2016.11.07 Monday

グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(1)

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    BookReport  アルノ・グリューン著 村椿嘉信訳
    従順という心の病い ―私達は既に従順になっている― ヨベル刊 800円 (最下部参照)

    N.T.ライトセミナーに行ったとき、ヨベルの社長の安田さんから本書をご恵贈いただいた。その日には、同行者のSKHRさんも居られたので、帰りの電車の中では馬鹿話(といってもほかの人には馬鹿話だが、一応まじめなキリスト教業界の話)をしていた。帰りの新幹線の中では、読めなかったが、翌日通勤時に、この本を一気に読んだ。薄い本であり、翻訳も読みやすい。何より、現代の病理に迫っていたので、大変面白く読んだ。これは紹介すべき本だ、と思ったので、ある会合で、ブックレポートをした。本記事は、本日ご紹介したブックレポートにかなり加筆して、ブログ向けに読みやすく書き換えたものである。

     

    社会システムへの従順
    社会システムに関する「従順」という概念、近代から現代社会における社会システムとの関わりの中で生み出されていった行動規範が、ある種の現代病であり、現代社会におけるある種の病理現象と、もはや言ってもいい現象である「従順」を生み出したのではないか、ということを本書は指摘している。つまり、現在の社会システムやある前提や行動パターンを与件として、無批判に受け止めることがどうもおかしいのではないか、と批判している書物が本書である。

     

    背景にあるナチス・ドイツ

     読みながら思ったことだが、著者が生まれた地であるドイツにおいて、ナチス・ドイツを生み出していったドイツ型の衛生思想、優生学思想をどうも念頭に置きながら、社会システムと社会の基本原理に関する無批判な従順がどのようにして生まれていったのかを起点に考え、書かれた書物であるといえると思う。

     

    http://ripy-jm.com/news/pickup1306_keyakizaka46_ishou_nazi.htmlより

    (なお、このRipyの記事の著者の主張とミーちゃんはーチャンの主張とは一致していません。)

     

     なお、この種の問題はドイツだけに限られない側面もあり、近代そのものが内包している問題意識だと思う。また、この問題意識の先に、文明理解、社会理解がシステム化されること、とりわけ、本来別々の個別のユニークなものとして被造された人間である個人に画一化、均一化の危機が迫っていることを指摘した書である。

     

     その意味で問題意識としては凡庸さと悪を扱ったハンナ・アーレントと共通するものがある。

    映画ハンナアーレントの予告編

     

    異なる文化形態の人々との共存のために

     ところで、本書を読みながら、本書には、近代を支配する世界観と異なる世界観を持つ人々との間の緊張の問題を考える鍵があるように感じた。というのは、現代イスラエルにしても、あるいは、現代ムスリム社会にしても、社会システムに従順であろうとする、という、この種の社会の基本的前提を与件として受け入れる必然性を必ずしも有していない、という点では西洋近代とは異なる世界観を持っている人々である。それ故、西洋近代と、ユダヤ社会、ムスリム社会は、時に西洋近代と緊張関係にあった。とはいえ、ユダヤ社会、ムスリム社会は西洋近代を与件とする社会に巻き込まれつつも、どこかで、共通化されることに関する問題意識というか、緊張関係を持っていたし、現在もなお持っている様に思われる。

     

    今、この文章を書きながら、イスラエルにお住まいのお友達の旧約学者の方が京都の浄土宗のお寺で開催されている冥土カフェ「ピュアランド」でお話してくださったときのことを思い出した。現代のイスラエルでは、ドイツ人が徹底的に一致してまじめ過ぎだったが故に、徹底的なホロコーストが起きたことの反省に立ち、極力一致しない方向で、極力こめかみに電気を走らせない方向で、個人の個性と社会の多様性を重視する形で教育を思考しているものの、ロシア系の音楽教育やバレェ教育は、完全に型をはめる教育スタイルなので、その辺で、後からやってきたロシア系ユダヤ人との間になんとはなく軋轢がある(大意)という話を思い出した。

     

     

    冥土喫茶 ピュアランドのフライヤー

     

    現代の社会だからこそ、必要な本書

     また余談に言ってしまったが、この本の主張に目を向けると、近代を経験し、近代という遺産の上にある現代社会に生きる我々にとって、現在の社会システムに対して無批判にその前提と行動基準、そしてその社会をもたらすものを受け止めることが本当に望ましいのか、ということを幾つかの具体例をとともに紹介している本である。そして、ツィッターとかFacebookとかで、他人の箸の上げ下ろしを云々する人々が居られ、あれはこうでないといかんのではないか、とか正義の剣を振り回すかたがたも居られるが、そういう時代であるからこそ、他者性を持つ他者を受け止めるために、この本は必要であるといえるのではないか。

     


    典型的に本書の問題意識は、割と最初の段階で取り上げられているスタンフォード監獄実験、あるいは、ミルグラム実験、あるいはアイヒマン実験と呼ばれる実験とその結果が示されていることで暗示されている。この実験に関しては、映画ESでも取り上げられた。この実験は、社会システム理論や経営理論関係で有名な実験ではある。

     

    その実験を取り上げつつ、人権教育を十分に受け、人権を重要視しているアメリカの教養ある現代人でさえ、権威と呼ばれるものが指示することに唯々諾々として従っていくのかを示しているし、その人々が権威に無批判に従うメカニズムについて分析的に書かれている書物である。

     

    映画ESの予告編

     

     

    似たような映画の『エクスペリメント』

     

    「合理的に把握すること」、「従順になること」を要求する私たちの文化、つまり人間の本質を観念的に理解しようとする私たちの文化は「規格化された人間」を生み出す。私たちの文化に生きる個々の人間は、それゆえ常に、「役割」や「地位」という観念的なものによって評価さらされている(アーヴィング・ゴフマン(1922−1982 米国の社会学者))。自分を独自の個体とみなす私たちは、「人格(ペルソナ)」という構築物を、自分自身の独自な成長によって手に入れたものと勘違いしている。(『従順という現代社会の病い』p.10)

     

    上記の文章は非常に示唆に富む文章であると思う。先日のN.T.ライトセミナーで東京に下る途中、同行者のSKHRさんという方とも話していたことを思い出した。近代社会は、学校と軍隊という2つの人間の規格化装置というか規格化の為の制度を持ち、その規格化装置ないし規格化制度によって、ここで言う従順(あるいは社会制度への盲従、依存関係と呼んだほうがいいと思うが)という心の病を自分たちのものとして自ら獲得したかのような理解が広まっているのは確かだと思う。

     

    ナウエンの本から

    この人格(ペルソナ)のことをナウエンは、The way of the heartの中で、繰り返しFalse Selfと読んでおり、そのFalse Selfに従わせる力のことを、Compulsion(形に人をはめていくこと)やSeductive Powerと繰り返し指摘している。そして、The way of the heartの中で、ナウエンは一人ひとりの人間が本来のSelfに戻り、Spiritual Lifeに戻る必要があることと、そのためのSolitudeソリチュードが必要であることを説いている。

     

     このソリチュードが必要になる背景について、グリューンは次のように言う。

    人間は、脅され、恐怖に陥ると、「自分を恐怖に陥れた人と一体化する」傾向があるが、これほど不思議な事はない。さらに、脅される人は、脅す人と融合し、恐怖に陥れる権力者に自分の判断を合わせ、自分のアイデンティティまでも放棄してしまう。恐怖に陥った人は、このようにして ― 決して成功するはずがないのに ― 自分自身を救うことができると期待するのである。(p.17)

     

    『聖書的』、『クリスチャンらしさ』

    を強いる教会内の従順

    ここでは、近代の中のシステムの中で、結果的に自分のアイデンティティ間で放棄させ、恐怖を持って支配しようとする権威者、権力者と一体化することで、自己の本来のアイデンティティを放棄して、False Selfである、支配者、本来の自己の姿と異なる他者の姿と一体化してしまう可能性があることを指摘している。そして、自分自身を偽って、偽りの生を生きることを自らに強い、偽りの生を生きることを他者に強いるのである。現在日本のキリスト教会の文脈では、キリストに従って生き、そして本来の人間の姿を回復するのではなくて、教会で一般に標準的とされている「クリスチャンらしく生きる」とか「聖書的に生きる」という偽の人格を生きることになる場合もないわけでもない。大体、聖書的に生きたら、ニネベに行け、といわれたのに、タルシシに向かっていくことにもなるし、なんとなく偉い人のお薦めの結婚相手も娶るが、本人の好きな相手と最終的に結婚するまでやりぬくのであるが、こんなことをしたら、今なら、それこそ「クリスチャンらしくない」とか、「聖書的でない」という生き方をしているとご批判を受ける。そもそも、モーセさんだって、異教徒を娶っていたし、アブラハムは異教徒であったし、異教徒と結婚しているしているではないか。それでも、彼らは神に用いられた僕ではないのか。「聖書的」とは、「発言者にとって都合がよく、好ましく見えること」の総称ではないか、といいたくなる。

     

    いつものような上記のような余談はさておき、グリューンのテキストに戻ろう。他者から愛されるために、ナウエンがいうところの偽りの自己を演じ、偽りの生き方をすることによって生まれることについて、グリューンは次のように書く。

     

    全ては、自分が低く評価されないこと、とりわけ拒絶されないことを目標に「生き延びるための闘争」を演じることになる。「愛」や、「共感によって真実を受け入れること」、また「人間的な思いやり」を表現する生は失われる。その失われた部分に、常に待ち受けていた「無力さへの不安」が忍び込む。それ故、人間は自らを攻撃者と同一視するのである。(同書 p.24)

     

    強者への依存の結果、自己の弱さ、素の自分、飾っていない自分、自分が破綻していること、という真実を受け入れなくなり、共感ができなくなり、耐えざる不安にさらされる、とグリューンはいうのである。

     

    この部分に関する引用をナウエンのThe way of the heartの中からしておこう。

    In  solitude, I get rid of my scaffolding: no friends to talk with, no telephone calls to make, no meetings to attend, no music to entaertain, no books to distract, just me - naked vulnarable, weak sinful, deprived, broken - nothing.  (The way of the heart p.18) 
    ナウエンは、自己が見るかげもない姿で、裸であり、弱いこと、それらを恐れるし、本来の哀れな姿を受け入れるのではなく、自分が何か価値ある人物のように思いたがるナウエン自身の姿をこの後、正直に書いている。

     

    ストックホルム・シンドロームと

    レイプ被害者

    ところで、この部分を読んだとき、ある人物のことを思い出さずにはおられなかった。それは、被抑圧者と一体化することによって生存を図り、誘拐されたにも関わらず、誘拐者と一緒に犯罪行為に関わるようになった有名な事件の登場人物である。その人物とは、アメリカの大富豪ハースト一族の一人のパトリシア・ハーストのことである。彼女のこの事件は、犯罪学の典型的なケースとして、いろいろ取り上げられるが、彼女が有名人であったこともあり、ストックホルム症候群が知られることになった犯罪事例である。事件の概要は、誘拐されたハースト嬢が、こともあろうに、誘拐した人々と一緒に銀行強盗までやり、ライフル銃だか散弾銃をぶっ放したというところまでいったのである。

     

    http://www.cbsnews.com/news/february-4th-1974-patty-hearst-kidnapped/ から

     

    銀行強盗中のハースト嬢

     

     

    クリミナル・マインドとか、Law and OrderとかLaw and Order Criminal Intentとか、Law and Order Special Victim UnitとかなどアメリカのCrime DramaのHostage Situationでは、生き残るために監禁者の言いなりになることに悩む被監禁者、あるいは、生き残るためにレイプ半の言いなりになったレイプ被害者の問題として、この種の呵責に悩む人々の問題も取り上げられることが多い(アメリカの犯罪ドラマ見すぎというご批判は甘んじて受けよう)。ハースト事件は、監禁事件で監禁された者が生存するために、監禁する人物の発言に合わせていってとりあえず生存を図ろうとするうちに、その犯罪者にいつの間にか錯誤がおき、結果的には積極的に従うということまでがことが起きる、ということを示した結果であろう、と思う。

     

     

    Criminal Mindsの予告

     

     

    現代の社会システムに捕囚されたわれらかも

    直接の明確な言及そのものはないが、グリューンは、この本の中で、現代人が現代社会システムに監禁されており、現代社会全体が、ストックホルム症候群にロックインされている状態に陥っているのではないか、ということを指摘しているように思う。さらに、次のように続け、被抑圧者が抑圧者、監禁されたものが監禁する側に回ることを説明している。

     

    その人にとって、権威に必死にしがみつくことが人生の基本原則となる。人は権威を嫌うが、しかしながら、自己をそれと一体化する。他の可能性はない。自分自身を抑圧することによって、「抑圧するものに向かう憎悪や攻撃性」ではなく、「他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性」が呼び起こされるのである。(同書 pp.49−50)

     

    この部分を読んで思ったのは、昨年、ご妙齢のかたがたと読んだナウエンの「両手を開いて(With Open Hands)」の割と早い部分で書いていることであった。それは、ある老婆の話である。この老婆は、小額のコインが他者によって取り上げられると思って、両手をぎゅっと握って、頑として離さないという状態であったらしい。人間は、他者から見た場合に、価値がほとんどないようなもの、握り締めたコインを握らずには、あるいは、しがみつかずには居られないものらしいことをナウエンはこの話で指摘している。まるで、この老婆にとっては、コインを離すことが自分のアイデンティティ崩壊につながるかのように。

     

    この老婆のことを紹介したあと、ナウエンは自分が握りしめている汗ばんだコインのようなつまらないものを握り締めている手離し、その代わりに神を受け入れるために、神に向けて両手を開いていくことと、祈りとの関係、神との関係の回復のことを説いていたことをこの部分から思い起こした。この、偽りのペルソナをつけるように仕向けるComplusion強制やSeductive Powerから離れ、真の自己を回復するために必要なものが、いま、ご妙齢のお嬢さん方(60歳以上のかたがた)と読書会をしているThe way of the heartでは、ソリチュードであることが指摘されていた。

     

    われわれは握りしめたFalse Self、偽りのペルソナもの見つめ、そして、神に向かっていくソリチュードを手放した結果、偽りの自己増、ペルソナが放棄されることによって、自己を変容させることにつながるということなのだろうと思う。そして、現在明石のナウエン研究会で読んでいる砂漠の師父たちを扱った作品であるThe Way of Heartを読みながら思う。
     

     

    次週、一週間後に続きを公開。

    それまでは、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の区切りのいいところまではやるつもり。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    アルノ・グリューン,村椿嘉信
    ヨベル
    ¥ 864
    (2016-11)
    コメント:うっすいけど、大事なことが書いてある。名著。ただし、神も聖書も一時も出てこないが、われわれの状態を理解するために必要な書物

    評価:
    アンリ J.M.ヌーエン
    サンパウロ
    ¥ 1,296
    (2002-10-07)
    コメント:内容はいいのに、訳が変でちょっと突っかかる(減点対象)。ただし、表紙デザインは最高。

    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    HarperOne
    ¥ 916
    (2009-09-22)
    コメント:使っているのはこの版ではないけど、非常によい。

    2016.11.14 Monday

    グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(2)

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      音声ファイルのダウンロード先

       

      この本は、非常に大事なこと、現代社会において、とりわけ日本型のキリスト教徒にとって大事なことを示してくれている本だと思う。と言うのは、日本型のクリスチャンは「鳩のように素直であること」だけが重視されている傾向があるからである。このことは何度もこのブログで指摘してきたところであるが、聖書のその言葉は、「鳩のように素直であること」のその前に、「蛇のように賢くあること」が書かれているからである。

       

      【口語訳聖書】 マタイによる福音書
      10:16わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。

       

       

      がその根拠聖句として用いられることがあり、教会内での振る舞いについても、この語が用いられているとすれば、その発言者がおられる教会は、狼がいるところ、狼の砦みたいなところだ、と自ら認めている、ということになる。だとすれば、蛇のように賢くなければならないことになる。しかし、狼の巣や虎の穴のような教会に誰が行きたいと思うだろうか。まぁ、行きたいと思う人は行かれたら良いと思うが、ミーちゃんはーちゃんは嫌でござる。

       

       

      狼の砦 ヴォルヴスシャンツェに存在したヒトラーの防空壕 

      ここで、Operation Valkyrieが行われるはずであったのだ。

       

      Operation Valkyrie を題材にした映画 ヴァルキューレ

       

      秋葉原にあるコミックとらのあな (ここに行く人ならいそうだが…)

       

       

      昔懐かしのアニメ タイガーマスクの虎の穴 (ここに行きたい人はあまりいないのでは・・・)

       

      余談に行き過ぎたので、本論に戻ろう。

       

      怒りと攻撃性と暴力性

      今、韓国では大統領の不正疑惑で、群衆が怒っている。アメリカでは、トランプがかっちゃったので、カリフォルニアのロサンゼルスからサンフランシスコに行くI101 と呼ばれる高速道路(サンタ・バーバラからディズニー・ランドに行くときにはお世話になった)で焚き火をする人々が出た。未だに、ニューヨークの五番街はデモ隊で出歩きならない状況になっているらしい。大統領選挙を1980年代後半から横目でチラチラ見てきたが、選挙後はこれまではあっさり選挙戦の勝者に恥ずかしげもなく、Our Presidentと誇らしげに言っていた国民が、こんなに暴徒化するとは一体どういうことか、と悩ましく思っている。それだけ、アメリカ市民、アメリカ国民に怒りが溜まっているのだろうと思う。

       

      ロサンゼルスで起きた反トランプの立場の人が高速道路101号船を選挙した事件の動画

       

      ロドニー・キング事件をきっかけに起きたLA暴動のニュース

       

      攻撃的になることの背景に関して、グリューンは次のように書いている。それは罪悪感だという。

       

      私たちは、常に罪を感じなければと覚悟する一方で、同時に、罪の意識に耐えることができない。なぜなら、罪が私達自身の価値を徐々に破壊するからである。私達が「自分に価値がない」と感じることによって、私達のうちに「怒り」という感情、「攻撃的」な感情、「暴力的」な感情が生じる。この罪悪感は、私達を言いなりにさせる手段として用いられるものなので、私たちは、「本当の罪意識が自分にもたらす責任を引き受けて、自分を開放すること」ができなくなってしまう。(従順という心の病  p.30)

       

      この罪悪感、おそらく英語ではGuiltと訳されるはずの感情は、日本だと恥と呼ばれる内容とほぼ同じ意味だと思う。本来できるべきことが、できるはずのことができていない、ということだと思う。つまり、できるはずなのにできていないことは、自分自身の価値を低め、極端にまで自己評価が下がってしまった結果、自分自身に価値が無いものとなってしまう、ということなのだと思う。

       

      結局、自分自身に能力が無いことの八つ当たりとして、「怒り」とか「暴力」を他者に向けやすい傾向にある、ということは自分自身の心の動きを見ていても、それはあると思う。自分自身の能力不足が恨みや僻みにつながり、自分の能力以下のもの、能力以下であってほしいと思う人物に対して「怒り」が現れるというのはあるだろうと思う。

       

      親子で楽器とか、勉強とか教えないほうがいいというのは、ある面で、そうだろうと思う。自分自身が子供に投影されてしまい、自己の能力不足がより偏った形で子供に現れていることと直面しなければならないので、親が子供に教えるのは、結構問題を生むことが多いようである。自分でもやってみたこともあるが、よほどの非常事態でない限り、やらないほうがいいなぁ、と思っている。客観性がどうしても鈍り、期待が先行するからである。

       

      最後のところで、”「本当の罪意識が自分にもたらす責任を引き受けて、自分を開放すること」ができなくなってしまう。”と書かれているが、ナウエン風の書き方をするなら、自分の醜い「神ではない」ものとしての姿を見つめ(罪ある人間という生き方を認め)、本来の回復をもたらす神の憐れみ、神の愛にすがることではないか、と思うのだ。それこそが、不完全さに閉じ込められている人間の救済であり、救いと呼ばれるものであり、N.T.ライトさんが”神のレスキュー・ミッション(God's Rescue Mission)”と呼ぶところの神との関係の回復が、他人を攻撃したり、他人のせいにして、他人に怒りを向けたりしてごまかした結果、神のレスキュー・ミッションに向かい合うことを避けることになるのだろう。

       

      嫌いな相手に向ける罵詈雑言

      嫌いな相手と付き合いたくない理由を正当化するために、相手が悪いのだ、と自分自身に言い聞かせるようなことが時々起きる。それは正当化にすぎないと思うのであるが、生理的に嫌悪感をもたらす、というのは、相手の良さを覆うために非常に強力なツールであると思う。そして、その生理的な嫌悪感を催すようなラベルを貼って終わりにすることがある。そのあたりのことについて、グリューンさんは次のように書いている。

       

      両親が「子供特有の性質」であると頻繁にみなすものは、不潔さ、不純さ、欲望、落ち着きの無さ、破壊願望である。子供は――これもまたフロイトの見解でもあるが――、「欲望」が満たされることでなく、常に「快楽の原理」に従っている。

       まさにこれと同じ性質を、「憎むべき異質者」に対して、例えばユダヤ人、シンティ・ロマの人たち、中国人、カトリック教徒、クロアチア人、セルビア人、共産主義者等……に対して押し付けていないかと、私たちは自らに問わなければならない。(同書 pp.36−37)

       

      ここで、「不潔さ、不純さ」という語が非常に近代という時代を反映していると思う。思えば、衛生思想は、ナチスドイツのホロコーストを支えた概念であるし、衛生思想を極めた結果、結果として人類はアレルギー(花粉症やアトピー)などを抱え込むことになってしまったのである。このあたりのことは、近代的な行き過ぎた衛生概念から言えば、家畜と矯正しておられ、ちょっとお世辞にも衛生的と言えない生活を送っている人々でもあるが、彼らにはこの種のアレルギー性の病気はないそうである。

       

      行き過ぎた清潔好きに関しては、アビエイターという映画に登場するハワード・ヒューズというアメリカの大富豪で、飛行機キチガイで、清潔好きが講じた挙句、裸で家の中で過ごすしかないほどであったという映画内での挿話があるが、どうもそうであったということは有名な話である。ここまで極端でなくても、現在の社会の過剰に衛生に対する関心は行き過ぎに近いものもあるのではないか、と思う。時々、なんのための過剰な衛生概念なのだろうか、と思うことがある。

       

       

      映画 アビエイターの予告編

       

      ここに、ロマ人という表現が出てきているが、これは、昔はジプシーと呼ばれた人々のことである。社会に定着せず、自由に行き、社会的な制度外で生きた人々であるが、定住せず、社会の中で行商やサーカス、見世物小屋などを生活の糧にした人々である。これらの人々は、ディズニーアニメの「ノートルダムの鐘」にも出てくる。エスメラルダとその仲間たちがロマ人の人々である。

       

      映画 ノートルダムの鐘での、ロマ人のエスメラルダの印象的なシーン

       

       

      映画 ノートルダムの鐘での、ロマ人のエスメラルダの印象的なシーン 英語版

       

       

      また、ショコラ、というフランス映画でもロマ人の背景を持つ人々が登場し、このロマ人役をジョニー・デップが演じている。このロマ人にしても、ユダヤ人の人々にしても、個人個人が見られるのではなく、十把一からげに扱われ、その十把一からげにした、外部の社会から自分たちを隔絶し、独自のコミュニティと独自の内部ルールを尊重させていた人々である。社会の周縁に自らを置いたのか、他者から社会の周縁に追いやられたのか、それはあまり定かではないが、社会から一種隔絶されることで、さらに孤立していくことになる。そして、挙句の果てに、不潔とか不浄とかいうラベルが社会の主流派の人々から貼られることになる。そして、豚とか犬とか呼ばれることになるのである。

       

      映画ショコラ 予告編

       

      先日、「紅の豚」というアニメが放送されていたが、豚というメタファーが用いられているのは、あのアニメの主人公が社会に飼いならされず、社会の枠外で生きようとした飛行艇乗りだからかもしれない。

       

       

      映画「紅の豚」の予告編

       

       

      なお、ある方が、このブログの内容について、「良く、ここまで(他人を恐れず)正直に書けますねぇ」といってくださったことがあるが、その時に「うん、ミーちゃんはーちゃんは、王様の耳はロバの耳、と言った子供とおんなじだから、結局ガキなんですよ」と言ったら、得心してくださったことがある。まぁ、ミーちゃんはーちゃんはガキなのである。w

       

       

      鵜呑みと不承認

      発達心理学は、大学生の頃、空き時間があったので受講した青年心理学でちょこっと齧っただけなのであまり詳しくはない。しかし、家庭が個人の生育やキャラクターに影響をあたえることとして、グリューンさんは次のようなことを指摘する。日本で言えば、しつけと呼ばれることで、日本風に言えば、「三つ子の魂百まで(影響する)」という世界観なのだろう。

       

      この同一視は、グスタフ・ビビョヴスキーがイントロジェクト(鵜呑み)と読んだ、子供の発達の初期に、つまり前言語期(0歳から1歳)に形づくられる精神構造を思い起こさせる。「イントロジェクト」とは、誕生したばかりの最初の何ヶ月間に、自分独自の感情を知覚させず、また独自の要求を認めさせない「不承認」のことであり、それが子供の独自な自己の成長を妨げる。自分自身の存在の「不承認」は、母親または父親の願望を、そのまま自分の願望として身につけるように(鵜呑みにするように)と導く。この「不承認」を、乳児は、―あるいは後の大人もまた―「死ぬこと」として体験する。(同書 p.38)

       

      ここの論理はちょっとわからなかったのだが、子供が親から全人格的に乳児期に受け止められないことが、かなり影響するのは確かなことなのかもしれない。先程の映画アビエイターで取り上げられていたハワード・ヒューズは、この不承認と戦った人であったのかもしれないと思う。その戦いは、かなり絶望的で無茶苦茶ではあったが。

       

      ここで指摘されている母親または父親の願望を、そのまま自分の願望として身につけるように(鵜呑みにするように)ということは、良い面で働けば、社会秩序の安定とか文化の継承であろうが、悪い面で働くと、その人の人格の抑圧になり、本来のその人の姿を歪んだものにしてしまう可能性もあり、社会的な問題行動の原因(全てがそうだとは言わない)になる場合もあるようなきがするように思う。

       

       

      長くなったので、今日はこのあたりで。

       

      次回へと続く。
      ライトさんの新約聖書と神の民は、ちょっとおあずけ。

       

      どうせすぐには終わらないし。w

       

       

       

       

       

       

       

       

      評価:
      アルノ グリューン
      ヨベル
      ¥ 864
      (2016-11)
      コメント:おすすめしてます。

      評価:
      ジョン・ローガン
      松竹ホームビデオ
      ¥ 1,157
      (2007-11-28)
      コメント:グリューンの本を読む上では、参考になるかも

      評価:
      ---
      ワーナー・ホーム・ビデオ
      ¥ 818
      (2012-12-19)
      コメント:ロマ人とヨーロッパ人の間の微妙な意識がわかるかも

      2016.11.16 Wednesday

      グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(3)

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        音声ファイルのダウンロード先

        (棒読みちゃんの英語の読みあげる能力は中学1年生1楽器並みなので、吹き出さないように要注意)

         

        今日もまた、タラタラとグリューン著『従順という心の病い』から読んで思ったことを書いてみたい。今日は自分自身のアイデンティティ形成と人間らしさにと相手への攻撃性ついてグリューンが書いていることを見てみたい。

         

        アイデンティティ間の葛藤

        文化形態ごとにある程度安定的に身体的規則、あるいは身体的コード、ふるまいの規則ないし振る舞いのコードが存在する。例えば、お葬式のときに白い服を着るとか、お葬式のときに黒い服を着るとか、様々なコードが存在する。今で結婚式のときにしか白い和服を見ないが、どうも昔は、お葬式のときには白の和服を着ていたようだ。そういうものとして、出来上がっている習慣というものがある。日本では当時死者は白装束であるので、その死者と同じ衣装を着ることで、死者と共同体をなしている、ということを示すために白を着ていたのかもしれない。

         

        「朝がきた」のワンシーン(葬儀シーン)

         

         

        あるいは、ニュー・オーリンズ地方では、墓地にJazzバンドの先導で行くという習慣を持つ地域があるらしい。映画の中で時々出てくるが、以下の動画はどうも素人さんが取った動画のようなので、実際にもあるらしい。

         

        ジャズバンドが先導する葬儀の模様(日本ではありえない)

         

        まだ、葬儀の場面での振る舞いへの一定の方向性をもたせることなどは軽い方だが、どのように生きるか、どのようなアイデンティティを持つかは現代社会において、大きな問題を生むことがある。これは異性装者として社会に現れたり、性同一性障害者という形で現れたりする。特にこの問題は西洋型キリスト教社会において、同性愛に対する極めて強い忌避感を持つキリスト教社会において、非常に大きな問題であるとされてきたということもあり、その人達が社会の居場所を失うことになってきた。

         

        あるいは親子間で、この確執が見られることがある。親の望む生き方と、子供が望む生き方の違いがあるとき、それは非常な悲劇を生むことがある。それを扱った映画は多いが、Dead Poet Society(日本語タイトルは映画中に引用される Carpe Diem というラテン語から取った 『今を生きる』となっている)などや、映画アマデウスで表されたウルフガング・アマデウス・モーツアルト(このアマデウスという名前が印象的で、神に愛されたものという意味になる)と父、レオポルト・モーツアルトの確執などもその一つの典型であろう。

         

        映画 Dead Poet Society(日本語タイトル 今を生きる)の予告編

         

         

        映画アマデウスから父レオポルドとの再会シーン

         

        こうやって見ると他者から与えられた(他者によって決定された)アイデンティティとの対決の問題を扱った映画は少なくない。例えば、グッド ウィル ハンティング(Good Will Hunting)などは、労働者階級に生まれ、教育を受けないのが当然とされ、乱暴に生きるという他者から決定されたアイデンティティと、才能との間で格闘する若者の話であるが、この場合もそうであるし、特に、鬼籍に入ってしまったロビン・ウィリアムズ(Robin Williams)の出演作品には多い。

         

        Good Will Huntingの予告編

         

        より具体的には、グリューンさんは次のように書いている。

         

        人類学者ヴィクター・W・ターナーが述べたように、このことは、子どもを「異質な存在によって決定されたアイデンティティ」へと導く。鵜呑みによって生じるようなこのような「異質な存在によって決定されたアイデンティティ」は、もしそのことで疑問が生じるようになると、自分が脅かされていると感じ、両親から自分のものとして組み込まれたものを、引き渡したり、守ろうとしたりするために、あらゆることをするに違いない。(『従順という心の病い』pp.39−40)

         

        これと同じことは、個人の生活の中で反抗期という形で起きるのではないか、と思う。ミーちゃんはーちゃんは基本、他人からやいのやいのとと言われるのは嫌なので、基本的に面倒を避けるために形の上では従いつつも、心のなかでは馬鹿くさい、と思うのが常であった。鵜呑みするのが得意なタイプの人と、それが嫌いな人がおられるようにも思われる。

         

        ちょうど、さっき講義準備をしていたときに(毎年、このスピーチは講義中で流すのだが)、以下の動画で紹介するスタンフォード大学の卒業式でスティーブ・ジョブズが喋った話が非常に印象的である。

         

        人生や社会における死の問題を取り上げたあと、スタンフォードの卒業生にジョブズは次のように語る。

         

        Your time is limited,

        Do not waste it living someone's else life.

        Don't be trapped dogma,
        which is living with the results of other people's thinking.
        Don't let the other's opinions
        drown out your own inner voice.

        And most important,

        have courage to follow your heart and intuition.

        They somehow already know what you truly become.

        Everything else is the secondary.  (12分08秒あたりから12分32秒)

        スタンフォード大学の卒業式でのジョブズのスピーチ動画

         

        ジョブズは、仏教思想やインド神秘思想に心酔していて、その文脈で上記の発言は捉えるべきかと思うが、我々が真の自分自身、アイデンティティが自分以外の者から影響されていることをうまく指摘していると思う。まぁ、スピーチライターが書いたに違いない、と思っているが。こういうのを仕事として書いてくれるスピーチライター(スピーチリライター)が職業として成立しているのがアメリカであるためか、アメリカ人のスピーチには、聞くに耐えるスピーチが多いが、日本の政治かと役人のスピーチは極めてつまんないものが多い。

         

        思春期は、青年心理学では嵐の時期だということを大学時代に習ったが、まさに、「「異質な存在によって決定されたアイデンティティ」は、もしそのことで疑問が生じるようになると、自分が脅かされていると感じ、両親から自分のものとして組み込まれたものを、引き渡したり、守ろうとしたりするために、あらゆることをする」結果、尾崎豊の世界ではないが、集団家出をしてみたり、盗んだバイクで走ったりする人も出てくるのであろう。

         

        尾崎豊さんの「15の夜」 

         

        しかし、日本でみんなで相談して家出をしたら、問題行動と言われるが、みんなで揃って出家したら、家の人はなんというのだろうか。「ありがたいこと」と言ったりはしないのか、と思う。基本的に家出と出家は同じなのではないか、と思うのである。古代仏教的には。

         

        こういうくだらないことを書いていたら、尊敬してやまない上智大学の月本先生があるところで、「旧約聖書の世界は、家出の文化である」と、あるご講演の中でおっしゃっておられたのを思い出した。「旧約聖書は、「あなたはその父と母を離れ」と人格の自立というか、その人に組み込まれたものを離れていくことを言っているのではないか」とご指摘されたご講演を聞いたことを思い出した。つまり、家族や他者から与えられた仮の人格を引き渡し、神が与えたもうた人格に戻っていくことなのではないかなぁ、とこのグリューンさんの指摘と月本先生のご指摘を重ね合わせて少し考えた。

         

        他者への攻撃性と向き合うこと

        他者への攻撃的な姿勢の原因として、自分のうちにある嫌悪すべきものがあることをグリューンは次のように指摘している。それは自分自身への攻撃なのだという。もう少し言えば、神が個々人に与えようとしておられるその人の姿、形を殺そうとするときに怒りが発生すると指摘している。

         

        なぜ人間が他者を苦しめたり、侮辱するのかを理解するために、私達はまず、「自分が自分自身の何を嫌悪しているのか」を捉えなければならない。私達が相手の中に見出す「敵」は、もともとは私達自身の中に見つけることができる。私達が押し殺そうとするものは、自分達自身の中の一部分である。つまり私たちは、自分自身が人間性への萌芽を持っていたことを思い出させる「自分の中の異質なもの」を消滅させるのである。(同書 p.43)

         

        この部分を読んだとき、ナウエンのThe way of the Heartの一節を思い起こした。

         

        Pastors are angry at their leaders for not leading and at their followers for not following. They are angry at those who do not come to church for not coming and angry at those who do come for coming without enthusiasm. They are angry at their families, who make them feel guilty, and angry at themselves for not being who they want to be. This is not open, blatant, roaring anger, but an anger hidden behind the smooth word, the smiling face, and the polite handshake. It is a frozen anger, an anger which settles into a biting resentment and slowly paralyzes a generous heart. (The Way of the Heart p.12)

        私訳
        牧師たちは、教会の指導者たちが指導していないといって怒り、そして、指導されるべき人々が指導に従っていないと言って怒っている。牧師たちは、教会に来ない人々が教会に来ないことに対して怒っており、人が教会に来たら来たで、情熱を持ってきていないと言って怒っている。牧師たちは家族に対して、家族が牧師に罪悪感を覚えさせると言って怒っており、牧師たちは自分達自身に自分達がなりたい状態になっていないと言って怒っている。これらの怒りは、あけっぴろげなものではなく、あからさまなものではないものの、怒り狂うような怒りであり、これらの怒りは、柔らかな言葉、笑顔、そして礼儀正しさの後ろに隠されたものである。このような凍りついたような怒りは、噛み付くような恨みと一体になっており、そして、鷹揚な心を次第に麻痺させるのだ。

         

        この文章を上げたのは牧師の皆さんを批判したいからではない。牧師は我々と同じく鼻で息するものであり、我々の仲間であるということを申し上げたいからである。そして、それらの人々にコンパッションを持って接してほしいからである。位打ちをしたりしないように。特に、(They are) angry at themselves for not being who they want to be.(牧師たちは自分達自身に自分達がなりたい状態になっていないと言って怒っている)という部分は、非常に重要だと思った。

         

        ここで、「自分自身が人間性への萌芽を持っていたことを思い出させる「自分の中の異質なもの」を消滅させる」とグリューンが言っていることは大事ではないか、と思うのだ。それは、本来神の創造の御業として、神との関係を持っていたこと、ある面で、神から与えられた同情心や優しさや共同体として生きること、コンパッションといったものを無理やり押し殺しているからなのだろう。それらを見なかったことにするために、それらを考えなくて済むように、相手も神の被造物だということを意識しなくても済むように、自らの中にある神から与えられたものを殺してしまうのだ。ある面、神殺しを我々はやっているということなのだろう。

         

        だからこそ、神の憐れみの中で、その自らの姿を見つめ、神との関係の回復と霊的変容(Spritual Transformation)を遂げていく必要があり、神の復活、神から豊かに与えられているものをもう一度取り戻していく必要があるのだろうし、そのためのソリチュードが大切なのであろう。

         

        続く

         

         

         

         

         

         

         

        評価:
        アルノ グリューン
        ヨベル
        ¥ 864
        (2016-11)
        コメント:非常に良い本だと思います。
        Amazonランキング: 35568位

        2016.11.19 Saturday

        グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(4)

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          今日もまた、たらたらとグリューンの本を読んで考えたことを書いてみよう。今日は、権威にしがみつくことである。権威の場にしがみつく、というよりは、権威がある、とされる人物にしがみつくことである。この問題はカルトの問題を考える上で、きわめて重要であり、カルトの内部の精神力学というか組織構造を考える上で、かなり重要な指摘の部分からご紹介してみたい。

           

          権威にしがみつくこと

          コバンザメ商法というか、腰ぎんちゃく商法というか、茶坊主商法というか、権威者にくっついていい思いをするように取り計らう人々がいる。個人的にはそんな芸当は、ミーちゃんはーチャンがやりたくてもやれないのはよく知っている。まぁ、ミーちゃんはーちゃん自身、基本反骨で拗ねているからなのもよく知っているが。

           

          教会内で、牧師とかその教会群の内輪で、やたらと評価の高い人と付き合っていたりすることを吹聴するお方が時にいる。それを見ると、ある面「なんなんだろうなぁ」という素朴な感情を持つ。「そんな人と付き合っていることを自慢するより、あんたの中身やろ。何をなそうとしているのか、のほうがよほどおもろいんちゃうん?」と思うことがある。10年以上前からのお知り合いで、最近は、縁遠くなった方だが、フェイスブック上でそのお知り合いの方が私淑している人とミーちゃんはーちゃんが楽しそうにしゃべっているのを見て、「どういうご関係でお友達になられたのでしょうか・・・」って聞かれて、「いやいやブログを書いているとコメントしてくださって、それからうんたらかんたらで・・・」とご説明したところ、「そんなうらやましい」とかいわれたことがある。そんなうらやましがられるほどのことかしら・・・、とは思うけど。

           

          まぁ、基本、この種の有名人フリークの方はおられる。個人的には、有名人(とその肩書き)そのものよりも、中身、あるいはコンテンツのおもしろそうな人のほうが、会って面白い人が多いと思っている。コンテンツが面白いと思うと、それに突撃していくという悪い癖がミーちゃんはーちゃんにはあって、それはいまだに直らない。この10年でミーちゃんはーチャンの突撃の被害にあった人々には深くお詫び申し上げる。突撃といっても、その人のコンテンツとその背景に関心があるのだけれども。

           

          基本的に、前回の記事 グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(3) のスティーブ・ジョブズのスタンフォード大学での卒業生への祝辞ではないが、ミーちゃんはーチャンは、誰がなんと言おうと、直感と面白いという自分の気持ちを大事にして生きている変な人なのである。

           

          その人にとって、権威に必死にしがみつくことが人生の基本原則となる。人は権威を嫌うが、しかしながら、自己をそれと一体化する。他の可能性はない。自分自身を抑圧することによって、「抑圧するものに向かう憎悪や攻撃性」ではなく、「他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性」が呼び起こされるのである。(『従順という心の病い』 pp.49−50)

           

          まぁ、権威が好きな人の気持ちもわからなくはない。反骨することは、骸骨となることになりかねないからである。反骨精神で生きるならば、冷や飯や左遷は覚悟の上である。しかし、他人の顔にびくびくしながら生きる必要もない。猫みたいだ、といわばいわれたらよろしい。猫は嫌いではない。KYだといわれたらいわれたらよろしい。そもそも、旧約時代のイスラエルはKYな人たちの集まりなところがあるのだから。その意味で、反骨であるというのは、「抑圧するものに向かう憎悪や攻撃性」を持つということそのものであり、その権威性の根源と権威性そのものを疑い、それに疑問を呈することに他ならない。

           

           

          正義の見方ぶりっ子するつもりはない。権威が個人的に自分の上に正義を振りかざして襲い掛かってくるのが、単純にうっとうしいだけである。そして、もしグリューンの言うことが正しいとすれば、それが、”「他の犠牲者に転嫁される憎悪や攻撃性」が呼び起こされる”ということの結果であるとするならば、ろくでもないことに加担することになるので、それは嫌でござる、というだけである。

           

          こういう憎悪は、世界の歴史の上でいくつもある。関東大震災後に起きた朝鮮半島出身者への排撃事件(関東大震災時、朝鮮半島は日本国の領土であった)や、美濃ミッション排撃事件など枚挙に暇がないし、アフリカでは、ツチ族とフツ族との間で、血で血を洗う構想をしているときに、相手のことを Cockroach (ゴキブリ)といったらしい。どちらも肌の色が黒く見えるので、何がなんだかであるけれども。

           

           

          映画 ホテル・ルワンダの予告編

           

           

          映画 ルワンダの涙 予告編

           

           

          映画ミシシッピ・バーニング アメリカで起きた事件。

           

          しがみつくことと握りしめること

          ところで、しがみつくことに関しては、ヘンリー・ナウエンの「両手を開いて」の中で紹介されているおばあさんのことを思い起こさせる。このおばあさんは、精神に障害が発生しており、手の中に握り締めた小額の硬貨を取り上げられまいとして、必死になっている人物のお話しの一環として登場する。この老女は、自分が握りしめている汗ばんだコインのようなつまらないものがその老女にとって何らかの価値を持つものであるがゆえに、他人が見ればどうといったことのない、そのコインを手離させようとしたり、それを取り上げようとするものに対して、怒り狂うのである。

           

          握りしめた手(旧ソ連邦版)

           

          握りしめた手

           

          そして、多くの人間にとって、この老婆のようにかどうかは別として、案外とつまらないものにしがみついていることはないだろうか、ということをナウエンはその本で問うていた。さらに、同書では、神を迎え入れるに当たり、こぶしを握り締めるように向かうのではなく、握り締めたこぶしを開き、自己以外の他者である神を受け入れるために両手を開いていくことをナウエンは我々に問うている。

           

          開かれた手

           

          ちょうど、ここで権威にしがみつく人の話が出てくるが、権威にしがみつく人は、ちょうど神に向かって手を開くのではなく、握りこぶしを向けていく人に似ているように思う。しかし、握りこぶしの中でぎちぎちに握っている人は、本来向き合うべき権威である神に向かって手を開くのではなく、あるいは、本来的な権威の源である神である方を迎え入れ、そして神に抱かれるのではなく、人間的な権威を握り締めておられるように思うのだ。

           

          しがみつきと支配

          権威にしがみつく人々、教会内権威にしがみつく人々とカルト化していく教会との関係について少し考えてみたい。

           

          カルト化は、指導者だけでは起こらない。なぜならば非常に強力な指導者一人だけの教会であれば、誰も相手にしないので教会はカルト化しようがない。あるいは指導者と教会員との関係がほとんどないのであれば、カルト化しようがない。教会員の中で、その教会の指導者に心酔しているようなフォロワーがいる場合、つまり、教会の指導者の権威を振りかざすために、神の権威ではなく、指導者の持つ権威と思われているものを握り締めているような人がいて、指導者の思いを勝手に斟酌し、指導者の思いであると代言する人の存在が案外いやらしいのだ。ご本人にしたら、指導者に心酔しているので、指導者の心中をお察しした上でのことなのだろうけれども、大概は指導者本人は、そんなふうに思ってないことも案外多かったりするのである。そして、他人に、「指導者はこうお考えである、であるから、あなたはこういうふうにするべきだ」と指導者の権威性を振りかざし、他人に指導者のお取り巻きである自分達の思いを強いていくのである。

           

          あれ、ここまで、書いて、「これ、戦争中に日本のあちこちで起きたことじゃんか」と思ってしまった。陛下の心中をお察しして、陛下は斯くの如くお考えのはずである、であるから、「我ら皇国の臣民は…」ってやっちゃったのは、70余年前の我が国の姿であるような気がする。

           

          当時の皇国の臣民にさせられた人が、読まされ、言わされたたもの(http://aishoren.exblog.jp/9203713/ より)

           

          ところで、今のキリスト教界の一部でも、似たようなことが起きているかもしれない。本来、神ならぬものが、聖書の権威性を握り締め、聖書にないことをあたかも「聖書を書かしめた神の心中は斯くの如くである(はずな)ので」、「キリスト者たるもの…であらねばならぬ。そうでないものは真のキリスト教徒ではないぞ。神罰が下るぞよ。であるから・・・」と、勝手な思い込みで聖書の主張だとして語りだし、他人に強いる人々もいる。これってもうカルトに近いような気がする。

           

          先日、大草原の小さな家の再放送を衛星放送で見ていたのだが、ある人里離れた村で、ミス・ピール Miss Peel と呼ばれる女性が信徒代表の形で聖書の権威を持ち出しては支配しているような村に、小学校の教員としてローラ・インガルスの姉のメアリ・インガルスが赴くエピソードがあった。年に数回、その村に行くオルデン牧師がメアリにそのミス・ピールが支配する村では、小学校教育がうまくいかないと言って、オルデン牧師は、メアリにその村での教育を仕事としてしてくれないか、と頼むのである。メアリー・インガルス嬢がその村に行ってみると、どうもミス・ピールが聖書にないことを牧師の代わりに教会で言っているのだけれども、村の人は文字が読めない、従って聖書が読めないので、彼女の言うことを聖書そのものだと信じ込んでいる状態であったということをメアリはみつける。

           

          このミス・ピールは文字教育を村人に与えることを妨害することで、自分が聖書が読めないのに、自分だけが読めると言って、自己の権威性を確保しようとした人物であり、村人の生活を守り、ケアすることは、村人の支配することとだ混同し、村人に自分が思っていることを守らせることが良いことだ、と思い込んでしまった残念な人物として描かれている。この人物は、そもそも、村人との生活を支配することを悪意を持ってはじめたわけではないように思うが、村人を襲う不幸(ミス・ピールにしてみれば、神の怒り、ということらしい)から守ろうとするために、Cypherと呼ばれる秘法が聖書の中にあるかのごとく言い、そして勝手なことをはじめたように思う。挙句の果てに、それがバレないよう、村人が教育を受けて聖書を読めるようになり、村人たちが聖書にないことを好みスピールが言っていることをバレないようにするために、メアリや他の人が村人に教育を与えるのを妨害した、ということになっていた。

           

           

          Cypherと言ってもドローンのご先祖のようなものではない

           

          このミス・ピールは、自らの権威性を握り締め、それにチャレンジするものが出ないようにするために、彼女は教育を否定しようとした、ということを教会の中でメアリーはこのミス・ピールに突きつけるシーンが出てくる。そして、教会の全員が集まっている礼拝の時間中に教会堂の中で、ミス・ピールに十戒を言ってみろ、出エジプト記の十戒を開けて読んでみろ、とミス・ピールに迫り、結局彼女の権威性を守るためだけに村人に、「教育を受けると悪いことが起きる」、「新しい教師は魔女だ」みたいな話を振りまいて教育を受けさせないようなことをミス・ピールがしていた事を、村人にばらしてしまうのだ。

           

          よく考えてみたら、これと似たことは、教会の中で起きているような気もするのが、実に残念である。

           

          ミス・ピールのシーンを回顧するメアリ役のメリッサ・ギルバートさんの動画

           

           

           

          劣等感の裏返しとしての支配と

          権威にすり寄ることによる救済

          ここで、グリューンは支配の原則の背景に、劣等感があることを指摘している。もちろん、劣等感もあるだろうが、社会的な不満の捌け口としての支配もあるように思うのだ。不満の背景に劣等感もあるだろう、とは思う。より弱い存在を支配することで、つまり、自分自身が支配者の立場に立つことで、この劣等感が解消するため、支配が行われることがある。これは、DV(ドメスティック・バイオレンス)などでも見られる構図である。

           

          結局、人間の背景に隠された劣等感が逆転の構図を見せるとき、そして、それが他者の内にある自らの弱さや痛みや否定的な側面を見つけ、他者への攻撃と言う形で出るのではないか、と思う。金持ちけんかせず、という言葉があるが、金持ちは基本的に喧嘩しないのは、そもそも不満がないので、喧嘩などの暴力的行為に出なくても済む、という側面もあるのだろう。

           

          日本でもヘイトスピーチがどうのこうの、って状況になっており、最近はひどくなっているようだが、どうも社会的な立場もなく、社会に不満を抱えた人たちが語るヘイトスピーチが、同様の自らの不遇をかこつ人々にこのヘイトスピーチが受けることがある。不満のはけ口としてヘイトを用いるのだ。劣等感の解決方法として、自らより弱いものに強者として向かっていくことで、弱者を支配することで、自らの社会的立場や社会的な体面を確保しようとする人々がいる。そして、自分たちを縛っている不満からの開放、ないし救済としてそれを用い、それによる救済を無いし的か、意識的かは別として、考える人々がいることは確かなのだ。

           

          2016年のアメリカの大統領選挙で、大統領候補のトランプさんが言ったことは、基本的にこういったことであり、自分たちが優秀なのに(Make America Great Again メイク アメリカ グレート アゲイン アメリカを再び偉大に という選挙戦の謳い文句がそれを示している)自分たちは失業している、自信がない、不遇であると、現状に不満を持つ中西部の不満を持つそうにその主張がアピールしたように思うのだ。例えば、「メキシコ国境に壁をおっ立てて、不良メキシコ人がアメリカに流入しないようにする」とか、「ほとんどこのおっさんネオナチか?」と思うほどの言動をしていた。それは、不遇をかこち、劣等感に苛まれている人々に、自分たちは優秀(なはず)だと思いこむことができる口実を与え、自らの劣等感からの開放を与えようとしたからこそ、この種のヘイトスピーチまがいの言動が受けたのだろう。

           

          実は、The Simpson's(ザ シンプソンズ)のシーズン20(2009年)のエピソード21にメキシコ国境に壁を作るに類したシーンが有るのである。まぁ、シンプソンズの場合は、作者たちがかなり左寄りの思想を持っているから、それをアニメにして見せたのだろう。それを右派のFOX TVで流すのだから、おかしなものである。時々、制作側はアニメの中で、それをパロディにして、諧謔的関係にあることを明らかにしている。なお以下の動画では、ドアが付いていた、と以下の動画のようなハッピーエンド風の話にしているが、アメリカ人の心の中の閉鎖性を思わせる作品に仕上がっていた。特に911事件以降、この種の無力感というのか、劣等感が蔓延し、アメリカ人が以前の鷹揚さを失ったように2011年を挟んで2回米国に行った中でおもうことがあった。

           

          The Simpsonsで壁をおっ立てる話が出てきた回のラストシーン

           

          グリューンに戻すと、こんな感じである。

          「征服すること」や「勝利者の側に立っている、あるいは優秀な民族の一員であるという感覚を持つこと」は、屈服した自分自身の背後に潜む劣等感から、自分を開放するのに役立つ。従って、あらゆる極右的な運動の背後にも、イデオロギーではなく、劣等感が決定的な役割を果たしているという原則が当てはまる。人は、抑圧的な権威による救済を望むので、自らその権威に屈服させてしまう。
          ユダヤ人、トルコ人、ベトナム人、ポーランド人、中国人に対してであろうと、「障がい者」や「無価値な人」にたいしてであろうと、「他者に対する憎悪」は、常に「自分自身への憎悪」である。つまりそれは服従を要求する権威者のもとで生きるために必要な「権威者との結びつき」を確保するため、「従順になることによって断念しなければならなかった自分自身への憎悪」である。(同書 pp.60-61)

           

          特に「従順になることによって断念しなければならなかった自分自身への憎悪」が、他者に憎悪として向けられているということ、そして、それを「権威者と結びつき」を確保するための忠誠の証にしているという指摘は、非常に重要であると思う。でも、この結びつきは、キリスト教界でも実は起きているのだ。形を変えて。

           

          キリスト教でも起きる

          価値の転換
           この部分の指摘は、キリスト教で、キリストが勝利者であり、我々がその養子(権威者である神との結び付きがあるものである)と言う理解から、我々を勝利者の側に置きやすいという構造とあいまって、問題へとつながることがある。ある種の人々は、自分たちは勝利者であり、自分自身をさいなんできた劣等感から開放するためのキリスト教という側面が、キリスト教に現れることがあると思う。典型的には、先ほど紹介してきたミス・ピールがその事例であるし、「異教徒を殺せ」と叫んだキリスト者もまぁ、そんな感じではないか、と思うのだ。個人的には、繁栄の神学にはその匂いが時にするので、個人的にはどうなんだろう、と思う。正直言って、「繁栄の神学」そのものが嫌いである。

           

           つまり、信仰を持つことで、神を信じる世界において、ある逆転現象が起こり、自分は勝利者の側なのだから、と自己正当化に聖書と聖書の権威性を適切ではない方法で用いる人々が出てくる。そして、教会内で「自分たちの考え」により、他者を抑圧していく可能性がある。

           

           このコンプレックスの裏返しとして生まれる権威性の問題は、非キリスト教世界でのキリスト教の指導者の世界でも、時々見られる病理であると思う。もともと、ぱっとしない普通の人々であった人々が、一般の多くの人が正確に知らないゆえに、多少他者より聖書のことを知っているというだけで、ある集団の中で、その人の存在と発言の価値が高まることがある。そうなると、人間だから仕方のないことではあるが、天狗になってしまうのだ。

           

           その意味で、我が国のようなクリステンドムを経験していない異教社会におけるキリスト教特有の問題(かと言って、クリステンドムを経験したはずの米国でのカルト化の発生はちょっと謎いが…)があるようにおもうのだ。

           

           

          日本における英語喋りの

          価値の逆転

          また、このことは英語喋りに時々起きる。日本人の大半は英語がしゃべれない(と言うのは嘘で、下手くそでいいから喋って相手と渡り合うだけの根性がないだけである、と思っている)中で、もともとパッとしない普通の人々が、ワーキングホリデーとかで、数年海外で英語漬けの中で生活したというだけで、日本の中でもてはやされることがある。実力はそんなにないのに。本人はそれを鼻高々で、鼻にかけておられることが案外多いのだ。

           

          「アホちゃうか」と関西人としては思う。また、たちが悪いのは、そのようなことを観察していて、ワーキングホリデーに行く人々がいることだ。「それこそ、もっとアホちゃうか」と思う。大体、英語が喋れるかどうかよりも、その人の中に語るべきコンテンツが有るかどうかのほうが大事であり、語るべきコンテンツがない、中身スカスカの人の話などは、英語が喋るか喋れないか、以前の問題である。

           

           この秋、ある若い人々の集まりのふたつに出た。一つは、ワーキングホリデーや語学留学した人の集まり、もう一つは別の集まりであったのだが、最初の海外渡航数年組の集まりで、海外の入管窓口についた時のあなたの夢と今の夢を語ることになったのだが、その中の大半は入管到着時には「英語が喋れるようになりたい」であったのでちょっと驚いた。まだ、英語が自己と他者の差別化のツールとして通用すると思っている若い人がこれほどいるのだ、と。その後、「じゃ、今の夢は?」と聞かれて「英語を使って・・・したい」という人が少ないことにも驚いたのだ。もう一つはそういうのと関係ないイスラエルの宗教性に関する集まりだったのだが、そこで、若い女性が「英語が喋れるようになりたい」ということをつぶやいたら、そこにいたイスラエル、エジプト、米国などの海外経験組から一斉に「英語が喋れるようになって何がしたいの?」って突っ込まれてたのが面白かった。海外経験組は語学だけではどうにもならんということを身にしみて知っているからなのだろう。

           

           まぁ、以上の事をごくごく平たい日本語でおまとめしてしまえば、「お山の大将をみんなやっているに過ぎないし、人はお山の大将になりたがる」ということではあるが。

           

           

           

          続く

           

           

           

           

           


           

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          アルノ グリューン
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          (2016-11)
          コメント:おすすめしています。

          2016.11.21 Monday

          グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(5)

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            今日もタラタラと、グリューンの本を読んでいきたい。人間のいい加減さを見ると、気が滅入りそうになるが、まぁ、神の憐れみの中でそれと向き合うことこそが、神との関係を深めていくことだ、とナウエンも言っているので、まぁ、それに取り組んでみよう。

             

            同志性がもたらす問題

            戦争のときに起きたナチスドイツの警察隊によるポーランド人の大虐殺事件で、民間人殺害を拒否するより、銃を手にするほうが簡単だったということの記載があったあと、なぜ、本来治安を守るべき警察官が民間人殺害に走ったのか、というあたりの心理をブローニングの研究成果を引用しつつ、次のように語る。

             

            ブローニングは、さらに「この人達の『同志』としての結びつきが、決定的な要因となり、重大な結果を招く役割を演じた」と強調した。彼らは、『軟弱』というレッテルが貼られることを、恐れていたのである。ブローニングによれば、「普通の人は、自分が自分とは異なる人たちの意思の執行者であるよう、その人達が決定した状況に陥る。その際に、普通の人は、自らの行動の内容について、自分の責任と感じなくなり、可能な限りうまく実行することだけを考えるようになる。」(『従順という心の病い』 p.62)

             

            これが集団心理というものなのだろう。仲間意識が生まれた場合、集団の中で集団の意識とは違うことをやりにくくなるが、一旦集団のタガが外れた途端に、一斉にある方向に向かっていくということが起きて、そして、ひとりひとりの行動が相乗効果を持ち、そして暴走してしまうのだろう。正に、ニュルンベルグ裁判とかで、ナチスの人々が、「私は命令されたことをしたに過ぎない」と繰り返していたのは、言い逃れで言っているのではなくて、あながち、本心だったのだろうと思う。彼らは、もともと普通の小市民で、根が真面目だから、真面目に、言われたことを淡々と疑うことなく、手を抜くことなくやっただけと言われれば、そうなのだろうなぁ、と思うのである。だからといって、自らがなすことに無批判であっていいわけではないと思うのだが。

             

            まぁ、大日本帝国陸軍のやらかしたことも、連合赤軍のみなさんが浅間山荘の前に山岳ベース事件としてやらかした事件も、基本的にそういうことだと思うし、今ISISのみなさんも、基本的にそういうことではないか、と思うのだ。そのために、自分のやっていることを正当化する大義とか正義とか、という概念があり、その大義に殉じちゃったら、基本的になんでもやって良いことになる。このあたりのことを政治をやる皆さんは直感的に知っているからか、やたらと大義とか正義を振りかざし、普通の小市民をつき動かせてしまうのだ。

             

            しかし、気が狂ったように同じ行動をさせる組織では、何故か同志ということばが利用される。毛沢東同志だった時期があるし、ユシフ・スターリン同志だった時代があるし、ヒットラーもヒムラーも同志だった時代もある。そーいや、ガンダムでも同志という語が使われていたような気がしている。

             

             

             

            従順による思考停止偽装事件

            一番、怖いのは、集団行動への馴化が進むと、それが馴化であることがわからなくなることである。つまり、状況に飼いならされてしまっているのに、その枠の中に閉じ込められていることがわからなくなる、ということである。換言すれば、周りに突き動かされているのに、自分が選んだのである、と思いこんでしまうのである。

             

            このような人たち(引用者註 普通の言われたことをこなしていく人々)が一緒に行動すると、従順を推進すると同時に、覆い隠す。良い成果を上げることができれば、そのことが、彼あるいは彼女に、「自分は自由な意志で行動している」という幻想を抱かせる。もし彼らが自分達の感覚を疑うようになれば、何を感じるのだろうか。その答えには、気が滅入る。彼らは何も感じない。彼らは時折、そのことに気づくこともあるが、何も感じないのである。(同書 p.63)

             

            真面目に言われたことをやればいいということを思っている人々、それは普通の人々であるのだが、自分が従順であると思わずに、あるいは載せられているとは思わずに、ある路線に乗っていくし、またそれを他人をその路線に乗せていくのだ。成果を上げても挙げなくても、多分関係ないだろう。

             

            正に、人間がロボットになっていってしまうし、そのことなどに気が付かないのだ。まさに、ジョージ・オーウェルが1984で描いた社会である。実は、アップルの初期のCFは、まさに、このロボット化された社会に我々は挑戦するぞ、というノリのCFはこちらなのである。

             

            オリジナル版

             

            広島弁版(おそらく広島西部地方 方言)

             

            AppleのCMのパロディとしてのシンプソンズの動画

             

            アップルのマッキントッシュのCMの中で、否定的に取り扱われているのは、IBMとそこに技術協力したMicrosoft社であるが、シンプソンズ版のパロディ動画では、両方とも同じだ、ということで、非常に厳しい批判が向けられている。

             

            その人らしさを否定するスタートポイント

            実は、従順が、その人らしさを否定する根源になっているのではないか、とグリューンさんは指摘している。次の一文は、非常に強烈である。

            従順は、「自己阻害を引き起こし、両親の実際の姿を正しく捉える自分自身の核の構築を不可能にする過程」の、最も深いところに根ざしている。(同書 p.65)

            ここで核と訳されているのは、その人らしさ、ということだろう。ある生き方に従順に従った結果、その人が本来あるべき姿から離れていく、ということなのだろうと思う。人の本来あるべき姿は、聖書によれば、神のかたちであるが、あることへの従順は、神の形以外のものとして生きることを、人に強いるのだろうと思う。その回復のためには、神との関係を回復していくしかないのだろうと思う。

             

            ナウエンは、このあたりのことをThe Way of the Heartで次のような形で、神のかたちの回復について、触れている。

             

            Only in the context of grace can we face our sin;only in the place of healing do we dare to show our wounds; only with a single-minded attention to Christ can we give up our clinging fears and face our own nature.  As we come to realize that it is not we who live, but Christ who lives in us, that he is our true self, we can slowly let our complusions melt away and begin to expreience the freedom of the children of God.  (The way of the Heart  p.21) 

             

            (私訳)哀れみの中でのみ、我々は罪に向き合うことができる。回復が行われる場のみで、我々は神に自分の抱える傷をお見せすることができる。キリストに対して集中した心のみによって、私たちにまとわりつくような恐れから逃れ、自分自身の性質と向き合うことができる。そして、生きているのが、私達ではなく、キリストが私達のうちに生きておられることをより深く理解するにつれ、キリストご自身が私達の真の人格であることを知ることになる。そして、私達にある生き方を強いる力が溶けていくのをゆっくりと理解し、神の子供としての自由を経験していくことになる。

             

            N.T.ライトは、このことについて、「人間になる」と『クリスチャンであるとは』 Simply Christian で指摘している。つまり、人間の本来の姿、かたちに戻ることこそが、神の最大の目的であり、そのために人間がとらわれているものから、神は人間を開放するためのレスキュー・ミッションを実現することが、キリストがこの地上に来られた理由ではないか、と指摘しているように思う。

             

            正常という病

             もともとミーちゃんはーちゃんは生き方が無茶苦茶なので、大学院に社会的入院をしてみた位、変な人で、正常な人とは言い難いとは思うが、そもそも正常というものが何であるか、ということを疑う事がある。「世間がしているから、他の●●がしているから…うちも…」という人のお話を聞くと、「だから?」と思ってしまって、「なぜ他の人と同じことをしないといけない理由は何であるのか?」と思うことは時々ある。「そもそも正常とは誰が決めるのか?」「なぜ、正常でなければいけないのか?」ということを思うのだ。

             

            この問題は、母親や父親との関係の中にだけ表出するのではない。私たちは、今日、多くの場合に、自分が理性的であると思いこんでいる。しかし実際には、毎日のできごとを否定することが、私達の文化の「正常」な姿になっている。真実に目を向けることは、私達にとって難しい。何が真実かを知ることに、私たちは不安を覚える。このことを理解するには、今日、一般に行われているのと全く異なる精神病理学的アプローチが不可欠である。私たちは、世間一般の人たちが否定するものを、その人達と同様に否定する人間、私達の文化の中で成功をおさめる人間を、「正常な人間」であると評価する。(同書 p.65)

             

            ここで、大事な指摘は、「多くの場合に、自分が理性的であると思いこんでいる」ことで、なしていることは、実は理性的でもなんでもなく、単にそういうものだ、他の人がしているから、ということでしているにすぎないことが案外多いのである。例えば、「お正月には休むものだ」ということが日本社会では当たり前で、それをしない人は正常ではない、ということになる。しかし、この10年で1月1日から稼働するスーパーやショッピングセンターは増えてはいないだろうか。そもそも、電車は、1月1日であろうと、12月31日であろうと、12月25日であろうと、稼働しているのだ。なお、関西などの場合、1月1日は深夜から早朝まで列車を動かしている鉄道会社がある。

             

            1月1日に新年礼拝をする教会が日本では多いが、個人的にはなぜあれをするのだろうと思う。それこそ、正月くらい休めばいいのに、と思うのである。どうやっても、理性的に考えれば考えるほど、1月1日に新年礼拝をする理由が見いだせないことになってしまう。結局、グリューンさんが「世間一般の人たちが否定するものを、その人達と同様に否定する人間、私達の文化の中で成功をおさめる人間を、「正常な人間」であると評価する」と言っていることは、結局、他の人のしているやり方に従順に従っているだけで、それをたまたま「正常である」と多くの人々が主張しているから、「正常だ」となる、ということにすぎないのではないか、ということをおっしゃっているように思うのだ。もう少しいうと、それは本当に正常なのか、多数派であることが正常なのか、ということを言われたいようである。あるいは多数派であろうとすること、多数派であることだけが正常だといえるのか、という非常に哲学的な問いを出しておられるように思う。

             

            また、この部分を最初に読んだとき、まさか、トランプ大統領候補が2016年の大統領選挙で選出されると思いもしなかったが、ヒラリーが好きなわけではないが、まさか、トランプ候補が大統領に当選するとは、全く思っていなかった。トランプ当選が確定したとき、「まぁ、それだけ、現状のアメリカの現在の民主党がもたらした状態に不満を覚えていた人々が多かったのだなぁ」と悟ったのである。現状への不満の結果が、民主党の候補ではない共和党の候補への投票に繋がったのであろう。民主主義社会では、結局多数派につくのが一番効果的というか、得することが多いのである。努力せずにおこぼれに預かれるからである。

             

            そして、トランプ候補が当選した背景には、彼が多くの人々が否定している不法移民の存在などを否定していたからこそ、自分たちと同じだと考え、それが正常なアメリカのあるべき姿だ、そして、それはまさにトランプ候補の言うとおりだ、と感じたということが存在したのであろう。

             

            不安や苦しみに耐ええない支配者

             支配者が、苦しみや不安に耐えきれず、その不安や苦しみのもとを、ある面暴力的に取り去ろうという癖がある。そして、従順に従うものを自分自身の周りに置きたがるのである。

             

            人間は自分の苦しみや不安に向き合うことができない。苦しみや不安は、支配者にとって耐えられないものなので、抑圧されなければならない。苦しみや不安は、まさに支配者の企みを裏切るものなのである。このような理由から、多くの紛争地帯でしばしば、「少年兵」が好まれることになる。(同書 p.69)

             

            この部分を読んだ時、イエスの誕生を知らされたヘロデが狂ったように幼子を殺して回ったことを思い出した。ほとんど狂気の沙汰であり、それがイエスの誕生時に引き続いて起きたことなのである。ここで、「苦しみや不安は、まさに支配者の企みを裏切るものなのである」と書いておられるが、個人の印象で言えば、支配者の企みを裏切るというよりは、支配者を苛み、精神的に追い詰める、という感じではないかと思うのだ。

             

            そういえば、この前、いつも行っている聖公会の教会堂でもあり、海員向けラウンジと空間を共有している教会に夜にお伺いしたときに、葬送ミサ曲がかかっていたので、「あれ、誰か亡くなったの?」と聞いたら、「いやそうじゃないけど、たまたま」って話だったので、「なんか、昔のソ連邦で誰かが失脚したときみたい…」って冗談半分に言っていたら、「なんで?」って聞かれたので、「その昔、誰かが失脚すると、モスクワ放送は延々、この手の葬送曲とかを流し続けたから…」とはお話した。ソ連邦や中国(大陸)では、昔は、失脚とか粛清が結構平気であったことを思い出したが、一党独裁を言う国家の指導者にとって、この種の不安

            や苦しみを除くための粛清が起きることを思い出した。

             

            自分がクーデターを起こされたり、粛清されたりすることに対する恐れがあるからこそ、自分たちに容易に心酔し、裏切ることなく、自らの地位を狙うことを想定しにくい少年兵が用いられるのだろう。

             

            少年兵は、第2次世界大戦中のドイツではヒトラー・ユーゲント、日本では、陸軍少年兵という制度があった。その後、少年兵は今まで戦争や内戦のたびに登場する。

             

            ヒトラー・ユーゲント

             

            大日本帝国の陸軍少年兵を募集する陸軍省のポスター

             

            続く

             

            評価:
            アルノ グリューン
            ヨベル
            ¥ 864
            (2016-11)
            コメント:おすすめしております。

            評価:
            N・T・ライト
            あめんどう
            ¥ 2,700
            (2015-05-30)
            コメント:非常によろしい。

            評価:
            価格: ¥ 596
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:マッキントッシュのCMに使われた管理社会のメタファーになっている。

            2016.11.23 Wednesday

            グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(6)

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              前回は一回お休みをいただいて、キリスト業界の紙メディアを巡る議論について少し考えるところを述べた。今回はグリューンの本に『従順という心の病い』を読みながら、考えたことを書いてみたい。

               

              世界の支配者になるという野望

              夢は何か、と聞かれた時に、小学生が世界征服と書くのが流行した時期があった模様である。まぁ、幼稚園児から小学高低学年次生が見る(ミーちゃんハーちゃんは根がガキなので、この手のものは嫌いではない)戦隊モノなどの悪役集団は、世界征服を声高に言うものが多い。

               

               

              ショッカーさんは世界征服を目指しておられるらしいことの証拠動画

               

              実は、世界征服とまでは言わなくても、人間は不幸にして他者を征服する悪い癖があるようなきがする。実は、それは文明とか文化ということと裏腹のものであるようだ。キリスト教でも、それに類することがあることを、そして、まぁ、反省している人は反省しているのだろう、ということは次の文章で知った。

              For many people the word "missionary" conjures up images of people from colonial powers imposing their beliefs on less powerful people, whose cultures they were, or are, also intent on converting or destroying. Such "missionaries" have sometimes even solicited their homeland's military forces to further their causes.
              "Readling Paul", Capter 3. by Michael J. Gorman

               

              私訳 

              多くの人々にとって、宣教師という言葉は、より弱い人々に、殖民地支配を行うような力によって、支配する側の確信をっ強制的に押し付け、力なき人々の文化を変更させ、あるいは破壊する、あるいはしてきた人々のイメージを呼びおこさせるものである。そのような宣教師は彼らのために母国の軍隊まで、時には呼び寄せ、用いたのである。(パウロを読む 第3章 から)

              まぁ、もちろんのこと、パウロは、このような宣教師のような人々のあり方とは違うやり方で、神の言葉を伝えようとしたMissionaryであったとは記述があるが。

              それはさておき、グリューンは人間が他者を征服したがる傾向について次のようにいう。

               

              私がここで説明してきたことは、いわゆる高度なあらゆる文化の根底に横たわる問題である。(中略)私達の高度な文化の根底にあるものは、世界をコントロールするため、所有するため、支配するため、同時にこれらの動機を否定し隠避するためのメカニズムを手に入れるための衝動である。(『従順という心の病い』p.73)

               

              アニメ「天空の城、ラピュタ」でのラピュタ人は高度な文明を誇ったらしいが、ロボット兵とラピュタのいかづちを使って世界を征服したらしいが、人間もまた、同じことを別の人間に対して行う悪弊は、文化に組み込まれ、ロックインされたものではないか、とここでグリューンは指摘する。そういえば、「天空の城 ラピュタ」でのムスカ大尉は、世界征服がどうのこうのということを言っていた気がする。
               

              人間は、他者をコントロールするコントロールマニアなのかもしれない。

               

               

              ラピュタの雷

               

              ラピュタのおっかないロボット兵の皆さん

               

              まぁ、どうであれ、人間の野望としての他者の征服は必要悪かどうかは別としてあるのではないか、と思うのだ。それを正当化するために、聖書のことばを曲解して使う人達がおられるのがかなわない。キリスト者のうちにも、聖書の言葉を曲解し、地を支配するのは当然だと言いはる人々もいる。である。どこが用いられるかというと、創世記一章の以下の部分である。

              【口語訳聖書】創世記
              1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

              この部分で、「従わせよ」、あるいは「治めよ」という部分が、悪用されて、地を支配する原理として用いられたことがどれほどあったことか。

               

              少なくともアメリカ大陸に入植したときの西洋人は、アメリカ原住民、ネイティブ・アメリカンを、人間だとは思っていなかった、あるいは、法律制度では、すくなくともネイティブアメリカンの人々を人間とは認めなかったことがある。これは、米国の国勢調査でもその扱いであり、フロンティアの定義では、ネイティブ・アメリカンは人口として数えていなかった時期がある。

               

              さらに、土地の所有という概念を持ち得なかった彼らを追い払っていなくなった地を自分たちのものとしてしまったのである。そんなこともあり、こんな画像が大統領選挙中、出回った。

               

              2016年大統領選挙中見た画像

               

              なお、南野先生がお訳しになられたマーティンズという人の『神のデザイン』(最下部参照)という本では、旧約時代は厳密な意味での土地の所有という概念はなく、土地の耕作権だった可能性があることが指摘されていた。本来、この地は誰のものか、ということは重要な聖書的な問ではないか、と思う。

               

              ところで、グリューンさんの「(従順を他者にしいて、それを他者が当然受け止めるべきこととすることは)これらの動機を否定し隠避するためのメカニズムを手に入れるための衝動である」と言うのは非常に厳しい表現であるが、他者が従順に受け止めてさえしさえすれば、心にある動機を気にする必要は殆どない。だからこそ、少年兵が使われたり、「良いインディアン」(白人の言うことに素直に従うネイティブ・アメリカン)や「良いアジア人」(白人様の言うことに従順に従うアジア人)とか、「良き○○国民」(政府の言うことに従順に従う国民)が言われてきたのだろう。その意味で、白人様の言うことに従わない悪しきアジアの共産主義国家は、時に攻撃の対象にされることがある。まぁ、下の動画の方は、中国がお好きなので、このように言っておられるかどうかは存じ上げないが、以下の動画ではお好きであるとは、ご発言である。

               

              決して、トランプ候補は発音練習で言っておられたわけではないように思うが

               

              順応してしまう人間の悲劇

              世の中には、疑問を持たず生きられる幸せな方がおられる。それはそれで幸せなことであると思う。しかし、個人的には、若くして学校の先生からの指示に順応することに慣れすぎてしまったばかりに、考える力を失い、生きる力を失っているかに見える学生諸氏も見てきたので、なんだろうなぁ、と思うこともあるが、中に、そこから抜け出そうとする人々がいることもあり、その面では安心だなぁ、と思うこともある。

               

              随分以前のことであるが、学生課と呼ばれるところに呼び出され、退学の希望者が居るので面談してほしい、と言われたことがあって面接したことがあるが、どうも学校をやめたくてやめたくて仕方がないという方のようであった。指導教官でもなく、その学生と授業では面識もない学生であったので、「なぜ、退学したいの?」と聴くと「何が何でもラーメン屋になりたい」という。アルバイト先で知り合ったラーメン屋のラーメンがやたらと美味かったらしく、「自分も自分の納得ができるラーメン屋を作りたい」のだという。

               

              立場があるので、「はいはい。退学ですね。じゃぁどうぞどうぞ」といっては、役職上多少まずいので、一応役職としては、数度翻意を促したが、その退学希望者の決意は堅固であったので、「じゃあ、頑張ってね。開店したら知らせてね」と面接を終わった。その後、翻意を促したことを報告書に記載して、学生課に関係書類を提出した。数週間後、その学生さんは退学届けを提出をされて、正式に退学が認められたが、その後、ご連絡は一切ないので、本当においしいラーメン屋が誕生したのかどうかは確かめられないままである。

               

              学校の教員的にはまずい発言かもしれないが、今でも、こういう元気のある学生を見ると、ある面清々しい気になる。彼は学校というシステムに飼い殺されることを、自分で拒否したのではないかと思う。まぁ、学校という組織にしかいた事のない人間(とは言え、色んな所に出入りはさせてもらっているが)にしてみれば、そういう生き方もあっていいかも、とは思う。

               

              ところで、システム内に順応して生きている人たちについて、グリューンさんは次のようにいう。

               

              私はここで、一般に「病気でない」と分類される「順応型の人間」に注目したいと思う。彼らは、競争で成果を上げた人たち、所有したり征服する支配者たち、―それゆえ不安や緊張や苦しみから開放されていないようにみえる人たちである。「人間を病人か、病人でないかを区別する試み」は、被害者を生み出す病がそもそもなんであるかを考えようとしないので、当然、失敗することになる。私達の成長の根底にある問題が無視されるなら、「人間が歴史的存在であるという意識」は不完全なものとなる。人間の歴史的・時間的なできごとを理解しようとする行為は、私達のうちに異質なものが常に存在するという状況を理解しない限り失敗する。(同書 p.76)

               

              この部分を読んだ時、思い出したのが、東京大学を出て、電通というところにお勤めになられて、自殺されることになったお若い女性のことである。なに、この種のことは、最近ばかりではない。以前から、中央省庁のお役人様の中には、若くして自殺される方は少なくなかった。有名中学、有名高校、有名大学、中央官庁という、競争を勝ち抜き、絵に書いたエリートコースに進みながら、若くして亡くなられる方は、少なくなかった。実に残念なことであるが。

               

              このタイプの人達は、学校という競争社会に順応しすぎ、あるいは社会のシステムに順応しすぎたゆえに、そして、学校という競争社会のシステムで、常に勝者でい続けたために、そして、それ以外のプライベートな社会の中でも勝者であり続けようとしたために、苦しみを抱え込み、勝者であること、勝者であり続けることからの開放がなされなくなってしまった人たちなのだろう。

               

              その意味で、強行突破型の人生に耐えきれなくなった人でもあるように感じる。

               

              まぁ、大量生産時代の近代という時代においては、モーレツ社員であることが、成功の方程式であり、そのシステムに順応することが成功者への近道であった時代がある。不安を抱えつつも、システムに順応していった結果、そこにあるものがあまりにつまらないものであるがゆえに絶望を感じた人々は、システムの言う正常な人間であり続けるのをやめるために、人生に自ら終えることを決断したような気がしなくもない。もっと他に生き方があったのではないか、とは思いはするが、それに気付けなかったのだろう。

               

              そう思うと、ナウエンという人が世俗の学問分野や作家として、高い評価を受け続けることに苦しみ、結果、ラルシュでの専従聖職者になって開放されたことを味わったことと、ある面、似ているのかもしれない。イエスは、十字架で高く掲げられたが、それは人間的には、どん底に向かっていくことであったことも忘れてはならないことのように思う。

               

              若い女性の自殺に関する労災認定の新聞の記事

               

               

              まぁ、もともと、この若くして自殺した女性の話にしたって、労働基準監督局がめったに認めない自殺を労災認定したから新聞にのり、マスコミが取り上げるということで起きた話であって、もし、労災認定がなければマスコミも取り上げることもなく、忘れ去られていった事件ではないか、と思うのだ。と言うのは類似の事案は案外多いからである。

               

              なお、ミーちゃんはーちゃんは、長く働きたい人には、かっこいい職場よりも泥臭いおっちゃんの多い職場を選べと言っている。なぜならば、泥臭い現場を持っている職場の場合、「ゼロ災で行こう」が合言葉なので、過去の犠牲者の故に、無理な働き方が少ない事業所が多いからである。と入っても、危険職場は危険であることには違いがないが、自殺まで至ることはめったにはないことも確かではある。

               

              さて、このように人を死に追いやるようなシステムは基本的に無反省であることについて、「被害者を生み出す病がそもそもなんであるかを考えようとしない」とグリューンさんは書いている。それはそのとおりだなぁ、と思う。帰って、その病を指摘すると怒られてしまうのだ。あるいは、「頭がおかしい」と言われてしまう。

               

              京都大学は頭が良くて、現状を前提としない人々が沢山おられ、それがあそこの校風となっておられるので、「誰が病気なのか、本当によくわからない」というのはあるかもしれないが、こういう批判精神をお持ちの方が多いようである。その意味で、東大の学生さんは真面目なので、そこの学長が「痩せたソクラテスで云々」と卒業生への祝辞で言おうとしないと行けなかったのかもしれない。

               

              2016年の京都大学の卒業式… 毎日新聞さんから

               

              毎年仮装が楽しみな折田先生像

               

              天丼マンになった折田先生 朝日新聞から

               

              ところで、以前にも書いたが、ミーちゃんはーちゃんは、バブルの絶頂期にバブルに踊る人たちを横目に見ながら、大学院という教育機関に自発的かつ社会的入院をした人間である。その意味で、システムから外れることができた。逆に言えば、学校というシステムに飼いならされているといえば飼いならされては居るのだが。

               

              グリューンは、親の言うことに従順に従うことが求められて、それにしたがって生きてきた、ということを思い出させるために、次のような一文を書く。

               

              私達の成長の根底にある問題が無視されるなら、「人間が歴史的存在であるという意識」は不完全なものとなる。人間の歴史的・時間的なできごとを理解しようとする行為は、私達のうちに異質なものが常に存在するという状況を理解しない限り失敗する。」とグリューンさんは書いているが、これは、実は、本来、人間というものは、歴史的な環境に依拠した存在であるという意識を持たねばならないこと、さらに、人間は一時的存在似すぎないことを覚えるべきであり、永続的存在であるという意味での歴史的存在ではありえない、ということなのだと思う。まぁ、その後に、「人間の歴史的・時間的なできごとを理解しようとする行為は、私達のうちに異質なものが常に存在するという状況を理解しない限り失敗する」と書いておられるので、分かるとは思うが。

               

              これは、聖書理解にしてもそういうことであり、聖書理解も歴史的存在であることを忘れてはならんのではないか、と思うのだ。聖書理解は、ある程度Working Theoryとして機能するものの、それは永遠不滅のものでもなければ、普及のものではない、歴史に影響を与えることもあるけれども、完全なものではない。

               

               

              大阪の下新庄あたりにある「歴史を刻め」という名前のラーメン屋さん

               

              そして、異質性をもつものがどの社会でも存在し、社会は本来一様でない、多様な人々から成立していることをグリューンさんは主張しているが、この概念は極めて大切であり、多様なものを一般化した瞬間に、いろんな議論は危うさを内在させることになってしまう、ということをおっしゃりたいのだろう。ただ、多様な存在であっても、概ねの傾向として捉えられる集団の共通部分が多少はあるとは思うが。

               

              その意味で、近代社会が個を圧殺しようとした文化を、未だに継承しているポストモダン社会においても、個別性を持つことは案外重要なことではないか、と思う。

               

              じっと見つめたほうが良いかもしれない

              恐怖や悲しみ

              恐怖や、痛み、悲しみを見ないことで、それを忘れようとすることがある。そして、やせ我慢して生きようとする人々がいることは確かだし、近代人、あるいは近代の日本人はそれを良しとしてきた部分がある。特に、戦争中はお国のために奉公したとか、お国のために花と散った、とか言ってごまかして、戦死者の家族に泣くことを禁じ喜んでいる雰囲気を醸し出すように遺族に強いたところがある。しかし、それは間違いであったようにも思う。そのあたりのことに関してグリューンは次のように書く。

               

               私たちは、生き延びるために、自分がさらされている恐怖や悲しみを否定しようとするので、私達の置かれている状況を誤って理解することになる。だが恐怖や悲しみを否定するなら、私たちは自分自身を犠牲者として認識することができなくなり、何度も繰り返し従順になろうとし、従順で有り続けることになる。その場合に、従順であることの陰湿な問題は、従順に組み込まれている防御装置にある。つまり「従順であることに逆らう」と「罪責を過剰に負わされる」ということなのである。(同書 pp.76−77)

               

              きちんと自分自身に悲しみがあり、苦しみがあるのを、見つめて良いし、見つめるべきだ、というのがグリューンさんの主張のようである。それを無理やり切り離して、なかったことにするのはまずい、と言うことなのだろう。

               

              ナウエンという人も、この種の悲しみとか痛みとかの心の傷は直面したほうが良い、と言っている。ただ、それは一人で見るのではなく、我々とともにいる神への信頼の中で、という条件付きであるが。

               

              ところで、キリスト教界でも、大日本帝国時代の日本ではないが、遺族に喜びを強いるかのようなことがある。本人たちがほんとうに遺族になったことを喜んでおられるのなら、何も申し上げることはないが、もし、遺族が本当は悲しんでいるのに、自分達の教会の教義のゆえに喜んでいるふりをさせられているとしたら、なんとも残念なことである。

               

              ヤンシーの『隠された恵み』の中に出てきているある親戚をなくした人の話ではないが(いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(4) の引用部分参照)、牧師や教会員から親戚がなくなったときに、「○○さんは、天国に行けて良かったですねぇ」とか「天国に行かれましたよ」「万歳、ハレルヤ」と言われて「ええ、まぁ。」と答えを返すことを期待されていることなど、おかしなことではないか、と思う。だいたい万歳とは、文字通りを読めば、Long Liveの意味の語である祝祷の語であるので、お葬式の場においては矛盾も甚だしいと思う。まぁ、縦しんば神の国での永遠の生を言祝ぐ、ということであるというこじつけも不可能ではないが、そもそも、神の支配のもとでは、万年など、一瞬にすぎないはずだが。さらに、本来の人間に与えられている悲しむ心に配慮しない、というのか、失われたゆえに悲しみに打ち震えている人々に対する哀れみのかけらも、持ち合わせていなくて、自分たちの理解を無理やり押し付けようとする、現代の一部のキリスト教会は、どっかおかしいと思っている。

               

              悲しいときには悲しめばいいのだと思う。相手が強いてくる喜びであるがゆえに、本人の正直な心の中からその喜びが出てきてないのだとしたら、そんなものはナンセンスであろうと思う。しかし教会では、その正直な心を押し殺すように強いる人々がいる場合があるのが、実にかなわんと思う。葬儀のときくらい、葬儀後の生に向かって前向きに日常を生きるように、気分を切り替えるために、思いっきり泣くのが普通だとは思うのだが。

               

              ところで、生存するために他者に依存するようになる異常な精神状態、ストックホルム・シンドロームでは、「恐怖や悲しみを否定する」という異常な状態が起き、その結果として、「私たちは自分自身を犠牲者として認識することができなくなり、何度も繰り返し従順になろうとし、従順で有り続けることになる。」ということが起きるのであろう。

               

              軍隊では、戦争の際などに備えて、「恐怖や悲しみを否定する」教育が徹底して行われることになる。そして、恐怖心を感じないようにしていくのだ。しかし、それでも戦場での経験によっては、PTSDなどが起きる。

               

              従順さが含む問題

              従順を強いる人々に、あるいは盲従を強いる人々にぜひ記憶してほしいことは、次の一文である。

               

              その場合に、従順であることの陰湿な問題は、従順に組み込まれている防御装置にある。つまり「従順であることに逆らう」と「罪責を過剰に負わされる」ということなのである

               

              従順を他者に強いるということは、ある面、相手の口をふさぐ、相手の発言を抑止する、そして、相手の存在を圧殺し、無視する、相手の発言の権利を侵害する、ということでもある。その権利侵害そのものも問題であるが、それ以上に問題なのは、従順でないことがその人自身の姿であるはずなのに、そのひとの姿を取り戻し、現在の特定の社会において従順とはされないことを行った時に、その人に必要以上に罪責感を感じさせてしまうところである。

               

              本来の姿に戻ることは、言い換えると、神によって回復された姿となることは、ある面当然なことであるにもかかわわらず、それが世俗の価値観と対立するからと言って、特に、教会の聖書理解の中に知らず知らずに紛れ込んだ(意図的に紛れ込ませるなら、より性質が悪いのだが)神ならぬものである人々の価値観と対立するからと言って、批判された上に、罪意識を挙句の果てに過剰に背負わされるなどというのは、実に陰湿というか、もはや悲惨、としか言いようがない。

               

              よく言われる、「クリスチャンらしくあれ」とかいうことも、大抵の場合、他人、あるいは、発言者が思う「クリスチャンらしさ」であることが多い。何なのだろうと思う。

               

              ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解から言えば、教会は「神のかたち」を回復せしめるところ、囚われ人である人々に、その囚われからの開放を告げる場所であると思うし、その開放を与えるために神ご自身が招いておられる場所であると思うし、そうであってほしいと思う。しかし、そうではなく、知らず知らずのうちに紛れ込んできた物による別の囚われを教会が繰り返し、繰り返し、そこの場にいる人に与えるとしたら、一体何なのだろう、と思うのである。

               

               

              次回へと続く

               

               

               

               

               

               

               

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              (2015-07-01)
              コメント:これはなかなか面白かった。おすすめです。全部には賛成しているわけではありませんが、示唆に富む本です。

              2016.11.28 Monday

              グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(7)

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                今日もまた、タラタラとグリューンさんの『従順という心の病い』を読んで考えたことを考えてみよう。

                 

                説得のされやすさ

                まず、今日の記事を読む前に、授業で使うことの多い動画を紹介してみたい。それは、説得の科学、と呼ばれる動画であり、なかなか、この動画は印象深い。この動画は、人がどう説得されるのか、ということに関する動画であるが、そもそもは、人をどう説得するのか、ということを理解させるために作られた動画らしい。まぁ、授業でも、自分のやりたいことのために、人をどう説得するのか、それには、実際に有効な方法があるよ、ということを示すために使っているが、個人的には、それを見ながら、気をつけようと思っている。確かに、非倫理的ではないとは言うものの、ちょっとどうなのかなぁ、と思うところがある。

                 

                 

                 

                基本的に上の動画は、人を説得するのための6つの要因を示している。

                 

                1)Reciprocity(相互性)

                2)Scarcity(希少性)

                3)Authority(権威性)

                4)Consistency(行動の一貫性)

                5)Liking(類似性)

                6)Concensus(合意の存在)

                 

                まぁ、細かな話は英語の動画を見ていただければわかるのであるが、今日はその中で、権威性の話だけをグリューンの書いた内容と関連するので書いてみたい。基本的に信頼できると思え、知識があると思えるような専門家然とした人の云うことには容易に従うのだ、として、スポーツクラブなどでインストラクターが卒業証書を掲げておくことや、制服が有効であること、誰か紹介してくれる人がいて、紹介する人物がある人についてよく言ってくれることで、大きく雰囲気が変わること(不動産屋の契約についても触れながら)などを紹介している。

                 

                 

                また、何も中身の無い話をしながら、中身があるように見せる技術(実は、コンサル喋りには、この手の喋り方があるので、ばらしてしまったようなもんだが)の話をしたものに、以下のTEDでの動画がある。

                 

                内容は確かにないが、まぁ、でも、人はこんなふうなプレゼンをされればイチコロである。

                 

                さて、本論に戻すと、人は安易に権威があるふうな人に騙されてしまうし、意図的にそれをやる人は悪意に満ちていると思わざるをえないが、学校とかで長年喋っていると、ある種癖になってしまうところがある。

                 

                まぁ、「聖書を知っていますから、なんでもぜひ聞いてください」とか、チャレンジングなことを言う人がおられた場合、「じゃぁ、チャレンジングな質問をしてみたいなぁ」と思うことがあるが、聖書のことを何でも答えられるなんてことは人には土台無理なので、スルーしていることがある。

                 

                一度、出席した教会で、今日はこのあと、ナウエンの読書会がある、とご案内があったので、後学のために参加したのだが、その読書会は、ナウエンが書いた英文テキストに関する読書会であった。「今日は霊的な話をするので」とおっしゃった牧師さんもその読書会におられたが、「???」というナウエンのテキストの解釈が、時々展開されていたので、「ナウエンがこの場所でいいたいのは、こういうことじゃないですかねぇ」「これは聖書の…という箇所を受けてのものだと思うのですが…」と思わず発言してしまい、その読書会自体をそそくさと終わらせてしまったことがあった。なお、二度とミーちゃんはーちゃんはその教会に出没していないことは言うまでもないし、その教会で新来会者カードに住所は残してきたが、連絡はその後一切ない。ただ、ちょっとまずいことをしたかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

                 

                さて、権威性があると見える人が正しくないかもしれない、ということを面白く描いた作品に、Catch Me, If you canという天才的な詐欺師のことを面白おかしく描いた映画がある。まぁ、予告編を上げておくので、ご関心のある向きは、ご覧になったらよろしかろうとは思うが、まぁ、服装だけで人は簡単に騙されてしまうのである。

                 

                Catch me if you canの予告編

                 

                そのあたりのことに関して、グリューンさんは次のように書いている。

                ノーベル化学賞を受賞したオットー・ハーンは、「高等教育機関の教師は、すべてを知っていると主張するが、何も認識していない」と述べた。科学者はしばしば、自分の思考、自分の立場は、公平かつ客観的であると主張する。科学者は、非合理的で主観的な誤った束縛から開放されていると確信しているが、そのような考えこそが、経験の全体性を排斥することに、全く気づいていない。(『従順という心の病』 p.87)

                 

                大学院という組織に社会的入院していたので、この手の「すべてを知っている」とか「自分は公平かつ客観的」とか、胡散臭いことをいうおじさんやおばさんたちとは何人か出会ってきた。まぁ、それくらいの気持ちがないと、学問をやっていけないのもわからなくはないが、こういう方の授業はどうも楽しいというわけには行かなかった。

                 

                どうやったって、公平かつ客観的な視点が存在するなんてことはないし、観測だって、バイアスの塊だということは、ミーちゃんはーちゃんは自分の専門分野については、確実にあると思っている。だいたい、自分の専門分野では、調査領域の切り方を変えるだけで、結果がガラガラ変わる世界をやっているのだから。

                 

                科学というのは、ある厳密な条件設定のもとで、その条件下で実現する結果から導出された洞察の体系にすぎないと思っているが、案外、本当にそのあたりのことを考えてない人、考える習慣のない方のほうが、「科学だから偏見がない」とか、「科学だから客観的だ」とか、「非合理的で主観的な誤った束縛から自分は自由だ」とか、軽々に仰る傾向があり、自己の主張の正当化に科学を駆り出すのがお好きな方がおられることも確かだ。この種の主張は、純粋に科学をやっている人というよりは、科学にちょこっと関係した人で、科学からちょっと離れた分野の人に多いような気がする。

                 

                計算機科学という野暮な研究領域にも足を突っ込んでいるし、自分でもプログラムを書くので、よく分かるのだが、計算機は間違うし、意図的に間違うようにすることも不可能ではないし、意図しなくても計算ミスが起きるのだ。計算機は、そもそも誤差を含んだものとして変数定義が出来上がって居る以上、誤差は生み出されうる。詳しく知りたい方は、単精度実数と倍精度実数についてお調べ頂いたら、お分かりいただけようか、と思う。

                 

                オリジナルがコピーに成り下がる人生

                人との会話で、有名人の誰それと似ている、ということを会話のきっかけにすることがあるが、個人的には、有名人の誰にも似ていないので、困ることがある。このように誰に似ているかなどは、あるモデルがあり、それとの類似性で考えるという習慣が我々の心のなかにそれだけ染み付いているということだろう。

                 

                ただ、モデルが合ったほうが、ある能力とか技能などに関して、一定の水準に達するためにはモデルがある方がいいというのはある。それはコピーバンドなんかでは典型的である。歌唱法を真似るとか、演奏法を真似るとか、結構ある。

                 

                こういう上手い人を真似るということ以外に、師匠筋に従順ということは、俳句とか、短歌、落語の世界などでは、作風ということはあるが、個人が主体的にそれに関与し、それを超えてていこうとするのならまだしも、社会システム一般に問答無用に従順というのをあまりやりすぎてしまうと、まずいことが起きるように思うのだ。

                 

                無意識的な従順は、同様に、非情で容赦のない仕方で、私達一人ひとりの意識を低下させる。つまり従順は、私達すべての人間を画一化する。18世紀に、英国の詩人エドワード・ヤングが書き記したように、「私たちは、オリジナルとして誕生するのに、コピーとして生涯を終える」ことによる。(同書 p.88)

                しかし、最初はコピーでも、オリジナルになる人たちは、そのコピーで終わらず、オリジナルの良さを求めていった結果、あるいはその人なりのオリジナルを求めていった結果なのだと思う。また、その人なりのオリジナルを生み出す事ができるかどうか、というのは、問われているように思う。

                 

                また、この無意識的な従順は、日本ではいじめの根源にあるのかもしれない。以下のACという組織のCMによく現れていよう。

                 

                 

                ACのCM

                 

                 

                ただし、これは案外、難しいのだ。と言うのは、あまりにオリジナルすぎても、また、時代の先に行き過ぎても、他人から認めてもらえないし、他人から認められようと思うと、その業界のルールに一応形だけでも従わないといけないというのはあるからである。これは、学術雑誌の世界でもそうである。業界のルールに従わないで、業界ルールを無視して論文を書いたら、いくら良い論文でも評価してもらえない。その意味で、ある枠組みの中で、既存の枠組と既存の成果を踏まえた上で、オリジナリティを出す(あるいは、オリジナリティがありそうに見えることを言う)ということが大事なのである。

                 

                本来は、その人なりのオリジナルなものがあるとは思うのだが、どうも、近代という時代は同質性を西洋でも、東洋でも求めていったように思う。その意味で、オリジナルとして、他にかけがえない者として生まれて、十把一からげのコピーとして人は死んでいくことになるのだろうと思う。なくなったあとでも、コピーとして扱われることを拒否するかのように、まぁ、いろいろなことを考える人が居るようだ。それは、墓地に行くとよく分かる。実に最近の墓地はユニークなのだ。

                 

                 

                ネットで拾った墓地画像(乗用車編)

                 

                ネットで拾った墓地画像2(鬼太郎編)

                 

                ネットで拾った墓地画像3(バイク篇)

                 

                コンパッションと従順

                どの世界にも変な人、ちょっと変わった人はいて、そういう人は、社会システムに対する異議申し立てを、案外簡単に、深く考えたり、打算とかとは関係なくやってしまうので、社会にとって当然とされていることを行わない時には、厄介者であるとされることが多い。のだが、社会に対して行き過ぎを果たすブレーキの役割を果たすことになることがある。それが、社会の中で少数か、というと、案外多いというのだ。個人的には、このタイプは芸術家に多いような気がする。

                 

                前回、京都大学の学生が折田先生像をアート作品に仕立て上げることをお話したが、この傾向は、芸術系の大学では一層強くなる。国立ニート養成所とも呼ばれる東京芸術大学などでは、かなり激しくなる。

                 

                東京藝術大学のお神輿 さすが芸大 お神輿とは思えないデザイン

                 

                また、モダンタイムスは、チャールズ・チャップリンによる、近代文明批評でもあるが、モダンという時代が人間圧殺の時代であったことを映像を用い同映画では批判的に示したのだと思う。

                 

                 

                従順ではない人々

                フェースブックでのミーちゃんはーちゃんのお友達の周りには、従順になりたくてもなれない人々、従順ではない人々、従順な人が羨ましく思える人々が案外多い。その意味で、非情に楽しいお友達が多い。従順な人にはない、面白さがある方が多い。実に楽しいのである。案外そういう従順ではない人が多いことを、グリューンさんは、過去の研究から以下のようにご紹介しておられる。

                 

                ミルグラムの実験、ヘレン・ブルヴォル、アン・ロスカム、ドイツ人戦争捕虜とヘンリー・ヴィクター・ディックス並びにエーリッヒ・フロムやグンター・ホフマンの研究は、私達の文化の約三分の一の人たちが、無批判でもなく、従順でもないことを示している。これは、私たちに希望を与える。共感や人間的な思いやりが、従順に抵抗し、従順に立ち向かわせるだけではなく、従順を押しとどめることができるのである。人類が生き延びられるかどうかは、共感や愛を持っていきることができるか、「従順」にならず、「従順」に依存しないで歩み続けることができるかという、私達の能力にかかっている。(同書 p.91)

                 

                ここで、上の引用部分では、3分の1の人が、こういう従順でない生き方をするということがあること、「共感や人間感的な思いやりが、従順に抵抗し、従順に立ち向かわせるだけではなく、従順を押しとどめることができる」とグリューンさんはおっしゃっておられる。実は、このことは大事だと思うのだ、

                 

                淡々と普通の人間としての素朴な感性に立ち、あえて抵抗しようとか、従順に立ち向かおうとか思わずに、社会システムに対して従順でない生き方をする人々がおられるのだ。それは、神から与えられた神のかたちの発露であるかもしれない、と思うことがある。

                 

                 

                そして、今回の引用の最後の部分、「人類が生き延びられるかどうかは、共感や愛を持っていきることができるか、「従順」にならず、「従順」に依存しないで歩み続けることができるかという、私達の能力にかかっている」と言うのは、グリューンさんが迫害を生き延びたユダヤ社会の中の人ゆえの発言ではないか、と思っている。

                 

                この部分を読んだ時、思い出したのは、「ドイツの人たちがあまりに真面目であり、あまりに従順だったので、アウシュビッツの悲劇が起きたこと、より悲惨になったことの反省に立ち、イスラエルでは、個人の思いを重視した、人間として生きるということを大事にした教育をして、集団でまとまって何かできるような、集団化に向かいかねない教育をできるだけしないようにしている。そして、そのことでイスラエル民族が絶滅しないような教育をしている(大意)」というイスラエル在住の旧約学者の先生のご発言であった。

                 

                基本的に人間としての共感とか、同じであるという認識を持てるかどうか、というのは、大きいのであろう。最後の一線を越えるかどうかというギリギリの選択を迫られる時に、この人間としての思いが重要なのだろうなぁ、と思う。

                 

                以下で紹介する動画のX Companyというドラマの第1話で、ナチのSSの将校がオランダ人の子供が自分の子供を思い出させるからということで、少女の射殺を思いとどまるシーンがあるが、それなどは、まさに、共感が非人間的であることをとどめたことになるのだろうと思う。

                 

                X Companyというナチス・ドイツの地下抵抗組織の支援組織を描いたドラマ

                 

                まだまだ続く

                 

                 

                 

                2016.11.30 Wednesday

                グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(8) 最終回

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                  さて、100ページ前後の本で、ここまで引っ張ることになるとは思わなかったが、非常に考える糸口をたくさん与えてくれる本だったので、ついつい連載期間が普段以上に長く、タラタラ度合いマシマシになってしまいましたが、一応、本日でこの本については終わりにします。

                   

                  正常さの名のもとに切り捨てられた結果、

                  生み出される「犠牲者」

                  20世紀は衛生の世紀であった。ハイジーン、すなわち衛生が全てに優先し、衛生的でないものは排除する、衛生最優先、という世界観が広く世界に広まった時代であった。自宅で産婆(助産師)の立ち会いのもとの出産が、病院への出産へと変わり、自分が食べる魚や肉類は、既にどこかで加工され、パック入荷されたものを食し、家庭や施設の中で病原菌を広めかねない人間の排泄物は、汚水管、ないし下水管へ、ゴミはゴミ処理場へ、産業廃棄物は産業廃棄物施設へ、もともと、自宅を使いながら地域でやっていた葬儀は、寺院へ、そして、葬祭センターへと移行し、遺体は土葬ではなく、火葬され、全て醜いもの、汚らわしいと思えるものを生活の場から正常ではないこととして、排除していったという側面はある。

                   

                  おかげで、乳児死亡率は激減し、寿命は長寿化し、人は病院で死ぬものとなった。そして、自宅で人が死ぬと、異常死、不審死の可能性がある、というので、警察が動員されることにまでなっている。こういう社会をわれわれは正常と思っているが、本当に「正常」なのだろうか、と思うことがある。ただ、今の生活に慣れ親しんでいて、あるいは、今の生活に飼いならされていると、現代の異常さに気が付かなくなることがあるようにも思うのだ。その意味で、今の生活をあまりに当たり前、Taking for granted (その生活が保証)されているような気になってしまうのだ。本当はそれが現代社会におけるある均衡の下での一時的な社会のひとつのあり方であり、その維持にきわめて高いエネルギーを必要とする社会になっているのである。

                   

                  ある意味で、それがシステムとして極まったのが郊外やサバービアであり、団地と呼ばれる地域での居住継体であり、ミーちゃんはーチャンが以前は、開発に参加できたら、と思っていた郊外住宅団地である。まさに、あの世界は1950年代的衛生概念の最先端を極めようとしたものではあった。しかし、今から見れば、それは非常に不十分なもので、貧相なものに見えるかもしれないが。

                   

                   

                  昭和31年のわが国の住宅状況を示す映像

                   

                  そして、精神障害者は以前は座敷牢に押し込められていたのが、精神病院という施設に居場所が変わり、身体障碍者は身体障碍者施設という人目につかないところにおかれることとなってきた。そして、障害者が隔離される中で、知る人だけが知る世界が障碍者の周りに形成されていったように思う。とはいえ、最近はノーマリゼイションの掛け声とともに、そのような人々を時折、電車の中などに見かけるようになった。

                   

                  今年の夏、神奈川県で障碍者施設で虐殺に近いことがおきたが、その凶行を犯した彼も、まったくの近代的な生命観に基づき、善意から、善行しようとしてあの事件を起したに過ぎないことを思うと、近代とはいったいどういう時代だったのだろう、と暗澹たる気持ちを抱く。実は、あの事件を起した青年と同じことを国家単位でやったのが、ナチス・ドイツという国なのだ。

                   

                  ナチスの障碍者殺害のドキュメンタリーの一部

                   

                  文化的正常さと私達との関係について、グリューンさんは、次のように書く。

                  文化的に承認される「正常さ」であるが、その「正常さ」は同時に私達を否定するものである。つまり「正常であること」は、「人間としての苦しみに満ちた部分」を、生涯にわたって抑制する試みである。その「人間としての痛みに満ちた部分」を私たちは失うのだろうか。さもなければ絶望しつつそれと向き合うのだろうか。だからこそ私たちは、「犠牲」とされるべきものを他者の中に探し、私たちが感じ取ろうとしない「苦しみ」を、他者に負わせるのである。私たちは、他者を、私達自身がそうであってはならない「犠牲者」に仕立てる。(『従順という心の病い』 p.94)

                   

                  以前、このブログでも書いたかもしれないが、昔学生と読んだ、リスクに人間がどう対処してきたかの本の中に、Against the Gods 『リスク』という本があるが、その中に人間がどのようにデータと取り組んできたのかの章があって、人体とその各部位を各種計測し、標準的な人間についてのデータ化を平均を取ることで明らかにしようとした試みについて書いてあった部分があったが、そこを読んだとき、はっと思ったことがある。実は、身長、体重、胸囲等のすべてに関して、完全に平均値の人はいない、ということなのだ。実は、平均値周りに多くの人はいるが、平均値の周辺のその測定値の平均値プラスマイナス標本標準偏差の範囲周辺に存在する人々がほぼ全体の70%を占めるということはあるが、全員が全員平均値であるはずがないのだ。

                   

                  ここで言っている正常さは、私達の内にある、平均値からの乖離を許容しないことがある。他人とは違うこと、他人とは違うユニークな部分が、「人間として苦しみに満ちが部分」の原因となり、それを抑制するように、平均値に回帰するように、努力をしてしまうようにも思う。そして、他者の中の塵を見つけ、梁のように巨大なものだといい、指摘し、そして、自分の中の針を見なくて良いように、他者の中にあるわずかばかりの違いを原子力空母か、LNGタンカーか、トランプタワーのような巨大構造物かのように言っているような気がする。

                   

                  「なんとからしさ」という殺し文句

                  そんなことを思いながら、ミニストリーの最新号「サブカル宣教論特集」をまくっていたら、特集記事のひとつ、蝉丸P(高野山で得度を受けた住職の方)との対談の中で、松谷Ministry編集長が、こんなことを言っている記事があった。

                   

                  一信徒である私の所感でしかありませんが、キリスト教会の場合は「聖俗二元論」の問題が大きい。ストイックなピューリタニズムの功罪といいますか、牧師や信者が娯楽に興じることに後ろめたさがあるんです。聖職者のイメージが強く、教会もイメージによって自縄自縛しているように感じます。「牧師だから」「牧師なのに」という言葉が殺し文句になっている。「女なのに」「社会人なのに」「日本人なのに」など、社会全般に蔓延している違和感と共通の問題かもしれません。(Ministry  Vol.31 p.20)

                  これなんかは、まさにここで、グリューンさんが「私たちは、他者を、私達自身がそうであってはならない「犠牲者」に仕立てる」ということを、「牧師だから」「牧師なのに」「女なのに」「社会人なのに」「日本人なのに」という殺し文句で、現代の教会は、これらの人々を犠牲者として仕立て上げていることの現れのひとつであろう。

                   

                   

                  そして、「・・・なのに、・・・している」と他者を非難するということで、苦しみを他者に転嫁し、他者をアザゼルと呼び、他者をスケープゴートにすることにより、本来は自分の中にある問題を、自分たちの問題とせず、他者の問題のほうが大きい、といって自分自身の中にある悪や醜さや怒りから目を逸らせてしまうのだ。そして、自分自身の痛みを、他者に投影して、他者を攻撃することで、辛うじて自分自身が正常であると思いこもうとしているのではないかなぁ、ということを思うのである。

                   

                   

                  西欧近代の概念で塗りつぶされてきた学問の世界
                  以前、このブログでも、紹介したが、先月、イスラム法学者の中田考氏の講演会を聞きに行った時のことを、グリューンさんの正常の議論を読みながら思った。

                   

                  記事はこちらである。

                   

                  京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(講演編)

                   

                  京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(Q&A編)

                   

                  彼は現代の日本社会からは異常とみなされる人物である。しかし、イスラム法学的にはまっとうなのである。彼が面白いことを言っていた。西洋人文社会科学系の研究は、対象によって3つにわけられるということを中田氏は指摘する。

                   

                  また、西洋が作り出してきた学問体系として、人類の平等を言うものの、他の世界を知った時に、3つの段階に人類を分けた、という。

                   

                  それは、文明人(西欧のみ)と、劣等民族と未開人の3分類だと中田氏は言う。西欧は、その3つのグループに分けて考える習慣があるとも言う。そして、文明人の対象の学問が、社会学や経済学であり、西洋人ではないが、高度な文明を持っていて、実際に社会を運用する力もあるが、ちょっと劣っている劣等民族があり、それ対象の学問がオリエンタリズムであり、その範疇に入らないものが、未開人であり、その研究分野が人類学 民族学である、という。

                   

                  学問の世界にいると、Post Colonialism(ポスト・コロニアリズム)の時代を迎えていることもあり、学問研究の方向性は、かなり変容してきたものの、未だにこの思想性で学問研究をしている人は多い。これまでの人文学や社会科学系の研究を大局的に見る限り、この分類は、個人的には当たっていなくもないと思う。西洋人中心の思想からいまだに抜けていないことを思うことがあるし、世界的に評価されるというのは、日本では、西欧社会で評価される、西欧人にわかるようにフランス語だの、ドイツ語だの(なお、学術言語としてこの二つの言語は第2次世界大戦以降凋落が激しい)英語だので書かねばならぬ、ということでもあるので、非英語話者にはつらいのである。その意味で、現在の学問の世界の標準ルールは、実態として、英語で書く、ということになる。それは、まぁ、この70年くらいの習慣に過ぎないが。

                   

                  現代社会と共感
                  では、何が、現代社会の中で必要か、という話題に関して、この本でグリューンはこのように述べる。

                   

                  ノーベル賞経済学者であるポール・クルーグマンや、ジョセフ・スティグリッツは、非人間性を特徴とする「権威に隷属的な従順」に対して戦った。ふたりとも、共感が必要だと主張している。

                  議会への政治的影響力を行使しようとするいわゆるロビイストたちの要求は、例外なく『債権者の利益』のためのものである。つまりお金を借りる側の利益のためではなく、お金を貸す側の利益のためであり、いずれにせよ、労働によって収入を得ようとするものの利益のためではない。(クルグマンからの引用の一部)(同書p.98)

                   

                  とここで、共感(ある面で言えば、支配の関係ではなく共同体形成)の重要性を、引用の形でグリューンは主張している。これは、新しい中世論とも絡む話である。つまり、資本主義の破綻、それは取りも直さず近代の破綻ということでもあるが、その中では従来型の特定な権威の突出した権威性の存在は崩壊していく、ということなのではないか、と思う。

                   

                  おそらく、クルグマンの経済学的な思想性(もともと経済地理学が専門だったはず、と思っている)から言って、上記の引用文章は現在の行き過ぎた金融資本主義の問題を指摘したものであり、経済学が本来研究の対象にしてきた、社会の富の豊かさと実体経済とのバランスをどう確保するかという基本的な問題に、経済学は立ち返るべきだという主張の一部だとおもわれる。

                   

                  ここで、「議会への政治的影響力を行使しようとするいわゆるロビイストたちの要求」ということばで思い出したが、これについて最も最近問題になったのが、実はヒラリー・クリントン(元国務長官・元民主党大統領候補)であったのだ、本来民主党という政党は、この金融資本との対決的な姿勢がかなり強かったが、そこから政治献金を受けていたことに、民主党員は戸惑い、無党派層は、民主党に、ある面自分たちの理想を託するだけの魅力を感じられなくなり、そして、もともともう若くもないヒラリー・クリントンに希望を持てず、その結果として、この種のものに頼らない政治をするかもしれないと思われたドナルド・トランプ次期大統領予定者に投票したのだろうし、民主党でそのあたりのことに嫌気を指した人々は、アメリカ社会で禁じ手ともいえる、社会主義者とすら自称した、バーニー・サンダース候補に投票しようとし、彼が民主党の大統領候補から落ちたことの失望が渦巻いているのだろうと思う。

                   

                   

                  ヒラリーたんの金融機関からの献金問題に関する報道

                   

                   

                  これは、ピューリたん(ピューリたんが読めるのは、キリスト新聞だけ…ちょっとステマ)

                   

                  その意味で、2016年大統領選挙の結果が、いいか悪いかは別として、額に汗して働く人たちの利益と共感、すなわち「労働によって収入を得ようとするものの利益」をもたらすかのような印象を与えたトランプ大統領予定者の価値観が受けたため、当選したのであり、ヒル・ビリーズとか、レッド・ネッカー(これ、口が裂けてもアメリカ人にいってはいけない語)とか東部インテリ層から馬鹿にされつづけてきた、額に汗して働く人たちの利益と、その人たちが共感できた、トランプ大統領候補のほうが、共和党の重鎮が何を言おうと(そもそも、この人たちは、額に汗する階層ではない)、大統領選の勝者となったのだ。その意味で、今回の選挙はある意味で言うと、選挙が合法的な革命であり、民主主義社会の革命の方法としての選挙であったことを図らずも示しているようにも思う。

                   

                   

                   

                   

                  この本全体の感想とまとめ
                  この本は、ある種の危険性をはらむ書籍ではある。なぜならば、支配に従順であるのをやめ、別の社会システムの構築を目指す、ということは一時的であれ、アノミー状態(無秩序状態)を社会に生み出しかねない側面があるからである。一時的とはいえ、アノミー状態は本来人間集団としての幸福につながるのか、ということも考えねばならない。

                   

                  ところが、先にも述べたように、変革する方法、あるいは合法的革命の手段が、選挙であり、すべての民主的な運営が求められる社会的組織には、宗教法人の運営を含め、この選挙か選挙に変わる方法が存在するはずである。もし、それが存在しないのであれば、その組織からすくなくとも、離脱することはできる。たとえ「悪魔の手に落ちる」と脅されようとも。そのようにして、われわれは自分たちを取り巻く残念な環境や組織の前提に対して、従順ではない生き方を選ぶことは可能である。ただし、それは幸せに必ずしもなれるとはいわないが。茨の道が待っているかもしれないが、従順ではない生き方を選ぶことはできるのである。

                   

                  とはいえ、現在の状態もまともでないことを思い、画一化に向かう現在の社会システムを無批判に受け止めなければならないのか、という問いを、案外われわれは忘れがちなものとして生きているのかもしれない。その意味で、そのことを思い起こさせるという意味で、この本は重要なことをいっているのではないか、と思った。

                   

                  日本とこの本
                  なお、この本は西洋近代という社会という文脈の中で説明された本ではあるが、現代の日本社会においては、明治期以来、「和魂洋才」とかいいながら、理性面では、無批判に西洋近代をモデルとして、そのモデルに従順に従ってきた。その意味で、学術の面では西洋近代思想に無批判なまでの従順さで従ってきた。

                   

                  江戸期には、国学が模索されたこともあるが、基本は、朱子学的な儒教文化のみを受け入れ、革命思想を内在的に持つ陽明学的儒教文化を否定してきた。

                   

                  さらに、明治期の平等意識の中で、四民平等の思想とは言いながらも、モデルにされたのは江戸期の武士一族の生活文化であり、それが、軍隊教育、学校教育が氏族中心に行われる中、朱子学的な秩序思考が現代日本社会の基層文化の中に流入しており、その面で権威性が、西洋社会より強化される傾向にある。その意味で、従順な民族であったのである。いまだに会社員が一人で出張して話を決めてきたらいいものを、大の大人が二人も相手方を訪問し、それでもその場で即決せずに、「社に持ち帰って検討します」というのは、まさしくお武家文化の名残でしかない。会社文化も、基本的にお武家様のお城での論理を会社という、近代法制度に基づく組織内で再現しているに過ぎない。

                   

                  さらに、これらの概念が幅を利かせる日本社会の上に構築された、日本のキリスト教会内では、教会内権威者となってしまった牧師(全員が全員とはいわないし、そうでない牧師や司祭の方を何人もよく存じ上げている)に問答無用で従う「従順な、そして自信のない」信徒がよいとされ(まぁ、それならある牧師にとっての当面は問題は起きない)、信徒の牧師依存、目立つ平信徒の排斥、まさに出る杭は打ってぶっ潰す、とかという病理が一部の教会で生み出されているのではないか、という感想を持った。

                   

                  なに、まぁ、これは牧師側の責任だけではない。信徒側の責任でもある。信徒が責任を引き受けすぎず、信徒が牧師の言うことを丸呑みし、本来するべき「聖書にたち返って、よしんば頭が悪くても神とともに自分の頭で考える」というめんどくさい作業を面倒くさがってやってないから、こういうことがおきるし、何かあると、すぐに牧師になきつくから、こういうことがおきるのではないか、と思う。

                   

                   

                  その意味で、われわれは、神から与えられた神のかけがえのない、自分自身の不完全なかたちでの「神のかたち」とどう付き合っていくのか、また、ほかの神が創造された自己とは違う「神のかたち」とどう付き合っていくのか、そして、自分の中に住んでくださっている自己ではない、という意味での、他者としての「神」とどう付き合っていくのか、ということをまじめに問いかけた本だったなぁ、というのが、本書を読んでのまとめである。なお、本文中には、神という語はほとんど見た記憶はないけれども。

                   

                  以下に、この記事関連のリンクへのとび先を示しておく。

                   

                  グリューンの著書を読んで思ったこと

                   

                  (上記をクリックすると、1から順番にこの本に関するミーちゃんはーチャンの感想文のシリーズが読める)

                   

                  あと、関連ではこの投稿 ピューリタン雑考 なども、関連していると思う。

                   

                   

                  以上で本連載シリーズは終了。

                   

                   

                   

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                  コメント:おすすめしております。

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                  コメント:いろんな単発の話があって、面白かったです。

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                  コメント:めっちゃ面白い

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