの記述を読んだとき、まずもって浮かんだのは日本のプロテスタントタイプのキリスト教徒のことである。宗教的な基盤は、イエス・キリストが神であるということはあるにせよ、それにしても、世界中のプロテスタントをとらなくても同じ日本のプロテスタントの中でも、実は、その教会の中での、言語も文化も実はバラバラに近くて、相互に話もできないし、同じ語を用いながら、(例えば、救いとか、罪とか、神とか、憐みとか)実はかなり違った内容やコンテキストで用いられているし、教会内の身体的なコード、動作のコードや文脈、意味もかなり違っているようである。

           

          半年ほど前に、大阪でのルター派の3派合同礼拝に出たときにも思ったが、同じプロテスタント教会の同じルター派であっても、これまで相互にあまり交流がなく独立に礼拝をしていたという。まさに、同じグループに属するといっても、ルター派の中でも、教会群ごとの文化もばらばらのまま、並立的に存続していた、ということなのだろう。その結果、この違いが放置され続けてきた、ということなのではないか、と思う。

           

          ルター派3派の中でもこのような状況であれば、数多くのグループを含む福音派全体、あるいは、日本キリスト教団を含むプロテスタント派まで拡げ、さらに、数多くの単立教会を含む福音派まで入れてしまうと、もはや、アイデンティティの一致性を担保するとか言うのはほとんど無理な作業ではないだろうか、と思ってしまう。

           

          カトリック教会は、教皇様がおられるという点で、カトリック教会自体は個別教会を見れば、かなりそれぞれの教会ごとに個別性があり、特殊性があるけれども、教皇庁があるという点での一致はあるし、聖公会にしても、祈祷書(Common Prayer Book)における一致はあるというものの、先日の神戸教区の主教就任式で経験したことであるが、個別教会の伝統と個々人が表現する新体制の表現を含む文化は非常に独自である。しかしながら、祈祷書のテキスト自体は一致しているなどのある種の一致性があり、その一致を代表する代表者としての特定の個人に対して、多数の組織からなる組織を代表する組織の代表者として、組織により付託された代表性を持つ個人の存在があるが、そういう代表者をそもそも志向しないゲリラ集団的教会とか教会間組織を持たない組織群もあるので、同じキリスト教と言っても、プロテスタント派というのは、同じプロテスタントに分類されることが多いとはいえ、ある意味共有部分がかなり少ない存在なのだなぁ、と思う。

           

          以前にも書いたが、コプト正教会の教会や、日本ハリストス正教会の教会、カトリック教会の礼拝ないし聖餐式での式文の文言は多少は異なるものの、式文の基本的な構成(テンプレート)と内容がほぼ同じであり、あまり戸惑わないものの、その種の共通性はプロテスタント派の教会ではあまり感じることはなかった。まぁ、プロテスタント派では、説教と賛美歌があることと、説教が割りと長めであること、という共通性はあるかもしれないが。賛美歌も、歌うとは言いながら、実は教会ごとに歌われる賛美歌とその曲や歌い方は、実はかなり違う事が多い。

           

          世俗派ユダヤ人と世俗派日本人の類似性

          日本で、割と日本人論が流行る背景には、ここでの山森先生によるサンドの主張の要約のように、「世俗派ユダヤ人というカテゴリーは空虚で内容がないのに対して、イスラエル文化には、混乱状態ではあるがまだ実質がある」という指摘を援用するとすれば、世俗派であろうと仏教系であろうと、神道系であろうと、あるいは日本人がよくいう無神論(本当は汎神論的な世界観を持つ)日本人という全体としてのカテゴリーには、似たような動きを含め、内容における実に豊かな多様性が存在して、実際には議論することに困難を覚えるほどの混乱状態であるとはいえ、多くの人々が共有する何か日本的と思われるような実質があることが期待できるためであるからなのか、結構日本人論がメディアや政治家のことばなどでも一般化されて語られがちという傾向にあるという特殊性があるのかもしれない。実は、日本国内の実情としては、地域的にも社会集団的にも、その文化要素は多様であり過ぎて、それを一本か、一般化して語る行為そのものは実は空虚で内容がない言説である。そのようなことを考えていると、ある種の共通の日本人論と言ったような神話というか、その神話として美しい誤解が大手を振って歩いている社会に、長らく無自覚的に居住し、生活していると、たしかにカテゴリー分類された先が空虚という状態に生きている我が身を振り返ってみれば、確かに、カテゴリーとして空虚な世俗派ユダヤ人と分類され続け生きていかねばならない人びとの存在というのは辛いだろうなぁ、と同情してしまった。

           

           ところで、この世俗派ユダヤ人が多い、ということ、そして、キリスト教やムスリムとしての改宗にあたっては特定の儀式と手続きがあるということは案外重要なのかもしれないと思うから、これらの通過儀礼と手続きがキリスト教やムスリムへの改宗では維持されてきたのだろう。

           

          しかし、特定の神社の氏子になるというのにはおそらく手続きがありそうだが、神道(特に国家神道)に改宗するという概念が神道の世界にあるかどうかは、よくはしらない。しかし、一般の日本人の持つ宗教性から考えて、日本人の多くの宗教意識は、この世俗派ユダヤ人の立場に近いのではないか、と思う。

           

          そう考えると、日本のキリスト教の福音派の一部でもてはやされているメシアニック・ジューという存在とその背景ということはもう少し考えてみたほうがいいのかもしれない。ウルトラ正統派からの改宗は、あまり考えられないだろうから、正統派からの改宗なのか、改革派からの改宗なのか、あるいは同じユダヤ人でも世俗派からの改宗組なのか、ということは考えておいたほうがいいかもしれない。それによって、聖典へのの立場とアイデンティティと関与の度合いが同じユダヤ人であっても違うからである。それを一括りに、メシアニック・ジューが言ったから、と言ってその発言を鵜呑みにするとか言うのは、どうなんだろう、と思ってしまう。

           

          ちょうど、ある程度配慮して発言される場合が多いものの、大阪人(泉州)一人の意見を聞いて、大阪とはカクカクシカジカであると断言するに近いのではないだろうか。泉州文化と摂津の文化は違うし、同じ泉州でも泉佐野と岸和田では大分文化が違うからである。

           

          泉州岸和田名物 だんじり

           

          ところで、イスラエルはユダヤ教徒のいる国であるからと言って、イスラエルを祝福するものは祝福されるという旧約聖書の表現を取り、宗教国家でもなく、神権政治国家でもな苦、ダビデ王家の最高の結果の王国でもない、現国家の世俗国家としてのイスラエルで、ウルトラ正統派からはガン無視され、その実際の運営を行っている人びとのかなりの部分が、かなり無神論的なユダヤ人からなる世俗国家をガチ勢のキリスト教徒である福音派の一部の人々が支援することに伴うある種の滑稽さを思ってしまうと、なんとなく残念かもしれないなぁと思ってしまう。

           

          その意味で、次の記述はそれらのことを考える際に参考になるかもしれない。

           

          だが、神を信じてはいないかもしれないが、ユダヤ教にルーツを持つ習慣に部分的であれ参加している世俗派ユダヤ人に、そのアイデンティティから降りろと要求するのは非現実的である。さらにこのような立場は、世界で反ユダヤ主義が激しくなると、成立し得なくなるだろう。ユダヤ人はその内面にかかわらず、外側からユダヤ人だと規定されてきた歴史を持っている。(同誌 p.21)

           

          多くの世俗派ユダヤ人は、「ユダヤ教にルーツを持つ習慣に部分的であれ参加している」程度なのであり、それと同様に、日本人の多くの人々が「神道にルーツを持つ習慣的になんとなく参加している」というだけのことが日本でも発生しているにすぎないのではないかと思うし、そのことに対して、キリスト者として強行な異議申し立てをしてみることは全く無意味だとは言わないが、強行に異議申し立てを言われた側の人びとには、そんなに「何かを考えてやっているわけではないし、スーパーでなんかそんなディスプレイもあるから、われわれもやっているだけの事でやっているに過ぎない」はずだが、と当惑して終わるということではないか、と思うだけなのだ。ハロウィンにしても、クリスマスにしても、その宗教性の観点からの意味をかなり真面目に考えながらやっているとはいえないように思うのだ。

           

          今年の渋谷のハロウィンパレードの模様

           

          そのような異教の神への礼拝の場に世俗の関係上、存在せざるを得ないとしても、今風の表現をするとすればガチ改宗異邦人、異邦人ユダヤ教徒と分類されるであろうナアマンのようなスルー力の高い対処方法をキリスト教関係者の一部もうちょっと考えたほうがいいのかもしれない。

           

          ユダヤ社会における多様性と議論

          日本では、あまり議論をするところが見られない。日本社会は、本当に静かだなぁ、と思う。いや、朝まで生テレビとかあるではないか、というご意見もあるかもしれないが、あれは仕組まれた議論であり、エンターテイメントとしてテレビで見せるための議論である。日本の教室は実に静かである。同じような授業を日本とアメリカでしたことがあるが、日本は、教える側のペースで授業を完全にすすめることができるが、アメリカでは、学生が遠慮会釈なく、わからないところは、小学生であっても、大学生であっても、突っ込んできて、議論を仕掛けてくる。こっちのペースで授業を進めようとしても進まない。予定通りの予定調和的な授業なんかできた試しがない。

           

          また別の機会に滞在したアメリカでの経験であるが、同じアジアの民でも隣の朝鮮半島の人びと、さらに、その先の中国系の人びとはかなり議論をする。と言うよりは、自己の権利の主張はかなり激しい。最近は学生さんの中で、単位については、自己の権利(単位がつかないことに関してのみであるが)の主張はかなり聞かれるようになったが、日本人対象の講義で、中国系の留学生のような粘り強い交渉に辟易するという経験はしたことがない。そういえば、中国からの留学生が「結婚相手にするなら日本人がいい」と言っていたので、「どうしてなの?」と聞いたら、「いやぁ、中国の女性は性格が強くて大変だから」と苦笑いしていたことを思うと、日本人というのはウサギ小屋に住んでも文句を言わないうさぎのような存在なのかもしれない。それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。

           

          ユダヤ系の人々は、かなり議論が激しいことは、著者の山森先生からお伺いした。なんとなく声の大きな人の発言にサワサワサワとなびいていく日本の社会とは違うらしい。そのようなことに関して次の一文が参考になるかもしれない。

           

          世俗派ユダヤ人というアイデンティティを共有していない私個人は、このような立場が表明され大いに議論が交わされること自体が、あらゆる可能性を吟味検討するダイナミックなユダヤ的伝統にのっとっているのではないか、と思う。(同誌 pp.21-22)

          とりあえず、発言してなんぼの社会、そして、指導教官だろうが、親だろうが、ラビだろうが、よしんば神だろうが、それに向かって議論し、自分の主張を貫いていくような生活パターンがユダヤ的伝統なのだろう。こういう状況の社会は日本にはあまりみられないように思う。

           

          まぁ、そんな環境の中で鍛えられると、自分の主張を堂々と述べる度胸の必要性を感じるとともに、それに対して、個人の本領煮立ち、本人が持つ実力を議論において発揮して見せることの重要性を感じる。

           

          パレスティナとイスラエルの壁を巡る議論

           この山森論文では、さらに、アモス・オズという人の主張の概略を紹介しながら、現在のイスラエルとパレスティナ問題で、重要な問題になっているイスラエルの壁の問題について、次のようにお書きである。

           

          オズは、イスラエルとパレスティナの紛争は宗教戦争ではなく領土紛争に過ぎないことから、困難ではあるが解決は可能だという。オズの言う解決は一貫して、二つの民族が二つの国を持つといういわゆるに国家解決である。そしてそのためには国境の画定のためには、イスラエルとパレスティナの双方が妥協しなければならないのだが、その妥協を妨げているのが狂気なのである。そしてオズは、いわゆる分離壁についても、それが通っている場所が問題なのであって、壁そのものは必要だという。(同誌 p.22)

          ここの記述で重要だなぁ、と思ったのは、紛争の実態と焦点を明確に捉えることではないか、と思った。異なる宗教同士であれば、すぐに宗教紛争と判断してしまいがちな部分がある。確かに、イスラエルの壁を巡る問題は、ムスリムVSユダヤ教という宗教観紛争という誤解がのべられることがあるが、このパレスティナとイスラエルの間に存在する壁の問題は、実態的に領土紛争であるという見極めではないか、と思う。そして、その紛争にまつわる狂気の問題である。この狂気が問題をややこしくし、そして、人が人を殺傷することの報復へとつながるというのだ。狂気がコントロールできれば一番良いのだが、狂気は理性でコントロールできないときている。そこが困るのだ。

           

          ガザ西岸地区の境界壁

          http://gershonbaskin.org/insights/the-new-walls-and-fences-consequences-for-israel-and-palestine/ から

           

          ある事柄をわかりやすく説明するために宗教とか人種を出してラベルを張ってわかった気になるということがもたらす問題は、ヨーロッパでの過去から現在までの紛争あるいは戦争やアメリカでのテロ行為の本質を考える際にも言える。ヨーロッパやアメリカでのテロ行為は、宗教観紛争というよりは、国民経済というパイに対する旧植民地民であるが故にその国に住んでいる人びとのアクセシビリティが制限されていることと、G.D.P.で測定されることの多い国富に関するその国に住む人々の間での配分が歪んでいるがゆえの問題であり、それを正当化するために正義とつながりやすい宗教や信仰の問題が口実として用いられているだけである。このように、ある社会的な問題の表面を見て終わるのではなく、その問題において、何が根源的な問題かを見分けることは案外重要なのである。

           

          トランプ大統領は、メキシコとの国境にグレートウォールを作ると言ったが、この場合は政治的な問題でもなく、宗教的な問題でもなく、純粋に経済的な移民による、米国の経済的な利益(資金及び雇用機会)の流出を防ぐというための壁である。結局富の流出を防ぐ壁がなければ、利益の流出が激しすぎて国力が消耗してしまわざるをえないほど、深刻なんだろうと思う。特に、誰でもができる単純労働者は、英語を喋る必要が無いので、カリフォルニアあたりだと、その殆どは、ヒスパニックと呼ばれるスペイン語話者という現実はある。カリフォルニア州では、スペイン語は公用語の一つであるとはいえ。

           

           

          壁の建設を主張するトランプ大統領候補(当時)

           

          パレスティナとイスラエルの分離壁について

          イスラエルとパレスティナの間の分離壁は、イスラエルからの経済的な利益のパレスティナへの流出の阻止を目指すわけでもなく、異なる信仰を持つ人々の国境を超えた流入を防ぐということでもなく、実は犠牲者を増えないようにするという必要悪の実現としての側面が強いらしい。そのあたりのことについてオズの所論を取り上げながら、山森論文では以下のように記述がなされている。

           

           分離壁そのものは、とにかく早期に物理的に両者を分け、死者の数を減らして事態をできる限り鎮静化させようという発想に基づいていた。交流のない冷たい関係であっても、多くの死者が出るよりはいい。当初分離壁の設置に反対したのは、左派ではなく右派の人々であった。壁を作るということは自分のものと相手のものを明確に分けるということである。(中略)そして実際分離壁が作られると、双方の死者の数は劇的に減った。私は、分離壁がもたらす弊害はもちろんあるし、また自分の住んでいる地域にそのような壁ができるのは到底承服しがたい政策だと思う。しかし分離壁のもたらすマイナス面と、どちらの側であれ死者の数の激増という二つを考えると、分離壁がある世界のほうが相対的にましだと考えざるを得ない。ここには理念はどうであれ、結果的に死者の数が多く施策と死者の数が多く施策のどちらかを選ぶのかという問題がある。もちろんオズも指摘しているように、分離壁が通っている場所は明らかにイスラエルに一方的に有利であり、その一は双方の合意が得られる場所に将来移動させるべきだ。(同誌 pp.22-23)

          こういう文書を読むと、とりあえず、これ以上の流血の惨事に耐え難いから、一時的措置として壁の建設に走ったとは、言えそうである。

           

          たしかに、人は高邁な理念を掲げるし、宗教とか思想にその根源が存在する形の理想が実現することを期待するけれども、実は、完全に同じ理想が他者と自己の間で共有されることはほとんどなく、人々の間に存在する理想の微妙なズレが人々の間に混乱と不快感を発生させる。さらに、自分の理想をかなり精密に言語化できないし、現実世界には、様々な制約が存在するため、完全に理想世界を実現しきれない。そうなると、理想世界を目指しつつ、理想とは似ても似つかない理想の近似解が現実には生じてしまう。そのような近似解で理想ではないものができてしまうと、そんなものは頼んだものではなかったということで、理想を願った人びとは失望し、そして、理想の実現に向けて尽力した努力した人びとは、努力したにも拘らず全く評価されないため、これまた失意を抱えてしまう。そして、理想を作り出そうとする人びとは出来上がった理想を目指したが結果生まれてしまった醜い現実である「理想の成れの果て」の周りで、ため息をつくしかないという現実は、まま起こるのである。

           

          宗教改革も似たようなところがあるかもしれない。本来のキリスト教からズレてしまった世界の中で、本来のキリスト教はこのようなものではなかったか、と思われるものを取り戻そうとして、多くの悲惨と思わぬ悲劇を伴う副次的効果が出たようにも思う。理想は素晴らしくても、現実が伴わず、予想しなかったことが多数起きるということなのだろう。その意味で、ユダヤ人居住区とパレスティナ人居住区の間に壁を作るという計画が、理想を掲げて具体的な政策立案にわりと反映させようとする左派の人びとから分離壁賛成したというのは、彼らが理想を置い続けた結果をよく熟知しているのが、左派の人々だったということの繁栄かもしれない。

           

          空間や距離は分断も生み出すが、直接被害を防ぐための緩衝地帯の構築が可能になる。その意味で、社会の安全と相互の適切な環境の確保のためには、このような安全策というのは案外有効なのかもしれない。世界史の歴史を見れば、地域間交流や人的交流は、他の地域に関する知識と認識だけでなく、新しいもの(例えば、胡椒とか、丁字[グローブ]とかトマトとか、じゃがいもとか、とうもろこし)といった人びとの生活を豊かにするものをもたらすとともに、戦争や疫病などの災いをもたらすことも少なくないことを考えると、この辺のバランスは案外難しいのかなぁ、とも思う。

           

          以上、山森論文の紹介は終わり。

          次回は別論文の紹介へと続く

           

           

           

          2017.11.05 Sunday

          『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (5)

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            今回も、『福音と世界』2017年11月号からのご紹介である。同号における手島勲矢論文「トランプ時代のアメリカ・ユダヤ人の分断・苦悩」という論文からご紹介してみたい。今回は昨年の大統領選挙戦で明らかになったアメリカにおけるユダヤ社会の実情についての考察の論文である。

             

            アメリカにおけるユダヤ人の分断を顕在化させた大統領選挙

            アメリカにおけるユダヤ人の存在というのは、旅行で行くくらいではあまり感じないかもしれないが、生活を始めてみると、案外あちこちでそこはかとなく感じられることは確かである。それなりに、非ユダヤ人たちもある程度気を使って市民生活が送られていることは確かであるが、アフリカンアメリカン(肌の色の濃いアメリカ人の皆さん)の場合やアジア系などの言語が普通のアメリカ英語でない人は、誰にでもわかりやすい記号になりうるが、はた目から見て、ユダヤ系と一目でわかるウルトラ保守派の皆さんを除くと、ユダヤ系ということをあまり知らないまま過ごせることが多いので、目に見えた差別があることを感じないことが多いかもしれない。

             

            しかし、大統領選で、トランプが、アメリカファーストといい募り、移民は出ていけ(下の画像でのネイティブアメリカンのご主張のように、ご自身も移民の背景をお持ちのはずだから、率先してアメリカから出ていく必要がある気がするのだが)という表現が、またか、という印象をユダヤ系市民に想起させた可能性は高い。

             

            http://www.donald-trump.site/donald-trump-inmigrants-go-back-home-meme/

             

             

            しかし一つだけ気になることは、トランプ大統領の誕生とともに一層顕在化してきたアメリカ・ユダヤ人の中の分断・苦悩のことである。(2017年11月 『福音と世界』 p.24)

             

            アメリカでは、だれに投票するのか、ということが大統領選挙の前年くらいから、カジュアルな場でも話題になる。実際、テレビでは、CMが流れるし、相手候補を問題視するCM(ネガティブ・キャンペインの方法の一つ)なんかも流される。一人しか大統領候補がいないので、大統領の選挙戦は8月くらいから11月にかけてはお祭り騒ぎの様相を呈し、ニュース番組はもちろん、ソープオペラを除けば、主婦向けの番組なんかでもこの話題が取り上げられ、候補者が主婦向けの番組などにも頻繁に顔を見せることになる。

             

            2016年は、かなり例外的な大統領選挙の年で、共和党、民主党の代表候補を選ぶ、予備選挙と呼ばれる段階で出てきた大統領候補がそれぞれどこかに難を抱えていたのである。例えば、有力候補のなかでは、ヒラリーたんが女性で初の大統領候補という意味でチャレンジングであったし、バーニー・サンダースがユダヤ人で初の代表候補であったし、マルコ・ルビオがヒスパニック系で初であったり、ドナルド・トランプには性差別的な発言と暴言が付きまとうという状態であった。その中で、絶対にこれだ、というような超有力候補が、存在しないまま、個人的にはあれよあれよという間に、トランプが大統領候補になってしまったという感じがある。以下のシンプソンズの動画はその辺のアメリカ市民としての悩みを、マージ・シンプソン(あの番組の中の登場人物として、かなりまともな人物として描かれている人物)に仮託して次のように描いている。

             

            The Simpsonsの2016年の大統領選挙での主要候補者を揶揄するシーン

             

             

            そしてこの論考で取り上げられるバーニーサンダースという存在は、毎度、共和・民主の両既成2大政党以外からの上院議員として、環境保護政策、弱者保護政策を掲げる一風変わった候補であった。そして、上院で既成政党にチャレンジする姿は実に印象的な人物と認識してた。その意味で2010年ごろから、個人的にはちょっと気になる人物であった。そして、2016年には、日既存政党ではなく、民主党の大統領候補として挙がってきたのでちょっとびっくりした。

             

            ユダヤ人とアメリカという国家との関係

            先にも触れたが、いまだにある特殊な名前を持つアメリカ市民に対する迫害というか差別があることは確かだし、特に世界最大のユダヤ人コミュニティが存在しているNYでは、分かりやすいユダヤ名を持つ人々に対する差別や暴力行為、器物損壊、時に殺害事件まで起きることがある。ただ、人種的な差別や暴力はHate Crimeということで、かなりの重罪扱いになることがある。差別的な発言をするほうは、憲法修正第1条(この論文でも、後に出てくるが)を盾に取るのだが、基本的にそれが暴力行為で、裁判ではかなり不利になるらしい。

             

            この既成政党のシナリオを否定した、異常な予備選挙によって、潜在的なユダヤ人社会の中にある分断が、より先鋭化したといっていい。その分断の原因であるユダヤアイデンティティの二重性にについて、サミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』の割注でさらっと触れているが、アメリカと自分を同一視するユダヤ人を理解するうえで、バーニーの事例はとても興味深い。(同誌 p.24)

            ところで、アメリカの中で連邦政府(とその代表者であるアメリカ合衆国大統領)をめぐるユダヤ人の間の対立が触れられているが、それは、アメリカの国家に対するユダヤ人の態度ということであるらしい。

             

            福音と世界の本文中に脚注がついていたので見ると、ハンチントンの『文明の衝突』の中での割注の内容とは、ディアスポラのユダヤ人のなかには、「自分が住んでいる国の文化と自分を同一視するユダヤ人」(ちょうど赤尾論文で触れられている「(公的空間では)善きドイツ人であろうとし、(私的空間でのみ)善きユダヤ人であろうとしたようなドイツの改革派系ユダヤ人のような対応をとる人々)と、どちらかというと、イスラエル国の文化と自分のアイデンティティを同一視しようとする傾向の強いユダヤ人とに二極に分化しているというハンティントンの指摘ということのようだ。

             

             アメリカでは、国土が広いために、最小単位のコミュニティの論理が最優先される。人間がコミュニティを形成しているところに、外部の政府(市の政府にせよ、州政府にせよ、連邦政府にせよ)が介入することをものすごく嫌う側面がある。特に、警察関係でこの問題が起きるようだ。市の警察がしている仕事に、FBIなどが介入する案件(ギャングがまつわるような殺人事件など)では、FBI関係者が入ってくると、すぐにFedsと言ったり、環境関係の案件にEPAと呼ばれる環境関係の連邦政府の役所が入ってきても、Fedsといって嫌がる傾向が非常に強い。

             

            アメリカの行政体制とコミュニティの関係

            最小単位のコミュニティの論理が最優先され、法的には、個人に一番近いコミュニティの論理が最優先される。その結果、宗教コミュニティ(原理主義的なキリスト教系団体で孤立的なコミュニティであったブランチダビディアンに、ATFというアルコールとたばこ(薬物)と銃などの火器を取り締まるような連邦法執行組織もFBIも及び腰な対応しかしなかった。その意味で、アメリカにはエスニシティ(民族性)に基づく様々でかなり独立性の強いコミュニティが存在するとはいえるように思う。例えば、リトル・イタリィーやチャイナタウンとか、リトルトウキョーとかが、アメリカの刑事ものの映画で、特殊な描かれ方をするのは、そのあたりの背景があるのである。

             

            そして、ニューヨークには、ウルトラ保守派のユダヤ系の人々からなるコミュニティもあり、赤尾論文の紹介でも述べたようにウルトラ保守派は、思想的には、ユダヤ教のトーラーなどのテキストに固執するために、ユダヤ的なものにこだわりが強い結果、現在の世俗国家に対して否定的な態度をとることがある。現居住国であるアメリカのコンテキストよりも、自分たちのアイデンティティを優先する人々もいるようである。

             

             

            以下の動画の例などは、母国のイスラエルの徴兵政策に反対するNYのウルトラ保守派の皆さんの運動を取り上げた動画である。こういう実に分かりにくいことも起きるのである。

             

             

            イスラエルの徴兵制度の法案に反対するニューヨークのウルトラ保守派のユダヤ人の皆さん

             

            トランプの政策とイスラエルのつながりとユダヤ人

            大統領選挙で、何がユダヤ人の間で問題になったかというと、結局、トランプが大統領選に勝利したときに、何が最悪の事態として、彼らユダヤ人の上に起きることを覚悟するか、ということであるらしい。そのあたりの事情を手島氏は次のように書く。

            簡単にいえば、トランプ大統領令がこだわる強い移民制限やボーダー管理の厳格化は、イスラエルが自国の安全保障のゆえに必要とする高い壁や占領地管理とさほど変わらないと、アメリカ・ユダヤ人が、イスラエルのネタニヤフとトランプの重なりを意識するほどに、彼らはトランプのアメリカを受け入れるのか、それとも自分たちをイスラエルから区別するのか、もはや傍観者的な立場で自分のアイデンティティがシオニズムと安易に結びつくことを認めることができない。(pp.25−26)

            これまでの政権は、基本的に不法移民対策として、ある程度寛容な政策をとってきた部分がある。人権的配慮を重視することを伝統的に良しとする民主党政権では、もともと国家が移民によってできてきたという背景があることや、人道的な政策を民主党が伝統的によしとしてきた背景があることから、ある程度不法移民にも寛容な態度がとられてきた傾向はある。しかし、本来、共和党政権であれば、不法移民対策を多少は厳格化するものの、それをトランプ大統領のように極端な態度はとらず、選挙戦でのメキシコとの間にあり一匹たり通さないような壁を作るという空想的で、実効性の薄いような政策を、明確な政策目標として掲げるまでには至らなかった。建前上では、共和党として不法移民は許さないというものの、共和党政権とその背後で共和党を支援する人々が、必要悪としての不法移民という存在と付き合ってきたからではないか、とは思う。特に中西部では、確かに不法移民によって職が奪われるとか、薬物の流入と不法移民の組織と関係があるとか、様々な不具合はあっても、それに片目をつぶるくらいのことはしていたように思う。そして、不法移民を強制的に送り返すだのとこれまでの共和党政権はあまり声高には言わなかったが、それを政策の柱の一つにトランプ大統領がかかげられたのは、ある面、案税制の低い職場でも働いてくれる安価な労働力としての不法移民を使う産業とのつながりがなかったからではないか、とも思うのである。

             

            ここで、イスラエルとガザ地区を隔てる壁の話題が出ているが、前回の記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4) でご紹介した山森論文が指摘するように、あれは、あくまで具体的なテロ被害とそして、その報復による被害と、これらの不幸の連鎖により生まれる死者を減らすための壁であって、トランプ大統領が執務室に入った初日からやろうとした壁の話は、身体的な被害、殺傷を目指しているわけではない人々を対象としたもので、経済的不法移民あるいは経済的難民を単に自国内に入る可能性を排除したいという姿勢を見せるというものであったように思う。その実効性は別として。

             

            実際、メキシコ人は多くの場合、テロリストであるとはいいがたい。確かにロサンゼルスなどでは、ギャングになる人々もいないわけではないが、基本的に単純労働者や、季節労働者だったりする傾向のほうが強いように思う。もし、移民がギャング化するとか言うならば、ほかにもアメリカ国内には、様々な共通性に基づくギャング団は存在するので、移民はギャングの温床になるという一般化は問題が多いことは確かである。

             

            しかし、トランプ大統領は、メキシコ国境との間に巨大な壁を作るといった。そして、それは、ちょうどイスラエルとガザ地区との間の巨大な壁をユダヤ人に思い起こさせたかもしれないと、いうのがユダヤの人々の思いではなかったか、と手島論文では指摘されていたが、個人的には、移民は帰れ、のほうにヨーロッパから命からがら移民、あるいは難民として逃げてきたアメリカにいるユダヤ人のある部分の人々は思ったということが大きいのではないか、と思うのだ。

             

            ドイツやロシアに帰れ、といまさら言われても、彼らには変える地域も帰る家もないのに、どうしろというのだ、と思った可能性のほうがあるのではないか、と思うのだ。仮にイスラエルに帰れ、と言われても、そこでの生活の基盤も、仕事も、人間関係もない中で、何をしたらよいのかという当惑をトランプ政権の強硬な移民政策は与えたということのほうが重要なのではないだろうか。そのように考えると、自分たちが新しい大統領としてトランプ政権が始まったこのアメリカという国において、どのように行動するのか、ということ、どのような声をアメリカ市民権を持つものとして、上げていくということが迫られたのではないか、と本論文を読みながら考えてしまった。

             

            次回この論文の続きについて触れていきたい。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            2017.11.08 Wednesday

            『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (6)

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              今日も、『福音と世界』2017年11月号を読んで思ったことを考えてみたい。今日は、手島勲矢論文「トランプ時代のアメリカ・ユダヤ人の分断・苦悩」似ていて、引き続き触れてみたい。

               

              バーニー・サンダースに見るユダヤ的思想の背景

              バーニー・サンダースという一風変わった主張をし続けてきた人物について、手島勲矢さんは、その主張の背景に次のように語る。

               

              筆者は、バーニーのことは2015年冬まで注目していなかったが、彼のテキサス・オースティン集会の動画をネットで見たとき、この人はいわゆる職業政治家でもなければ、左翼のイデオローグ(扇動家)でもない。ただのベン・アダム(人の子)または「メンチ」(人)として「タナッハ」(ヘブライ語聖書)の「ツェデック」(正義)を追求しているだけなのだ、とその言葉と空気から感じて、彼の選挙戦を日本から見守ろうと思った。バーニーにとって大事なことは、人間の生活におけるベーシックなニーズ(水の安全、健康や教育の平等、家族や共同体の安心など)に応えることであり、労働者に起きる不公平こそはベンアダムへの冒涜なのである。(同誌 p.26)

              手島勲矢先生によるバーニー・サンダースの主張を要約すると、本来人間が神から与えられたまっとうな生き方ができるようにすることであると理解されているようである。個人的には、バーニー・サンダースの政治的主張をイシュー(政策論点)ベースでみてきたので、そのような視点から再構築してみたことがなかった(そもそも、彼がユダヤ系であることは2016年の選挙戦期間中という、つい最近の時期に知ったのだが)が、言われてみれば、なるほど、彼の環境保護政策や労働政策、そして教育政策には、ヘブライ聖書のテキストの影響があると言われれば、いくつか符合する側面がある。社会の外側から考えてみるという予言者的な側面や、この地を管理するものとしておかれた人間(アダム)の子(ベン)としての役割をきちんと果たそうということだと言われれば、そのようにも理解できることは確かなように思う。

               

              バーニー・サンダースのテキサス州オースティン(この辺は勝ちの共和党支持者が割と多い地域)でのラリー(政治集会での演説)

              6分42秒あたりからバーニー・サンダースの演説となる

               

               

              実は、このバーニー・サンダースという人物、若者にかなり人気があったのだ。キリスト新聞から頼まれて、去年の11月にアメリカ大統領選の結果が出たときに、アメリカ人の若者の反応を聞いたことがある。あちこち探すのが大変なので、教会に来ていた20代のアメリカ人のボランティアスタッフに聞いてみたところ、彼によれば、若者のバーニー・サンダース支持はかなり明白であったらしい。バーニー・サンダースが予備選から降りて、民主党の大統領候補の座をヒラリーたんに譲ったとき、若者に失望が広がり、どうでもよくなったという。なぜかと聞いてみると、大学に通うための学生ローンがかなりアメリカ社会の若者の中で負担感が大きく、特に雇用が不安定で雇用の安定性の見込みがない中で、かなり若者にとっての課題であったらしい。その中で、バーニー・サンダースの大学無償化、というのは大きかったという。その希望がついえた瞬間に若者は、大統領選に対する関心を失ったと、ジェイムズ君はいう。

               

              この問題、日本でも他人事ではない。高校から日本育英会の奨学金をもらっていると、大学を出るときに数百万円を抱えている学生は時々いる。たまたま、好景気で新卒労働市場が学生の売り手市場の場合、問題は顕在化しないが、数年前までの景気が悪い状況の時で、就職できてもろくにスキルのない中、派遣社員とか不安定な職種にしかつけないとすれば、奨学金の借金を原因とした就職直後数年での自己破産という事態もある程度の数起きたようだ。アメリカでは、大学の授業料は異様に高い。名門大学だと、年数百万円というような大学がざらであり、州立大学系でも、200万円は最低かかる。こうなると、日本の比ではなく借金地獄に陥る若者は多かったのであろう。それを見ているから、自ら経験しているからこそ、若者が数十ドル(数千円程度)の選挙資金をバーニー・サンダースが大統領選挙に出る際に、拠出し、それが一種の社会的ムーブメントになったのである。なお、このバーニー・サンダースの選挙戦の際の資金集めのムーブメントの話も、本論文では触れられているので、その部分はぜひお買い上げいただいて、お読みいただきたい。

               

              ヨベルの年の理解に基づく政策としての大学無料化

              ところで、旧約聖書のなかにヨベルの年の記述がある。50年に一度、奴隷は解放され、借金が棒引きになる1年のことである。古代イスラエルでこのヨベルの年に約束された、奴隷の解放と借金が棒引きになるというこの制度が実現したかどうかというのは議論がいろいろあるようであるが。それは別として、借金は貸主に対する隷属への道である。それに一定の制約をかけていたのが、このヨベルの年の制度だったかもしれない。ちょうどそれと同じように、もし、ベン・アダムである若者を学生ローンで縛ってしまう元凶の一つが大学の授業料であるとするならば、それを取り除くことは、神のツェデク(義)の実現ではないか、という発想でこの政策を掲げたのは、実に旧約聖書的発想に基づくものであったのかもしれない。上のばーに・サンダースに関する論文の起債を読みながら、ヨベルプロジェクトの以下の動画の内容を思い出していた。

               

              ヨベルプロジェクト(途上国を先進国に対する借金から発生する霊獣の道から解放しようとするプロジェクト)

               

              バーニー・サンダースが単なるリベラリストではないわけ

              バーニー・サンダースは、選挙戦中、C.N.N.のアンダーソン・クーパーとの対話の中で、自らDemocratic Socialistであるといっている。実際の動画かこれである。

               

              自ら、Democratic Socialistであると語るバーニー・サンダース

               

               

              アメリカ社会は、いつまでやるのか、という気分を個人的に持っているが、いまだにマッカーシズム(いわゆる赤狩り)の雰囲気がある。その赤狩りを背景にした映画にMajesticという映画館をめぐるある種のラブコメディがあるが、その中で、非常に印象的なシーンが以下の社会主義者呼ばわりされた人物に扮しているJim Carryの演説である。

               

              マッカーシズムを背景とした映画 マジェスティックで憲法修正第1条を読み、語るJim Carry

               

              いまだにこのマッカーシズムという狂気の時代に一歩間違うと入り込みそうな部分が米国社会にはある。それは、ちょうど、冷戦時代の始まりに、米国がソビエトと中華人民共和国やキューバと対抗しなければならず、そのために、朝鮮半島で、ドイツで、そして、ヴィエトナムで彼らはまさに血を流しながら国際政治を行ったのである。その真剣さが、ある意味マッカーシズムを生む背景にはあったように思うが、それと同時に、その理想形に参加していったThe Best and the Brightestたちもいたのである。そうであるがゆえに、Vetとかウォー・ベテランと呼ばれる退役軍人に対する彼らの思いは熱いのである。

               

              今月は各地で、上記のような退役軍人パレードが行われる月ではある。

               

              意外だと思うが、バーニーの米国に対する愛国心は強い。彼は国を守るための「正しい戦争」(たとえば、ISに対する戦争)をひていしない。その彼の感覚は、まさに20世紀の世界大戦に根差しているアメリカ的なアメリカなのであり、そのアメリカは、フランクリン・ルーズベルトの「四つの自由」を信じて試練の時間を超えたファイター(戦士)たちが作り上げたアメリカの理想である。

              (中略)

              その第一は「言論と表現の自由(Freedom of speech and expression)」。その第二は「それぞれの仕方で神を礼拝する万人の自由(Freedom of every person to warship God in his own way」。第3は「(経済的な貧困)欠如からの自由(Freedom fron want)」。そして最後は「侵略の恐怖からの自由(Freedom from fear)」となる。これらの自由は旧世界から逃げて繰るユダヤ人にとっては、望んでも決してあたら得れることのない夢のような理想であったからこそ、この国のために戦うことをユダヤ人が誇りとしたのも無理はない。(同誌 pp.26−27)

               

              実際に、彼らの仲間のユダヤ系の人々とって実際にある種の捕囚でもあったナチの強制収容所からユダヤ人を開放をしたという側面が、第2次世界大戦にはあり、その時にアメリカで掲げられていたのは、上の記述で引用されている4つの自由であった。また、ヨーロッパの大陸側がナチスドイツの黒い影でおおわれる中、彼らが逃げえたのは、スペインやイギリスを経由したアメリカ合衆国しかなかったのである。一部、ロシア周りで中国や日本に脱出した人々もいたのだが。このあたりの背景を含むクリムトの名画をまつる面白い映画として、『黄金のアデーレ』という映画を上げることができよう。

               

              映画『黄金のアデーレ』の予告編

               

              ところで、アメリカでは、いまだに戦争する際には、必ずといってよいほど、この4つの自由の大義が語られるが、その背景には、この第2次世界大戦の記憶がいまだに鮮明にあるからであることと、後に触れるアメリカの精神性の中にPledgeと呼ばれる文言の中にある、Liberty and Justiceということ表現の強い影響を受けているような気がする。その意味で、アメリカ人の価値概念に関してこの自由FreedomやLibertyは、大きく影響している様に思う。実際に直近の戦争であるイラク戦争の際の作戦名というのか、戦争名は、Operation Iraqi Freedom であった。

               

              アメリカ国民の一致とその根源

              このブログでもしょっちゅう書いているが、アメリカという国は、ペニーと呼ばれる1セント高架から、100ドル紙幣に至るまで、In God We Trustと書かないと気が済まない国である。さらに、裁判所の壁には、そう大書してある。ムスリムやユダヤ教徒(ウルトラ正統派のみなさんは、かなりその表現に冷ややかな視線を向けているようだが、それでも、彼らの国民の統合の象徴は、このIn God We trustであり、Pledgeなのである。そして、小学生は、基本、Pledgeという表現とアメリカ国旗に向かって忠誠を誓うことを叩き込まれるのである。

              アメリカで現地の小学校に行った人なら言えるはずのPledge 

               

              アメリカという多様性の国の一致を支える宗教や信仰や思想とはいったいなんであるのか?これを問うことは、アメリカ研究の基本であるが、筆者は、それは、ある意味で、旧大陸でおきた一神教的な宗教思想の浄化運動へのリアクションとしての自由と平等の希求ではないか、と考えている。つまり15世紀末のイベリア半島からのユダヤ人・イスラム教徒の追放、そして信仰の純化を求めての宗教改革・新教と旧教の争いの記憶と、新大陸の宗教と政治は無関係ではないと思える。(同誌 p.28)

               

              この手島勲矢論文では、アメリカの一体化を図る思想は、自由と平等の希求であると指摘しておられるが、もう少しいうと、Pledgeの最後でいう、Libety and Justice for allだと思うのだ。平等といっても、なんでもいいから平等というような社会主義的な平等ではなく、すべての人において義(Justiceないしツェデク)が行われることであるということをもう少し考えたほうがいいかもしれない。このあたりの義にまつわる感覚のずれが日本のキリスト教の世界の中での義認論(Justification)の議論を少し妙なものにしているようにも思うのである。Justiceは人間に対してなされるものであって、人間がそれになるものでない、という理解はもう少しきちんとしたほうがいいような気がする。

               

              そして、このLiberty and Justiceが戦争をする際に、たびたび語られ、そして、そのために兵士となった人々は戦場に赴く。現在のアメリカでは、ドラフト制度と呼ばれる徴兵制に依拠していないとはいえ、市民権授与(従軍すると市民権が得られるというメリットが存在する)や大学の進学資金を目指したある種の制度的、経済的徴兵制度が存在するという批判はあるのだが。

               

              アーリントン墓地に葬られた多様な宗教的背景を持つ兵士たちの墓

              http://lajotadejaime.blogspot.jp/2013/05/flags-in.htmlから

               

              それはさておき、同論文では、「つまり15世紀末のイベリア半島からのユダヤ人・イスラム教徒の追放、そして信仰の純化を求めての宗教改革・新教と旧教の争いの記憶と、新大陸の宗教と政治は無関係ではないと思える」とお書きであるが、この背景には、プロテスタントが生まれたその背景として、15世紀のイベリア半島でのレコンキスタにより始まったヨーロッパでのユダヤ人の流浪とその流浪に伴って生じたヘブライ語聖書テキストへのアクセシビリティの向上があったこと、キリスト教による純化主義があったことを改めてご指摘である。このあたりに関しては、この連載の第1回の記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (1) で紹介した早尾論文を参照されたい。ここでは、ヨーロッパで血で血を洗うような宗教の名を語った、領土戦争や経済戦争や政治闘争の影響をこの手島論文で指摘になっておられるが、そもそも、アメリカ合衆国の初期の植民地化にあたっては、武力闘争によって行き場を失ったイギリス人がプリマス植民地を建設したことに端を発するというのがアメリカの建国神話なのである。その辺は以下のBowling for Columbineという銃社会アメリカの問題を扱った映画でもパロディ化しながら、描いている。

               

              ボウリングフォーコロンバインにおけるアメリカ建国神話とアメリカ社会への揶揄するアニメーション

               

              アメリカの政治と宗教との不可分な関係

              市民宗教国家としてのアメリカが実際にはあるわけだが、個人が信仰の自由をかくほし、そして、言論の自由の共通ベースとなっているその市民宗教とは何であるのか、について手島論文では次のように書く。

               

              それ故に、建国以来、アメリカ人は政府と(特定の)教会の癒着に対する警戒が強く、政教分離(正確には教会と国家の分離)については、すぐに合衆国憲法の基本原理として確認する修正文書が出るほどである。特定の教会の支配を拒否するだけに、なおさら、「いったい、何がアメリカ合衆国の一致を支えている宗教精神なのか」という問いは重要な政治的な問いになる。ここで筆者は、アメリカ・ユダヤ人の学者たちが今盛んに問題にしている「ユダヤ・キリスト教的(Judio Christian)」という言葉の重要性に注意を喚起したい。この言葉は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を一塊にする文化・文明の名称だが、その中身がトランプ政権の登場でいま問われているのだと思う。(同誌 p.28)

              アメリカは、先にも述べたように、小学校でのプレッジから裁判所の壁に至るまで、Godと言わなければ一日すら始まらない国の中で、では市民国家とはいったいどのようなものなのか、という問いは、かなり重要な問題であると思う。ところが、それが、アメリカに住んでいる人にも、この神は、ユダヤ的な聖四文字なのか、あるいは、ユダヤ教からスピンアウトして別物になってしまったキリスト教における、キリストなのか、あるいは、聖三一者であるのか、あるいは、ムスリムたちのアラーなのかは実はあまり判然としないし、それぞれがそれぞれの宗教背景に合わせて、それぞれが忠誠をつくし、信頼している神であるという点において、ある種の市民宗教ではある。

               

              今回の手島論文の中でのJudio Christianという言葉を見る中で、ワシントン州でお世話になった大学教員とその奥様との間で熱い議論がかわされたことを思い出した。お二人ともヨーロッパに出自を持つユダヤ系アメリカ人であったが、そのお二人の間で何気ない会話の中ではあったが、かなり熱い議論が、今から15年ほど前に交わされていたことを思い出した。奥様のほうは、ワシントン州の公衆衛生関係の公務員の方であったが、普通の公立学校教育を中心とした子供たちの教育の場合、建前として、Judio Christian という語がつかわれるものの、学校のイベントをとってみても、アメリカの公立学校文化はあまりにもChristian側によりすぎており、Judioの側面への尊重がないということで、そのあたりのことを議論しておいでであった。この議論は、アメリカ・ユダヤ人学者たちの学問的な問題だけではなく、実は市井のユダヤ人の皆さんにとっても、どうも気になる問題であり続けていることは、時々感じる。アメリカに住むユダヤ人にとって、公立小学校がそうなら、ムスリムの皆さんにとっては、もっと劣悪な環境に見えるに違いがないようにも思う。

               

              手島論文についての記事は以上で終わりである。あともう一回、中村うさぎさんのインタビューについて、記事を書いて、この号についての連載を終わる。

               

               

               

               

               

               

               

              2017.11.11 Saturday

              『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (7)

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                今日は短め。

                 

                『福音の地下水脈』という新連載の中での中村うさぎさんのインタビュー記事の前編からご紹介してみたい。インタビュー記事自体は、なるほどこういう経緯で中村さんってお過ごしになっててきたんだねぇ、と思うような記事で、面白いんだけれども、ある一文が一番気になったので、そこだけ、紹介したい。他にも、この2017年11月号には面白い記事は多数あったのだが、それらはご自身でお買い上げいただいて、お読みいただければと思う。

                 

                人を縛ろうとする神々(諸力)

                さて、今回気になったのは次のインタビューの回答としての、中村さんのご家庭の中にあったという複数の人を縛る諸力(中村さんは、神と呼んでおられるが)の存在である。

                父は、世間よりも自分のルール優先なタイプで、正直じゃないといけないっていう気持ちが強い人でした。世間がどう思おうが、「俺が正しいと思ったこと」をいう。洗礼は受けてないけど、家に聖書をおいてて読むようなタイプで。思ってもないことを言わないっている自分のルールを、彼はキリスト教に結びつけていた。「神の前で正直であらねばならない」みたいな。

                (中略)

                父にとっての神はキリスト教の神なんだけど、母の神は世間なの。世間がジャッジするんです。世間の目から見て恥ずかしい、恥ずかしくないといったかたちで。だから、私にとってはダブルスタンダード。幼少期に善悪とかそんなものを親が子供に言うわけだけど、正義を基盤とした父の善悪と、恥を基盤とした母の善悪では、全く定義が違うから。(福音と世界2017年11月号 pp.44−45)

                 

                ここで、中村さんのお父様が、信仰告白はしないけれども、聖書を読むタイプ、という文章を読んだときに、ある面、非常に日本的だなぁ、と思ったのである。聖書を西洋哲学か、西洋思想・西洋文化の基盤としては、知りたいと思うけれども、聖四文字で表される神とともに生きることはしない、そして、かなり自己流の理解を聖書のテキストに読み込もうとする、というある時代に生きた日本人男性にかなり典型的に見られたキリスト教との関係のとりかたの姿であり、いまでも、結構このタイプの『何となく、キリスト教に対する思いはあるし、ある程度のことを知ってはおられるけれども、神と共に生きるとなると、二の足を踏んでしまい、しかし、聞きかじったことや、自分の意見と合う部分だけ聖書から読み込んで、一人合点してしまっておられる」というタイプの方は、案外多いような気がする。おそらく、ある時代にキリスト教とであって生きてこられたの方々には案外多いような印象を持っている。そして、大抵の場合、「お話しておられることと聖書の全体の首長とは必ずしも一致しないと思いますが」と申し上げると、その段階で話が終わってしまうことが多いので、案外ご対応するときに細心の注意が必要なことが多いようにも思うのだ。中村さんのお父様のようにキリスト教界の外側だけではなく、キリスト教関係者の中にもおられるようにも思う。まぁ、年齢が若くても、このタイプの自分の思うキリスト教の理解のみをご主張の方は確かにおられるけれども。

                 

                日本の現代社会とキリスト教会の中にある

                恥や常識という人を生きづらくさせる神々

                さて、この一文を読みながら思ったこととして、中村さんが取り上げている問題は、中村うさぎさんのご家庭だけの問題ではなく、日本のキリスト教にかかわる問題でもあるのではないか、と思った。それは、自分自身が神と信じる神と、世間自体が価値をおいている世間という神との対立の問題である。

                 

                世間という神、世論という神、みんなが言っているという神、もう少し言うと、空気という神のような神ならぬものが現代の日本にも確実に存在し、それが人々を縛っているように思う。

                 

                ときに、世論という神、みんなが言っている神、世間という神は、人々を様々な形で縛る。ある場合、常識であると主張されるかたちかもしれないし、世論というかたちでかも知れない。そのようなかたちで、人間を縛っている部分はあるように思うのだ。ここで、中村さんが言うように、ちょうど、人々を本来の神のかたちにするのではなく、小さなコミュニティ、あるいは、小さな世界における世間の望むかたちに個人や人々に強いていくような部分があるようにも思うのである。そして、多くの人がそれに巻き込まれているが故に、人々に世間という神の如きもので、神ではないものが望むことに従うようにさせる。大抵の場合は、それは神々でもなく、世間でもなく、ある声の大きな人の思いということが大きいようには思うのだが。関わるとろくでもないことになるから(だから疫病神のような存在なので、神なのかもしれないが)、とりあえず問題に向き合うのではなく、具体的にこのような世間とか、常識とぶつかって問題化したり、具体的にこの世間とぶつかることで生じやすくなる問題を避けるという方向でかなりの人々は動くようになる。実に、日本的な日本の神々への対応と同じである。

                 

                災厄をもたらす日本の神々

                以前にも、このブログ記事でかいたが、日本における古代神には、結構祟り神が多い。人に祟るから、それを崇敬して遠ざけて、それが人間に悪しきことを起こさないように、供物を供えるのが、割と古い時代の日本における神々への対応であったように思う。数多くの親和にそれを見出すことができる。多くの場合、災いを起こさぬようにというと、消極的なので、災いではなく福を願う行為に現在を読み替えられているものの、おそらくは、厄除けなどという言葉にも残っているように、その神から発せられる災厄を除くための神々扱いになっているのではないか、とも思う。日本の神は、災厄からの開放という福音を告げる神ではなく、神の存在そのものが災厄の原因であることが多いように思う。そのような意味で中村さんは、お父様の正義の神とお母様の恥の神と言う表現をしているのだろう。その神という発言の背後には、災厄をもたらしかねないものとして、お二人の主張やお二人がおっしゃったことで生まれることが表現されているように思う。

                 

                根津神社の厄除けのチマキ

                http://michiruhibi.com/2014/04/23/old0324/ から

                根津神社という名前から、低湿地等でもともと水害の常習地域(作物の根に水がついて農産物が被害を受ける地域)の神社であることが想像される

                 

                住吉大社の厄除けのお守り

                https://www.yakuyoke-yakubarai-jinja.com/yakuyoke-omamori/kansai/27-osaka/001-sumiyoshitaisha.html から

                 

                しかし、日本の教会には、日本の教会と教会の信徒を縛る教会(教界)という世間とか、その教会固有のテンプレートなのか、教会の恥とか、キリスト教会の恥とか言う名前の神ならぬ存在があるようにも思う。本来、神のかたちへの回復がなされるはずの教会でも、「このように生きよ」、「あのように生きよ」さもなければキリスト者にあらず(つまりそれは恥である)というような常識というのか、キリスト者の行動パターンに関する常識というのか、テンプレートが強固にあるようにも思う。そして、そのかたちの中でしか生きさせない諸力のようなものが存在している部分があるように思えてならない。もともと、変な人を変な人(他者と違う人が他の人々とは違っている存在)のままにしておくことを認めないような何かがあるように思えてならない。

                 

                どうもこの辺が、日本の牧師子弟や、キリスト教2世の生き方を縛っている諸力となりやすいのではないか、とも思う。生き方を縛られるような、そんな災厄に縛られるのが嫌だと(それは誰しも、若い間は特にそう思う様に思うのだが)、多くの若い皆さんたちは思うのかもしれない。誰が、好き好んで、他者からの束縛を、特に若い時期に望むだろうか。他者からの束縛を受けるような場に残れる人々は極めて特殊な人々からなる集団ではないか、とも思う。他者から何らかのかたちで縛られることに疲れきった若者がどんどんと逃げ出していっているのが、現状の日本のキリスト教会の何処かにあるのではないか、とも思う。

                 

                多様な人々が一つの神を一つの様式で

                礼拝する教会という場で思うこと

                そういう常識とかいったことの縛りの殆どない教会に現在は参加していて、いま、かたちとしては、式文の様式と儀式の様式だけには縛られながらも、どこか自由を味わっているミーちゃんはーちゃんがいる。そして、見た目も、日常会話に用いる言語も違うもの同士が集まり、同じパンを食べ、同じ杯のぶどう酒につけ(あるいは、ぶどう酒を飲む)、実に多様な人たちが存在する中で(その意味である地域固有の文化や常識というものが、共有事項として共有されない状況の中で)、異なる神ではなく、共に共有する唯一の神を共通の礼拝様式で礼拝するという行為をなす中で、この人々がこの場で織りなす多様性ということはなんだろう、ともともとかなり変な人であるミーちゃんはーちゃんは時折考えている。文化や常識といったものからの束縛からも開放され、他者からの束縛が殆ど無い中で、あえてその中で、神を礼拝する意味とはなんだろうか、と考えつつ、近頃は聖餐式に参加している。

                 

                 

                以上で、この2017年11月号についての記載は終了としたい。

                 

                 

                 

                 

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