『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その1(神学校授業のレンチン説教は・・・)
前回、先月末の記事 いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・ で『焚火を囲んで聴く神の物語』を神学プロレスと称したが、久保木さんによれば、あれは、『神学フェス』だという。まぁ、そういう意味でいば、『神学ジャムセッション』といってもいいかもしれない。
しかし、個人的には神学プロレスだと思っている。なぜかというと、「戦争は血を流す政治、政治は血を流さない戦争」とクラウセヴィッツさんがいったのか、いわなかったのかはしらないが、対論が真剣なものである以上、言葉による真剣な、どつきあいしないと面白くないではないか。なので、今回、がちでその対論という学問的などつきあいを世俗の側にある人間としてやろうとしてみた。7000字という制約付きで。
オファーの経緯
ミーちゃんはーちゃんは、プログラマさんでもあるので、クライアント・依頼者・発注者の制約は絶対である。かるいオファーは、大頭さんからFacebookのメッセージであったが、この場合の正式のオファーは、メールで出版社のヨベルの社長の安田さんからやってきた。メールでこようが書留でこようが、内容証明郵便でこようが発注者の制約条件は絶対である。今回の依頼は、メールで頂戴したが、素直にそれに従った。そうしたら、お一人、どうも、この字数制約をガン無視したのが、上沼老師である(最近、中国人の留学生の世話をすることが多いので、彼らは、ミーちゃんはーちゃん老師と書いてくるので、それが伝染している)。
ところで、先のクラウセヴィッツさんであるが、どうも本当のところは、多分 「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」 と言ったらしい。
プロレスのどつきあいにしても、学術的対話をするにしても、ある種真剣にやるということは、ある程度の流血覚悟をするということであろうし、その覚悟でリングに上がっているわけだ(いやなら、そもそもリングに上げなければよい)し、それは、大頭さんの方も、望むところだったと思う。なぜならば、大頭さんは、この本の共著者は、同調者ではなく、対話者(対論者)だと繰り返し、この本が出るまえの企画段階でのFacebookでのチラみせ(スニークプレビュー)の投稿でそう語っていたからである。
情報処理学会のラインスタンプではないが、「同調者ではなく対話者(対論者)である」とまでおっしゃるなら、と世俗の職業人として、そして、神学的素人の見地から応答して差し上げたのが、拙論である。たかだか7000字である。そもそも、そう大したことはかけない。
壮絶な戦いを繰り広げたのが、川向氏。神学とは関係ない大頭牧師の悪行三昧を暴露するという「場外乱闘」を繰り広げ、「凶器攻撃」に出る。リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿させるこの流血マッチも、「神学プロレス」の醍醐味の一つだろう。
信徒が生きているのは、社会なんです。これまでの日本の神学とよばれるものは、その信徒が生きている日本社会を無視して、あるいは、日本社会の文脈のコンテキストをある程度無視して、西洋である程度出来上がってきた、パッケージ化されたレトルト食品のような神学を、これは舶来の非常に素晴らしい食事だ、と言って、ほぼそのままちょっとレンジでチンして出してきたのが、日本の教会の”神学”だったのではございませんでしょうか。
大頭さんは、レンジでチンしたものをちょっと無節操に(という気はしますが)寄せ集めたものも、時々、ちょっと使いながらも、ある程度ちゃんと自分のところで調理して(ちょっとだけだけど)、それを我々にぶつけてきたような気がしたのです。
としたら、それにキチンと応答して差しあげるのが、社会の側に足場をおく私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことでございます。この辺の匙加減がかなり難しいのですね。いきなり、マジで、システム論とか、科学思想の歴史理解とかだと、読む気なくすでしょ。w
これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から——いや戦後の焼け跡の時代から——何も変わっていないのではないかと思わされます。
|
『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その2(予定調和じゃつまらない)
完全原稿型・・・
評価:
大頭眞一 ヨベル ¥ 2,700 (2017-06-01) コメント:おすすめしております。一応寄稿者としても。w |
評価:
Henri J. M. Nouwen HarperOne ¥ 886 (2009-09-22) コメント:大頭さんの本は読まなくてもいいので、英語が読める人は、この本を読むほうがいいかも。 |
『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その3(人を人らしく、教会を教会らしく・・・)
さて、ここのところ、プロレスでいえば、反則技すれすれ、水谷尊師のお好きな野球でいえば、暴投気味、内角高めギリギリといえば、聞こえはいいが、実際には、あわやビーンボールともなりかねない危ういところを突いた記事ばかりで恐縮であるが、今日も気を取り直して、いつものようにまた、危険球ギリギリのところで勝負してみたい。
18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
と言わなかったろうか。それを我々は、反対はしないが創造者である神を信じないものを、手前勝手に、「わたしたちの味方」とはせずに、「わたしたちの敵」としてきたのではなかったろうか。
この企画の出発点となった『焚き火を囲んで聴く神の物語』の著者の大頭さんという人は、すぐに、「〇〇という人は敵ですか、味方ですか?」と以前はよくミーちゃんはーちゃんに問い合わせてきていた時期がある。個人的には、このような単純化がなされたものの見方は、おやめになりませんか、と以前くどくお諌め申し上げてきたところではある。最近は、ミーちゃんはーちゃんがあまりにうるさいことを言うからか、敵か味方かみたいなことは聞いてこなくなった。なぜかは知らない。
単純、素朴な信仰者の姿
息子の勉強に付き合う関係や、最近日本に来るムスリムの方の全体のボリュームとしても、増えていることもあり、ムスリムの人びととのお付き合いが増えた。日本だとムスリム=過激派=原理主義者という構図が出来上がりがちであるが、近くによってじっくりとその姿を眺めていると、実に多様な人々であることがわかる。国や出身地域、言語によって、世俗の仕事、その信仰のスタイルや微妙なところは違うのであり、イスラム、あるいはムスリムということばで一括りにするのが難しい人びとの多様な群れなのである。それは、キリスト教でも同じである。正教会系の人々の姿と、アメリカの福音派の人びととは、姿も行動パターンもかなり異なる。その意味で、キリスト教一括りにするには、実に多様な人々と教会の集合体なのである。
ただ、ムスリムのある部分の人々、ムスリムの良心と言って良い人々とお付き合いしている限り、彼らは、信仰と行動が分離しておらず、信仰は信仰の世界、日常は日常の世界という切り分けをしないで生きている方がたの姿を見ていると、在る面、美しいなぁ、自然だなぁ、と思うのである。それは彼らが、発展途上国の人だから、というわけではどうもなさそうである。所謂これから発展する余地があるから、あるいは、伝統社会から来ているからこそ、割と単純、素朴な信仰者の生き方、というわけでもなさそうである。
どうも、イスラム思想、あるいはヘブライ思想の中にある、ある概念が、このような単純、素朴な信仰者のあり方を可能にしているようなのだ。それは、自分が誰のものが、自分を含む他人が、自分を含む環境が誰のものか、ということと、実は深く関わっていて、それが、神から与えられているテキスト(アラビア語のクォラーン、ヘブライ語のトーラーあるいはタナッハ、日本語での旧約聖書あるいはヘブライ語聖書及び新約聖書、あるいは、ギリシア語聖書)をどのように理解するか、とかなり深く関わっているようなきがする。
いわゆる旧約聖書、あるいは、学術語としてのヘブライ語聖書でも、いわゆる新約聖書、あるいは、福音書から始まり、黙示録が最期にあるギリシア語で書かれた聖書でもそうなのであるが、そもそも、人間とは人間のものではなく、人間とは、神のものであるというのが、基本的な理解である。環境にしても、土地にしても、水にしても、空気にしても、生物にしても、人間が作り出したもの以外の全ては、本来は、神のものであるのである。
それをいつの頃からか、人間はこういう環境や土地や、水や、野生動物が無主物であるから好きにしていい、ということをやり始めた。無主物とは、所有者、権利者が人間の世俗の法で定義できないもののことである。このような無主物、あるいは無主の土地は、最初の発見者が好き勝手に、何をしてもいいと勝手な理論をつけて、ネイティブ・アメリカンから土地を勝手にものすごい不当な廉価で合法的に奪っていったのが、アメリカに最初の頃に入植した開拓者の皆さんである。
だからこそトランプ現大統領が選挙戦中に、「不法移民は出て行け」と言ったときに、以下のような画像が、ネットに出回っていたことを覚えておられる方もおられるだろう。
https://www.pinterest.jp/frybread7/native-funny/ から
【口語訳聖書】 マタイによる福音書
24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
24:46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
また、神の奴隷になり、天の父のみ旨を行うもの(すなわち、神の奴隷、あるいはしもべとなること)を選ぶことの大切さを、別の表現で次のようにイエス様も言っておられる。
【口語訳】マタイによる福音書
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
ということは・・・
人間が人間になる、人間を人間にする、ということは、人間が神のものになる、あるいは、人間が本来のその目的に従い、神とともに生きるような姿となることが、人間が人間らしくなるために必要になるということと言っていいと思う。そして、人間らしくなった人間が、集まるからこそ、人間が神が造られたものであり、人間が神のものであることを認め、それらの呼び出された人びとの集合体(カハル構造を持つ集団)が教会なのである。つまり、教会すら、人間が集まってできているとはいえ、人間ためのものではなく、教会員のものでもなく、ましてや、牧師のためのものではない。教会も神のものである。
神のものは神のもとに
その意味で、カイザルのものはカイザルのもとに返すべきであり、神のものは、神に返すべきということばは、実はかなり重要なことを含むのである。自分を含め、神のものであれば神にお返していく。つまり、神の奴隷として生きることが、アラビア語で言えば、アブドアッラー(アブダラ)として生きることが重要なのである。
【口語訳聖書】マルコによる福音書
12:17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。
ムスリムのかなりの部分の人や、ユダヤ教世界や正教系の世界のある程度の部分の人は、神の奴隷として生きておられるが、プロテスタントでは、自らそのものも含めて、この被造世界が神のもの、神の支配に服すべきものであることを忘れ、神がご自身の権利を今ご主張になられないことを言いことに、この世界を、そして、自分自身も、あたかも無主物である家のごとく考え、自分の思うがままになるものとして、扱うようになってしまったのではないだろうか。
人間が人間らしく在るために、
教会が教会であるために・・・
人間が人間らしく在るためには、教会が教会であるためには、まず、人間にせよ、教会にせよ、神のものであるという神の主権を認め、神にその主権を返納していくところから始めるべきかもしれない。人間が握りしめている自分自身、人間が他の人間を握りしめているその手を開き、そこに臨済される方、聖霊なる方を握りしめるのではなく、それを受け取ることができるように手を上に向かって開いておくことが大事なのだと思う。そこに吹き込まれてくる神の霊、神の息吹、精神の働きをふわっと受け止める事が大事なのではないだろうか。このあたりのことをある程度書いたのが、リングマの『風をとらえ、沖へ出よ』なのだと思う。
ところで、計算機には、機械には残念ながら、聖霊を受ける部分はない。聖霊が内住される場所がない、聖神が臨在される場所でもある”こころ”(Heart)がないのである。コンピュータは泣いたりしないし、怒ったりはしない。人間はコンピュータの単細胞さに怒ることが在るけれども、コンピュータは、人間に対して、正しくない操作をしたので動かなかったとは画面上に表示させたり、プリントアウトしたりはするけれども、人間に対して殺意を抱いたりはしないし、人間のギャグに反応して、大笑いしてくれたりしないのである。感情と似たような反応を画面に表示させたりすることはプログラムで、ある程度できるけれども、それは、心からのものを真似しているにすぎないのである。もう少し言えば、計算機はアルコールを飲ませても、酔っ払ったりはしないで故障してしまうが、人間はアルコールを飲むと酔っ払ってしまうのである。だから、酒に酔うな、とパウロは書いているのであって、一滴たりとも飲んではならないとか書いていないように思う。アルコールに本来、神のものであるべき人間が奪われてしまうからこそ、本来の神のものが失われないように、「酒に酔うな」と書かれているのだと思う。
その意味で、神の霊を求め、神の息吹を求めることこそが、人間的ななにかと神の霊が相まって、存在することで、人間や教会が神のものとなり、神がともにおられることになり、神の奴隷樽にん気んが、神の奴隷の集まりである教会が、活性化が起きるのだろう。それを、近代の社会では、リバイバルとよんだのではないだろうか、と思う。
リバイバルとは、人間が運動として起こすものでもないのだろうし、人間が必死になってつかもうとするものではないと思う。リバイバルとは、受け止めるものなのだろう。そっと受け止める。そっと手のひらで受けた時、本来の活性の状態を回復できた状態になったのがリバイバルなのではないか、と思う。その意味で、すリバイバルは人間が起こせたりするようなものではないのだろうと思う。このあたりは、ロイド・ジョンズの『リバイバル』を読んでもらうと、ある程度は、わかるのではないか、と思うのである。
次回へと続く。
一応、このシリーズ、次回で終わりにしたい。
|
|
『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その4(宗教改革500年の年に…)完
さて、今回で悪役レスラー篇も第4回である。なぜ、この『焚き火を囲んで聴く神の物語』の応答で、場外乱闘気味の応答の文章を書いたのか、場外乱闘しているように見える羽目になったか、ということの弁証(言い訳、説明)を少ししてみたい。
書式でもはみ出した大頭さん
この本で、確かに主著者の大頭さんの悪行三昧を、悪役レスラーのマイクパフォーマンスよろしく悪口大会をしたか、というと、この本では、たしかに、あまり悪行三昧の跡形が残っていないのではあるけれども、元になった雑誌の段階では、文章の途中でフォントサイズは変える、やたらと脚注がある(それも小さい)…というD.T.P.の版下作成の人にとってはあまりに面倒くさいため、美味しい仕事ではない(さらに、出版社にとってはコストアップ要因)ような原稿となったと思っていたからである。基本、ミーちゃんはーちゃんは技術者でも在るので、これは、あまりに酷い、と思い、それこそ場外乱闘だ、と思ったのである。だとすれば、こういう場外乱闘には、それにキチンと応答して差しあげるべきだなぁ、と思ったのである。大頭さんが、従来の神学系の書籍や雑誌のスタイルにおいても、枠外からはみ出てきていると感じたので、そこはそれ、悪役レスラーらしく「そんなもんあかんやんか」と言ってみただけなのである。
神学のリングは、本当はどこか
牧師しか行かなようなところに、平信徒としてフラフラ出没(まぁ、昔は牧師の真似事のようなこともやっていたので、研修のためと思って参加し、牧師の関連業界を割りとそばで見る機会を作ってきたが、元いた教会から、暫く来るなと言われたのをいいことに、教会巡りをしはじめ、今は、聖公会の出島のような教会に寓居するようになり、牧師の真似事もしなくて良くなったのでそろそろ、このような牧師関連業界とのおつきあいも、もうそろそろ、やめてもいいかなぁ、と思っている。趣味としてする分には、あまりお金もかからない割に面白いので、もうちょっと付き合おうか、と思っている。
ところで、この本の素材になった雑誌の連載で、理念的なことを理念的な言葉で語るのが定石であったこの種の雑誌のスタイルを破る形で、つまり、牧師が自分の理解をまとめて、牧師に語るというスタイルで書くのではなく、信徒たちにも考えてほしいと思ったのか、連載の段階で、神学そのものを抽象化・結晶化して語るのではなく、神学を生み出した過去の神学者について語るのでもなく、妙なことをし始めたなぁ、と思ったのである。そして、信徒にもこの世界の幅広さ、奥行きのようなものがあり、その面白さの一端を味わってもらおう、と書いているのかなぁ、と聖なる誤解をしたので、「おお、そこまで挑戦状を信徒に突きつけるか」それならば、信徒として、主に、社会の学問の側に足場をおくものとしての哲学的反省(パスカルの意味での反省、深く考えること)から応答するのが、私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことに過ぎない。
この連載の最初に書いたように、神学は教会の学であるとはいうものの、それは、信徒がきちんと聖書を読み込んで、神のみ思いが天において実現するように、地においても実現するための道具というか、存在となるようにすることが本来の神学の役割ではないか、と思っていたからである。神学のための神学ではなく、信徒が、この世界において、神のみ思いを聖書から知り、神のみ思いに関わる、神のみ思いを馳せるために信徒の方々とともに考えるためのものが、神学だと思ったからである。その意味で、信徒に仕えるためのものが神学だろう、とミーちゃんはーちゃんは思っている。
その意味で、神学の本当のリングは、信徒の生活であると思っている。信徒の生活の場において、貢献するのが神学の真骨頂であるとは思っているし、その意味で、神学は同時代性とある種の時代生を反映したものにならざると思えないし、過去の神学者たちの生み出した思潮も、結局は、固定されたものではなく、ダイナミックなものであったのではないか、と思っている。
信徒に仕えるための神学
しかし、学である以上、業界用語、あるいは、ジャーゴンとよばれるものが出てくる。大抵、これが理解できないとある特定の学の世界に触れることはかなり難しい。それが、本来、多くの人々に仕え、多くの人々の生活に貢献し、その成果を伝えるための学として出発していても、結果的に専門家の学になってしまうゆえんである。
この辺は世俗の学の世界でも全く同じで、ある学問の隣接の学問分野に行くためには、ある程度時間をかけて、その世界固有の言語を学ばねばならない。同じ日本語であっても、驚くほど、ことばが違うし、同じ語でも用法が違うことがある。これで戸惑ってしまうのだ。つまり、ことばにそれぞれの分野ごとに独自の手垢、あるいは、味わいがついており、その手垢や味わいを無視して、ある言葉を使うことができなくなっている。神学でも全く同様である。
このある業界の用語の手垢というか味わいの部分と、ある学問をするために知っていなければいけないことの多さが、学問から人が遠ざかる理由であるので、それを、なくそうとして大頭さんは書いていることはわかった。そのような態度のことを大頭さんは、神学ジャーナリストという言葉で表しているが、それはちょっと本職のジャーナリストとして、いいのだろうか、とは思う。確かにテレビに出てくるような、自称ジャーナリスト、あるいは、テレビ局がジャーナリストとラベルを貼り、ありがたがっているような人には、その後発言を聴く限り、この人あまりまともに勉強していないのではないか、と思われる人も交じるが、マジメな学識に基づいて仕事をしているジャーナリストの方のほうが、実は多いとは思うのだ。
大頭さんが、平信徒のミーちゃんはーちゃんにあえて、対論を頼んできたということは、世俗の神学というリングの中なのか、象牙の塔なのか、金字塔の中なのかは、よく知らないが、信徒の生きている世界は、そのような狭い枠内や領域で終わっていないはずなので、神学という限定された枠内(公共圏)では収まらない世界に生きている人間の立場から対話を求められたということは、神学というやや狭い対話のための空間や領域(これを、ハーバマスという人は、公共圏と呼んでいる)という枠内に留まらない対話のための空間や領域での対論を頼んできたということなのだなぁ、と思ったので、それに応答したまでである。
とはいえ、いきなり、マジで、世俗の学の世界の概念であるシステム論とか、科学思想の歴史理解とかからかい始めると、人は読む気なくす(これは、授業している時に経験済み)ような気がしたので、最初は、軽く自己紹介がてら、大頭さんとの関係を書いて、ちょうど、ボクシングの試合の前に記者会見でボクサーがやるように、そして、観客を巻き込むために悪口大会をしたのである。そもそも、当初のヨベルからの依頼原稿の文字数は、7000字である。楽の世界からの応答として、世俗の学の発展の歴史的経緯などは書けなくはないにせよ、かなり荒っぽい議論になる。とすれば、どうせ与えられた資源ならば、面白おかしく、リングに上る前の記者会見のように、悪口を言ってみるほうが面白そうだと思ったし、そのほうが読者というか、ギャラリーも面白がるのではないか、と思ったのだ。
売上を確保するための販売協力として
スポーツ新聞とかいう駅売りの新聞や、タブロイド紙と呼ばれる夕刊だけしか発行しない新聞があるが、駅の新聞販売スタンドでそレラの雑誌やタブロイド紙のトップ見出しにあふれているのは、バトルのことが多い。こういう揉め事は、スプリングセンテンスと呼ばれた、文藝春秋や、週刊新潮とかの見出しに多い。あまり、こういう週刊誌の広告がついていない電車にのることが多いので、時々、出張で山手線とか中央線とかに乗ると、「え、こんな広告するんだ」と思うようなどぎつい広告を見ると、目のやり場に困ってしまうことがある。女性誌だって、男性誌や一般誌とくらべても決して負けていない。
週刊女性 中吊り広告 http://blog.8bit.co.jp/?p=6457 から
なぜ、こういう広告をするか、揉め事に関する記事が大量に記載された広告をするかというと、売れるからである。揉めている方が売れるのである。だからこそ、あえて揉めているようなことを書いておくと、それだけで本が売れるのではないか、と思ったのだ。ある面で、あの文章は本を売るための方策である。なにせ、キリスト教書は、あまり売れないのだ。だとすれば、筆者としても、売れるための工夫を少ししてみようと思ったのためである。
世紀の揉め事であった宗教改革
エンタメこそが正義などというアホなことは言わないが、今の日本の福音派系キリスト教界、あまりに真面目でお行儀が良すぎで、良い子ちゃんが多くて、エンタメ要素がなさすぎのような気がする。そら、お行儀のよい、良い子ちゃんたちのよいこちゃんのための、良い子ちゃんによる信仰という側面が在るのは確かではない化、と思う。だからといって、無意味に不良ぶってみたり、過去の黒歴史を誇るために良い子ちゃんが本当はない話を持ち出すのは、もっとおかしいが、素朴に考えて、「そうでないんじゃないか」と思うことはそうでない、ともっと正直に、フランクに言ってみたほうがいいのではないか、と思うのである。
良かったかどうかは別として、カトリック教会に向かって、ルター先生は、かなりの悪態ついている。え、こんなこと言ったの、と言いたくなるようなかなりひどい悪態もある。その意味で、ミーちゃんはーちゃんの悪態は、とりあえずは、大頭さんが言ってきためんどくさいお願いをネタあたりを最初のきっかけにしながら、今の信徒のためとは、ミーちゃんはーちゃんには、ほとんど思えなかった日本の福音主義関係の先生方のご議論の現状に対して、「それ、ちょっと狭い世界に凝り固まってませんか」「ブログでもなんでもいいからさ、もちょっと、信徒の世界にも出てきてくださいな」と言いたいがためにちょっと悪態をついて挑発してみた、ということである。その意味で、愛のある悪態でもある。挑発したら、4人の先生方が庶民向けにブログを書き始めた。一発目はあまり庶民向けとはいえないけれども。まずは成功である。とは言え、まだ、なかなかちょっと高踏的であるので、もうちょっと庶民よりにしてほしい気はしているが。
その意味で、この本が、当時のカトリック教会に悪態をついたルーテル先生の宗教改革から500年に出たという意味は大きいと思うのだなぁ。これが。その意味での記念論集としての価値の幾ばくかはありそうな気はあるようなないような・・・そう言ってしまうと、単に遊んでいるだけにすぎないものとしては、ちょっと大げさではあるが。
以上で、悪役レスラー編は終わりである。
- Calendar
-
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
- ブクログ
- G
- Selected Entries
- Categories
-
- 聖書のメッセージ (4)
- 聖書研究 (18)
- ごあいさつとご連絡 (88)
- 本の紹介 (140)
- いろいろおもうこと (402)
- なんとなく思うこと (163)
- 聖書メッセージ (13)
- 今週のお題 (12)
- ごあいさつ (13)
- カテゴリなし (3)
- 映画・DVD (3)
- お笑いシリーズ 替え歌など (23)
- NTライト関連 (50)
- 教会にお小さい皆さんが減った理由 (11)
- ジョン・H・ヨーダー関連 (10)
- 教会やめたい?シリーズ (9)
- ゲーム理論と組織 (8)
- 日本のキリスト教 (4)
- 『富士山とシナイ山』に学ぶ (41)
- 反知性主義をめぐるもろもろ (16)
- Telos理解 (8)
- 深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ (7)
- 仏教との対話 (12)
- 教会史研究 (8)
- 『「弱さ」の向こうにあるもの』に学ぶ (15)
- 工藤信夫さん関連 (14)
- NTライト著 クリスチャンであるとは (64)
- 『キリスト者として生きる 洗礼、聖書、聖餐、祈り』を読んでみた (24)
- 『福音と世界』を読んでみた (7)
- たき火を囲む物語続編 (4)
- イベント参加記録 (24)
- キリスト教とメディア (9)
- グリューンの著書を読んで思ったこと (8)
- ゲーム理論の応用問題 (4)
- フィリップ・ヤンシーに学んでみた (46)
- 環境問題とキリスト教 (8)
- 祈りについて (6)
- 後藤敏夫著 『神の秘められた計画』を読んだ (6)
- 雑誌シリーズ (6)
- 若者とキリスト教 (14)
- 人口減少社会の中の教会 (6)
- 聖書関連講演参加記 (22)
- 説教黙想 (4)
- 福音派が生まれたころのよもやま話 (15)
- Archives
-
- July 2021 (4)
- June 2021 (10)
- May 2021 (14)
- April 2021 (14)
- February 2021 (11)
- January 2021 (6)
- January 2019 (2)
- December 2018 (15)
- November 2018 (13)
- October 2018 (16)
- September 2018 (17)
- August 2018 (20)
- July 2018 (16)
- June 2018 (13)
- May 2018 (14)
- April 2018 (4)
- November 2017 (8)
- October 2017 (16)
- September 2017 (14)
- August 2017 (13)
- July 2017 (15)
- June 2017 (15)
- May 2017 (15)
- April 2017 (16)
- March 2017 (14)
- February 2017 (14)
- January 2017 (14)
- December 2016 (18)
- November 2016 (17)
- October 2016 (17)
- September 2016 (13)
- August 2016 (15)
- July 2016 (15)
- June 2016 (17)
- May 2016 (14)
- April 2016 (16)
- March 2016 (16)
- February 2016 (16)
- January 2016 (15)
- December 2015 (20)
- November 2015 (18)
- October 2015 (21)
- September 2015 (16)
- August 2015 (17)
- July 2015 (23)
- June 2015 (27)
- May 2015 (23)
- April 2015 (19)
- March 2015 (17)
- February 2015 (16)
- January 2015 (19)
- December 2014 (18)
- November 2014 (17)
- October 2014 (18)
- September 2014 (24)
- August 2014 (13)
- July 2014 (19)
- June 2014 (16)
- May 2014 (15)
- April 2014 (16)
- March 2014 (4)
- October 2013 (5)
- September 2013 (9)
- August 2013 (13)
- July 2013 (14)
- June 2013 (13)
- May 2013 (14)
- April 2013 (10)
- March 2013 (16)
- February 2013 (15)
- January 2013 (14)
- December 2012 (15)
- November 2012 (11)
- October 2012 (11)
- September 2012 (7)
- August 2012 (1)
- May 2012 (6)
- April 2012 (4)
- March 2012 (10)
- February 2012 (9)
- January 2012 (9)
- December 2011 (10)
- November 2011 (8)
- July 2011 (3)
- June 2011 (5)
- May 2011 (9)
- April 2011 (2)
- March 2011 (9)
- February 2011 (3)
- December 2010 (5)
- November 2010 (10)
- October 2010 (11)
- September 2010 (9)
- August 2010 (3)
- July 2010 (14)
- June 2010 (7)
- May 2010 (9)
- April 2010 (4)
- March 2010 (1)
- January 2010 (2)
- December 2009 (8)
- November 2009 (13)
- October 2009 (14)
- September 2009 (11)
- August 2009 (11)
- July 2009 (2)
- June 2009 (10)
- May 2009 (4)
- April 2009 (2)
- March 2009 (2)
- February 2009 (2)
- January 2009 (3)
- December 2008 (4)
- November 2008 (10)
- October 2008 (8)
- September 2008 (3)
- August 2008 (1)
- July 2008 (1)
- June 2008 (3)
- May 2008 (3)
- April 2008 (7)
- March 2008 (5)
- February 2008 (7)
- January 2008 (2)
- Recent Comment
-
- 日本の教会モデルについてちょっこし考えてみた(5)
⇒ アンドロポフ (07/24) - N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その36
⇒ ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい (04/11) - N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その36
⇒ たんさいぼう (03/13) - 日本の教会モデルについてちょっこし考えてみた(6)
⇒ ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい (02/27) - 日本の教会モデルについてちょっこし考えてみた(6)
⇒ Saori (02/27) - 日本の教会モデルについてちょっこし考えてみた(2)
⇒ ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい (02/23) - プロセスとしての信仰、決断としての信仰(3)
⇒ ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい (11/29) - プロセスとしての信仰、決断としての信仰(3)
⇒ スマイル (11/28) - 若い人しかいない教会で気づいたこと
⇒ ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかいミーちゃんはーちゃん (11/19) - 若い人しかいない教会で気づいたこと
⇒ じゅん (11/17)
- 日本の教会モデルについてちょっこし考えてみた(5)
- Links
-
- 水谷潔さんのブログ
- 本を枕に-スピリチュアルな日々
- おふぃす・ふじかけ(blog)
- [聖書的健康状態日記]
- コアラさんのサイト(カルト被害対策)
- キリスト教ネットメディア研究会
- ブラザレンの諸断章(新)
- パンくずを拾って
- のらくら者の日記
- 随想 吉祥寺の森から
- インドでの医療奉仕者のサイト
- NPO法人スイス村 [一口日記]
- 『からしだね』
- 松ちゃんの教室 ブログ
- 大都会の小さなマンション
- ベタニアホーム :甲斐小泉キリストの教会
- N.T.ライト 読書会
- 群馬県のキリスト集会の関係者の方のブログ
- 大和郷にある教会
- 伊那谷牧師の雑考
- 小海キリスト教会牧師所感
- 寝屋川福音館 キリスト伝道者のつぶやき
- Voice of wilderness
- クリスチャンの片隅で暴論を吐いてみる
- 自然神学・環境・経済
- 明石ヘンリーナウエン研究会
- 芦屋ヘンリーナウエン読書会
- よしいいくえさんの一日一モビ
- ミルトスの木かげで(旧はちことぼぼるの日記)
- JBTM.org 上沼先生
- 朝のうちにあなたの種を蒔け
- hakkol habel
- どこかに泉が湧くように
- おしゃべり子羊さんのブログ
- 10th Avenue日記
- Jesus loves me & you !
- 羽村の風
- 村上 密 Blog
- 中澤牧師のブログ
- 無料ブログ JUGEM
- 雑想
- UCS(浦和の若者たち)
- くめしゃんせんせい
- トトロに棲む牧師から
- 神々の風景 - religious scene
- 宗教と社会 小ロキアム
- I don't know who I am
- 鏡を通して ーTHROUGH A GLASSー
- 真実なクリスチャンライフを求めて
- BlueBelleさんのブログ
- 枚方マラナタ教会
- 『福音書』解読」解読の部屋 ―キリスト教関係でいろいろ調べたり、話し合ったりしたこと。
- 焚き火を囲んで聞く神の物語のBBSサイト
- 巡礼者の小道
- Profile
- Search this site.
- Mobile