2009.12.08 Tuesday

あなたの人生の集大成は?

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     Magnum Opus
    マグナム・オーパス(人生の集大成)というテーマでお話し

    したいと思います。
    今日は、この後、「シャーロットのおくりもの」のワンシーンを

    見ていただきます。 もともとは、アメリカの絵本だったものを

    映画にしたものです。先日、たまたま、映画をテレビでしていた

    のですが、非常に面白い映画でしたので是非ご紹介したいと思い

    ます。

    「シャーロットのおくりもの」のストーリーですが、ある母豚

    が11匹の子豚を産んだのですが、そのうちの1匹の弱い小さな

    子豚が、母乳からあぶれて生きられそうにないので、殺されそ

    うになります。

     かわいそうに思った、農場の娘(ファーン)が隣の親せきの

    家の納屋に預け、この子ブタをウィルバーとなずけ、自分で飼

    うことになります。

     納屋で、子豚のウィルバーは、自分が、将来殺されて、ハム

    とかベーコンにされるという現実を、ほかの牛や馬、ネズミか

    ら告げられショックを受けるのですが、その納屋で、シャーロ

    ットというクモと出会うことになります。

     このシャーロットというクモも、春生まれの子豚であるウィ

    ルバーは雪を見ることはないかも、と告げることになります。

     しかし、ウィルバーに、シャーロットは、何とかして雪を見

    せ、冬を越させてあげると約束します。しかし、どうすれば、

    ウィルバーを生き延びさせることができるか、を考えていたあ

    る日、クモの巣で文字を書くことをシャーロットは思いつくの

    でした。

     最初は、「立派な」という文字を書いて、人々を驚かせる

    のですが、人間は、すぐ飽きるので、次に「ものすごい」や

    「ピカピカ」という言葉をウィルバーのために、クモの巣に

    シャーロットはつづっていきます。

     秋の終わりにウィルバーは、その郡のお祭りでの家畜の品

    評会にでることになりました。そのころ、シャーロットは卵

    を産む時期なので弱っているが、ウィルバーのために一緒に

    品評会に行くことになります。

     ウィルバーの隣は、ものすごく大きな豚、ウィルバーは

    どう見ても貧弱に見えたのでした。そこで、シャーロット

    は、ネズミに協力させながら、言葉を探し「ひかえめ」と

    いう言葉をウィルバーのために、クモの巣に書いてやるこ

    とにしました。

     これが、品評会の主催者等の人々の関心を呼び、特別賞

    をウィルバーは受賞することになります。そして、受賞し

    動物小屋に戻ったウィルバーは、息絶え絶えになったシャ

    ーロットを見て、一緒に家(納屋)に帰ろうと言い出すの

    でした。


     では、クモのシャーロットとの対話のシーンをご覧いた

    だきましょう。ここで、シャーロットは、Magnum Opus

    という言葉を発します。マグナム・オーパスとは、ラテン

    語で人生の一大仕事とか、人生の集大成という意味だ、と

    いうことがお分かりになったと思います。

     シャーロットの人生の集大成は、卵を産んで、子供が生

    まれることだ、と言いました。これは、ある面、生きてい

    るもののひとつの姿を現していると思います。

     シャーロットとウィルバーの対話の中で、シャーロット

    は、彼女の人生の集大成は「卵・新しいいのち」と表現し

    ていますが、しかし、本当のシャーロットにとっての集大

    成は、シャーロットがウィルバーに言った「ありがとう。

    友達になってくれて」という言葉ではないでしょうか?

    では、あなたのMagnum Opusとはどんなものでしょうか。

    みなさんがたの人生の集大成とは、どんなものでしょう?

    あるひとにとって、仕事や子育て、人間関係、楽しい生活

    かもしれません。

     ところで、ナザレのイエスのMagnum Opusをかんがえ

    てみると、どんなものだったでしょう。シャーロットのよ

    うに子供を残し、彼の言葉を伝えることでしょうか?ある

    いは、王位に就くことだったでしょうか?指導者になるこ

    とだったでしょうか?有名人になることだったでしょうか?

    ナザレのイエスのMagnum Opusは、十字架の死でした。

    たとえば、マタイ20:17-19・マルコ10:32-34・ルカ

    9:51-53にまっすぐにエルサレムに向かっていくイエス

    の姿が現れます。


     エルサレム、そこに何があるのでしょう?そこに、十字

    架があり、そこに、死があり、復活があり、永遠のいのち

    の証明、そこに永遠の命につながること(神の国)の重要

    性と価値があります。イエスは、このことを示すためだけ

    に地上に来た神の子だ、というのが聖書の主張です。

     イエスが示そうとしたこと、ナザレのイエスのMagnum

    Opus(人生の集大成)は、ヨハネ11:25にある、彼自身

    の表現にかかっています。「私はよみがえりです。いのち

    です。私を信じる者は、死んでも生きるのです」

    ここで、イエスがいう永遠のいのちは、神との関係のネッ

    トワークに入ることです。ちょうど、シャーロットが、子

    豚のウィルバーで納屋の動物のネットワークに加入したの

    と同じように。

     では、人間にとってのMagnum Opusとはなんでしょう。

     さっきの映画を振り返ると、 シャーロットにとっての

    Magnum Opusは、ウィルバーと友達でいること、ウィル

    バーとともに生き、ウィルバーのいのちを確保することと

    なりました。

     人間にとってのMagnum Opus(人生の集大成)とは、

    「神と友達になり、神と共に生き、永遠のいのちを確保

    すること、神のネットワークの一員になることだ」とい

    うのが、聖書の基本主張だと、私は思います。

    あなたのMagnum Opusとはなんでしょう。あなたの

    人生の集大成です。

     神からのおくりものがせいしょにかかれています。


    聖書のいう、神からの贈り物は、神と友達になること、

    神と共に永遠に生きること、永遠のいのち、ナザレの

    イエスを信じることによるあなたの「永遠のいのち」

    だと、私には思えます。ぜひ、このことをお考えください。
    2010.04.06 Tuesday

    イースターのメッセージ

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       先週の日曜日のイースターのメッセージです。

      今日はイースターということですが、イースターの時期は、日本ではさくら、

      イスラエルでは、アーモンドの花が咲くころです。

      この時期は、ちょうど動物の赤ちゃんが生まれる時期でもあり、動物園などでは

      動物の赤ん坊が生まれたといったニュースが流れます。

      だからというわけではないのですが、今日は「シャーロットの贈り物」の

      オープニングシーンをまず見ていただいてから、お話したいと思います。

      この映画の主人公の一人でもある、子豚が最初、あまりに小さくて、

      育ちそうにないし、母豚の乳首が10しかないのに11匹目として生まれた

      子豚(のちにウィルバーという名前がつく)は生きられそうにないので、

      この牧場主が殺そうとしたところ、その牧場主の娘(ファーン)がかわい

      そうじゃないか、Unfair(不公平)でUnjust(正義が実現していない)だ

      と言って助けます。そして、ファーンという女の子は、この豚の世話をする

      ということで、この豚の命を助けるわけです。

       この子豚のウィルバー君は、このファーンという女の子によって助けられ

      ましたが、このお話は、私たちと神との関係に良く似ています。

      私たちは、ある面、弱く、神の目の前に殺されるのが当然の存在です。

      しかし、イエスが、命をかけて永遠の命を与えることで、この子豚の

      ウィルバー君が守られたのと同じように、永遠の命を自分のものと

      することになった、というのが聖書の主張です。イエス自身、ヨハネの

      3章15節から17節で、命を与えるためにやってきた、と言っています。

      まさしく、ファーンが子豚のウィルバーの命を守ったように、イエスは

      私たちの「永遠のいのち」を守ったのです。それが聖書の主張です。

      単に私たちは、この世のいのちではありません。イエスは、「私はよみ

      がえりで、いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです」と語っ

      たとヨハネの福音書は私たちに主張しています。

       みなさんは、永遠のいのち、天国というものをどのようなものとして

      想像されるでしょうか。聖書の言う天国、神の国とは、かなりいきいき

      したもののようです。たんに生きているのではなくて、神との交流があり、

      神を信じる人々との交流がある場所のようです。脳死状態のような形で

      生きる天国とはかなり違うようです。

       私たちは死を恐れます。そこが終わりであることを薄々感じている

      からではないでしょうか。しかし、聖書は、神を信じる者にとって、

      そこは終わりではなく、永遠に生きることの始まりであると言ってい

      るようです。イエスは、みなさんのいのちを守ろうとしました。どうか

      このイエスについてよくお考えになり、そして、イエスとが言っている

      永遠のいのちをご自分のものとされますように。 






      2012.12.15 Saturday

      マニフィカット を 聞きながら

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         先日の日曜日のプログラムで、バッハのマニフィカットを主に使いながら、マリアの賛歌と旧約聖書の関係について、少し考えた。

         ミーちゃんはーちゃんは、福音派でも、ゲリラ活動的な単立のゆるく連携したキリスト教会群の中で、これまで生活していたので、使徒信条はおろか、主の祈りすら教会の信徒全体で集合的に唱えたことがない。教会暦などは全く無視である。無原罪の御宿りなどという言葉すらまーったく無関係に能天気にキリスト者生活を過ごしていた。

         世間様がクリスマス、クリスマスと言うので、仕方なく、世間様並みに12月に入ると、「クリスマス会」と称したイベントを教会ではするが、自慢ではないが、25日にクリスマス祝会などはした事がない。まぁ、日本では仕事日だしね。アメリカにいた時は、24時間364日動いているスーパーでも、24日の4時には店じまいをして、25日は、ガソリンスタンドや警察・消防以外、完全に一日休んでいたが、日本ではそうではないのでねぇ。仕方ないとは言え。今年も出勤日であるが、定時に帰る予定。


         クリスマス会をするにしても、「これは子供向けだ、子供向けだ」ということをマントラのように唱えながら、自分自身を説得しながら(あるいは騙しながら)、クリスマス会をすることが常であった。

         そんなこともあるので、この前、テゼの祈りのクリスマス会に参加した時にも、主の祈りが新改訳バージョンでしかいえなくて、ちらっと肩身の狭い思いをした。

         最近まで、ミーちゃんはーちゃんが主に活動しているキリスト者集団では、イースターすら教会活動の中では全く無視してきた。その中で、うちは無視するが世間様はそうでない、と繰り返しくどくどと説明し、イースターの重要性を説いてきたのだが、「教会内で変な奴」と思われていたようである。

         ようやく、イースターが認識されるようになったのは、教会員以外の人がイースターの日に来ることが多かった、という実績があってはじめて、認識されはじめた。これまで、ミーちゃんはーちゃんたちの集団では、イースターの主日に総会を入れるほど、これらのものを敵視、あるいは敵視とはいかなくても無視していたのである。ただ、総会している最中に外部の方がこられて、非常に気まずい思いをしたことが何回もあったのではあるが、それでもイースターの主日に総会を開くことは問題がないのでは、といわれる方もおられる。ふしキリやふしふしキリや、Penのキリスト教特集が売れる時代でも、である。それはそれでどうでもよいことだが、イースターは、大事だと思うぞ。ミーちゃんはーちゃん個人としては。


         そんな教会生活を、かれこれ40年近く (信仰者になってからは30年ほど) 過ごしてきたミーちゃんはーちゃんにとっては、聖書を読むとき、マリアの賛歌や、エリザベツの賛歌、ザカリアの賛歌などは、一応読むのだが、さらっと目で追うだけで、「知ってる、知ってる」以上終わり、と意味を考えずに読み飛ばす習慣が長らく続いてきた。


         今回、バッハのマニフィカット(ラテン文とドイツ語が混じったもの)を改めて、ラテン語で読み、意味を解釈し、その意味を深く考えたときに、こんな大事なものを単に「マリアの賛歌」として読み飛ばしていたのか、ということを知り愕然とした。聖書を味わっているとは言えないとんでもない読み方だったのだ。

         あの賛美の中には、エリザベツの賛美に応答する形で、マリアの深い理解と、メシアとしてのイエスが示されているのだ。旧約聖書に預言されていたキリストがいよいよ来るという期待感と紅葉館が旧約聖書的な表現をもちいつつ、その表現がなされているのだ。

         中でも、ミーちゃんはーちゃんにとって衝撃的であった部分を示してみよう。それは、ルカ1章51−54節である。

        1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
        1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
        1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
        1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。


        「心の思いの高ぶっている者を追い散らし」
        という表現は、

         高ぶるものは、これまで、自らを神の座に据えるために、神の座から神を追い出してきたのだ。その神の座から神を追い出したもの(自ら)がおいだされることで、神が神の御座に着座されるということが回復されることを示しているのだ。

        「権力ある者を王位から引き降ろされます。」という表現は、

         これを理解するためには、イスラエルにおける王権の成立に関する理解が重要になるだろう。もともと、荒野でイスラエルの民が歩み行く中では、民の中央を歩み、民を先導するのは王である神YHWH(ヤファウェー、イェホヴァとか、エフォヴァとかエホバとか、ジェフォヴァと呼ばれる)だったのだ。しかし、カナンの地に定着していく中で、周辺の諸国民が持っていた王制を見てしまい、それに心が奪われる形で、王制というものへの姦淫(激しい言葉だが、この語を使いたい)がイスラエルで行われた結果、YHWHがお認めになられた結果、サムエルによってサウルが立てられ、ダビデ・ソロモンへと引き継がれていった。それらの人間を旧約聖書がある程度評価するかのように理解しているかもしれないが、それは、日曜学校的な聖書理解であり、成熟した大人の旧約理解とは言えないだろう。サムエルにしても、サウルにしても、ダビデにしても、ソロモンにしても、神が選びし器ではあるが、それが神の座を占めることを神は姦淫としてお許しになっておられないようにミーちゃんはーちゃんは思うのだ。

         これを現代的なコンテキスト(文脈や環境)の中で解釈するならば、牧師や牧会者は、神の器であるが、神の座を占めてはならないのではないだろうか。そのことをこの個所は教えるのではないだろうか。

         「低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」について

         これは、弱きものへの心配りがされるという詩篇138篇6節、ヨブ記5:11やエゼキエル21:26で示された預言が実現するということが言われているのではないだろうか。つまり、社会の構造が、神の国では、この地上の国のものと大きく異なり、その価値構造が大きく変わるということを意味しているのではないだろうか。ミーちゃんはーちゃんの言う神の国というのは、死んだあといく天国という意味ではない。神の支配のうちで、という意味である。神の国とは、通常想定される死後の世界の事ではないと思うのだ。神の国とは、神の支配の中でこの地上での生を生き生きと神と共に生活していくことなのではないだろうか。
         そして、ここでマリアの賛歌の中では、山上の説教の中でのマタイ5章の「幸いなるかな」で始まるイエスの発言の内容が含まれている。これを後世からの理解に立った後世の記載と理解することもできるが、たとえそうであっても、これがマリアの賛歌に含まれている意味は大きいのではないだろうか。

        「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで」について

         この部分は、神の性質に関する出エジプト33:19との関連が深く、憐れみにおける神の主権が語られている。さらに、この部分と関係が深いと考えられる申命記32:36では、憐れみが神のわざであることが思い起こされる。そればかりではなく、次の一節へとつづいていく。

        「そのしもべイスラエルをお助けになりました。」
        について

         ここは、申命記33:29やイザヤ41:14、エレミヤ33:26が思い起こされるのだ。そして、イエスによって、ナザレのイエスによって、それがキリストとして十字架の上で殺されることを通して神の王座に就くという逆説(パラドックス)を通してのみ、イスラエルの救済というか、無力なイエスが、神の座にもどることを通してイスラエル自体が助けられるというパラドックスが実現するように思う。

         ミーちゃんはーちゃんには、これが本当にマリアの賛美として彼女が口にしたものかどうかはよくわからない。たとえマリアが実際にこの通り口にしていなかったとしても、福音書記者ないしは後世の使徒たちが、この賛美を書きたいと思った、書かざるを得ないと思った、あるいは、神が書かしめた、ということの方がよほど重要ではないかとおもう。こんなことを書くから、聖書原理主義者の皆さんからは、リベラルとディスられるのだろうし、ミーちゃんはーちゃんは聖書の権威性を認めてないといわれるかもしれないが、しかし、ミーちゃんはーちゃんは、真正性のみが聖書の権威性や無謬性の保証ではないのではないか?と素朴に思うのだ。まぁ、非難したいならされたらよろしい。本当に大事な問題なのは、ミーちゃんはーちゃんの考え方や思いや立場よりも、このマリアの賛歌が、聖書に記されているということなのだから。

         以前このブログだったかどこかで、大学時代オリエント史の面白さを教えていただいた、池田裕先生が講義でお語りになったことを今もまた、思い出している。

         「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。(イザヤ書1章18節)

         どうか、この神と論じ合ってほしい。ミーちゃんはーちゃんとではなく。まァ、コメントくだされば、お応えしますけど。

         このクリスマスを神とあなたが聖書テキストと格闘しつつ論じ合う、その時期として欲しい。その入り口として、マリアの賛歌(マニフィカットで知られる)は重要な賛美だと、ミーちゃんはーちゃんは思うぞ。



        評価:
        ---
        Euroarts
        ¥ 1,495
        (2004-11-29)
        コメント:言わずと知れたトン・コープマン指揮によるマニフィカット輸入盤なので、リージョンフリープレイヤーが必要。

        評価:
        Scot McKnight
        Zondervan
        ¥ 1,367
        (2011-09-13)
        コメント:お勧めの一冊。近日中に日本語訳が出るかも、www.kingjesus.jugem.jp 参照。

        2014.06.05 Thursday

        2014年5月に芦屋で開かれた上沼昌雄さんの聖書講演会の記録

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           本日は、2014年5月31日に開催された上沼昌雄さんをお招きして開催された聖書講演会の時に撮ったメモをもとにご紹介致そうかと。基本的に宇治で開かれたセミナーと主要部分に関しては同じなので、そちらの記録も兼ねてます。

          理想と現実のギャップ

           まず、冒頭で、ギャップ問題、特に、自分の理想と自分の現実とのずれについて、どう考えるのか、ということの問題提起がなされた。その中で、ギャップとは、「理想とそれにそぐわない自分の現実のずれ」と言えるだろう。ところで、ギャップは埋められるのだろうか。信仰が深まるとともに埋まらるのだおろうか、埋まらないのだろうのか。最終的なところで埋まるのか、埋まらないのか、ということをどう考えるのか、ということを問うてみたい。

          神学研究が有効でないという行き詰まり

           神学校で教えていたころは、聖書から理解したことを考えを巡らし、それを実行すれば大丈夫ではないか、と思っていたが、それで結局上沼先生は、行き詰ってしまわれた。三位一体の神がおられるから大丈夫、とやり過ごそうとしてきたが、それはあまりご自身にとっても有効でなかったし、牧師になっていった卒業生にも、教えたことが役に立ってない現実に直面した。

          理想的なクリスチャンよりは、
          情けなさを抱えて生きる旧約聖書の神の民

           クリスチャンのあるべき姿論(理想的なクリスチャン人生、教会、夫婦関係)が多く議論されるが、それが人々を追い詰めていくのではないだろうか。いま、なやんでいる牧師たちのための会を5月の中旬に宇治で開催しているのだが、このあるべき姿論が人を苦しめているのではないか。しかし、あるべき姿論ではなく、情けなさをあちこちに抱えた旧約聖書の話に現れる神の民こそ、神の民の現実ではないかと思わされた。

          中間時代の出来事

           旧約聖書が終わってから400年(中間時代)の出来事が、想像する以上にユダヤ教に影響した。

          トルコ(小アジア)を出発としたマケドニア帝国
          ギリシア
          ローマ
          スペイン(地の果ての国)

          アレキサンダーのマケドニア帝国は、ギリシア帝国でもあり、地中海世界に一種の共通語としてのギリシア語が広がった。

          その意味で、イエス時代のユダヤは政治体制においては、ローマ帝国であり、文化的には、ギリシア文化が幅を利かせ、宗教的には、ユダヤ教であった。

           その中で、旧約聖書のギリシア語訳が、アレキサンドリアで行われるが、アレキサンドリアは文化的中心(古代の図書館があった)でもあった。アレキサンドリアにいたプトレマイオス朝の王がユダヤ教に関心聖書に関心をもっていた。そしてできたのがおそらく70人訳なのだろう。

          ギリシア哲学と聖書

           ソクラテスの時代は、エズラネヘミアの時代の前であるが、プラトン、アリストテレスは捕囚後の哲学者である。おそらく、ギリシア哲学、少なくともギリシア文化の影響がユダヤ社会の中に入っている。その意味で、プラトンのイディア論や理想郷の概念が、キリスト教に影響していく。その意味で、近代日本でのキリスト教の多くの部分は、プラトンのイディア論をキリスト教として語ってきた部分があるのではないだろうか。つまり、理想を強く掲げる傾向があっただろう。

          旧約聖書における神とのかかわり

           出エジプトの金の子牛事件では、神にくってかかるモーセが記録されているが、それは神を困らせている感じがする。その意味で、誤解を生みやすい表現かもしれないが、旧約聖書は神が困っている物語であり、神の民自体が神が困っている問題の原因になっている。
           また、多くの場合、神が思いなおされている。その意味で、どうやっても到達しえない理想的な世界を建設する、という思いを日本のキリスト者のうちから取り外しせないだろうか、という問題意識をもっている。

          出て行くことにまねかれている信仰者

           創世記15章には、アブラハムの物語がえがかれているが、そこで、神はアブラハムに対して「出て行きなさい」とおっしゃっておられる。その意味で、ユダヤ人の信仰でもあり、クリスチャン信仰でもそうであるはずだが、本来的には、留まらず出ていく信仰であろう。
           そして、天の星を見せて、「この星々のようになる」と神はアブラムに仰せになるが、そんなことを、誰が信じられ要か。しかし、それでもアブラムは波乱から出て行った。その意味で、神は、アブラハムへの契約をいまでも守る神の誠実の神である。

          ギリシア的な理想世界では
          理解不能な旧約聖書

           ギデオンはえいゆうであるが、子供のアビメレクが70人の異母兄弟を殺している。また、士師記の最後では、レビのところにいた女性が、実家に帰っているが、この女性を実家のところに行った時、このレビ人と女性はベニアミン族のところで宿泊する。すると、ベニアミン族のワイルド・ヤンキーの皆さんがレイプして殺してしまう。これはどう考えても宗教書の記述としてはありえない話だろう。

           ところで、ベニアミン族、パウロの出身部族でもある。パウロが、「私たちの不真実があっても、神の真実は変わることがない」というとき、パウロは自民族の過去の歴史を知りぬいていた上での発言ではないだろうか。

          理想通りいかない神の民

           エゼキエル書14章の中にある神の中の正しい人物としては、ノアとダニエルとヨブが描かれているものの、全体としては、とんでもないユダヤ人の状態になっている。 
           異国の民は、天国のイメージで神の民の麗しい姿を期待するが、出エジプト、バビロン捕囚のような情けない状態は避けられないのではないか。そして、旧約聖書は祝福と呪いが並行しているというところに着目したい。

          ホロコーストで地に落ちた
          ヨーロッパのキリスト教

           キリスト教界も状態は似たようなものではないか。既に、ホロコーストを経験したヨーロッパのキリスト教はヲワコン化が進んでいるのではないか。クリステンドムが崩壊している。その背景には、ホロコーストを阻止しなかったどころか、教会は概ね加担した。そして、ヨーロッパは、ポストキリスト教の世界になっている。

           しかし、アメリカはそれを経験していないので、未だ、理想、理念系を追っている。こうすればOK、マニュアル化したキリスト教になってないだろうか。クリスチャンの集まりに行っても私たちの現実は全く変わらないという現実があるのではないか。それを自分たちで変えようとするのは無理なのではないか。むしろ、そのダメさ加減を受け止めること、そして、ダメなものはダメなものであっても、それを、生かそうとしておられる神ではないか。神の慈愛の招きの中でのみ、生きることができるし、そのために生かされているのではないか。

          キリスト教徒とパラレルな
          旧約時代の神の民

           旧約の現実の姿は、我々の姿であるだろう。信じられないことが書いてあるが同じようなことが起きるのではないか。神は神の真実を変えられない。誠実であるがゆえに、別の人を選んで何かをなさしめようとすることをなされない神であるのかもしれない。どんな状態であっても我等を愛し、回復させようとする神であるだろう。

          とはいえ、キリスト者の意義

           イエスご自身が我等を天幕として私たちのうちに住まれるのである。単なる過去からの連続ではなく、イエスを通してあたらいしいわざが与えられるし、新しい望みがかなえられる。キリストと同じように歩むことができるということは重要な側面だろう。

          イエスと旧約聖書

           イエスキリストと新約聖書、旧約聖書を考えてみたい。我々は、モーセの律法は終わったととっているが、イエス自身も律法の一点一角も落ちない、とおっしゃっておられる。むしろ、律法の要求が私たちのうちに実現するとおっしゃっておられる。

           旧約が生きているといっても、儀式とかのすべてではなく、中心的な神の思いが実現するのである。旧約で何が大事か、ということに関しては、「こころを尽くし神を愛せ、自分人を隣人のように愛せ」と言っておられる。マタイの福音書では、イエスに律法学者が尋ねているが、ルカの福音書では、律法の専門家が試そうとしておられる。そこで、律法学者がイエスに「永遠のいのちを自分のものとするためにどうすればいいか」と聞くが、イエスは聞いた律法学者に「あなたはどう考えているのか」と聞き返す。するといえすは、「神を愛すること、隣人を愛することの2つともが大事であり、それをすれば、命を得る」と言っておられる。

           この「隣人を愛せ」はレビ記の中の一か所でしか言われてないことである。在留異国人が決して飢えることのないように、やもめとみなし子が飢えることがないように配慮せよと続いている。その背景には、あなた方ユダヤ人も在留異国人であった。これらの社会的弱者を保護しなければ、神は「殺す」と厳しい言葉で言っておられる。

          旧約律法のユニークさ

           どうしたら、ギリシア人がうまく治められるか、ということで政治哲学が生まれてきたが、しかし、ギリシアの政治哲学には、在留異国人や、やもめの存在が入ってないのである。また、7年目には、「土地を休ませよ。奴隷を解放せよ。」とおっしゃっておられる。また、7年の7倍49年の翌年がヨベルの年。50年目に土地の売買があっても原状回復せよとおっしゃっておられる。これは資産配分の偏りを防ぐためであったのではないか。近年国際債券市場で行われた後発国家への債権放棄は、国連におけるヨベルの実現なのである。

          やもめとイエス 

           この律法における、買い戻しの権利、異国人、やもめが全部出てくるのがルツ記である。このルツからボアズが生まれ、エッサイ、ダビデ、そして、その後継者としてのイエスへとつんがる。
           また、ルツは、モアブの民であり、不品行的な行為で生まれたモアブの出身である。

          出ていくように
          招かれているキリスト者

           「愛することと生きること」と「平気でうそをつく人たち」を書いたスコットペックは、カウンセリングを行った人であるが、彼が指摘していることは、愛するために自分の殻を破りでていったのがイエスであり、精神的に成長するためには、イエスのように外に出ていくことが重要である。自分から外に出ていくことがイエスの行為である。と、スコットペックは、クリスチャンでなかった時に書いた。そして、クリスチャンになって書いたのが、「平気でうそをつく人たち」という本であり、この平気でうそをつくのは自己愛に浸っているからであり、何でも他人が悪いと片づけてしまうナルシストなのである。

          神に手を伸ばして
          出ていくべきキリスト者
           その意味で、自分から神に向かって手を差し伸べていくのがキリスト者であろう。私の現実をみて、ダメだ、ダメだというのではなくて、自分のふがいない現実を通して神のいのちが我々に浸透していくのではないか。

          大体こんな感じのお話しでした。

          まとめとその後の
          ミーちゃんはーちゃんの中での共振

           なんか、これ書きながら、沼田先生の先日の説教を思い出しましたし、また、ヤンキー牧師の中村うさぎさんとの関係で書かれていたピューリタン的な自己を自己努力で霊的な純化というか聖化を進めていこうとすれば、それは、そもそも無理ゲーであるし、その無理ゲーのひずみが、厳格なほぼ無理ゲーの生き方を求める親をもつキリスト者2世を苦しめ、そして、その生き方を求める親であるキリスト者自体をも苦しめるし、結果として、日本のプロテスタント教会関係者における閉そく感をもたらすのだろうなぁ、と思いました。

          評価:
          アンリ J.M.ヌーエン
          サンパウロ
          ¥ 1,296
          (2002-10-07)
          コメント:翻訳に癖があるが、神に向かって手をひらいていくことが示されている。

          評価:
          価格: ¥1,944
          ショップ: 楽天ブックス
          コメント:旧約聖書的な世界と村上春樹の世界を対比させながら、われらが闇の住民でありつつも、神がそこにイエスとして降りてこられたことの意味をご指摘。名著。

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