2015.06.06 Saturday

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その1

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     新連載を始めます。先週NTライト氏の『クリスチャンであるとは』という本が、上沼昌雄さん訳で、あめんどうから、出版された。これから何回かにわたってこの本の中から紹介してみたい。

     今日は第1章 この世界を正しいものに から 途中まで。

    義について

     若者は、義を求める。Justiceを求めるからこそ、ディズニー映画はできるのである。典型的には、Hunchback of Notre Dameというディズニー映画があるが、その中で、ヒロインがJusticeを叫ぶシーンがある。まぁ、ロマ人とヨーロッパの教会の黒歴史を語り始めると終わらなくなるので、詳しくはご自分で調べてほしいが、中世から近代において、ロマ人は流浪の民として社会の片隅に置かれてきた。




     このロマ人少女の叫びと同じように、Justiceは、これまで世界のあちこちで求められてきた。
     正しさ(義 原著 Justice)を願う私たちの情熱も、多くの場合このような(夢に描いて実現したという感じになるような)ものである。世界が正されることを夢見る。ほんの一瞬、世界が一つになって義が行われ、あるべき姿になり、物事がうまく運び、社会は正しく機能し、私たちはな術事を知っているだけでなく実際に行っている、そんな夢を見る。そして目を覚ました時、現実に戻される。(『クリスチャンであるとは』 p.11)

     誰しも、この義が実現しているのは、夢である。アンパンマンも、手裏剣戦隊ニンニンジャーも、水戸黄門も、暴れん坊将軍もある面、「義」を描いた「ものがたり」である。まぁ、世の中には、人間の悪の側面だけを欠いた救いのない映画(Law and Orderでは、時に後味の悪いものがある)もないわけではない。しかし、基本的にはハッピーエンドで終わる映画であることが求められている。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-da-93/kuruma8art/folder/331985/32/3576232/img_0
    アンパンマンさま

    手裏剣戦隊 ニンニンジャー


    水戸のご老公様ご一行


    Law & Order Season 20 Latinoの女性DA Connie Rubirosaが出てくる

    不幸と義の問題
     社会の中には問題があり、完全に義が成立していない場面がある。そして、人間の力にはどうしようもない不可抗力をもたらす災害のようなものもある。そのことに関して、この本では次のように言っている。
     世界の問題のいくつかは解決できるが、それも一時的であり、簡単に解決できない多くの問題がほかにあること、中には誰も解決しようとしないものまであるのを私たちはよく知っている。
     2004年、クリスマスの直後に起こったスマトラ沖地震とインド洋沿岸の大津波で、一日に亡くなった人の数は、ヴェトナム戦争の戦死者より2倍も多かった。この世界で、この地球で、「それは正しくない」と叫びたくなることが起きたのだ。地殻がプレート運動によって動いたのである。自然の営みである。地震の発生は悪意に満ち満ちた資本主義者によるものでも、最近また復興してきたマルクス主義者によるものでも、宗教原理主義者(ファンダメンタリスト)の爆弾テロによる者でもない。それはただ起こった。その起こったことで世界中が痛みを覚え、歯車が外れたようになり、それに対し私たちはなすすべがない。(同書 p.14)
     ここの所、『仏教との対話』シリーズでご紹介しているニー仏さんこと、魚川さんの『仏教思想のゼロポイント』で述べられていることを考えていくと、ブッダの思想は、この世の中には様々な現象の作用と反作用によって生じる輪廻の中で生まれる苦界と、完全に答えられない、あるいは説明ができない無記の世界があり、そのようなものをじっと見つめていく中で、世の中に対する現実を見つめる中で、現実にとらわれることのないニルヴァーナ(涅槃・極楽)に移るということをしてはどうか、というのが仏陀の思想である。一種のしょうがないものはしょうがないんじゃない?というのがブッダのお立場ではないか、と思うのである。

     福島原発の放射能漏れ事故に際して、「想定外」という語が話題になり、技術がけしからん、原発けしからん、ということを言う象徴的な語として、この想定外という語が用いられたが、それは少し残念だったと技術者としては思う。

     すべての与件を含んだものを作ることは土台無理なのであるし、ある程度の与件の中で、我々は動くしかないのである。技術者は想定の枠内でしか動けないのである。そもそも、すべてのことを想定しなければならない、と言い出すと、地球の空気がなくなった状態でも飛ぶ飛行機を作るみたいなことも考えないといけないが、SF(Sci Fi)小説や映画ではないので、通常の技術与件としてはそういうことを想定しない。技術というのはある程度の常識的な与件の上で動くものなのである。

     要するに、過去知られている(といっても大体技術の世界は10年から100年単位でしかものを考えないのだが)理解の範囲内で物事を考えているという元明にしか過ぎないし、まともな技術屋であれば、技術が完璧だなんてのは、思いもしていないことが多い。立場上、言わされている場合は、この限りではないけれど。技術(これは小山先生によると魔術の一種らしいが)で生きているものは、どこまでそれが維持できるか、ということは別として、少なくとも、出発点では、世の中に貢献したい、世の中をちょっとは良くしたいと思って技術者を志すのであるが、それが実現できないところが、人間の残念さ、というか罪の結果なのだろう、と思う。誰しも悪意を以て、いろんなことをし始めたりはしないのだ。このあたりのことは、第2章の冒頭にも出てくる。それはまた改めて。

    義という感覚とその追求

     個人的には、もう義を自ら実現することは土台無理、とあきらめてしまったので(とはいえ、多少貢献できることの切れっ端くらいはある、と思っているので、その点で社会とはかかわりを持っているが)これは洋の東西を問わず、追及されつつもその夢は中なくつぶされてきたのである。
     義というものが存在する感覚は誰もが持っていて、そればかりか、義に対する情熱、物事があるべきものに正されるべきだという強い願いも持っている。また、何かがおかしいというい感覚は絶えず私たちに付きまとい、時にはこれでもかとばかりに心に訴え、叫びさえする。そのことで過去数千年にわたって、人類が苦闘し、探求し、愛し、希求し、憎しみ、希望し、口論し、哲学的に探求しつづけてきたのに、知りうる最古の社会の人たちとそう変わらない程度にしか義を実現していない。一体どうしてなのか。(同書 p.15)
     この問いは、すべての技術者が抱える問いでもある。一生懸命やればやるほど、新たな問題がどんどん出てくる(だから、技術屋はおまんまの食いっぱぐれがない商売であるが)。世の中をちっとはよく使用などと大それたことはおおっていなくても、今の不便ぐらいはもうちょっと何とかなるかも、とやってきても、ちっともよくなってくれないのだ。困ったことに。それどころか、である。
     何百万のいのちをガス室で奪ったのは、雑多なイデオロギーを混ぜ合わせたカクテルだった。宗教的偏見、悪用された哲学、「異なった人たち」への畏れ、経済的困窮、スケープゴート欲しさの要素を、悪賢い扇動者が調合し、少なくとも、部分的にそれらを信じたい人に語り、「進歩」の代償としての犠牲もやむなしとした。(中略)どうしてそのようなことが起こったのか。義はどこにあり、どうしたらそれを手に入れることができるのか。物事をどのように正すことができるのか。(p.16)
     残念なことに、すべての政治改革とか、すべての構造改革とかみんな義人の顔してやってくる。挙句の果てに、もたらされるのは悲惨と破壊である。すべての戦争は義が勝たれれることで始まる。聖戦が語られることすらある。正義の顔して始まった戦闘の結果は流血と悲惨である事実は、古代以来変わらない。競争ですらそうである。あるいは、オリンピックは、実は血を流さない戦争の一形態であるからこそ、あれだけ盛り上がるのだ。

     もともとオリンピックは、血を流す戦争の代わりに考えられたからこそ、槍投げとか、円盤投げとか、ハンマー投げとか、砲丸投げなどが正式種目であるし、アーチェリーや近代5種で、銃ぶっ放す物騒な競技もある。一種のスナイパーの訓練でもあるのだ。

     サッカーでフーリガンの皆さんが暴れて、流血事件とか、そもそも論で言えば、程度の軽い流血事件で社会に受け入れられる形の戦争がスポーツなのであって、平和の祭典と称するのは個人的には詐欺ではないか、とスポーツが超苦手なものとしては思っている。チェスにしても、将棋にしても、囲碁にしても、結局戦争シミュレータのごくごくクラッシックなバージョンに過ぎないんだなぁ。知的スポーツですら、この状態である。

    差別と義の問題
     我々人類は、国民性を問わず、歴史性を問わず、基本、差別を社会のうちに内包し続けてきた。ダメなことだとは知りつつ必要悪として、悪用とは言わないまでも、それを利用してきたことは確かだと思う。日本でも、差別があった。近時では、朝鮮半島から来た人々への差別(これは関西で結構多いし、ミーちゃんはーちゃんの時代の中学時代の日本人の不良は、朝鮮学校に殴り込みに行くのが、勇気のしるしであった。数年に一度、この種の事件が起きた。今は、ヘイトスピーチが我が国には見られる)などがある。残念なことであるが。あるいは、網野先生の本によれば、漂泊民は差別され続けてきた。また、カムイ外伝ではないがいわゆる障害を持った人は、差別の中で生きることを強いられた。

     そのことに関して、NTライトは、この本でこんな風な形で取り上げている。
     そして、アパルトヘイトがあった。巨大な不正が南アフリカの大半の人々に対して長い間なされてきた。他国でも同じことがあった。(中略)「アメリカ先住民」に対する「特別居留地」のことを考えてみてほしい。
     世界は次第に人種的偏見の事実に目覚めてきた。(中略)アパルトヘイトと戦うために世界は一致団結し、「二度と起こらないように」といった。(中略) 実は、自分たちもしていることで他人を批判することは容易なことである。自分の側にある同じ問題を無視しつつ、世界の他方にいる誰かを強く非難するのは何とも都合のよいことか。見せかけであるが、深い道徳的満足を得られる。(同書 p.17)
     しかし、『自分たちもしていることで他人を批判することは容易なことである。自分の側にある同じ問題を無視しつつ、世界の他方にいる誰かを強く非難するのは何とも都合のよいことか。』という指摘は、非常に重要ではないか、と思う。というのは、われわれは自分自身が罪深いものであることを忘れ、自分の目の中の梁を意識せずに他人の眼の中にあるちりをとりたがるしょうがない存在なのである。

     明石で主催しているヘンリーナウエン研究会で時々いうのだが、
     われわれの義など、神の義から比べれば誤差の範囲ほどのものでしかなく、そもそもどちらが正しいだのどちらが正しくないだの、議論しても本来しょうがないことではないか。他人を批判するよりは、神の義に目を向けるべきではないか、
    とは思うのだ。それと同じことをN.T.ライト先輩は言っておられるような気がする。

     第1章のまだ半分も行かない。もう、この段階で長期連載、ほぼ決定である。ぜひお買い上げになられることをお奨めする。お買い物はあめんどうブックスで。

     と新幹線の中から投稿しておこう。w






    2015.06.08 Monday

    NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その2

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       今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。まず、1章から紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

      義と世界の関係
       義と世界の関係をどう考えるのか、に関して、N.T.ライトは次のように書いている。
       こうした(自分たち自身が義を望みながらも実現していないのはなぜか、おかしいではないか)という声の響きが聞こえてくるかのような感覚、義を追い求める思いと、世界(そしてその中にいる私たち全員)が正されることへの夢を説明するのに、3つの基本的なやり方がある。
       まず、次のように言うことができるだろう。それは実際のところ単なる夢であって、子供じみたファンタジーの投影に過ぎない。また現状のままの世界に住むのに慣れるしかない。(中略)
       2つめは、次のように考えることが出来るだろう。その夢は私たちが本来属している世界の事であり、全く違う世界なのだと。そこではすべてが真に正しい状態に置かれている。今の私たちは夢の中でだけそこに逃げ込むことができるが、時が来れば永遠にそこには入れる希望がある。(中略)
       3つめは、次のように言うことができるだろう。私たちがこのような夢を見るのは、つまり、その声にどこか聞き覚えがあるのは、私たちにかたりかけ、耳の奥深くでささやきかける誰かがどこかにいるからだ。(中略)その誰かは確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間をも正し、ついには世界を救出するという目的を持っている、というものである。
      (『クリスチャンであるとは』pp.19−20)
       ここで、3つの対応策が示されている。第1は、超現実主義的な現実追認型の態度であり、第2は、別世界の事としてあきらめてしまうことで将来においての実現のみを希望する態度であり、第3は、正しいことを望んでいることは知っていて、最終的にそのことを神が回復することを期待しながら現実にそれに取り組んでいく態度である。

       第一の超現実主義的な態度は、義の実現などに関与するのは忘れて、弱肉強食というそのものを受け入れていく立場で、社会に悲惨や不公正や不平等があってもガン無視する態度である。その結果、この悲惨は非常に大きくなる。それは醜悪であり、The Simpson'sでの原発経営者のBurns氏の姿と重なる。


      最近のアメリカ大統領選挙について語るMr.Burns

       第2の態度は、理想が来ることを夢見て、現実を全く見ず、将来において実現する夢見心地の生き方をする人々であり、このような態度も第1のものと同様に、義に関しては完全に無関心な態度となる。まぁ、ディズニー映画は基本このパターンで、いつか王子様が、という態度である。人呼んで、たなぼた型の幸福到来物語である。結構、この理解はキリスト者の間に多いらしく、このため、結婚適齢期キリスト教女子の方々の一部には、お祈りするだけで、突然、白馬に乗った王子様がやってくる、とまるで、ディズニー映画のEnchantedのような姿を思い描いている人が少なくないらしい。


      いつか王子様が


      Enchanted 『魔法にかけられて』の予告編


       クリスチャンであるとは、第3の対応をすることではないか、ということがNTライトの主張である。キリスト者は聖書を読みながら、その中に隠されたささやく声を訪ね求め、その声に耳を傾け、そして、現実に取り組みそこに対応していくということが求められるのではないか、ということを主張している。日本では、このあたりのことをしたことで有名なのが、賀川豊彦先輩である。キリスト者として、貧困に窮する被差別部落に乗り込み、資本家からの搾取に泣く工場労働者のため、労働組合を結成し、逮捕投獄され、生活協同組合(現コープこうべ)をつくり、安定的で良心的な良い商品を人々が買えるようにし、ノーベル平和賞の候補になるも、戦後はあまり振り替えられることなく忘れ去られていった人物である。

       何、賀川豊彦先輩だけではない、矢嶋 楫子先輩もそうであるし、新島襄先輩もそうであるし、内村鑑三先輩もそうである。マザー・テレサ先輩もそうではないか。

      世界の宗教シーンの中で

       日本では、明治期にキリスト教は西洋哲学というか西洋倫理の一つとして入ってきたため、その時期の誤解がいまだに続いているが、ギリシア哲学や非キリスト教的な西洋哲学とはかなり異質であることに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。
       3つの伝統的宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)には多くの違いがあるが、この点に(将来において、誰かが確かに義をもたらし、物事を正し、私たち人間も正し、ついには世界を救出するという点に)おいては一致していて、他の哲学や宗教と一線を画している。即ち、私たちがその声を聴いたと思うのは、まさにその声を聴いたからだ、という点である。それは夢ではない。そこに立ち戻り、それを実現させることができる。この現実において、私たちの現実の生活において。(同書 pp.20-21)
       N.T.ライト先輩の文章で重要なのは、キリスト者は、いつか王子様が…のような夢見がちな態度で生き、単に理想状態を追うのではなく、現実にその社会にかかわっていく、それがキリスト者がこの世にある意味である、とラウシェンブッシュ先輩も真っ青なことをご主張なのである。つまり、本来社会をよりよくする存在だ、というご主張が、社会的福音(これに関しては、ラウシェンブッシュ先輩の本がよい。それがいやなら、ボンフェファー先輩の本でもよい)とよく似ているので、「N.T.ライトはリベラル派だ」と御批判の向きもあるようであるが、日本のいわゆる社会派の人々との違いは、人間の力で無理やり正義の回復をがむしゃらに、社会と対立的にある時は暴力的に実現しようとするのではなく、神の手の中にあるその器としてキリスト者が神にその主権をゆだねながら、実現していくこと神の主権に関与していく、という主張なのだろうと思う。そこを見てないと、見間違うことは多いかもしれない。

      本書の目的
       ライトは、この書を公刊した目的を次のように書いている。実にライトらしい本である。
       本書はそれらの伝統の一つ、クリスチャンの信仰に説明するために書いた。それは現実の生活にかかわることである。(中略)
       それは義に関することである。(中略)そして、イエスがなしたこと、イエスの上に起こったことは、この世界を救出し、あるべき姿に正すという創造者の計画をスタートさせたのだと考えるからである。それ故、それは私たちすべてにかかわることである。(p.21)
       ふしキリ(不思議なキリスト教)という本や、Penのキリスト教特集のような本のような、世の中には、キリスト教とは何かを現象面で描いてみよう、あるいはそれにかんでみようというような本は多い。池上彰のおじさんが語るキリスト教もこの手合いのものである。日本では、概念としてのキリスト教は面白おかしく語られるが、そんな宙に浮いた話でない、地に足をつけたのがキリスト教だ、ということを、まさに”それは現実の生活にかかわることである。”と、この本で明確に語る。

       キリスト者として生きることは、倫理的に生きるということでも、将来にいわゆる『天国』に行くといった類のことではなくて、この世に正義をもたらす、この世がよいことであることを燃えるように願っている神と共に生き、この世をより望ましい状態に変えていこうとすることとかかわっているということを、N.T.ライトは語るのである。それは、人間であることと深くかかわっている、とN.T.ライトは次のように言う。
       義を慕い求める情熱、あるいは少なくとも物事が修正されて行くことを願う感覚は、人間としてこの世界に住んでいることの端的なしるしである。(p.21)
      確かに、Justiceというようなことを言う犬や馬はディズニーアニメをはじめ、映画やアニメの中にしかいない。現実に犬が、Justiceを求めてデモ行進したり、猫が、猫の正義を求めて看板を張ったりしたりはしない。ネット業界では、キリスト看板をフォトショして遊んでいる映像はあるけどね。


      キリスト看板のパロディ画像


      イエスとはどんな人物だったか
       通常の日本人(あるいはクリスチャンであっても)以下の記述は驚くのではないか。
       イエスはよくパーティーに行った。食べ物も飲み物もいっぱいあって、まさにお祝いをしていたかのようだ。イエスは自分の言いたいことを明瞭にするために、かなり誇張することもあった。(p.22)
       イエスは、「食いしんぼうの大酒のみ」(マタイ 11:19)とパリサイ派の人々から、あてこすられたのである。当てこすりが有効であるためには、一片の真実が含まれてなければならない。実際にザアカイのパーティ(ルカ 19章)に出たりはしている。
       イエスの行くところどこでも、人々は熱狂した。神がいよいよ動き出し、救出計画に着手し、物事が正され始めたかと思ったからである。(中略)祝典が始まったのだ。
       同じように、イエスはどこにいてもどうにもならない人生を背負った人々にいつも出会った。やめる人、悲しんでいる人、疑い深い人、絶望的な人、傲慢に威張り散らして不安を隠している人、イエスは多くの人をいやしたが、単に魔法の杖を振るような方法は用いなかった。むしろその人の痛みを分かち合った。(中略)物語の終わりで、イエス自身がもだえ苦しんだ。肉体の苦しみと同様、魂の苦しみを味わった。
       イエスは世界を嘲笑ったのでも、世界を憐れんで涙を流したのでもない。イエスは今生れ出ようとしている新しい世界と共に祝ったのである。それはすべての良いものと麗しいものとが、悪と悲惨に打ち勝つことになる世界である。そして、イエスは世界と共に悲しまれた。それはイエスと出会った人々が、暴力と不正と悲劇に満ちた世界を痛いほど知っていたからである。(同書 p.23)
       しかし、”イエスは多くの人をいやしたが、単に魔法の杖を振るような方法は用いなかった”という表現が面白い。ハリー・ポッターでも、ディズニーアニメでも、この魔法の杖が大活躍なのであるが、それらは、結局一時しのぎでしかなく、根源的な解決にならない。しかし、イエスは、あるいは、神は不幸の中でも、幸福の中でも、我らとともにおられるということが根本的に重要なのだが。この共に生きる、というのが極めて重要なのだ。


      シンデレラに出てくる白魔法使いが使う魔法の杖

      http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Xvc8RDaYL.jpg
      ハリー・ポッターのハーマイオニーたんの魔法の杖

       近代社会を経たキリスト教では、そして、日本のキリスト教では、あまりに神を畏れるという思いが強すぎて、この神と共に生きるということは、案外忘れ去られているような気がする。是非、以下で紹介しているボンフェファーの「共に生きる生活」をお読みいただきたい。これは、大事なことであり、あまりに現代の日本のキリスト教では軽視されている側面だと思う。

      パッション

       パッションというのは、いくつもの意味を持つ複合語である。情熱という意味もあれば、何年か前に公開された映画パッションのように受難という意味もある。


      メル・ギブソン監督のパッション予告編

       しかし、実は受難と情熱というパッションは実は一つであるということに関して、ライト先輩は次のように書く。
       イエスがこの涙を受け止めて、それを自分の身に負い、しかもむごたらしい不正な死を迎えるまで追い続け、それによって神の救いのわざを遂行した。そして、イエスが死者の中からよみがえり神の新しい創造を開始することで世界の喜びを受け止め、それによって新しい誕生をもたらしたのだと。
       (中略)この二重の主張によってクリスチャン信仰はすべての人が抱く、義をしたい求めるパッション(情熱)と全てが正されることへの憧憬を明白にしている。さらに、神自らがイエスのうちにこのパッション(受難)を共有し、実行に移したのである。そしてついに、すべての涙は渇き、世界は義と喜びで満たされる。(同書 pp.23−24)
       イエスの復活と神の国の到来は、まるで女性が出産するようなものであるということをライトは時々書いているのであるが、ここではそのメタファーが直接示されてはいないものの、イエスの復活の直前には大きな苦しみがあり、しかし、復活と共に新しい生が生まれるという大きな喜びがあることをここでも書いている。
       まさに、復活、あるいは、イースターは、出産が新しい生命の家族という世界への生命の到来を祝うように、そのような祝祭の行事であることを、我々はもう少し考えないといけないのではないか。

       日本でもイースターは、最近でこそ祝われるようになってきたが、本来、その日付も確定的(カレンダー上では、太陽暦では、コロコロ移動するので、ちょっと困った存在なのだが)であり、その素性がはっきりしているので、もっと大事にした方がいいような気がする。

       その意味で、クリスマスより、イースターの方が、キリスト教にとってはるかに大事だし、イースターの方が、よほどその根拠が明白なのだが、消費がいまいち喚起されないということもあり、アメリカでも、日本でも、あまり大々的に扱われることはない。実に残念なことであるが。

       1章がまだ終わらない。まだまだ続く。



       
      ロバート・シルジェン
      新教出版社
      ¥ 4,320
      (2007-05-01)
      コメント:海外の人から見た賀川豊彦

      評価:
      ディートリヒ ボンヘッファー
      新教出版社
      ¥ 1,728
      (2014-06-25)
      コメント:おすすめしています。

      評価:
      ウォルター ラウシェンブッシュ
      新教出版社
      ¥ 6,588
      (2013-01-07)
      コメント:高いけど、読んでおいた方がいい世界に影響を与えた一冊

      2015.06.10 Wednesday

      NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その3

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         今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。引き続き、1章から紹介したい。義を追い求めているキリスト者の姿(義を慕うクリスチャン)の記述の続きからである。

        クリスチャンの黒歴史

         義を慕うクリスチャン の中では、次のような表現が冒頭に見られる。

         「イエスに従う者たちはそんなに進歩しなかったではないか。十字軍のことはどうか。スペインでの異端審問のことはどうか。教会も不正に加担したことがあったではないか。中絶クリニックに爆弾を仕掛けた人たちはどうか。ハルマゲドンの時がすぐに来るので、それまでに地球が破壊されてもかまわないと思っている原理主義者はどうか。クリスチャンは解決をもたらすというより、問題の一部を担っているのではないか。」
         その通りだともいえるし、そうでないとも言える。そのとおりと言ったのは、イエスの名を使ってひどいことをする人たちは、初めから常にいた。また、それをイエスが許していないと知っていながら、しかもひどいことだと分かっていながら、なお行っているクリスチャンもいた。そうした事実がいかに深いであろうと、それを隠す必要はない。
         また、そのとおりでもないといったのは、あるクリスチャンたちが、神は自分たちの側にいると主張したとしても、彼らの働いた悪事を見れば、キリスト教とは何であるかについて、彼らが全く思い違いをしていることがわかるからだ。(中略)イエスに従う者たちは常に正しいという考え方はキリスト教信仰には含まれない。弟子たちに祈りを教えたとき、神に赦しを求める一説を含めたのは、イエス自身だった。(クリスチャンであるとは pp.24−25)
         日本にいると、過去のキリスト教とが起こした様々な悲惨な出来事が持ち出され、それがキリスト教とキリスト教徒の問題であり、半面、日本の仏教や神道のような伝統宗教にはそのようなものがない実に平和な宗教や信仰であるとか、わけわからない、過去の歴史をガン無視したような問題を突きつけられることが結構あり、回答に窮することに直面した方もおありであろう。

         しかし、タイやミャンマーの間では、仏教徒同志が血で血を争う戦争をしてきたし、現在でも様々ないざこざが起きているし、聖徳太子のころには、仏教をかなり強引に導入しようとした蘇我馬子を中大兄皇子というれっきとした皇族で、後に天智天皇となった人物が殺害した歴史はあるし、古事記の中にも殺害の歴史が書かれている。まぁ、人間のやることは、何を信じていようがそんない変わらないようなのである。なぜなら、原罪を抱えているから、のような気がする。

         確かに、中絶クリニックを爆破してみたり、アイルランド島ではキリスト教徒同士で、カトリッくんと聖公会君にわかれて抗争してみたり、ブリテン島では、ピューリたんと聖公会君でもめてみたりと、まぁ、英国史はこの種のキリスト教黒歴史ネタに満ち溢れてはいる。それと同様に、日本でも、明治期の廃仏毀釈のころには、仏教寺院を国家総がかりでつぶそうとした黒歴史に満ちているような気もするが。
         ライトの一種のすがすがしさ、というか中世の騎士然というか古武士然としているのは、”イエスの名を使ってひどいことをする人たちは、初めから常にいた。また、それをイエスが許していないと知っていながら、しかもひどいことだと分かっていながら、なお行っているクリスチャンもいた。そうした事実がいかに深いであろうと、それを隠す必要はない。”というところなどである。恥じることも、申し訳層にするでもなく、また、隠したり言い訳することもなく、そういうアホな奴は居るんだ、ということをあっさり認めたりするところや、”イエスに従う者たちは常に正しいという考え方はキリスト教信仰には含まれない。”と「お見事!」と声をかけたくなるほどの潔い言いきり。実にすがすがしい。それをさ、こないだの油かけ事件を起こしたおぢさんに聞かせてやりたい。われわれは正しくないからこそ、主の祈りで、我らが他者を赦すことを教え、神に赦しを乞うことをイエス教えておられるのではないか。
         
        キリスト教は本当に西洋のものか?

         日本では、未だに、キリスト教は英語圏のものという思い込みが激しい型に時にであう。つい5年ほど前に、英国人の宣教師のところに、キリスト教のオリジナルは英語だから、英語で聖書を勉強したい、と言ってこられた方がおられる。たしかに、18世紀以降大英帝国は七つの海を支配したし、第2次世界大戦以降はアメリカが自由世界の代表格を占めたし、日本のキリスト教は、明治以降、アメリカのキリスト教の影響を受け続けてきたこともあるので、そういう誤解が生まれるのは仕方がない。その意味で、キリスト教の世界は西洋のもの、という思い込みをお持ちの方が案外多い(この種の誤解は、米国でも聞いたことがある)が、既に現実はそうではないことに関して、ライト先輩は次のようにお書きである。

         今日の世界地図からすれば、ほとんどのクリスチャンは『西洋」に住んでいない。その多くはアフリカ科東南アジアに住んでいる。そして、今やかなりの西洋世界の政府は、イエスの教えを社会に生かそうとしてはいない。多くの場合、そうしていないことを誇りにさえしている。(中略)「西洋」が行ったことのゆえにキリスト教を非難することをなくせるわけではない。いわゆる「キリスト教」世界は、悪い印象を与え続けている。おおよそそう思われても無理はないのだが。
         じつは、これこそが本書の初めで義を取り上げた理由の一つである。即ちイエスに従おうと決めた人は、イエスが教えた祈りのように、神のみこころが「天で行われるように地でも」行われるよう献身することなど理解し、その王に語ることが重要になる。というのは、義を求める神のパッション(情熱)はイエスに従う人の情熱であるべきだからだ。もし、クリスチャンがイエスへの信仰を、そこから来る要求とチャレンジを逃れるために用いるなら、その中心的要素を放棄することになる。まさにそこに危険が横たわっている。(同書 p.26)
         確かに西洋社会はクリステンドム(キリスト教国)で長期間あった経験をした国ばかりである。しかし、フランス革命で、カトリックの世俗への関与の完膚なきまでの排除やロマンティシズム、ヒューマニズムの隆盛等を経て、現在の西洋国家は世俗化が進み、非キリスト教化が進んでいる。その意味で、西洋諸国では、神は神でない一種抽象的な概念になってしまっている。In God We Trustと1セントコインから100ドル札まで、入れておかないと気が済まない米国であっても、市民宗教的な神になってしまっており、聖書の言う神と思ってない人々やその意識をもたない人々も案外多いのである。この辺りのことは、マクグラス先輩の『総説 キリスト教』という分厚い本でも示されている。


        http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/US_One_Cent_Obv.png

        One cent coin

        100 ドル札

        神の義の地での回復とキリスト者

         ライト先輩は、義(前回の記事でも少し紹介したが)の問題を本書冒頭で取り上げたその原因として、神がものすごい熱意をもって義を回復しようしておられることを主張したいとここで書いておられるが、聖書の義は、日本でこれまで誤解されてきたように、正義でもないし、道徳でも、倫理でもない。美しい状態、とでもいうものであり、聖書における義は愛や(神との)和解と同じことなのである。
         そして、義への情熱をもつ神と共に生きようとするのがキリスト者であるならば、神と同じように義を求めて、それが不完全であるにせよ、義を求める存在であるはずであることをライト先輩は、示そうとしているのである。しかし、”クリスチャンがイエスへの信仰を、そこから来る要求とチャレンジを逃れるために用いるなら、その中心的要素を放棄することになる。まさにそこに危険が横たわっている。”とあるように、イエスへの信仰や聖書の記述を口実に、この地上での神の義への関与を避けるという危険に直面しかねないことを指摘しておられる。
         例えば、選挙や地上の政治にかかわること、地上で生きることを”世のこと”と軽く見て、それはキリスト者がすべきことではないと主張された方が、ミーちゃんはーちゃんの関係者におられた。現在でも、そうお考えの向きもあるかもしれない。
         以下、その具体的な例として、アパルトヘイトの事例が取り上げられており、その部分をご紹介したい。
         南アフリカで、人種隔離政策(アパルトヘイト)の政治体制が最も支配的だったとき(異なった人種による異なった生き方を聖書は語っているからと、多くの人がその政策を正当化してきた)、デズモンド・ツツ司教のようなクリスチャン指導者たちの長い間の運動によって、驚くほど流血のすくない形で変化がもたらされた。(同書 p.27)


        映画 イン・マイ・カントリー
        ツツ司教が影響を与えた南アフリカの和解と平和のための委員会を扱った映画

        ツツ元大司教
        (南アフリカのアングリカンコミュニオン(聖公会君)の元大司教)

         この写真を見る限り、なかなかお茶目なユーモア感覚にあふれる方の様である。この種のユーモア感覚は余裕の表れであり、こういう余裕を日本のキリスト教界の関係者にも持ってもらいたいものだと思う。

        殉教の時代であった20世紀
         キリスト教最大の殉教の時代といえば、ネロ帝によるキリスト教との迫害や、江戸幕府によるキリシタン迫害などを思い起こすかもしれないが、案外今世紀もキリスト教指導者に関して言えば、キリスト教徒によるキリスト教指導者による暗殺が続いた世紀でもあったのである。そのことに関して、ライト先輩は次のように述べる。
         20世紀は多くの偉大なクリスチャン殉教者を生み出した。それは単に信仰的立場の故でなく、特に彼らの信仰が義の実現をも求める恐れを知らぬ行動に導いたからである。第2次世界大戦の末期にナチスによって殺されたデートリッヒ・ボンフェファー、エルサルバドルで貧困者の側に立って発言し、暗殺されたオスカー・ロメロ、またもう一度、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのことを考えていただきたい。(同書 p.28)
        共産主義者が、キリスト教の指導者を殺したのではないし、キリスト教徒を殺したのではないのである。キリスト教徒が思い込みによってキリスト教徒を殺したのである。この事実は重い。


        デートリッヒ・ボンフェファー先輩
        ナチスドイツ下のドイツにアメリカからわざわざ戻ったという・・

        オスカー・ロメロ先輩

        マーティン・ルーサー・キングJr先輩

         最近手に入れた、工藤信夫著 『真実の福音を求めて 信仰による人間疎外 その後』(この帯がすごい キリスト者は、はたして「福音」を伝えてきたのか とあった。『福音の再発見』も真っ青である)の中に面白い記述があったので以下引用してみたい。
         (引用者補足 フィリップ・ヤンシーの)『教会ーなぜそれほどまでに大切なのか』の中に、彼の属していた教派にも人種差別が入り込み、黒人は人間以下(引用者註 つまり人間でない)で教育不可能であり、「奴隷」の人種となるように呪われた存在であると、彼自身いつも聞かされて育ったと記されている。また、その教派ではマーティン・ルーサー・キング牧師は共産党員と信じられていたという。その上、彼の学んだ聖書学校では、婚約者であっても週末にしか会えなかったし、スカートの丈が短かったら、その罰として強制的に読書をさせられていたという。(同書 pp.115-116)
        なんか、どっかで聞いた様な話である。スカート丈と信仰がどう関係するのか、ミーちゃんはーちゃんには理解不能だし、強制的読書で信仰が深まるとも思えないのだが。森本あんり先輩に言わせたら、まぁ、これも反知性主義のなせる結果なのであろう。しょうがないなぁ。わけわからないもの、自分にとって気に入らないものを、共産主義者、リベラリスト、リベラル、とラベルを張って一丁上りって、個人的にはドヤさ、と思うねぇ。

         このことに関しても、ライト先輩は次のように締めくくっている。
         その(神の義に対する)情熱はこの章で論じてきたように、すべての人の生活の中心にある。それは時に、異なったしかたで表出し、歪められたり、恐ろしいほどの悪を招く場合もある。いまだに、誰かを殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいから殺そうとしている。しかし冷静になれば、私たちが義と呼ぶこの不思議なもの、物事が正されることへの切望は、人間の抱く大きな目標と夢の一つであるとだれもが知っている。(中略)そしてその声(物事が正されるようにというかすかな声)はイエスにおいて人となり、その実現のために必要なことをイエスが行ったとクリスチャンは信じている。(同書 p.29)

         現実を見れば、

        いまだに、誰かを殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいから殺そうとしている。

        という表現通りではないかもしれないが、

        いまだに、誰かに嫌ごとを言って言論を殺せば正義がいくらかでも達成されるという歪んだ信念を持つ暴徒や個人が、誰かを、あるいはだでれもよいからネット上で言論封殺して死人に口なし状態にしようとしている。

        ということは、ネット界隈のキリスト教クラスタを見ればかなり明らかなように思う。

         確かに幕末のころの人斬り以蔵の様な狂信的な人物や自分に不都合なことがあれば、切って捨てるに何があるとうそぶいた幕末の志士(長州も薩摩も会津も新撰組も似たようなものである)たちはいなくなったものの、違う形で、より陰湿な形で言論封殺することはないだろうか。

         現在、世俗の仕事の一環として、マーケティング関連の講義の中で紹介した昔のアップルのCFが非常に印象的で、世の中をよりよくしたい、不完全でも少しでもより義(美しい状態)に近い状態であることを求めたいと主張した人たちの映像をうまくCFにしたものがあったので、ご紹介しておく。



        Apple社の Think DifferentのCF

        実は、これは某I○Mという会社の社是がThink!であることを揶揄しているw





        評価:
        アリスター E.マクグラス
        キリスト新聞社
        ---
        (2008-07)
        コメント:翻訳を見直して、再販を希望する。

        評価:
        工藤 信夫
        いのちのことば社
        ¥ 1,296
        (2015-06-05)
        コメント:お勧めしている。大変良い。これまでの総集編後日、この本も紹介したい。薄いが重要な本である。

        2015.06.13 Saturday

        NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その4

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           今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。今日からは2章から紹介したい。

          霊性の混乱

           第2章は水源を守る「独裁者」のたとえ話というか物語の話から始まる。この物語は面白いので、ぜひ本書を読んでご自身でお考えいただきたい。

           書店に行って「霊性(スピリチュアリティ)」と分類されている棚を見れば、同じような結果(引用者註 現代人が知的に洗練されたとしても宗教的なものへの関心は変わらないという結果)に至るだろう。書店側もどう分類したらよいかわかっていないのは、まさにこの時代の状況を物語っている。(『クリスチャンであること』p.37)

          アメリカの古本屋のSpiritualityコーナー


           上記の写真は、アメリカの古書店の霊性関連のコーナーの写真である。あるいはアマゾンなりどこかのネット書店で霊性を検索してご覧になるとよい。まぁ、キリスト教から、仏教、新興宗教から、神道、またムーもどきのオカルトまで何でもございである。結局、雰囲気が宗教的なものは、何でも霊性の中にぶちこんでいる感じはアメリカでも日本でも変わらない。

           ある意味で、現代の日本の社会でも、このスピリチュアリティという語が粗製濫造のように使われ、そして記号として消費されている。


          一時期話題になりましたなぁ。

          この方も霊能者としてご活躍という側面も

          この深見東洲というお方の車内広告がはってあるのが阪神電車クオリティ

          深見東洲の阪神電車内のポスター
          最初に阪神電車でこの広告見て、何者?ってビビった。

           しかし、江原啓之さんにしても、三輪明宏さんにしても、深見東洲さんにしても、みんな音楽、それも結構声量を要請する系の音楽関係者というのが面白い。まぁ、感性と霊性はどっかでつながっているので、この辺りをどう考えるのか、ってのは結構真面目に考えておかないといけないのかもしれない。これは完全に余談である。

          英国でのケルトの流行

           日本でもそうであるが、1990年代から2010年頃を中心にケルトが話題になった。ケルトといっても、なんちゃってケルト的なものであるが。その火付け役は、なんといってもエンヤというアイルランド生まれの歌手であり、そのアルバムである。


          エンヤの音楽 もろケルト風


          かなりデトックスされたケルト風 Celtic Women

           まぁ、その後、セルティクスの活躍(中村俊輔というサッカー選手が在籍したらしい)などもあり、大概の日本人はスコットランド高地地方とアイルランドの深い関係を知ることもなく、なんちゃってケルトを楽しんでいるし、その極みは、ケルト的な(というよりドルイド的な精神世界の反映である)ハローウィンである。


          セルティクス時代の中村俊輔


          2014年表参道ハロウィンパレード

          また、コンピュータゲームの古のゲームウィザードリィなどである。1980年代初頭にこのゲームがしたいがためにマックを買いに走った友人が一人いる。まさにヲタクであった。大体マッキントシュという語自体、とてもケルト的である。

           まぁ、余談に行き過ぎたが、N.T.ライト先輩の本から
           とくに、私の住んでいるイギリスについて言えば、つい一時代前はケルトに関することが突然注目をを浴びるようになった。「ケルティック」という言葉がつけばそれだけで人々の興味を引いた。音楽にしても、祈祷書にしても、建築物であろうと宝石であろうとTシャツであろうと手当たり次第に西洋文化圏の人々の注目を引き、売れた。それは絶えず心に浮かぶもう一つの世界の可能性を物語っているように思う。(同書 p.38)
           実は、ケルトの血脈というのはアメリカに結構流れているのだ。まぁ、貧しいアイルランド系の農民たちが、ジャガイモ飢饉の結果、19世紀に新天地としてアメリカに大挙して移民を行い警察官や消防署員、そして軍人として、アメリカ社会に流れ込んでいったのだ。いまだにニューヨーク市警察本部には、なぜかアイルランドの国旗が掲げられる習慣がある。それだけ多いのだろう。まぁ、いずれの三職とも、体力勝負の仕事ではある。


          アメリカ国旗、アイルランド国旗、NYPD旗(緑はIrish Green)


          映画「デビル」の予告編

          IRAのテロリスト(ブラピ)と同居する羽目になる警官(ハリソン・フォード)に示される実に複雑なアイルランドとアメリカのつながりが思い起こされる面白い設定の映画


          ボストンの有名バスケチーム Boston Celtics


          なぜ、ケルトにひかれるのか

           ケルトに英国人がひかれるのは、現代社会の底の浅さ、浅薄さではないか、というのがライトの主張である。この辺、もともと、ライト先輩がスコットランドのセントアンドリュースで教えていることもあるかも、と思っている。いずれにせよ、結局西洋文明が、理性重視社会に偏重してしまった結果、結果的に底の浅い、懐の深さを失った残念な結果になっているかもしれないことに関して以下のようにお書きである。

           神(どのような神であっても)がもっとリアルに存在する世界、人間と自然環境が最もうまく共存する世界、はるかに深い根源に根ざしている世界、そしてそこで奏であれるさらに豊かな音楽。そこには、現代のテクノロジー、昼ドラ番組、サッカーの監督等、けたたましくそこの浅い世界より、はるかに豊かな世界がある。古代ケルトの世界(中略)は、今日のキリスト教からは百万マイルも離れているように思われる。それこそが教会等西洋の公認宗教に飽き飽きし、怒りさえ抱いている人にとって間違いなく魅力的なのだ。
           しかし、ケルト・キリスト教の真の中心は、極度の肉体的苦行と熱心な伝道活動をともなった修道生活であり、今日の人が願うものではない。(中略)今日の陽気で熱狂的なケルト愛好者は、そうした肉体的苦行を取り入れる様子はない。(同書 pp.38-39)


          ケルズの書(ヨハネ福音書)Wikipediaより



          ケルト十字架



          アイルランドの聖人 St Patirick



          アイルランドの祭り St Patric Day

          真ん中の人物は、レプリコーンという虹のたもとに宝を埋めたとされるアイルランドの妖精のコスプレ


          Guinness Beerカップが典型的なアイルランドのステレオタイプ


           今のアイルランド、あるいはケルトは、基本こういったノリの軽さとポップさを含んだものでしかなく、古のアイルランド人、スコットランド人が地を這うように生活し、海藻を岩地にまき、土壌を作り、痩せこけた土地で何とか生き抜こうとしたその情熱と必死さも知らず、お気軽なケルト祭りをしているように思えてならない。

          日本とケルト

           日本でも何かと話題となるゴルフは英国風の紳士のスポーツに今はなってしまっているが、そもそもは、スコットランドの遊びであり、非常に古い伝統を持つものなのだ。


          ゴルフの歴史の映像
           20秒あたりからライト先輩のいるSt Andrews 大学の映像がある

           また、アイルランドにしてもスコットランドにしても、土地の生産性が限られるために(だから牧草地になっている)その土地で生活可能な人口が限られるの で、割と早くから海外展開に出ており、海外進出している人々が多い。例えば、トーマス・グラバーは上海のジャーディン・マセソン商会(現在はマンダリンオ リエンタルホテルグループなどで知られる)の日本の相代理人を長崎にて務め、長州と薩摩に当時の最新鋭兵器から一歩落ちた南北戦争で売れ残った銃を大量に売りつけた人物であるが、ジャーディンやマセソン同様、スコットランド人である。結構、幕末のころの一発屋的な外国人商人(冒険商人)にスコットランド人は案外多い。

          Thomas Blake Glover(グラバー 右)
          左の日本人は岩崎弥太郎

           また、スコットランド人の伝道者はかなり多い。第2次世界大戦末期、中国東北部にあった日本軍の捕虜収容所で脳腫瘍のため1945年2月に収容所で病没した元パリオリンピック金メダリスト、エリック・リデルズはスコットランド人の宣教師である。
           念のため、この人物は炎のランナーで登場する人物である。

          Eric liddell 1.jpg
          Eric Eric Henry Liddell


          映画 炎のランナー 予告編 米国版

           ことほど左様に、古ケルトの社会は理想郷ではない。非常に陰惨で飢えと苦しみとイングランドによる暴虐に満ちた地であった。しかし、それでもなお、いや、それ故に、大陸やイングランドで失われた神のコミュニティとその伝承が偏狭であるがゆえに比較的きれいに残った地でもあり、神のことばの情熱の声が響いていた地なのかもしれない、とは思う。

           最近、息子と英米文学の話をするのだが、特に米国文学の理解にあたっては、スコットランド、アイルランドの文化とその特徴の話を抜きに、語ることはできない、ということを感じる。しかし、案外このあたりのことを講義では触れてもらっていないようなのが、実に残念ではあるが、米国や英国にいる訳でないのでしょうがないとは思うけれども。

           また、なぜかケルト系住民(主にスコットランドやアイルランド系住民)が多いシカゴでは、シカゴ川を緑色に染めることをせんとパトリックの日にしてここ数年遊んでいる模様である。もはや病気である。なお、この緑色の染料は、環境負荷がない染料らしいが、サカナが住んでいるとして、びっくりするかもではある。



          シカゴは3月のSt Patrick Dayに川を緑に染めて遊ぶ模様w

           あぁ、あまり関係のない話題で今回は盛り上がってしまった。次回はまともに紹介します。



          評価:
          原 聖
          講談社
          ---
          (2007-07-18)
          コメント:非常に幅広い世界であったことを示す名著だと思うけど継続的に出版されてない模様。

          2015.06.15 Monday

          NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その5

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             今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。今日からは2章から紹介したい。

             今回もまた、すごいのである。

            霊的な渇きの源は?
             前回も、現代社会は、霊性を求めていることが、社会の様々な断面から見られることをご紹介した。なぜ、人々が、そういう霊性を求めるのか、というあたりのことをクリスチャンから見れば、どう説明できるのか、ということに関してライト先輩はこう書いておられる。

             霊的なことに対する新たな関心の高まりについて、クリスチャンの説明は至極まっとうなものである。もし、クリスチャンの語っていることが実際に本当なら(言い換えるなら、イエスのうちに最も明確に知ることができるような神がいるとするなら)、人々が霊的なことに関心を示すのは当然である。というのは、イエスのうちにこそ、人々を愛し、その愛を知らせ、その愛に人々が応えるのを願う神を見るからである。(クリスチャンであるとは p.40)
             これは、キリスト教世界(クリステンドム)を経験したことのある国の人々に対しては有効だろうけれども、このあたりが、キリスト教世界を経験したことがない人々にはつらいだろう。確かに、霊的なことに関する関心の高まりはわかる。であるが、それから直接

            もし、クリスチャンの語っていることが実際に本当なら、人々が霊的なことに関心を示すのは当然である。
            とはダイレクトにいかないところが、日本固有の部分である。では、これをどう説明するのか。なぜならば、
            イエスのうちにこそ、人々を愛し、その愛を知らせ、その愛に人々が応えるのを願う神を見るからである。
            という点で、納得がいかないからである。

            日本の霊性と聖書の霊性

             多くの日本の方でも、霊性があることはおそらく素直にお認めになる。しかし、多くの場合、日本では、それが幽霊の話や、先祖霊の話、森にこだまするアニミズム的な自然神信仰には素直に行けても、それがキリスト教の神やイエスと直接つながらないことなのである。そして、いきなり、「いやいや、そもそも、聖書の言う神は、多くの八百八万の神々の一柱で…」と結局知られぬ神に、といってしまうか、自分とは関係のない西洋倫理や西洋道徳の中にジャンル分け、ないし、位打ち、棚上げをされてしまい、その段階でイエスや神へのシャッターが閉じてしまうのである。なぜ、そのイエスという10の100乗以上分の1の神を選択的に選び、それだけを神なのだなぁ、とする、というところに行けないのである。

             キリスト者の側でも、「いやいや、キリスト教は日本に重要な影響を与えていて、実は神道はヘブライ的な由来を持つのではあるまいか」と日猶同祖論を言い始めた利してきてしまったのである。この道は、ショートカットではあるけれども、ショートカットにはコストが伴うことを我々は覚悟すべきである。日ユ同祖論のショートカットに伴うコストは、結果的に八百万の自然神の一つにしてしまい、選択的にこれしかない、ということなのではないだろうか。そして、イエスがこの地上に来た、復活したというその驚くべき奇跡の意味をブッ飛ばしてしまうからである。そして、挙句の果てに、麻原”尊師”が復活のキリストだ、という珍節・奇説の類まで出てきてしまうのだ。


            オウムが過去に出版した麻原キリスト説関連本

            近代の中における霊性

             では、どうこのイエスを霊性とのかかわりで紹介するか、ということを考えてみると案外難しい。こっち側からの日本の多くの方々への弁証というのは、かえって逆効果のような気がして仕方がない。霊性から説明しても、そことイエスを直結するのではなく、そういう世界が存在するかもね、それは無視できないかも、近代的な思想性の合理性ですべてが説明されつくされえない部分があるのではないか、という指摘にとどめるべきではないかなぁ、と思う。むしろ、以下のライト先輩のご指摘の部分の方が、部分の方が、まだ妥当性というか、是認性を持つような気がする。
            クリスチャンの物語の重要な部分は、ユダヤ教徒とイスラム教徒の物語もそうだが、人類が悪によってあまりにもひどく傷ついているため、そこで必要になるのは単によりよい自己理解やより整った社会を実現することではなく、まさに救出、しかも自分以外のところから来る助けによる、ということにある。霊的生活でを追求する中で多くの人は、自分にとって真に最善なものよりも劣ったもの(ここではそれ以上強い言い方を控えるが)を選択してしまうことを予期すべきである。長い間渇いてきた人は、どんなものでも飲み込んでしまう。たとえ汚染されていても飲んでしまう。(中略)こうして「霊的なもの」それ自体が、問題解決の一部であると同時に問題の一部になってしまうことがある。(同書 p.41)
             オウム真理教にしても、その他のものにしても、よいものを求めて始まり、問題解決の一部を提供しようとして始まったのだが、結果としてとんでもない大問題になってしまたのだ。この辺の残念さ、を基礎に、なぜ、キリスト教が提供しようとしている義が大事なのか、ということを語る方が、理解が進むという意味で、まだ妥当なのではないか、と思う。
             霊性の影響というものはすさまじいものがある。そのことに関して、ライト先輩は次のようにお書きである。
            ある強硬な懐疑論者は、彼らの言う宗教的狂信者―自爆テロ犯、終末論的夢想家、さらにその類の人たち―が与えたダメージを見て、すべての宗教は神経症のようなものだとして、あまり深入りしないか無条件に禁止するか、あるいは個人の範疇に収めることに同意した大人だけに制限した方がよいと。 (同書 p.42)
             わが国では、バブル崩壊後の新新宗教ブーム(この時に、足裏診断で有名になった某集団や、未だに霊言と称するものをまき散らしておられ、大学を設立しそこない、選挙では落選し続けつつも、なお選挙に出ておられるエルカンターレ総裁様の集団などなど、まぁ、雨後のの竹の子のように現れ)があり、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件など、それ以降、日本においては宗教に対する否定的な見解が高まったあまり、大人ですらそういうことを口にすることが憚られ、個人の霊性みたいなものが、はけ口を失い、それが、一種テレビ放送などといういったんテレビ放送局という形でオーソライズされ、サニタライズされた形で、安心してみていられる安易な霊性に走ったような気がする。それがいかに真の霊性でないにしても。

             テレビは安易に面白コンテンツを求めているだけ、なのではある。とはいえ、ぶっちゃけ寺のゴールデン枠への移行のように、ある面で、他の消費可能であったものを消費しきってしまった結果、霊性に手を出した、という部分はあるような気がする。まぁ、霊性への関心の高まりの反映という側面もあるだろうけれども。それはそれで、重要だと思うけど。

             日本社会では、宗教は「アブナ オモシロイ」分類の中に入れられてしまい、霊性の声はぶっ飛んでいるものの、東日本大震災が突き付けたあのような悲惨にどう向かい合うべきか、ということを考える中で、臨床宗教師などの動きもみられるようにはなり始めているが、まだまだ、その取り組みは始まったばかりであると思われる。




            霊的なことと真理と…


             現在のポストモダンな環境の中では、相対主義が幅を利かせる。そして、相対主義は一つであることを極端に嫌う。真理というか事実というか、真実というか、それは相対的なものだ、ということにしてしまう部分は確かにある。そのあたりのことに対して、ライト先輩は次のように書いておられる。
             懐疑論者が用いる一般的な戦術は、相対主義である。私は今でもありありと覚えているが、学友とクリスチャンの信仰について語り合っていた時、会話の最後で、彼は大げさにこういった。「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」
             「あなたにとってそれは真理だ」とは、それなりに良く聞こえ、寛容なように思われる。しかし、それが成り立つのは、「真理」という意味を捻じ曲げているからである。すなわち、「現実世界における物事の真実の姿」という意味ではなく、「あなたのなかで起こっている確かなこと」という意味なのである。
             実際そういう意味で「それはあなたにとっては真理だ」といわれることは、「それはあなたにとって真理ではない」といわれるのと大差ない。なぜなら問題の「それ」、つまり霊的な意味や気づきや経験が、大変強力なメッセージ(神の愛が存在すること)を伝えているのに、それを耳にした人がほかの別なものやそう強く感じても、それはあなたの誤解だとする)に変換してしまうのである。それに他の幾つかの意味合いを加えて、「真理」という考え方自体が今の世界ではかなり問題があると思わせる。(同書 pp.43−44)
             ここで「真理」と訳されている語は、trueという言葉であり、事実とか本当だ、いう意味をもつ言葉でもある。現代のように、多元的な視点が重視される社会において、このような真実性、真理性を担保するためには、公共圏と呼ばれる多元的言論空間での公共的討議において間主観的な対話の結果生まれた共通認識が真理とされることになる。基本的に現代の学問体系が論文なり学会なりでの対話を中心として、生み出され、修正されつつ、共通認識となるという手順が取られ、個人が、これが事実だ、とか、これが真理だ、とかいう一方的な個人の主観に基づくだけの物言いは、真理性を相互認証と合意が存立していないという点で、課題があることになる。そんなめんどくさいことを言わなくても、という話はあるかもしれないが、そのめんどくさいをことを経て、真実の純度を上げていくというのが学問というプロセスなのであって、自分がこう思うから真実だ、というのは、『学問ごっこ』と揶揄されることになる。

             実は、ここで挙げられている懐疑論者の論法、「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」にはいくつか問題がある。これは、あくまで半分、近代の均質性で同一性が担保されている、ということに対する前提を批判的に取り扱っているようで、実は、真実(trueであるので、事実)ということの均質性や普遍性に議論が大きく依拠しているからである。何より最大の問題は、この懐疑論者が、「それはあなたにとって明らかに真理であっても、他の人にとって真理であるとは限らない。」ということであるが、この場合、この懐疑論者の人は、こういうことを言っていることで、対話を結果的に拒否してしまっているのだ。

             確かに、ある人にとっての観察結果は、ある人にとっての観察結果である主観的なものではあり、その事実性ということの確認は、近代科学の社会の中においては、間主観的対話を通して、間主観的に認証されてはじめて、事実性が確実なものとなるのであり、そのための公共圏が必要だということをユルゲンハーバマスは主張した。公共圏におけるコミュニケーション理論である。

             しかし、この懐疑論者のような立場に立たれると、そもそも、公共圏自体がこのような立場の人々と形成するのは極めて困難であり、対話の糸口すら形成されないことになる。となれば、間主観的(客観的)事実認定ができなくなるのだ。

             後、この懐疑論者の論法の問題は、メタ思考的に考えてみれば、この事実の背後に近代的な均質性の概念が潜んでいるということであり、真の意味で、ポストモダンでないという点である。もし、真の意味でのポストモダンを考えるならば、そもそも論として、「ほかの人にとって真実でない」と主張したとしても、そのことにすら信実であるとする必然性はないことになるからである。案外、このあたりのことは公共圏の形成において、何らかの共通性というか公共性が求められるということを意味しているように思えてならない。

             まあ、まだまだないわけではないが、こまかいことを言っていてもしょうがないので、この辺にしておく。

            NTライトのユーモア
             ライトは、非常にユーモア感覚に富んだ人である。例えば、それは次のような表現に見られる。上の部分の最後辺りで公共圏に関してグダグダ書いたようなことを、

             そういう意味で「それはあなたにとっては真理だ」といわれることは、「それはあなたにとって真理ではない」といわれるのと大差ない。

            と指摘しているあたりは非常に面白い。 この辺がライトのユーモアであり、英国人らしい、ちょっとブラックなものが聞いたユーモアだなぁ、と思う。

            街角の霊性

             ここで、懐疑論者が、「あなたにとって真実かもしれない」という反論から、出発できることをライトは次のように書く。レトリカルにややこしいので、分かりにくいかもしれないが、恐らくはこんな意味だろう。
             懐疑論者の反論自体がこの種の問題の突破口になる。それに気づけば、私たちは振出しに戻ってくることができる。つまりは、人間のあらゆる経験の中で様々な形において報告される広範囲の霊的なものへの渇きは、目に見えないにしても、角を曲がったすぐ先にある何かをさししめす真の指標かもしれない、という可能性である。それは、あの声の響きであるかもしれない。(同書 p.44)
             つまりは、彼自身であって、真実(個人的な真実、あるいは個人的な事実)としては、懐疑論者は認めているのである。そのこと自体は、懐疑論者としても否定しえないのである。なぜならば、霊的な事柄を経験した、という個人的主観的観測自体は、基本的に排除され得ないし、排除した瞬間にポストモダン社会のとしての基盤となるべき概念構成が崩れてしまうからであり、そうなると、一切の公共的討論が無効になるからである。
             少なくとも、個人的に「何らかのことを感じた」ということは重要であり、そのことの上に立つことができるのではないか、ということをライト先輩はご主張である。このご主張は案外大事で、実は我々があまりに既存の概念構成にこだわりすぎていて、日常的にひそむ霊性(お化けと賀屋水子供養とか、日本の場合恐怖を語るそういう世界に入りやすいけど)、本来的な人間の形であり、体、魂、霊、こころ、思索、という分野に関してあまりに無頓着だということを示しているのかもしれない。このあたりのことをきちんと考えた方がいいかもしれない。このあたりに関しては、ちょっと難しいという噂のあるダラス・ウィラードの『こころの刷新を求めて』をご参考いただきたい。個人的には、読みにくいとは思わないが、案外、読みにくい(読む気がないための口実だとは思うが)という方が多いので、少し驚いている。大事な内容を扱っているので、ご一読をお勧めしたい。

             ご注文は、ライト先輩の『クリスチャンであるとは』の本とぜひご一緒にあめんどうブックスでご注文をば。





            評価:
            ダラス・ウィラード
            あめんどう
            ¥ 2,592
            (2010-03-30)
            コメント:内容が充実しているが、訳は非常に読みやすい。おすすめの1冊である。

            2015.06.17 Wednesday

            NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その6

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               今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。まず、3章から紹介したい。義の一部を形成する人間観の関係性を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

              結婚候補の人たちを前に
               マリッジカウンセリングというか、結婚式の準備のために、司祭や牧師が事前準備態勢を組むことはよくあることである。まぁ、それなりに準備が行って、そして、相手の希望などを入れながら、司祭や牧師が結婚式のメッセージを考えたりすることは多い。中には、結婚する二人を置き去りにして、この時とばかりに盛り上がって聖書メッセージをしようとする牧師先生のお姿を見ることもあるが、そういうとき、カトリックとか聖公会とかの説教はまぁ、それなりに、という教会の姿の方がいいかなぁ、と思うことはある。

               若いカップルが私の書斎のソファに座って、互いの目をじっと見つめ合っている。結婚式の打ち合わせに来た二人だ。これほど完全な相手はいない。自分達が待ち望んできたまさにその人だという発見で心ときめかせ、夢に満ち溢れている。
               それでもだれもが知っているように、それこそ天国でであるかのような結婚生活が、ときには地獄から祖お遠くないところで終わりを迎える。互いへの思いやりが、華々しい新しい生活を約束するかに思われる時も、統計が示しているように、その先の生活をどう過ごすべきかを知らなければ、すぐに金切り声をあげ、泣き叫び、離婚のための弁護士をやということになるだろう。
               何かがおかしくないだろうか。お互いをそれほど求めていながら、どうして二人の関係は難しくなってしまうのか。(クリスチャンであるとは p.45)
               こういう部分を見ていると、結婚する前は、以下の「世界は二人のために」というかなり昔の歌謡曲で歌われている。それは、スピードワゴンのコントのように、「あま〜〜〜い」といいたくなるようなものである。なお、この「あま〜〜〜い」をはやらせた、井戸田君は、彼の「あま〜〜〜い」関係を継続することに失敗しているという悲喜劇があるあたりが。


              世界は二人のために (最近、結婚式で聞かされることはほぼない)


              スピードワゴンのコント

               こうやって始まるものの、日本では芸能人の離婚騒動に伴うゴタゴタは話題になるが、アメリカでは、結婚する段階で、離婚に備えて結婚前に契約書が交わされることが多いらしい。それをどう回避するかのために、Divorce Lawyerという専門職があるらしい。また、それが儲かるらしいのだ。そのDevorce Lawyerの結婚と離婚にまつわるコメディーがディボースショーという映画がある。また、離婚の悲惨を描いた映画にローズ家の戦争という映画がある。なお、このタイトルは、バラ戦争という西洋史で超有名な戦争名がそのタイトルの下にひかれている。


              ディボース・ショー(Intolerable Cruelty)の予告編 


              ローズ家の戦争の予告編

              神からの呼びかけとしての共同体形成
               神からの呼びかけとして、共同体形成があることに関して、N.T.ライト先輩は、次のようにお書きである。
              人間関係のすべての領域は、もう一つの「ある声の響き」』を作っているといういうことである。その声は、無視しようと思えばそうすることもできる。しかし、その声は十分大きく、(中略)多くの善良な人が張り巡らせている防御を、いとも簡単に突き抜ける。人間関係とは、霧の先にあるものを指し示すもう一つの指標であって、その先により良い道に導く道があり、だれもが行ってみたいと望んでいる場所に導いてくれると。(同書 pp.45−46)

               社会が組織なしには成立しえないように、人間は人間関係の中に招かれているのだろう。世の中に数多くの組織が形成されているが、それは人間が一人では、考える葦でしかなく弱い存在であり、草食動物(たとえばバイソンやインパラといった動物が、集団行動を通して身を守るという行為が合理的である以上のものがあるのではないか、と思われる。

               経済学者は、物の見方が功利主義的、合理主義的に出来上がっているので、こういうことも、経済学の中でも産業組織論分野の数理モデルで示そうとし、その背後にネットワーク外部性があるからだ、と経済原理からのみで説明しようとする(それはそれで、尊い知的活動である)が、この後出てくる結婚などは、ネットワーク外部性などの理論では説明できない人間行動である。結婚や恋愛の現象面での経済学(たとえば、男性がプレゼントする背景の合理性やHome Developersの行動における合理性など・・・)は構成できても、ある特定の男性とある特定の女性観における恋愛そのもののを対象としたゲーム理論的解説は不可能であるし、それはしない方が研究者の現実の生活と評価にとって益が多いようには思う。やったらいかんとは言わないけど。

              結婚にまつわる悲喜劇
               結婚にまつわる悲劇が非常に多いということに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。幸せを目指いして、結婚が行われ、何百万円もかけて、行われている。芸能人などの場合は、何億円もかけて結婚披露宴が行われたりするものの、間もなく離婚会見が開かれることに我々は習い性になっているかもしれない。

              一世代前の西洋文化圏で暴露された結婚生活の実態にもかかわらず、さらには、独りでいたい願望、夫婦共稼ぎの重圧、膨れ上がる離婚率、新たな誘惑の世界に囲まれるかもしれなくても、相変わらず結婚への人気は驚くほど高いからである。イギリスだけでも何千万、いや何十億というお金が、毎年結婚式のため使われている。にも関わらず、演劇や映画や小説のほとんど半分の割合、恐らく新聞では、四分の1の割合が「家庭内の悲劇」を取り上げている。(同書P.46)


               まぁ、先に紹介したディボース・ショーやローズ家の戦争などをはじめとする映画やスポーツ新聞の芸能欄(正確に言うと芸能人に関するゴシップ覧)、あるいは、女性自●とか、女性セブンとかのJRの吊り広告を見ているだけで、このあたりのことはすぐ自明ではないだろうか。女性雑誌の一定の割合は、洋の東西を問わず、この辺のゴシップが大半を占めており、こういうのは売れるらしい。ない時には、近所の人のゴシップで満足していたのかもしれないが。まぁ、世にラブコメの種は尽きず、という感じである。

               大英帝国では、米国ほど結婚や離婚はカジュアルのことではないようであるが、米国に行くと、ステップペアレントが2桁、というような例はざらにみられる。教会の司牧はマリッジカウンセリングに奔走させられ、また、それを専門にした心理カウンセラーもいる。そして、アメリカ社会は数多くの離婚と数多くの再婚が繰り返されながらぐるぐるとまわっていく。

              以前ヤンキー牧師こと水谷潔氏の講演( 緊急公開 神学ALG KOBEクリスチャンライフセミナー ユース:クリスチャンの本音トーク恋愛→結婚→家庭編 水谷潔先生 講演録  )で触れられていた、平成のドンファンこと、石田純一の名言あるいは迷言

              人は判断力不足で結婚し、忍耐力不足で離婚し、記憶力不足で再婚する

              ではないが、結果的に人間は、霧の先に進みながら、そこに何かあるのではないか、とそこに突進し、そこに行ってみると、何もなかった、あるいは見つけたのは悲惨であったというパンドラの箱よろしく、最後に希望を求めながら、その箱を開けては失望し、また、希望を持ちつつ霧の中に分け入っては失望し、という問題を繰り返しているのかもしれない。

              孤独を嫌いながらも、孤独を理想とする社会

              キリスト教の世界での人間関係の考え方について、N.T.ライト先輩は次のように書いておられる。人間は、社会の中に生きる存在としてそもそも想像されていると。

              私たちは互いのために造られている。それでもその関係をうまく保ち、そして実りある喪にするのは帆tん度の場合、驚くほど難しい。(中略)私たちは皆コミュニティに属す、社会的なものとしてつくられていることはよくわかっている。それでもドアを堅く閉めきり、夜一人で床を踏み鳴らしたくなることが多い。同時に、自分は皆離されている、自分を憐れんでほしい、誰かが助けに、慰めに来てほしいと願っている。(同書p.46−47)

               この部分を読みながら、「クリスチャンであるとは」をお出しになっているあめんどうさんで出ていた、ヘンリー・ナウエン著『愛されているものの生活』を思い出した。この愛されているものの生活は、和解ユダヤ人の独身の世俗のジャーナリストにキリスト教とはどんなものかを説明し優として書き始めたものの、実は、世俗の非キリスト者向けにキリスト教とは何であるか、と示す本ではなく、キリスト者向けに、キリスト者とは何であるのか、を説明する本になってしまった感のある本であるが、現代人の孤独と個人の生活の分節化という社会の現状その中で、キリスト教とはどのようなものとして回復されるか、ということを欠いた本である。安全、安心を求めるあまり、牢獄のような閉鎖的なアパートに住むことは、実な自分自身で、刑務所に入っているようなものではないか、ということなどが書かれていて、そこからの解放者としての開かれた社会に生きるものとしてイエスは招いていることを示した名著である。

               現代の社会に生きる都市的な人間のある側面について、N.T.ライト先輩は以下のような表現をしている。
               私たちは皆、他の人と関わりながら生きている存在であることを知っている。しかしどうすればよい関係を保てるかがわからない。(同書p.47) 
               この指摘は現代社会の混乱の一つをついていると思う。かかわりが大事であると分かりつつ、人間関係で生み出される軋轢や混乱、不愉快なこと、それに伴うめんどくさい諸々を避けていきたいという思いが強いのは一つの現状ではないだろうか。問題は、それをどう処理していけるのか、という方法論がいまだに見当たらないことである。それは、キリスト教の世界、とりわけ、プロテスタントの世界を見れば非常によくわかる。ごくわずかな聖書理解の違いゆえに、キリスト教会はどんどん分離していて、他の教会群とかかわりながら生きていけばいいものを、その細かな違いが問題になり安っく、このような動きができていないところもあるように思う。原罪2016年に神戸で開かれる日本伝道会議のプレイベントが開かれているし、来年2016年は伝道会議そのものが開かれる。こういう試みをすると、すぐ、そんな教会合同、エキュメニカルな…とかいう批判の声が出るのだが、そのこと自体が、かかわりながら生きることをどう良い関係を保ちつつ可能なのかということが分かっていないことを示しているように思われる。

               次回へと続く



              評価:
              ヘンリ・ナウエン
              あめんどう
              ---
              (1999-11-18)
              コメント:大絶賛、おすすめである。

              2015.06.20 Saturday

              NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その7

              0
                 
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                 今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。本日もまた、3章から紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。

                ノイズの多い社会の中で

                 現代の社会では、非常にノイズの多い社会である。ノイズを意図的に増やして、それで空間と時間を満たしてきた社会である。人工音なしの音の真空の時間も空間もかなり限られる。とはいえ、音が全くない音の真空の時空間は昔からなかったわけであるが、トランジスタラジオの発売以来、音に関する空間は与件から自分で変えていくものへと変わっていった。トランジスタラジオ、ラジオカセット、ウォークマン、iPadをはじめとするシリコンプレーヤーが実空間に個人の好む人工の音楽や音を持ち出していくことを可能にし、それが当たり前になった。
                 騒々しい工場で働いていたり、大家族の中で生活していたりしたら、そこから離れて、人けのないところに行って、すがすがしい開放的な気分に浸りたくなる。多くの人と一緒にいるのが好きな人でも、時にはうんざりして本の世界にのめりこんだり、長い散歩に出かけたり、雑音から離れて何かを考えたくなる。

                 ほとんどの人は長期にわたるまったく孤独を望んでいない。生まれながらの恥ずかしがり屋で内向的な人でも、普段はずっと一人でいることを選ばない。(クリスチャンであるとはp.47)
                 鳥の鳴き声、川のせせらぎ、波の音が雑音かどうかは別として、人為的な音環境からの脱却ができるところにまで、人工的な音源を持ち込もうとしたのが現代という時代であろう。そして、個人の世界をどこにでも持ち込もうとしたのが現代という時代である。ある面、公共的な音環境からの脱却を目指して、結果的に孤独な社会に向かっていくという非常に悲惨な現実がある。この辺りのことは、ナウエンの「開かれた手で」にその種の言及がある。
                 個人的な世界の中に閉じこもりつつ、孤独であることに耐えられないのが現代人であるという、実に複雑な現状が生まれている。
                 現代日本の若者の中で「ひきこもり」(ヒッキーと呼ばれる)という現象が確認されているが、彼らは彼らで引きこもっているだけなのではなくて、自分たちの関心のある領域に関して、コミケと呼ばれるイベントで交流したり、コンビニやまんだらけ、アニメイト等の巡回警備(要するの雑誌・同人誌やグッズの確認)をしているのである。あるいは、ネット上の掲示板やツイッターで炎上を含めて交流していないというわけではない。


                ヒッキー(ひきこもり)を扱った現代劇のポスター


                まんだらけ

                アニメイト

                コミケの模様

                社会生活の重要性
                 N.T.ライト先輩は、現代社会での人と人とのかかわりの重要性を指摘した上で、それを改変している西側社会における人間関係の貧しさを次のようにご指摘である。

                 社会生活なしに自分がどのような存在であるかを知るのは難しい。私たちは、自分の生きる目的や存在の意味を自分自身のうちに、また自分の内的生活のうちに見出すだけではなく、家族の中で、表通りで、仕事場で、コミュニティーで、街で、国で、共に分かち合うように造られているものだ。ある人を「一匹狼」ということがあっても、それは悪い意味ではなく、変わった人である、というだけの話である。
                 人と人のかかわりにはいろいろな形態がある。現代の西洋世界で不思議なことの一つは、これまで当然のように思われてきたかかわり方を改変(さらに縮小)してしまったことだ。(同書 p.48) 

                 人が社会的動物であるがゆえに、社会生活は必要だし、その社会の中で、そして社会として定義されてこそ、自分のレゾン・デートル raison d'etre が確認される部分がある。

                 ところで、牧師先生の社会人経験の有無が時々話題になることがある。たとえば、KGKの山崎元総主事の「社会経験という名の偶像?」、のらくら者の日記の「「社会経験」は偶像か?」やこれらの公開討論を経て生まれた拙ブログの「産業社会の変遷とキリスト者の労働観 かなり長い突っ込み!」等である。

                 牧師は社会人として認められないと主張される人々もいる。その根拠として、一般の企業社会や、学校や、役所などで、教会外組織で、対価を得るという経験が少ないことを批判しているのだと思うのだ。

                 しかし、幼小中高の教員及び大学教員は、基本的に学校以外の組織からの対価を得たことのない人が多い。それが問題だと考える人もいるようであり、一部の自治体などでは、1週間とか1月とかの期間限定などで、企業とか、役所で体験就労してみるとかいうプログラムもあるところもある模様である。個人的には、一時的に行って体験就労して学べる程度のことは多寡が知れていると思うので、あまり意味はないように思うが、ないよりマシ、一応お茶を濁すような形で、ポーズとして制度化されている側面が多いなぁ、という気がする。

                 しかし、司祭や牧師や学校の教員とかは、社会的存在ではない、という言明があるが、はたしてそう言い切ってよいのだろうか。教会が孤島や人里離れた山の上、砂漠の洞穴内にあるような修道院の場合のように、社会から完全に遊離した存在であれば、教会は社会的存在ではないし、牧師は社会的生活がなりかねない。しかし、孤島や人里離れた山の上にあるような修道院のような場合でも、そこに複数の修道士や信徒がいるならば、教会は内部的には社会という構造を形成するだろう。かなり偏ってはいるが。その意味で、何らかの形で、どのような人でも、幅広い地域社会の一部を形成してなくても、社会生活を送っているという意味で、社会人であるように思う。では、一般の企業で偏りがないかと言われたら、偏りはあるのである。町工場には町工場の偏りがあり、大工場には大工場の偏りがあり、商社には商社の偏りがあるのだ。それはアダム・スミス先生が分業の利益を発見したころから、延々と続く偏りではある。

                 そもそも、司祭や牧師や学校の教員とかは、社会的存在ではない、というような言明は教会が一般社会に生きる信徒と一般社会の一翼を担う司祭・牧師とで教会が構成されている以上、基本的に社会的存在であるという、根本的な社会理解に瑕疵が存在すると言えるのではないかと思う。

                 ところで、地域社会における人間的なかかわりは、共同作業(たとえば水利管理等の農作業)や地域における祭事等で形成されてきた。しかし、近代、とりわけ、啓蒙時代を経る中で、人と人の直接的なかかわりはかなり排除可能な形に形成されてきたし、それを可能にするように近代の計画型都市(所謂団地)が形成されてきた。新興住宅地という計画型都市には、その計画の中に寺院もなければ、神社もなく、もちろん教会もないところが多い。その代わりのものとして、都市計画者は、申し訳程度に交流が生まれるといいなぁ、と思いつつ、コーナーパークを設置し、非宗教化されたほぼ使われることのなかった集会所を設置するにとどまった。これは、この分野の都市計画にかかわった者として、反省はしているが、そもそも論として才能がなかったので、自ら手を下さずに済んだのは、ラッキーだったと思っている。

                 そして、地域の祭事は、観光イベント化するか地域商店街の売り上げ倍増計画となるか、社会貢献事業化し、人が集まるための施設でもあった地域の宗教施設と人との関係は行政的な枠組みの中で考えられるようになり、行政のコントロールの中でのみ人と人がかかわることが模索されてきた。

                 しかし、『新しい中世』という書籍で、インターネットが爆発的に普及する以前に、現在のようなヴァーチャルな連携が予測されているが、現在は、リアルな空間の中でのかかわりではなく、かなりバーチャル空間の中の連携がリアル空間の中で時に表面化しているように思う。たとえば、アルカイダやISISなど中での人々のかかわりは、基本ヴァーチャル空間でかなりの計画がなされ、それが現実空間に表れてきて、人々驚かすことになる。

                コミュニティとしての暴走
                 コミュニティは、時に暴走することがある。自分たちだけがユニーク(独自性をもつ唯一の存在)であることは間違いないが、それが行き過ぎると、自分たちだけが正しい、自分たちだけが重要で他はダメという価値観にとらわれることが過去これまで起きてきた。
                 もちろん時には、まさに邪悪なことにもなり得る。強烈な団体意識は、コミュニティー全体を間違った方向に走らせてしまうことがある。コミュニティーが一つにまとまり、堅く結束してしまうと、古代アテネの人々のように横暴になり、勝ち目のない戦争を傲慢にも始めたりする。もっとも最近の出来事では、ドイツのほとんどの人がアドルフ・ヒトラーに全権をゆだねる決定をした。それは、歴史の流れを変えた。
                 コミュニティー自体は内輪でうまく機能しているようでも、その行き着く先が健全である保証はない。(同書 p.49)
                 コミュニティで生きるように招かれていると同時にコミュニティの暴走の両面をご指摘しておられるというNTライト先輩のご指摘は大事ではないか、とおもう。ここでは、古代アテネの例と、ドイツでのナチスドイツの例が出されているが、日本では、戦争中の隣組制度や江戸期以来続く村八分の精神性等で、時々我が国の歴史の中で出てきていた。

                 その意味で、1935年以降、アジア大陸での戦争に向かっていくとき、一億層火の玉といい、敗戦を迎えるや否や一億総懺悔という等、そのコミュニティ性は非常に強く、そして、一致した行動規範に従うことを求め、その結果悲惨を迎えたのではなかったろうか。




                 ところで、キリスト教会では、コミュニティの重視と暴走の側面はカルトの問題として噴出してきた。カルト化教会は、カルトの組織内的には目的適合的(たとえ、それがそのカルトの代表者の生活をより豊かで安楽なものとするというものであるとしても)にはうまく機能していたかもしれないが、その行きつく先は不健全な例はいくつもある。たとえば、何度も紹介しているWacoを一躍有名にしたブランチ・ダビディアンや人民寺院の例もある。
                 

                ブランチダビディアンの戦争もどきで有名になったWACO, TX


                人民寺院事件で残された遺体

                 近代社会の中で、独裁の問題を考えるときに、特に発展途上国や経済的困窮状態にあった国家の中で出てきているという側面は、考えてみたほうがいいかもしれない。混乱状態にあるがゆえに、そこからの脱出を考えるという点で、強いリーダーシップが求められた結果であると言えるのではないだろうか。まぁ、混乱から脱出するための非常措置として設置したはずの制度であっても、制度ができてしまうと、それが独り歩きしてしまう例は多い。典型的には、ローマ皇帝の制度である。本来元老院での民主主義が行われていたローマという都市国家的制度からその危機に際して、ローマ国民を統合するために、護民官の代表者とその意思決定を迅速化するための後継制度がローマ皇帝の制度になっている。
                 
                最悪であるがそれ以外にない政体論

                 政体論としては、現在の社会では、民主主義政体以外は考えられないが、君主制、立憲君主制、神政政体(旧約聖書的な君主制ができるまでの神が王であるとする政体)、貴族制、寡頭制と様々な政体が浮かんでは消え、消えては現れしてきたのである。
                 今日の西洋世界のほとんどは、民主主義以外の生き方は想像もできず、そうしようとも思わないだろう。「民主主義」という用語は、すくなくとも「全ての成人に投票権がある」ことを意味し(過去には普通に行われていた女性や貧困層、奴隷を排除したシステムに対立する意味だが、それさえ過去には「民主主義」と呼ばれていた)、考えうる最も高い賛同を得ている。若し民主主義を信じないと言ったり、それに疑問を投げかけたりしたら、頭がおかしいと思われるか、少なくとも危険人物とみなされる。
                 民主主義でもうまくいかないことがあるのは私たちも知っている。小さなレベルでも人間関係を正しく保てないのだから、大きなレベルでも保つことはできない。(同書 pp.49−50)
                 民主主義は、現代の社会の政治制度の前提となっており、それ以外の制度設計は確かに、ほぼ想定し得ないし、想像するのも困難なほどである。民主主義でもうまくいかないことは、ウィンストン・チャーチルの次のことばに表れている。
                 多くの政体が試みられてしたし、また、この世界の罪と悲惨に満ちたこの世で取られて行くことだろう。誰も、民主政体が完全であるとは言えないし、すぐれたものであると言うことはできない。実際、民主主義は最悪の政体として存在しつづけている。ただし、これまで時に試みてこられた他の政体を除いてではあるが。
                Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.


                 実に人間関係というのは非常に難しい。そのことは、この前のミニストリーの出張講座でも取り上げられていたし、工藤さんの本にも、『よりよい人間関係を目指して』という本がある。このような本はこれまで多数出版され、人々に影響してきたとしても、なお、人間関係は難しいのである。

                 人間関係が一致するのは、利益が一致する時である。これが一致する場合、細かい方法論でもめることはあまりない。問題は、理性の問題というよりは、感情の問題であり、対話の議論をする際の立場とその中で働く力学というものの影響は大きいように思う。最近世俗の仕事でエリアマーケティング論の授業で用いた以下のPersuasionに関する動画は、非常に印象深いので、ご紹介しておく。


                説得の科学の動画 英語版のみ

                うまくいかない人間関係と泣き笑い

                 人間関係がうまくいくということと泣き笑いの関係について、NTライト先輩は次のように言っておられる。
                 そのような問題(人間関係がうまくいかない問題)は、最も親しい関係(結婚関係)からもっと大きなスケール(国家観)に至るまで同じである。私たちは皆、共に生活するために造られていることを知っている。しかしそれは想像以上に難しいことも知っている。
                 その大小にかかわらずそうした関係において、特により個人的でごく親しい関係にある人との場面では、人間関係に特徴的なしるしがおのずと姿をあらわす。笑いと涙である。(同書 p.51) 
                 ここで、N.T.ライト先輩は、人間関係はうまくいかない、ということを明白にお認めである。このご指摘は重要だと思う。それをうまくいっているかのように糊塗することは、テル・エル・アマルナ文書の時代から行われてきた。

                  例えば、「私は大王さまの足の下のサンダルの裏側の塵のようなものにすぎませんが、エジプトの大王さまはつつがなしや」と書き記しながら、その直後に「私の厩舎の馬は意気盛ん、私の兵は装備充実し、戦車はいつでも出動態勢」と付け加えることを古代の王たちは忘れなかったが。

                 とはいえ、人間は草食動物が弱いから 群れなして生きるように群れを成しているのでもなく、共同体において、神の霊が働き、神の霊の顕現があるがゆえに共に集まるのである。それでも分裂と分断と 亀裂が存在するにしても。

                 そして、その共同の生活の中で、笑いと涙が共有される経験をするのであろう。新約聖書に笑いの場面はほとんどない。しかし、イエスの発言を見る限り、一種、豪放磊落な笑いがあったような気がする。

                  世間の人々から教会は聖人(より正確に言うと倫理的な人々という程度の意味だと思うが)の集まりだと思われているかもしれないが、キリスト教会の中は、聖 人の集まりであり、もめ事が起きない世界ではないことが多いというのは、キリスト教会の関係者ならおわかりいただけるのではないか、と思う。さようでなければ、 これほど、世の中に多用な教派が(特にプロテスタント派において)生まれるはずがないし、初代教父時代には、聖人といわれた人々が血相を変えて言い争いしていた風があるというのが、キリスト教の世界である。

                 まだまだ続く







                評価:
                アンリ J.M.ヌーエン
                サンパウロ
                ¥ 1,296
                (2002-10-07)
                コメント:良い。お勧めしている。ただ、翻訳が残念なところがいくつかあるのがちょっと残念。

                評価:
                田中 明彦
                日本経済新聞社
                ---
                (1996-05)
                コメント:非常によいと思う。

                評価:
                工藤 信夫
                いのちのことば社
                ¥ 1,296
                (1987-06)
                コメント:お勧めできると思う。

                2015.06.22 Monday

                NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その8

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                   今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』という本の第3章から、考えたことを引き続き、ご紹介したい。義を追い求めている人間の姿の記述の続きからである。


                  性と人間的なかかわり
                   性の問題は、古代人から現代人まで、現代もなお、人々を悩ませ続け、問題の根源となり、また、それだけに古代インドの宗教者ブッダから『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (14)でご紹介した親鸞、アウグスティヌス、ルターまで、この性衝動の問題に取り組んでいる。それほど、性衝動と人間とは表裏一体のものであり、神の与え給うた祝福の一部でもあるのだが、それと向かい合うことは、簡単ではない。しかし、N.T.ライト先輩は、それと向かい合って、次のように書く。
                   かかわりの中心に性がある。といっても、もちろんすべてのかかわりに性的行動を含むという意味ではない。事実上、すべての社会は性をある特定の設定、結婚やそれに類した関係においてとらえている。ここではそういう意味ではなく、人間としてかかわるときに、男として女としてかかわるということである。男性であることと女性であることは、特別なかかわり(ロマンティックなものや性的なもの)だけに認められるのではない。(同書 pp.52-53)
                   性衝動や性の問題を取り扱うのは簡単ではない。性の問題はある面、その人そのものとかかわるからである。それほど重要なのにもかかわらず、これほど誤解されているものも少なくない。聞かされた話によれば、アメリカ人の高校生で、罪とは性交渉のことだと誤解している人もいるらしい。その高校生の安易で理解不十分であるご発言をお聞ききになられたある日本人のご高齢の方の誤解を解くのに、大変苦労した記憶がある。

                  現代社会と性の役割
                   日本社会ではさすがにまだ少数例でしかないが、アメリカでは、Politically Correctness(実態はどうであれポーズとして正しいと思われていること)のために、Unisex化が進んでいるし、日本でも男女雇用機会均等法が定められたため、電車の運転士のような本来かなり「おっさん」くさい職場にも、お姉さん方が進出しておられるし、アメリカ海軍の空母勤務者の中には、女性の戦闘機のパイロットもいる。 

                  K hultgreen F14.jpg
                  Lut. Kara "Revlon" Hultgreen 米海軍初の女性戦闘機パイロット
                  USS Abraham Lincoln にF-14で着艦中に墜落死
                    前者(自分自身を中性とみる)は、私たちがどのようなもので、どのように造られてい居るかという大変重要なことを否定する。私たちは端的にジェンダーを持った存在である。(中略)後者は(相手を常に性的対象とみる)は、性的関係について極めて重要なことを否定している。即ちそのような気軽な性というものはないということだ。(同書 pp.53-54)
                   N.T.ライト先輩は、大体、ジェンダーをわざわざ神が造り、与え給うたものであることを忘れ、それを意図的に自分の意思でガン無視し、勝手に自分たちの考えで生きることはどうなのよ、ということを言っておられるようである。

                   日本でも、某日本放送協会で放送していた、アリー・マイ・ラブには、Unisexトイレというのが出てきたが、それを最初見たときは、本当にあるのかと驚いたものであった。ところが、今ではあちこちに普通にあるらしい。


                  アリー・マイ・ラブの制作チームによるUniSex Bathroomについてのインタビュー

                   上のアリー・マイ・ラブという海外ドラマでは、かなりカジュアル・セックス(気軽な性)というメタファーが出てくるので、某日本放送協会がそれを放送していた(確か深夜枠だったが)のを見て、かなりびっくりした記憶があるが、ライト先輩は、カジュアル・セックス、そういうものはない、ときっぱりおっしゃっておられる。この辺の清々しさは好きだなぁ。

                   まぁ、性行為は性行為であるだけでなく、人格的な交わりであることのメタファーであることも、J.I.Paker先輩は、『神について』(英文タイトル Knowing God)の中で、かなり詳しく紹介しておられる。であるからこそ、パッカー先輩は、旧約聖書では、他の神に現を抜かす偶像崇拝が、不倫や婚外性交渉、不貞にたとえられたこともお書きである。例えば、
                  口語訳聖書 歴代誌上
                  5:25 彼らは先祖たちの神にむかって罪を犯し、神が、かつて彼らの前から滅ぼされた国の民の神々を慕って、これと姦淫した
                  と書かれているように。

                  性とアイデンティティ

                   アイデンティティという語であると分かりにくいという向きには、アイデンティティとは、その人らしさ、その人そのものの精神世界の反映であるということができよう。つまり、その人の人格や自己認識を巡る精神的、霊的世界を形成しているものがアイデンティティである。このアイデンティティと性が深く関係していることに関して、N.T.ライト先輩は次のようにお書きである。
                   性的アイデンティティー、即ち男性であり女性であるということは、人間として自分がどういう存在かという中心に近いところにあり、性的行為は人間としてのアイデンティティと自己認識に直結している。(同書 p.54)
                   まぁ、その意味で、神から与えられた人格そのものに、性的関係は深くかかわっている、ということであるらしい。まぁ、それはそうかもしれない。しかし、このあたりの部分は闇におおわれていることが多い。その辺があるから、村上春樹のファンの人々は、あの暗喩の世界にひかれるのかもしれないが、個人的には、村上春樹は、処理がしにくくて、かなり無理ゲーのところはある。ファンの皆様すみません。ミーちゃんはーちゃんは、理工学系ヤローなんで複雑なのをどうしても単純化したがるし、扱い処理できないものは苦手なんで。
                   
                  義を熱望しつつも、それを手にできない人間

                   美しいこと、義であること、真実の愛をうたった芸術作品は山ほどあり、掃いて捨てるほど(ただし、実際に掃いて捨てたことはない)存在することは確かである。しかし、そのどれ一つして完璧なものはない。油絵なんかとか、都市計画図だとか、家屋図にしても、それから論文にしても、完璧を目指して描かれる。しかし、実際には、どこでやめるかは難しいので、時間切れがまぁ一応の打ち止めになる。

                   こうやって努力したもので、苦労したものでも、できてしまえば、できてしまった瞬間から、すぐさま陳腐なものに成り下がり、30年もたつとゴミ扱いされる。ところが、100年後に発見されたりするとお宝になるか、骨董としてか、あるいは資料価値の高い資料として、ありがたい対応を受けることは少なくないのではあるが。
                  私たちは義を熱望している。しかし、それはなかなか手に入らない。私たちは霊的なものへの渇望がある。そうであるのに、あたかも物質主義が真の真理であるかのような表面的な生き方をしている。さらには、最高で最良な人間関係も、いずれ死で終わってしまう。笑いが涙で終わる。そのことを知って怖れる。しかしどうすることもできない。(同書 pp.54₋55)
                   この部分を読みながら、Ars longa, vita brevis.(技術・医術・芸術は長し、されど人生短し)というヒポクラテス由来のことばを思い出した。このことわざは、技術(医術)取得に時間がかかることに関する言葉がもとらしい。義になること、義に近づける技術、アルテは、そもそもその研鑽に時間がかかるし、学問もそうであるし、絵画も彫塑も、みなアルテである以上、思い付きでできるものではないのだが、そこらのことは、ジパングで文教芸術行政をしておられる方々に影響力の強い方々はお分かりでないらしい。なお、日本では、Artというと、美術文芸などをさすが、ヨーロッパ系の言語では、医学、工学、政治学、などを含め、かなり幅広い概念にまたがる言葉ではあることは一言触れておく。

                   このヒポクラテス由来のArs longa, vita brevis をこれらの方々に向かって、「食らえ、Ars longa, vita brevis」攻撃してみたいという妄想に最近ちょっと駆られている。それとても、涙と笑いで終わるのだろうなぁ、と思いつつ。まぁ、本来、こういう言葉を、これまでひたすら役に立つ学問でもある技術分野で生活させてもらってきた一介の技術系の人間が言うのも、変な話だが。

                  旧約由来の信仰形態と人間のかかわり
                   N.T.ライト先輩は旧約由来の信仰形態では、この地上におけるもののはかなさ、僅かさ、それが一瞬のことでしかないという現実の中でも、人間同士のかかわり、人間と神(創造主)とのかかわり、人間と被造物との関わりということの重要性について触れておられる。
                   旧約と呼ばれる聖書に端を発する信仰形態は、まぎれもなく人は関わりのために造られたこと、特に家庭内での互いの関わり(特に男と女の相互補完性)、人間以外の被造物との関わり、それ以上に創造主との関わりについて語っている。いまなおユダヤ教、キリスト教、イスラム教の基本であり続けている創造のものがたり(ストーリー)によるとすべてのものは束の間の存在でしかない。永続するものとデザインされていない。(p.55)
                   そもそも、創造の時に、美しいもの(ヘブライ語でトゥーブだったはず)としてつくら、人とかかわり、神とかかわり、他の被造物全体とかかわる、管理を任せられている、という意味なのではないだろうか。恐らくその意味で、人に対して神が「この地を治めよ」と言われたはずだと思うのである。

                   それを曲解して、人間は好き勝手していいというわけわからん理解を持つ人々がいるらしい。しかし、この「治めよ」という言葉の語源を考えると、決して、好き勝手していいわけではなくて、神の代理として、あなた方がケアしなさい、牧しなさい、といわれたことなのであり、だから、イエスは自分自身のことを良い羊飼いである、第2のアダムであるという理解なのではないかと思うのだが、このあたり、違う理解をお持ちの方々もキリスト教徒と呼ばれる内にはおられないわけではないようである。

                   一度、神戸市内のある集まりで、ビジネスマンのための伝道をどう考えるのか、というテーマで講演してくれろと頼まれた時、本来、創世記における地を治めよという部分こそが、本来、神のビジネスをするということのはずなのであり、そのことに人間が招かれているのではないか、というN.T.ライト風の聖書理解を話したら、こんな話は初めて聞いた、異端的な理解ではないか、といわれてしまった。

                   まぁ、基本的にその集まりの主要な皆さん(国家祈祷晩餐会が大好きな団体の支部の皆さんだった)と、ミーちゃんはーちゃんの立場がかなり違うし、最近、呼ばれもしてないので行ってもいない。だって、内輪の何とか大会やっただの、それをどうするだのといった報告が延々続く会には個人的には興味があまりない。そういうことがお好きな方はどうぞお好きにおやりになられたらよろしいのでは、と思っている。

                   この国家晩餐祈祷会とやらの裏話を聞かされたことをこの話を書きながら思ったのだが、人が永遠に生きることがないのも、ミーちゃんはーちゃんは神の恵みであろうと思っている。人間、長生きすると、それだけで偉くなったような気になり始めるので、ろくなことが起きないからである。バベルの塔事案で、言語を乱されたことと、人の齢を定められことは、神の愛であったと思う。

                   まだまだ続く。



                  評価:
                  J.I.パッカー
                  いのちのことば社
                  ---
                  (1978-07)
                  コメント:改訂新版が出るという噂も

                  2015.07.06 Monday

                  NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その9

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                     今日も、N.T.ライト関連の新刊『クリスチャンであるとは』ということを紹介したい。本日もまた、4章から紹介したい。美についての記述からである。

                    美について

                     美について、N.T.ライト先輩は次のように語る。
                     世界は美に満ちている。しかし、その美は不完全である。美とは何であり何を意味しているか。そして〈もしあるとすれば〉何のためにあるのかというなぞは、より大きな全体の一部しか見ていないために生じる不可避な問いである。
                     美とは別な言い方をすれば、もう一つの声の響きである。それは、私たちの前におかれた手がかりを通して、いくつかの異なった事柄の中のあるものを語っているかもしれない。しかし、もし、そのすべてをもれなく聞くことができるなら、いま見、聞き、知り、愛し、「美しい」と呼んでいるものが何なのか、納得することができるだろう。(『クリスチャンであるとは』 p.61)

                     N.T。ライト先輩は、ある種義と美が深い関係にあるもの、とみているようである。エベレスト登山した登山家は、なぜエベレストに上るのか、と問われ、「そこにそれがあるから」と答えたらしいという話は有名な話であるが、我々は何にでも値段をつけたり、価値の有無を詮索してしまう文化に慣れ過ぎているように思う。
                     エベレストが登るためにあるかどうかは別として、エベレスト自身は存在する。目的はあまり関係ないのではないだろうか。
                     ところで、この引用部分の後半で、「美しい」と呼んでいるものが何か、ということはもう少し考えた方がいいかもしれない。と思うのは、創世記1章で次のように言われていることは、その光を見て、「美しい」といわれたとも理解できると、聞いたことがある。その意味で、神は良いもの、あるいは美しいとされた可能性があるらしいのである。
                    【口語訳】創世記
                    1:4 神はその光を見て、良しとされた。
                     美は美そのもののためにあるような気がするがするのだが。

                    保存できない美

                     美というのは、保存できない。どんなメディアがあっても、そして、技術者がいくら頑張っても、美は保存できないのである。空間情報技術者として、画像周りの作業もする。なんたって地図情報屋にとって、地図は美しさと相対的正確さが命だと思っているからである。
                     美は義と同じように、私たちの指の間からすり落ちてしまう。夕日を写真にとっても、その瞬間の記憶をとどめているだけであって、その瞬間そのものではない。音楽を録音したものを買っても、家で聞くのは演奏会と違った感じになる。山に登ってその頂上から眺める景色は実に素晴らしいものだが、もっと素晴らしいものを求めたくなる。たとえ山頂に家を建て、その景色を一日中眺めることができたとしても、その疼きがなくなることはない。(同書 p.61)
                     デジタル技術のこの数年の進歩というのはすさまじい。様々な圧縮、非圧縮、画像加工、画像変換技術がめちゃくちゃに進んできて、Photoshopさえあればポスターなどが簡単に既存画像をちゃっちゃと使いながら、簡単に作れるようになってしまっている。それは本物ではないが。本物を思い出させる縁、あるいは、本物を示す記号に過ぎないものであっても、その記号を介して、あるいはデータを介して、そのデータの奥、データが反映しているリアルに存在するものををであるということを技術屋として思う。以下にシャープの亀山モデルAQUOSが表示する画像が美しかろうと、最新の4Kテレビが美しかろうと、どうやっても現物の美しさにはかなわないのだ。比較的よりまともに見える、という程度差の問題であることは技術者としてよくわかる。


                    今は無き亀山モデル

                    美は変遷する

                     美は一定ではないのである。時代とともに変化するのである。このことに関して、ライト先輩は、次のように書いておられる。
                     このような謎(引用者註 美が移り変わるという)については、時代や地域で最も美しいとされた女性の肖像画を見るたびに思う。ギリシアの壺の絵かポンペイの壁画を見てほしい。古代、その美を称賛されたエジプトの貴婦人を調べてほしい。(中略)トロイのヘレンはその顔立ちゆえに、当時何千という船を闘いに為に出向させたという。今日では一艘のボートも出せないだろう。(p.62)
                     以下で、昔の美人画を紹介致したい。

                    http://www.touregypt.net/images/touregypt/beauty1.jpg
                    古代エジプト

                    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Pompeii_-_Temple_of_Isis_-_Io_and_Isis_-_MAN.jpg
                    ポンペイの壁画に描かれたイシス(ISIS)


                    トロイ(2004)の予告編



                    女性の理想の体型の変遷


                    古代日本篇 鳥毛立女屏風 部分

                    歌麿の美人画(個人的には3人の美しさの違いがよくわからん)
                     
                     まぁ、上の画像や動画で見てもらったように美は、時代により、社会により、環境により変わるものらしい。

                     その昔、大学の授業で、古代オリエント学を当時非常勤講師をしておられた池田裕さんの講義で学んだ。その時に、古代遺跡の時代考証と時代特定をどうするか、というときにイスラエルの焼き物のポットとか壺のデザインの変遷で確認することもできるというお話を伺ったことがある。というのは、時代によって、デザインや技法が変遷するので、素焼き土器から時代特定ができるということだったと記憶している。
                     その辺に関して、ライト先輩は次のように書いておられる。
                    物事を見る視点と好みの組み合わせは複雑である。個人の好みについては世代間で異なるだけではなく、同じ時期、同じ町、同じ家にいたとしても人それぞれで、属する下位文化(サブカルチャー)によっても変化する。(同書 p.63)

                    美は真理なのか
                     個人的には美が真理かどうかは知らない。しかし、効率の良いものは美しい。例えば、ボーイング787が空中で飛んでいる後ろ姿の翼形は非常に美しい。流体力学を大学時代に少し勉強したが、流体力学の先生が、無理のないものは美しいし、美しい形をしている。その時の例題が、懸垂曲線である。懸垂曲線というと大仰であるが、要するに電柱にぶら下がっている伝染の形状である。これは、実に記冷罵微分方程式で、簡単に表せるのだ。


                    Boeing 787の離陸 この翼形にほれぼれする


                    懸垂曲線

                     ポストモダン環境下で、美の多様性があることになり、また、「美」の並列的存在を認める社会の中で、従来型の「真理」概念は成立しないことになる。
                     「美は真理であり、真理は美である」と詩人キーツは書いている。しかし、私たちがそれまで垣間見てきた謎は、そう簡単にそれらを結び付けさせてはくれない。私たちが知り、愛する美は、せいぜい真理の一部に過ぎない。そして必ずしも重要な部分でもない。(同書 p.64)
                    N.T.ライト先輩のお書きになっておられるように、「私たちが知り、愛する美は、せいぜい真理の一部に過ぎない。そして必ずしも重要な部分でもない」のであるが、これが影響を与え、時に悪魔のようになるからかなわない。このことをうまく描いた映画に、プラダを着た悪魔がある。


                    プラダを着た悪魔 これ見て、あ〜〜〜と思った。

                    神聖なものを表す記号(象徴)としての美
                     神聖なものと美は、つながっている。それは神聖さ、壮大さ、荘厳さを称揚するために美が用いられるからである。歴代誌などで、賛美が出てきているところでもそうだし、我々が讃美歌を謳うときでもそうである。美しいメロディは神を賛美するために用いられる。
                     神聖なものを象徴しようとするものである音楽、美術、芸術作品の美しさと神聖さを醸し出す何かと、神聖さが混乱してしまう人もいるからややこしい。
                     美と真理を同一視することを避けなければならないのと同様、美が、神や「神聖なもの」、あるいは何か超越的な領域への直接的な入口になるという考えは避けねばならない。音楽が、より大きな全体のためにデザインされているという事実も、そのより大きな全体がなんであるかについての何の手がかりも与えてくれない。(中略)
                     先に記したパラドックスは、ある世代の人々が、神と自然界とを安易に同一視してきたことに徹底的に反している。自然界の美は何と言おうが、ある声の響きであっても声そのものでない。(中略)美はここにあるがここにはない。―この鳥、この歌、この夕日。それは美しいが、それが美なのではない。(同書 p.65)


                    夕日が沈むときの自宅近くのJR舞子駅での夕日(友人撮影)

                     そう、夕焼け空のこの微妙な色合いは美しいが、夕焼け空自身は美そのものではないのである。これ以上書けないのが悔しいが、上の写真は美しいと思ったものを撮影してくれたものであるが、美そのものではない。

                     個人的には上にあげた懸垂線が、実に単純な方程式であらわせることを美しいと思う(そんなミーちゃんはーちゃんは病気といわれる)が、懸垂線自身を示す方程式は美そのものではないし、ある人にとっては、吐き気を催すかもしれない。単純で美しい数式だとは思うが。

                    ギリシア哲学と唯一神宗教の違い

                     その昔、データベース論の講義で、講義中にミーちゃんはーちゃんのお師匠さんの一人が「いやぁ、この間哲学の先生と話して、自分は最新技術の話をしたつもりなんだが、そんな概念は、ギリシア哲学にあるって言われてさ、ギリシア哲学ってのはすごいよねぇ」といったことを以下のライトの文章を読みながら、ふっと思い出した。
                     そういうこと思っていたら、My Big Fat Greek Weddingの方で、アメリカに移民しているギリシア人のお父さんが、何でもすべてのものがギリシア語に由来する、ということに困惑する娘のシーンがある。まぁ、これは極端なカリカルチュアとしても、同じようなことは、Full Houseというアメリカのシットコムで時々、ジェシーの親戚のおじさんが言っているので、まぁ、よくある話なのだろう。


                    なんでも語源はギリシア語であると主張するおじさん

                     冗談はさておき、ギリシア哲学と美、そして真理と現代と、聖書を基礎とする一神教とのかかわりについて、ライト先輩は次のように書いておられる。
                     この点に関してある哲学者たちは、(おそらく)プラトンまでに遡れるだろうが、これらの(引用者註 自分の外に引き出すことと自分のうちの奥に入ってくること)両面を結び合わせていた。一方に自然界、もう一方に芸術家によって生み出された自然愛の象徴(シンボル)がある。後者はより高度な世界、時間、空間(特に)物質を超えた世界の反映であるという。この、より高度な世界をプラトンは、形相やイデアの世界と呼んでいるが、その理論によれば、まさに究極の現実なのである。現在の世界のすべてはその世界のコピーであり、陰となる。
                     このことは、この世界のすべてはまさにそれを超えた世界のものを指し示すという身である(中略)単に自然と人間の作った美を、ただそのものとして受け止めるだけなら、とどのつまりは自分自身の主観的感情に過ぎないとしても驚きではない。そこで人は、この世界を離れた異なった世界を指し示すものとなる。
                     この考え方はあるレベルにおいては魅力的である。(中略)しかし、少なくとも主要な3つの唯一神宗教にとって(あるいは、それらの主流派にとって)、それはあまりにも多くのものを手放すことになる。すでによく言われていることだが、この現実世界における美は謎であり、つかの間のものであり、うわべだけのことに見える。そしてその下はすべて虫食いであり、腐っている。
                     しかし、この思想をほんの少しでも深めてみれば、時間と空間と物質のこの世界は本質的に悪であることになってしまう。もしそれが何かを指し示しているなら、それはすでに腐りかけた木でできているようなものだ。(中略)こうした理解はユダヤ教、キリスト教、イスラム教という主要な伝統にとって、全くの誤りである。唯一神を信じる信仰が公言するものは、一見、それに反する現実を目の前にしながらも、空間と時間と物質からなるこの世界は、昔から善なる神による善き創造であったし、いまでもそうなのである。
                     (中略)これらは事実であり、私たちの外側にあり、単なる想像上の産物ではない。天と地は栄に満ちている。その栄光自体が、それを見る人間の感性に過ぎないという指向を断固拒否している。(pp.66₋68)
                     ライト先輩は、ここで、プラトン哲学のイデア論を出してくることで、理念イデアの世界があり、そのイデアの反映がこの地上だとして2元論で語ってしまうと、結局神が創造の初めに、「よかった」あるいは「美しい」といわれたことは無効になる、あるいは無効にならないまでも、少なくとも被造物と被造物世界は、イデアより劣ったものになることをご指摘である。しかし、この地においては、例え、それが一時的であり、言語や技術や画像を介して保存できなくても問答無用で美しいものは存在するし、思わず笑みをこぼしニッコリとたくなるようなものは存在するのである。たとえ捉えどころがなくて、不完全なものであっても、この地に美も、義も存在するのである。もし、美が存在しないとしたら、芸術家は(日本でも海外でも失職状態であることが多いが)失職するし、義が存在しないとすれば、弁護士などの法曹界は軒並み全員失職であるし、神の義がなければ、神学をされておられる神学校で教え、教会でお話ししておられる先生方は、無意味なことをしておられることになりかねないが、それぞれの時代にあって、神のみ思いをどのように表現するのかと格闘しておられる神学をされておられる非常に多くの牧師先生、先生方の貴重な格闘の営みを考え、それを拝見するとき、そのありがたさを感じている。

                     しかし、日本に伝わってきた段階で、特に19世紀から20世紀前半までに伝わってきたキリスト教、そして、21世紀においてもそうであると思うが、これらの海外から伝わってきたキリスト教はギリシア哲学の部分集合(サブセット)を内包するような形で、分離不可能な形で伝わってきたため、その腑分けにミーちゃんはーちゃんは苦労している。実は、このあたりの腑分けというか、分析する作業がイエス理解をどう理解するかと深く関係しているのではないかと思っているし、また、このギリシア哲学の世界に住んでいた、ギリシア人、ローマ人にパウロが弁証していく中で、ローマ人やギリシア人が受け取っていく中で、パウロなどの主張が変容して理解された可能性があり、それをどう考えていくのか、という膨大な思惟は案外大切ではないか、と思うし、知的遊戯としてそれは重要ではないか、と思う。

                     まだまだ続く。


                    2015.07.13 Monday

                    NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その10

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                       今回は、引き続き、NTライト著 「クリスチャンであるとは」の第4章 この地の美しさのために からご紹介したい。

                      回復された美しい世界
                       終末映画、Apocalyptic MovieやApocalyptic Artの影響で、終末は恐ろしいものであるかの如くに言われていることが多い。まぁ、黙示録の世界は、その様な記述がみられることは確かではある。


                      Apocalyptic Artに描かれた連邦議事堂

                       しかし、その最終的に到来する神の新創造というのか、神の回復というのか、真の創造というのか、真に回復された(購われた、救出された)世界はは美しい事も同時に黙示録は語る。そこにライト先輩はわれわれの目を向けさせる。
                       救出のために来られる神、さらには創造を完成させ、正していく神という考え方は、古代イスラエルのもっとも偉大な預言者の一人の名で呼ばれる『イザヤ書』で強調されている。その第11章は世界がただされた状況を描いている。狼が子ヤギと共に伏し、海を覆う水のように地は神の栄光で満ちる。(『クリスチャンであるとは』p.69)
                       神の究極の目的は何かを考えると、神の義の完成であると最近は思っている。神の裁きとは、不埒な人間にただただ、大激怒、怒りを発することでもなく、神と人間との間で、義が神によって示される、神が義を完成することではないか、と思っている。ライト先輩が引用しているのは次の部分である。

                      【口語訳聖書】 イザヤ
                       11:6 おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、
                       11:7 雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、
                       11:8 乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
                       11:9 彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。
                       その意味で、レフトビハンドとかは、終末と呼ぶのはどうかと思う。終末に向かう序曲であって、レフトビハインドで描かれた世界そのものは黙示録が言う終末そのものではない。むしろ、黙示録の再台にして最重要の主張は、破壊ではなく、神による回復と和解であると思っている。

                       ベトナム戦争を題材にした映画に「地獄の黙示録 (原題Apocalypse Now 終末なう か いまここに在る終末)」というコッポラの作品があるが、それよりもあの戦争の本質を象徴的に描いて見せたのは、Good Morning Vietnum(グッド・モーニング・ヴェトナム)という作品のサッチモことルイ・アームストロングのWhat a wonderful worldの挿入歌が流れる中で、軍靴でアジアに足を踏み込み、人々の安寧な生活をWhat a wonderful worldの局を聞きながらアメリカ兵が破壊して行った過去の悲惨な戦争の経験ではないかと思う。サッチモが歌うWhat a wonderful worldの曲を背景に示されるアメリカ軍の横暴ではないがベトナムでの様子というのが、あまりに印象的で、このシーンは、涙なしには見ることができなかった。


                      サッチモのWhat a wonderful worldが出てくるGoodMorgning Vietnum

                       なお、このGood Morning VietnumはアメリカABCの朝の長寿番組Good Morning Americaのパクリである。以下は、ヒラリーダフ登場のシーン





                      神に向かうサインポスト
                       サインポストは、道しるべとか道標、指標と呼ばれるものである。第2次世界大戦中、とりわけ欧州戦線では、連合国側(国連軍側)の機械化部隊の移動速度が極めて高速であったため、このサインポストが多用された。


                      アメリカのテレビ映画M☆A☆S☆Hで再現された
                      朝鮮戦争の頃の米軍仕様のSignpost
                      『イザヤ書』は、唯一の創造主なる神がご自分の美しい世界を救いだそうとし、正そうとしている物語を語ることでその問いに答えている。その物語は、これから本書でさらに深く追求するが、現実の世界はまさに、さらに大きな美、さらに深い真理を示す指標(Signpost)であると告げている。(同書 p.70)
                       ここで、ライト先輩は、神が究極の終末の目的としている神の支配の世界が美の世界、真実の美の世界、真実の真理の世界、真実の儀の世界、真実の関係が回復する世界であることを示そうとしておられるようである。現代の世界での美や正義は、その神の世界へのプレリュードであるのだろうと思う。Facebook上での読書会で、定食屋の前に出ている食品サンプル(名古屋圏の特産品らしい)やスーパーやデパートの試食コーナーとか、まぁいろいろ出ていたが、カッコよく言うと、プレリュードだと思う。全体の構造をコンパクトにまとめて、これからの簡単な楽劇のサマリーというか論文のアブストラクトみたいにコンパクトにしたものだからである。


                      YoYoMaによる バッハのチェロ組曲 Prelude


                      食品サンプル(沖縄お重)

                      食品サンプル化する真空パック化鏡餅

                      完全なものとは何か?聖書無謬論との対比
                       N.T.ライト先輩は、神の終末が既に完成していることを紹介しながら、それが人間が完全に現実のものとしえないことを次のような文章で示しておられる。
                       この物語の要点は、最高傑作が既に存在していることである。作曲家の頭の中に既に存在している。現時点で、楽器も演奏家もそれを奏でる準備ができていない。しかし準備ができた時、すでに手元にある楽譜、すなわちあらゆる美とあらゆる謎を含む現在の世界は、最高傑作の神聖なパート譜であることが明らかになる。いま手にしているパート譜で欠損している部分は、全体と合わさって素晴らしいものとなる。(中略)現在、ほぼ完璧に思え、ほんの小さなかけでしかないと思える音楽も完成に至るだろう。(同書 p.71)
                       この部分を読みながら、聖書無誤論・聖書無謬論との対比を考えた。ミーちゃんはーちゃんが以前、尊敬してやまない津ののらくら者先輩からのチャレンジを受けて、このSimply Christianを読む前に、聖書無誤論を論じた時、バッハのゴールドベルグ変奏曲を例にしながら、聖書無誤論を論じたことがある。詳細はこちらの記事をご覧いただきたい。

                      ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論

                       結局、真のゴールドベルグ変奏曲は作曲者バッハの頭の中にしかなく、いま聞くゴールドベルグ変奏曲は、何らかの解釈が入ったり、録音技術の限界や、音響技術の制約で完全に再現されていないのと同じように、神のことばそのものは無誤なんだけど、日本語に翻訳されたり、英語に翻訳されたり、ヘブライ語やギリシア語にされた瞬間に無誤ではなくなるという側面を持つのではないか、というのが上記ブログ記事の基本主張である。


                      グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲

                      真理とは知りうるのか問題?
                       真理とは何か、それははたして人間は知りうるのか問題はこれまでいろいろ議論されてきた。そのことに関して、N.T.ライト先輩は次のように主張している。
                       「真理とは何か」「どのように知ることができるのか」という問いは、ほとんど主要な哲学の中心的なテーマである。それは私たちをさらに深い問いに引き戻す。思想家たちが問い続けているやっかいな問いである。「真理」とは何を意味するのか。そのとき、「知る」とは何を意味しているのか、というものである。(p.72)
                       世俗の仕事の世界のことで恐縮であるが、科学の側というか、学問の側では、これに関して一応結論が出ていて、不確定性原理というのがある。結局、真実のものは、量子力学的に何とも言えないという大変残念な結論に至ってしまっている。つまり、観測って、知るって何よ、って世界の中で結局何も言えないではないか、ということがあるかもね、という話なのである。

                       まぁ、学問しても所詮それは仮説の範囲にすぎないんじゃない、と言うことになってしまいかねない恐ろしさがあることを知りつつ、学問をしている人たちは、どうしたら現実に接近できるのか、というアイガー北壁を登る様な気のめいる作業をしているのである。

                       なら辞めればいいという話はあるが、まぁ、登り始めたら降りるのも大変なので、居りれないという部分もあるし、まぁ、そういう困難なことが面白いからやっているという側面もあるのだ。知られてないちょっとしたことを発見した(知った)というひそやかな喜びも。これがなくなると学問するのはつらい。成功方程式だけを追っていくのは学問ではないし、面白くもない、と個人的には思っている。


                      アイガー北壁を登る登山家

                      2項対立図式化したがる愚
                       真理ということを持ち出すと、すぐアメリカ型の教育や思考スタイルの影響を受けた人々は、すぐイエスかノーかという、アメリカの法廷テクニック的な真理追求の世界に持ち込みたがる。それでは、白か黒かしかなく、グレーがない世界になるではないか。誰もFAXアートを美しいとは思わないだろう(たまにこういう病気の人はいる。ミーちゃんはーちゃんも過去アスキーアートにはまったことはある)。世界は色で満ち溢れているのに。

                       なお、アスキーアートに関して言うと、画面出力やレーザープリンタなど、昔のIBMのラインプリンターのように重ね打ちできない出力装置(昔はホラリス定数をコントロールすることで、重ね打ちが可能であった)を前提にアスキーアートが構成される結果、割と陰影が薄くなったのは残念であると思っている。


                      当時の重ね打ち可能なラインプリンターで作成されたスポック博士のアスキーアート

                       アスキーアートの話しではない。本論にもどす。

                       私があえてこの事を言うのは、人生の意味や神の存在の可能性についての議論が、単純な考えから離れてより複雑なものになるため、だれもが不平を言いだすことが多いからだ。この世界(中略)は、真理への、現実への、確かなものについての探求においては、単純なイエスかノーかの判断を赦さない。それなりの複雑さがあり、それなりの単純さがある。学べば学ぶほど人間は驚くべき複雑な被造物であることが分かる。(同書 p.73)

                      誰も、2項対立的な世界にすれば議論が簡単になるからと行ってそれに問題を縮約したがる近代のアメリカ文化に影響を受けた形の議論に落とし込みたがる。実に下らん世界であると思っている。そして、正邪論争に縮約化してしまうのだ。問題はそんなに簡単なことか、そんなに簡単にしてしまって、問題をきちんととらえているのか、とライト先輩はおっしゃっておられるようである。
                       もっと二項対立に単純化した枠組みに無理やり押し込んで「はい、終わり」にしないで、もっと真理とは何か、人間とは何か、聖書とは何か、ということをじっくり考えたらいいのに、とおっしゃっておられるようである。この概念は大事なのではないか、と思っている。

                      真理と事実の混乱
                       さて、左記の二項対立で考える概念の背景には、事実と心理の混乱がある。法廷で争うことができるのは事実、Factのみであり、「真実」や「真理」ではない。争うことができるのは事実、検証可能なFactのみであるのだ。
                       前世代の西洋文化では、真理は綱引きのロープのようだった。ある人たちはすべての真理を、油は水より軽いとか、2足す2は、4のように証明できる「事実」へと縮小しようとした。別の人たちは、すべての真理は相対的であり、真理を主張するとどれも、暗に権威を暗示しているに過ぎないと信じた。普通の人は(中略)真理とは何かが大切だと知ってはいても、不確かな感じしか持てていない。
                        「真理」が意味すること、意味すべきことは、何についてはなしているかによって異なってくる。(p.75)
                      この辺り、A Few Goodmen のなかで嫌味オヤジさせたら最高にうまいジャック・ニコルソン分するCarnel Jessupeが面白いことを言っている。 You can not handle the truth!と弁護側弁護士の士官役のトム・クルーズに、「お前さんみたいなやわな馬鹿もんには、真実扱う資格なんざねぇ。こっちとら銃弾飛んでくる中でそれに銃持ってドンパチやっとんじゃ」と悪態をついているが、これは一変の重要なメッセージを含んでいるのだ。ジェセップ大佐(ニコルソン)が言うように、「銃をもって、いのちを預かれば真実を扱う資格があるかどうか」の当否は別として、我々はあまりにも軽々しく真理、真理といい募っているかもしれないという反省は必要である。
                       我等は神ならぬ人間でありその人間が真理と称されるものを扱うことの妥当性は考えられてよいだろう。


                      A Few Goodmenのワンシーンから

                      「知る」ということ

                       知る、というのは一般的な言葉であるが、案外、この「知る」ということを別の言葉で表すことというのは、非常に難しいのである。 
                       「知る」ということが何を意味するかも、同じように調べる必要がある。すでにほのめかしているが、より深い真理を「知る」とは、人を「知る」様なもので、長い時間がかかり、多くの信頼が必要であり、試行錯誤が求められる。(同書 p.76)
                       これに関しては、Knowing God(邦訳 『神について』)というJ.I.パッカー先輩の名著がある。知るということは、ある面で言うと人格的なものであり、奥深いものであることを同書でパッカー先輩はお書きになって居られ、非常に人間が人間であるために重要なこととしてお示しである。
                       われわれは簡単に知っているというが、実は、見ている、見たことがあるという程度の意味であり、それは知っているうちに実は入らないのではないかと思っている。そうであるにもかかわらず、我々は見たことがあることを、知っているといいがちな存在の様である。実に残念なことであるが。

                      「知る」とは「愛する」こと

                       N.T.ライト先輩は、先にJ.I.パッカー先輩がお書きになられたことをもとに、「知る」ことは「愛」であるとおっしゃっておられる。個人的には学問分野では、「喜び」である。というのは、この喜びがなければ、学問というアイガー北壁をよじ登る様な罰ゲームはやってられないのだ。そこに何かがあると思うから、他の方の論文を拝読し、データを集め、分析し、それでもカスしか出ないという無数の経験をし、その上で、辛うじて見つけた新しい事実(それはワムシとかミドリムシの新種ということもあるだろうし、煮ても焼いても食えそうもない小惑星)ということがあることを発見しても、うれしい人には嬉しいのである。だから、学者は他の人が聞いてくれようと聞いてくれなかろうと、話し始めたら止まらなくなり、聴衆全員がもう忍耐の限界で寝ていても、延々としゃべり続けるのである。まぁ、こういう長講釈爆弾する学者は冷遇されるが。
                       こうした、より深く、より豊かな意味で知るということは、より深く、より豊かな真理を伴うことを意味するが、それを一言で言い表すなら「愛」である。しかし、そこに入る前に深呼吸し、ある物語の中心に飛び込まなくてはならない。その物語は、クリスチャンの伝統に従えば、私たちの希求する義、霊的であること、かかわり、美、そしてまさに真理と愛の意味を与える。そのためには、神について語ることから始めなければならない。(p.77)
                       ここで、義や、美や、関係性、霊性に関してその根源たる神について、語りあう必要があると思うし、ぜひこの本で、N.T.ライトの主張を耳を傾けながら、神と聖書と語りあってほしいと思っている。



                      評価:
                      ---
                      ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント
                      ¥ 3,980
                      (2002-08-21)

                      評価:
                      J.I.パッカー
                      いのちのことば社
                      ---
                      (1978-07)
                      コメント:改訳版が出るらしいです。心待ちにしています。

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