2016.05.21 Saturday

「祈り」について、たらたら考えた(1)

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     このところ、日々「祈り」をいろいろ考え思いを巡らしている。

     というのは、ここのところ紹介した『現代文化とキリスト教』という論文集のテゼの祈りに関する部分の記事 『現代文化とキリスト教』を読んだ(5) でもちらちらと出ていること、また、主催しているナウエン読書会で、With Open Handsを読んでいること、参加させてもらっているFacebookのN.T.ライト読書会で今読んでいる「クリスチャンであるとは」がちょうど祈りのところなので、「いのり」ということを考えている。

     このあたりを読みながら、「祈り」そのものよりは、教会における祈りについて、どう考え、それにどう取り組んでいるのだろうか、と思う。なお、ミーちゃんはーちゃんにこれといった考えがあるわけでなし、ああでもない、こうでもないと考えてみているだけである。あくまで現在の考えを示したものに過ぎない。そうああでもない、こうでもないと考えていることに、皆様方をお付き合いしていただくのはどうか、とも思うが、祈りについて少し観察してきたことをもとに考えたことを問題提起として少し述べてみたい。

    ミーちゃんはーちゃんと祈り
     ミーちゃんはーちゃんが所属してきた教会では「祈りましょう」といわれることが多い。「毎日祈りましょう」「定期的に祈りましょう」とは言われる。あるいは、「熱心に祈りましょう」「力強く祈りましょう」ともいわれてきた。 しかし、その割には、具体的にどう祈るのか、祈りとは何か、具体的な祈りの文言や祈りとはどういう意味を持つものなのか、ということに関して、あまり明確に教えてこられなかったようにも思う。祈りそのものを、聖書から解き明かされた機会は極めて限られていたといっても過言ではないように思う。 信仰歴は、30年以上になるが、他の信仰者の方から祈りとは何か、祈りとはそもそも何か、どう考えるのか、ということもあまり聞いたことがなかった。ミーちゃんはーちゃんが、そういう子供のような単純な質問をしたこともなかったからではあるからではあるが。
     教会の中の聖書研究会とか、特別な話手を招いてする機会で余り学ぶことがないため、自分で聖書テキストから考えたり、本を読んだりして、祈りについて思いを巡らせてきた。とはいっても、なかなか容易ではなかったし、今でも、そのあたりへの関心は濃いとはいえない。とはいえ、いくつか読んできた本の中で参考になったのは、ナウエンのWith Open Handsとレクティオ・ディビナに関する本である『 目からウロコ 聖書の読み方―レクチオ・ディヴィナ入門 』であった。

    ある訪問した教会での祈り
     ある教会にご訪問した時には、小学校の標語のように、「一日に3回祈りましょう」というような自作と思しきポスターが掲げてあって、あぁ、ここはこういうタイプの精神性を持った教会なのだ、ともおもった。メソディスト系の教会であったが。

     そのポスターが掲げてあった教会で、礼拝の終わりごろに代表祈祷をしたあるご高齢の女性信徒の方がおられた。その代表祈祷をされた方の後ろに、たまたまミーちゃんはーちゃんは座っていた。
     礼拝終わりの代表祈祷されたこの女性は、だいぶご高齢なので、信仰暦は相当お長いのではないかと思ったが、代表祈祷で緊張しておられたのか、祈りの文言を全部書き上げたと思われる数枚の紙を手にしながら祈っておられた。その方が祈るうちに、その神がガサガサがさと音を出し始めたのだ。まさか、神様は聖書の中で、以下の漫画のように、祈りの内容を書け、ともいっておられないように思ったのだけれども。




     「あれ、ここクェーカー系の教会だったけ?確か、メソディスト系の教会だったはずだが・・・」と思っていたら、祈りに合わせて、リズムをとるために体を揺らしているのではなくて、明らかに声が枯れ、声が震えておられたようだ。どうも、間違いがないように祈らなければならないからか、皆さんの前で祈る機会が少ないからかはわからなかったが、ものすごく緊張しておられる御様子が伝わって生きた。緊張の結果、からだも声も震えておられるのだろうなぁ、と想像した。長い祈りであったが、よほどの緊張のためか、途中何度か詰まったりしながら、かなり長めの祈りを終えられた。

     祈りの内容は、短めの神への感謝、賛美から始まり、 教会でのイベントがうまくいったから感謝します、 教会でのイベントがあるから祝してほしい、 ○○さんの病気がよくなったから感謝します、 病院にいる▽○さんが手術があるから、うまく行く様にしてほしい、というような、いのりであった。それこそ、こんな個人情報をたれながしにしたら、まずいんじゃないだろうか?と思われるような内容を含む祈りがかなり長い時間続き、そして、「主イエスの御名によってこの祈りをおささげします。アーメン」で終った。およそ3分以上にわたるかなり長めの祈りをしておられた。

     そして、祈りを、アーメン、で締めくくられたとき、安心したように大きく安堵したと分かる息をしておられるのが感じられた。
     
     この光景に立ち合いながら、「あれ、自由祈祷というのは、ある面自由なようでいて、それほど自由ではないのかもしれない」という感想を持った。祈りの文言の中で、誰かのことを抜かしたりすると大変だから、とか妙な教会内の人間関係の力学が働いているのではないか、と思ったのだ。そして、重要なポイントや人物のことへの言及を抜かさないように紙に書いて間で祈っておられたのではないか、と思った。こういう、礼拝の最後にあるような代表祈祷だと、結構気が抜けなくて、おつらいのでしょうねぇ、というご同情を禁じざるを得なかった。

    テンプレートに乗った自由祈祷って・・・
     そして、この方の代表祈祷の祈りを聞きながら、フォーマットは自由祈祷のかたちをとってはいるものの、あるテンプレートがあるように感じたのだ。いくつかの他の福音派の教会でも祈祷は、ほぼ同じ形をとっている、ということに、最近気が付いた。テンプレートというか、フォーマットが基本同じなのである。まるで、マニュアル本に従っている様ではないか、と思ってしまったのだ。

     形としては、最初に神への賛美とか感謝があって、教会行事の成功への感謝あるいは祈願があって、あとは延々個人の病気とかお悩み事のリストというか、取りなしの祈りとも呼ばれる個人情報のリストもどきの言及が続き、最後にイエスの御名によって祈る、という語で締めくくられる。まぁ、教会行事の云々と個人の病気とかお悩み事の内容の部分が差し替えられるだけで、テンプレートだけは維持されている。そうなってくると、成文祈祷とテンプレートに乗った自由祈祷って、入る文言だけが違うだけで、結局、様式としてはほぼ同じなのではないか、と思う。
     
     このようなテンプレートに乗った自由祈祷の原型として主の祈りがある可能性についての痕跡はごくわずかに感じられるが、これらの自由祈祷文を仮に記録したものがあるとしたとき、それを複数集めたところで、これらの自由祈祷文の文章群から主の祈りを逆構成(逆アセンブル)しようとしても、それはおそらく失敗すると思う。

     確かに、冒頭の神への賛美は残っているが、神の御思いがなるという部分は完全に欠落している。日用の糧の部分がイベントの成功や病人のための祈りにかわり、罪の告白とその悔い改め、他者の罪の緩しもない、そして、最後の神の主権性を認めている部分が神への賛美へと変わっている形で残っている。確かに祈りにおける主の祈りの影響のごく弱い痕跡を見ることはできようが、どうも神の主権性を表明し、神とその支配への賛美をし、神の支配にゆだねるというよりは、こちらのお願い聞いてほしい、という祈りになっている様な気がする。


    「えぇ、えぇ、神様、この祈りは私のことに関しての祈りであって、あなたのことでないことはわかっております」と祈りながら独白している姿を描いた漫画

    お願いの祈り・・・
     自由祈祷派のキリスト教会との親和性が高いこともあるのだが、このタイプの教会では、祈りとはいっても、より具体的には、願いの祈り、あるいは神への請願(petition)の集合体になっている方々もおられるのではないか、と感じてしまうのである。もちろん、苦しむとき、悲しむとき、ミーちゃんはーちゃんだってこの種の「何とかしてくれ」という祈りをしないわけではない。もっというと、旧約時代人などは、もっと直接的に神に対する叫びをあげている。ダビデ君なんか典型だけど。何か呪いに近い祈りも詩篇の中にはある。

     感情が淡白にできている極東人としては、こういう暑苦しい中近東人的な祈りの文言は結構しんどい。まぁ、中近東人自体、大体日常的にマイペースらしいし、このくらいのお願をすること位は、かわいいものなのかもしれないが、淡白な生き方をしている極東人には、この種の激情というのか、暑苦しさはちょっときつい。また、中近東人を見習って、神に感情をぶつけるような激情型の祈りをしようとも思わない。その辺が、ミーちゃんはーちゃんが覚めているとか、冷淡であるという評価の一端につながりやすいのかもしれないが。

     まぁ、淡白な祈りを日常的にするというのは、プロセスチーズを日常的に食べている人みたいなもので、そういう人が、中近東人の様な激情型の祈りを試みてみるのは、いきなり、ロックフォールとかのブルーチーズを食べるようなものかもしれない。 たしかに、ブルーチーズはうまいかもしれないが、食べ手を選ぶチーズの様な気がする。

    ロックフォールチーズ

    祈りをどう学んでいくのか?
     教会で祈ることは大切だ、祈ることは神とのコミュニケーションだ、あるいは、聖書記事で祈りの記事が出たときに時折、それに関して祈りに関して言及がある程度で、漠然としたことは教わるが、体系的に祈りについて、教会で学ぶ機会がなかったことを触れた。

     こうなると、人は祈れといわれたら、とりあえず、他人の真似、手直におられる教会の人の真似、牧師の祈りの真似をすることになる。つまり、誰かの祈りを参照にして、その様式をコピー&ペーストして、多少その中身を自分たちの関係者や関係あることに入れ替えながら、その人なりの祈りのスタイルというのか、テンプレートがつくりあげられていくことになる。

     そして、先人からのコピペが続けられているうちに、言葉そのものが同じではないにせよ、一種の祈りのテンプレート化がされてしまうのかもしれない。そうすると用いる用語や祈りのことばのリズムというか抑揚に関しても、コピーが繰り返されるうちに定型化が発生したり、あるいは、コピーしているうちに劣化することが発生する場合もあるかもしれない。

     ミーちゃんはーちゃんの場合も、この種のとりあえず他人の祈りの真似をするかたちで若い時代には祈りの方法を確立していったし、 また、ミーちゃんはーちゃんのキリスト者グループの関係者の場合、圧倒的にこのタイプで確立されている感じがする。キャンプなんかで、同じグループのいくつかの教会から人が集まる所では、その教会ならではの祈りのスタイル(祈りの中の声のイントネーションとか、必ず使われる表現がある場所で現れるなど)の傾向などがみられて、面白いなぁ、と思ったこともある。

     他人のコピーでなんとなく祈るのは分かるが、祈るということはどのようなことか、どのように祈るのか、他の宗教の祈りとはどのように違うのか、人間が祈るということとは何か、といったようなことは、はたしてきちんと考えられているのだろうか、と思うことがある。なぜ、主の祈りや式文に書かれたような成文祈祷(全員で声を出して祈る祈りを書いたり、印刷したりしたものに従って祈る祈り方)でなく自由祈祷なのか、ということは果たしてきちんと理解が広く認識されているのだろうか、と思うことがある。

     より具体的には、自由祈祷が重視される教会では、なぜ、成分祈祷をしないのか、もしそれが、成文祈祷では、聖霊は働かないと考えるのか、なぜ自由祈祷だと聖霊のお働きがあると考えるのか、というあたりの学びはきちんとそれぞれの教会ではされているのであろう、とは思うが、それがどこまで信徒の皆さんに伝わっているのだろうか、と思うこともある。そして、信徒さんはなぜ、自分が祈るように祈るのがよいと思っているのか、ということについて、どこまで真面目にお考えなのだろうか、とも思う。

     まぁ、こういう面倒臭いことは考えなくても、という気もしなくもないが、もし、祈りがその人の信仰生活を形作り、その人の信仰生活に影響を与えるのであれば、これらのことは、まじめに考える意味もあるのではないか、と思う。

     しばらく、このことを考えてみたい。


     
    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    Ave Maria Pr
    ¥ 500
    (2006-04)
    コメント:非常によろしいと思います。

    評価:
    来住 英俊
    女子パウロ会
    ¥ 810
    (2007-06)
    コメント:聖書の読みと祈りを変えた一冊

    2016.05.25 Wednesday

    「祈り」について、たらたら考えた(3)

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      これまでの2回は、公的な場での代表祈祷みたいな祈りを取り上げてきたが、今日は、公的な場における祈りが誰に向けられたものなのか、誰とのものなのか、という観点から少し思っていることを書いてみたい。

      神に向かう祈り
      ミーちゃんはーちゃんの個人の見解であるが(本来、そもそも論として本ブログの基本スタンスであるので、改めて述べる必要もないと思うのだが)、祈りは神に向かうものであるのだろうと思っている。そして、神ご自身の存在を覚え、神ご自身の栄光を想い、その栄光に満ちた神が、本来土塊に過ぎない人間である、この私にさえ関与されるというその奇跡を覚え、そのことが本当にありえないことであると思い、感謝し、そればかりでなく、土塊(アダムの語源と深いかかわり)に過ぎない人間と共に神が共に居たいという思いに、ある面惧れを感じつつ、そのことに感謝しその意味に思いを深く巡ら、そして他者性を持った神の思いとは何か、を聖書テキストをもとに思いを巡らせるのが祈りの第1義といってよいのではないか、と思っている。つまり、他者性を持ち、我らに臨在される神との出会いの日常の場、ライト先輩風の言い方を使えば、天と地が交わるインターロッキングする場所、あるいは、Thin Place(薄いベールで隔たれたような場所)神と人とが近い関係にある場所、旧約風の言い方をすれば至聖所ということであろう。

      まぁ、祈りとは、携帯電話で話すようなことと思えばいいのかもしれない。そう思っていたら、こんな面白い漫画があった。



      無線で話するのは、新しいことじゃないよ。あたし何か75年も(有線回線なしで)祈っているし
      http://www.glasbergen.com/?s=christianから

      インターロッキングの話が出た(出したので)ので、しょっちゅうあちこちでお会いするお友達の大頭さん作詞とその友達(ミーちゃんはーちゃんは面識がない。一度お会いしたいものだと思っている)の岩渕まことさん作曲のインターロッキング音頭(おふざけが過ぎ…人のことを言えた義理ではないが)もご紹介しておこう。なんか最近英語版も制作しているらしく、結構まぁ手広く展開中の模様。


      岩渕まことさんが歌う夜明けの歌(インターロッキング音頭) 字幕は大頭さんに頼まれたので、ミーちゃんはーちゃんが付けた


      ミーちゃんはーちゃんにとってのインターロッキングは、この工法の方が印象が強い。

      本来は、神に向かうものであり、神に向かってのものであると思うのだ。人に聞かせる、あるいは、聞いてもらうためのものというよりは。そもそも、恐らく旧約聖書の祈りに関する初出例は、
      【口語訳聖書】創世記
      4:26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。
      という部分であり、神に向かって呼びかけをする、ないしは神に向かって語ってくださるよう願う、ということであったように思うのである。基本的にもこの聖書箇所でも神の主権性が表れていると思う。まぁ、この段階で始めて出てくるということを考えると、それまでは、神と人はもっと近い状態であったのであり、今よりははるかにインターロッキングな状態であったのであろう。まぁ、エデンの園自体、確かにインターロッキングな状態であるといえば言えなくもない。

      キリスト者における祈りは、特定の神に向かって、あるいは聖四文字YHWHと呼ばれる方に向かって、その名を呼ぶ、という行為であると思っていいかもしれない。祈るという行為自体が、神の実在性を前提とした人間の側からの呼びかけであり、漠然とした祈願をなんだかわからないものに向かって実施するというものではないようである。

      エノスが生まれたころの人々が何語で祈ったのかはよくはわからないが、まだこのころはバベルの塔を建てていないので、言語は同じ言語であったのかもしれない。旧約聖書によれば、バベルの塔を建てたときに、神の介入があり、その結果、現在でもそうであるが地には多様な言語が生まれたようであるが。

      人に向かう祈り
      そもそもは、祈りは神に向かうものだと思う。聖霊が祈りに関与するのは、聖霊なる神が遍在し、我々に内在し、我々のいうに言えない思いをさぐられ、そして、父なる神と我々の接続というか、バッファというか、コネクターの役割を果たしてくださるのではないかと思う。だから、
      【口語訳聖書】ローマ人への手紙
       8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
       8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
      となるのであろう。

      ここで案外忘れがちなのは、『 神の御旨にかなうとりなし 』であって、なによりも神の御思い、主の支配が中心であって、『我々のみ心』や 『我々の野望』や 『我々の願望』 ではないのである。あくまで、主の祈りのように、神の御思い、すなわち 神の御旨がなりますように、というところがポイントなのだと思う。

      必殺祈り攻撃がある、ということを「いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた」というブログ記事で書いてみたが、この中で親心からとはいえ、ある個人に対して、聞こえがよしに祈る方がおられるということを記事にした。これは経験があるし、それに近いことを聞いたことがある。 例えば、ある高校生の方の大学進学の希望などが語られたとき、ご本人が進路選択で悩んでいる様な時に、一緒に祈りましょうというのは良いが、その中で例えば、「ご本人の思いはあるでしょうが、この教会に使わされたものとして」とか、「この教会にも若者が必要です。どうぞ、主よ、○○さんが、地元の大学に合格しますように」とか祈られたりすることも全く皆無、というわけではないようである。ミーちゃんはーちゃんの知り合いのあるキリスト者の方は、70年代のフォークブームの時に長髪にしていたら、宣教師から、「兄弟祈りましょう」といわれ、暗に長髪を切るように勧めているような祈りをされたことがあるらしい。

      今60歳前後のおぢさま・おばさまたちの40年前のお姿
      (恐らく新宿フォークゲリラと呼ばれた皆さん こちらもご参考に http://ameblo.jp/nyarome007/theme-10005819956.html
      なお、この時期ゴスペルフォークというものが流行った )
      http://www.sound-cafe.jp/so-net/folk.php?folk_arc_id=080522 から


      ゴスペル・フォークの一例(アナウンサーの声や歌唱法がいかにも70年代的・・・うちの息子なら、『めっちゃ昭和や』といいそう)

      若者が信仰告白を迷っているときに、その本人の目前で、「神様、この子はこのままでは滅びます。どうかあなたの力強い御手によって、この子が回心し、神と共に歩むものになりますように」とか、「この子が滅びませんよう、あなたの御力をお示しください」「今日悔い改めがなりますように」とか、本人を前にしていのられた日には、ただでさえ、家庭内環境の中で力の弱い子供としては、「悔い改めます」「イエス様を信じます」といわざるを得ないではないか。何がこれがつらいかというと、こういうことを口にしてしまっては見たものの、悔い改めを理解しているわけではなく、青年期には自分自身は悔い改めをしているふりをしているのではないか、と自分自身に疑いを向け、自分自身の信仰のなさにへこみ、自己嫌悪に陥る場合もあるかもしれないのだ。

      また、本人を目の前にして、「どうぞ本日お越しの方が神の前に今、この祈りの時に決心されて、祝福にあふれた神の道を歩まれますように」ならまだましではあるが、「本日お越しの方は、神の前から失われております。ですから、どうか地獄の苦しみを見ることがないように、今決心なさいますように、お導きください」とか祈られた日には、信仰を持たなければ滅びるぞ、と脅されているようなものである。まぁ、こういう祈りのことばを軽く無視できるほどの人ならいいが、気の弱い人なら、祈りが終わった後、信じました、とかいうかもしれない。そう考えてみると、こういう祈りは、普通の人の感覚からすれば、祈りではなく、呪いに近いのではないか、と思う。

      祈りとコンパッション ナウエンから
      今、主催しているナウエン研究会では、With Open HandsというHenri J.M. Nouwenという人の本を英語で読んでいる。その中にいくつか印象深い表現があった。
      To pray means to stop expecting from God the same small-mindedness which you discover in yourself. To pray is to walk in the full light of God and to say simply, without holding back, "I am human and you are God" At this moment, conversion ocurs, the restoration of the true relationship. (With Open Hands, p.90)

      祈るということは、あなた自身の内にある同じようなケチな思いを神に求めることではない。祈るということは、神の完全な光の内を歩むことであり、「私は人間にすぎませんが、あなたは神です」と一歩も引きさがることなく素直に言うことである。このように表明するときに、神のみもとに戻ること、すなわち、(人間と神との)本来の関係がとりもどされる。(ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)
       ナウエンは、人間性、もともとの人間性の回復を神と人とが話し合う関係、エデンの園で起きていた関係の中に見ているようである。人間が人間、即ち土塊に過ぎないことを認め、神の優位性を認める時、即ち祈りの時に、その関係が回復することであり、それが、改心というか、霊的な変革、神のもとに戻ること、あるいは改心が実現すると理解している様である。

      その意味で、キリスト者は1回こっきりの回心経験を経験するのではなく、祈りの中において、心の中を示され、その心の中が示される中で、神との本来の関係に入り、そしてそれが完全な形で回復するまで、この地上で歩む日々の中で深めていくと理解している様である。

      また、ナウエンは次のようにも書く。
       
      When you pray, you discover not only yourself and God, but also your neighbor. For in prayer, you profess not only that people are people and God is God, but also that neighbor is your sister  or brother living alongside you. For the same conversion that bring you to the painful acknowledgemnt of your wounded human nature also bring you to the joyul recognition that you are not alone, but that being human means being togather.

      At precisely this point, compassion is born. The compassion is not covered by the word "pity," nor by the word "sympathy." Pity connotes too much distance. Sympathy implies an exclusive nearness. Compassion goes beyond distance and exclusiveness.

      Compassion grows with the inner recognition that your neighbor shares your humanity with you. This partnership cuts through all walls wich might have kept you separate. (同書 pp. 91-92)

      あなたが祈る時、あなたは、あなた自身の姿を見いだすとともに、神をも見いすのだ。そのため、いのりの中では、あなた自身は、人は人にすぎず、神は神であると認めることになるのであり、そればかりでなく、あなたの隣人はあなたと共に生きる家族のような存在であることも認めざるを得なくなる。そして、あなた自身が傷ついた人間としての性質を持っていることを認めることにもなる(霊的)。神のもとに戻ることは、あなた自身が一人孤独でない(みな同じ状況を持っている)という喜ばしい思い、人間であるということは、共に生きるものであるという喜ばしい思いをあなたにもたらすのだ。

      まさにこの点において、コンパッション(共感)は生まれる。コンパッション(共感)は、哀れみという言葉でそのすべてを表すことはできないし、シンパシー(同じ気持ちになる)でもそのすべてを表すことはできない。哀れみの場合距離が存在するような感じがする。シンパシーの場合、入り込む余地のなさという感じがする。コンパッション(共感)は距離の存在や余地のなさを貫き通してしまうものなのだ。
      (ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)

      ここで、ナウエンは、コンパッション(共感 同じ方向を見、共に歩みながら同じように喜びも痛みもともに分かち合うという思い)を持つこと出の、祈りの重要性を解いており、人間は孤独なように見えて、同じような痛み、苦しみ、喜び、楽しさ、感動を共有するものであり、その共有がすべての人類に及ぶものであることを示しているように思う。つまり、神の存在を認める時に、人間の限界を認識し、そして、そこで被造物である自身の姿を見ることで、他者への思いを持つことができるということを指摘しているようである。それは、ある面、祈りは共にあることだ、とでも言いたげなほどである。決して、高みから第3者を教えようとか、自分自身の思いを理解してもらおうと言ったようなケチな思いなどが祈りに入り込む余地がないのではないか、といいたいのではないか、と思われるほどである。
      And yet, compassion is possible when it is rooted in prayer. For in prayer, you do not depend upon your own strength or on the good will of another, but only upon your trust in God.  This is why prayer makes you free to live a compassionate life even when it does not evoke a grateful response or bring immediate rewards.(同書 p.96)

      コンパッション(共感)はあなたの隣人があなたと同じ人間性を持っているという心の内側での洞察を成長させる。仲間である、ということは、あなたを他者と分け隔てするすべての壁を崩し、壁を通り抜けていくことになるのだ。

      さらに、ナウエンは、祈る時は、自分を含めすべての人間が人間であり、全ての人間が被造物であり、土塊に過ぎないこと、そして、祈ることは神の存在と、神が神であると認めることになり、その意味で、多少の違いはあっても土塊に過ぎない、そして死を迎えざるを得ないという意味において、人間は同一であり、それゆえに共感を持つことが可能になると指摘している。

      その意味で、祈りは水平的なもの、大小の差、あるいは高低の差、といった違いを志向するPity(憐れみ 憐れむ側と憐れまれる側、祈る側と祈られる側)という構造を持つものでもないし、同情とも訳され、同じ心の動きをしているために他者を排除するようなものでもなく、水平に広がるものであるということを主張しているように思えてならない。しかし、人間は利己的で、他人よりちょっとでも抜きん出ようとする(ミーちゃんはーちゃんは毎朝の通勤をするときに自分自身が性懲りもなく、椅子に座って楽をしようとするために、他人より先に抜きん出ようとするところがあるので、毎朝、反省を迫られているが、それでも、これは改めることができないという愚かな土塊、アダムの息子に過ぎないなぁ、と思う)ろくでもないものなのだ。しかし、そのろくでもないもの連盟というか、ろくでもないもの倶楽部をつなぐ存在として、ろくでもないものの姿をとってキリスト、即ちメシアが来られた。だからこそ、我々は祈ることができるのかもしれない。

      こういうことを考えると、我々が祈る時に他者に対してウエメセで祈るとか、自分が祈ったように必ずなるとか、自分は神に近い存在だと思って祈るとか、あるいは、人に聞かせ、人を自分の思うようにさせようとか思って祈るのは、なんかどっかバランスを欠いているのではないか、どっか違うのではないか、どっかナンセンスなのではないか、という気がしてくる。そのことが、この種の人に聞かせようとする祈り、とりわけ、人の思いを操作するような祈りのことばに、なんとなく違和感を感じる原因になっている様な気がする。

      次回成文祈祷と自由祈祷について少し考えてみたい。










       
      2016.05.28 Saturday

      「祈り」について、たらたら考えた(4)

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         これまで公的な場における祈りの実際の場で見てきたことから、公的な祈り、とりわけ自由祈祷を素材に考えてきた。今日は、成文祈祷について考えてみたい。その前に自分の祈りの歴史をもう少し書いておこう。

        ミーちゃんはーちゃんと祈りの背景とその風景
         ミーちゃんはーちゃんは、自由祈祷しかしないキリスト者集団で育った。主の祈りを教会の中で、全員で声を合わせて唱えるなどということもしたことがないし、詩篇交読なんかもしたことがないほどであったのである。レクティオ・ディヴィナに関して言えば、40歳に至るまで、知らなかった。射祷という概念も知らなかった。なぜ、このような固定された祈り、繰り返しするような祈りをしないような理解になったかと想像するに、恐らく、この部分からの発想があるのではないか、と思う。

        【口語訳聖書】マタイによる福音書
        6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。


         ここには、繰り返しという言葉はない。意味もなく長く祈らないように、意味もなく熱心に見えるよう祈らないように、神の全能性があるにもかかわらず、人間側の熱心によってあたかも神が突き動かされるかのような思いを持って祈らないように、という教えではないかと思うが、同じことを繰り返して祈ることはだめだ、という理解がいつの間にか広まったようである。

         まぁ、この背景には、仏教の一部のグループでの読経や御念仏のイメージと、繰り返しの祈りが表面上、様式論的に似ている、あるいはカトリックのロザリオの祈りが似ている、というあたりの事からの誤解によるものではないか、と思う。つまり、成文祈祷をそのキリスト教者集団ではしていないがために、成文祈祷の経験がなく、それがもたらす意味も、あるいは射祷と呼ばれる短い祈りのもたらす意味も、また、その重要性も十分理解ができていないが故の無理解というか、誤解に基づく言説ではなかったろうか、と思う。

         なお、ロザリオに関しては、カトリック世界の中では、かなりの文化伝承がある模様だが、そこまで詳しくない。大河ドラマとかで、キリシタン大名が変なロザリオを持っていたりすると、テレビ局や考証をしている人に苦情の通報が入る模様である。


        http://365rosaries.blogspot.jp/2012/05/friday-prayer-requests.htmlから

        成文祈祷に触れた時に
         しかし、最近、成文祈祷をするキリスト者集団とのお付き合いが始まり、少し考えるところがあるので、それに少し触れてみたい。

         最近かなりの頻度で通っているアングリカンコミュニオンの礼拝で、祈祷文の中で、時々次のような祈祷文を祈ることがある。この祈祷文を聞きながら、そして他の信徒の皆さんと一緒に口に出して言いながら、自分自身を思いめぐらすことがあった。
        Most merciful God,
        Father of our Lord Jesus Christ,
        we confess that we have sinned
        in thought, word and deed.
        We have not loved you with our whole heart.
        We have not loved our neighbours as ourselves.
        In your mercy
        forgive what we have been,
        help us to amend what we are,
        and direct what we shall be;
        that we may do justly,
        love mercy,
        and walk humbly with you, our God.
        Amen.
        https://www.churchofengland.org/prayer-worship/worship/texts/newpatterns/contents/sectionb.aspx
        B37から

         個人が勝手に翻訳していいのかどうかはよくわからないのだが、祈祷書の日本語版を持ち合わせていないのと、英語ではちょっという方もおられようかと思うで、ちょっと個人訳してみる。
        もっとも恵み深い神よ
        我らの主、イエスキリストの父
        我らは、罪を犯しました。
        思いにおいても、言葉においても、行いにおいても
        私たちは、私たちの心のすべてを尽くしてあなたを愛しませんでした。
        また、私たち自身の様に私たちの隣人を愛しませんでした。
        あなたの憐れみにおいて
        私たちがこのようなものであることをお許しください。
        私たち自身が今ある姿を正すことができるようお助け下さい。
        また、私たちが将来においてもあるべき姿となるように導いて下さいますように
        公義を行い、
        恵みを愛し、
        私たちの神、あなたと共にヘリ下りの内に歩むことができるように
        アーメン

         この祈祷文(英語)を声を出し、祈りとして発音しながら、何を思ったかというと、自分自身の罪深さをここまで真面目に思いながら祈っただろうか、ということを考えたのである。

         もちろん、自分自身でも教会において人々の前で祈り(自由祈祷だけど)をしてきたことは少なくない。特に聖餐式の開始祈祷なども何度もしてきた。しかし、基本、神の御名を賛美し、罪深いものでありながら、神との関係の回復が、人間としての回復あったことを喜び、この時間を神の手にゆだねること、って感じの祈りをしていた。

         ある面、自分が所属していた自分の所属するキリスト教グループで、大抵の場合そのような祈りを他の信者さんがささげて居られたからであるし、それが、そのキリスト教グループの伝統であったからという側面がある。

         そんなミーちゃんはーちゃんが、最初に英語で
        Most merciful God,
        Father of our Lord Jesus Christ,
        we confess that we have sinned
        in thought, word and deed.
        We have not loved you with our whole heart.
        We have not loved our neighbours as ourselves.

        を祈った時には、あぁ、自分自身、また信者であっても罪深いものであるとは祈ってきたが、ここまで考えて祈ったことはなかったし、確かに罪深いということをきちんと書くとこうなるよなぁ、と思ったのである。

         思いにおいて、口にする言葉において、そして行いにおいて罪人だ、と頭で理解してはいたし、聖書からお話するときにもそのようにお話はしてきたが、ここまできちんと罪深いということを想いながら祈ったか、というと個人の経験としてはなかった。

         さらに、罪をこの祈祷文では、

        私たちは、私たちの心のすべてを尽くしてあなたを愛しませんでした。
        また、私たち自身の様に私たちの隣人を愛しませんでした。


        と祈っているが、まさにこれこそ罪の本質的な部分なのではないか、と気付いたのである。これに関する聖書箇所は、律法学者とイエスの対話の中で、イエスが律旧約聖書を2つに要約した内容を基礎にしている。
        【口語訳聖書】 マタイによる福音書

         22:34 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
         22:35 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
         22:36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
         22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
         22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
         22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
         22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。
         まさに、新約聖書において、旧約聖書の根本である神から与えられたモーセの律法と神から与えられた預言者、即ち旧約聖書全体において、律法が大切にしていること、神が預言者を通して言わせた買ったことは何か、ということを示していることが反映されていることに気づき、あぁ、単に罪深いと告白はしていたが、その中にこの部分まで含まれていると思わずに祈っていたことのいかに長かったことか、と思うようになったのである。

         そして、本来の聖書の我ら人間への求めが神の前に立ち返ることであり、神の前に神との関係を正すことを、神に約束する(約束したってできるわけがないのだが、祈りの中でこういう表明をする方も時にはおられるような気がする)のではなく、神にそうしてくださることを求める、ということで神の主権性をものすごく求めるというところがある。

         さらに、神と共に歩むという神が求めておられることが人間にできるように、これまた土塊として人間が神にその介在を求めている表現の祈りのことばで締めくくっている。

         同様のことは、主の祈りに関するN.T.ライトの論文というかエッセイを巣鴨の教会の隣の工房で行われたN.T.ライト読書会で主の祈りの解説を読んだ時であった。それまでは、基本呪文に近いんじゃないか、祈りのテンプレートとしてのみ理解してきたが、そんなものでは済まない凄みを主の祈りが持っている(当たり前であるが・・・)ことは考えたこともなかったし、そういうお話を聞くこともなかった。それまでの教会生活での聖書からのお話の中で、主の祈りだけについて、何回かにわたって詳細な解説を聞いた経験を個人的には持ち合わせていなかっただけのことであるかもしれないが。

        個人が強く前に出ない
         成文祈祷の祈りでなくても、自由祈祷でも同じ内容は言えるはずであるし、言って祈っているはずなのだが、どうしても自由祈祷だと、言葉遣いの特性があったりして、その結果、代表祈祷で祈っている人とできるだけ同じ思いだと思い祈りはするが、なかなかそうはならない部分もある。それと、自由祈祷の場合、どうしても本来ふさわしいのだろうかというような祈りの内容とか表現が入るのは避けられず、うーんちょっと違うかもなぁ、と思うことも少なくない。

         成文祈祷のばあい、司祭(司式者)も信徒も同じこの祈りを共に口にすることになる。多少、祈っているときの思いや例の動きは違うかもしれないが、言葉が定まっており、また非常に練られており、余分なものがなく、また、基本聖書にもとづいた内容で祈っている。確かに、ある種の祈りの表現の多様性がもたらす豊かさ、味わいというものはないかもしれないが、こういう属人性を排除した祈りは、一種の骨太のものを感じることは確かなような気がする。

         神のことばに基づくだけに、この祈りの文言に違和感はないし、「まさに」、「そのとおりである」(アーメン)とミーちゃんはーちゃんはいえるのである。


         最初にこの祈りを英語で唱えたとき、本当に鳥肌が立ちそうになるような驚きというか、そこに込められた意味を考えながら祈る時、何とも言えないこれまで感じたことのないさされる思いを感じた。

        共同体としての祈り
         ミーちゃんはーちゃんがつい最近までよく通っていたキリスト教の信仰者グループでは、一緒に祈ることはあったが、それも祈る時は一人づつ祈るのであり、同じいのりの文章を一緒に読むという経験はあまりしなかった。一緒に祈るといいながら、フリーメソディストのある教会では、それぞれがてんでバラバラの内容をてんでバラバラの表現で祈る(小さな声で祈る)時間が設けられていたことも経験したが、このタイプの祈りも経験してこなかった。それぞれがてんでバラバラの内容を祈る時には、沈黙の内に祈るのが常であった(これもまたミーちゃんはーちゃんが長らく集った教会群が聖公会から引き継いだ伝統のようであるが)。

         しかし、全会衆が一緒に同じ祈祷文の文章をもちいながら、同じテキストを声を出して祈る良さはある。というのは、そこに共同体性の空間が生まれるのだ。一種讃美歌を全員で歌うことと同じである。つまり、会衆に祈りをするという参加、関与の機会が生まれるのである。個人的には、男性でもあるので、公の祈りをすることは推奨されていたが、ミーちゃんはーちゃんの教会歴としては最も長い教会では、女性が祈ることは良しとされていなったし、否定的であったといってもよいと思う。女性は、ひたすら敬虔にへりくだった心で祈ることしか許されていなかったし、その意味で、女性が教会に主体的に関与、参与できるのは、讃美歌を歌うときだけ、というところで育ってきた。ところが、共同祈祷を定型祈祷でするなら、それに声を合わせることができるのだ。

         その意味でこのような定型祈祷を共同体全体として男性女性の区別なく声に出していい、述べるとき、女性も参加できるのであり、それ女性も男性も区別なく参加できる一種讃美歌と同じ構造となっているということを、家人から指摘されるまで気にしたことがなかったのである。その不明を反省している。

        暗唱聖句と祈り
         教会によっては暗唱聖句と称して、その日の聖句を共に教会全体の共同体として祈る教会もあるが、それは一種の定型祈祷といってもいいのではないか、と思う。特にテクティオ・ディヴィナという聖書を覚える祈りと暗唱聖句は案外深い関係にあるのではないか、と思う。

         個人的には、子供のころ、暗唱聖句を間違わずに言えるようになるのが大嫌いだった(なんでそんなこと間違わず、言いよどまず言えるようになるために努力をしなければならないのだろうか、と思っていた。暗唱聖句を強要されるのは罰ゲームでしかない、と思っていた)。しかし、年齢と教会での経験が積み重なるとともにこの暗唱聖句の効能がわかってきたのだ。というのは、老眼になっても、たとえ、目が見えなくなっても、この暗唱聖句は生きるのだ。聖書が読めなくても、頭の中にある暗唱聖句を引き出して、神の御思いを考えることができるようになるということを考えると、暗唱聖句や聖書が暗唱できることに別の意味が見いだせることになったのであった。ただ、言いよどまないようにするため、只々間違えない様に手早く暗唱するのではなく、一言一言その言葉を味わいながら、神の御思いを訪ねるタイプの暗唱聖句ではあるが。

         聖書が読めないとお嘆きのお年寄りの信徒の方には、「そんなねぇ、量を競い、速度を競うような形で必ずしも聖書を 大量生産大量消費の様なモードで読まなくてもいいのかもしれませんねぇ。何のために聖書を読まれるのですか、その理由を是非お考え下さいね。聖書を読む意味は、神の御思いを考え、聖書から探ることでしょう。そうだとしたら、数こなしたことで満足しないで、一日に数節、それさえ厳しければ、1節でもいいので、繰り返し繰り返し言葉を味わうように読まれたらいかがですか?」とお話することにしている。

         そういうのんびりとした聖書の読み、というのはある面、ご高齢の方には向いている様な気がする。

         次回、もう少し成文祈祷の良さに触れてみたい。



         
        2016.05.30 Monday

        「祈り」について、たらたら考えた(5)

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          今日も、前回に引き続き、成文祈祷について考えてみたい。

          形だけ成文祈祷にしてもナンセンス
          成文祈祷は、目前に拡がる世界があまりに悲惨で、あるいは凄惨で、言葉を失うとき、あまりのショックに言葉を失うとき、茫然自失状態にあるとき、あるいは何を祈ったらわからない時、その時であっても祈ることができる祈祷である。

          ただ、こういう特徴を持つので、全く問題がないか、といわれると、必ずしもそうではない。気を付けておかないと、成文祈祷をかたちだけ祈っておけばいいのだろうと、祈りがいい加減になる可能性はないわけではない。そして、意味も考えずに、成文祈祷の表現の表面だけをなぞる場合や、そういう人が出て来ることを防ぎえない。主の祈りを一語一語味わるようにして、その文字や表現の奥にある意味を考えながら祈る人々は、どの程度あるのだろうか。

          問題は形ではなく、その奥側にあることなのではないか、と思う。

          自由祈祷でも、祈りの言葉を口にする場合であっても、どこまで神の主権性や神との関係を考えているか、あるいは祈りの表面的なものに注視してしまい、言葉の奥というかその先にあるものを把握せず、その表現だけをなぞる場合もあるだろう。

          異言の祈りは経験がないのでよくわからないが、自由祈祷の場合で、通常の言語において祈っている本人は何を祈っているのかをある程度意識して祈っているであろうし、また、その祈りを聞く方も、その内容に思いを巡らせるのではないか、と思う。あるミーちゃんはーちゃんのお知り合いで異言の経験がある方によれば、祈る言葉がない時に異言での祈りが出ることがあるという。それはそれで、個人と神との関係であるので、それに何か申し上げるつもりもない。

          要は、代表祈祷がなされているときに、どの程度その言葉の奥に心を向けて、そこの奥にある意味を感じ取り、その奥のものを自らのものとして共有していくことなのではないかなぁ、と思う。その意味で、祈りの中における神と私たち、そして、神と私の関係が重要なのであり、異言がどうのこうのとか、自由祈祷がどうのこうのとか、成文祈祷だからどうのこうのとかではなく、そもそも祈祷とは、神に向けての祈りであり、そこで何が述べられようとしているのか、また、何が共有されようとしているのか、という部分に目を向けるべきではないか、と思う。

          確かに成文祈祷のことばは練られている。しかし、それだけにその言葉の奥に思いを向けるというか、霊において祈るというか、形に表されつつも、形を超えた何かがあるような気がする。

          成文祈祷の多様性
          成文祈祷がいいと思う部分があるとかお話すると、ちょっと血相が変わったような形で「そんなことはない。自由祈祷が一番だ、同じ言葉を彼らは呪文のように繰り返し祈っている」とかおっしゃる方がおられる(実際にお会いした時に言われたことがある)が、本当にそうなのだろうか。このような成文祈祷に対する批判的なものいひは表面的な現象をとらえた、実際を知らない批判であり、どこかで誰か(たいていの場合、その人にとって尊敬に値するえらい人)がした発言を再現されているだけのことが多いようである。実に残念な傾向であると思う。こういうことをおっしゃる方には、「実際に成文祈祷がなされている、同じ教会に何度かお出ましになったことがありますか?」「成文祈祷をなさっているような教会の司祭や牧師の方とお話されたことがございますでしょうか?」と聞くことにしている。

          ところで、同じ内容の祈りであっても、実に多様な祈りのパターンというか種類があるようである。また、同じ内容の祈りでも、表現が違うものが何系統かあり、また、それぞれを祈りながら、そのわずかな違いに違った思いというか、霊性の違いを感じることがある。ある面、聖書翻訳の違いがあり、その違いを読み比べる中で、その意味がおぼろげながら見えてくるということもあるように思う。
           なぜ、そんなことを思ったか、というと、成文祈祷の代表的なものとして新約聖書に記載がある主の祈りに何系統かの祈りの表現が英文ではあり、ある時、アングリカン・コミュニオンの聖餐式の中で、ある本訳の主の祈りを一緒に声に出して読みながら、そこで罪の本質というものに気が付いたことがあったからである。英文での主の祈りには、
           
          現代的なもの
          Our Father in heaven,
          hallowed be your name.
          Your Kingdom come,
          your will be done,
          on earth as in heaven.
          Give us today our daily bread.
          Forgive us our sins
          as we forgive those who sin against us.

          Lead us not into temptation
          and deliver us from evil.
          For the kingdom,
          the power and the glory are yours
          now and forever.
          Amen.

          もあるが
          伝統的なもの
          Our Father, which art in heaven,
          Hallowed be thy Name.
          Thy Kingdom come.
          Thy will be done in earth,
          As it is in heaven.
          Give us this day our daily bread.
          And forgive us our trespasses,
          As we forgive them that trespass against us.

          And lead us not into temptation,
          But deliver us from evil.
          For thine is the kingdom,
          The power, and the glory,
          For ever and ever.
          Amen.
          もある。太字にしたものをご覧いただきたい。日本語のプロテスタント役として知られている主の祈りでは、
          我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
          我らの罪をもゆるしたまえ。
          とされている部分である。

          現代的なものでは、sinという言葉が日本語での罪を表す言葉として用いられているが、伝統的なものでは、trespassという語が用いられている。つまり、正当な権利を持つものでないものが他人の権利を侵害する、あるいは神の権利を侵害しているという構造が罪という言葉を表現するものの中に、表れている。また、他の現代語訳の英文聖書ではsinに変わってdebtsが使われているものがある。実にこのあたりのことば選びがある面、極めて深い陰影を残していると思う。

          普遍性が支配した近代という社会で広く普及した機械的な翻訳が可能であるという前提には、全ての言語における単語は一対一対応するという近代的なトンデモの仮定があるように思う。世の中そうはいかないのである。ある言語にあって、ある言語にない単語、ある言語で一語で表せる内容を他の言語ではどうやっても一語で表現しにくいと認めざるを得ない言葉もあるように思う。

          そう思っていたら、英語ネイティブでもなぜ、trespassを主の祈りで使うのかに関して疑問に思う人がいたらしく、アメリカのカトリック教会関係の雑誌のウェブサイトでその質問に答えてあった。

          http://www.catholic.com/quickquestions/most-bible-translations-use-the-word-debts-in-the-lords-prayer-so-why-do-we-say-forgi

          まぁ、詳しく知りたい人は、こちらをご覧になっていただけるとよいか、と思う。中でウェブスターの辞書の内容である、道徳的または社会的な倫理に反すること、という語が引用されて、それが罪の本質ではないか、ということが書かれていた。

          主の祈りをこのTrespassという語で祈った時に、罪とは、それは神が定めた状態に反することであろうし、それは、神の御思いと神の権利関係の侵害である、ということを思ったときに、あぁ、確かに罪の本質をうまく言い表せている、と思ったのである。

          もちろん日本語でもこのようなことは可能であるとは思う。以前覚えていた主の祈りでは、「我らの負い目をゆるしたまえ」と英語のDebtsに近い翻訳(文語訳かなぁ)のものもあったし、このあたり、日本語聖書の異なる翻訳を読むということで見えてくるものもあるのではないかと思うのである。


          ギリシア語での主の祈り
          (しかし、この動画の提供先がすごい Center for Nonharming Ministriesって、ねぇ。どんだけミニストリーと呼ばれるものが人を回復させるのではなく、人を傷つけてきたことの表れのようにこの組織の名前が指し示しているように思われて仕方がない)

          なお、我らに罪をおかすものを…の部分は、カヤフェッシィミンタァ と聞こえる0分38秒くらいからのところである。


          主の祈り http://www.stprohor.org.au/the-lords-prayer-2/ より(どうも正教会系のサイト)

          その短さと覚えやすさ
          基本的に成文祈祷は言葉が練られていて、必要なことを非常に短く表現するようにできている。長期間にわたって改訂が続けられているが故の部分もあるのではないか、と思う。成文祈祷の成立の歴史などは全く無知なので、だいぶんいい加減なことを書いているようには思うが、長く祈られてきた表現であるという側面を考えると、あながち外れてないかなぁ、と思う。

          必要な事項がぎゅぎゅぎゅとコンデンスミルク(練乳)の様に詰められて、入っているのが成文祈祷である。味が濃いというかまさに詰まっているという感じがする。


          コンデンスミルク

          言葉が練られていて詰め込まれているという意味でも、成文祈祷はコンデンスミルク的な祈りであるの出はないか、と思う。その点、自由祈祷は、牛乳のようなさらさら感があるし、以前の記事でも触れたように、時々祈りの中に他者に聞かせるための文言のような別物を混ぜて祈られる方もおられる。こうなると水で薄めた牛乳に近いような気もしなくもない。なお、それが悪いということを主張しているのではない。ミーちゃんはーちゃんが思うところと少し違う、というだけである。

          成文祈祷は短い。その中に思いが込められている。そして、覚えやすい。その意味で、祈りのことばを覚えるという意味においても、自由祈祷派の皆さんの中でも、この種の成文祈祷としての祈祷文を参考にすることぐらいはできるのではないか、と思う。まぁ、以前、このブログ記事でも紹介したニーバーの祈りも、一種の成文祈祷といえなくはない。非常に良いと思うので、ここでもう一度上げておく。
          ニーバーの祈り

          神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
          静穏のうちに変えられないものを受け入れ
          変えるべきものを変える勇気を
          そして、変えられないものと変えるべきものを
          峻別する知恵を私に与えて下さい

          一日を瞬間瞬間生き、
          一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
          平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
          ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
          この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
          私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
          あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
          あなたの御思いに身を委ねることで、
          私が受け取るにふさわしいしあわせな人生を過ごせますように、
          そして、あなたの隣に私をおらせ、
          これからも、これ以上ないしあわせを永遠に味わうことができますように。
          (以上 個人的日本語変換)
          韻がもたらすリズム
           日本語では、韻文もあるが、韻文とするためにはかなりことば選びをしないといけないし、韻文そのものが声に出されて読まれる習慣がない。どうも日本の現代の文章は、声に出して読まれるというよりも視覚的に読まれるようにできているように思う。そもそも、日本語に韻文に近い文化が無いし、リズムを文章に与え、そのリズミカルな文章を語ることで、聞いてもらうことを前提に文章を書くという習慣がないとおもう。詩やCMのキャッチフレーズ(セブン・イレブン・いい気分は韻を踏んでいる)を除いては、であるが。基本、日本語の文章は散文が中心な気がする。まぁ、科学技術論文とかで、韻文で書かれた日には…ということもあるので、実用的な文章では、基本的に韻文となっていないのである。

          自由祈祷で、韻文で祈るというのは、英語でもかなり厳しいであろうし、さらに言えば、日本語ではもともと韻を文章中に踏むというその文化が無いので、ほぼ無理ではないか、と思うのだ。

          先ほどの覚えやすさとも絡むのだが、韻文というのは覚えやすいように思う。文章にリズムがあるし、そのリズムに乗って覚えることが可能であるのだ。リズムといえば、ラップが典型的にリズム重視であるが、調べてみたら、ラップで主の祈りを唱えているものがあったので、ご紹介だけしておく。なお、ミーちゃんはーちゃんの霊性とはだいぶん違うけれども。

          ラップでの主の祈り

          そして、韻文は心に響くのだ。韻文としての伝統が無い日本でも、韻文は心に響くし、心に残るのだ。聞いていて気持ちがよいのだ。従って、CMなどではよく用いられる。以下にいくつか例をあげておく。


          タンスにごんのCF たんすにごんごん ・・・ねん という関西方言で、韻を踏んでいる


          AUのギガとネギが(ね ギガ で韻を踏んでいるが厳しい)をかけたCM
           
          韻文がCMなどのキャッチフレーズ以外で日本にないのは、実に残念と思うこともある。どうしても、だらだらとなりやすいし、覚えにくい。主の祈りも英語でもギリシア語でも韻文であるようなので、それを通常の韻文を嫌う日本語にした瞬間にちょっと覚えにくいし、なんとなく味わいが違うと思うのは、ミーちゃんはーちゃんだけであろうか。

          また、特に賛美歌(ワーシップソングなども含む)においても、もともとの英語だとおさまりがいいのに、それが日本語に翻訳されて、日本語化した瞬間に意味は変えられてしまうし、韻はなくなるし、そういうこともあり、日本語訳歌詞が全体としてのおさまりのわるさというか、調子が悪さが残るようなきがする。もともと、言語に対する感性というか、音に関する感性などを含んでいるため、原歌詞のそのままのような表現とならないのは、この辺の文化的差異だと思う。

          なお、関西方言では、犬のチャウチャウ種にかけた言葉遊びとして
          「あれ、チャウチャウ」
          「チャウチャウちゃうんちゃう?」
          「ちゃうちゃう。チャウチャウちゃうんちゃう?」
          「チャウチャウちゃう。チャウチャウちゃうちゅうねん」

          という韻を踏んだ言葉遊びの文化があるが、この辺は面白いなぁ、と思う。あるいは、東北方言、津軽方言もある面で言うと韻文を生みやすいかもしれない、と思う。この辺、日本語であっても、韻文を生みやすい方言と韻文を生みにくい方言があるのではないか、と思う。なお、落語のオチないしサゲには、この辺の親父ギャグともいわれる韻文の影響が感じられるものがある。

          本シリーズは、もう数回だけ続ける。次回は祈りと身体性について。





           
          2016.06.01 Wednesday

          「祈り」について、たらたら考えた(6)

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            祈りについて、たらたら考えた、というシリーズをはじめてしまったが、あともう2回くらいで一応の小休止としたいと思う。今回は、祈りと身体性という問題である。これは案外大事ではないか、と思うのだ。

            暴論であるといわれるのを覚悟の上で、申し上げると、個人的には、呼吸することも祈りであると思っている。土塊から形作られ、神からその鼻に神の息吹、息を吹き込まれて、はじめて人間になったのであり、人間は神の息吹(神の霊と呼んでもよいとは思うが)を呼吸することで人間本来のかたちをとり返す、と思うのだ。そして、それが神の願いであるとも。つまり、神のものであるという意識の下、息を吐きだすことは、極端な理解であることを承知の上で申し上げると、神のものを神の世界に返すものであり、神との関係の回復がなされているという意味で、言葉を用いなくても祈りの一種に近いのではないか、あるいは神への礼拝の一種と呼びうる可能性を含むものではなかろうか、と思う。言葉だけで表現されるものが、日本語だけで表現されるものが、あるいは英語だけで表現されるものが、あるいは異言だけで表現されるものが祈りのことばと呼んでいいのだろうか、とも思う。あるいは言葉による祈りが祈りであり、それ以外のものは祈りではないと限定的に考えてよいのであろうか、という疑問はミーちゃんはーちゃん個人としてある。

            身体性とは何か
            祈りは、全人格、一人の人間の一体性を通して表現するものではないか、と最近思い始めている。もちろん、民族による違いもある。ちょうど民族や言語によって表現方法が異なるように、身体性も異なるのではないか、と思う。もちろん、個人による新体制表現の違いもある。子育て中に観測したことであるが、同じ環境におかれていても、音楽への反応は二人とも違う。一人は音楽がなりだすと、本人が意識しているのかどうかはわからないが、自然に手や足が動くタイプであるが、もう一人は、そんなこともなく、なんかうるさいなぁ、という顔をしていたことがあった。さほどに違うのだ。


            繰り返しの身体性と舞踏
            宗教的行事において、この身体性を伴った、繰り返しの行為が行われることがある。皆さんご存じの盆踊りが典型である。同じリズムの同じ歌を聞きながら、ぐるぐると繰り返しエンドレスに踊るというか日常的に慣れ親しんだ動作がいくつか組み合わされた上で、繰り返されるのだ。


            風の盆での踊り

            炭鉱節による盆踊り

            イスラエル兵の踊り

            ロシアにおけるユダヤ人を取り上げたニュースらしい。
            ロシア語がわからないので、何とも言えないが、いろいろなロシアのユダヤ人の祈りにおける身体性が見られる

            カナダでのアッシリア風のギリシア式結婚式でのダンス


            ギリシア正教会式での結婚式(オーストラリアのパース)式文は英語 会堂内で聖卓の周りを円形に回る儀式がみられる


            イスラムスーフィズムの回る修行僧(トルコ、イスタンブール)
            ここに「回るダービィッシュ Whirling Dervishes」という語があるが、このDervishというのは、喜捨によって生きる 一種の ムスリム修行僧ないしムスリム遊行僧を表すペルシャ語由来のことばで、日本発の野球選手テキサス・レンジャーズのダルビッシュの名前の由来と思われる。


            http://akasannz.com/supports/darubiltusyu-kinniku-toreningu-syokuji/ から

            マオリの結婚式で行われたハカ

            以上余談

            文化人類学的研究によれば、この円環及び回転の問題というのは極めて重要で、円環が終焉がないこと、しかし、終焉がないことで、永遠を現すのだという。例えば、最も典型的な例としては、仏教やヒンドゥーにおける輪廻思想は、永遠の輪廻を表すのに円環を用いる。結婚指輪が円環でできているのも、これまた、永遠性を表すということがあるらしい。その意味で、これらの円環ないし回転を持つ儀式は一定の意味を身体性を通して表しているようである。

            祈りにおける身体性
             祈る時の手のかたちにもいろいろあり、非常に印象深い。人々は様々なポーズで祈る。日本にはない、あるいはかつての日本人はしたかもしれないが、今の日本人にはないポーズがある。ポーズ自体にも意味があるように思うのだ。そして、様々なポーズに人々は意味を込めていると思うのだ。

            平たくした手を合わせる形


            手を握り合わせる形


            手を開いて神の祝福を受けようとする形

            ではからだのポーズとしては、どんなものがあるかといえば、これまた種類が多いし、信仰形態においてどのポーズが好まれるか、ということは異なるようである。様々なポーズを集めていた写真があったので、ここに紹介する。

            様々な祈りの形態

            ムスリムの祈りの代表的なポーズ

            ある面、ポーズも祈りであるようにも思う。どのポーズが望ましいとか、どのポーズが適切だということを主張したいわけではない。それぞれの人がそれぞれ神の器として、というか神がつくり給いし者としてあるポーズをとることで祈りをささげているのではないかと思うのだ。

            家人が友人何名かと一緒に、ガイド付きで最近イランを2週間ほど旅行した。その時付いたあるガイドは、かなり世俗的なイラン人であるにもかかわらず、可能限り、祈りの時間の時には公の場でも、どこでも、定められた方法で祈っていたらしい。それを見て、身体性を伴った信仰の姿を見た感じがした、という印象を語っていた。その話を聞きながら、自らの信仰生活を顧み、身体性にまで沁み込んだ信仰ではなく、まだまだ、ことば中心の、頭や心中心の信仰生活でしかないのだなぁ、と改めて思い知った。まぁ、身体性にまで沁み込むと、文化と信仰が識別しにくくなるという問題を含むので、それはそれで厄介ではあるけれども。

            また、娘の同僚に、インドネシア系の女性がいるらしいが、一緒に研修出張で行った出張先から帰る特急電車の中で、祈りの時間が来てしまい、電車の中で祈るのに大変苦労していたらしい。こういう話を聞くと、律法的ととるか、身体性と一体化したととるか、身体性を含む文化となった信仰ととるか、まぁ、それぞれとり方は一様ではないと思うが、個人的には、ある面、祈りと身体性の問題を深く問われている。

            あるいは、十字を切るという習慣をミーちゃんはーちゃんは自分自身の無理解の故に十分に考えてこなかったが、あれも一種の祈りであり、身体性による祈りであると考えると、その重要性は一概に無視できないように思う。
             
            これらの身体性を伴った祈りは、ある面自分自身の信仰の身体性を伴った表明でもあるし、どのような所作が求められるか、望ましいかはそれぞれおありだとは思うが、その細かな部分の議論はいったんおいておいて、その身体性を伴った行為(身体性を伴った祈り)の先にあるものは、ある面、自分自身が信仰するものがあるということの表明であるということを考えると、非常に重要なことではないか、と思うようになっている。

            プロテスタントが軽視してきたもの
            というのは、先日、イクメン編集長とお話する機会があって、そこでの話でも少し出たのだが、近代日本に伝わったキリスト教が宗教改革を経たキリスト教であったので、ある面、書いているかどうか、ということが重要なキリスト教の側面が強いし、そして、その中で出版という事業があるなぁ、ということを思ったのである。

            そう思っていたら、今週東京に向けて出発した牧師先生と難波のメイド喫茶(牧師先生のたっての希望)でお話しているときに、思想としての編集者というお話が出てきた。まぁ、ある面、編集者たちが神学的思想を書いたものを見出し、そして、それを編集者とのやり取りで書籍と消化する中で、神学的思惟が固定化され、固定化されることで他者に伝達可能なものとしてなっていくというような趣旨の話をメイド喫茶でしていたが、ある面、明治期以降の日本におけるプロテスタントが軽視してきたものは、思想や聖書理解そのものであり、その結果としての身体性、言葉では伝わらない身体性を失っていったのかもしれない、と思っている。本来、思想と神体と、霊性というのは分解できないものであるはずだし、それを分解できるとしたところに、近代思想や近代の理解の体系に無理があったのではないか、と思うのである。まぁ、この分解の思想こそ、ギリシア的な科学哲学の行きついた先というか、行きついた結果というか、ある面、それを推し進めたところに近代の悲劇が生まれる種となったのではないか、とは思うが。
             
            ある面、近代は科学に支配されてきたし、科学による支配を社会として容認というか是認してきたように思う。そして、その風潮をキリスト教にも仕込まれ、本来分けてはならないもの、失わない方がよかったものまで、分けてしまった挙句に捨ててしまったり、失ってしまったりしたのではないだろうか、とも思うことがある。

            近代で失われた身体性
            昔、別冊宝島でオウム事件に絡んで、確か山崎哲氏だったと思うが、オウムが若者に受けたのは、科学性に支配された現代社会が身体性を軽く見ていたのではないか、身体性を失った、ある意味実感を失った現代の若者に身体性を通して確実性があるものとしての何かを与え、そして、身体性を通しての何らかの実在という認識を与えることができたのが科学では十分説明できない神秘主義的な側面をも体系の中に含むヨーガであったり、修行であったりしたのではないか、と思われる。その意味で、オウム真理教は身体性が失われゆく中での近代社会の中に生きた若い人々、とりわけ、技術系や理工系での仕事を求めた人々の叫びに応えたという側面があったのではないか、と思う。

            一応、次回、お願の祈り、祈願の祈りと呼ばれるものに触れて、いったん本連載を閉じたいと思う。その書籍等の紹介の後、再開するかも知れないが。

             



             
            深井智朗
            新教出版社
            ¥ 2,570
            (2011-06-24)
            コメント:読むべき本かもしれないという意味でメモである。

            2016.06.04 Saturday

            「祈り」について、たらたら考えた(7)

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               今日は、祈りについて、たらたら考えたことの最後の部分として、お願の祈り、というか請願の祈りというか、祈願の祈りについて少し書いてみたい。

              お願の祈りについて
               お願をする祈り、即ちこの種の祈りを、どうも、 prayer of petitionというらしい。このことについて、ナウエンはWith Open Handsで次のように書いている。ナウエン自体は、この請願の祈りというのか願いの祈りを否定していないが、それをどう祈るかが問われているという。まず、祈りの定義というか分類に関して次のように書いている。
               
              Sometimes we regard it(引用者註 prayer of petition) as less noble tha prayer of thanksgiving and certainly less noble than a prayer of praise. A prayer of petition is supposedly more egocentric because we are putting our own interests first and trying to get something for ourselves. (With Open Hands, p.67)
               
              時に、祈願の祈りは、感謝の祈りに比べて品性の書けるものとみなされる場合がありますし、賛美の祈りに比べて あきらかに品性の欠けたものと見なされることもあります。願いの祈りは、かなり自己中心的なものと思われています。なぜならば、願いの祈りでは、自分たちが関心のあることを最も重要なことにしてしまっており、自分自身にとって利益が生まれるような何かを得ようと思っている祈りだからです。(ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)
               たしかに、願いの祈りには、こういう部分はある。自分たちの関心が第1になっており、神の主権性が大きく失われている例が少なくない。ちょうどノビタくんが、ドラえもんにお願いするような祈りに近い部分がある。あるいは、神様を顎で使っているのではないのか、と思われるような祈りも時に見られる。個人的にそれはどうかと思う。

              では求めてはいけないのか?
               では、聖書は求めることを禁じているのだろうか?求めてはいけないということではない、とも思う。お願いの祈りが劣るものとか、品性において劣るものともいわない。実際に個人としてそう祈ったことが何度あったことか。そもそも、確かに聖書は、次のように言っている。(以上、引用者による日本語変換)
              【口語訳聖書】
              マルコによる福音書
              11:24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

              ルカによる福音書
               11:9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
               11:10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
               
              ルカによる福音書
               12:31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
               12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである

              ヨハネによる福音書
               15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
               15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
               但し、我々が忘れてはならないのは、何かを得ることが中心ではないということだと思う。あるいは、何らかの状態を確実なものとすることを求めることが中心ではないということである。とりわけ、ここで引用した聖書箇所の最後の二つ、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書の中のことばに注目してもらいたい。「ただ、御国を求めなさい」「 御国を下さることは、あなたがたの父のみこころ 」「 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっている 」「 わたしの父は栄光をお受けになる 」つまり、ここで引用した聖書が主張しているのは、自分の願いの実現を求めることは一概に望ましくない、とは言わないが、それより優先すべきことがあること、本来われわれの願いの祈りの先と言うのか奥にあることは、神が栄光をお受けになる、ということであろう。祈りとは、とりもなおさず、神と我らが一つになる(個の聖書のカ所での、「私につながっている」とは、私のことば(つまりイエス)が人間に共にいることである、つまり、インマヌエル(神が我らと共に在る)が人間に実現しているということへの賛美の声があげられている、という理解ではないだろうか。つまり、神がすべてのものへのケアに与える者であり、その全地万物に関する権能を保有するお方が、それにふさわしいものとして、我々との関係を回復するところにかかっているような気がするのだ。

               我々は、この実際社会における現実ないし状態が、確実に自分自身が望むとおりになることを望みやすいものではないか、と思う。それは人が鼻で息するものであり、所詮、土塊に過ぎないからであるとは思う。その意味で仕方ないとは思うが、祈る時に、自分の思い通りに現実がなることにより、神に栄光が帰されるというような思い違いをしているとしたら、それは適切なのだろうか。

              祈りでの重要な方向性
               祈りにおいて目が向けられるべきかもしれない対象について、ナウエンはさらに次のように書いている。
              The important things about praer is not whether it is classified as petition, thanksgiving or praise, but whether it is a prayer of hope or of little faith.

              The prayer of little faith makes us cling to the concrete circumstances of the present situation in order to win a certain security. The prayer of little faith is filled with wishes which beg for immdediate fullfilment. This kind of prayer has a Santa Claus naivete about it and wants the direct satisfacition of very specific wishes and desires. When this prayer is not heard, that is, when we don't get the presents we wanted, there is disappointment, even hard feeling of bitterness.
              (同書 p.68)

              With this prayer of little faith, the concreteness of the wishes eliminates the possibility for hope.
              (同書 p.72)
               
              祈りにおいて重要なことは、それが、お願の祈り、感謝の祈り、賛美の祈りのどれかに分類されるということではなく、むしろ、それが、希望に根差した祈りなのか、信仰の薄さに根差した祈りなのか、ということではないだろうか。
              信仰の薄さに根差した祈りは、現在の状況について、あることが確実に 実現することにこだわらせるものであり、それは、ある種の保証を勝ち取ることと深くかかわっているのだろう。信仰の薄さに根差したいのりは、すぐに実現するように願うような個人的な願に満ち満ちている。ちょうど、この種の祈りは、サンタクロースにお話をすぐに信じるような単純さに根差しており、自分自身の希望や願いがそのまま願った通りに実現するよう思うことでもある。そして、祈りが聞かれなければ、つまり願った通り実現しない時には、失望が生まれ、そして、神に対する苦々しい思いを生み出しかねないのだ。

              信仰の薄さに根差したいのりでは、この希望が確実に実現するということにより、神にある真に希望を持つことができなくなってしまうかもしれないのだ。(ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換)
              所詮人間は信仰の薄い者たちなのだと思う。弟子たちもそうであったように。
              【口語訳聖書】
              マタイによる福音書
              6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。

              マタイによる福音書
               16:8 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。
               16:9 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
               16:10 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
               16:11 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。
               薄い信仰に根差したいのりがまずいのは、ミーちゃんはーちゃん風に言うと、祈りにおいて主客が逆転するからではないかと思う。つまり、薄い信仰に根差した祈りは、神が中心になるのではなく、人間の希望、勝手な願い、あるいは、クイックフィックスと呼ばれる、瞬間的に実現するような願いの実現、あるいは人間そのものや人間そのものの願望に中心性が移ってしまい、本来神の御思いが中心となるべき、最優先になるべきなのだが、人間の思いが祈りにおける中心や最優先になってしまうという価値の逆転現象が起きるのではないだろうか。

               そして祈っても自分の夢や願いがかなわない(より正確に言うならば、自分の思い通りにならない)と嘆くことになる。こうなると、本来神に向かうべきところが、自分に、そして自分の内側に向かっている人たちになりかねない。そして、自分を責めることになる。

               より具体的には、自分が罪深いから、祈りが聞かれなかったのが(自分が罪深いから、自分の思い通りにならないのだ)とか自分自身の聖書の理解が足らないから、祈りが聞かれないのだ(と突然聖書を意味も分からず読み始め、ある気間に聖書を読んだ量をこなすことに向かい始め、時に消化不良を起こし、聖書理解が混乱する)、とか自分自身の祈りの熱心さが足らなかったから、祈りが聞かれなかったのだ(と突然長時間、徹夜したり、断食したりしながら、神に向かって必死のアピールをして、「主よ主よ」と意味もなく呼びかけるようなり、しまいには何を祈っていたのだかわからなくなる)というような状況を経験した人も少なくないのではないだろうか。

               つまり、自分の素晴らしいものだと思い、願った理想状態にまっすぐ向かうレールを神に敷設することを求めるような祈りになってしまっている場合があるかもしれない。そして、その自分の理想状態にまっすぐ向かうレールを曲げられたりすれば、突然その起きた状況に対して怒り始めたり、人間には理不尽に見える突然の神の介入があると、それに対して怒り始めたりすることが多いのではないか。それは、神が自分と同じ思いを持っていないとその同じ思いを持っておられない神に、苦情を申し立てる様に怒りを示したりはしないだろうか。

               詩篇などには、そのような表現が時に見られる。しかし、そのような人間の欠点も神はご承知でありながら、土塊に過ぎない我らを神の子供として受け入れてくださっているのだとは思う。そして、神を顎で使うような人間の姿すらも容認しておられるのかもしれない。

               しかし、そのような関係は、神と神の子供として適切か、というとどうなのだろうか、と思う。だからこそ、神の国をまず求めなさい、ということをイエスは教えておられるのではないだろうか。その意味で、祈りの向いている方向性が神であることを、イエスは何度も繰り返して、教えられたのだと思う。そして、そのことが、新約聖書に記載されているのだ、と思う。


              神に期待する祈り
               祈る時には、それぞれのキリスト者が、全ての世界の支配者であることを認識しつつ神に対して祈るのであり、そこには神の主権性、あるいは支配者であることを認めた祈りになっているはずだと思う。そこで、祈りの中で何が中心になっているのか、ということに目を向けるべ器か、ということに関してナウエンは次のように言う。
               
              When we live with hope we do not get tangled up with concerns for how our wished will be fulfilled. So, too, our prayers are not directed toward the gift, but toward the one who gives it. Our prayers might still contain just as many desires, but ultimately it is not a question of having a wish come true but of expressing an unlimited faith in the giver of all good things.  (同書 p.73)

              神に期待して生きているときには、自分自身の願望が満たされたかどうかということに振り回されることはない。であるからこそ、我々の祈りは、神から与えられる賜物に向けられるのではなく、その賜物を与えられる方に向かうのである。祈りは多くの願望を含んでいるかもしれない。我々がかなうことを期待している希望を持っているかどうかではなく、全ての良きものの与え主に対する限り無い信頼を表明しているかどうかに究極的にはかかわっているのである。

              If you pray in hope, all those concrete requests are ways pf expressing your unlimited trust in God who fulfills all promises, who holds out for you nothing but good, and who wants to share goodness and love with you.  (同書 p.74)

              期待を持った祈りを祈る時、このような確固たる要望に言及することは、神が全ての約束をなされる方であることに関する限り無い信仰を表明することとなり、神は、あなたにとって良きものだけをくださることを、神ご自身が良きものをあなたと分かち合いたいと思っておられることを、あなたを愛しておられるということを表明することともなるのだ。
               ここで、ナウエンは祈る時に、何がそこの中心であるのかをまず考えてみられてはどうか、と勧めているようである。

               自分が理想とする状況が与えられることなのか、自分の思いがかなうことなのか、自分がほしいと思ったものが手に入ることなのか、それはどうなのだろうと問うているのだ。この話は、実はモーセ先輩がシナイ山でもらったとされる10のことばと深い関係があるかもしれないと思っている。

               自分自身の思いが優先するというのは、自分の思い通りになることではないだろうか。人は無理にでも、自分の希望が叶うことを願うからこそ、人は殺したり、盗んだり、うらやんだりするのではないだろうか。つまり、モーセ先輩がもらったという10のことばは、極論すれば、神に期待をしなさい、神に信頼しなさいということなのだろう、と思う。

               もし人が、自分の希望を思うのではなく、神そのものが希望の根源であるということを認め、神に希望を置く(それが信仰だとミーちゃんはーちゃんは思うが)とき、そして、神の御思いがなることを求めるとき、それは希望の祈りになり、いろんなことが起きた、起きなかったと一喜一憂することに縛られることから解放されるのではないか、と思う。その希望は、今日、明日のことではなく、かなり長期間、数十年、数百年のスパンのことではないかと思うが、人間は弱いので、この数日、数週間、数か月のことに振り回されるのかもしれない。


              ショートメッセージで祈りを送ったら、すぐ答えられるかなぁ?

               人間には理解することのできない、人間は歴史の全貌を知ることはできない。過去についても完全井は知りえないのだ。それを思うとき、自分の数日、数週間、数か月のことに一喜一憂するというか、そのことにとらわれて生きることにいかほどの意味があるのか、と思ってしまう。それらを握り締めるのをやめ、両手を神に向かって開いていくこと(身体的に両手を開く、という意味ではなく、神の介在に期待して神のもとに神の御思いがいずれ明らかになることを求めること)が何より大切なのではないか、と思っている。たとえ、現状が不幸で、痛みがあるにせよ。どうしてもそこに目が行くにしても、その先におられる神が希望の神、死を超えた神であることを考えることが大事なのかもしれない。

               
              とりあえずのまとめ
               まぁ、これまで思うことをたらたらと書いてきたが、案外この祈りというのは、非常に奥行きの広い世界であり、また、キリスト者の霊性にとって重要なことであるけれども、どの程度教会の中で考えられているのか、といえばどうなんだろうと思う。また、どの程度説教の中で、あるいは信徒の成長のために祈りについて触れられているか、というと、少し疑問かもしれない。もう少し、教会の中で、幅広いディスカッションというか、祈りについて考える機会があればいいのに、と思っている。



               
              評価:
              Henri J. M. Nouwen
              Ave Maria Pr
              ¥ 836
              (2006-04)
              コメント:薄いけどお勧めです。

              評価:
              アンリ J.M.ヌーエン
              サンパウロ
              ¥ 1,296
              (2002-10-07)
              コメント:日本語訳

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