2016.04.27 Wednesday

教会とゲーム理論(1)

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    その昔、世俗の仕事で、産業組織論とか、企業の組織論とか、企業内コミュニケーションとか、地域とコミュニケーションなどの分野に関心があったこともあり、ゲーム理論をある程度まともに研究したことがある。これがある程度ではあるが、教会と新来会者や教会員との関係を考えるときに有効なのではないか、と思うことが時にある。とりわけ、カルト化した教会とそこの新来会者との関係の分析には有効ではないか、と思う。

    ゲーム理論って?
    すごく単純化していくと、ゲーム理論とは、ある個人の行動により、他者の行動(社会を含む)がどう変わるのか、ということを考え、世の中で生まれる人々の行動がどのようなものになるのかを考える理論であり、経済学や産業組織論、行動科学、コミュニケーション論など様々の分野で用いられる研究である。

    人と人の言動が、他人にどのような影響を与えるのか、ということをある程度(すべてとは言っていない)説明できるというところがこの理論というかモデルの一番いいところであるが、この理論には、基本的にある行動の結果には必ず評価可能な指標があるはずであり、それに従って合理的な人間は行動するはずであるという検証されていない仮定があり、この評価指標をどう考えるか、どう設定するかによって、実際に発生すると考えられる行動がある変わってしまうという問題はあるようには思う。その意味で、評価指標の設定はゲーム理論にとっては極めて重要だということになる。
     たとえば、通常の行動パターンを考えるならば、自己の経済的利益の最大化を考えて行動するということが想定されるが、社会の評価の方が、経済的利益よりも高い評価を持つというようなイスラム社会では、通常の経済行動を想定する限りは発生しないような名誉を重視した行動がとられることがあり(やたらと人をもてなすために大盤振る舞いするとか、 名誉殺人とか )、問題として定式化するときにどこまでを含めて考えるのか、ということが案外重要になるのである。

    レモン市場の分析
    このゲーム理論の経済学分野での有名な事例の一つにレモン(中古自動車などの書いてから品質が見えない市場)の例がある。これは、情報の非対称性がもたらす経済的な課題の例として非常に有名である。レモン市場については、こちらをご覧いただきたい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E5%B8%82%E5%A0%B4)

    キリスト教とレモン市場
     キリスト教も、基本的に日本においては、レモン市場と同じ構造を持っているのではないか、と思うのだ。

    というのは、米国においては、深井(2013)の『神学の起源 社会における機能』や森本(2015)の『反知性主義』で示されているように、キリスト教が国教会をもたいないという米国憲法修正第1条(通常は信教の自由と理解されているが、一般に日本で言う信教の自由とは意味が違う)により、米国では教会と信徒の関係が市場化(サプライヤーとしての教会、デマンドサイドとしての信徒という構造が発生)し、信徒側が教会を選択する社会構造になっている。

    そして、「靴を履いたバプティストとしてのメソディスト」というような言葉に代表されるように、ある程度社会階層と信仰集団のグループの対応関係がついているのが米国であり、ある程度の教会の雰囲気の種別の認識がなされているところはある。Racheal Held Evansの本では、愛餐式の食事による違いが出ていて、サザン・バプティストのチリビーンズがどうのこうのというような記述が出てくる。なお、日本では、関東のカレー、関西のおうどんという地域差があることは認識されている部分もないわけではないが、教派的に愛餐式に出てくる食事の違いがあるのだろうか、と調査してみたい気持ちにはなっている。

    Chilli Beans (なお、ミーちゃんはーちゃんの好物の一つである)

    余談に行ってしまったが、アメリカでは、教会群に関する一般的な共通理解がある程度普及しているし、様々の教会の主張をメディアなどにも取り上げられること (キリスト教親イスラエル派などのことが多いので、これまた誤った理解を生みやすいのであるが) もあり、大体教会のニュアンスとその主要な主張はこのようなものが多い、というような認識が広く持たれているように思う。

    しかし、多くの日本の方の場合、キリスト教には、カトリック教会と非カトリックとしてのプロテスタント(宗教改革くらいは中学高校で教えるので)に二分される(正教会はガン無視体系であるのがなんともだが…)というくらいの理解しかなく、普通の工事業者の人が教会に仕事でいった場合、会話の糸口として、ここは、プロテスタントなのか、カトリックなのか、という質問が入る程度である。牧師と神父の混乱は、普通の人にはつかないことも多い。ましてや、結婚式場教会というものもあるので、結婚式場教会と普通の教会との区別はつかないし、結婚式場教会は、象徴をうまくある程度消化しているので、プロテスタント教会の在る教派群と比べると、よほど教会らしい建物のなりをし、雰囲気を醸しだしていることは少なくない。
     つまり、日本人は宗教音痴(というよりは、あまり気にしていない、という方が正確だろうが)というところがあり、その中でも、キリスト教に対する造詣が深くない、という意味でキリスト教は多くの人々に取って未知の領域だろうと思う。『キリスト教のリアル』のように、それを牧師や神父視点で考えるとどうか、とうい視点で書かれた書物もあるが、それとて、キリスト教徒向けには「あるある」チックで面白くても、キリスト教の世界の全貌を示す世界地図というような感じにはできない、ならないほど、個別事例の積み上げの側面が強いような気がする。その意味で、暗黒大陸と呼ばれた時代のアフリカ大陸の地図の様な状態が一般の日本人の多くの理解であり、「聖書を大切にしていて、キリスト、ないしイエスという人物の主張というか思想というかを大事にしている(ある種倫理的に生きようとしている)人たちの集合体」を総称してキリスト教徒と呼んでいる感じは否めない。あながち間違いではないが、正確でもないようには思う。

     

    古代ヨーロッパと関係の深かった北アフリカやナイル川流域は比較的性格にかかれているが、あとは暗黒大陸状態のトレミー図法によるアフリカの地図
    https://anguscarroll.wordpress.com/2010/06/10/into-africa-the-search-for-the-source-of-the-nile/ より



    最近のアフリカの地図  http://www.nationsonline.org/oneworld/africa_map.htm より


    その社会の中で、どの教会も我こそは「正統的」とご主張してくださるので、普通の日本人にとっては、一体何が何だか、という 状況が多くの非キリスト教徒の日本にお住いの方々の間では生まれているのではないか、と思うのである。

    まぁ、何事にも分析の精度、縮尺、スケール感の問題 (どの程度のスケールで物事を見るのかという問題) はあるので、何とも言えないところであるが、どう地図を描くのか、何のために描くのか、ということによって、地図の描き方は変わってくるし、本や雑誌、書籍でも、何を目的として描くのかによって、そこで描かれる内容は変わってくるように思われる。これは、人間がすべての問題を均等に評価できないという限界ともかかわっていることであると思う。ある面、これは仕方がないと思っている。

    レモン市場としての教会と日本人との関係
    さて、これまで述べてきたように、日本人には、キリスト教の全体像がつかめておらず(日本人キリスト者であっても、全体像がある程度語られる人は極めて少ないし、教会で一応指導的な立場にあると考えることができるかもしれない牧師や神父の方がそれができるかといわれたら、かなり怪しい場合もあるとだけ申し上げておこう)、キリスト教がどのようなものであるかが十分知られていないという状況下に現在もあると考える方が普通である。無論、いくつかの基本的な本を読めば、それなりに理解できることは確かではあるが、いくつかの本を読み、幅広いキリスト教の理解を拡げたところで、それから得られるメリットがほとんど何もないことが多い(テレビや映画、書籍などの翻訳に取り組む場合とかでは重要にあることがあるが、映画とか海外ドラマのキリスト教関係の用語の翻訳は目を覆いたくなるものが多いことも確か)ので、この種のコストを払ってまで、全体像をとらえようとする趣味人はあまりいないように思う。なお、ミーちゃんはーちゃんは、趣味人であるので、趣味として、そして、アマチュアとしてこれをやっているが、こういう人はほとんどいない、らしい。

    レモン市場の特徴としての情報の非対称性
    レモン市場は、提供側(サプライサイド)と需要側(デマンドサイド)の情報の非対称性がその特徴であり、一般に提供側(玄人側)には潤沢に情報があり、需要側(素人側)には潤沢に情報がなく、その結果として、需要側(素人側)がろくでもないことに出会う可能性が生まれやすい、ということである。

    この情報の非対称性の例で、よくあるのは、飛び込み営業型のリフォーム業者などである。飛び込み営業型のリフォーム業者の場合、相手の技術力を受容社側である利用者は見極めることができない。特に高齢者の場合、孫世代の若い青年の営業担当者や工事担当者が持ち込んできた企画に対して、工事の申し出を断るなどの強い態度に出るとかわいそう(そもそも、工事を業者に発注する以上、発注者と工事事業者は本来、対等なわけだが、そこに私情を持ち込み、一生懸命やってるから、断るのはかわいそう、と思う方がそもそも経済学的にはおかしい、非合理的な行動になるとは思うのだが、人は合理的な行動だけをとらないことの例の一つの例といえるかもしれない)と不幸にして思い込み、悪質なリフォーム業者の収益源にされてしまう人々もいる。なお、リフォーム業者のすべてが悪質なのではなく、悪質な業者がリフォーム業界にいて、飛び込みによるヒットエンドラン方式で不当な利益を得ようとする、そういうまともでない業者がいるということでしかないので、注意されたい。このような被害にあった場合、消費者生活センターに至急ご相談されることをお勧めする。

    その業界に関する知識がないから、普通のまっとうなビジネスをしている業者であるのか、悪質な業者であるのかの区別が一見つかない、ということが起きている事例である。教会にしても類似例は起きる。よほど知識がないと、教会と名乗られた瞬間、人々は明治期の高名なキリスト教著述家の印象から、「倫理的に生きている信仰者」というポジティブな色眼鏡でキリスト者やキリスト教会を見てしまい、そこについぞカルト的なものがあるとは思わずに出あってしまうことがある。最近も、キリスト教系のカルトなどの存在が、マスコミで報道されることもあり、若干はその辺の認識は広がっていないわけではない。

    一般化による理解の劣化
    とはいえ、オウム真理教やISIS団の皆様がなしてくださったことによって、一般に穏健で、そう過激でない信仰も十羽ひとからげにまとめられて危険視されるというような負の効果も出ているように思うが、この辺も、情報が情報を出す側である宗教者の側と、情報を受け取る側の一般の人々との間で非対称であるが故の不幸であるとは思う。さらに言えば、位置を持って住もそうだと思いこむ一般化の危険性の問題も関係しているのではあるが。

    地図も、全部のことを細かく書けないので、汎化とか、一般化ということが行われる。例えば、地図の海岸線は、東京湾平均海面の潮位を用いて書くが、大嵐の時には、東京湾平均海面の潮位では全く役立たない。地図が違っているというクレームがつく場合の多くは、地図のサイズ感によって、位置の絶対的制度の高さが、それぞれ違うので、地図が違って見えるというのはまま起きることであり、これは、表現の劣化を容認しないと、まとまって地図が書けないということから発生している。

    教会における情報格差
    その意味で、情報やサービスの提供側としての教会と情報やサービスの受容側としての教会との間に大きな情報格差があり、それが外見や短期間での情報交換で判別できないことが教会を巡る問題で生まれることになりかねない。

    さらに言えば、参加者側の意図などに関する情報を教会側は持ちえず、その点でも情報の非対称性が生まれるので、ある面で言うと新来会者に関して、事情聴取の様な行動をとるキリスト教会側の態度も分からなくはない。実際、かなり怪しいキリスト教系新興宗教集団が教会に紛れ込み、当初は行動をとらず(スパイ用語では、スリーパー・エイジェント Sleeper Agent というらしい)、一定期間が経過したあと、突然活動を開始し、教会を乗っ取るというような事例もあるらしい。この辺も、情報の非対称性の問題であり、なかなか、善意だけではできないようになってきた。まぁ、それはパウロの時代でもそうであったようではあるが。その意味で、ヘビのように聡く、もキリスト者と教会にはそれが始まったころから求められるといってよいだろうし、それに対して対策をとってきた結果、今のような教会ができているとは言えるかもしれない。

    こういう情報格差による問題を回避する方法がないか、というとないわけではないのだが、必ずしもそれが有効というわけではないことは、スパイ用語のスリーパー・エイジェントのようなものの存在から言えるかもしれない。

    とはいえ、日本の皆さんは割と善意で疑うことなく人を受け入れてしまうところがあるので、教会がカルト的な教会であると疑ってかかることはないこともあり、この種の問題が起きやすい体質を持っているといえるし、また、教会の側でもこの種のスリーパー・エイジェントのような人を受け入れてしまうことも無きにしも非ずなのではないか、と思う。

    次回は、この非対称性に基づき、カルト化につながりかねないシグナリング問題を取り扱ってみたい。


     
    2016.04.30 Saturday

    教会とゲーム理論(2)

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      今回は、この非対称性に基づき、カルト化につながりかねないシグナリング問題を取り扱ってみたい。

      シグナリングって何?
       シグナリングというのは、情報の非対称性が発生しているときに、情報を持たない側が、情報を持つ相手に意図的にその情報の価値があるかどうかは別として、情報を与える様に促し、結果として自己に有利になることを可能にする様な行動があることを示すゲーム理論の用語である。よくあるのは、採用試験などで、卒業学校の名前を名乗ること(一種の他者による評価が存在している情報を与えることで、採用側の採用意欲を増す)ができ、その結果として高給の職につけたりする場合などが事例として知られている。

       ここでも、情報の非対称性の問題があることに注意したい。

      聖書におけるシグナリング問題
       実は、このシグナリング問題は、福音書にも出てくる。典型的にはバプテスマのヨハネが弟子たちに命じて、イエスにあなたが来るべきかたかを聞く、というような問題である。イエスはそれに直接答えずイザヤ書を引用しながら、何が起きているかを伝えよ、とだけお話になっている。

      【口語訳聖書】ルカによる福音書
       7:18 ヨハネの弟子たちは、これらのことを全部彼に報告した。するとヨハネは弟子の中からふたりの者を呼んで、
       7:19 主のもとに送り、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせた。
       7:20 そこで、この人たちがイエスのもとにきて言った、「わたしたちはバプテスマのヨハネからの使ですが、『きたるべきかた』はあなたなのですか、それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか、とヨハネが尋ねています」。
       7:21 そのとき、イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、また多くの盲人を見えるようにしておられたが、
       7:22 答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、重い皮膚病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
       7:23 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。



      Giovanni di Paolo 画 弟子たちから訪問を受けるバプテスマのヨハネ
      http://www.internetmonk.com/archive/homily-for-advent-iii-in-a-prison-cell-of-doubt より

       他の新約聖書のシグナリング問題としては、当時のギリシア人たちがパウロの使徒としての妥当性、その主張の妥当性を求めていることなどは、このシグナリング行為だとみてよいと思う。パウロは、このことに対して、自分の出身民族や受けた教育などや、自己の経験の一端を開示している。
       あるいは、復活のキリストの真正性をその傷跡で確かめようとしたトマスも一種のキリストとしてのシグナリングを復活のイエスに求めたといえよう。

       旧約聖書におけるシグナリング問題としては、エルバアルことギデオン君も神様の意思が確実であることを奇跡をもって示してくれ、とお願してたりはする。そして、神はその願いを繰り返しかなえることで、シグナリングをしておられる。

      教会におけるシグナリング問題
       一般の来会者が、キリスト教理解に対する情報をほとんど持ちえない状態を考えよう。その中で、教会の主張の妥当性とその主張が適切なものであるのかを判断することが困難である時、教会やそこでの説教者の主張が妥当であることの判断基準は、自分たちの理解の中でその主張の一部を切り出してみて、それが妥当しているかどうかで判断する方法がまずある。もう一つの方法としては、自分たちが理解できない超常現象(たとえば、奇跡的な病気からの回復とかいわゆる悪魔祓い、悪霊祓いとか、毒蛇にかまれても生存しているとか、奇跡的な事象が起きるという現象)により判断されることもある。これらも一種のシグナリングであるといえよう。これは一種の神の実力の現実世界への提示と受け取られ、その実際の現実の出現により確認する行為であるとは言えよう。

       この種のシグナリングは、実は情報の受け手の属性に大きく依存する。どのようなシグナリングが有効なのかは、情報の受け手側がどう思うかにかかわっているように思うのである。

       古代社会や、社会思想の中で奇跡に対する評価や悪霊の存在がかなり広く認識されている社会においては、悪霊祓いとか、奇跡によるシグナリングが提示されることにより、そのシグナリングの実施者であり、あることの主張者に対する評価は非常に高いものになる傾向は容易に理解できよう。

       しかし、そのような奇跡が幅広く受け入れておらず、奇跡を非日常的、定常的でないものとして取り扱う社会においては、あるいは、このような異常現象を社会思想の中で異質なものとして受け取られる場合においては、このような奇跡譚は社会の中で高い評価を受けることはない場合が存在する。ある社会では古尿な奇跡的な現象や奇跡譚は、かえって低評価を受ける場合もでてくる。

       その意味で、シグナリングそのものの有効性は、その情報の開示がなされる人々、あるいは情報の開示先の人々が持つ社会的想定と深くかかわっており、その社会において一般に想定されている仮説によって、評価とその有効性は大きく変わっているということは言えるかもしれない。その意味で、教会の一般の人々への情報の開示方法、あるいはシグナリング方法としてどのような方法が望ましいのか、ということは、時代や地域、社会や文化背景によって異なるように思う。

      カルト問題とシグナリング
       ところで、カルトの指導者の場合、例えば、来会者の個人情報などをうまく言い当てる能力(事前にその来会者の様子の観察である程度のことはわかるし、極端な場合、信徒が少し話して情報を聞き出しておくなどということもないわけではないらしい)を示すとか、国際情勢などに関して短期的な将来ほぼ確実に起こりそうなことを旧約預言と関係づけて繰り返し発言しておいて、ある主張したことを事実である(それが全面的に起きているわけでいなくてもよい)を想起させる現象が報道されると、「ほら、聖書がそういうことが起きるといっているという私の主張通りになったでしょう」、とか、様々な方法が用いられることがあるようである。

       被災者の方のご苦労と悲惨とその悲しみを思うと軽々しく言うことができないにもかかわらず、西日本地区で地震が多発すると、「地震の頻度が高まり、地震の間隔が短くなっている、あぁ、やはり聖書に表現された通り世の終わりが近いのだ」というご主張を広く公言される向きがあるが、それはいかがなものかと思う。時には、「不信仰な日本人が神に立ち返るように祈ったら地震が起きた」、「洪水は不信仰な現代のアメリカ人が神に立ち返るよう、神が起こされたさばきだ」と語る人々もいる様だが、それこそ、誤ったシグナリングとなりかねはしないか、と思う。神は我らのためにある「ドラえもん」の様な方ではないし、我々が神の僕ではあっても、神が我々の僕ではないことは鼻で息するものであるミーちゃんはーちゃんは心に刻みたいと思っている。


      ドラえもん http://www.tv-asahi.co.jp/doraemon/cast/ から

       要するに、語り手の権威性や疑似真実性(必ずしも真実でなくても真実に何かがある様な能力を示すことでの真実性)を感じさせるような形での情報の開示をして見せることがかなり情報が非対称な場合、その語り手の権威性や疑似真実性を宝占める方法で有効なようである。なお、このようなシグナリングは、疑似真実性だけではなく、適切な意味でのその人の言うことの真実性を確認するためにも有効であるので、一概にこういうことが不適切であるとミーちゃんはーちゃんが主張しているわけではない点は、十分理解されたい。

      誤ったシグナリングのための小細工
       問題は、意図的にこのような話者の主張の妥当性をもたらすような環境を作り出そうとして小細工をする人々がいる社会である。

       よくあるのは、無意識的な行動としてなされているのかもしれないが、聴衆が第3者にわかるように意図的に大きくうなずいてみせるとか、賛意の声をあげるとかということで、その場の語り手の権威性を一時的にたからしめる様なシグナリングをする場合である。つまり、話者の話を聞いている会衆全体として一種の集団としての同意を示すことで、語り手の主張の妥当性についてのシグナリング行動となっている場合である。この場合、前提知識を持たない、あるいは予備知識を持たない外部者には、それが妥当な真実性であるかどうかの判断ができなくなり、その世界に引き込まれていく場合がある。

       現実社会でも、この種の方法は良く持ちられる。いわゆるサクラというものがその例である。あるいは、店舗を頻繁に移動して販売するタイプの健康器具や寝具などの事業者では、巧妙に計画され、そもそも日常雑貨品などの安価な商品を安いと思って購入を繰り返し決断していくこと(この事業者が提供する商品は安価であるというシグナリングを受諾したことになる)を通して、外部との情報伝達が切断された状況の中で(比較可能性を失った中で)最終的には高額の商品の購入を決断するに至るというような場合も、繰り返しのこの事業者は安価でものを提供する事業者であるというシグナリングを、安価なものを通常より安価な価格で購入するという行為を通して、具体的に受容する中で、最終的には、高価な商品を適切でない価格で購入することを決断するに至るという場合である。なお、このような形で商品を購入した場合、お近くの消費者センター(自治体が運営)に相談されることをお勧めする。なお、この話にはサンクコストというものが関係しているので、この辺に関しても、次回暗いご紹介したい。

       カルトの場合、このシグナリングを外部情報からの分断や切断(よその教会とか他の人に相談してはならない、なぜならば、よその教会は間違っていることを教えるからとか、他の人は我が教会の主張を理解しないとか、他の人が正しくないからとか、他の人は悪魔の手先である、とかという論理が使われることが多いようである)を図られる中で、行われることが多いようである。

       このような外部情報の利用による検討可能性がない状況の中で、つまり、話者が発生するシグナリングの妥当性の検証が多元的な多面的、公共的討議が可能な環境においてできない中で、繰り返し他の人々がその話者の主張を受け止めているというシグナリングのみが行われることにより、その話者の真実性というのか、主張の妥当性を疑う人がおかしいという論理が生まれやすい。その結果、「話者の主張の妥当性を疑う自分自身の方がおかしい」とその話者の主張の妥当性に疑念を持つ方が思うようになることも少なくないようなのである。こういう自分自身に対する揺らぎが発生すれば、問題は自分自身の揺らぎに帰着しやすくなるため、カルト指導者などがいかに怪し気なことを言っても、その開示された怪しげな内容を含むシグナリングの内容は、妥当なものとして疑いを持ちつつも受け止められることになりやすい。

       その意味で、こういう被害を防ぐためには、ある程度外部の情報を参照し、霊性にかつ批判的に(話者をけなす意味での批判はなく、話者の主張の妥当性を検証するという意味、あるいは批判哲学の意味において、あるいは公共的な討議の場において)検証することが必要ではないか、と思うのである。
       ただ、聖書理解に関しては、何が妥当とされているのか、ある程度許容範囲とされているのか、ということを判断するためには、結構な知識量が必要ともなりかねない(まぁ、それだけ知識があればそもそもカルトには引っかからないという話もある)。となると、もうこれは絶望的な話になりかねない。そのために多面的に情報を集める筒、真偽性を確かめることが重要にはなるだろう。

      一つの参考指標
       意図的であるか意図的でないか別として、カルト化している教会では、話者の主張に対して一元的に同意している傾向がみられ(と記に熱狂的ですらある同意が示されることがある)、カルト化していない教会では、比較的多元的な意見分布がみられ、ある事柄に対しての意見分布が一元的、単一的でない傾向があるように思われる。つまり、ある面、健全な批判的精神がその社会集団で機能しているかどうか、という点が重要なのではないかと思う。まぁ、批判精神が行き過ぎ、混乱に至ることも少なくはない。従って、いわゆる宗教改革以降陸続と教派教団が形成され続けられてきたということはある。

       別の面で言えば、外部に対する開放性である。この教会にしか真理がなく、他は間違っていると主張することが多い教会は、一種独善的になりやすく、自己を批判的に見直すという機会を失いやすいので、カルト化に対するブレーキが効かなくなりかねないことが多い。逆に他の教会に対する尊敬と他の教会と共に生きようとすることを目指している教会の場合、異なる見解を持つ他者の存在を認める中で、自己について批判的に見つめ直すという機会はそうでない場合に比べ、多数存在しやすくなるため、カルト化に対するブレーキは効きやすい傾向にあるといってよいだろう。

       あるいは、ある集団の代表的な話者の発言のみを信頼し、聖書以外の他の書籍を読んではならないとか、他の書籍には誤りが含まれているから読むべきではない、という主張がある場合も、自己を批判的に考える機会を失わせやすいという意味では、カルト化に対するブレーキが効きにくいことにもつながりやすい。要するに、人間が鼻で息するものである以上、誤りはどうしても含まざるを得ないので、誤りは回避不能である以上、神ではない、ある人間とある人間の主張を絶対化しない、という態度は持ち続けたいとは思っている。

      このサインではないが、慌てず、ブレーキをかけながら進むことは大事である。

       つまり、多元性が教会内で確保されていること、教会外の多様な考え方も考慮に入れる余裕を持っている教会の場合(外部からのシグナリングを受容可能にしているような教会の場合)、カルト化を防ぐための余地が比較的にせよ多いということは言えるかもしれない。

       次回、サンクコストとカルト化問題に関して触れる。

       






       
      2016.05.02 Monday

      教会とゲーム理論(3)

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        今回は、サンク・コストあるいは埋没費用の概念に基づき、カルト化していても、その教会からなかなか離れがたい人々やある教理がおかしいことが判明しても、その教理から離れがたくなる背景を取り扱ってみたい。

        埋没費用とは何か?
         今回の話は、ゲーム理論的なアプローチではないが、自分があることにつぎ込んで費用(おカネだけではなく、人生の貴重な機関、時間や人間関係なども含めることができる)があまりに大きすぎると、そのつぎこんだ費用の大きさの余り、正常な判断ができなくなるということである。

         つまり人があることに必要以上の資源をつぎ込んでしまうと、引き返しが付かなくなり(損切ができなくなり)、正常な判断がつかなくなるということである。よくあるのは、ギャンブル依存症などにもこの理論は応用可能である。繰り返し少額であっても資源(お金とか時間)をつぎ込むと、今度こそ、なにかいいことがあるのではないか、と思い込み、さらなる追加投資(というよりは追加の投資をすることによっても一向に回収率の低いままであり、改善しない環境での資金投下)をしてしまい、これまでのやり方を変えられない、という現象のことが埋没費用が生じさせる認識の誤り(Sunk Cost Fallacy)を生むのである。たとえば、いつも裏切られている友人にも、今度こそ更生するかもしれないと思って信用してしまうことや、お金を貸す(実質的には与える)こと、あるいは、「今度こそ、本当にいい投資話だ」といつもの様に失敗する投資話を持ってくる投資関係のセールスマンに、資金運用を任すようなことでも起きる。FX運用での追証とか追い銭と呼ばれる現象がこの例ともいえるようである。


        「なぜ、今変化させなければならないのか?これまでだっておカネをつぎ込んだ分があるのではないか?」というイラスト
        http://investorji.in/sunk-cost-fallacy-makes-investors-stupid.html から

         前回ご紹介した悪徳業者の例で言えば、安い商品を異様に低価格で買うということで、個人の中に、営業員への一種の負い目のような心理的夫妻ができてしまい、それがサンクコストのようになり、認識のひずみが生まれやすいように思うのだ。悪徳業者はそれを利用して、最終的に高額の商品を売りつけることになる。

        教会生活と埋没費用
         教会生活でも、この種の埋没費用(サンク・コスト)による認識の誤りが生まれることがある。それは、ある面、教会生活が一種の信念システムとしての信仰生活のプロセスの中で、聖書が言う神を中心にした生き方に変更するということを自己選択的に選んでいくという部分があるからではある。ある面の自己犠牲とか、自己の意思に基づく選択を迫られ、それに伴うコスト(本当はそれほど大きなものではなくてよいはずなのであるが)を負担することがあるからである。特に過剰な献金や奉仕を求めるキリスト者集団では、この種の埋没費用はそうでない集団と比べ、非常に大きなものとして認識される傾向があるのではないか、と思う。

        カルト集団と埋没費用
         しかし、カルト化した集団では、この埋没費用が大きいあまり、その集団への投資した時間や人間関係、また献金したことに対する利益を取り返そうとして、客観的な判断ができず、その集団にしがみつくという形の非常に困った判断をする人々が出てくるのである。

         オウム真理教の場合が典型的であるが、金銭に対する渇愛を断絶する修行と称して、自己所有する資産(中には資産と呼べないものまで)のすべてをささげさせる修行が求められたことがあったし、修行と称して関係企業体であるマハーポーシャでのパソコン制作にほぼ睡眠なしの状況で従事させられた挙句、その労働の対価までオウム真理教のグルへのお布施として取り上げられた事例などがあったようである(余談になるが、1980年代末IBMPCコンパチPC市場でマハーポーシャのIBMコンパチマシンは群を抜いて安かったが、余りに安いので不安になり、手を出すのをやめた経験があるが、手を出していなくてよかった、と思っている) 。

         このオウム真理教の事例にもみられるように、現在のブラック企業も真っ青になるような勤労環境を強いられた当時の若者(今では40代中期位かと思われる)は、その青春と家族関係、友人関係を含む人間関係、また、本人の持つ能力に応じた就業機会ということまでをオウム真理教に奪われ、その上に、もともとないに等しい可能性があるとはいえ当時持っていた資産までも、オウム真理教に取り上げられ、残ったのは、オウム真理教というカルト化した集団にかかわったという苦い黒歴史だけ、ということも少なくない。

         こうなると、残っているものはオウム真理教での人間関係、あるいはその集団しかないわけで、そうなると、オウム真理教にしがみつくしかなくなるのである。残念なことであるけれども。

        カルト化した教会と埋没費用(献金の例)
         このブログをお読みの皆様には、ほぼご推測かつご理解いただけることかとは思うが、キリスト教会でも、この種のことを悪用しようと思えば悪用できる道具立てはそろっている。例えば、レプタ銅貨2つを投げ込んだやもめの話をして、「限界までかみさまにおささげましょう」とか、使徒言行録の最初に出て来る、皆のものがすべてを売り払い共同生活をしていたという話を取り上げ、「みなさんも、全ての家財を売り払い、教会に献金しましょう」(でも、教会での共同生活への言及はなく、終末が近いという概念が当時のキリスト者で相当広く共有されてた話は抜き、ってねぇとかで…)とか、災害被害者がいるような状況では、「パウロ時代の時には災害とか飢饉の時には献金をささげて、助け合いをして、愛の交わりをしました。皆さん皆さんも限度いっぱいまで全力でささげてください」(当時は自衛隊も日本政府のような政府もなかったのであるが、それは言及されることはない)とか、いうことが今でも行われる。まぁ、当時の場合、現金が全銀手順に従って、金融機関から金融機関に電子的に決済されるとかいうことがないために、信頼できる人におカネを託し、手紙を託して、現地に行ってもらい、現地からの現状報告とどういう形で使われたか、ということは報告されたはずであるが、現代のカルト化した教会では、どういう関係か、こういう報告が聞かれることが案外少ないのはどうしたことなのだろうか、とも思う。献金受け取りっぱなし、現地からの現状報告なしというような一種Fellowshipといいつつも、一方向的な形でのFellowshipが多いのは、実に残念ではないか、と思う。

        レプタ硬貨はこんなコインだったかも (売りモノらしいです)。
        http://www.widowsmite.com/Prutah-Widow-s-Mite-Jannaeus-WP001-p/wp001.htm

        カルト化してない教会での埋没費用(聖書理解の例)
         まぁ、金銭的なことでの埋没費用は、大きな影響と黒歴史を残しかねず、時に家族との関係を壊しかねないのではあるが、それ以上に問題なのが、ある教会群で長く重要であるとされてきた聖書理解が長年変えられないという事例である。この種の問題にも、このサンクコストによる行動変容することに対する認識のひずみの発生という理解は応用可能であると思う。

         ある教会群で長く正統的とされてきた聖書理解があるとする。例えばの例で言えば、旧約聖書のイスラエルと、世俗国家としてのイスラエルの同一視という聖書理解があったとしよう。本来、旧約聖書のイスラエルは、神権国家あるいは宗教国家としてのイスラエルであり、現在の民主国家としての世俗国家としてのイスラエル国とはかなり異質であるのではないか、と思う。しかし、イスラエルと聖書に書いてあるということで、このあたりの本来適切に評価されるべき政治的文脈が無視され、旧約聖書のある節の表現から、現在の世俗国家としてのイスラエルをキリスト者は何が何でも支持すべきだ(ミーちゃんはーちゃんは、個人的には、イスラエル民族の通ってきた歴史に関しては、イサクの様なささげものとなるかのような経験をした民族だ、と思いながら同情は禁じ得ないが、だからといって現在の世俗国家としてのイスラエルのしておられることを全面的には支持しがたいと思っている)、という理解が長年保持されてき、それが伝道の中での主要な主張の一つとして採用され続けてきたキリスト者集団があったとしよう。

         それをある日突然、そのキリスト者集団の代表的人物が「あれは間違いだったかもしれない」と公式に言いだしたとしても、その代表的人物の発言は受け入れられないばかりか無視あるいは黙殺されることがある。なぜこうなるかというと、もともとの世俗国家としてのイスラエルを何が何でも支持すべきだ、という主張が、伝道の中でも主要な主張として採用され続けてきた結果、これをきっかけの一つとして信仰を持った人々が存在する場合、「その人の信仰理解や気づきあげてきた聖書理解が無意味でした」という宣言することに等しい(本当はそんなことは絶対にないのだが)と誤解する人々が出てきかねないからである。

         つまり最初に信仰のきっかけになった主張が間違いであったかもしれない可能性ということは、その人自身の信仰生活すべてが間違っていた(くどく言うが、神と共に生きてきたのであれば、そういうことは絶対にない)というメッセージになりかねないために、「あれは間違っていたかもしれない」ということを認めかねる教会群は、これまでの信者さんのそれこそが聖書のメインの主張であるとされてきた理解や信念の存在が、一種の埋没費用になっていて、本当は正しくない可能性があるものであっても、その聖書理解や信念が変えられない、という場面があるだろう。そして、聖書理解を少しづつでも変えられない、という現実に直面する場合もありうるのではないか、と思う。

         新しい聖書理解に対して閉鎖的な態度をとる、そのような事例に関して、相当以前の記事(2013年6月所収)で
        でも触れたとおり、「そんな話はこれまで聞いたことがない」という対応がみられるのは、聖書理解における一種の埋没費用による認識のひずみの存在を示しているようにも思われる。

         ある意味で言うと、聖書理解における慣性(慣性 inertia の法則の慣性)が非常に強く効くあまり、聖書理解の見直し(絶えざる改革)が有効でない例があるということなのではないか、とは思う。

         聖書理解は、この2000年以上の間、絶えず見直され、読み替えられ、現実との対応と聖書テキストとのバランスをとる行為が行われてきた。それが神学的な営為ではないか、と思う。それは無意味な行為ではないと思っている。

         なぜならば、2000年前には、エレベータや冷蔵庫はなかったし、ファックスや電子メイルやフェースブックやツィッターを含む電子的データ送信技術はなかったのである。パウロの書いた手紙を持参人が持参し、読み上げ、時にパウロが伝えようとした補足的な内容を口頭で伝えたという時代の聖書の読まれ方と、聖書そのものが電子化され、複数の邦訳聖書を比較参照しながら読める時代、あるいは聖書の単語がデータベースに収録され、あるギリシア語やヘブライ語の単語(語根を共有する単語)が使われている場所はどこか、ということが一瞬にして、パソコンとインターネットがあれば検索可能である時代(それこそ、教会で説教の最中でもそういう作業が可能となった時代に我々は生きている、ということは信徒にとっては、実にありがたいことである。司牧に取ってはある面非常に厳しい環境ではないか、とは思うが)において、「聖書を読むこと」という一つの行為が指し示すことの意味もおのずと違っているはずであるとはおもうのだが。

         本来、宗教改革の時代に聖書が庶民が 聖書を読める (といっても宗教改革時代は文盲率がまだかなり高いので、普通の庶民が読めたわけではなく、一部の知識層と社会での文字操作が必要な社会的役割を担う人々に限られたはずであるが)様にして、聖書と個人がある程度個人として向き合うことが可能になった時代があった。それまでの時代では、聖書と個人が向き合う、そのようなことはかなわないことであった時代が存在したのである。聖書を読む(正確には聖書を聞く、といった方が正確だとは思うが)と書かれている内容が指し示していることと、今の環境で聖書を読むということでは、だいぶん違うような気がする。
         その意味で、我々は我々が生きている間の30年から60年くらいの常識を前提に聖書の読み替えを集団としてであれ、個人としてであれ、していることにならないだろうか。それを、過去これまで30年や60年くらい標準として受け入れられてきた、あるいは長い教会の歴史の中で、必ずしも標準的でなかったにもかかわらず、標準的であるとこの30年から60年くらいで語られてきたことにこだわり続け、新しい概念や必ずしも自分になじみが薄い聖書理解の体系を他者の主張の一部のみを取り上げ、否定的な言辞を弄することは、正当といえるか、と我々は問うた方がいいかもしれない、と自分自身で自問している。

         それは、これまでそのように語ってきた結果としての埋没費用による認識のひずみ、あるいはそのように語られてきたことをキリスト者人生の中で当たり前として受け止めてきたことによる埋没費用による認識のひずみが生まれていないか、ということを最近自分自身に問うている。

         次回、このシリーズの今回の最終回として、キリスト教会とレモン市場となることがある程度回避可能となる状況に触れて、この連載シリーズを終わりたいと思う。





         
        2016.05.03 Tuesday

        教会とゲーム理論(4)

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          本日で一応、この連載シリーズは終わりにします。

          これまでのまとめ
           さて、これまで、ゲーム論とその関連分野を用いれば、教会で起きる困りごとの一部もある程度単純化して説明あるいは理解可能となる(モデル化のメリット)のではないか、ということをお示ししてきました。日本においてキリスト教が理解されていない情報が非対称な環境がレモン市場なっているかもしれないこと、それに関するシグナリングとシグナリングの正当性を評価することが困難なことと不適切なシグナリングを生み出す様な場合、認識が歪む可能性があり、それを防ぐために、システムがオープンであるかどうかを考えることが重要であること、更にサンク・コスト(埋没費用)の存在によって認識が歪む場合があり、それがある教理を捨てられなくなるような原因になる場合があることをこれまでお示しした。

          レモン市場への対応策
           本日のテーマは、レモン市場への対応策である。1回の取引の場合、レモン市場が発生することは避けられない。というのは、ワンショット(1回のみの取引)の場合、将来のことは考えなくてよいので、一種、相手の評価を考えずに行動できることとなる。つまり、レモン市場となっている場合、将来にわたる取引相手からのネガティブな評価を気にしなくてよくなるので、取引の一方の側に不当な利益が発生するような取引が生まれやすい。その意味で、取引相手の間で情報が対称に共有されていない場合には、この種の一種不誠実な取引が生まれやすい、ということなのである。中古車市場などでは、事故車かどうかが書いてが判断がつかない、ということが起きるので、不良品の中古車のことをレモンと呼ぶこともある。


          http://www.economind.org/#!The-Health-Insurance-Sector-Asymmetric-Information-and-The-Lemon-Problem/cqic/9CBE94C5-CF63-4AAE-9C95-140F854EC6BF から


           以前にも説明したと思うのであるが、訪問販売や飛び込みセールス、店頭販売などでは、基本、再度の取引が発生しにくいこと、その場での比較可能性が失われることと、外部情報との遮断が取引の場で発生するために、悪徳業者がまっとうなことを言ってないにもかかわらず、相手の発言を信じ込むというようなことが起きる場合がある。例えば、相手が業界最安値であるという主張をしていても、スマートフォンが普及するまでは、それを確認することはできなかった。

          交渉による回避
           関西では、家電量販店でも店員との交渉が日常的に行われる。さすがに百貨店で店員との価格交渉をしている例は見られないが(食品売り場では、もうちょっと乗せてくれという形での交渉がある百貨店もあるようであるが)、関西では消費文化として、大手家電量販店でも、店頭の表示価格で買う人はほぼおらず、「兄ちゃん、もうちょっと何とかならんの?色つけてぇなぁ」というような表現で、価格交渉する例は案外普通にみられる。情報が非対称となりかねない相対取引の場(大型家電量販店での取引も、実態的には外部情報を仕入れるわけにいかないので)では、バーゲニング・パワー(交渉能力)を売り手の側が持っているのか、買い手の側が持っているのかにより、その利益がどちらに帰属するかが変わってくる。

          http://www.bwint.org/default.asp?index=1766から

           情報が非対称な場合、1回の取引では相対取引となるので、実はこの種の価格交渉というのは案外重要になるのである。それは、相手に不当な利益が発生していない、ということを確認する手段でもあるのである。ただ、この交渉というのは非常に面倒なことでもあるので、その面倒を避けるなら、相手の申し立て価格を受け入れることしかないことになる。その結果、売り手には利益が発生し、買い手はその分だけ損失することになりかねない。

           その意味で、情報が非対称な場合、交渉をどうするか、ということにかかっているともいえよう。交渉するというのは、相手との情報交換であり、相手が持つ情報を聞きだすことで、相手が提示するシグナリングの真正性を確認しようとする作業でもあり、取引相手との間の情報の非対称性を下げようとする努力であるといえよう。

          繰り返し取引や取引履歴の参照による回避
           相手の持つ情報を引き出すためには、この情報を引き出す機会を増やすという方法がある。つまり、繰り返し取引し、情報交換の回数を増やすことがかなり効果的である。取引回数が増えれば、それだけ、相手から引き出される情報量は増える。しかし、日用品を買うのなら、取引での金額が少ないこともあり、そこまで気にすることもないし、社会全体での取引回数もかなり多いので、不当な利益が生じているとしても、そういう業者は取引回数が減るので、市場から自主的に退出(閉店)を迫られることになる。その結果、消費者への被害は軽微である。ところが、自動車や住宅といった耐久消費財を買う場合、何度も取引することがないことが多いので、情報の非対称性がもたらす問題は案外大きいし、そのような問題が発生する場面は多い。

           その意味で、住宅や不動産を購入する場合、外見ではわかりにくい床下、住宅の下部構造、従前の土地利用(ため池の後ではないとか、もともと谷を埋めた場所ではないとか)を確認した方がよい場合がある。なお、過去の土地の状況に関しては、国土地理院のサービスでもある、地図・空中写真閲覧サービス( http://mapps.gsi.go.jp/ )を利用することで、明治のころの地形図や戦後からの空中写真が確認できるので、これらを利用することで、比較的容易に確認できる。
           
           余談に行ったので、元に戻すと、ただ、教会では、繰り返し取引ができるのか、といわれれば、案外難しいかもしれない。何度かその教会に行ってみて、様子を見る、その教会の主要な人物から少しづつ情報を提供してもらう、という方法はある種繰り返し取引の類似関係を生み出すものとしては、重要であろうと思う。

           少なくとも、ある教会に所属する前に、かなり繰り返しその教会に参加して情報収集するということは、基本的なこととして大事なことであると思う。最初に出会った教会で、「あなたが本日この教会に来られたのは、神様がそうされたのです。ですから、この神様の導きを信じて早く洗礼(バプテスマ)を受けて、この教会の信者になりましょう」とかいわれても(こういうことを主張する教会がある模様)、あまり焦らずに、じっくりその教会の主張を聞きだし、その教会の牧師や司祭、また、その場にいる信者から提示される聖書理解を聞きだし、落ちついて考えつつ、その人々の主張をきちんと見極めよう(受容しよう)とする態度(批判的な態度)が重要ではないか、と思うのである。

           また、教会が個人情報の開示あるいは提示を求めてきたら、適当に対応しながら、相手が聞いてきたとしても、全部のことを回答する必要はない。問われたからといって、こちらからの一方的な個人情報の開示をするのではなく、その質問をきっかけに相手方からの情報開示をより多く求めることがあってもよいはずだと思う。基本的にそれがフェアな態度だと思うし、事故情報を開示せず、他者の情報の開示を求めるのはアンフェアである。ただ、教会は自分のことは知られているという前提(そんなことはないのだが)に立っていることがあり、自己情報の開示をしない例が時に見られるようである。

           ところで、教会側から良く提示される質問としては、「どこに住んでいるのか」、「どんな仕事や学校にいるのか」というNG質問が多い。会話のきっかけを作ろうとして、このようなNG質問をしてくる教会は案外多いが、それを聞かれたところで、全ての情報を初回にすべて開示する必要はないとは思う。こういう質問をする方は、ほぼ完全に善意でしていることが多いのだが、その結果が最善であるとは限らない。しかし、相手が聞いてきた、ということであれば、当方からより多く質問すればよいのである。

           もし、こういう質問攻めを経験するのが嫌で、回避するためには、はやめに教会から立ち去るほうが便利なことが多い。教会では、内部向け通知が始まった段階で、一応公式には終わったことになっているはずなので、はじめての教会では立ち去っても問題ないが(それを問題にするのであれば少し、気を付けた方がよい場合が多いと思う)、この段階では全員着席のことが多いので、衆人環視の元たちさることになる。それが嫌ならば、教会員が周囲の人と話し始めたのを見極めて、緊張が緩和している瞬間に手早く立ち去ればよいと思う。

           もう少し様子を見たい、とかもう少し情報の先方から提供を受けたいときには、その場に残って話をしてみればよいが、初回からそれをしなくてもいいと思う。但し、頻繁に同じ教会に行き始めると、それだけ関係も深くなるので、その点での配慮も必要かもしれない。地方部では、教会は少ないかもしれないが、世の中には教会はたくさん存在する。最初に出会った教会だけが教会でなく、多様な教会群があって、教会群の大半は、まともであるからである。

           繰り返し取引が困難な場合でも、過去の自分以外の第3者の取引履歴を参照することができる。これが、いわゆる暖簾やブランドの価値や、意味である。高評価のブランドは、変なものを作らない、ある程度信頼できるものを作っている業者である、という社会的評価を受けた存在であるといえよう。つまり、多くの人々の取引の結果の反映が、ブランドに反映されたり、社会的評価に反映されているといえよう。継続的な良好な取引の積み重ねこそが暖簾の価値であり、ブランドの価値である。その意味で、企業に取って、一つ一つの取引が重要なのである。

           その意味で、最近の三菱自動車の燃費不正によるブランド毀損問題というのは、実は非常に厳しい問題なのである。つまり、これまで築いた社会的信頼を毀損してしまったのであり、さらに、取引量が減ることで、取引における直近の情報量の発生自身が減るので、信頼を回復する機会そのものが減ってしまうからである。

          公的機関による認証
           情報が非対称な場合、取引相手として、公的機関による認証が行われている場合、あるいは、取引相手に公的機関による取引が発生しており、情報の収集がなされている場合、それは一定の保証を与えることになる。公的機関による認証の例としては、陸運局による認証を受けた自動車整備工場などがその例であり、その認証を受けているということはある種の安心感というか、その事業者を利用しても大丈夫である、ということが公的に認証されていることになる。

           また、公的機関や有名企業と取引しているということが、会社の説明用パンフレットや会社のウェブサイトにあげられることがあるが、それは、その企業が公的機関も取引可能である程度の能力を持っているということを示しており、その能力から生まれれる安心感が、その企業と取引しようとする企業や個人にも生まれるからではある。とはいえ、その情報をまるままうのみにしない方がよい。如何に法執行能力をもつ政府、自治体、行政といえども、完全に調査し切れないからである。

           であるからこそ、政府や自治体、行政による取引停止処分が起きることがある。なお、行政や政府による取引停止処分は、その企業が何らかの意味で不都合があったということが公的に認証されたということでもあり、そのような情報の開示は企業に大きな影響を及ぼすのである。

           教会で言えば、例えば宗教法人として認証を受けているという例は、一種の安心感を与えることになる。宗教法人法は基本申請主義で認証をしているに過ぎないし、都道府県にもよるが、オウム真理教が事件を起こすまで、その認証はある程度制限的ではなかったことがある。オウム真理教が事件を起こしたことで、認証が一気に制限的になり、宗教法人の取得はかなり厳しいものになっている様である。

           とはいえ、この認証にしても、基本的には申請者が善意で善良である前提のもとで運用されてきた事例が多いので、基本、それを悪用してしまったオウム真理教のようなものを防ぐ手段は、認証を行う側の行政には限られていたのである。

          善意で始められた存在でも善ではないかも
           時々、善意で始められたのだから、問題を起こすはずがない、といわれる方が時におありではあるが、善意で始まってきても結果の善良性や問題がないことは保証できない。善意で始まっていても、始まって時間が経過する中で、その組織がそもそもの方法とは別の方向に進むことまでは完全に防止できない。例えば、国と国の争いが典型的にそうである。多くの戦争は戦争開始時には、自国民保護とか、善意で始まる。しかし、その結果は、非常に大きな悪を生み出す。 たとえ善意で始められたものでも、悪を生むのである。それは教会でもそうである。誠実なビジネスのため創られた組織であっても、不誠実なことをなす組織に変質することは比較的簡単に起きるのである。そして不正が発生することは避けられない。それはそもそも人間が、弱く愚かな者だからかもしれない。

           多くの教会は、人々にキリストを伝えようとして始まる。あるいはカルト化しやすい教会の牧師たちも、よほど悪質な例を除き、神の福音を伝えようとして献身するのであるが、その後のプロセスにおいて、変質していき、カルト化し、多くの被害を生み出すということが起きるのである。それは、人間が鼻で息するものであり、神そのものではないからである。人間がそもそも不完全で不確実なものだからではないか、と思う。その意味でたとえ善意で始められたから、といっても結論は善ではない、ということは心しておくべきかと思う。

          プロセスと自己批判の重要性
           その意味でも、一般企業や組織がそうであるように、その組織が行い続けていること、即ちプロセスそのものが重要なのであり、どのような行動をとるのか、どのような聖書理解を述べるのか、ということに関して、重要な責任を負っているといえる。その意味で、教会には自己批判的であってほしいし、ある単一の意見で塗りつぶし、それ以外を否定するような運用をして、自己に対して批判的な言動を一切許さないような組織ではなく、多様な聖書理解を包摂し、その多様な聖書理解が対話をするような組織であってほしいと願っている。その多様な聖書理解間の対話は、カルト化を防ぎ、より豊かなものを生み出すのではないか、と思っている。

           時に「完成された信仰」といわれることがある。それは個人的には、死したものではないかと思う。信仰とは、日々動き続け、揺られ、揺り戻りを経験しつつ、日々微妙に異なる動的(ダイナミック)な環境の中で、神と共に生み出されるのが、信仰の姿ではないかと思う。そう考えるときに、完成された信仰を持つことを目指すというよりは、神と共に生きる、そして、自分自身の聖書に対する考え方、あるいは聖書理解が常に適切なものかを他者の聖書理解に照らしながら生きていくことが重要なのではないか、と思う。

           さらに教会に関して言えば、教会は司牧(牧師や司祭)だけのものではない。教会員のものでもある。その意味で、教会で行われている説教に関しても、司牧(牧師や司祭)からの一方的なものではなく、双方向的なものである方がよいのではないか、と考える。もちろん、教会の代表者としての司牧の側にその責任は重いが、その教会の参加者にも、その教会が適切である運用がなされる責任の一端はあるのであり、自己の信仰の見直しが、あるいは教会の聖書理解の自己批判的な検証が日々求められているのではないか、と思っている。

           日々の教会の存在に対する自己批判的な検証とそのための多様な聖書理解との対話の存在が、教会がある程度、まともな組織として機能し、鼻で息する不完全なものに、神のことばが託されていることの重要性を考えた場合、心して考えるべきことではないか、と思う。他者に何でもいいからと白紙委任状を与えるかたちで、べったりと頼り、依存するのではなく、聖書理解を自分たちの問題として考え、教会内でも対話することの重要性は大きいと思う。そもそもその自分たちが教会を形成し、そして自分たちの聖書理解と自分たちの信仰生活というプロセスに大きく影響するのだから。

           

          http://csiconsultancy.com/process-redesign--lean.html より
           
           
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