2016.06.06 Monday

2016年夏号のMinistryを読んだ(1)

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    今回からしばらくブログ記事は、最近読んだ雑誌特集をしてみたい。

    まず、最初に紹介したいのは、Ministryである。今回も、実に力作という感じがする。最初に、今号の特集記事であるリーダーシップに関して考えてみたい。

    教会のリーダーシップ論の背景
    日本社会の中でもサーヴァントリーダーシップとか、リーダーシップとか言われて久しい。まず、それは営利企業の中で経営をどう考えるのか、その中で企業の指導的役割(社長とか、代表役員とか、社外役員とかの役割は何か?どのようなものであるべきなのか)という議論が始まった。企業が組織体として、効率的に機能するためには、そしてその後効果的に機能するためには、企業の運営の代表権を持つものがどのような役割を果たすのか、というような議論が始まり、米国の経営学分野で議論が始まったのは、概ね1950年代であったと思われる。



    世俗の学の中でのリーダーシップ論
    今回のミニストリーでは経営学関係やシステム理論関連の雑誌ではないこともあり、十分に触れられてはいなかったが、この間に組織形態が企業体の中で問題になったのは、米国において1970年代から、日本においては1980年代からで、それまでの比較的安定的な組織の環境から、ベトナム戦争、多国籍企業の登場、企業内での多言語への対応、多文化的背景を持つ人々の存在、多元的価値観の併存など、社会環境の変化を受けて、多様に変化していく中で、どのようなリーダーシップが必要となるのか、ということが議論の中心的な課題となってくる中で、いわゆるMBAとも呼ばれる経営専門大学院や、将来の幹部候補生教育の中で企業という組織体における従来とは異なる環境への対応の必要が明らかになってきたからであろう。さらに、有人月面着陸などに代表されるNASAの宇宙開発を可能にしたアポロ計画などでも大きな貢献を果たした1950年代以降のOR(オペレーションズ・リサーチ)では、数量化できる側面、係数ができる側面に着目し、それについての数量化モデルを構築することで効率化が邁進され、計量的な側面での効率化も進められてきた後、企業体の中での数量化になじまないものをどのように扱うのかが問われ始め、宇宙開発計画の一環として生み出された一般化システム理論などが言われ始めたのが1970年代以降であり、組織体をシステムとして、あるいは要素と入力と出力の束としてどのように見るのかが問われたのが、米国では1970年代以降であり、わが国では1980年代以降であるように思われる。

    そもそも、組織において官僚制という発想が生まれたのは、第1次世界大戦前後の情報通信技術の存在を前提として、本部からの命令により、末端まで作戦計画としての情報が伝達され、それをもとに全部隊が調整をとりながら一気に動くタイプの大平原での会戦、ないし、大海での海戦に向く会戦型の戦闘行動には有利であったし、この発想は第2次世界大戦まで続いていった。しかし、第2次世界大戦中、この種の大平原での全部隊投入するような会戦型(典型的には、バルジ大作戦やクェートから撤退するイラク軍掃討戦など)の大会戦型の戦闘行動から、フィリピン戦、沖縄戦や伊藤島作戦の様なゲリラ型の戦闘が開始され、とりわけ、ベトナム戦争で、大舞台の陸海空統合本部を設置し、武器の大量投入を行うような旧来の作戦計画が、ゲリラ戦の前にほぼ無力であり、挙句の果てにベトナムから近代戦闘兵器を大量投入した米国が事実上敗北し、撤退しなければならない状況に直面し、従来型の組織構成、本部が計画・命令し、末端の部隊がそれに従うというようなリーダーシップの在り方が疑問視されるようになってきた。

    企業の組織論やシステム理論研究においては、サイバネティクスや組織サイバネティクスという概念が主張され、従来の中央集権的な組織論に変わる組織概念が主張されてきた。

    西側ではこのような問題が生まれたし、それと同時にロシアや中国を中心とする共産主義国では、中央集権型の組織構成を置き、共産党一党独裁、党エリートによる主導のもとで、理想的に動くと思われた共産主義国家のあちこちに破たんが生まれ、非常に大きな非効率が生まれることとなり、どのような指導の在り方、どのような組織運営の在り方が望ましいのか、ということの再検討が迫れるようになってきた。それが、リーダーシップ論であったといってもよいように思う。

    ここまでは余談

    さて、Ministry全体の今号のテーマは、世界と教会内の変化に教会がどう向かい合っていくのか?という問題意識と要約できるような気がする。

    特別座談会の内容から
    まず、特別座談会の内容から採りあげてみたい。 まず、越川さんが、今回の座談会のキッカケついて次のように言っている。
    教会の中で特に大切にしなければならないものとして、二つのリーダーシップの要素があると思います。一つはキリスト教会の基本姿勢でもある「サーバント・リーダーシップ」。牧師のリーダーシップというとき、まずイエス・キリストに倣う「仕える者」であることです。もう一つは「チーム・リーダーシップ」。リーダーシップを牧師だけが担うのではなく、人々と共有・分担するものととらえ、そうしたリーダーたちのチームを育成することの重要性です。(「特別座談会 教会のリーダーシップとは何か?」『Ministry Vol.29』p.6)
     ここに、従来型の産業社会、とりわけ国家とか、企業とか、非営利団体の運営が、従来の中央主導型組織の運営形態、中央集権的な組織の運営形態、すなわち、センターが指示し、末端がその指示通り動くという組織構造での運用形式では、社会の組織も機能しなくなったがために(恐らく、このような変化をしていった理由は社会に関する多くの人々とその価値感が、キリスト者を含め変化していったのではないかと思う。もう少しいえば、サービスされる対象としての関係者、ステークホールダーの持つ課題が多様化し、従来の大量生産大量消費型社会での行動では、効果的でない側面が出てきた結果)従来の組織運営からの変容を組織が存続するために変容させていったのではないか、と思う。また、それらの組織行動において、従来中央主権型組織で採用されてきた個別の具体的な実施可能な項目に分解した上で、その細分化され、行為レベルにまで落とされた目標を実施していくため、担当部局や担当者を対応付け、個別の要素や担当領域ごとに分割して対応する様な組織分割型の運用方式では、組織機能が硬直化し、効率的かつ効果的にそして柔軟な対応が十分果たせなくなりかねない状態が生まれたと考えている。

     それへの対応として、 「サーバント・リーダーシップ」や「チーム・リーダーシップ」 という概念が生まれ、それを組織面や情報論で支える概念として、ネットワーク組織論や企業社会の内部構造を変えている現実を表現するために、ビジネス・プロセス・リアンジニアリングが生まれたような気がする。ある面、企業社会は現実社会と遊離すると、企業経営が立ち行かなくなるので、これらの組織を効率的というよりは有効に、あるいは効果的に機能させることがより切実に求められるためか、これらのリーダーシップ論や組織構成の変更が行われたのではないか、と思う。

    教会のビジョンをどうするのか?
     教会のビジョンということに関して、非常に面白いことが書いてあった。
    牧師としてはその教会のビジョンを見せてほしい、でもその教会にはそのビジョンがない。逆に牧師がビジョンを見せると、それは違うと言われるだけ。(同誌 p.7)
    牧師は、教会員と教会にビジョンを求めるが、そこからは返ってこない。逆に牧師がビジョンの例を示すと、代案は出てこず、○罰で答えが返ってくるだけ、という実に不毛な光景が広がっている様だ。つまり、これは、どこにも行きたくないという境界の姿を示しているように思われる。今のままでいい、変わりたくない、変わる必要はない、教会は真理を持っているので、何故変わる必要があるのか、と主張する教会の声が聞こえる様だ。

    相手が変わっているのに、相手が変わっていないように思いこみ、従来の方法を押し通そうとする、その結果としての不幸が教会とその周辺の間に生まれているような気がする。かみ合ってなくて、社会の中で、空転している教会の姿を見ているような気がする。

     この部分を読みながら、現実と教会から見た現実の間の認知的不協和を起こしているのではないかと思われる。つまり、教会側から見る世界は固定的であり、1960年代か1970年代で止まっているように思う。しかし、現実の側は、2016年に到達し、2017年に向かっているような感じであるにもかかわらず、なのだ。

     高度経済成長期までを支配した世界観は、個が成立しない世界観であり、その世界観が支配的であった日本社会であったように思う。この時代は、均質な無名の個として個人が捉えられた社会から、非同質的な個人としての個へと動いているのである。ある面、個人特定的な関心にこたえる社会へと動いているのだ。1960年代、トヨタの車の代表選手であるカローラを考えよう。あの時代、カローラは、同一ブランド名の種類の中で、最大2種類ぐらいしかなかった。しかし、2016年代のカローラは、一応区分されているものだけで、数十種類、オプションもいれて分類すると、数万種類から10万種類にもなるという。それだけ、個人の希望に合わせて、カスタマイズという形をとりながら、非同質的な多品種を称揚生産する形で提供して、対応しようとしているのではないか、と思う。


    1966年型カローラ


    2016年北米仕様型カローラ

     そして、このような大量生産、大量消費時代には、集団主義が非常に適合的で、都合よかったのである。その意味で、この大量生産大量消費時代に適合したのが、リバイバル大会の影響を受けた大衆動員型伝道であり、そして、十分成功したとはいえないけれども、一定の成果をあげたのである。

     しかし、現代では、豊かさが一定程度社会にいきわたった社会では、社会の中の関心領域によって、社会の中の小さなグループが形成され、そして、自己組織化し、分衆化し始める社会がすでに生まれているのだ。しかし、どう見ても、現実の分衆化し、個別化されていっている社会の中で、その社会とその中にいる人々の中で、相変わらず大量生産、大量消費時代の方法論で対応している様な気がしてならない。

    教会内の社会モデルは教室モデル…それって
    結局、日本の教会は、対話型、水平型のモデルというよりは、伝達型、垂直型のモデルになっている様だ。今日公開した記事で、Susan Philipsさんが指摘していたが、少なくとも聖餐は水平型なのだけれども、どうも聖餐でも日本では垂直型が志向されるようである。ある面、日本社会の中にあるがゆえに、そのような構造が持ち込まれ、一種の属人支配というか、徳治政治的な構造が持ち込まれているのかもしれない。しかし、それに対して、次のようなコメントがなされていた。つまり、年長者が持つ徳、人徳によってなんとなく上からの恩恵としての社会調整が行われているということであり、日本においては近代的な子が確立していない以上、無理なのかもしれない。
    私たち日本人の中に、健全な意味での”牧師=リーダー”という認識が共有されれいないからだと思う。独裁的なリーダーシップを問る牧師もいれば、牧師は教師であってリーダーとしては関わらないという人もいる。なぜそうなるのか、それは共同体という意識が低いからじゃないかなぁ。英語では教会を”コミュニティ”と呼びます。日本の教会では、牧師と信徒は師弟関係であったり、…(同誌 p.7)
    このあたりの事に関して、ユルゲン・ハーバーマスという哲学者が、公共圏とその中での対話の議論として語っている。この分野でキリスト教で考えたことを我が国において公開されているのが、多分、後の講演会で出てきた稲垣さんという方である。また、教会の公共圏としての部分に関しては、アリスター・マクグラスも少し議論している本が出てくる。

    そのあたりの事を考えると、日本の教会は、英語におけるコミュニティとしての水平的な共同体ではなく、日本型と口政治として野村モデルの垂直性が重視された日本型コミュニティを形成して居るのかもしれない。ただ、アメリカの小学校の教室では、教室の中ですらこの水平型コミュニティが実践されている。

    在米時に娘が通っていた小学校の教室で、教師が意見があるといって手を上げた生徒に向かって"Yes Sir"と呼びかけるのを聞いた。その瞬間「え???」と思った。そして、授業が終了した後、国語科がご専門のその小学校教諭の方になんで、先ほど "Yes Sir" といったのか?Sirというのは、身分差を示す言葉ではないのか、と聞いたら、ニコニコ笑いながら、「あぁ、それは身分差や尊敬を表すというよりは、自分にとっての彼との間の心理的距離の遠さ、関係の薄さを反映したからなのだ」、どうもこの少年がいつもつまらんことを言いたがるので、個人として、人格としてその少年の発言にかかわっていられないので、Sirと呼んだのだ、ということをおっしゃっておられた。なるほどなぁ、と思ったのである。それほどまでに米国では組織や社会における水平性が透徹しているのだと思った。今なお階級社会である英国では、恐らく少し違うかもしれないが。

    多様なキリスト教の伝統とリーダーシップ
     教会の形成の歴史や教会の教理の背景が違うので、一概に、これをやればうまく行くと言ったような万能薬的な扱いはまずいと思うが、近代という時代には、いろいろなものの同質性が暗黙の仮定として当然のものとされたため、ある所でうまく行った事例が他のところにも、その方法論が生まれた文脈から切り離されて、膨大な失敗の事例が積み重ねられてきたし、他所での成功例をそのまま無批判に持ち込んで失敗し、荒稼ぎするコンサルタントたちもいなかったわけではないし、また、地方の議員さんとか首長さんとかには、他所の成功事例と思われているところをとりあえずは訪問する人々も少なくない。テレビとか新聞で報道されると、その報道されたところは、視察団がひっきりなしに訪れて、日常の通常業務ができなくなるという罰ゲームが起きるらしい。まぁ、世の中には、美術館しか視察にいってないどこぞの首長さんもいるらしいが、そういう方は、きっと視察公害の負担軽減にご貢献なのだと思うし、それは立派なことだと思う。
    やはり教派の違いや教会の伝統を踏まえずに教会のリーダーシップを語るのは危ういと思います。 (同誌 p.7)
    先にも触れたように、現代の分衆化した多様なグループが乱立している社会の中で、さらに、組織の同質性、個人の同質性が保証されていない環境で、さらに多様な教会における個別教会が形成されてきた文脈ガン無視(教会の場合は、 教派の違いや教会の伝統 )で一概に言えそうな、一般的な議論を持ち込まない方がいい。そんなことをするよりは、自分たちの特徴や特性、歴史的経緯、教会員の教会理解、教会の周辺地域の特性、現在の教会内にある人的資源と能力を総合的に勘案し、適切な対応を考える方が、よほど適切なリーダーシップではないか、と思う。

    変化を怖れる教会・・・What?
    教会は変化を嫌う、ならば、わかる。実際にそう言う変化を起こすような(波風を起こすような)異なった考え方、他者性を持った考え方とそれを持つ人は排除されるし、また、排除してきて、自分たちの理解を変えず、自分たちが昔からなじんたものを大事にしておられる教会もある。たとえ、外部から18世紀の服を着て、21世紀の東京を闊歩するようなものであっても。それはそれでいいとは思うが。ただ、帰られるものと変えられないものを峻別することは大事ではないか、と思う。昔と同じような人しか受け入れないという方針を堅持するのであるとすれば、その結果、誰をも向け入れられないという残念な結果も同時に受け入れないといけないとは思う。若者には来てほしいが、自分たちの規則に合わせないと来るな、というのであれば、教会は次第に空席が目立つようになるだろうし、それでも、その方針を堅持したいというのであれば、それはその教会の見識であり、それでやられたらよいと思う詩、それに共感する若者もおられることであろう。
    あぁ、そういえば、東京に行くと、18世紀風の服を着て、21世紀の東京を闊歩しておられるお嬢さん方に時々であうことがある。最近は、関西でもそういう方をお見かけするようなった。この方がたは、メイドさんと呼ばれていて、メイド喫茶でおはたらきの方らしい。


    なんか秋葉原には、メイドさんという職業のお姉さん方が冥土喫茶(メイド喫茶)にはいるらしい。
    ただ実際には、教会は変化を怖れやすいものです。ともすると、教会を維持するのが教会の目的になり、イエスキリストに従いながら前に進むことを置き去りにしながら教会を作ってしまう。(同誌 p.8)
    教会を維持することが教会の目的になるというのはわかるが、しかし、変化を怖れていて前に進むことを置き去りにしながら教会にこもることは、「怖れるな」と言い給いしイエスキリストに本当に従うことになっているのだろうか。教会を維持するのが教会の目的になったら、それはもう教会といっていいのかどうかかなり疑問だと思う。

    自分の正義を振り回し教会を傷つけかねない牧師
     正義を振り回すので、有名な方は、皆様ご存じ吉宗評判記「暴れん坊将軍」様である。この方は、海岸ペタを白馬を走らせながら、カラオケ歌うの大好きなお方である。しかし、教会の中で「オレは貧乏旗本の三男坊、め組に居候している田新之助だ」といってあっちこっちの婦人会だの青年会だのに出没したところで、牧師は顔が知られているので、お忍びなんかできるはずがない。そこで、正義の扇子を振り回すのはご本人の勝手であるが、あんまり変な振り回し方されたら、かなわない。


    ご存じ暴れん坊将軍
     
    みんなが憐れみの心を大切にしながら一つのチームを作る。牧師がリーダーとして失敗しても、失敗を認めず自分の正義を振り回して教会を傷つけるくらいなら、そこから立ち去り、新しいリーダーにゆだねる方がずっといいでしょう。 (同誌 p.8)
    しかし、ここで、「失敗を認めず自分の正義を振り回して教会を傷つけるくらいなら」というような表現があるくらいだから、失敗を認めず、ご自分の正義を振り回して教会を傷つけた牧師の方は過去におられたのではないか、と思う。

     牧師が、お近くの国の将軍様のようになったら、本当にかなわないと思う。教会は牧師のものでもなければ、信徒のものでもないのではないか、と思う。それを、人間に過ぎない牧師が独裁政権の様な行動パターンをとるとしたら、それはカルト化への第一歩なのかもしれない、と思う。そうなると、実に残念な結果が待っているのではないか、と思うなぁ。

    まだまだ、今回の号からのご紹介を引き続き行っていく予定である。







     
    評価:
    田中 明彦
    日本経済新聞社
    ---
    (2003-04)
    コメント:よいです。社会システムの変化をまとめています。

    2016.06.08 Wednesday

    2016年夏号のMinistryを読んだ(2)

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      前回に引き続き、しばらくブログ記事は、最近読んだ雑誌特集をしてみたい。


      本日は非暴力コミュニケーションに見るリーダーシップとは、と題された久保木さんのお書きになられたものと、これまで楽しみにしてきた中道さんの礼拝「ことば」 学 ゼミナール「礼拝を司る言葉」からご紹介したい。


      久保木さんのお書きになられたものから
      久保木さんは、非暴力コミュニケーションのセミナーに行ったときの体験記からお書きである。非暴力的なコミュニケーションを考えようとする人たちが何を考え、どう行動しているのか、ということを考えるために開催されたセミナーへの参加記である。一応、非キリスト教的なセミナーではあったようだが、久保木さんの記録を通して、改めて考えたことを少し書いてみたい。

      現代社会には、様々なコミュニケーションがある。言語によるコミュニケーション、武力によるコミュニケーション、金銭によるコミュニケーション・・・・と数え上げたらきりがない種類のコミュニケーションが日常的に、複合的に行われているものの、かといって適切なコミュニケーションが成立しているとは限らない。つまり、相手に相互の意思がきちんと通じているとは限らないのだ。しかし、ややこしいのは、相手が自分の意思を受け取っているのは当然だ、と思う人が世の中多すぎることである。

      下記の動画は、映画Thirteen Daysというキューバ危機を題材にとった映画であるが、この映画は、コミュニケーションが裏テーマであり、どのように相手とコミュニケーションを取ろうとし、言葉の奥底にある相手の真意を探るかの、非常に冷徹なコミュニケーション・ゲームが隠しテーマとなっている映画である。まるで、聖書解釈のように様々な解釈を相手の行動の端々から読み取ろうとする努力、あるいは、真実とやや違った情報を流すことでコミュニケーションが行われ、まぁ、結果としてキューバ危機が回避されるということが隠しテーマとなっている映画ではあった。


      映画 13daysのワンシーンから、マクナマラ国務長官が海軍総督に向かって、これはソ連との誰も聞いたことがないコミュニケーションをしているのだ というシーン

      裁きの背景にあるもの
      さばいてはならない、判断してはならないということは、神ならぬものが神のかたちである人と全人格として他者と向かい合うということと深い関係にあると思う。Aさんの好きな部分だけは欲しいけれども、Aさんの嫌いな部分だけは欲しくない、ということはできないのである。しかし、他者に不満がある時、自分に不都合なことや、不具合があると他人の悪いところを必要以上により大きく見て、批判する(悪意を持って他者を裁く)ことを我々はしがちではないだろうか。我々はある現象の一部、表面的なものとその一部だけしか見ていないにもかかわらず、他者の自分の意にそぐわないことを見て、安易に批判してしまう(他者を裁いてしまう)のである。。そのあたりの事に関して、久保木さんはセミナーで次のことを学んだという。
       ホルヘさんの一連のワークショップのテーマにも取り上げられた「相手へのジャッジメント(判断・評価)は嘆かれていない痛み」というフレーズです。主イエスのことばに「裁くな」とありますが、私たちはついつい相手を裁いて(ジャッジして)しまいがちです。(中略)主イエスも嘆き、パウロも嘆きました。嘆きから希望に至るのです。希望に至るなら裁く必要はありません。それに対し、私は現実生活では嘆くことを省き、裁き、失望しているのです。そして裁くことで相手との関係を悪化させ、かつ自分自身も苦々しい思いをし続けていることにも気づかされました。(p.15)
      ここで、相手が口にする言葉、批判的な言葉、批判的評価が混じった言葉は、その人の内心の知られることのない痛みの反映、ということを思うと、「あぁ、それはあるあるかもなぁ」と思う。そして、自分自身を冷静に振り返ることがないと、そして、それをめんどくさがっていると、結局相手が悪いという議論に簡単にしてしまって、自らを省みる時間や反省もなく、相手への判断や批判で終わってしまう。そして、それに安心してしまう部分があるのではないか、と思った。

      こないだのスーザン・フィリップスの安息日に関する講演会

      2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(1)

      2016年6月4日の関西牧会塾の参加記録(2)

      でも、立ち止まって自分自身の内部にある悲しみと痛みを見ることの大切さが示されていたように思う。

      コミュニケーションの目的
      先に紹介したキューバ危機を題材とした"Thirteen Days"でも表れていたが、コミュニケーションとは何のためにするのだろうか。

      コミュニケーションは互いに現状より、よりよい均衡状態に達するのではないだろうか。そうでなければ、一時的にしかコミュニケーションの成果は続かないのではないか、と思う。しかしながら、一方の側のみに都合の良い状態を生み出すためだけのコミュニケーションがあり、あるコミュニケーションの結果一方の側に飲み有利な条件となるような状況が成立したとしても、その状態は長続きしないのではないだろうか。その意味で、相互にとってよりよい状態に到達するために行われるのがコミュニケーションだと思う。
      "考え"を聞かないないとすると、相手から何を受け取ればよいのでしょうか。実は、これがNVCの中心的な考え方でもあるのですが、相手の(あるいは自分の)気持ちと「必要(大切にしていること、ニーズ)」に焦点を当てて聞いてみよう、ということなのです。(p.15)
      この表現を見ながら、ミーちゃんはーちゃんは、ヴェネツィアのレパント海戦を描いた塩野七生さんの書かれたどの書物であったかは忘れたが、ベネツィアの商館長が言った趣旨を思いだした。「戦争を回避する外交とはガラスのボールをお互い投げ合うことと似ている」(その心は、相手が受け損なうような投げ方をしてもいけないし、あまり強く投げすぎてもいけない。相手の動きを見ながら、また相手の必要を見ながらどのボールをどのように投げるかを考えながら投げる必要がある)。

      コミュニケーションとは、本来そういうものではあるはずであるが、何を勘違いしてか、一方的に一方の側のみが有利にするために、コミュニケーションをしながらも、何らかの力(物理的な力、暴力、権威など)で他人をねじ伏せようという人々も出てくる。それを、ハーバーマスはSystematic Distorted Communication(システム的に歪められたコミュニケーション)と呼んでいて、本来のその人の意思が反映できないようなコミュニケーションが起きていて、社会というか社会における公共圏を良好に保てない環境ができていることを指摘している。

      実にコミュニケーションとは難しい。

      敵対関係と協力関係
      先にも述べたように、Systematic Distorted Communication (システム的に歪められたコミュニケーション) が起きるのは、水平的な議論の環境ではない。そこに何らかの力を背景とする参加者が、自己に一方的な有利な条件でコミュニケーションを行う場面で起きる。その何らかの力とは、経済力かもしれないし、軍事力かもしれないし、名誉とか、その他の価値かもしれない。それで、容易に良好なコミュニケーションは崩壊するのだ。

      では、どうすればよいのだろうか、ということに関して、久保木さんは次のようなことを学んだという。
      「つながってしまうと、解決はほぼおまけのように起こる」も印象的な言葉でした。前述の本( 引用者註  NVC 人と人の関係にいのちを吹き込む法(日本経済新聞社))のあとがきに、NVCの目的の一つとして「互いの中に人間性を見出し、『敵というイメージ』を持たない関係性の質をつくること」が紹介されいます。(p.15)

      キリスト教用語を援用して言えば、他者(相手)の中に、本来同じ被造物としての神のかたちを見出すのではなく、「悪意」や「敵意」を作りあげ、敵というイメージを持ってしまうことによるのかもしれない。そして、それがコミュニケーションを困難にするのではないだろうか。

      他者は自己とは同一であり得ない。だからこそコミュニケーションが必要なのだ、と思う。自己と他者の違いはどのような形であれ、少なくとも何らかの違いがある。なぜならば、神がそのように造り給うたからだと思う。しかし、その神が喜んで与え給うたその違いを享受することなく、他者との違いを喜ぶことなく、自分とは違うから、自分とは別だから、と否定し、享受できなくしているのが人間の姿かもしれない。他者のことを否定しまくり、何かつまらない違いを見つけ、あなたの目の中にあるチリをとりのけさせてください、と相手に上からおっかぶろうとする人が少なくないプロテスタントの福音派の片隅に居るミーちゃんはーちゃんが言うのは可笑しな話ではあるが、聖書を読みながら聖書を読んでいないなぁ、と感じて、がっかりすることも少なくない。もうちょっと、神が創造された人格を持つ神のかたちとして、他者と向き合えばいいのに、と思う。しかし、そういうことを言うと、すぐに「エキュメニカルだ、なんだ」とか言ってすぐまた否定されにかかってしまう。実に残念なことである。

      講師が助けを求める講演会
      その講演会での特徴として、次のようなことを久保木さんは書いて居られた。
      するとそれ(引用者註 多くの参加者の講義の理解が不十分であったこと)を受け止めたホルヘさんは涙を流し、嘆き始めたのです。体調不良で教えられなかった時間もあるので、その分を補おうとして急いでしまったこと。そして、昨晩の自分の講義に対し、裁こうとしている自分がいることも正直に語りました。また、今の自分が共感を必要としていると認め、会場に居るNVC経験者に教官の言葉をかけてくれるように頼み、やり取りが行われました。講師が会場の聴衆に助けを求める、そんなことがあるのでしょうか?しかし、そこから会場の雰囲気が激変しました。(p.16)
      うーん、自分自身でもこういう授業をやってみたいなぁ、と思うけど、ちょっと無理ではないか、と思う。とは言いながら、最近は昔みたいにがっつり講義ノートを準備して、それに基づいてしゃべることはやめていて、意図的にややカジュアルなスタイルの授業、対話型の授業をしているので、教室の皆さんの助けを求めるという形にまぁ、ちょっとは近いかもしれない。

      確かに、こういう対話型の授業をやってみて、最近思うのは、従来型の授業は、講義ノートに従って淡々としゃべればいいという意味で楽であるのに対し、対話型の授業では対話能力ということと、他者性を受け入れる能力が要求されるなぁ、ということである。教会でこういう対話型の説教みたいなことはやってみたいなぁ、と思うが最近説教をするような機会はほとんどないし、教会ではこういう対話型の説教形式は日本の明治以来の教室モデルを維持している教会が多いので、案外、受け入れにくいかもしれない、とは思っている。

      しっかりと嘆くこと、自分と向き合うこと 
      自分自身を丁寧に見つめるということを、そして、しっかりと嘆き、理論武装を解く、ということの重要性を 久保木さんは おっしゃている様だ。以下のような記述が目に留まった。
      しっかりと嘆いて、理論武装を解き、相手を支配するつもりでないのなら、自分の感情を表し、その感情から自分の根源的なニーズに気づくことが大切であることを思い知らされました。(p.17)
      いろいろ学生とか学会などで他の方々と対応して思うのは、ある人にある場で対話するときに臨む際に、かなり理論武装して議論に臨む方が多い。そういう方は、ちょっとどこかで自分自身に対する自信がない方が多いように思う。自分自身が攻撃されたくないからか、いろんな他者の理論を借りてきて、それこそ鉄壁の防御態勢の上に、さらに、防備を完全にするか、最初から重火器で攻撃するような熾烈な攻撃を挑むかの様な態度で臨んでこられることが多い。そして、むちゃくちゃな論理でも、相手の戦意を喪失させるというか、相手をまずぼこぼこにして従わせてしまうことが多いのかもなぁ、と思う。それでも相手がひるまない時には、相手がその権威性を認めているかどうかは別として、突然だれかの権威性を借り出してきて、この権威に従わないのか、それを無視するのか、とか訳がわからんことをおっしゃることもある。実にかなわないことである。

      自分自身を見つめ、自分自身の弱さ、不足を見つめていれば、そして、その不足を知っていれば、それが他者に明らかにされることについての怖れがなければ、別に何ともないのだと思うが、多くの人には、人前でよい格好したい、優れた人物と思われたい、とか言う色気があり、そうしようと思うからこそ、理論武装して何とかごまかそうということになるのではないか、と思うのだ。でも、それは、傍目に見ると、実に格好が悪いことが多い。

      こういうことを書きながら、この方のことを思っていた。もっと素になっていたら、きっと違う楽な生き方ができたかもしれないと。



      立派でなければならないリーダーのつらさ でも何のため?
       リーダーとフォロワーの関係というのは、案外難しい。リーダーは理論武装や肩書とか自分を防御するものや、社会的立場を捨てたいと思っていても、フォロワーがそれを赦さないし認めない部分がある。というのは、フォロワーの中にリーダーが存在し、それにつき従っていることで、そのフォロワーが何らかの利益を得る部分がある人々がいるのだ。コバンザメのような生き方をすることで利益を得ている人たちである。このようなコバンザメ型の生き方をしている人に取って、リーダーがその立場や武装を解除してしまうと、フォロワーさんがリーダーに従っているときに、存在するだろうと思っていたフリンジ・ベネフィット(リーダーのフォロワーをしていることで副次的にフォロワーさんに発生する利益というか濡れ手に粟状態で入ってきて、得すること)がなくなってしまうし、そうなると困るので、リーダーをやめさせないように、してしまう部分がないわけではないと思う。例えば、有名な政治家のコバンザメをしているような人などは、まさにそうである。
       
      リーダーはフォロワーと心が真実につながっているのかも問われます。肩書や立場、理論、知識などで自分を防備するのではなく、弱く傷つきやすい自分を差し出し、真実なつながりが育まれているか。NVCは今日の教会でのリーダーシップに多くのヒントを提示しているように思わされました。
      しかし、この部分を読みながら、イエスは、十字架の上で、弱く傷つきやすいご自身の姿をさらして、そして、支えられる立場をとられたのだなぁ、そして、それを信じるものが支えるスペースを作ってくださったのかなぁ、と改めて思った。その意味で、ナウエンの著書のWounded Healer(『傷ついた癒し人』)や『イエスの御名で ─ 聖書的リーダーシップを求めて─』などとも深い関係があるのかなぁ、と拝読しながら、思いを巡らしていた。

      まぁ、パウロも次のように、言っているし。
      【口語訳聖書】
      コリント人への手紙 第2
       12:5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
       12:6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
      (中略)
       12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
       12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。


      中道さんの連載(今回が最終回)から
      いや、今回の中道さんの連載も、めちゃ面白い。これは、どこの教団でも、どこの教会でも起こりうる、その教会独自の、こうであらなければならない、という思い込み、あるいは、伝統というよりは、慣習、観衆が行き過ぎて文化になって、ある形やある言葉の表現に凝り固まっているのではないか、ということを実に鮮やかにご指摘であった。そして、それについて、どう考えることができるのか、何を考えたらよいのか、ということについてのご指摘がなされていたからなのだなぁ。


      マニュアルに支配される教会?
       その教会独特の様式を守ろうとする教会もおありになる。そして、その様式のみをかたくなに守ろうとする一種の教条主義というのか頭の固さが生み出す、一種の悲喜劇をいくつか紹介されていたがその中で最も秀逸だったのが次のエピソードである。
      礼拝出席十数名の礼拝で、いつものメンバーであることが一目でわかるにもかかわらず、恐らくマニュアルに「新来会者がいないかどうかを確かめる」とあったがために、「新しく来られている方はいないでしょうか」と尋ねるという奇妙な場面に出あったこともありました。これもマニュアルに縛りつけられた結果ではないでしょうか。(p.29)
      こういうのは、実はあるあるではないか、と思う。誰それ先生が、こういったから、もうなくなったこの教会を開拓伝道でお建てになったアメリカ人の伝道師の方がこうおっしゃっていたのでこうでなければならない、とか、こういう議論が結構教会には多いと思う。こういう事例について、工藤信夫さんなんかとお話していると、「あぁ、その教会にはまるで亡霊が住んでいる様ですねぇ」とニコニコしながら、話している。大体、「こうしたら」と過去にいった誰それ先生や、その教会を開拓したアメリカ人宣教師は軽い気持ちで、まぁ、「こんな感じでどうかなぁ」といったかもしれないことに、後付けで聖書根拠を聖書から切り貼りして、聖書のことばでガチガチに理論して、鉄壁の防御システムを構築しているのではないか、と思うことも時にある。ちょっと残念だなぁ、と思う。

      何でそうなるの?
       なぜ、そんな風にマニュアルに縛られるかに関して、礼拝というプログラムを取り上げながら、中道さんは次のように言っておられる。多分それは、我々が礼拝で何故しているのか考えずに、惰性でとは言わないまでも、ある形に従い、盲目的にしている部分があるのではないか、あるいは、何故、礼拝ということをこのようにするのか、という意識もなくなしているのではないだろうか。そして、お客さん意識である教会で生まれた様式で実施していて、いつもと違うと、あるいは少し変えようとすると、文句の一つも言いたくなるような精神性があるからではないか、と思うのだ。
       
      あまりに余分な言葉は語られず、オルガンの演奏で礼拝が導かれて行く教会もあります。礼拝の中に流れが生まれると招詞によって招かれ、祝祷によって派遣される礼拝を一つの出来事として経験することができます。
      どの形式が正しいとか、礼拝のことばをシンプルにする方がいいという問題ではなく、礼拝者が一体自分たちは何をしているのかという理解と、その礼拝に積極的に参与しているという自覚と姿勢が必要です。(p.29)
      礼拝の意味を考えるとき、礼拝が違って感じるとき、そこに神の語り欠け、他者性を通して神が語りかけられる部分があるのではないか、と思うのだ。それを単に「自分たちがなれている礼拝と違う」「自分たちと方法が違う」と直面した時、他者の聖書理解や礼拝理解に耳を傾けることなく、すぐ勝手に、異なった火をささげた、といって批判したりするのである。
      【口語訳聖書】レビ記
       10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
       10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
      大体、異なった火をささげているのであれば、祭壇からジェットエンジンのアフター・バーナーのような火が出るはずなのであり、それが出ていない以上、神の容認の手の内にあると考えた方がいいのかもしれない。

       その意味で、自分たちがなしていることを習慣としてではなく習慣であっても、その意味に深く思いを巡らせながら、丁寧に礼拝に参加していくことは大事なのではないか、と思ったのである。


      海軍戦闘機のアフターバーナー(こんなんが講壇から出たら怖いなぁ)

      印刷された聖書の文字に縛られている教会
       今年の3月ある教会で説教奉仕をさせてもらった。その時に、その日読みたい聖書箇所を旧約聖書から、新約聖書から上げて、これでやるからお願いできますか、とお願したら、聖書箇所は一つにしてください、とお願されてしまった。アングリカンコミュニオンで、いつも参加しているところでは、旧約聖書、新約聖書から引用があるので、気軽に、結構な分量の引用箇所を引用してしまったのだ。

      なぜ、聖書箇所は一つなのか、という理由を聞くと、目の不自由な信徒さんがおられるので、聖書を開けるのが一苦労の方がおられるし、そもそも聖書は声に出して読むものだと理解している、ということをお聞きしたので、まぁ、若干ゆっくり、繰り返して読むから、お知らせしたなん箇所かの部分の聖書を読むのは、申し訳ないけれどもお願い、ということで折り合いを付けてもらったのだが。

      どうも日本では、信者でありながら、聖書を持っていかない、聖書がぱっと開けないことがある、というと、時々、あれ、という顔をされる方が教会にはおられる。また、分厚い聖書を持っていく代わりに、持っていくのがパソコンだったり、スマートフォンで対応していることが個人的には多いのだが、そういうことにも変な顔される人が時におられる。パソコンとかスマートフォンだと、Webベースのインターリニア―で、現代語訳と聖書テキストの底本となったギリシア語やヘブライ語との対比がすぐにできるので、楽でいいのだが。まぁ、しかしそういうものを聖書の代わりに持ち込むと、あんまりいい顔されないのは、聖書を読んでいるのか、別のことをしているのか区別が付かないからかもしれない。

      余談に行ったが、日本の教会には、読まれた聖書を丁寧に聞くという習慣がないのは確かだ。アメリカでも、似たようなものだった。近代の学校教育が住んでから、誰でもが聖書に触れるような文化が普及した結果、帰って教会で聖書を丁寧に聞きながら思いを巡らせるという文化が消失したかもしれないと思うと、ちょっと残念な気がする。
      日本語のように同音異義語が多い言語では、やはり字を、特に漢字を見た方が意味を正確に理解できます。(中略)それで、日本の教会では聖書が読まれる時には、会衆は必ず聖書を開きます。それゆえ、聖書朗読の際には頁数とか聖書のどのあたりであるということを言う必要が出てきます。ところが、ドイツの礼拝では、聖書を開く人はいません。礼拝には自分の聖書を持ってこなければならない問うような信仰もありません。教会で聖書を借りるわけでもありません。聖書(み言葉)は「聴く」ものであるという意識が強いのです。
      それは文化の違い、言語の違い、伝統の違いであって、ドイツの教会の方が正しいというわけではありません。ただ、聖書を聞くということをもう少し意識してはどうだろうか、と思います。(p.30)
      そもそも、文字文化が庶民に届くまで、文字認識が初等教育の中で、教育されるまでは、聖書は確かに声を出して読まれるものであったし、そもそも、新約聖書の手紙はギリシア語でかかれていた段階では、読み手がいなければいけないほどの、ものであったこと、そして そもそも、聖書を読むにしても、他のものを読むにしても声を出さずに読むという行為自体が異常であったということが、『新約聖書よもやま話』で紹介されている。

      昔のギリシア語の写本は、スペースや句読点の全く入っていない、こんな感じの大文字のギリシア文字の羅列であった。

      https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Papyrus_23_-Jam_1.10-12-POxy1229_III.jpg
       確かに、声に出して読む聖書ということを考えてみると、案外新しい見え方がするかもしれない。

      礼拝について考えることの大事さ
       案外、忘れられているかもしれないと思うことに、教会のかたちや教会の礼拝のスタイルは、ふつう思われるほど安定的でなかったかもしれないと思うのだ。自分が持っている礼拝形態は、その個別教会の礼拝形態だけのことかもしれないし、この100年とか150年くらいの伝統しかないことなのかもしれない。

       しかし、人間の人生は、旧約聖書でモーセのことばではないが「われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」(詩篇90篇)であり、数百年の歴史は見ることができないので仕方ないのかもしれない。しかし、現在のかたちにたどり着いたものと、他の伝統の礼拝のかたちを比較して知ってみると、先人たちが創造性を非常に発揮して時間をかけ関与し作りあげていった礼拝のことばをどう考えるか、ということに思いをはせることができるのではないか、とも思う。
      このゼミナールにおいて強調して来たのは、礼拝のことばにいかに聖書の言葉を取り戻し、その言葉を現代に通じる言葉として私たちが語るかということです。そこで、私たちは聖霊の働きを感じることができます。
      礼拝について考えることは、聖書と私たちの現実を結び付けてくれる創造的な作業です。是非、牧師ひとりが考えるのではなく、いろいろな人がかかわり、共に作り出していくプロセスを大事にしてください。(p.31)
      たとえ、古い祈祷書のことばであっても、古い讃美歌のことばであっても、その意味をそれぞれの時代の中で生きるものとして再解釈する作業は少なくとも必要ではないか。そこに表されたことが何であるかを考えることが必要ではないか、と思う。そして、神への礼拝、神と人が一つになる経験を礼拝でしていく中で、自分たちの神への礼拝がどういうものかを、どう考えた結果であるのかを、そして自分が口にする言葉の意味が、どのような意味であるのかを信徒ひとりひとりが、味わい、思いを巡らすことが重要なのかもしれない。




       
      評価:
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      (2013-11-20)
      コメント:非常に良かった。日本語訳は、『傷ついた癒し人』である。

      評価:
      ヘンリ・ナウエン
      あめんどう
      ¥ 1,026
      (1993-04-01)
      コメント:非常に良いです。

      評価:
      伊藤明生
      いのちのことば社
      ¥ 1,296
      (2008-09-03)
      コメント:非常によろしいです。お勧めしております。

      2016.06.11 Saturday

      2016年夏号のMinistryを読んだ(3)

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        これまでの2回も、Ministryからご紹介してきたが、今回もまた、Ministryから少し、ご紹介してみたい。今回は、これまで、日本のそして海外の高名な説教者の説教原稿をもとに、それがどういう構造を持っているのか、そこで言えることは何か、ということを探ってきたMinistryの看板連載であった(とミーちゃんはーちゃんは勝手に思っている)ので、「それが終わるのか…」と思い、しょげ返っていたら、なんと、説教鑑賞復活である。まさに、イースターの前後の違いの様に復活しているではないか。驚いた。

        それが、「平野克己の説教道場」である。

        そこで記念すべき、開始第1回目は、ある所で何度かお会いしたことがある田信さんの何年か前のイースターのときの説教を鑑賞してみましょう、ということであった。

        復活祭の説教ならでは
        クリスマスもそうだが、イースターも結構、主題があるため、説教者にとっては、説教するのが悩ましい日の一つなのである。なおかつ、人々を説教で語ろうとする世界をシェアするための信頼関係を作るためには、両者の世界が違いに意識をある程度向けないといけない。その為、説教者と聞き手の間にどうしても共通の土台、共通の前提知識、共通の部分を見つけ出さないといけないので、結構つらいのだ。

        クリスマスはその意味で、日本社会の中に社会の暦の中の一部としてすでに定着しているので、ある程度の共通土台があり、それを前提に説教を考えることは比較的容易であるため、まだ、説教者と聞き手との間に共有部分を作るという上では、考えやすい。しかし、イースターになると、これがこれまではあまりなく、まずイースターを聞き手の方にイメージしてもらうために、過去にも悪戦苦闘したことが多かった。特に年長者の多い場合、イースターはある面「ハイカラ」すぎるため、多くの人々に、なかなか、イースターを身近に感じてもらうことがしにくい日でもあった。

        ところが、ここ2〜3年は、いろいろな業者、特にコンビニ業界関係の皆様方が、ビジネスチャンスと思ったらしく、イースターをお取り上げいただいているようになり、なんとなく日本でも認識されるようになってきた。まぁ、2月という流通にとっての暗黒月(日数が少ない上に寒いので、売り上げが激減する)時期に売り上げを貢献してくれる可能性、単にバレンタイン・デーの後の消費喚起のためにイベントとしてのイースターには新規性があり、ある程度消費を喚起する形として流通業者にとって利用することが可能な形の祝祭の日として、イースターにも最近、目が向けられただけのことに過ぎないと思っている (この辺すごくブラックで冷徹でしょ、単純に、キリスト教の世界が日本でも一般化したとか単純に喜べない、マーケティングの世界にも首突っ込んでいる黒ミーちゃんはーちゃんがいたりします)。


        AEONさんのイースターフェアの画像
         
        ということで、田さんの説教をまずご紹介。田さんの説教を拝読しながら、ミーちゃんはーちゃんが思ったことを述べてみたい。説教鑑賞ではない。
        イースターは日本語で言えば復活祭です。死からの復活を祝うのです。十字架で死刑になった人が、三日後に死からよみがえったこといわいます。これではなかなか絵になりません。あまりに現実離れしていて、ウサギや卵を前面に出さずには直視できないのです。(p.48)
        ここで、イースターの持つ陰惨性とその陰惨な世界からの回復という祝祭の概念が同居していることについて、田さんは触れられておられる。これは案外大事なことではないか、と思うのだ。この両者が一つの儀式に込められているのが礼拝であり、聖餐だと思うのだ。以前の当ブログの記事

        『現代文化とキリスト教』を読んだ(5)

        でもご紹介したが、神への賛美のかたちとして様々なものがあり、現代の賛美のかたちとして、テゼのような静粛性を重視する、こころの痛みを見つめる様な静謐さを求める賛美の在り方と、逆に若者しかいない教会での、クラブと間違うような縦ノリの動的な賛美の在り方に至るまで幅広い賛美の形態がある。いずれも賛美であるということには間違いはないと思う。なぜ、このような両極端があるのか、ということを最近ある家人に問われ、考えてみたら、結局、礼拝(ないし聖餐)がそもそもこれらの二要素を併せ持っているからだと思う。礼拝の前半の静謐さの中に自分自身を見つめ直し、そして、その中に見出す傷をキリストの十字架上での傷と重ね合わせる時間(静謐さと深い関係がある)と礼拝の後半部、とりわけ、聖餐に与ることよってあらわされる十字架の死を通して神との和解が成立したことを喜ぶ動的な喜びの部分、神への賛美が向けられている部分を共に内包しているのではないか、と思うのだ。

        なぜ、同じ賛美でありながら、ことほど左様に両極端な賛美の様式論があるのかと考えてみれば、静謐さに走るグループは、礼拝前半の自らを見つめ直し、そして、キリストのコンパッションないしスプラングニゾマイに重ねていくことに関心があるのではないか、と思うのだ。逆に、動的な賛美に偏るグループは、霊はいん後半部分の神との和解とその喜びの部分に強調があるあまり、静謐さが軽んじられるのかもしれない。まぁ、もちろん、動的に傾いているグループでも、説教の部分やお証しの部分、献金の部分が静謐であり、それでバランスが取れている、というのはあるかもしれないが。この部分は、イースターから思い付いたことではあるが。

        余談に行き過ぎたので、元に戻すと、実はイースターというのは、バプテスマのヨハネの斬首事件と並んで、日曜学校で幼児に教えるのが一番難しい部分の一つでもある。だって、下手すれば、血みどろのスプラッター映画もどきの世界を語ることにもなりかねないからである。あるいは、イタリア絵画のこの分野の巨匠が描く様な残酷な画像の部分をどうするか、ということも考えないといけないが、しかし、如何に名画といえども、まさかイタリア巨匠風の絵画を幼児向け教材資料として用いるのは、ちょっと憚られてしまう(たぶん、父兄から確実に苦情がつきそう)。


        例えばこんなの https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alessandro_Turchi_002.jpg から

        キリスト教と死と復活
        イースターの日の説教ということもあるが、この日の説教の中で、本来聖書の主要テーマである死と復活が実に丁寧に取り上げられていて、キリスト教の根幹にあるものが何であるのか、ということを田さんは実に丁寧に、かつ、明快に説いておられる。それは以下のような表現でもおわかりいただけるであろう。この説教道場のところで取り上げられている説教は素晴らしいので、是非、Ministryをお買い上げいただいて、全編をお読みになられることをお勧めしたい。
        この死という厳粛な真実に対して、キリスト教信仰は本当に助けになるのでしょうか。もし素晴らしい人生哲学、人生訓だけであるならば、それは死に対して全く無力です。(p.48)

        ここでは死んだ人のことを眠った人、と表現しています。私たちは良く、『やすらかに永遠の眠りについた』とか「永眠する」という言葉を耳にします。しかし聖書が教えているのは、死は決して「永遠の」眠りではない、いつか目覚めるときが来るのだ、ということです。ここに私たちの希望があります。(p.49)

        しかし、イエス様が確かに復活されたのだから、私たちも確かに復活するのです。死に対する勝利、これが私たちの救いであり、希望です。(p.50)
        この時の田さんのイースターの説教でミーちゃんはーちゃんが一番気に入ったのは、「 死は決して「永遠の」眠りではない、いつか目覚めるときが来るのだ、ということです。ここに私たちの希望があります。 」というこの部分である。

        そうなのだ、いつか目覚める、ということなのではないか、と思う。天国と呼ばれる所に行くでもなく、いつか目覚めるなのだ。この概念は非常に重要だと思う。先年、義父がなくなって葬儀説教を頼まれたので、葬儀説教をしたのだが、その時に繰り返し強調したのも、「いつか目覚めるときが来るのだ 」ということだった。それがどういう形であるか、その時どうなるか、といったことではなく、いつか目覚めるときが来るということを、新約聖書にある復活にかかわる表現からお話した。

        新約聖書で復活とかよみがえりとか訳されているギリシア語には二つあり(アナスタシアとエゲイロー)、それがいずれも静かな状態から、眠っている状態から朝になって起きる、活動的になる、または、目が覚めるということと深くかかわっているのだ、ということをまた改めて思いだしたからである。最初にこのことを教えてくださったのは、日本基督教団で牧師をしておられる沼田さんという方であった。そして、沼田さんから教えてもらった日に、家に帰ってから調べてみると確かにそうであったので、それ以来このことに思いを巡らしていた。そして、そのことを葬儀説教でも触れることにしたのだ。

        また、死は安息日の延長上にあることもお話した。イエスが十字架の死の後、安息日に墓の中で安息日をとられたことを。そして、そのあとにある、目が覚めるということを経験されたことも。そして、我らがそれに倣うことであることも葬儀説教で触れた。このあたりは、ナウエンの「ナウエンと読む福音書」のイエスの埋葬の部分のモティーフを借りた。

        誤解されている可能性のある救いの指摘
        日本(あるいはアジア)での宗教が、何らかの犠牲を持って、信仰の対象に訴えるという性質をそのどこかに含む。御念仏を百万遍とか、お百度を踏むとか、お神酒を献上するとか、榊を飾るとか、人柱ないし人身御供を差し出すとか、まぁ、いろいろある。


        京都大学の北東の角にある百万遍の交差点(京都大学の北西の向かいの交差点の端から、南西方向を望む写真)

        お百度石( http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=852 から拝借)



        湯布院の夜神楽でヤマタノオロチの前に人身御供にされる姫のシーン
        (http://www.geocities.jp/jh5ozi/index/yufukagura/kagura.htm から)


        日光神社の中にある神社をかたどった酒樽保管施設と お供えされた 酒樽(http://my-nikko.com/kenshu-taru/ から)

        ここで、田さんは、キリスト教の救済と人間の側の行為に関して、次のように優しく語りかける。
        私たちがクリスチャンらしくなれたら救ってくださるのではありません。教会の礼拝に毎週通ったから、たくさん献金したから救ってくださるのではありません。神がイエス・キリストを通して救いを与えてくださいました。(p.51)

        神の愛の声が聞こえなくなる時、受け入れてもらおうと自分で走り回ることになります。神に喜ばれようとします。クリスチャンならば、奉仕をしたり、礼拝出席に励んだり、聖書を読んだり祈ったり、つまりもっと「クリスチャンらしくなろう」として頑張るかもしれません。しかしそのような頑張りは、むしろ神が悲しまれることです。私たちがどうであろうと神の愛は変わりません。「私はあなたを愛している」という声はいつも響いています。キリスト者の生活とは、何よりも、この神の愛の声に耳を傾けるところから始まります。
        私たちはその声をどこで聞くのでしょう。一人で静まって祈る中で聞くこともあるでしょう。しかし何よりも神の家族である教会で聞くのです。教会とは、神の愛の声を共に聞き、そしてその愛に生きたいと願い人々の集まりです。(p.52)
        これだと思うのだ。でも、案外、人が救われるということを日本人の神仏理解に合わせて、「 私たちがクリスチャンらしくなれたら 、(中略)教会の礼拝に毎週通ったから、たくさん献金したから救ってくださる 」と主張して、献金を神への誠意の表明のような形で救いと関連付けて語るような教会もないわけではないように思う。それでは、エリヤが対峙したバアルの神官と大してく割らないではないか、と思う。実に残念なことであるが。

        しかし、それは明らかに違う、ということをこの説教では、会衆に明白に印象付けているところが実に素晴らしい。そして、次の引用部の中でも、「 クリスチャンならば、奉仕をしたり、礼拝出席に励んだり、聖書を読んだり祈ったり、つまりもっと「クリスチャンらしくなろう」として頑張るかもしれません。しかしそのような頑張りは、むしろ神が悲しまれることです。 」と明確に述べておられる。実に清々しい。一方的な神の恵みを主張しておられるその表現に、某元首相ではないが、「感動した」の一言に尽きる。

        そして、神の愛のことばを聞く場所として、教会の中に招き、教会がどのようなものであるかについて、建物でも、儀式でもなく、「 教会とは、神の愛の声を共に聞き、そしてその愛に生きたいと願い人々の集まりです。 」と実に明快に述べておられる。そして、その神のことばを聞くための日が、安息日であり、共同体の中で神のことばを聞くのである。しかし、その日が、教会が礼拝とか、説教と呼ばれるものが行われる日だけに限って設定されるべきものか、というとそうとは限らないと思っている。

        ただ、現状では、社会システムが教会の暦法でもある7日システムの中で、今の日曜日が休む日に、国教会化したキリスト教の中で定着してしまっているので、日曜日が安息日と無意識に読み替えられている傾向はあるのではないか、と思っている。そして、安息日の読み替えとしての日曜日の礼拝厳守を無批判に受け止め、そして、日曜日の礼拝厳守を偶像に近い形でしいている人々もいるのではないか、と思う。しかし、神の救いがそういう日曜日には教会に熱心に主義そのものとは無縁だ、と説教の中で、語っておられるのは極めて印象的であった。

        教会員の役割
        信仰共同体(それは時間を超え、空間を超えた共同体であると思っている)における信徒(教会員)の役割りとは何か、ということについて、田さんは次のように説明している。
        教会員の皆さんに大事なことをお伝えしなければなりません。すでにバプテスマを受け、神の家族の一員である皆さんは、今度は新しく加えられる家族を養う側になっていただきたいのです。(p.53)
        まぁ、それはそうなのだが、実は新たに加えられた信仰者が、長い月日を教会で過ごした信仰者を支えていくという側面もあると思うのだ。それはまれであるかもしれないけれども。あるいは、新たに生まれた信仰者が、年月と風雪を経た信仰者が何とも思わずに過ごしていることへの気づきを与えるということもあるとも思うのだ。その意味で、教会員同士、お互い支え合う関係だろうとは思ったけど。

        (後日修正:どうもこの時にはこの教会固有の状況があったらしく、一般的な意味ではなく、特定のコンテキストがあった模様。確かに、文章だけで見てしまうと、ここらの改宗と説教者で作られる説教の部分が抜け落ちています。その点は、田様には大変失礼な表現となってしまいした。心よりお詫び申し上げます。)


        平野さんのツッコミ
        で、詳細はMinistryの本旨をご覧いただきたいのだが、田さんの説教をもとに実に興味深い対話が展開されている。
        「なぜでしょうか」と、聞き手に問いを投げかけることから説教をはじめています。(中略)教会員に向き合っています。この説教で<対話>しようとしているのがわかります。
        福音派、一方通行では相手の心には届きません。福音が届くためには、相手の心が開かれていなければなりません。だから聞き手との対話が必要です。そのことをあなたはよく知っていますね。(p.47)
        どの教会でも通用する普遍的で抽象的な説教ではなくー実際には、そのような説教は現実の聞き手には届かないことが多いのですー、今日、説教を耳にしている人の中で実現する説教(ルカ4:21を読んでみてください)を語ろうとしているのですね。それは大切なこと、とても素晴らしいことだと思います。(p.48)
        実は、この辺の聞き手との関係づくりというのは、実はミーちゃんはーちゃんに取って、あまり得意ではない。個人的には、まず聖書主題箇所を読んで、そして、やおら、「今お読みした聖書の箇所は…」とかやるほうが得意なのである。この辺のことを平気でやるから、学校の授業みたいとかいうご批判を受けやすいことは十分知っているが、個人的にはテキストと格闘してみたいというところもあるので、ついこんな風になってしまう。もう、これは個人の特性というものかもしれない。

        その意味で、最近経験した教会のことを思いだした。現在アングリカン・コミュニオンのある教会を中心に据え、近くのさまざまな教会巡りを自己研さんのためにしているのだが、その中である友人に勧められた教会に行ってみた。すると、その教会の教会員の皆さんは、よくご存じだけれども、キリスト者業界では超有名人でもないし、世俗社会でもみんなが知っているという方ではない方のお話が延々続いたのだ。もう少し具体的に言えば、説教40分くらいのうち、30分くらいを占めていて、その人の信仰深さだとか、あんなことがあった、こんなことがあった、とかという詳細なお話を礼拝説教として拝聴させていただく機会があった。

        たしかに、その教会の信徒さんにとってはおなじみの方なんだろうけれども、その教会に初めてきた人にとっては、全く知らない方の、あまりに具体的人物(お二人)のことをああだこうだ言われても、きょとんとするばかりであった。さすがに、途中で退席するという失礼なことはさすがに控えたが、もし私が信仰をもっていなかったら、間違いなく、足の裏のチリを払って退席したかもしないなぁ、とは思った。同じ、信仰を持っているといっても、共有していないものもあるのだ。この辺、説教においては、会衆の様子を見たバランス感が問われるのかもしれないなぁ、とその時思った。

        教会外を落として、内部を高らしめるというのはどうよ?
        教会外に否定的な目を向けさせ、そして、自分たちはどうだこうだというレトリックというか構造は、実際あちこちの教会でも見られる。プロテスタントの一部では、自分の教会外全部に否定的な目を向けさせ、自分たちだけが正しいとかいう論理構成でいろいろお話をしておられる教会もないではないと聞く。どうもカルトとまでは言えないけれども、カルト風、カルト化に向かいつつある教会では、実にかなりよく用いられる論法のようにも思う。

        一度、この論理で家人の一人が私に言い募ってきたことがある。

        私が車である所で説教奉仕(クリスマス会の説教奉仕)に向かっている途中に、その家人が私がナウエンとかの研究をしているのを知っていながら、あえて、「カトリック教会の人には救いがない」と根拠のない一般化した話を延々繰り返したことがある。やめてくれ、といっても、その話を繰り返しするので、「このままその内容を話し続けたいのなら、車から適切な駅で下してさしあげるので、どうぞお降りになってください。この話を繰り返されると、事故を起こしそうですし、今日の説教にも影響しそうなので」とお願したことがあったし、二度めには本当に家人を駅におろそうと思って、高速道路から一般道に向かいかけたことがあった。そのことを今回の平野さんの記述を見ながら思いだした。
        まず、<説教でよく用いられる言い回し>をよく吟味してください。
        例えば、説教の導入部です。
        「クリスマスに比べ、イースターは市民権を得ていない」、「クリスマスキャロルや装飾で街を彩るクリスマスに比べれば、ほとんど知られていない」というのは、説教でよく用いられるよう言のように思えます。恐らく、あなたはどこかで聞いてきた言葉を繰り返したのではないでしょうか。
        というのは、私自身こうした言い回しを何度も聞いたり読んだりするからです。クリスマスになれば、再びよく似た言い回しが用いられます。「街のクリスマスはイエス・キリスト抜きのお祭り騒ぎをしています」とはじめ、しかし私たち教会では…」と繋ぐのです。
        これらの使い古されたものいいに共通するのは、教会の外側を貶め、その落差を利用して教会の内側を高める方法です。
        (pp.48-49)
        カトリック教会の方に向かって、私の家人がしたようなことをした記憶がないが(記憶がないだけかもしれない)、世間の皆様に対しては過去にやったことがある。それは大変失礼なことであったと反省しているが、言ってしまったものは仕方がない。世間の皆様も神のかたちであることを認識していなかった、そのような誤解のトラップにはまり込んでいた(はめた人がいたというのはもちろんあるが、それを責める気にはなれない)からこそできたことではあるが。

        平野さんが言うように、外を落としその反動で自分たちを高い場所におくというのは神の領域侵害(高挙を自分自身でなしているからである)であり、この方法はまずいと思う。そして、それは、カルトが使う方法の一部でもあるようにも思えるのだ。そして、その方法は、神のかたちをどう考えているのか、ということがばれてしまう瞬間でもある。

        しかし、その論法を「使い古された」と平野さんがおっしゃっておられるところが面白い。

        根拠聖句として聖句を用いる説教
        先に紹介した出来事の家人が軽蔑の目を向けてやまないカトリックの司祭のお一人である晴佐久司祭がいるが(時々ついていけないと思うことがないわけではないが)彼の本に福音宣言という本がある。福音とは、神が 語ろうとしておられる ”喜びのできごと”そのものであり、司祭を含む司牧はそれを宣言しているのではないか、問うことを主張した本である。それは、ある面、説教の重要な面を指摘しているとは思った。そういえば、マクナイトも基本的に福音とは宣言であるということを『福音の再発見』の中で書いているし、N.T.ライトもどこかの講演だったか本の中で、神の一方的な提示として福音をとらえているような表現があったように記憶している。記憶違いかもしれないが。

        同じようなことを、平野さんもここでコメントして以下のように書いて居られるように思った。
        説教 ー特に復活を中心主題にする説教ー は、教えることよりも告知することが中心になるのではないか、と思うからです。
        この説教で、聖書テキストに直接かかわる言葉が語られるのは、27〜55行目と60〜81行目です。しかもその間、説教者と聞き手、蟻は、聖書と聞き手が対話することばはほとんど出てきません。つまり、この説教では、聖書のことばは、説教者が提出した命題を支える<証拠聖句>の役割を果たしているのです。(中略)
        聖書を<証拠聖句>、つまり、明大や教理の根拠を示し、教える素材として扱う場合の最大の弱点は、聞き手の問いが封じられてしまうことにあります。(p.50)
        じつは、ミーちゃんはーちゃんは、根拠聖句として聖書箇所を開くのが結構好きなのである。聖書のあちこちを言及し、聖書を開きまくってもらうような説教スタイルが個人的にはお気に入りなのだが、やはりそれはまずいよなぁ、と思うのである。ここで平野さんが指摘するように「 聞き手の問いが封じられてしまう 」部分があることを認めざるを得ないし、聞き手の聖書との向き合いや思いめぐらしまでが封じられてしまうという側面は否めない。20代頃からの癖であるが、説教を聞いているときには、説教とか、その日の聖句として上げられた聖書のことばと他の聖書箇所の関係を考えながら思いめぐらしていることが多い(すいません、説教者の皆さんの話に集中していなくて)。そして、そのノリでつい説教するときも、ここからはああだ、こうだとやりたくなってしまうのだ。

        そのような、次々聖書箇所が明けられるような説教では、聞いている信徒さんの側は、聖書を開くのに追いまくられて、聖書のことばを思い浮かべ、味わうことが十分にやりにくいのかもしれない、というのは、聞く側に身を置く機会が増えてから、改めて思ったことではある。

        ところで、前回の記事 

        2016年夏号のMinistryを読んだ(2)

        の中道さんの最後の連載記事の中の記述ではないが、日本のキリスト教会では、聖書を聴くものということが失われており、その結果、信徒は聖書を開きまくることを特段、説教者は求めていなくても、求めていると思って開けちゃう信徒の方というかそういうのが習い性になった信徒の方もおられるので、この辺悩ましいなぁ、と思う。

        特に「開けなくてもいいですよ、聞いてくださるだけで十分です」とは何度も言ってきたのだが、隣のひとが開けていると遅れないで開けなきゃいけない気になるらしい。この辺、説教と聖書の関係って悩ましいなぁ、とは思う。

        整い過ぎている説教
        落語の話で恐縮だが、 名人と呼ばれた落語家にはいくつかのパターンがあるらしい。

        関西落語で育ったので、関西の落語家しか知らないが、名人の中にも桂米朝さんやその弟子の桂枝雀さん(初期のころ)、そして、笑福亭仁鶴さんなどは、いつ聞いても安心できるような、整った落語をされる方々といってよいと思う。その意味で安定の品質の名人芸という名人であるように思う。しかし、名人の中でも、破れをもった名人もおられる。笑福亭松鶴(先代)の落語はそんな感じだったと弟子の笑福亭鶴瓶が以前どこかで語っていた。40点の時もあれば、100点以上の時もある、品質は安定していないが、面白い時にはむちゃくちゃ面白いというタイプの落語家である。恐らく、笑福亭鶴瓶や桂枝雀と同時期の桂米朝の弟子である桂ざこばは、後者の破れを持つ系譜に属する落語家ではないか、と思う。

        本来桂枝雀は前者の安定の品質を持つ完成された落語を語ろうとするタイプの落語家であったように思うが、後期には、その安定の品質、完成された落語の目指すタイプであることを意図的に離れようとして必死になっていた時期がある。ミーちゃんはーちゃんは、この時期の落語を大変たくさん見た。つまり、当時の枝雀師匠は正統的な古典落語の世界からの脱出を試み、本来の自分の姿ではない異形の落語家、破れを持つ落語家を目指したのではないかと思うし、それが彼を苦しめ、最後には自死にまで追い込んでしまったのではないか、と思う。なお、落語は仏教での法話(仏教の僧侶による解説)を人々が聞くようにするために生まれた芸能であるらしい。なお、この部分は余談である。
        この説教原稿はよく整っています。しかし、整い過ぎていているようにも思います。そのために、キリストという復活の異常なリアリティを伝え損なっているように思います。(p.53)
        確かにこの説教原稿は整っている。そして、よく考えられているともう。素朴にいいなぁ、と思えるある種の美しさはあると思う。そして、 信徒は説教をそのまま受け取れるという安心感にあふれた説教であることは平野さんの言う通りだ、と思う。しかし、それと同時に破れというか、信徒が入り込める余裕のなさ、説教が話される言葉のスピードにもよるが、ミーちゃんはーちゃんが、説教者のことばを聞きながらも、その説教から離れ、聖書のことばを思い浮かべて遊ぶような、というか、聖書のことばをふらふら楽しんで、次これが来るのではないだろうか、自分ならこの聖句を持ってくるが…という遊びはしにくいかもしれない、とは思った。大体、そういう不真面目な聴き方をミーちゃんはーちゃんがするから、教会でいろいろ言われてきた、のかもしれないと思う。

        ところで、先ほどの落語家の話に少し戻すと、落語家が40点や30点の時もあれば、100点の時もあるという破れというか、乱れのある落語家の落語を聞く場合は、聞き手が落語家のオチとかを補う必要があるし、そのような信頼関係が話者と聞き手の中にあるようになれば、破れがあっても名人ともいわれるようにもなるのだろう。今日は100点に出あえるかもしれない、という喜びを見つけるためにその人の落語をライブで見に行くのではないか、と思う。

        音楽でもそうだが、ライブにはライブ演奏の良さがあり(一期一会的な良さ)、録音には録音演奏の良さがある(安定の品質の良さ)。説教が説教と会衆でつくりあげるものであるというロイドジョンズの主張(どの本に書いてあったか忘れたが確か、説教と説教者であったと思う)は、ある面そのとおりとも思う。もちろん、ロイドジョンズが説教に膨大な時間をかけていたことは有名であるとは思うが。平野さんの最後のことばは、ロイドジョンズの説教に向かう姿を思いださせるものでもあったし、聖書の中に聴衆を招いていくことをお書きになられたいのだなぁ、と思うことになった。
        あなたは、あなたの説教者としての課題について、「聖書と共に聴衆をも十分に解釈すると書いていますね。本当にそれが私たちの課題ですね。そしてそのことは、きっと、聖書の外側で聴衆を解釈するのではなく、聖書の内側に聴衆を新しく発見することからやってくるのです。(p.53)

        同様のことは、同誌同じ号で、牧師のことばが若者に届かないのか〜の連載の中で、朝岡勝さんも同じ趣旨のことを書いて居られる。その部分を引用して終わることにする。
        ボーレン先生は、『説教学』の中で、聖書を「第一のテキスト」といい、聴き手を「第二のテキスト」といい、この第2のテキストである聴衆についても、釈義し、黙想せよという。(中略)
        しかし、「第二のテキスト」である聞き手たちについてはどうだろうか。説教者が聖書を繰り返し読み、詳しく調べて、祈りの中に思いめぐらすのと同じくらいに、神のことばの聞き手たち一人ひとりのことをちゃんと黙想して釈義しているだろうか。(p.59)
        こういうことを言うと、「教会はいつものメンバーのためだけのものでない、きたことがない人をどうして聞き手として釈義できるのか?」という表面的なご批判をおっしゃる方がおられるが、それはあまりにも浅いお考えではないか、と思う。そもそも、教会は、神を求めるすべての人(新しい来会者であり、その教会に取って他者性(追記・補足 レヴィナスの意味での他者性、排除されるべき他者ではなく)を持った人を含む)のものなのではないだろうか。誰かという顔が浮かんでないにせよ、来られるかもしれない(それがどんな人かもわからない)人を含めて、説教準備の中で、さらに、祈りの中で、黙想し、釈義する中で聖書説教の中に反映されることになるのではないだろうか。少なくともミーちゃんはーちゃんが説教準備をしていたころは、それは心の端にはおいていたことである。

        ということで、今日の記事はこれでおしまい。

        次回、教会が居場所を回復するためにという特集記事から紹介する。しかし、今回紹介する以外にも非常に重要な示唆を与える記事が満載されている。実に攻めている雑誌だと思う。お買い得であると思う。この号もお勧めしたい。





         
        評価:
        ヘンリ・ナウエン
        あめんどう
        ---
        (2008-04-30)
        コメント:この本、めちゃくちゃいい。おすすめ。聖書が読めなくなっている人に、諸般の事情で、教会に出られなくなっている方に、お勧めしたい。ちゃんと聖書も大量に出てくるし。

        評価:
        晴佐久 昌英
        カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
        ¥ 1,512
        (2010-01-20)
        コメント:非常に参考になった。

        評価:
        D.マーティン・ロイド・ジョンズ,小杉克己
        いのちのことば社
        ---
        (2000-08)
        コメント:内容は、非常に良かった。リバブックスは印刷が貧困で、読めればいいという感じなので、あまり好きではない。

        2016.06.13 Monday

        2016年夏号のMinistryを読んだ(4)

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          教会が「居場所」を回復するためにという教会と地域福祉フォーラム21の記録からである。

          この”教会と地域福祉フォーラム21”のシンポジウムは「若者と居場所」をテーマとして開かれ、ニートや引きこもりなど、若者たちを取り巻く現状と、居場所を回復するために地域と教会がいかに連携できるかについて話し合ったそうである。
          その中でいくつか気になった面白い発言をひろってみたい。

          教会側と若者の思いのずれ
           そもそも、このフォーラム21の設定であるニートや引きこもり、ということが問題視されていること自体、個人的にはどうか、と思う。それもまた、現代における若者の在り様の一部でしかないものを問題視するのは、自分たちの生き方と違う、ということを受け入れていないだけ、あるいは、教会に若者が来てほしいというしたごころが、こういう視線にあるのではないか、と思った。
           

          小倉さん(若者関連のNPOのスタッフさん)
          面白いなと思ったのは、若い人たちに問って「居場所はありますよ」「遊びに行くところなんていっぱいあるよ」と。だから教会は、その優先順位だけが低いだけ。「居場所がない」なんて言われ方をするのは、ちょっと心外だと。(p.43)

          この小倉さんのご発言というのは、重要なことをご指摘ではないか、と思うのだ。実は若者は居場所はあるのだ。従来の在り様と違う形で居場所を持っているだけではないか、と思う。小金がある人たちは、喜んで、ディズニーランドや、USJに行くのだ。あるいは、そこまで金がなくても、友達とカラオケをしにもいくし、もうちょっとかねが無い人たちは、デニーズやガストなどのファミレスでたむろする方法もあるし、もうちょっとおカネがないとコンビニでたむろしている。これから夏に向かうと、コンビニの明るい光に引き寄せられるように、関東某県では、ちょっとやんちゃなバイクに乗ったお兄さんがたが、コンビニの駐車場にたむろなさるし、日曜日の朝は、だいぶとうの立ったお兄さんがたに混じって、パチンコ屋に門前列をなすというところに加わる方もおられれば、コミケと呼ばれるうっすい本を販売するイベントの開会前に列をなす人々もいれば、AKBとかの常設劇場やイベント会場に列をなす人々もいる。あるいは、冥土カフェ(メイドカフェ)と呼ばれるところに行く人々もいる。まぁ、おカネがなくても、市立図書館とか、公共施設に入り込むことはできるのである。

           以下に示す図は、AKBの東京ドームコンサートでのグッズ販売に並ぶ人々の列である。しかし、これだけ教会が若者を動員できたら、と思う半面、イエス様が生きて居られた時の群衆というのは、まさにこのノリであったのであろうし、この群衆を空腹で家に帰すにはさすがに忍びなかったのではないか、と思う。確かに、観客動員数という意味では、教会はAKBには勝てない。なんとかグラハムさんとかがわざわざアメリカから来られても、無理に動員された人の方が多いように思うのだ。すくなくとも、何とかグラハムさんより、動員しなくても集まってしまうAKBさんの方が、ビジネスとしては何枚も上手であると思う。


          AKBのGoodsを求めて、東京ドームに列する人々 http://p.twipple.jp/ZtGqg から

          そういう意味で言うと、結構おカネさえある程度あれば、若者にも行くところ、行きたいところはあるのだ。その意味で、ここで若者からのちょっと批判的な発言にあるように、居場所がないというのは、心外だ、というのは、大人(というよりは高齢者)が抱く若者像というのか、若者の理解である「若者はまずしい、行き場がない」という自分自身の経験に刷り込まれた意識、ないしは、オトナ側の思い込みに対する正当な批判であろう、と思うのである。それって、メサイア・コンプレックスじゃないか、と思うのである。

          キリスト教のリアルで関野さんが、御自身の教会でカフェをしようとしたら、年配の信徒の方から、「教会でカフェとは何事か」というご批判を最初は頂いたらしい。もし、教会が若者に居場所がない、というのであれば、教会でパチンコ台を置けとか、AKBのコンサートをしろとか、メイドカフェをしろと無理筋はいわないけれども、人と人が出あう場所としてのカフェとして教会の一部を提供するのに云々とかいうのは、どうなんだろうと思う。もし、教会が若者の居場所になろうというのであれば、「教会側の論理にすべて従ってください、そのうえでお越しください(あなた方が来ていいのはこの時間帯だけです。それ以外は来てもらっては困ります)」というのは、運営者側の論理としては理解できるとしても、居場所を求めている若い人からすれば、「なんだ、銀行や役所より対応悪いじゃん」となってしまうのではないか、と思う。

          さらに言えば、「若者に居場所がない」「若者に行き場がない」と、困っている若者がいると認識されておられるのであれば、どうしてその人のところに訪問しないのだろうか。イエスみたいに。イエスは寄ってくるものは基本的に対話は拒まなかったし、イエスは、イエスを必要とされる人のところに行っておられるような記述が福音書には結構あると思うのだが。ただ、イエスは、無理やり、来てほしくない、と思っておられる方のところに押しかけたりはしなかったのも確かだが。

          若者を愛してないのに若者に来てもらいたいという教会!?
          割とショッキングな表現だったのが、野田さんの次のような表現であった。教会は笑顔で接しながら、教会も牧師も若者のことを実は愛していないかもしれない、ということに関する指摘であった。

          野田さん(青山学院女子短大講師)
          反省点は、笑顔で接しながらも、実は若者のことを愛していないのでは無いかということです。これは牧師も、教会もそうですが、そもそも私たちがどこかで若者を煙たがっていれば、簡単に見透かされています。(p.44)

          しかし、若者を愛していないのに来てもらいたいというのは、どこぞの国の政府が移民の方々を愛していないのに、一時的な移民は移民労働者を入れようとしている政策の検討と似ていて、本音と建前の世界を垣間見るというよりは、本音としては、「自分にとって都合の良い若者だけに、自分たちの都合の良い時に、自分たちの都合で教会を支えるために(あるいは労働者となってくれる)若者(移民の方々)にだけ来てほしい」ということがこの発言や政府の政策には、現われていると思う。

          時限的な移民労働者と同じような扱いであれば、期間を限っての来会者として教会が若者を受け入れるのであれば、時限的な移民労働者が数年単位でご卒業いただくということと同様に、教会3年卒業説も、ある面で当然ではないか、とは思ったのである。

          なお、コミュニケーションとは、表面的な言葉や顔の表情だけではない。ボディ・ランゲージや声のトーンでもコミュニケーションしているのだけれども、言葉では来てくれてうれしいとか言いながらも、言葉の端々や、ボディ・ランゲージや声のトーン、対応の様子で人は歓迎されているかされていないか、を微妙に感じ取っていると思う。

          あるいは、
          佐々木さん(宗教法人「ホッとスペース中原」設立者)
          実は若者に来てもらうことで交わりをして、かかわることで、私たちの喜びや成長となる。若者とかかわることが本当は益なんだということを、しっかり自覚していないと、若者なんて本当は来てほしくないとというのが本音の部分であるのかなと。(p.45)
          という発言を見てても、同じことが感じられる。若者とかかわることで喜びや成長や益になるかどうかはその個別の教会によって異なるとは思うが、本音のところでは、「 若者なんて本当は来てほしくない 」と思っている教会は少なくないだろうし、自分たちの教会は自分たちの教会であってほしいと思っている教会や教会員が多いのではないか、と思う。そのあたりが、以下の動画の50分辺りからも垣間見える様な気がする。これは、若者を単位を根拠に半ば強制的に送り出す側の学校からのご意見であるが。


          『キリスト教のリアル』出版記念トークイベント「ゆとりボクシですがなにか」
          54:45辺りから、今のキリスト教会とキリスト教学校の若者のかかわりについて(週報偽造事件57分あたり、とかも面白い)
           
           Ministryのこの記事そのものを読みながら、そして、このMinistryのこの号の全体を見たときに素朴に思った感想は、「教会や教会員は、そもそも、自分たちが変わりたくないのではないか。変わっていくことに恐れを抱いているのではないか」ということである。そもそも、教会が固定しているということは、かなり暴論であるということは十分承知の上であるが、「変わっていないということは、ある面、教会は死んでいる」ということであるのではないか、と思う。あるいは、教会や教会員は、若者が教会にやって来て、教会が自分たちがなじんだものから変わっていくのに耐えられないのではないのか、とも思う。無理に教会が「生き生きしているぶりっ子」をする必要もないだろうし、教会員にも「生き生きしているぶりっ子」を強いる必要もないとは思う。しかし、変わっていく教会こそ、生きている教会の姿であるとも思う。その意味で、もっと普通の構えで、変わっていくという姿を受け止められる教会員と教会が増えるといいなぁ、とこのMinistryのこの号を思いながら思った。

          教会と教会の外部組織 
           教会は、教会をどう見ているのだろうか。自分たちの教会の建物の中だけが教会なのだろうか。自分たちの教派の教会とその周辺だけが、教会なのだろうか。それとも、他の教会の教会とその周辺を含めて教会なのだろうか。教会とクリスチャンだけで形成されるのが教会なのだろうか。そのあたりのプロテスタントとカトリック教会間の比較をしながら稲垣さんは次のようにまとめる。
          稲垣さん(東京基督教大学教授)
          ここで結論的なことを言うとしたならば、プロテスタントとカトリックの教会間の違いが、セッションを通じて感じられ、私たちプロテスタント側が学ぶべきものが、カトリックの側にたくさんあるということを確認できました。(中略)教会の中でできないことを、教会の外でJOC(カトリック青年者労働同盟)がやる。教会の中で活動することもできたけれども、最近の教会はカギがかかっている。そして様々な行事やルールがあって、他者への奉仕のようなことで精いっぱいで、自分たちのことを話す場がないと。これが教会の現状だと話されました。だから教会の外に居場所を作って、そこで青年たちが自分のことを吐き出して、問題を共有しながら、自己を改革していく。そういう場としてJOCが機能している。そういう場所としてJOCが機能している。ある意味で、それを成り立たしめる大きな教会感というものを私は感じました。
          (中略)
          そういう広い意味での教会というものをとらえたときに、神様の愛というものが、制度としての教会ではなく、その壁を乗り越えて、有機的な神のエクレシアというものを作っていく。そのような広い教会間を、私たちプロテスタント側が学んでいくということも大切ですね。その両方が車の両輪の様にして、神さまの宣教というものが進んでいくのではないかと。

          実はプロテスタントにも潜在的にあるんです。SCFの働きもそうだと思うんです。狭い意味での制度化された教会の外にそういうものを作って、さらにそこから教会へ人を送り、教会が人を育てて、またそう言うところに派遣する。(p.46)

          この稲垣さんのご発言は、案外教会理解を考える上で、非常にチャレンジングな問いをしておられると思う。つまり、地上にある神の国の実現の一部としての教会が、神の国の義をどのようにもたらそうとするのか、というチャレンジを受けたような気がする。そして、教会とは、教会員だけからなるものなのか、ということを考えた。

          そして、このことを考えながらも、先日大阪のハリストス正教会を何人かの多様な教派の牧師さんや教会員の方とともにお訪ねした。松島司祭にハリストス正教会をご案内していただいた後、聖堂とは別棟の集会室のようなところで2時間半以上お話を伺って、帰りの時、その集会室がある別棟の入り口が、小さな小学校低学年の子供たちの靴があふれるようにならんでいた、(そして、その一部は乱雑にあっちとこっちにと、わかれて置かれていたのがなんとも子供らしくてかわいかった)ので、えぇぇ、こんな光景を見たのはいつの日以来ぶりだろう、と正直思った。なんと、「キリスト教徒でも知る人があまりない、ハリストス正教会に、それも礼拝以外の平日に、こんなに子供が集まっているなんて、恐るべしハリストス正教会」と正直思ったのである。

          そう思ていたら、松島司祭はニコニコ笑いながら、「あぁ、それは、ここの3階の集会室でやっている公文に集まっている子供たちなんですよ。場所をお貸ししておりましてね」とおっしゃったのである。そのお話をお聞きし、「なぁ〜んだ」とは思ったが、でも、これも神の国を人々に分かち合うことの一部とも考えられるのではないか、とも同時に思ったのである。

          その公文の教室の運営者が教会員の方であるかどうかはお聞きしなかった。「別に、その必要もないなぁ」とミーちゃんはーちゃんは思ったのだ。そこにこだわる必要もないと思ったのだ。地域に開かれた教会の使われ方の一つかもしれない、と素朴に思ったのである。とりわけ、正教会のような儀式の実施とそれへの参加を伝道であるという理解に立つ教会であればこそ、このようなコミュニティの中に生き、動き、存在する教会の在り方は重要だと理解したからだ。ことばだけで語るのではなく、儀式をこの地上において執り行うことで、地にイエスがきたことを指し示し、神の国が地に及び、天と地が交わっていることを示すことこそ、福音伝道であるという立場故の一種の強みかもしれない、と思ったのだ。

          教会は、キリスト者だけで構成される、神のご計画は神を信じる人々だけによってしかならない、という概念に縛られておられる方も居られるだろう。それはそれで、お考えとしては尊重したい。

           しかして、旧約聖書を見るとき、あるいは新約聖書を見るとき、聖書はそのようにしてきているだろうか、とふと立ち止まって考えたのだ。旧約聖書での異邦の民や国々、バビロンやアッシリアですら、イスラエルの民が神のもとに立ち返ることのために用いられたのではなかったか、あるいは、次の聖句を思いだして、一種神のご計画の深さに恐ろしさすら感じた。
          【口語訳聖書】マルコによる福音書
           9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
           9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
           9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
           9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
           9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

          多分、我々のマインドセット(考え方の根拠というか前提)がどこかでくるっていて、上で紹介した聖書のことばを忘れているのかもしれない、とその時素朴に思ったのだ。その意味で、神の国をもたらすこと、神の国の御業をもたらすことの器ということの大きさを、感じずにはおられない。

           なお、今回号のMinistryには、今回意図的に紹介しなかった記事がいくつかある。それらも非常におすすめである。是非、お買い上げをお勧めする。


           


           
          2016.06.15 Wednesday

          「福音と世界」6月号と5月号 を読んだ

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            もう、福音と世界7月号が店頭に並んでいるころなので恐縮なのだが、Ministryの紹介記事を書いているうちに遅くなったが、今回は、福音と世界6月号と5月号のご紹介をしてみたい。

            最近面白い『福音と世界』
            数年前から、表紙がきれいに、そして明るくなったのが何より良い。手に取る気にさせる。



            この号は、非常に面白かった。最近のこの雑誌は、非常に面白い。今回の特集は、聖書と食(上の写真では隠れている)というテーマでお取り組みであった。そもそも、プロテスタントでは、聖餐共同体という概念とそこでの水平な社会が構成されるという部分が聖餐式の回数が少ないこともあり、かなり薄くなっているが、本来、キリスト教は聖餐共同体であったはずなのであるし、ハリストス正教会、カトリック、聖公会およびキリストの教会やキリスト集会など一部のプロテスタント派に分類される教会群では、その聖餐共同体という位置付けは保存されている。どの程度、信徒さんにそれが意識されているかは別ではあるが。

            食と教会、聖書を巡る諸々
            今回の6月号では、教会闘争(この言葉自体がもう、ヲワコン感が漂う言葉であるが…)的な概念で考えると社会派に分類される方々が、炊き出しということでお考えのことが強く打ちされた渡辺論文や、池袋の朝やけベーカリーを事例として、素朴に神の国の義をもたらすことを取り組んでいることについての中村論文もあった。

            そうかと思えば、教会の仕組みの中に、意図的に食事を含めるようにした背景と共食を考えた賈論文もあり、それぞれに興味深かった。とりわけ、境界(バウンダリー)の存在とそこで起きる共食という指摘は非常に重要で、境界を扱うこともあるミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事と関連の深い地理学的な立場から考えてみても面白い視点であるようにも思った。もうちょっとコミュニケーション論的に考えると、もう少し何か言えそうだ、という気はしたが。

            そして、星野論文では、食を担っている農村、その農村での農村伝道のリアルを描きつつ、農村伝道とはどのようなものかを再考しつつ、農村伝道に結びついた固定概念の問題を取り上げておられるが、これは、現在の教会全般にも言える、現状の教会や伝道の”かたち”を無批判に是とする姿勢というか、そのような固定概念という意味では、多くのキリスト者にもあるようにも思うが。
            (紹介は順不同)

            なんちゃってハラール認証の実態も
            最近のインバウンド消費を狙ったかのようなあざといハラール認証とそのいい加減さを扱った前野論文も、非常に印象的ではあった。そもそも、イスラム世界については、日本人はあまりに鞭で、ハラルをどう考えるのか、ということをあまりに知らないようにも思う。ハラルかどうかは、神(アッラー)とその個人との間の関係の中で判断されるべきものであるものを、消費を喚起する、利用者を困らせないためのものにしてしまうのはどうか、というムスリムの側の理解もないわけではないらしい。

            とはいえ、大学院生時代に、日本に初めてきて留学生を何人かお世話したことがあるが、彼らからスーパーに連れていってくれと頼まれたので、ご案内したことがある。そして、日本のスーパーに行った学友のイスラム関係者、ヒンドゥ関係者がラーメンの袋についたかわいらしい豚のデザイン画や牛のデザイン画を見ながら、真剣に悩んでいる姿から、彼らにとっては、宗教的禁忌に触れないかどうか、ということが非常に重要なのだ、ということを記憶した出来事を思いだしはした。懐かしいことである。一応、当時も今もアラビア語もヒンドゥ語もウルドゥ語もできないので、英語で必死になって説明した記憶がある。

            30年前近くにはなるが、そもそも日本には、大学生協の食堂では、如何にいい加減であれ、ハラル食の提供すらも、考えられもしなかったため、食事に関しては自炊派が大半であった。

            埼玉大学生協食堂だそうです。 http://www.foodrink.co.jp/foodrinkreport/2014/06/17172644.php から 


            池田先生の語り口炸裂!!
            今回何より個人的には面白い、と思ったのは、池田論文である。まぁ、学部時代に当時茨城キリスト教短大でご教鞭をとられていた池田先生の古代オリエント史入門という授業をとった時のあの感動がよみがえってきた。やせた感じの背がひょろ高い先生が、250人教室にでっかいラジカセもって入ってきて、いきなり、以下の動画のような古代風エジプト音楽を流し始めたのだ。




            当然の如く学生は動揺する。ざわざわ感が教室中を駆け巡る。そして、開口一番、しずかでありながらも、そして、明白な声で

            「お静かに」

            教室は次第に、静まっていった。そして

            「古代オリエントの地中海の海賊は、このように船長を捕まえては言ったのであります。ところで、このような音楽を聞きながら、クレオパトラは、古代のエジプトの舟に乗ってナイル川を航海したのでしょう。」

            そこから授業である。面白くないはずがない。1時間半3か月の授業であったが、実に楽しみな授業であった。

            池田論文 「旧約聖書と食」から
            池田論文はこんな感じで始まる。
            もてなし(ホスピタリティ)と神の友
             その日の昼下がり、アブラハムは、マムレの歌詞の林のそばに張った天幕の入り口に座っていた。ふと目をあげると、前方に旅人らしい3人の男の姿があった。アブラハムは立ち上がると、走っていって彼らを慇懃に迎え、是非自分のところで休んでいくように頼む。
            (旧約聖書創世記18章1-5引用)

             異人に対するアブラハムの態度が極めて慇懃なのは、ひょっとして自分がもてなしているのは神のみ使いかもしれないという思い(へブル人への手紙13:2)からである。実際、異人を「神の祝福」として歓待する「もてなし」の精神は、ネゲブや市内の荒野の遊牧民(ベドウィン)たちの間で今なお生きており、彼らは通りかかった旅行者たちに声をかけ、是非自分の天幕によって茶を飲んでいくように勧める。(同誌 p.38)
            ここまで生き生きとあたかも見てきたかのように旧約聖書を語る説教に20歳の時まで不幸にして触れたことがなかったので、もう、ミーちゃんはーちゃんが一発で心酔したのは、言うまでもない。ビビビ・・・ときてしまったのだ。

             なお、イスラエル在住の 山森 レヴィ先生によると、ベドウィン出身のイスラエルの大学生は、大学に来ても、新しく知り合ったパーティばかりをする人が少なくないので、成績があまり芳しくない方がかなりおられるとの由である。彼らは、いまだに、彼らの先人、アブラハムと同じような生活を、近代的な大学という組織においても、お続けの模様である。数千年続けられてきて、民族に沁みついた身体性はそうは簡単に消えないのかもしれない。
             
            彼はまた、旅人を神の使いの様に慇懃に温かく迎え、自ら客の給仕をする「もてなし(ホスピタリティ)の鑑」でもあった。まるきり欠点のない人間ではなかったアブラハムが「神の友」(関連個所は引用者により省略)と呼ばれた理由の一つも、そこにあったであろう。
             この呼び名はイスラム教でも大切にされ、アブラハムゆかりのヘブロンのアラビア語名はアル=ハリール「(神の)友」である。(中略)
             旅人を温かくもてなす心は、即ち、民族や宗教の枠を超えて、差別なくすべての人を同じ「神の友」として迎える心である。(同誌 p.35)
            ここで、「民族や宗教の枠を超えて、差別なくすべての人を」とあるが、こういうことを書くと、すぐ「エキュメニカㇽにかぶれて…」とか、「社会派的だ」とか、「リベラルな考えにかぶれている」とかおっしゃる方があるが、本当にそうだろうか。池田さんは上記の引用文の後、箴言25:21を引用しておられるが、旅人をもてなすということを考えたとき、福音書からも考えた方がよいかもしれない。
            【口語訳聖書】マタイによる福音書

             25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
             25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し
             25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
             25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
             25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
             25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
             25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
            しかし、イエスは、エキュメニカルだったり、社会派だったり、リベラルだったりするのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

            (一番いいところは、是非お買い上げになって、お読みください)

            そして、この論文はこう結ばれる。
            預言者は、人間も動物も菜食戻り、同じ「神の友」として仲良く生きる、平和な共生が回復する終末論的救済の時の到来を予言した。
             狼は子羊と共に宿り、
             豹は子山羊と共に伏し、
             子牛と若獅子と肥えた家畜は共にいて、小さな少年がそれらを導く。
             雄牛と熊は草を食べ、
             相共に伏すのはその子ら。
             獅子は牛のように藁を喰らう(イザヤ11:6-7)
            平和と共生を愛する思いは、知者も同じ――
             野菜一品で、そこに愛があるほうが、肥えた牛の料理と、そこに憎しみがあるよりも良い(箴言15:17)
            (p.40)

            実は5月号「特集 聖書とお金」もよかった

            『福音と世界』5月号は、特集が「聖書とお金」というテーマであった。似たようなタイトルの本『お金と信仰』を高橋先生が書いているので、ちょっと面白くて、違いがあって面白くてよかった。

             長谷川論文「旧約聖書とお金」はユダヤ社会の通貨の変遷を考古学的に追った後、旧約聖書の世界の中での金利の考え方や、それがヨーロッパに拡がる中で、反ユダヤ主義とのつながりなどを解説していた。金利をとらない金融は、イスラム金融と同じであるが(息子君のイランの経済研究につき合って勉強している)、実際には、手数料という価値での金利(というよりは、債券での利回りの設定がなされる、あるいは手形の割引のような形で金利をとる)が行われているのは、まぁ、なるほどなぁ、と思った。

             「恵みとしての献金」と題された佐竹論文は、ギリシア語でどのような語が献金に用いられているか、ということで、献金について、そしてその当時のキリスト教会の姿って、こんな風だったかも、ということを指摘している。その中で、印象的な一部だけを紹介するにとどめる。
            人間の目指すことの多くは金銭の不足によって挫折し、経済の安定を約束すれば将来に明るい展望が開かれるかのように人々は錯覚する。これは世俗社会においてのみ起こる錯覚ではない。教会にも一つの共同体としてこの社会の一隅で営みをはじめた当初から、この錯覚はついて回った。(同誌5月号 p.17)
             山口論文では「タラント」の譬えについて再考を促す。やや読み込み杉かも、と思われる点が皆無ではなかったが、イエスの教えが社会秩序を覆しかねないものであったこと、ローマ帝国の社会秩序とぶつかったという指摘と、現代社会の中で、神の国の正義を求めてどのように生きるのかを聖書から考えるべきではないか、という指摘は、N.T.ライトさんの指摘の一部とも重なる指摘だなぁ、と思った。

             「地球温暖化時代21世紀の経済活動」と題された東方論文では、地球の管理者としての人間の生き方をどう考えるか問題を取り組んでいるが、スチュワードシップという語を鍵概念にしながら、論文が広がっていくが、アーミッシュや、アッシジのフランチェスコの様な生活様式の重要性を説くが、これを追及した結果、地球の人口はおそらく現在の人口の100分の1しか養えない現実をどう考えるのか問題とのバランスをどう考えるか、そして、現実的な意向をどうするのかは問われるかもしれないと思う。また、失業者を嚢号に参加させるというのは、アメリカでは20世紀初頭から取り組まれてきたことであるが、アメリカという土地がかなり広大で政府保有地がかなりある状況下でもことごとく失敗した社会実験の一つでもあることを考えると、どうかなぁ、という素朴な感想を持った。

             梅津論文「神と富との間」では、ピューリタニズムと職業観や取引と隣人愛を考え、17世紀のイギリスという背景の中での富の再分配をどうするのか、などのピューリタンの考えを紹介している。そして、ピューリタンたちが「富を、神のために良き業のためにお金を用いる」ことに腐心した、ということが指摘されていた。

            資本主義に生きる教会…で、どうする?
             今月号で一番意外な論文で、一番面白かったのは、「資本主義に生きる教会」という南野論文であった。南野さんは、メノナイト・ブレザレンという、ミーちゃんはーちゃんがもともといた教派とは聖書的理解が本来的に近しい関係にある集団の神学校の先生でもあり、大阪聖書学院でも教鞭をとっておられるいわゆる「福音派」の方である。その方が、「福音と世界」にご寄稿とは…。

            資本主義とは何か、を簡単に振り返った後、キリスト教と資本主義の関係、影響について論じ、そして、「キリスト教会が訴えてきた倫理には資本主義との親和性が認められてきた」と西洋での資本主義とキリスト教倫理との関係を指摘した後、しかし、弱者の開放という聖書の基本姿勢(これが、『神のデザイン』のテーマの一つ)であることを指摘し、抑圧するものへの抑圧の放棄を迫っていることを指摘しておられる。さらに、次のような反省は重要だなぁ、と思った。この時代の宣教について、当時の時代背景とのかかわりもある、と言ったら、「宣教師の先生方の宣教は純粋なものであった、それを汚すとは何事か」とかいって怒りだす人がいるので困るのだが(そして、実際にミーちゃんはーちゃんに対してそのような苦情を言ってきた人もおられた)。
            実際、宗教改革前後の西ヨーロッパ教会の海外宣教は商業資本と結びつき、産業革命後は産業資本と結びついた宣教が欧米を起点に行われた。それは教会と資本との相互依存的な関係の中で遂行されたと言えよう。(中略)例えば、第2次世界大戦後、キリスト教会の世界宣教に資本から期待された役割としては、社会主義から資本主義を守ることも含まれていた。(p.38)
            と南野さん、実に手厳しい。さすが、預言者的性質を重視しておられるメノナイトのお方である。
            福音の内実を軽視し勢力拡大に注力する教会は、資本主義の横暴を黙認することになる。それは大きな歴史の問題というだけではなく、本質的な福音理解にかかわることである。(中略)
             教会もこのような、資本の論理を唯一とする考えにさらされている。実際、数的成長を自らの柱におく教会は、このような論理を無意識に自らのものとし、教会内外の関係を数的成長に一元化する(それは時に、献金を通じて商品経済に組み込まれていく)。(p.38)
            とか
            では資本主義が原因と思われる佐々間奈々出来と碁や苦しみを放置しておいてよいのだろうか。「何もできない」ということが、神と人との前で教会が何もしないことの口実になるのだろうか。教会に与えられている「他者に仕える」使命(宣教)はそのような口実を赦してくれないように思う。(中略)ここでは、現実への抵抗をその視座に置きたい。(p.39)

            とこれまた、実にメノナイトらしいのだ。とはいえ、ラウシェンブッシュの主張とも実に重なる。そして、近代と個の問題を最後で取り上げて居られ、そもそもの意味合いの違う個という語が、近代の資本主義と、市民社会においてで共通に用いられることが実は大きな誤解と問題を生み出しているのか、という指摘は重要だなぁ、と思った。
            そして、まとめの部分で次のようにもお書きである。
            ヤハウェの価値観やイエスの福音が時代を超えて意義のあることを認め、その実現・浸透に努めたい。そこに現代の資本主義に生きる教会の宣教の意義がある。(p.41)
            「キャー、かっこいい」とふざけている場合ではない。これは、メノナイトの皆様だけでなく、すべての教会に問われていることではないか、と思う。その辺、ライトの「クリスチャンであるとは」でも触れられている。

            また、この『福音と世界』の連載陣がすごいのである。そして、安定のクオリティである。

            ということで、なかなか充実の2冊でした。なお、この記事が公開される頃には、7月号、その特集は「 聖書と難民 」である。ドマンナカをついてきている。


             
            評価:
            高橋秀典
            地引網出版
            ¥ 1,620
            (2014-05-10)

            評価:
            エルマー マーティンズ
            福音聖書神学校出版局
            ¥ 2,700
            (2015-07-01)
            コメント:非常によろしかったと思います。構造として、旧約聖書をとらえる訓練になりました。

            評価:
            ウォルター ラウシェンブッシュ
            新教出版社
            ¥ 6,588
            (2013-01-07)
            コメント:高いけど、重要。特に福音派からのコメントが面白い。

            2016.06.20 Monday

            『福音と世界』2016年7月号 を読んだ

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              今回は、福音と世界の7月号を読んだ感想を書いてみたい。

               

              難民とミーちゃんはーちゃん

              ミーちゃんはーちゃんがお子様だったころ、ベトナム難民の方が日本に大挙してボートで訪れたことは以前にもこの記事で書いたような気がする。こんな感じのボート(中古というか老朽漁船)で、日本まで漂流に近い形で来られたのだ。命がけで。

               

               

              時々、テレビでは母国での政治と絡んで難民となられた皆さんのことが、ごくまれに、それも思いだしたように流れることがあるが、その実情はほとんど知られていないし、日本は世界的にも難民認定に要する時間が長いことで知られているらしい。あと、難民の政府によって公的に受け入れられた人数が少ないことでも知られているらしい。そもそも、外国人が暮らしにくい国でもあるので、それは仕方がないのかなぁ、と思うが、国際化国際化といいながら、外国人の受け入れと定住しにくい国の一つであることはそんなに間違っていないと思う。

               

              ほぼ的中した予測
              今回、この企画を先月号の予告で見た段階で、アブラハムの遊牧民としての難民との類似性、旧約聖書のヤコブ一族の難民との類似性(経済難民)、出エジプトでの難民との類似性(政治的難民)、ナオミとルツの難民との類似性(経済難民)、捕囚からの帰還における難民との類似性、イエスの出生の段階での難民との類似性(政治難民)、初代教会の難民(宗教的難民)との類似性などが取り上げられるだろうなぁ、と思っていたが、案の定、そうなっていた。それしかないといえばそれしかないのである。

               

              飯論文(旧約テクストから考える「難民」の一断面)では、まさにこのあたりの事が触れられていた。まぁ、予想していなかったのは、アダムとエバが難民に近いのではないかというご指摘と、エリヤが一種の宗教的難民ではないか、という指摘であった。これは想像を超えていた。まぁ、言われてみれば、そういう側面はあるのである。ところが、ミーちゃんはーちゃんとしては、難民問題を書くとすれば、触れると思った、ハガルとイシュマエル母子に関しては、一切触れもされていなかったのは、何とも残念であった。

               

              同論文の最後に、近代の文化人類学、民俗学的な研究で中止されるようになった「まれびと信仰」(たとえば、浦島太郎の亀は難民説とか、浦島太郎は難民説とかまぁ、いろいろあるが)が取り上げられていて、それが大事であることについて触れられていた。まぁ、アブラハム自身のもてなしは、これに沿ったものであることは、最近の

              「福音と世界」6月号と5月号 を読んだ

              で6月号の池田先生の記事を紹介した記事でご紹介したとおりである。

               

               

              AUの英雄伝説のCF(浦島太郎編)

               

              「人の子には枕する所もない」と題された山口論文は新約聖書、とりわけイエスが、当時の社会の周辺者、周縁者に向けた目線を中心に向けられた世界であり、まぁ、福音派が言う典型的なリベラル派と福音派の皆さんならラベルを張るようなタイプの論文であった。そして、そもそも、ガリラヤ地方、あるいはナザレそのものが、周辺者で居場所を失った人々の世界であり、そこで、ユダヤではなく、ガリラヤを中心に神の国をイエスが伝えようとしたことの意味をくみ取ろうとした論文であるといってよいと思う。とはいえ、まぁ、ちゃんと、この論文での解釈は解釈の一つの可能性に過ぎないことが、文末には加えられている。そして、このような寄る辺(居場所)のない人々とどのように教会が現代において向き合っていくのか、ということを述べておられる。

               

              「敵意に抗う歓待の福音」と題された金論文では、欧州で問題になったイスラモフォビア(イスラム憎悪症)やシャルリー・エフド問題に加え、いわゆる川崎辺りでのヘイトスピーチなどを取り上げておられる。そして、最後の結びの部分で、デリダの議論を取り上げ議論しているが、別にこの議論はデリダを借りなくても、できたのではないか、と思う。その意味で、ある面社会派らしいという論文ではあるが、著者の方の特性のひとつであるそもそも日本社会で周縁におかれた人々からの視点の問題提起であった。

               

              橋本論文「ドイツから見る難民と教会」では、ヨーロッパから難民が流入し続け、それを受け入れることを国是としてきた国家としてのドイツとそこの中での教会の取り組みに関してまとめた論文であり、難民の受け入れにあたって、6つの取り組みをしていること、異文化との出会いの場を提供する、人々への注意を喚起する預言者的態度、他者理解のファシリテータとしての役割、ネットワークの基盤、そして、難民に対する護民官(弁護者)的態度などがあることのではないかとある牧師のレポートに沿う形でまとめている。

               

              受け入れ側の論理と出てきた側の論理のずれ

              と、まぁ、ある面、想定の範囲内であったのと、この特集が、ある面難民問題に対して19世紀から20世紀型の国民国家という枠組みの中で、受け入れ側の国としての教会側での対応やその論理をどう考えるのか、ということに焦点を当ててまとめられた特集であったので、その難民問題のそもそもの出発点とその前提条件をどう考えるのか、ムスリム側で何が起きているのか、ムスリムがそのように行動するのはなぜか、ということまで含めて考えられていないのは、ちょっと残念であったのだ。たまたま同時期に、『イスラームとの講和』と題された内藤正典氏と中田考氏の新書を読んでいたということもあるからではあるかもしれないが。難民問題を考える点で、この本から示唆を受けることの方が、よほど多かった。以下その内容をかいつまんで紹介したい。

               

              「神」がほとんど機能してない西洋

              中田 そうですね。その現状は「難民問題」といわれますが、そういっているのは我々を含めて豊かな国にいる人間であって、シリアからようやく逃げてきた人たちにとっては、まさに目の前で国境が閉ざされる、無理に超えようとすれば撃ち殺されることもある。正に「国境問題」なわけです。

              内藤 ええ、もともと国境という意識が希薄なシリア人にとってみれば、どうしていきたいところに到達できないのかと。しかも、病人も年寄りも子供もつれているのに、水や食料さえ分けてもらえないのはどういうことなのだろうと疑問に思う。前にも話したとおり、このあたりの国教など、わずか100年前に惹かれた戦に過ぎないわけで、それまでは、シリアからヨーロッパまで商人たちは都市から都市へ割と自由に移動することができた。

              中田 そうですね。

              内藤 ある報道では、ヨーロッパのある国にたどり着いた難民の人が、警察官に「水をください」と頼んだらこと我れたと。「お前に水をやるのはおれの仕事ではない」と警官は答えたそうです。まさしくこれが、国家というものの矛盾を明らかにしていますね。警察官にしてみれば、自分の国家が決めたルールを守っているだけでしょうが、目の前に水すら得られなくて困っている人間が表れたときに、国家も民族も関係なく水をいっぱい差し出すのが人間ですよね。些細なルールを間もおることがどれだけ大事なのですか。

               一方でこれがムスリムだったら、即座に助けます。トルコが結局国境を閉めなかったのは当然なのです。やはり球場にあえいでいる人をその中に閉じ込めて見殺しにするということはイスラームの価値観に照らしてできないですから。

              中田 はい、困っている人を助けるのは、イスラームの義務ですから。

              内藤 ムスリムたちに取って、人助けは神が課した義務ですよね。(中略)ところが西洋ではほとんど「神」が機能していませんから、義務といえば国家がかしたものぐらいしかない。目の前に困った人がいても、一人の人間として処遇しようと思えないのですね。国家の論理で行動すると、こうした矛盾がいくらでも出てくる。

              中田 それなのにヨーロッパの人達は「人権が大事」といっているので、まさに偽善が生じる。( 『イスラームとの講和』  pp.75-77)
              しかし、内藤さんという方の

               

              西洋ではほとんど「神」が機能していませんから、義務といえば国家がかしたものぐらいしかない。

               

               

              という指摘は「神」が機能していないのではなくて、神そのものは機能しておられるのだが、「神」にあるものとして神の国の果実を地にもたらすという信仰者の機能が機能してないのは、確かにそうだなぁ、と思う。それは、「クリスチャンであるとは」という本で、NTライトが繰り返し指摘していることである。

               

               

               またこの傾向は、西洋近代の社会システムと、西洋近代のキリスト教を輸入(米国経由のものの方が多い気もするが…)して、それを保存している、あるいは温存している、あるいは正倉院御物のように保管している日本のキリスト教でも、キリスト者の義務というかミッションといえば、日曜日の教会参加と、献金くらいになっているという教会も案外多いのではないか、と思うのだ。本当はそうではないと思うのだが。神の国が来たということを生きることを通して、生きていく中で出会っている自分と違う考えの方々(他者性を持った方)に、ウエメセではなく、誇るでもなく、街宣車に乗ったり、ラウドスピーカーで広報することなく、神がよい方であることを善きことをさり気に行うことの中で、さりげにお伝えするのがキリスト者の義務のような気がするのだが…。

               

              そもそも、近代の国境概念、近代概念のないムスリム
               同書の中で、ドイツでの移民や難民に関する国籍問題に触れた後、中田さんは次のように言う。
              中田 そもそもムスリムは「世界市民」的なものですから、国の概念とかあまりないんですけれど…
              さらに、スコットランドが弱者に対して優しく、人が笑いかけるという内藤さんの話題の後、
              中田 中東と同じですね。中東の人も顔が合うとみんなニコっとします。
              内藤 しますよね。
              中田 ただパキスタン人だけは笑わないので、最初は怒っているのかと思ったら、別に起こっているわけじゃない。どうもインド亜大陸の人たちは意味がないと笑わない習慣の様ですね。中東の多くは遊牧民ですから、定住せずに家畜と一緒に移動しますよね。国家や国境意識が薄いのもそのことと関係が深いわけですが、彼らが移動する土地は、砂漠だったり、かなり自然条件が厳しいですから、人と出会ったらお互いに助け合わないと死んでしまう。代々助け合って生きてきたので、人と出会ったらまず、「私はあなたに敵意はありません。助け合いましょう」という意思を示す。厳しい環境の中では、それが最も合理的なのです。(pp.95-96)

               

              まさに、彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの神と祖先のことをいった頃からの生活を、延々数千年間にわたり彼らは続けているのだ。その意味で彼らは父祖の物語の中での生活をそのまま実体験で21世紀やっているにすぎない。食うものがなくなれば、食い物があるとこに行って、時に武力を使った実力で、あるいは、技術力や持てる資産(金や銀の装身具や奥方の美貌)を使った実力で、またはその地の支配者(王たち)の温情に縋りながら食わしてもらい、流動民として、寄留者として、遊牧民として、過ごしているにすぎない。まさに、アブラハムの生きた生き方をしているのが、現代の中近東でもおられるし、それを、国内での内乱が起き、軍隊が動いて内戦が起きたので、やったら、行き場を失ったというのが今のシリア難民の姿でもあるように思う。

               

               

               まぁ、現代人感覚で、「まれびと信仰」でアブラハムが神の人と見える人を世話した、という見方もできるが、それよりも、旅人で、苦労している人と自分が旅をしていたころの姿を重ねて、助け合いの一環として、もてなした、という方が普通のように思った。

               

               

              イスラム社会、中東社会の複雑さ

               

              中田 そうです、先ほども触れましたが、例えば日本から見ると、シリア人難民はサウジアラビアとかクウェートとか、お金がたくさんある同法の国へなぜ向かわないのかと、不思議に思うかもしれません。中東諸国の多くは植民地から独立を果たして作られた国家ですが、独立を進めたエリートたちは西洋の教育を受け、非イスラーム的領域国民国家システムの中で育った人たちです。ですからシリアのムスリムたちはそこへ行け無いのです。止める同法の国に行っても信仰生活の自由が得られないと分かって居る。これはあまり語られてないないし、日本に居るとほとんど見えない問題ですが、もはやイスラーム圏の中にもシリア難民が安心して逃げていける場所がない、ということが最大の問題です。(p.111)

               

              日本では、中東があまりに遠い。「油田があって、ラクダがいて、砂漠があって、その中に浮いたようなドバイがあって」という程度の認識があればいい方ではないかと思う(どうせ、向こうも、侍、アニメ、コンピュータゲームの国くらいしか認識していないからお互いさまである)が、中東の問題、特にイスラームの問題は、結構面倒なのだ。有名なシーア派とスンニ派だけではなくクルド独立問題が絡み、更にサウディアラビアとイランの石油の経済的利権(イランは結構埋蔵量が多いのと、経済制裁で禁輸措置を喰らっていたので輸出したくて仕方がない)問題などが絡み、また、サウディがイスラム教シーア派の有力な宗教指導者ニムル師の死刑執行をして、イランの国民感情を逆なでしたことは記憶に新しい。イスラムは一枚岩ではないのだ。

               

              外国人に対する日本社会の中の排他性

               

              なんか、他の本の紹介になってきたので、『福音と世界』に戻るが、今回の記事で一番面白かったのは、日本における難民支援の実像を描いた石川論文「日本における難民支援」という論文であった。この記事の冒頭でも触れたが、日常あまり意識することのない、日本社会における政府系の難民支援と、ボランティアベースの民間の難民支援とのかかわりを当事者の視点から描いているという点で面白かった。神学的な中身が必ずしもあるわけではないが、政府見解ではない民間の難民支援機関の当事者の立場からの意見の表明という意味で面白かった。何が面白かったかというと、冒頭の部分が面白いのである。夜間か早朝の雑居ビルの事務所前にたむろする難民、そして、とりあえず朝食をとるか雑居ビルの事務所の一角にごろ寝するスペースを作って休んでもらう、シャワーが無いので、男性トイレでとりあえず水浴びする難民、まぁ、その苦労たるや想像を絶する感じがある。

               

               そして、「おわりに」の部分でかかれた冒頭の次の一文であった。

               

               

              難民支援を通じて私自身が感じているのは、制度面の日本社会の中の排他性、社会的排除である。

               

               

              を想いながら、一方で国際化と称して、時刻に取って都合の良い国際化(これはわが国だけではない)を言い、時間限りで来てくれる外国人労働者、家政婦労働者、介護職関係者を欲しがるこの国の姿になんだか割り切れないものを感じる。まぁ、英語が喋れないこともあるのかもしれないが、これは日本の教会でも同じだと思う。

               

               

              教会で知り合ったあるアフリカからの留学生ご一家や昔いた教会に来ていた留学生の方をお世話したことがあるが、基本的に彼らは同じキリスト者として、そして、神の家族として迎え入れられると思っていたのだが、日本の教会では、どうも受け入れてもらえなかった、ということを言っておられたのが印象的であった。言語の壁だけではなく、外国人というだけで、自分たちで固まってしまって、外国人を前にして、教会内でハドルを組む日本人信徒という構図になる教会は多いのではないか、と思うのだ。

               

               

               そもそも日本の教会派、異郷の地にあるので、神の武具を身につけて、世に対してハドルを常時組んでいて、教会に立てこもっていて、そこで常時ハドルを形成している節もないわけではない。

               

               

               

              アメフトのハドル

               

              ところで、外国人への対応がむごい、という意味では、皆さんはご存じかどうか知らないが、わが国では、ほぼ日本の年金の恩恵を受ける可能性のない留学生の学生にも年金を納める義務があるらしい。以前世話した留学生が、授業料が払えなくなったので、わけを聞いてみると、年金関係の事務で行き違いがあって年金未納者扱いになり、銀行口座が差し押さえされてしまったらしく、それで授業料が払えないという事案が発生した。この辺の役所の論理に縛られた外国人対応のむごさなどを考えると、一体何なんだろう、と思ってしまう。

               

              若干突っ込み不足かも

              あと、今回の記事で、「現代の人身売買/人身取引をニューヨークで考えた」という女性に関する人身売買の宍戸氏のレポート記事も、切り口として面白かったのだが、いかんせん聖書的な側面からの突っ込み不足であったのは否めない。もう少し、この号に載せるのであれば、人身売買としての奴隷制度と旧約聖書とか、あるいは地中海世界の奴隷制度との違いとか触れてもよかったんではないか、と思うけど。

               

               

              まぁ、この雑誌のこの号は買いかと言われたら、是非にとは言わないが、買って損した気にはならなかった(なぜならば、レヴィナスに関する連載があったり、南洋伝道の記載があったり、辻さんの新約聖書の釈義や、月本さんの詩篇の講解など、圧倒的な連載を持っておられる執筆者集団のゴージャスさがあり、そして面白い連載があるからではある)とだけは申し上げておこう。

               

               

               

              おしまい。

               

               

               

               

               

               

               

               

              評価:
              内藤 正典,中田 考
              集英社
              ¥ 821
              (2016-03-17)
              コメント:非常に示唆的であった。

              評価:
              N・T・ライト
              あめんどう
              ¥ 2,700
              (2015-05-30)
              コメント:お勧めしています。特に最後の方の章がよい。

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