2016.12.03 Saturday

Web時代におけるキリスト教メディア(1)

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    前回、Post Truthという時代におけるキリスト教メディアと題して自説を述べた。本日からは Post Truthという時代におけるキリスト教メディア の続き、ウェブ時代、あるいはネットワーク時代という時代性に合わせてキリスト教とメディアとの関係を何回かに分けて考えてみたい。

     

    蜘蛛の巣ですか?

    もはや、ウェブというと、蜘蛛の巣という本来の意味よりも、インターネットのサイトのことをイメージさせるまでになった。もともと、蜘蛛の巣のように相互が関連していく社会という意味で、Webと呼ばれたのであるが、そんなことは日本ではすっかり忘れ去られている。そんなことはどうでもいいことではあるが。

     

    Charotte's Web 邦題 シャーロットの贈り物 の予告編

     

    現代は、生産から消費まで、ネットワークが張り巡らされた世界の中にある。昔であれば、自動車会社の中には、鋼板の製造から最終製品の完成まで、1社で全部済ませようとした会社があったし、それを目指したアメリカの自動車メーカーは、そのようなすべて内部生産するような生産方式があまりに不合理であることから、大赤字を発生させたことがある。それが不合理であることは、この自動車会社が大赤字となったことによって明らかにされてしまった。その結果、得意分野の専業メーカーさんと協業しながら、自動車を生産するのが、現在の世界の標準的な生産モデルになっている。これは自動車に限らない。餅は餅屋の世界なのだ。

     

    ただし、このような生産方式には弱点も存在する。世の中の専業メーカーは多くない。ある特殊な技術を持つ部品提供をする企業は、ほかの多数のユーザー企業に納品している。このような事例はかなりある。となると、ある部品メーカーが製造停止になると、ほかのユーザー企業も製造をとめざるを得ないという状況に陥るのは、地震の際などに頻発することである。

     

    既にネットワーク化してしまった産業社会

    その意味でも、企業はすでに一足早く、生産システムの一部を含む外注化を実施したり、協力会社と情報システムを使いつつ、そこでの情報を共有化することで、ネットワーク化を進めているのである。そのようにして、他の企業とともに協力関係を持ちながら、生産を進めている。この種のことが得意な企業はいくつもある。そうでなくとも、基本的に産業は連関していて、それが現在の社会の姿である。

    中小企業庁様のサイトから 仙台付近の産業連関表の地図表示

     

     

    ネットワーク化しづらいキリスト教界

    上に示したように、比較的まだ活力がある企業といえども、一社で生産から販売まで抱える時代ではなくなり、協調、協業することでシナジー効果というものを出す時代になっている、のであるが、これがどこまでもできないのが、キリスト教業界である。もう、絶望的なほど、である。

     

    ちょっとこういった「協業とか協調とかやろう」と言い出すと、「エキュメニカル運動は・・・」「超教派的なものは・・・」「戦前の教会合同の反省がうんたらカンタラ」とか言い出して、収拾がつかなくなるのが落ちである。で、結局、害タレならぬ、外国、米国の有名人がきたときだけ、チラシが回ってきて、動員のお願いとかになって、一時的な協力関係が生まれたつもりになるのである。それも、全体を巻き込んだものとはならないし、全体を巻き込んだことをしようとすると、あちこちから苦情が間違いなくついてくる。

     

    教派の垣根、あるいは塗り壁は、天をつくほど高く、教派をまたぐときの堀はマリアナ海溝並みに深い。

     

    できないのには理由がある、と思う。ひとつは、米国型のキリスト教理解に影響されて、伝道がこれまで行われた結果、米国型の多様なキリスト教が、それぞれ自己の正当性を言い募るタイプの市場型キリスト教世界が、結果的に輸入されてきたこと、さらに、共通の利益が、あるいは、ネットワーク化することの利益が、個別の教会、個別教会の上位団体での教派や教団でいまだに見出せないからである。確実に、人件費や施設等の固定費用が減少するとわかっていても、どうしても、個別の教会を残すような対応をしたがる人たちが一定数いて、過去の栄光とか、○○先生がおられた時代とやらの過去の歴史とかの状況のみを、過去の時代背景とは切り離して云々し、それを維持しようとする人々が多すぎる、ということであろう。

     

    そのために、要はやりたくない、という理由が先にあり、やらないための理由を持ち出している人達が多いし、当事者意識がない人が多いのではないか、と思うのである。あるいは、自分の教会や組織の中の問題について、もぐらたたきのように問題解決に追われ、外に出ていくことをやる余裕も、その気もないところが少なくないのかもしれない。もうちょっと大局観を持ってやられたらいいとは思うが、自分の問題ではない、って感じのところが多い、ということだけなのだろうと思う。となれば、もう、後は野となれ山となれ、ということなのだろう。ウェブですらやれないということは、基本、もう教会外の人々につながろう、という気がない、ということではないか、と思うのだ。

     

     

    合併組織の悲哀

    まぁ、そういう組織はいずれ他の組織からも孤立し、方針転換を他者から強いられるような段階には、方針転換する体力さえ残っていないし、方針転換したところで、もともとの組織の原理で動こうとするため、合併後の組織の中で、お互いに足の引っ張り合いをするだけなので、ろくなことがおきない。

     

    日本のメガバンクだって、表面上はうまく動いている顔をしているが、内実はどうもそうでもないことは、片目で銀行の動きや銀行システムの動きを見てきたものとしては、うまくないなぁ、と思っている。半沢直樹のような行内政治は割りとある話と認識している。

     

    東京三菱UFJ銀行をPPAPでやってみた。

    個人的にやるとしたら、
    I have 神戸銀行 I have太陽銀行  Ummm I have 太陽神戸銀行 

    I have 太陽神戸銀行 I have 三井銀行 Umm I have 太陽神戸三井銀行

    I have 太陽神戸三井銀行 I have 銀行局長通達 Ummm I have さくら銀行 

    I have さくら銀行 I have 住友銀行 Umm I have 三井住友銀行

    I have 三井住友銀行 I have わかしお銀行 Umm I have わかしお銀行 とみせかけて
    Umm I have 三井住友銀行
    とかやりたい。ちょっときついかもだけど・・・
    金貸しできればそれでいいというはずの商業銀行で、このざまなれば(実は、旧銀行単位で行内用語が違うので、そのすりあわせに苦労するという話もあるが)、基本、もともと、よって立つ聖書理解が違う教会ならば何をかいわんや、である。協業もシナジー効果もへったくれもないように思う。そもそも、教派間で対話というよりは会話が成立するために、膨大な(といってもそれほど膨大でもないが…)教界内用語辞典が必要で、それなしに対話すら厳しい場合が少なくない。

     

    そして、その意味で、日本の教会は、総合力を発揮できないまま、総合戦をすることなく、「やぁやぁわれこそは…」と平家物語の世界よろしくそれぞれの教派が一騎打ちをやって、個別撃破され、滅びていくのだろう。それもまた仕方のないことである。神の哀れみにおいて受け止めたい。

     

    ランチェスター法則と教会

    個別の戦力と全体の戦闘能力の問題を考える際に重要なこととして、第2次世界大戦中の航空戦の話がある。ちょっとくらい、戦術というか戦法、航空機の運動させるマニューバ能力に優れた人物がいたところで、総力戦をもって相手に戦略的に迎撃されれば、もう崩壊の一途をたどることは目に見えている。これは、日本のゼロ戦パイロットとゼロ戦が一対一のドッグファイトでは負けはしなかったけれども、多対一の集団航空戦では連敗であったことや、大和や武蔵野巨艦巨砲主義の旗艦が、量産型の巡洋艦なんかが、まとまってかかってきたときにはかなわなかったのである。まさにランチェスターの法則を実証した感があったのである。

     

    その意味で、小回りのきく量産型教会を作れば、という話もないわけではないが、ランチェスター法則は、小回りのきく量産型巡洋艦が一定の戦略に従いつつ、協調行動を取って、巨艦巨砲主義でできあがった戦艦に向かっていけば、という話であって、小回りのきく量産型教会が、日本型社会に各個撃破で向かっていけば、却って、それぞれ個別撃破されて、大量のうまく行かなかった教会という沈船が量産されるだけなのであって、これは流石に資源の無駄だとは思う。

     

    こないだの日本伝道会議でコンビニ並みに教会を、という話が出てきたのだが、日本社会においてドブ板営業的に小回りの効くコンビニ型教会で、きめ細やかな対応をする、という発想はそう間違ってはいないように思うのではあるが、それは、基本的に協調行動が取れ、きめ細やかに対応するということと、社会に溶け込めるということが前提なのだとおもう。

     

    しかしながら、キリスト教業界ほど、外から見れば片手で数えられるくらいの組織数に見えるのにもかかわらず、それぞれの教会が相互に協調が取れない組織と言うのは、他にはちょっと考えられないように思う。まぁ、自分たちの聖書理解が正しい、と言いたいことから始まっている教会群が多いからではないかと思う。

     

    コンビニが社会に溶け込むためには、かなり苦労していて、いろいろな問題と軋轢と失敗事例を起こしながら、社会に溶け込みつつ、ビジネスのインフラとしての役割を果たすための情報化装備をしてきていることと、地域社会の動きに敏感である事、地域社会に溶け込む努力をしてきた結果、勝ち取ってきた現在という結果であって、単に教会をコンビニ並みに作ればいいというものではない。そのあたりの戦略なしに、数の上ではコンビニ並みに教会を粗製乱造で作っても、教会の廃墟ができるだけではないか、と思うのだ。

     

    残念ながら。大体、教会を粗製乱造したところで、その中の人たちが、極端に少ないのに、箱物を作るだけ、野暮な時代なのであり、現在の縮小社会における教会にとっての最適戦略は、いかにこの人口減少社会、縮小世界に耐えていくキリスト教会全体としての体力づくりではないか、と思う。

     

    なお、教会を立てる前に、まず、自分たちの姿をきちんと見るような働きがもうちょっと必要ではないか、と思う。こういう「見つめ直す働きが必要である」とかいうと、「最近『データブック 日本宣教のこれからが見えてくる』という本があって・・・」と言われる方もいるかもしれないが、最下部に紹介する『人口減少社会と寺院』の書籍のような定量的・定性的な分析とは、比肩するにも及ばないという印象を持ったのは、ご尽力された方には残念なお知らせかもしれないが、個人的には、素直にそう思ったのである。というか、危機感の希薄さ、というのかを感じた。

     

    教会とメディアとの関係

    さて、このブログで、  教会の情報発信についての動画の紹介  を紹介したとき、Facebookでいくつか反応があって、そのときに冗談めかして、以下の画像を引用したら、友人の一人から、「第2の宗教改革を期待します」と書き込みをされてしまった。まぁ、これ以上改革をして教会をこじらせるのはどうか、と思うが。


     

     

    ただ、現状の方法論ではどうにもならない直前のところまで、キリスト教界がメディアというものへの対応が遅れているのではないか、と思うのだ。まぁ、現在の60歳以上の方をアプローチすべきメインターゲットとしているのであれば、それでも問題ないが、もし、それ以下の年齢層の方をアプローチすべき対象としているのであれば、メディア対応とメディアミックスいうことに関する根本的対応をもう少し考えたほうがいい時代となっているようには思うのだけれども。

     

    その余裕はどこにもないという残念な状況にあって、やや、若い人が多い教会では、そのような取組が始まりつつあるという段階ではある。と言っても、全体としての戦略がないので、場当たり的個別対応という印象は免れないように思う。

     

    たしかに宗教改革の裏側には、印刷技術と製紙技術があった。それがあったからこそ、宗教改革が起きたとも言えるのだ。その意味で、当時の最新のメディアの変化にのって宗教改革に向かったということもあるように思う。

     

    しかし、冗談抜きに、Web時代に合わせて、キリスト教自体のコンテンツ改革ではなく、キリスト教を伝えるためのコンテナ改革をもはややるべき時代にきてしまっているのではないか、と思っている。特に、コンテナを売ってきた、キリスト教書業界やキリスト教会そのものを含めたキリスト教業界は、少し「まず、座って考えたほうがよいのではないか」と思った。

     

    だって、「まず、座って」って、イエス様も言っておられる。

     

    【口語訳聖書】 ルカ福音書
     14:28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。

    (中略)

    14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。

     

    入れ替わる情報メディア

    要するに何がいいたいか、というと、すでに人々の情報への入り口は、印刷物や放送から、電子情報通信システム、あるいはスマートフォンに移りつつある中で、聖書が印刷物であるからといって、どこまで印刷物にこだわりつづけるのか、という問題である。

     

    それでは創業以来の伝統が、とおっしゃる向きもあろう。そんなもの、飯が食えなければ捨てるしかないのである。生き延びるためには、創業の伝統などにはこだわってはいない例は枚挙に暇がない。松下電器では、もはや、創業期の電球ソケットの製造メーカーとしてはほぼ認識されていないし、豊田自動織機さんを織物の自動化機器メーカーとして認識している人々は少ない。自動織機を生産していないわけではないけれども。また、IBMはほとんど計数機器を生産せず、GEは電球の製造なんかかなりの昔にやめている。

     

    もちろん創業の技術にこだわってもいいが、こだわるなら、「艦長、船とご命運を・・・」のお覚悟で創業の技術とともにご命運を…、ということである。いかに創業の礎へのこだわりがあっても、乗組員に当たる社員さんを巻き込まないのが上策なのだ。当たり前である。兵の減少のほうが戦略上は効いてしまうからである。

     

    ところで、皆さんは、今、緊急地震速報や気象警報は何でお知りになるのだろうか。のべつ幕なしテレビを見ている人ならいざ知らず、基本、皆さんの携帯電話が一斉に鳴って、地震警報や気象警報を知るのではないだろうか。とはいえ、たいていの緊急地震警報の場合、携帯電話が鳴り始めたときには、すでに地震が到達していることが多いので、役にも立たないことのほうが多いが。津波が来るかどうかの判断くらいには使える場合もないわけではない。

     

    だいたい世俗の伝統的メディアの新聞やテレビにしたって、今は、ネットから情報を仕入れる時代になっている。取材力の低下、ということを嘆いてもいいけど、現実にそれしか対応ができない状態になっているし、ネットからの情報なしに記事も書けなければ、新聞記事や雑誌記事、テレビ番組すら、作れなくなっている、という現実があり、その意味で、世俗のビジネス形態では、従来型メディアから見れば下位互換と思っていたネット情報に振り回されていて、ネット情報に振り回された結果、さらにネット上の情報がさらに増加するという状況になっていると思われる。

     

    その意味で、この五年で、インターネットはもはや、社会のインフラ、電車に乗るくらいに当たり前、郵便を出すくらい当たり前、電話がかけられるくらい当たり前のことになってしまっているのだ。

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

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    コメント:大変参考になる。特にソーシャル・キャピタルという観点で寺院を見ている点が非常に良いと思う。

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    コメント:ちょっと切り込み不足だなぁ、と。彼我の差を感じる。

    2016.12.05 Monday

    Web時代におけるキリスト教メディア(2)

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      本日は、キリスト教とWeb時代を迎えたメディアの関係について、もう少し、Webと人との関わりと組織としての教会がどのように関わってきたかを中心に、より深めて書いてみたい。基本的な補助線は、先月ご紹介した 教会の情報発信についての動画の紹介   でご紹介された内容の発展系ではあるが、それをもう少しメディアと社会との関わりで深めたものと思ってもらえたらよいか、と思う。まぁ、ある面、今日のお話は、高校で教えるような、メディア・リテラシーという名前はついているものの、実態としては、メディアのエチケットを教えているタイプのメディア・リテラシーというものではなく、どうメディアを使いこなす上での、メディアの使われ方の特性はどのようなものであるのか、を考えるタイプのメディア・リテラシーである。キリスト教の旧メディア(紙メディア)の人なら、こういうことを考えている人が多いのか、と思っていたら、それが案外考えていないし、キリスト教の新メディア(Web系メディア)の人もあんまり考えてない人が多いみたいなので、ちょっと書いてみる(ちょっとと言いつつ、長めではあるけれども)。

       

      なお、以下では、メディアとは情報を入れておくためのパッケージ、情報を運送するためのパッケージ、入れ物、ハコであるとする。時々、メディアの議論で混乱しているのを見ることがあるのだが、基本的にハコと中身を混乱して議論をされる人たちがいるところである。

       

      Push型として用いられるマスコミや電話

      Pull型として用いられるWebサイト

      メディアにはPush型メディアの利用と、Pull型メディアの利用がある。何を持って、Push型メディア利用と言っているかというと、情報の出し手が知りたい情報を押し込んでくるのがPush型メディアの利用方法であり、ある種押し売りのようなちょっと失礼なメディアがPush型メディアである。Pull型メディア利用というのは、何かにアクセスしようとした時、必要に応じて見られるメディアであり、ある種、オンディマンド型のメディア利用である。情報を運んでくるという点においては両者とも共通であるが、情報を出す側が情報を与える感じになるのが、Push型のメディア利用であり、情報を受け取る側、利用者側が情報を、ある場所から取り出す感じ、になるのがPull型メディア利用と、お考えいただければ、わかりやすいかもしれない。

       

      失礼なことの多いPush型のメディアの用い方

      そもそも、Push型、すなわち、押し売り型のメディアは大変失礼なメディアである、と思っている。問答無用に個人の私的空間に遠慮会釈なく入ってくるからである。最も代表的なメディアが電話とチラシと街宣車である。いずれも大変非礼極まりない。相手の状況をわきまえず、言いたいことを言ってくるのが、このメディアの利用なのである。

       

      テレマーケティングというPush型の用い方

      アメリカでは、2004年頃にカリフォルニア州法か、連邦通信法が改正されて、業者が電話をかけるタイプのセールス(プッシュ型テレマーケティング)が禁止されたはずである。2003年にアメリカにいたときには、結構セールスの電話や、社会調査の電話がかかってきた。ひどかったのは、電話会社のセールスで、「うちの会社に電話回線を切り替えたら、100ドルあげるので、他社から変えませんか?」というタイプの電話が夜の9時頃頻繁にかかってきた。いずれも、発音が微妙だったので、「あなた、どこからかけているの?」とオペレータにいったら、インドからだという。

       

      実際、なぜそんなことができたか、というと、セールスをしたい電話会社の市内の支社と、インドとをインターネット回線で繋いでおき、支社から計算機で、順次リストにある電話番号に電話を自動的にかけ、相手が電話に出たら、インターネット回線でつながっているインドのオペレータとを繋ぐのである。こうすげば、電話応対の作業は、作業単価の安いインド人に任せ、アメリカの市内通話がゼロであるため、電話料金の負担をしないで、電話で押し売り型のマーケティングができたからである。

       

      電話は受け手の状態が見えないまま、かかってくるので、非常に困るメディアなのだ。特に携帯電話は困るが、何かあった時にどこにいても知らせてもらいたい場合がある時に、あるいは、出歩いていることが多い場合には便利ではあるが、運転中であれ、現地でソフトウェアの微修正していたり、エラー対応方策を考えている時、何であれ、かかってきてしまうのが困るところである。

       

      街宣車と伝道

      チラシや街宣車も似たところがある。我が家には時々、エホバたんの皆さんが機関紙なのかトラクトなのか、よくわからない「目覚めよ」と言うものをご配布いただいている。一時期は、家人が真面目な研究対象としていたことがある。何がどうキリスト教の標準的な概念と違うのかの研究を実資料に当たりながら、研究していたようだ。面白かったのは、いま、キリスト教とは違い、自分たちのほうが優れている、という方針で布教するのではなく、キリスト教徒として、クリスチャンとして、エホバたんは布教するスタイルになっているらしい。比較研究したことはないので、あくまで家人の印象の伝聞情報の範囲のことではある。

      エホバたんの機関紙、めざめよ(米国版) どうもNintendo(ファミコン)はエホバたんには、ご法度らしい
       なお、上智大学で公開されているカトリック教会の方から見た、エホバの証人の表現をここに引用しておく。なお、取得したサイトはこちらである。

      70.「エホバの証人」の人が戸別訪問して来ますが、新聞では輸血拒否などで騒がれています。どのような教派なのでしょうか。

      「エホバの証人」とは、やはり米国で一八五二年に創立されたキリスト教的な新興宗教です。創立者はチャールズ・T・ラッセルという人物ですが、彼は他の新興宗教の教祖と違って、自分が新しい啓示を受けたとは主張しませんが、聖書を自分勝手に解釈し、自分こそが聖書の正しい意味を発見したと主張します。とりわけ『ヨハネの黙示録』を勝手に解釈して、ハルマゲドンと呼ばれるサタンの軍勢との戦いが起こると予言し、救われる一四万四千人に入れられるように呼びかけました。そして、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしました。

      彼らの輸血拒否は、もともと旧約聖書の掟に由来します。生命の源である血は神に属するもので、動物の肉を食べるときにも血は神に捧げなければならないという掟ですが、エホバの証人たちは、その掟を字句通りに受けとめて、輸血は人の血をもらうことだから、動物の血を飲むに等しく、許されないとします。実は聖書そのものも、やはり時代の制約を帯びたものであって、字句よりも、むしろその真意を読みとることが大切です。字句通りを絶対視することは、かえって聖書の精神を損ねてしまいます。だからこそ聖書の解釈は、やはり教会の伝統に基づいてなされなければなりません。

      エホバの証人たちは、キリスト教の正統信仰である三位一体の教義を否定します。彼らの熱心な宣教活動は確かに尊敬に値しますが、しばしば人を狂信的、独善的にしてしまいますから、注意しなければなりません。

       

      抜書きすると、こんな感じになるだろう。

       

      「エホバの証人」とは、米国で創立されたキリスト教的な新興宗教で、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしました。彼らの熱心な宣教活動は確かに尊敬に値しますが、しばしば人を狂信的、独善的にしてしまいますから、注意しなければなりません。

       

      だそうである。

       

      確かに、この皆様方は、異様にご熱心であり、チラシ配布のみならず、パトロールカーですら、一日に一回、それも外周を申し訳程度にしか巡回しないのに、わざわざ拙宅までご訪問調査をしてくださる上に、不在であれば、手書きのメモ付きで、チラシをポスティングしてくださる。そういえば、大川総裁の幸福の科学の皆様からもポスティングでチラシをご恵贈していただいたこともあるし、一般社団法人実践倫理宏正会の皆様からは、倫風という雑誌、結構高そうな雑誌まで、お願いしないのにポストにご恵贈いただいたことはあるし、結構いろんなものを皆様ご恵贈くださるのであるが、大抵は見ないままゴミ箱行きである。

       

      押し込み型メディア利用としての

      トラクト・ポスティング

      以前、公営集合住宅などに教会員の一人として、チラシを撒いたことがあるが、ご不在なのか。長期出張なのか。物臭なのかはわからないが、チラシがいっぱい投函され、ポストが満杯状態であるような郵便受けを見たことがあるし、チラシ投入禁止ということを大書したものが張り出されたポストもあった。なぜ、こうなるかとういと、チラシがPush(押し込み)型のメディア利用であるので、問答無用に相手のところにお届けされてしまうからである。

       

      アメリカでも、こういう教会の印刷物をお届けする作業にも携わったことがあるが、アメリカでは、郵便箱は連邦法の郵便関係法規の関係から、日本みたいに気軽に個人宅のポストに勝手にトラクトを投函することができないそうである。そのため、とりあえずドアをノックし、会って自分の名前とどこから来たかを名乗って、直接手渡ししろ、と言われてビビりまくりながら印刷物(トラクトと、キリスト教界では一般によばれる印刷物)を配布したことがある。アメリカの場合、気をつけないと、玄関先まで行くということは、下手をすると不法侵入にあたるため、散弾銃で殺されても文句は言えないから、正に決死のトラクト配布、命がけのトラクト配布であった。

       

      あと、印刷物を配布するのに、電話帳を持ってきて、そこに書いてある個人の電話保有者の住所と氏名をリスト代わりにして、一つ一つ手書きでトラクトを、郵便局に切手代を払って配布してもらうための、宛名書き作戦にも協力したことがある。どうも、アメリカの家には、郵便箱と新聞受けが2つ別にあるところが多いが、郵便局員以外、勝手にメールボックスに投函してはならない法制度がそうさせているらしい。個人的にやったことはないが、アメリカでは送りたい郵便物に切手を貼って、自宅前のポストに入れておいて、自宅前のポストの赤い小さな旗の形状のものを、目立つように上げておくと、郵便物を回収してくれるから、その辺のこともあって勝手にポストを開けてはいけないらしい。

       

       

      アメリカのちょっと田舎で見る郵便ポストと新聞受け(郵便受けは大抵はプラスチック製)

       

      街宣車というPush型メディア利用

      プッシュ型メディアが極まったのが街宣車である。先日も神戸市内に新嘗祭の日に職場に行った帰りに、聖餐式に参加するため三宮駅付近をフラフラしていると、でっかい黒塗りのバスやマイクロバスに金色の文字で愛国○✗会と対処した車両が大音量で、ドップラー効果たっぷりに、大日本帝国陸軍時代の軍歌を流しながら走っておられた。

       

      これなんかは、尺八演奏が流れるのでまだましな街宣車の放送である

       

      上の動画を見ながら、思ったのは、どうせなら、ライブで尺八演奏やりゃあいいのに、ということである。なお、この動画が好きなのは、1分47秒あたりから、「ようかい体操第1」が尺八の演奏にかぶさるという、離れ業があるからである。

       

      この動画の状態なんか、可愛いなぁ、と言って良いだろう。大音声で軍歌を街中で流しておられる車と、ミーちゃんはーちゃんが大きな交差点での信号停車中に、遭遇すると逃げ場がなくて、困ることがある。

       

      しかし、キリスト教側でも、このような街宣車による大音量の放送、それも聖書の言葉を切り抜いて放送して下さる皆様がおられ、我が家のそばでは流石にマイクロバスではないが、軽自動車で平日の日中のほとんど人のいない住宅地で、ラウドスピーカーで「罪を悔い改めなさい」という福音と言われているらしい内容についてのテープを流しておられるのを目撃したことがある。効果があるとか考えたことがあるのかな、と思うことが多いが。

       

      なお、この皆さんは初詣の時に神社でも街宣車で『福音』を『伝道』されておられると思っておられるようである。一度、お正月に生田神社のまんまん前の東急ハンズあたりで、これらの方をお見かけしたことがある。まぁ、下側の画像では、タイトルに「布教活動してる不届者」ってつけていただいている。

       

      岡山の住宅地での『伝道』(画像は悪いです・・落ちてたの拾ったんで)

       

      『布教活動してる不届者』扱い受けておられる聖書配布協会の皆様

       

      このように、Push型のメディアは、欠点が多いし、国によっては、法規制の対象になることもある、かなりグレーゾーンでも色の濃いゾーンに属する活動であることはなんとなくわかってもらえたと思う。

       

      まだ、肉声で路傍伝道するなら影響範囲が小さいし、電気的拡声装置を使わずに地声でやっている分には、音声が届く範囲に限界があるからいいけど、パワーアンプを使った場合には、路傍伝道の声を聞きたくない、というオプションを実現するためには、その場から嫌でも、その場にいるのが楽しかったのに、追い立てられるように立ち去るというオプションしかない、とかいうのはどうかと思う。その辺の感覚の無さというのか、本人たちは、「良いことのためだから」とお考えかもしれないが、よしんば、「良いことだから、という合理化の可能性はゼロではない」にせよ、街宣車とか、ラウドスピーカーでの伝道は、まさに相手の中にズカズカと土足で上がるとか、ブルドーザーで相手のところにむりやりにはいりこんでいくのに近い感覚があるように思う。個人的には、雅趣にかけるようなきがする。その意味で、Push型のメディア利用には、ある種の「がさつさ」がつきまとうように思う。

       

      迷惑メールとPush型のメディア利用

      あと、インターネットの迷惑メールも、Push型のメディア利用の形態にちかい。我々に残っているオプションとしては、メールを開かない、というオプションだけである。ただし、メール運営会社によっては、具体的な例としては、Gmailなどのようなサービスでは、迷惑メールの排除が極めて厳格なので、過去に一度、ある業者さんとのやり取りで、業者さんの連絡が迷惑メールと判定されたためか、そこからのメールが届かなかったことがある。これなどの場合、その会社からのメールが、Googleによって迷惑メールとして判定され、排除されたらしく、別のメールアドレスに再送付をお願いしたこともある。ちょっとくらい融通を効かせてくれてもいいのに、Googleさん、とは思った。なんともな時代ではある。

       

      地方文化や方言とかも、地域によってはPush型のメディアに近いといえるかもしれない。好き嫌いなく、日常生活を通して、文化が我々の生活に流入せざるを得ないという意味において、地域文化なども一種のPush型メディアである。個人的にはスクルージーのようにクリスマスが嫌いでも、街を歩けば、クリスマスが来たことが我々の脳裏に焼きこまれてしまって、焦った気分になってしまう。

       

      スクルージ爺様(偏固という意味では我が心の友、みたいなところはある)

       

      あと一つ、Push型のメディア利用の欠点は、そのPush型としてメディアが利用され、発信された場に居合わせないと、その情報にアクセス出来ないということである。まぁ、上の動画でご紹介したYoutubeなどにアップされない限り、Push型メディアはその場限りの情報伝達手段である事が多い。電話に出なければ、あるいは、迷惑メールもGoogleさんが勝手に排除してしまえば、その情報に後日、アクセスしたいと思っても、アクセスできなくなるのである。これがPush型のメディア利用の最大の欠点であると思う。

       

      これまでの日本の一部のプロテスタント類型キリスト教

      のPush型の方法論

      これまでの日本では、キリスト教は認知されていなかった、あるいは、豊臣・徳川政権下の迫害、明治期以降、20年単位で繰り返されてきた国粋化時代の排斥運動(現在は、国粋化時代だと思っている)とまでは行かなくても、なんとなくキリスト教徒の肩身が国際化時代に比べて狭い時期である。このような国粋化、キリスト教徒が肩身の狭い時期を何度か経験したこともあり、自分たちの存在空間の確保とか、地位向上のために仕えるものはなんでも、マキャベリスティックに使って、自分たちの主張を聞かせようとして、かなり無理してきたところがあるように思う。自分たちの牧師、有名人、政治家、野球選手、外国人、外国の過去の歴史上の人物、こういう人々をお神輿よろしく担ぐことで、Push型モードで伝導してきたと思う。

       

      さらに言えば、大衆動員型イベント中心の伝道大会に人々を集めて、その中で自分たちの信じることを集まった人々に無理やり押し込んで、「それを押し込まれたけど、良かった」と思わされた人々に手を挙げさせて、「はい、今回信仰を持った人何人」というタイプの伝道をやってきたように思う。それを、場所を借りてやるのではなく、路上でやっておられるのが、上で上げた、川崎大師前で、そもそも初詣という別目的で動員されている人々に向かって、「時が良くても悪くても…」という語を切り出して、「福音」と自分たちが思っているものを問答無用で無理やり聞かせるタイプPush型モードの「伝道」方法が中心にあるのだろうと思う。個人的には逆効果のほうが強いのではないか、とは懸念しているが。

       

      ところが、もう、同質的な大衆はいなくなったのである。そのかわり、より小さな関心領域ごとに人々が別れた多数のグループが形成される可能性がある。このような分衆型社会になることを示した田中明彦さんの「新しい中世」という本が出てから、もう20年が経過している。美空ひばりの楽曲を老いも若きも紅白歌合戦を見ながら、みんなで歌う時代から、今は紅白歌合戦を見ながら、あるものは、ラルクアンシェルを歌い、あるものは、乃木坂なんとかの歌った歌を歌い、あるものは、ラブライブの楽曲を歌い、あるものは、ピコ太郎さんのPPAPを歌い、と言う時代である。その意味で、国民的共通環境や共通性が広く存在した近代とは異なる、ポストモダン社会が紅白歌合戦にすら現れている時代なのだ。そのような時代において、もはやプッシュ型のメディア利用をおこなうことは、逆効果以外の意味を持ちえるのか、というと、実はほとんど意味を持ちえないのではないか、という懸念をもっている。

       

      しかし、なんでもいいから、まだ、教会とか、キリスト教とかを知らない人々に、これが世界標準(これは意味をあまりなさなくなっているとはおもうが)の舶来の大事なものだから、と無理矢理にその人々押し込めばいい、という植民地的(コロニアル的)発想の時代は終わったように思うのだ。今、学問分野ではポストコロニアルという語もかなり古臭くなり始めている。

       

      その意味で、これまでの日本のプロテスタント教会のPush型に偏った伝道モードを、今後続けることがどのような意味を持つのか、これは、キリスト教界メディア関係者も、プロテスタント教会関係者も、もうちょっと、落ち着いて考えたほうが良いのではないか、と考えている。

       

       

      次回は、Pull型メディア利用法としてのWebメディアと、Push型メディア利用とPull型メディア利用をマップ化したものなどをもとに少し議論を展開していきながら、ご提示したい。

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
      田中 明彦
      日本経済新聞社
      ---
      (1996-05)
      コメント:現代社会を考える上では重要と思う。

      2016.12.07 Wednesday

      Web時代におけるキリスト教メディア(3)

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        今頃、まだ、こんなことを書いているのか、というご批判をある方からいただいたが、それすらわかってない人々がどうも多数おられそうだ、という現状があるので、書くことにしている。さて、前回は、ウェブ時代以前のマスメディア型の情報という、コンテンツのコンテナとしてのメディアの利用法として、Push型のメディアとその問題点を指摘し、近代社会においてはPush型の利用は適合的であったものの、ポストモダン、ポストコロニアル時代を迎えた現代社会においては、そのようなPush型のメディアの利用方法は社会において不適合になり始めているのではないか、と実例を紹介しつつ、個人的見解を展開し、ご紹介してきた。

         

        今回は、近代の多様化し、ポストモダン時代を迎えた現代に比較的適合的と考えられるメディアの利用法、Pull型の情報メディアの使い方と、Webを活用した情報メディアと、キリスト教界との関係を考え、そのうえで、前回紹介したPush型の情報メディアと、Pull型の情報メディアとの関係について、Mappingしてみた関係図を示してみたい。

         

        Pull型のメディア利用

        Pull型のメディア利用の代表的な例は、購買型のメディアの利用タイプのものでもある。この購買型タイプで提供される情報提供メディアの場合、例えば書籍とか、雑誌とか、新聞などが典型的であるが、このタイプの場合、買うことをやめる、開くのをやめるというアクセス停止を含めて、自分で選択できるというオプションが、かなりたくさん残っている事が多い。本来、その意味で、新聞なんかも、Pull型のメディア利用の方法にのっている、とは言える。嫌なら読まない、嫌なら見ない、というオプションが、そもそも存在しているのだ。何か調べたいことがあるとか、何か見たいことがあるとか言った時に、あとからでも確認できるのと、時間がたっても再現性がある程度ある、その意味で、必要に応じて、という意味でのOn Demand型のメディア利用ということが特徴である。

         

        聖書なんかは、典型的なPull型メディアの利用タイプではあると思う。自分が開かなければ、自分が記憶していなければ、自ら聖書をあける気がなければ、聖書は開かなくても済む。要するに開けなければ無関係でいられる。しかし、開ければ、そこから何らかのものを得ることがあるし、ある意図を持ってテキストそのものを改ざんしなくとも、ある特定の読み方をすれば、異なった意味合いを引き出すこともできる。著者本人の意図と違うことも言えてしまったり、理解できてしまうのが、Pull型メディアの特徴でもあるのだ。つまり、ある面、Pull型のメディア利用による情報発信の場合、発信内容が客体化するというのか、本人の言いたいことが伝わらない可能性が高いのだ。ある面、控えめなメディアの利用法であるといえる。

         

        10年位前、ある中学校で、某 外資系聖書配布をする会の皆さんが、朝中学校の門前で投稿中の中学生に聖書を配ったところ、そこの中学生が人がいいのか、行儀が良いのか、殆どの生徒が聖書を貰ったはいいが、どう処理していいのかわからないために、全員教室まで持って行きはしたものの、教室のゴミ箱に直行させてしまったことがある。その後、教頭だったか校長だったかが、各クラスで不要とされた聖書を回収し、同会の皆様にお返ししたということがあったことが、家人からの報告で明らかとなったことがある。

         

        メディアは、用量・利用法に注意してご利用くださいピンポ〜〜ン、でしかない。

         

         

         

        Pull型メディア利用としてのウェブサイト

        電子情報通信の世界だと、ウェブサイトなどが、このPull型メディア利用法を前提としている性格が強い。探せば与えられるタイプの情報提供方法とは言えるので、ある面で、イエス様もある種Pull型のメディアのあり方に近いという側面があるといえば、そうかもしれない。だって、以下の画像のことばにもあるように人間側に一旦はオプションをおあずけいただいているからである。

         

        有名な聖書の言葉

         

        他にも、

        口語訳聖書 マルコの福音書 4:23節

        聞く耳のある者は聞くがよい」

        とイエス様は、おっしゃっておられる。


        さて、ここでかなり明らかなように、Pull型のメディア利用は、他人から求められない限り、相手のところに必要とするかもしれないけれども、本来必要なはずの情報が届かない、という問題も抱えている点である。相手の中にズケズケと入っていかない、入っていけないという欠点を持っているのである。これはすべてのOn Demand型の情報メディアの抱える問題である。
         

        ポータルとウェブサイトを見に行くということ

        ところで、ポータルサイトというのが一時期、はやったことがある。わかりやすく言えば関連サイトのリンクを集めたリンク集のようなサイトであり、ある情報にアクセスしようと思えば、そこに行くと関連情報がまるわかりになるというタイプのサイトである。ある面、関連情報サイトへのどこでもドア的なサイトのことである。今は、これが下火である。なぜか、というとリンク集とかは、あえて作らなくても、Googleなどが利用している、Bot(情報検索自動化ロボット)がサイトを巡回し、勝手に情報を集めて、それが検索結果に反映されるようになってしまったからである。

         

        リンクに対するいろんな評価が書いてあって、リンク先を利用する場合の判断の一定の基準になるリンクサイトのならまだしも、単純なリンク提示サイトであれば、もはやリンク集やポータルは、必要ないので、誰も触らない。

         

        ミーちゃんはーちゃんの専門分野に近い話で恐縮であるが、自治体ポータルという概念が流行ったことが会った。自治体が地域振興のためにポータルサイトを立ち上げ、そこで地元企業とかのリンクを張って、サイバー空間でのバーチャルに地域交流サイトを形成することがはやったが、今はもう鳴かず飛ばずに鳴って、忘れ去られている。この先導的役割を果たした「ごろっとやっちろ」という時代の寵児のようにもてはやされたサイトも、今はその残骸があちこちに残るだけである。まるで、沈んでしまった武蔵のように。

        このポータルという概念は、リンクが簡単に貼れて、ハイパーリンクで自由にその先に行けるということから、技術主導で始まり、ユーザーや情報提供者にはほとんどメリットがないという現実から、時代遅れになって、武蔵のようなサイトになってしまったのだ。その意味で、地域ポータルや、リンク集というサイトは、GoogleがBotを酷使して、情報を集めまくる、という方法論には勝てなかったということなのだろう。プログラムは酷使されても文句を言わないので問題が起きないだけなのだ。

         

        まぁ、ラジオがテレビにほぼ駆逐されたように、あるいは、蒸気機関車が電車にほぼ駆逐されたように、ポータルサイトもまた、Googleを始めとするサーチエンジンに淘汰されてしまったのだ。

         

         

        1980年台のテクノPop Video Killed Radio Star

         

        必要とされるポータルの特徴とは何か?

        ただ、唯一残る可能性があるポータルサイトは、食べログとか価格.COMなどの、実際の利用者が素直な反応を残していて、店舗側と利用者側の個別の情報が統合されているようなサイトだけである。つまり、情報提供者側の意図だけではなく、別の側面からも検証可能なデータが提供されていて、統合的にデータが確認できるようなサイトだけ、存続しているように思うのである。

         

        初めてのところに行くとき、初めてのものに触るとき、その時には大きいか小さいかは別として、障壁があることは確かだろう。ミーちゃんはーチャンはもうさすがにやめてしまったが、現在の居住地付近の教会めぐりをした時に、頼ったのは電話帳情報とGoogleさんである。さすがに電話帳情報程度の協会にいくときには勇気が必要だった。教会ミシュランというものも概念としてはなくはないが、それは無益だろう。ある人に会う教会とほかの人に会う教会は違うからである。その意味で、レストランと教会というのは、実際にその場に行ってみないとわからない、という意味で、結構勇気がいるものではないか、と思うのである。だからこそ、誰かの紹介とか、というかたちでお招きするほうが確実なのである。その意味で、昔は人間が教会へのポータルであったりしたのだが、人口移動が激しい社会では、Web情報が教会へのポータルとなり始めているのではないか、と思う。

         

        Googleに引っかかるようにすること

        ポータルでそのウェブサイトに行くのか、Googleのサーチエンジンでそのサイトに行くのかは別として、ウェブサイトは、Pull型、情報を求める利用者の方のPullがあってはじめて、情報を伝えるタイプのメディアの活用型であることは上で書いた。その意味で、サイトを見てくれるというのは、ある意味で、来訪者がわざわざ玄関先にまで来てくれることであり、お店で言えば、わざわざ店頭まで来てくれることではある。つまり、サイトの来訪者は、そのサイト運営者にとって、見込み客なのだ。

         

        その意味で、そのサイトを探しに行って、何も返してくれない、そもそもサイトがない、サイトに中身がない、というのは、ひょっとしてリアルに、実際の場所に来てくれるかもしれない見込み客や見込みのある来会者を、みすみすお帰りいただくというのか、みすみす失望させて空手で返してしまう、ということと等しいように思うのだ。

         

        その人達は、Googleであなたの教会か、あなたの教会に関連する何かに関する検索語で、あなたの教会がどこにあるかや、どんな教会であるのかを調べに探しに行っても、電話帳程度の情報、つまり、名前と電話番号くらいしか教えてもらえないのでは、失望するのではないだろうか。Webサイトを持っていなければ、他人が作ったビジネス電話帳以上の情報を手に入れておわりなのだ。その意味で、ウェブサイトがない、あるいは、他人の電話帳サイトが表示されるということは、せっかくお店に行ったものの、どんな商品が売られているのかも、お店の雰囲気も知ることなく、シャッターがガッチリと下ろされているということだけを確認して帰るためだけに、わざわざ行ったのと同じ、ということなのだ。実際に移動が発生したわけではないが。

         

        それなら、電話帳で十分であるし、電話帳以上の自分たちの主張や考え、自分たちの良さを訴えかける何かを与えられない、ということなのだ、と思う。

         

        電凸した女子学生の話

        電話で思い出したことがあるが、以前の学生で1994年位の時期に、ある授業での発表出かけた部分があったので、発表した日本人の女子学生に、鉄道会社の情報システムについて調べておいで、と宿題を出したことがある。まだまだウェブが普及し始めた頃のことである。基本的に、本に当たったり、雑誌に当たったり、図書館で司書の人に聞いたりして、勧められた論文を読め、というつもりで言ったのである。翌週の授業でやたらと詳しく、解説をし始めたので、全部その解説を聞いたあと、「うん、ちょっとまって?それどうやって調べたの?」と聞いたら、電話で聞いたという。

         

        その女子学生は何をとち狂ったのか、関西の某鉄道会社に対して電凸取材を敢行したらしい。すごい勇気と思うと同時に、「あぁ、今の学生は、情報入手ツールとして本や書籍にまず当たるのではなく、直接の電話突撃取材をするんだ、こわぁ〜〜〜」と改めて思ったのである。それ以降、毎年楽器はじめに、受講生全員に、電凸禁止を言い渡した上で、授業やゼミでの報告時に参考文献を報告すること、を義務付けたのは言うまでもない。ご迷惑をおかけした鉄道会社の窓口の方には、お詫び申し上げ、ここに、改めて感謝の意を表する。

         

        キリスト教界でも、今は標準で、OK Googleでスマートフォンに電話をかけさせ、電凸するのが普通になっている、というあたりの事、すなわち、そういうことが一般化した時代が来てしまったことは、もう少し認識されてもいいと思う。なお、当時の学生は、電話帳で探して電話をかけたらしいが。

         

        電凸代わりのGoogle
        しかし、今は、直接電凸取材で聞きにくいことを、電凸取材の代わりに、Googleさんで聞いて済ませているにすぎない。要するに、以下の動画のようなことをやっているということのようである。その意味で、Googleさんに調べた結果を返してもらうために、Googleさんのボットさんが引っかけてくださること、というのことは不用意な電凸取材をスルーできるということでもあるし、夜中にかかってくる電凸取材を回避できるということでもあるのだ。それでも電凸する人は電凸してくるのが、電話の鬱陶しいところであり、それを避けるためには、「当教会の牧師の執務時間は、火曜日から土曜日の朝9時から夕方5時まで、日曜日は、すべてのプログラム終了後の午後4時から午後5時までにお願いします。緊急の場合は、FAXをご送信くださるか、牧師の携帯電話までお願いします」という自動応答プログラムを入れて、あとはFAX専用回線にしてしまうことである。

         

        Googleがやっていること(もし、Googleが人間だったら… というタイトルの動画)。

         

         

        どこぞの電機メーカーでは、そのメーカーさんのお客様窓口が混むので、その対策の一つとして、ウェブサイトを利用しているらしい。ウェブサイトで取説から、ドライバまで、なんでも手に入るようにしておけば、電話窓口対応は減る。あとは、クレーマー対応のエキスパートを電話窓口に用意しておけばいい。今は、ほぼどのメーカーさんでも、電話応対に関しては、アウトソーシングがきっちりされているはずだ。さすがプロは、クレーマーもきっちり対応してくれるし、捌き方もはっきりしている。なお、ストーカーのような電話魔も居るらしくて、それ対策もされている、と聞いている。

         

        それと、Googleの場合は、先ほど紹介した食べログや価格コムみたいに、その人達が伝えたい情報だけではなく、逆にむしろある人達が隠したがる、その人達にとっては不都合であるかもしれない情報も、集めてくれるのだ。その意味で、残るポータルであるためには、意見の多様性が確保されるところが、重要なのである。検索メディアである以上、以前であれば無視されたような、どこぞの高架下の壁とか柱とかに張り出してあるような、以前なら着目もされない、たとえくだらない、しょうがない情報も、Googleがご丁寧に勝手に集めてくれて、判断は読み手、選択側に与えてくれるところがGoogleのサービスがありがたい点なのだ。つまり、大本営発表の情報ももちろん、それ以外の情報(たとえそれが誤りを含むもの)も含めて、判断するにあたって必要な情報の多様性があるからこそ、皆さん、Googleにききまくるのだ。基本的に、情報では一般に情報を集めれば集めるほど、実像と情報の間の、その誤差の範囲は小さくなる。我々は、多少間違いが含まれている情報があっても、それをたくさん集めることで、その誤りにまつわる誤差の範囲を狭めることを知っているのではないだろうか。

         

         

        映画『不都合な真実』の予告編(結構いい加減なところもある)

         

        ネットの付き合い方が変わる世代

         

        こないだ、Ministryにも登場しておられた蝉丸Pさんやお仲間の方とご同席する私的な機会があって、集まっている皆さんに仏教界とかでは、アイテ−化とかどんな感じなんですか、って聞いたら、おそらく、スマホに向かって、「Siri 〇〇を調べて、とか、○○に電話」とか「OK Google ○○ってなに」とか「OK Google ここから池袋」という世代と、それ以上の世代がウェブの付き合い方が少し違っていて、鍵盤を打鍵できない(IBM風に行ってみた)人も・・・って感じらしい。まぁ、キリスト教界でも似たようなものだろう。その意味で、Webの世界はまだまだというところもあるのはよく分かるが、おそらく、もう数年後には、OK Googleとか、下のCookie Monsterのような人の使い方が社会の主役になるのは、もはや、時間の問題である。その人たちにいくら、紙の印刷物がなんとか、とか言っても、無意味なのではないだろうか。

         

         

        OK Googleする人々。

        今の若い人はこれ。ミーちゃんはーちゃんはオジサンなのと、携帯電話はガラケーなのでやりたくてもできない。

         

        iPhone6でSiriと話すCookie Monster君

         

        Cookie MonsterがSiriを使うCMの裏側、というよりは「意図的におまいら作ったろう」という映像作品

         

        この話を書きながら思ったことがある。それは世俗の仕事で、時にプログラム開発を教えることがあるのだが、今の学生さんの一部に、QWERTY配列のキーボードで、文章やコードを打つのが苦手な人々がいるのだ。「え、QWERTYとかで文書、アルファベットかな変換しないの?」とお尋ねすると、一部の学生は「なんでですか?」とのたまう。「携帯以来使っている、平仮名返還が早いので、それでいいじゃないですか、文字の候補教えてくれるし・・・」だそうである。今はそういう時代なのだなぁ。

         

        返す言葉がなかったことを、ここに記しておく。
         

        教会のウェブサイトで伝えてほしいこと

        個人的には、教会ミシュランや教会ウェブ・サイト・ミシュランみたいなものを作るつもりでもなく、一時期、現居住地の近傍の教会めぐりをしていたことがあった。単によその教派の教会文化を知りたかった、という非常に単純な動機である。多くの教会では、日曜朝一回だけしかチャンスがないので、あっちこっちには行きにくい。その意味で日曜日は年に50数回しかないし、日曜日は、教会が普通の状態での教会訪問のための貴重なチャンスなのだ。

         

        その時には、電話帳とGoogleにお世話になった。結構、信仰歴何十年でも、自派の教会と違うところに行く時の障壁は流石に大きかった。それは正直に言っておきたい。

         

        アメリカ滞在中も教会探しをしたことが何回かあるが、そのときも、基本電話帳とウェブであった。海外でも日本でも、よほど「電凸してから、行こうか」と思ったが、勤務中は電凸できないし、かと言って、夜間、電凸するのも気が引けるし、そもそも電凸できる時間が限られることなどもあるので、結局諦めた。

         

        特に、現居住地周辺は、教会の種類も多く、教会の密度も高く、関係者も何人か存じ上げている人の関係の教会も多いので、電話帳情報程度の情報だけで行くのは、正直つらかったことがある。このキリスト教業界、めっちゃ狭いのである。どこで知り合いに会うかわかんないし、実際に知り合いは居ないだろう、と思って参加したら、お知り合いに出会うことで合うこと。もはや苦笑いするしかないレベルであった。

         

        ところで、その教会巡りをしている時に、教会のチラシとか、教会のサイトとかには、牧師さんや特別プログラムの講師の方が、どの大学出てるとか、どの神学校出てる(そして、説教を伺う限り、それはほとんど誤差の範囲に見えた)とか、どの組織でどんな役職だったかは、別の教派の人間にとってはほとんど無意な情報も結構ある。たしかにノーベル賞受賞者が教会にいるとか、超有名人が毎週協会にいるとかなら、それは話が別だが、そうでない人の経歴や受賞歴って、ほとんど意味がない。これは、いのフェス名古屋のご講演で講演者の方がご紹介されていたとおりである。(こちらでご覧いただけます。画質悪いけど http://breadfish.jp/churchs_transmission_of_information/2754.html )

         

        それよりも、自分たちの聖書理解とか、自分たちが大事にしているコアな信念とか行き方とか、他の情報源から入らない情報とか、開始と終了時間の話がきちんと書いてあるサイトを持っている教会のほうがありがたかった。特に終了時間の情報の明記は重要であるなぁ、と思った。

         

        ミーちゃんはーちゃん風教会サイトへの希望

        終了時間が書いてないとエンドレス覚悟だし、関西なので、お昼のお食事の時間、あるいは、おうどんの会(関東ではカレーの会らしいが)があるとかないとか、その日の予想されるイベントとかが、書いてある教会はほとんどなかった。まぁ、おうどんの会とか午後のプログラムとか、よほど興味が無い限り、たいてい新来会者の特権でパスさせてもらった。

         

        まぁ、個人的な希望を言えば、自分たちは何を目指している教会か、自分たちが何を重視しているのか(それは案外外部者に自明ではない)は、ウェブサイトに明記しておいてくれたほうがいいなぁ、と思った。聖書とか、キリストとか、そんなのは当たり前なので、まぁ、キリスト教が初めての人には、必要かもしれないが、そもそも、それをどう書いたところで、全く教会初めての人には無意味だろう、と思う。その意味で、初めて来る人、教会が初めての人にとっても、人数が多いとか少ないとか、年齢層はどうだとか、明るい教会とか、聖書をきちんと学ぶとか、といったその当たり前でない部分を明らかにしてくれているとありがたいと思う。また、礼拝後の、行事予定などがわかれば、なんとなくは推測が可能にはなるので、これらの情報は案外ありがたいとは思ったが、こういうのは明らかでないところが多かった。

         

        あと、教会の外面はなくていい。住所がわかればGoogle Streetで確認できるので。それよりも、できれば、建物の内部の普段の写真は、あったほうがいいと思う。教会の内部の写真は、案外情報量が多くその教会の雰囲気を伝えてくれることが多いので、助かるのではないかと思う。それと教会内部の細かいところ(張り出しているポスターとか)に、教会内部の細部に、その教会のキャラクターが出るように思う。

         

        あと、プロテスタント教会の場合、説教が長い傾向にあるが(儀式がない分だけ)、説教は動画でなくてもいいので、音声で説教のサンプルでいいので聞かせてもらえるだけで、十分ありがたいと思う。音声や喋りというのは、案外その人のキャラクターが出るからである。文字だと消えてしまうその人らしさ、その人がおもちの傾向というのがかなりクリアに出るのである。音声情報は案外情報量が多いのだ。

         

        とはいえ、毎週の説教原稿もありがたいといえばありがたいが、ただ、説教批評マニアのかたとか、説教ミシュランをしたい方とかは別として、毎週分はいらないかも、と思う。それよりも、そんなに長くなくていいので、いや、正直言うと、長くないほうが助かるが(と言いつつこのブログ記事は異様に長い)、とりあえずさっと読める説教か説教要旨がひとつか、二つあるだけでも、なんとなくのその教会の考え方とか、そこの牧師とか語り手の考え方とか理解が出るので、本当に助かる。

         

         

        このサイトでは以前あるところでしていた説教の一部や説教要旨をあげていたことがある。しかし、今は教会とかで、説教などはしてないので説教も一切あげていない。ただ、このサイトのように過去の説教をあげていると、集中してある時期に特定の聖書の場所とか、特定の項目で検索をかけて、その昔の説教の記事へのアクセスが集中することがある。神学も議論もしてない、説教情報がほとんど無いこのブログにすら、説教ネタを求めてか、特定の人物名とか、特定の聖書箇所で検索をかけた結果、たどり着かれる方々がおられることがわかることがある。そういうのを見ると、日曜学校のお話にしても、教会の説教にしても、皆様、説教準備に、大変ご苦労しておられるのだなぁ、とご同情を禁じえない。

         

        ところで、説教といえば、今、ヨベルさんから門叶国泰 さんという方が所属教会の説教をメモに起して、個人の感想をつけたものが『説教聴聞録 ローマの信徒への手紙』という書籍におまとめいただいて出版されているが、ここまで文字にされてしまって、おまけに解説までつけられたのでは、説教者のほうは、かなわないだろうなあ、と思ったことがある。まあ、この方のメモとそのコメントが半端ではないので、この本自体は楽しんで読んだ。

         

        ウェブサイトは、ショーウィンドゥみたいなもので

        余談はさておき、なぜ、夜間、百貨店や商店が、夜間電気代をわざわざ使い、さらに、分厚い耐衝撃性ガラスとかアクリル樹脂をはめ込んだ、高価なショウウィンドウに商品を飾るのだろうか。それは、夜、自分のお店の前を通る人にも、自分たちの商品を見る機会を確保したいからではないだろうか。そして、売上をちょっとでもあげたいからこそ、すなわち、見込み客を本物の購買客にしたいからこそ、自慢の商品のチラ見せをするのではないだろうか。

         

        新しい来会社の人々が来なくて、毎週閑古鳥が鳴いている教会も、高踏的な趣味でそうされたいのなら、それはそれで一つの見識であるとは思う。つまり、自分たちは世俗社会から隔絶されて生きるのだ、と宣言するのも一つの見識ではある。まぁ、確かに、キリスト教会自体、世間に門戸を閉じ、高みから眺めるのが良いと主張された人々がいた時期が、これまでも何回もあった。その時期にも、その閉じられた門戸や塀さえ乗り越えて、その中に人はやってきたこともある。そして、それだけの中身が教会には本来あることだけは確かであるが。ただし、そのような方針であるのならば、人が来ない、若者がいない、ということを嘆く必要はないのではないか、と思う。

         

        玄関の戸を叩かれても(Googleで検索されても)、門戸を開けさせもしない(ウェブサイトを掲げない)ということになるかとは思うのだ。もし入ってきたいと思えば、ドアを壊して打ち破ってこい、リアルで突入してこい、あるいは塀をよじ登ってこい、というようなものである。われわれは、君たちには関心がないのだ、と言っているようなものである。正に、玄関に表札すら掲げない、ということでもあるのだ。

         

        まぁ、そうであっても、ルーベンスの絵をひと目見たいと思い、ルーベンスの絵の前で、世界名作劇場版のアニメ作品では死んだネロくんのように、教会で神をちらっとひと目でも見たいと思う方に、教会がいかにガードを固めていようとも、その教会ではたとえ、神と出会うことが無理でも、他の場所や他の教会で神様はご自身を、多くの人々にお示しになられるのだ、と個人的には確信している。

         

        ネロくんが出て来るフランダースの犬

         

        福音はWebで伝える必要はないし、できないけど…

        このブログは、キリスト教考現学か一神教型宗教社会学のヒントを提供をしているブログであると思っていて、説教を載せるのは、早い時点でやめた。他の人がご自身の説教ネタをWebで公開していてくださるからである。

         

        まぁ、その教会をいきたいか、と思った時にその説教内容、説教要旨は参考になるが、それを毎週愛読する気に離れないし、世の中に書籍化された説教集は大変たくさんあるので、それで十分であると思っている。現在は、説教より、様式や祈祷文に込められて、その成文祈祷文をともに読み、自らの不甲斐なさと不完全さに関して反省しつつ、神が地上に来られたことに思いを馳せ、キリストが地上に来たという神秘を毎日曜日考える生き方が楽しいと思っている。そして、最後に、神を愛し、神に仕えるために神との平和を生きる生き方に行きたいと思っている。

         

        情報を伝えるコンテナ、あるいは、

        情報を入れるハコとしてのメディア

        トラクトも印刷物という面では、ご自由にお取りください、という状況なら、Pull型のメディア近いのだが、それが郵便箱に押し込まれた瞬間にPush型に切り替わるところが問題なのである。


        その意味で、メディアはハコであるので、Push型(押し込み型)とかPull型(引き取られ型)利用とかは本来ないのであって、それは使い方によるのである。基本的にハコは中立であるが、ハコの使い方がメディアによって一定の傾向を持っていることが多いのと、そのハコに付随した文化というか、ハコを使う人の性格というか性質が、ハコの使い方に現れるから、Push型になったり、Pull型のメディア利用になったりしやすいだけだと思うのだ。

         

         

        その意味で、最近「目覚めよ」を配布しておられる団体は、以前のPush型のメディア利用を主にしておられたのだが、最近は、どちらかというと、Pull型のメディア利用の方法やかじを切っておられ、差し出すのではなく、希望者のみに配布、というスタイルに変わっておられるようだが、朝夕のラッシュ時には、もうちょっと他所でやってほしいなぁ、と思うこともある。最近、この目覚めよをご配布しておられる方々は、印刷物がPull型利用されていて、そのような提供のほうが有効であるかどうかを知ったからかどうかは知らないが、このようなスタンドを立てて、積極的に呼びかけずにただ無言で立ち尽くしておられる。

         

        まぁ、今のスタイルだと、単に立っているだけ、ということになるので、警察の道路使用許可を取らずに済ませられるかも、ということなのだろうが、本来的にはアウトであるような気がする。まぁ、京都大学のごくごく一部の学生は、百万遍の交差点で、ちゃぶ台囲みながら、交通整理に当たる警察官に「自分たちはバーベキューをしながら道路を通行しているのである」と言いはったらしいから、それと似たようなものかと思う。orzさん、真似しちゃだめだよ。同じ京都だから、どこでも同じだろう、とか言って。

         

         

        メディアのマッピング
        では、今回の記事の最後に、どのような形で伝達するか、どのような方法としてメディアをという方法論を中心にしながら用いているのか、ということについて図解してみたい。

         

        上記の文章をつらつら書きながら、思ったことを最後にマップとして整理してみたい。縦軸は、発信さえる情報の同質性であり、北側に近づくほど同質的な情報が発信されることになり、南側に近づくほど、受信者の側に対応した個別性の強い情報が発信されていることを表す。この図で北側は、ある面情報の受け取り手数のボリュームとしての大きさ、とも取ることも可能であるが、念頭に置いたのは、どの程度類似した情報が発信されているかの軸のほうが良いと思う。その意味で、南側は、ある面で言うと、受け取り手の少なさ、と理解もできなくはないが、情報の受け取りてへのカスタマイズ具合だと思ったほうが良いとは思う。

         

        教会の説教は、電話と路傍伝道のちょうど東側あたりに位置すると思う。教会の中のメンバーになってしまうと、教会内には基本逃げ場がないので、電話の東側ではないかとも思う。基本的には説教の内容は、教会内では、同質的な情報でもあるから、駅頭配布トラクトのやや北東側でもかまわないようにも思う。説教はどうしても、同質的なものとして受け取られやすい。

         

        個人的には、そうはならないように、出席者とインタラクティブな説教をしたこともあるが、不真面目だとか、学校の授業みたいだと怒られたことも過去にはあった。まぁ、最近はそういうこともなく、教会に一参加者として淡々と参加できているので、非情に心穏やかに日々を過ごしている。

         

        なお、個人として授業する際には、どうしても授業という性質上、プッシュ型になりやすいので、それを緩めるために、質疑応答をしたり、受講者に問いかけをするようにして、Pull型的な要素も取り入れるようには努力はしているが、基本、授業とか説教とかはPush型になりそうだなぁ、と思う。

         

        メディアの分類図 ハコとしてのメディアの使い方と、情報の提示

         

        インターネットに振り回される大手マスコミ

        しかし、どうも、キリスト教メディアに感心をお持ちの方でも、このあたりの感覚をお持ちでない方々もおられ、従前どおり、正しいことは紙に印刷して、できるだけ多くの方にお伝えすべきだ(殆どの誰もが、紙に書いたものは、もはやどーでもいい、とか思っていてごく一部の人しかありがたそうに需要してないのに)、とか、良いことだからお伝えすべきだ、そして、紙に印刷して記録を残しておくべきだ、他のマスコミからの問い合わせがあった時に、とか言われる方もおられるが、本当にそうだろうか。

         

        前回の記事でも書いたように、もはや、日本の新聞、テレビ、ラジオ、週刊誌は、基本ネット情報に依拠していて、まず、記者さんがGoogleするところから、多くの記事ができていく時代である。だとすれば、ネット上にGoogleがPullしやすい形で出しておかないのであれば、誰も見ない。記事もならない。今や、古い資料や一次ソースにあたってまで、大手マスコミなどもチェックしないし、チェックしきれない時代がやってきているのだ。それを如実に示したのが、オボちゃん事件であり、理研から出た情報にだけ頼り、オウム真理教の犯行なのに警察の関係者から出た河野さんが容疑者という情報に振り回され、独自の調査をサボり、河野さんを被害者にしてしまったのではないのか。今はそんな時代なのである。誰かがネットでいったことに飛びつくのであって、ネットで流していなければ、その情報にも飛びついてもらえない。その意味で、ネットで情報が引っかからければ意味が無いのである。

         

         

        その意味で、現在、ある面、新聞が多くの場合、警察情報の丸呑みをしているかのように、ネット情報の丸呑み(一応、アクセス先と言うか電話先がわかれば、電話取材で裏を取っているのが関の山のようであるが)が起きているのである。その意味で、紙メディアだけに存在する情報は、大英博物館の中にうやうやしく眠っている粘土板や石の板に書かれた碑文と大して変わらない(大英博物館は、資料が有効に利用されていないという側面があるので、収蔵品をデータ化し、カタログ化し、ネット上に情報を上げる計画を必死になって取り組んでおられるのではあるけれども)。知る人だけが知る情報になっているのだが、そういう内向きな体制が教会なのだといえば、そうなのかもしれない。


        次回予告

        次回、現行のキリスト教ニュースメディアに望むことを書いてみたい。関係者には耳の痛い話になろうし、「ワシラにどうやって生きろ、というのか」という話になるかもしれないが、好き勝手、この際だから言わしてもらいたい。読みたくなければ読まなければいいのである。だって、押しつけはしないから。また、キリスト教メディアの皆さんのところに言って、ねじ込んで、団体交渉する気力も体力も、資金力も、もうミーちゃんはーちゃんにはないから、安心してていい。スルーしてもらったらいい。聞く耳のある人には聞いてほしいくらいには思っているが。

         

        大体、夢は語らねば実現しないではないか。以下の動画で示すマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは問題の多い人ではあるが、その問題が多い人でも、夢を語ったらこそ、オバマ現大統領(そしてもうすぐ前大統領、アメリカでは、大統領やめても、呼びかけは、基本Mr. Presidentである)が大統領になったのではないだろうか。

         

        私の夢は実現しないだろう。多分、私の予測は外れているだろうし、できれば外れてほしい。世俗の仕事のことでまたまた恐縮であるが、私は読みを間違ったことがある。それは、自分が利用しているソフトウェアを使うにあたって、ウェブへの対応はしないだろう、そして、スタンドアロンで動き出すだろう、と思っていたのである。しかし、その様相は外れた。今は、ウェブへの対応はしてない、その対応が遅れたソフトウェアは市場から追放である。家庭の中にここまで、インターネットが入り込むとは思えなかったし、スマートフォンが普及するとは思えなかった。予測は外れた。夢も潰えた。それと同じように外れてほしいし、ミーちゃんはーちゃんの夢も潰えるだろう。それはそれでいい。人間とはその程度のものであるからである。鼻で息するものだからである。でも、夢くらい、ちょっとくらい言ってもバチは当たらないだろう。言わなければ、なにも始まらないのだから。公民権運動も大きくはならなかったのだから。完全にそれが実現していないとしても。

         

        そして、次回は、I have a dreamとこのブログでいってみる。

         

         

         

         

         

         

        2016.12.10 Saturday

        Web時代におけるキリスト教メディア(4)

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          本日は、印刷型の紙メディアである新聞とか雑誌、特にキリスト教関連のオールド・メディアである新聞とか雑誌について言いたいことを言わせてもらう回にしたい。かなり無茶苦茶な議論をするが、どうぞ、ご関心のない向き、読みたくない向きは直ちに別のサイトに移動されるか、ブラウザの閉じるボタンないしは、タブの閉じルボタンをクリックしていただければ、と思う。

           

          紙メディアってなんだったか

          新聞メディアのご関係者の方は、そもそも新聞がドイツあたりで始まって、英国のカフェに置かれて回覧され、カフェでのおっさんたちの会話のネタとして使われたとか、いわゆるクオリティペーパーと呼ばれる品のいい少数の読者向けのハイソな新聞とタブロイド紙とも呼ばれる大衆紙に別れることはよくご存知であろう。日本の大新聞は、日本経済新聞を含めて、基本大衆紙だと思う。そう思ったくらいでちょうど良いように思う。

           

          大衆紙とクオリティペーパー

          この大衆紙とクォリティペーパーの違いは何か、と考えてみれば、あとから読んでも読むに耐えることが時々書いてある、あるいは、あとから読まなければならないことが書いてあり、それなりの人が寄稿していて、それなりの記事があるのが、クォリティペーパー(高級紙)であるようにおもう。そして、「読み捨てにされて、以上終わり」あるいは、一時的な話題が沢山乗っているのが大衆紙だと思う。まぁ、大衆紙にもそれなりの使い方や使われ方(焼き芋の包み紙とか野菜の保存用とかを含め)と使命と読者層はあるわけで、クォリティペーパーはクォリティペーパーなりの使われ方と使い方と読者層があるだけのことだろうと思う。

           

          大衆紙だから無価値だなどか、無意味だとは思っていないし、そう書いているつもりもない。だって、確実に売上が上がっているんだもの。それはそれで、市場の必要に応えているということで、立派なのだ。少年ジャンプが立派なのも、一定のクォリティの漫画を需要される方々に対して、その必要に応えているし、大衆紙が立派なのも、一定の読者層の必要に応えている、という点では極めて立派である。本ブログで、度々出てくるデイリースポーツは、阪神が勝っても負けても一面は確実に阪神関連のニュースだし、おそらく中日スポーツも、中日が勝っても負けても一面は中日ドラゴンズ関連の記事で埋まっているはずである。

           

          床屋政談のツールとしての新聞やメディア

          先にも少し触れたが、そもそも、近世の英国のカフェに置かれた新聞も、近代の日本でも新聞も、場所がどこかというのは別として、ある種の床屋政談のためのツール、愚にもつかない噂話や個人的な見解をのたまうための、きっかけを提供する道具の類であり、ある種の暇つぶしと言うか、会話のきっかけを掴むのための道具にすぎないと、思っている。

           

          新聞にせよ、出版にせよ、普通のメーカーでも、社会の人々の必要に応えねば経営はうまくいかないし、社会の中で、必要とする人々の層によって、その出版物の中身も変わっていくのだし、変わっていって当然だと思うのである。特に、新聞においてはその傾向は強いのではないか、と思う。

           

          大草原の小さな家での新聞話

          記憶している限りの話で恐縮であるが、大草原の小さな家で新聞が絡んだエピソードが幾つかある。記憶に残っている話が2つあり、その一つは、お父さんのチャールズ・インガルスのオジサンが、馬車の会社(今で言うタクシーとかバス会社だろう)を経営して大成功したはずだった人がいる設定にしてあり、そのオジサンがかなりユニークな御仁だったのであるが、世上では膨大な遺産を残してなくなり、一家がそれを相続するという設定になっていたエピソードが会った。チャールズ・インガルスとその一家が、金持ちになりそうなので、みんなカネ目当てでやってきて、金を貸してくれとか、教会に寄付してくれとか、小さなウォルナットグローブの町での人間関係がおかしくなるという設定のエピソードであった。そのエピソードの中で、遺産相続の話が新聞記者の知るところとなり、一家が極貧から一夜にして大金持ちになるというアメリカ人大好きな話に仕立て上げようと言う伏線も会った。そのような態度で荒れしてくれ、これしてくれ、とインガルス一家に行ってくる新聞記者に、そんな偽りの記事を書くなら、取材はお断りだというエピソードがあった。もう一つは、ウォルナットグローブの町が大きくなるに連れて、文化的なものが必要だということで、町唯一のお店の商店主の婦人のオルソン婦人が印刷機を買い込み、新聞を発行するというお話で、発行したはいいが、まともな新聞にならずゴシップ新聞を発行してしまうというお話だったと記憶している。

           

          いずれのエピソードにしても、新聞などのメディアが陥りがちな課題を示していて面白い。第1の話は大金持ちになるかもしれないというエピソードのテーマは、一部真実を含有しているものの、他の部分で真実の一部を販売のため、デフォルメして誇張して書くというものである。この問題は、デフォルメしたほうが売れる。デフォルメすることで読者を確保し、売上が確保できるというものである。良心的な新聞では、記事にする前に取材された方に事実確認として、記事の内容を確認させてくれる場合があるが、緊急性がある場合、このような側面は割りと軽視、無視されることがある。この時間的緊急性を理由としたショートカットというか、近道しようとする行動が、問題を起こすのであり、オウム事件では、マスコミのこのろくでもない性格が、いろんな事件を起こしたのである。

           

          2つ目のオルソン夫人の発行のゴシップ新聞の話は、現在のゴシップ誌、日本ではスポーツ新聞とか、女性週刊誌とかその他の一般週刊誌などのように、他人の色恋の話とか、他人の生活を一部示すような、社会全体のあり方に関する報道とは関係ないものの、個人の興味と関心を掻き立て、他人を報道の名のもとに傷つけるタイプのメディアのあり方を批判するようなものである。ある面、他人の不幸を喜んだり、他人が不幸な状態であることを利用するタイプのものである。

           

          ある種、出歯亀根性に訴えるようなメディアのあり方である。しかし、これが売れることはスポーツ新聞や週刊スプリングセンテンスみたいな雑誌の売れ行きが良いことから、わかるのである。

           

          Peeping Tom的性質を持つメディア

          ところで、GODIVAというチョコレート屋があるが、このチョコレート屋の屋号は、Lady Godivaという貴婦人にまつわる史実ではない交換の伝承に由来するらしい。Lady Godivaは、人々に対する夫の圧政の負担を軽減することを領主であるご主人とお話し合いをされた結果、巷間に伝わる話では、自らの裸体を晒しながら乗馬することを命じられたという。このような都市伝説がつきまとって、それをもとにチョコレート屋の屋号ができていることになっている。そのLady Godivaの話に関係して、Peeping Tomと呼ばれることになった人物がいたという都市伝説も付与され、このTom君以外以外は窓を締め、Lady Godivaが通っている最中外を見なかったという都市伝説があり、Lady Godivaの裸体を見たことから、Peeping という不名誉な形容詞が付与された人物であるが、実在したかはかなり怪しいらしい。英語圏では、このことがあるためか、Peeping Tomは徹底的に非難されるが、基本人間は、こういう下劣な精神が生まれや民族に関係なく、一定程度隠れていることは確かなようだ。


          こういう新聞や雑誌が洋の東西問わずはびこっている現実を見ても、これは人間のかけある性質を示すもののような気がする。ただ、日本は西洋型社会とは異なり、この辺の性的な画像や図書が、発行され続けてきた江戸期以来の伝統があるので、社会的にはこの種のものに関して、かなり寛容な社会ではないか、と思う。その伝統は現代の週刊誌に引き継がれている模様である、と思っている。とは言え、西洋でもこの種の文書や絵画はかなり多数存在する。ヴィクトリア朝時代はこれの取締はかなり厳しかったようではあるが。

           

          その意味で、これは、神との関係が破綻した、堕落の結果であるとは思うが、だからといって、その人間の弱さや不甲斐なさを利用するようなビジネスをすることに関する抵抗は個人的にはある。

           

          キリスト教メディアにいいたい放題

          まぁ、世俗メディアの来歴や問題は差し置いて、現状の新聞型情報に関するキリスト教メディアについて、言いたいことを言わせてもらいたい。

           

          個人的には、正規組織とは無縁で、このようなものとは無縁のキリスト教の世界で生きてきた。間もなく発売されるはずの『福音と世界』に寄稿されている小論をご笑覧いただきたいが、一種のキリスト教世界のかっこよく言えば独立部隊、あるいはゲリラ部隊としては、これらのメディアとは一線をおいて過ごしてきた。したがって、こういうものを読む習慣はなかった。その意味で、今回の記事はある意味部外者からの視点である。その意味で、幼いときからこのようなものに慣れ親しまれた方、長年現在の習慣体制に慣れた方、郵送されてくる情報を受け取る形で教会内外の情報に触れてこられた方は、また別のご意見をお持ちでもあろう。

           

          これらの新聞と称するメディアについて思うことは、まず持って、済んだこと、ヲワコンではないにせよ、起きてしまったこと、終わったこと、に関する記事が多すぎること、速報性がないことである。これから起きることの情報や、現在起きている事に関する情報の圧倒的不足、そして、今起きつつある現実についての速報性がないことであり、不確かな情報であるものは一切出てこないところである。これでは、Newsではなく、Oldsと言わねばならない。ガッチガチに固まったものしかのっていないのでは、読む気にもなれない。情報は、行動変容をもたらすための資源の一つである、と思っているからである。

           

          これから起きることも、紙面には、一行広告よろしく印刷した新聞には載せられているが、よほど丹念に、且つ丁寧に読まないと、自分がぜひとも参加してみたいと思うようなイベントとかの情報には出会わない。それを寄せてくれない皆さんの問題だ、とキリスト教関係の新聞関係者側の人々は言うかもしれないが、まずもって、そのような情報が埋没するようなあしらいを受けることがわかっていて、紙の新聞に載せたいという気持ちにならない事が多い。なぜならば、基本、キリスト教関連のイベントはローカルなものが多いし、全国紙に掲載してもらったところで、来客の増加はほぼ見込めないし、学校とか他の教会に行っている人々が来ることはめったにないので、全国紙としてのキリスト教新聞などに載せる意味が実はあまりなくなっている、というのはあると思うのだ。

           

          多過ぎるヲワコンの講演会

          これはキリスト教会に限った話ではないが、そもそも、今は世の中に講演会の数が多すぎる。行政はイベントとして講演会をやるし、様々な組織が講演会やイベントをあちこちで、有償、無償のものを含めて、ありすぎるのだ。動員して、動員した人々の自分たちの考えを伝えようとする。それも割りと真面目な企画が多いので、参加しても楽しくないし、ライブ感、一方通行感が強すぎるものが多い。コンサートや野球なら、騒いだり縦ノリしたり、いろいろできるから、一方通行感はへるが、講演会だと、結構なお手前でございました、とでも言うしかない感覚なのだ。でも、他に方法がないから、みんな終わったコンテンツ(→ヲワコン)であると知りながら、それをやらざるを得ないのだ。その結果、特徴がないワンのブゼ無になりがちである。どうせ、紙面では、その数の多いイベントに埋没し、紙面で目立たないのならば、連絡する気もなくなる。

           

          となれば、それよりは、関心領域がある人が、関心を持っている検索語で思いつきで検索してもらって引っかかる、という意味で、今はWebのほうが、有益だ、とWebを使える人は思っているように思う。自分でウェブで発信できるのに、わざわざ他人の手を煩わせて、それも制限があるような発信をするよりは、好きなことを好きなようにかけるWebで、画像を入れたり、動画を入れたり、個人の感想を入れたり、しながら発信するほうが、読み手にも楽しさが伝わる。

           

          むかしむかし、新聞というメディアや雑誌というメディアは、そういう限られたサークルでの話題の伝達のためにあった(ちょっと昔の中華人民共和国の壁新聞はそういうものであった)のだが、印刷という手段を利用するようになってから、マスメディアとなり、社会的な影響が大きくなったせいで、毒にも薬にもならないことしか言えなくなってしまったように思う。その意味で、基本つまんないのだ。まだ、雑誌とか、書籍はその種のことの自由はまだ効く。その意味で、雑誌や書籍はマスではないメディアであるから、その自由が効くのだ。

           

          それよりは、人々がスマートフォンを猫も杓子も老いも若きも持つようになった現在、前回の記事ではないが、今は、検索エンジン、検索サイトが基本的に情報への入り口、ポータルサイトなのである。そして、老人から若者まで、Pokemon Go!やパズドラ、ツムツムやモンストなどで電車の中で遊んでいるのである。まぁ、かなりのご年配の女性がスマホでゲームをされておられるのを見て、あぁ、こういう時代が来たのだなぁ、そして、このスマートフォンが、これだけ普及すれば、たしかに現在の情報の入口の主役は、これだなぁ、と思う。

           

          イベントの話に戻すが、たとえ面白そうなイベントでも、居住地とイベント開催地の間に距離があると移動費用などのため、参加することができない事が多い。これはどうしようもない。また、地方のイベントを紹介したところで、他の地方からであれば、参加することも基本的にはできない。昔は多数の人に情報を伝えようと思ったら、新聞とかラジオとか、テレビとか雑誌のメディアに広告として載せるしか方法がなかったから、広告を載せることをするしかなかったし、新聞は意味があったのだ。ただ、新聞や雑誌は時間の遅れが気にならないが、テレビとかラジオとかは一過性であルノが違うくらいである。とてそうである。情報を運ぶコンテンツが紙と、郵便による輸送によるしかなかった頃の産物が、新聞や雑誌というメディアである。いま、個人やグループが情報を発信できるようになった今、従来型の情報伝達型の新聞やラジオやテレビの地位が下がっている、ということはもう少し認識されてもいいとは思う。

           

          その後電話ができ、テレタイプ、テレックス、ファクシミリができたが、それとて、どちらかと言うと一斉発信には向かない、ピアツーピア通信というかなり限定的なものであった。一斉発信のためには、印刷するとか、カーボン紙挟んでタイプするとか、手書きで何枚も書くとか、紙に印刷するなり、タイプするなりして、郵便という時代が長らく続いた。

           

          宣教師たちのメディア

          そういえば、宣教師たちが、昔を懐かしんで、昔話をしている時に遭遇したことがあるが、彼らは、母国に報告書を送ったり、献金のお願いをするときには、カーボン紙を紙と紙の間に挟んで、タイプを打って、何枚もコピーするという涙ぐましい努力をしていたことから、メモリ付きのIBMのボールライタができ、その苦労が少し軽減され、PCができて、タイプするという行為から開放され、電子メールが普及して、印刷する苦労からも開放された、と言っていたのを思い出した。今は「あんな時代も、あ〜〜〜たね」と、笑って話せる時期になってしまった。

           

           

          あんな時代もあった…

           

          なお、ミーちゃんはーちゃんは年寄りの部類に属するので、高校生時代は、タイプライターだったし(高校1年生くらいでシャープのMZ-80がでた)、大学1年生でCPM-86、MSX(記録メディアは音楽カセットテープ)、MS-DOS、N88ーBASIC、UNIX、Windows3.0、…と渡り歩いてきた人間なので、通り一遍のものは扱ってきた。貧乏だったので、Appleとはご縁がなかった。動けばいい、と思っていた人だからである。

           

          実はその昔、パンチカード、磁気テープ、連続紙、8インチフロッピーディスクから3.5インチフロッピーディスク、MO、Zipドライブ、CD-R、DVD-RW…など、一通りの記録メディアを触ってきた。

           

          テレタイプ 小暮さんのサイトから http://kogures.com/hitoshi/history/teletype/index.html

           

          テレックス 新興製作所様から http://www.shinko-exc.co.jp/news/general/2009/9/1253062481106.html

           

           

          市民による革命とメディア

          昔は講演会とか、学会とか、みんなで集まってなんかするしか、自分たちの考えを伝える方法がなかった。だから、シンポジウムとか、講演会とかやって、そこに集まった人にだけ、その情報を共有するしかなかったし、あるいは、そこで話されたことを書いて、記事にして、印刷に載せてしか、あるいは、本を書いて、本を出版して遠隔地の人に届けるしかなかったのである。そのための新聞であったし、それだけの価値のあることしか限られた紙面に載せることができなかったし、情報を発信できる人たちは、新聞社や放送局、出版社というメディアを握る人たちだけであった。であるからこそ、クーデターや革命が起きる前後には、このメディアの発信基地やメディア関係の会社を選挙することがクーデターや革命を成功させる上では必要であったのである。

           

          しかし、今はそんなことしなくても、わざわざ人を集めなくても、スマートフォンと電子ネットワークへのアクセスさえあれば革命のきっかけを起こせることは、アラブの春が実証したではないか。たとえ、軍が放送局を占拠しても、スマートフォンと電子ネットワークのアクセスがあれば、革命のきっかけが起こせてしまうことが実証されたといえる。まぁ、ただ、最終的には、人が集まって、それで自分たちの意思を示す、ということが一番影響力が多いけど。人が集まるというのは、結構圧力にはなるし、日本では暴動にはさすがにならないが(多分、人間がおとなしくできているのだろうけど)、結構人をビビリ上がらせる効果はある。

           

          その意味で、昔デモ、今炎上という部分はあると思うのだ。インターネット上で炎上したくらいでは、政府はビビリ上がってくれないし、治安出動はできないが(そもそも、言論統制とか、基本憲法違反だし、戒厳令とか情報統制とかというのは非常事態でのみ許されることではあるけれども)、確かにデモとか、デモでなくても、人が大量に集まって暴動になると、治安出動になることがある。

           

           

          インターネットとゲリラ組織

          また、インターネットのご先祖様のDarpa Netは中央集権画にしないことで、いくつかのセンターやサブセンターが核攻撃されても生き延びる体制を可能とするためにネットワーク構造になっているのだ。そして、それは、正規軍的な働きをするというよりは、ゲリラ戦型の戦闘に向いているのだ。どこか一つが壊されても、ほかが適当に動いていく、そして、もぐらたたきのように正規軍が必死になっても勝てないことは、ベトナム戦争でも、対タリバン作戦でも、ISIS団(ダィーシュ)でも、ネットワーク型組織がロシア軍や、米軍や、周辺諸国などの正規軍型の組織が、束になってかかっても苦労することが、現実を通して示されてしまっている。ネットワーク型組織、あるいはゲリラ型組織とは、そのようなものであるし、今はそんな時代なのである。そして、それが新しい中世の一つの断面でもあるのだ。これに関しては次回もう一度触れる。

           

          新聞とか雑誌、書籍、テレビやラジオは、どちらかと言うと同じ情報を大量に流す、という意味で、正規軍型の情報通信手段であり、同質的な人々に時間差は多少発生するかもしれないが、同質的な情報をお届けするタイプのメディアである。その意味で、ネットワーク型メディア、あるいはゲリラ型メディアと相対するに非常に都合の悪いというか、相性の悪いメディアではある。

           

          その意味で、今は、もし、自分たちの理解を広めようと思うのであれば、あるいは自分たちの思いを伝えたいのであれば、ネットワーク型メディアに流せばいいのだ。すると、どんな断片でも語が含まれていれば、それに関する情報として、GoogleのBotが拾ってくれるのである。

           

          なお、ミーちゃんはーちゃんのブログには、「え、こんな言葉、このブログにはないぞ」って言う言葉で検索をかけて、当ブログにGoogleないしYahoo(実際上Googleのエンジン)で到達しておられる事例が時々発生する。「こ○○・ちゃーち」とか、なんかそんな検索語ですら、このブログにGoogleエンジンは誘導してくださったのである。なぜだかわからないが。ちなみに、この「こ○○・ちゃーち」には、検索語で到達された方が最近多いので、そのような名前の教会のようなものがあることを先月始めて知ったし、行ったことがありませんので、なんとも論評いたしかねる。

           

          NEWSでなくOLDSなら月刊でよくね?

          その意味で、NEWSではなく、過去起きたOLDSを伝えるだけなら、別に週間でなくていいし、月刊や季刊で十分なのではないか、とも思う。1週間おくれようが、ひと月遅れようが、情報を得たところで、もう住んでしまったことが報道されているのであれば、個人の行動変容にはつながらないからである。データや情報が知的資本に変わるためには、行動変容が起きたときである。月1でもいいんじゃない、というのは、これは本当に、そのように思うなぁ。

           

          その意味で、リバイバル新聞(現、舟の右側)が週刊であることをやめたのは慧眼であったと思うし、教派や教会連合の枠組みを超えて、最近正教会の松嶋さんまで連載を書いておられ、従前考えられなかったようなCrossoverというのか、Jam Sessionを見せて読者層をごく僅かであるが拡げている「舟の右側」はメディアとして「至極当然にやるべきであったこと」をやっておられると思う。まぁ、そもそもその手のCrossover戦略を雑誌で始めたのは、Ministryであったとは思うが。まぁ、もともと、不十分とはいえ、キリスト新聞自体がCrossover性を多少は持っていたメディアであるというのはあるだろうが。

           

          そもそも、「一人キリスト教フィクサーみたいなことして、何したいんです?」(大意)と若い友人から言われるほど、こういうCrossoverがいまミーちゃんはーちゃんの周りで実現しているのは、何より、Ministryと、舟の右側と、フェイスブックとTwitterとライト研究会やライト読書会のおかげであり、その利益を享受させていただいているという意味においては、自分が信仰を持ったグループの教会群にだけお篭りしていた時代について「そんな〜〜時代もあったよね」と一人感慨を抱いている。

           

          電子ジャーナル化する学術論文

          ところで、出版物に関して言えば、世界の学術出版の潮流は、電子ジャーナルである。先日もさる国内学会誌の共著論文が掲載されることが決まったが、割と新しい学会でもあるので、電子ジャーナル飲みにいち早く切り替わったが、アメリカなどでは古い学会でも、いわゆる名門学術誌でも、2000年頃から電子ジャーナル化への移行の動きが激しい。もはや、電子ジャーナル中心の感じもある。まぁ、紙で印刷していたものを入れておく図書館の箱物のスペースが、どうしても限られるのと、学問分野の細分化(プロテスタント教会以上にすごい)にともなって、ジャーナルの数と言うか、種類が増えており、もはや図書館は紙メディアはできれば、ご遠慮申し上げるということになっているようだし、国会図書館も博士論文の納入は紙印刷した現物でなくて良くて、電子データでの納入でも可能となっている。詳しくはこちら(http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/hakuron/index.html#chap2)。

           

          その意味で、紙に印刷した紙新聞のほうが、労力がかかっているから偉いとか、マスメディアに近いとか言う議論はナンセンスであり、電子的タブレットの時代に、由緒正しい粘土板タブレットで印刷しているから立派だ、というようなものである。実にナンセンスな議論であることは、たとえが露骨で、ろくでもないのはお認めするが、お分かりいただけるのではないだろうか。

           

           

          電子的タブレット

           

          粘土板タブレット

           

           

          現在のキリスト教メディアに思うこと

          さて、最近、フェイスブック上で、もうちょっと、クリスチャン新聞とか、キリスト新聞とかもうちょっとちら見せせてくれないと買う気にもなれない、もっと自分たちがやっていることに自信があり、他人に伝えたいと思うなら、Twitterとかフェイスブックでチラ見せしてよ、と喚いたら、キリスト新聞さんはチラ見せしてくださった。クリスチャン新聞の電子版等の記事の紹介というかリードでご紹介されているスレッドへのいいねの数も、最近は二桁に到達するものもある。漸くそのような状況である。

           

          たとえ良い記事を書いていても、押し込み型の新聞として、つまり定期購入している新聞として、購入してくれている顧客層への配慮もあるのだろうけれども、新規見込顧客には、あるいは書店で買う顧客には、それではどんな良い記事を書いても、伝わっていかないのだ。

           

          しかし、紙メディアを定期購読する人々のグループを持たない、そして、紙新聞の収益というものがないがゆえに、ウェブ広告からの収入に頼るしかないクリスチャン・トゥデイさんは、記者も関係者もアグレッシブにフェイスブックやツィッターでその記事を紹介しているので、Facebook上でのいいねは2桁、3桁を超えるものもあるようだ。それはそうだ。新興メディアならではの一種のギラギラ感と、量と速度は、他のキリスト教メディアの追随を許さない、スピードとボリュームとカバー領域の広さが大きい、という一般利用者としての印象はある。前にも言ったが、現在のメディアが、紙メディアから、スマホ・タブレットに移りつつある現在、ほぼ勝負会ったになっていると思う。現実的には。

           

          引用もやり方があるかも

          ただ、そのクリスチャン・トゥデイには言いたいことがいっぱいあるが(そもそも、米国での出発時点の名称問題で、クリスチャニティ・トゥデイと誤解を生みやすいクリスチャン・トゥデイ(後に、米国版クリスチャン・ポストに変更、と当初混乱しやすい名称にしていたし、それを日本では、なぜだか編集長もどうしてそうなったかの理由も知らずにその誤解を生みやすい名称を使っている、という関係もあるので、ほとんど信用していない、というのはさておいて)、国内取材のものはさておき、海外配信記事が、どうも日本語が正確でなかったり、誤解を招く日本語変換があまりに多いし、もともとの米国で配信したときのクリスチャン・ポストもそうなのかは存じ上げないが、あるいは、確かめることはしていないが、世俗のメディアの記事の丸パクりをしながら、引用元がない記事が多い。また、日本のクリスチャン・トゥデイでは、英文のクリスチャン・ポストですらの引用元リンクもウェブアドレスすらないという記事が多すぎる気がする。あえて誤解を生みたいのではないか、と勘ぐりたくなる程ではある。いくつか、日本語が変な内容があったので、英文のキーワードをGoogleにかけて、オリジナルの記事を見て、あぁ、なるほど、とわかったことが会った記事もいくつかあった。そのへんは改善の余地がかなりあると思う。

           

           

          このブログも、記事で引用が多いブログであるけれども、それは、ミーちゃんはーちゃんが売れてほしい本を紹介したいからである。ただ、いつも出版社とか、著者に怒られないか、とビクビクしながらも紹介しているのであれうが、紹介すると売れるからか、文句を頂いたことはない。一応、引用ということで書いているので、文章量は、引用した文章の最低2倍から3倍は書くことにしている。ただ、あまりに引用が多いのと、解説をやりすぎるので、本を読まずにこのブログの記事を読んで理解された気になっておられる方も案外おられるのではないか、という懸念は持っているが。

           

          しかし、話を元に戻すが、クリスチャン・トゥデイの日本語の海外記事の引用は、引用の範囲を超えていて、アウトの可能性が高いような気がする。

           

          それにしても、新聞というのは、床屋政談のための道具としての新聞だったし、それ以上はないので、ちゃんとした月刊の落ち着いた資料とする記事、すなわち、本格的な資料とする事実性を争うようなものは別として、キリスト新聞、クリスチャン新聞とかは、もうちょっと今を示すような動きに関して、床屋政談のための道具としての記事をウェブ空間上にもう少し出してくれていいように思う。それがクリスチャン・トゥデイには大量にあって、またそれが出るのが早いから、みんな、フェイスブックやツィッターで紹介して、それについてなんだかんだ、言って、床屋政談をしているに過ぎないのだ。

           

          それは、このブログも同じである。床屋政談の道具をもうちょっと学術風に、そして面白おかしく味付けして出しているに過ぎない。

           

          印刷型メディアの悩み

          ということを思っていたら、面白い記事が、ツィッターで回ってきた。正に、キリスト教メディアの現状を表しているように思った。フェイスブックとツィッターで紹介いたしたが、あまりに面白かったので、ここでも再掲する。最初見た日本語サイトはこちら「パブリッシャーたちは、烏合の衆と化している」:英全国紙幹部の告白

           

          最初に読んだ日本語サイトでの翻訳文の引用

          メディアオーナーはいまも並外れて革新的だ。業界からイノベーションを締め出そうとすれば、我々はあっという間につまらないものになり、コモディティ化するだろう。だから、人々がジャーナリズムの価値を認識しはじめ、規模の価値に誘惑されてその価値を譲り渡そうとはしていないのを目にして、私は勇気づけられている。

           

          ただ、気がかりなのはあまりに動きが遅すぎることだ。印刷物の凋落に気づくのも、デジタル広告の約束が果たされないことに気づくのも、アドテクの約束がだいたいにおいて夢物語であることに気づくのも遅かった。ビジネスモデルを変えるのも、パブリッシャーがグループとしてまとまるのも動きが遅い。戦う相手は無駄がなく、卑劣で、動きの速いマシンなのだ。我々は力を合わせて対処しなければならない。

           

          英語をもとに、ミーちゃんはーちゃんが日本語変換

           

          メディアの社主、あるいは、経営者たちは、今もなお、非常に革新的な考えを持ち続けている。出版印刷業界以外のすべての技術革新を握りつぶそうとした瞬間、われわれは、鎮痛剤のように鈍く(切れ味の良くないものになり)、そこらにある珍しくもなんともないものになり下がることになる。出版印刷業界の人々がジャーナリズムの価値を認識し、規模の大きさにより生じる価値にふり惑わされ、自らの魂を、規模の大きさを誇る電子メディアのようなものに売り渡そうとしていないことを見るにつけ勇気が湧いてくる。

           

          仮に電子メディアみたいなものに、身売りしようとはしてないとはいえ、業界の動きが非常に遅いことにはイライラを感じる。われわれは、出版物の価値の下落を認識するにあまりに遅く、デジタル広告が空手形を出し続けてきたことに気がつくのにあまりに遅く、広告技術といわれるものが、砂上の楼閣であることに気がつくにあまりにも遅いのである。そして、われわれのビジネスモデルを変革するに遅く、出版社のまとまりとして、一体となり行動するのが遅いのである。われわれは、不毛で、思いやりがなく(Lean Meanと韻を踏んでいる)、おまけに速度の速い機械と戦っているのだ。だからこそ、われわれはその思いやりのない機械との戦いに向かって、まず第一歩を進めるべきなのだ。

           

          日本語のサイトからGoogleで語を推測しつつ、ミーちゃんはーちゃんが特定したサイトConfessions of a national newspaper exec: ‘Publishers haven’t got their shit together'の英文

          Media owners are still being incredibly innovative. The minute we try to squash all innovation out of the industry, we’ll become anodyne and commoditized. And I’m encouraged to see people beginning to recognize the value of their journalism, and not being so seduced by value of scale and giving it all away.

          But what bothers me is it’s just too slow. We were slow to recognize the decline of print, slow to recognize the failed promise of digital advertising, and slow to recognize that the promise of ad tech was a mirage, to a large extent. We’re slow to change our business models, and we’re slow to get our act together as a group of publishers. We’re fighting lean, mean, fast-moving machines. Let’s step to it.

           

          その意味で、今はメディアの変換点にあって、世俗の伝統的なメディアでもその転換点にどう乗っていくのかで戸惑っているのであり、コアの部分をどう残しながら、いまという時代にどのような奉公に転換していくのか、ということが問われている時代であり、それに乗れなかったものは、市場から黙って退場されることを求められるのが、資本主義を前提とした社会のルールではある。

           

          それにただただ唯々諾々と従う必要はないけれども。

           

          唯々諾々と従わないのであれば、ルールに則りながら、ルールや既存の利用できる資源や技術を利用し、生き延びる方法を必死に考えるしかないのだ。方法は難かあるし、創造的なブレークスルーをすればいいのだ。独りでできないなら、外部知識を活用すればいい。外部資源を活用するのは、以前にも書いたように、いまでは、当たり前になっているのだ。もう、社会自体がネットワーク化しているので、そのネットワークの力を広告をもらうにとどめておくのはもったいないのではないか。だからといって、外部の言うことに振り回されてはならず、自分たちのコアコンテンツである、キリスト教、及びキリスト教徒、キリストが王であるとする人々が必要とするものは何か、従来の伝統は横目でチラッと見る程度に尊重しつつ、変化していく社会の中で生きるキリスト者たちが必要とするモノは何か、それらをどう提供できるのか、ということを考えるべきだと思う。まぁ、伝道団体という殻や枠組みにこもりたいのなら、こもられたらいいと思う。その辺の割り切りは要るだろうから。

           

          コアを維持しつつ環境変化に追随すること

          この記事を書く前後に、ある方が、プレジデントの記事をTwitterで紹介しておられた。マクドナルドが変わったことに関するインタビュー記事である。マクドナルドにとって、コアビジネスを大事にしながら、変われることが強み、だそうである。コモディティ化したとはいえ、ハンバーガーを日本で売りまくっているマクドナルドですら、自己を一介のハンバーガー屋だと認識しながら、果敢に挑戦しておられる。もちろん、伝道と企業は違う、という話は腐るほど聞いてきたから、その背景もその理解もある程度理解している。しかし、結局人や社会を相手にしているという点の共通性はあるのではないだろうか。そのうえで、参考にできるところは参考にし、参考にできないところはスルーするくらいの知恵は皆さん、蛇のように聡くあれ、とイエス様からも言われているので、賢い方々だと思う。


          元記事はこちら マクドナルドはなぜ急速に業績回復できたのか? から。

          マクドナルドはなぜ急速に業績回復できたのか?

           

          ――ある時期まで、大型店を含めて閉店がとても目立っていました。今後は店舗を増やしていくのでしょうか?

          【下平】戦略的閉店は今年で終了しました。これから成長の段階に移行することになりますが、まだまだ既存店への投資が十分に終わっていません。既存店を改装し、QSCを上げて、新たな人材を採用してトレーニングを行う時期だと考えています。今は店舗を増やすというより、土台の部分を強固にしていきたいですね。

          振り返ってみると、10年ごとにマーケットは大きく変わっています。それまで成功していたビジネスモデルが通用しなくなるときが来る。ドライブスルー店舗は、ずっと成功していましたが、ある時期から通用しなくなりました。ならば、また新しいビジネスを考える。マクドナルドの45年の歴史は、ずっとその繰り返しです。どんどん変化できることが、マクドナルドの強みだと思います。落ち込んだときこそ、成長の契機なのです。

          「変われること」がマクドナルドの強み

          ――変化できずに失速していく大企業が多い中、どうして変化していくことができたのでしょう?

          【下平】我々は自分たちのことを大企業だなんてまったく思っていません。一介のハンバーガー屋さんですよ(笑)。グローバルブランドの栄光だけで商売はできません。地域を大切にして、お客様一人一人を大切にしない限り、成功は絶対にないでしょう。こうした考えの下で、QSCの向上も、メニュー開発も、地域に特化した戦略も、一貫して通してできたことが、2年間という短い期間で復活できた要因だと思います。ただ、お客様の変化にあわせてマクドナルドも変化していかないと、すぐに置いていかれてしまうでしょうね。

           

           

          日本ではキリスト教はサブカルである。大変失礼な物言いではあるが、そのサブカルの中でも、キリスト教メディアはサブカルの中でのサブカル的存在である。それにすら過ぎないのにブランドがどうのこうの、のれんがどうのこうの、伝統がどうのこうの、ってねぇ。個人的には、大変面白いですね、と申し上げたい。まぁ、それなりにそれらのことはあるけれども、新教出版の雑誌『福音と世界』も、うまく行っているかどうかはよく存じ上げないが、この数年様変わりが激しくて、目が離せないし、舟の右側みたいに、マクグラス先生が、福音派と正教の霊性は案外近いのではないか、ということを日本という辺境であるがゆえに実証させた雑誌もあるし、まぁ、入り乱れての乱戦、正に乱世のようなキリスト教メディアの有り様を面白く拝見させてもらっっている。

           

          次回は、ネットワークとWebメディアとの既存メディアとの違い、Webをアウトリーチのツールとしていく際に少し、気にしておくべきことを再考し、再び整理して述べることにする。

           

          次回最終回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

          2016.12.12 Monday

          Web時代におけるキリスト教メディア(5)最終回

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            今日は、お約束どおり、キリスト教のウェブメディアで、ウェブメディアの技術的特性とちょっとだけキリスト教界との関わりの部分を少し考えてみたい。

             

             

            その前に、現在のWebシステムの基本モデルを作った、Tim Berners LeeというオジサンのTEDでの講演を見てもらいたい。

             

             

            まず最初にこれである。

             

            Tim Berners Lee の 次世代のウェブ (一応日本語字幕付き)

             

            日本語字幕付き公式サイトの方は こちら https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_on_the_next_web

             

            そして、次にこれである。

            Tim Berners Lee の ウェブのためのマグナ・カルタ (一応日本語字幕付き)

            日本語字幕付きの方は こちら https://www.ted.com/talks/tim_berners_lee_a_magna_carta_for_the_web?language=ja

             

            これらの動画の中で、この早口で喋っているオジサンであるTim Berners Leeが考えたことであり、実現したことである。基本的にデータを使い倒すために、関係性をハイパーリンクという装置で繋がる形にしたウェブに上げておくことで、制限なく、データ変換とか、フォーマット変換とか、めんどくさいことなく、データを自由に使える世界をめざして、データを載せて運ぶハコの設計をしたということである。そして、それが便利であったのでインターネットの世界で、広く普及した、ということだと思うのだ。

             

            つまり、このオジサンがやろうとしたのは、それぞれの組織や個人が退蔵していた知的資産であるデータを、ウェブというツールというか道路を作って、交換でき共有するという高速道路で交通するための車を作った、とういことなのだ。

             

            ウェブシステムという情報のハコ

            そして、今Webという、情報のハコをあつかう人々の中に、勝手に本来鍵付きの箱の中身を見たり、不適切な中身を入れたりするような負の側面が出てきていて、通信の盗聴もどき監視の問題や、悪用の問題、ある人には自由に使えるのに、ある国にいるというだけで通信や利用に制限がかけられている問題など、様々な問題があることをTim Berners Leeは認めた上で、そのハコを使って便利に生きる人たちの生き方を保証するために、ウェブの関係者が主体的に、国境と言う枠を超えて、ウェブの世界の憲章を作ろうとしている(2つ目の動画)ということなのだ。。これは国民国家という概念の利害や理念と遥かに飛び越え、その価値概念を壊してしまうが故に、脅かされる国民国家の側でも、使わせない、触らせない、政府の監視のもとに置く、という方法論が取られることもあるし、そういう国も会って、それは不幸なことではないか、とこのオジサン Tim Berners-Leeは主張しているのである。

             

            ところで、このウェブというハコについている、リンク(ハイパーリンク)という概念が重要なのだ。つまり、それまで独立に、Stand Aloneで動いていたデータを扱うシステムを、ハイパーリンクを介して色んな人と繋いで、みんなでそれまで退蔵されていた、あるいはダンボール箱に入れて、地下の倉庫にしまわれていた、データを出してもいいという人から出してもらって、そのデータを使って、何かをやれる共通の土台を作ってしまった、ということであり、それは効率化や、研究とか知的作業をするために必要とされる、同じようなデータをバラバラに独自に作るという、二重投資を防止することが図れるということである。反面、ウィルスを含めた悪しきものが共有される、ということである。要するに、利益と被害のバランスの問題ではある。利益(メリット)もあれば、不利益(デメリット)も起きるというのは、技術の世界だけではない。真面目でかっちりと仕事をする人々は、確実で間違いの少ない社会を生み出すが、やたらと時間がかかり、融通の利かないという社会を生み出しかねないのだ。要はそのバランスをどう考えるのか、ということである。

             

            さて、またいつものように余談に行き過ぎたが、このリンク、ハイパーリンクというのは、どこでもドアみたいな存在で、このハイパーリンクが貼ってあるだけで、予想もしてないところに出てしまい、新しい概念と突然に出会ったり、あるいは、その新し概念と出会うことで、従来想定できないような人間間のつながりを生み出すことにもつながるのだ。インターネットとハイパーリンクがなければ、或いはフェイスブックとTwitterがなければ、おそらくN.T.ライト読書会とも、N.T.ライトセミナーとも、主催しておられる先生とも、そこに参加する皆様(先生がたや、先輩がたや後輩の皆様方)とも出会うことがなかったし、今のような生き方はできなかったのだ。つまり、ハイパーリンクは、一種の概念や組織や、人間への関係性を開くためのどこでもドアを用意するということに等しい。このハイパーリンクの存在によって、講義型の講演会では起こり得ないことであるのだ。

             

            ありがたく講演を拝聴し、結構なお手前で、と言って帰り、後援について、自分の中だけでうじうじするだけしかなかったのが、うじうじしている人同士が対話はできなかったのであるが、今は、それを口に出す勇気さえあれば、自分ひとりがうじうじしていたのではなかったのだ、と知ることができ、また、同じような境遇の人々と対話もできるのだ。これは紙のメディアにはできないことである。

             

            紙メディアにはできないこと

            また、ハイパーリンクで、画像や動画や、音楽などにいきなり移動するというのは、紙にはできない。以前、某市役所で報告書が出るような委員会で委員をしたことがあるが、その委員会の時に、これまでは、分野分断的にこの範囲は、ここだけ考えるという形で進められてきたのであるが、しかし、現実は、それでは不都合なので、あること(例えば、学校の問題)と別のこと(例えば、治安の問題)などが深く関わっていることもあり、それがなんとかできないか、ということを必死になって、工夫はしたが印刷物ではどうやっても限界が会った。しかし、印刷物で報告書を出さないといけないので、仕方がなく、紙の印刷物で印刷して市民の皆さんが手に取れるようにした。じつはその委員会の報告書をまとめていく段階で、このハイパーリンクという概念をどう使うのか、ということが問題になったのだ。そして、この概念の議論の中で、現実の問題の対応を考える際には、情報の編集ということと実に深い関係にある。これは、ハイパーリンクを貼ることで、ある概念と別の概念を意味空間で近づけていく、という作業である。

             

            そして、Googleとか、Bingと言った検索システムが活用できる、というのも、この種の電子型メディアの特徴である。ただ、このタイプの検索エンジンは、同じ単語がたくさん出てくるとか、文字配列の上である文字と別の文字の間の文字数とかを数えて、それによって重みをつけるというやり方(アルゴリズム)をしているので、そのアルゴリズムの特徴や癖をよく理解していれば、そのアルゴリズムが引っかかりやすくなるように、少し書き方を工夫しておけばよいのである。

             

            それを意図的にやって、誤りの含むというよりは、意図的にコンテンツの中身をデフォルメして掲載していた東京近郊の野球チームを保有しているウェブ関係の関係会社のサービスのWEL●とか、・・・・とか、言うところは、そのアリゴリズムに引っかかりやすくするためにコンテンツをコピペで自社のハコの中に詰め込んで、自社のコンテンツのアクセス数を増やし、そして、ウェブサイトの通過者、ウェブサイトに来訪した人一人に数銭あるいは数厘単位で計算される広告からの収入を集めようという、ケチなビジネスモデルなのである。これらの閉鎖されたサイトでは、中身の重要性は気にしていなかった。その意味で、演劇の際に使う、奥行きのない書割、あるいは、結婚式場教会に多い奥行きのないシステムであり、速攻で費用が発生し、効果が測定できる短期的な収益を目指すモデルで運営されているであり、そういうことをする業者が生み出したシステムであった。それゆえに生まれた問題でもあったのである。その意味で、今回はかなりセコいやり方の事業者であり、そのセコさ、検索エンジンに引っ掛けてもらおうとかいうセコさ、そして、数厘単位のチャリンチャリンの回数を増やそうというセコさをが起こした悲劇であったと思う。

             

            これに対して、紙媒体の広告やチラシは、配ってなんぼであり、その意味で効果がある無しに関係なくやるランプサムでの支払いという、効果は余り気にしないタイプのビジネスモデルであり、長期間かけて投資、ないし費用対効果を回収するという意味では、この両者はかなり違うのである。その意味では、

             

            パッと見の良い概念への入り口と言うかハコがすぐに作れる

            これは、森本あんり先生の「反知性主義」に関する連載の時に思ったが、本にすることに、森本アンリ先生はきっと、イライラされただろうなぁ、とは思ったのである。なお、森本あんり先生の「反知性主義」はアメリカのキリスト教を哲学的反省するためには、極めて有効な本である。

             

            なぜ、そう思ったかというと、紙の本は基本印刷が白黒なので、ビビッドな画像が使えない。動画に至っては、写真化したものを引用することしかできない。それが、ブログとかだと、映画のTrailerを引用して、画面上に見せることができる。画像を引用して総天然色(めっちゃ懐かしい)ほどではないにせよ、一定のクオリティで見せることができる。あるいは、誰かの映像をそのまま引用できてしまう。そして、そうしながら、その引用に対して、ああだのこうだの、自分自身の思いを床屋政談よろしく好き勝手かけてしまうのだ。

             

            なお、その意味で、ウェブ技術というメディアにせよ新聞というメディアにせよ、要するにハコでしかない。そのハコをどこに繋いでもらうのか、そのハコに何を入れるのか、そのハコに何が入っているのか、を最終的に判断するのが、それの箱の中身をどう判断するか、同利用するかはそのコンテンツを受け取った個人なのである。

             

            それを、ウェブに書いてあるから真実だ、新聞に書いてあるから真実だ、テレビが言っているから真実だ、とか、ほとんどナンセンスな議論であり、そもそも、ミーちゃんはーちゃんはキリスト教徒あるいは、キリスト者なので、真実なるもの、誠実なるもの、義なるものは、聖四文字なる方しかいないと思っているので、メディアであれ、人であれ、ある程度、誤りを含まざるをえない、その程度のものだと思って生きてきたし、生きているし、これからも、生きることであろう。専門家だって、間違うし、当たることもあれば、当たらないこともある。自分という人間ですら、信用ならないと思っている。ただ、一般に、当たる確率が、ランダムに誰かの言うことを聞くより、ちょっとマシ、という程度のことと思っているし、だからこそ、一次ソースにきちんとあたって、自ら検証し、慎重に、考えることが需要なのだと思っている。それすらしないで、新聞に書いてあったから、テレビが言っていたから、有名人が言っていたから、ウェブで検索したら一番最初に出てきたから、まともであると信じるほうがどうかしていると思う。

             

            その昔、洋書講読という時間を担当したことがあって、その洋書講読という講義でも学生さんのお世話をしたことがある。外国というか、露骨に言えば、英語の本を読む時間であった。この英語の本であるが、通常の学部クラスの英語のテキストも使ったことがある。その学部クラスのテキストや大学院クラスのテクストを読むこともできるが、それをやると、学生がほとんどもたないこともあるので、ちょっと入門的な専門分野の関連書籍(だいたいガチのアメリカの大学生向けの専門書をすらすら読んでわかる大学生は非常に少なく、1,000人から10,000人に一人くらいである と思う)を読む授業の一環があった。この授業では、あまりに学生の発表内容がちょっと昔の「機械翻訳かけた?」と聞きたくなるほどひどかったので、その講義を担当するときの唯一の楽しみは、学生さんが意味不明の発表をしてもらっていた時に、ツッコミを入れることである。その時の会話を以下に再現してみよう。

             

            ミハ氏「ン、今発表で言ったのは何ページのどこの部分?」
            学生「○○ページの第3パラグラフの最初の文章で・・・・」
            ミハ氏「あぁ、…の部分ね。ちょっと違うと思うけどなぁ…」
            学生「Meanといったら、手段じゃないんですか?辞書に書いてあったんですけど・・・」
            ミハ氏「それ、辞書が間違っているか、辞書がボロいんじゃない?」
            学生「この辞書なんですけど、ボロいんですか?」
            ミハ氏「うーん違うけど、その辞書にはなんて書いてある?辞書開けて、ご覧」
            学生「先生、これですかね。平均」
            ミハ氏「BooBoooo!ハズレ!つぎは?」
            学生「方法」
            ミハ氏「BooBoooo!ハズレ。この単語は、名詞かな?形容詞かな?」
             
            …(学生は単語を次々と読み上げ、「ハズレ!」をミハ氏は返し続けることになる)

             

            学生「じゃ、意地悪な?」

            ミハ氏「しぇいかい。ピンポンピンポンピンポ〜〜〜ン、大当たりぃ!!」

             

            という会話が毎年毎年繰り広げられていたのであった。個人的には、学生が面白い訳語を次々と拾ってきて、変な文章にして、笑わせてくれるので、一番担当するのが好きな授業の一つであった。

             

            印刷物にしかできないこと

            Webは、使い捨てメディアのある種の極致であり、ある若い友人によれば、トイレの落書とのことである。実は、作る側としても、それ以下なのである。ミーちゃんはーちゃんは、ポスターのデザインなどもやるので、PhotoshopとかIllustratorとかでは、かなり細かな位置とか字詰めとかデザインのコントロールができるが、Webは、What you see What you get WYSWYG(ウィジウィグと発音する)がいわれてはいるものの、いまだにそれが思ったようにできない。思った通りにするためには、PhotoshopとIllustratorを使って、画像化してからでないとうまくいかない、ということが多い。

             
            いちばん大事な点は、印刷物と言うモノ性を抱えたものには、あなたにだけプレゼントする、というような人間の思いを乗せることが割りとやりやすい、というところがある。ものは、一点ものという言葉があるように、排他的な利用制限が可能である。それが例えば、本とか新聞といった形であっても、ものであるがゆえに、可能になる性質である。

             

             

            本ならこういうことも http://www.phil-sears.com/new_page_12111.htm から

             

            もちろん、他の人には見せないウェブという鍵付きのサイトを作ることもできるが、それは、本来データの交換と情報の共有で社会のめんどくささをなくしていこうとするウェブには逆行するあり方であり、また、Pullしてくる人には、開放しておくということを前提にしている以上、本来は多少まずい使い方だと思う。

             

            あと、電気がなくても見えたり、電池切れを心配する必要はない、という点も、非常に優れた特徴として、紙メディアにはあるかもしれないと思う。また、紙メディアは取材、文字による記事化、さらに、印刷用の割り付け、版下作成、という手順がかかり、その上で印刷という手順を踏まないといけないので、リードタイムがかなり掛かるし、最悪そのリードタイムが長いことから、出版直前で発行を止めることができるという特徴はある。その意味でも、ウェブは修正してあげるためのリードタイムは、数分単位であるが、紙の場合、数時間から数週間単位の時間を要するなど、即時性、瞬時性については問題を抱えているメディアではある。

             

            正規軍型組織のためのマスメディアと

            ゲリラ組織のためのWebシステム

            正規軍型、つまり平原で大軍と大軍が正面からぶつかるような戦闘が正規軍型組織の戦闘である。日本史上の出来事で言えば、関が原の戦いとか、川中島の戦いとかという戦いである。あるいは、戦車戦で言えばアンツィオ作戦とか、バルジ大作戦とか、海戦で言えば、日本海海戦やミッドウェー海戦などが代表的である。ちなみに、こういう海戦タイプの戦闘では、事前に作戦計画書とそれぞれの役割が定められており、それに従って戦闘行為を展開していくのが、基本である。そのためには同じ作戦計画書と同じ作戦行動に関する情報を共有せねばならず、同時内容、一斉発信型のマスメディア型のメディアが必要になるのである。

             

            http://nabe3rr.blog21.fc2.com/blog-entry-795.html?sp さんから

             

            しかし、ゲリラ型作戦を行うためには、そこまでの一斉行動をする必要がなく、通常の場合、正規軍という相手の消耗やモラルの低下を導くことが、相手の戦闘継続能力を低下させれるためには、何より有効であるので、不確実性が一定程度で存在しでも、利用できればなんでもいいという側面がある。もともと戦闘そのものがゲリラ戦の場合、場当たり的であり、出たとこ勝負ということはある。

             

            今でこそ、インターネットは常時接続であるような印象があるが、もともとDarpa Netの頃は情報のバケツリレーをやている感じで、あるところまである時間に運ばれ、その別の一部は別のところから別ルートでバケツリレーとして運ばれ、サーバーと呼ばれるところにためて置かれる、という構造になっていたし、原則、今でもそうなっているが、計算機の速度を含めた能力と、回線の速度と頻度が上がっているために、あたかも一瞬で運ばれているかのような印象をお持ちかもしれないが、基本的にはボランティアのバケツリレーで、宛先付きに小分けにされた通信内容の入ったパッケージを、相互の信頼において、宛先が指定されているあたりの適切な指定場所に相互互恵的に運び合うことで運用されているのである。

             

            その意味でも、相互独立型で、それぞれの主義主張に合わせて動いている組織の互恵関係で運用しているという意味でも、アングラ的であるし、AからBへのリンクが貼られることもあるが、逆にBからAへのリンクが貼られることがないとか、BからAにリンクが張られているものの、AがアドレスをA’に移しているためにBからA’に行こうと思っても、Aしか出ず、あれれ、ということが平気で起こるのは、それぞれがそれぞれのところでそれなりに対応する、という概念で動かされているからではある。そもそも、手前勝手、好き勝手に場当たり的に関係を作るという、正にゲリラ的な生き方で運用されているのがWebの世界である。

             

            本来、システムの問題ではなく、

            組織の構造の問題かも

            ということを思っていると、お友達が横浜市のWebサイトを巡る問題の話を上げていた。要するに、横浜市のWebサイトがダラダラと基本設計なく建て増し建て増しで増改築を繰り返し作られていて、サーバーもいくつもあって、おまけにサーバーにあるのだが、なんのために作られたかわからないサイトや、情報が乗ったHTMLファイル、なんのために要るのかわからなくなったファイル、リンクを辿りたくても辿れない、そのサイトから辿っていくと突然行き止まりになる、と言ったほとんどミノタウロスの洞窟(あれは糸を使うというかなり原始的な方法で脱出口を発見したことになっているが)状態になっているので、サイトの再構築を請け負った業者が横浜市が仕様設計段階で言ったことと話が違うではないか、ということで、訴訟を起こし、相互に訴訟合戦をしているらしい。部外者として高みの見物をしている分には、実に愉快愉快と言いたくなるような状態が生まれているということらしい。それを見ていたある方が、情報やっている会社なのに・・・けしからん、というコメントをお友達の板に残しておられたが、それは現実をよくご存じない方のご発言だなぁ、と思った。

             

            いつもながら、金融機関の話ばかりで申し訳ないが、合併とか、適当に初期設計が十分でない中で、やっつけでシステムを作ると、こういうことは起きるのだ。これが起きたのが何年か前のみずほ銀行のATMが止まってしまった事件である。みずほ銀行のシステムは、旧富士銀行、旧第一勧業銀行などと行った幾つかの銀行のシステムを吊橋で繋いだようなシステムで、その吊橋部分に不具合ができ、全システムを止めることになったという事件なのである。

             

            こんな感じか?

             

            横浜市のウェブサイト問題に見る

            組織構造とウェブサイトの問題

            横浜市も、とりあえず市民への情報発信を急ぐ、ということで、このあたりの基本設計なしに部局単位で勝手に共通仕様を設定しないまま、各部局単位の情報発信を始めたのだろう。これは、システム屋なら、お考え直しになられたほうが良いのではないですか。少なくとも、共通仕様を設定されてはいかがですか、後で面倒なことになりますよ、といったはずだが、まぁ、それは虚しくこだまになったのであろう。こういうことはよく起こる。システム設計は、普通の人には意味がわからないからだ。

             

            横浜市のウェブサイトの問題を指摘するウェブページ

             

            スマホで“超”見づらい横浜市のホームページ、リニューアルできない驚きの理由

             

             
            まぁ、共通仕様を定めずに、データを引っ掛けるためのインターフェースも、タグも、管理方針も何もないなか、五月雨的に開発すると、スパゲッティどころか、毛糸が絡み合って、あちこちに瘤があって、それを機械的に処理するよりも、人の手により解きほぐしていくほうが、良いという状態になっているのだと思う。想像もしたくない。
             
            プログラム開発なら、ドキュメントも残っていようが、Web作成などは、ドキュメントもへったくれも残っていることなどは、ほとんどありえない。おまけに、役所のことだから、一つの業者に継続して随意契約でまとめて発注するのではなく、一つのサイトごと、下手したら一つか複数のファイルごとに、入札かけて、最安値の業者に発注かけたりしているから、設計思想も実際のコードも、いくつかあるXMLのコード体系も、開発時期によって違うとか、出来上がっているサイトのスクリプトなんかもてんでバラバラなのだろう。おまけにファイルとしては存在は確認されているのに、どういう目的で誰がいつ作ったか、定かでないウェブページが、数十万単位で存在するらしい。作成したソフトウェアに至っては何をか言わんや。メモ帳で作ったもの、エディタで作ったもの、ホームページビルダで作ったもの、下手をしたら、ワードで作ったもの、エクセルで作ったウェブページとか、色々あるだろう。
             
            同じマイクロソフト社の製品でも、ExcelとWordは昔はかなり設計思想が違うので、エクセルとワードをVBAのマクロで動かすとかは結構苦労した記憶がある。最悪なのは、役所には定期人事異動という難物が待っている。2年から最大7年くらいで、定期人事異動が役所では回ってきて、同じ部署にいる人は、よほど余人を持って代えがたい人か、余人を持って変えると問題が起きる職場か、その職場以外務まらない人がいて、他の職場で問題行動を起こすと困るので、人目につかない職場にいていただくのかのいずれかの場合が多いので、難の目的で、このファイル作ったんですか、誰が作ったんですかどういう構造ですか、どうしてここでこのスクリプトを使っているのですか?と聞きまくって、結局1週間かけても、かえって謎が深まっただけ、で終わることはザラである。
             
            こういうことは役所の情報システムだけで起きているのではなく、行政関係の書類でも時々起こる。頻繁に使わない書類は役所の地下にある倉庫とか、屋上にある倉庫、階段の下にあり、人目につかない倉庫に保管されることが多く、いざ、その書類を探そうとするとか、地下倉庫に入ってみると、妙な書類入りのハコなどが見つかることがある。まぁ、日常のことは、ある程度皆さん、やり方のルーチーンがあって、そのへんの関係部署に聞けば、大抵のことは問題解決がすぐ済むのであるが、めったにしないことや、めったに動かさないものを調べるのは、あのあたりにあるはずだ、ということはわかっても、それがどこにあるのかはわからなくなることが頻繁に起きる。そして、その場限りの思いつきで、適当に書類入りのハコをみんなが動かすので、大事な書類や物品でも、めったに使わないものは行方不明になっていて、あれ、なんでこんなものがこんなとこにあるのだ、と言うものが発掘されることがある。大学なんかでも、妙な骨董品状態のものが屋根裏の倉庫室から見つかるなんて話は、結構ある。

             

             

            アメリカでは、刑事事件の証拠物品などが、警察の証拠品室や書類室で行方不明になって、結局迷宮入りとか証拠不十分で不起訴とかいう話は結構あるし、その辺を扱った警察ドラマなどもある。代表的なものとしてはCold Caseという、テレビドラマのシリーズである。結局役所と言っても、その程度のものであり、であるからこそ、投票前の投票用紙が紛失してしまったとか、焼却処分にあってしまったなどということは時々起きる。起きて張らなないことであるが。まぁ、ドラマの中では、フィラデルフィア警察は、証拠保管能力が高いらしく、何故か、適切な、迷宮入りしたはずの事件の記録が入ったハコがドラマ中によく見つかる。

             

             

            TV ドラマのColdcase
            組織が記憶できない形の組織だったり、こういうものが行方不明になる組織タイプの組織では、その組織構造の特性がより歪んだ形でWebの世界にはできてしまう傾向があり、いくら計算機屋でも組織の根本構造そのものまではどうやってもいじれないので、今回の横浜市のような事案が発生する。それは避けられないのだ。
             
            まぁ、Webのような自己増殖的なネットワークに対応できる、水分たっぷりのスライムみたいな柔軟と言うか可塑性に満ちたものは、却ってどうにでもなるので、あとで始末に困ることがある。そのためには逆にきっちりとしたコンテイナみたいなものが要るのだ。
             
            今回横浜市の案件も、基本設計を決めて、担当部局が出したいデータを、もう一度一から作って提出させれば住んだ話を、それを各部局がしたくない、というワガママ(本当にそういうのは、意識低い系だと思うが)をそのまま何も考えずに、横浜市の各部局のわがままをまるごと業者に丸投げした結果、どうにもこうにもならなくなった、ということだろう。どんなシステムであっても、移行作業にはミスがつきまといがちだし、避けられないし、けっこう大変なのだ。単に、プログラム・コードでなんとかできる話ではない。

             
            アウトリーチツールとしてみた
            Web作成の際に知っておいたほうが良いこと
            今、Webが社会の知的インフラになり始めているように思う。ちょうど、今は、公衆電話が町のあちこちに置かれ始めた時代と似ているかもしれない。その時代には、公衆電話が音を遠隔地まで運んでくれるので、電話線に風呂敷包みをぶら下げておくと、電話線を通じて、風呂敷包みがテレポーテーションされるのではないかと思ったとかいう話があったように聞いているが、今はウェブの使われ方がその時代のような状態なのだと思う。そして、電話がファックスになり、自動車電話になり、ポケベルになり、携帯電話になり、スマートフォンになっているが、ウェブ自体は、電話というものがあると人々が認識し始めた頃のようだと思おう。その意味で、電話は100年位かけて、その当たり前の使い方が社会に形成されたように、ウェブは、あと10年とか20年で当たり前の使い方、冒頭のTim Berners Leeのにこめの講演のように、自分たちでその正当な作り方や使い方を形成しようとする動きが出ているから、それがあと10年位で当たり前になっていくように思う。
             
            その意味で、電話の普及初期に風呂敷包みをかけたような、まだまだ使い方がわからない人たちが、Webを使おうとしていて、それがどのようなものか、どのような社会的意義を持っているのかをわからずに使っているという感じであろう。そして、まぁ、本来の使い方とは違うとおもわれるようなアファリエイトとか、まとめサイトとか、ライターとかの小銭儲けの仕事の道具としてのWebを見ているのだと思う。まぁ、ウェブってメディアって色んな使い方はできるけど、ホントは違うよね、恥ずかしいよね、って言うデ・ファクト・スタンダードがその内できていくと思う。
             
            もともと、ヒッピー的なボランティア精神で出来上がってきたツールを、そこに金だす人がいるからと言って、Webというコンテナ、道路を自分の小銭の打出の小槌として使わないほうがいいと思う。それはセコいことだと思うのだ。しかし、それがセコいことだ、恥ずかしいことだ、ということのきっかけにおそらく今回のWEL●サイトなんかはなるのだろうと思う。
             
            その意味で、ウェブの世界は現金化のための簡単な金儲けのツールとしては考えないほうがいいかもと思うのだ。金儲けの決済とか、金儲けのコミュニケーションのためのツールとして一部使えたとしても、それを目的とするのは、一種目的外利用の疑念がある。まぁ、技術だから、何にでも使えるのはすべての技術共通であるが。
             
            ところで、Tim Berners Leeの第1講演をご覧頂いた方はわかるとは思うが、Tim Berners Leeは、壁を超えていくためのツールとして、Webの世界と、その先に実現するであろうOpen Data(オープン・データ)の世界を考えているようである。つまり、本来、国境とか、制度とか、技術標準とか組織の壁とか言ったわけの分からない縛りは、一時的なものでそれは意味があるものではない世界としたい、そのような制約から自由になり、異なる世界と対話していくための、そして、協力し、協業していくための技術的な枠組みについての議論をしている。そこで問われるのは、その異なる世界と対話していく精神があるか、とうことである。対話が成立していくためには寛容な心、オープンな精神性を持つ独自性が対話しようとするものとの間にあるのか、それだけの根性があるのか、私の世界になんとか、引き入れたい、あわよくば信者になってもらいたいという下心ミエミエのケチな精神では、人は逃げ出すということである。
             
            ロング・テイルな情報はあります

            さらに、Webでも他のことでもそうであるが、あまりに短期的な生き方をしない方がいい、ということだと思う。我々は、ナウエンがその著書でよく指摘するようにあまりに短絡的、あまりに近視眼的な生き方しかしていない。数時間単位、数日単位、数週間単位でしか物事を見ない。1年ですら考えていないのではないか。

             

            ところが本物は、違うのである。これは古典とかクラッシクスと言うものの出来方は、どうも短期的なものではないのではないか、と思っている。個人的には、このブログを通して、クラッシクスができていくのを目の前で、見たようなきがする。わずか数年の経験でしかないが。いわゆる、それは、Webの世界で言うロング・テイルコンテンツと言われるもので、リリースした当初にはあんまり反応がない事が多いものの、いつの間にか評判になり、意味を見出され、クラッシクスになっていて、一種の定番商品のようになっているコンテンツがいくつかある。このブログでは、常連さんの

             

            現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

             
            という記事がそれにかんけいするかもしれない。あれを書いた当時は、難の気無くある書いた記事である。それがここまで人気のある、上位5位以内の常連さんになるとは全く思っても見なかった。Webの世界ではそれが起きる。それを目指して書いたわけではないのにである。
             
            Long Tailと検索エンジン対策への最適化 http://blog.directorymaximizer.com/2011/11/ から



             
            双方向的なコミュニケーションのWeb
            一方的なコミュニケーション中心の教会
            教会での説教などや学校の授業などの情報提示の世界は、基本、一方向的である事が多い。ところが、炎上という語にも見られるように、ウェブの世界では一間一方的に離しているようでありつつ、双方向的な部分を持つ。人を怒らせるようなコメントを書いていくる場合もあるし、悪しざまに言われることもある。
             
            このブログをかなりの頻度で書いていることで、このブログの筆者であるミーちゃんはーちゃんのやっていることを中傷するブログまでわざわざお立ち上げになられた方がおられたことがある。その事実を所属長からご教示いただいて、ミーちゃんはーちゃんが勤務している所属組織で過去に起きた不祥事などを掲載しながら、その所属組織まで廃止したらいいという発言を匿名のブログでなされた方も、過去におられた。何が気に入らなくて、そのようなことをなされたかは存じ上げないが、実につまらないことをされる方もおられることは確かのようだ。そのサイト自体は、なぜか、いつの間にかなくなっていたが。
             
            そういう人たちとも対話し、尊重し、向きあうための心構えはすくなくともいるだろう。相手を何らかの形で、切ってしまったらおしまいのような気がする。どんなにひどいことを言われようと、どんなにひどい対応を受けようと、そうする人と向き合う根性というか忍耐力があるか、ということだろうと思う。

            その意味では、このあたりは、キリスト者は本来お得意のはずなので、Webは、ある面、キリスト教会関係者向きなのかと思いながらも、結構キリスト教界界隈の皆様は、突然その戦闘民族性を出される方が多いので、揉めたり、炎上したりしていることも多いので、まぁ、どんなものだろうと思うことも多い。他の宗教者の集団はWeb上の友達に少ないので、そう思えるだけのことなのかもしれないけれども。
             
            ところで、相手の意見を受け止め、対話しながら、自分自身を見直していくところにシナジー効果が働くように思うのである。じぶんはまったく1ナノ・ミクロンも変えない、自分の意見とあわないものの意見は認めない、自分と意見の合わない者は黙殺、圧殺する、というようなあり方では建設的議論も、豊かな対話も、豊かな社会も生まれないように思う。相手の存在と意見を認めつつ、自己についてのみ自己の熟考の上で変えられる部分は変え、留保条件をつけた上で他の人々の意見と繋いでいく事、他者の存在を受け入れる事、すなわち自らの生き方の編集作業ができることが重要なのだろうと思う。
             
            そして、意見の併存を認めていく、他者と共に生きる豊かでしなやかな社会を作っていくためにこれらの精神は必要なんだろうなぁ、と思っている。これは、大阪で、あるヘブライ思想の研究者の方を含む、何人かで食事をした時の感想でもあった。
             
            教会のウェブサイトもうちょっとなんとかなりませんかね?

            この連載を閉じるにあたって、最近友人とした会話を思い出す。それは、教会でのウェブ対策とか行った講義をもう少し神学校で実践的な教育プログラムの一環として、やったらいいのに、あるいは、教会役員のリカレント教育で、ウェブ対策講座とかやったらいいのに、ということである。これだけ社会のインフラとして、Webがなってきた時代に、個人の自助努力とか、あまりに涙ぐましすぎる。まぁ、いくつかのウェブサイト見れば、解決がつく話のことが多いが…。
             
            残念ながら、教会のウェブサイトは、見た目がぱっとしないものが多い。それはそれでいい、といえばそうなのだが、教会堂は立派なのにウェブサイトはめちゃくちゃしょぼい、という例は結構ある。教会堂はかっこいいのに、Web空間のショーウィンドーは、雨風で薄汚れて、何年前の?と思いたくなるような変色した食品サンプルがゴタゴタと並び、一部汚れたベニヤ板で覆われた状態のように見えるものを見た時、「あーぁ、…」と思うのである。
             
            多いのは、スマートフォンやタブレット対策をしてないため、表示が崩れたり、サイトがこれらの携帯端末では見づらい物が多い。それから、教会のサイトで多いのは、自分たちの思い込み、価値観で作り込まれているサイトが多すぎる。ユーザー目線が含まれていない物が多い。まぁ、日本では、まだウェブの離陸の時期だからいいけれども、あと5年後には、どうにもこうにも、となりそうなサイトがゴロゴロしているのではないだろうか。
             
            この世界は、神学とかの世界と違い、3年前の技術水準や技術仕様は、ほとんどナンセンスという、まだまだ動きの早い世界である。だから、アジャイル開発ということばももう15年くらい前にはやったほどである。その意味で、神学校で扱うのはどうか、ということもあるが、一部の講義では、昭和初期の日本語で書かれた書籍でお勉強されている神学校もあるらしい。実に立派な精神である。
             
            まぁ、何でもかんでも、新しければいいとは言わないが、古ければいいというものではないだろう。古ければ古いなりの味わいはあるが、それなりの不便さというものはあるのである。ごく一部の好事家を覗いては、竃(へっつい)で毎日米を炊かないのではないかなぁ。



             
            http://rifa.jp/old/salon/09.11.29/kamado.htmlより


             
            ということで、この連載は一旦ここまで。

             
            一部、言いたい放題いすぎて、お辛かった方もおられよう。申し訳ないと思うが、この際だから思いの丈を申し述べた。不愉快になられた方には、心からお詫びする(ここで詫びるくらいなら、スルーしとけ、というご高説については、返す言葉がない)。

            ということで、このあと、久々に『クリスチャンであるとは』を読んでみたら、こうだった、シリーズでしばらく遊んでみることにします。あの本ももっとその意味がわかってもらえると嬉しいので。







             

             

             

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            価格: ¥ 1,404
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            コメント:めっちゃおすすめ。アメリカ人のかなりの部分の精神性を理解するためには、必読な入門書。

            2021.04.05 Monday

            コロナ時代に問う「神学+教育2.0」に参加してみた(1)教育編

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              さて、昨日の復活大祭を以て、公式に西側教会ではレント期間が終了したので、また、いつものように投稿を再開する。

              2021年3月20日にオンラインで開催されたイベント『コロナ時代に問う「神学+教育2.0」 小原克博(同志社)×中道基夫(関西学院)×西原廉太(立教)オンライン鼎談』について、ライブで参加しながら思ったことを、4回くらいにわたって陳べてみたい。以下、その鼎談を聴きながら思ったことなどである。

               

               

              With コロナ時代で本来の教会の目的の祝祭すらできなかった教会

              2020年3月ごろから、1回目の緊急事態宣言が出て、人々の都市内、都市間移動を含めた移動が大きく制限される中で、普通の人々の生活も大きく制限されたし、当然のことながら、教会での礼拝、聖餐式も大きく制限された。特に、本来キリスト教にとって最も大きな祭事であるイースター(日本現代文化的には、クリスマスがキリスト教にとっての最大祝祭日であると誤解されていて、さらにろくでもないことに、男女がいちゃつく日として一般にはとらえられているが、その理解がおかしいことはここで強く指摘しておきたい)、そして、教会の成立を記念する祝祭日であるペンテコステまで教会での祝祭活動や礼拝活動を、司祭や牧師を含む教会員と社会全体への神の民としての価値あるものとしていることの表明行為として中止せざるを得ないという異常事態に直面したのである。そして、そのような状況や時代の中で、自分たちの礼拝行為とはどのようなものか、それをどう考えるのか、ということもキリスト教会は問われたわけである。

               

              With コロナ時代の教育

              また、同じく、小学校の初等教育から大学にいたる高等教育まで、社会全体の小学生から大学生にいたるまで、全学生が引きこもり状態、不登校状態であることを要請され、それを迫られる中で、当初は、とりあえずその動きを止めることしかできなかったが、何らかの対応をもまた、4月中旬には迫られることになった。その中で、これまでの初等教育から大学教育にいたるまで、これまでの方法論とは妥当であったのかどうかを見直しを迫られたのである。それをどう考えるのか。今回もの鼎談も、まさに、この社会的要請として、テレワークという形を伴ったとはいえ、引きこもりと不登校生徒になることが要請される時代の中での大学教育、特に神学教育をどう考えるのか、ということについての鼎談が行われた。

               

              具体的な話題については、以下で紹介する動画をご清覧頂くことにして、ここで、当日、ライブで参加しながら、気になった点を述べてみたい。

               

               

              コロナ時代に問う「神学+教育2.0」の鼎談 動画

               

              大学教育と通信技術

              まず、同志社大学、関西学院大学、立教大学というある種教会の現場ともつながりがある大手の大学機関の関係者(比較的余裕があり、教授方法については古い伝統を持つ、というよりは古い伝統に大きく依拠してきた大学機関)を中心とした議論が行われていた部分があるが、しかし、課題としては、日本国内にある、各派の神学校でも同じような課題を抱えていたように思う。

               

              それはさておき、今回の視聴で面白かったと思ったのは、教会にせよ、大学にせよ、ある面、分断が起きたという指摘である。本来、電子通信技術は時間と空間がこれまでもたらしてきた障壁を大幅に下げる、ないしはそれを破壊し、普遍化・同質化・均質化させていく側面を持っていたにもかかわらず、である。それは、聖書にある手紙(使徒書簡)でも時空間を超えた普遍化、均質化が起きたという点においては、同様である。

               

              時間的空間的同期化・同質化を目指した通信メディア

              各地の教会に書簡を書き送るまでは、パウロ先輩にせよ、他の使徒にせよ、だれかが直接現地に赴き、現地教会での問題について個別に勧告していたものが、羊皮紙にペンで大文字だらけで手紙を書き、それが筆者生により手書きコピーされ、回覧されることによって、同種の問題を抱えた教会においての基本的に同質の課題に対する解決策のヒントがもたらされつづけたのである。だからこそ、古代文書でありながら、現代の現実の教会の問題に対応する際のヒントにはなるのである。

               

               

              New Testament - Wikipedia

              https://en.wikipedia.org/wiki/New_Testament#/media/File:P46.jpg

               

               

              本来、メディアとその利用者という観点から考えてみるながら、粘土板にせよ、パピルス文書にせよ、石板にせよ、羊皮紙にインクによる手紙にせよ、書籍にせよ、新聞にせよ、雑誌にせよ、電報にせよ、ラジオにせよ、レコードにせよ、電話にせよ、磁気テープにせよ、CDにせよ、MDにせよ、FDにせよ、インターネットにせよ、時空間を超えて多くの人々との、通信あるいは交流・データ交換を可能にすることで、時空間の同質化、同期化ないし同機化をもたらすための手段ではあったことは間違いはない。その時間的なタイムラグがどの程度であるかにせよ。

               

              アメリカ映画のStingというギャンブルを利用した大掛かりな詐欺を扱った映画に、意図的に電話局を占拠し、ラジオ放送のデータを入手し、放送を遅らせ、時間をずらしてあたかも同時放送しているかのような形での詐欺を働くシーンがあるが、あれなどは、ラジオが時間の同質性を担保しているという人間の思い込みを利用した詐欺のすがたが出てくる。それほど情報通信技術、放送技術というものは、空間的に離れた地点での同時性ないしは同期性(同機性)を可能にしたメディアであった。そして、堂島米相場の米価の先物取引価格にせよ、証券市場や農産物などの先物市場におけるタイムラグと情報格差を消滅させることで、空間的分断が実際に存在している市場間での、情報通信のタイムラグを利用した『さや取り:Arbiterage(2つの空間的に離れた市場での)取引価格の差を利用した利益創出法 より低い価格の市場で低価格で仕入れ、より高い価格の市場で売ることで、価格差益を狙う取引手法』の無効化を図ってきたのが、情報通信の世界の一つの側面ではあった。

               

              時空間的同期化を無効にした保存メディア

              しかし、このような情報格差に基づかない鞘取りが意味をなさない世界では、電子記録メディア(VHSビデオデッキ、βシステムのビデオデッキ、DVDディスク、ブルーレイディスク、ハードディスク、サーバー)が開発され、一般に普及したことにより、時間的同時性・同機性に関する社会構造が大きく変化していったように思う。時間が貴重な資源となった現代において、相撲やプロ野球、テニスのウィンブルドン、オリンピック、F1レースやパリダカールラリーなどのスポーツ中継は時々放送されているが、意外とそれを同時に視聴している人は減ってきているのではないか、と思うのである。多くの人々は、ハイライトシーンに圧縮されたニュース番組の一部として、その結果を知る人々のほうが多いのではないだろうか。あるいは、放送されたものをいったんビデオ画像として、DVDやハードディスク、ブルーレイディスク等に記録し、それを見ているのである。あるいは、映画にしてもそうだが、映画化噛んでみるのではなく、地上波放送で放送される作品(これは、CMがむやみやたらと入ることが多いので、見る気をなくすことが多い)やHULUやNetflixや様々のサービスを利用する人々も最近は増えてきたし、ディズニーにいたっては、ディズニーチャンネルで、映画館での公開と同時に放映を始めている。

               

              データ取得・保存メディアと大学での教育

              教育が、普遍的な知識や概念の体系の言葉や記号による伝達を目指す側面がある以上、現代のようにデータ保管技術が一般に普及した環境下では、それを一般の学生や一般の人々がそれを利用したいという部分は避けがたいとは思う。かつて、大学の教師は、テキストとなる書籍と、コーヒーカップ(場合によると、タバコやパイプ)とチョークのみを持って教室に登場し、講義をすることが普通であったし、学生は、その講義をノートと鉛筆、またはペンで記録を取ることでその場で伝達されることを個人のものにしようとした。

               

              しかし、ガラケーと現在では呼ばれる携帯電話にカメラ機能が付与されることで、学生のかなりの部分は、チョークで黒板に書かれた文字や図形をノートに筆記したり、講義中に触れられたことを記録するのはやめ、完成した黒板を携帯電話のカメラで保存して満足するようになった。こうなった時、黒板に書いた図や文字を再利用しつつ講義をした場合、学生からシーケンシャルに記載するようクレームがつくようになった。なぜかというと、彼らの画像記録が無意味になるからである。さらに、黒板に筆記せずに重要なことを述べ、それが試験に出た暁には、クレームがつくようになった。スマートフォンが普及してからは、録音し、音声記録を学生がとるようになった。

               

              そして、教育機関にプロジェクタが普及してくると、教員側も、チョークまみれになりながら、黒板を利用して板書しながら授業をするのではなく、パワーポイントなどの電子紙芝居を使って授業をするようになった(準備にはそれなりに準備時間がかかるが、数年間くらいは再利用可能なので、手抜きが始まる)。要望に応じて、そのスライドを画像化したファイルなどを渡した場合、もはや学生は講義時間中、ノートを取ろうとしなくなり、それさえ手に入ればいいとなるので、講義にも出てこなくなる。以前の大学教員なら、学習や学問への関与は自己責任の部分に属するので、このような学生を教員は放置したであろうが、この5年、そんなことをしていると、大学の事務当局や学生からいろいろ言われるので、これへの対応として、教員側は、当日のみ回答可能な小テストを講義時間中にしてみたり、当日講義に参加していないと答えられないような課題を出すことになる。まさに、盾と矛、ああ言えばこう言う、という印象を与えかねないような、いたちごっこが大学でも繰り広げられてきたのである。まさに、日の下になんの新しいものは何もない、というようなことを残念ながら続けてきた。

               

              教育のオンライン化と大学の教育とその技術的与件

              大学の教育が、事実性と、概念性の確実な伝達だけであれば、オンライン講義に移るのは理の当然であり、電機、電子情報通信環境が充実してきた米国や欧米では、多数の大学でこのような取り組みが行われてきた。実際筆者が知る限り、ワシントン州の普通の州立大学でもインターネットが一般に普及し始める以前の2000年ごろから、衛星通信の技術を使って、基礎的な科目(統計学など)の通信教育が行われてきた。この背景には、米国西部での人口密度が低い地域では、衛星通信が比較的普通に利用されてきたことがあるであろう。また、欧米の大学がインターネットを介したいわゆるオンライン化を実践で着た背景には、ADSLなどの普及以前の通信技術として、固定電話回線の市内通話が無料である特性を生かして、AOL等の電話回線による低速有線回線による通信基盤を流用したインターネット接続が普通であることに加え、ケーブルテレビ放送などの別有線通信技術がテレビ視聴において普通に利用されていることがあげられるであろう。なお日本では、市内通話であっても、情報通信後進国であり、日本社会に料金計算に関する意識がかなり特異であるという側面があるゆえの事象であるのであるが、米国の基準からすれば、かなり高額の料金が請求される(なお、市内交通について、日本みたいに距離依存型の従量制の費用計算する国は少なく、一律型の費用を請求する交通機関のほうが普通である)。

               

              昔の計算期間通信手段の音響カプラ

               

               

              US Robotics 26802 14.4K Sportster External Modem V.32 w/ v.42 bis |  RecycledGoods.com

              2880bpsのモデム

               

               

              上に紹介した動画でも、小原先生がお話になられていたと記憶するが、日本の高等教育におけるインターネット化への取り組みが米国などの大学機関との比較において周回遅れであることは間違いない。しかし、時間の関係で触れられなかったと思うのだが、日本の国内の大学において、学生が大学の現実的なキャンパスで実施されている授業に来るのが当たり前であるとする背景としては、もともと、そのように大学が明治のころから運営され続けてきたこと、文部省時代からの規則的制約で出席日数がどうのこうのとかという制約に加え、インターネット対応が遅れてきた背景には、そのあたりの通信費用の面での環境の差があること、通学定期を含め、交通手段の経費負担が相対的に軽く設定されてきたこと、学生の時間に関する機会費用がほぼゼロであるとみなされてきた結果ではないであろうか、と思われる。そうであるからこそ、この種の遠隔教育に日本において取り組んできた、放送大学が1983年に設立され、各種のかなり良質なコンテンツを提供しているにもかかわらず、そこで学習する人々はそれほど多くはなかった。

               

              放送大学の教育と大学選択

              遠隔教育と時空を共有を前提とする教育方法を考える際には、この放送大学が多く選択されてこなかったという事実を考えねばなるまい。当初、放送大学は国立大学として設立され(現在は私立大学扱い)、学費もウルトラやすく、そのコンテンツもかなり良質にもかかわらず、人々はこれを選択せず、いわゆるキャンパスがある大学に向かうのか、ということについての考慮なしに、日本の大学教育のオンライン化とそのもたらす問題を考えることは、かなり問題があるように思われる。

               

              教育の質的内容を求めるのであれば、基本的に放送大学のような形が望ましいわけであるし、企業もそこの出身の学生を大量に、採用するが、そうはなっていないのは、企業が見ているのは、大学での教育内容とそこで学生が身につけた知識ではなく、高校から大学に進学する際にどの程度の耐力を示したかの結果である、大学入試が高校生段階で果たすスクリーニング機能であることは、これまで多くの人々によって、さまざまな場所とコンテキストにおいて指摘されているとおりである。

               

              次回へと続く


               

              2021.04.06 Tuesday

              コロナ時代に問う「神学+教育2.0」に参加してみた(2)教育編

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                前回の記事では、日本の大学教育とWith コロナ時代の教育の議論をご紹介し、インターネット時代の大学教育の事例の紹介をされたことと、通信とデータの保存と通信とのかかわり、そして、国立大学として始まった放送大学をどう位置づけるか、ということについて、少し触れた。今回は、近年こういう遠隔教育の動きと、昨年With コロナ時代で体験したもろもろを書いてみたい。

                 

                 

                 

                リベラルアーツの大学教育と遠隔教育

                さて、現代の日本社会の一部の人々の間で、海外のオンラインだけでやる教育に特化したミネルヴァ大学のような学習の形態が、近ごろは人気であるようであるが、これまた、教員との対話を中心とした少人数教育、世界各地での寮生活といった形の特徴があるにせよ、基本的に外国語で対話能力(会話能力ではなく、対等に議論する能力)がある海外留学経験者を求めることに近い。それが、リアル環境で行われているのか、ヴァーチャル環境で行われているのか、の違いであり、日本型のマスプロ教育とは違う形での教育が行われている点に違いがあるだけである。

                 

                ところで、筆者はアメリカの大学院での交換教員の一人としてこの種の少人数型の対話型のリベラルアーツ型の教育に参加したことがあるが、この種の教育の場合だと、いわゆるフォーマルな基礎、応用、発展(経済学で言えば、基礎が経済原論、応用レベルでは、ミクロ経済学、マクロ経済学、発展レベルだと、公共経済学や産業組織論、ゲーム理論の応用)といったスタイルの積み上げ型教育がしにくいという側面と、単に英文で書かれた本を順次必要に応じて読んでおけば済む話ではなく、1週間に原著で数百ページの本を数冊十分に読み込んで、課題をこなした上で、議論に臨まなければいけないため、教えるほうも読むのに必死であるし、教わるほうも睡眠時間を削っての対話の土台となる文献を読みこなさなければならないという点である。教える方であった筆者も、週末に公園や買い物などに家族で出かけるときも、一人300ページから400ページの結構細かい字で書かれたボリュームのある本を読んでいたこととは言うまでもない。

                 

                実際の講義としては、指摘したテキストを教員も学生も全員読んでいることを前提に、45分から60分指定したテキストやテーマに関する講義を講義担当者が行い、それに対して45分から30分参加者全員で議論を行い、さらに15人程度の人数での小グループでかなり突っ込んだ議論を行うが、時に思いつきでしゃべる学生が結構いるので、それを受け止めながら流していき、議論を適切な方向に向けていくというある種のモデレーターというのかディレクターというのかとしての責任を果たしていく。ただ、この種の議論をしていて面白いのは、アメリカ人の学生は思い付きで結構活発にいろんなことを発現する(実際にはしゃべるという感覚に近い)のだが、基本、人の話を聞いていないということがある。そもそも、マニュアルを作っても、ろくすっぽ読まずに適当に操作するのがアメリカ人のかなりの部分である。

                 

                リベラルアーツの教育の大変さ

                余談に行き過ぎたので、本題に戻るが、リベラルアーツ型教育の場合、基本、本を全員が批判的に読んできて、それを基に共通の土台を構築し、その上での議論をするという文化があるが、それができるからこそ、インターネットを活用した、自学自習型の教育に向いているし、ある面、リベラルアーツ型の教育は教員がきちんと対話で対応し、ディレクションなりモデレーターとしての役割を果たせれば、教育が成立するという側面はある。日本の大学教育では、文化的な側面から、案外これがむずかしい印象があるのである。まず、本というかテキストを読む、本やテキストを批判的に読むという習慣が日本の中等学校教育でなされておらず、テキストに書いてあることを丸暗記するタイプ、あるいは、書いてある文字の通りに受け止めてしまう傾向がある。その意味で、日本の福音派で、前世紀中葉から、今世紀初頭まで、主要な神学的な動向となっていた、逐語霊感説とか、聖書無誤説、聖書無謬説といった思惟は、つくづく、この種のテキストを無批判に受け入れる形の初等中等教育を受けてこられた日本人に向く神学であるのかもしれないと、それを基に自分で考えるという訓練ができていない、すなわち、批判的に議論することを主とするタイプの教育には日本は向かない形で初等・中等教育でカスタマイズされるので、日本ではこの種のリベラルアーツ、教養重視型の教育を実際にするのは、大学院で初めで実施可能となることが多いように思われる。とはいえ、大学院で教えていても、なかなか、最近の日本の大学卒業者の中でも、この主の批判的に論文を読んだり、テキストを読んだりする学生が少ないので、少し当惑している。

                 

                知識伝達型教育と遠隔教育

                基本的な学問的理解に関する伝達(大教室で200人とか300人相手にする科目の講義内容)だけであれば、基本、本を読んでそれを理解し、できれば、他の知識体系を参照しつつ批判的に読んで理解すればよいのであるから、そもそも、遠隔講義すらする必然性がない科目ではある。ある面、本が読んで理解できれば、授業に出る必然性があるのかどうか怪しい科目でもある。実際、昔の大学では、出席をとるなどという野暮なことはほとんどしなかったので、大教室の200人クラスの講義でも、出席は、さすがに新年度の講義開始時には、150-180人程度あっても、ゴールデンウィークや学祭などのイベントが終わった直後は50-70人程度の時もあることが多いというのが常であった。そして、試験やレポートの提出前になると、また、150人から180人程度に戻るのであった。それだけ、学生の自主性を前提とした教育が行われてきたのである。今は、それを出席をとれだの、学生の自主性をかなり無視した教育が移行しつつある傾向は否めない。それは、大学ですることなのか、と思うこともある。

                 

                さて、このような知識伝達型教育の場合、たしかに、オンライン型教育と、教室型教育では情報化された知識の移転、伝達という意味においてはあまり差が無いようには思われるが、実はやり方によっては、かなりの違いが見られるのである。何が違うかというと、教室で一方的に講義する場合、米国でしか授業に参加したことも、講義したこともないので、それ以外の文化コンテキストの背景での大学教育の雰囲気はよくわからないが、日本の教室では、質問する学生はほぼ皆無であるが、オンラインの場合、チャット機能や並行して利用したスラックSlackを利用して、他の学生に知られないことを前提として質問を飛ばしてきたりする学生がかなり見られたことである。

                 

                遠隔教育で起きたこと

                そこで、一方的に知識を伝達する部分に関しては、テキストを指定し、それについての15分から25分程度の解説動画を数本、事前にアップロードし、それを視聴してもらい、あと、どうしてもそれだけでは対応できない、質問だとか議論の部分だけを20−30分のZoomなりWebEXなりのセッションで応答する形にした。このスタイルに切り替えたとき、実は奇妙なことが起きたのである。それは、受講生の数よりはるかに多い(大体2-3倍)の視聴回数になった。教室型の講義では、筆者が個人的に繰り返しをやるのが面倒なので、どうしてもワンショットになり、同じことを繰り返すのは避けている。意外と、録画したものを見て再確認するという需要があるということは新しい発見であった。また、単なる講義録動画ではあったのだが、動画での提供メディアを指定するという要求が留学生から出てきたのである。単に、動画を見られればよいのではなくて、中国人留学生から、動画をYoutubeにアップロードしてくれろと言われたのである。

                 

                動画だから何度でも見られるから良いではないか、と言ったら、Youtubeだと、

                 

                1)画像の詳細度を利用者側で設定できること

                2)速度をゆっくりにすることもできること(これは、筆者がかなりトークのスピードが早いから認めよう)

                3)自動で日本語字幕に変換した上で、母語である中国語字幕が付けられるから

                 

                というメリットが有る、と言われてしまった。中国語で授業みたいのなら、中国の大学の大学院に行けばよいではないか、とは思ったが、アカハラになってはいかんので、黙していた。

                 

                あと、オンライン講義の場合、40人を超える大規模な人数のクラスの場合、所在確認するため学期当初は顔出しを前提としたが、主に女子学生に対する居住地やストーキング等のリスクを回避するために、全員画面オフにして音声だけを頼りにして講義対応を行ったが、顔の表情がつかめないため、顔の表情に現れる当惑や混乱、納得の情報が入ってこず、応答したことが理解されたのかどうか、教える側としては苦労したという面はある。

                 

                まぁ、講義が終わってもZoomなり、Webexなりのセッションから出ていかない学生がかなりいたので、そのままぶちっと切るのは、いかにもどうかいう気分でもあったので、最後には、これを大音量でお聞きいただくことにしていた。

                 

                ElgerのPomps and Circumstance

                 

                実技型技能教育と遠隔教育

                後期からは、一応対面講義が始まったが、教室授業では入りきらない可能性があったので、

                無論、理工系や語学系、あるいは芸術・体育系などの実技系のように、実際に学校の施設での実験をしたり、実習をしたりして初めて理解が深まる実技型の科目もないわけではない。この種の実際に手を動かして学ぶタイプの研究や講義というのは、ある面、遠隔講義に向かないことは確かである。実際に、プログラミング教育とまでは行かないものの、統計パッケージや塵情報処理システムを用いてデータ処理をすることで、理解を得ようとする教育なども科目の一部で試みているのだが、昨年度の講義(実際には演習付き)の場合、遠隔だと、相手のPC環境(Windowsなのか、Macなのか、そのOSが何なのか、どんなソフトがインストールされているのか、CPUやメモリ、インターネット環境・・・)が確認できないため、何が障害になって、うまく動作しないのかが読めないところがあり、大変苦労した。一番困ったのは、Apple社製のPCでZipファイルが利用できない、また、テキストエディタってなんですか?という苦情がついたことであった。(大学は、メーカーのコールセンターではありませんと思いながら対応はしたが・・・)

                 

                また、持参型PCによる講義の場合でも、機種と環境が多様すぎて、持ち込み型の機器による授業というのは案外難しいものなのだなぁ、ということを改めて思ったことはある。

                 

                インターネット時代に起きた3つの分断

                さて、前回の記事でも紹介してきたし、今回の記事でも、大学教育に絞って話をしてきたが、インターネットや、さまざまなメディアは、時間や空間による分断をワープさせ、異なる時点、空間をつなぐ役割をするという側面がある。例えば、現代人に何のかかわりがあると思われるようなパウロの手紙を21世紀の時点の日本人が日本という地理上空間で、ギリシア語ではなく日本語で読む、ということの異常性を考えてみればよく分かる。

                 

                このような時空を超えた連接を可能するディジタル技術は20世紀前半にはほぼ無理であった。それ以前の社会においては不可能であった、時間と空間における障害や分断を超え、ブリッジするという側面が情報通信技術、IT技術にあることは論を待たない。しかしながら、技術へのアクセス可能性と、技術を介して何かについてアクセスする可能性についても分断を生んだことは確かである。その分断の種類は3つある。一つは、技術への慣れによる分断、もう一つは経済的な分断、そして、手法による分断である。

                 

                情報通信技術の利用レベルによる分断

                当日、Zoomを介して広く公開された形での鼎談の場でも触れられていたが、世の中には、ライブでこの鼎談にアクセスしようとしてもできない人々もいたのである。二つの分断が起きるのである。第1は技術的な能力、情報技術を使いこなすという能力におけるデバイドである。Zoomの接続のためのリンクないしリンクボタンをどう扱えばよいかわからない人々もいるらしいのである。最近は、ユニバーサルデザインということで、GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)の能力向上があり、スマートフォンの操作などは、昔の大型計算機でジョブコントローラーかませたうえで、パンチカードを使って作成し、記録したフォートランというプログラム言語で作成したプログラムを走らせて、出力結果は、大型ラインプリンターで、などという時代から比べれば、かなりわかりやすくなってはいる。

                 

                 

                その昔のパンチカード

                 

                 

                ある面で、メールなどで送られてきたリンク先の文字列をクリックすることで、ブラウザでアクセスしたり、送付されてきた番号やパスワードを入力するという比較的単純な操作だけが必要であるが、それでも、利用に難を覚えるため、Zoomで提供される各種サービスを利用できない、利用しないという一定数おられることも確かである。

                 

                こういう場合、だれか身近な人が支援するか、あるいは、だれか親切な人がその場に行って、やり方を理解するまで教え続けないと、結局使い慣れている側にとって便利だとはいえ、それに慣れないと、授業にすら参加しえない人々が一定数いたのである。

                 

                経済環境による分断

                もう一つの分断は、経済的分断である。つまり、そもそも貧しくて、経済的に厳しくて、計算機を持っていない、あるいはスマホは持っていても、PCを利用できない、スマートフォンでしか講義課題をこなすことができない(フリック入力でレポートを出してきたと思しきレポートを見かけたのは、たぶん気のせいではないと思う)、にアクセスできない、スマートフォンがあっても、インターネット接続の通信料がかかるため、ネットに接続できない、ネット接続に課題があるという学生が一定数いた。個人的には、どうしても、困るというのであれば、時間限定で無料Wi-Fiを提供している組織や施設、コンビニ、スーパー、公共施設、図書館等があるから、それらを利用することを進めた。何でここまでせねばならんのか、とは思いつつ。もちろん、通信事業者の放電も一時的に無制限措置を取るなどの措置を講じたようだが、それでも不足である人々向けに、大学当局のほうでは、急遽学部生向けに学内の遊休PCをかき集め、さらに無線Wi-Fiを貸し出すなどの対応はとったらしい。

                 

                ある面、深刻なのは、こちらの経済環境による分断ほうかもしれない。近年、義務教育の対象者にタブレットとか、PCを配布する自治体が大半になると思うが、経済的な理由で、ネットに接続できない、ネット接続するために何等か別の施設にいかないといけない人々がある程度存在する、ということは、湯水のようにネット接続できる環境にいると、忘れがちなことではある。

                 

                特にこの問題は、高等教育よりは中学校高校などの中等教育、中等教育よりは小学校などの初等教育における分断、つまり、家庭内でのPCの利用(台数がないため、家庭内での兄弟間、親子間での利用時間の取り合いが発生する)や、インターネット接続環境などへのアクセスが困難な家庭、あるいは世帯があることを考えると、より厳しい状況を生み出す傾向があるものと思われる。

                 

                一部で、在宅勤務がかなり一般化したために、家庭内で一人一台環境などが整っているという奇特な家庭でない限り、この親子間のPCやタブレットの取り合いは起きたのではないだろうか。

                 

                教育手法における分断

                さて、これまで触れてきた分断は、受講者側における分断であったが、最後の分断は、教員側における分断についてである。2020年9月ごろに、別の教育機関所属の知り合いのある教員から、連絡があり、その時少し雑談したのだが、そのお知り合いの方の学校では、オンライン講義もせず、オンデマンド講義コンテンツも作らず、指定した教科書についてのレポートのみで評価を下した教員がいたらしい。この話を聞いた時、オンライン講義もやり、オンデマンドコンテンツもやり、メーカーのユーザサポートもどきのようなこともやっていた筆者のミーちゃんはーちゃんは、メーデーの歌の

                 

                ♪♪♪♪♪
                汝の部署を放棄せよ、
                汝の価値に目醒むべし

                ♪♪♪♪♪♪

                 

                の部分を歌いたくなってしまった。

                 

                メーデーの歌

                 

                危機神学の累積結果としての神学

                今回のCOVID-19ウィルスの大流行に伴う対応はある種の危機神学であるという指摘があったが、それはその通りだと思う。Facebookかどこかで、今の現状は危機神学だと言ったら、それはバルト的な危機神学があるので、とやんわり教えてくださったありがたい先生がおられたが、よく考えてみれば、現在の神学は、過去に生まれた危機神学の集大成でもあるように思う。バルト破るんな−の独占物でもないはず、といってよいのではないだろうか。

                 

                組織神学という語が普通になった現在では、今では神学といえば、なにか安定した体系があるように思われているし、事実そういう部分はあるであろう。しかし、組織神学で体系づけられている個別の聖書理解や個別の神学的思惟を歴史的に振り返ってみると、それまでに出会わなかった現象、理解や現実に対して当時のキリスト者が、そして教会がどのように考えるのか、ということが多いように思われる。教会という社会集団が、何らかの事情によりある種の変化、あるいは危機的な状況、あるいは時代の変化、聖餐や消費などを含む社会環境の変化に対応して何らかの論理だてと妥当な方法を成立させようとしてきた歴史があるように思われる。

                 

                多くのプロテスタント教会で聖餐式が月1回となったことや、年に数回となっている教会が結構あることも、その教会群が経験してきた過去の事象に対応するための神学的思惟に基づいた歴史的経緯である。もともと式文に節を付けて唱えていたものが変容し、音楽のメロディーに式文を載せた讃美歌は礼拝の中で残すものの、式文そのものを使った礼拝をやめ説教中心にするという行為とその背景にある神学的思惟もこれまた過去の神学的思惟の結果である。個人的には否定的な視線を向けている伝統的なディスペンセイション理解も、当時のアイルランドのジャガイモ基金やヨーロッパアメリカ大陸での社会的変動の結果でもあるのであり、その結果生まれてきた神学的理解ではある。

                 

                そのように、これまでも社会の変化(ある種の危機)に合わせて、教会は神学的理解を作り出し、作り替え、社会に住む人々への対応をしてきたわけであるので、2020年以降、教会として、どのような神学を境界が生み出したのかの歴史的検証はこれからの作業になるだろうが、それはそれで重要だと思うのである。まぁ、聖餐式を個別舗装したパンとぶどうジュースでやる神学くらいは、日本でも一般的になったかもしれない。

                 

                https://store.shopping.yahoo.co.jp/olives/53480.html#&gid=itemImage&pid=3 より

                 

                次回以降は、教会編についての部分を述べてみたい。

                 

                2021.04.08 Thursday

                コロナ時代に問う「神学+教育2.0」に参加してみた (3) 教会編 その1

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                  前回、前々回の2回は大学の講義についての変質の部分のお話をもとに少し考えたことなどを話してきたが、今回はいよいよ、このCOVID-19の感染拡大に伴って、教会がどのような変化を経験してきたのか、ということについて鼎談を参考にしつつ、考えてみたい。

                   

                  COVID-19で教会の何が変わったのか

                  コロナウィルスの感染的爆発以降、日本の多くの教会では、教会が従来行っていたスタイルでの礼拝(賛美歌付き講演会のような礼拝を含む)、聖餐式を中止した教会が多い。ある面、極端な日曜礼拝、あるいは主日礼拝厳守派(たとえ風邪を引いていようとも、発熱していようとも、平日に行う世俗の業務で信徒がいくら疲労困憊していようとも、何がなんでも主日礼拝、日曜礼拝に参加することを信徒にかなり強く指摘してきたキリスト教のグループ)でも、信徒を集めての礼拝行為は中止されたと筆者は聞いている。

                   

                   鼎談中、小原さんがおっしゃったように、この中止は、他者への愛の行為として、本来もっとも教会にとっての重要で神聖な活動であるはずの、集まって行う主日礼拝、日曜礼拝と呼ばれる、信徒が集まり、神への賛美と栄光を帰す行為を行うという形での神への礼拝をおこなうことをあえて中止した教会がかなりの部分を占める。もちろん、地方部で、感染者数が限られている地域では、礼拝が続けられてきた教会もあるし、民族的集団の特性や言語的事情などから礼拝を継続した結果、クラスターを発生させた地方部の教会もないわけではない。しかし、都市部の教会では、その殆どが信徒が教会の敷地と建物内に集まり礼拝を捧げる形での礼拝、ないし聖餐式を中止してきた。そこは大きく変わった点の一つであったといえるであろう。

                   

                   

                  礼拝の中止で起きたこと

                  そして、中止した教会では、信徒が数多く集合しての礼拝の中止と、それに対する対応策として、様々な対策が取られた。その代表的な取組事例をまとめると以下のようになるであろう。

                   

                  1)説教の完全原稿を印刷し、毎週郵送

                  2)説教要旨の印刷物と教会通信など文書を毎週郵送

                  3)説教を録音したテープやCD、DVDなどと教会通信を郵送

                  4)Facebook,Lineなど、考えられるありとあらゆる方法での同時中継。

                  5)式文と祈祷文を含むPDFファイルを電子メールで送付
                  6)事前録画した説教をYoutubeで送付
                  7)人数制限した上での短縮した実施(とそれを複数回の実施)
                  8)その他

                   

                  このように、教会は、前回、前々回ご紹介した大学と同様、教会という施設に人々が来ることを当たり前としてきた組織ではあったが、それこそ、人々の移動が大きく制約され、大人数が集まることを回避することが社会全体に求められる中で、あの手この手と涙ぐましい工夫と努力を行ったのである。それも、大学などの場合、若い世代が多いので、ある程度計算機処理や、スマートフォンを利用した情報通信に課題を抱える層がほとんどいない(経済的環境を別にすれば、情報機器を通じたアクセスに難を感じる人が少ない人々を多く含む)組織であるのに比べ、教会ではその構成員の人口が高齢化しており、スマートフォンなどをあまりお持ちでない、インターネット経由の通信、PCや情報機器の利用を回避する人々が少なくない。

                   

                  また、ガラケーと呼ばれる古式ゆかしい携帯電話の利用者(ミーちゃんはーちゃんは、このガラケーと無料WifiにPC接続の愛用者ではある)、あるいは固定電話のみの通信手段の利用者なども一定数教会員の中には含まれており、インターネットアクセス含め、情報機器の操作に迷い、アクセスできない層がかなり限られるために、様々な方法論が取られた。

                   

                  一気に業務が多様化、多忙化した牧師の生活
                  従来であれば、土曜日の夜に(日曜日の早朝、という強者がおられたことを知っている)週報と説教が完成していればよかったものが、水曜日の朝、望むらくは火曜日の夜までに週報と説教を完成させ、カセットテープやCDへの録音とダビング、ネット動画用の録画と編集、州法や説教原稿の印刷を行い、木曜日には発送するという時間的前倒しが起きた教会とそれへの対応をなさろうとされた牧師先生方が大半であったであろう。

                   

                  また、Youtubeなどの情報メディアを利用した場合、視聴開始時間などの制限ができることもあり、これらの機能を適切に使うことができれば、説教中心の教会の場合、特にライブでの配信にこだわらなくても、日常の教会の礼拝とはそう大差無いサービス(礼拝)は実現可能であったように思う。愛餐会や礼拝後の日常会話などの信徒の相互交流は、かなり妨げられているようにおもわれる。

                   

                  インターネット対応が半強制的に迫られた教会
                  これまで、インターネット技術を利用し、教会外に伝道すればいいのに、と一部のキリスト者が言い続けてきたのだが、そんな声を無視して、とにかく集まって、礼拝と呼ばれるイベントに日曜日に教会に来た上で、参加することが教会の本旨であると言い続けてきた教会人も、否応なく、インターネット技術を利用した礼拝に取り組むことになった。

                   

                  個人的には、インターネットでの路傍伝道、路傍聖書研究会としてブログを書いてきたものの、動画は制作が面倒なので取り組んでこなかったが、このような取り組みも、筆者が元いたキリスト者のグループから追放されるうえで、追い出された方の思いの中に、『インターネットは悪魔の道具』であり、悪魔の道具を使う筆者のような存在は、キリスト者ではありえないというお考えであったようで、キリスト者集団から陪餐停止宣告をいただく上での一定の原因を構成しているようではある。

                   

                  そういう教会ですら、インターネットを活用せざるをえなくなり、説教動画などを公開し始めたり、Zoomで来会者の一部と結ぶというようなことを始めたのは、「いとをかし」というしかない。

                   

                  スポーツ観戦や演劇、映画と教会の礼拝の類似性

                  教会でも起きることではあるのだが、他の場面でも、人が同じ時間に同じものを見て感動したり、何らかの感慨を得ることがあるのではないだろうか。例えば、なぜ、ある競技が行われているスタディアムでのスポーツ観戦にこだわる人々があるのだろうか。自分ではサッカーやラグビーのボールをめったに蹴りもしないのに、何万人と収容するスタディアムに多くの人々が集まるのだろうか。自分がバットやミットをもって野球の試合に関与するのでもないのに、高校野球やプロ野球を球場の外野席で見るために早朝や前夜から並んで現場で応援しに集まるのだろうか。

                   

                  筆者の自宅の近くには、その昔はえらい人気でのちに太平洋を渡ってメジャーリーグで活躍した選手がいたころには、ものすごく観客動員ができ、大量の人々が集まったものの、現在では関西の球団の中でも最下位付近の順位で低迷している球団が時々試合をする球場があるのだが、試合があるときには、前日や前々日の夜から外野席券の券販売所の前にビニールシートが敷かれ、ご丁寧にガムテープで止められていることが多いのである。そこまでして人を集めるものは一体何なのか、と考え込むことがある。

                   

                  中継と会場で経験されることは同じか?

                  個人的には、スポーツがそもそも趣味に合わないうえに、スポーツを観戦して楽しむ人々の気持ちがよくわからない。もちろん、ごひいきの選手を応援することで、球場の観客席で選手の一人になった気分が味わえ、ドキドキ感という興奮を味わったり、一喜一憂するというのがあるのかもしれないが、それをして何が面白いのか、その感性が個人的にはよくわからない。どう見ても野球をしているとは見えないおじ様たちがビール片手に野球を見て、草野球がうまくなるということでもあるのだろうか。家で、テレビを見ているほうが、よほど詳しく選手のプレーを見ることができるし、野球解説者とやら言う元選手たちの解説付きで見られるのに、何故、そんなサービスもない野球場に安からぬ入場料と、交通費と時間をかけて集まるのだろうか。また、野球場で応援したり、相手チームの選手のプレーをやじったところ(その昔、藤井寺球場では、ビールの缶くらいは投げ込まれたらしいが)で、試合の結果に大きな影響を及ぼすことはない。にもかかわらず、多くの人々、何万人もの人々がわざわざ足を運ぶのである。

                   

                  あるいは、自分たちも歌ったり演奏したりするわけでもないのに、アイドルのコンサートやクラッシックのみならず多様な音楽のライブコンサートに、わざわざ電車やバスに乗ったり、タクシーや自家用車に乗ったりして、見に行くのだろうか。普通のスクリーンで見るのであれば、家でテレビで見るのとさして変わらないことが多いにもかかわらず、映画館に行くのだろうか。アイドルのコンサートでヲタ芸をして楽しむのなら意味が分からないではない。アイドルコンサートでのヲタ芸を一人家のテレビの前でやっている姿というのは、どう見てもおかしい、間抜けに見えるからである。

                   

                  アニソンカフェで「ヲタ芸」やってみたら、元高校球児でもハードすぎた件 (3/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

                  ヲタ芸

                  https://dot.asahi.com/dot/2019062500034.html?page=3 より

                   

                  あるいは、男性アイドルグループの追っかけをする外国居住の人々は、わざわざ日本にまでやってきて追っかけをするのであろうか。もはや、意味が分からない。しかし、男性アイドルの追っかけをする人々は、それが意味があるからということで、墜落するかもしれない飛行機に乗り、安からぬ飛行機代を支払い、ホテル代を支払ってまで、日本にやってくるのである。今はコロナウィルスの爆発的感染後は、それもできなくなっているらしいが。あるいは、家で見るほうがよほど細かなことがわかるにもかかわらず、宝塚歌劇団の公演を身に宝塚まで見に行ったり、劇団四季の公演をわざわざ劇場などの演劇空間に足を運んでみるのだろうか。

                   

                  野球中継やスポーツ中継・即時性・時間の共有

                  あるいは、なぜ、人は野球や相撲、サッカーやラグビー、オリンピック、マラソンや駅伝のテレビでの中継放送を視聴したり、ラジオ中継に耳傾けるのだろうか。まだ、試合会場に行ってみるのであれば、選手と一緒に競技している気分になるとか、同じチームを応援している人々とともに盛り上がるとか、一喜一憂するということはあるかもしれない。しかし、それもテレビのスクリーン越しである。何ら、中継対象とされる競技者に影響を及ぼすことはない。また、アイドルのコンサートにせよ、そのほかのコンサートにせよ、なぜ一人でそのようなものの中継や録画を人々は見るのであろうか。

                   

                  このような事例などに見られるように、人々と共同で同じ場所(空間)と時間を共にし、興奮することに人間は何らかの意味を見出しているようである。以下のインドネシアのケチャなどは、ある主現在では芸能化しているものの、そのものの原型としては、ある種人々が集まることの中で起きる特殊な高揚感を示しているように思われるのである。

                   

                  インドネシア バリ島でのケチャ

                   

                  教会と劇場の類似性

                  たしか、『福音と世界』に掲載されていた論文に平田オリザ氏の論考だったと記憶しているが、教会と劇場との類似性を指摘している論文があったように思う。当時は、その論考との違いを考えていたが、今よく考えれば、慧眼である。キリスト教の礼拝は、教会という特定の空間において、礼拝という特定の時間において、一回こっきりの説教や礼拝行為を通して多数の人々に共有され、その礼拝に多くの人々が関与されて初めて何らかの共感なり、何らかの意味なりを生み出すという意味では、劇場ないしコンサートホールと同じ構造を持っているという側面がある。これは、昔の仏教寺院での説教とても同じであったように思われる。中国大陸伝来の新しい法要が多数もち込まれた奈良時代末期ないし平安期において、寺院とそこで読み上げられる仏典は、一種の高揚感を人々に与える存在であったようである。また、時代を下って、平安末期からの鎌倉時代の踊念仏にしても、一種の高揚感や興奮を参加者の間に与えるものであったがゆえに、集団的な行為として行われたのではないだろうか。諸説あるにしても、江戸末期の伊勢参りやええじゃないか、おかげ参りにも同様の側面があったのではないか、と想像する。

                   

                  人が集まり、共に声を出すことで生まれる何か

                  ある種の宗教的な要素を含んだ集団的ヒステリーと言ったら言い過ぎの面があるが、多くの人間が多数集まり、同一の時空間を共有し、共通的に何らかの行動をすることに何か(それが何であるかは別として)があるように思われるのである。それは、オリンピックの開会式や閉会式から、小中学校の運動会の開会式、カラオケやママさんコーラスから、クラッシックのコンサートにいたるまで何らかの形での時空間の共有と共通行為への参与があるところある種の感情的共振のようなこととが起きるように思われる。それは音楽の存在は必須ではない。音楽を必ずしも伴わなくても発生することは、念仏を唱えるでも、ケチャ(あれは音楽であるという異論は認める)でも、コーランの一節を唱えるでも、詩篇交読を行うことでも発生するように思われる。そして、教会の成立を記念する祝祭日であるペンテコステまで教会での祝祭活動や礼拝活動を、司祭や牧師を含む教会員と社会全体への神の民としての価値あるものとしていることの表明行為として中止せざるを得ないという異常事態に直面したのである。そして、そのような状況や時代の中で、自分たちの礼拝行為とはどのようなものか、それをどう考えるのか、ということもキリスト教会は問われたわけである。

                   

                  そもそも、祈るに一番近い表現が出てくるのは、割と早く

                  この時、人々は主の名を呼び始めた。(口語訳聖書 創世記4章26節)

                  の段階であり、人々、鼻で息するものが集まり主の名を呼ぶことが、礼拝である可能性があることを考えると、人々が集まり声を出して何かをすること、すなわち、賛美歌を歌うことや、式文を唱えること、声(息)を通して神から受けたものを、神に返すことに何かがあるような気がしてならない。

                   

                  世界中での神の名を呼ぶ姿が見られるように

                  さて、教会の礼拝などをライブで配信しておられる教会やその録画をYoutubeで公開される教会は、この1年で急速に増えた。そんなことをするとも思えないカンタベリー大聖堂でのEvening PrayerやカンタベリーのDean Robert WillisさんのMorning Prayerにほぼ一日遅れにはなると言いながら、それを毎日拝聴し、ぶたさんのお名前がクレミーさんやウィンストンさん、また、式文を声に出して読んだり、聖書朗読をしたり、その日の聖書箇所の解説をするDean Willisの隣で猫のLilyさんやTiger君がミルクを飲んでいる姿を動画の中で眺めたり、大変美しいお庭の様子を拝見するような日々がよもやくるとは思わなかった。

                   

                   

                   

                  その意味で、これまで、内弁慶であった教会、すなわち内部の人へのサービス(礼拝の時間と場所と司式者と司式の提供)を中心としてきた教会が、外部に向けて発信を遅ればせながらはじめたのである。これは、教会にとって大きな変化であるし、あったようにも思う。

                   

                  次回へと続く
                   


                   

                  2021.04.09 Friday

                  コロナ時代に問う「神学+教育2.0」に参加してみた (4) 教会編 その2

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                    さて、これまでの連載記事は、COVID-19によって大学教育にどのような影響が出たのかについて2回、そして、前回は教会にどのような影響が出たのか、教会だけでなく同じ場所と時間を共有すること、そこで声を出していく中で何かが起きるのではないか、という音をお話してきた。本日は、もう一回、教会で何が起きたか、そしてその中で各教会が考えさせられることとなった、教会は何をするところなのか、何が教会のメインコンテンツなのかを、鼎談を拝聴しながら、考えたことを述べてみたい。本日が最終回である。

                    なお、これまでの3回の記録は以下の通り。

                    よろしければどうぞ

                     

                     

                    礼拝は日曜日の午前中に教会でという常識の崩壊

                    前回の記事では、COVID-19の大流行に伴い、多くの教会が集合型の礼拝を停止していったことに加え、それに対する対応をどのようにとったのか、そして、インターネットを利用せざるを得なくなり、Lineや、Youtubeないし、Facebookなどでの礼拝動画を流す、事前に録画した説教動画を流すなどこれまで、やればいい、と一部のキリスト者が言い続けてきたのだが、COVID-19が大流行するまで、そのような声を全く無視して、とにかく、何がなんでも日曜日だけに設定された決まりきった時間に教会に来させて、礼拝に参加させることだけにこだわり続けてきた。

                     

                    しかし、これは、特定の曜日の特定の時間帯に特定の場所に移動可能であることが前提になる。信徒に、特定の曜日(日曜日)の特定の時間帯(大抵は朝10時とか11時の間)に特定の場所(教会)に信徒が自ら移動することを要請する。その意味で、熱心なキリスト教関係者のグループでは、就業する仕事や業務に制約を加える、あるいは、特定の仕事や業務への就業を推奨することが行われてきた。このような教会中心目線の場合、日本では、いわゆる警察官、消防士といった法執行機関関係者、法曹関係者、放送関係者、鉄道等輸送運輸業、情報通信産業の業務関係者のような社会のインフラを支える業務に携わってくださっている人々が信徒になる場合、転職を進められたりすることがあった。あるいは、そのような24時間365日運用される業態の関係者への伝道は、かなり無視されてきた。また、そのような分野への就業への召しがあっても、その分野への就業を推奨せず、そのくせ、教会への移動や日常生活を過ごす際には、公共交通機関を平気で利用する教会人のなんと多いことか。すべての人を歓迎しています、と教会の看板に書いておきながら、その趣旨は、教会が指定する時間に何ら問題なく教会に来られる人々、そして協会行事に参加できる方々のみを歓迎しています、ということでしかなかったのである。

                     

                    その教会の常識や暗黙の前提そのものがこのCOVID-19で一気に崩壊し、今まで教会が言い続けてきたこと、教会が何も考えずに「さも当然」かのようにしてきた日曜日の礼拝への参加の絶対視や、教会堂での礼拝しか礼拝でないとか言った過去の理解がある面なし崩し的に一気にうやむやになり、教会側の事情で、それを崩していくということが起きたのである。事は、時間だけに限らない。聖餐式のスタイル、ぶどう酒を一つのカップから飲むことを重視している教派や、パンとぶどう酒をぐずぐずにしたものを一つのスプーンで口に入れることを前提としてきた教派まで、それを感染防止のために避けざるをえなくなり、礼拝を司祭だけにして、信徒の参加の形態による礼拝を中止し、そのための神学が生み出されたのではないか、と思う。それが、ある面での危機神学として生まれた神学的思惟と理解の一つであろう。

                     

                    Long on Twitter: "「逃げ恥”さも当然”神経衰弱」がさらに増えました! さも当然って何だっけ!? ゲシュタルト崩壊してきますw  まだまだ募集中ですので、どうぞよろしくお願いします。 #逃げ恥 #逃げ恥さも当然神経衰弱… "

                    https://twitter.com/long_nigehaji/status/1350765052417114112より

                     

                    説教サーファー爆誕!

                    今回、関西学院大学の中道さんがお話になっていたことで、印象的であったのが、動画での礼拝に切り替えた教会では、日常の礼拝参加者以上に、教会が公開した動画の視聴者数があり、教会への参加者が増えたということである。それと同時に、礼拝堂がサーファーというのか、礼拝説教サーファーのような存在があるのではないか、という指摘があった。まさに、中道さんが指摘されておられるように、教会の礼拝説教をザッピングする(昔風の言い方で、テレビのチャンネルをガチャガチャする)ザッパー(チャンネルを頻繁に変える人を示す英語)みたいな方が結構いるのではないか、ということもおっしゃっておられた。まぁ、アメリカ社会だと、教会がたくさんあるので、いわゆる『恵まれた』体験をもとめて、日曜日に2−3教会に参加する(それはそれで大変な面倒ではあると思うが)教会ホッパーと呼ばれる人はいたわけである。それを考えると、今に始まったことではない、という気がする。

                     

                    説教サーファーと教会の市場化

                    カール・レーフラー捏造事案ですっかり名前を落としてしまわれたが、深井智朗さんが、教会を自由に自分で選ぶことが可能になった神学の市場化について、『神学の起源 社会における機能』で書いておられたが、現実空間では、礼拝サーファー、教会サーファーは致し、ホームレスの皆さんの一部に、教会に行くことでのメリットを求めて教会サーフィンが発生していることは、広く知られている事実である。今回起きたのは、各地の教会が一斉に説教動画や礼拝動画などを公開し始め、インターネット公開されている範囲で、また、インターネットにアクセスできる人々の範囲で、という限定はつくが、ライブに関しては、なかなか困難かもしれないが、イギリスだろうがアメリカだろうが、ドイツだろうが、どこの国のどの教会でも、動画を提供している教会であれば、見ようとする機会と時間と語学力とネット環境さえあれば、教派を問わず見ることができるようになったのではある。

                     

                    COVID-19 の爆発的感染拡大とその対応策として、これまで内弁慶だった教会(一部そうでない教会があることもよく存じ上げてはいるが)、教会に来てもらってそこから、と思い込んでいた教会が、礼拝の様子を中継する時代になったことは、実に印象深い。

                     

                    古代教会風教会のほうが早かったけど…
                    教会の礼拝中継に関しては、意外なことに、音楽演奏が派手や電子ものが好きそうな若向きの教会や福音派の教会の大半があまり取り組んでいない数年前おそらく2018年ごろの段階で、日本コプト正教会さんがかなり真面目に礼拝中継しておられたということは記憶されるべきかと思う。コプト正教会は、日本に数か所活動しておられる拠点があると認識しているが、コプト正教会の関係者が全国に分散して居住しているために、これまでは、日本ハリストス正教会さんのところに寄寓するなどの方法しかなかったのが、京阪奈学園都市のはずれに独自の教会を持ち、礼拝が定期的に行われ始めた段階で、Youtubeの動画中継機能を利用して礼拝を流し、信徒に対しての礼拝内容をお伝えしておられる取り組みをされていた。コプト正教会の皆さんにとっては、多くの信徒さんが参加できないので、礼拝の中継がなされないより、だいぶんましになるということから始まったこととはいえ、礼拝の中継は非常にありがたかったのではないか、と思われる。

                     

                    COVID-19が伝道の機会をもたらしたかも
                    前回も少し触れたが、各教会がYoutube動画を上げ、神の名を呼ぶことを多くの人々にしろ示す中で、説教中心の教会にせよ、儀式(典礼)中心の教会にせよ、同時中継ではないにせよ、動画を公開することで、教会に行かなくても、教会の内部構造や教会で何をやっているのか、つまり、神の名を呼ぶ行為を、説教という形にせよ、自由祈祷という形にせよ、祈祷書による祈祷文祈祷であれ、それをまじめに執り行っている人々がこの世の中に存在する、ということを信徒であろうが、にわかキリスト教ファンであろうが、神を求める人々であろうが、非教会員であろうが、おひとり様キリスト者であろうが、家にいながら見ることが可能になったのである。ある種、これまで、特別講演会や、伝道大会、また、映画会など伝道の目的でいろいろ人集めする苦労してきた教会であったが、教会での集まって何かすることが忌避される中で、かえって伝道がしやすくなったという、妙な側面がある。これは、これまでの教会が「教会に来させてなんぼ」と思っていた暗黙の前提に大きく依存していたし、それが単なる思い込みであったかもしれないことを示しているように思われる。

                     

                    確かに、見ず知らずの教会に入っていくのは勇気がいる。お寺や神社の敷地(境内地という)は本殿以外林だったり、生垣だったり、墓地だったりし結構スカスカの寺社が多いのだが、教会はたいてい敷地いっぱいに建物が建っており、さらに煉瓦造や石造、コンクリート造なわけだし、窓はステンドグラスになっていたりして、結婚式場教会でもない限り、ドア一枚向こうが見えにくい構造になっていることが多く、その内部は想像しがたい建物であることが多い。確かに、これまでの宣教師やミッション系学校のご尽力もあり、教会の理解は多少は深まってきたが、それでもなお冷やかし半分でも教会へ行ってみようという人は少ないし、京都の料亭みたいに一見さんお断りしているわけではないものの、行きにくい雰囲気はある。また、日本の多くの組織がそうであるように、短期間の関係者を蔑視しているわけではないが、重視していないような側面もないわけでもない。いわゆる「にわかファン」のような人々が関係を持ちづらい組織文化が日本にはある。

                     

                    一見(いちげん)向きのオンライン説教

                    その意味で、一回教会にきて、その後一切来なくなる人々(いわゆる一見さん)がたくさんおられた。そのような人々の出入りをこれまで日本の教会はたくさん経験してきた。そして、なぜ、人は定着しないのか、という素朴な疑問を多くの教会は持ってきたわけではあるが、それは、日本人にとって、信仰や組織というものに対して、ある種の一所懸命主義があって、気軽に何らかの組織に参加できない世界観があるからであり、一歩でも足を教会に踏み入れた瞬間に、そこから抜けにくくなる、ということを恐れてのことではないか、と思われる。むろん、徳川期のキリシタンと呼ばれた人々への苛烈な宗教弾圧が経験され、それが歴史的に日本人の精神構造に刻まれてきたことによるのかもしれない。明治期になっても、キリスト教徒は、耶蘇教徒と呼ばれ、蔑視されてきた。

                     

                    これらのこともあり、キリスト教に興味はあっても、キリスト教に関与できないという側面があったためかと思われる。また、聖書は、中学高校の大学の教科書や各種の新書などのような多くの近代的な書物とは違い、冒頭から読んでいけばわかるものではないし、旧約聖書の創世記などは、理解不能な話が書いてあるし、新約聖書にしても、冒頭、舌を噛みそうな外国人の名前の羅列から始まるのである。個人で読んだところで、古代文書である聖書は理解不能であることが多い。

                     

                    しかしながら、先に挙げたオンライン説教サーファーのようなことが可能となり、教会堂に一歩足を踏み入れた瞬間に待ち構えている、衆人環視で動物園の珍しい動物を見るかのような好奇の目にさらされる感覚もなく、さらに教会に入って、降ってわいたかのように突然お隣さんがやってきて「どこから来た、誰の紹介できた、仕事は何をしている、家族はどうなっている、どうやってこの教会を知った」とか、事情聴取か職務質問モドキの質問にさらされることなく、純粋に説教を聴く機会ができたのである。これは、どう考えても、一見さんにとってはメリット以外の何物でもなかったのである。まさに、他人の自宅のPCスクリーン上までであれば、神のことばをお届けできる環境が整ったのである。これを伝道と言わずしてなんというのか、だれかご教示賜りたい。内弁慶であった、あるいは教会に来させてなんぼと考えていた教会にとって意識変革を迫る事態(危機)がCOVID-19の罹患者の爆発的拡大に伴い生じたのである。

                     

                    本来、教会のコンテンツは何か
                    今回の鼎談で、中部教区主教の西原廉太さんがいていただいて、よかったと思ったのは、同志社系、関学系とは違う教会の姿、聖公会などの儀式としての聖餐を重んじる教派的立場が述べられたところである。聖公会(より正確に言えばAnglican Communion)は

                    プロテスタントに分類されるが、聖餐を重視する。もちろん、カトリックやコプト正教会、日本ハリストス正教会も聖餐を大事にしておられる。これらの教派では、聖餐があって初めて教会活動が成り立つのであり、説教だけ(御言葉の聖餐とかMorning Prayer)という制度や、霊的陪餐(司祭が諸事情でいないときに、司祭が聖餐を上げた、ミサを立てたときに聖餐にあずかっていることを覚えて、現実のパンにあずかっていなくても聖餐にあずかった気になる)とかウルトラCがないわけではないが、やはり聖餐があって初めて教会なのではないか、という意識なのである。参加者が一つのパンを食べ、そして、同じキリストを内に頂くものを認識することを大事にしてきたのである。以下の讃美歌は、日本聖公会の式文「わたしたちは多くいとも、私たちは一つです。なぜなら、パンが一つだから」に対応する式文にメロディをつけたものである。

                    Though we are many, we are one body,

                    we who come to share this living bread;

                    Cup of salvation, shared among all nations,

                    nourishing us now and evermore.

                     

                    Though We Are Many - Theme Song for the International Eucharistic Congress- Dublin June 2012
                     

                    聖餐という形を通してイエスを覚えることの重要性

                    個人的には、今、聖公会の英語部から動く気が全くないのは、この聖餐の重要性と式文を通して、教会暦を通して養われる体験をしているからである。たとえ、ヤマザキの食パンの7 mm角切りの食パンの角切りであろうが、あんぱんだろうが、クリームパンだろうが、チョコレートパンであろうが、カレーパンであろうが(できたら、この辺のは避けたいところであるが)、一つのパンを共に食する機会というのは、個人的に大事にしたいと思っている。聖公会では、主にホスティアを利用していることは付言しておく。

                     

                    今回、西原さんからお話に出た、北海道教区の植松主教の札幌から車で数百キロ離れた伝道所で聖餐をするためだけに出向かれた経験が出ていたが(このNHKのe-テレで放送されたこころの時代での植松主教の放送回でも、植松主教ご本人がご発言になっておられたやに記憶している)、それほど、聖餐式は重要だと聖公会では考えられている証左であるように思う。

                     

                    と思っているところに、日本ハリストス正教会さんの人吉教会の水野司祭がカトリックのミサ(マス)、礼拝とを対比させながら、そもそも、聖なる典礼としての聖体礼儀(いわゆる、プロテスタント派での礼拝とか聖餐式と呼ばれる行事、カトリックでいうミサという行事で教会の本来的な活動)について、丁寧に解説しておられる動画があったのでご紹介する。キリスト教関係者はぜひ以下の動画をご覧になられて、自分たちの教会の礼拝、説教、聖餐式との違いを考えながら、どこがどう違っているのか、なぜ、自派では、ここと違うやり方で取り組んでいるのかをお考えになられ、さらに、わからなければ、ご自身の教会の牧師に尋ねられるなり、自派の教会の牧師と一緒にご覧になりながら、ここはどうなんでしょうか、ということをお話になられてはいかがか、と思う。そうすることで、自派の聖書理解、教会間の理解が深まるとは思うし、本来、牧師先生方にはそのような取り組みをされてもよいのではないか、と思う。また、このあたりのことを信徒修養会なりで、きちんとお話になられるとか、動画を公開してくださった水野司祭のように動画で公開するくらいのことはしてもよいのではないか、とは思う。
                    ただ、わかりにくいかもしれないと思われる用語について解説しておくと、
                                 通常のプロテスタント用語
                    ハリストース(ロシア語) キリスト
                    イイスス(ロシア語)    イエス
                    聖体礼儀         聖餐式・礼拝
                    パスハ(ロシア語)    イースター、復活祭
                    クリストゥス(ギリシア語) キリスト
                    イオアン         ヨハネ
                    金口イオアン       ヨハネス・クリソストモス
                    パウエル(ロシア語)   パウロ
                    モイセイ(ロシア語)    モーセ
                    機密           聖なる典礼・聖礼典秘跡サクラメント
                    痛悔機密         懺悔・悔い改め、悔い改めの告白
                    聖神           聖霊
                    聖神降臨         聖霊降臨
                    キノニア(ギリシア語)   交わり、聖体拝領
                    などに通常聞かない語が利用されるという特徴があるが、この聖餐理解についての話はもっと知られてよい話だと思う。

                     

                    聖体礼儀(礼拝・聖餐式)についての正教会の理解の解説動画

                     

                    人吉ハリストス正教会での聖体礼儀の模様

                     

                     

                    釧路ハリストス正教会での聖体礼儀の模様

                     

                     

                    サクラメンタルを体験する場としての灰の水曜日、洗足木曜日、聖金曜日
                    さて、当日コメントを入れたが、Ash Wednesday(灰の水曜日)にしても、Moundy Thursday(洗足木曜日)、Good Friday(聖金曜日)にしてもプロテスタントのメソディスト系やルター派の一部でも灰の水曜日はするようであるが、灰の水曜日、洗足木曜日、聖金曜日、そして、復活大祭(いわゆるイースター)のようにその場でないと体験できないものがいくつも本来はあるはずなのであるが、こういう実際に体を通して、五感を通して体験することがプロテスタントでは少ない。そうなると、説教だけで、その概念を実体抜きに伝えることになるので、集まる意味はなくなり、ネットでの説教垂れ流し(失礼)でよいではないかになるが、伝統教派では、そうもいかない。あえて、集まる意味、灰の水曜日、洗足木曜日にしても、聖金曜日にしても、サクラメンタルなものを五感を通して体験する意味があると考えている教会群の場合、ネットだけでは完結しないことになる。

                     

                    聖公会のnorthumbria communityの灰の水曜日

                     

                     

                    米国ルター派の灰の水曜日

                     

                     

                    カトリック教会の灰の水曜日

                     

                    このあたり、正教会関係者、カトリック関係者をお招きして、今回のCOVID-19がもたらした危機とその後の教会の変質について、Withコロナ時代、あるいはWith COVID-19時代、Postコロナ時代、ないしは、Post COVID-19における教会論についての教派間対話、真の意味での教派間の礼拝観の違いを尊重し、それぞれの教派の存在を神の恵みとして享受しつつ、無理矢理どこかに合わせて一体化する、あるいは、政治的な背景からの教会合同のような一体化としてのエキュメニカル運動ではなく、相互の教派の理解についての対話を通しての真のエキュメニズムにつながる鼎談ないし、対談がなされていくことを期待して、本連載を終わりたい。

                     

                     

                    なお、このイベントに協力された関係各位、鼎談者として登壇された関係各位に深甚なる感謝の意をこの場において評するものである。

                     

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