2009.06.06 Saturday

この本は素晴らしい

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     この本はとても素晴らしい。

    アメリカにおける神の国 H・リチャード・ニーバー 聖学院大学出版会 柴田文子訳

    あるブログ、というよりは、あめんどうさんのブログ「本を枕に―スピリチュアルな日々」で紹介されていたクリスチャニティ・トゥデイ誌が選んだ20世紀の神学書ベスト100の中に出ていた「キリストと文化」(日本基督教団出版局 現在在庫切れか絶版で注文不能・中古で13,000円以上する)が入手ができなかったので、その代わりと言っては何だが、この本を注文して読んだ。なお、キリストと文化は英文で読む予定。

    アメリカ人が、アメリカを神の国と思い込んでいる理由、アメリカ人がGod bless Americaと叫ぶときに私が感じる違和感の理由がよくわかる。アメリカ文化を研究する人たち、現在の日本の中のキリスト信仰の中からアメリカ文化の影響を除くためには、この本を読んでおいたほうがよいかもしれない。

    一部記述を紹介。
    「選ばれた民、約束の地というテーマのすべての変種が、後世 ―特に危機の時代― に賛美されたとき、人は再び、アメリカ人はキリスト教の中に社会的信仰を見出し、またそれを形成したと主張する誘惑に駆られる。」(アメリカにおける神の国 H・リチャード・ニーバー 聖学院大学出版会 柴田文子訳 p27
    「このようにしてアメリカにおける神の国は、アメリカこそ神の国であるととらえられることになる。普遍的概念が個別化されるのではなく、特殊が普遍化されるのである。」(同p28)

    え、これ、ジョージ君(ダボヤの方のブッシュ君)のことじゃん。と思ってしまった。恐るべし、ニーバー。ちなみに、このニーバーは、社会的福音で知られたラインホールド・ニーバーではありません。この本を書いたのは弟のほう。1937年の作品です。

    また、教会論を考える上でも、この本は参考になる。ちなみに教会論で有名なボンフェッファーは、兄のニーバーの方の弟子らしい。

    ダボヤことジョージ君は、この本を読んだのかしらん。読むわけないか。
    2009.06.08 Monday

    雅歌についてのお勧め本

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      評価:
      上沼 昌雄
      いのちのことば社
      ¥ 1,050
      (2006-09)
      コメント:夫婦関係を雅歌から考える本。キリスト者夫婦のより深い霊的成長のためにお勧めの1冊。

      この本がいい。

       何がよいかというと、聖書からみた夫婦の関係を雅歌を中心にもう一度考え、見直しをさせてくれるところである。

       日本人夫婦は、クリスチャンカップルとはいえ、ともすれば気恥ずかしくなり、霊的な夫婦関係を深まりをすることが難しいのであるが、そのことを日本人としてきちんと理解したうえで、夫婦関係がクリスチャンホームにとって、そして、健全な信仰者としての基礎として重要であることを示してくれる。(結婚が神の祝福であることも)

       この本の著書に、「夫たちよ、妻の話を聞こう」という本があるが、それもよいが、こちらの方は、より円満な信仰者同士の夫婦関係のためには、互いのよさをもう一度再発見、表現、定義しなおすことで、より深めることができるということを雅歌を通して明らかにしてくれている。

       この本の中でも触れられているが、雅歌の読み方には2種類あるとはいうものの、プロテスタント諸派では、神という言葉や主という言葉が出ないので、雅歌は無視されがちな旧約聖書の中でも、最も無視されている書物の一つだと思う。それをきちんと掘り起こし、雅歌の中から、夫婦関係の大切さをわかりやすく説き起こしていることは、非常に良いと思う。

       特に、結婚してしばらくたったキリスト者カップル、とくに、子育てが終わる頃のカップルにお勧めしたい。そして、結婚という神の祝福をもう一度見直す、ということを改めて考え直すことができる本である。

      2009.06.08 Monday

      ゲノム研究者がみた聖書に基づいた創造論

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         ゲノムと聖書 科学者、<神>について考える

        フランシス・コリンズ著 NTT出版 中村昇・中村佐知訳 2,600円

        アメリカのゲノム解読計画のセンターの責任者だった、お医者さんで遺伝医学研究者のフランシス・コリンズさんが書いたゲノム研究者から見た聖書と進化との関係を扱った本です。

        聖書逐語霊感説にたち、聖書の文字通りの解釈をすることが多い福音派では、本書でも触れられている通り若い創造(創造から6000年ほどしか歴史が無い) という立場の方が多いのですが、本書は、ゲノム研究の立場、物理学の立場から、神による宇宙や地球の創造は認めるもののいわゆる福音派で幅を利かせている 若い地球論には無理があるのではないか、という主張をしておられる本です。

        若い創造説をとるのか、もっと時間がかかったという説を採るのかは、もう、その人の聖書理解の世界、信仰の世界なので、なんともいいがたい部分があるので すが、この本のポイントは、神が地球上の生物を創造し、人間を創造したのは、ゲノム研究の立場から言って、間違いないし、リベラル派の新聞やマスメディア が流布している「キリスト教信仰と科学」という2項対立は、全くナンセンスだ、ということが本書の主張です。あと、面白かったのは、バイオロゴス論という 立場で、これは、情報学からの創造論のアプローチをしているヴェルナー・ギッテ博士と似た立場ですが、ゲノムを見ている限り、神の創造の不思議さを確認で きるとする本でした。

        創造論は、聖書があまり詳しく書いていないこともあり、信者一人ひとりの理解に任されている部分(推定で埋めている部分)が多いのですが、非常にインスパイアリングな本であることに間違いはありません。値段がもうちょっとやすけりゃぁねぇ、と思いました。

        日経新聞の書評でも載っていたので、クリスチャンで創造論を語る方は、著者の主張に同意するかどうかは別として、一通り目を通しておいたほうが良いかもしれません。
        2009.07.22 Wednesday

        日本でのキリストを伝える人が考えるべき一段面を示す本

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          おすすめ本の紹介です。

          古屋 安雄 著 なぜ日本にキリスト教は広まらないのか

          ―近代日本とキリスト教 (単行本)

          単行本: 195ページ
          出版社: 教文館 (2009/06)
          ISBN-10: 4764264390 

           なぜ、日本にキリスト教が広まらないのか。

          これは欧米諸国やアジア諸国からの宣教師ならずとも、少し考えるキリスト者なら、

          必ず直面する問題だとおもいます。

           結婚式は、キリスト教式での挙式を希望する日本人がなぜ、キリスト者にならない

          のか。それは、重要な問だと思います。

           それは、キリスト教式での挙式を希望する普通の平均的日本人にとって、キリスト

          教会を構成するキリスト者、特に牧師が特殊であり、人間的な接点と共感性を

          失っているからであるというのが、著者の主張です。納得できる部分があると思い

          ます。

           この本は、日本の福音宣教が、札幌農学校を基礎とする札幌バンド、熊本で始

          まり、後に同志社の設立へとつながった熊本バンドにしても、武士階級出身者へ

          の伝道、武士階級出身者が信者となったことから始まったがために、大衆伝道へ

          とつながるきっかけをうしなってしまったことを指摘しています。さらに、戦前の官

          学(国立大学)のドイツ中心主義にも影響されたドイツ神学の過大な影響、戦争

          中の政府との関係のとり方との失敗、戦後の復興での学生中心の伝道、戦後の

          学生信徒の卒業に伴う信仰の卒業の結果、キリスト教に惹かれつつも、キリスト

          教化していかない日本の現状をある側面から切り出しているように思います。

           そのことを指摘した上で、賀川豊彦が行った神の国中心型の社会の中心を担

          う人々への伝道の重要性を著者は指摘しています。この主張は、傾聴に値する

          と思うのですねぇ。普通の人、大衆が信じなければ、そこに定着しなければ、

          信者の比率が増えるはずが無い。中国や韓国教会が成功したのは、この大衆

          伝道が中心であるため、信者数の違いとなっている、という主張には、傾聴す

          べきものが含まれると思います。

           この本の主張には、傾聴すべきものが含まれているのですが、講演会の記録

          を中心に編成した本であるために、ほぼ同一内容の主張の重複が目立ちすぎ、時

          に読む気を失うと思います。しかし、日本におけるキリストを伝えることの意味を考

          える上では、非常に参考になる視点を与えてくれる本だと思います。牧師であれ、

          信徒であれ、日本のキリスト教の問題、伝道しようとする人は、まずこの本を手

          にとって自分の姿を省みるために読んでおいたほうが良い本であると思います。

           そうでないと、そこに助けを必要としている人たちが失われてしまうことになり

          そうです。 現代に生きる社会人に伝えるキリスト、その伝え方ということを考え

          ないといけないなぁ、と思った本でした。そういえば、それをアメリカ風にしたのが、

          リック・ウォレンがかれの経験を基に書いた、Purpose Driven Churchだった

          ような気がする。

          2009.08.24 Monday

          日本の信徒の「神学」

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             不勉強にして知らなかったのですが、隅谷三喜男さんという

            労働経済学者の方がおられます。その方が教会の「キリスト

            教講演会」か「学習会」でお話しになられた話を本にした

            1冊です。

             日本のキリスト教の歴史を戦後の激動の時代を生きてきた

            人が書いた日本における近代キリスト教に関する反省(考え)

            が書かれていて、非常に興味深かったです。

             非常に学ぶところが多かったです。日本のキリスト教が

            いまだ未成熟であることが非常にわかると同時に、現代と

            いう時代を生きていく中で、どのように福音を語るのか、

            ということを考える上で参考になります。ある面で言うと、

            マクグラスの最近の主張を含め、日本人特有のキリスト教

            の問題をどう考えるのか、ということなども含めて、考え

            るためのきっかけを与えてくれます。

             特に、戦後のキリスト教の戦争責任問題や、キリスト教

            の差別問題に関する視点を一部含んでいるので、参考に

            なるかもしれません。

             現在、ぽつぽつと私が書いているブラザレン研究のブロ

            グにも、同種の視点を持った記事を書いていますが、その

            際は、まだ読みかけであったため、十分考えを膨らませて

            はおりませんでしたが、今書けば、もう少し違った考えで

            書けるかなぁ、とおもいますが、隅谷先生ほどの学識のな

            い私にとって、それは荷が重いなぁ、とも思います。

            いずれにせよ、推薦するに値する本です。お買い得度は

            星3つ中星3つです。

            2011.11.15 Tuesday

            天国と地獄についてのユニークな本

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              いま Rob Bellという人の Love Wins という本を読んでいる。


              はちこさんも読まれたらしい。もう少しで読み終わるが、著者の天国理解というか終末理解に完全に同意するものではないが、非常に示唆的な本である。神学書、というよりは、どちらかというと詩集に近い部分がある。

              これ、翻訳難しいだろうなぁ。翻訳できたとしても、日本では市場性がないから、この本の翻訳の企画があったとしても、それはとなるかもしれない。(キリスト新聞社さんで出版とかしないかなぁ。)なお、この本には、ニューヨークタイムズのベストセラー本になったらしい。そんなシールが張ってあった(日本のアマゾンから取り寄せ版)。

              この本の背表紙が、面白い。
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              "God loves us.
              God offers us everlasting life
              by grace, freely, through no
              merit on our part.
              Unless you do not respond the
              right way.
              Then God will torture you forever.
              In hell."
              Huh?

              神は私たちを愛しています。
              神は、私たちに恵みによって、無償で永遠のいのちを与えようとしています。
              私たちになんら優れたところがあるからというのではなく。
              あなたが正しい方法でこたえない限り、
              神は、あなたを永遠に苦しめます。
              地獄で。

              はぁ

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              とある。この本のテーマを要約したような文章である。要するに、天国観が間違っている、それによって多くの場所で語られている聖書理解が、そもそもの聖書の主張とは異なったものになっているのではないか、ということを指摘している。

              英文自体は、さほど難しくないので、比較的読みやすいほうだと思います(下で紹介するような感じ)。全体を流れるBellという人の主張は、天国とは死んだ後に行くところではなく、地上でも実現するも のであって、神とともに生きることなのである、という理解のようである。それと同時に地上にだって地獄がある、ということをツチ族とフツ族の大虐殺の事例を例に 取りながら説明している。また、従来の天国観や地獄についての理解は、本当は聖書の主張とは異なっているのではないか、ということを主張している。そのことを聖書から丁寧に裏付けている。つまり、いま語られているような理解は、聖書の主張を別物にしたものではないか、本来のイエスの発言をひねまげていないか、という問題意識にたつ主張である。詳しくは、原文に当たってほしい。

              特にいくつかの教会のウェブサイトからの言明を取り上げながら、そのことを例証しているところは秀逸。 第4章 pp.95-96.

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              This is from an actual church website:"The unsaved will be separated forever from God in hell."

              This is from another:"Those who don't believe in Jesus will be sent to eternal punishment in hell."

              And this is from another:"The unsaved dead will be committed to an eternal conscious punishment."

              So in the first statement, the "unsaved" won't be with God.
              In the second, not only will they not be with God, but they'll be sent somewhere else to be punished.

              And in the third, we're told that not only will these 
              "unsaved" be punished forever, but they will be fully
              aware of it-in case we were concerned they might down
              an Ambien or two when God wasn't looking....

              The people experiencing this separation and punishment
              will feel all of it, we are told, because they'll be fully
              conscious of it, fully awake and aware for every single
              second of it, as it never lets up for billions and billions
              of years.

              All this,
              on a website

              Welcome to our church.


              以下は実際の教会のウェブサイトから取ったものである。『信じていない人々は、地獄において神から永遠に引き離される。』

              別のサイトでは、『イエスを信じなかったものは、地獄における永遠の刑罰に送られる。』

              もう一つの別サイトでは、『イエスを信じなかった人々は、永遠の苦しみに送られる』


              最初の文章は、"救われていない人(未信者)"は神とともにいることはできない。
              二番目の文章は、未信者は、神と一緒にいることができないばかりか、さらに、彼らはどこかに送られひどい罰を受ける。

              そして、三番目のものは、私たちに対して、これらの"救われていない人(未信者)"は永遠に刑罰を受け続けるばかりでなく、さらに、彼らは完全にどのような状態であるのかがわかっているということを述べている。このケースの場合、神がご覧 になっていないときにアンビエン(変換者注:睡眠薬系の向精神薬 かなり強力らしい)を1錠か2錠飲んでいればいいのになぁ、と思う。

              このような神からの分離と罰を経験する人々は、このようなことをすべて余すところなく経験するものである、と教えられている。なぜなら、彼らは完全にそのことを経験するのであり、完全に目が覚めた状態であり、間断なく発生していることを理解でき、それは何億年も何億年も終わることがないのである。

              これがすべて教会のウェブサイトに書かれていることである。

              (そんな)教会へようこそ。


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              教会が「救い」を語るために「裁き」を語る場になってしまっているけれども、それって本当に神が望んでおられることなのか?その聖書的根拠は何か?それが本当に裏付けられるか自分でよく考えて見られよ、ということが、基本的に本書のテーマだと思う。言い方を変えれば、「神様」を語るために、「サタンさん」のことを話して、「福音を語ったつもりになっているのでは、ということの問題である。

               それこそ、「福音を(カタ)」ことになっていないか?

              という指摘である。この指摘は痛かった。確かに、具体的な聖書の場所をあげながら、指摘を受けてみれば、これまで、中途半端な聖書理解に基づくいい加減な形で「福音を騙ったことはないか?」と聞かれたら、「ない」とはいえない。被害者の皆様には、この場を借りてお詫び申し上げたい、と思います。

              ただ、私自身、被害者であり、加害者であるというのもまた事実で、このことは、ACやDV、幼児虐待に見られる構図と似ているように思う。最近、Law & Order: Special Victim Unitの見すぎかもしれないなぁ。いずれにせよ、この不幸な連鎖を「ミーちゃんはーちゃん」は、止めたいと思う。少なくとも私に関しては。

               ところで、この本の中で指摘されていたことで、気になった表現があった。これは、この前の続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ とつながっている内容である。

              以下、Love Wins(第6章 p.152.)から引用して紹介したい。

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              Access to him can actually function in a strangely inverse way.

              Imagine a high-school student whose family is part of a Christian church.  She belongs to a Christian youth group, has only Christian friends, read only Christian books and has to attend Christian chapel services, because it's mandatory at the Christian high school she attends.

              The student can potentially became so anesthetized to Jesus that she is unable to see Jesus as the stunning, dangerous, compelling, subversive, dynamic reality that he is.  She has simply sung so many songs about Jesus that the name has lost its power to provoke and inspire.

              Her "nearness" can actually produce distance.

              キリストへのアクセスは、奇妙な形で逆方向に機能しうるのです。

              教会に所属する過程の女子高校生を考えてほしい。彼女は、教会の若者グループに属し、クリスチャンの友人だけがいて、クリスチャンの関連書だけを読み、彼女が通うキリスト教主義の高校の義務であるゆえ、教会の礼拝にも参加しなければならない。

              この女子高校生は、イエスについて、イエスが驚くべき存在であり、イエスが危険人物であり、イエスは人々の心を捉え、イエスには社会をひっくり返すほどの勢いがあり、非常にダイナミックな現実的存在であるにもかかわらず、イエスについてそのように見ることができないほど、まったく何も感じない無感動の状態になりうるのである。彼女は、イエスについての多くの歌を歌うものの、その名前は、もはや彼女の中では、想像力を喚起し、刺激を与える力を失っているのである。
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              あまりに当たり前すぎるがゆえに、あるいは、そのことが押し付けられるがゆえに、そのことに気づかない不感症状態が生まれるという悲劇かもしれないし、続 罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ で触れた、罪理解のいい加減さ、聖書理解のいい加減さに由来するのかもしれない。この問題は、どうも北米でも日本でも、共通のものらしい。なぜ、引用したように、キリストに何も感じなくなる可能性があるのか、の考察については、Bellはその章の中では、明確に触れていなかったように思う。まぁ、彼に言わせれば、聖書理解がいい加減なことが原因、ということなのだろうと思う。

              あと、非常に気に入った表現に、第6章 p.144.に次のような表現がある。

              There is an energy in the world, a spark, an electricity that everything is plugged into.  The Greeks call it zoe, the mystics call it "Spirit," and Obi-Wan called it "the Force."

              うーん、さすがBellさん、アメリカ人。スターウォーズで彩られている。zoe を the Force と言い換えて見せるあたりが、この人ならでは。日本では、May the Force be with youとかI am your father.とスターウォーズの有名なせりふのパロディといってみたところで、爆笑はしてもらえませんしね。

               このBellさんの主張は、ある面当たり前なのだけれども、ギリシア語聖書ができた当時は、その人たちがわかる表現、比喩、ぴんと来る言葉の使い方をしていたのであるから、そのことを、話し手はうまく伝えるべきだ、というものです。つまり、現代アメリカ人には、現代アメリカ人にわかるように(スターウォーズの表現なども借りながら)。現代日本人には、現代日本人にわかるような表現をして伝えるべきではないか、というのがこの方のご主張。個人的にはなるほどと同意いたしました。

               聖書の翻訳を変えろ、とは言っていないようですが、聖書の解釈の段階で、人々にわかる言葉で、神が言いたいと思っておられることが何かに焦点を当ててわかりやすく話すべきでしょう、というご主張だと思います。

               ある方向に凝り固まった聖書理解の頭を、本当にそれでいいのか、と問い直すような本です。日本語訳が出ないかなぁ。


              Misty Rae Love wins


              評価:
              Rob Bell
              HarperOne
              ¥ 1,140
              (2011-03-15)
              コメント:面白かった。ちょっと理解に問題がある所もないわけではなさそうだが、刺激的な本。

              2011.12.28 Wednesday

              福音をすがすがしく、みずみずしく伝える一冊

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                 この本が素晴らしい。

                 プロテスタントカトリックの枠組みを超えて、この本は良いと思う。福音書から、福音をすがすがしく、みずみずしく伝えてくれる1冊。福音とは、本当にキリストのからだで共通である、ということを確認させてくれる本であった。The King Jesus Gospelで福音の福音化という問題を考えたからかもしれないが(キリスト新聞社さん、こっち、Love Winsより、McKnightのこの本、先に翻訳本にしませんか?)、この本で語られている福音があまりにすがすがしい。

                 通勤の電車の中で読んでいたのだが、思わずうーん、とうなってしまった。

                 全体が素晴らしいのであるが、特に第6章(福音を宣言する幸い)と第7章(洗礼と聖体(プロテスタント風にいえば聖餐式)の幸い)がよかった。

                 その一部を紹介したい。

                幸いの書 晴佐久昌英(2010) 女子パウロ会 pp.208−209

                 「福音には、力がある。み言葉の種まきは、人を救う。そもそも、だれもが、み言葉によって造られているのであり、み言葉を受け入れるようにつくられている。大地を考えてほしい。大地は水分を含み、栄養を蓄え、あらゆる条件を整えて種を待っている。種を芽吹かせ、根を伸ばし、草木を育てて実りをもたらすべく作られている。あとは種さえまけば、すべてが始まる。逆にいえば、種をまかなければ決して何も始まらない。

                 中には、道端の硬いところもあれば、石だらけのところもあり、茨の間のような条件の悪いところもある。毎週手紙を書けば必ず通じるという保証はない。しかし、いかなる福音宣言も決して無駄にはならない。大切なことは、ひたすらに信じて種をまき続けること。福音自体に力があると信じ、福音を受ける側にもそれを実らせる力があると信じ、福音を受ける側にもそれを実らせる力があると信じて、宣言し続けること。
                 若者の凶悪犯罪が続く。過日の歩行者天国へ車で突入した殺傷事件では、犯行前の容疑者が膨大な量の言葉をネットに書きこんでいた。生きる意味と自分の価値を探し求め、せつないほどに愛に飢えている、孤独な魂の膨大なつぶやき。どう読んでも、彼が言っていることはたった一つの事としか思えない。「オレに福音を聞かせてくれ!」と。


                同書pp.218-219

                 「福音宣教」は大切だが、現実には「宣教」という言葉にはどうしてもある特定の宗教の布教という印象が付きまとっている。そのために、自分の手に余ると思い込んでいるキリスト者は少なくない、自分のような素人には無理だとか、それなりに勉強して特定の訓練を受け入れる必要があるとか、しかし、本来の福音宣教はとてもシンプルで、普遍的なものだ。キリストの宣言に奉仕して、自分の口を提供するキリスト者となるというだけのことだ。どんなにふさわしくなく見えても、どれほど自信と勇気がなくても全くかまわない。神が選び、キリストが宿り、聖霊が語るのだから、ただ信じて口を開き、主と出会い主に救われた自らの信仰を証しすればいいのである。

                キリストに出会ったものとして、福音を宣言したい。キリストから「私について書いてある事柄は、必ずすべて実現する」という宣言を受けたものとして、「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」「あなたがたはこれらのことの証人となる」という宣言を受け入れたものとして、「あなたは、幸い」という福音を宣言したい。


                同書p240

                現代社会は都市化社会だという。確かに都市は肥大して常に作りかえられているが、都市化の本質はビルが増えるとか情報があふれるとかいうことにない。都市化とは、「人間の思いの絶対化」ということであって、人が、人によって、人のためにすべてを行う、人里の極みなのである。そして、人里の極みはとても疲れている。今私たちの都市は、人里離れたところを必要としている。


                (中略)

                 そこで知るのである。たとえ人里とのど真ん中でも、およそミサ(礼拝・神への信仰の表現・聖餐式)が捧られるところはすべて、神の思いだけがあふれる「人里離れた所」なのだと。
                うーん、都市を相手にそこに住む人々をなんとかその幸福を改善しようとすることを仕事としてきたけれども、自分の相手にしてきた都市問題の本質「人の思いの絶対化」の問題を改めて突き付けられたような気がする。とはいっても、都市問題の改善の周辺で最後までフラフラするんだろうなぁ、と思う。

                 最後に、このブログにコメントを下さったCaledoniaさんに次のことばを紹介したい。

                同書p245
                 今までどんな理想に苦しめられてきたにせよ、もうあなたは幸いの福音に出会っている。目を開けてみてほしい。不完全な自分の理想、身勝手な他人の理想に苦しみ、死と恐れの観念にとらわれていた私たちの目の前で、イエスはパンをとり、感謝の祈りを唱えてから、ほしいだけ分け与えてくださっている。私たちは、今日もまた、ミサ(聖餐式)において、「わたしを食べるものはわたしによって生きる」(ヨハネ6:57)というパンを食べているのである。これが、現実である。いける神の、愛の業である。

                苦しんでいるキリスト者1世に、そして、2世、3世に、そして、すべて苦しんでいる人々に、キリストを紹介したい、イエスが言っている「あなたのそばに、神の国はある。あなたのそばに、イエスはおられる。神はあなたを愛している。そして、悲しんでいるあなたは幸いである。慰められるからである。」(マタ  5:4)を伝えたい。イエスとともに、福音書から宣言したい、そして、ともに聖餐式を味わいたい、とこの本を読みながら思った。
                 
                評価:
                晴佐久 昌英
                女子パウロ会
                ¥ 1,512
                (2010-11)
                コメント:福音書からの福音メッセージ集。現代に生きる日本人に福音書から語られた幸いに関する本。他の晴佐久新婦の書かれた本(というよりか説教)もよいが、こちらのほうが短くて読みやすい。お勧めの一冊。ノンクリスチャンにも、クリスチャンにも。

                2012.02.08 Wednesday

                今月読んだ本

                0
                   今月読んだ本は、いくつかあるが、特筆すべき本として、ダラス・ウィラードの「心の刷新を求めて」という本がある。これは、このブログへのコメントをよせてくださるはちこさんが翻訳された本で、推薦された本でもある。最初出たころに注文して入手していたのだが、ある方に差し上げてしまい、その後何を考えたか1冊つづ別々に注文して、積ん読になっていた本の一つである。3冊も買って、うち2冊も我が家にある。ネット注文の怖さであるが、あまり発注管理しないので、時々、こういうことが起きる。まぁ、いいか。

                   この本、霊性に関する整体のような本である。歪んだところを強制的にマッサージされることで、硬くなった霊性の筋肉をほぐすというのか、緩めるというのか、まともな機能を回復させるような本である。ヘンリー・ナウエンやトゥルニエ、晴佐久神父の本が体の基礎体温を上げて、機能をじんわりと回復させる温泉というのか湯治というのかスパのような感じであるが、ウィラードの本は整体というのか、スポーツジムで、筋肉を鍛えるような感じがする。

                   特に、この本の後半がよかった。特に、キリスト者のリーダーのひずみの問題を取り扱った部分「正しくて意地悪なキリスト者」のセクションで、彼はこう書いている。(P431)

                   この問い(「なぜ、キリスト者はそんなに意地悪なのか」という問い)には、実は答えがあります。私たちがこの答えに向き合い、うまく対応しなければ、サタンは地域教会での霊的形成を、自らの足の下に置き続けるでしょう。正しくあること(お気に入りの「器」、つまり自分が慣れ親しんだ「伝統」)はキリストに似たものとなるよりも重要であると、キリスト者は行動とことばを通して日々教え込まれています。実際、正しくあるためなら、意地悪な言動も容認され、場合によっては当然とさえみなされるようです。もちろん、正当な意地悪だと本人たちは思っているのです。間違っている人々には厳しくすべきで、相手がリーダーの地位にあればなおさら、きつく当たってしかるべきだというのでしょう。これについては、私は別の著作で、「断罪の工学」として言及しています。 

                   うーん、自分自身、「断罪の工学」に汚染されている部分はあるよなぁ、と思う。 断罪の工学の背景には、「自らYHWHと重ねる心理学」「自らYHWHとする聖書理解の方法論」があるのだと思う。これがこれまで多くの聖書理解の混乱と、教会内の対立と、キリスト教会内諸派の乱立を生んできたと思う。そして、自派が正しく、他派が間違いとする(ならいいが、汚れたものと教えてきた)聖書によらない、あるいは聖書の誤用による他者批判の体系があった場合もあったことも少なくないものと思う。

                   正しくあること、すなわち、お気に入りの「器」、つまり自分が慣れ親しんだ「伝統」という指摘は大事だと思う。

                   伝統となってしまった段階で、妙な「正統性」が出てしまうことで本来見なければならない価値あるものの座を、それほど価値のないものが価値あるものの座を占めてしまう問題だと思う。そして、伝統になったり、正当性が出てくることで、そのことに疑問を抱くことが無くなっており、その器に会わないだけで、正しくないと思うことにもなりかねない。

                   信仰から派生した、形式論に関する「器」の継承にかんしては、大和郷の教会のブログ「信仰の継承」の記事でも触れられている。

                  しかし宗教団体の中に生きている者達には単に「自分たちの教団の価値観、組織の行動様式」が伝承されて行く事だけが問題なのではなく、そもそも自分たちが 伝承された「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」でなければそれは単なる伝統主義に過ぎなくなってしまい、次世代の「信仰の継承」も単なる宗教的サブカルチャーの通過儀礼に過ぎなくなってしまうのではないか、との問題意識を筆者は感じている。
                   まさしく、「教団の価値観、組織の行動様式」は、それぞれの教団の信仰内容から派生されたものであるかもしれないけれども、その信仰対象である本来の価値の根源(たとえば、神とか仏とか、教祖とか)の価値を超えて、「教団の価値観、組織の行動様式」がその根源を超えた過剰な価値をもたされてしまうのであり、「信仰」を批判的に捉えた上での「信仰の継承」ができていないかもしれないという問題について触れておられる。

                   問題は、「信仰」という内容そのものとそれに付随して生じた考え方を批判的にとらえる、というのは、非常に難しいし、どうも、それができる人は非常に少ない、ということがあるようである。そもそも、「信仰」である以上、そのことを受け入れている以上、批判的であるのが難しい。そもそも、「信仰」に疑念を抱くことは、「信仰」に対して、牙をむけることにもなりかねないと思う。しかし、それを超えて存在するのも、「信仰」なのだと思う。「信仰」はどこかで「理性」と対立とは言わないまでも、併立するものでもあるように思う。このあたりが、科学と信仰との間を対立的にとらえるのか、併存的にとらえるのか、のあたりの違いになると思うし、概して、科学的理解のない方は、信仰と科学を必要以上にどちらかが正で、どちらかが誤っていると、対立的にとらえがちだと思う。とはいえ、科学の側でも、信仰の立場を無意味として認めない方もいないわけではないので、なんともいえないか。

                   自己を批判的にとらえる、というのは、アゴラというサイトのちきりんさんという方の記事で取り上げられていた「今、必要な「壊す人」と「考える人」の組み合わせ」という記事にあった「考える人」というのか、「創り出す人」なのである。壊すことは、勇気と根性がいる。しかし、創り出すのは、既存のマインドセット(考え方)を放棄したり、壊したりする勇気と根性がいると同時に、考えるという結構疲れ、さらにその考えた結果を批判したり、壊す人たちへの対策も同時に考える必要があり、結構面倒な作業が待っているのである。また、それに耐える根性がいる。なかなか、このような作業に取り組める人、というのは限られる。そうなると、人はめんどくさいので、どうしても、前例踏襲主義となってしまい、器の一層の強化に向かってしまい、器自体のおかしさにたいして、疑問を持たれることが無くなってしまうように思う。となると、いかに「器」を見直すか、という作業が大事になると思うのである。

                  先ほど紹介した、大和郷の教会のブログ「信仰の継承」の記事の中に、

                  「なるほど『信仰の継承』とは新興宗教団体の課題なのだ」と言うこと

                  が記載されていたが、考えてみれば、当たり前かもしれない。新興宗教であればある程、「信仰の継承」というよりは、「信仰にまつわる生活様式及び行動様式あるいは価値観」というかが安定的でないため、それを安定化するため、あるいは、「器」として強化し、伝統化し、確立していく力学が働くため、新興宗教団体としての重要な課題になるのだろうと思う。だからこそ、信仰が身についていないため、あるいは社会全体の文化にしみ込んだ普遍的存在となっていないために、継承が求められるのであろう。とはいえ、いわゆる伝統宗教と呼ばれる宗教集団(仏教でも、キリスト教)でも、常に批判とそれに基づく信仰の再検証、信仰の見直しが起きていることを考えると、批判というものは、必ず必要だし、常に起き続けるのであり、それに用いられるメディアが違い、その見直しの検証の速度と影響を与える範囲の規模が違ってきているだけではないか、と思う。

                  あー、ウィラードの本とそのほかの本を紹介する予定だったのに。 これは、また次回にしよう。



                   
                  評価:
                  ダラス・ウィラード
                  あめんどう
                  ¥ 2,520
                  (2010-03-30)
                  コメント:キリスト者にとって、熱心になりすぎたり、逆に熱心さを失ったり、特定のことに異様な関心を示したり、と、ときどき霊的なひずみがどこか出てくる場合があるのであるが、この霊性の問題に関して意識啓発をしてくれる本。信仰歴がある程度ある信仰者に推薦したい。

                  2012.02.11 Saturday

                  心の刷新を求めて の紹介(続)

                  0
                     前回紹介した「心の刷新を求めて」ダラス・ウィラード著 中村佐知・小島浩子訳 あめんどう刊の紹介で、紹介しきれていないので、その続きを少しずつ書いていこうか、と。

                     概念は、人間生活において重要であるにもかかわらず、それを定義し、正確に記述することは絶対にできません。しかし人々は、概念を支配しようと、それを定義する努力をむなしく続けています。概念とは、広く包括的な、時代とともに培われてきた物事や出来事の解釈方法で、その影響の大きさにもかかわらず、個人の意識に上ることはめったにありません。したがって、ほとんどの人にとって、どの概念がどのように自分の生活を支配しているのかを知るのは、非常に困難です。(p169)

                     どうも最近思うのであるけれども、聖書を読み込むときの概念というかある定規というのかメガネみたいな概念が先験的というのか、アプリオリにあって、それを用いて聖書を読んでいる人が案外多いのでは、と思う。定規とかメガネをかけて読むと楽なんだけれども、意識せずに定規やメガネをかけてしまうことがあって、自分は、定規やメガネを使ってない、と思いになる方もおられるように思います。ウィラードはその後、こうも書いています。

                     概念とイメージは、個人においても社会においても悪の主要な要塞でもあります。それらは、私たちが普段の生活の物事や出来事をどう受け取るかを決定します。物事にどのような意味づけをするのかを左右し、目の前にあるものを見えなくすることもできます。(p.173)


                     悪の要塞!(デ、デス・スターっすか?あ、ダースベーダが死亡したところね)めっちゃおもろい。ミーちゃんはーちゃんのフォースが影響されて…。冗談はさておき、これと同じ状態が聖書に起きていると、結構怖いことじゃないですかねぇ。それが福音理解でも起きているかもね、って批判してのけたのが、McKnightのThe King Jesus Gospel(YouTube の下にざっとした日本語の内容紹介を付けました)なんだと思います。
                     大体、概念を批判的に捉えることができる人がそもそも少ない、と思います。批判的に捉えることで、自らの世界の理解が壊れる、足元が崩れるような精神的に結構おっかない経験をするわけです。今読んでいる本でいえば、生の冒険(トゥルニエ)などがそのことの重要性を、伝えようとしたように思います。この批判的に捉えるきっかけは、HK様が言う「他者との交流」で生じ、その他者との交流で生じた自らの世界観というのか、概念の破れをどう処理していくのか、ということだろうと思います。

                     今に始まったことではありませんが、今日の私たちにとって思考の果たす役割は非常に重要なものです。おそらく、かつてないほど重要になっているでしょう。地上で御心が栄えるか否かは、神の民がどれだけよく考えるかにかかっています。
                     今日の私たちは、強い信仰を保つためには理性的な思考が必要であることを、軽視したり無視したりしがちです。そして悲惨にも、思考は信仰に反するとみなす人さえいます。そのような人たちは、それが神への侮辱になると気付かないまま、西洋の平等主義が生んだ徹底的な反知性主義に屈しているのです。この傾向は、デイビッド・ヒュームやジャン=ジャック・ルソー、また彼らを信奉する19および20世紀の人々に見られるような一時的な感情や根拠のない感覚のロマン主義的理想化に根差しています。彼らは気付いていませんが、その考えは、カンボジアの「キリング・フィールド(自民族虐殺)」を生み出したのと同じ悪魔的原理にのっとっています。
                    (p.184)

                     うわぁ、こんな「神への侮辱」とか「悪魔的原理」とかかいちゃって大丈夫なんですかねぇ。ウィラードさん。どうせなら、「すでにダークサイドに支配されているのです。」とか言ってほしかったなぁ、というのは、スターウォーズフリークのミーちゃんはーちゃんだからかな?

                     ミーちゃんはーちゃんは、18世紀イギリスのロマン主義の影響をたっぷり受けて始まったキリスト者グループ(いわゆる教派)にいるので(うちは、教派でない、という強硬派もおられるので・・・ね。むちゃくちゃロマン主義的でしょ)、現在もなお、まったりとその改革を目指して運動中ですけれども、なかなかねぇ。「地上で御心が栄えるか否かは、神の民がどれだけよく考えるかにかかっています。」が理解されない。「理性的な思考が必要であることを、軽視したり無視」されているように思えてならない。残念だけれども。最近、ちょっと、ましになってきたというものの。理性的な思考を前面に出すと、「信仰が学問的」とか、「私は、学識がないから」と逃げられてしまう。そして、対話が教会内で成立しない…。結構つらいんですよね。これ。ミーちゃんはーちゃんにとっては。説教の中で話すことはあっても、理解されないことが少なくないので、「ひかる」さんみたいに斜に構えながらでも、かまってくれる方がいるブログに逃げ込んでいる、という説がある。ははは・・・。

                     ちなみに、「キリング・フィールド」の映画、以下のリンクで紹介しましたが、アジア人の方には、東南アジアの西の片隅で起きたことに関して、ぜひ見てもらいたいたいと思います。このキリング・フィールドの遺骨がある場所に水谷潔先生は行かれたときに、現在の働きに献身される決心をされたというお話をお聞きしたような記憶があります。違ってたら、ごめんなさい。

                     まぁ、胎児がいともかんたんに、そして大量に捨てられていく姿と、大量の野晒しにされた野ざらし(人骨)は、確実に重なるでしょうね。ツタヤでもレンタルしていたはず。目をそむけたくなることも多いですが、目をそむけずに、見ていただきたい映画。







                    評価:
                    ---
                    Happinet(SB)(D)
                    ¥ 3,135
                    (2010-02-19)
                    コメント:あー、このアジアで起きた現実、どの程度、知っているだろうか。ベトナム戦争より悲惨だと思う。何より、若い時のサム・ウォーターマン(Law and Orderで検事補、検事総長役で出演中)やジョン・マルコビッチ(この時から髪の毛が少しかわいそう)が出ている。

                    2012.02.22 Wednesday

                    心の刷新を求めて の紹介(その3)

                    0
                       最近、読んだ本の中でもかなり気に入った本の上位を占める本である、ダラス・ウィラードの「心の刷新を求めて」でいくつか気に入ったところがあるので、それを紹介したい。基本、この本の主張は大事だし、その通りだと思うけれども、この本が読みにくい、と思う方もおられるようで。そうかなぁ、と思いますが…。あと2回くらい、この本の紹介にかかりそう。それくらい良い本なのですね。ポストイットだらけになっています。今回も、その一部を紹介しながら、思ったことを書いていきたいと思います。

                       「感情(feeling)」という言葉は、ある種の「接触」、つまり「触れること」を示唆しています。魅力にしても嫌悪にしても、感じるのに理屈は関係なく、しかも強力です。私たちの感情を湧き立たせるものを「感動的」といい、それはこころの「琴線」にふれます。感じることによって、何かが「そこに」あるとはっきりわかります。しかし、何かがそこにあるのは確かでありながら、それが何であり、なぜそこにあるのかはよく分かりません。この「理屈抜きの力」という側面のために、「感情は人間を奴隷にする」とあらわされてきたのは周知のとおりです。(バルーフ・スピノザの『エチカ』第3部『人間の隷属について』とサマセット・モームの小説『人間の絆』(このタイトルはスピノザの著作から取られた)を参照。どちらも多数の版がある)理屈抜きの力を持つ点では感覚や欲望も同じで、感情同様、とにかく抗しがたいものです。
                       この記述を読みながら、聖霊の導きと感情の混乱の問題を考えた。教会で感情のあふれる人々と時々で会うことがあるけれども、個人的には、しんどいなぁ、と思うことがある。むき出しの感情をぶつけられると、ミーちゃんはーちゃんは非常につらい。感情豊かな方は、ミーちゃんはーちゃんのむき出しの理性の部分がつらいのかもしれないけれども。

                       ミーちゃんはーちゃんはほとんど感情的になることはないのだけれども、祈り会などでミーちゃんはーちゃんが祈るのを聞かれて、感情あふれる方が、びっくりされることがあるようです。聖霊の導きというか、祈りにおいて、神に対する受け入れ、神の主権の受容を示すからかもしれないなぁ、と思いますが。これって、相矛盾しないものなのだけれども、理解されないみたい。

                       上の引用の文章を読みながら、時に人は、感情と霊の働きを勘違いするかもしれないし、その区別は非常に難しいものの、これはある程度真剣に考えた方がいいかもしれない、と思っってしまったのである。ある人々にとって、感情のほとばしりみたいなものを、霊の動きと誤認しやすいのではないか、と思ったのである。どこかにつながるチャンネルがあいているように思う。ウィラードさんが書いておられるように、感情があることから、そこに何かがあることはわかるわけで、感情そのものを霊の働きと誤認し、その感情を追い求めていく結果、本来の霊の働きとは別のものを追い求めていき、結果としてどこかずれてしまうのではないか、という危険性である。感情は、ウィラードさんの言うように人間を支配してしまうのでしょう。多分。

                       そして、スピノザおじさんの言うように、感情は人間を奴隷にする」のだとすれば、霊の動きと誤認された「感情の動き」は、本来人間が求め、関係を持つべき神(JHWH)からキリスト者すら引き離す可能性すらあるかもしれない、という印象を持った。これは案外怖いことである。本来聖霊が座るべき座に感情(人間)が座っているからである。

                       どこかで、感情に対してどこか冷めていて、理性の働きを重視する傾向にあるミーちゃんはーちゃんは、ロマン主義的な人の多い、わがキリスト者集団ではあまり受けがよくないのであるが(多分)、このロマン主義的なあり方にどこか、危険なものにつながる落とし穴がありそうなのかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思ってきたのであるけれども、この本を読んで、感情の働きにブレーキをかけうる理性の働きの重要性を改めて認識した次第。しかし、この両者がバランスを取って動くことが本当は大事なんだろうけれども。多分。

                       ミーちゃんはーちゃんは、感性主体、感情的な礼拝や、そこに重点があるキリスト者集団がNGだといっているのではない。ミーちゃんはーちゃんのいるキリスト者集団にも、そのような人々はいる。そのような人々や集団をキリスト教ではない、と切って捨てる気はない。ただ、ミーちゃんはーちゃんの方向性とは違うということを認めてほしいということと、ミーちゃんはーちゃんがその種の方々を認めるのと同様に、その種の方々からも違うけれども、キリスト教だよね、という同意というのかな、承認というのかな、それがほしいだけである。そして、自分と同じようでなければならない、とご自分やご自分たちの感性の押し売りというのか、ご自分やご自分たちの感情の押し売りはご遠慮願いたい、ということだけなのだけれども・・・。


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