2017.10.14 Saturday

人口減少社会と地方部と教会の悩み(その1)

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     以前お小さい方シリーズで、教会の中に若者がいないシリーズ、教会学校が成立しないシリーズをやったが、今回は人口減少社会と教会シリーズをちょっとやってみようか、と思う。と言うのは、ここ1週間で、地方のドサ回りをすることが多かったので、そこで色々、地方に行ってみて思ったことがあったから、という単純な理由である。

     

    岡山の研修会で(参加者の高齢化に恐れ入りました)

     先日、いのりフェスティバル2017 in Okayamaの前に、天満屋岡山本店のちかくの岡山教会での講演会にいのフェスの際の機材設置位置等の下見を兼ねて参加してきた。そこで参加者の皆様方のご様子を見ながら思ったことは、宣教委員会なのか、伝道委員会なのかはすっかり忘れてしまったが、全体に参加者の年齢層がかなり高い、ということであった。


    そこで話された内容は、教会は興味があっても入りにくいし、行ってみようという気になっても、いつ、どんな格好で、何を持って、何をしに行ったらいいのか、わからない。キリスト教には、興味関心があるが、教会にはどうも、と思っている人が多いのではないか、そして、自分たちとしては、当然とおもっていることが、キリスト教界以外では案外当たり前ではなく、あるいは、自分たちが自分たちの教会環境にあまりにも慣れてしまっていて、それが持っている異彩さと言うか、世間から見たらちょっとドン引きするような状態になっている、そして、そのキリスト者にとって当たり前と思っていることが、その協会以外の人をドン引きさせてしまう、というような実例を紹介しながら、「こういうのはマズいんじゃないですかねぇ、では、もうちょっと考えて、「こんな風に変更してみたらいいんじゃないでしょうか?」といったようなことを考えるためのヒントをちょっとご紹介する、というイベントであった。

     

     そして、三連休の頭の土曜日で、翌日に日曜日が控えているとは言え、そこに来ておられる人達がどう見ても60歳以上の皆様方が大半で、40歳台以下は、牧師さんたちだけではないか、と思われる状況であった。こうなると、役員さんか、牧師さん以外は、役員さんから頼み込まれて動員されてきた方ばかりなのかなぁ、という印象が会った。宣教とか伝道に責任ある立場だから高齢の皆様方が多いのは致し方ないのかもしれないが、おそらく、それは、教会の人口の年齢構成の無作為サンプリングした結果とあまり変わらないのではないかなぁ、と思う。

     

    いのフェスでの一言が火をつけた

     日曜日を挟んで、翌月曜日には、祈りフェスティバル2017 in Okayamaに、広島市の北側の三好という町からきてパイプ・オルガンで開始前の前奏と賛美歌と終了前の後奏をドラゴンクエストのテーマを適当に混ぜながら演奏してくださった牧師先生がふっと発言なされたご発言がなにより印象的であった。「教会のドアを開けていても、誰も入ってこないし、だいたい、人が教会の前を歩いていない」広島市に隣接する北部でもそうなのか、と思うと同時に、地方の現状は概ね、もう、道路を日中人がほぼ歩いていないし、教会のドアを開けておいても、入ってくれるのは都会だけなのだろうなぁ、と実感をもって思ってしまった。ほぼ同じ内容のことが、最新号のMinistryに書いてある。というのは、その号に乗っている方のお一人が今回パイプ・オルガンを演奏してくれたのだ。ありがとうございました。この場を借りて、御礼を申し上げます。

     

    そこで、ある地域の人口ピラミッドを簡単に作成してくれるアプリ(ひなたGIS )を宮崎県の職員の方がRESASデータを使って、割と簡単に動くものを作っちゃって、公開してくれているので、それを使ってオルガンを弾いてくださった先生の教会のある三次市の人口ピラミッドを1980年、2000年、2020年、2040年(2020年と2040年は、厚生労働省の人口予測データの模様)で作ってみるとこんな感じになった。今から20年後の三次市の人口は、今でも人が道を歩いていないのだとすれば、あと20年後は、もっともっと、約2/3程度へと相当減る模様である。その中で、教会を維持するということは、本当に大変だろうなぁ、と思った。

     

     

     

    図1 1980年の三次市の人口ピラミッド

     

    図2 2000年の三次市の人口ピラミッド

     

     

    図3 2020年の三次市の人口ピラミッド

     

    図4 2040年の三次市の人口ピラミッド

     

    図5 ひなたGISのインターフェース

     

    結構1980年代当時はかなり凸凹していた人口ピラミッドが、かなり上手な大工さんが必死になって槍鉋で鉋をかけた感じにかなり平板になっているというのは、実は人口がめちゃくちゃ減っているということなんだと思う。これでは教会の維持が精一杯ではないか、と思う。人口減少の中での教会参加人数の地方部での拡大というのは、もともと地方部での人口がこれだけ減るのだから、教会人口も減るざるを得ないだろう。

     

    聞くところでは、一部で日本の教会をコンビニ数並みにという暴論もあるやに聴くが、コンビニすら、もはや、このあたりの地域では激減するのではないだろうか。コンビニは、まだ、トラック運転手さんたちや営業職の人なんかの通過交通による需要が存在するが、通過交通としての礼拝出席者というのはほぼないので、かなり存続は厳しいなぁ、と思ってしまった。

     

    世俗の仕事で行った某県北部地域で

     そして、今週の木曜日には、某県の北の方の自治体職員の皆さんと企業の皆さんとの情報化に関する研究会に出てきたのだが、その中で少し話題になっていたのは、人口減少社会の中で、あと10年で、15歳から65歳までの生産年齢人口が40%減となってしまうという予測データ(図6)と人口ピラミッドにおける20歳から30歳人口の極端な減少があるという現状(図7)が示され、それに対してどのように対応しようとするのか、ということについてちらっと話になった。

     

    図6 某県の北部地域の人口推移

     

    図7 冒険北部地域の人口ピラミッド(2016年)

     

    ただでさえ、もともとそう多くない生産年齢人口が40%減するということは、非常に厳しい状況である。その地域には、割と全国的に有名な温泉(泉質と染料の多さで有名な温泉)があったり、冬の日本海の海産物で結構有名な産物があるのだが、どうしてもそのような観光産業の場合、シーズン依存型の産業構造であり、定住人口が安定的に存在しない状況があるようだ。定住人口が少ないために消費支出が少なくなっている部分(経済活動が減少して、人口が減ったままの部分)を、なんとか観光客の支出で不足分を旅行者などの旅行の際の支出で埋め合わせようという対応ができないか、と考えられていると聞いた。人口減少分とその速度の速さを考えると、実に厳しいし、たまたま、その地域はそういう天然資源や観光資源があるので、対応できるかもしれないが、そのようなもののない地域では、ほぼ絶望的、ということになるのだろう。

     

    人口が増えるのは簡単ではない地方と教会
    その地域でも定住人口を増やすために、移住者人口を確保するために、産業振興とかして、一部移住者が増えているが全体からすると、ほぼその増加は微々たるものなので、影響がない程度、ということらしい。定住人口を増加させるために、いろいろ、スモール・オフィスやホーム・オフィスあるいは、サテライト・オフィスとかでネットで仕事を外から受託してきて・・・言う方法もあるが、どうもうまくいかないし、それが成功し、ある程度の集積ができるためには、同じ業界のそれもある程度のノウハウが有る人が一定数の人数が小さな地域に存在しないとうまくいかないらしい。

     

    大体、こういう目玉的なことをやったとしても、あとは、同じようなアイディアをほとんどすべての自治体が競ってやろうとするので、そうなると、こういう核になる人物と人材の取り合いになり、その結果地域の成長の産業集積と言うか核として一定の規模に達せず、おそらくは、全部が発展軸になる規模を超えられずに五月雨的に崩壊していく、各戦線でのその場限りの人的資本の逐次投入、すなわち、戦力の逐次投入になってしまい、最終雨滴にはダラダラとこのような本来核となることが期待されたものがだんだん崩壊してきそうな気がする。皆自分の地域は良い地域、と思っているから、同じようなことをやったら、自分ところには絶対に来ると希望的観測で想定しているのではないか、と思ってしまう。

     

    そういうことを考えると、実に地方は、もう急速な人口減少社会、個性も特徴もない地域になり、非常に無力感に苛まれそうになる状況の中に入っているのかもしれない。


    日本の地方部の教会は、そのような人口減少社会の中にしかなく、まさか、サクラダ・ファミリア・クラスのよほどの施設でもない限り、観光客相手に教会運営もできなさそうなので、地域の人口減と同様の人口減を前提として教会運営をしていく必要に迫られているということのように思う。

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

    2017.10.16 Monday

    人口減少社会と地方部と教会の悩み(その2)

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       今回の連載は、地方都市、というよりは、町村部における地域社会とそこにある教会ということについての記事であるが、前回、少し、教会について触れてきたので、今回は地域社会の側について、ウェイトを置いてもう少し書いてみたいと思う。

       

       

      地方都市以下の町村部の悲哀あるある

       最近は、テレビやラジオ、インターネットがあるので、これらのメディア経由で入ってくる情報が遅れるということはないのだが、雑誌や書籍は、確実に時差というよりは、流通日差(時差)がある。例えば、東京のある雑誌販売店では、雑誌は発売日前日に入る販売店もあるのに(なぜだか、タバコ屋のようなお店であるのに発売日の夕方に売っている店があるのは知っている)、神戸あたりで当日販売であっても、兵庫県でも山陽本線沿線から外れると、発売翌日販売になるところもあるらしい。昔仕事を一緒にしていた先生の情報によると、福岡市内あたりでも、1日から3日、長崎県内では、2日から3日は確実に遅れると聞いている。

       

      大都市住民にとってみれば、一日2回新聞が配達されるのが当たり前かもしれないが、案外そういう地域は少ないのだ。新聞が一日2回発行され、配達されるためには、それだけの需要があるということであり、それだけの需要がないところでは、長官のみのところが案外多いのではないか、と思う。また、新聞にしても、人口稠密地帯だと、自宅まで配達してもらえるが、地方部だと、その地域の住民数件分の皆さん向けの新聞受けが集落の入り口にあるのみ、というところもある。最初にそれを見たときには何のことかわからなかったが地元の人に聞いて、それが当たり前だという社会が存在しているということを数年前に知った時にちょっとびっくりした。

       

       

       あるいはノーベル賞候補として話題に登る村上春樹本なんかでも、地方部は配本が遅れる。あるいは販売当日に配本がない書店も結構あるだろう。まぁ、新刊書や雑誌や新聞メディアに乗っている本を手に取るのが一日二日遅れたところで、どうってことはないのだが、そもそも、今、町村部の書店数はどんどん激減しており、地方部での書店は絶滅危惧ビジネスの一つであり地方部の町村部で書店飲みの営業で存続している書店はかなり少ないのではないだろうか。先日お伺いした兵庫県の北側の牛とカニの名産地の近くの街の公民館に「本を読みましょう」というのぼりが立っていた。帰りがけに町の新しいバイパス沿いの商店街の中心地(商工会館の近く)の書店の一つを道路上から見たら、書店という看板をかけながら、おそらく冠婚葬祭向けと思われるカタログギフトショップや喫茶店も併設して営業しておられるご様子であった。書店だけでは経営が苦しいのかなぁ、という様子が伺われた。

       

       

      旧道の沿道の商店街の書店

       

      バイパス沿いの書店(ギフトショップと喫茶店が併設された書店)

       

      写真は、いずれも、Google Mapのストリートビューで見た訪問先の書店の外から見た画像である。

       

       

      「本を読みましょう」という標語をみて

      ところで、世俗の仕事(会議)があった役所近くの公民館にはその地域の住民向けの標語が掲げてあって、「挨拶をしましょう」ともう一つの標語(何だったか忘れた)と並んで「本を読みましょう」という標語が掲げてあった。

       

      その町には、先にも述べたが、書店は2軒あったらしいが、そのうち一つの書店は、書店と喫茶店とカタログギフトショップであることを考えると、書店で、販売されている書籍のバラエティはおそらくかなり少ないだろうし、その中から自分の趣味に合う本を選べと言われても…ということもあるかもしれない。こう考えると書店経由での書籍へのアクセスは、かなり厳しいと思わざるをえないので、「本を読みましょう」という標語を掲げておられるということは、多分、そこの町の公民館に併設されていると思われる図書館には、きっと本がたくさん置いてあるのだろう、とは思った。あえて公民館に入って確かめることはしなかったが。

       

      ちょっと気になったので、地方部の現状を確かめるべく、兵庫県の市区町村別図書の蔵書数を確かめて見ようと思ったが、検索で引っかかってこなかった。そこで検索した際に見つかった岡山県のデータが見つかったので、岡山県の市区町村図書館の情報を調べてみることにした。それで、人口一人当たりの市町村別蔵書数という地図を作ってみた(こういうのを作ってそれが何を表していて、このような地図から何が言えそうなのかを考えることが、本業である)。

       

       

      市町村別公立図書館所蔵図書数

       

      まず、全体の図書館の保有数では、人口がある程度大きく、財政的に豊かだと思われる岡山市がトップで、さらに、倉敷市がそれに続いている。しかし、全体で見てしまうと、都市域が広い死には、分館などもある可能性が大きいので、都市規模が大きい年のほうが有利になる。そこで、人口一人あたりで考えてみるとどうなるのか、ということでその指標で、作ったのが以下の図である。

       

      一人あたりで見ると、どうも人口の少ない町部では、母数になる人口が少ないこと、どうしても最低限の図書は置かなければならないこともあり、必置図書数というものがあるので、そうなると、人口が少ないほうが一人あたりの図書数で計測した場合、有利になる。

       

      岡山県市町村別人口一人あたり図書冊数

       

      上の図でもなんとなくは分かるが、実際の一人あたりの本の数がどの市町が多いのかをわかりやすくするため、3次元化してみたのが以下の図である。こうなると、どうも人口の小さそうな市町間でも、指標値である、市町村の一人あたりと諸冊数自体にはかなりの差があることがわかるようになる。

      岡山県市町村別人口一人あたり図書冊数(3D化) 

       

      では、新規の図書等の資料購入に各自治体の人口一人当たり、年間に、どれくらい費やしたかを平成27年度について、図にしてみるとこんな感じになった。こうやって見ると、最も多いのは県東部の瀬戸内市が1位890円弱であり、ついで、2位は高梁市で770円前後、図書館がない村を除けば、県東部の市町では年間一人あたりの資料購入費用が150円以下の市が2市ある。こうやって見ると、図書館の資料の整備状況まではわからなくても、同じ県で、ここまで差があるのか、ということが分かってしまう。

       

      平成27年度の市町村別人口一人あたりの資料購入費用
       

       

       

       

      文化的なイベントへの限られたアクセシビリティ
      地方部では、美術や音楽などのアクセシビリティが限られる。CDやDVDで音楽鑑賞などができるとは言うものの、会場で生み出される一種独特な雰囲気は楽しめない。また、今はネットで様々な絵画や彫刻が見られるとはいえ、2Kや4K画像フォーマットでは、かなり詳細に、確認できるとは言うものの、現物にはかなわないところがある。

       

      キリスト教に関しても、有名講師の講演会があり、一般に公開されているとは言うものの、それに参加するためには、大抵の信徒にとっての業務日の月曜日(牧師の休業日なので、この曜日がイベント開催日として、選ばれることが多い)が多いし、更に東京でのみ開催されることが多いので、交通費はかかるは、下手をすれば、1泊になるわ、地方在住者にとっては、参加がためらわれる感じのことが多いし、おまけに、この手のイベントは、ネットでライブ配信されないことが多い。また、後日DVDが発売されても、その情報は会場にいない人には流れてこないことが多い。このような点では、東京周辺の南関東の信徒さんは、アクセシビリティの点でかなり恵まれているようには思う。

       

      空間というか、距離というのは、差別的ではある。アクセシビリティ(参加しやすさ)に、距離は確実に影響するのである。そして、距離は人の間に格差を生み出し、近い人は、影響を受けやすいし、遠くの場合、影響を受けにくくなるのであり、空間は差別を生み出したり、差別を強化するためにも用いられたりする。聖書の中で、イエスの親族がイエスに向かっていった発言にも、それは現れている。イエスは周辺と呼ばれたガリラヤでその活動の大半の時期を過ごし、イスラエルの失われた羊のところを回られたように思うのだ。

       

      【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】

       7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。
       7:4 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。

       

       

      話を元の話に戻し、キリスト教の世界以外の部分での様々な文化的なイベントについても目を転じると、人数が少ないゆえに集客が期待できないからと、クラッシック音楽系だと、有名音楽家のコンサートに接する機会も極めて限られる。J-ポップのコンサートはあっても、ジャズなんかでもコンサートはなかったりする。また、美術館で、展覧会の巡回先になることも限られている。映画にしても、結局劇場で見ることができない作品も地方部では多い。

       

      こういうことを考えてみると、先程図書館について、簡単な分析を試みてみたが、それと同様のことを文化的なイベントについてやってみると面白いかもしれない。そのためには、美術や、音楽などのイベントへの支出を各自治体の決算書から取ってきたり、その文化的行事へのイベントの参加者数のデータを入手しなければならないが、これらのデータが入手できれば、それぞれの基礎自治体(市町村)がどのような文化行政に重点を置いているのか、どのようなことに各自治体の住民の関心が高いかということが多少はわかるかもしれない。

       

      次回へと続く

       

       

       

       

      2017.10.18 Wednesday

      人口減少社会と地方部と教会の悩み(その3)

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        この連載は、一応、本日で、最後にしたい。お付き合いいただいた皆様に感謝申し上げたい。

         

        そもそも論として、日本は人口減少社会の中にある。特に、これまで2回の連載で、地方部が先行してその人口ピラミッドの形状が、人口ピラミッドが起伏に飛んだものであったものから、年齢層にかかわらず、概ね平板な状態へと変容し、さらに90歳以上の女性の高齢者が飛び抜けて大きな人口を占めるであろうと予測されていることを、厚生労働省の過去の人口統計結果と、市区町村別の人口予測結果をもとにひなたGISが勝手に作成してくれる人口ピラミッド図でお示ししてきた。

         

        地域の人口構成が教会にも反映するはず

        人口ピラミッド図が多くの町村部でこのような構造になるということは、基本的に従来経験したことのないような人口構造に地方部での人口構造が変わってしまう以上、地方の町村部の中では、都市部以上に少数者である可能性が高くなる地方部(特に町村部)でのキリスト者の人口構造も、結果的には当然変わってこざるをえないように思う。

         

        教会の人口構成が地域の人口構成を一定程度反映するとすれば、地域の人口変化に応じて、教会の人口構成も変化するのが当然だし、変化するであろう。すると、以前は、あるイベントをやらなくても、退屈しきっていた地域に定住している人は何事か面白そうなことがあると思えば教会に集まっただろうし、イベントをやれば、教会が人であふれた(たとえ、その中で、その後も継続的に教会に訪れる人はほとんどいなかったとしても、一応、福音を伝えた、宣教ができたという自己満足はできたのではないだろうか)のに、今では、その教会の存続している市域や周辺の領域の人口構造がそもそも変化しているので、地方部で、何かイベントを打ったところで人は集まらない。

         

        昭和30年代の日本の姿 

         

        ここで上の動画で指摘されているように、1分間に3人も生まれる社会で、テレビも各家庭にない状態であれば、そのような状態の昭和30年代中期には、日曜日の朝の日曜学校はほっておいても満員になったであろう。

         

        関東と地方の情報感度の違い

        今は、東京の小さな教会に転任された牧師先生は、非常にユニークな方であり、先日、東京にも行ったときに話をお聞きしにお伺いしたのだが、以前の地方の任地は、九州の地方部の工場城下町の教会であったり、四国の地方部での地場産業だけがあるような街であった。これらの地方部の副牧師をしたりと地方部を回られた経験の中で、もちろん、普段奉仕している教会での礼拝でのメッセージや、無牧になった教会に月一回程度訪問しての礼拝やらはしておられるなかで、葬儀の説教はかなりの経験があっても、結婚式の司式や、バプテスマを授ける経験がないまま過ごしたことをお話になられた。

         

        地方におられた時期から、ツィッターもしていたし、フェイスブックといったソーシャルメディアネットワークにも積極的に投稿しておられたのだが、「ツイッターで反応があるのは極端なことを言ったときだけ、それもその反応は、地元から帰ってくるのではなく、東京や大都市のツィッターをしている人から帰ってくるだけで、ツイッターのその方の発言を見て教会に来ることはなかったなぁ」と印象深そうにおっしゃっておられた。ところが、東京でツイッターとかで写真をあげたり、Facebookでメッセージの要約をブログとしてあげたり、説教の録音をあげたりすると、かなりの反応があるとおっしゃっておられた。ツイッターとかブログとかの反応の中には、「長年、そちらの教会の前を通勤で毎日通っていたのですが、教会があることにこのツイッターを見るまで、気が付きませんでした」とか「ツィッターで説教を流しているその牧師さんは、どんな人なのかなぁ、と思って…来てみました」とか、という人が来られる、という趣旨のことをおっしゃっておられた。「こんなツィッターなどの反応がダイレクトに帰ってきて、教会にそれをきっかけにして人がくるようになった、これは地方ではちょっとなかったことだなぁ」と感慨深げにお話されたおられたのが印象的であった。

         

        そもそも、地方の人は、ツイッターもあまりしないし、地方在住者で、ツイッターをしている人たちというのは案外偏った人が多くて、そこでいくら発言したとしても、それが伝道につながらない、ということをおっしゃっておられた。そのお話した時にちょっこし出た発言の中で、ツィッターで話題になっていることの大半は、地方の住民に直接あまり関係のないことが多いので、そもそもツィッターで拡散されても、地方部ではそれが大きな運動につながらない、というところはあるんじゃないかなぁ、ということをお話しておられた。

         

         

        人間関係(口コミ)で情報が伝わる地方

        人間関係が希薄だからネットで情報が伝わる都会

        その時に話題になったのは、地方部の人々にとっては、人間関係のネットワークが密である(人間関係の紐帯の束が太い状態である)ので、必要な情報は、人間関係のネットワークからまずもって入ってくるのであって、別にツィッターでの情報をキャッチしなくてもよくなっているとか、ツィッターで流れる情報は芸能人関係の情報以外(それも、大抵は誰ぞがくっついた、別れた、痴話げんか中だの)という本来、犬も食わないはずの話なのに、なぜかテレビ局のワイドショーでは国際ニュースで流すべき話があるはずにもかかわらず、特集を組んでくれたり、雑誌ではやたらとお知らせしてくれるので、いつの間にか、国民の関心事になっていて、お天気の話程度の話題の一つになっている。そもそも、街のスーパーの特売情報は新聞折込が教えてくれるのであって、ツィッターやネットでは教えてくれないので、基本、ツィッターなるものは田舎の人にはあまり関係ないメディアらしい。まぁ、どこそこで、韓流スターのコンサートがあるだの、外国の有名オーケストラや有名演奏家のコンサートに行ったのだのというような情報を垂れ流しにされても、他人をうらやむ原因にこそなれ、自分がかえってみじめになるだけ、いけなかったことを悔しく思うその思いを深めるだけに過ぎない。

         

        このような東京との連動性のなさは、情報化社会の現代でも、500kmという距離で隔てられただけの、関西でも同じようなものかもしれない。首都圏、関東圏では、SEALDsの動きが起きたとしても、東京での盛りあがりはかなり盛りあがりがあっても、関西では、それに連動した動きはちらちらと見られたものの、安保闘争の時のような大騒動や大衆運動とまでにはならなかった。その背景は何か、ということを考えてみると、どうも、学生や世間の側の関心が、昔は反対運動にしても単純であり、明確な路線対立があったこと、もう二度と戦争は嫌だというそれぞれの個人の戦争での悲惨な個人的経験が社会全体に広く存在していたことなどがあり、その観点から、安保反対で、一本化できていて、学生運動や労働運動など社会のさまざまな運動体が反戦争、反安全保障条約を目指して運動が一体化しやすい状況があったようにおもうのだが、現代では、理解関係が本来の複雑さを持ったものとしてみられ、社会の各層の関心事が多元化していて、妥当すべき対象がうっすらと焦点がぼけてしまっていることに加えて、戦後すぐの貧しさを経験していない若者(60年安保反対運動に関係した人々は、戦後すぐの貧しさを個人的体験として、かなり体験していたと思われる)にとって、現状に特段の不満があるわけではない、といった側面もあって、SEALDsは大衆運動たりえなかったし、秘密保護法に関してだって、現状で仕事がない、飢えているなどの現実的な個人に関する生存の危機が起点になっていない以上、社会的な運動とはなりえなかったように思うのである。そういえば、交通ゼネストというのが年に2階はミーちゃんはーちゃんが小学生くらいの頃まではあって、先生が出勤できない、というようなことがあったのだが、そんなことも今はほとんど記憶の中にしかない。

         

        1969年の難波のデモの模様

        http://www.takanoetsuko.com/sub19690615.html から

         

        その意味で、空間は差別で気であり、空間がある以上、それが交通手段の発達で移動の摩擦抵抗やネットの存在で、情報伝達の辞さの抵抗がかなり軽減されたとはいえ、空間ごとに特徴が生まれ、よって、地理屋と地図屋の飯の種は減らないのである。ありがたいことである。空間は一様なふりをしているものの、実は、ちょっとした地表の凸凹や空間的な距離は、社会において多様性を生み出す母であり、地図屋にとっての飯の種を生んでくれるありがたい存在だと思っている。

         

        対立を覆い隠しうる豊かさ

        対立を助長する貧しさ

        「金持ち喧嘩せず」という俚言があるが、豊かさ、というのは、社会の安定要因になるのである。ヨーロッパ生まれのムスリムが過激化する背景には、仕事がない、仕事があっても、社会の底辺の仕事しかさせてもらえない、受けた教育を活かせない、人種的な違いによる差別待遇を受ける、言葉にどうしても、鉛が残ることによる差別とか、その差別がコンプレックスを生み出すというの複雑な要因で過激化しているに過ぎないのであって、ムスリムだから過激なのではない。それが証拠にサウディアラビアのムスリムのあるグループは過激思想を持っていることで有名であるが、国内において、豊かさを享受しているので、テロ活動はあまり見られないように思う。むしろ、貧しい国、豊かさが享受できない人々がいる国の中でこそ、過激派と過激派の行動が生まれるように思う。

         

        日本は、昔貧しかったので、決死隊的なSuiside Mission(自爆行為)、典型的にはKamikazeと呼ばれる自殺行為的な作戦に遂行に若者は参加できたが、豊かさを享受した人々にはそのような作戦に参加する意義はほとんど見出せなくなるのではないだろうか。同じ、軍歌のメロディーでも、2010年頃の若者にとっては、こんな替え歌になってしまう。

         

        加藤隼戦闘隊の替え歌

         

        元歌の加藤隼戦闘隊

         

        先に、少し60年安保闘争に触れたが、それは絶望的な貧しさがあったからこそ、ある種自殺行為的に近い反政府運動ができたのであり、社会が豊かになった70年代安保では、思想的な反対運動であったが、内ゲバは見られたものの、自殺行為的な反対運動にまではならなかったのではないかと思うし、もっと豊かになった80年代には、闘争そのものが下火になり、三里塚闘争を最後に、このような闘争自体が下火になってしまったように思う。

         

        これまでの地方部での拠点型宣教と

        これからのキリスト教の定着

        ところで、明治期以来、日本では、外国人宣教師により、日本での拠点型での宣教活動が行われてきた。そして、その後日本人宣教師が、そのパターンを踏襲しながら、外国人宣教師たちと強調する形で、地方での拠点型形成型宣教が行われてきた。それは、ヴェネツィアの海軍基地戦略、イギリスの海軍基地戦略、ポルトガルの領土戦略、あるいは、15年戦争期(日中戦争期)の帝国陸軍の中国侵攻計画でもそうであった。このタイプの戦略は、投入できる資源、ことに人的資源が少ないので、どうしても橋頭保を形成し、その橋頭保となる拠点を守り、極力その勢力を保持するために耐久型、ないし持久型作戦しか取りようがないという問題がある。面的、ローラー的に広げることは、物理的に不可能なのである。となると、拠点を抑えてしまって、その後、拠点からの影響力を期待しつつ、時間をかけて浸透していくしかないように思う。それが一番無理がない(合理的)であるように思う。こういうことを考えると、日本のキリスト教も、面的に拠点間を結ぶような連携策をとって、広げていくような、急拡大を目指すのではなく、都市部の橋頭保にこもりながら、400年計画位の感じでじわじわと広がっていく戦略の方が、人的資源の面でも、物理的資源の面でも、適切なのかもしれない、と思い始めている。この拠点形成型タイプの場合、戦略拠点を抑えることで、一見支配領域が広がったように見えるものの、実は、拠点は橋頭保のような存在でしかないので、面的な広がりの面で安定性に欠けることである。日本のキリスト教は、これまでもこの橋頭保型の教会形成がなされてきたように思う。それが最も日本社会への合理的な対応戦略であったから、そうなったのかもしれない。

         

        あと、このタイプの問題は、ヴェネツィアにしても、ポルトガルの植民地にしても、帝国陸軍の大陸侵攻にしても、日本のキリスト教会にしても、外国や都会からの宣教師という来て帰る人達による運動と運営であって、それらの人が現地化のしないところにメリットがあったし、来る人は定住しないことが合理的であった。もし、本格的な地域や地方での定着を目指すのなら、どこかから来て帰るのではなく、定住し、定着できるかどうかが地元の人からは問われているのではないか、と前回、前々回の記事をめぐるFacebook上のやり取りをする中で思った。このような現在の宣教モデルがどのような合理性があり、どのような方向性で宣教モデルがこれまで組みあげられてきたか、というのは案外反省してみる必要があるのではないか、と思った。今後、日本でキリスト教が面的な広がりを持とうと思ったら、信徒が定住する社会での存在を大事にしたキリスト教でないと、面的な広がりを確保できないのではないか、と思った。その意味でも、これからの地方でキリスト教が広まるためには、信徒さんの人間関係の束というか、人間ネットワークに依存した伝道しかないのではないか、とも思うのだ。

         

        地方の地元に残る人々の特性とキリスト教会

        あと、Facebook上での対話で面白かったのは、長崎のN先生の前回の記事へのコメントである。地元に残る若者(ないし地元にUターンしてくる若者)の特性である。地元に戻ってくる、ないし地元から元々出ていかない若者は、基本体育会系、運動部系の人々が多く、文化部系のオサレさんたちは、都会に行ったまま、基本返ってこない、というご指摘があった。これまで、キリスト教は、文化部系の文字を読んだりするのが好きなオサレさんを多く含む層への伝道を得意として、それに取り組んできたように思う。そして、地元に残るような文字を追っかけるより、ボールを追っかけたいと思うような、ちょっこしやんちゃな部分のある体育会系の人への伝道はどうも二の次、3の次になっていたのではないだろうか。とすれば、高校生や中学生のころに分化部系の人々に熱心に伝道した結果、それらの人々が大学や就職で大都市に張り付き、東京などの首都圏や大都市圏では、やたらと教会ができ、キリスト教人口が集中し、地方での教会の礼拝出席人数が一けたになるという構造はある面、当たり前の様な気がする。

         

        ところで、この基本大都市に出ていったままの文化部系の人々は、都会に出たら、年に盆暮れ正月だけには都会に出てきた人々は戻ってきて、その時期限定で、地元での消費を増やし、地元で活発な消費活動を行うので、地元で人口が起きるのは、盆暮れ正月だけだ、というのである。でも、これは事実だと思う。しかし、この盆暮れ正月消費にしたって、地方部の商業活動の売り上げが急増するのではないか、という指摘が出てきたのであった。これは、非常に大事なのである。要するに、地方部で都市部の住民からの消費を通じた所得移転が店や商工業者やその時期にも働く地元の人々も所得増で多少は潤うものの、その消費支出の大半は千葉の幕張メッセに本社を置くAEONさんにその大半を巻き上げられてしまうというどうしようもない構造が、現代の日本には渦巻いているように思われてならない。

         

        いずれにしても綴浦々にまで、キリスト教が伝わるのには、あと数百年かかるかもしれないが、そして、現状での効果は見えにくいかもしれないが、50年後、100年後にキリスト教の花が咲くように、数先年の歴史を超えて花を咲かせた大賀ハスのように神が花を咲かせて下さるものとして、今日も、明日も愚直に生きていきたい、と思っている。というのは、ミーちゃんはーちゃんには、それしかできないからであるが。w

         

         

        この連載、今回で終わりにしたい。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        2017.10.21 Saturday

        ふるさと納税ならぬふるさと教会献金(1)

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          今日は、これまで3回にわたってご紹介してきた人口減少社会の地域とその中の教会に関する記事のスピンアウトである。今回と次回はふるさと納税制度とふるさと教会献金と題して書くことにしたい。今回は、まずふるさと納税について少し説明しながら、地方における今の現状について、少しお話してみたい。

           

          ふるさと納税という制度

          最近はあまり新聞、雑誌、テレビやラジオで言わなくなったが、ふるさと納税すると、かなりの地域の特産物がもらえる上に、減税措置があるというので、一時期話題になったことがあった。今でも、地域の返礼品と減税を目当てに、この制度を利用している人は一定数おられるようである。

           

          兵庫県西脇市のふるさと納税返礼品 http://www.city.nishiwaki.lg.jp/kurashi/furusatokifukin/furusato.html

           

          ふるさと納税制度の動画(西脇市)

           

          政府による制度の公式説明

          総務省のふるさと納税のサイト(http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_zeisei/czaisei/czaisei_seido/furusato/policy/)によるこの制度の意義として、次のようなことが書かれていた。

           

          ふるさと納税には三つの大きな意義があります。

          • 第一に、納税者が寄附先を選択する制度であり、選択するからこそ、その使われ方を考えるきっかけとなる制度であること。
            それは、税に対する意識が高まり、納税の大切さを自分ごととしてとらえる貴重な機会になります。
          • 第二に、生まれ故郷はもちろん、お世話になった地域に、これから応援したい地域へも力になれる制度であること。
            それは、人を育て、自然を守る、地方の環境を育む支援になります。
          • 第三に、自治体が国民に取組をアピールすることでふるさと納税を呼びかけ、自治体間の競争が進むこと。
            それは、選んでもらうに相応しい、地域のあり方をあらためて考えるきっかけへとつながります。

           

          一応、まぁ、なにか制度設計の本音を隠しながら、本制度をかなり美化してお書きになっておられる様に思う。意義の一つ目として、納税者が寄付先を選択できるというのは、地方財政学の地方公共財の提供における受益者(居住者)負担の原則からみれば、地方公共財の受益とその提供コストの負担の原則からいって、おかしな制度であるように思う。まず、その意味で、この制度は、今後、国による地方交付税交付金制度をやめるつもりの前提として導入される制度なのではないか、と勘ぐりたくなったのである。地方も財政難であるが、国も財政難である。赤字国債の発行、その他の特殊会計や基金を取り崩している状態であり、景気対策、景気浮揚策ということで財政出動がこの20年前後続いており、一時的に瞬間風速的にプライマリバランス達成はしたものの、それ以降、10年以上、国の財政は、慢性的な赤字体質(所謂借金漬け)になってきていることは、下の財務省のグラフをご覧になって頂くと、おわかりいただけるであろう。糠の古漬けもあまりに古くなると食用に適さないのと同じように借金の古漬けも食えなくなる。

           

          http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/004.htmより

           

          どうも、このふるさと納税制度というのは、地方振興を目指して、厳しい人口減少社会に直面しつつある地方自治体にふるさと納税で金をぶち込み、さらに、それで自治体が地元の農家(1次及び6次産品を扱うようなかなり大きめの農家とか農事法人)とか、食品工場とか、地元の小規模商工業者の商品を自治体が購入することで、政府の消費を増やすことで、その自治体の企業や住民に還流する資金を増やそうというような政策としか思えない。つまり、もう、国は地域間での公平な発展を図るために設けられた、地方交付税交付金(一種の地域間均衡政策、ナショナルミニマムの達成政策)の存在を軽くすることで、国の負担を軽くするとともに、人口減社会における地域での個人や家計による消費増がおきることで、仮想的な人口増に近いふるさと納税政策を採用することで個人(家計部門)の力でちゃんと地域間の公平を図るようにしてもらえないか、と言い出したように見えて仕方がない。ある面、地方自治体の側からみたら、国の責任放棄と言われても仕方がない政策であるように思える。多分、総務省の言い分は大分違うだろうけれども。財務省と総務省の言い分がどうも微妙に温度差があるようであるが。

           

          もし、仮に、このふるさと納税だけになり、国が、交付税交付金を全くやめてしまったら、それは、国家(財政当局)が地方を見限ったというのか、見捨てたということである。つまり、国ないし中央政府が地方の困っている自治体を見捨て、どうせ税金なんだから、交付税交付金を国民の自主的な意思に従って自分で考えて再配分してください、というようなものである。従って、交付税交付金を国が制度的に全くやめてしまう、とは思わないが、既にふるさと納税のような制度に、弱小の地方自治体の切り捨てとは言わないが、弱小地方に対する冷たい視線を感じてしまうのは、読み込み過ぎだろうか。

           

          地方交付税の推移のグラフ

          http://www.soumu.go.jp/main_content/000399803.pdf より

           

          町村合併で起きたこと

          それと同時に、平成の町村合併で、基礎体力の弱い弱小の自治体へは合併特例交付金や特別債権の発行ということで、町村合併が進められ、もともと3200ほどあった市町村がいまでは、1700ちょっこし程度にまで減っている。同じ地域にありながらも、かなり地域特性の違う市町村が、合併して巨大な市域を持つ自治体になっていて、それで、独自性を出せとか、地域の特殊性に応じた行政とか言われても、かなりそれは無理なのではないか、と思っている。このあたりの肌感覚は、地方部にすまないで、大都市圏の合併していない自治体あたりでずっと過ごしていると、肌感覚としてはわかりにくいのではないか、と思う。というのは、大都市圏では既に、一定数の人口があるので、あまり町村合併が発生しなかったからである。しかし、このような町村合併によって、地域の住民にとっては、そもそも、その自治体では長く続いてきたために、当然のことと思っていた行政サービスがなくなったり、あるいは、思っても見なかった行政サービスがある日突然利用できるようになったり、あるいは、従来は地元の役場で住んでいた話が遠方の合併後の本庁舎に行かなければならなくなったりと、これは案外いろいろな生活の側面においてかなり影響が及ぶ話なのである。それはそれで、合併した効果の一つとして、自分の地域の行政を考え直すきっかけになるのかもしれないが。良いか悪いかは別として。

           

          教会合併で起きること、教会閉鎖のその後の調査

          まぁ、教会合併でも同じ教会でも、教会ごとに形成されてきた文化があり、その文化が違うと、摩擦が起きることはあるだろう。その辺の摩擦は不可避でもあるので、教会合同をあえて選ばず、教会閉鎖のようなかたちでの推移はありえるだろう。そして、閉鎖された教会の人々が、類似のキリスト教会(場合によっては、かなり毛色の違うタイプの教会の場合も少なくないようであるが)におそらく吸収されていっているという経緯があるように思う。

           

          ところで、閉鎖や解散など、なくなった教会の信徒のその後の追跡調査(これは結構厳しいことに関する調査であるが)とかは、今後の教会の閉鎖とか廃止を考えた時に、今余裕があるうちにやっておいたほうが良い調査かもしれない。そして、今後の閉鎖とか廃止を考える際に参考にできるようにすることも大事かもしれない。

           

          北海道地区での話から

          ところで、聞いた話によると、どうも北海道地区は、江戸幕府が蝦夷地開発を始める前には、そもそももとからそこに住んでいる人びとがアイヌと呼ばれた北海道原住民の皆さんのみで、大半の皆さんは明治以降に北海道に流れ込んで来た住民が大半であることからか、寒冷地であるため、協調できずに孤立したら、下手すると死を覚悟しないといけないためなのからかは知らないが、割りとこのような文化的な違いがあっても、対等に付き合える文化があると聞いたことがある。ただし聞きかじった話であり、直接実地調査したわけではないので、その点での限界があることはここで認めておく。

           

          しかし、本州になると、自治体の合併でもそうだが、あそこはもともと城下町だから、あそこはもともと農村だから、一体いつ頃の話か、と思われるような江戸期以前に遡る因縁話が続々と出てきて、まとまる話がまとまらないなんてことは結構あるが、おそらく、教会の統合とかやろうとすると同じような話が、もうちょっと短い明治以降の歴史のことにかんして、わんさか出てくるのだろうなぁ、と思ったりもする。

           

          返礼品目当てのふるさと納税って、どうよ

          もともとの話に戻れば、ふるさと納税は、自治体内に住む人々で定義される人口とそれに基づく自治体の地方税の収入が地方部にある自治体では少ないため、どうしても税収が少なく、財政力が弱い地方の自治体が国民としての地方自治体での最低限の行政サービス(水道や道路、図書館や教育…)を受けるために、国から地方自治体に提供されていた交付税交付金以外にも自治体の独自収入を増やし、自治体の財源の多様性を増やす制度である。その意味で、フルさと納税制度にとっては、返礼品は、本来二の次の話であるはずであるが、テレビや新聞、雑誌などをパラパラと見ていると、時折、その返礼品目当てにふるさと納税して税額控除を増やしましょうとかというわけわからない話や、ふるさと納税で豊かな生活をとか、どうも妙な話が出てくる。

           

          もし、本気で地域に納税で貢献したいなら、住民票を移してしまう方がいいかもしれない。そうなると、ふるさと納税とかいう中途半端で、税の基本概念から見ても、かなり怪しそうな制度に載るよりも、住民登録すると、交付税交付金を決定する際の積算根拠になる基礎的行政需要を決定する際の住民数も増えるし、さらに、納税者として投票するために現地に行けば、それこそ、そこで色々消費もするので、地方の経済の活性化にも資することになると言うのは冗談であるが、選挙での投票は現実的ではなくなるものの、都市部に住みながら、地方部に住民票を置くということも、地方自治体にとってはありかもしれない。ただし死亡届などの問題が出たりするので、あまり簡単に非居住地以外に住民票を写すことは進められはしないが。

           

          それはそうと、この話のきっかけになったのは、神戸で教会をご案内したある方と、車で神戸市内の幾つかの施設を巡りながら話したときの雑談の中で出てきた話が、今回の連載の根底にある。それについては次回で述べる。

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          2017.10.23 Monday

          ふるさと納税ならぬふるさと教会献金(2)

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            前回の記事では、国の制度としてのふるさと納税という制度とその問題として、地方財政学上の原理原則等にかんがみて、かなり疑問の残る制度であることをお話したし、本来ふるさと納税に伴わないはずの返礼品と、特に、その返礼品目当てのふるさと納税の問題を少し触れた。

             

            今日は、その教会編についてである。

             

            発想の発端となった雑談

            神戸にある異人館の写真を取りに来た方を、カトリックの鷹取教会(阪神大震災後、紙管工法で作られた教会の後に新しい協会ができた教会)に行ってみたいとおっしゃったんで、ご案内した。「ご聖堂に行かれたら面白いと思いますよ、でも自分の教会でないので、どんどんお御堂(聖堂)に侵入して、ご案内するわけには行かないけど…」とか言いつつ、とりあえず、内部にはいってみたいとおっしゃったので、入り口までご案内した。

             

            その後、神戸以外の方をご案内するいつもの和食レストランにご案内する途中、地方の小さな教会の話になり、それらの教会の存続の話になった。地方部は厳しくて、都会の教会に信者さんを送り込み続け、そして、自分たちは、高齢化が進み、教会の建物とかの維持も困難になっているし、牧師は、2教会、3教会、4教会掛け持ちしている人は少なくなくて、その中で、どのように教会活動を維持していくのか、地域自体の高齢化と人口減少があるし、その中でのサバイバルってのはけっこう大変になるんじゃないか、ということを考えていた。

             

            すると、ふるさとの教会から、東京などの都市部の教会に大学とか就職をきっかけに東京に言ってしまい、昔なら、交通不便とかもあったので、ある程度の地域に企業も人材を配置したけれども、飛行機もあり、新幹線もある中で、東京からの日帰り権がどんどん拡大する中で、企業が地方都市とかに人を貼り付けておく意味があまりなくなっているという側面があって、地域の産業構造も昔とは変わってきた結果、東京では、多様な教会があり、様々なタイプの人々に適応する教会があり、割と年齢段階やその人の聖書理解に合うような教会が見つけやすいかもしれないけれども、地方に行くと絶望的だし、教会と呼ばれるものがあるだけマシの地域もあったりするんですよねぇ、とかいうようなお話をしていた。結果として、都市部の教会は、あくまで地方部に比べてであるが、どんどん人も増え豊かになり、教会財政に各教会を見ればそれほど余裕がないにしても、地方に比べればよほどマシな経済的状況にあるところは少なくない。また、東京とかだと、ふるさとの教会に教会籍をおいたまま、盆暮れ正月のときには故郷の教会にちょこっと顔を出し、都会では、特に都会の教会に教会籍を移さず、客員のまま過ごす信徒さんも信仰生活のあり方としては、少なくないかもしれませんねぇ、とか言う話になった。現代の日本の教会ではドイツの中世都市に関する俚諺である「都市の空気は自由にする」が、ほぼそのまま当てはまるのではないか、ということもお話しながら、頭の片隅には、ちょっこし浮かんでいた。

             

            イエスは人々に開放を告げたようなのだが・・・

            イエスの教えは当時のユダヤ人が、妙な律法主義に凝り固まり、人々の生活が様々な制約でがんじがらめに縛られ、本来の神との関係の中にないような状態に近い状態になっていた人々に、その開放の日がいよいよ来た、ということをイザヤ書預言を引用しながら、告げたので、人々はその部分を読み、解き明かしをしたヨセフの息子をまじまじと見たのだろうし、パリサイ人は、このどこの馬の骨ともわからない中年に入りかけのイエスを違う意味でまじまじと見つめていたのかもしれない。

            【口語訳聖書】 ルカによる福音書 4章 16−22節
            それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
            すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
            「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
            主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
            イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
            そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

            すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。

             

            しかし、その直後、イエスが重篤な皮膚病患者で、預言者時代に癒やされたのは「シリアのナアマンだけ」とか言い出したら、人々は殺気立ち、イエスを崖から突き落とそうさんばかりのような勢いになったのである。

             

            歌謡に人々に開放を告げたはずの教会が、がんじがらめに人々をしているとしたら、どうなのだろう。それって、イエスが実現されようとしたことの真反対とは言えないまでも、かなり方向が違ってしまっているのではないだろうか。そして、地方の教会の若者が自由にされるのが、「都市の空気」だとしたら、それは一体どういうことなのだろうか、とも思う。

             

            特に、都会に出てくると、地方には、教会の選択肢が殆どないとは言わないまでも、行く候補になる教会が限られる状況に比し、交通費をそんなに掛けなくても、様々な教会に出没できるし、キリスト教書にしても、出版されたその日に手に入るし、キリスト教書店の在庫にしたって、バラエティが非常に豊かであるし、都市部のキリスト教書店は、めちゃくちゃおしゃれとまでは言わないけれども、書店の雰囲気もかなり明るい。また、キリスト教書を扱う書店の候補も多くないし、また、様々なキリスト教書店に行く経費だって、ヘタをすると1000円以下で、移動時間として2時間もあれば数軒回れたりもする。その意味で、Facebook友達のMさんがFacebookでコメントしてくれたように、キリスト教は、基本的に都会向きの宗教というか信仰形態である、という側面はあるとは思う。地方では、キリスト教(耶蘇教という地域は、さすがに減ったと思うが)関係者であるということは、都会以上に少数者であり、生活が困難になる場合が存在するようである。

             

            地方部の教会で若者として過ごした日々の記憶から

            地方にある大学に入学し、かなりの距離の北関東のある地方都市の教会に通いはじめた頃、その地方都市の教会で大歓迎された経験がある。その北関東の教会では、東京から数時間からの距離であるためか、高校生くらいまでは熱心にその地方教会に大勢かよっていても、進学や就職でみんな東京に出ていってしまって、その人達は、滅多に帰ってこないという経験を十数年近くされたところに、突然降ってわいたかのように大学進学にともなって高校でたてのミーちゃんはーちゃんがいったもんで、地方都市の教会のおばちゃん、おばあちゃんたちには大変喜ばれたし、そして、おおばあさんやおばさんたちから、たいそうかわいがってもらった。ちょうど、高校に海外の高校からの留学生が突然現れたという感じであったのであろう。そういう珍しい存在であったからか、かなりありがたい経験をした、と今でも思っている。

             

            そこのおばあさんたちから30年ほど前に聞かされたところでは、その地方都市の教会でキリスト教と出会い、都会に送り出すことで、「都会の教会で熱心に神とともに生きているから、それでいいのだ」という思いをおきかせいただいたものの、「それでも若い人はいないのは寂しいねぇ」ということを時折は漏らしておられた。その教会は地方都市の規模からすると、かなり珍しく、30名近くの教会員のおられる教会ではあった。大学卒業後十数年して、近くで用事があったので、ご訪問したら、ほぼ経過年数分だけ平均年齢が上がっている状態であり、これはやばいかもしれない、と思ったことがあった。まだ、人数が多い分だけ、その当時問題は明確化はしていなかったものの、あと10年後を考えると、状況はかなり厳しいだろうなぁ、というのは思った。

             

            ふるさと教会献金の原型

            ある方との神戸市内の教会を巡る雑談の中ででた話の中に、地方の教会に教会籍を残すのなら、参加者としてはカウントされなくても、教会人数には入るのだし、年に数回でも多少は献金もあるだろうから、それで、教会の存続に多少は貢献できるかもしれないねぇ、という話になった。その場での話はそこまでであった。

             

            そんなこんなことなどを思いながら、前回の連載である 『人口減少社会と地方部と教会の悩みシリーズ』に、Facebookのお友達のMさんがふるさと教会献金のようなことを言い始めた。若い神学生を地方に派遣してみたら、とか、若手のうちは、地方教会に貼り付けるとか、地方教会の教会員が作ったものを都会の教会で売って、地方の教会の維持経費に充当するとか、教会という建物をやめて、家庭巡回型での家の教会のようにするとか、まぁ、色々なアイディアを展開してくださった。

             

            しかし、アイディアとしてはあっても、いざ、それを実現するとなると、いろいろな障害が北アルプスの山々や、本家ヨーロッパアルプスや、ヒマラヤ山脈のように立ちはだかり、それを超えていくことが困難である事が多い。その山々を越えようとした段階で、アフリカから象や軍勢を率いて、ローマを目指した、かの猛将ハンニバルも結局は力尽きたように、多くの人々も力尽きてしまうと思う。特に、モノが関連した交流を素人がするのは、物流が分かってない行政マンが、それを非常時に自分達でやるということで徒労を経験するように、かなり厳しいことに直面せざるをえないのである。

             

            アフリカから象に乗ってローマに向かうハンニバル

            https://www.pinterest.co.uk/pin/150518812520249226/ から
            特攻野郎A-Teamのハンニバル

            https://forums.inxile-entertainment.com/viewtopic.php?t=18402 から

            映画『羊たちの沈黙』に出てくるハンニバル・レクター
            https://www.scoopwhoop.com/hannibal-lecter-quotes/
            羊たちの沈黙の予告編

             

            ところで、何のために貨幣があるのだろうか。それはそもそも決済や安全な資金移動のためである。安全、確実、迅速に資金移動を可能にするシステムは現在の日本社会ではあるのではないだろうか。

             

            ところで、新約聖書によると、エルサレムの地方が飢饉に襲われたとき、異邦人教会は何をしただろうか。信徒代表たちに金をもたせ、山賊、海賊が跳梁跋扈する地を旅して、資金を届けたのではないだろうか。だとしたら、現代においては、貨幣や全銀手順を利用して非カカウ的低廉な手段で、地方部への資金移動ができるのではないだろうか。

             

            非常時だけでなく平常時の人的交流を含めた支援も

            類似のことは、阪神大震災の被災地にある教会、東日本大震災、熊本地震、豪雨災害の被災地にある教会に、日本全国から支援物資や支援献金が送られた。これはこれで、日本のキリスト教会が同じキリストに従うものであること、同労者であることをかたちを通して表明し、そして、その痛みの軽重はあるにせよ、ともにあるものとして覚える機会になったとは思うが、割りと、一時的なもののような気もする。無論、継続的にそれらの被災地域の教会を支援されている教会があるのも知っている。たしかに災害などの非常時の支援も重要であるが、平常時でもいたんでいる教会を定期的に覚えること、祈りの中で、まだ直接会ったことのない教会の人々を覚えることも重要なのではないか、と思うのだ。

             

            この時期、Facebookを見ていると、各地の教会の牧師さんも地方のあちこちの教会で奉仕しているお姿をお見受けする。そういうのを見ていると、教会間の顔が見える交流が成立していることの証左だと思うのだ。その際に、都市部の教会からの支援資金として、ある種のふるさと献金とともに数名の信徒が都市部から参加し、地方の教会に参加し、交流するとかいう程度なら、まだ実現可能性はあるのではないか、また、地方の教会との定期的な講壇交換として、都市部の教会から地方部の教会に信徒を含め、参加するような交流なども意味があるかもしれない。

             

            まぁ、全国展開しているような教団がある場合、一種の教会間平衡化資金として、資源配分がされているということもあるやに聞いているが、そういうのがない単立教会では、何らかの方法で、他の単立教会との人的交流とふるさと教会献金として、教会の献金の中からの他の教会へのある教会からの資金的寄付というのは、教会の責任としてあってもいいのかもしれない。もし、それが機能不全となっていて、教会間資金へ行こうかが行われず、祈れ、頑張れ、とだけいい、個人の善意による資金移動だけになっているとしたら、教団本部とかがある意味ってなんだろう、と思い出す人たちがいても当然かもしれない。ただ、それは、帝国陸軍の前線への派遣部隊運用方針とほぼ同じなので、なんだかんだ言って、現地で鋭意奮闘努力せよ、と寅さんの詩にあるようにゆうだけかもしれない。ただ、通常の教会献金(月定献金とか)にプラスとしての献金だと、それはいかがなものかと思う。もし、個人でするよりは、教会の交流として、した方がいいかもしれないとは思うのだ。

             

            前回の記事で、ふるさと納税の一環として返礼品目当てのふるさと納税はいかがなものか、と申し上げたが、教会の場合も、返礼品目当ての協力券金とか言うのは、いかがなものかとは思うのである。「神に捧げたものは、本来神のものであるし、自分たちの教会だけの献金でもないのではないだろうか。そして、自分たちの教会だけが、教会だけでない」といったようないうような視点がもう少し、日本の教会にあってもいいように思うのだが。

             

             

            この連載終わり

             

             

             

             

            2017.11.04 Saturday

            水谷潔さんの2017年10月末のFacebookの投稿から思ったこと(1)

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              ここのところ世俗の仕事でめちゃくちゃ忙しかった上に、忙しさを作り出した仕事が完了したためか、ここまでの緊張が一気に解けたので、疲れがどっと出てちょっと休みたかったのだが、体調が悪い中、導入したシステムが動かないというトラブルを抱えた業務協力先からとにかくご協力いただきたいという電話が入ってきた。相当お困りで、緊急に対応されたいご様子だったので、その事業所でのトラブル対応のため、休みも取れずに10日連続で仕事をすることになった。そうしたらである。水谷潔さんという昔はブロガーで鳴らした方が、面白いスレッドを上げておられ、何やら賑やかしくなっているらしい。

               

              水谷さんの話題のスレッドから

              そのスレッドをまず御清覧いただきたい。一旦ご清覧頂いた上で、ミーちゃんはーちゃんが割と日常的に触れている学生の皆さんを見ながら思っていること、ちょっと違和感を感じたところを突っ込んでみたい、と思う。

               

              昨今の青年たちは、「生きる意味」とか「人生の目的」など求めていないし、必要ともしていないとのこと。真理を求めて教会を訪ねる未信者も、昔とは違いごく少数。(この事実はショックだったし、受け止めるのには葛藤もありました。30代あたりまで該当するようで、これが伝道困難の要因の一つのようです)


              それなのに「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルから脱却しきれない自分がいます。もはや機能しない方法論と知りながら、モデルチェンジできない硬直した自分です。(最近は何とか、若い世代対象の伝道メッセージについては、人生論的説教や目的・意味提示説教は避けるようにしています)

               

               そうした中、最近、ムスリム伝道の経験を持ち、現在は日本の大学生伝道で実を結んでいる若い伝道者にお会いしました。

               彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。

               

               日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。

               

               そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。(人生の意味や目的は信仰決心してから、本格的に教育されるとのこと。)

               

               対象に応じた柔軟な切り口、「意味・目的・真理不要の世代」への伝道モデルを示していただき、感謝するばかり。硬くなった頭を柔軟にしなくてはと思いながら、モデルが乏しかったので、これはありがたかったです。

               

               若い世代の伝道者から、「意味・目的・真理不要世代への伝道」の指針を教えていただけたのは大きな恵みでした。私の小さな経験が同様の葛藤や行き詰まりを感じておられる方々のお役に立てば感謝なことです。

              という文章である。

               

              若者が変わってきた、そして、その若者の変化に追随できてない日本のキリスト教の伝道の方法論が、現在のキリスト教世界の伝道不振の原因の一端ではないか、そして、未だに1950年代、1960年代的な伝道アプローチのままを無反省に繰り返しているかもしれない、ということを最近お出会いになった若い伝道者の方にであって、お気づきになったというのが、水谷さんの投稿での主要なご指摘である、と理解することができるであろう。

               

              ミーちゃんはーちゃん風の突っ込みしてみました。

              以下では、その記事に突っ込みながら、ちょっとミーちゃんはーちゃん風に考えたことを述べてみたい。完全に今回の企画、水谷さんの企画に悪乗りした記事であることは自覚的に熟知している。

               

              昨今の青年たちは、「生きる意味」とか「人生の目的」など求めていないし、必要ともしていないとのこと。真理を求めて教会を訪ねる未信者も、昔とは違いごく少数。(この事実はショックだったし、受け止めるのには葛藤もありました。30代あたりまで該当するようで、これが伝道困難の要因の一つのようです)

               

              真理を求めてきたとされる人々って、中二病患者の一種で

              周りから「ビッグ」って思われたいだけだったかも

              まず、昔は「生きる意味」とか「人生の目的」と言ったある種の真理を動機として、教会に来る人々がいた、というが、それは本当だろうか。個人的には、真理とか、意味とか、目的という用語の定義とかその用語の用法がおかしかっただけではないか、と思う。大学という組織は、本来、学問的真理の追及機関であり、ある種の真理を動機とした人々が来るところとして世間に理解されている部分があった。たしかにそうだろう。

               

              真理追及をしているはずの組織に人口の半分が行く時代に

              しかし、1945年以降、とりわけ大学進学率が15%を超えるか超えないか、と言った頃、すなわち1950年代後半の頃から大学という社会は大衆化の方向に進み始め、1970年代で一気に大学大衆化は進展する。一方で、その時代は安保闘争などが行われた時代でもあった。このような状態のなかで、大学に入学して、大学を卒業していった人々の中にどこまで真理追求動機があったかというと、それは現在とほとんど変わりがないのではないか、と思うのだ。

               

              先にも少し述べたが1960年代前半くらいまでの大学入学者は、男性人口の15%前後であった。1975年前後に40%を超え、1995年前後に男女にかかわらずもほぼ50%を超える。最近は60%に迫る勢いである。全人口の15%程度の変わり者が来る組織なら、本人に「お前は真理追及を自分でせよ」と言っておけばよかったのだが、人口の約半分が来るようになれば、その真理追及のやり方から、真理とは何か、とかをある程度消化可能な形にして渡さないといけなくなるので、本来真理なぞをそもそも欲しがってはいない人が、なんとか消化可能な形にするのは、かなり面倒な作業になってくる。大学人は、良かれと思ってであるのか、美しい誤解からなのかは知らないが、そもそも真理も欲しくない人たちに、建前上真理が欲しくなるようにする環境整備まで、教育の名のもとにしなければいけなくなっているのである。真理を欲しがっていない人は、正直にそのことを認め、自分に合ったことをするように社会全体で進めるようにならないかなぁ、と面倒なことが正直嫌いなミーちゃんはーちゃんは思っている。

               

              大学進学率の推移

              http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kyoken/data/13.pdf から

               

              大学生を間近で見るものとして、「学生(あるいは若い人)、すなわち、真理動機を持っている人」という単純化には大きな誤解が含まれている様に思えてならない。若い人たちは真理動機を表面上は語るものの、それは、表面上のことでしかないのかもしれない、と思っている。要するに、モテたい、あるいは、社会と言うか世間からの一定の評価を受けたい、と言う思いから真理動機を語っているのかもしれない。もし、それほど真理動機が重要であれば、皆さんもっとマジメに勉強し、大学院に残るはずずだし、昭和30年代後半には、「加山雄三」氏の名前にちなんで「「可」山「優」三」(可[いまでいうC判定、合格すれすれの単位]が山ほどあり、優[今で言うA判定 良い成績の単位]の数が3つしかない成績の悪さを表現することば)という言葉が流行するとはいえない。昔からそういう人がいたのである。

               

              国民的アニメ『サザエさん』に見る大学関係者

              アニメの『サザエさん』の登場人物の一人、伊佐坂先生の長男の大学生甚六さんは、1970年代的な大学生の姿をカリカルチャー化して描かれている人物ではあるが、真理追求者として描かれているとはどうしても思えない。そもそも、海山商事にお努めのフグ田マスオさんにしても、どうも大阪大学の早稲田大学の出身者であるらしいし、盆栽いじりが好きで囲碁が好きな磯野波平氏は、京都大学のご出身らしい。

               

              アニメに描かれている(それも理想化されて描かれている)これらの人々を見ていると、1940年代後半から1960年代前半のこれらのサザエさんの登場人物を見る限り、真理追求をしようとした人びとであるとは、どう考えても思えないようなきがするのは私だけなのであろう。アニメに描かれている大学卒のこれらの登場人物の人びとは、本当に人生の一時期である、大学生や若い時代にも真理を追及をしようとしたのか、その後も真理追及をしようとしているのか、とか考えてみると、どうもそうでもないように思えてならない。

               

              確かに、人口の一定割合は、真理追及に走る人もいる。ただ、たいていの場合、人生の途中で息切れしてやめてしまう人が多い。真剣に真理を追求するとかいうのは、実体的にはかなり限られるのではないか、というのが、ミーちゃんはーちゃんの観測である。おそらく、人口の数パーセント、たかだか10%以下の人々が息切れ族を含めた真理追及をしようとする人々であるといえるのではないだろうか。もし、そうでないとすれば、大学院は人であふれているかもしれない。

               

              ほかの多くの場合、ネズミーランドのような楽しく若者としての時間を過ごすための組織としてレジャーランド化した学校では、要するに、真理追及をするふりをしたい人が多い(多かっただけ)のではないかと思うのだ。なぜ真理追及のふりをするかといえば、それは仲間の間で差別化を図りたいいう思いからかもしれない。そして、読めもしない、そもそも読む気もない日本語翻訳の本を片手に人生や真理を語るふりをして「大物ぶりっ子」をしたかった小物が多かっただけのことではないだろうか。実際に小物であるミーちゃんはーちゃんは、そう思うのだ。

               

              だからこそ、以下のような諧謔に満ちたウィスキーのコマーシャルフィルムが作られたのであろう。要するに、えらい奴、ビッグな奴にみられたくて、真理追及のふりをなんかをするのはやめタラいいじゃありませんか。そして、真理とかを大上段に語ってもいいけど、そんなことよりスピリッツの一種であるウィスキーを飲みましょうぜ、というCMなのではないかと思うのだ。それは、ある種の中二病、思春期特有のはしかのようなものであるのではないか、と思うのである。


               

              故野坂昭如氏が出てくるウィスキーのコマーシャルフィルム

               

              まぁ、ゲーテの若きウェルテルの悩みにしたって、意地悪な見方をすれば、結局色恋沙汰をめぐる悩み(ロマン主義だからしょうがないが)に関する私小説のようなものであって、真理追及の結果に悩み抜いた挙句の自死なのか、と言われると、個人的にはどうなんだろうと思う。

               

              人は、真理追及するはず、という幻影や思い込みに

              振り回される必要はないかも

              それで、真理追及をする若者を前提にして聖書を語ってきたご自身の姿を振り返りながら、次の水谷さんは次のように書く。こういう正直なところがミーちゃんはーちゃんが、この水谷潔さんという人から目を離したくない理由の一つである。

              それなのに「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルから脱却しきれない自分がいます。もはや機能しない方法論と知りながら、モデルチェンジできない硬直した自分です。(最近は何とか、若い世代対象の伝道メッセージについては、人生論的説教や目的・意味提示説教は避けるようにしています)

              これを拝読しながら、真理なんか本来関係ない、と思っているけれども「フリ」だけで真理を追っかけているという日本社会で、「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルでしてきたからこそ、日本の福音伝道の結果を今我々は目の当たりにしているのではないか、と不謹慎ながら思ってしまった。たしかに、戦国時代に来たパーデレたちが見たように、野蛮人の国と思ってアジアの東のはずれの国にきてみたら、高度に発展した文化国家であるジパングが存在したので、彼らは驚いていたのだ。同様に、異教徒であり、野蛮人、バルバロイ(バーバリアンの語源)の国と思って、ムスリム帝国に対峙したら、あちらのほうが数段素晴らしい文化を持っていたことに、素朴に驚いた西洋諸国の十字軍の将官たちがいたのである。日本では、欧米人たちである自分たちが基礎的なアイディアを開発したもののB級品のコピー商品作る感覚で量産しているのだろうと思っていたら、小型軽量化した製品を作って大量に輸入してくる日本に驚いたのが1980年代のアメリカ産業界であっ多様に思う。そのころには、ジャパンアズNo.1と持ち上げられることが多かった。げに思い込みとは恐ろしいことをこれらの3つの例は示しているように思えてならない。

               

              そもそも万代不易の真理とかいうのは存在しないという歴史的な事実を日本では中学校ぐらいの教育で国語教育の一環として教え込まれているのである。

              祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
                   沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
              奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し
                   猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ

              そんな万代不易のものがないという理解が千年レベルで続いてきた社会の中で、真理、真理といったのは、オウム真理教とキリスト教くらいではないだろうか。その意味でポストオウム真理教の日本社会で真理真理といいつのることは、実はかなりナンセンスなことではないか、と思う。オウム真理教に関してはいろいろ言いたいことはあるが、彼らは真理にひかれたというよりは、この成立の出発点がヨガの研究会であったことを考えると、実際に目に見えてヨガが彼らの身体性に効果があったことからこそ、彼らは麻原正晃というグルに従い始める。真理に悩んだ結果のグルへの帰依というよりは、具体的に身体性を伴って効くということの体験をしたからこそのグルへの帰依であったのだと思う。もし麻原正晃というグルが、宙に浮いた真理性の議論に終始していれば、オウム真理教は社会の中で宙に浮いた存在であり続け、社会に対してほとんど影響力を持たない理念系の集団であったようにも思う。そのほうがよほどグルのお弟子のオウム真理教の関係者の皆さまと、犠牲者として不幸にして巻き込まることになった数多くの人々にとっては幸せだったのではないか、と思うのである。まぁ、グルの神通力はどうも普遍的な神通力出なかったために、のちにそのような体験ができない人には、L.S.D.とか言った薬剤が投与され、身体性の経験の薬物による疑似体験が提示されるようになったらしいが。

               

               

               

              そもそも、意味とか、目的というものは本当に普遍的で、確実で完全に善なるものであるといえるのだろうか。逆に近代社会の成立とともに成立した啓蒙思想とかにおいて重要視された、意味とか目的における前提に関する善性を無批判に設定し、そしてそれを追求することがより良い生き方であるというような前提をそもそも置いた議論ではないだろうか。個人的に体育教官室の教員から聞かされた「健全な魂は健全な身体に宿る(だから体育の授業で頑張れ)」という妄言(では、身体障碍者を含む障碍者や生得的な身体における不具合を抱える人々は、健全な魂を持たなくなることになるのでおかしいと思ったのだが)、「真・善・美」を人間が追及するとかいう現実離れした理想など、西欧からそのまま持ち込んだ舶来品としての思想や理解だからということで、価値があるとつい最近まで思い込んでいただけなのかもしれないと思うと、それこそ、近代という時代において適合的な一時的な近代思想や啓蒙思想の根底にあるものを、若者がもはや追求しないことをだれが責められよう。すなわち、近代という西欧型社会が生み出した思想と同様の追及をしないこと、それがポストモダン社会なのだと思うのだけれども、近代社会が単に終わってしまって、近代社会における用語で語っていたキリスト教の世界が現実の不適合を起こしただけなのではないか、と思う。だとすれば、若者は当然のことをしているに過ぎない。そもそも、近代社会というのは世界史的には、かなり特殊な社会であって、長らく続いてきた人類の世界から見れば、普遍でもなんでもなく、かえって極めて特殊な社会だったのではないか、と思う。たまたま、西洋の先進国なのか優等国なのかは知らないが、その社会型を西洋以外の世界に押し付けようとして失敗した理念系でしかないのではないか、とも思うのである。たまたま、それと不可分のかたちで提示されたキリスト教を、普遍的なキリスト教、そして普遍的な真理と呼ばれるものだ(実際西欧人はそういった可能性があるのだが)と思ってしまった日本の不幸であるし、当時の先進国であった西側世界、そして、西側世界でのちょっとだけ後進国であったアメリカ社会のそれを明治の日本、大正時代の日本、昭和時代前期の日本、1945年以降か1980年代にかけての日本が、西洋文明と不可分のものと誤解した西洋文明とそれの基礎を与えていると思えた特殊系のキリスト教の追っかけをしてきたことの反映にすぎないのではないか、と思うのだ。

               

              真理追及とかができる(そのためには真理に実際に人間が触れうる可能性が保証されている必要があるのであるが、それはたぶん無理だと思う)という幻影、人間には存在目的があるはずとか行った幻影、人間には存在意味があるはずとか言った幻影に踊らされていたのが、近代における西洋社会なのであって、それを人間の側で作り出そうとしていたのが近代西洋社会ではなかったろうか。ちょうど、現実に存在する自分のしっぽのようなものをそのまま受け止めるのではなく、それを捕まえようとして、必死になって到達しようと悪あがきをした犬のように悪あがきをしてきたのが、これまでの西洋近代という社会であったような気がしてならない。本来存在そのものを語るにあまりふさわしくない言語と用語とその用法と、そのためには課題が大きい論理体系を多用して、無理してそれを語ろうとしてきたのが、この300年ほどの間豊かで先進的であるとみんなから誤解されてきた西ヨーロッパ社会と、そこでの独自に適合するように展開されてきた哲学やキリスト教ではなかったか、とも思う。

               

              幻影を追い続けてきたのかもしれない教会

              西洋型のキリスト教に大きく依拠する形で日本で伝道してきたことが完全に無益であったか、というとそうでもないと思う。実際に、無理をしていることが多いかもしれない、とは思いつつも、それでもキリストに多くの人々が出会う機会を与えようとしたという意味での意味は確実にあったとは思っているし、その一端として生まれたキメイラ的存在としてのミーちゃんはーちゃんがあることは素朴に認めたい。

               

              グスタフ・モローが

              キメイラ

              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A9

               

              宗教(偶像)あるいは人間に存在する信念体系とそれに踊らされること

              個人的に考えると、宗教とは、一種の信念体系であると思う。そう考えると、宗教とは、ある種人間が生きる上で必要となる信念その者といっても差し支えないだろう。人はこれなしに生きるとすれば、規則も何もないカオス状態の中で生きることになる。これまでの多くの宗教と呼ばれるものは、キリスト教、仏教、儒教、イスラム教、という外側から分類可能にするためにラベルをさまざまの張られているものが存在する。これらの宗教は、一種のそれぞれの文化の中で形成されてきた行動や信念に関する概念体系というか、信念体系と呼ぶのがふさわしいようにも思う。そうであるので、もう少し、このあたり、言語と概念と擁護の整理はもう少しちゃんとやったほうがいいと思う。

               

              ところで、ちょうどパウロが、汎神論的世界に住んでいたギリシアの人々に向かって、あなた方は信仰心とか宗教心にあつい人々だとアテネでいったことが新約聖書の中に記録されているが、人間は信念体系、それが、すべての時代に普遍的で共通であり、さらに時代を超えて、地域を超えて、すなわち、すなわち時空間を超えて受容あるいは共有可能なものであるかどうかは別として、何らかの信念体系を人々からなる社会が有することが多いし、その信念体系を社会の中において価値あるものとすることが多い。その意味で、誰しもが自分なりの個々異なる宗教を持っているといえる。また、同じキリスト教に分類されるとしても、その中での信念体系が万国共通か、時代的に共通か、と言われれば、かなり異なることが多いのではないかと思う。その程度のものである。

               

              ところで、個人の中に全く信念体系がないとすると、その人の行動には一貫性のあまり見られない、壊れた機械のような挙動をしめすか、ある種の乱数的な不規則性(実は計算機の乱数はある規則によって作られているので、実は乱数といいつつ規則性があるのだが)を示すような行動パターンとならざるを得ず、そのような人は、予測不可能性が大きすぎるために社会的生活がほとんど困難になることになる。まぁ、通常の日本語では、このような信念体系を宗教とは言わず、習慣とか常識ということが多いだけの話である。

               

               そうした中、最近、ムスリム伝道の経験を持ち、現在は日本の大学生伝道で実を結んでいる若い伝道者にお会いしました。

               彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。

                日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。

               

              この文章を読みながら、日本には社畜(会社に飼われている従順な家畜のようなサラリーマンのこと)と呼ばれる有給型の奴隷(その意味ではローマ時代の解放奴隷と同じ)がいるのだが、イスラム世界には、神に対して、従順に心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くすタイプの生き方の一つとして、神に従うもの、あるいは神の奴隷・神のしもべであろうとするムスリム(神の奴隷・神のしもべ アブドアッラーとして生きる人々という意味あいをも含む)がいるだけの話であって、両者とも、誰かの奴隷であろうとすることでは、実はあまり変わりないのかもしれない。

               

              誠実を尽くす先が違うだけである。確かに、サウディアラビア系のムスリム社会では、ムスリムの特殊系としての過激な宗教理解を生んだ世界の中では、神を追い求め巡礼のかたちなどで神を愛そうとして命を落とすことがあるかもしれない。しかし、神は神とともに生きようとする信徒の存在を喜ばれることになっているはずである。その意味で命を落とすことまで、他者の命を奪うことまでを容認する概念というのはムスリム世界に広く存在するかというと、かなり特殊な例らしい。あくまで神(アッラーフ)は人が神とともに生きることをのぞんでおられ、神が作り玉石存在が死ンで失われることまでを望んでいないという理解のはずであるし、死ぬことをもってどうのこうのするのは、先に述べたようなサウディアラビア系の特殊なムスリムに固有の現象であるのではないか、とは思っている。

               

              とはいえ、神に帰依するものとしてのムスリムが全体として、神の奴隷として生きることを理想としていることはありそうである(アブドアッラーという名前、時にアブダラと発音されることがあり、その名前は神の奴隷という意味であるが)が、その奴隷として生きる結果に関しては、人(信仰者)によって理解が違うし、それがムスリム流であるらしい。その意味で解釈には幅があるのである。あるムスリムがAの状態であるからといって、別のムスリムがBの状態にあるということは、実際に多く見られる形であり、近代の均質性同質性を重視する世界観ではとらえにくいものなのだと思う。その意味で、すべからくの統一性や普遍性を求めるということとはあまり関係のないのがムスリムの世界であるようだ。

               

              ところが、近代社会にどっぷり浸かってきた現代の日本では、外生的な統一性や普遍性、一貫性を、必要以上にその成員に求めることがある。これが残念なのである。個が無視される社会が近代社会における、ある特殊系としてそのような社会構造が成立している事例を日本においては、多く見ることができるようにも思う。

               

              例えば過労死問題なんかにしても、会社の利益を追い求め、一時的に採用してくれたのかもしれない鼻で息するものが作った会社に愛社精神や忠誠を死をもって示すような一種の殉死精神徒かは、ムスリムから考えれば信じられない世界であり信じられない信念体系であろうと思う。会社とは、個人に労働機会としての雇用と、その対価としての給料を与える社会的存在である。日本では、フリンジベネフィットとしての個人に対するソーシャル・キャピタル(人間としての人間社会で生きやすくするための関係性の束というか関係性が生み出す資源というかある種の資本)までも与えることが可能な社会的存在でもある。そして、そのような社会的存在である企業は、その企業を保有する株主に対しての配当の原資となる企業の利益確保を前面に出し、社員や関係者の人々を関与させようとする。実際、企業が提供する個人に対するベネフィットは多くの場合、未来永劫に保証されたものではない。その意味で、虚像に過ぎないのだが、雇用される者同士、雇用されようとする者には、その企業にしがみつくことができ、それがあたかも当然、あるいはそれが有利なことであるかのような幻想を与え、そして社員同士を無意味に競わせるに近いことが起きるようになる。ある意味で、過労死問題は幻影に踊らされた結果であり、人々が自分の姿を見失った結果であるように思う。

               

              世の中、前回のブログ記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4) でご紹介した、山森論文に引用されているサンドの所論のように、「日本人であることから降りること」は現実的に可能なのだし、「会社員という生き方から降りて、自分の身を守ること」は福祉国家の中では、実際に可能なのだが、それに思い至らないほど幻影に踊らされているとすると、実に悲惨あるいは滑稽ですらあるかもしれない、としか言いようがない。

               

              「人間は弱く不完全である」という事実と

              「強くありたい」という幻影とキリスト教会

              人間は弱い。個人としての人間は弱い存在である。であるからこそ、組織を過剰に頼ろうとするし、その組織や集団に対して過剰な期待を抱くのかもしれない。本来、宗教組織は、ムスリムにしても、キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、仏教にしても、道教にしても、その他多くの宗教でも、その弱い人間にある意味での非公式的な無形のソーシャル・キャピタルを弱さを抱えている存在の人間に対して提供し続けてきた存在であったのだが、今の日本のキリスト教には、その弱さを認める場と時間が教会の中でかなり欠けているように思う。その側面が最近はずいぶんよくなってきたようには思うが。最近読んだ、『精神障害と教会 教会が教会であるために』で向谷地さんが書いておられる文章が少し気になった。

              礼拝という場に恐れることなく自身の弱さをゆだねるときに、その弱さを通して、神様の言葉が私たちの心にしみこんできます。その意味で、教会とは、本来私たちが弱くかつ愚かになれる場所、まさしく「甘えられる場」なのです。(『精神障害と教会 教会が教会であるために』p.103)

              まぁ、ここで、向谷地さんの文章に「甘えられる場」という表現があるが、これは、「神に甘えられる」ということであり、おそらく、神のあわれみを希うことができる場というような意味であって、「人間に甘えられる場」「他者に甘えられる場」と目に見えるものから何らかのものを得ようとする人々や、人間に対することだとか誤解する人が少なくないのが、近代の困ったところなのかもしれない。そして、この神のあわれみを希うことと人間が弱い存在であると認めることは、伝統的にはキリスト教が本来重視してきたことなのであるが、この200年のキリスト教では、このような部分が消え去ってしまい、教会でも自らが祝福されたことを誇る場になってしまっているような側面が皆無とは言えないのが残念なのである。その意味で、「甘えの構造」はどうも日本的なものだという説が定着しているらしいが、「人間が弱く、教会が神に甘えられること、すなわち、神のあわれみを希うことができること」は、個人的には「真理」というよりは、人間の存在に関する実態としてのファクト(事実)だと思う。もし、このファクト、すなわち「人間が弱い存在であること、教会が神に甘えられることを提示する場であること、すなわち、神のあわれみを希うことができること」について、もっとお示しできたら、いいだけの話ではないかと思うのだ。それこそ、真理というよりはファクトの追及というのであれば、神から離れている人間の本来の状態において発生する真理としての弱さを、素朴に認めることを進めるべきなのかもしれない。ファクトとしての人間の弱さを覆い隠すための偶像に等しいもの(学歴とか、富とか、健康とか、コエンザイムQ10の服用による若さといったこと)を意識的にせよ、無意識的にせよ、多数身にまとっていると意味においては、人は偶像崇拝者であることを認めることができるのである、とすれば、それこそ、神の必要性や真理を根源的に説いたことになると思う。その意味で、以下の文章の指摘は重要であるとは思う。

               

               そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。(人生の意味や目的は信仰決心してから、本格的に教育されるとのこと。)

               

              しかし、この部分を読みながら、「意味・目的・真理」の追求であるということを教えてきたキリスト教はたかだかこの数百年のことであり、キリスト教は、長らく「神とともに生きること」と、それがどうしてもできない人間の姿と、死という個人的な終末に向かって歩まざるを得ない人間の姿を見つづけ、そうであるがゆえに、「キリスト」と「神」のあわれみということを求めることが、人間には必要であることを示し続けてきたのであって、そもそも、自らが触れることも触ることもできない真理(こっちのほうと指し示すことぐらいはできるけれども)をあたかも自分が持っているかのようにふるまい、その神の領分にあるべきものである「真理」を教えようとかいうような、本来、神にしかできないはずのことを騙り、神の座を神の名のもとに簒奪してきたのかも知れない、と思う。個人的には、心理が何かとは、神の領分のことであると思っている。

               

               若い世代の伝道者から、「意味・目的・真理不要世代への伝道」の指針を教えていただけたのは大きな恵みでした。私の小さな経験が同様の葛藤や行き詰まりを感じておられる方々のお役に立てば感謝なことです。

               

              その意味で、先にも述べたように、「意味・目的・真理必要世代」というのは、近代的な時代における一時的な存在であり、現代では、それが「意味・目的・真理不要世代」になったのであり、考えるだけ野暮だと思い、考える必要がないと言い出した人々が出始めたのであるとするならば、それはそれで、堕落後の人間の姿に近い形に戻りつつあるということである、と思うのだ。であるとすると、それらのあきらめきった人々に、「あなた方にはできないのは当然のことであり、そうであるからゆえに神はあなた方をお呼びになっておられる。であるからこそ、不安がらずに、こころから神のあわれみを希うがよろしい。神はそれを与えるというのが聖書の約束だ」というファクト(事実)ことをお示しして差し上げるという、本来のキリスト教の在り方に戻すだけのことではないか、と思うのだが。神のあわれみはファクトであり、真理ではないのかもしれないが、そのファクトを単に示すことが大事である、というのは違うだろうか。

               

              そして、日本のキリスト者も、モデルやモデル的な演奏のような固まった生き方を追い求めるのはやめたほうがもういいのかもしれない。そして、いわゆる理想的なキリスト者の伝道パターンというかモデルに縛られるのではなく、もうちょっとプロセス志向で、神とのアドリブをもっと楽しめばいいのになぁ、と思うのは、きっとミーちゃんはーちゃんだけなのだろう。そして、それが、リングマが、『風をとらえ、沖へ出でよ』で主張している主要首長であると思うのは、ミーちゃんはーちゃんの理解力が足らないのではないか、とも思う。

               

              また、もうちょっと書いてみるつもりである。

               

               

               

               

               

               

               

               

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              コメント:1章が4ページで区切られているので読みやすいし、内容は日本の教会への示唆に富んでいるように思う。おすすめ

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              コメント:よい。

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