2017.05.01 Monday

後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)

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    この本が出た、というのは、知っていた。読んでみたいと思っていた。そして、新学期のバタバタで振り回されているうちに買いに行く時間と読む時間を失っていたのだが、今回、福音主義神学会西部の研究会議で販売していたのを見つけたので、購入し、読んでみた。薄い本であるが、印象深かった。

     

    日本型キリスト教福音派の自省録

    この本を何と表しようか。早すぎる遺言、とでも呼ぼうか。あるいは、キリスト教日本型福音派にとっての自省録と呼ぼうか。そういう感じの本であった。

     

    この方のブログは読んでいる。なぜ、後藤敏夫先生が、キリスト教界であまり芳しくないうわさがながれている、今おられるようなキリスト者集団(召団 と呼んでおられるところ 恐らく、ギリシア語でのエクレシアの独自訳語であり、キリスト集会派が集会と呼び、日本の多くのキリスト教界関係者が教会と呼ぶもの)におられるのだろうか、ということは後藤先生のお書きになっているブログで薄々とは想像していたが、それがより明確に、そしてかなり明らかにされた感がある本でもあった。その点でも印象深かった。後藤先生にとっては、そうしかならなかったし、それでよかったんだ、と、今は思っている。今、後藤先生がおられるところは、無教会の流れをくみ、キリストの幕屋の系譜の中にある、ドイツ文学者小池辰雄さんが始めたグループの後継団体の一つであるらしい。

     

    無教会の華麗なる人脈

    この本には、ミーちゃんはーちゃんも知っている何人かの尊敬するキリスト者の名前が出て来る。ドイツ文学 小池辰雄さんや、直接お会いしたことすらないけど、私淑してやまない旧約聖書学者の関根正雄先生(関根先生は、体験主義に嫌気がさしてこの集団から離れたらしいけど)のお名前も本書の中で見て、「え、そうだったの?」と思ってしまう。

     

    この本を買ったのは、先にも述べたように、塩屋の神学校で開催された福音主義神学会西部研究会議であるが、その会場提供しておられた神学校の母体となった集団を創始したバクストンなどの名前も出て来る。N.T.ライトの名前や、今年の福音主義神学会での基調講演とその講演への応答の中でも、名前が何度も出たアウレンという人の名も出てきた。キリストの幕屋と無教会主義教会の関係は、いろいろと突っ込んでくださる手島イザヤ先生からお伺いすることがあったのだが、そのあたりの関係について、この本の中での記述に触れながら、なるほどなぁ、と思ったのである。

     

    日本の福音派には、あまり知られていなかった正教会的理解

    この本には、水谷先生というお名前が何度も出て来る。しかし、その水谷先生は、ミーちゃんはーちゃんと遊んでくれる水谷潔先生ではない。即ち、大頭眞一先輩が、『焚火仲間』と勝手に呼び、勝手に『焚火を囲んで聴く神の物語 対話篇』での対話者に指名されてしまった水谷潔先生のことではない。今、後藤敏夫先生がおられるところの召団の代表の方のことである。その水谷先生の立場からの現代日本の福音派に対するご批判を、後藤先生は、こう要約する。

     

    福音派に対する水谷先生の批判は、その人間中心的・実利主義的(ご利益主義的)な福音と信仰の理解に向けられます。即ち、信仰は「私のため」のものか、「神のため」のものか、ということです。救いの福音とは、、罪を許された私(たち)が天国に行くためのものか、罪ゆるされた私(たち)が神の創造目的に相応しい本来の自己を回復して、神の喜びと栄光に生きるためのものか、ということを徹底して問います。「私のため」であること自体が否定されるのではありません。ただ「私のため」とは、救われたものとして、自分の人生を好きなように生きる自己充足や自己実現のためということではありません。神に喜ばれるような自己犠牲の愛(十字架を負った人生)を生きる様に、サタンの支配から買い戻されたのだというのが「召団」の福音です。(中略)
    そういう「福音派の福音」への問いかけはまったく正当なものだと私には思われます。そしてその批判は、さらに深い神学的な問いをはらんでいます。それは「イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました」、「イエス様を信じれば一度限りすべての罪は許されます」、「イエス様を信じて天国に行きましょう」という福音派の宣教のことばが、救われたものとして主イエスに従う生き方を生み出さないということです。恐らく、こころある福音派の牧師の多くが、どうすれば罪を許され救われるかという福音を語りながら、私たちは何のために巣食われたのかというクリスチャンの生き方について、伝道活動の務め意外には十分に語りえていないもどかしさを感じているのではないでしょうか。信徒もまた伝道説教にもっとも恵まれるという状態から、なかなか成長できないでいるかもしれません。(同書 pp.24-25)

     

    しかし、こう書かれてしまうと、福音派の方々としては、なかなか手厳しい表現だなぁ、と感じるかもしれない。それだけ正鵠を射たご批判だと思う。この部分を読みながら思ったのは、これ、ハリストス正教会(ロシア正教会系の日本ハリストス正教会)の聖書理解とよく似ているのではないか、とういことである。ここで批判されている、「この地にあって、神の民として生きる」という部分は、ハリストス正教会の信徒への勧めではないか、とも思った。あるいは、砂漠の師父の教えとほぼ同じではないかなぁ、と思ったのだ。最近ちょくちょく出入りしているハリストス正教会での聖書理解(あえて言えば神学)からの、いわゆるアメリカの福音派の影響を強く受けた、日本の福音派神学への批判と、批判されかねない視線のベクトルと同じような気がする。この問題は福音派の片隅の教派で長らく人生を過ごし、そこでかなりの期間、講壇にも立ってきたものとしては、正面から受け止めたいと思っている。ハリストス正教会あるいはコプト正教会でのバプテスマ『異端者帰正式』を受けることをこの数年のうちに、何度か考えたことがないとは断言できないもの(実際、ハリストス正教会の帰正式に、心が揺らいだことがあるもの)としては、このギリシア正教会系、あるいはビザンツィン型のキリスト教の伝統の神学を対象とした時に、自らの聖書理解からどうこたえるのか、ということは大きな問いである。それで、結局、今は、聖公会の英語部に寓居しているのだけれども。

     

    2017年4月の福音主義神学会西部の研究会議での基調講演論文に対する応答で、ある応答者の方が、「Missio Deiとかちょっと変わった神学があるが…(大意)」とご批判めいたご発言をされた方もあったが、それは、自分たちの聖書理解の伝統、ラテン的伝統とはMissio Dei(神の宣教)の理解は違う、あるいは相いれない、と思っておられる、ということのようでもあるようだ。また、Missio Deiの概念を批判的な視線を向けることで、Missio Deiからの批判を回避しようとしているように、ミーちゃんはーちゃんには思えた。まぁ、御発言者のご本人の思いは別のところにあるのかもしれないが。

     

    勝利者キリストという忘れられたキリスト理解
    ここで、今回の福音主義神学会西部の基調講演論文でも取り上げられていた、スウェーデンのルター派の神学者、グスタフ・アウレンの所論を取り上げながら、現在後藤敏夫先生がおられるところの召団の聖書理解を位置づけようとされている。その意味で、この薄い本も、福音主義神学会西部の基調講演の理解への補助線を与えるものだと思う。あの講演について、思いを巡らしておられる、あるいはあの基調講演論文と対話しようとしておられる皆さんには、是非とも本書も読まれることをお勧めしたい。

     

     

    その部分から引用する。
    アウレンは、自ら属する西方教会の伝統にあるアンセルムスやカルヴァンの理解に代表される贖罪論は、新約聖書の本流にはつながらないとします。そして、十字架の出来事の中に、刑罰代受よりも悪の諸力に対するキリストにおける神の勝利を見ます。アウレンはその贖罪論を古代教父(とりわけエイレナイオス)に見出し、更にその復興をルターの中に見ます。そしてそれが教会史の最初の100年間に支配的であったと考えられることから「古典的贖罪論」と呼んでいます。
     水谷先生は、アウレンが語る「勝利者キリスト」(Christus Victor)の贖罪論に立っています。即ち、西方の教会の伝統にある合理的で法的な「刑罰代受説」(満足説)の贖罪の理解よりも、神がキリストにおいて悪魔の支配に勝利するという、ある意味では法的には合理的に説明しえない二元論による贖罪論に立っているのです。(同書 p.27)

     

    エイレナイオス http://365rosaries.blogspot.jp/2010/06/june-28-saint-irenaeus-of-lyons.html から

     

    ここで、「勝利者キリスト」の理解を、「法的には合理的に説明しえない二元論による贖罪論」と解説しておられるが、「それは本当に二元論と呼んで、よいのだろうか」という素朴な疑問がある。神か悪魔かのどちらかの勝利という対立軸というよりは、もう少し多元的・多面的なものの中でとらえる「勝利者キリスト」の方がアウレンの主張により近いのではないか、とは思うが、何せ、原著のアウレンを読んでいないので、何とも言い難い。なお、アウレンはオンディマンド版で入手が可能らしい。
    ここで、スウェーデンという国の位置が重要である。即ち、スウェーデンのお隣は、もうハリストス正教会のご先祖様のロシア正教会の土地、ロシアである。あのロシア革命と共産主義支配の中で迫害され続けてもなお残った、ロシアの素朴なお婆さんたち、すなわち、バブーシュカ、が素朴に維持し続けた、ロシア正教会の信仰を考えると、勝利者キリストという理解は、キリスト教が本来持っていたある種の強靭さの根源を残しているのかもしれない、と思うのである。この辺は『隠された恵み』というフィリップ・ヤンシーの本に出て来る。あるいは、ローマ帝政下で迫害され続けたにもかかわらず、残存し、挙句の果てにローマ帝国をキリスト教国に変えてしまった挙句にコンスタンティヌス型キリスト教と後世のヨーダー先生に揶揄されるまでになった、古代キリスト教が持っていた、ある種の強靭さの背景にあるのが、この勝利者キリストということなのかもしれない。

     

    残念ながら、日本の多くの福音派のキリスト教会には、この「勝利者キリスト」のエッセンスのようなものがあるかといわれたら、ほとんど無いのかもしれないなぁ、と思う。それだけに、日本型の福音派の多くのキリスト教理解には、ある種の強靭さというか、問答無用のむちゃくちゃさがないのかもしれない。その結果として、迫害もないのに、ぼろぼろと救われた人たちが教会から3年から4年で抜け落ちていくのかもしれない、と思ったりもする。小手先の方法論の議論は喧しくなされるが、本質的な部分に大きな欠落というか落とし穴があるのではないか、という感想をミーちゃんはーちゃんは持ってはいる。そして、それが勝利者キリストという理解なのかもしれない、と思う。

     

    トレーラーハウス型の日本伝道

    日本には、すでに出来上がった西欧近代の教会がそのまま、大きな変更もされることなく持ち込まれてきたし、日本の福音派は、戦後アメリカ、ないし現代アメリカの教会の様式論と運営論と神学に大きな反省をすることなく、そのまま持ち込まれてきたようにも思う。ちょうど、アメリカのトレーラーハウス(移動式住宅)よろしく、アメリカから車輪を付けたまま自動車運搬船で輸入し、それを日本の大地においた感じなのが日本のかなりの部分の福音派の教会なのではないか、と思う。だからこそ、日本の大地におかれているだけで、根が張っていないし、イエス様の種まきのたとえの道路に落ちた種ではないが、風が吹けば吹き飛んでしまう、という部分ではないか、と思うのだ。なお、なんちゃら伝道大会などの動員型の伝道なんかは、まさにトレーラーハウス型の伝道で、アメリカから有名人やその子供をトレーラー・ハウスのトップ・セールスマン(現代アメリカ英語では、トップ・セールスマンのことをエバンジェリスト(伝道者)と呼ぶ…w)よろしく、呼んできて、日本という国情も考えもせず、カスタマイズもせず、米国のものをそのまま持ってきて、ドンと置くような形の伝道であり、トレーラーハウスは、根付くこともできない設計になっており、根付いてもいないし、日本ではメンテナンスが限られるので、数年でぼろぼろになるというのが、3〜4年でぼろぼろになり、結果として教会から信徒がぽろぽろと落ちていくという姿と重なってもしょうがない。

     

     

    トレーラーハウス
    http://starhomeusa.com/blog/brand-new-mobile-home-owner-finance-house-trailer/

     

    手入れされてないトレーラハウス
    https://www.colourbox.com/image/old-grunge-trailer-with-windows-image-2314567

     

    神化の神学

    日本では、ハリストス正教会をはじめとするビザンツ型の聖書理解の体系が、亜使徒大司教 聖ニコライにより持ち込まれはしたものの、大津事件や日露戦争や不幸な諸条件が重なり、普及しなかったのであるが、近年の霊性、黙想や観想、砂漠の師父の思想と実践を中心とした霊性あるいはキリスト教型スピリチュアリティへのキリスト教会の人々の中でも、関心の高まりもあり、関心を寄せる人々は増えているが、これを義認論が強い西方の神学にくっつけてしまうと、神学的フランケンシュタインになるのは、以前にもこのブログ記事  神学的フランケンシュタインの登場は要らないかもで触れたとおりである。

     

    東方教会の神学者メイエンドルフによれば、東方には神化の神学はあるが、義認の神学は育たず、西方には義認の神学はあるが、神化の神学は育たなかったといいます。西方の伝統に育った水谷先生には「義認」の信仰とともに、不思議に東方的な「神化」の信仰があります。そこではむしろキリストを信じたものは、神の最高法廷で一度限り無罪の判決を受けるという、聖書に基づいた(ローマ3章等)、西方の法的で合理的な「義認」の信仰は、宣教の前面からは後退して薄くなる印象すらあります。(同書 p.30)

     

    ここで、重要なこととして出て来る東方型(あるいはビザンツ型、ビザンチン型)のキリスト教での「神化」(あるいはテオーシス)の概念は、本ブログのこの記事  大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意)  を酸そうされたい。

     

    この部分を読みながら、西方で義認論的な理解が広がった背景に関して、「あぁ、そういう側面があるかもなぁ」と思ったのは、ローマ社会が、割と古くから、社会の基盤の形成に大きな役割を果たしたのが、法であり、その法律を作りあげるのが、議会ではなく、個別の法律闘争、あるいは裁判の弁論および裁判の判決であり、法律論争とその弁論に基づく判決結果による法体系を発展させてきた社会を背景としていることが決定的に効いているかもしれない、と思ったのである。

     

     

    ローマのレトリック、修辞法を学ぶ人が必ず読むラテン修辞家として有名なカトーにしても、キケロ(英国風にはシセロ)にしてももともと法廷で論理と修辞を展開する弁護士であったし、修辞学の名文家としても有名で、今も尚、その作品が西欧では読まれているユリウス・カエサルも、もともと政治家になる前は弁護士(あるいは修辞家)であった。ローマは、上院とか下院で、成分法を発布するのではなく、判決が法的拘束力を持ち、実効法になるのである。アメリカの法制度は、そのローマ法体系の影響を強く受けている。だからこそ、ローマ法体系の影響力の強いローマ帝国の西半分が覆っていたラテン帝国ないしラテン文化圏では、義認論のような法的解釈が人々に伝道するうえで整合的かつ説得的であったため、義認の神学が異様に発展し、普及していったのかもしれないなぁ、という印象を持った。オバマ前アメリカ合衆国大統領に見られるように、アメリカ合衆国大統領には、法曹関係者、弁護士上がりの人がやたらと多い。

     

    カトー https://en.wikipedia.org/wiki/Cato_the_Elder から

     

     

    キケロ または シセロ https://en.wikipedia.org/wiki/Cicero から

     

     

    ローマ帝国地域の政治文化と

    キリスト理解と、現代アメリカ政治

    ところが、ギリシアを中心としたオリエント、あるいはローマ帝国の東半分が覆っていた、ビザンチン帝国ないしギリシア文化圏(ビザンチン文化圏)では、法律の制定は、民会という疑似議会制的民主主義政体によって定められたり、もっと、オリエントの東側(たとえば、ペルシャあたり)に行くと、王様がいて、その王の発布する法律、王が発することば、あるいは王の判断した結果が法律となっていく文化がある。そのような文化的背景を持つ人々には、人間と人間がやり合って無罪か有罪かを争う法廷闘争的な理解の体系よりも、高いギリシア的な徳を持つ政治家となり市民会(民会)での発言権を持つ人(哲人とか、徳を備えた人)になることが重要とされたことのためか、神化の神学のほうが、人々に伝道するうえで、成功的かつ説得的であったため、神化の神学が異様に発展し、義認の神学の影が薄くなったのかもしれないなぁ、と思う。

     

    他国の大統領を例としてとるのは、確かに申し訳ない限りではあるが、わかりやすそうなので、霊にとって考えてみたい。

     

    原罪の某国 特朗普 大統領(中国語表記にしてみました…)は、選挙戦期間中からも、ギリシア的な「徳」を持った人とはどうも言いかねるように思ったのだが、ある面、米国の中西部の市民的な徳(努力してがんばることで評価を受け、自ら富を作り出し、自己と他者のためにそれを用いる、という意味では、中西部市民的な徳はあるような印象を与えることには成功しているとは思う)を表明した人物であり、どちらかというと、義認論的というよりは、神化的なスーパーマンとしての勝利者キリストに近い側面が皆無だとは言い難いが、個人的には、あのタイプのキリストさまは勘弁してほしい、と思っている。なお、キリストは王という意味であるけれども。それこそ、 特朗普 現美国大統領(中華風に表現してみましたw)は、ある面、不動産屋のキリストだった、といえばそうも言えなくはないのではある。

     

    https://www.vice.com/en_us/article/donald-trumps-real-estate-tycoon-is-a-warning-from-history-950 より

     

     

    こう見てみると、義認論的オバマ VS 神化論的特朗普 という対比でとらえると分かりやすいかもしれない。東方正教会での神化の理解が誤解されるのは嫌だが。

     

    あと、日本でメイエンドルフの神学書をお訳しになられたのは、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教授でもあられたバランスの取れた先生である鈴木浩先生である。確かメイエンドルフは、大阪ハリストス正教会の松島司祭から何度かそのご高名はお伺いしたことがある。

     

    あと、この部分の最後の部分の「西方の法的で合理的な「義認」の信仰は、宣教の前面からは後退して薄くなる印象すらあります」を読みながら思ったのは、20世紀初頭に活躍したウォルター・ラウシェンブッシュの次のことばである。

     

    永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた。(中略)永遠の命は個人的希望であり、この世のためではなかった。(ウォルター・ラウシェンブッシュ著 『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』 p.212)

    ラウシェンブッシュの場合、義認論を起点にした聖書理解とその結果としての天国へ行くことの重視が、前面に出過ぎていた19世紀末から20世紀初頭にかけての当時のアメリカのキリスト教世界に対して、預言者的な反対意見を述べた人物であり、当時のキリスト教会に巨大な岩を投げ込んだ、といっても良い人物である、とは思う。現在の社会福祉を中心として、地に平和をもたらそうとする”社会派”と総称されるキリスト教の思想的基礎を与えた人物であり、先に紹介した著書『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』は、社会的福音の出発点となった本である。彼の場合は、バプティスト派の牧師であることもあり、明確な神化の概念の影響は出てこなかった印象があるが、人が人であることの回復、あるいは、人が神のかたちであることの回復を狙ったという意味で、後藤先生がおられる召団の聖書理解と共通する部分を持っているように思える。しかし、「社会派」と呼ばれる人に影響を与えた概念が、いわゆる福音派にあたる教会集合(ここの場合は、集合論的な意味で集合という語を用いている)の牧師から出ているのが面白い。

     

    こう考えると、アウレンが指摘しているように”勝利者キリスト”的な理解は、16世紀のルターにもみられ、20世紀のラウシェンブッシュにもみられ、そして、ビザンツ系あるいは、ビザンツィン系、あるいは正教会系(個人的にはコプトやエチオピア正教などを含む正教会系の神学と呼びならわす方がよいと思う)の神学や、カトリック教会の実践にもみられるということを考えると、案外大事なことだとは思う。それが福音派の教会で、ほとんど認識されていない、気にされていないのは、バランスが欠けているのかもしれないなぁ、あと思う。

     

    神のエイコーンとイミタティオ・クリスティ

    人間は、神のかたちであり、それが完全にダメになっている(全的堕落)というのが改革派系の聖書理解では強く見られるような気がする。全くダメになっているから、キリストに頼るしかない、という一種の法廷論的罪理解なのだが、正教会系の人間理解はどうもそうではないらしい。罪の結果、だめになっているけれども、また、この地でも回復する可能性があるというところが正教会系の神学や聖公会の祈祷書には、あるようであるし、だから、聖人伝とか聖人が大事にされるのだろうと思う。個人的には、どちらかというと、この正教会系の人間理解の方が、なんとなくだけど、絶望がないのでいいかなぁ、と思っている。

     

    ところで、この神化の信仰について後藤敏夫先生は、次のように言う。

    ある神学者が東方教会の「神化」の信仰は、西方教会的にいえば「キリストに倣いて」(イミタティオ・クリスティ)になると語っています。「召団の福音」においても、福音による救いは、義認による罪の緩しを焦点とするよりも、人間が創造された目的である「神のかたち」(エイコーン)の回復にあります。それは聖霊の新しい創造に与ってキリストを模範として生きることにあります。そこでは最初の創造に追って与えられた良い面を教育によって開花させるという面も強いように私には感じられます。(同書 pp.30-31)

     

    イミタティオ・クリスティは、トマス・ア・ケンピスという人の本のタイトルでもある。これは岩波文庫で「キリストにならいて」というタイトルで出ているので、気軽に手に入る本ではある。詳細はご自分でお買い上げになるか、ご近所の図書館でお借りになって、お読みいただきたい。公立図書館にはおいてあるだろう。

     

    ここで、キリストに倣う生き方をするように召されていると召団では教えておられるとご指摘であるが、正教会的伝統や古いカトリック的伝統、アングリカン・コミュニオンでは、いきなり、キリストに倣うのは、無理なんで、もうちょっと身近な存在としての先輩としての諸先輩、あるいは諸聖人を尊敬して、キリストに倣おうとした人のかけらからのかけらでも難しいので、過去の先輩、あるいは、聖人に倣おうとしているということであって…、ということらしい。その意味で、聖人は、信徒教育のためなのだ。エジプトのマリアがどこでもドアを持っていた疑惑とかに注目するのではなく、あまりに罪深い女性であったけれどもキリストに出会って(Encounterして)、真実の罪の悔い改めをしたことに注目すべきなのだろう。

     

    しかし、この辺の伝統を宗教改革の時に、プロテスタント派では一挙にブルドーザーで破壊して、そのまま谷底にごみとして突き落としてしまった感があるので、このあたりの「神化の神学」は、プロテスタント派ではないところが多い。

     

    この種の概念がプロテスタント派で残っているのは、メノナイトとアーミッシュくらいではないか、と思う。ただ、メノナイト系教団の偉い先生なのに、自分では、「えらくないよぉ」とおっしゃっておられる方で、月1回以上ミーちゃんはーちゃんがお会いするメノナイト系の某教団の偉い先生に聞いたら、「もう、日本のメノナイトは、普通の福音派の教会です」と身も蓋もないことをおっしゃっておられた。その割に米国の教団からは、「日本のメノナイトは、本当にメノナイトらしい教会だから、もっと頑張れ」といわれるので、そのたびごとに何とも言えない気持ちになる、ともおっしゃっておられた。正直な方なので、この方は大変尊敬している。

     

    そんなことが重要なのではなくて、重要なのは、その意味で、「最初の創造に追って与えられた良い面を教育によって開花させる」ということであり、そして、教育というよりは教会での礼拝や聖書からの説教を含むMinistryにより、本来の神のかたちに戻していく、という部分なのだと思う。それが、今では、ここでも何度か揶揄してしまったが、「信徒が聞いてくれるから」、「信徒が喜ぶから」ということを口実として、讃美歌大会付きキリスト漫談大会にしてしまっている教会もなくはない、ようだけど。それでは、このタイプの教会に食傷して、本家の正教会系理解に流れるのではなく、召団に流れる人がいてもやむを得ないのかもしれない。日本で、正教会系の神学があまりに知られてないのが残念でならない。

     

    普通の教会に飛び込んでくる営業のオジサン(時々、いるから不思議である。よほど教会が金持っていると思われているのかもしれない)が教会についておっしゃるのは、この教会は、カトリックですか、プロテスタントですかは、おっしゃるけど、コプトでいらっしゃいますか?グルジア正教会で?エチオピア正教会で?といわれることはないし、長らくキリスト者である方でも正教会の名前を聞いたことはない人が多いだろう。もっと言えば、正教会系の聖書理解のちょっとした知識でもいいので、それを持っている人はほとんどいないかもしれない。

     

    実に残念なことである。

     

     

    ニューパースペクティブ

    あるいは(パウロ研究をめぐる)新しい視点

    数年前から、福音主義教会の関係者で、N.P.P(N.T.Tではないし、T.P.Pではないし、P.P.A.Pでもない)という語がはやっている。PPAPは一部はやっている教会があるかもしれない。ところで、N.P.PはNew Perspective on Paulという概念の英語表記の頭文字だけ取り出した表記法であるが、この分野にお詳しい伊藤明夫先生の一昨年の福音主義神学会東部でのご講演によると、もはや新しいとも言えない30年くらい前のもう古くなってしまったパウロ理解のことらしい。その概念とそれが伝道理解にどう影響するかについて、後藤敏夫先生は次のようにお書きである。

     

    ニューパースペクティブは、「義認」を個人が信仰によって罪を許されるというよりも(それも含みますが)、イスラエルとの契約とそのメシアによって世界を救う神の計画に罪人を招き入れる行為として考えます。最近、日本にも紹介されるようになった英国のN.T.ライトもニューパースペクティブに立つ神学者です。日本伝道会議においても、N.T.ライトの義認論をめぐって議論があったようです。私は聖書理解としてはニューパースペクティブに共感するところがあります。そして、それは伝統的な福音の理解と必ずしも矛盾しないと考えています。ただニューパースペクティブに立った場合、それが99%未信者である日本の国で、どのように人々をキリストを信じる悔い改めと救いに招き入れる地域教会の伝道メッセージになるのか、なおはっきりとそのアウトラインが見えてきません。(同書 p.32)

     

    大事なのは、多くの福音主義関係者の教会において、ニューパースペクティブ、ないし、N.P.Pを白眼視ならまだしも、敵視されている感じがする。誤解されているように思うのだ。そもそも、そういう白眼視したり、敵視している皆様は、そのオリジナルをまじめに読んで、それを自己の信仰理解の参照枠と比較して、対話してみようとしたことがおありなのだろうか、とちらっと思うのである。どうも、議論の立て方から見るに、「読まずに、あるいは、読んだうえでキチンと対話せずに、表面的な批判してはおられないだろうか?」というような疑惑がある。あたかも、ニューパースペクティブが義認を含まない、義認を排除しているかのような(たしかに義認の理解というよりは、表現の仕方が従来とは違うので、そのように見えるかもしれないが、注意深く読めば神が義と人間を認められる、ということが全く含まれていないということにはならないことには気がつくはずだとは思うのだが)勢いで物言いをしてくる方々がおられる。そして、鬼の首をとったかのように、ものをおっしゃる方がいる。実に残念なことである。まぁ、第6回日本伝道会議でも、ライトの義認論をめぐって、神戸の福音ルーテル神学校の橋本先生と、巣鴨聖泉キリスト教会の小嶋先生とが対話しておられたが、敢えて、問題を先鋭化するために、橋本先生は異なる立場をとられたということを聞き及んでいる。しかし、あの時は、橋本先生が開始日時だったか開始時刻を間違えて、青谷から、会場であったポートアイランドまで、「15分で着く」と橋本先生は司会者の方に言われたようだが、そんなもん、エジプトのマリアの聖人の能力の一部をお持ちであるか、「どこでもドア」か「タケコプター」でもない限り無理である。案の定、開始時刻に送れて、宮本武蔵の様に遅れて到着されて、落ち着くまでしばらく時間がかかったのがかなり残念であった(ミーちゃんはーちゃんは現場にいたので、目撃者証言であるw)。まぁ、意図せずにの遅刻であったらしいが。

     

    後藤先生がここで、「それは伝統的な福音の理解と必ずしも矛盾しない」と、おっしゃるように、ミーちゃんはーちゃんもそう思う。完全にその点では同意である。正に『御意』と申し上げたい。

     

    しかし、西欧化しつつも、宗教の沼状態でいろんな宗教をぶち込んで闇鍋にしたような日本社会の中で「人々をキリストを信じる悔い改めと救いに招き入れる地域教会の伝道メッセージ」となるのか、と御懸念を表明しておられるが、個人的には、キリスト者の存在自体が、地域社会への伝道メッセージになり、キリスト者が読んだ聖書メッセージが聖書メッセージとして多くの人々に聖書として読まれることになるはずである、と信じているので、後藤先生ほど個人的には心配はしていない。確かに、これまで伝統的に福音派のキリスト教会が実際に行ってきたような方法で伝道メッセージを語るだけという形として、維持はされなくはなる部分があるかもしれないとは思うのである。

     

    聖霊を内住させる信徒が聖書として、ことばを内住させている信徒が人々のところに伝道メッセージを、イエスがこの地上を歩まれたように持っていくことも、これまでの教会で語られることば(説教)による説教と同様に重要になるというだけで、従来その教会内でのウェイトがほぼ0だったものが多少は増えるという程度の事である。もう少しいうと、信徒に読まれた聖書が、信徒の生き方に反映され、多くの人々にキリスト者の具体的生活を通して読まれることになる部分が出て来る、ということになるのだろう。ちょうど、日本のキリスト集会派の源流の一つとなったジョージ・ミュラーの孤児院伝道が孤児だけに影響したのではなく、チャイナインランドミッションやハドソン・テーラーそして、中国で死去したエリック・リデルにも影響を与え、説教という手法を通じて、ことばによる福音を述べ伝えていったように。なお、エリック・リデルがとり合えられた映画『炎のランナー』でのリデルの説教のシーン。
    エリック・リデルの説教のシーン

     

    そのニュー・パースペクティブに立つ伝道のアウトラインは、見えないだろうし、安定しないだろう。あるいは、安定させてはならないようにも思う。というのは、個別の教会が相手をする社会という相手と、そこに出て来る、諸相としての罪の問題の表れががそもそも論として、時代により、社会により変わっていくからでもある。あるいは、状況依存的に現実対応する中での伝道となるので、その多様性が存在するため、一種の汎化されることことで、どこでも成功する成功の方程式のような伝道方法のアウトラインは見えないものなのであろう。であるからこそ、リングマは、『風を受け、沖へ出よ』の中で、柔軟に対応していく必要があることを強調しているようにも思う。

     

     

    この本の紹介、今週いっぱいどころか、来週くらいまでかかりそうだ。いきなり、長期連載決定になってしもた。すまん。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

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    2017.05.03 Wednesday

    後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(2)

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      今日もまた、後藤敏夫先生の『神の秘められた計画』 福音の再考 と題された新刊を読んで、つらつら考えたことを考えてみたい。

       

       

      まずその前に、ここ冒頭において、後藤先生から、前回の記事とミーちゃんはーちゃんにご過分のお言葉を賜ったことをご紹介し、そして、ここで、感謝の意を示したい。

       

      後藤先生、本当にありがとうございました。でも、ちょっこし、ミーちゃんはーちゃんのことを買いかぶり過ぎでございますです。ハイ。

       

      応答への後藤先生の応答はこちら、 川向 肇さん(ミーちゃんはーちゃん様)への感謝 から

       

      そして、後藤先生とミーちゃんはーちゃんの間を、『終末を生きる神の民』 というブログ記事で お取り持ちいただいた服部先生(現在ロンドンで奉仕中)に御礼を申し上げたい。この記事がなければ、お会いしたこともないのに勝手に私淑している後藤先生との出会いはなかったし、ミーちゃんはーちゃんの今もなかったと思うのである。

       

      個人の救済でとどまるのか、人類の救済も視程に入れるのか

      個人的には、福音派と呼ばれるキリスト者集団の隅っこで、キリスト者としての生活を40年弱過ごして、今は、どういうわけか、Anglican CommunionでCantabery Trailをたどっているが、時々は、Constantinopoli Trailにも顔を出している。その中で改めて思っているのは、聖公会や正教会、カトリック教会等の伝統教派での共同体性の強さである。確かに中世の時代、これらの教会は、ある面抑圧的なほど、個人を縛った側面があったであろう。必要以上に縛っていたのだと思う。それらの教会からの捕囚からの開放を目指して宗教改革は起きた、のだろうと思う。そして、個人を共同体の束縛から、共同体としての教会の呪縛から解放した、という側面があるが、それは同時に、Me and My Godの関係で神との関係をとらえる方向に、宗教改革以降の人々の神と人との関係について、大きく舵を切らせた、ともいえる様な気がする。そしてそのことが、教会から個人を開放もしたが、教会の共同体性の基盤を失わせることになったように思う。

       

      その結果としての福音派の宣教のポイントについて、後藤先生は次のように書いておられる。

      私がクリスチャンとして生まれ育ったのは、いわゆる福音派の教会ですが、そこでは「人類の救済」といういい方はあまり聞かれません。福音派の特徴は個人の魂の救いにあります。つまり、「私」や「あなた」という一人ひとりの個人がキリストの十字架の身代わりの死を信じることによって、罪を許され、永遠の命を与えられて天国に行くということが福音派の宣教の要点です。(中略)イエス・キリストを信じるということは、伝道による個人の回心ということを離れてはありえません。しかし、そこでは神の創造目的の回復としての「人類の救済」ということはあまり意識されません。というよりも「人類の救済」といった言い方は、救いのメッセージの個人的な焦点をあいまいにするように受け取られてきたと思います。これには、教会や神学の歴史が深くかかわっていますが、ここでは、それに触れません。(『神の秘められた計画』  p.48)

       

      ここで後藤先生がご指摘のように、福音派の教会にないものは、「神の創造目的の回復としての「人類の救済」という」概念だと思う。福音派の教会では、人類の救済が、分割された人類である個人がたくさん救済されて、その救済された人が集まった結果としての救済された人類の束としての「人類の救済」という概念になっている様な気がする。そして、人類ひとくくりで救済というと、すぐに、「万人救済論」だとかいう、レッテルかラベルか、レーベルかは知らないが、なんか烙印というかある種のシールが貼られるような気がする。確かに、この部分はややこしい部分ではある。ただ、聖書を見る限り「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」という指摘があちこちに見られる。いかに幾つかの例を上げてみたい。

       

      そもそも、創世記の中にはこうある。

       

      【口語訳聖書】 創世記
       17:1 アブラムの九十九歳の時、主はアブラムに現れて言われた、
       「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
       17:2 わたしはあなたと契約を結び、
       大いにあなたの子孫を増すであろう」。
       17:3 アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、
       17:4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。
       17:5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、
       あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の
       父とするからである。
       17:6 わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。
       17:7 わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。
       17:8 わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう。
      そもそも創世記からして、どうも「神の創造目的の回復としての「人類の救済」という」概念があるような気がしてならない。

       

      【口語訳聖書 マタイによる福音書】
      24:14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

       

      もあれば、
      【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】
      1:7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。

       

      もあるし
      【口語訳聖書 コリント人への手紙 第1】
      15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

       

      とか
      【口語訳聖書 テモテへの手紙 第1】
      2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
      などというのもあるし、さらには、
      【口語訳聖書 テサロニケ人への手紙 第2】
      3:2 また、どうか、わたしたちが不都合な悪人から救われるように。事実、すべての人が信仰を持っているわけではない。

       

      とある。

       

       

      個人的には、大航海時代のスペイン系カトリックの人びとが南米で行ったように、個人的な神との関係を全く無視し、伝道といいつつも、地域の領主を改宗させて、手っ取り早くその領主の支配下の全ての人々をその進行の内実を問うことなく、キリスト教に改宗したことにするかのような、大きく共同体制に依拠し、共同体性をハイジャックしたかたちの伝道と改宗の方法はどうなんだろう、とは思う。おそらく、福音派の人々が全人類の救いというと救いのメッセージの個人的な焦点をあいまいにするように受け取ってきた背景には、このような過去の黒歴史の影響があるように思うのだなぁ。

       

      とはいうものの、逆に、共同体性を全く無視し、個人主義的な神との関係にのみ偏った聖書理解もまた、どうなんだろう、と思う。これ、両方あってはじめての話であって、どちらか一方という話でもないように思うのだが。近代では、個人と神との、Me and My Godの話になってしまっているように思う。

       

      ホロコーストという西ヨーロッパ・キリスト教社会の黒歴史

      ユダヤ人差別は、ある段階から西洋社会においてかなり大きな問題になってきた。そして、社会の片隅に置かれながら、経済的な実力的にも、様々な影響力の面でも、大きな力をもっていたユダヤ人は、社会不安のはけ口になり、ポグロム、ホロコーストという悲惨な事件を生み出していたのである。そして、ホロコーストは知られていても、それはナチスが悪かっただけであると日本人の多くには理解されているかもしれないが、このような分断が千年単位で西欧社会の中にあることは案外知られていないかもしれない。

       

      ポグロム http://musey.net/mag/21から なお、この画像が載っていたhttp://musey.net/mag/21 「本当は深い「ドナドナ」の真実:ユダヤ人との深い関係とは?」の記事は読まれたほうが良いと思う。

       

       

       

      https://en.wikipedia.org/wiki/The_Holocaust から

      新約聖書の時代、人間を互いに隔てる最も深い敵意の壁は、ユダヤ人と異邦人の間にありました。私たち日本人も異邦人です。しかし、ユダヤ人と異邦人の問題といわれても、遠い世界のことのようで身近に感じられません。ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の歴史がある西欧では、これは今日に至るまで、聖書研究のような分野においても非常に神経をとがらさざるを得ない歴史と社会の問題です。身近に感じられないといっても、同じような敵意が私たちにないということではありません。ただ、そういう歴史と社会の経験がない、あるいはあっても気が付かないというだけです。(同書 p.61)

       

      後藤先生のおか気になられたものを読みながら、聖書の中にある次のような部分を思い出していた。

      【口語訳聖書】ガラテヤ人の手紙 

       3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
       3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

      上のような記述の中に、パウロがこのように書いていたとしても、結局、西洋社会において、ユダヤ人と非ユダヤ人の間に敵意と分裂は存在し続けたのである。とは言え、そもそも、初代教会は、改宗ユダヤ人のシナゴーク(ユダヤ会堂)の中で、パウロが伝道することから始まった、と使徒行伝はお伝えしておられるけれども。

       

      シナゴーグのパウロ

      http://spu.edu/depts/uc/response/new/2012-spring/bible-theology/close-to-corinth.asp から

       

       

       

      支配階層と被支配層が共存する教会とその問題

      支配、被支配の関係は、どのようなものであっても、人間関係に歪みをもたらさない訳にはいかない。支配された皆さんは(被支配者側)は支配する側の皆さん(支配者側)に恨みを持たざるをえないし、貧しいものは、豊かなものに対して、僻みの混じった視線をどうしても向けたくなってしまうのではないだろうか。そのような人間関係性が、初代教会時代から問題を起こしているのではないか、と思う。あるいは、支配、被支配でなくても、ギリシア語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人の間で、問題が起きたことは使徒行伝の中で書かれている。

       

      【口語訳聖書】使徒行伝
      6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。

       

      同じユダヤ人であってもこの状態である。数の上での支配的、被支配的関係が教会内にある場合に、教会がどうなったか、ということが書かれているのようなのである。そのあたりのことに関して、後藤先生は次のように書いておられる。

       

      ローマ教会は異邦人クリスチャンの群れになります。やがて(引用者補足 クラウディウス帝によるローマからのユダヤ人の)追放令が解かれてユダヤ人クリスチャンたちがローマにもどってきますが、教会は最初からのユダヤ人クリスチャンよりも、もう異邦人クリスチャンたちの数の方が多いのです。そこで問題が起きます。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの民族的・文化的な違い、聖書理解の違いから生じる問題です。「ローマの信徒への手紙」は神学的・教理的に読まれることが多いのですが、−− そして確かに深い神学的議論がなされていますが ーー その背後にあるのは、非常に現実的、具体的な教会の分裂問題です。「異なる者たちがキリストにあって互いに愛し合って一つになる」という課題です。(同書 p.62)

       

      同じキリストを共有しているはずのキリスト教徒であっても、今日、キリスト教の教派は数え切れないくらいあるし、その教派感での微妙な差を巡ってのディスり合い、微妙な神学の違いで、あたかも異端であるかのごとく悪し様に言い合うさまには残念でならないし、まぁ、それこそ、罪の醜さを見る気がする。

       

       

      神の平和

      平和というのは、某国の防衛大臣ではないが、戦闘行為がない状態ではない。平和維持活動は、何らかの理由で平和が維持できないから無理やり1軍隊というむき出しの武力で、無理やり戦闘がない状態を作り出す必要があるのである。そもそも、戦争が起きるのは、宗教だとか政治だというが、実際は、ほかと比べて自分が貧しい状態に置かれている、と思い込むことが争いの原因になるのである。だから、金持ち喧嘩せずなのだ。

      喧嘩しても何もいいことがない事が多いのだけれども、貧しい人や失うものすらない人にとって見れば、争うことで、ひょっとして、千に3回でも自分の状態が良い方に変えられる、少しでもより良くなる、ということを思うから、争うのである。その意味で、他者との比較を始めた瞬間にろくなことが起きないし、平和を味わうことができなくなる。平和は、人間が作り出すものでもないような気がする。神から与えられたシャロームを享受するのが、せいぜい人間にできることなのかもしれない、と最近は思っている。

       

      その平和について、後藤俊夫先生は次のように書く。

       

      キリストの「平和」は、ギリシア語では「エイレーネ―」ですが、その背後にはヘブル語の「シャローム」があります。「シャローム」という「平和」は、ただ争いがないという状態ではありません。すべての被造物が神に作られた目的や役割を満たして、全体が調和して、本当に命に満ち満ちている状態です。旧約聖書で「シャローム」は日常的な光景にも使われます。例えば、自分たちが育てた果樹の下にみんなが集まって、その果実を喜びながら互いに和らいで過ごす時、それは「シャローム」です。(同書 p.66)

      後藤先生は、シャロームについて次のように表現する。「例えば、自分たちが育てた果樹の下にみんなが集まって、その果実を喜びながら互いに和らいで過ごす時、それは「シャローム」です」と。これは、ご自身が、北の大地でのご経験に立脚したことばのような気がする。そして、それは、まさに、詩篇の中の次のような表現のことなのかも知れないと、読みながら思った。
       
      【口語訳聖書 詩篇】
       133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは
       いかに麗しく楽しいことであろう。
       133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。
       133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。
      あるいは

       

      【口語訳聖書 イザヤ書】
       11:6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
       11:7 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
       11:8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
       11:9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。
      の中の、特に、「彼らは、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」というイメージこそ、平和なのだろうと思う。

       

       

       

      http://www.movemequotes.com/lion-sheep/  より

       

       

      しかし、旧約聖書やイスラエルの民を見れば、兄弟がまともに融和していることは殆どない。アベルとカイン、ヤコブとエソウ、ヤコブとその他の兄弟とは揉めているし、ベニアミン族は、イスラエルの他の部族との間との混乱で滅ぼされそうになった記述が士師記にはある。なかなか、兄弟間でも平和ではないのである。

       


      Cain&AbelTiziano
      ツィツィアーノ作、カインとアベル

       

      その意味でも、キリスト教会での聖書無誤論か無謬論なのかなどを巡る論争や、各種教派間の対立や分裂というのは、イスラエルの兄弟げんかみたいな形を、今もなお違う形で繰り返していて、それを神は、「しょうがないなぁ」と悲しみつつも、深く憐れみの心(ヘセド)ももってご覧になっておられるのかもしれない。そして、最終的には、その分裂や対立を神の憐れみのうちに回復、あるいは修復し、平和をもたらすことができるご計画をお持ちなのだと思う。

       

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
      後藤 敏夫
      いのちのことば社
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      (2017-04-21)
      コメント:おすすめしております。

      2017.05.06 Saturday

      後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(3)

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        今日も後藤敏夫先生のお書きになられた『神の秘められた計画』を読みながら考えたことを、たらたらと書いてみたい。本日は後藤先生のテキストをもとに教会についてのことに関して考えてみたい。

         

        人々の間の壁や断絶を超えていく教会

        個人的には聖餐マニアでもあるので、聖餐は、教会の中で、非常に重要だと思っているのであるが、プロテスタント派では、なかなか、この大切さが認識されてはいても、諸般の経緯により、回数が少ないのが、かなり残念である。いま、アングリカン・コミュニオンに行き続けているのは、結局毎週少なくとも2回は、聖餐式をしておられるのと、とりあえず他のキリスト教会で洗礼を受けた人にも聖餐にあずからせて下さるからである。その聖餐が、人と人との壁や断絶を超え、そして、教会が人と人の間の壁や断絶を超えていくという側面について、体験することができるように毎回思う。そして、それがいいなぁ、と思っている。この教会について、後藤先生は次のように大事なポイントを書いておられる。

         

        ペンテコステのペテロの宣教は、ただ個人の罪の許しだけではないのですね。罪を許されて、近くにいる人も、遠くにいる人も、主イエスの弟子たちの交わりに加わりなさい、というメッセージでした。それを聞いたものの多くはエルサレムに巡礼に来ていたユダヤ人です。しかしそこで起きたことは、聖霊が力を持って臨むとき人間を隔てる民族、文化、言語の壁が破られ、遠く隔てられて生きていたものたちが、一つの新しい神の民(共同体)になるということのしるしであり、前触れでした。アダムの罪によって傷ついた人間の愛の交わりが聖霊の新しい創造によって回復します。これがキリスト教会の誕生であります。(『神の秘められた計画』 pp.69−70)

         

        これを読みながら思ったのは、小文字のカトリック教会という、ことばである。これは、山崎ランサム和彦さんがブログ記事 小文字のキリスト教 で、最初にお書きになられたことではあるが、実は、我々が使徒信条を唱えるときに、聖なる普遍の教会、あるいは、聖なる公教会、あるいは、聖なる公会、あるいは、聖なる公同の教会といっているものである。普遍、公、公同というようなことばが用いられているものの、その心は、人と人を隔てているものを超えていくというのか、隔てられていた人々を包摂していくという存在としての教会ということなのだろうと思う。それを、「罪を許されて、近くにいる人も、遠くにいる人も、主イエスの弟子たちの交わりに加わりなさい」ということだ、ということを後藤先生はご紹介しておられる。

         

        今行っているアングリカン・コミュニオンの教会がとても気に入っているのは、ここ数か月はいろんな人が来られ始めて、日本人も、台湾人も、ルワンダ人も、米国人も、英国人も一つの聖餐の食卓に「信仰を持って近づきなさい Draw near with faith」と招かれて、そして、イエスのからだとイエスの流された血を示す杯とそのための時間と空間をリアルにシェアするところが何とも言えず良いなぁ、と感じているのである。「一つの新しい神の民(共同体)になる」ということが現実になっていることが目前で広がっている感じだと思う。聖餐式では、正に神の国の試食をして味わっている感じがするのである。

         

        天の苦の聖徒の聖餐

        http://www.bicolstandard.com/2015/10/communion-of-saints-heaven-earth-purgatory.html から

         

        水曜日の夜の聖餐式にお伺いしているときには、世界中から来た海員たちが和んでいる姿を見るのである。つまり、一時的にではあるが、フィリピン人もいれば、ロシア人もいる、ウクライナ人も、中国人も、インドネシア人も、オーストラリア人も同じ時間と空間を共有しているという状態が生まれているのである。こういう世界を見ると、あぁ、天の国というのはこういう感じかなぁ、と思うのである。まぁ、聖餐に参加する人が少ないのは残念であるけれども。

         

        One Bread One Body という讃美歌

         

        そして、後藤先生は、「アダムの罪によって傷ついた人間の愛の交わりが聖霊の新しい創造によって回復します」とかかれているが、人間の愛の交わりこそ、聖書のいうシャロームなのだと思う。しかし、前回も書いたように、現実の個別教会の中には、混乱があるし、痛みがあるし、傷つけ合いがある。神が与え給うた理念系である「聖霊の新しい創造」で誕生したはずの教会が、本来の姿としての理念どおりに機能しえないのは、人間が現実には、なんといっても、まだ罪の支配の中にあるからなのだろう。

         

        本書の後半でも書いておられるが、後藤先生もこの現実に直面し、真面目な方であるだけに、相当消耗されたのではなかったか、と思う。その消耗からの隠れ家というか、その消耗からの逃れの場所が、今おられるところだったのではないかなぁ、と思う。狭いキリスト教界隈のこと、普通の教会からはあるていどの距離をとる、あるいは断絶するという意味で、外国に行くか、そこしかなかったのではないか、という部分があったのではないか、と思うのだ。

         

        後藤先生は、様々な人々が食卓を共にすることについて、次のように書いておられる。

        (引用者註 使徒言行録)10章に画期的な出来事が記されています。エルサレム教会の指導者であったペテロが、異邦人コルネリウスと食卓を共にしたのです。異邦人と共に食卓に着き、同じものを食べることは、ユダヤ人にとって最大のタブーでした。当時のユダヤ人だけではありませんね。例えば、1960年代の公民権運動以前のアメリカ南部で、最大のタブーは、白人と黒人(アフリカ系アメリカ人)の結婚、次は白人と黒人が同じ食卓につくことでした。それは命の危険を意味しました。今も心の深いところは変わらないでしょう。イエス様が当時の社会で「罪人」と呼ばれた人々と一緒の食卓について、同じものを食べたことの意味を考えてください。( pp.71-72)

         

         

        1960年代的な状況について描いた映画に、「招かれざる客 英語タイトル Guess who’s coming to dinner?」という映画があるが、まぁ、相当当時はひどい状況である。まぁ、昨年も割と自由な雰囲気のあるワシントン州の州都オリンピアでも、人種の違う男女が付き合っているからと言って襲撃事件が起きたのである。聞いた時、ちょっと驚いたが。

         

        招かれざる客のワンシーン

         

        ここで、ペテロという福音書の中で特別な存在(代表的人物)として描かれている人物が、外国人であるコルネリウスと食事をする(つまり仲間となる、同じような存在の仲間、社中となる)ということで物議をかもした例を取り上げて説明されておられるが、新約聖書中には、イエスについてかなり批判的な言説がなされたことが記載されている。

         

        【口語訳聖書 ルカによる福音書】
        7:34 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。

        というイエス自身の言葉とされる表現が出て来る。このなかで、「取税人、罪人の仲間だ」という批判をイエスは受けておられるし、また、このご発言の前に出て来るローマの百人隊長(センチュリオン 百卒長)が言っているこの言葉が印象深い。

         

        【口語訳聖書 ルカによる福音書】
         7:6 そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
         7:7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。

         

        「私の屋根の下にあなたをお入れする資格」というのは、このセンチュリオンというか百人隊長の庇護下にイエスを置く資格、つまり、イエスがこの百人隊長のクリエンティスとする資格、あるいは、このセンチュリオンというか百人隊長が、イエスのパトロン(庇護者)になるということはできないということでもあるし、それを突き抜けて、イエスを仲間として、共に時間と空間を過ごすという資格すらない、ということを自ら公言している様な気がする。この外国人のセンチュリオンがイエスを自宅に迎え入れるということは、暴動すら起こしかねない、というほどの出来事だったのかもしれない。さらに言えば、ここで、イエスを「迎えに上がる」ということは、イエスと時間と空間を共有することを公的空間で実現するということであり、まさに友であることを示すことが、イエスに迷惑がかかるから、申し訳なくてできない、と百人隊長がいっているように思えてならない。

         

        今、それほどの方が、「我々とともにおられる」ということを考えると、空恐ろしさすら覚える。

         

        キリスト教のリアル・聖餐のリアル

        『キリスト教のリアル』という面白い本がある。この本に関しては、こんなもの、キリスト教のリアルではない、といううわさ話が聞こえてきたことがある。この本に出て来るのは司牧の話であって、信徒の話はほとんどない、とか、聖霊様の話が出てこないなど、まぁ、言いたいことをおっしゃる方はおられるが、まぁ、それはいい。どんな感想を持つかは、個人のご勝手であるし、ご自由だとは思っているのである。

         

        あの本は、より正確に言うと、『キリスト教会指導者のリアル』か『キリスト教司牧のリアル』という感じの方がいいかもしれない。しかし、流石にそれではマニアックすぎて買う人がいないだろう。本は売れてナンボである。だからこそ、キリスト教のリアルなのであって、ということかなぁ、ということで落ち着いたタイトルではないか、と思う。大体、普通の日本人に「聖霊様」とかいったところで、「何それおいしいの?」とハナクソをほじられながら言われるのが落ちである。その意味で、この本はある程度、キリスト教に関心があるというちょっと普通ではない、そこそこ普通の日本人を対象とした本なのであって、コアな聖霊様のファンの皆々様方には、そのような本がたくさんあるので、そういう本を読まれるに限るのである。なに、ミーちゃんはーちゃんは、聖餐と教会のコアなファンであるので、この『キリスト教のリアル』とか、下部に紹介する赤木先生の本とかマクグラス先生の本なんかは、とてもおいしいと思う。

         

        聖餐は、確かに象徴である。しかし、それと同時に、そこは現実社会にあるという意味では、リアルな場なのである。先にも述べたように、国境という壁、国籍という壁、言語という壁をぶち破って、リアルに存在するキリスト者が共に象徴としてのパンとブドウ酒(ぶどうジュース)を通して、キリストを内に受け取るというリアルな場なのである。福音書が読まれ、福音を伝える聖書と福音を伝えらるものが一つの場所にいて、それぞれ異なる自らの不甲斐なさを神の前に悔い改めることを神の前に認めながら、共にキリストにあるめぐみを分かち合い、ともに与る聖餐が裂かれるリアルな場が存在するのである。そして、パンというリアルが、人間というリアルとぶつかり、ぶどう酒というリアルが、人間というリアルとぶつかることで、キリストというリアルが、人間というリアルとぶつかった、ぶつかっているということを示す場が聖餐という場なのではないか、と思うのだなぁ、これが。

         

        そこでは、日常世界では分断された人々が、一つに集まることで、神の民が一つであるということを小さいレベルで覚えることにもなるように思う。まさに、「神の御国、いまここでちっちゃいレベルでキタ〜〜〜〜〜」ということを覚えることだと思うのだ。聖餐はインターネットでできないし、司祭から、牧師から、または隣の信徒から、イエスの死と復活の象徴するパンをもらうことはインターネットがいくら技術的にスペックを上げたとしてもできない話ではないか、と思うのだ。神の国、ないし神の支配がこの地にぶつかる音こそが、福音宣教だ、と個人的には思っている。その意味で、聖餐式はそれこそ福音宣教のかなり有効な方法なのではないか、と思うのである。それが軽視されているのがねぇ…。

         

        人と人の壁とその間を埋めることに関して、後藤先生は次のように書いておられる。

         

        ユダヤとサマリアの間には、民族的な、宗教的な憎しみや蔑みの厚い壁がありました。今もあります。エルサレムから地の果てにも、また地の果ての人々の間にも、互いを隔てる壁があります。一つの地域にも、差別や蔑みに隔てられた人々が生きる地の果てがあります。そこでイエスの証人になるということは、自分は安全圏にいて、離れたところからスピーカーで福音をつたえるというようなことではありません。福音を伝えるものは伝えられるものとともに立ち、共にめぐみを分かち合い、キリストにあって互いに愛し合って一つになる聖霊の新しい創造に共に与っていく。その過程で、クリスチャンも神の国にふさわしいものに変えられていくことが今日も求められている福音宣教であり、それが人類の救済につながる聖霊の贖いの力による御国の前進なのです。(同書 pp.74-75)

         

        ところが、下の動画でご紹介する人々は、お正月の初もうでの人々に、神の言葉を聞かせようとして、離れたところからラウドスピーカ―で聖書の言葉を切り取り、細切れにしたものをご配布くださる。分かち合うのではなく、「聞け。聞かねば、呪われるぞよ」と一方的に只々聖書から切り出された多様な文言が繰り出される。個人的には逆効果ではないか、とも思うが、それでも、その一方的な聖書テキストの細切れのような言葉を通しても、神のことばと出会い、キリストと出会う人たちもいるのだから、不思議なものである。人知をはるかに超えたキリストの愛、とはこのことか、とも思う。


         

        たしかに、後藤先生の言われるとおり、「福音を伝えるものは伝えられるものとともに立ち、共にめぐみを分かち合い、キリストにあって互いに愛し合って」いくことは大切だと思うが、多くの一般の人々には意味不明に近い、教会用語で教会話法に従って、教会会話や教会説教が教会では語られる。中央官庁では、多くの一般の人々には、意味不明に近い、官庁用語で官庁話法(東大話法ともいう)に従って、官庁政策が語られるし、国会議員は官庁用語の解説を時々は官僚に求めるのである。時に国会という場で。それで通じているということになっているのであるから、法案がどんどんと通っていくことになる。まぁ、議員だって、そのかなりの部分は、官庁話法話者である元官僚上りが多いのが現実ではあるけれども。

         

        しかしそれは、国民と共に立っていることにならないし、恵みを分かち合っていることにはならない。それと同じことは、学問と世俗社会の間、特にマスコミの間で起きる。それが起きたのが、あの、何人もの科学者の人生をつぶしてしまった、STAP細胞事件だと思う。研究関係者や大学関係者は、研究者仲間のコミュニケーションが主になるので、一般に世間一般とのコミュニケーション能力を持たないことが多い。そして、そのコミュニケーションの輪の中に入っていくためには、忍耐を要する研究というものが要されるのだ。それは仕方がないことだと思う。それを、その忍耐をせずに簡単にわかった気になって、テレビや新聞で解説するから、そして、その中途半端な解説で分かった(分かち合えた)気になる人々が世の中には、多いから困ったものなのだけれども、世の中そんなに甘くない。しかし、これまでの学問の関係者には、その分かち合いや、伝えらえるものと共に立ち、という視点が割と薄かったこともまた、学の側は、現在では少しだけ反省を強いられているようには思う。

         

        これは、教会もまた同じだと思う。分かち合うためには、メディアないし、場あるいはフィールド、圏、公共圏、スフェアが必要なのである。その場とかフィールド、圏といったものはリアルなものの場合もあるだろうし、バーチャルなものの場合もあるだろう。これまでは、リアルな教会という場しかなかったが、そのリアルな社会の中に、既にバーチャルな世界が突入し、リアルな社会のバーチャルな社会が突き刺さっているのだ。Pokemon Go!というゲームを知らない人はこのブログの読者にはおられないとは思うが、あれはまさに、バーチャルがリアルに進出してきたのである。携帯電話という存在も、ある面、不完全な形ながら、バーチャルがリアルに突入しているのだ。

         

        ユビキタス社会といわれてから、もう10余年である。いつでも、どこでも、情報通信のお世話になる社会が到来しているとすれば、それを無視することは、それを用いる人々と共有する場にともに立たない、シェアしない、ということになるだろうし、そのような態度は果たして宣教や伝道をしようとしているといえるのだろうかなぁ、とは思う。

         

         

        その意味で、キリストと人がぶつかり、神と人が、そして、人が人とが神にあって愛を示し合うために向き合う場所が教会なのかもしれないなぁ、と思うのである。教会は結婚式のときに家族についての愛を語る場所ではなくて、いつも愛を語る場所であって、その一環として教会があるのではないかなぁ、と思うのである。

         

        Pokemon Goの画像 

        http://www.redbull.com/jp/ja/games/stories/1331807631384/pokemon-go-tips-red-bull-games より

         

        インターネットやウェブサイトという概念は、1990年代までは存在しなかった。しかし、今では、それは社会基盤にすらなっている。確かに、それは我々にとって比較的新しいものである。そして、従来はなかったから、と言ってそのようなアプローチを無視するのであれば、聖書といえば、羊皮紙に筆者生が転記する聖書であり、これまでに印刷聖書はなかったからと言って無視した人々と同じ命運が待っている。キリスト教会ですら、ヘブライ語聖書の時代にはなかった。エルサレムにある神殿ですら、ある時から現れたのである。

         

        まぁ、これからこのような社会とどう付き合うか、についてどうされるかは、それぞれの方お一人ひとり、それぞれの教会ごとに個別に突きつけられている問題でもあるし、それは教会として、まじめに神学すべき内容であるのではないかと思うのだ。

         

        現在は、ある面で過渡期ではある。ただ、先にも述べたように、バーチャルは、リアルを覆いつくすこともできないし、リアルはバーチャルを覆いつくすこともできない。必要なのは、リアルな孤立国、孤島同士をつなぐ人やその場、リアルとバーチャルをつなぐ、ブリッジする、あるいは架橋する人とその場が必要なのだと思うなぁ。

         

        そもそも、教会はデジタル的なバーチャルではないといえ、フィジカルでない、物的でないという意味でバーチャルなものについても、言語で扱うにせよ、物的なもので扱うにせよ、身体的なもので扱うにせよ、扱っているのではなかったろうか。それなのに今になって、バーチャルなものは…とか言い出すのは、個人的には理解に苦しむのだなぁ。これが。

         

         

        次回へと続く。

         

         

         


         

         

         

        評価:
        赤木 善光
        教文館
        ¥ 8,100
        (2005-11)
        コメント:高い本だけど、たまらん位面白かった。

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        価格: ¥ 3,240
        ショップ: 楽天ブックス
        コメント:DVDの内容が面白かった。もちろん、本文もいいけど・・

        2017.05.08 Monday

        後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(4)

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          今日もまた、後藤敏夫先生の『神の秘められた計画』を読んでみて、つらつらと思ったことを書いてみたい。

           

          世の中、いろいろな教派があるけれども・・・

          日本でも、非常に多様なキリスト教会が日本全体の中には存在する。皆さんがお住いのそれぞれの具体的な地域(徒歩圏、自転車で行ける範囲、電車やバスで行ける範囲)には、そんなに多様性がないかもしれない。いや、実際にないことが多い。地方部では、一つの市町村にキリスト教会が一つないし0、ということも案外少なくないのである、というよりは、その場合がほとんどだろう。そうなると、いろんな教派は日本全体のスケールでは存在するが、実際に行ける領域、圏域ではほとんどないというのが実際なのだと思う。

           

          実際に、このブログでハリストス正教会のイースターとその讃美歌をご紹介したら、お読みになられた方がハリストス正教会に行きたいのだけれども、お近くにない、と残念そうにおっしゃる方もおられた。

           

          ところで、日本に、あるいは世界に、それらの多様な種類の教派とか教会群がなぜ存在するのか、というと、それは教会は神の支配の産物であると同時に、リアルな空間で存在する一種の社会的存在、あるいは歴史的存在でもあるからなのではないか、と思う。そのあたりのことに関して、後藤先生は次のようにお書きである。

          福音の理解に独自性とか、オリジナリティという言葉はなじみません。教会の歴史は、生ける神様の働きの歴史ですから、その森は実に奥深く豊かで、様々な色合いの霊性の花が咲き、信仰と愛の果実が実っています。これは新しいといわれるような聖書や神学の理解であっても、教会の過去の歴史に同じ理解を見出すことができるはずです。ただ、遣わされている時代や現実が違いますから、そこに飛び散るいのちの火花が違います。(『神の秘められた計画』 p.76)

           

          たしかに、福音にはオリジナリティはないはず、ではある。バプティスト派のイエスとか、カトリックのイエスとか、改革派のイエスとか、ルター派のイエスとかはないのである。あるいは、パブティスト派のための神の国とか、カトリックの信徒のための神の国とか、正教会の皆さん向けの神の国とか、ルター派の皆さんのための神の国とかはないのである。あるというなら、使徒信条の「我ら聖なる公同(小文字のカトリック)の教会」の部分を信じてないか、そのことに合意していないことになるのではないか、と思う。

           

          確かに、福音にオリジナリティはないが、福音の伝え方というか、福音の表現の仕方にオリジナリティは存在する。それは表面の違いであって内実の違いではない。丁度、毎日来ている服装が違うからと言って、服を着ている本人が短い期間をとれば、あまり変わらないのと同じである。それを、服装のスタイルの違いにばかり人間が目をやるから、違うように見えているだけのことである。

           

          もちろん、中学高校の風紀委員会担当の体育教官室の教員がいうように、服装の乱れは心の乱れ、という部分がないわけではないけれども、心が乱れていて、スカート丈を長くしたり、短くしたりはあるかもだが、学生服の内側に金糸でトラや龍の刺繍を入れることはあっても、また、「いくら前田敦子はキリストを超えた」という本が出たにせよ、学生服の外側に在学中に「前田敦子命」とかの刺繍を入れる人はいないだろう。

           

          http://www.tfm.co.jp/timeline/index.php?catid=1485&itemid=60380 より

           

          刺繍入り学生服 http://www.aoki2.com/aoki/sisyu/anniversary.html より 

           

          内側に竜虎の刺繍が入った学生服 http://thinkpink.ocnk.net/product/1042 より

           

          前田亜美 の刺繡を入れた学生服 http://www.yamatokanbai.co.jp/blog/index61.phpから

           

          この人が前田亜美さんらしい。初めて知った。http://akb48nensensou.net/archives/20777849.html から

           

          基本、日本人女性ポップシンガーが個体識別可能であるのは、夕焼けにゃんにゃん以前の中森明菜くらいまでである(年がばれるww)。

           

          ところで、「これは新しいといわれるような聖書や神学の理解であっても、教会の過去の歴史に同じ理解を見出すことができるはず」というところが心に留まったが、まさに、ヘブライの知恵文学作家の言葉ではないが、

           

          【口語訳聖書 伝道者の書】

           1:9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
           1:10 「見よ、これは新しいものだ」と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
           1:11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。

           

           

          まさに斯くの如しというほかない。これは学問でも同じだと思う。

           

          大学生なりたてのころ、データベース論がご専門の先生から授業を受けることがあって、その授業の中で、その先生がギリシア哲学の先生と対話された時のことをお話されたことがある。そのデータベース論の専門家の先生が「どうだ、これはないだろう」と思ってギリシア哲学の先生にご自分の専門に関してお話された内容が、ことごとく「あぁ、それはギリシアの哲学者の・・・・にありますね」とか「それは、この本のこの部分にありますよ」などと返されて困惑したと同時に、「人間考えることは同じなんだねぇ」としみじみとおっしゃったことが忘れられない。

           

          要するにプログラミングツールと、OSと、アプリケーションソフトウェアが違うだけで、基本的なデジタル計算機に関するコンセプトは2500年このかた、ほとんど変わってないということなのだと思う。それと同じように、キリスト教というOSは西方神学とか、正教会神学とかはあるかもしれないけれども、キリスト教の基本コンセプトはそんなに変わっていないことなのだ、と思う。

           

          福音って法則とかマニュアルのようなものなのだろうか…
          福音は、神を信じて救われるためのものであるといういわれ方がすることがある。しかし、そんなものでいいのだろうか、とも思う。なんか味わいがないというのか、ディズニーランドのライドの施設が持つある種の雰囲気ような、割と薄っぺらいもののように感じることがある。それが悪いというわけではない。それが好きで好きでたまらない人たちもいるのだから、それはそれでいいと思っている。世の中複雑なものが嫌いな人がいるのだ。そら、新幹線に乗るまでの時間にとりあえず何か口に入れたいというような急いでいるときに懐石料理のようにゆったりと出されては困るわけで、名古屋駅のきしめん(これはなかなかおすすめ)のように、あるいは姫路駅のまねきの駅そば(これは中華麺が使ってあってなかなか画期的 情報サイトはこちら)のような速さ重視の食事がうれしい場合もあるし、そういうB級グルメが好きな人も世の中にはおられるのだ。それは間違っているということではなくて、どれも正しい。

           

          あるいは、子供向けの絵本の光の説明と、大学院生向けの専門書での光の説明が違っていて当然のように、提示の仕方は聞き手との関係もあるので、一意に定まらない、ということなのだと思う。

           

          そのあたりのことについて、後藤先生は次のように書いておられる。

           

          パウロは、よく福音派でなされるように、福音をただいくつかの法則にまとめられるようなものとは考えてはいません。神の「秘められた計画」とは何かと言えば、神の御子の受肉、受難、復活の福音からはじめて、「そのキリストにあって、ユダヤ人と異邦人、すなわち異なるものが互いに愛し合って一つになる神の創造目的に生きること」と言葉で説明できます。しかし、その神の「秘められた計画」は、ただの神学的な認識や人間が自分で持つことができる計画やプログラムではありません。(同書 p.78)

           

          パウロは、よく福音派でなされるように、福音をただいくつかの法則にまとめられるようなものとは考えてはいません」という非常に強烈な表現が出て来る。ただ、多くの福音派の方は、「よく福音派でなされるように」と書かれているように、あるタイプの福音提示しかご存じない方が多いので、ちょっとでも違う仕方で、あるいは、ちょっとでも違う視点から、福音(神がこの地に来ちゃった)が語られてしまうと、アレルギー反応を起こされる方も少なくないように思う。そして、「そんな話は聞いたことがない」とおっしゃり、中には、「そんな話は聞いたことがないので、あなたの聖書理解は間違っている」、とか「あなたの聖書理解は異端的」とか好きなことをおっしゃって下さる方も時々ある。ある面、決められた仕方で提示されるものにあまりにもならされているので、変わったものが来ると、おかしく感じるということなのだと思う。

           

           

          そして、「その神の「秘められた計画」は、ただの神学的な認識や人間が自分で持つことができる計画やプログラムではありません」と書いておられるが、これって、伝道というか福音の伝え方が一種のマニュアル化された結果、ってことじゃないか、と思ったのだなぁ、これが。ところが、「秘められた計画」というときの「秘められた」というのは単なる秘密にされたという意味ではなくて、それは神の神秘であるという説明がこの文章の前にある。そのいみで、神が我々の知性をはるかに超えたお方であるように、我々の知性では理解しえないものとしてお餅である、というような神の絶対性にかかわる部分として、神は神秘としておられるのだと思う。

           

          そういう神秘を人間にとって、何とかわかりやすくしたい、平易に説明できるものにしたい、そして、わかった気になりたいというのは人間誰しもが持つ感覚だとは思う。しかし、その思いは大事だし、それは学問をするうえでの出発点ではあるのだけれども、時に行き過ぎてしまって、説明しすぎてしまったり、簡単化しすぎてしまったりすることがある。それが、ディズニーランドのライドの書割みたい、あるいはお子様向けの説明みたいじゃないかなぁ、と思ってしまうのだ。先にも書いたように、お子様向けの説明だって役に立つのだ。お子様向けにはお子様向けのアプローチによる説明こそが、役に立つのだ。だって、パウロさんだって、聖書の中でそんなことを書いておられる。

           

          【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
           3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
           3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。

           

          しかし、いつまでもお子様向けのものだけで満足されるのも実に困ったものだと、パウロさんは言っているように思う。

          【口語訳聖書】エペソ人への手紙 
           4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
           4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
           4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
           4:14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
           4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。

           

          問題はその辺だと思う。子供向けのわかりやすく、意図的に単純化されたもの、つまり「人間が自分で持つことができる計画やプログラム」しか聞いたことがないと、それが福音であると思いこみ、それしか知らないものでそれ以上のことを考えない場合も出て来るのかもしれない。また、ことに日本のような異教世界的が幅を利かせている様な伝道地では、信徒にも言葉で伝道することが進められたり、求められたりする傾向が強いので、そのためにも、単純化した福音理解が幅を利かせたのはわかるし、その必要性があったと思うのであるが、人間が罪の支配のもとにあるからなのだと思うが、それから一向に抜け出しきれないというのもまた、これまた困った傾向だと思う。そして、違う見え方が福音に対してあるとか、違う見方を述べたりすると、その単純化されたものとは違うので、すぐ異端だとか、お交わりできないとか言われてしまうのは、残念でしかないことだなぁ、と個人的には思うなぁ。

           

          誤解しないでほしいので、何度でもいうが、単純だから駄目だとか、複雑だからいいとか言っているわけではない。単純なものだって必要なのだ。ただ、それだけに捕囚されているのはどうか、そして、その理解がすべてだ、と思っていることはどうなのだろうか、ということを言いたいだけである。

           

          個人的にはアメリカが起点となっている学の世界で生活の糧を得ているし、アメリカ人の持つ世界観のような、なたで物を作るような世界観の単純さや素朴さ、朴訥さには円空仏のような印象もあり良いところもあると思っているのが、問題は、彼らがどのような状況でも、一つ覚えのように同じパターンで何でもやってしまおう、あるいは覆いつくそうとする一種の素朴さというか、強引さというか、無茶さ加減があるように思う。一番最初の日本の福音はトレーラハウス的であるというのもそれである。結局ワンパターンで「ほら、福音持ってきたよ、これでいいでしょ」風の雰囲気がかなり付きまとうのだ。そして、そのワンパターンにはまらないものに対して、「世界標準の福音でない」とか「間違っている」とか「閉鎖的だ」と怒り始めたりして、そのワンパターンの世界にはめようとしたりするのだ。個人的には「自分に合わせろ」と言いつつ、他者に対して「閉鎖的だ」と怒り、相手を変えようとし始める方が、よほど精神としては「閉鎖的」だと思うのだが。

           

          円空仏 https://www.amazon.co.jp/dp/4044001537 より

           

          ちょうどこの種の米国の標準に合わせよ、ということが政治問題化する状況が起きたのが、1980年代の日米通商摩擦のころで、米製自動車が売れないから、と言って自動車のハンドル規制がおかしいといってみたり、米製製品が売れないから、と言って、日本の商慣行が閉鎖的といってみたり、体重や食文化の違いを無視して、米製の市販薬を売るために規制緩和をさせようとしてみたり、挙句の果ては米製のバットがもっと売れるようにするために野球のルールがおかしいのではないか、といいだしたりしたことは、個人的に非常に印象的であった。

           

          また、最近の米国は似たようなことを言いだしている雰囲気があるが、今、世界の向上は、既に日本から中国に移り、その結果として中国の生産能力が向上することに伴い、米国の貿易不均衡は、対日不均衡よりも、対中国本土の不均衡の方が大きくなりつつあるので、不満のはけ口はそのうち中国に向いていくのではないか、と思っている。

           

           

          Chinaと連呼する大統領候補者時代のドナルド・トランプ氏

           

          個人的には、ワンパターンというのはどうにもいけませんねぇ、と思うのだが。その辺が、人間の罪の結果なのか、とも思う。

           

           

           

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

          2017.05.10 Wednesday

          後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(5)

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            さて、これまで、4回にわたって、後藤敏夫先生の『神の秘められた計画』という本を読んで思ったことをつらつらと述べてきたのだが、次回が最終回である。個人的に印象深かった、と思ったと同時に、今おられるキリスト者集団にあまり芳しからざるお話を聞くことが多くても、こちラに逃げ込むように移るしかなかったんだろうなぁ、と思った記述をちょっと拾ってみたい。

             

            後藤先生の痛み

             同書を読んでいると、まさに自伝という感じがするのが、第敬瑤任△襦その部分から今日は拾ってみたい。その自伝という感じがしたからこそ、印象深かったのであるし、早すぎる遺言のような印象を受けたのであった。最初に牧会でうまくいかなかったことについて、正直にこのように後藤先生は書いておられる。

             

            私たちは人を傷つけ、自分たちも傷つき、牧会に行き詰まり11年目にやめるつもりでいました。仕方なく12年目を引き受けました。その1年で神様は私を砕かれました。自分には義がないと思いました。教会員に文字通り7度の70倍を許されて牧師であることができたと思いました。もしその1年がなかったら、私は「あの人が、この人が」という苦い思いを抱いて、その教会を去ったことでしょう。仕方なくとどまった12年目の1年に、その前の11年の実りを実らせる時の成熟がありました。人は自分ばかりが我慢しているように思いがちです。しかし、実は相手の方がもっと自分に我慢してくれたのかもしれない。目で見るところに従って人を裁く時、実は自分が見えていない。その気づきの瞬間が神様の恵みです。主にあって、それに気づく1年、1か月、1週間、あるいは一日があるのだと教えられました。(『神の秘められた計画』 p.99)

             

            目で見るところに従って人を裁く時、実は自分が見えていない」というのは、実に印象的な表現だった。我々は、つい自分自身が、鼻で息するものであるとは認識しつつも、無意識に自分の聖書理解や行動を基準あるいはカノンになってしまう、あるいはカノンにしてしまうように思うのだ。自分自身がいかに不甲斐ないものであることは知っていたとしても、自分の基準、自分のカノンにあってないと、他者が神のカノンにおいてより適合的であっても、自分のカノンにあってないだけなのかもしれないのに、他者を裁いてしまうのだろう。それが牧会生活を始めた11年目に表面化したのだろう。しかし、不幸にして、人間は、神ではないがゆえに、「目で見るところに従って人を裁く」ことしかできないのではある。残念なことだ。実に残念なことだが、それしかなしえないのだと思う。ここで、「主にあって、それに気づく1年、1か月、1週間、あるいは一日があるのだ」と書いておられるが、それは痛い経験からのことばでもあるとは思う。

             

            神から打たれる経験であったのかもしれない。ちょうど、イスラエルが腰を打たれたように。あるいは、イスラエルの民がその歴史上、何度か打たれたように。ただ、神は打ちっぱなしの神ではなく、回復の神でもあるのである。そのことを、後藤先生は「気づきの瞬間が神様の恵み」であると表現されておられるのだろうと思う。個人的にも、そのことは感じたことがある。まぁ、牧会者専業ではなかったので、そこまで教会のことで、痛い思いはしなくて済んだのかもしれない。そこまで痛い思いをしなかった背景には、世俗の仕事を持っていたこともあり、牧会で必要とされること以外のことに神経が求められることの方がはるかに多く、世俗の仕事でなすべきことが確実に多かったからではあるかもしれない。

             

            この、他で必要とされることもあった。というのは案外大きいかもしれない。それに加え、大頭さんを含めお知り合いのお友達の牧師先生たちもいてくださったのが大きかったのかもしれないが。大変、ありがたいことである。

             

            打ちのめされ、燃え尽きた牧師として

            結構、福音派には、打ちのめされ、燃え尽きた牧師や燃え尽きかけた牧師の方は案外多い。どうも、以下のような記述を見ていると、後藤先生は牧会の現場で消耗しきっておられたのかもしれない。その燃えつきの後に出会ったのが、ジャン・ヴァニエというカナダのカトリック信徒が始めた障碍者の共同体(ラルシュ フランス語では小舟の意味)の創始者であったことについて、次のように書いておられる。

             

            私自身は燃え尽きたように打ちのめされたままでした。ただ牧会から離れた解放感を味わっていました。ある日、東京お茶の水の古本屋で書棚を見ていると、「共同体 -- 赦しと祭りの場 --」という書名が目に留まりました。著者はジャン・バニエという人です。名前は知っていましたが、本は読んだことはありませんでした。(中略)

            後に四ツ谷のカトリック書店で、偶然手にしたヘンリ・ナウエンの小さな本を訳して、「イエスの御名で」という邦題で、友人と三人でつくった「あめんどう」という小さな出版社からだしました。バニエやナウエンという人々は、私が今もそこから組んで飲む霊性の泉です。それも一つの長い季節の成熟でした。(同書 p.100)

             

            個人的には、ナウエンから入って、ジャン・ヴァニエ(バニエ)にたどり着いたのだが、後藤先生は逆だったらしい。ジャン・ヴァニエからナウエンに行ったとのことである。個人的には、ミーちゃんはーちゃんは、信仰者として燃え尽きる前、いや、実際には燃え尽きかけの時期にこのタイプの本を読み始めたのである。最初に出会ったのは、今でも忘れない。米国在住中に日本のアマゾンからわざわざ取り寄せて読んだ、『ナウエンと読む福音書』という本であった。今までの自分の福音理解とのあまりのギャップに衝撃を受けた本であった。そして、『ナウエンと読む福音書』は、自分自身の信仰を見直すきっかけになった本でもある。そして、その後、「コミュニティ -- ゆるしと祝祭の場 --」を読むに至って、自分自身の聖書理解、聖餐理解がかなり変わっていったのである。よく考えてみれば、ナウエンの本と出会ってから今14年余り経つ。我ながら、流れ流れて、ここまで来たなぁ、と思うのであるし、回り道もたっぷりとではないにせよ、それなりに回り道をしたように思う。ナウエンの本で、砂漠の師父の世界や正教会の伝統に出会いながら、それとの関係が、最近とみに深まっていることは、実に印象深い。その為にも、ミーちゃんはーちゃんも、燃え尽きるというか、挫折するというのか、自分の力では、ほぼどうにもならないことを、理解においても、霊においても、身体的にも、体験的に覚えるという、ある種の打たれるという経験、そして神の前に悔い改めるという経験の大切さを心底味わうことが必要だったのかなぁ、と思っている。そして、そのことは聖餐式に与るたびに思い出している。

             

            鬱と後藤先生とミーちゃんはーちゃん

            ミーちゃんはーちゃんも抑うつ症状になったことがある。対応が早かったので、あまり深刻化することはなかったが、それでも軽快するまでに3年くらいはかかった。後藤先生の記述を読んだ時に、あぁ、そういえばそんな感覚もあったなぁ、と思ったのである。ミーちゃんはーちゃんの抑うつ症状は、最初心療内科の医師の診察を受けた時に、「キリスト教会によるものではないか」と医師からかなりしつこく聞かれたのであるが、キリスト教会によるものではなく、職場の同僚に意図せず振り回されたことによるのは、ほぼ確実だったようだ。今は、適切な距離をとることを覚えたのと、同僚が持ちかけてきても、興味がないことは「興味がない」とかなりはっきり発言することを覚えたので、あまり振り回されなくなった。それは、抑うつから学んだ大切なことであった。

             

            牧会17年目に私は思いがけず、うつ病になりました。閉鎖された空間にじっとして居られなかったり、過去の小さな記憶が現在に流れ込んでくることに耐えられなかったり、電車が空間を移動しているのを見るのがつらいといった症状がありました。自分の内部で時間と空間を支える秩序の柱が崩れたようでした。(同書 p.101)

            ミーちゃんはーちゃんは空間を扱うのが大好きな人なので、現実の時間と空間を支える秩序の柱が崩れた、という感覚はなかったが、とにかく、心理的な距離感がとりにくくなったのには、本当に参った。誰かが何か言うたびにそれをしろと言ってくるような印象を受けて、それを客体化して見ることが、できなくなるという意味では、心理的空間がドップラー効果よろしく歪んでしまった感じはあったのである。何より、「過去の小さな記憶が現在に流れ込んでくることに耐えられなかった」というのはわかるのである。それがチクチク思い出したくもないのに自己を刺すという感じだろうか。済んだことにできない、という感覚の様な気がする。「ほっておいてくれ」といっているのに、「ほっておいてくれない」という感覚がものすごくつらかったのだ。たしかに、過去の小さな記憶が現在の精神世界の中で巨大化して自己を支配される感覚に耐えがたかった、ということは確かにある。但し、これは個人の経験に過ぎない。
             

            西海岸の教室から来る宣教論

            日本は、米国の51番目の州と揶揄されることもある。まぁ、それに近いところはあるかもしれない。首相在任中に自国を米国の不沈空母と呼ぶ総理大臣もいたほどである。リップサービスとはいえ、あまりにも酷い、と今でも思う。その譬えで行けば、我々は、空母の乗組員の戦闘要員になるではないか。どこから攻撃されるかは知らないが、もし、首相が不沈空母というのならば、その上にいる日本人は、すべからく戦闘要員となるので、攻撃されても仕方がないことになる。まぁ、ハワイは日本の48番目の県(ハワイでぐるっと見渡すと、日本人が目に入るくらい、日本人がいるかららしいけど)だから仕方がないのかもしれないが。

             

            この連載の冒頭で日本の教会トレーラーハウスと揶揄したが、それを後藤先生風の別の表現にすると、以下のようになるのだろう。

             

            牧師になりたてのころは、教会成長論の真っ盛りでした。牧師は、教会員の増加とそれに見合った教会予算の増加を数か年計画としては右肩上がりに表示することが求められ、そこに新会堂建築計画を入れるのが教会のビジョンと呼ばれました。新しい宣教論の波はアメリカの西海岸の神学校の教室から来ました。(同書 p.111)

             

            まぁ、小手先の手を変え品を変えた方法論としての宣教論が、これまでも日本には押し寄せてきたし、今も押し寄せていることは確かに間違いがない。それが押し寄せざるを得ないほど、日本でキリスト教は根差していないのだ。根がないから、ちょっとした波が来れば過去のちょっとさびがあちこちに浮き、ぼろぼろに見え始めたトレーラーハウス(神学の風潮)は隅に押しやられ、ぼろぼろになり、新しいピカピカのトレーラーハウスに人は寄っていくことになる。丁度、新車乗り換え病の人たちのように、新車に次々と乗り換えていくかのように、新しい神学に乗り換えてきたのが日本のキリスト教だったのかもしれない。それはどうもアメリカでも同じようなものなのだと思う。あるタイプの人は、そういう信仰生活の落ち着きのなさに耐えかねるのであり、その結果として、福音派の教会から去り、正教会に行ってみたり、カトリックに移ってみたり、米国の聖公会に移ってみたりするのだろう。「もう疲れちゃったよ」って感じなのかもしれない。個人的には、本当にそんな感じなのだろうなぁ、という印象はある。

             

            ところがである。この本でも、後藤先生が何度かご紹介している第6回日本伝道会議で実は奇妙な印象のある出来事があったのである。それは、その伝道会議では、日本のコンビニの数以上に、教会を日本全国に展開するビジョンとやらが提示されたのである。見た瞬間、我が目を疑ったことは、目撃者証言としてここに記載しておきたい。教会成長論は、日本の一部においては、未だに盛んなようである。

             

            教会成長論の背景にあるアメリカ社会の文化

            そもそも、この教会成長論の実態とは、ミーちゃんはーちゃんが世俗の仕事で教えたこともある、O.R. 日本語では、オペレーションズ・リサーチ、あるいは作戦計画と言われる計画理論 たとえば、PERT計画理論なんかを教会にそのまま当てはめたものと言ってもよい。O.R. とかオペレーションズ・リサーチとは、第2次世界大戦中、大砲をどうぶっ放せば、一番効率的に敵の兵隊や軍団を蹴散らすのに有効か、どのような作戦を立案すると自軍の被害が最小で済むか、その作戦計画に必要な資源の量とは何かを決めるという作戦計画を定量的に立案し、そのために必要とされる資源は何で、それをいつまでに用意するのが必要なのか、を定量的に把握する数理計画システムであり、線形計画法(L.P. ないし Linear Programming)などの各種手法を含むものなのだ。

             

            ところで、この作戦計画ORの要諦は、作戦目標の数値指標の明確化と、必要な資源をどこにいつまでにどれくらいの量を蓄積するか、である。それがすべて、といってもよい。従って、教会員の増加と、予算の目標値の設定といったことは、作戦計画にある作戦目標の数値指標値であり、会堂建設は基本資源の蓄積(会堂自体)と資源の蓄積ポイント(会堂建設地点)と蓄積量(会堂の収容人数)の設定をする、ということであり、それをいつまでにやるか、ということをPERT計画法ともとに実施していくのである。まさに、この後藤先生の上記の一文を読んだ瞬間に、ピンと来てしまったのだ。教会成長論では、教会にPERT計画法を適用したのだなぁ、といういうことを。

             

             

            PERT計画法 http://lab.mgmt.waseda.ac.jp/prod_b/bpr/third/tejyun1.htm より

             

            じつは、このPERT計画は、アポロ宇宙計画から、1970年の大阪での万国博覧会のパビリオン建築計画などから多用され始め、現在では、大規模な建築事業や大規模改修事業ではこの手法は必要不可欠なものになっている。これは、一過性のイベント、例えば、宇宙に有人宇宙船を飛ばすためのアポロ計画や、大阪万博のパビリオン建設、大規模建設工事や建築物の改修工事といったものにはきわめて適合的であるが、この手法の問題は、目的地からの先、つまり定常状態についての対応方法がないことだ、と思うのである。

             

            建築とか宇宙ロケットの制作や有人ロケットによる月面着陸のための飛行、という目的の達成という具体的目標は、明確に定められるし、その実現予定の達成度の判定とか、実現予定時期の遅れが、何によって発生するか、といったことは明確化することはできるのだが、定常状態をどう評価するのか、更にその改善となると、その改善行為の完結の為には、また新たなる計画ということになり、結果として、四六時中、計画計画、実施、計画、見直し、修正を実施という羽目に陥る。

             

            ゼネコンみたいな建築事業者なら、次から次へと計画を作って、仕事をこなすようなことは、日常茶飯事であるし、それが仕事だから、別にどうってことはないが、これが教会となると、教会を定常状態に保ち、信徒を霊的に整えることよりは、四六時中計画を立てることと計画を実現することに追いまくられることになり、落ち着いた教会生活とか、霊的な静まりなんかを、やりたくても、出来るわけがない状態ではないか、と思うのだ。

             

            伝道することが目的になっていないだろうか?

            「伝道された信者がどうなることがよいか」は、考えられているだろうか?

            建設計画の場合は、明確な目的がある。作業の期限内での完遂という目標が設定できる。では、教会の場合は何か。教会建設、新会堂完成が目標になってしまうが、何のために、そんな目標を立てるのだろうか。何をするために、人々がどういう状態であることがよいことなのか、ということを考えないと、伝道したことが目的となり、津々浦々に教会は立ちました、だけれども、伝えられた信徒が途方に暮れたまま、ということが起きても、仕方ないことになるのではないのだろうか。

             

            丁度、戦後すぐの建築ブームや高度経済成長期には、東京だって空き地だらけだったし、あちこちで工事しっぱなしであった。何、東京とかの大都市は、今も工事しっぱなし、ということはある。工事業者やゼネコンなら、建てることに意味がある。しかし、キリスト教会はゼネコンだろうか?違うんじゃないか、と思う。教会というハコモノは、信徒を神の民として歩めるように励まし、養い、神の愛があふれるばかりのものであることを再確認できるようにするためのハコモノだと思うのだ。ハコモノに意味がないとは言わないが、中身のないハコモノとしての教会になっているとしたら、結婚式場教会の方がよほど、建築様式論的にもツッコミどころ満載のものが多いので、よほど面白い。でも、ハコモノとしての教会があるとしても、もし、そこで、信徒が神の民として歩めるようになってないとすれば、暴論を承知の上で言えば、洗礼式も聖餐式も、葬儀もないような結婚式場教会とあまり変わらないし、教会というハコモノは単なるお飾りに過ぎないのではないか、とも思う。

             

            当時の日本全国で、このような中身の伴わないハコモノを作るという対応が世間一般でも求められていたし、特に田中角栄氏の列島改造論時代には、工事、工事、また工事という姿は、日本ではごくごく一般的であったのであるが、ただ、バブルがはじけてこの方、世間は低成長時代。東京は異常な状態が続いているにせよ、他は、一台工事ブームは終わり、あとは老朽化して傷みが目立つ社会的インフラやハコモノを、低成長時代にどう維持するかが問題になってきているのである。それが十分できてないから、都市部では下水管の漏水やら、上水道からの漏水で、都市のあちこちで穴ぼこがあいて、水が噴出する事案が多発する時代を迎えている。その意味で、日本はちょうど列島改造論のツケを支払っている感じなのかもしれない。

             

            列島改造論 https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9V9F2 より

             

             

            その意味で、世間では、成長はあきらめて今いる資源をどう活用し、都市や施設の劣化を防ぐのか、という方向に大きく舵を切っているし、切らざるを得ないのだが、教会では、低成長時代、少子高齢化時代を迎えていても、相も変わらず、成長路線が求められ、まだまだ未開の市場があるかのような妄想に取りつかれ、全国津々浦々に教会を、とかいう方々もおられる。確かに、聖書が届いていないのは確かだけれども、津々浦々に届けるのは理想かもしれないけれども、それをどれだけのコストで誰がそれをやるのか、ということをガン無視しての理念系の議論だけが繰り広げられているような気がしてならない。

             

            人口カバー率なのか、面積カバー率なのか

            「教会をコンビニ並みに」という教会成長論の話は、「インターネットを津々浦々に」の話とよく似ている。インターネットをすべての人が使える社会というのは、住民の利便性を上げるうえでは、国会図書館に出向かなくても、国会図書館のアーカイブにアクセスできるなど、実に素晴らしい側面がある。もちろん、不愉快な表現を見せられる、というような意味での不愉快な側面もあるけれども。世界中の友人と瞬時に電子メールで英語が利用できる限りにおいては、コミュニケーションできるとかいうメリットもある。普通の人には関係ないということも確かではあるが。しかし、人口が少ない地域では、企業の自主努力によって、あるいは営利行為としてインターネットに触れられないのである。如何に、スマートフォンが普及したとしても、山の中や海辺の人口が少ない地域ではネットにそもそもつながらないし、とりあえずつながったにしても、めちゃくちゃ遅い。人がいないところではサービスが悪いのである。あまり最近は言われなくなったが、携帯電話のカバー率は、面積カバー率ではなくて、人口カバー率で議論される。つまり、全体の人口の何割に対してサービスを保障しているのか、ということが問題にされるわけである。

             

            ところで、コンビニが、地方のかなりの田舎でも成立できるのは、その田舎を通過するトラックなどの物流関係者の交通量とその物流関係者相手のビジネスが一定量存在するからである。田舎の裏通りにコンビニはありえないのだ。つまり、コンビニは通過交通量を相手にできるからこそ、店舗が出店できるわけで、教会は通過交通量は伝道対象になるのだろうか。恐らくならないだろう。日曜日の午前中や午後、荷物を必死に運んでいるトラック運転手などの物流関係者は、わざわざ、教会の礼拝に立ち寄り、30分から50分くらいの説教を聞いて、わざわざ配送の遅延の原因になりかねないような、時間の過ごし方はしないだろう。それを考えると、コンビニ並みに教会をという掛け声は麗しいが、ミーちゃんはーちゃんなんかは、「じゃぁ、それどうやってやるのさ。教会建てることはできるけど、維持できるんかね」、「日曜日の運転距離が200kmから300kmというタクシー運転手並みに日曜日に動き回る地方部での兼牧の教会を担当する牧師や司祭のえげつなさをどうお考えなんだろう」と正直思う。地方部での兼牧教会を数年間やってから、夢物語を語るなら、どう現実に夢を実現するのかを語ってほしいと思う。語ったらいかんとは言わないが。

             

            携帯電話の人口カバー率

            http://news.mynavi.jp/articles/2014/07/09/coverage/ より

             

            その意味で、人口カバー率で考えれば、圧倒的に都市部にサービスをする方が有利なのは、携帯電話も教会も変わらない。

             

            1920年以降、東京都及び神奈川県の全人口に占める比率を図にしたのが以下の図である。この図を見る限り、東京及び神奈川県での人口集中が起きたこと、1965年から1995年にかけて安定的な状態であったものの、それが2000年代以降、更に集中度が上昇して居るというのがわかるであろう。つまり、ということは、国土の大半を占める地方圏は人口がどんどん減っているということであり、そのような地方圏で電話であれ、電力であれ、ガスであれ、水道であれ、携帯電話であれ、都市部と同質のサービスを続け、サービスを維持することは、膨大なコストが必要になることは、御想像いただけるであろう。

             

             

            1920年から2015年までの東京と神奈川県の人口の対全国人口比率の推移

             

            それと同様に、このようなまだ福音伝道が届けられていない地域はサービスを届けるのも、そのサービスを届けるための教会を維持するのも、高コスト構造になっているのだ。普通の感覚で言えば、もはややってられないレベルのコストがかかる割に見返りというのか、収入が極端に少ないのである。大体、もともと国営サービスであった郵便局ですら地方の特定郵便局を維持するコストがかかりすぎ、地域拠点でもあったし、郵政族の国会議員の票田であった特定郵便局でのサービス提供から撤退しているのである。いくらインフラとしての建物があるとしても、それを維持すらできなくなっているのである。

             

            お役所仕事の代表格と批判された郵便業務でもこの状態である。そこに、敢えて、地方の寒村や人口がほとんどない地域に教会を建設して、福音を届けられたい向きには、お届けになられたらいいが、その費用はだれが負担するのだろうかと思うと、暗澹たる気分になってしまう。伝道者や牧師の犠牲精神だけではやってられないように思う。そのあたりを考えながら、何のために伝道するのか(そこに神を知らない人がいるからだ、でもいいとは思うが)、伝道された後、信徒がどのように生きるようになることが望ましいのか、ということをも考えながら、今後の伝道を考えないと、まずいことが起きるように思うなぁ。

             

             

            次回最終回へと続く

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             


             

             

             

            評価:
            ジャン・バニエ
            一麦出版社
            ¥ 21,581
            (2003-12)
            コメント:中古で、この価格はないと思うが、この手の本ではありがちの価格。内容的には優れていると思う。

            評価:
            ヘンリ・ナウエン
            あめんどう
            ---
            (1993-04-01)
            コメント:この本の背景は薄々知っていたけど…いい本です。

            2017.05.13 Saturday

            後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(6)完

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              さて、これまで、5回に渡り、後藤敏夫先生の『神の秘められた計画』 をご紹介してきたが、今日で一応の集結としたい。今日はこの本が早すぎる遺言かなぁ、と思った部分について、拝読しながらつらつらと思ったことを、たらたらといつものように書いてみたい。

               

              後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)
              後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(2)

               

               

               

               

               

               

              現代社会における福音派のメッセージの限界

              これまでの会でも、前回も、後藤先生の記述をもとに、日本にやってきた聖書理解、ないし神学や、教会の在り方が、基本アメリカの神学校で生み出されたものを、日本風のカスタマイズ(現地化)をせずに、そのまま持ち込んできたということをお話してきた。それは、日本側の問題ということももちろんあるが、基本アメリカの聖書理解、神学理解が、普遍化を目指してくみ上げられてきたこと、聖書に関する”真理”といわれること、あるいは”真理”であると思われたことは、普遍的に成立すると考えられてきたこと、また、近代思潮や近代の諸学が、基本的に人間の個別性に着目するよりは、”普遍性”に着目されてきたこと、また”普遍性”があることがよいとされてきたこと等もあり、どこでもどの人でも同じように成立するはずだ、という思い込みによって、日本に持ち込まれてきたし、日本がそのまま輸入してきた部分がある。

               

              なに、これは、聖書理解に限らない、経済学なんかでも、そんな部分がある。アメリカで計量経済学が流行れば、それが持ち込まれるし、産業組織論が流行れば、それが日本に持ち込まれた。現実の政治経済の分野でも、アメリカ型のシステムが割と安易に持ち込まれてきた部分はないわけではないようにも思う。典型的には小泉純一郎元総理時代の竹中平蔵氏を中心として持ち込まれた改革路線は、基本アメリカ型の雇用流動型の社会のモデルとその日本型バリエーションであり、その結果として、現代の社会でもそうであるが、派遣労働者の就業分野の分野的な拡大とその量的拡大が行われ、その結果、派遣村と呼ばれる派遣労働者がホームレス化し終結し、改善を求めたような事例などや、奨学金の返済にすら苦労する若者の存在など、現在では、その構造改革と称された諸制度の改変による負の側面もようやく着目されてはいる。とはいえ、その改変が起きてしまうと、世の中は割と不可逆的部分があるので、制度の改変後の改変等(たとえば、奨学金の返済猶予など)が行われているものの、被害者はどうしても放置されたままになりやすい。

               

              私の考えでは、これら(引用者註 西海岸の神学校の教室からやってきた聖書理解)は時々に神学や聖書的メッセージの装いをしていても、アメリカの福音派の ―― そして、その影響を受けた世界の福音派の ―― ここ30年ほどの時代と文化の問題です。その背景には、急速に進行する世俗化、人間の全体性が失われ心理的に切り刻まれるストレスに見した競争社会、家庭の崩壊とも結びついた現代人のセルフイメージの低下、そしてポストモダンの思想や生活様式の多様化ということがあり、それ以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的なメッセージが、この世に生きる信徒の生活に対応しきれなくなった時代を反映しています。(『神の秘められた計画』 p.112)

               

              確かに、アメリカでは、もともと、国家が国教会を持たないという意味での、政治と宗教との分離と分化が推進されてきたものの、1960年代ごろからは、使われる紙幣にわざわざIn God we trustという一文をペニーと呼ばれる1セント硬貨から100ドル紙幣にまで刻印し、あるいは印刷して流通させているのである。そもそも、そんなことを書かなくてもアメリカ人はそれを当然と受け取っていたのが、世俗化が進み、神の存在が社会とその背景から消えたことで、それを日常使うものである効果や紙幣に書かなければいけなくなったのではないか、という疑念もある。ベトナム戦争に関与することで、自分たちの大義とその根拠に対する疑いを経験し、戦争が正義の戦闘とは言えない現実が広く知られ、アルコールより、影響力の強い麻薬などの薬物が社会に一定程度流布し、従来型の社会倫理が崩壊することを経験したアメリカ社会では、まさに、「以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的なメッセージが、この世に生きる信徒の生活に対応しきれなくなった時代」をこの50年の間に、経験したともいえる。

               

              大量消費時代に適合的であった近代とそこでの教会

              それに、社会理念として、均質性や均一性の重視された大量生産大量消費社会が幅を利かせたモダン時代から、個別性に価値が移っているポストモダン時代では、企業も学校などの組織も、均一化の反省に立ち、個別化多様化に向かっている現実がある。1960年代初頭の日本の国民車カローラはセダンタイプのみで、せいぜい外装色の違い位であったが、現在では、カローラも多様化しており、内外装及び各種オプションを合わせるとカローラ1車種だけでも数万種類に達しかねないほど、多品種少量生産と販売段階での車両のカスタマイズ化が進められているのである。

               

              あるいは、歌謡曲も似たようなもので、昔は紅白歌合戦という年末行事の中で放送される歌謡曲やポップスはよほど変わった人でない限り、国民の大多数が放送中に流れる歌謡曲やポップスを歌えたものだが、今では、紅白歌合戦の視聴率自体が下がってしまっているの状態である。その中で、最低限の水準とはいえ、みんなが同じでみんなが同じようなナショナルミニマムで満足するような均質的な世界であったものが、個人個人の意見や主張が反映されたような、多様性が求められる社会になってきたのだ。つまり、カスタマイズすることに価値がある社会、あるいは、カスタマイズすることで、他者との違いを明確化する、あるいは、差別化することが重要である社会になってきたのである。

               

              昔は、学生服といえば男子は詰襟、女子はセーラー服と決まっていたものだが、今は、ブレザーで男子はズボン、女子はスカートといったものへと変わっている。そして、女子高では制服を変えることで受験の倍率が変わるなんてことは当たり前に起きるし、食品でも、様々な味付けのポテトチップスなんかが販売されている。定番商品だけの製造販売では、企業経営上、売上高が確保できないので、多様な商品を同時並行的に出しながら、新商品が生まれては消え、また、生まれたは消え、ということが繰り返されているのだ。

               

              女子高生の多様な制服 https://twitter.com/shiyge/media より

               

              多様な味付けの湖池屋さんのポテトチップス http://www.suruga-ya.jp/product/detail/655002777000 より

               

               

              こんな時代大量生産大量消費、みんなが同じ対応で十分だった、貧しさがそこはかとなく漂っている圧倒的欠乏が支配していた時代には、実は、「以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的なメッセージ」は、そこそこ有効に機能していただけのことかもしれない、と思う。ポストモダンな生き方が成立するのは、社会の所得階層(いやな言葉だが)で最も条件の悪い人まで、一定の価値にアクセスできるようになったからであって、食うに困る社会では、「萌え~~~」とか言っている場合でないのである。衣食住に大きな不具合や問題がないからこそ、ニートをやっていられるわけであって、食うに困ればニートなんかはやってられないのではないか、とも思うなぁ。

               

              その意味で、社会が豊かになった現状において、福音派が何を語るのか、ということが問われているということかもしれないと思う。従来の、「これが理想系です。普遍的価値です」という言説がほとんど意味をなさなくなった現代にあって、「どのような信徒のための神学を聖書テキストから紡ぎだすのか」が問われているような気がしてならない。

               

              同時代人としての思い、かも

              世俗の仕事の分野では、ドラスティックにテーマを変えたことがある。それは阪神大震災が目の前で起きた直後である。それまでは数理経済モデルを作っては、均衡解がどうのこうのというタイプの議論をしていた。阪神大震災が目前で起きている中で、そんなどうでもいい話は、本当にミーちゃんはーちゃんにとっても、どうでもよいことになってしまった。しかし、それまでは、そのような普遍化された課題に取り組むことを無批判に受け止め、その枠組みの中で普遍化された課題をこなすことを仕事としてきた。普通の人には、「どうでもいいことだろうなぁ」とは思いながらも、それをすることが自分の課題だと思い込んでそのタイプの研究に邁進してしまったのだ。「愚かだった」と今では少し思っている。
              あるいは、そのような研究を進める中で、その研究の世界を当たり前として受け入れ、それに僅かばかりであるとはいえ、ちょっこし疑問を持ちつつも、いつの間にかその中に捕囚されてしまった、という感じかもしれない。より正確には、自らをその方向に向け、捕囚されるように仕向けたともいえる。その意味で、竹中平蔵氏の経済理解の思想を共有している部分が、ミーちゃんはーちゃんにもある。その意味で、竹中平蔵氏の新古典派的な自由主義礼賛型の経済理解の片棒は担いだと思っている。ここで、後藤先生は以下のように記される中で、御自身の神学的な歩みにおいて、アメリカ西海岸で流行した神学にも多少無批判に追従していった「時代の子の一人」という自己批判を述べておられるのだろう、と思う。

               

              思いつくままに述べましたが、私が福音派キリスト教の現状を嘆いているように思われるとしたら、それは真意ではありません。それは私自身が同時代を歩んできた道でもあり、自分もまたそこに信仰生活の足跡を記した時代の子の一人です。(同書 p.113)

               

              これは、仕方がない部分があるのではないか、とも思う。というのは、後藤先生が若かりし頃は、インターネットもなければ、Facebookもなかったし、洋書は丸善か教文館の洋書部で買うものという時代であった。今みたいにAmazonもなければ、Kindleもない時代であり、そもそも、日本には、外貨がないため、洋書を輸入するというのは一大冒険事業であった。そして、1ドルは360円の時代であったはずである。

               

              その中で、漏れ伝わってくるものを必死に求め、福音理解そのものではなく、福音理解だとされたもの、あるいはアメリカで議論されている神学を理解するのに必死になっていたのが、日本のキリスト教会であったし、今もなお、そのような部分があるかもしれない。

               

              元々、日本のキリスト教は、アメリカの、そしてアメリカの西海岸の人々が伝道者としてかなり含まれてきたこともあり、西海岸のアメリカ人関係者の影響が強いと思う。さらに、アメリカ人にとって、マニフェスト・ディスティニィで西へ、西へと進んできたこともあり、フロンティアの消滅から数十年後にある神学的理解の広がりやフロンティアが、西海岸で止まってしまって、運動の行き先が見えなくなってきたところに、突然降ってわいたかのようにあらわれたのが、敗戦後の日本と韓国という地域であったようにも思う。ある面、アメリカの神学校の教室で語られるアメリカのコンテキストに合わせて、アメリカ型にカスタマイズされた神学理解がアメリカ人のユニバ−サル思考とも相まって、アメリカは世界の標準であるから、アメリカで成功したなら、日本でもそのまま行けるんじゃないか、的な形で伝えられたものの「消化」と日本での現地化への試みが始まったのが、ようやく最近ということなのだろう。確かに技術標準的にはかなりの部分においては、アメリカ型モデルが普遍的存在であったとは言えるが…

               

              早すぎる遺言、と思ったわけ

              本連載の冒頭で、本書は早すぎる遺言かなぁ、と思った部分は、以下の部分を読んでしまったからである。

              2016年の日本伝道会議の主講師は英国のクリス・ライトでした。それは福音派における今後大切な宣教論的な視点を、聖書全体の救いの物語に足場を置きながら、平和や環境等にかかわる社会的責任をも意識した、「包括的」(ホーリスティック)な福音の理解に求める意識によると思われます。しかし、そこでイエス・キリストという結び目をしっかり押さえないと、風呂敷を広げて福音派が者秋的行動や政治的発言をするということになりかねません。私自身は「全く排除的に(エクスクルーシフ)にイエス・キリストにだけ固着することによってこそすべてのものを包括的(インクルーシフ)に包む」(カール・バルト『教会教義学』「和解論」 1/1の訳者の「あとがき」)福音の世界を求めています。それは聖霊の力によって、御父のみ心を行って生きるということでもあります。すなわち「包括的」ということは、ただ神学的な認識の事柄ではなく、神の民の生き方にかかわる課題です。(中略)

              人の吐く息に乗せられ、成果を求める活動主義にあおられて生きてきた私たちは、霊性の泉に渇きました。ラルシュ・デイ・ブレイクにヘンリ・ナウエンを訪ねた福音派の指導者は、私が知る限りでも何人かいますが、どこかでナウエンは彼らについて「福音派の人々に会って、彼らはみんな神のために一生懸命働いているが、霊的には飢え渇いている」と書いていました。私もその一人であったかもしれません。しかし、新しく見出した泉から組んで飲みながら、なお何かに追われるように生きざるを得ない中で、魂の渇きを読書や異なる伝統の感想へのあこがれで癒すかのようでした。その意味では霊性ということも、イエス・キリストという中心と、隣人愛という新しい戒めへの信従を欠いては、生活に根を持たない自分探しや自己追及になります。(同書 p.115-116)

              特に、これ、早すぎる遺言もどき、と思ってしまったのは、なかでも、以下に改めて抜き出した部分である。

               

              しかし、そこでイエス・キリストという結び目をしっかり押さえないと、風呂敷を広げて福音派が社会的行動や政治的発言をするということになりかねません。私自身は「全く排除的に(エクスクルーシフ)にイエス・キリストにだけ固着することによってこそすべてのものを包括的(インクルーシフ)に包む」(カール・バルト『教会教義学』「和解論」 1/1の訳者の「あとがき」)福音の世界を求めています。それは聖霊の力によって、御父のみ心を行って生きるということでもあります。すなわち「包括的」ということは、ただ神学的な認識の事柄ではなく、神の民の生き方にかかわる課題です。

               

              神の民の生き方にかかわるという部分と、インクル−シブ ないし インクル−シフという語であらわされている部分である。確かに人が社会で生きている以上、社会の現実に向き合わねばならない、そのために祈らなければならないということは、パウロも書いているとおりであるが、時として人間は、行き過ぎは起きる。社会の現実があまりに重く、荒々しいがゆえに、そのことに心と目を奪われ、「神のかたち、神のすがた」としての回復を神の民に告げ知らせ、神の民にもたらすための共同体が教会であることを忘れ易いのではないか、とも思う。そして、自分たちだけのこととして神の民を考えているのではないか、そして、ともすれば、頭でっかちの神学的思惟に走り、その結果として、神の民と共に生きるということを我々が忘れやすいものである、ということへの危機感をこの文章から感じてしまった。

               

              確かに今の状況の中で、某M新聞が「」抜きで共謀罪と表現する法案の問題や、憲法9条の改正を思いつきで語っているといわれても仕方がないような政治家のビデオメッセ−ジが流れ、あるいは南ス−ダンの防衛省の活動記録のやばそうな話もある。そういう意味でも、政治的な発言や政治的な活動をしたくなる気持ちも一方で理解できなくはない。しかし、それが教会のメインの活動になってしまった教会にもいってみたこともあるし、福音派に分類学上は分類されるであろう、と思われる教会の中でも、そんな話が、礼拝の終わりにちょっとであったとはいうものの、そのような内容が語られるのを聞いて、かなりドン引きし、2度とそこに行く気をなくした教会もある。

               

              この前、正教会の講演会に行ったら、そこに来ていた人の食事の時の会話が、聞くともなしに聞こえてきたのを覚えているが、どうも、その正教会の講演会に来ておられた方が、もともと育った教会では、「SEALDsの活動で折角盛り上がったことをこのままで終わらせてはいけないので、それ運動が継続できるように支援せねば」というような教会での会話があり、そういうのに嫌気がして、正教会に来られたという話が聞こえてきた。確かに、「正教会は、そういうことはあんまり言わないので、そういう方には向いているかもしれないなぁ」と聞きながら思ったことを思い出した。
               

               

              教会が政治のことと無縁であるべきではない、と思っているが、ある方向でまとまってどこかの活動を一纏めとして支援したい、とか、教会を政治的な方向付けの道具にしたい、とかいうのは、ミーちゃんはーちゃんとしてはゴメンこうむりたい、と思う限りなのである。政治という大きなものを動かすと、確かに一気に効率的に物事が変わることは確かであるが、それよりも、個人的には、効率的でなくてもいいから、もうちょっと地に足のついた、人々の間に神の平和をもたらす活動をしたいなぁ、とは思っている。
              アメリカ海軍のSEALSの皆さん hristianitytoday.com/ から この人たちはSemper Fiが合言葉

               

               

              日本のSEALDsの皆さん http://blogos.com/article/116687/ から 国会前でデモとかもありましたね

               

               

              ナウエンと出会った福音派の人々の印象

              後藤先生とも関係の深いナウエンの言葉、即ち「福音派の人々に会って、彼らはみんな神のために一生懸命働いているが、霊的には飢え渇いている」というような表現を引用しながら、福音派の人々が、結局は、Doingで自分の心の空虚さを埋めており、Beingすらできていないこと、Becoming(神のかたちの回復)というところまでも行かないし、DoingがBecomingであるかのように錯覚しているのかもしれない、ということは、肌感覚として感じるところがある。

               

              『キリスト教のリアル』でも触れられているが、キリスト教界の福音派の牧師はほとんど休めていない。年に一度もまともに教会を離れられない牧師が多いようである。これは、もはや、福音派型キリスト教界の病理ではないか、とでもいいたくなる。それは、日本がまだまだ伝道地である証拠の一つなのだと思う。そういうこともあるのであろう。後藤先生は、先の引用部分の最後に、次のように書いておられる。

               

              しかし、新しく見出した泉から汲んで飲みながら、なお何かに追われるように生きざるを得ない中で、魂の渇きを読書や異なる伝統の感想へのあこがれで癒すかのようでした。その意味では霊性ということも、イエス・キリストという中心と、隣人愛という新しい戒めへの信従を欠いては、生活に根を持たない自分探しや自己追及になります。

               

              本来、魂の渇きは、神の霊 聖神の臨在のみが、静まりの中でこそ癒しうるものではないか、とは思うのだ。そのような伝統の中にちょこっとだけ身を浸してみたときに、それは思った。正教会の伝統、カトリックの伝統、聖公会の伝統に身を浸す時、確かにそれは癒された。そして、そこでは、イエス・キリストという中心は、十字架という象徴によって、有り余るほど示されているのだが、その象徴性を宗教改革時代の人々が嫌ったためか、宗教改革から500年を経過しようとする現代の日本の福音派の人々のうちには、その象徴性をかなり厳しく批判する人々もおられる。象徴という理解やそれがもたらすものが、福音派の理解の中では存在しない、あるいは、その理解が極めて薄いので、それが理解できないこともあるんだろう。さらに、そのイエス・キリスト故の隣人愛とイエスが直接おっしゃっておらえるにもかかわらず、互いに愛し合うことというイエスの新しい戒め、あるいは、愛の戒めの理解がどうも薄いためか、教会外へのキリストの愛の溢れが薄いような気がする。そして、教会外への神の愛の溢れは、伝道という言葉によるキリストの存在の表明に代わっているのではないか、それしかないと誤解しているのではないか、と思うのである。

               

              正教会の伝統、カトリックの伝統、聖公会の伝統に身を浸す時、キリストを中心としつつも、素朴に、朴訥に神の愛の溢れを届けようとする姿勢を強く感じるが、いわゆる福音派の教会の中に、そのような朴訥な溢れは、家庭問題が解決しますとか、教育問題が解決しますとか、親子関係が解決しますというような形でしか印刷物を通しては聞こえてこず、そうなると、倫風をくださる団体や、天理教とあまり変わらず、もっと言うと、炊き出しなんかをしておられ、社会の困窮する人々にリアルな福音ともいえる温かい食事を届けておられる皆さんのほうが、どれだけの人々に幸せを運んでいるのか、ということを考えると、ことばによって福音を述べるだけでよかったのだろうか、と疑問に思ってしまうこともある。とはいえ、ミーちゃんはーちゃんにある定まった見識があるわけではない。

               

              この前、福音主義神学会西部の 春季研究会議 (その概要はこちら 『福音主義神学会 西部部会・2017年度春季研究会議』でしゃべってきた)で話した時には、時間がなくて、十分触れられなかったが、白波瀬さんの『貧困と地域』の中で、古くからこの地域にかかわってきた教会では、活動を始めた宣教師たちが、伝道を主目的にしたのでは活動がうまくいかないことを割と早い段階で見て取って、それを放棄したものの、後発組の教会群はどこかで伝道中心的な側面があることを述べておられる。このあたりのことにも、福音派的な教会の愛の溢れのある種のぎこちなさが表れているのかもなぁ、ということを思ってしまうのである。

               

               

              言葉や語ることが、もはや、現代社会で機能不全に陥っているのではないか、とナウエンは、The way of the heartの中で、次のように書いている。

               

              All this is to suggest that words, my own included, have lost their creative power. Their limitless multiplication has made us lose confidence in words and caused us to think, more often than not, 'They are just words.'
              (中略)
              The result of this is that the main function of the word, which is communication, is no longer realized. The word no longer communicates, no longer fosters communion, no longer greates community, and therefore no longer gives life.  The word no longer offers trustworthy ground on which people meet each other and build society.(The way of the heart, pp.37-38)  

               

              また、このようにもナウエンは書く。

              During the last decade, many discovered the limits of the intellect. More and more people have realized that what they need is much more than interesting sermon and interesting prayers. They wonder how they might really experience God. (同書 p.64)

               

               

              そして、静まることの重要性に関して、ナウエンが書いている次のことばは、このThe way of the heartの中でも白眉であったように思う。

               

              The Word of God is born out of the eternal silence of God, and it is to this word out of silence that we want to be witnesses.(同書 p.39)

               

              そして、静まりの中で神の言葉を聞くということが、人々を支えるために求められていることについて、ナウエンは同書の中で次のように書く。にぎやかな賛美ではなく、人々を支え、必要に応じるための準備としての沈黙の重要性について述べているように思うのである。

              By entering into the Egyptian desert, the monks wanted to participate in the divine silence. By speaking out of this silence to the needs of their people, they sought to participate in the creative and recreative power of divine Word. (同書 p.48)

               

              さらに、ロシアの神秘主義者の次のようなことばをナウエンは引用している。

              We find the best formulation of the prayer of the heart in the words of the Russian Mystic Theophan the Recluse: 'To pray is to descend with the mind into the heart and there to stand before the face of the Lord, ever-present, all seeing, with in you.' (同書 p.65)

               

               

              これらの文章を読みながら、ことばで語ることが、ことばを中心とした伝道だけに偏ることが伝道ではない、ということに割と最近に思い至って日々を過ごしているものとしては、我々が宗教改革以降、どこかに忘れてきたものを再発見し、後藤先生のお言葉を借りれば、「新しく見出した泉から汲んで飲みながら、なお何かに追われるように生きざるを得ない」生活から離れる必要がそれぞれあるのかもしれない、とも思うのだ。もし、我々がエジプトの山に置き忘れてきたのなら、やはり、そのエジプトの山に置き忘れたものを取りに行って、再発見しないといけないのかもしれない。

               

              置き忘れてきたものが生み出すものは、ナウエンの言葉を借りれば、ことばなきコミュニケイション、あるいは言葉が限られるが故のコミュニケイションであり、共食であり、その一つのかたちである聖餐であり、共同体であり、コミュニティなのだと思う。どこかで、我々は、神との関係をMe and My Godにしてしまったのであり、Us and Our Godという側面をわすれてきてしまったのかもしれない。後藤先生が本書のタイトルとして選ばれた「神の秘められた計画」と呼んでおられるのは、言葉を使わない敢えて無言のうちにあって、神の臨在を多くの人々とともに味わう中でのUs and Our Godという関係の中において、初めて生まれるある種の感覚のことかもしれないなぁ、と思う。

               

              ということで、アップデートする仏教ではないが、これからの福音派 2.0というか、アップデートされるべきこれからの日本でのキリスト教の宣教 2.0 の方向の御示唆を頂いた気がする。個人的には、多少後藤先生と歩みが似ているにしても、後藤先生がおられる共同体をべた褒めする気にもなれないし、ある程度の距離をとりたいような気がするけれども。

               

              とはいえ、この本をお書きになってくださったことについては、一読者として非常に感謝している。後藤先生、ありがとうございました。本当に。そして、先生と先生のご家族の上に神の平和が豊かにありますように、と祈っております。

               

               

               

               

              評価:
              後藤 敏夫
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              (2017-04-21)
              コメント:大事なことが書いてあった。

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              コメント:これでもリアルとは言えないほど、リアルはすごいらしい。推して知るべし。

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              コメント:非常に印象深い。特に、プロテスタント派の新規参入組が伝道重視であるのに古くからのキリスト教会は伝道という色気がないことなどが記載されている。このあたりがヒントになるかもしれない。

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