2016.01.18 Monday

上智大学大阪キャンパスでの月本さんの公開講座に行ってきた(1)

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     今日は、ヤンシー先輩の連載は、一回お休みして、先日上智大学大阪キャンパスの本 昭男さんの公開講座に行ってきたので、その縁はん部分をご紹介しようかと。

     今回大阪では、2回目ということだそうで、今回は、アブラハムの物語と題し、アブラハムの生涯に学ぶ、ということでの講座であった。

     暴騰1枚ものの資料が配布され、創世記の12から25章のアブラハムに関する話題のお話があった。配布資料は、聖書に記述のある説、アブラハム、イサク、ヤコブが何歳の時に何があったかのイベントとその時の明示的にわかっている年齢をまとめたものが配布された。

    創世記の全体像

     創世記は、天地創造、アダム、アベルとカイン、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフへと続いていくことが記載されており、基本的にはそれぞれ個々の家族の物語(この場合、出来事としてのまとまりとして記述されている内容、という意味での物語という意味であることは講義終了後直接確認しました)を取り上げており、背景としては家族中心の社会がある。

    遊牧文化を背景とした聖書の世界

     ある面で、アブラハム、イサク、ヤコブも牧羊を生業としている。これは重要な側面である。イスラエルの民は、自分たちの先祖は羊飼いであったと理解したことが重要である。 

     ヨセフの物語(出来事)にしても、エジプトで宰相になり家族との再会を果たす。その時、ファラオに謁見した時に、先祖代々羊飼いであるといっており、自分たちの原点は、羊飼いだといっていることは案外重要である。
    【新改訳改訂第3版】創世記
     46:33 パロがあなたがたを呼び寄せて、『あなたがたの職業は何か』と聞くようなときには、
     46:34 あなたがたは答えなさい。『あなたのしもべどもは若い時から今まで、私たちも、また私たちの先祖も家畜を飼う者でございます』と。
     古代イスラエル人の偉大な人々は、羊飼いと直結している。モーセも羊飼い、ダビデも羊飼いであった。旧約聖書の世界の思想の根底に羊飼いの思想が生きているように思われる。詩篇23篇もそうであるし、100篇もそうである。 旧約の律法にも、羊飼いとしての経験が生きている。落穂ひろいの律法である、レビ記19章や、申命記24章なども、その事例といえるのではないか。


    現代の砂漠の遊牧民


    現代の都会の遊牧民

    遊牧民と土地所有

     この律法は、寡婦、寄留の外国人、孤児 無産者のために必ず残すというのが律法であった。 表面的には貧しい人々を支えようと考えられるが、それ以上に大地の産物は所有者のものではなくて、土地が神に属するものである以上、神のものという意識があるように思われる。神のものをすべての生物や人々が享受できるようにするための律法と考えられる。その結果、土地を勝手に売買してはならないということや、レビ記25章のヨベルの年の規定なども神のためのものということの反映ではなかろうか。土地は神に属するということは農民の発想ではなく、牧羊者の発想であると思われる。

     西アジアの遊牧民族にとって、土地は誰かのものではなく、神のものであり、それを使わせてもらうという思想であるといえよう。そして地の産物は、その地に住むものがすべて享受できるという思想へとつながる。

     申命記24章の落穂ひろいの規定に関しては、先にも述べたように、寡婦、孤児、寄留者のために残すとなっており、彼らに属し、彼らのものになる、とも原文からは読める。寡婦、孤児、寄留者を大切にせよということであるが、寡婦と孤児を守れは、楔形文字には存在する。2400BCくらいのウルカギナあるいは、ウルイニムギナの都市国家の王が社会改革をした記録に寡婦と孤児の保護規定を作ったという文言はある。法典の最も古い法典にも記録がある。その意味で、孤児と寡婦の保護は西アジア的伝統にはある。

     しかしながら、旧約聖書の寄留者を守るというのは、旧約聖書の特徴であるといえよう。では、この寄留者の保護規定は、いつごろ成立したのだろうか。預言者イザヤには、寄留者が出てこない。寡婦と孤児が出ている。ところが、エレミヤ書の7章では、孤児と寡婦と寄留者が出ている。正確なことはわからないが、紀元前7世紀ごろではないだろうか。

     寄留者を守れ、という規定は、羊飼いはあちこち移動するひとびとであり、常に寄留者である存在である。羊飼いとして描いているのは、牧歌的表現のためではなくて、羊飼い時代の思想が旧約聖書に生かされているためではないだろうか。

     文字化する段階では、イスラエル民族は農耕生活に入っていたと思われる。

     ところがこの遊牧者の生活感覚は、長らく農耕社会を形成してきた日本では、感覚的にわからない面があり、日本の伝統社会とは相当異質である。イサクの物語だけ、種をまいて収穫する例が1カ所だけある。創世記26章12節であり、この部分の記載がイエスの種まきのたとえにつながっているのではないだろうか。

    アブラハムの歴史性

     アブラハムは、歴史的人物でない可能性があるのと同時に、歴史的存在ではある。アブラハムは、聖書以外のその名前が他の歴史資料に出てこないという意味で、実在したかどうかの確証は今のところはない。歴史的存在であるというのは、古代イスラエルの人々の思いなどが重畳的に含まれている点で歴史的存在ではある。

     学者によれば、いつ存在したかといえば、人によって異なるが、紀元前2000年〜1300年という幅がある。

    215年・430年という時間間隔の再帰性
     なぜ、年齢が創世記に書いているのか、を考えてみると、アブラハムたちがカナンにいたのが、ここでの記録を合わせると、215年となる。また、出エジプト記の12章40節によれば、エジプト滞在期間430年にあたる。ソロモン神殿作った時の第1列王記6章の記述によれば、神殿建設期は、エジプトでてから480年目となっているが、ソロモンの支配期間が4年目であることを考えると、その前のダビデは40年であり、サウルの在位はサムエルには記載ないが、数年であることを考えると、出エジプトから王権が確立するまでが、概ね、430年前後であることになる。バビロン捕囚までが何年かを調べるのは、なかなか難しい。

     ここに示されるように、430年ないし215年という期間を基準にしたような時代区分の意識があるのではないか。しかし、なぜ430年にしたのか、ということがわかると面白いのではないかとは思うのだが、なぜ、430年なのか、なぜ、アブラハムからエジプト移住までは215年なのかは、よくわからない。

    家出(出家)あるいは自立文化と旧約聖書
     創世記12章 メソポタミアのウル、シリアのハランを出発しているが、テラの存命時に出発している。その意味で、アブラハムは父を捨て、家出をしたといえる。ある意味で、アブラハムの召命は家出だったといえるのではないか。年齢を表現する数字にこだわると、両親を捨てたことがわかるのではないか。父母の家を離れ、ということはある面家出であるといえる。聖書の思想がこういう部分に現われる。ある面、家出あるいは、出家ともいえなくはない。アダムとエバの創造の時にも、父母を離れ、ということが言われているが、本来的には、「このゆえに、人は父と母を見捨てて(恐らく岩波訳をみておられたようである)捨てては、非常に強い動詞であり、我が神和が神どうして私をお見捨てになるのか、の見捨ててとパラレルであり、この背景にある詩篇22篇と同じ動詞 アーザブ יַֽעֲזָב־ が出てくる。

     なお、父と母を目的とする語が出てくるのがルツ記 2:11 両親と生まれ故郷を捨てて と翻訳されているところのアーザブと同じ語である。

     ほぼ全部の日本語訳は「はなれて」という語を当てて訳している。ある面、旧約聖書は親不孝の書物になるから、避けているのではないか、と思われる。

    (このあたりの話を、西アジア語と中東文化を勉強している息子と話しをしていたのだが、「まぁ、遊牧文化に背景とする以上、親と同じところにいないのは、ある面で当たり前だ」と息子君。「そんなもん、親と一緒にくっついて居ったら、羊に食わせる牧草無くなって、親子ともども共倒れになるからやん」ということらしい。この種の相続の方法論は、モンゴルでもとられているらしく、それがモンゴルでは末子相続という、親との年齢間隔が大きくなるような相続方法がとられるらしいというのは、息子君談。)

     聖書の家族関係に関する理解も、遊牧民族を前提とすると、親子ではなく、夫と妻の方が優先することになる。それを反映して、親を捨てると書いている。またこのあたりの概念が、イエスのことばの肉親を大事にするものは、神の国に相応しくない、ということあたりとも通じているのではないか。親を捨てるというと穏やかではないので、自立、出家、独立という語で言いかえた方がいいかもしれない。ある意味で、聖書は自立を教えている。アブラハムは典型的にそうであるといえるが、それも、若い時に出はなくて、75歳で、中年で家出している。ある面、新しい世界に挑戦することを語りかけているかもしれない。

    (この部分を聞きながら、思ったのは、人間そのものが神からの家出であり、また、その出たところである神の元に戻るという構造を持っているのかもしれないなぁ、と素朴な感想を持った。)

    アブラハムの記述とヤコブの記述の差

     アブラハム、イサク、ヤコブの記述を比べると、イサクが短い記述となっており、その分だけ、一番、安定している。イサクに比べて、ヤコブの記述は長い、ところで、ヤコブとアブラハムを比べると相当違う。ヤコブは生涯を辿るようなストーリーラインになっているが、アブラハムは、いくつかのエピソードとおいてつなげるかたちの構造になっている。アブラハムはいくつかの主要なエピソードをつなげる形となっている。

     17章では、割礼の実施が出てくる。この割礼は、ユダヤ教徒の律法の重要な基盤の一つであるが、モーセによる律法の外に、アブラハムに命じられていた。アブラハムに対する契約のしるしとして語られる。なお、ユダヤ教徒の律法はモーセが主であるが、モーセの律法以外もいくつかあるが、アブラハムの割礼はその一つである。

    神の一方的な約束としての記述を見る

     アブラハムの物語を一つの語であらわすとどういえるか、といえば、約束の物語ということになるのではないか。アブラハムに対する一方的な神の約束が何度も出てくる。
    例えば、創世記12章では、たとえば、祝福を受ける民族である約束があり、土地を与えるという約束がなされている。15章では、子孫の増加が約束されている。

     これまでの旧約聖書の解釈では、土地授与と子孫の増加の側面に重きが置かれたが、神の祝福があること、土地授与と子孫の増加の3点セットで考えるべきであり、この約束はイサク、ヤコブにも同じ約束が与えられている。
    創世記
    26:3 あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。
     26:4 わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
    芥川龍之介のヤコブの梯子とキリスト教
     ここで、突然、芥川龍之介の話へと余談となった。

     芥川龍之介は初期にキリシタンものを書いているが、最後の作品に「西方の人」という作品と、「続西方の人」という作品がある。ある面、イエス・キリストが芥川は、気になっていたようである。芥川がどう理解したのかについて、す越す触れてみたい。その「西方の人」の中に「折れた梯子」という短文があるが、どうもヤコブの梯子ではないかと思われる。

     天から地上にかかる折れた梯子に関して、立教の佐藤先生は、薬物で頭がもうろうとしていたとしている説を唱えているが、恐らく、創世記28章の天と地を結ぶ梯子の事であろう。天から地に向かってかかっていた梯子という記述があるが、普通の梯子は逆であるが、どこかからヤコブの梯子の話を聞いたのではないかとは思うが、ソースは現状不明である。

     ただ、芥川は当時教文館にあった、米国聖書協会に通っている。そこに、室川文武という人物がいるが、米国聖書協会勤務で、内村鑑三の弟子がいたのだが、ひょっとして内村の中にあるのではないか、とは考えたが、現状、よくわかっていない。ところで、芥川が読んだ英文聖書だろうか?という話もあるが、どうもそうではないのではないか。

    アブラハムの約束はいつ実現したか

     アブラハムの約束は、いつ実現したのか、ということを考えてみたい。
    創世記
     28:13 見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。
     28:14 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
     28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。
     この約束は、実現したのかを考えてみると、父祖たちはどの程度の土地を得たであろうか。唯一あったのは、妻がなくなった時に埋葬する土地ヘブロンの郊外のマクペラの洞穴を手に入れた程度である。  
    創世記
    23:8 彼らに告げて言った。「死んだ者を私のところから移して葬ることが、あなたがたのおこころであれば、私の言うことを聞いて、ツォハルの子エフロンに交渉して、
     23:9 彼の畑地の端にある彼の所有のマクペラのほら穴を私に譲ってくれるようにしてください。彼があなたがたの間でその畑地に十分な価をつけて、私に私有の墓地として譲ってくれるようにしてください。」
     ある面で、ヨシュア記で父祖たちの約束が成就している。フォン・ラートという20世紀の旧約学者がいるが、創世記とヨシュア記は呼応関係にあり、モーセ5書とヨシュア記をひとまとめに考えたらよいのではないだろうか、ということを主張している。

     このアブラハムの物語を考える際に重要なところは、イスラエルがその王国を失って、流浪の民となる時に重ね合わせたのはアブラハムの姿ではなかったろうか。ある面、その流浪の民の時に、約束が成就してないことに価値を見出したのではないのか。

      アブラハムは約束としての土地を得るという約束は実現したか? 実は得られていない。キリスト教徒たちは、へブル書にあるように天のふるさとを目指した、と読み替えていく

      子孫増加は実現したか。子孫はイサク一人であり、実際にはかなり怪しいなかその生を終えた。

      氏族によって祝福されたか。地上のすべての民の基礎となる。これこそ、最も重要な約束ではないだろうか。しかし、これを見ることはアブラハムはなかった。

     12章の最初に出てくる全ての民の祝福の基礎となるということは重要である。

    古代オリエント史全体とイスラエル民族
     
     ドイツ留学にあたって楔型文字の研究をはじめ、その後、古代西アジアの文化史研究と旧約聖書の思想への影響をしてきた。

     その中で分かったことは、古代のイスラエル民族は、西アジア全体から見たら弱小民族であり、エジプト碑文の中で、イスラエルは一カ所に出てくるが、それは、メルエンプタファ王の戦勝碑文の中であるが、パレスティナ・アジアの支配の7民族の一つとして最後に出てくる。イスラエルに関する気嬢は限られており、エジプトからすれば、イスラエルは眼中にはない存在であった。

     アッシリア、バビロニアにとっては、アッシリアはエジプトを何とかしたい存在であった。 アッシリアの資料にはイスラエルの記述はたくさん出てくるが、アッシリア帝国が征服していく中の一つとしてしか出てこない。零細民族の一つでしかない。

     バビロニアはイスラエルを支配したがあまり記録はない。文書が発掘されれば、出てくる可能性が大きいだろう。

     ところで、古代の支配者の記述の中に、自分たちは世界の支配者だと主張するものは多く、例えば世界四方の王だといったものは極めて多く、その際の被征服民族名を残したものが多く、征服者の姿としての自己像を描くが、祝福の根源となるといっているものは一つもないといっている。それも、現在の発掘されたものを前提とする限り、ではあるが。

     ところが、そのような大言壮語形の王たちと比べ、弱小のイスラエル民族であるものの、自分たちの存在が世界の祝福の根源となると理解したのは非常に興味深い。自分の歴史を語る時に、人類史を語る際に神に選ばれた民族として何者であるか、ということを考えたといえるだろう。その意味で、別の意味で誇大妄想に近いイスラエル人であったともいえるかもしれない。

     弱小のイスラエル民族ではあったものの、人類史の中での役割を自覚したところが面白いといえるだろう。唯一神を信じるということよりも、神がすべてを支配する神だ、と信じたということが重要であったのであり。全民族の祝福の根源であることを認知していることは印象深い。

     自分たちの世界誌的な役割や位置づけを考えるということは重要ではないか。このようなことを明治の中頃にこのことを考えたのが内村鑑三先輩である。そういうことを考えたときは、教育勅語問題で1891年から7年間、転々としているときである。この7年間に代表的日本人など名著を表している。その意味で、現代に生きる日本人として、神が個人としてのどのようなことをさせようとしているのかを考え、また、日本人全体としてどのように生きようとすることの意義を考えることは重要ではないだろうか。
     ギリシア人は、自己はギリシア人であり、他はバルバロイとして、非常に差別的な目を向けていた。このような考え方が一般的な中で、民族の役割を考えるという観点において、唯一神信仰は大きな役割を果たしたのではないだろうか。


    ということで前半終了

     まぁ、幅広い視点からご教示いただきました。特に、「父と母を見捨てて」結婚して家族を形成する、という観点は、大事だし、また、旧約聖書を遊牧民族の視点から検証してみると面白いことがあるように思うのですが。





    2016.01.20 Wednesday

    上智大学大阪キャンパスでの月本さんの公開講座に行ってきた(2)

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       今回も前回に引き続き、上智大学大阪サテライトキャンパスで実施された月本先生の公開講座に参加した時に記録したノートをもとに再現してみたい。


      一神教と多神教 休憩中の参加者のご質問にお答えして
      1980年代後半から、旧約聖書の研究者の中でも古代イスラエルは多神教なのか、一神教といえるのか問題が聖書学者の間で話題になったことがあった。全体としてみると一神教批判的論調が多く見られた。一種の西洋のキリスト教の自己批判として、という意味であったであろう。神は唯一である、として掲げてきたがそれでよかったかという問いであった。

      同じ時期に日本では、伝統的には多神教だから・・・という論調が表れた。それはおそらく梅原武のしそうからであろう。西洋型一神教は、人間を特別なところにおく。その結果地球環境問題が発生したように見える。なぜそうなったのかを考えてみると、環境を人間のために利用し尽くしていい、という人間中心主義であったのではないか。その背景にはキリスト教の存在があることを新聞などに書いた。比較思想学会などで、自然観の対比等がなされ、ある場面では、アニミズム的な世界観の方が環境保護の側面で、優れているとするような論調があった。

      別の一神教批判として、一神教は白黒で判断する二元論的指向性を持っているという批判もあり、その対比として、多神教は、多元的であるという論調も見られた。これらはかなりずさんな議論だという感想を持った。戦争するのは一神教も多神教も同じではないか。そもそもどっちが優れているのかはそもそも多元的な発想ではない。

      こういう主張がなされる背景はある程度類推可能である。日本社会がアメリカに追いつき追い越せでやってきた結果、日本の伝統を忘れてきた。経済的に豊かになった中で、大事なものを忘れたのではないか、という詩的であればわかるが、それがキリスト教をはじめとする一神教がおかしいから、というのは一神教が批判される構造と、構造としては同じにならないか、という疑問が残るのではないだろうか。

      アブラハムのパラレルな物語群

      アブラハムの物語は、同じテーマが繰り返される。たとえば、エジプト寄留である創世記12章とゲラル寄留の20章は同じテーマが繰り返されている。

      新共同訳 創世記12章
      ◆エジプト滞在
       12:10 その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。
       12:11 エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。
       12:12 エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。
       12:13 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
       12:14 アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。
       12:15 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
       12:16 アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。
       12:17 ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。
       12:18 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。
       12:19 なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」
       12:20 ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。

      ゲラル寄留

      新共同訳 創世記
       ◆ゲラル滞在
       20:1 アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、
       20:2 アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。
       20:3 その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」
       20:4 アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。
       20:5 彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。
       20:6 神は夢の中でアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。
       20:7 直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」
       20:8 次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。
       20:9 アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。「あなたは我々に何ということをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。」
       20:10 アビメレクは更に、アブラハムに言った。「どういうつもりで、こんなことをしたのか。」
       20:11 アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。
       20:12 事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。
       20:13 かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」
       20:14 アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、
       20:15 言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きな所にお住まいください。」
       20:16 また、サラに言った。「わたしは、銀一千シェケルをあなたの兄上に贈りました。それは、あなたとの間のすべての出来事の疑惑を晴らす証拠です。これであなたの名誉は取り戻されるでしょう。」
       20:17 アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。
       20:18 主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。


      アブラハムに用いられている向けられている預言者(創  20:7 直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから)というのは、旧約聖書での最初の預言者という表現である。父祖たちを指して預言者と言われるのはこの1カ所だけである。

      ここでゲラルでもエジプトの場合でも主張されていることは、サラは妻であると同時に、妹だということになる。つまり、アブラハムがウソを言ったのはどうかという話になる。ある人々は、異母兄弟だと理解する人もいる。しかしながら、聖書でそれを支持するための根拠はない。旧約聖書の中の記述の中には、全てを表現せず、分かりにくい部分がある。旧約聖書は細かなところまで説明しないし、想像力で補わないといけない。恐らくアブラハムはウソを言った可能性が高い殿ではないかと思われる。

      仮に異母兄弟説が正当であるとしても近親相姦にはあたる。旧約聖書中のタマル事案などでは、大きな問題が生まれている。ある面、策略を使って安全確保するのは誉められた話ではないように思われる。敢えて、アブラハムを理想化するうえで、障害となるような同じような話を二つも伝えるのは旧約の特徴の一つではないだろうか。人間を完璧な人物として描かないという特徴である。類例としては数多くあり、ダビデのバテシバ事案、モーセ先輩の激怒事案等が典型的であろう。敢えて、人間を理想化せず、完全なものとして描かないで、その醜さ、弱さを描く。このあたりに旧約聖書の描くリアリズム、現実感覚があるのではないだろうか。神の目から見て非の打ちどころのなかったノアであっても、洪水後は泥酔事案を起こしている。敢えて、完璧でない人を描くことに、弱小の民の強さの一つがあるのではないだろうか。このような自分自身を笑い飛ばす強さみたいなものは、日本の伝統にはないように思う。

      (まぁ、あるとしたらお笑いの世界だけでしょう。お笑いの世界は所詮捨て身芸ですし、仮想人物を語ることで捨て身を登場人物に落語は仮託しますよね。その辺、マンザイや漫談は下手をすると自らの身を捨て身とすることがもとめられることがあるようですが)

      アブラハム、ハガル追い出し事案
      さて、アブラハムの不完全さといえば、アブラムのハガルの件もそれに近い。日本語訳では、そばめとしたと訳されているが、妻としたと原文ではなっている。新共同訳のそばめを訳語として用いた背景には関根正雄訳が原因であるように思われる。楔形文字のヌジ文書に同じ習慣 があると読んで、ハガル事件の背景にこれがあるのでは、と考えて翻訳をしたのではないか。その背景にあると思われる、英語の論文が楔形文字文書の誤読をしていたようである。ここはむしろ、妻として与えた、と読むべきであろう。

      ハガルの追い出しに関しては、やはり2回出てきて、1回目が16章、それと類似する形で21章に出てくる。21章のハガルとイシュマエルを追い出す記述を見ていると、ハガルとイシュマエルに同情する方向にこころが動く。追い出したアブラハムも情けない。

      名古屋付近の常滑にあるINAXのタイル博物館に、楔形文書があり、紀元前300年前の結婚文書である。ここには、イスラムタイルなどもあるのだが、ベルギーか゚オランダでできた、ハガルとイシュマエルが追放される陶板画がある。この陶板画の作者は、ハガルとイシュマエルに同情した表現となっている。


      多分これ(オリジナルはアムステルダム、アールミス工房1770年製だそうで。 リンクはこちら

      なお、初期のアラブのイスラームの人々は自分たちはイシュマエルの子孫だと理解している。イシュマエルがアラビア語ではイシュマイールになる(息子君に確認したら、そうだといっていた)が、彼らには、旧約伝承が伝わっている。

      割礼について、ユダヤ的律法では、生まれてから8日目にすることになっているが、なぜ包皮を切り取るのかの理由は書いていない。神の命令であるとしている。割礼に関しては壁画などの調査から、エジプト人、カナン人もしていたことがわかっている。8日目の実施は旧約の特徴であるといえる。ムスリムは13歳までに割礼を受ければよいが、それはイシュマエルの受けた年齢が基準となっている。ユダヤ教、キリスト教、イスラームはアブラハム宗教と呼ばれるが、まぁ、それが中東で血を流すようなことをしあっているのは実に残念に思う。

      旧約聖書の複眼性
      旧約聖書には、ユダヤ民族中心主義もあるが、それらは、エズラ、ネヘミヤ記に典型的に見られ、異教徒と結婚してはならない、とは書いてある。しかし、ユダヤ民族中心主義でない例は、ダビデの王朝関係者にもみられ、王妃たちは、イスラエル純血主義ではない。ヨナ書などにユダヤを超えてすべての民族にという事例もあり、普遍主義と民族主義的な側面が両立しているのが旧約聖書の世界である。

      ある一点からは同じ方向だけで記述せず、あるいは、同じものを描くにしても単色で構成されているわけではない。ポリフォニーとなっている。矛盾しているものもそのまま置いていることが多い。論理的に考える人は旧約聖書に耐えがたいものを感じるかもしれないが、旧約聖書は、多角的、複眼的視点を持ったものであり、このような記述は、アブラハムの旧約聖書記述にも散見される。

      ソドム滅亡とイサク
      ソドム滅亡とイサク誕生が絡んでいる。
      イサクは、ヘブライ語読みでイツアークであるが、この名前は笑うと関係している形での語呂合わせになっている。ところで、アブラハム物語の課題は後継ぎがいない問題でもあった。アブラハムへの約束 I は創世記 15:1-20であるが、アブラハムには、天の星のような子孫の約束がなされているが、この時アブラハムにいたとされるのは、イシュマエルのみである。

      創世記13章にソドムにロトが定着した記述があるが、これは果たして司会だといえるだろうか。ちょうどこの奇術に合致するポイントは、実は、ガリラヤ湖の東側の丘の途上で出会った。ヨルダンを見渡すと一面緑の地域としてきれいに見えるのはガリラヤ湖のみであり、ガリラヤの高原地帯からガリラヤ湖畔に降りていく、海抜ゼロメートルポイントの休憩所から見たその地帯はものすごく美しく、特に、3月のはじめごろがきれいである。


      こんな感じなのかな
      (ナザレ方面から降りてきたところでガリラヤ湖方面を望む3月ごろの写真)

      旧約聖書の多元性 再び
      ところで、何人の正しいものがいれば、ソドムとゴモラを滅ぼすかを思いとどまるかに関する神との対話は、少数の正しいものがいれば、その社会は滅びないとする立場を反映している。ヨシュア記の最初は、逆に少数の悪い者がいれば、社会そのものが立ち行かなくなるとしている記述がある。いずれも、旧約聖書にある概念である。

      正しいものが一人だけが祝福される、罪の責任はその人だけである、という立場で記述されている例としては、エゼキエルの18章である。

      正しいものが幸いを受けるといおう発想もある。ある面、因果応報の思想、東アジア風にいえば輪廻の思想となり、先祖の悪の類が及ぶという発想でもある。

      その一つの例として出エジプト記20章の記述があり、

       20:5 わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
       20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
       20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

      罪人の存在で社会が崩壊するという概念も、義人がいれば社会が存続するという概念のどちらも大切であり、バランスさせ、併存させているところが非常に旧約聖書的ではないだろうか。

      正しい人がいると助けられるという発想は、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ」とイザヤ書の最初にあるが。大げさな表現であるが、義人が周囲に影響を及ぼす立場をとっている。

      逆に、エゼキエルの表現は、因果応報を個人化したという人もいるが、それは、論理だけでとらえていく旧約学の理解のけっかではないだろうか。エゼキエルが突き付けたのはバビロニア捕囚にしても、神の裁きであること、そして、エルサレムの滅びを語ったのは、神の裁きであり、そのおうえで、イスラエルの回復を語ろうとしたように思う。エゼキエルの表現の奥にあるものはイスラエルの回復であり、だれが回復を担うのか。主体は誰かと問うている。その中で、新しい心、新しい霊の必要性を語り、責任ある主体性の回復が必要だ、とエゼキエルは言おうとしたのではないか。

      イサクの人身御供事件
      イサクをささげよといわれる神のシーンが黙示録22章にあるが、この部分に関して、様々な解釈が述べられたものを、関根清三さんという東大の倫理学の教授の方の本が出ている。

      この中に、キルケゴールという人の文章も収録されている。特に、キルケゴールの「恐れとおののき」は、この物語をどう読むのかを考えたものである。なお、このタイトルは、ピリピ書2:12から採ったものである。また、このキルケゴールの祈りに関する本は一読をおすすめする。

      約束によって与えられた一人後をささげよといわれて、アブラハムはそれに従っている。聖書の中にも出てくるエフタの物語 (士師記の中に出てくる)であり、エフタとその娘の話でもある。あるいは、ギリシア神話では、イフィゲニアである。(ギリシア神話)


      イフィゲニアの犠牲(大英博物館造)

      今日的な意味から言うとイサクの人身御供事案は、不条理であるが、アブラハムは理由がない。何のために、というその理由がない。約束を放棄せよ、という命令となっている。神の試みだとしか書いていない。より高尚なもののために子供をささげよ、でもない、例えば、平和、自由、民族、他の人のいのちのための犠牲の物語ではない。不合理で非条理なものを読み取ることが求められことになる。

      普遍的な真理とか正義などがない物語であり、恐れとおののきを持って受け止めることしかない。それが信仰の逆説である。信仰とはそういうことである。全く不条理で非合理なものをそのまま受け止めるものがたりであり、それが信仰であるかもしれない。イサクを殺そうとしたアブラハムの物語は、そのことを語っている。この物語は信仰の神髄を語っているとキルケゴールは言っている。

      旧約聖書を読み説くことの意味
      モリヤはエルサレムと比定されている。歴代誌II3章で、ソロモンが神殿を立てたその場所とされているが、これは、後の後代の比定想定ではないか。

      古代イスラエルには、神を礼拝する場所が、エルサレム以外がいくつかあった。その意味で、これらの場所に関してなぜそこが用いられるのかの縁起物語となっている。ここでの守屋さんでの出来事として示されていることは、神殿で捧げることの原型としてのイサク物語がメタファーになっているようである。

      まとめ
      アブラハムの生涯の最初の家出で父と母を見捨てている。

      イシュマエルとハガルを追放していることを考えると、イサクは抱え込んだらおかしい。その意味で、イサクも捨ててさせられかけている。このイサク物語があることで、物語としてバランスが取れている。結果として物語としての構造が取れている。その意味で、アブラハムに構造があるのではないか。

      聖書の解釈は、どれが唯一正しい解釈であるのかを必ず決める必要がないのではないか。神が提示された物語と対話者との間で対話することで、隠れた意味が浮かび上がってくるのではないか、と思う。ある決まった正解が必ずある、というわけではない。対話の中で考えることの中に、重要な意味がある。その意味で聖書学にあまりに依拠した聖書の読みは、抜けがあるのではないか。そして、旧約聖書の歴史物語はまだまだ続いている。

      といった感じでした。K学院長、以上報告終わりです。

      個人的感想
      個人的感想としては、聖書の複眼的な記述、相矛盾する記述に関して、解釈の自由さを教えてくださったのは、当時茨城キリスト教大学におられた池田裕先生であった。かなり、自由な解釈の可能性があること、意味が分からないところがたくさんあること、それでも、聖書本文のテキストと格闘することの大切さを古代オリエント学概説という授業でご提示してくださった。その時の聖書の箇所が忘れられない。

      前にも書いたが、ここで再掲しておく。

      【口語訳聖書】イザヤ書
       1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

      この部分はこういう意味だ、こういうことだ、と決められた解釈でなぞるのではなく、聖書のことばと格闘するということの大切さを今回もまた味わった気がする。

      聖書の複眼性、イスラエル人が民族として生存するときに、常に複眼的な思考で生きていることや、自分の事を笑うようなユダヤ的ジョークの話は、山森みか先生から常々ご教示いただいているところではあるが、今回もまた、図らずもそれを別の方からお聞かせいただくことになった。

      今回もまた、聖書を読みと居ていただいて、その構造をご提示いただきながら、ある程度パターンということに意識を巡らせていくと、聖書の構造の重層性というか、一種の入れ子構造というのか、再帰構造になっているのが、やはり、見えるのだなぁ、ということを素朴に思った。

      大変、楽しかったです。


       
      2016.03.07 Monday

      2016年3月 大阪聖書学院での霊性の神学入門参加記

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        今日は、先日言ってきた大阪聖書学院での講演会の記録を載せておこうか、と思う。一生懸命現場でメモをとったが、落としている部分や誤りがあるかもしれない。その部分は、ミーちゃんはーちゃんによる。

        霊性の神学入門
        今回の講師のS原先輩という方は、リージェント神学校で学ばれたということだが、 この神学校の特徴は、スピリチュアリティが独立しているところである。このリージェントの神学校の特徴を表す面白い挿話として、窓ふきしているおじさんに挨拶をした二人の先生がいたのだが、それが、James Houston であり、もう一人がEugine Peterson(このブログでもときどき出てくる)というひとであった。
        James M. Houston先輩(2016年4月から5月にかけて来日予定の模様)

        Eugine Peterson先輩

        本日の講演テーマは、霊性と神学がどうかかわるのか、についてのお話であり、以下のA.とB.の二部構成でお話ししたい。

        A.霊性の神学とは何か
        B.組織神学とのつながり(いわゆる各論)

        A.霊性の神学とは何か
        なぜ、霊性が問題となるのか。 Spiritualityが問題となったのか。

        社会的要因
        社会的要因・歴史的要因があるであろう。マクグラス、いわゆる、米国の福音派と呼ばれる福音主義教会は、アメリカ全土3000マイルに拡がったが、深さは6インチでしかないと1990年代にいったことがある。ある面、数的に広がったが、深みがない存在ではないだろうか。生活と信仰が一体化している部分の意味がわからなかったり、福音派には、信仰の深まりがわからない人々がいる。信仰生活における深まりの分野が霊性と呼ばれている。

        個人的感想----
        工藤信夫先輩によると、日本でも同じことらしく、日本でヘンリー・ナウエン先輩が紹介され、読まれるのが遅すぎたことの影響も大きいという話であるが、それはある面首肯できると、思う。この背景には、近代の神学が藤本満先輩が「聖書信仰」のなかでも、ご指摘でもあるように、科学との対決姿勢を福音派が強め、科学に対する対決に勝利するためとはいえ、科学の土俵に乗ることに必死になったという側面もあり、その中で聖書無誤論という議論に陥ってしまったことはあるかもしれない。そして、本来取り扱うべき、聖書と霊性という本来科学で扱いにくいあるいは科学に対してメタな構造の中で考えるべきことを見失っていたのではないか、とは思った。
        個人的感想----

        個人的経験の要因
        霊性の神学をS原さんが考えたいと思った背景の一つには、いくつかの要因があったようであるが、まず、講演者のS原さんの個人的要因として、S原さんご自身の中にあった霊的な欠乏観があり、欠けがあると感じていた。その霊的な渇きを30歳前後から感じておられたこと、そして、クリスチャンの歩みとしての統一感のなさを感じた。職場や家庭、教会での生き方がばらばらであり、それが統合された感じがないという印象を持っていた。また、聖書を語るのにこころが喜ばない、説教が他者のこころに届いていない。聖書を読んでいても、心が躍らない経験をした。

        Trinity神学校で勉強しているとき、障害を持った女の子10歳に満たないカリスという名前の少女がご友人のご家族にいた。その子がなくなったときに、Trinity神学校のチャペルでご葬儀したが、カリス(恵み)について聖書から説教者は話があった。その説教では正しいことを述べていたし、正しい解釈が聖書から語られるのを、聞きながら心にある種の怒りを感じた。説教者が娘を失った遺族の悲しみに向き合っている感じがしなかったからである。そのことを思いながら、聞く人たちにすり寄るのではなく、心に届くということはどういうことか。正しい聖書のことばが相手に届いているのか、ということを考え始めた。まさに霊性の話である。

        個人的感想----
        まぁ、こういうことはまま起こる。正しいけれど、心に届かない説教がある。説教者が準備をしながら、あるいは話しながら喜びをもって、あるいは聞き手にシンパシーをもって語っているかどうかは、結構聞き手であるミーちゃんはーちゃんはわかってしまうのである。おそらく多くの人もそうではないか、と思う。
        一度、近所の教会にお伺いしたときに、まさに、痛々しくて、聞いているのがつらい聖書からのお話をお聞きしたことがあるが、それは語らなければ、という必死さが先に立ち、語っている本人が喜んでおられないのがわかったので、あぁ、痛々しいなぁ、と思ったのである。なお、その後その教会は二度と訪問することはなかった教会の一つである。
        個人的感想----

        神学的教育の要因
        霊性の神学の必要が生まれた背景として、神学教育の要因を取り上げておられる。

        フォスター・フリーマンという方は、 神学校を卒業し、牧会の現場に出て、数年すると、生身の人とともに生きていく中で、神学校で学んでないことに直面した時にチャレンジを受けることがあるものの、こういうことに対応する能力を教育していないということをご指摘のようである。神学校では、どうしてもこれまでの学者、他者の意見のとりまとめに終わってしまう。確かに、有名な学者の意見を扱う手法を身につけるが、生身の人間を取り扱うことを学んでいない。現場で接する人々とのかかわり合いをどう考えていくのかは、現場でより大きな影響力を持つのだが、こういうことは、なかなか神学校では取り扱えない。

        個人的感想----
        このあたりのことに関して、人のこころや霊性を扱うのに、神学教育があまりに貧弱であると、工藤信夫先輩は随分とお冠のご様子である。工藤信夫先輩は、お冠になられたからかどうかは知らないが、あちこちで、この種の対応の為の牧会事例研究会やその他の名称で、牧師がこころや霊性と対応するうえでぶつかる問題についてお話し合いをする会をお持ちのようである。
        最近のメディアでは、その神学教育と霊性にまつわる悲劇的な事例が、Ministryの2016年春号 ボクシたちの失敗で取り上げられている。また、この種の霊性に関する研修機関でのご経験についての豊田信行先輩によるご報告が、舟の右側3月号で取り上げられている。この2つは一緒に読まれるほうがよいと思う。まず、Ministry2016年春号、そして、舟の右側3月号の順番で読まれるとよいと思う。この二つの雑誌については、次回取り上げる予定である。
        個人的感想----


        聖書的な理由の要因
        ゴードン・フィーの聖書を正しく読むために、という書籍の中でも次のような言及がある。
        聖書的な意味でも霊性を学ぶ必要がある。釈義、聖書解釈をする、第1に心掛けることは、聖書記者が何を言っているかをとらえる。究極的な役目は、霊的な成長、霊性である。これは切り離せない。

        ゴードン・フィー先輩

        個人的感想----
        そもそも、聖書は歴史的文書としてのみみられるのか問題ということがあるわけで、神の霊感を受けた所、ということは新約聖書テキストにある以上、単に事実とその解釈が羅列されている古代歴史的文書としてみるのはまずいのだろうなぁ、と思うのである。
        個人的感想----


        そもそも霊性とは何か
        「霊性」という語にこだわっているわけでない。きよめ、敬虔、クリスチャンの歩みでも同じことである。
        J.I.Packerによると、霊性の神学とは、「敬虔の根拠と成果についての研究」ということらしい。(ミハ氏注:おそらく出典は、A Passion to Holiness(Nottingham:Crossway books 1992)  の模様)

        マクグラスの『キリスト教の霊性』によれば、 「キリスト教の霊性は、キリスト者として満ち足りた本物の生き方を追及することであり、キリスト教の土台となる信仰内容とそれに基づく生活のすべての経験を統合するものである。」S原さん私訳

        ある面、信仰者の生き方、信仰の内容、真理都のこの地における統合ということができるかもしれない。

        ユージン・ピーターソンによれば、「キリスト教の霊性は、福音の全体を生き抜くことである。即ち、霊性はあなたの生活のすべての要素―子供、配偶者、仕事、天気、財産、人間関係―を含み、そのすべての信仰の行為として経験することである。神は私たちの生活のすべてを求めておられる。」 (『牧会者の神学ー祈り・聖書理解。霊的導き』越川弘英 日本基督教団出版局 1997)
        霊性は定義不可能ではないか?とピーターソンはあるところで言っている。

        ケヴィン・ヴァンフーザーは、神学的な教理が実際生活につながっていることがあったら言うようにと言いながら、現実との対応を考える上で、霊性の問題に授業中取り組んだりもしていた。


        ケヴィン・ヴァンフーザー先輩

        霊性の神学とは何か、であるが、霊性の神学であろうと、霊性神学という語を用いようと、それはどちらでもよいと思う。

        Simon ChangのSpiritual Theology: A Systematic Study of the Christian life(Downers Grove, Illinois: IVP 1998)によれば、「霊性の神学は、組織神学とキリスト者の実践との間に位置する。霊性の神学が一方では組織神学、他方では実践神学の間に占める位置の重要性は強調しすぎることはない。霊性の神学による仲介がなかったら、キリスト者の実践は単なる活動主義に還元されてしまう」と書いている。

        個人的感想----
        しかし、霊性なきキリスト者の実践を活動主義と呼ぶというのは強烈であるが当たりすぎていると思う。むろん、霊性ぶりっこは誰でもできるので、ぱっと見わからない霊性ぶりっこは、できるのだが、ある程度長期的に人々を見てれば、霊性ぶりっこなのか、そうでないのかは何となく感じることができるような気がする。この辺は、同じような感想をお持ちの方のブログ記事 カルトっぽい教会を離れた後の話・16 がある。

        ただ、難しいのは、霊性ぶりっこしているうちに、本当に霊性の豊かさが現れる場合を否定できないという側面はあるように思う。
        個人的感想----

        組織神学と霊性の神学
        組織神学(Systematic)と、実践神学の間をつなぐ霊性の神学について、少し考えてみたい。
        Systematic Spirituality という概念がパッカーから提起されており、これは組織的霊性ともいわれるが、J.I.Packerの神学と実践を結び合わせるものということである。この概念は、Passion for Holinessで 1990年代に主張されたものである。この辺、(フーストンとピーターソン)とパッカーは、多少味わいというのか、雰囲気に差がある。

        Eugine Petersonは、「霊性の神学とは、イエスによって掲示された神の栄光への道を生きる生き方の細部に至るまで注意を払う生き方である。それは、神学が神に関する情報として非人格的な扱いを受けることに対する抗議である。それは神学が神のための戦略的な計画やプログラムへと実用化されることに対する抗議である。」と2005年のChrist Plays in Ten Thousand Places:A Conversation in Spiritual Theology(Grand Rapids, Michigan: Eerdemans)の中で言っている。また、同書の中で「礼拝室にいるときも、職場にいるときも、同じように目が開かれる。へブル文字を読むときも、新聞を読むときも、開かれていく、それが霊性なのだ。」とも言っている。(ミーちゃんはーちゃん注 p1.p6当たりで言っているらしい)

        フーストンとパッカーが両方でるセミナーがあって、それは、シトー派とピューリタンの霊性を研究するセミナーであったが、パッカーは福音的な神学で語るが、フーストンは、キリスト教の2000年の世界全体から霊性を語るようなところがあった。

        福音主義以外の神学的伝統の関係をどう考えるのか?
        霊性の伝統は、カトリック教会や、ハリストス正教会での蓄積が多いが、それをどう考えるのかは福音派の中では少し考えたほうがよいかもしれない。これを、

        1.福音主義の外からの問題提起としての対話
        2.福音主義の外への問題提起としての対話

        という形で考えていくのがよいのではないか、と思う。

        特に、カトリックや正教会などの霊性の概念が、福音派の中で、無批判に引用されていることに対して、自由に引用して大丈夫なのかという疑念はあるのではないだろうか。 ロヨラ 霊操など、他の神学理解に関しては批判的なのだが、霊性については無批判にイエズス会の理解を導入する人々もいる。無論、福音主義の人々の中での抵抗感もあり、ドナルド・ロッシュなどでは、カトリックの人間観、神感も違うものを福音主義の中に無批判に取り入れることに抵抗感を示している。J.I.パッカーは、私もカトリック、正教会のものを含めて引用する。そのことに対して弁解はしない。しかし、それらを引用するのは、過去のクリスチャンの方が霊性について、深く考えてきたし、自分が一から初めて地面に立つ状態よりも、巨人の方に乗る方がいい、とは言っている。あるいは、他宗教のものを引用する人々もいる。

        福音主義の外からの問題的としての対話、外への問題提起としての対話を考えた時、他の伝統が言っていることをどう考えるか?問題提起としてどう考えるか問題がでてくる。

        Trinityにいたとき、御霊にあるいのちと祈りという、福音主義、 聖公会、 カトリック ・・・などの5つの神学校での共同セミナー が開かれていて、その際には、それぞれのスタイルでの礼拝に参加することになった。それぞれの霊性が現れていて面白かった。S原さんが、参加された年のセミナーテーマ Caring 配慮する、世話をするということであったが、このような部分では、それぞれが、共通の課題を抱えている。

        Henri Nouwen の「燃える心で」をある牧師の買いでご紹介したところ、釈義をガリガリしてきた牧師たちが、ナウエンの文章を高く評価した。この釈義をガリガリしてきた人たちの理解からすれば、ナウエンの理解は、相当外れているのだが、非常に評価されたようであった。同じように、この霊性の問題を捨てることはかなり重要だったキリスト教の歴史を捨てることになるのではないか。

        個人的感想----
        ここ数号のMinistryでは、越川先輩が、礼拝論や聖餐論に関して非常に面白い記事を書いておられる。是非お読みいただきたい。それぞれの教派的伝統が失ってきたかもしれない礼拝論における様式や、式の順序、その霊性にかかわる部分を触れておられる。この部分だけでも、Ministryを買う価値はあると思う。(キリスト新聞社の私設応援団 ミーちゃんはーちゃん談)
        個人的感想----


        12世紀のシトー派 クレルヴォーのベルナルドゥスは、雅歌の説教をしたときには、結婚をしない修道士たちが、結婚を語った雅歌を読むということの中で燃え上がったという。神との関係の深まりというものであったのであろう。まぁ、メタファーとして適切でないものも含む可能性があるが、しかし、だからといって、そのような霊性の理解を切って捨てることはロスではないか。それよりも健全な意味での批判的な立場に立って、他者からの問題提起として受け止める、というあり方はよいのではないか、と思う。

        マクグラスの『キリスト教の将来と福音主義』という本の中には、福音主義は、霊性の世界における眠れる巨人だという表現がある。

        個人的感想----
        ミーちゃんはーちゃんもこの本を読んだときに、この記述を見て、驚いた。また、別の本の中でも、マクグラスは、福音主義の霊性は、ハリストス正教会の伝統とも共有部分があるのではないか、という指摘もある。いずれも重要な指摘であるが、ただ、マクグラスが、福音主義というと、現在の米国の福音派ではなく、宗教改革の伝統に乗っている人々、という意味でも使うことがあるので、その点は少し十分注意したほうがいいかもしれない。
        個人的感想----

        B.組織神学とのつながり(各論)
        神学と霊性は対立的にとらえることがある。理性的なものが受け入れられない世界として冷静を捉える場合がある。しかしながら、学問、あるいは理性の世界で霊性の神学をとらえるようになってきた面がある。

        個人的感想----
        このあたりのことは、認識論とのつながりがある。理性という平面でとらえかねる霊性というものを学問という理性の世界の中でどうとらえるのか、という問題なのである。これに関しては、非常にめんどくさい議論になるのだが、そのめんどくさい議論をある程度まとめてN.T.ライト先輩は『新約聖書と神の民 上』の第I部、第II部で割とがっちりやてくれているので、この辺に関心がある読者の皆さんは、まず、この『新約聖書と神の民 上』をお読みされることをお勧めするし、2016年4月9日には、翻訳された山口先輩の講演会が目白で開かれるので、ご紹介しておく。



        詳しくはこちら 4月9日 講演会のご案内(N.T.ライト出版記念)
        個人的感想----

        ジェームス・トーランスの最近翻訳が出た『三位一体の神と礼拝共同体』 有賀文彦・山田義明訳(一麦出版社 2015年)で、三位一体の神をどう理解するかという議論がなされている。そこでは、「キリスト教思想史から見れば、実際のところ、どの宗教史研究から見てもそうであるが、 神についての私たちの教理が礼拝と祈りの理解を規定していることがわかる。それはまた、人間性についての私たちの理解、私たちの人間論にも妥当するところである」とされている。また、「神の存在とは、交わりにおける存在である。このような三位一体なる神が恵みの内に私たちをご自身の像にかたどって男と女とに創造されたのであるが、それは私たちが自分の真の存在を神や相互との親密な交わりのうちに見出すためであった」とかかれている。

        個人的感想----
        何だ、三位一体ということは、大頭先輩とミーちゃんはーちゃんがつるんで今はやらせようと画策しているリラタスのことではないか、と思ったのだ。つまり、関係性の中において働かれる神のことである。実は、「神を知るということ」タイトルで、最近改訳版が出るらしいKnowing Godという英書の中で、J.I.Packer先輩が言っておられることでもあるし、あるいは、『神の物語』というマイケル・ロダール先輩がお書きになられ大頭先輩が翻訳された本の中で、言われていることでもあるのだ。

        なお、ステマをしておくと、ロダール先輩の『神の物語』は2016年3月末までの期間限定でお得イベントが開かれているらしい。詳しくは、大頭眞一先輩にお問い合わせしてほしい。ヨベルには在庫はないそうである。
        個人的感想----

        神は父・子・御霊の交わりの中に永遠に存在される、神の啓示を理解することが三位一体の理解を方向付けることになるのではないか。案外、三位一体を説明するのは難しい。確かにそれは神でないものには理解しがたい概念であるが、重要な概念であると思われる。カトリックの神学者であるカール・ラーナーは、西洋のキリスト教は唯一の神という部分を強調して語ってきたけっか、三位一体という部分が抜け落ちてきたかもしれない。そして、プロテスタントの側でも、三位一体を見直す動きが始まり、東西のキリスト教、正教会と対話をはじめた。その意味で、三位一体として語られている意味とは何か、を考える時代になった。


        カール・ラーナー先輩

        個人的感想----
        つまり、絶対正義の完璧な神学の世界を構築しようとしてきたプロテスタントの神学的伝統の中では抜け落ちがちであった、神の共同体性、神の共同体性、神との共同体性、あるいは、神と人とのリラタス、ないし神と人と、人とのリラタスが欠如した問題が顕在化してきた中で、その部分の再検討がされるようになってきたということだろう。
        個人的感想----

        マクグラスの三位一体に関する言及として、「キリスト教における三位一体の教理の基本テーマは、神の豊かさであり、人間の言語も想像る力も神の神秘を完全に理解することが不可能であることを示すことである」ということらしい。

        個人的感想----
        確かに三位一体は人間には、不可解であるし、不可解であるからこそ、尽きてやまない関心をもつ内容でもあるようにミーちゃんはーちゃんは思うのだ。あるとはわかるが、完全に説明できない、ささやき声のような神の声のようなものかもしれない(あ、すいません、N.T.ライトの「クリスチャンであるとは」からメタファーをば、借用しました)。
        個人的感想----

        ボンフェファーがいうには、三位一体の教えの意味は極めて単純であり、子供でも理解可能である。この神は完全な愛であり、イエスであり聖霊である。三位一体の理解の表現は、神の愛の激しさに対する人間の賛美の貧しさでしかない。という大意の内容をどこかの説教でしているらしい。この共同体性の大切さを見失っていた西洋近代のキリスト教があったのではないか。しかし、その三位一体の重要性を20世紀後半から見直し始めた。再発見した。

        ジョン・ジジウラスΙωάννης Ζηζιούλας イオアニス・ジジウラスによれば、信仰は、神の関係にもとづくものであり、共有の概念がないところに神の存在はない。(大意)このような、三位一体を驚きを持ってプロテスタント派は受け止めたように思う。


        イオアンニ・ジジウラス先輩

        とはいえ、Calvinも古代教父たちナジアンスのグレゴリウスを引用しながらキリスト教綱要を書いている。

        3つの位格(人格 person) person (つまり、人を交わりの束としてとらえる)

        一つの実体
           Individual 個人と人格の関わり in dividual  分けることができないものとしてとらえることになる。

        相互内在(ペリコレーシス)と重塔という理解があり、これは、マクグラスのキリスト教神学入門の中に書かれている。三位一体の重要なポイントは、相手のために生き、相手のうちに生き、相手と共に生きということであり、三者がダンスするように一体としていることである。

        個人的感想----
        このあたりのことは、ナウエンの次の本でも描かれていたように思う。

        差し伸べられる手ー真の祈りへの三つの段階 女子パウロ会
        心の奥の愛の声 女子パウロ会
        個人的感想----

        3つの位格に関しては、神の二つの手 (御子と御霊)という アイレナイオスの理解があり、父の手として遣わされた御子と御霊というメタファーでとらえられているが、手は本人と独立ではなく、一体であるというような理解と重なるものがある。

        充当は、これとある意味で逆であり、父・子・聖霊は位格の独自性を失わない。父なる神はそのままであり続ける、という理解である。

        フーストンは三位一体の神学は交わりを生む、といっている。交わりは必然的であるという。相互内在をどう学ぶことができるか。自分自身を与えること、あるいは交わり、他者を活かすということでの、三位一体の相互内在があるのではないか。一種自己犠牲という言葉が念頭にあるかもしれないが、そうではない。自分を活かすことが第1ではなくて、他者を活かすことが先に来る。共に生きる、ともに活かされる、ということではないだろうか。
        多くの日本人は、人格が大事にされた日本での経験がない。社会とか家とかしがらみとかが優先され、個人の人格が大事にされない。典型的には、昔のお嫁さんという理解にそれが現れる。他者を活かすということが大事であり、それは、男女という関係や、愛に直結するものである。。

        ところで、自己犠牲の現代の誤解に関して、性的かかわりの中での誤解があるのではないか。ICUの町田健一教授の調査によると、学生の性意識調査の中でも、キリスト者の女子学生が、男性の性的欲求が強いため、自己犠牲的な愛で接する必要(つまり、男性の性的欲求を優先させることがあってよいかもしれないと回答するものがあった。この調査結果に町田健一教授は、愕然としたそうである。これは本当の愛とはいえないのではないか。これは自分も他者も大事にしないことになる。相手を活かしているようで、活かせてない。結果的に欲望に支配されていると言えるのではないか。

        個人的感想----
        おそらく、その調査の結果は、この論文からの引用であろうと思う。
        個人的感想----

        質問として、他者を生かすというと日本だと、滅私奉公という概念が出てくるが、それとはどう違うのかという質問が出た。
        日本の場合は、公あるいは社会の頂点への奉仕となるのではないか。天皇とか、行政府の長とかなどの権威の頂点を意識したこうであり、パブリック、あるいは公はボトムサイドではないか。公共の福祉の公共とは何かといえば、市民社会の構成員一人一人を活かすことを第一にすべきではないか、と思う。

        聖化論
        直接的に霊性と関係する。聖化というのは、完全に罪がなくなることではない。全人格的変化のことであろう。

        キリスト教綱要の3篇 6−10章 キリスト者の生活の6章でカルヴァンは聖さを語っている。正しい目標が聖さである、としている。つまり、キリストに似たものとされていくことが、清めであると理解している。
        そのいみで、聖さは福音の本質にかかわることであり、存在のすべてに影響を及ぼすものであろう。
        ところで、誰の聖さなのか、ということを問題にしたのは、 ボンフェッファが初めてではないか。通常、Howto とか Whatを考えるが、誰?が大事であるように思う。
        きよめを私だけのきよめにすると盲点があるかもしれない。S原さんがある人と話しているとき、きよめを突き詰めると個人主義になるかも?という意見を聞いたが、それは案外多くて、この種の考え方は問題ではないかとおもう。つまり、問うべきなのは、誰の聖さか?ということであろう。

        ヘルムート・ティーリケの説教では、「御名が崇められますように、というとき、父なる神の名が聖なるものとされることを祈っている」といっているが、主の祈りを自分の祈りにすることにあるのではないか。


        ヘルムート・ティーリケ先輩

        コーリン・ガントンは、三位一体の神学の研究者であるが、きよめとは、神の民のきよめである。イスラエルも、新約の教会のきよめ、即ち共同体のきよめである。つまり、神の子として、御子のようにされていくこと、御子のからだである教会がきよめられることを考えるべきなのではないか。


        コーリン・ガントン先輩


        聖霊論
        私たちの信仰の始まり、継続、完成もすべて御霊のご臨在と働きによる。
        ピーターソンの信仰の友への手紙 (日本語版、入手困難)はある架空の友人を想定して、ピータソンが書いた手紙であるが、その中に次のような部分がある。「霊的な生活を以下に始めるべきかという君の気持ちはわかる気がする。思うに君は、信仰生活という者を、無計画にではなく直接体験によって送りたいのだろう。だがこの言い方には偏りがある。というのは霊的生活を始めるのは君ではなく、聖霊なのだから。そして聖霊はもうずっと以前からその技を始めておられる。これは思い付きではなく、聖霊の思いなのだ。だから問うべきは『私は何をなすのか』ではなく、『私が無関心でいたこの年月の間、聖霊が私の内でどう働かれ、今も働いておられるか』だ」ということが重要である。つまり、 聖霊が私たちに何をなしておられたか、が問題だというのである。

        この信仰の友への手紙は、霊的な導きの手紙といってもいいだろう。即ち、霊性は神の業である、御霊によってはじめておられるわざに、どう私たちが関与していくかということを考えることであるだろう。

        なお、同書で、神とクリスチャンの関係を強調しているおり、霊的導きは大事なテーマであり、神の導きのために人を通して働くということを示しているのかもしれない。

        個人的感想----
        ここで、神の主権性が出てくる。我々は、人間中心の社会の中に長く暮らしているために、どうしても、私が何をなしたか、私が何をなすべきか、私たちの人生を私たちが決める、という私中心(エゴセントリック)な生き方をしてしまいがちであるが、主の祈りは確かにそう教えない。「御名があがめられますように、御旨がなりますように」であり、「ミーちゃんはーちゃんが有名になり、みんなから評価されますように、ミーちゃんはーちゃんの思いが実現しますように」というのではないのである。
        なお、舟の右側の豊田信行先輩の記事ではないが、あの記事中にスピリチュアル・ディレクションという概念が出ていたが、神の導きにおいてその方向づけをする人がスピリチュアル・ディレクションをする人なのかもしれない。プロテスタント教会では、神学校出たら一人前、という形で教会の現場に放りなげてきて、牧会者をケアするということはおさぼりしてきたように思う。その結果、海外の神学校で学んだ人、国内の神学校で学んだ人を現場にぶち込み、疲弊させ、それに対してコンサルテーションも、卒業後のケアもせずに有為な人材を多数潰してきたような部分もあったように思う。実に無駄なことをしたと思う。その結果が、ボクシたちの失敗というミニストリーの特集記事になったのだと思う。もうちょっと、このあたりのことをしかけを作るかどうかは別として、何らかの仕掛けを自分たちで牧師先生方もおつくりになられたらよいのに、とは思う。それが、藤掛明先輩の特集号での10カ条なのだと思う。
        個人的感想----

        教会と霊性
        三位一体の神は、交わり(ミーちゃんはーちゃん注 コイノニア Fellowship 仲間である環境)を作り出す神でもあり、御霊の業は交わりを作り出すといえるのではないか。

        教会の話は霊性からも重要であるといえる。ジェームス・トーランスは、三位一体の神は、交わりを作り出す。真に人間的になることであるとその著書の中で言っている。なんか、N.T。ライトもクリスチャンであるとは、の中で同じことを言っていたように思う。

        ミロスラーヴ・ヴォルフはAfter our likenessの中で、教会と霊性に関して、「多くのものが多元的でありながら、互いに均衡を保って共に生きる相互依存の場」であるといっている。。互いのために生きることが霊的な成長につながり、神の御思いではないか。


        ミロスラーヴ・ヴォルフ先輩

        アメリカでは個人主義への反動として、信仰共同体が見直されている。日本人の集団主義の観点が強いので、その視点に十分配慮しつつ信仰共同体を見直すことが重要ではないか。日本社会における人のつながりの危険性、わずらわしさがあるような共同体論は教会と霊性を考えたときに、そのようなものではないように思う。

        まとめとしての5つの提言
        三位一体の神理解の回復、再評価、徹底を図ることが重要であろう
        福音に生きることの再定義だとおもわれる。
        自己の変容、心が扱われること 心が扱われることはどういうことか。 心が変えられるということが重要かもしれない。
        Religious Affection ということをジョナサン・エドワーズ先輩は言っている。
        キリスト者の生活の全体像を描くことの重要性。死を迎えるまでのキリスト者の姿を考えることが重要であろう。
        信仰共同体としての教会に生きる


        個人的感想(全体)----
        非常にわかりやすくまとまった霊性の話だと思った。何かこの種のテーマで今本を書く準備がなされているらしいので、是非、ご出版をお願いしたいなぁ、と思った。特に、霊性の神学は、まさにリラタスの聖書理解でもあるので、ここについて思いを巡らし、そして、即効性、迅速性を持つ異教の神との関係を求めるような神との生き方ではなく、神をまさに知るという形での神とのリラタスの中の生を生きられるキリスト者の方が増えるといいなぁ、と思ったのである。

        個人的感想(全体)----


         
        評価:
        N・T・ライト
        あめんどう
        ¥ 2,700
        (2015-05-30)
        コメント:お勧めしております。

        評価:
        N.T. ライト
        新教出版社
        ¥ 6,912
        (2015-12-10)
        コメント:お勧めしております。

        2016.10.01 Saturday

        日本伝道会議 第6回 プロジェクト 聖書信仰の成熟を求めて(オープン神論と物語)

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          本来は、ソーシャル・キャピタルとしての教会を考えるために、日本社会と宣教:地域に開かれた教会に向けて というプロジェクト番号2番に出る予定だったのだけど、大頭さんから、強制徴募で、ミーちゃんはーちゃんはプロジェクト1 聖書信仰と物語神学&オープン神論というグループに急きょ参加することになったのでした。

           

          何をオープン神論と物語神学のグループでやったか

          このグループでは、聖書信仰の成熟を求めて、ということで大きなグループだったので、それを8つのサブグループに分け、その中で、サブグループのサブグループに分かれるということだったらしいのだが、M浦のみっちゃん先輩と小嶋先生とでしゃべっていて、入室がギリギリになり、とりあえずテキトーなところに座って、資料をもらってなかったので、資料をもらって、とりあえず、いろんな人がいる中で、なんとなく始まっていった。で、どこ座ったらいいのか、聞いたら、その辺適当に座っておいて、といわれて座ったら、このJCE6に来ておられた昔居たキリスト者グループ(現在、教会的には、荒野で40年の旅行の途中で2年目w)でのお知り合いとお隣同士になりまして…お久しぶりで…とかいう話をしておりました。

           

          チームリーダの突然の変更、そして

          オープン神論と、物語神学の簡単な導入

          本当はS野さんのチームだと思ったら、大Z先輩が直前に担当することになったらしい。大Z先輩が、S野先生のお書きになられた、物語神学とオープン神論のレジュメをもとに、その要点を手短に分かりやすく説明しようとしておられ、ある程度行くたびに、ミーちゃんはーちゃんに確認を入れる始末。要するに、なにを大Z先輩が言いたかったかというと、神の三位一体の様に関係性が大事で、神と我々は(祈りを通して、聖書を通して)対話をしながら、ダイナミックな関係性の中で我々は生きている。

           

          そして、その中で神はそもそもの予定があり、すべてのことをご存じなんだけれども、人間が神から離れていくので、人間を愛するがゆえにその人間が離れていくことを取り戻すために、”はみ出していく”神であって、全知全能だから、コンピュータ・プログラムのように、この段階でこれをして、このことが動き始めたら、このように動くように人間世界を動くような計画をお持ちだとは言えないかもしれない。もっとダイナミックで、関係の中である方向に向かうようにされる神だ、そして、リレーショナルな神との関係を重視するのだ、ということを熱心にお語りだった。

          しかし、大Z先輩ワールドに慣れている人ならいいのだけど、”はみ出していく”ではわからんなぁ(急遽頼まれたらしいのでしょうがないが)、と思ったので、”人間の人生に突然出てきて、関係を持つように人の人生やイスラエルの歴史に貫入される神がおられる”ことや、それはフランスのユダヤ人哲学者レヴィナスいうの他者性を以て、神が関与されることを大Z先輩は言っておられるのだ、と説明をした。

           

          ついでに、西洋型近代の中で、ある種のこれが正で、これが間違いみたいな概念が生まれ、その中で、永遠の真理性、普遍性を持つ真理性が生まれ、それを証拠聖句をもとに組み上げていくタイプの神学が形成され、それが組織神学に大きな影響を与え、そういう理解がある面近代社会の中で幅を利かせてきたし、近代社会の中で教会の中で合理性を強調した聖書理解が幅を利かせてきたところがあるが、ポストモダン時代を迎え、それでは不十分な部分が出てきた中で、本来的に神の予定、神の全能性の中での人間のかかわりということを考えることが、重要になる中で、オープン神論が出てきた、とポイントを紹介された。

           

          中Z御大登場

          補足として、中Z先輩(というよりかは御大)から、ナラティブ、ストーリー、作り話などが同じ物語として議論されやすいので、誤解による混乱が生じかねないが、米国では、これらの議論は1990年代末から21世紀初頭には、その議論は収束していること、さらに、基本的に旧約聖書の時代人や新約時代人については、物語、一連の出来事のシークエンスにおいて、神がどう関与され、どのように当時の人人が受け止め、神が人々と共に生きたことを示す方法論としては、物語しかなかったろうし、それゆえに、物語で語ることを神がなされたのではないか、ということを補足された。


          また、この話に大Z先輩が影響を受けたのは、神の物語というか、オープン神論で考える様になると信仰生活や伝道ということが極めて楽になることや、キリスト者ならみこころを当然ということではあるが、それが行き過ぎると、御心を求めるあまり、御心教のようになってみたり、あるいは御心を求めた結果さばき合ったりすることからの開放された。あるいは伝道がうまくいかないということ等に関しても、神と人との関係に基準を置き、ダイナミックな神の働きを考えれば、それほどしんどくなくなる。もし、我々が間違いをしたとしても、我々が完璧でなくても、神に立ち戻ればよいし、それを神が求めておられることがわかるようになる。ちょうど放蕩息子が父のもとに戻っていったときのようにというところが大事だと思っている。

           

          おまけで混乱させました

          近代を作り出す中で、宗教改革とその中で研ぎ澄まされていった理性による神理解は大きな役割を果たしたし、それは、近代を作り出していくうえで大きな役割を果たしたし、スコットランド常識哲学の成立などにもこの理性的な聖書理解のアプローチは非常に大きな影響を与え、またそれが、このスコットランドでの聖書理解の精緻化に影響を与えている可能性があるということをミーちゃんはーちゃんが口を滑らせたので、混乱した当たりのところで、サブサブグループ(聖書信仰と物語神学&オープン神論というサブグループのサブグループ)に分かれて40分くらいの議論を行った。哲学の歴史を考えるうえでは、この話は結構大事。

           

          ミハ氏のサブサブグループでの話題

          このサブサブグループの中では、改革派系の聖書理解に立つ人もおられて、その方から、物語というのがわからない、ナラティブとかストーリーとかがわからない、といわれたので、ナラティブは、人間視点での一人称語りの傾向が強く、ストーリーというと、物事の並びの中で、特にヘブライ語聖書の中に現われるイスラエルの歴史の中に貫入してくる神の存在として語られるものだ、モーセがどのように、出エジプト記を書いたのかは明らかではないが、その中で、自分が経験したナラティブとして、出エジプト記のあらの物語や、燃える柴事件のことを本来は語ったものが編纂されている中で、現代に伝えられるヘブライ語聖書のかたちになるのではないか、と思うというお話をした。

           

          そして、この話は、霊性の問題と深くかかわっていて、聖書を通しての神の語り掛けや祈りの中で、神と向かい合う中で神と出あっていく、ないし神の御思いを探り求めていくことと関係していることや、改革派の伝統にある人間の艦善悪の問題、絶対的な神からの離れている完全な罪による神との完全な断絶を言うことと完全な神の救済ということがあるのだが、それとどうかかわるのか、という問題に話が行き、物語的な聖書理解では、旧約世紀の創世記の初めから、神との断絶が始まり、完全な救済としてイエスの十字架の死、そして復活がクライマックスとしてあり、そして、それ以降、神が人とともにおられる和解がなされ、そして、将来の終末における完全な回復に向かっていくという理解であるなどというお話が出て、それが福音の再発見で、マクナイトが言っていることなのだが・・・あるいは、NTライトが言っていることとも関連があるのだけど、とちょっとステマをしてしまった。

           

          それと、正教会系の伝統では、人間は完全に壊れているわけでない、回復可能な”神のかたち”であり、一部欠けのある”神のかたち”であるので、完全に打ち捨てられているわけではなく、神ご自身がその欠けのある”神のかたち”を回復させるよう,我が子よ戻ってこよと、おっしゃっておられるところなど、正教会の伝統(東方教会の伝統)との関係性もあるし、その意味で神のかたちをどう感がるか、ということや、三位一体論と神のダイナミズムやシネルギアをどう考えるか、そして、その中に招き入れられようとしている人間などという側面も重要である、というお話をした。

           

          また、ナラティブとストーリーが混乱している、というお話もあって、混乱してしまって、理解がしにくいという話があったので、

          ナラティブは、基本、一人称語りで、個人の視点から語られたものであり、聖書の中で言うと、詩篇とか、ヨブ記とか、出エジプト記は、もともとは、モーセの一人称語りであるナラティブが基礎になっている可能性があるが、そののちの編纂過程で整えられていったことであるし、現代では、祈りとか証とかが、ナラティブであるといえるのではないか。反対に、ストーリー:かなり長い時間軸やかなり広い空間領域で起きた出来事のシーケンスとその中での神の関与を示すことができるであろう。また、ヨナ書は一種のストーリではあるけれども、その中では、神のナラティブもあるし、ヨナのナラティブもある。また、歴代誌、列王記はどちらか東夷とストーリーではある(ただし、ナラティブも一応含まれる)。

           

          祈りを考えるとそれは神との対話だし、リレーションだし、神をどう置くか、と考えることが重要ということになっているわけで、その意味でオープン神論と、改革派神学的な枠組みとは、必ずしも相矛盾するものではなく、相補的な物のような気がする。

           

          そんなこんなを対話していると、あっという間に終わってしまった。

           

          全体会議での話題

          全体分科会の話題神の立場と人の立場があって、物語神学になると、その神の立場としての主権性が危うくなるのではないか、ということが話題に出た感じであった。そして、その話を聞きながら、個人的に思ったこととして、神の神秘は完全に文字化できるのか、あるいは理性で完全に説明できるのか、ということを考えたほうがいいかもしれない。ただし、合理性をもとに神の神秘にどれだけ理性で接近できるのか、ということを考えてみることは大事だが、それで分かったことにはならないかもしれない。しかしながら、合理性で迫れる範囲についてその理解を書こうとしたカルヴァン派があり、それがウェストミンスター振興問答などにまとめられるのだろう。

           

          さらに、大事なこととして、神が50%人間が50%という形ではない。そこに着目するのではなくて、神と人が協力するというのではなくて、神の指示のもとに実現していくのだ、神の御思いがなっていくのだ、という点は変わらない。神のご計画に参与していくのだ、という世界観を持っている。

           

          なんかわかりにくい説明だったので、それをビビッドに説明するために、映画の登場人物をする役者としての一人ひとりのキリスト者を考えてほしい。個別の役者が何をやるのかは、個別の役者に任されており、映画の全体構想を考え、そして撮影者に指示し、そして一つの作品を統合的に取りまとめていく映画監督かプロデューサーのような神がおられ、すべての作品に関する責任を取る役割、まとめ上げていく役割を果たされる神がおられると考えると、なんとなくコンセプトわかってもらえるかもしれない、とご説明した(この辺はN.T.ライト先生のあるところで書かれている五幕劇のパクリ 今回Cライトさんは、それを6幕劇に講演の中で微妙に変更してたけど)。

           

          ミーちゃんはーちゃんが忘れてて、大Z先輩が触れたのは、監督が役者とが時々一緒にご飯を食べたりしたり、 この監督は、映画に出演しちゃう(ミーちゃんはーちゃん注 クリント・イースト監督・主演のグラン・トリノ みたい)。つまり貫入する。その極みが、 人となり十字架にかかられたキリスト、そして、我々への究極的な、クライマックスとしての関心と愛を示される、ということであった。

           

          女性の神学生の方がお話しされていたのですが、声が小さくて何をおっしゃってたか全くではないが、ほとんど単語しか聞こえなくて、総括というのか、おまとめにも反映できませんでした。ごめんなさい。

           

          物語神学とは言うけれども、聖書霊感から言えば、今は見ることのできない聖書原典における聖書記者を導いた神の霊、キリスト者が読むときの神の霊の働きを分けないと、神の主権性が危うくなるのではないか、という至極まっとうなご批判も出た。まぁ、従来の神学の参照枠から言って、その批判は甘んじて受けなければならないが、ただし、もし、我々に働きかける神の例、神の息吹が、同じ霊だとすれば、説明のわかりやすさのため、便宜上そういう分析的な方法論でなされるのはわかるが、それをあえて分ける必要はないかも、というような趣旨の発言もした。

           

          なんか大Z先輩からのご依頼で、大体、本来は別のプロジェクトに行くはずだったのだが、頼まれたので、このプロジェクトに来ることになったのだが、挙句の果てに捕捉とか、日本語通訳とか、モデルの組み換えをその場でしての再提示とか、いろいろやらされた挙句に、突然、何のメモも取ってない状態で、各チームのメモも全く見てない報告して来い、と言われて、そんな何も書いてないんですけど、いいんですか、ほかの人がメモ取って記載しているんじゃないんですか、他のグループの方の議論の情報はなんもないですよ、それでもいいんですか?と聞いたら、それでいいと全体司会の大Z先輩がおっしゃったので、分かりました。じゃ、やります。ただ、知りませんよ、と念押ししたうえで、記憶だけに基づいて、報告した。

           

          すべて、私の不徳の致す処…

          そのため、各サブサブグループの方のご意見の反映が十分でないところがある。それは、まことに

          「すべて、わたくしの不徳の致すところでございます。」

          でしかない。

           

          中村橋之助バージョン

           

           

           

          桂文枝バージョン

           

          とはいえ、何をやるかわからずに、とりあえず来てくれと言われ、いきなり言われて書記でもないのに書記をやらされて、メモを取ることなく、それでも精いっぱい努力して、時間内に収めたのが、あの報告である。ご了承賜りたい。とはいえ、事前の打ち合わせも何もなく、メモも作らずに受けてしまったのは、

           

          私の不徳の致すところ ではあった。この場を借りて、関係各位、ご尽力いただいた関係各位には深くお詫び申し上げる。

           

          なんとなくの感想

           結局、大Z先輩が冒頭に近代という時代にはやった神学や哲学、あるいは西洋の神学世界は分析志向であり、分析して、人間の体をバラバラに分けてそれぞれの部分部分の挙動を細かく記述し、分かったことにするという世界観を持っている。1960年代までのアポロ計画までのシステム理解は、この種の世界観を持っていたし、それは人類を月に送ったといえる。まぁ、本当に月面に行ってなくて、ハリウッド映画の技法で地上で映像を作ったのではないか、という疑念があるが、それはどうでもいいことである。

          しかし、アポロ計画の途中で、一般システム理論がどうも限界を見せているのではないか、これまでの分析的な近代科学思潮的な世界観、パラダイムでは分析だけしていて、それでいいのか、本来分析し対象を研究した後、統合(Synthesis)をして、もう一度全体像の適合性を検討しなければいけないのではないか、という反省が、近代科学、近代哲学の中で生まれてくる。その延長線上に、ホーリスティックなものとして、部分の寄せ集めでないものとしての有機的なもののつながりを見ようとする志向、哲学が生まれてくる。つまり、バラバラにして、部分部分でしてしまうと、部分部分の有機的なつながりが生まれないのであり、その有機的な思考や概念を大事にする点では、霊性の話と関係しているのであって、Open神論や物語神学は、近代という時代を支配した聖書理解のアンチテーゼというよりは、もう一つの可能性を示すものであり、対立概念ではなく、相補的な存在とご理解いただくのが一番なのではないかと思う。近大はあるものをTrue真とするとき別のものをFalse偽とする2項対立的なバイナリ世界が支配した社会でもある。本当は、そのバイナリ(2項的な判定のみでいいのか、ということに関する疑問、あるいは2項判定的な世界観以外の世界観を内包しうる包摂的な世界観が、古代イスラエル的な世界観でもあるし、それがポストモダンにおいて、落ち着きがいい世界なのかも知れないと愚考する。
           

          コミュニケーション理論の観点から

          それと、今回のプロジェクトというものは、一般システム理論の射程の延長線にある、ユルゲン・ハーバーマスの言うコミュニケーション理論に関する壮大な実験でもあった。それに参加できたことは面白かった。参加者間の平等な意見表明を可能にし、それをもとに討議を行う公共圏をどう実現していくのか、ということに関する、神学の世界で宣教をテーマとした公共圏に関する壮大な実験であり、それに参加させてもらえたのは面白かった。しかしながら、公共圏を支えるべきはずのコミュニケーション技術とその討議システムの吸い上げが、基本従来の分割して吸い上げる形の意見集約システムを用いたことと、このサブグループの司会をした大Z先生が意見集約システムとその限界に関するその認識が割と薄かったこともあり、結果としてはうまく集約できずに終わった。それは、真ぁ、今回の大きな反省点であろう。

          次回、名古屋で日本宣教会議をやるとすれば、今度はもうちょっと大きなラウンドテーブルの中での、参加者の公平で平等な意見交換ということに関する意見交換システム、コミュニケーションシステムに関する習熟度を運営側、リーダーやサーバントのみならず、全体の参加者に徹底しておき、比較的新しい概念のコミュニケーション理論と公共圏での討議ということに関する事前の習熟を図っておくべきか、と思う。そもそも、この種の会議体、合意形成システムは、理念系では可能であっても、現実にそれを成立させて行くのは、困難なことは、これまでこの種の実験を何度かしてきたものとしては十分熟知している。

          まぁ、その辺は次回への課題でいいのではないかなぁ、と思った。

           

           

           

          ユルゲン・ハーバーマスさん(最近は宗教に関しても発言が多い)

           

           

          以上報告終わり。

           

           

           

           

           

           

           

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          (2009-09-16)
          コメント:よろしいかったです。是非ご覧を隠されたキリストを見てください

          2016.10.08 Saturday

          第6回日本伝道会議 クリストファー・ライト 第1回 講演会参加記録

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            日本伝道会議の第6回日本伝道会議の第1日目に行われた、クリストファー・ライトという方の講演会の第1回目の個人的な速記録からの内容を掲載してみたい。かなり真面目に記録を取得する努力をしたので、要約としてはそれほど外れていないと思われるが・・・。書き込みすぎの部分もあるかもしれません。それはミーちゃんはーちゃんがわるい、ってことで、ご容赦をば、ということで。以下速記録からの復元。

             

            ReVisionをどう考えるか

             今回は、神のことばと神のミッションについて考えてみたい。今回のテーマは、Re-Visionということだが、これは、神によって、私の目を開いてほしい(ミハ氏註 この見るということとVision、あるいはRe Vision 再度見直すという言葉が掛詞になっている)ということとも関係が深い概念である。従来の枠組みとは、変わった仕方で目を開いて、ものごとを見ないといけない。世界は従来のものから、すでに変わっているし、教会も変わってきた。しかし、神はすべてを新たにされる方である(ミハ氏註 天の地にあるものすべて… これは神の主権性を表すヘブライ的なものの言い方)。何が変わったのか、どのような見方をしないといけないのかを神に求めていくべきではないだろうか。それは、ある意味で、信仰の目が開かれていくということでもある。

             

             

            Be Thou My Vision(あなたが私のVisionでありますように)

            ゲール語(古アイルランド語)バージョンのBe thou my vision

             

             

             

            信仰の目を持ってみる

             シリアに囲まれたエリシャのしもべが見たもの
            信仰の目によってみる事が大事だろう。神は心の内を見られる方だろう。我々は、ダビデがゴリアテに対面したときのように、そこに巨人を見るかもしれないが、神はそこにある勝利を見ておられたのではないだろうか。ミッションについて、気がついていることを見ていかないといけない。

             

            神は、我々に全貌を明らかにしていく。列王記第2の6章の中に、2つの目が開かれる経験が見られる。エリシャのしもべは神の臨在を見たのである。たしかに、丘が敵の軍隊で埋まっていたし、エリシャのしもべはそしてだめだと思った。人間からしてみれば、そこにいたのは、エリシャとしもべと敵の軍隊だけであった。

             

            【口語訳聖書】列王下
             6:14 王はそこに馬と戦車および大軍をつかわした。彼らは夜のうちに来て、その町を囲んだ。
             6:15 神の人の召使が朝早く起きて出て見ると、軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいたので、その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。
             6:16 エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。
             6:17 そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。
             6:18 スリヤびとがエリシャの所に下ってきた時、エリシャは主に祈って言った、「どうぞ、この人々の目をくらましてください」。するとエリシャの言葉のとおりに彼らの目をくらまされた。
             6:19 そこでエリシャは彼らに「これはその道ではない。これはその町でもない。わたしについてきなさい。わたしはあなたがたを、あなたがたの尋ねる人の所へ連れて行きましょう」と言って、彼らをサマリヤへ連れて行った。
             6:20 彼らがサマリヤにはいったとき、エリシャは言った、「主よ、この人々の目を開いて見させてください」。主は彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、見よ、彼らはサマリヤのうちに来ていた。
             6:21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った、「わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか」。
             6:22 エリシャは答えた、「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって、捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」。
             6:23 そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた。彼らが食い飲みを終ると彼らを去らせたので、その主君の所へ帰った。スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地にこなかった。

             

            エリシャの弟子は自分でしっかりとその現実であるシリア兵団に囲まれていることに直面せずに逃げ出したかったが、実際には、神がエリシャとその弟子の目を開かれたとき、霊的現実(Spiritual Reality)として神は、エリシャとその弟子とに何かを見せた。神の軍勢がその場にいたということをエリシャのしもべは見たのである。そして、彼らは、神の軍勢を見ることを通して、目が開かれて、物事の見方が一度に変わったのである。

             

            エリシャのイコン(こっちのカラスの給食の話のほうがかなり有名)

             

            ヘブライ語聖書内での相似の事例

            この話は、ダビデがゴリアテに向かったときの出来事や、モーセとアロンの時の出来事・・・と重なっている。モーセがファラオ(パロ)の家に向かっていくとき、持ってたのは、羊飼いの杖であり、その杖一本持って、エジプト王のパロ、全世界の王という雰囲気のある人物と対面した。モーセが燃える柴のところで、神と出会ったとき、神はモーセにあなたと共にいる。そして、恐れるな、勝利は私のものだ、とおっしゃったのである。このような重層性が聖書にはある。そして、これらは、ある人の戦いというよりは、イスラエルの神の戦いである、という点で共通している。

             

            福音に対する信頼(神の福音への誠実さ)

            この神がともにおられるということは、我々が福音に対する信頼を持つ、ということへとつながっていく。パウロは福音は神の力である、といっている。神が働いていて、我々の罪からの開放(救済)を成し遂げたのである。なお、このことに関して、次回明日は福音理解の話をしたい(ミハ氏註 この回は途中で、PCが誤動作したので、メモはほとんど取れていない)。

             

            異教の兵士に対する神の大宴会

            さて、列王記第2の6章20節から23節を見てみると、敵は、神の民の憐れみと神の民による神のもてなしを見ることになった。これは、冗談みたいな話でしかない。エリシャを捕縛しに来たのに、捕縛することはできず、その結果、この軍勢は、サマリヤに連れていかれていって、結果としては、敵であるイスラエルのど真ん中にいることになった。この軍勢はおそらくこれから確実に殺されるだろうと思った。大虐殺を覚悟しただろう。しかし、そのような悲劇が実現することはなく、神は、殺してはならないと言われたのみなあらず、神はこのシリア人の人々が空腹だから食事をさせてやれ、そして、彼らシリア人を国に帰らせてやれとお命じになられたのであり、そして、異邦人の異教徒に対するイスラエルによる大祝宴のような食事の会が開かれたのである(ミハ氏註 これ、神による回復の現実世界で一つの表現だと思っている。そして、イエスの神の国は、食事と深いつながりにあるし、それは、聖餐にもつながっていると思う。また、詩篇23篇ともつながっている部分もあろう。口語訳聖書 詩篇23篇5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、…を思い起こさせる。

             

            この出来事の前景としてのナアマン

            外国人が神の非常に大きな憐れみを神の民を通して実現したことを味わうことになる(ミハ氏註 当時の常識で言えば、大虐殺されるか、身代金を要求されるか、身代金が払えないならば、捕縛された兵について、戦利品としての身代金の請求を家族が負担できない場合、その請求金額を付与された奴隷として売り飛ばされるか、自分自身のその身代金相当額を労働の対価として支払うのが常識であった。以前、京都大学の近所の王将では、食事代を払うことのできない学生には、労働により食事代を支払うことができた、という都市伝説がある。王将に関する都市伝説の真偽の程は定かではない)。このようなもてなしを受けたシリア人たちは、この出来事、自分の直接的な経験を通して、イスラエル人とその神について考えたであろうし、考えざるを得なかったであろう。この話は、シリア人が改宗した、というような物語ではない。無理やり敵のスリヤ人(シリア人あるいはアラム人)を強制的に神の民にしたわけではない。似たような話は、同じ列王記下の5章でも起きている。つまり、ナアマンの話であり、シリアの軍団長であったナアマンは、自分の重篤な皮膚病が癒やされることで、イスラエルの神、この方こそ、神であるとナアマンは知った。ナアマンは偉大な人物であったが、神に立ち返るという謙虚さは持っていた人物であった。

             

            ヨルダン川で清められたナアマン


            この列王記の部分は意図的に並べられていると思う。異邦人であるシリア人ナアマンが重篤な皮膚病から開放され、ついで、シリア人の軍勢が戦争を仕掛けてきたのに神の民によって、かえって恵みともてなしを受けている。これらのことを通して、イスラエルとその神を見直した可能性がある。まさに、Revisionが異邦の民シリア人において起きているのである。このような話はヨナやルツの物語と共通の部分である。

             

            異邦人が神を礼拝するという

            ソロモンの神殿奉献の祈り

            これは神が忠実にアブラハムへの約束(あなたによってすべての国民が祝福される)を守っていることの一つの現われであるといえるだろう。すべての国民がアブラハムのその子孫によって祝福されるという約束があるが、これはもちろんイエスの十字架とその後の復活という福音によって与えられていく恵のことではある。しかし、旧約聖書はこのような数多くの類例がある。例えば、ソロモンが神殿を立てたときの祈りがこれにあたる。列王記 上 8章で記載されている祈りである。

             

            口語訳聖書 列王記上

             8:41 またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、
             8:42 ――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、
             8:43 あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。 


            ソロモンが異邦人による神の礼拝を願っている。エルサレムは当時の国際的都市の一つであり、多国籍社会であり、地中海世界から様々な人々が来ていたのであり、ある種の文化都市のようでもあったであろう。

             

            このソロモンは、外国人が望むものを与えていたし、ある麺当時の社会にとって見れば企業家的存在のようなものといっていいだろう。クライアントにこたえたいという点では、一種の企業家(アントレプレナー)としての側面がある。そして、彼らが神殿で、イスラエルの民が礼拝するのを見ることを通して、イスラエルの神殿とそこで礼拝する神の民を見ることを通して、この偉大な神とその神殿について家族に伝えるし、そして、イスラエルに来るだろう(ミハ氏註 当然のことながら、そこの禁制品などを狙いに来た軍隊が後に実際に出現し、完膚なきまでに略奪された)。その結果として、神の名が世の果てまで崇められることになるだろう。この列王記上8章に記載されている表現は、ある種、宣教的な祈りに近いとも考えられるだろう。

             

            他の異教の人々をどう見るか?

            私達が、他の人たちをどう見るか、どう理解するか、という視点は重要である。現代社会において、他国民、自分と違う文化にいる人々を、我々は敵と見るのだろうか。あるいは、他宗教とそこでの信仰をどう見るか、あるいは、無神論者をどう見るか、ということが重要になってくる。その意味で、イエスの主張は、敵対的な人でも愛せ、ではなかったであろうか。イエスも教会の中に居た人ではなかったし、教会外の人をも愛せ、といったのではないだろうか。

             

            教会外の人々からどう見られているのか?

            ところで、今、教会は、他からどう見られているだろうか。イギリスでは、ノンクリスチャンは、キリスト教に否定的な視線を見向けている。なぜ、人々は教会について否定的に見ているのだろうか。

             

            神の民として我々が何者で、現在、今この地で生きていることの理由を考えて見る必要があるだろう。ところで、イスラエルの民、神の民がすべきことは何であったかを、出エジプト記19章のシナイ山の記事から考えてみたい。イスラエルの民は、エジプトから導き出され、シナイ山で十戒が与えられる前のところである。

            【口語訳聖書】出エジプト記
             19:3 さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、
             19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。
             19:5 それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
             19:6 あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

             

            出エジプトを経験したイスラエル人たちは、イスラエルを神が贖ったこと、イスラエルの民に対して神がなしたことを、あなた方イスラエル人は見たこと、そして、それをイスラエル人たちは実地に、経験したことを、思い出させている。神は憐れみによって暗闇から光に、奴隷状態から自由人状態に、そして、死から永遠のいのちへと移すお方であることを思い出させているのである。

             

            先程のソロモンの祈りでもそうであるが、人々を神の前に戻す人が祭司であった事に触れつつ、他国民を神のもとに連れ戻すという役割があることをイスラエルの民に神は言っておられる。このことはペテロ第1の2章9節での、神が選ばれた聖なる祭司とつながっていくる。国々の民にあって神が存在することを、神の愛を指し示す(証する)存在として我々はこの世界に置かれている。それが我々のミッションのなかに含まれていると言えるだろう。

             

            神が神の民に望んでおられること

            イスラエルの神は、神の民が宗教的な民になってほしいと願っているわけではない。Holy、聖であれとは言うが、その中には、宗教的であれとは言うことではない。ただし、他の民とは異なる存在となる、といっておられるのだ。その意味で、Missionという言葉の中にはいかに生きるかも含まれる。ここで、同じようなことをペテロは言っていると言えるだろう。

             

            神の民は、語るべきこと、指し示すべきことが存在するのである。神を指し示すような良き働きに関与しようではないか。良い働きを通して、異邦の民が父なる神のことを崇めるようになることを望んでおられるのだ。出エジプト記のこの場所は、本来あなた方はこういう民であり、生き方への神の希望を語っているのではないか。神の民として、地に平和をもたらし、良きことをもたらし、異邦の略奪に来た兵士らに対して、豊かに与えたイスラエルの民と同じように生きることを望んでおられるのではないか。その意味で、我々は聖書全体の物語を多くの人々、異なる神を礼拝する人々にも語る必要があるだろう。その神の偉大さと豊かさと哀れみを。神の民に敵対している民にも、神の存在と神との関係を伝える必要があるのではないか。そして、イエスを通して、十字架の死と復活を通して異教の民との和解も実現したのではなかったか。

             

            神の民としてのRe-Creation(再創造)

            イエスにより和解が実現し、神の民として生きる様にさせられたのがキリスト者であろう。その意味で、神の再創造であり、つくりかえられたものであり、リクリエーション(Re-Creation)が実現したのだ。ちょうど、エリシャのしもべが目が開かれたように、我々もこのことに目を開かれるよう求めるべきであろう。仮に神との和解が成立し、再創造されたものであることを忘れてしまったら、聖書の本筋から外れてしまっていることになるし、我々が何者なのかを忘れることになろう。我々は神のために、神のミッションのために整えられていく存在なのだ。

             

             このご、ケープタウン宣言 p38が画面に表示され、読まれた。

             

            エリシャの弟子は、目が開かれて、神の存在と力を見た。

            また、そのとき、シリアの兵士たちは神の民の憐れみともてなしを見たのである。
            どうか、私たちの目が、神の王国が広がっていくことを、見ることができるように願おうではないか。
            そして、神が、神に敵対するものを見ておられる如く、我々も、神と同じように神に敵対する人々を見ることができるように願おうではないか。

            そして、自分自身を神が見ておられるように、見ることができるように願おうではないか。神の御思いが実現するために、神は、我々の実存を創造され、そして我々を呼び出されているのではないか。

             

            個人的な感想

            この話を聞きながら、時々唱えるAnglican Communionの祈祷文を思い出していた。将に、地に平和を、神の支配もたらすために関与していくことが、我々がこの地上に置かれていることなのだと改めて思った。まぁ、それは、クリストファー・ライトさんが、どうもAnglican Communionの人だから、なのかもしれない。
            V. Show us your mercy, O Lord;  
              (あなたのあわれみをわれらにお示しください)
            R. And grant us your salvation.  
              (あなたの和解を私たちにお与えください)
            V. Clothe your ministers with righteousness;
              (あなたから権威を授けられたものに、義をまとわせてください)
            R. Let your people sing with joy.  
              (神の民が喜びこもって歌うことができますように)
            V. Give peace, O Lord, in all the world;  
              (主よ、あなたの平和がすべての世界において実現しますように)
            R. For only in you can we live in safety. 
              (あなたの中にある時にのみ、我らは穏やかに過ごせます)

            とか

            V. Let not the needy, O Lord, be forgotten; 

              (主よ、必要のある人々が忘れ去られませんように)
            R. Nor the hope of the poor be taken away. 

              (あるいは、貧しい人々の希望が奪い去られませんように)
            V. Create in us clean hearts, O God;   

              (神よ、我らを聖い心のうちに立てあげてください) 
            R. And sustain us with your Holy Spirit   

              (あなたの聖なる霊により、我らをあなたのうちに保たれますように)

            という祈祷文の内容を思い出しながら、このライトさんが言っていることは上で紹介した祈祷文の内容と殆ど変わらないなぁ、と思ったのである。

             

            また、この話をお聞きしながら、Tim Kellerの『放蕩する神』”Prodigical God”とフィリップ・ヤンシーの『隠された恵み』を思い出し、しばらく頭のなかでぐるぐる回っていた感じがした。要するに、今回のクリストファー・ライトさんの講演は、神が我らに対しても鷹揚なお方ばかりではなく、敵に対しても鷹揚なお方であり、豊かに半端なくその愛と恵みを放蕩しつつ対応されたのにもかかわらず、現在の神の民は、本来、その神の愛とめぐみという神の支配を指し示すべき存在であるべきなのに、それを逆に隠してしまっているのではないか、それでいいのか、ということを問われた気がする。

             

            それを思うとき、自分たちの仲間であるか、否かで考えるのではなく、神がすべての民を愛し給い、それぞれの存在を大事なものとして創造されているものの、神の民を含む全ての民が最終的な形に、作り変えられうる、来るべき後の神の支配の中において、再創造ないし、新創造のうちに置かれるものとされうる(ミハ氏註 なんのなんの、何でもかんでも救済されると言ってはいないことに読者は注意されたい)、ということを覚えることの大切さを思ったのである。神は、細かいことをうじうじ言う風紀委員のような方ではないのだなぁ、と思った次第である。

             

             

            ライトさんの講演の第2回は、神の福音について、であるはずだが、そこはメモが殆ど無いので、飛ばします。したがって次回公開の記事は第3回である。うーん、面白いことが多すぎて、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の連載が進まない。悲しい。

             

             

             

             

             

             


             

            評価:
            ティモシー ケラー
            いのちのことば社
            ¥ 1,404
            (2011-01)
            コメント:めっちゃいい。おすすめ

            評価:
            フィリップ・ヤンシー
            いのちのことば社
            ¥ 2,592
            (2015-11-05)
            コメント:米国の事例付きで、今回のクリストファー・ライトさんの講演の主張を再検討するために有効であろう。蓋し名著。

            2016.10.10 Monday

            第6回日本伝道会議 クリストファー・ライトさん 第3回 講演記録

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              今回は、第6回日本伝道会議でのクリストファー・ライトさんの講演の3回目に参加したときの速記録から書き起こしてみたい。

               

              エレミヤ書29章から
              まず冒頭で、エレミヤ書29章1-14節が読み上げられた。

              【口語訳聖書】エレミヤ書
               
               29:1 これは預言者エレミヤがエルサレムから、かの捕え移された長老たち、およびネブカデネザルによってエルサレムからバビロンに捕え移された祭司と預言者ならびにすべての民に送った手紙に書きしるした言葉である。
               29:2 それはエコニヤ王と太后と宦官およびユダとエルサレムのつかさたち、および工匠と鍛冶とがエルサレムを去ってのちに書かれたものであって、
               29:3 エレミヤはその手紙をシャパンの子エラサおよびヒルキヤの子ゲマリヤの手によって送った。この人々はユダの王ゼデキヤがバビロンに行かせ、バビロンの王ネブカデネザルのもとにつかわしたものであった。その手紙には次のように書いてあった。
               29:4 「万軍の主、イスラエルの神は、すべて捕え移された者、すなわち、わたしがエルサレムから、バビロンに捕え移させた者に、こう言う、
               29:5 あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。
               29:6 妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。
               29:7 わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
               29:8 万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。
               29:9 それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる。
               29:10 主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。
               29:11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
               29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
               29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
               29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。


               昨日の講演(ミハ氏註 記録欠損の故公開できず・・・)で、福音を新しい見方で見ることをお話した。そして、聖書全体から、神のなさった福音理解を新しい見方で見ることの大切さを述べた。昨日、福音を新しい見方で見ることを話した。そして、聖書全体から、神のなさった福音理解の大切さを述べた。本日は、世界について話していきたい。すべての教会が、完全に福音をすべての世界にもたらすことについて考えていきたい。すべての世界にもたらすとはどういうことだろうか?また、聖書は世、或いは世界についてなんといっているか、ということを考えてみたい。

               

              相反する内容が含まれる聖書
              聖書の中には、相反する内容が含まれている。聖書の中で、世界は神を愛されたことが書かれている。イエスを介して、この世界を贖われたのである。キリストの内にあって、神はイエスによって神と私達とが和解がなされたのである。神は世界を愛されたが、一方で、この世界には、神に対する罪、反逆が存在する。その意味においてこの世界を愛してはならないのは当然である。良き創造としてのこの世界が有り、神に対する反逆の世界も、この世界の中に含まれている。この両面について、Missionとのかかわりで、考える必要があるだろう。


              ケープタウン宣言の中でも、この世界に関するいろいろな側面を書いている。例えば、他の宗教、貧しさ、悪がある世界、完全な世界など、世界のあり方、世界に対する視点について、様々な側面が書かれている。このことについて、アナロギア・グループ(ミハ氏註 要するに、より大きなグループで討論するためのグループみなたいなもの、ある種の公共圏と言ってもいいかもしれない)でも、コイノニア(ミハ氏註 一時的、ないし永続的につながっていくより小さな数人程度のグループ、フェイスブックでのグループみたいなもの 限られた人数での親密圏を伴った公共圏)でも、これから、世界の様々な側面について、継続的に対話してもらいたいと思っている。

               

              小さく弱く見える日本の教会と

              捕囚時代のイスラエルの相似性
              特に今回来日して講演を準備する中で思ったことは、以下の内容である。日本の教会は小さく、さらに力もなく、こんな日本の教会が、日々多くの深刻な問題が起こっている日本や社会、そして世界に対し、一体どのようにして仕えることができるのか、という問いを考えてきた。それは、ちょうど、ネブカデネザルによる捕囚の時のイスラエルの状態のようではないか、と考えた。彼らも同じような問いを持ったと言えよう。異教社会の中にある小さく力のない敗北者からなるミュニティで、文化的にも、宗教的にも少数者であったし、異教社会の中に置かれたのである。しかしながら、彼らはイスラエルであったし、あり続けた。


              彼らは、敵対的な偉大な文化や社会システムというバビロンの中で、イスラエルという神を信じる小さなコミュニティが生き延びえたのだろうか。エレミアはそれについて語ったし、いまだにそれが尚イスラエルとして受け継がれ語られているのではないか。

               

              エレミヤ書の引用からのポイント
              エレミヤ書の引用部分のポイントを見てみたい。神は我々を求めておられ、それは何よりも、人間がどのような状況に直面していようと、神の主権の中にあることである(1−4節 参照)。事実関係を考えてみると、ネブカデネザルはイエルサレムを攻撃を攻撃し、人々をバビロン捕囚し、イェルサレムを破壊、その結果として、病気や苦しみ、死があった。これは歴史的事実である。


              ところで、誰が、このような捕囚の責任者は誰だろうか?1節と4節はある種のコントラストを示している。第1節では、ネブカデネザルが捕囚をはじめたとされている。しかし、第4節では、神がイスラエルの民をバビロンにひかせていったとなっている。こうなると、イスラエルを捕囚の民とならせたのは、神なのだろうか、あるいは、ネブカデネザルなのだろうか。


              答えは両方である。これは、見方の次元あるいは視点の違いの問題である。その違いとは、人間のレベルで見るか、神のレベルで見るか、によるともいえるだろう。今、もし映画やテレビがあれば、ネブカデネザルの軍勢がイェルサレムに攻め込み、虐殺し、捕囚されていく様を放映したであろう。そんな状況であった。

               

              しかし、エレミヤは預言者であり、ネブガデネザルによる武力行使、実力行使を神の視点で見たといえるのではないか。イェルサレムは破壊され尽くしてしまい、イスラエルは敗北したとはいうものの、しかし、神は変わらず、その主権を持って神の王座にいまし給われたのである。その意味で、神がイスラエルをバビロンに導かれたといえるのだろう。この捕囚にも神の目的があったといえよう。


              エレミヤが捕囚で、偉大なる大民族の中で少数者として生きるというこの状況を非常にフレッシュな方法で表現していると言えよう。イスラエル人には、状況は希望のないものに見えたであったろうし、現実的にも絶望的だったろうし、エレミヤの手紙は、現状から見れば、逆方向に進んでいるような雰囲気に見えたことだろう。


              このエレミヤの手紙はエルサレムからバビロンへ送られたものであろう。ちょうどビデオの逆再生ボタンのような印象を与えるような手紙であった。バベルの塔からイエルサレムに向かっていく、というのが旧約聖書全体の流れと言えるだろうが、このエレミヤの手紙が書かれた時代は、イエルサレムからバベルに向かっていくような状況の中であった。このような状況下、すなわちバビロン捕囚の中で、ヤーヴェの神の存在を見るのは困難で、神が何をしているのか見出すのは現実的には極めて困難であったであろう。今このバビロン捕囚時代に神が何をしておられたのかを現代から見ることはできるが、現場にいる人はこのような見方は当然理解できなかったろう。

               

              共産化中国とキリスト教
              1950年のころ私が、4歳のことを覚えている。中国において、共産党が宣教師達を国外に次々と追いだしはじめた。そのときのショックを未だに覚えていて、大人たちが中国で何が起きているのだろうか、これからどうなるのだろうかと大人たちが心配していたことを覚えている。世界で最大の国で、世界中で最大の宣教師数がいた国で何が起きているのだろうか、残されたキリスト者たちはどうなるのだろうか、神が何をしておられるのだろうか、と当時大人たちが心配していた。たしかに、その時期の中国本土でのキリスト教徒は少数派で、弱い存在であったということを思ったかもしれないが、60年たってみると、中国の教会で毎週日曜日に礼拝している人々がいる。それは、神がこの世界の中で、主権を握っておられ、今も尚、生きておられることが如実に示されるのではないだろうか。中国で1950年台に起きた迫害の現場で、今日の姿を思うのは困難であっただろう。


              これは、今もなお、中東で起きていることであろう。現在、シリアで大きな困難が起きている。2000年間存続したキリスト教共同体が崩壊しかけていて、シリアからキリスト教共同体が追い出されようとしている。レバノンのアラブ人のクリスチャンに聞いたはなしでは、シリアからイスラム教徒が流れてきており、そのイスラム教徒の人々をレバノンのクリスチャンたちは受け入れ、ケアしている。そして、イスラム教徒として到着したシリア人の人々のうち、多くの人がイエスを信じている。とは言え、悲惨があり、イエスを信じている人がいるから、といって、現状は非常に良い状況であるとは言えないだろう。

               

              歴史において主権を持っておられる神
              人間の悪のはびこるこの世界のただなかにおいて、神は主権を持って立っているということは変わらない。日本において考慮しないといけないことは、日本のキリスト教は、非常に弱々しく、困難に直面しているこの状況の中で、更に、その社会に置かれたキリスト教会の中で、神が何をなしておられるのかに目が開かれていく必要があるだろう。社会的文化的人間的事実として世界をみるのではなくて、神のプランがどのようなものであるのかについて、見ていく必要があるだろう。


              なぜ、神は日本に教会におかれているのだろうか。16世紀に、なぜ、宣教師たちは、福音を携えてきたのだろうか。日本社会の中でキリスト教徒の比率が、1%にとどまっていても、何故、教会がこの国にあるのだろうか、と考えてみることは必要だろう。この国において、神の御手はどのように働いておられるのだろうか、最近の歴史の中で、痛みの中で、例えば、神戸の地震の中で、2011年の東日本大震災の中で、どのように働いておられるのだろうか、ということを考えてみたい。そのような中での教会は、まさにエルサレムの破壊と捕囚のような状態であったといえるであろう。そのような悲惨の中で、どのように神の主権があるのかということを考える必要がある。教会が神の働きをその悲惨のただなかで見ているのではないだろうか。それがエレミヤが示している第1のレッスンと言えるだろう。ある面、我々を励まし、我々の目を開き、宇宙の王座におられる神の御姿と力と主権を見させておられるのかもしれない。

               

              神の宣教と自己の環境のために祈ること
              神の宣教という視点から、自己の置かれた環境と自己の国と世界を見ることは極めて大事である。7節「わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。を見て頂きたい。これは驚きを禁じえない箇所である。捕囚の時にこんなその町にとどまり、自分たちを支配するものへの平安を祈るということは誰も語りたくないだろろう。捕囚のときのイスラエルの人々は悲惨な敗者であり、捕虜状態にあったにも関わらず、主である私がひいて言った街の繁栄を主に祈れ、という命令は考えがたい。この、敵の繫栄のために祈れ、という部分に関しては、聖書の文言をバビロニアの人が書き換えたのであろう、と思うかもしれない。


              詩篇には、エルサレムの平和のために祈れ、それが祈るべきことであるとされているのにも関わらず、このエレミヤ書の中では、バビロンのために祈れ、とエレミアは預言していっている。

               

              詩篇137は、 バビロンの川辺で書かれた詩篇とされている。

              口語訳聖書 詩篇
               137:1 われらは/バビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
               137:2 われらはその中のやなぎにわれらの琴をかけた。
               137:3 われらをとりこにした者が、われらに歌を求めたからである。われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
               137:4 われらは外国にあって、どうして主の歌をうたえようか。
               137:5 エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。
               137:6 もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムを

                  わが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。
               137:7 主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と

                  言ったことを覚えてください。
               137:8 破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。
               137:9 あなたのみどりごを取って

                  岩になげうつ者はさいわいである。

               

               

              By the rivers of Babylon, painting by Gebhard Fugel, circa 1920 Wikipediaから

               

              自己を圧迫するもののために祈ること
              こちらの詩篇137篇のほうが普通に思えるだろう。しかし、それなのになぜバビロンのために祈るのだろうか。本来、神がバビロンへの反撃をなさるようにと、祈るのが普通だと思うであろう。それなのに、バビロンの繁栄、シャロームのために祈れ、と神はエレミヤを通じて預言され、神殿とイェルサレムの街を破壊したバビロンのために神は祈れといっておられるのだ。


              さらに、新約聖書の中で、イエスは、敵を愛せ、といっておられる。それは、神がアブラハムに与えたもうた祝福とその祝福のうちに示されたミッションを思い出せ、とおっしゃっておられるのではないか。つまり、神がアブラハムに対し、アブラハムによって地上の諸国民は祝福されるという約束をもたらされた。この地上の諸国民の中から、あなたの敵を取り除いて、そのうえであなたを祝福するとは言われなかったのではないだろうか。究極的にエレミアは、神の裁きの中にあることは知っていたが、バビロンに神の民がいるときには、神の民として生きなければならない、と預言したのである。それ故、彼らの的であるバビロンために祈らなければならないし、その敵のために祈ることが神の民に課せられたことであったのである。

               

              世界を祝福するアブラハムの子孫
              アブラハムへの約束は、神の民を通して、世界中に祝福を与えられるということであった。エレミアが語ったことは、ローマ書でパウロが語ったことと等しいだろう。パウロは高い地位の人々のために祈れといっているが、それは、キリスト教的な政府のことではない。あの当時は、キリスト教を圧迫していた異教徒の敵対していた人々のために祈れ、といっているのである。クリスチャンはローマ皇帝のために祈れ、といっている。さらに、ガラテヤ書の中で、よいわざをせよ、ともいっている。特に信仰の家族に対して良き業を励めと行っている。その意味で、教会の中で、互いの必要を満たす必要があるし、それ以上に世の人々に良きことをもたらしなさい、ともいっている。それは、どんな小さなコミュニティでも、それが実現できるだろう。

               

              たとえ、イスラエル人の信仰を基礎としたコミュニティが小さくても、それぞれ人々へのミッションがあったのである。バビロンにおいても、神のために祈ることができる。彼らを嘆き悲しむ捕囚の民から、神を指し示す宣教師に変えていったと言えよう。エレミヤ書29章は、ある面、神の民のミッションにかかわる内容であるとはいえる。

               

              世の中における教会の役割
              世における教会の役割とは何だろうか、と考えてみたい。これらについて、ケープタウンコミットメントは様々な視点から書いてある。福音を中心において、言葉による伝道と実際に善きことを世にもたらすことが両輪であることが示されている。ケープタウンコミットメントの28ページの1−7−Aを見てほしい。

               

              ここで、包括的宣教がふれられているが、以下の3つ宣教の領域があることを示している。


              1)教会をたてあげる(伝道と教育を通して教会を立てあげていく)こと
              2)愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えること(エレミヤがいうように)
              3)被造物世界を正しく治めること

               

              1)教会をたてあげること

              1)教会を立てあげるに関しては、まさに、これが大宣教命令そのものであり、かなり、明らかな内容である。つまり、世界のすべての人を弟子とせよ、洗礼を授け、教えよといわれたのである。良き知らせを語りつつ、教会を立てあげ、そして信徒を教えはぐくむことにより成長させる事も大事であると言っておられるのではないだろうか。それがこの大宣教命令の根本的なところである。それは、キリストを信じたことの応答として起きるはずのことである。まず、この神から与えられたミッションを皆さんに果たしてほしいのである。特に信徒を育てることが大事である。救われることだけを目的とするのではなくて、育てるという側面に着目してほしい。そして、人々を助けることができるように、整えていくことが大事ではないだろうか。そして、その信徒を整えることができるように、指導者が整えられていく必要があるだろう。


              第1コリントのなかでパウロとアポロをとして表されている2つの役割がある。パウロが基礎を置き、アポロが整えていった。この二つの働きはじつは一つであるとも言っている。たしかにパウロは種をまいたが、アポロが整えていったとは言うものの成長させたのは神の働きであったことを示しているのではないだろうか。そのことに関して、今夜の講演では、神の宣教において、神学的教育の話をする(この講演は欠席しました)ので、よろしければお越しください。

               

              2)愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えること
              愛とあわれみの御わざを通して世界に出ていくことが求められているのだ。単に言葉による宣教だけでは頭だけの信仰になるかも
              しれない。そして、知識として知るだけでなく、実践のことばとしてイエスは語っておられるのではないか。義に飢え渇くものは幸いである、また、神の国と義を求めよとイエスはおっしゃっておられるだろう。正義と憐れみと誠実さの大切さをイエスは言っておられるのである。

               

              愛とあわれみのわざを通して、社会に仕えることにかんしては、イエスは弟子たちに向けて、あなた方は世の光とおっしゃったのである。それは、どのような意味だろうか。

               

              その意味するところは、福音を語り、人々の頭の中に光が届くようにしなさい、とい割れたのだろうか。もちろん、それも含まれていたろう。しかし、人々が神の民の良きわざを通して、光り輝くようにせよ、とも言われたのではないだろうか。そして、人々の生き方が神の民の良き技を見ることで人々が変わるようにしなさいと言われたのではないだろうか。イザヤ書の58章が念頭にあったろう。

               

              【口語訳聖書】イザヤ書
               58:1 「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声をラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。
               58:2 彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。
               58:3 彼らは言う、『われわれが断食したのに、なぜ、ごらんにならないのか。われわれがおのれを苦しめたのに、なぜ、ごぞんじないのか』と。見よ、あなたがたの断食の日には、おのが楽しみを求め、その働き人をことごとくしえたげる。
               58:4 見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。
               58:5 このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか。
               58:6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。
               58:7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。
               58:8 そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる。
               58:9 また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、あなたが叫ぶとき、『わたしはここにおる』と言われる。もし、あなたの中からくびきを除き、指をさすこと、悪い事を語ることを除き、
               58:10 飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。
               58:11 主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。
               58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』

                 と呼ぶようになる。
               58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、
               58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。

               

              ここに紹介したイザヤ書58章8節では、暁の様にさし出るようになる、といっているのではないか。光と正義についてのべているが、世の光とは、このような光である、と言うことを預言されたのではないだろうか。


              イエスは、福音の故にイエスの御名で出ていくように、といわれたのである。ルカの書いたもの(ルカの福音書や使徒行伝)の中を見ていくと、人々は良き技が行われるのを見て、教会に集まり始めたことが記載されている。使徒行伝の11章をみると、飢餓の状況の中で伝道が行われたことが描かれているのを見ることができるだろう。そして、パウロはイェルサレムの教会から異邦人教会に贈り物をもたらすために行ったのではないだろうか。


              ガラテヤ2章10節では、貧しい人々をケアしようとしてたことが読み取れる。ガラテヤ書の2章において宣教と良き働きの両方ともに実施したといっている。1974年のローザンヌ宣言以来、宣教と良き働きの統合をしていくことを考えてきたといえるだろう。イエスを中心として、その両者を統合しようとしてきたといえるのではないだろうか。


              こう考える時に、私たちの国においてできることは相当数あるのではないだろうか。宣教は、宣教師だけのものでなく、イエスに属するすべてのものが実施できることである。それは、仕事場、農業、教育、医療、近所、放送の分野であれ、政治、経済の場であれ、福音と共に生きる。福音を生きる事が重要なのではないか。その意味で、キリスト者の性質をもって、世界に出ていくことが求められていると言えよう。生きている神の善き性質を持って世界の中に出ていく。なぜならば、キリスト者は、イエスを主であり神であると告白するものであるからである。教会の中での伝道と信徒を整える教育をもって、教会が社会に仕えることが求められるのではないか。

               

              3)被造物世界を正しく治めること
              大宣教命令において、主が被造物に関する主権を持っていることが指摘されている。被造物すべて、というものの言い方は、ヘブライ聖書駅なものの言い方である。その意味で、主はこの世界全体の地主のような方であり、我々は店子のような存在であると考えるのが良いのかもしれない。それ故、店子としての借りているものを善意無過失のものとして、問題が起きないように良い状態を保つようにする管理責任があるのではないか。良いケアをする責任があると言えるだろう。例えば、誰かを愛するなら、その愛する人のものは大事にするだろう。あるいは、友達のものを大事にしないと、友情はこわれてしまうだろう。


              イエス・キリストの十字架は和解のためであり、最終的に神とすべての被造物が贖われることが重要ではないか。ここで、ケープタウンコミットメントの1−7−Aを読んでみよう。


              日本のクリスチャン世界で、この両者にどのようにかかわわっていくかをぜひ考えてほしい。人類による破壊によって、非常に傷ついているこの世界は、もともと神のものであり、福音を聞いたことがない人々、また、様々な問題で傷ついた人々に神の福音、神が回復させようとされておられることを神は届けたいと願っておられるのではないか。福音と関わる世界は、非常に広い範囲Scopeを持っているのである。その意味で、神の主権という視点(光)において、自分の置かれている世界を見ていくべきではないか。

               

              死に絶えたかのようなイスラエル人を用い給うた神
              聖書テキストを見ると、当時のイスラエルの民は、捕囚で終わった、もう終わり、死んだも同然だと思ったであろう。イスラエルの民は、神の裁きのゆえにこれが起きたと思ったことであろう。エゼキエルは失望した状態にあったことを、渇いた骨の様に死んでいたと書いたのであり、もう墓の中状態であり、骨がばらばらの状態になっていると思っていたことを表現している。しかし、神は、彼らの目を開き神のみすがたを見せ、神の主権があることを示されたのである。たしかに、バビロンの時は来ていた。しかし、イスラエルは開放されることもしめされている。そして、イスラエル人には将来があることを示し、現在捕囚の民であり、虐げられた被害者の立場であるものが、ビジョンを持った生き方に転換できうることが示されているのである。


              11節において、あなた方についての計画を良く知っていると書かれている。神が繁栄させる約束、希望、将来に関する約束が描かれている。この聖書箇所は、好きな人が大変多いし、最も知られた聖書箇所であり、多くの人から愛された聖書箇所であるだろう。神の素晴らしい約束ではあるが、この言葉が描かれたコンテキストを皆さん方はお考えになったことはあるだろうか。

               

              長期間で取り組まれる神と近視眼的な我ら
              これらの言葉は、神の裁きの中にあった、捕囚の中にあった人々へのことばであり、奴隷状態にあった人々への言葉である。たしかに、非常に気分を良くさせるための言葉ではないのである。この言葉は、クイックフィックス(短期的な弥縫策)があると約束する言葉ではない。神が回復させるまでには、70年かかり、2世代以上回復までにはかかると神はおっしゃっているのである。長い時間をかけ、イスラエルの民の回復についてのヴィジョンをもっておられる神である。たとえ、長い時間がかかっても神は忘れることのない神であり、将来への希望を与えられる神である。エレミヤ書の時代の人々は神がなされた回復の御業を見なかった。しかし、子供、孫、ひ孫へとこの希望は、つながったいたのである。イスラエル人は、彼らの民の将来の希望を持って語ったのである。この回復と同じような回復が、世界中のすべての人にイスラエルを通して起きるのである。神は、アブラハムへの約束を決して忘れてはおられない。イスラエルの捕囚ということを通して、イスラエルに回復を与えようとされたのである。更には、アブラハムの末であるナザレのイエスを究極的に傷つけることで、神の民を回復させようとされたのであり、それをどう信じるかがこの世界にとって問われていくことになったのである。


              しなければならなかったことは、エレミヤ書の29章12-13節の部分である。

               29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
               29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
               29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

               

              この部分にあるように、神を呼び求めることを神はイスラエルに求めた。悔い改め、神のもとに戻ること、神の民族、神の民になることを神はイスラエルに望まれたのである。すなわち、モーセ5書にある、心を尽くして、力を尽くして、魂を尽くして、思いを尽くして神を求めることをのぞまれたし、そうすれば、神を見出すだろうと約束されているのである。


              このエレミヤの手紙が読まれるのを聞いた人はダニエルで少年だったころの時代に人々であろう。ダニエル書9章でエレミヤの手紙が読まれる記述があるが、そのころ、ここでいう70年が終わろうとしていた。バビロンが裁きを受けるということが起きようとしたときである。しかし、そのバビロンで、ダニエルたちは何をしたのだろうか。彼はひざまずいて、神のもとに戻って祈ったのである。


              いま我々が何をしないといけないのだろうか、それは、伝道の方法論や資源を考えるよりも、神への従順を考えることではないだろうか。そして、神の主権に対する思いを明らかにすることを考えてほしい。神のミッションにかかわっていく事、すなわち神の計画へのコミットメントをしてほしい。将来、神がその御名のゆえに、神が崇められるようにしてほしいと思う。


              感想

              時々思うことであるのだが、我々はあまりにマイオピックな(近視眼的な)物の見方をしながら生きているのだなぁ、とこのご講演を聞きながらも、改めて思った。100年とか200年単位や大きなスケールで物事を考えず、目に見える範囲のこと、この1年とか、この3年とか、といった感じでしかものを見ていないなぁ、と思った。そして、ミーちゃんはーちゃんが神への信頼の薄いものであることを思い起こされた。


              Most merciful God,

              we confess that we have sinned against you in thought, word, and deed,

              by what we have done, and by what we have left undone.

              そして、いまミーちゃんはーちゃんはアングリカン・コミュニオンに行くことが多くなり始めて、少しづつ変わり始めているけれども、結局かなり長い間、頭派のキリスト教、言葉で語ってなんぼ、言葉で”福音”と日本語で言われるところの内容を語ることだけがキリスト教、という概念のことだけをやっていたことに思い至った。


              この中で、どう地に平和をもたらし、囚われ人に開放を告げ、悲しむものに喜びをもたらし、神とともに生きていき、神とともに変容していく福音を生きることをどのようにもたらしていくのか、そして、山上の説教の中で、

              【口語訳聖書】マタイによる福音書
               5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
               5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
               5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
               5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
               5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
               5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
               5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
               5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
               5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

              ということを今一度考えさせられた。

               

              あと、このあとのコイノニアでミーちゃんはーちゃんが喋ったことを思い出してみながら書いてみると以下のようなものになろう。

              おそらくであるが、教会は、必要以上に教会に来た人を抱え込みすぎる傾向があるのではないか、ということを思う。とりあえず、困っている人がいると、(福音を語る対象として、という下心付きで)何でもかんでも際限なく抱え込みたがる傾向があるような気がするので、適当な境界線を設定しておくことが重要かもしれない。さらに、全部教会が抱えられないからと言って自分たちに対して失望する必要はないと思う。困っておられる方に対して、その他の方法、他の団体、行政を含む他の組織を指し示してあげられるポインターの役割、ソーシャル・キャピタル論で言う、ブリッジングの働きを果たすことも重要だと思う。

               

              また、教会はどちらかと言うと、一発逆転ホームランのようになんでも全部、完璧に片付けることを狙いすぎ、あまりに完璧を目指す傾向があるように思う。当たれば、非常に効果的であるが、当たらないと結局は失望してやる気が失せてしまうし、うまく行かなかったりして失望すると、全くやる気がなくなってしまう傾向があるように思う。多分、それが人情というものなのだが。それよりも、バントでいいから、小さい成功例をたくさん積み重ねていって、積み重ねていく方法論もあるのではないかなぁ、と思う。それは、ある面、期待値を小さくし、それでもそこそこの成功の満足感(これ、案外大事)を関与者が持てるようにすることが大事だと思う。その満足感がないと、継続的な運営のためには必要不可欠なのではないか、と思う。

               

              ところで、クリストファー・ライトさんの今回のこの話を聞きながら、以下の聖餐のときの祈祷文を思い出していた。

               

              Blessed are you,
              God of those who hunger and thirst,
              for you give us our food in due season.
              You nourish us with your word,
              which is the bread of life.
              You strengthen us with your Spirit,
              the new wine of your Kingdom.
              In Christ you are food for the hungry,
              refreshment for the weary.
              Blessed are you, our Creator and Redeemer.
              Blessed be God for ever.

               

              次回最終回に続く

               

               

               

               

               

               

              評価:
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              いのちのことば社
              ¥ 972
              (2012-04-05)
              コメント:ぜひ、お買い求めを

              評価:
              フィリップ・ヤンシー
              いのちのことば社
              ¥ 2,592
              (2015-11-05)
              コメント:キリスト者として、神の義を地に具体的にもたらすことを考えさせる本。蓋し名著

              2016.10.12 Wednesday

              第6回日本伝道会議 クリストファー・ライト 第4回 講演記録

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                さて、日本伝道会議の最終日の午前主題講演の4回目の速記録に基づきながら、多少は読みやすくしたものと、そこに参加したものとしての感想を書いてみたいと思う。

                 

                ローマ書から
                聖書箇所はローマ人への手紙14章1-3 ローマ15章1〜13節でした。

                【口語訳聖書 ローマ書】
                 14:1 信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。
                 14:2 ある人は、何を食べてもさしつかえないと信じているが、弱い人は野菜だけを食べる。
                 14:3 食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

                 

                 15:1 わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。
                 15:2 わたしたちひとりびとりは、隣り人の徳を高めるために、その益を図って彼らを喜ばすべきである。
                 15:3 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。
                 15:4 これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教のために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
                 15:5 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、
                 15:6 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。
                 15:7 こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。
                 15:8 わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
                 15:9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、

                   「それゆえ、わたしは、異邦人の中で

                    あなたにさんびをささげ、

                    また、御名をほめ歌う」

                    と書いてあるとおりである。
                 15:10 また、こう言っている、

                   「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
                 15:11 また、

                   「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
                 15:12 またイザヤは言っている、

                   「エッサイの根から芽が出て、

                    異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。
                 15:13 どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。

                 

                これまでのまとめ
                今日が最期の日になります。初日については、神によって目が開かれたエライジャのしもべとそのしもべが見た神の臨在のお話をしました。2日目は福音とは何かを考えました。 聖書全体から、スコープについて考えながら、神がなされたことを考えました。そして、昨日は世界について考えました。特にエレミヤ書からバビロンにおけるイスラエルの民の状態について触れ、偉大な国家の中の失意の中にある小さくなっていた人々に神の主権を伝えた手紙のことをおはなししました。そして、アブラハムを通して約束された国々の祝福とミッションについてお話したし、神が完全な約束をお与えになられたことをお話しました。

                 

                福音が示される機会
                今日は機会、オポチュニティについて考えてみたいと思います。


                日本に来て、福島や熊本などでの震災などが神が新たな機会を与えているという非常に驚くべき話を聞いたのです。この機器の中で、教会の働きが見えるようになったのです。この災害の中で、フレッシュな見方と力が与えられ、福音の力が地において実際に起きていることを見られるようになったのではないでしょうか。福音が愛をもって、さらに、憐れみを伴って表され、力を体験するようになってきたのではないでしょうか。それでは、いま必要なことはどのようなことでしょうか?

                 

                福音と協調行動と一体であること、一貫性
                今日の聖書、ローマ書の部分からは、協調と一致Unityが重要であると教えられた。そして、希望とUnityの必要があることも、このローマ書の部分の中で書かれている。本日の聖書箇所はまた、希望と一体であること(Hope & Unity)について語っているのではないだろうか。希望(Hope)についてはここ数日間学んできたことであるし、絶望的な状況の中にあって希望を持つことについてであったこともお話した。また、それは真理と現実的で実際的な力についてでもあった。

                 

                それでは、一体であることと協調(Unity & Cooperation)についてはどう考えればよいだろうか。聖書について、真剣に考えているとき、これらのことは起きるのではないだろうか。一体であること、あるいは一致をもって、協調ないし協力(Cooperation)しなければ何が起きるのだろうか。 それは福音の一貫性、或いは、そのものらしさ、整合性(Integrity)が脅かされ兼ねない。キリスト者の生き方が整合性があるもの Ingegrity となるためローマの最終まとめの部分で、パウロはそのことについて触れている。この整合的であること、一貫性が取れていることIngetrityは、どの世界の人々にとっても重要でもあるが、ここでは大切な事柄である都市適している。そのため、この一貫性があること、つまり、言行不一致でないことでもある整合性Integrityについて今日、考えていきたい。

                 

                全地中海世界に福音を伝えようとしたパウロ
                聖書がどういうコンテキストで言われているのかを考えないといけない。パウロはこの書を口述筆記をしていたが、この時点は、彼の宣教師(Missionary)としてのミニストリの転換点でもあった。15章でそれに言及しており、19節からそれを言っている。19節で、エルサレムから始まって、世界中にくまなく伝えたといっている。これは、現在の地中海世界の東半分に伝えたということであり、現在のトルコ、アルバニア、ギリシア地方で伝道したことを示している。

                 

                【口語訳聖書 ローマ書】
                 15:18 わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、
                 15:19 しるしと不思議との力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない。こうして、わたしはエルサレムから始まり、巡りめぐってイルリコに至るまで、キリストの福音を満たしてきた。

                 

                パウロは、これまで福音を伝えてきた地域(地中海世界の東側)において、その働きがすでに終わったものと感じた。もう、この地域で伝えることはない、と思ったことが、23節に示されていて、イスパニア(スペイン)という語にもあるように、パウロは地中海の西部、すなわち地中海の果てに向かっていたといえる。23〜24節でスペインに行くつもりで、ローマに立ち寄る予定であることが書かれている。その意味で、この手紙は宣教のストラテジーを考える中で書かれた手紙であるといえる。その意味で、西地中海に向かう途中の段階で書いたと考えられるだろう。

                 

                【口語訳聖書 ローマ書】
                 15:23 しかし今では、この地方にはもはや働く余地がなく、かつイスパニヤに赴く場合、あなたがたの所に行くことを、多年、熱望していたので、――
                 15:24 その途中あなたがたに会い、まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら、あなたがたに送られてそこへ行くことを、望んでいるのである。

                 

                ローマ教会をベースとして、そこを中心として地中海の西側への宣教のための送り出し教会としようと考えていたようである。その意味で考えてみれば、アンティオキア教会は東半分の送り出し教会として考えていたことがわかるかもしれない。このような伝道の拠点としてのローマが、彼の伝導におけるストラテジーにとって、合致したものであり、そのような伝道を行う際の希望を書いたものであるとも言えよう。

                 

                ローマ教会の分裂と和解(Reconciliation)
                このような彼の計画の中で、ローマの教会は分裂してたことを知っていたし、教会のユニティ、一つにされたものの中であっても、
                ユダヤ人と異邦人の間の分裂があったことは十分承知していた。実際、パウロは宣教が宣教に取り組んでいるその中で、この問題に直面した。それが、ローマ書、ガラテヤ書などにも現われており、下手をすると、宣教に悪影響をもたらしかねないほどの問題でもあった。和解を福音として語らなければならないのに、それができない状態にローマの教会があったことが読み取れるだろう。

                 

                ローマの使徒たちに、あなたがたは、キリストにあって和解したものではないか、とパウロは言いたかったのであろう。そうであるのに、スペインでキリストにあっての神との和解と人々との和解を語りたかったのに、ローマの教会の状態はそれを言える状態になかったと言える。その意味で、福音の真理が脅威に直面した状態出会ったといえるだろう。さらに言えば、クリスチャンが和解のうちに生きていないなら、福音を生きていることにならないのではないだろうか。


                福音のインテグリティ統合性、裏腹ななさが危険にさらされていたとも言えるだろう。さらに言えば、パウロの宣教のインテグリティが危機にさらされていたということにもなろう。神にあるユニティをイスパニアに輸出しようとしているのに、分裂を輸出することになりかねない状態でもあったといえるかもしれない。


                日本には140ほどの教派教団が存在する、と聞いている。しかし、それは残念なことに、送りだしてきた外国の教会でもその分裂が反映されたものになってしまって居て、今の現状となっているのではないだろうか。統合的な一体となった教会(United Church)として送り出せれば、United Churchが宣教先でも起きるはずであったのだろうけれども。


                このローマ書の手紙のクライマックスに当たる本日紹介した部分で、一体となっていること(Unity)と和解の生き方をパウロはローマの教会の聖徒たちに訴えている。それによって福音の真理性がわかるのではないか、といっているかのようだ。このような一体となっていることと和解の生き方こそが異邦人に対する宣教の唯一の方法であり、また、それこそがローマ教会の人々が神の希望に満たされて生きる方法であったと主張しているかのようだ。

                 


                この伝道会議の結果として、神が建てられた指導者が真剣に宣教をとらえて、世界に出ていくとしたら、神の機会に対して真剣に従おうとしようとするなら、このパウロが書いたローマの手紙のこの部分の主張を見ることが必要になるだろう。それは教義学的な事柄ではな胃だろう。もちろん、正しい神学を学ぶことも大事だが、実践的なことが指摘されているローマ書の12-15章を真剣に考えるべきではないだろうか。福音に従い、神に従って生きることが大事なことであると、パウロは指摘しているだろうし、特に、この所管のクライマックスであるローマ書の14章から15章が大事であるといえよう。

                 

                ヴィジョンを持つべき3つのこと
                これから見るべき3つのことを一緒に見ていきたい。
                1)福音が創造したものを見ること
                2)福音が要求していることを見ること
                3)福音が導く場所を見ること

                (ミハ氏註 この見ることは、今回のテーマReVisionと掛詞になっている)


                このようなことを12章から15章を通して見いださないと、意味がないかも知れない。

                 

                福音が想像したもの、すなわち

                神が建てようとしている多様な人からなるコミュニティ

                パウロが言おうとしていることは、教会を神のマルチナショナルコミュニティとして作ろうとしているということではないだろうか。


                そもそも、神に対する罪とそのもたらす問題をパウロはローマ書1-2章で論じている。つまり、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと関係なく、とパウロは言っている。すなわち、人はすべからく罪を犯しおり、神の前にこの罪という問題があることを指摘している。パウロはユダヤ人の神について、語っており、神はアブラハムを通して、すべての民は祝福をされるということ、その民の祝福はイエスを通して起きていることを語っている。つまり、イエスを通して、永遠のいのち、神の義、祝福があることが語られている。


                パウロは神のミッションとは、すべての人々、国々に伝え、神の平和を伝えようとしている。アブラハムの模範に従う。神を信じ神に従った。それが起きているとパウロは言っている。アブラハムはすべての国民の父であり、それが実現しているといっているのではないだろうか。


                また、エペソ書2章では、ユダヤ人と異邦人の差がないといっているのであり、神は、キリストにあって、一つのヒューマニティとしたことが記されており、世界に新たなる人がつくられた、とも言っているのだ。
                ガラテヤ書では、もしイエスを信じるなら、アブラハムの民の中に入っていくといっている。ガラテヤ書3章26-29を見てみたい。

                 

                【口語訳聖書 ガラテヤ書】
                 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
                 3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
                 3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
                 3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

                 

                つまり、キリストイエスによって神の子供となり、キリストをその身に着るようになったのであり、男も女も、ユダヤ人も異邦人もすべての人は、キリストイエスにあって一つであると主張しているし、キリストのものであれば、アブラハムの子孫であるとも主張している。つまり、福音がこのことを成し遂げたといっているのではないだろうか。つまり、和解がなっており、一つのものに結び合わされた新たにされた人であること(New United Reconcile Humanity)といっているのではないだろうか。


                日本でも、キリスト者は、この和解がなっており、一つのものに結び合わされた新たにされた人に属しているということであろう。それは、多数の教派があってもそれはある面関係ないことなのではないか。これが我々の生きるべきStoryであるのではないだろうか。我々の神への信頼(Faith)、福音の故にそのような民とされたことをを覚えていないといけないではないだろうか。

                 

                Reconcileされたキリスト者たち
                神の物語のただなかにいて、われわれは、その神の物語の一部になっていることを覚えていない。アブラハムにおける人々は罪人ではあるが、神と和解させられ、もともとあった形とに戻った(Reconcile)、神によって和解しもう一度一致させられた(Reconcile)人々であり、相互にReconcileされた人々であったのである。

                 

                パウロはこの主張、テーマをローマ書、エペソ書において、展開している。そのReconcileということが、神が造られたものはどのようなものか、ということでもあり、福音がつくったものが何かということを言っている。さらには、ローマ書14-15章では、神が要求していることは何か、ということを述べているのである。つまり、キリストを受け入れたものは、キリスト受け入れたものを受け入れるということである。ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、そのような差別に関係なく、受け入れ、受け止め、一体となる(Embracement)しないといけないであろう。それをパウロは言ったのである。

                 

                強い人としてのローマ人、弱い人としてのユダヤ人
                例えば、ローマ書の15章の1節に、強い人、弱い人ということが書かれているが、この強い人、あるいは、力ある人は、異邦人のことであり、ローマ人を指してその人々について言ったのである。また、弱い人とは、ユダヤ的な人々について言った。ある面、ローマ人は支配者であり、それ故、ユダヤの民を見くだしていたのである。


                弱い人ということについてであるが、身体的に弱いというよりは、あるいは、信仰が弱いということではなくて、保守的(コンサバティブ)で、いろんな気遣いをした人人のことである。より正確に言うと、旧約聖書の食事規定のことである。さらに言えば、当時のローマの食肉文化の一端でもあった偶像に捧げられた肉を食することを忌避したのであり、それが故に、彼らは野菜だけを食べていたのである。(ミハ氏註 ダニエルみたいだなぁ、と思った。それと、ローマの肉は、おそらく、モーセ5書に規定されたヘブライ的な食肉処理規定に従った血抜きがされていないので、血による穢れを忌避するヘブライ聖書的理解には相反したから、食べられなかったといえるだろう。現在のムスリムのかなりの部分やユダヤのウルトラ保守派もこの種のことに極めて厳格な部分がある)。また、さらに、安息日を守ることにも触れている。安息日規定は、極めて重要であり、彼らはい今日のローマ社会の中にあって、徹底的にヘブライ聖書による立法規定の一つでもある安息日規定を守った。これは、彼らのユダヤ人としてのアイデンティティとつながっていたと言えよう。その中で最も大事にされたものが、安息日規定と食事規定出会ったと言えよう。

                 

                それが異邦人キリスト者には理解できなかったようだし、その規定を守る必要はなく、もっと自由に行動してよいのだと思っていたが、もっとそのような制約は関係ないのだ、と思っていたのではないだろうか。自由に行動できるから強いのだ、と思っていたろうし、実際に当時の世界のリーダー的役割を果たしているからこそ、自分たちこそが主導権を握るリーダーであると思っていたとも言えるだろう。(ミハ氏註 なんか、アメリカ人みたいだなぁ。たしかに、自分たちはローマの正当な子孫であるという思い込みと言うか、ロマンがアメリカ人にないわけではない。なお、ロシアはロシアで、自分たちこそ、ローマの正当な子孫であると思っているみたいではあるが)

                 

                ローマ人たちは、彼らは自由に生きるのだ、と思っていたので、ユダヤ人との間に一致がなかった(ミハ氏註 なんで、劣ったヘブライの民、自分たちから支配を受けている民の律法なぞ、守る必要があろうと思っていたとは思う)。これは小さい事ではない。これは、文化的な違いをどう考えるかということでもあり、神学的には重要なことでもあった。そして、パウロは、重要ではないことことに重きを置かないようにと勧めている。パウロは、クリスチャンでもある点において意見の一致ができないことは十分知っていたし、異なる意見が併存することも知っていたであろう。すべてのことについて、同じであれ、とは言っていないことに注目すべきであろう。しかし、様々なことに関しての意見が違いがあっても、キリストにあって、異なる見解を持つ他者を受け入れ合うべきだ、ということを主張されていたのである。


                ローマ書の14章1節は、信仰の弱い人を受け入れよといっている。それは、キリストもその進行の弱い人を受け入れたともいっている。また、神に対しての信仰を持つ人々の相互受け入れをどう考えるかについては、ローマ書の14章3節で語っている。それは、食事規定の故に、他者をあなどってはいけないし、その食事規定の故に、他者にたいして軽々に判断を下し、自己と違うものと判定(Judge)してはならない、といっているだろうユダヤ人は、食事規定と安息日規定を守っていることについて、ローマ人はそれを馬鹿にしてからかっていたのであろう。パウロは、ここで、他者を哄笑してはならんといっているのであり、他のクリスチャンをそんな扱いしてはならんといっているのである。


                逆に、それよりもよい神との関係のあり方を守る(Good Morarity)を持っていない人々でもあるということで、ユダヤ人は異邦人を否定しようとした傾向もあったであろうし、他のクリスチャンたちを見くだしたりしていた部分もあるだろう。その意味で、他のクリスチャンを勝手に気軽に判断し、自己と違うものと軽々に判定(Judge)してはいかんのだ、ということを言っているのであろう。そして、ユダヤ人キリスト者も、キリストが他の民族の人々を受け入れたように、他のキリスト者を受け入れよといっている。
                誰かを拒否するなら、見下すなら、裁いたり、軽蔑したりするならば、それは非常にまずいことで、神はユダヤ人を受け入れたとは言うものの、他の民族は受け入れないと、何故、神でない我々が言えるのだろうか。

                 

                福音が要求していること

                互いに受け入れ合うこと
                互いに受け入れよ、とここでパウロ言っているが、なぜ、そうするのだろうか。個々に見るように、パウロは、必死に何度も何度も相互に受け入れることについて、書いている。なぜ、受け入れあうべきであるのかの3つの理由があるだろう。


                1)我らは神に従うものである

                ローマ書14章1-2節で、神の僕(しもべ)であるキリスト者はお互いに非難しあうことができないとも言っている。なぜ避難し合ったり、難癖をつけ合ったりしてはいけないかというと、それは、同じ主人である神で有る主にともに仕えているものであるからである。同じ神である主の僕(しもべ)であるなら、主のしもべである他者を批判することはできないだろう。なぜならば、神である主が支配者であり、まずもっと神である主に関心を向けるべきであり、さらに、神に向かっていくということを主張しているのであり、何ごとでも、主のために生きておられる神の御前でもまず我らは生きることをが重要であって、他の人がどのようであろうと、他のしもべが生きる生き方はどちらでもいい最重要課題ではないことではないか、と言っているのではないだろうか。

                 

                また、15章の10節で主張しているのは、あなた方、他の人もそうであるが、なぜ、互いにさばき合う(Condemn だめだと決めつけることをする)のか。いずれ、我らは、神の裁き座の前に立つようになるのだ。今、避難し、だめだと決めつけようとしていることが神の裁きの場で問題になるのだろうか。

                 

                多くの教派があるが、ペンテコステ派でも、派手な礼拝をするグループでも、改革派でも、保守的な礼拝でもそれぞれははたして問題になるのだろうか。楽器の種類に関しても、オルガンやピアノまではOKで、それ以外の楽器を用いることがNGということで、それが裁きの場で、問題になるのだろうか。あるいは前千年主義だからだめだというのだろうか。それとも、既に千年王国が起きたと考える人もあるが、これらの概念が裁きの聖座の前で関係するのだろうか。それが問題にならないのに、なぜ、それらのごく小さな違いを、過大評価して、互いにさばき合胃、だめだと決めつけようとするのだろうか。このことを念頭に置けば、無益な議論は無くなるかも知れないではないか。であるのに、なぜ、互いに噛みつき合ったり、いがみ合ったりするのだろうか。

                 

                2)愛による行動のゆえに
                コリント第1第8章の内容とかさなるのであるが、食事規定とのかかわりで考えてみたい。クリスチャンは律法における食事規定について自由にしているのは、そのとおりだが、自由にしているからと言って、他人を脅かしたり攻撃したりする(Offend)自由はないのである。コリント人の手紙では、罪を犯すなら、キリストに対して罪を犯すことになることが触れられている。そして、それは互いに愛し合うというイエス・キリストの基本的な提示に反するのであり、その互いに愛し合うこと、それがイエスの最後の命令の一つではなかっただのだろうか。


                愛試合なさいという指示に対して、罪を犯すのは問題である。

                 

                【口語訳聖書 ローマ書】
                 14:19 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
                 14:20 食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。
                 14:21 肉を食わず、酒を飲まず、そのほか兄弟をつまずかせないのは、良いことである。

                 

                この19節で平和に役立つことを追い求めよう、という表現があるが、パウロがここで使っている言葉は非常に厳しい言葉である。すべての徳を高めることを追い求める努力をせよといっている。そして、平和のために働けといっているのである。


                なお、このことばは、当時のローマの教会に向けられたばかりではなく、あなたとあなたの教会はどうか、を聞かれている。愛することが、教会を立てあげるというミッションにおいて貫ら抜かれているのか、が問われているのだ。ある面、ケープタウン宣言で言っていることは愛を追い求めていくことであると言われている。

                 

                ここで、ケープタウン宣言のp35-37に記載されている1ー9のところを読んでもらいたい。(本文は省略)

                 

                3)キリストのゆえに、キリストに倣うもの故に
                ここで言われているのは、神の民のしもべとなり、互い愛しあうこと、そして行動せよ。そして、キリストに倣うことがを指摘しているのである。

                 

                【口語訳聖書 ローマ書 】
                 15:3 キリストさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。むしろ「あなたをそしる者のそしりが、わたしに降りかかった」と書いてあるとおりであった。

                 

                パウロは、イエスと同じ心、同じ行動せよといっているのではないか。そして、自分自身や他者を喜ばせるような生き方をすべきでないとも言っている。ここで、パウロは詩篇69篇からの引用していることが、興味深い。なぜなら、不正義な人からの不愉快な経験から、不正義や攻撃の中で書かれた詩篇と思われるからである。それは、キリストの経験と同じような経験であったであろう。この詩篇記者は、神の裁きを求めているが、しかし、イエスは神の許しを願っている。

                 

                【口語訳聖書 ローマ書 】
                 15:5 どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、

                 15:6 こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。

                5節では、同じ律法とイエスに似た態度をもて、といってパウロは書いている。もし、キリストのモデルに従うのであれば、キリストとおなじ行動をするなら、おなじ一つの声で歌うことになり、一つの歌を歌うことで、神に栄光をもたらすことができるのだ。この5及び6節は非常にポジティブな態度であることを勧めている。

                 

                もしキリストの模範に従わなければ、なにが起きるのだろうか。互いに協力しあわないならば、キリストの心を持っていないことになるのではないか。同じ歌を歌わないないならば、相手の人々愚弄(Mock)していることになるのではないだろうか。

                 

                福音が導こうとしたもの、すなわち

                神のみもとにすべての国民が戻ること
                福音がどういうことを成し遂げたかをもう一度考えて見たい。そして福音に属しているものを見たいのである。それはすなわち、神が求めておられるものを見たいということでもあるのだ。神はキリスト者の一致と協力関係を求めているのではないだろうか。パウロがしているような形で講演を終わりたい。

                 

                【口語訳聖書 ローマ】
                 15:9 異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、
                   「それゆえ、わたしは、異邦人の中で
                    あなたにさんびをささげ、
                    また、御名をほめ歌う」
                   と書いてあるとおりである。
                 15:10 また、こう言っている、
                   「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
                 15:11 また、
                   「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
                 15:12 またイザヤは言っている、
                   「エッサイの根から芽が出て、
                    異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。

                 


                この9-12節での指摘は、どこに福音が私たちを導くのか考える上で極めて重要である。この部分は、何かをすること(Business)のことでは決してない。この部分は、Missionalであるための理由ガキされていると思うのである。そして、この部分がクライマックスである。福音は、旧約預言の成就である。(ミハ氏註 スコット・マクナイトの『福音の再発見』の冒頭部分みたいである)


                救い主は、イスラエルと、他の民族を神のもとに戻す存在であり、キリストは多くのための犠牲になられた方である。キリストは神の僕(しもべ)としてこの地にきて、そのように死慣れたお方である。父祖たちの約束を実現するため、この地に来られ、イスラエルの僕でもあったが、すべての人の僕となられ、アブラハムの約束の実現された方である。全ての国民が神のもとに戻ることのためにこの地に来られたのである。それがイエスのミッションであった。


                そして、パウロは、そのミッションを思い起こしなさい、そのイエスのミッションは極めて重要なものであると言っているのではないだろうか。ここでは、聖書の4カ所から引用している。四回も聖書を引用して主張しているのであれば、それは、重要なことではないだろうか。


                この部分での四つの引用は異邦人が共通項である。預言、律法、詩篇からいんようされているが、全部の中身が、ユダヤ人を通して神のもとにすべての国民が戻るという約束が触れられているのだ。それこそが復活の日に起きることであり、その日、すべての国民が神のもとに戻ることにあるだろう。ルカ24章はそのようなことに関して書かれているし、今週、そういうことについて、学んだのである。


                旧約聖書のメッセージとはなんであったか 

                旧約聖書のメッセージ、キリストが来られる、そして、苦しみ、その後、復活する。その十字架と復活を通して、すべての国民に悔い改めと和解が語られ、すべての国民が神のもとに戻っていくるということであったし、これを人々に伝えることが大事であろう。スペインまで行けたかどうかはわからないが、そのスペイン行きにあたってローマ書がパウロによって書かれたのである。その異邦人の回復の故に神にイエスはご自身をささげられたのである。その結果、許し合い、和解し調和(Reconcile)して、相互に受け入れ合うこと(Embrace)することを神は求めておられるのである。


                パレスティナのクリスチャンに招かれ、そこを訪れたとき時、メシアニック・ジューの方がいたが、この会議の参加者の中に居られた事があった。その会議の中で、ナディーブというパレスティナ人のクリスチャンも居られた。イスラエルが国家として建設した壁でお互いに分離されていることが、いかにひどいことかと言う話をしたことがあった。ちょうどイスラエルが国家として建設した壁の両側にいる分離された状態は、それはここで読んだ、ローマの協会における分離と同様であり、また、ユダヤ人とギリシア人の分離と類似関係にある。


                サタンは、我々に合うようにいろいろなものをカスタマイズしていく声質を持つものであるが、しかし、神は、我々を神のかたちとして神と一致するようにカスタマイズしたいというご希望をお持ちなのではないだろうか。先に紹介したように、イスラエルとパレスティナのユダヤ人が一致をもたらしえたとするなら、日本においてできないはずはないのではないだろうか。パウロはスペインに行きたかったが、その前にパウロは、ローマの霊的な状態を整えたかったといえるだろう。

                 

                神のもとに戻る機会が日本でも
                日本でも、そのような機会(Oppotunity)があるだろう。悔い改めと和解と、互いを受け入れることをし、そして、協力が起きることを期待したい。そして、それは、今この場所でのコイノニアでも起きているだろう。アナロギアとかプロジェクトでもこれから起きるだろう。そして、これからの7年の内に起きることを期待したい。そのなかで、ミッションにおける一致と協力関係がうまれていくことを期待したい。そして、神のHopeがこの様ざなな人々からなるグループの中にあるだろうし、神の霊の力によってのぞみがあるように祈ります。

                 

                個人的な感想

                このあたりのおはなしをきいていたときに基本的に頭にあったのは、ヘンリ・ナウエンのHere and Now『今ここに生きる』(あめんどう刊)に出てくる車軸の話を思い出していた。車軸に向かってスポークが車輪から伸びるように、車輪の一部から、まず見るべきものは、車軸の中心部であること、そして、車輪がスポークでつながってないと、車軸にもつながれないこと、などなどのメタファーが浮かんで仕方がなかった。

                 

                 

                 

                それと、日本の伝道が教団単位というよりは、米国の教団本部からの支援で当初運営されてきたこともあり、新島襄の時代ではないけれど、その米国本部とか、日本に海外からやってきた伝道師達の意向を無視できない状態のまま今日のキリスト教界の状態になっているのであるし、また、聖書無誤論だとか、福音派の一部の方々が、他の一部のキリスト教の教会群とそこの人々にリベラル派といってラベルを張って、その方々の行き過ぎばかりにあまりに目を向けてしまったあまり、対話の口すら失ってしまって、今に至っているなぁ、という気がする。

                 

                福音派内でのイベントとしての伝道会議

                その意味で、今回、伝道会議と言いつつ、正教会系の人々もはもちろん、カトリック教会、日本基督教団などなどと思われる方の参加はなかったのは、残念であり、ある面、福音派的な人々の同窓会と言った雰囲気であった感じがする。神戸は、実際面で、様々な教派の間のつながりが日常的にあったはずなのに、今回はそれをあまり活かしきれていなかったのは、どうだったのかなぁ、と思う。

                ご尽力された人々への感謝
                とは言え、この準備に携わった神学校の関係の先生方の大変なご苦労、連日連夜の青谷詣を始めとして、非常に大きな負担を追ってくださったのは、傍目に見てて、気の毒なほどであったことをここに記して、深甚なる衷心からの感謝の意を評しておきたい。まぁ、そこまで広げると、収集のつけようもなかったろうし、カオス状態になったと思う。
                また、このイベントのために、声をからし、腰を痛め、背中を痛め、汗を書いた関西の神学校と呼ばれる学生の皆様にも、感謝の意を評したい。
                なお、割と早く、この記録を読まれたい、文字でまとめて読みたいとおっしゃるご友人の方のために通常記事に優先してこの記事を着したが、あと1月もすれば、CGNTVで動画で見ることができるはずである。
                記録は極力最新にメモしたつもりだが、充分でないことも重々ミーちゃんはーちゃんとしては承知している。記録中にMS-IMEの調子が悪くなり、変換文字数が、3文字程度しか表示されない、御動作をする、勝手にアップデートが始まる等々という中での記録であったりしているので、その点はご容赦いただきたい。

                 

                日本伝道会議に関する記録は以上で終わりである。御清覧を感謝したい。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                評価:
                ---
                いのちのことば社
                ---
                (2012-04-05)
                コメント:必読書でしょう。

                評価:
                H.J.M.(ヘンリ・J・M) ナーウェン,太田和 功一
                あめんどう
                ¥ 1,944
                (1997-09-20)
                コメント:大変大事なことが書いてあります。

                評価:
                ジャン・バニエ
                あめんどう
                ---
                (2010-08-20)
                コメント:社会とともに神の平和をもたらすことに関する入門書的存在。

                2016.10.15 Saturday

                京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(講演編)

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                  今日は、先週、京都精華大学で行われた中田考さんの講演会のときの速記録をもとに、その公園結果を可能な限り、再現してみようかと。本当は、ペルシャ語専攻の息子殿と行く予定だったのですが、ボランティア先でやんごとなき事情が出たらしく、結局奥さんと二人で行くことに。スクールバスがあるとのことだったのだが、叡山電鉄は乗ったことがない(用事がなかった)ので、出町柳から叡山電鉄で、京都精華大学までいくことになった。なお、三橋はマイルド鉄ちゃんとも呼べないほどの人間である。

                   

                  可愛らしい叡山電鉄に乗って

                  なんと1両のワンマン電車・・・奥様テンション上がりまくり。私、びっくり。電車に乗って、京都の北西方向に進むと岩倉という地名が・・・おお、あの岩倉卿が蟄居召されておられた岩倉じゃございませんか。昔、500円札のおじさんだった。



                  可愛い叡電 復古型361(これだけで動いてた)

                   

                   

                  内部は、阪急電車そっくりw

                   

                  岩倉具視さん(500円札バージョン)

                   

                  学内向けのポスター(食道前)

                   

                  さすが芸術系学部があるだけのことは、実にわかりやすいビラ。

                   

                  以上京都精華大学構内で。

                   

                   

                  最初、マリ出身の学部長さんからのご紹介が軽くあり、どうもこのアセンブリーアワーというのは、この京都精華大学の見学依頼の伝統でもあるらしく、その講師として時代のカッティングエッジな人達を呼んできているというようなかんたんな紹介があったあと、講演者の中田考さんのご登壇であった。

                   

                  のっけから、自分が書いたレジメをもってこない、中田さんであったがある面、それが中田さんなんだなぁ、と思った。ご自身で、自分はマイクの使い方は下手なので、聞こえなかったら言ってほしい。聞いてもらうことが大事なので、それには最大限配慮したい、ということであった。

                   

                  また、レジメを配っているがこれは、メモ程度であり、これに関わりなく思ったことを喋りたいとおもいます。(ミハ氏註 なんてイスラム的なんだ)。1時間位喋るので、終わってから積極的にフロアからの質疑応答をしてみたい。


                  中田氏の研究のバックグラウンド
                  多くの人にとって、ムスリム=イスラムという認識があるだろうし、それは喫緊の現代的な課題の一つでもある。。私は東大のイスラム学科で勉強。思想系(文学部哲学とか、インド哲学、宗教史学の研究 思想を勉強するしてきたが、私の専門は、イスラム神学やイスラム法学などである。

                   

                  イスラム国のこと
                  イスラム国の事から始めたい。イスラムとか、イスラムとなんとかと言った類の本が出ているが、案外本を書いている人で、イスラム学そのものをやっている人はすくなくて、歴史学の先生や国際関係論の関係者の人が多い。その意味で、イスラム思想を真面目にやった人は居ないので、どうしても見方が偏っているところはある。

                   

                  日本の宗教シーンとイスラムの宗教シーンの違い

                  ところで、現在、イスラムに興味を持つ人は多いが、イスラムについて興味を持っているのか、ムスリムに興味があるのか、わからないまま、議論がされている傾向があるだろう。現実に実際的な問題が生じるのは、ほぼ、イスラム教徒との間であり、多くの人にとって、ムスリムと付き合っていくことで知りたいことがある人が多いのではないだろうか。

                   

                  ところで、日本人の多くは仏教徒とか神道の氏子とか、基本自己申告でカウントされているので、その信徒数を合わせると、日本の国民の総数を遥か超えるし、仏教や神道などの信仰を持っている人がそれぞれ、何人いるかはっきりしないという現状がある。また、仏教徒であると言っても、本当に仏教に詳しい人は、それほどは少ないだろう。パーリ語とか、サンスクリット語で仏教典を読んで、仏教典について議論できる人はほとんど居ないのではないだろうか。

                   

                  ところで、タイやミャンマーの上座部仏教は、生活の中で生きている仏教であるが、日本では、仏教とその思想が生活の中で生きていない事が多いだろう。その意味で、仏教徒でも、仏教がわからない人が多いのではないだろうか。しかし、ムスリムは生きていて、イスラム教は生活の中で生きている存在なのだといっていいだろう。


                  今話題になることが多いイスラム国というものができているが、それは、そういう名前の国が新たにできたということであり、そこに行ってきた日本人は2〜3人しかいないだろうし、私はその一人である。そもそも、イスラム国は出入り禁止であるので、イスラム国から来る人は居ない。でも何かあるとあなたはイスラム国から来たの、と日本人は多くのイスラム教徒に聞く事が多いのではないだろうか。

                   

                  では、信仰としてのイスラム教に生きている人で、イスラム国と自らを名乗っていない国や地域は、イスラム教国ではないかと言われると、それは確かにある意味当たっていて、イスラム教徒が多くいる国から来ている人はたくさんいることは確かではある。日本から近いイスラム教徒の多い国には、マレーシアとか、インドネシアがあり、たしかにマレーシアでは、憲法的にイスラム教国であると宣言しているが、これはイスラム国そのものではない。


                  インドネシアは、偉大なる唯一の神を信じるのが憲法上の国民の義務となっているが、ここで言う唯一の神を信じる人のなかには、イスラム、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥ、仏教、も含まれ、儒教が最近その中に含められるようになっている。なお、インドネシアは、イスラム京都が最大数いる国ではある。

                   

                  また、イスラム協力機構と呼ばれるものがあり、このイスラム協力機構は一種の国家機能を果たすが、OCI Organisation of the Islamic Conference → Organisation of Islamic Cooperationと呼び方が変わっており、この組織は国連にも登録されている。もちろん、サウジアラビアなども加盟しているが、ソ連もOCI に入っている。その辺怪しいところがないわけではない。

                   

                  イスラム的な政治体制とイスラム国

                  本来のイスラム的な政治体制は、カリフ制であり、中世の11世紀くらいからそのままである。カリフという国家元首をいただき、それに従うものが、イスラム国家であるということになっているが、カリフそのものがなくなっているので厳密な意味でのイスラム法上のイスラム国家があるかどうかは怪しい。その存在に様々の問題はあるにせよ、カリフを担いでいる国家であるという意味では、イスラム国が結果として、イスラム国家のかたちに近いかなぁ、というくらいの感じであろう。

                   

                  なお、エジプト・トルコとかは、カリフ制を採ってはいないし、イスラムの国ではないのは、学問的に明らかである。このような情勢の中で、世界中には15億人くらいのイスラム教徒がいる。その意味で、イスラムの理念と現実は別のところになっている。

                   

                  正しいイスラムとは?

                  日本にいるとわかりにくいのは、正しいイスラムとは何か、ということである。どうすれば正しいイスラムがわかるのか、というと、正解は実はわからないというのが正解である。正しいイスラムがどのようなものかをわかろうと思えば、どうすればいいかというと、何らかの権威に頼ることを普通の人は考えることだろう。学説が分かれた時に、大学の先生に聞くというのは素人が良くすることではあるが、文部科学省認可の学校で教えてもらえば、何らかのお墨付きの見解は一応は聞かせてもらえるので、その意味ではある面、正しいといえるかもしれない。キリスト教であれば、中でも、カトリックであれば、ローマ教皇が言うところや公会議で決められたものであれば、正しいと言えるだろうし、教会連合のような一種の組織の声明文があれば、その見解は一応は正しいと言えるかもしれない。この公会議に当たるものは、宗教者会議という性質を持つものであり、それが現在の社会の中では一種の権威の源泉となっているのである。

                   

                  ある人が言ったら正しいとか、正しくないとか言うことはできないと言える。その意味で、何が正しく、何が正しくないのかについては、神だけが知っているというのが、イスラムの思想であるといっていいと思う。これを聞くと、なんといい加減なことかと思うのは、それはそれで仕方がないが、単純にそうとも言い切れないのではないだろうか。

                   

                  標準化されたイスラムの宗教儀礼

                  例えば、戒名とかお墓のことに関して、まともに喋れる仏教徒が言えるかというと、それはそんなにおられないのではないだろうか。仏教徒に、礼拝のやり方がどんなものかを聞いても、色々宗派ごとに違いが有りすぎて、決まっていないといえる。しかし、もしイスラムに聞けば、教義の正式の決定機関はないとはいうものの、イスラム教徒なら誰に聞いても、礼拝のやり方は決まっている。

                   

                   時間も決まっている。カーバーの方向に向って、立って、お辞儀をして、地面に膝を付ける形での礼拝をする。唱える言葉も確実に決まっている。イスラム教徒の誰に聞いても概ね同じ答えが返ってくる。イスラム教徒にとっては当たり前だが、仏教やキリスト教徒に聞いても礼拝の仕方も別々。公式の教義を聞いても、バラバラな答えが返ってくるのが、現在の日本の仏教とかキリスト教である。また、服装規定、暦規定が公式の組織がなくてもイスラム教徒にとっては決まっているのである。

                   

                  聖典文書の大切さ

                  なぜ、イスラムは安定的か、といわれれば、それは書かれたテキストとしての聖典があるからであり、それがクルアーンである。また、預言者ムハンマドの言行録、ハディースがあり、それを読めば、何をすべきかがわかるようにできている。したがって、イスラム教徒なら誰に聞いても同じ答えになるし、そうならざるを得ない。これらの聖典を読めば、理解できるようになっているのである。とはいえ、みんなが読めているかというわけではない。その意味で、イスラム教徒にとっては、基本的に正しい教えがあるのである。クルアーンにしてもすべての人が完全に覚えているわけではないものの、何十万単位で、クルアーンを暗唱している人がいて、かなりの教義はこの聖典としてのテキストに従っていると、遡れる人がかなりいるのである。とはいえ、すべてのイスラム教徒は、毎日、常に、教義ばかりを考えるわけではなく、普通に生きている。

                   

                  イスラムと西洋文明の最大の違い

                  では、イスラムと西洋文明の最大の違いは何かを考えてみたい。
                  我々は、現代社会に生きているが、サウディアラヴィアであれ、日本であれ、西洋文明を考え方の基本にしている。ところで、その西洋文明によって、植民地化された地域がある。イスラム教徒が多いムスリム中心の国でもこれらの西洋文明の考え方は、学校教育で教えられていて、現在では、それが主流になりつつあるのである。

                  西洋文明を学校で教えられている国は多く、基本的には、小学校に行ったころから、そのような概念を習っているところが多い。この西洋文明では、自然科学と生活が分離されているのであり、特に科学の世界では、世の中には物質しかない、と分けて教えている。ところが、世の中には、自然科学に含まれえない、人文科学的要素もあるのである。例えば、自然科学には善悪はないし、物理学とか生物学でも人間は対象になるが、人間も単なる物質とその集合であると理解している人が多いのではないか。

                  人間はいずれ死ぬのは決まっているというものの、善も悪もないという概念が西洋文化で支配的であり続けた。もちろん、そうではない価値観も西洋文明の中にあり、ヒューマニズムとか、民主主義とかは存在する。しかし、イスラムによれば、神は物質を作り、善と悪、法とか倫理も神によって定められたと考えている。これがイスラム文明の考え方の特徴である。

                  西洋文明では、心身二元論とか、聖俗二元論などが存在はするが、これは矛盾でしかないのではないか、というのがイスラムの側からの主張である。そして、二元論的な概念構成が諸悪の根源だと思っている。これがわからないとイスラム文明を理解することはできないし、これがわからないとイスラムの異文化性といおうものは、わからないだろう。物質でないもの、自然科学の範囲と人文学の範囲がが分離している。また、はっきり矛盾だ指摘できるものも西洋文明の中にあるのではないか。例えば、国家が勝手に決めた領域国家システムとか、人類の平等という理想などが、その矛盾の例である。

                   

                  領域国家と西洋近代と西洋諸学

                  領域国家に関して言えば、西洋が大航海時代に帝国時代に進出(進出された方は侵略だと思うのだが)する中で作り上げられていった概念であり、状態なのではないだろうか。また、西洋人は、人類の平等を言うものの、他の世界を知った時に、3つの段階に人類を分けた。それは、文明人(西欧のみ)と、劣等民族と未開人であり、その3つのグループに分けて考える習慣がある。文明人の対象の学問が、社会学や経済学であり、西洋人ではないが、高度な文明を持っていて、実際に社会を運用する力もあるが、ちょっと劣っている劣等民族があり、それ対象の学問がオリエンタリズムであり、その範疇に入らないものが、未開人であり、その研究分野が人類学 民族学である(ミハ氏註 これはわかりやすい学問累計の仕方であると思った)

                   

                  西洋文明が最初から進んでいたようにみえるが、インド(ムガール帝国)などや、中国などが、かなりの時期軍事、経済で優勢であった時代もある。(ミハ氏註 西洋文明の自然科学は、ギリシアで始まったが、中世では壊滅的状態になったのであるが、イスラム世界に冷凍保存されたギリシアの哲学や数学や自然科学が、ルネッサンス期に逆輸入されて、西洋でメジャーになったのである。数学などでのアラビア都の関わりは、皆さんが普段計算機でお使いの数字は、アラビア数字と呼ばれてないだろうか)西洋人は、人権とか人類の平等を言ったが、文明人に限った話であって、そうでない人は、人権も与えられないし、西洋人の奴隷として使われただけである。

                   

                  ところで、第1次世界大戦で、西ヨーロッパがお互いに殺し合って自滅したし、ほぼ自壊しても先進国出会ったから、なんとか持ったのであるが、第2次世界対戦後、民族自立ということで、植民地が列強が引いた国境を許に、どんどん独立していくことになッタ。そして、領域国民国家システムはそこに人や民族を閉じ込める牢獄の役割を果たしたのではなかったろうか。


                  その結果、アラブ世界などでは、人が領域国家を超えて移動できなくなっていった。本来、人間は好きなところにいる権利があるはずであり、どこに居ても、どんな人でもどこかに居てもいいはずなんだけど、それが許されない世界が生まれ、それが、第2次世界対戦後固定化され、現在の世界ができたのである。

                   

                  イスラム国と西洋文明の矛盾

                  この矛盾を顕在化させたのが、イスラム国である。そもそも、もともとは、イラクのイスラム国であったものが、シリアとイラクのイスラム国となり、つい、2年前にイスラム国を名乗ったに過ぎない。諸悪の根源は、サイクス・ピコ協定であり、それが、現在の国際秩序の国境を作ったのであるが、それを破壊して、挑戦したのがイスラム国であるといえる。

                   

                  シリアに行くと、確かに国境がある。とはいえなおイスラム国の中の多くの部分では、過去の経緯もありシリア・リラというシリアの通過、イラク・ディナールというイラクの通貨が流通しているが、独自発行している金貨も流通し始めている。

                   

                  難民の流出の構造

                  国境を外して、イスラム国ができたのであり、西欧文明の矛盾を国境を否定することで否定しようとする動きであるといえる。イスラム国が原因で、難民が発生したと主張する向きもあるが、難民の発生は寧ろシリア政府によるものであり、シリアの内戦の結果、30万人が死亡しているが、そのうちの90%がシリア政府による殺害事件(内戦)といって良いだろう。イスラム国の攻撃によって難民が逃げているわけではない。

                   

                  いまイスラム国が空爆されている。ロシアやシリア政府ほど、アメリカ人は非道ではないので、意図的に民間人を殺してないという側面はあるものの、指導者であるムジャヒディーンは民間人と暮らしているので、それだけ攻撃するわけに行かないので、どうしても民間人が犠牲になり、大量に死んでいるという側面はある。その意味で、領域国家制度から脱出しているというのが現在の難民の構造であり、2000万人のうち、シリアから出ているのが、400万人ほどである。

                   

                  逃げらるのであれば、600万人くらいの人が逃げたいと思っているようであり、それを、塀や鉄条網を作ってトルコは防止しようとしている。塀を作って逃げるのが、留められていてなくなっているのが現実だろう。合法的に他国に脱出できないので、漁船や小型船でまともに操船技術のない人が操縦する船で地中海を渡って密入国しようとして、沢山の船が沈んで人が死んでいるのである。こういう非人道的なことが国境があることで隠されているのではないだろうか。


                  人権があるという建前で西洋世界は生きてきたが、シリアとかイラクとか、アジア・アフリカ諸国を西洋諸国が無理矢理に抑圧してきただが、それが制度として機能不全を起こし始めてきたのである。

                   

                  先進国の分裂
                  新自由主義、グローバリゼーションがアメリカを始めとする多国籍企業を利するような流れとして語られ、それに向けての流れが生まれてきたが、一国ではこのグローバリゼーションの流れに太刀打ち出来ないので、地域ブロックで対抗しようとする動きが見られている。

                   

                  対イラク戦争のとき、ブッシュは「テロとの戦い」とよんで参戦国を募ったが、そのアメリカの呼びかけに対して、ヨーロッパは拒否している。それは、ヨーロッパが世界の中心になろう、ということで生まれたのEUであり、ヨーロッパは米国の戦争に巻き込まれることに抵抗した。つまり、テロとの戦いというのは、単にアメリカが攻撃されただけなのに、ヨーロッパ世界がアメリカの戦いに巻き込まれようとしたと見えたのであろう。実際、フランスとドイツは反対しているし、古いヨーロッパは軒並み反対したが、唯一イギリスが巻き込まれて、戦闘することになった。(ミハ氏註 当時のイギリス首相 トニー・ブレアの顔つきからブッシュのプードル Bush's Poodleというあだ名もあったらしい)

                   

                   

                  我々からすれば、西ヨーロッパというと、アメリカと西ヨーロッパは同じ文明圏に属すると考えるが、地理的にも文明圏的にも違うのである。実際、イギリスは、大陸諸国と戦い続けてきたし、その中で、かなり独立を保ってきた。アメリカとイギリスとヨーロッパを合わせた法律の体系は現実に存在しないのである。その意味で、イギリスのEU脱退は大きいかもしれない。

                   

                  ローマ帝国は分裂しているが、欧米と読んでたものは、西洋プラスアメリカであったが、それが2つに別れ始めている綱引きの時代が来ているのではないか。西ヨーロッパの大陸諸国と、英語を話すイギリスおよび北米国家とに二分化しつつあるのではないだろうか。

                   

                  文明の生態史観
                  梅棹さんの歴史の世界観であるが、これによれば今までは、西欧の世界システムが世界を覆ってきた。その生態史観によれば、ロシア帝国が再建されたの形がソ連であろうし、地中海イスラム世界の巨大帝国の再建を考えているのがイスラム国であるとも考えられる。また、これによりイスラム文明系の再生がなされるのではないか。

                   

                  これを世界システムと読み起こしたのが、田中明彦さんの『新しい中世』の理解である。いま、ウェストファリア条約世界の弱体化が起きており、多国籍企業は主権国家を超える時代が起きている。

                   

                  この種を研究したのが、トインビー(歴史家 歴史の研究)であり、そのなかで、これまでの世界では、自分で作ったものの奴隷となり、結果として選択の自由を失うのではないか、ということを指摘している。つまり、システムという偶像を作っているのではないか、これにより、かつてあった文明を滅ぼしたし、そして、その自分が作ったものにより西洋近代が滅ぼされることになるのではないだろうか。

                   

                   

                  次に、国民国家ということについて考えてみたい。キリスト教が西洋の宗教とい割れるものの、キリスト教の神に頼らず、国民国家というものに現在は頼っているのではないか。そもそも、神にも人類にも頼ってないのではないだろうが。言い換えると、現代人は、国家しか信じてないことになろうし、また、教会は信じてもいないのではないだろうか(ミハ氏註 N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』を思い出した)

                   

                  イスラムは、この西洋近代が作り出したものの解毒剤になる可能性がある。トインビーは、現代の人類文化に貢献できるものは、アルコールの撲滅であり、プロレタリアートの生活を壊すものがアルコールであることを考えると、このアルコールの毒と戦うのには、イスラムがいいのではないか、といっている。また、ナショナリズムも、民族や人種による差別を生み出した。これは、イスラムが解決の一つになる可能性があるだろう。そして、ナショナリズムの台頭は現在進行形で世界で起きていることなのではないだろうか。

                   

                  日本からは理解できないイスラム世界

                  日本でも、現在、国家意識が高まっていていて、その主体である国民や個人が国家に集権的に扱われている状況になってきているが、これと戦うためににイスラムがあるように思う。イスラム国は、このコンテキストで考えないとわからないだろう。ウェルベックという人が書いた金未洗い小説がいま、日本語で翻訳されている。そもそもは、フランスで出版された時に、シャルリー・エフドという雑誌が出版された頃に、ムスリム候補がフランス大統領になるという近未来小説を書いたのだが、この本がものすごく売れた。この本は実在の政治家の名前が入った近未来小説であった。

                   

                  そして、政治家になるイスラムが現れるのが、近々、フランスだけでないと指摘している。要するにイスラムの候補が何を考えているかといえば、ローマ帝国の再興、或いは地中海世界の再興を考えているというのがストーリーラインに流れている。


                  今の北アフリカとか中東の領域は、ローマ帝国の領域であった。それらを統一するのは、ヨーロッパだとかんがえられてきたのだが、地中海圏域を作ることをイスラム世界の候補は考えた。地中海世界を作れば、ヨーロッパをもう一度、強くでき、アメリカのグローバリゼーションによルシ杯を、地中海世界という地域でブロック化していって対応する。地中海以外にも、イランからバングラデシュ、マレーシアとかもあるけど、地中海的なイスラム世界の再建を目指していくという考え方である。(ミハ氏註 これをやろうとしたのが、北アフリカ出身のハンニバルである。将に、ハンニバルRevisitedを絵に描いたような近未来小説らしい)

                   

                  カルタゴ(古代北アフリカ)の将軍 ハンニバル

                   

                  一番のインセンティブは経済である。地中海世界を巨大の生産拠点にして、経済が回れば、ロシア&東欧ブロックやアメリカにも対応できる経済圏ができるということをぶち上げるという小説らしい。(ミハ氏註 経済的ハンニバルの再現である)

                   

                  文明の再編
                  文明の再編を考えてみたいヨーロッパと英米に別れるだろう。米を中心とする英語圏がヨーロッパ文化権と対決している構図に見える。アメリカとイスラム世界が対立しているのは、911以来であり、また、現在、アメリカは、ヨーロッパそのものと対抗しているよりも、中国ーロシア連合ととの対立に移りつつりつつあるように思われる。

                   

                  トルコ民族の紐帯

                  新しい対応、世界の動きを考える上では、スンナ派ベルト イランからアジアにかけてのベルトは重要だし、チュルクベルト(トルコ民族の分布地域)は、中国の北部から始まっている。今のトルコは、中国北部からの遊牧民が西に流れ着いて、トルコにいる遠いう状態のナノである。東の領域の境界が、ウィグル族。新疆自治州あたりであるし、このあたりの民族は、チュルク系の言葉を使っている。言語的には、東京、大阪ほどの差しかないげんごであり、相互の言語で、しばらく話していると理解できるようになるレベルである。タジキスタンとかは違うが、トルコ系の民族がつながっているという現状は抑えたほうがいいだろう。その意味で、スンナ派のベルトがある。

                   

                  セルジュク・トルコは、19世紀までは、スンナ派のカリフと一緒にトルコ人がイスラム世界を守ってきたという自負がある。その意味で、トルコ人たちが軍事的に指導的立場につくという概念があって、それがイスラム国と対立しているのである。そして、ウィグル族を始めとする民族問題で、トルコと中国が対立していて、中国の問題は、チュルクベルトにいるトルコ系住民との衝突であることである。

                   

                  また、タタールのくびきということもある。その対立の背景に、オスマン朝とロシアの戦争の継続という側面がある。ある面、ロシア正教文明と中国文明、トルコ系の文明、ヨーロッパ文明、英米文明が現在世界的に綱引きをしている状態であり、その中心部にトルコが有り、その中にシリアと地中海世界があるという構図である。(ミハ氏註 こういうのを地政学というのだと思う)

                   

                  変わる世界と日本
                  これまで、日本はあまり巻き込まれないで済んできたが、いま、安倍政権がトルコに原発を輸出しようとしたり、イスラエルに武器売ろうとしていたりしていて、アメリカにくっつい探湯で、軍事行動する中に日本が巻き込まれていく世界ができつつあるのではないか。日本にいると直感的に理解し難いが、一歩日本を出ると、肌でこの辺りのことを感じている人は多いのではないだろうか。
                   

                   

                   

                  質疑応答と、感想は月曜公開します。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  評価:
                  田中 明彦
                  日本経済新聞社
                  ---
                  (1996-05)
                  コメント:非常によろしかったです。今の技術社会を考えるための基礎となります。今となってはちょっと古い部分もありますが。

                  評価:
                  N・T・ライト
                  あめんどう
                  ¥ 2,700
                  (2015-05-30)
                  コメント:絶賛おすすめ中です。

                  2016.11.07 Monday

                  教会の情報発信についての動画の紹介

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                    今日は短めの投稿である。

                     

                    いのフェスというイベントで

                    先日名古屋で行われたいのフェスというイベントで、大変、面白い講演というかワークショップがあった。それは、教会の情報発信のお話があったらしい。動画がツィキャスで公開されているので、必要な方はご覧になったら良いと思う。画像はよろしくないが、音声はそこそこきれいである。

                     

                    教会のチラシやホームページあるある

                     この講演を聞きながら、思ったことを書いてみたい。まぁ、この種のことは、八木谷涼子さんの『もと行き』こと、『もっと教会を行きやすくする本―「新来者」から日本のキリスト教界へ』という書籍で書かれていることではあるが、この講演で重要なことは、教会について、どのように伝えるのか、ということをかなり明確に、具体的なホームページやチラシという素材をもとに、陥りがちなミスをご指摘されていたことである。

                     

                     深井先生の『神学の起源: 社会における機能 (神学への船出 (03)) (シリーズ神学への船出)』ではないが、キリスト教界が市場化してしまって様々なタイプの教会が社会に存在する現代のアメリカ、そして、日本のキリスト教会の中にあって、それぞれの特性があり、静かな教会もあれば、賑やかな教会もあり、その中で、自分たちの教会をどう伝えていくのか、という現実的な問題があり、そのための方法としてのチラシやホームページがあるのだけれども、それがどうもうまくないことが多い、ということも虚心坦懐にご説明であった。

                     

                    まぁ、ホームページを作らなきゃ、って、HTML言語などを覚える前に、まず、自分たちが出したい情報、知ってほしい情報、どのような内容をどのような表現で伝えるのか、ということがまず第一なのだが、そこから、まず理解するためにも、デザインの基本を何処かで学ぶか、本で学んだほうがいいと思うことが多い。

                     

                    イメージ先行狙ってません?それってNGみたいですよ

                     よくある、大企業のCMのようなイメージだけが先行型した広告のあり方は、ある程度の信用があり、その組織が持っているコンテンツが知られている組織や人には有効だが、「教会ってなんですろ〜〜〜、なにそれおいしいの?」という人や、殆どの教会は、そこの教会人が自分で思っているほど有名でもなく、内容が知られてないという状況下において、「イメージ先行、ってどうなの?」ということらしい。内容を知らないという人が多いという現状に鑑み、イメージ先行ではなく、テキストを中心としてきっちり伝わるようにする説明的なチラシなどのほうが効果的であるとか、イメージ先行の画像ばかりのチラシやサイトでは、伝わらないのではないか、と言った至極まっとうなご指摘があった。

                     

                    イメージが先行するマンションのチラシの例(周囲の環境が表現されてない・・・w)

                     

                    Daigoやピコ太郎ではあるまいし

                    あと、教会では意味不明のアルファベット3連文字列とか、(JEAとかJECAとかKGKとか、JCEとか・・・未だに、JEAとJECAの区別がつかなくて困っているが、あるていど詳しい人によると、その区別も微妙・・・らしくて、あまり気にしなくていいらしいw)が多い。DAIGOやピコ太郎ではあるまいしとも思う。

                     

                    3文字単語で有名なDAIGOくんによるKSK(結婚してください)

                     

                    最近話題の、あの4文字音楽

                     

                    言いたいことを書くのではなく、

                    相手に向かってきちんと伝えよう

                     あと、チラシやホームページの文言には、その教会の雰囲気が文章で説明的であるほどよいこと、読み手にきっちりと伝わる内容であることがあること、また、その教会の雰囲気や考えが読んだだけでわかるような内容が望ましく、また、その文言は、自分の立場からの発言ではなく、読み手、閲覧者の立場に立ったものであるほうが良いことが指摘された。特に、また、講演会などのチラシでの講師紹介にしても、外部の人にとって意味のないなんちゃら3文字単語の代表とか、外部に意味不明の経歴や、他にわからない学歴などの経歴をダラダラ書くのではなくて(まぁ、ほとんど、教会外の人にとっては「何それおいしいの」である)、聞いてみようと思わせる表現にするとか、その辺も工夫したほうがいいかもね、という指摘があった。

                     

                    また、写真は素人がとっても良いけど、撮影するなら、片付けてから写真を撮ったり、どうせなら、プロの写真家に頼んでみるのも一つの方法であるとか、というかなり実践的な内容が触れられていた。

                     

                    テキストの伝える力

                     案外、テキストは、その人の雰囲気が出ることがあるし、そのような文章のほうが、相手にきちんと伝わることもかなりあるので、画像中心のものよりも、案外テキスト中心の方がその教会の雰囲気などが伝わるかも、という話があったりした。そもそも、興味を持っている人しか、テキストはどうせ読まないので、そのチラシやホームページを読んでいるということは、そもそも、そのサイトに関心があるから読んでいるのだから、テキストは伝える力が強い、ということなのだろう。

                     

                     この話を聞きながら、ここまでくどく長いテキストだらけのサイトを読んでくださる方が案外多いので、書いている本人のミーちゃんはーちゃんが驚いている。あまりに長いので、音声化しないのか、といってくださる方が居られたので、「それ、書くだけでもかなり大変なので、音声化まではとてもとても」とお断りしたのだが、「それでも音声のほうがありがたい」ということであったので、「ちょっと音は変ですが、”ボーよみちゃん”(http://www.vector.co.jp/soft/winnt/art/se475579.html)」というのがありますが・・・とご教示したら、結構愛用しておられるらしい。

                     

                    まぁ、プロテスタント教会は、どちらかと言うと、文字を読むこと、文字で伝えることにこだわりがあリすぎるくらいこだわりをお持ちの方が多く、「もうちょっと文字だけじゃない世界もあるんじゃないの?」と思うところもあるが、まぁ、その意味で、プロテスタント教会らしく、文字を効果的に使うという事も考えたほうがいいのではないか、と思った。

                     

                    技術的な面でのヒント

                     他のヒントとしては、これからの時代、病院でも、スーパーでもGoogleで検索して行く時代になっていることを考えると、Webサイトを持たないってことはどういうことを意味するかを考えた方がいいとか、教会のホームページを作成するにあたっては、現在、携帯、スマホ、タブレットと言った多端末対応して置くことは必須になりつつある、ホームページ作成に凝りすぎて、サイトごとにメニューの位置を変えるのはまずい、と言った、ウェブデザイン業界では常識になっていること、携帯やスマホではデザインが崩れて見られたものではないサイトが有るのでは、とか、Google Analyticsをいれて、サイトの動きをモニターすることが大切とか、SEO対策のコンサルとかしている業者もあるけどそれより先にすることがあるのでは、・・・といったようことが話題に登っていた。

                     

                    なお、某福音派系のクリスチャンなんとかという紙メディアの担当者の人に2年くらい前に今のWeb技術についてお話した時に、営業というか記者の人だから仕方がなかったのかもしれないが、Google Analyticsの結果を御清覧いただいた時に、「え、ここまでできるんだ・・・個人で」ということを驚いておられたのである。そもそも、紙メディアの一部をデジタル化して、ウェブサイトで表現しているにも関わらず、自社製品である出版物のリンクを記者に貼らせるのはどうか・・・というご発言にも驚いた。単にリンクを貼る、という作業なのだが、そのことが大変だと思いこんでいた関係者の方から発言が出たのにも、日本のキリスト教メディアがホンマにメディアミックスをほとんど考えてないし、感性が低いなぁ、と思って絶望的で暗澹たる気持ちになったことがある。実に残念な限りであるし、宗教改革以来499年の印刷物への異様なほどのこだわりを見てしまった。ルター先生ではないが(そこまでの神学的蓄積はない)、第2宗教改革として、ウェブ時代の宗教改革やってしまおうか、と思うほどである。

                     

                    でも、この辺のことは、MdNという雑誌とか、そこが出しているMook本とか、本当は、そういうものをある程度読んで、きちんと勉強した人を教会内で育成するほうが、賢いような気もした。というのは、こういう作業は、ちょっと感覚があれば直ぐにできるし、そんなに難しい作業では既になくなっているのだが、それを外注に出してしまうと、外注に出した先でしかできないとか思い込んでしまう方々がおられる。まぁ、ご講演された方のビジネスにとっては外注作業が増えれば増えるほど、お仕事が増えるのでいいのだが、それでは、緊急対応ができないなど、色々不具合もあるというのは、思う。

                     

                    なぜって?この辺の仕事をタダで年に数回外注してくる人とお付き合いして居るからである。

                     

                     

                    なお、講演動画は、こちらで見られます。画像は悪いですが、音声は比較的聞きやすいです。

                     

                     

                     

                    教会とホームページ 2

                     

                     

                     

                     

                     

                    しかし、キリスト教業界だと、こういうことを言っているところは、キリスト教メディアでもあるようなきがするなぁ。

                     

                    私たちは、私達の教会をマーケティング分野で手伝ってもらう必要はありません。なぜなら、私たちは、完全にマーケティングをすることができるからです(単にやってないだけ、と言いたそう。その割に看板には必要なことが何も書いてなくて、草は生え放題だし…)

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    評価:
                    八木谷 涼子
                    キリスト新聞社
                    ¥ 1,620
                    (2013-11-22)
                    コメント:まぁ、相手目線に立つということを考えたほうがいいとか、指摘している。すべての教会に必要だというわけではないが、考えるヒントはあるように思う。

                    評価:
                    深井智朗
                    新教出版社
                    ¥ 1,944
                    (2013-05-31)
                    コメント:大変良いと思います。教会が市場化している現代のキリスト教という現実を考えるヒントになります。

                    2017.03.04 Saturday

                    大斎の意味 という大阪ハリストス正教会での講演会に行ってきた

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                      2017年2月26日に大阪ハリストス正教会で実施された、大斎(おおものいみ と読む)の意味と題された松島司祭の講演会に行ってきたので、今日はちょっとご報告してみたい。以下、わかりにくい点、あるいは、間違いがあるとすれば、当日現場で速記をとった、ミーちゃんはーちゃんによるものである。

                       

                      大斎(おおものいみ)の開始日に

                      講演会に参加させてもらった日が、乾酪(かんらく)の主日ということで、正教会の伝統では、この日が大斎の開始日に当たる主日である。西方では、灰の水曜日からレントが始まることになっているけれども、正教会ではこの日から始まる。なお、この乾酪の主日には、チーズや卵類を食べつくす主日ということになっている。(ミーちゃんハーちゃん註 その日はたまごサンドイッチがお昼ごはんに出たらしい)

                       

                      イースターの期間に向けての準備期間
                      この大斎の機関は、復活大祭(イースター 以下イースター)に向けて、心と体の準備をするための時間といえるだろう。復活祭への心と体の旅として覚える日々でもあるといえ、この時期は、一種の神との関係を深めるための特別強化月間ともいうことが言えよう。イースターの時期から始まる特別祝祭期間をよりいっそう深く味わうことができるように、より明るいものに変えるための準備の機関であり、イースターから、その前の7週間は司祭たちは黒い服を着る。その意味で、ある種の服喪期間であり、日本風に言えば所謂精進の期間であるとも言えるだろう。

                       

                      大斎とは、もともと、初代教会でのイースターを迎える前の断食は短い期間で行われたものだった。それが、次第に長くなり、4世紀には現在の長さになった、と言われている。また、この時期は、伝統的に復活祭にバプテスマを受ける人々へのカテキズムを学ぶ最後の期間となっていた。また、伝統的に断食を通してキリストの十字架とその復活の意味と受洗の前の教育で受けた内容を思い出す期間としても利用されていた。(ミーちゃんハーちゃん註 このあたりは、赤木善光さんという方の『宗教改革者の聖餐論』の中でも触れられていたように思う。)

                       

                      函館ハリストス正教会の大斎期間の写真 http://orthodox-hakodate.jp/info/2586.html から

                       

                      強制ではない大斎の断食
                      大斎の平日は、魚を含めて肉を食べない期間であり、乳製品や卵もとらない期間となっていた。なお、土曜日日曜日は、アルコールを取ることが許されるとされている。そのように食事帰省を守るかどうかは、本人の意志と主体的関与に関する問題ではあり、なお、教会ではこれが伝統であるということは言っており、決して、信徒に強制しているわけではない。授乳期間や、施設生活をしている人々は、例外となっているという側面もある。

                       

                      キリスト教会では、もう最近は、食べ物の節制ということは、あまり話題にならない。西方では、もっと言わないようになっている。カトリック教会では、以前ほど食べ物のことは強調されなくなっており、この節制の代わりに、レントには愛の行い、隣人愛の行いが勧められる事が多く、西ヨーロッパで成立したキリスト教では、レント期間であっても、それ以外の普段の生活とあまり変わらない生活になっていることが多いのではないだろうか。なお、カーニバルは、レント前に肉を食べつくすお祭りとして残っている。西ヨーロッパとかアメリカでは、カレンダーに四旬節と小さな文字が付いている程度、としてしか理解されてないことも少なくない。

                       

                      とは言え、正教会を含む東のキリスト教においても、濃度の違いで、その伝統の守られ具合に濃淡があるのは同じである。以下、正教会が辛うじて伝えてきた大斎の意味を考えてみたい。

                       

                      精神的なおすすめに変わる背景とその問題
                      食べ物の制限が守られないなら、せめて、聖書通読をすることや、病者への訪問することや、あるいは、テレビを見ないと行ったような、善い行いをすすめる事があるのだけれども、それで本当にいいのだろうか、と言う側面がある。食べ物の制限を通した、身体的な実践が精神的なもので埋め合わせができるとしているとしたら、それは精神が身体に優先していることになり、正教会の伝統とは少し違うと言わざるをえないのではないだろうか。

                       

                      イカ・タコ・エビはOK?
                      この大斎の期間は、タコやイカ、エビやカニは、普段の食事で食べていい事になっている。この部分の食物制限がない理由の背景には、ユダヤ教の伝統との関係から考えられるかも知れない(ミーちゃんハーちゃん註 ユダヤ教の食物規定では、これらはNGであるとされている側面はある)。肉体よりも霊的なこと、精神的なことが優先されていることが問題になっているように思われる。イカ・タコ・エビを食べて良いとするのは正教会の修道会の歴史のなかから生まれたのかもしれない。確かに、実際、青みの魚を食べることで、妙にエネルギッシュになってしまう修道士達が生まれたことなどもあるのではないだろうか。


                      肉体と精神の関係は本来一つ
                      精神よりも身体性が重要だということが強調されることはあるのだが、本当にそうなのだろうか。確かに、このようなことを考える根拠聖句として、「人は、パンのみにて生きるのではない」という聖書記述があるけれども、「パンなしで」とは聖書は言っていないことはもう少し考えたほうがいいかもしれない。そこでは、精神と肉体との対立の思い込みが、このような精神の肉体に対する優先というような読みの中に隠れている、入り込んでいるのではないだろうか。

                       

                      もう少し言うならば、この考え方の背景にあるのは、霊の世界は善であり、物質世界は悪という思い込みがあるのではないだろうか。あるいは、肉体的なものは悪、偽りであり、霊的あるいは精神的なことは永続的、という思い込みもあるかもしれない。その意味で、この大斎の機関は、我慢する力をつける、精神の向上を促すためのものとして大斎が用いられてきたのではないか、と思う。


                      正教会での食べ物の理解
                      正教会の食べ物理解を考えたい。キリスト教では、人間は神によって創造されたのである。神は人をどのようなかたちにでも創造でき、人間という存在をかなり自由に規定させることができたはずである。極端な話、人間が太陽光で光合成して食べ物を必要としないかたちで、創造することもできたはずであるが、そうではなく、食べ物をなぜ、人間が必要とするように創造されたのだろうか。

                       

                      ある家庭集会で、そのような話をしたときに、ある子どもが、「ごはんを食べるように作られたのは、ごはんが美味しいから」と言ったことがある。これは、正教会的には正しい答えである。ある面、神様は、ごちそうを人間に毎日食べさせたいから、そのように創造された、とも言えるだろう。

                       

                      正教会的には、物質の世界と霊的な世界は、密接に結びついているところがある。物質の世界と霊的な世界は本来一つであったが、人間が、本来一つであり、同じことだったものを、別のものとして扱うようにし、対立的な関係として扱わねばならなくなった。例えば、エデンの園のものは全て食べていい、と神はいっておられる。エデンの園では、感謝と喜びで食べ物を食べることができた。その意味で、エデンの園の状況は、神が「良かった」と言われているように、エデンの園での、神と私達と食べ物の関係は非常に良かったのであった。

                       

                      クリスマスなどが典型的だが、クリスマスにしても誕生日にしても、プレゼントは物質ではあるが、プレゼントそのものが、その送り主を示すことがある。

                       

                      象徴そのものではなく象徴が指し示す実体が重要
                      象徴といった時、象徴としてのもの、記号ではなくて、現実という側面がある。象徴とは、本来触ることができないものについて、この地上で現実化したのとして目に見えないものを指し示しているものが、象徴ということではないだろうか。象徴とは、真実を感知するための認識の手段だけではなく、認識そのものが実在に関与するためのものであるように、象徴は、目に見えないけども存在するものに関わるための手段であり、象徴があるところには、象徴しているものが実在するという理解が正教会の伝統的理解である。

                       

                      宗教改革期に、シンボルという語の使い方が、ないものを指し示す記号と理解が変質してしまったように思われる。象徴とは、神のみ思いに関与することとか、神のみ思いに、あるいは神の世界に、人間が参与するための手がかりの様なものであると言えよう。

                       

                      キリストの冒頭の二文字を示すシンボル  http://glasshousetheology.com/christian-symbols/ から

                       

                      象徴(シンボロン)とは 触る世界、モノの世界についてもも言えて、感覚でも知性でも捉えることのできないものを、絶対的な他者である神からプレゼントされたものといえるだろう。この世界は神からのプレゼントであったのではないだろうか。その意味で、食べ物を神が与えられたものとして体験して味わう世界があったはずである。神が人の使命として食べるようにされたとも言えるだろう。食物を食べて喜ぶことを人の喜びとするように、与えられたのが食べ物であり、そして、食べることで神に感謝して生きる生き方が、人間の創造されたときの本来の生き方であるといえるのではないか。その意味で、食べ物と霊的なことと一つであると思う。あるいは、食べるということが神との交わりの一つであるとも考えることができ、神から与えられたものを食べるということと生きることは一つであると考えることもできるだろう。ある面、人間は、この世界を食べて生きているのであり、神の被造物世界を取り込んで、人間は生きているとも言えるだろう。人が失ったのは、食べ物を神からの贈り物として受け取るという関係性だろう。その意味で、食べる場を神との交わりの場とするのではなく、結果的に、食べることを生存や快楽の手段とするようになった。

                       

                       

                      被造物の世界を横領し、簒奪した人間
                      人間が神からこの世界を横領して、切り刻んで、扱えるものにしてしまったものが近代と言えるだろう。食べることは肉体維持の手段になり、霊的精神的なことが神との交わりの手段になってしまった。それは、人間が被造物の世界を神から横領してしまったことになるのではないだろうか。(ミーちゃんハーちゃん註 スコット・マクナイト著『福音の再発見』では、人間が神のみ座の簒奪者になってしまった、という表現が出てくる。)

                       

                      キリスト教の中にも聖書、霊的なことだけを神からの啓示の唯一の手段としてしまう。パンとぶどう酒での聖餐式、聖体礼儀は受難の記念として実施しているに過ぎない、とする人々もおられるようだが、ハリストス(キリスト)が成し遂げたものは、ものの世界と、失われてしまった、神と人が交わる生き方を回復することであった。

                       

                      イエスは、ご自身をとって食べよ、とおっしゃった方であり、更に、盃を差し出して、これをとって飲めと差し出されているお方なのである。食べることの新しい意味を示された方であったのである。新たなる創造の世界を知らせようとされたのがイエスだったのである。その意味で、キリストの復活は新しい回復された世界を指す。この世界に生きることは、それ自体神との交わりの世界であり、生活そのものが、行きてこの世界に生きることが神への賛美であり、礼拝であるという生活であるといえるのではないか。それを、教会という神の国の先取りをした場で実現しつつある、と考えるのである。(ミーちゃんハーちゃん 註 なお、このことも、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の礼拝や祈りのあたりの話として触れられている。)

                       

                      教会はイエスご自身のお体でもあり、その意味で、教会は、キリストの御体として、ご自身の体を差し出しているはずである。ちょうどエデンの園で、神ご自身がエデンの園のどの木から取って食べても良い、といわれたことが教会で再現されているようにさえ見えるのではないだろうか。正に、教会は神ご自身の体と血、神ご自身の御体になっている、と言われているのではないだろうか。

                       

                      領聖生活とは、聖なるものに領る生活であり、聖なるものを大事に味わって生きる生活である。我々の現在の日常生活は、食べ物に喧嘩腰に向きあっていくような生活になっっているのではなかろうか。食べ物を食い散らかすか、対立的に向き合うような生活になっている人間の姿ではないだろうか。自己中心的、人間中心的な情念により、神が与えたもうたこの世界や、神が与えたもうたこの世界と、そこから生まれる地の産物である食物と仲良くできなくなってしまっているのではないだろうか。

                       

                      大斎の機関、食事に関する制限するのは、もう一度贈り物としての食べ物を喜ぶためである。聖書にもあるように口に入るものである食べ物は心を汚すものではない。

                      【口語訳聖書 マルコの福音書】
                       7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
                       7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。
                       7:16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」

                       

                      食べないということを通して、食べることの素晴らしさを取り戻そうとしているのが大斎ということなのであり、もともとの世界の関係に大斎でに立ち返ろうとしているということでもあるだろう。あえて、食べなないことで、ほんとうの食べることの意味を取り戻そうとしているのが、大斎の世界である。

                       

                      救い(聞き手註:多分、『新世界の回復)の意味)のリアリティを取り戻すため、あえて食べず、祈りと物忌み(祈りと断食)によらないと奇跡は起きないという、ハリストス(キリスト)のことばもある。

                       

                      【口語訳聖書 マタイによる福音書】
                       17:20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
                       17:21 〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。

                       

                      ミハ氏註)))

                      新しい創造が起きる世界(いわゆる終末の完成)では、全てのこの地上の不具合についての回復があり、創世記一章で神が「良かった」とする世界の本来の姿が取り戻されるる世界を想定するので、ある種の奇跡は、完全な世界(それがどのようなかたちや姿のものであるかは別として)のこの地上で先行した実現となっている、という理解であることに由来するのだろうと思われる。このあたりのことは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』でも繰り返し述べられるテーマである。

                       

                      とはいえ、断食したからと行って、奇跡ができるわけではない、と個人的には思っているし、奇跡を起こすために断食するのは、基本的に神の主権を認めていることにならず、人の主権を優先することになるように思うのだなぁ。

                      ミハ氏註)))

                       

                      断食による食べることの意味の回復
                       ところでなぜ、断食する期間を持つことは、食べることの意味の回復につながるのだろうか。私たちは食べ過ぎ。食べすぎた翌朝の厳しさはよく知っているのではないだろうか。

                       

                      断食をしていると、イライラしたり、余裕を失ったりするために、どうしても自分の弱さが露呈する。断食をすると、無気力になることもあり、これらのことを通して、どれほど、食べ物が我々の日常を支えているかを、実感を通して感じることになる。


                      大斎の期間を取ることは、この期間にある種の、しくじりをすることが大事なのであり、自分自身の弱さを通して、そして、肉体を通してそのしくじるさまを思い知り、神の前に立ち返ることに意味があるのである。とりわけ、しくじりの中で自分の弱さを知るのでだる。詩篇の中にあるように、砕かれた心、すなわち神の前に自らの弱さを認める心の大切さを覚えるためとも言えるのではないだろうか。

                      【口語訳聖書 詩篇】

                       51:16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても
                      あなたは喜ばれないでしょう。
                       51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を
                      かろしめられません。

                       

                      ウェア主教という、アングリカンから正教会へ移り、活躍した人がいるが、そのウェア主教は、大斎の意味は、神への依存を理解させるためであり、大斎の期間に感じる空腹と疲労は神への依存を気づかせるためである、と書いている。

                       


                      ところで、伝統宗教は空腹を経験させる。それは、人間の魂の渇きをとおして、魂の神と一体化する喜びを求めさせる部分があることの反映かもしれない。肉体の飢え渇きは、実際に、魂の渇きとつながっており、さらに、神への飢え渇きへと変わってくることを直感的に人間が知っていることに由来するのではないだろうか。

                       

                      奉神礼の祈りというのがあるが、この大斎の時期は、祈りのことばへの感受性が普段より深いものになってくることを経験する。ある意味で、断食が高める宗教的な感受性があるように思う。

                       

                      そして、この大斎の後には、神の食卓に招かれるという約束を具体的に象徴するイースターがあり、神の祝宴(セレブレーション)では、ものすごいごちそうが待っていることを味わうのだ。普段はなんの気なく食べている卵一個や、チーズのひとかけらが実に非常においしい、と感じるのである。あえて、食べないことで、食物の味わい深さを覚える大斎の期間の平日の準備が、日曜日の聖体礼儀において成就する、ということをより強く感じるのである。そして、日々の生活の意味(神の恵みに支えられている生活の意味)を感じる事ができるのである。なお、修道院では、一日が聖体礼儀で成就すると言うかたちで実現していく。

                       

                      その意味で、大斎の機関は、大斎のあとの成就としての到来する喜びの復活祭の準備機関でもある。ある意味、食べることは、食べるものを我々に与え、いのちのパンとして我々の御子を我々に惜しげもなくお与えになった、神との交わりでもあることを覚えることになるのではないだろうか。

                       

                      サクラメンタル・ライフ(機密的生活)という言葉があるが、それこそ、この神が与えたもうた、いのちに触れ、命をいただくことによって生かされている生活なのではないか、と思う。

                       

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                      概ね、講演の要旨をミーちゃんはーちゃんがまとめるとこんな感じになろうか、と。なるほど、伝統教派の世界とはこう言う構造なっているのか、と改めて感じ入った次第であった。

                       

                      このお話を聞いたときに思い出していたのは、アメリカにいるときは、販売されている生魚の処理がおっかなくて生魚の断食状態、お寿司の断食状態にあったときのことである。そういえば、納豆もなかなか美味しいのは食べられなかったので、冷凍され、輸入された納豆を時々食べていたが、そんなに美味しくはなかった。帰国した時に食べた回転寿司はこの世のものと思われないほど美味しかったし、帰国して最初に食べた、スーパーで売っている特売の納豆が、実に美味しかったこと美味しかったこと、そんな妄想がぐるぐる回っている状況の中で、お話を聞いた。

                       

                      あと、この講演でも明らかになったように、世界の新しい完成というか、新しい創造をこの世界で味わうというこの正教会の伝統的な考え方は、もともと、伝統教派がもっていたものであり、カトリックでも、これらの伝統がかなり変質してしまっている現状があり、プロテスタントでは、レントの期間がもはや認識されることすら少ない現状(まぁ、つい最近まで、ミーちゃんはーちゃんもそうだった)を考えると、N.T.ライトを読み、これらの概念に触れた方が、この講演会で述べられた正教会系の伝統に触れたら、いきなり正教会に転会とか転向はあるだろうなぁ、と思った。

                       

                      まぁ、ミーちゃんはーちゃんがアングリカン・コミュニオン系の教会に今、割と足繁く通っているのも、この辺の教会の伝統の重さと、その聖書理解と象徴との関係具合に触れてしまったからではあるのは確かである。もちろん、ミーちゃんはーちゃんが聖餐式マニアなのと、今足繁く通っている教会では、毎週どころか、週に二回も聖餐式に参加させてくださっているからではあるけれども。

                       

                       

                      回転寿司 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48327?page=3 から

                       

                      以上、参加した講演のご紹介でした。

                       

                      次回からは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』のご紹介に戻ります。

                       

                       

                       


                       

                      評価:
                      赤木 善光
                      教文館
                      ¥ 8,100
                      (2005-11)
                      コメント:非常に良かった。聖餐を考える際には非常に参考になった。

                      評価:
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                      コメント:おすすめしています。

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