2015.11.04 Wednesday

いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(1)

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     この本、めちゃくちゃよい。そして、おそらくであるが、N.T.ライト先輩がなぜ、アメリカの福音派にこだわり、なぜ、”Simply Christian”(日本語版『クリスチャンであるとは』)を書いたのかの背景がよくわかる本である。あるいはスコットマクナイト先輩が”King Jesus Gospel” 日本版『福音の再発見』を書いたのかの背景がわかる非常に重要な本だと思うので、読みさしながら、ジワリジワリと紹介していきたい。一通り目を通してから、紹介する、というのが当ブログのポリシーであるが、そのポリシーをガン無視しても紹介したいと思ったので、例外的であるが、ご紹介する。尚、紹介冒頭から、もはや、長期戦になることを覚悟したので、シリーズ化を決定しておいた。

    本書が描かれた背景

     ところで、本書は4部構成になっているが、その構成を紹介しつつ、冒頭の『はじめに』(たぶん英語では、Preface)からこの調子である。現在、第3部に入ったあたりである。
     教会は、恵に乾いている世界に恵みを伝えるという使命を与えられているが、その仕事に失敗しているのではないか。そうした思うから本書を書く決心をした。世論調査によるとクリスチャンは良き知らせを運ぶ人々として見られる傾向がますます強まっている。(第1部)
     恵みを上手に伝えるには、どうすればいいのか。その手本を探りながら、信仰の旅人、活動家、芸術家という三つのモデルに行き着いた。彼らの生き方から、信仰に背を向けている文化に恵みを伝えるすべが見えてくる。(第2部)
     それから一歩引いて、クリスチャンにとって当り前の問い、すなわち「福音は本当に良き知らせなのか」という問いを取り上げる必要を感じた。そして、福音が本当に良き知らせであるなら、科学、ニューエイジ、その他の宗教が提供するものとの違いは何なのだろうか。(第3部)
     最後に、クリスチャンは多様な世界で混乱を招く役も演じており、それが信仰の大きな躓きになっていることに短く振れる。政治に関与しているせいで、クリスチャンはすべての人に向けられた良き知らせのメッセージをかき消してしまった、と多くの人は思っている(以下略)(第4部)
    (『隠された恵み』 いのちのことば社刊 pp.9-10)
     つまり、ポストモダン社会に一足先に突入したことを認識しているアメリカ社会(モダニスムの根源地のひとつであり、モダニズムの中で、国家を大きくし、そして、日本はこの国との関係を明治維新以来続けてきたので、カッコだけはモダニズムを経験した)でのキリスト教に関して、どのような現象が起きているのか、とそれがどこから来たのか、をアメリカという福音派の最大土壌の現場に立ちながら、その問題を紹介している。

     その意味で、本書が指摘することは、現代の日本社会で直面しているはず(そのことをとらえきれていないキリスト者は多いかもしれないが)のことであり、あるいは、これからそれに直面することが求められていくときに、日本のキリスト者(特に福音派のキリスト者)がどのように考えるべきかの、示唆を与える本であるといえよう。

     こういう本やTim Keller本を出すいのちのことば社は、個人的に好きである。その意味で、基本的に変な本もいっぱい出すけど、ときどき、こういうきちんとものを見ている本を日本語で出してくれるのはありがたい。

    アメリカでも嫌われる福音派
     本書執筆の動機として、ヤンシー先輩は次のように書く。

     本書をかこうと思ったのは、宗教専門の世論調査機関ジョージ・バーナグループを見たときに、見過ごし難い統計の数字が目に飛び込んできたからだ。1996年、特定の宗教を持たない米国人のうち、85パーセントがキリスト教を好意的に見ていた。ところが、13年後の2009年になると、キリスト教に供を好印象を持っているのは、16%の若い”アウトサイダー”(宗教に距離を置く人)だけであり、その中で福音派の人々に良い印象を持っているのは、3パーセントにすぎなかった。キリスト教を好ましく思う人の数が、比較的短期間に激減した理由を私は知りたくなった。クリスチャンはなぜ人々の敵意を書きたててしまうのか。そして、それに対して、私たちはどうするべきなのだろうか。(同書 pp.14−15) 
     1996年といえば、エリツィンが大統領選挙に再選され、ビルクリントンが大統領選挙に再選され、モニカ・ルィンスキーと不適切な関係が現大統領候補の一人、ヒラリー・クリントンにばれる前で、イチローががんばろう神戸を掲げ、オリックスブルーウェーブスが優勝し、グリーンスタディアム神戸が満席になったころである。なお、今年は、後半戦グリーンスタディアム神戸は、ガラガラであった。


    優勝した時のイチロー

    ヒラリーたんににらまれるビル・クリンたん

     2009年といえば、バラク・オバマが大統領就任式をし、マイケル・ジャクソンが死去し、新型インフルエンザが大流行した年でもあり、学校や企業ではこの新型インフルエンザで大騒ぎが起きた年でもある。まさか、バラク・オバマが大統領に就任したから、福音派に好意を持つ人が減ったわけでもあるまい。おそらく逆で、ダボヤと呼ばれたG.W.ブッシュ大統領のころに活躍された福音派の皆さんと、オバマが大統領選挙で勝利した選挙で、共和党候補であった、サッカーマム(サッカーを応援に行くような子育てに熱心な母親)と自称した、当時アラスカ州知事サラ・ペイリン(現ティー・パーティの活動家)が選挙戦で大活躍したのが2007年から2008年であったということはあるのかもしれない。


    2008 年の大統領選挙に関するシンプソンズのワンシーン



     また、この間、アメリカで公開された福音派に関する映画も影響しているかもしれない。2006年に公開されたJesus Campという作品や2002年に公開されたReverend Billy & The Church of Stop Shopping、また2007年のWhat Would Jesus Buy?なども多少は影響しているかもしれない。


    Jesus Campの予告編


    What would Jesus buy?の予告編



    本家アメリカでも凋落の危機に瀕する福音派
     いやぁ、以下の記述のような米国で凋落する福音派を描いた本を福音派に読者が多いいのちのことば社が出版したところが、意味がある。いわゆるリベラル層の読者層の多いとされる(あくまでされる、という話であるキリスト新聞社、新教出版社や教文館が出したのなら単なる自分とは違う派の批判と福音派の皆さんから見られてもしょうがないのだが、福音派に読者層の多い出版社がこの本を出したところに意義があると、ミーちゃんはーちゃんとしては思うのだ。なぜかといえば、自己批判であり、自己に正直であるからである。こういう正直な態度は非常に潔いし、とっても良心的、と思う。
    合衆国では、宗教に対する考え方に顕著な変化がみられつつある。クリスチャンは新たな試練に直面している。マーク・ヨーデルというブロガーが、テキサス州(比較的信心深い州)で行った取材に基づいて、「わが子が教会を離れるべき10の理由」を自身のウェブサイトに書いたところ、記事は瞬く間に拡散した。サイトには100やそこらではなく、百万以上のアクセスが集中した。ヨデールのことばは痛いところを突いていた。

     「言いにくいことだが、米国福音派の教会が若者たちを失ったこと、現在も失いつつあり、そしてこれからも失い続けることはほぼ確実だ。」(バーナグループの世論調査によると、若者の61%は重大の一時期教会に通っていたが、今は離れている。)何か手を打たない限り、福音派の数は減り続けるであろう。(同書 pp.18-19)

     マーク・ヨーデルは、まさに、ミーちゃんはーちゃんのブログでも上位常連のような2012年の以下の記事のような記事

    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

    日本で非キリスト者の若者が教会に行かない6つの理由

    を書いていたころに、同様の記事をお書きになっておられたのだなぁ。さすがにミーちゃんはーちゃんのアクセス数は百万以上はいかないが、過去のを合わせれば、数千アクセス位はあると思う。

     なお、本書に取り上げられているオリジナルの記事10 surprising reasons our kids leave church.htmという2013年2月8日の記事は、オリジナルでは読めないですが、現在こちらで読めます。

     では、失ったクリスチャンの若者たちはどこに行っているのか、ということであるが、当面、クリスチャンであることをやめている場合、自分たちで、ホームチャーチを作っていたり、伝統教派(米国アングリカンコミュニオン、ギリシア正教、カトリック)に戻っている例は多いと思う。

     まぁ、これらのキリスト教の伝統教派の特徴は、個人の生活にああしろ、こうしろ、とは言わず、礼拝だけをさせてくれる、というところがあり、ある面、個人のプライバシーは確実に守られるというところがあるのだろうと思う。あっさりしているというありがたみはある。あと、これらでは聖書の説明というか説教が、5分から長くても10分程度であり、コンパクトであるし、本筋とあまり関係のない、家族の話とか、先週あったことの話とか、世の中の出来事とか、そういうもので増量(上げ底ともいう)されていない聖書の話そのものが提示されるという部分もあると思うし、また、何より、会堂に一種独特の聖なる雰囲気があり、きれいだというのはあると思う(個人的には、古い聖堂にはリズム感があるので、個人的には、お気に入り)。


    ダラム大聖堂の内部


     このことは、N.T.ライト先輩のSurprised by Hopeにも、これまで全く教会に行ったこともない信徒でもないライト先輩の娘さんの友人の若いビジネスウーマンが、会堂の説明を聞きながら泣きだすという話が”Surprised by Hope”の中で、ちらっと出てくるが、こういう美しさ、建物全体が醸し出す雰囲気というものは、確かに東方正教会、カトリック教会、アングリカンコミュニオンのような伝統教派の教会のほうが多いと思う。

     プロテスタント派が、文字依存になり、こういう美しいものを異教的や贅沢だとして否定することで失ってきたものをこれらの伝統教派が保持していることで、文字や音声以外の方法で神を伝えることをしているのかもしれないなぁ、と思うのである。だからといって、プロテスタント諸派の装飾を一切排除した教会堂も、それなりの美しさはあるのだが、醸し出される雰囲気は人がいて初めて、わかるということはある。まぁ、テント伝道大会(それはカトリック教徒の皆さんが永続性のある石造教会に入れるのが、カトリック教会の建物としての教会堂のみであったことへの配慮)をやってきた教派で育ったものが言うことではないかもしれないが。


    次回へと続く







    評価:
    フィリップ・ヤンシー
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2015-11-05)
    コメント:超お勧め。特に福音派で傷ついた人々に

    評価:
    N・T・ライト
    あめんどう
    ¥ 2,700
    (2015-05-30)
    コメント:めちゃお勧め

    評価:
    スコット・マクナイト
    キリスト新聞社
    ¥ 2,160
    (2013-06-25)
    コメント:めちゃお勧めしてます。

    2015.11.07 Saturday

    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(2)

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       前回に引き続き、いのちのことば社刊 『隠された恵み』からご紹介したい。

      クリスチャンが悪臭を放つ?

       クリスチャンと社会との関係に関して、ヤンシー先輩は次のように書く。ミーちゃんはーちゃんが書いているのではない。
       ジャーナリストという職業がら、私は様々な場所に足を運ぶが、クリスチャンが芳しい香りを放っているところもあれば、悪臭を放っているところもある。(いのちのことば社刊 『隠された恵み』 p.18)
       まぁ、10月31日は、宗教改革記念日であったが、宗教改革前後の欧州では、あまりに悪臭を放つほどのグループがカトリック教会にいたからこそ、ルター先輩はそれに耐えかねて、大学の掲示板(たまたま教会の扉でもあった)に95カ条の堤題をお張り出しになり、カトリック教会の内部では、それとほぼ同時にロヨラ君たちがイエズス会を立ち上げることになった。英司祭の御講演(リンクはこちら)によると、どうも当時はラテン語が読めない司祭たちも結構いたらしい。

       しかし、宗教改革から500年たった現代の米国や日本や世界中のあちこちで、ときどき、クリスチャンが悪臭を放つ場所もないわけではなさそうである。

       いつもスパークリングな記事を紹介してくださるfuminaru_kさんのブログ記事 悔い改め・牧師への信頼度・中国の宗教事情でご紹介されている韓国の事例などもある。韓国に関しては新教出版社から出た最下部で紹介する『市民K、教会を出る』はその背景を示しているようだ。この本は、韓国の社会における韓国のキリスト教会の状況を自己批判的に書いている書籍であるが、『福音と世界』連載中は、この連載を楽しみに読んだものである。とはいえ、こういうことをお書きになられる人がおられるというのが、ある面、韓国キリスト教界が一定の自己批判意識を持っており、極めて穏当な体質をお持ちである、ということの証左であろうと思う。

      相手をロボット扱いするクリスチャンと人間関係
       この本の中で、ある教会スタッフをしていた人の次のような証言が出てくる。福音派のクリスチャンは、人間を人間として見ていない、という彼のバリスタ経験からのある個人が福音派に対して持ったという個人的観察の結論である。 
       福音派の減少傾向の背後にあるのは何か。シカゴ在住の友人ダニエル・ヒルに気づかされたことがある。ヒルは全米最大の教会のひとつ、ウィロークリーク・コミュニティ教会のスタッフとして働きながら、副業として地元のスターバックスでバリスタをしていたことがある。思えば、真の牧会訓練はそこで受けたものだという。
       宗教の話題が出た時、一人の客が言った。クリスチャンはまるで相手が意思のないロボットであるかのようにふるまいます。あらかじめ伝道する意図をもって話しかけ、相手がそれに賛同しないと、もう用がなくなるのです。(同書 p.19)
       結局、(福音派の)クリスチャンは、話す相手を人格的存在として人間として見ているのではなく、あくまで、伝道の対象ならまだしも、救済の対象で会ったり、自己実現のための存在として見ている可能性がある。それが、ヒルさんの顧客がヒルさんに言った『意思のないロボット』という表現は、要するに人間として見ていない、ということなのだろう。


      別にR2D2に伝道しているわけでないレイヤ姫

       これは一種のメサイア・コンプレックスが福音派の中に底流として流れているということであろうし、また、その文化的背景に関しては、Johnathan EdwardsやGreat Awaking(大覚醒運動)以来の滅びに落ちる罪人のイメージが、どこかに凝り固まっているのだと思うし、もう少しいえば、自派のあるいは、自分の所属するキリスト教会、めっちゃサイコー、という一種の視野狭窄が働いている可能性はゼロではない。

       とはいえ、アメリカのキリスト教会(福音派を含む)の中には、超教派的な特性を持つところもあり、自派のみで固まらない柔軟な人々もおられることは確かである。とはいえ、過激な人々は、確かに、伝道しなければ、という思いに取りつかれているような印象を与える人々もいて、特にメサイア・コンプレックスをお持ちの方は、何がなんでも滅びに至る人々を正さねば、何がなんでも伝道しなければ、という思いでお話しになられるので、異論でも一言話そうものなら、こちら側の対話しようとか、こちらがもう少し何考えているかお話してお伺いしようと思っても、取り付く島もなくなられるような感じの方も多い。リアルでは、こういう方に日本でも結構出会う。ツィッターなどでは、もう炎上覚悟である。しかし、このブログをご訪問になる方の大半はそうではないが。


      ポスト・クリスチャンと
      ポスト・クリステンドム
       この本の以下の部分を読んだ瞬間、この本は、N.T.ライト先輩の”Simply Christian”(日本名『クリスチャンであるとは』)とパラレルだ、と感じたのである。
       カフェで働きながらヒルが聞いたのは、信仰に対する明らかに異なる二つのアプローチだった。「プレ・クリスチャン(クリスチャンになる前の人々)」は、宗教の話題に抵抗感がないように見えた。彼らにはキリスト教への敵意がなく、自分たちもいつか教会とつながるだろうと思っていた。対照的に、「ポスト・クリスチャン(かつてクリスチャンだった人々)」は、宗教に対して悪い感情を抱えていた。教会の分裂、支配的な親、性的虐待の罪を犯した牧師や神父、教会がうまく対処できなかった泥沼化した離婚など、傷ついた過去の記憶を引きずっている人々もいた。過激な原理主義者やスキャンダルまみれのテレビ伝道師といった、メディアの作った否定的なステレオタイプを信じこんでいるだけの人々もいた。(同書 p.20)
       このポスト・クリスチャンは、ヨーロッパ大陸のその延長にある英国社会でいえば、ポスト・クリステンドムと言い換えることが可能であると思う。つまり、キリスト教(その内実は実に多様であるが、国によって、地域によって、時代によって、宗派によって実は違いがるとはいえ、キリスト教的な何か)が社会に大きな影響力を持っていたし、自分たちはなんとなくではあってもキリスト教徒であるという意識が共有はされていた時代というか社会(映画「戦場のアリア」で、クリスマス休戦の時にヨーロッパの士官クラスの共通言語であったラテン語ミサがささげられる世界というか社会)が、2回目の大戦を経る中で、キリスト教界が変質し、まともなキリスト教徒もおかしくなっていく経験をした後、キリスト教界がヲワコン宣言(意味のない、無意味になってしまってあまり相手にされないコンテンツであるという宣言)されてしまった社会がポストクリステンドムだろうと思う。その中で、キリスト教がなお意味を持つ、というのを説いたのが、N.T.ライト先輩で、そのことを書いた本が、『クリスチャンであるとは』だと思うのである。

       これに対し、個人としての「ポスト・クリスチャン」は個人として、キリスト者であること、クリスチャンであることにヲワコン宣言した人であると言えると思う。つまり、意図的にクリスチャンであることをやめてしまった人であるように思う。あるいは、神との霊性という水道のバルブを自らしめてしまった人であるといってもいいだろう。あるいは、神とのバルブは開いていたいのに、教会や他のキリスト教徒の関係で、神との間のバルブをあけ続けることが困難になり、キリスト教との関係を主体的に切らざるを得ないため、神との関係を主体的に切っていった人々はおられると思う。

       まぁ、マスコミのヲワコン宣言(主として、メディアの作った否定的なステレオタイプ)を信じ込む人々は、どこにでもいる。普段は、カトリックなど目の敵にするキリスト者の人々が民放の番組でカトリックのシスターが取り上げるや否やあたかも旧知の関係のごとく非キリスト者の友人に語る人々や、日本キリスト教団の関係者を蛇蝎の如く目の敵にしながら、国営放送ではないというものの予算が国会で審議されるという実にわけのわからない某放送局で流れるや否や、普段蛇蝎のごとき扱いをしている教団に連続ドラマで取り上げられる主人公が所属していたことは無視して、キリスト者である点だけをもとに話をする人々(時に、それも蛇蝎のようなことをご発言になっておられる教会の中でお話しされる方々)もおられる。こういう方を見れば、メディアを利用しているように見えて、メディアに振り回されている人々と大して変わらない。そんな鼻で息するものに依拠しなければならないほど、われらの神は非力なのか、と思わざるを得ない。

       過去の偉人やテレビで取り上げられた香り良いと思われている人物に依拠することなく、自らの生きるその姿、それがいかに無様なものであろうと、その生きる姿をキリストにあるものとしてお示しになられればよろしいと思うのだが。そのほうがよほど真実味がある、と思うのは、ミーちゃんはーちゃんの性格が歪み、曲がっていることの証左であろう。

      プレ・クリスチャンと日本人
       以下の文章で、ヤンシー先輩が言っておられるプレ・クリスチャンという概念は、日本のような異教社会の中でのコンテキストではなくて、従来キリスト教世界に神話的であったアメリカ的な文化コンテキストの中でのご発言である。

       同じプレ(前の、とかそれ以前の、という意味がある語)でも、日本の場合は、異教としてのキリシタン史があり、プレでも、キリスト教に一種の偏見つきの地域と歴史が日本という国にあって、また、信仰(あるいは信心)であれば何でも同じジャンルでくくるという精神世界の傾向が日本にはあるかもなので、ヤンシー先輩の議論には、日本のある地域と歴史的時間にあっては不適合を起こすように思う。その部分を引用してみたい。
       一方で、米国南部と中西部には、信仰に偏見を持たない地域が多く、「プレ・クリスチャン」と言える。宗教色の強い南部で育った私は故郷に帰るたびに、宗教に関する温度差を感じている。バイブルベルト〔訳注・キリスト教原理主義者と言われる人々の多い米国南部と中西部〕はおおむね福音の枠組みは受け入れている。神は存在し(米国通貨が「われらは神を信ずる」と宣言しているではないか)、私たち人間は罪を犯した存在である(今でも南部では、納屋や看板に「悔い改めよ」)」や「イエスが救ってくださる」というスローガンを見かけることがある)。(同書 p.20)
       確かに、以下の図で示すように、10ドル札の裏側の建物の上には、In God We Trust(我らが信頼をおく神の名において、〔この通貨を発行する〕)とは書いてあるし、裁判所の入り口や裁判所の法廷内にはたいていこの文字が書いてある。こういうものに触れている社会で、基本キリスト教の信念に基づき建国の父たちが国家の基本設計図を作ったことは影響していて、基本アメリカ人はキリスト教が影響していた時期の遺産を引き継いでおり、キリスト教に対して親和性が高い(だから、アメリカ人に生まれたからキリスト教徒という人が一定の割合を示す)人々である。


      10ドル札、 この札の裏面(下側の図)には、 In God We Trust って書いてあるし



      裁判所の入り口上部に掲げられている In God We Trust


      「イエスは救う」
      という主張をしているアメリカのインターステート付近でよく見る種類の看板

      Repent! Jesus is coming soon
      「悔い改めよ、イエスはすぐ来られる」の看板

       ここで、ヤンシー先輩の構図というか、そこで紹介されているヒルさんの分類のアメリカ型のキリスト教にまつわる分類学的な構図はこんな感じかもしれない。もちろん、その人の背景、つまり、地域や民族的背景によって異なる。

      アメリカ型

       プレ・クリスチャン      
       (なんとなくクリスチャン文化的)
         
       クリスチャン

       (個人的経験や個人として信仰をもったクリスチャン
       +特に反対する理由もないのでクリスチャン)
        この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
        おひとり様クリスチャンなども含まれる
         
       ポスト・クリスチャン

       (教会に飽きてしまったり、教会に失望した結果、
        意識的にクリスチャンであることをやめた人々)
        社会の少数派を自覚的に選択することになる
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      ところで、これが日本だとどうなるか、ということを考えてみた。



      日本型
       日本型のキリスト教的な構図はこんな感じかもしれない。

       プレ・クリスチャン
       (なんとなくキリスト教的なものに距離や納得できないものを
        根底のところで感じている人が大半の非キリスト教文化的)
        ↓
       クリスチャン
       (個人的な経験や個人として信仰をもったクリスチャン・
        第1世代は確信犯的にキリスト教徒になったという印象が強い)
        この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
        おひとり様クリスチャンなども含まれる
        ↓
       なんとなくポストクリスチャン
       (若いころに教会に行ってたなぁ、と明確に、拒否的でも、否定的でもなく
       なんとなく離れているだけの元キリスト教徒)
       社会の多数派を何となく無自覚に選択
        ↓
       ポスト・クリスチャン
       (教会に飽きてしまったり、教会に失望して、確信犯的に意識的にクリスチャンであることをやめた人々)
       社会の多数派となり、宗教性をあまり意識しない

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      日本型(クリスチャン2世)
       日本のクリスチャン2世の場合、こんな感じかもしれない。

       プレ・クリスチャン      
       (なんとなくクリスチャン文化的)
        ↓  
       クリスチャン
       (個人的経験や個人として信仰をもったクリスチャン
       +特に反対する理由もないのでクリスチャン)
        この中にチャーチホッパーや、漂流するクリスチャン、
        教会嫌いなクリスチャン、おひとり様クリスチャンなども含まれる
        ミーちゃんはーちゃんは今ココ
         ↓
       なんとなくポストクリスチャン
       (若いころに教会に行ってたなぁ、と明確に、拒否的でも、否定的でもなく
       なんとなく離れているだけの元クリスチャン、あまりプレクリスチャンと差はない)
        ↓
       ポスト・クリスチャン
       (教会に飽きてしまったり、教会に失望して、確信犯的に意識的にクリスチャンであることをやめた人々であるがそれほど批判的でもない元キリスト教徒)
       社会においても、教会においても少数者

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

       まぁ、単純な図式化や一般化は危険であることは十分承知しているが、そうはずれてもないようにも思う。


       欧米型の場合、どうポストクリスチャンへのアプローチをしていくのか、日本型の場合、何となくポストクリスチャン、元日曜学校や教会学校の生徒、元ミッションスクールの生徒や学生に、特に、教会であまり愉快でない思いを経験した人々にどう対応していくのか、ということが現在のところ、求められているのかもしれない。


       次回へと続く







      評価:
      フィリップ・ヤンシー
      いのちのことば社
      ¥ 2,592
      (2015-11-05)
      コメント:めちゃくちゃいい。

      評価:
      金 鎮虎
      新教出版社
      ¥ 2,592
      (2015-02-20)
      コメント:韓国のキリスト教の韓国人の視点からの解説。

      評価:
      ジェイムズ バード
      教文館
      ¥ 1,944
      (2011-03)
      コメント:翻訳であるが読みやすい。

      2015.11.09 Monday

      いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(3)

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         これまでの過去記事に引き続き、今回のヤンシー先輩の本『隠された恵み』からご紹介していきたい。まず、今回の話は、キリスト者がポスト・クリスチャンの社会の中で、どういう扱いを受ける存在になっているのか、をヤンシー先輩がお書きとめになった部分からである。

        壊れたスピーカーから流れる割れた音楽…
         以下の部分で、ヤンシー先輩は結構厳しいことをお書きである。
        (発展途上国などで非常な過酷な環境の中、人々に仕えている神の民、クリスチャンを訪問する ミーちゃんはーちゃんによる注記)旅から戻ると、自分の国の人々がクリスチャンの悪口を言っていることにショックを受ける。同じ音楽でも「ポスト・クリスチャン」の耳には、壊れたスピーカーから流れてくる割れた音のように聞こえている。(『隠された恵み』p.22)
         これ、あるんだなぁ。たとえば、クラッシック音楽でも、演奏者(あるいは指揮者)によって音楽の解釈が違うし、聞く手段(FMで聴くのか、AMで聴くのか、ネット放送で聴くのか、あるいは、ラウドスピーカーで聴くのか、・・・・)に拠っても印象が異なる。仮に、同じCDやレコードなどの音源でもスピーカーやヘッドフォンなどが変わると違う印象を持つ。それと同じように、聖書が伝えようとしているナザレのイエスが神であり、王であり、キリストである、そして、神はわれらとともに居ようとしておられる、という基本的なメッセージは同じつもりであっても、その表現の仕方によって受け取ってもらえるものも受け取られにくいのかもしれない。

         この部分は、N.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』(原著 Simply Christian)の第2章の水道のたとえとパラレルであろう。もともと、清らかで人に喜ばれるような泉の新鮮な水を供給していた水道が、メンテナンスの不良やその後付いてしまった様々な不純物の結果、とても飲める水のようでないものになったという記述である。

         ところで、世の中は、パッケージいのちの社会である。パッケージングを間違えれば、売れるものも売れないのである。中身の質とは関係なく、パッケージがものを言うのである。まさに、国際的バイオリニストがNYの地下鉄で、無名の音楽家のふりをして演奏していたら、気がつくのは子供だけである、という事実もある。人間の認知と認識は、パッケージで安易に支配されるのであり、案外余分な知識がその支配を生みだすのである。個人的には、うまいもんはうまい、のであり、あんまりパッケージに惑わされたくはないと思っているが、そういう人は少ないのかもしれない。




        威圧的な人間と理解される福音派
         まぁ、福音派の人々はジョナサン・エドワーズ時代以来(ジョナサン・エドワーズに関してはこちら 福音派が生まれたころの世界むかし話(3))伝統的に罪の裁きを語る人々が多い。まぁ、罪の問題は神の目から見たら許されざることではあるが、それはあくまで神の目においてであって、それを人間が他人のことを云々するのはいかがなものか、とも思う。
         罪を語る福音派の人々は、口やかましい威圧的な人間という印象を与えている。(中略)だいたい何が真実であるかを、だれが断言できるというのか。豊かな国に暮らし、この世を楽しむことに熱中している人々は、死後の世界に無頓着だ。そして、宗教こそが狂信主義や戦争の主な原因であり、すべての宗教を悪い知らせとして非難する新たな無神論者も出てきた。その人たちは、人類がいつか宗教を必要としなくなる日を待ちこがれており、その中には、9.11の暴虐を”信仰に基づいた出来事”と呼ぶ人もいる。(同書 pp.22-23)
         しかし、ここで、ヤンシー先輩がお書きになられたように確かに威圧的な人々もいる。こういう人は、本当に確信犯的に下記の写真のような顔をして自分が好きにさばいていいと思っておられた方もおられるようだが、そのさばいた刀で自分もさばかれて、三枚におろされてしまった方もおられたようである。段平はあまり派手に振り回さぬほうがよいようである。


        確かに威圧的に他人の同性愛を哄笑的にさばいたテッド・ハガード君
        そして、後年、自身の同性愛が暴かれてしまって、困ってしまった模様

         とはいえ、死後の世界に無関心だ、というのは、確かの近代合理主義、観測主義、科学主義の背景にある唯物論がそういう性格を持つので、仕方がない。そもそも、自分自身で両手両足を縛っておいて、その中でしかものを考えないのが、近代合理主義、近代観測主義、近代科学主義であったし、であるがゆえに、クォークとか、量子力学みたいなものは、その概念が主張されたころには哄笑されたし、従来の概念でないものは哄笑された。とはいえ、それが間主観的に確認されれば、その存在を認めるというところは、科学の良さではあると思うが、大概の場合、地震の観測手段に縛られているという意味では、科学には限界があるが、それがその業界の標準なので、致し方のない部分ではある。

         上記の文章で、

        宗教こそが狂信主義や戦争の主な原因であり、すべての宗教を悪い知らせとして非難する新たな無神論者も出てきた。

        という記述があるが、これは、昔からある非難の一つである。ところが、実際の紛争を仔細に見ていると、おおむね、何らかの不平等な扱い(それは、経済的、政治的な扱いの結果であることが多いが)があり、その不平等な扱いを実施するためのわかりやすい識別子として用いられるのが宗教というだけである。その意味で宗教が単に区別する要素として利用されているということだと思う。

         また、すべての狂信主義は宗教由来だということでもない。近代の例でいえば、ナチスドイツは宗教というよりは、自国中心主義が核であったし、明治維新も、神道による狂信というよりは、自国の伝統的思想や天皇中心主義は手段として、現状を変革するためのわかりやすい識別子ということだけであった。そのため、尊王は残すが上位は捨てている。その挙句の果てに、明治維新は、のちにそれは天皇崇拝と自国中心主義として結実する。一種の歪んだ中華思想であったと思う。政治的な主張でも、狂信主義は生まれるように思うのだ。アジア圏における一種の過激な反日思想も、経済的な不振のルサンチマンというか、はけ口としてものであり、宗教的な背景はかなり薄いと思う。

         アメリカに対する戦争状態を生み出した911事案は、アメリカに裏切られたアフガニスタンやその隣接諸国、とりわけ石油などの戦略的資源を産出しえないがゆえに、貧しさを抱えたイスラム諸国圏のなかでも、経済的利益あるいは権益の点で、その配分にあずかれなかった人々のやけっぱちの反動という側面もあるように思うのだ。それを単純に宗教的なものであるとするのは、あまりに短絡的であり、単純化し過ぎであると思う。むろん、宗教的な要素が皆無だとは言わないが、それに帰するのは、あまりに単純化された議論でしかない。

        ポスト・クリスチャン
        ポスト・クリステンドムの西欧

         たまたま、中東に近く、イスラム世界からは地理的な要因(地中海、アドリア海、アルプス、また東欧の地峡帯)で移動が阻まれていたイスラム世界からの移動が制約されていた西側のヨーロッパは確かにヤンシー先輩がお書きのように長らくキリスト教の中心地であることを歴史的には続けてきた。まぁ、クリステンドムが成立・継続していた地域である。

         歴史上長くキリスト教の中心地であったヨーロッパでは、信仰について考えもしない人が多い。フランスと英国で撮ったアンケートによると、神の存在を信じている人は3分の1もいるかどうかだ。フランスを訪れたとき、フロリダで伝道活動をしたことのあるキャンパス・クルセード(現在はCru)のワーカーと話した。クリップボードを片手に、見ず知らずの人に歩み寄ってはこう尋ねたという。「死んだときに神様に、お前はなぜ天国に入れてもらえるのかと聞かれたら、何と答えますか。」フロリダでは様々な答えが返ってきたが、フランスでは空虚なまなざしを向けられたという。フランス人に同様の質問をすることは、ウルドゥ語〔訳注:パキスタンの国語であり、インドのイスラム教徒のことば〕で話すようなものだった。(同書p.23)


         まぁ、ヨーロッパがキリスト教について、また、信仰について考えないで済んでいる背景には、これらの国では文化としてのキリスト教になっている場合と、また、国家を支配したキリスト教や文化の中に入り込んでしまったキリスト教をテロルさえ用いながら否定しようとした背景と、近代を支配した価値観が大きな価値を持った国家とか、さまざまなことがあるかもしれない。

         ここで挙げられているフランスとカトリックを中心としたキリスト教は、実に非常に複雑なのである。そもそも論として、教皇をアヴィニョン捕囚してみたり、政治的な枢機卿(三銃士では敵役)がいたり、フランス国内のみならず、当時のフランス領であったフロリダやルイジアナ(ルイ国王の土地、という意味)といったアメリカでもユグノー(改革派の皆さん)を殺戮しまくったりという黒歴史があるうえに、第1次、第2次世界大戦際の調停役を期待されながらも、うまく機能しないし、個別の例外的な事例はあるにせよ、政権支持に回る気骨のない教会の姿を見せられたら、そらぁ、文化として生き残ってくれるのは構わないけどなぁ、という雰囲気になるのは、わからなくはない。まぁ、これまでのキリスト教がフランスにもたらしたものを考えるとき、冷たい目を向けられても仕方がないところがある。この辺、歴史にしみついたキリスト教の汚点のネガティブさが身体や思想の伝統にしみついている部分があることはいなめないと思う。

         まぁ、アメリカ建国も、こういうめんどくさい過去の黒歴史を清算あるいは決別したくて始まった部分(とはいえ、現代的な観点からは完全に決別ともいえないので、時に問題が宗教的理解にかかわる政治問題として浮上したりもするが)もあり、フランスほど血まみれな歴史(イギリス人曰くBloody History)を経験してない分だけ、こういうことに関する議論が延々と続く部分もアメリカ合衆国ならではのような印象もある。


        非常に政治的でもいらしたリシュリューさま

        米国でのクリスチャン文化と一般社会
         前回の連載で、アメリカ人は、1セントコインから100ドル札まで1955年以降、法律でIn God We Trustと表記することが定まって以来、すべてのコインや通貨にこれが刻まれていたり、裁判所の壁には、In God We Trustはかかれているほどであり、キリスト教が影響を持ち続けている米国社会で、ヤン氏―先輩の次の一文『米国では、クリスチャンと一般社会の文化の隔たりは際立っており、そんな中でもクリスチャンは米国でそれなりの力を持ち続けている』にはちょっとびっくりした。

         米国では、クリスチャンと一般社会の文化の隔たりは際立っており、そんな中でもクリスチャンは米国でそれなりの力を持ち続けている。クリスチャンの中には、自分たちとは異なる人々に厳しい裁きを下すことで、その隔たりに対応している人々もいる―福音派の人々が好ましくない評判を得ている理由の一つである。そのような評判を聞くと私は縮こまり、自分の信仰について大概黙りこくってしまう。そのどちらの態度も健全とは言い難い。
         イエスは弟子たちに、乾いている世界に神の恵みを届けるという途方もない特権を与えた。私はその恵みにたっぷり漬かった一人として、さまよう世界に恵みを差し出したい。私たちはどうすれば背を向けている文化に、真の良き知らせを伝えることができるのだろうか。(同書pp. 23-24)

         たしかに、キリスト教文化は支配的(それなりの力をクリスチャンは持っている状態)であるものの、ユダヤ教徒も一定程度おり、また、キリスト教を意識しない一種無神論的な生き方が許容されているものの、日本よりはよほどメジャーであるからだ。教育から消費社会にいたるまで、よほど影響されているが、しかし、非キリスト教的な伝統もアメリカ社会に入り込んでいることも事実である。

         この部分を読みながら、ある面、あぁ、あるあるだなぁ、と思ったのは、自分たちとは異なる人々に厳しい裁きを下すことで、その隔たりに対応している人々もいる―福音派の人々が好ましくない評判を得ている理由の一つである という部分である。イエスは、ご自身に意見を求める人々に、だれがわたしをあなた方の裁判官や分配者に立てたのか(ルカ12章)でおっしゃって、このようなことを避けたにもかかわらず、異なる理解の人々をさばくことで、聖書と社会の間の隔たりに対応しようとされた方ではなかったようである。このあたりの指摘は極めて重要ではないか、と思った。こういうことを素直に認めることはかなりつらいがヤンシー先輩がしておられるように、個人としても過去から現在に至るまで、こういう好ましくない評判を得かねない言動があったことは、認めざるを得ないとは思う。

         ところで、ここで乾いている社会という記述を見ながら、ナザレのイエスが言った『いけるいのちの水」というメタファーやSimply Christian『クリスチャンであるとは』第2章の水道のたとえなどを思い起こしてしまった。ところが、この渇きが標準とされており、それに耐えることをよしとする近代社会という問題があるように思う。つまり、近代という社会においては、乾いていることを善とし、当然とし、乾いているという認識を持つことすら容認しなかった社会、日本社会も同様な部分があるが、そのことに興味すら、関心すら向けない現代人にどのようにこのいける水を提示するのか、というのは大きな問題かもしれない。


          次回へと続く。





        評価:
        フィリップ・ヤンシー
        いのちのことば社
        ¥ 2,592
        (2015-11-05)
        コメント:絶賛ご推薦いたしております。

        評価:
        ジェイムズ バード
        教文館
        ¥ 1,944
        (2011-03)
        コメント:めちゃめちゃ読みやすくて、面白い。

        2015.11.11 Wednesday

        いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(4)

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           これまでの過去記事に引き続き、今回もヤンシー先輩の本『隠された恵み』からご紹介していきたい。

          対話の必要性

           まず、今回の話は、キリスト者がポスト・クリスチャンの社会の中で、どういう扱いを受ける存在になっているのか、を我々がもう一度きちんと受け止め、ディスって終わりにするのではなく、対話をしていくことの必要性について、ヤンシー先輩がお書きとめになった部分からである。
          クエーカーにこんなことわざがある。「敵とは、私たちが話を聞いたことがない人のことである。」「ポスト・クリスチャン」と意思疎通を図るには、まずその話に耳を傾け、それを手がかりに、彼らがこの世界をどのようにみているか、そして私の様なクリスチャンをどう見ているのかを知らなければならない。そうした会話から、本書のタイトルが生まれた。神の恵みは驚くほど素晴らしいものだが、クリスチャンとポストクリスチャンが分かれている米国で恵みの需要は減少しつつあるように見える。(隠された恵み pp.24−25)
          この部分を読みながら、本書のタイトルを『隠された恵み』と訳すのはなぁ、とちょっこし思ってしまった。本書の英文タイトルは、Vanishing Grace、すなわち、Vanishingとは、消滅しつつある、あるいは、絶滅に瀕する、といった感じのことばである。隠されたというよりは、絶滅に瀕する恵みである。とりわけ、隠された恵みと訳してしまうと、この部分は全く意味とインパクトを失ってしまっている。

           原文を手に入れていないのだが、おそらく「米国で恵みの需要は減少しつつあるように見える。」の日本語の英文は、In US, the needs for grace seems vanishing というくらいの英文だろうと思う。ここの部分は、明らかに表題とひっかけていて、にやにやとして読む部分なのににやにやとして読めなくなっているのは実に残念だ、とは思った。

           それよりも大事なのは、以上の部分で重要なのは、「意思疎通を図るには、まずその話に耳を傾け、それを手がかりに、彼らがこの世界をどのようにみているか、そして私の様なクリスチャンをどう見ているのかを知」るということである。実は、本連載第2回で紹介した部分いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(2)でもふれたように、これは、福音派のキリスト者が相手がどう思っているか関係なく、壁に向かっても相手の興味や地域や前提とは全く関係なく壊れたレコードのように同じ言葉で同じように福音を語るように語るという福音派の一部の人々の伝道における柔軟性の欠如をある面お示しなのであろう、と思う。イエスは、必ずしもそうはされなかったことを見れば、福音書の当意絶妙さを見ればかなり明らかであろうと思うが。


          教会から追い出された人々
          教会を去った人々

           教会に失望して去る人は少なくない。日本でも、それはそうであろう。ヨーロッパでも、日本でも教育機関と深くかかわっているキリスト教諸派は多い。その数例を、ヤンシー先輩はあげておられる。
          厳格なプロテスタントやカトリックの学校、偏屈な聖職者への不満を聞いた ― ジョン・レノンは少年時代、不適切な時に笑ったという理由で教会から追い出されたのではなかったか?スティーブ・ジョブズは、「なぜ神は、飢餓に苦しむアフリカの子供たちを助けないのか」との質問に答えなかった牧師を見て教会を去ったというが、それとよく似た話をする人々もいた。(同書p.25)
           まぁ、教会に限らず偏屈な人はいるが、それが宗教と化学反応を起こすとき、それは絶大な力を発揮し、暴力を生じることがある。おおむねカルにおいては、この化学反応はかなり見られるようであるが、カルト全般が偏屈な人と宗教というこの化学反応の結果ということではないようにも思う。どちらかというと偏屈な人と宗教の化学変化がめちゃくちゃひどくて、行きつくとこまで行ってしまって、オリジナルの宗教のそもそもの目的(つまり人々の渇きをいやす)という美点を失ったものがカルトなのであろうと思う。

           伝統教派でも、どこでも、社会の中に偏屈な人がいる程度に偏屈な人はいるし、ミーちゃんはーちゃんは自分自身が偏屈だということくらいは理解しているつもりなので、化学反応を起こし、急な爆発的反応を起こさないように気をつけている(つもり、の範囲は出ないが)。

           しかし、ジョン・レノンの笑いを受け止めて笑い返すとか、一緒に笑いあうとかいうような司祭や牧師はいなかったのであろうし、スティーブ・ジョブスが「なぜ神は飢餓を許すのか」ということを問うたとき、正直に「わからない。残念だけど。しかし、それを含めて神の支配の中にあると思う」と答える牧師がいれば、禅的な影響の決勝でもある初代のiPhoneは生まれなかったろう。まぁ、基地外の多いAtari社の中でも異彩を放っていたらしい仏教的な天上界(ときどき体から臭いにおいが漂う人がいるらしい)にお住まいだったかもしれないスティーブ・ジョブスにまともに答える気持ちになれなかったという気持ちもわからなくはない。

          反感の販促活動に勤しむ教会
           アメリカにいた時以降から感じたことだが、アメリカには意図的に反感を売って歩くようなキリスト教関係者が一部にいることは確かだと思う。本人は自己の正当性、キリスト教の正当性、聖書の主張の正当性を示すためにやっている、とか思ってやっているので始末に負えない。やらなきゃいいのに、やっちゃえって、他者の思想信条のよりどころを焚書したりする。それを見るたびにナチスの焚書事件を連想する人々がいるにもかかわらず。


          1933年のナチスによる焚書事件


           そのほかの最近の事例をヤンシー先輩はあげておられる。
           残念ながら、あちこちの教会が反感の種をまいている。この章を書く手を休めてテレビをつけると、ノースカロライナのある牧師に関するニュースが流れていた、その牧師は、すべての同性愛者を160キロかそこらの巨大な囲いの中に集め、食料を空から落としてやればいいと主張していた。そして、やがて彼らは絶滅するだろう、子孫を残さないのだから、と勝ち誇るように言ってのけた。同じ週に、インディアナ州のある教会では、「ゲイは天国にいかない」という自作の歌をうたった7歳の少年に教会の人々が大喝采を送っていた。またコネティカット州で起きたサンディフック小学校銃乱射事件の時、福音派の有名な広報担当者は、同性愛やiPod、学校で教える進化論、学校での礼拝に反対する判決を下した最高裁判所のせいでこんな事件が起きたのだ、と言った。
          ということで、証拠映像を上げておこう。


          ゲイを社会から排除して囲い込めしたら、と提案した事案



          子供が同性愛者は天国に行けないと歌ったとされるシーン
          (映像が酔いそうになるので視聴注意)

           ちょうどこの記事を書こうかと思っているころ、聖書の中の儀をどう考えるか問題に関する山崎ランサムさまのボイド先輩という方の著書を紹介しながらの記事 確かさという名の偶像(13) があった。

           同記事では、法律的概念として理解してきた神とのかかわりの中での問題がとらえられてきたことに伴う問題が取り上げられてきたが、おそらく、ヤンシー先輩の記事で取り上げられてきた社会に喧嘩を売るようなご発言の方は、基本神との関係に関して、法律論的な理解に凝り固まっているあまりの御発現だったり、そういう中で育ったために子供にまでそれが影響して、同性愛者は天国に行けないという歌につながったのかもしれない。

           しかし、「同性愛やiPod、学校で教える進化論、学校での礼拝に反対する判決を下した最高裁判所のせいでこんな事件が起きたのだ」ということに似た言説はミーちゃんはーちゃんの付近でもお聞きする。他人のせいにして、終わりにするのは、昔から見られたことであり、女性に教育したから碌でもないことが起きたとか、奴隷を解放したから社会に悪がはびこったとか、飲酒があるから社会が荒廃するのだ、とか、まぁ、極端なことをおっしゃる方の例は掃いて捨てるほどある。

          教会あるある
          恵みを語る手段としての地獄とさばき

           二つのものを対比させて(それが妥当なものであっても)議論を単純化することはよくやる方法であるが、これは本来の関係性を見誤らせる。
           本来、3次元空間で議論すべきものを1次元空間に縮約してしまうものだからである。距離を測定するということは、実は3次元的な関係を距離という1次元空間に落とし込んでしまうこととよく似ているのだ。例を考えてみれば、鉄道で移動する時間距離を考えてみれば、関西から群馬県に行く例では、東京経由のほうが圧倒的に時間は短い(コストはかからるが)。あるいは、Vの字の上側の両端点間距離は、Vの字の形状に沿った線分の長さの総和よりはるかに短い。つまり、距離を測る軸を最短距離で定義することによって失ってしまった部分があるのだ。それと同じように、裁きと恵み(Grace)を対比させた議論に縮約してしまうことは、大きな問題を持っている。その具体的な例とをヤンシー先生はある人からの手紙を紹介しながら、お書きである。
          母親の葬儀でのクリスチャンの振る舞いに怒りを覚えた不可知論者の友人から、最近手紙をもらった。彼女は、「恐怖を利用して、イエスのもとに来なさい、と言って講壇から布教活動するグレース(皮肉にも恵みの意味)コミュニティ何とかという大きな教会の牧師について書いていた。そして、こう付け加えていた。『ベンチ席を乗り越えて逃げ出さなかったのは、ただ母の信仰を尊重していたからでした。」また、葬儀に参列していた幾人かにこう言われたという。「このお葬式に拠ってキリストを受け入れた人が一人でもいたら、お母さんの死に意味があったことになりますね。」(同書 pp.26-27)
           個人的にはミーちゃんはーちゃんは、同じような場面に遭遇したことがある。それも、自分の親族の葬儀で。まぁ、キリスト者の親族であっても、あまりにショッキングであって、その親族の死が汚されたような気がした。そのことに関しては、この記事 書評 八木谷涼子著 もっと教会を行きやすくする本(その3)最終回 で書いた。

           キリスト教的な意味論から言えば、福音宣教に成功したら何でもいい、というのはあるのだろうが、それはろくでもないことだと思う。ちょうど葬儀に関して知りあいのある牧師の方ががFacebookで書いていたら、案の定、そこにこんなコメントが付いていた。

          牧師は厳粛なご葬儀を伝道のチャンスと考えてはいけないと思う。
          牧師が伝道のチャンスであると公言して困っている。
          火葬場で、ハレルヤと大きな声で言い、拍手をしたので、隣の他の火葬をしている家族から、不機嫌そうな顔つきをされたのを、しっかり覚えています。

           クリスチャンの家族で意味を知っていても、これは嫌だろう。憐れみの心、旧約聖書でいうヘセド
          d,s,jがないにもほどがある。まぁ、内村先生も愛娘るつ子さんの御葬儀では、ハレルヤと言われたらしいから、まぁ、何ともいい難いところはあるが。拍手や万歳や死後のおどろおどろしい裁きを語る必然性はないだろう。
           
          クリスチャン、
          暴力的で非論理的な帝国を立上げる人
           しかしまぁ、その極めつきが以下の文中でヤンシー先輩が書いていることである。ある批評家の以下の表現は実に、キリスト者集団の一部のある側面を描いている。「クリスチャンとは非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人だと思っている。クリスチャンはすべての人々を改宗させたがり、同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせないことが多い

          いまや、人々は何よりもこだわらない事を大切にしている。そして、真理を知っているのは自分たちだけだと主張する宗教は、すべて疑いの目で見られている。そのことを、他者の振る舞いをさばいているというクリスチャンの評判とあわせて考えてみれば、反対意見が激化するのももっともだ。ある批評家が言ったように、「私のであったほとんどの人が、クリスチャンとは非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人だと思っている。クリスチャンはすべての人々を改宗させたがり、同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせないことが多い」。(同書p.28)
           確かにアメリカの一部のキリスト教関係者、そしてその影響をたっぷり受けた日本のキリスト教の関係者の一部に、「非常に保守的で自分たちの考えに凝り固まり、同性愛と妊娠中絶に反対する、暴力的で非論理的な帝国を立上げる人」と呼ぶにふさわしい人はいる。まぁ、同じ保守的でも、まだ、聖書理解において保守的ということまでは個人的には容認できるが、自分たちの生活文化に保守的であるが故に聖書理解をそれに合わせるかのごとき聖書の切り貼りをしてご提示されるようなご発言の皆さんもおられないわけではない。そうなると、「暴力的で非論理的な帝国を立上げる人」という称号を差し上げたくなるミーちゃんはーちゃんがいる。

           「クリスチャンはすべての人々を改宗させたがる」人は、時に福音宣教や福音伝道熱心な人として教会内で称賛され(何が福音かが抜けていることはないかという反省も時に入ると思うのだが、それが問われる、それを考えることはまれ)、「同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせない」のであれば、キリスト教国に移転するしかなくなるのだが、日本という特殊事情ではそれは無視されたまま、あたかもアメリカでは主流であり、世界で主流であるが故にそれは正しいという議論が無批判になされることが多い。(そもそもキリスト教が主流であるというのは、嘘である。世界の1/3はムスリムであることを忘れており、また残りの1/3は仏教を含むそれ以外の信仰形態であるし、この連載の冒頭でふれたようにキリスト教国では、すでにポストキリスト教世界に突入しているのである。そのことの証拠として、英国のEvangelical Alliance 福音同盟って感じの組織らしいが作った動画を紹介しておきます。Taka牧師のブログ記事での御紹介、ありがとうございました。)





           最後の極め付けがこれである。「同じ信仰を持たない人とは平和に暮らせない」。教会あるあるなのである。結構炎上をしかける体質のややこしい人はキリスト教会内に多い。ミーちゃんはーちゃんもその一人であることは素直に認めておこう。大体、このヤンシー先輩の本を紹介することも、基本的には炎上要因ではある。

           この前、ある宗教間対話の下働きで参加したときに、参加しておられた方が、プロテスタントって、いろいろあって何がよいのか分からない、というご質問を作業中に受けたのだが、そら御尤も、と思った。プロテスタントは、日本国内だけで少なく見ても、100以上のグループに分かれているのだから。それも同じキリストを一応は信じていると言いながら。大体、同じキリストを信じていると言いながら、それだけ分かれるということは、「同じキリストについての信仰を持っている人でも平和に暮らせない」ということでもあるのだ。それも、同じ、使徒信条、われ、公同の教会を信ず、と言いながら。


          一応、新聖歌にある使徒信条を上げておく。
          我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
          我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
          主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬ら れ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者と を審(さば)きたまわん。
          我は聖霊を信ず。
          聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
          アーメン
           尚、このあたりのことについては、山崎ランサムさんのこの記事 小文字のキリスト教 がめちゃよいので、お勧めしておく。

           まだまだ、この連載は続く





          評価:
          フィリップ・ヤンシー
          いのちのことば社
          ¥ 2,592
          (2015-11-05)
          コメント:大変よろしいか、と思います。

          2015.11.14 Saturday

          いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(5)

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             これまでの過去記事に引き続き、今日もフィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』からご紹介したい。

            宗教と善行のつながりへの懐疑
             イギリスでのある討論会のために行われた、2010年の宗教に関する23カ国の調査結果を受けて次のようにお書きである。
             以下は宗教は善行を促すことができるか?という問いに対する調査結果である。
             調査に協力した人々の52%が宗教は善よりも害をもたらすと判断していた。この調査では、このような反応の背後に何があるかという点は掘り下げていなかったが、例外があるにしても、キリスト教と共に歩んできた歴史のある国々、とくにヨーロッパ諸国において、善行を促す宗教への尊敬の念があまりにも低いことに注目せざるを得ない。対照的に、無心論者の指導者が全盛期に宗教を根絶やしにしようとしたにもかかわらず、ロシアでは宗教を重んじる人々の割合が高かった。またこの調査には、リバイバルを経験しているアフリカや南米諸国が入っていない。(『隠された恵み』 p.29)
            ここで、こういう文書があるとよくある誤用がある。おおむね半分の人が宗教は善より悪をもたらす、と過去の数字を独り歩きさせる方々がおられるのだ。その辺、ヤンシー先輩は、ちゃんと、これは全世界のすべての人を反映してないと、アフリカや南米諸国が不在であることを示しておられる。詳細なデータは、本書をお買い上げいただきぜひご検討願いたいが。

             ただ、この部分はどうも翻訳の精度があまり良くなく、非常に分かりにくい表現であった。原文を手に入れてないので何ともいい難いが、「調査に協力した人々の52%が宗教は善よりも害をもたらすと判断していた」と訳しているが、善行が問題にされた調査項目なのか、善そのものをもたらすか否かが、これこう訳すと分からなくなる。

             当初ミーちゃんはーちゃんは、善の問題って、それ以前の文章にみあたらなかったので、だいぶん探したが、どうも、52%の人が、宗教は善行をもたらさない、と回答していた。位の意味らしい。この部分の翻訳は、読んでいて混乱した。後は、p.30の表は、フォントだけがやたらと大きく、表が本文に比べて大きく、さらに言えば表のタイトル(何についての表であるのかを指し示す表記)がないので、読んでいて混乱した。この辺は改訂があるとして、ぜひご検討願いたい。

             今の教皇フランシスは、南米出身の教皇であるが、その発言は非常に印象深いものがある。おそらく、解放の神学の影響を相当受けているものと思うが、その解放の神学自体は南米という土壌で生まれた神学であり、貧しい人の中にイエスを訪ねる性質を強くもつものであり、その意味で善行と直接結び付きやすいが、その部分を除いてしまって本当にいいのか問題はあるかもしれない。

            対話が生まれない環境
             対話が生まれないのは、キリスト教側とリベラルと呼ばれる人々がそれぞれ自分の安全な砲兵陣地に立てこもり、そこから相手を砲撃している感じがあるように思うのだ。


            第2次世界大戦中の英国軍の野戦砲陣地
             読書会の仲間たちは、人権、教育、民主主義、社会的弱者への配慮といった大義を支持しているが、それらの大半はキリスト教から出てきたものだ。それなのに彼らは今、そうした大義に対する強力な脅威としてクリスチャンを見ている。(中略)この両方(読書会の側のリベラルな人々もクリスチャン側も)の立場の人々も互いから隔絶し、十分な対話やかかわり合いなしに他者をさばいている。(同書 pp.32-33)
             確かにリベラルな人々も、人間が失われるのがたまらなく耐えられないし、キリスト教とも基本的には、人が痛むこと、人が失われることは耐えがたいという面はあるのである。ただ、神の名が語られると、この人よりも神を大事にする人々が多くおられるので、このあたりが変わってきて、人の重みが異様に軽くなる場合がある。これは、キリスト教の内部でも同じように思うのだ。なぜならば、相手と話し合うのではなく、野戦砲ならまだしも、自分たちが極力傷つかないように戦略爆撃機やICBMで相手を攻撃するのに似て、相手の人格とは正対というか対面しない方法で相手を攻撃して終わりにしているのではないだろうか。


            相手から発見されにくいステルス技術満載のB2戦略爆撃機

             まぁ、情報収集は必要なので書かれたもの(つまり、誰かのバイアスやそれによる誤解が入った情報)を見ながら、相手を攻撃して、自分は正義を行ったような気になっていることはないだろうか。

             案外、相手に近づいてみると、その人となりや人格が見えることもあるので、あまり無茶なことができにくくなるというのはある。

             その意味で、アッシジのフランシスコがハンセン氏病者に近づいた時に、ハンセン氏病者に対する恐れがなくなったことや、様々な人々がイエスに近づいていったときに神への恐れが神への喜びに変わっていったことに似ているのかもしれない。恐怖を植え付けることで神に向かって近づけることをイエスはあまりされなかったように思うのである。恐怖を語ることで神に向かわせることは、かえって人を神から遠ざけるのかもしれない、と最近では思っている。

             最近読んでいるRacheal Hold Evansさんの本 Searching for Sunday(2015) p.82に次のような一節があった。お書きになった人の背景はよくわからないが。恐怖を語るで神に近づけようとすることは、人々を逆に神から遠ざけるように思いこませる場合があるのかもしれない例であると思う。紹介しておく。

            "I left church because I was taught from a very yound age that I was an abomination and should be put to death. I tried to kill myself twice as a teen because I felt God would not love and accept me as I was born." -Tim
            一応の日本語変換
             私が教会を去ったのは、私自身が呪われたもので、死ぬべきだと本当に小さいころから教えられていたからです。10代のころに二回自殺未遂したのですが、それは、生まれたままでは、私自身が神に愛されもせず、受け入れられもしないと感じたからなのです。Tim

             恐らく生まれたままではというのは、回心(悔い改めと、それに伴う心が温かくなるような経験)がないままだと、神に愛されもせず、受け入れられない、あなたには生まれ変わり、回心が必要だ、ということを必要以上に言われたのだろうと思う。 


            アッシジのフランシスコ

            炎上体質のネット社会の中での
            異なる意見の人への対応

             ネット社会では炎上しやすい傾向がある。ミーちゃんはーちゃんの友人には、炎上上等でいろいろなことをしておられる方もおられる。とはいえ、ネット上の議論を見ていると、批判といってもある方の発言を読む努力もなく、その背景を考えるべきでもなく、2次ソースにのみ依存した批判をされる方もある。特に炎上の場合は、こういう傾向が多いように思う。

             このような1次ソースに基づかない表面的な『批判』とよばれるものは、本質的な批判といわれるようなものではさらさらない。十分な調査もなく、言いがかりをつけているに過ぎない。非常に表面的なことでの批判で終わっていたり、他者が批判したその表現をもとに、さらに批判を広げていくという非常に不幸な構造があると思うのだ。

             本質的な批判というのは、よりよいものを目指いして自分の内から出てくる内発的なものであるはずであり、相互に尊敬を以てよりよくしていこうとする性質を持つものであり、他者の考えを切り捨てるものではないように思う。

             ヤンシー先輩が体験された炎上について、次のように書いておられる。
             故アンディ・ルーニーの引用を私のフェイスブックに張り付けたとき、この文化戦争の背後にある激しい感情に直面した。ルーニーはいった。妊娠中絶に反対することにした。殺人だと思うからだ。しかし、中絶反対派より、中絶賛成派の人々のほうがずっと好きだというジレンマを抱えている。夕食を共にするなら、賛成派の人々とがいい。」その発言に反応した人々のコメントで、サイトは軽く炎上した。(中略)
             こうした反応も、アンディ・ルーニーの主張を裏書きすることになった。私のサイトに火炎放射器のようなコメントを投稿した人々と夕食をともにしたいだろうか。私は答えた − そして、これが本書に繰り返し現れるテーマである − 重要なのは、私がある人に共感できるか否かではなく、自分とは意見の異なる人をどのように扱うかなのだ、と。(p.33)
             まぁ、炎上する人は何でも炎上するので、仕方がないのだが、しかし、「火炎放射器のようなコメント」ってのが面白いですなぁ。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは基本恬淡とした対応しかしないので、ネット上で炎上はしたことはあまりないが、時々、火炎放射器のようなコメントをくださるからもごくわずかにおられる。対話をしようと思ってこちらからご高説を伺いたい、とお願いしても、どこかのサイトでご高説を述べておられるのをお聞かせいただきたい、とお願いしても、そのご高説を述べられる方は極めて少ないのである。

             リアルでも火炎放射器のような攻撃というか、十字砲火のような言葉をくださる教会関係者の方もおられるが、基本言いっぱなしだったり、陰口のような対応だったりされるので、なんだかなぁ、と思っている。対話ではなく文句でしかないからである。まぁ、一応お聞きはするが。

             しかし、多くのアメリカのキリスト者(そして日本のキリスト者)における火炎放射器のような対応をされる方の聖書からは、震源の15章が抜けているかもしれないので、一応、口語訳聖書の箴言15章(旧約聖書の中にある)の冒頭部を転載しておく。
            【口語訳聖書】箴言
             15:1 柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。
             15:2 知恵ある者の舌は知識をわかち与え、愚かな者の口は愚かを吐き出す。
             15:3 主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。
             15:4 優しい舌は命の木である、乱暴な言葉は魂を傷つける。

             まぁ、自分と異なる意見の人にどう対応するか、ということをヤンシー先輩は議論の一つに挙げておられるが、これもまた、聖書の中にあるように思う。基本、あの旧約聖書の律法の中にも、EmbracementというかInclusionということは言わないまでも、サドカイ派であれ、パリサイ派であれ、その重要性を等しく認めるモーセ5書の中に、次のように書かれているのではないだろうか。
            【口語訳聖書】レビ記
             19:33 もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。
             19:34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

             確かにイエスは、サマリアとガリラヤの境で、サマリヤ人もガリラヤ人も区別なく重篤な皮膚病をいやしたことがルカ福音書17章に記載されている。また、ツロ・シドンで娘をいやしてくれるように願うカナン人の母の願いを聞いておられる。まさに上のレビ記のような現実をもたらす方として、この地を歩まれたようにも思うのだが、それはミーちゃんはーちゃんの勘違いかもしれない。

             個人的には、違う立場の人の話をきちんと受け止められて、はじめて意味があるとは思っている。

             まだまだ続く



             
            評価:
            フィリップ・ヤンシー
            いのちのことば社
            ¥ 2,592
            (2015-11-05)
            コメント:是非お読みいただきたい。

            評価:
            Rachel Held Evans
            Thomas Nelson Inc
            ¥ 1,554
            (2015-04-14)
            コメント:ガチの福音主義者だった著者が教会に違和感を抱き、なぜバイブルベルトで教会にけつまづく人が多いのかに関して書いた本。面白い。

            2015.11.16 Monday

            いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(6)

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              これまでの過去記事に引き続き、フィリップ・ヤンシー先輩の『隠された恵み』から引用しつつご紹介していきたい。

              人生への意味と愛されること
              人は自分の人生や自分が生きてきた記録を残したいものである。秦の始皇帝やエジプトのファラオのような人は、でっかい陵墓を作ることに根性を入れる。また、ある人は文学作品を残すことに根性を入れる。土木関係者は、比較的長期に利用される橋や道路、ダムを地表上に構築することで、そのプロジェクトにかかわれたことを無常の喜びとする面はある。
              そもそも、土木工事とか、建設工事とかは、一時的にせよ現場が存在するので、そこでの作業は、一定の時期にわたる多様な人からなるコミュニティが形成されることとなり、それはそれで面白いのである。
              少なくとも日本では墓碑銘に刻まれたり、自分の所有地を示す境界標識に名前を刻んだりという形で行われたり、銅像を作ったりということでこういう名前を残すということが割と行われている。それは、後世に自分の生きたことを伝え、自分の生きた意味を後世に伝えようとしているのではないか、と思う。
              人間には、本能的に探し求めているものが二つあると私は確信している。私たちは「意味」を求めている。自分の人生が周囲にとって重要である、と感じたいのだ。そして、コミュニティーも求めている。愛されていると感じたいのだ。(『隠された恵み』 p.40)
              誰しも、自分の人生が意味あるものであると思いたいのは、そうだろうと思う。もし人生が虚仮であり、一切が空であるのだとしたら、生きる意味はなくなるのである。これはクリスチャンの信仰でもそうであるように思う。

              N.T.ライトのSimply Chrisitanの副題はWhy Christianity Makes Senseなのである。人は意味のないことをすると発狂しそうになるが、意味があると思えば耐えられるのであり、現代のようにクリスチャンであることに価値をあまり置かない西洋脱近代(西側のヨーロッパの近代時代を過ぎた時代)において、クリスチャンが価値を持つとはどういうことか、ということを考えることは案外重要な気がする。

              ラッセルのこころの中の空洞
              無神論者で、批判的な精神で富むことで知られたモダン時代の最後の大英帝国の思想家あるいは哲学者というか警句家バートランド・ラッセルが神で探し求めていたことがあったとは知らなんだ。ラッセルの娘の証言(たぶん伝記的書籍)を引用しながら次のように書く。
               
              有名な無神論者バートランド・ラッセルの娘は、父親についてこう述べている。「父は一生涯、神を探し求めました…父の頭の片隅に、心の奥底に、魂の深いところには、かつて神によって満たされていたのだけれども、それを外の何かで埋めればよいのかわからない空洞がありました。」(中略)いったい何がこの哲学者を信仰から引き離したのか。
              ラッセルの娘は一つの理由に触れている「(中略)人生から喜びを吸い取り、反対者を迫害する盲信的なクリスチャンや冷淡なモラリストを、父は嫌というほど見てきました。彼らが隠していた真理を、父は見ることができなかったのです。」(同書 p.41)
              この部分を読みながら、『人生から喜びを吸い取り、反対者を迫害する盲信的なクリスチャン』とバートランド・ラッセルの娘さんは書いておられるが、まぁ、こういう方は大英帝国や日本のキリスト教信徒の中に皆無か、と言われたらそうではないことは認知しているが、そうではないキリスト者もいることはそれと同時に確かだと思う。ただ、少数の例外的存在(例外的存在であると期待したいが)に前回記事で紹介したような火炎放射器のような炎上コメントをするキリスト者にやいのやいの粘着質的にやられたら、同じキリスト者であっても、いや、同じキリスト者であるがゆえにかなり食傷する。



              1938年頃のラッセル Wikipediaさんから

              自分たちが信仰を持っており、聖書を読んでいるがゆえに自分たちが正しい、正しいことを知っていると思い込み、他者に正しいことと自分が思い込んでいることを強要し、挙句の果てに他者から喜びを吸い取り、そして、自分に反対するならまだしも、反対ではなく、自分の主張に同意しないものを排除し、迫害する盲信的なキリスト者という存在は、確かに耐えがたい。

              こういう対応することで、本来、魅力あるものである福音や、福音そのものが持つその魅力が消し去れらてしまう、ひかりを失ってしまう(Vanished 本書の原文タイトル)ようにも思う。本書は、隠された恵みと日本語タイトルがついているが、英文タイトルのVanishedは、ラッセルの娘さんが使ったvanished という語が使われたのではないか、と思う。

              非キリスト者には分かりにくい表現である『証になる(福音やナザレのイエスが世の中の人に知られるきっかけになる位の意味)』という語があるが、キリストを一生懸命示そう、『証しよう』と思って『正しいこと』と思ってやっていること(他者を批判し、おかしいと言い募ることや炎上するような言辞を弄すること)が、かえってキリストの福音を隠しているのではないか、ということが、ここでフィリップ・ヤンシー先輩が言いたいことのように思われる。

              神から人々を引き離す教会

              それを実証するように、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
              悲しい事に、私の知る多くの求道者が、バートランド・ラッセルと同じように、教会の中に、コミュニティーの本来の意味も問題解決方法も見出すことができなかった、と語っている。教会はその様な人々を、神に向かわせるどころか引き離している。教会は退屈で、堅苦しいことだらけの閉鎖された場所で、教義は排他的に聞こえる。(同書 pp.41-42)
              教会が信仰共同体、イエスを神とする共同体であると主張しているにもかかわらず、ああしろ、こうしろ、こうでなければならない、立派でなければならない、立派であるようにならねばならない、と主張されれば、それについていけなくなる人も出てくる。教会が家であると主張しながら、マスクをかぶり、いい子であることを求められるとしたら、あるいは、安心して、自分自身の思いを言える場所でなければ、それは家ではなくて、針の筵になるのではないだろうか。

              たしかに、「神に向かわせるどころか引き離している」と言われても仕方のない教会もあるだろう。神から引き離している本人たちは、神に向かわせようとして、結果が神から引き離しているということになってしまっているところが実にかなわない。


              閉鎖社会としてのキリスト教会
              さらにヤンシー先輩は、ある人のことばを引用しながらキリスト教界は閉鎖社会化、秘密結社のようなところであるといっている。
              また、別の知人は、クリスチャンは「この世VS自分たち」という考えを助長させていると激烈に批判した。クリスチャンは、人生のいろいろな問題に対する唯一の正解を持っていると自負し、傲慢で人を見くだしているように見えるのだ。彼女の眼に映る教会は会員制のクラブ、しかも会員になりそうな人しか重視しないクラブだという。「人々を改宗の『ターゲット』とみているなら、誠実な人間関係を台無しにしていると思います。」(p.42)
              この部分を見ながら、特に重要かなぁ、と思ったのは、「彼女の眼に映る教会は会員制のクラブ、しかも会員になりそうな人しか重視しないクラブだ」という部分である。なかでも、会員になりそうな人しか重視しない、というのは案外あると思う。キリスト教会に異形の人物が入ってきたり、ある面、異性装とわかる人々や、麻薬中毒患者という印象を与える人々が入ってくると、それだけで教会の中がわわさわと動揺することがあるのではないだろうか。もちろん、安全性の確保の問題、というのはあるかもしれない。

              この前のAll Saint Dayにご訪問したある英語でサービスがあった教会で、様々な聖人(列聖されたり、守護聖人とされたりした過去のキリスト教徒)とされる人々で、とりわけ奇妙の人々が紹介されていたが、ある聖人は意図的に奇妙な格好をして教会に入ってきて、みんなから嫌われていたもののその裏では、病人を訪ね、貧しい人々に分け与えていた、という話があったが、まずもってこの列聖されたような聖人は、以下の動画で示すような、現代の会員制クラブのような教会の入り口にいるBouncer見たいな人に、入れなくされてしまうのだろう。


              United Church of ChristのCMの動画 クラブのような教会をうまく表している。

              正直な批判と愛
              伝道することが目的になっている教会の場合がある。特に米国でのリバイバル運動、とりわけ大覚醒運動を経た後の教会では、もともと信徒であろうが何であろうが、主に野外や野球場やスタディアムで開かれたリバイバル大会(反知性主義で紹介されているような)に寄せ集め、手を挙げて回心した人の数で成功、非成功を判断するような性格の強い教会や運動体では、回心者として手を上げさせるための「伝道」がメインになる傾向があるように思う。本当にキリストと出会うのではなく、キリストに出会っている人をさらに「回心」させることに意味が出てきてしまうのは、なんかプロテスタントでありながら、はい、告解したい人、って手を上げさせるようなことと似ているような気がするのは私だけであろうか。(個人的な趣味を言わせてもらえば、最近本人作が米国で疑われているようなブログ記事まで出たグ▽ハ△2世(爺さん 今回の本が33冊目の本だそうだ)もどうかと思うし、それを担いでいるグ▽ハ△3世君もどうかと思う。)

              「わからないことがまだたくさんあります。でも、正直な批判は大切だと思います…。私は愛をもって批判するのがどういうことか、探っているところです。」彼女はそう語りながら、図らずも、伝道しようとするクリスチャンにとって最も重要な問題を指摘していたのかもしれない。それは、私たちはいつでも愛をもって伝道しているわけではない、という問題だ。信仰を恵み豊かなやり方で伝えようとするとき、その出発点に欠かすことのできないものが愛である。(同書 pp.42-43)


              この部分を読みながら思ったことは、「私たちはいつでも愛をもって伝道しているわけではない、という問題だ」というヤンシー先輩のご指摘である。牧師がメッセージの中で、「伝道しなければならない。それが教会の意味だ」という説教を聞けば、ミーちゃんはーちゃんやRacheal Hold Evansのように「それ、マジすか?」とかいわない人が大半だと、「あぁ、そうか、伝道することは大事なんだなぁ、伝道というのは、教会の中心的な課題なんだ」と素直に思い、以下の動画(Jesus Campから)のように、だれでもいいから、問答無用で縁もゆかりも人間関係もなく伝道しまくりのちっちゃなエバンジェリストをつくりだしてしまうように思うのだ。


              Jesus Campからボウリング場で伝道する少女

               果たしてこういうような関係も何もない人々に人間関係もないまま、一方的に信仰を伝えることとしては望ましいことなのか、と思うのだ。たしかに、伝道することは、キリスト者としての使命であるとは思っている。それは、イエスが言ったことの中の一つではある。しかし、聞く気もない人に、耳を引っ張りながら伝道せよ、とか、聞く気のない人にもラウドスピーカ―で伝道せよ、とか、受け取る気のない人の手を開いて、ほれ、これを受け取れとばかり、その人が持ちきれないばかりのものを渡すことをイエスは望んであるのだろうか。イエスは、次のように言われたのではなかったか。「聞く耳のあるものは聞きなさい」と。

               ところが、キリスト看板の皆さんみたいに、聞く気のない人々にラウドスピーカ―の大音声で、「やぁやぁ、我こそはイエスキリストの僕なり、我こそに真理あり」と源平合戦の富士川の騎馬武者対決のように呼ばわれとは、言っておられないように思うのだが。

               その意味で、現代の日本のキリスト教は、もう少し一方的に人々に絨毯爆撃のような形で呼びかける伝道や何でもいいから伝道するという方法以外の方法、人間関係に基づく方法を考えた方がよいのかもしれない。


               まだまだ続く

               
              評価:
              フィリップ・ヤンシー
              いのちのことば社
              ¥ 2,592
              (2015-11-05)
              コメント:絶賛お勧めしております。

              2015.11.18 Wednesday

              いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(7)

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                今日もヤンシー先輩のご著書(翻訳版)からご紹介し、拝読しながら、思ったことを本歌取りして遊んでみたい。

                クリスチャンに対する4つの不満あるある
                クリスチャン・トゥディ(アメリカでの英語名はさすがに苦情を言われたようであるが、Christian Postに変わっている)という名の日本の紛らわしい名を持つインターネット・クリスチャンメディアではなく、クリスチャニティ・トゥデー(Christianity Today)での調査を引用しながら、ヤンシー先輩は、次のようにお書きである。


                先にあったキリスト教雑誌 クリスチャニティ・トゥデイ
                クリスチャニティ・トゥデイのN.T.ライト 特集号 
                (以下の引用部分は同号にはない模様)
                 
                『クリスチャニティ・トゥデイ』誌の中で、クリスチャンにしばしば向けられる4つの不満を見つけた時、このこと(イエスが他人を愛せと言ったときに他人の見方を真摯に考えなさいという意味が含まれている可能性)をが頭をよぎった。
                • クリスチャンは話を聞かない。
                • クリスチャンは裁く
                • クリスチャンの信仰は人を混乱させる
                • クリスチャンは物事を正すのではなく、間違っていることについて語る。
                これらの不満を顧みて、クリスチャンは人間関係の基本的な部分を無視しているがために、他者とのコミュニケーションに失敗しているのではないかと思った。偉そうに人をさばいたり、行動の伴わない高尚な言葉を語ったり、相手の話を聞く前に一方的にしゃべったりするとき、愛することに失敗している。そして、乾いている世界をいけるいのちの水から遠ざけている。神の恵みという良き知らせが、聞かれないままになる。(『隠された恵み』 pp. 44-45)
                うーん、ヤンシー先生耳が痛いです。「クリスチャンは人間関係の基本的な部分を無視しているがために、他者とのコミュニケーションに失敗している」ですか。反論しにくいです。はい。

                確かに伝統的に採用されていた伝道方法であるイケイケどんどん型(促成栽培型、単発イベント依存型)伝道方法で、伝道する場合、どうしても、コミュニケーションしようとする習慣はないかもしれません。近代における均質社会に近い状態を前提とした社会の中でのコミュニケーションの方法論として、印刷物の配布やイベントによる伝道方法を中心とした方法論の有効性、つまり、マスコミ型メディアのみに依存した伝道方法の有効性という傾向はあったかもしれない。

                なお、この種のマスコミ型メディアに依存した伝道方法は、『目覚めよ』というフリーペーパーで有名な某キリスト教風の団体とか、立正佼成会とかはこれらを配布することで伝道ができたし、それが有効であった時期は確かにあった。

                それは、ある面、印刷物が希少であり、意味のある資源であったし、貴重なメディアであったという背景によるのだと思う。しかし、これだけ、フリーペーパーやら、雑誌やら、ネットが普及し多様化した情報伝達メディアた社会の中で、無料印刷物の効果というのは、かなり限定的になりつつあるように思われる。

                続いて、「クリスチャンは物事を正すのではなく、間違っていることについて語る」という表現の意味は、原著を見てないので何とも言いかねるが、「クリスチャンは(自分たちに関する)物事を正すのではなく、他者に関して、クリスチャンの視点から間違いだと思うことを正す」くらいの意味ではないかと思う。そして、挙句の果てに、「自分たちは神の民だから間違うことがない」と言い張るのであれば、目も当てられない。

                クリスチャンは話を聞かない」という表現は「クリスチャンは一方的に話すばかりで、他者から学ぼうとする気もなければ、素直に話を聞く気がない」という意味であろうし、「クリスチャンの信仰は人を混乱させる」は、「クリスチャンの『信仰』と称するもの聖書の主張には似ているけれども、そうでないものを語るので、混乱させる」という意味かもしれない。

                クリスチャンは裁く」というのは、一番たちが悪いと思う。誰があなた方を私たちの裁きつかさや調停者に任じたのか、とイエスはそういう立場に立つのをかなり積極的に避けたのに、「我ら神と共に在り」と「神は我らと共に在り」のパロディにもつかないことを言う方もおられる。我らが先にあるのではなくて、神が、この不甲斐ない人間どもと共に歩まれていただいているということが抜け落ちている方とも時にであう。かなわないなぁ、と思う。

                先日も福音主義神学会西部部会に行ったのであるがその基調講演中、神戸の改革派神学校の吉田校長という方が、「魂の医師」としての司牧の役割をお話であったが、「病人どもを癒してやろう」という立場で接するのではなく、イザヤ預言で言われた「苦しみと病をともに担うイエス」に従うものとして、魂に触らせてもらうという虞をもって対応することの重要性を解いておられたが、これまでは、「オレたち、神の民だから俺たち健康、お前たち不健康」と言ったような態度の方もお会いしたことはあるが、そのような態度については、個人的に遺憾であると思う。何より、この発言が改革派神学校の校長先生の口から出てきたのには驚いた。それは、神学ALG「少子高齢化を神学する」でも、この吉田先生からのご発題では、通奏低音が流れていたので、あぁ、やはり、とは思ったが。

                人間の議論の勝ち負けを気にしてはいない神

                これもまた、福音主義神学会西部部会で改革派神学校の吉田校長が言われていたこととつながるが、キリスト教史の中で、とりわけプロテスタント系以降に生まれたキリスト教理解では弁証学とか弁証論を大事にしてきた。つまり、自分の正統性を言葉で示すことがある面重要視してきた部分があり、そのため議論の勝ち負けが、信仰理解の正当性の保証と深く関係してきた部分があった。それ故に、議論に勝つことが最重要課題であった時代もあった。それが、表面化したのがScopes裁判と呼ばれる学校において進化論を教えてよいのかどうだか問題を話題にしたまるで茶番劇のような裁判である。
                そのような勝ち負けを争う信仰のスタイルについて、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
                私たちが議論にどれだけ勝利しているかなど、神は記録されて居られないだろう。実際神が記録しているのは、私たちがどれほど多くを愛しているか、かもしれない。クリスチャンという言葉を聞いて、どんな言葉が思い浮かびますか」という質問に、「愛」という言葉が返ってきたことは一度もなかった。それでも愛が、間違いなく聖書に書かれている正しい答えなのだ。(同書 p.45)
                日本でも結婚式を非キリスト教徒でも教会ないし教会もどきでしてもらいたがるほど、キリスト教界は愛や平和を象徴する記号(シニフィアン)である。それは以下の結婚式及び葬儀場運営会社のCMに良く表れている。


                BellcoのCF

                しかし、その教会が指し示しているはずのシニフェとしての「愛」を教会の中にいる人々のイメージとして真っ先に上がってこないという米国の状況と、もちろん日本の状況は違うだろうが、一体現代の日本ではどうなんだろうか。もし米国と同様であり、日本人のクリスチャンイメージに愛がほとんどないとしたら、愛がキリスト者のシニフェでないとしたら、内容(クリスチャン)と外側(愛を示す教会という建物)に違いがあるということでなり、看板に偽り…とならないだろうか。その辺の事は、少し考えた方がいいかもしれない。だからこそ、中身には「愛」が期待されていない以上、外側だけあればいい、ということにもなりかねず、結婚式場運営会社の経営するなんちゃってキリスト教会での愛が誓われても、我らは口をつぐむしかあるまい。

                愛は「マザー・テレサ」や「マキシミリアノ・コルベ」司祭の専売特許なのだろうか。もちろんこれらの方は愛にあふれていたであろう。それは尊いことではある。我らは、それらのキリスト者の代表的な方に目を向けさせるだけで、いいのだろうか、ということを、今のところ考えている。ただ、基本的にこういうマザー・テレサやアッシジのフランシス、クラスの徳性が大きく欠落しているミーちゃんはーちゃんがこういう人のまねをすることは、ウサイン・ボルトをまねて、100mを競技場で走るようなものなので、無理だとは思っており、ミーちゃんはーちゃんらしい方法で、ミーちゃんはーちゃんに内住しておられるはずのキリストの愛を示す方法というのはないものか、とは常々思ってはいる。

                ちなみに、キリスト教と愛との関係で日本で一番有名な人物の一人であるバレンタインはカトリック教会からは列聖されなくなったが、日本のお菓子メーカーの一部からは、列聖されているように思える。

                先にあるべき人間関係
                生まれつき個人的に友達を作りやすい人というのがおられる。個人的にはうらやましくも思うが、それはミーちゃんはーちゃんにはそういうのはない。まぁ、興味を持った人には突進していく猪武者のようなところはあるが(ご迷惑をおかけしております。お付き合いいただいている方には心からの感謝と御礼申し上げます)、ちょっとした面識があると割と素直に短時間で親しい関係に入れる人はおられる。ないものはないのだから、しょうがない。伝道向きに創造されていないということなのだろう、と思っている。

                余談はさておき、人間関係がない環境での伝道は、路傍伝道とか、要するに大衆動員型のリバイバル大会とか、伝道大会とか、そういう形で実施されているように思っている。それは伝統的に生まれてきた伝道方法なので、しょうがないかなぁ、と思っている。前回の記事の最後で、紹介したJesus Campのワンシーンにあった、あの10歳前後の少女のように、身も知らぬ関係のない人に(ある種の)義務感だけで、伝道していくというスタイルのように思えた。あるいは、大人や他人からの評価を背景とした伝道であるように思った。まさに人間関係を気付くことなしに、その人への愛や思いもへったくれもなしに、まさに藪から棒に伝道するような方法である。そういうのは、実は不適切なのではないか、とこれまたTim Keller先輩からの引用をしながら、ヤンシー先輩は次のように書く。
                人が変えられるということの多くは、友情の結果として生じるものだ。費用を投じ、よく練り上げられた伝道計画や教会成長計画がもたらした成果も、友情の結実の一部にすぎない。ティモシー・ケラーは言う。「伝道を条件とした友情など考えてはいけない。友情を条件にして考えるのだ。あなたの伝道は、作り物ではなく自然なものであるべきだ。多くの問題点を箇条書きにし、顧客を獲得しようとしているマーケティングの担当者がするというような会話の始め方は不適切だ。」(同書 pp.47-48)
                まぁ、ミーちゃんはーちゃんは学生相手に今年からマーケティング関連の科目の講義も担当しているので、マーケティング部門のテクニックはある程度は承知しているが、基本、人々の購買意欲を増す方法の一つにどうしようもないことや、ほとんど起きないかもしれないことに対する恐怖をあおるマーケティングというのがある。例えば、しわがあるとみっともないとか、髪の毛が残念な状態であるとみっともないとか、という見栄えの問題で恐怖をあおってみたり、みんながそう思っているのに、それをしていないことは時代遅れである、と主張することで行動変容を起こし、顧客を獲得するなどということは、マーケティングでは当たり前の世界だし、現代の米国や日本では、ごく当たり前に行われている。

                そして、テレビではそういうマーケティングの方法論に乗ったCMで、これでもかこれでもかと商品が紹介され、我々はそれにならされているのかもしれない。

                その結果、地獄に行くかもしれないという問題点、不幸になるかもしれない問題点、と問題点を列挙するような伝道方法をとる人々もおられる。ただ、それはどうなんでしょうねぇ、ということをTim Keller先生はおっしゃっておられるようである。


                信徒獲得、伝道の対象、個性のないサカナ(それはおサカナさんに対しても失礼かもしれないが)のような形で人を見るところはあると思う。果たしてそれでいいのだろうか。戦闘機パイロットが撃墜マークを戦闘機の機体に描くように、伝道して信者にした人数を誇り、それを評価の対象にするような伝道の在り様は本当に適切なんだろうか、と思う。


                第2次世界大戦中の戦闘機パイロットと撃墜機数を示すマーク

                今読んでいるRacheal Held Evansの本”Searching for Sunday”の71から72ページに、一生懸命奉仕をし、巨大教会(メガチャーチ)のリーダーシップの階段をのぼりつめようとしたカウンセラーの女性信徒の話が出てくる。彼女は、その教会の階段を上り詰めることはやめて、キリストの貧しさと謙譲に触発された彼女いわく『下方への移動』 をしていくことに取り換えたことが書かれていた。そして、様々な問題を抱えた人々が集まり、ごたまぜに交流していく中にかかわっている組織の紹介があったあと、この組織にかかわっている女性が、自身完璧主義者で管理マニアであることから、この組織にかかわることにより、様々な人と出会う中でゆっくりとした回復途上であるが、この問題を抱えた教会というか組織自身、不安定なもので、ドラマに満ち溢れたものであり、Seeker Sensitive Model(恐らくであるが、人気のあるメガチャーチの牧師のオッカケをする人たちに乗っていくモデル)ではないことを言ったという。その彼女が言ったとされる言葉が痛烈である。”most people don't go to chuch to get annoyed” (誰も教会にいらいらする経験をさせられるためにはいかない。)

                確かに『罪』の問題は重要である。しかし、『罪人だ、それを認めよ』と責められるように言われるのと、『あなた自身が感じておられる言い知れぬ空虚感を埋められるものがあると聖書が言っているかもしれないですがねぇ』と言われるのではだいぶん違うのではないか、とは思うのだ。この二つ『罪人だ、それを認めよ』と『何か言い知れぬ空虚感をお持ちなのではないですかねぇ』というのとは基本的に同じなのではないか、と思っている。それは、ミーちゃんはーちゃんの勘違いかもしれませんが。

                まだまだ続く。







                 
                評価:
                フィリップ・ヤンシー
                いのちのことば社
                ¥ 2,592
                (2015-11-05)
                コメント:絶賛お勧め中である

                2015.11.21 Saturday

                いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(8)

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                    今回もヤンシー先輩の書籍『隠された恵み』の中から紹介しながら、ちょっこし考えた事を述べてみたい。

                  他者を愛することと神の似姿を見ること
                   まずユダヤ人の指導者のことばを引用しながら、少し考えたことを考えてみたい。他者を愛することは、新約聖書、旧約聖書共通する理解である。あなた方の隣人を愛せ、というのは旧約聖書や新約聖書にあるのだが、あなたの民族を超えて愛せ、という記載があることをご存知の方はどの程度であろうか。近時のテロ事件などを考えるに、すぐ爆撃というあたりが頭が痛い。

                   レビ記19章部分を受けてかどうかかわからないが、正統派ユダヤ教会(Orthodox Synagogueのことだろうと思われる) で有名な指導者の発言を紹介しながら、聖書理解の根幹にかかわることをヤンシー先輩はお書きである。
                   
                  イギリスの正統派ユダヤ教会の著名なリーダー、ジョナサン・サックスによると、「ヘブル語聖書(旧約聖書)の1節は『隣人を自分のように愛しなさい』と命じていますが、『他人を愛しなさい』と命じている個所は、少なくとも36あります。宗教としての最大の挑戦とは、私たちの似姿を持たない人の中に神の似姿を見ることです」。(『隠された恵み』 p.49)
                   つまり、他者を自分のように愛する背景には、全ての人が、神の似姿に創られているというところにあるということをなんちゃってユダヤ教徒ではない、正統的ユダヤ会堂に属されておられるラビのジョナサン・サックスさんも、ヤンシー先輩も指摘しているのではないか、と思った。


                  Jonathan Sacksさん

                  神の似姿(かたち)と私たちの似姿
                   この神のかたちや神の似姿に関連して、ある学校の先生が、学校は学習のための組織であり、学校に人格形成の外注まで持ち込むな、というブログ記事を、ある方がTwitter上でご紹介されていたのを受けて、教会論の話に発展することになった。

                  M編集長
                  「学級崩壊した後の学級担任」 ⇒
                             
                  (ミーちゃんはーちゃん)
                  痛いけど、大事なことだと思う。 近代がもたらした学校という制度が、人間形成を外注させたと考えると実につらい。 そして、人間が人間でなくなっていく工場を作っていると思うと。 教会もそうかもしれない。
                             
                  (KMNさん)
                  なんとなく、わかるなあ。それと、人間を人間らしくするのが、教会であるはず。
                             
                  (ミーちゃんはーちゃん)
                  ほんとうに、そうなんですよ。人間を本来の神と共に生きる民として整えるところが教会で、それを毎週体験しつつ覚えるところが聖餐(礼拝)のはずなのに、伝道し、説得するため道具に人をするような教会を教会と自称しておられるところもあるので。
                             

                  (KMNさん)
                  ライトを読んでいるわりに、ライト的ではないですね。福音は人間を神の形へと新創造し、人間を「神のかたち」すなわちもっとも人間らしくするのです。そのための場が教会。

                             

                  (ミーちゃんはーちゃん)
                  いや、個人としては、ライト先輩に賛成なんですが、そうでないような教会が案外多くて、残念。また、ライト先輩をお読みでない方も、その意見に反対の方もおられて、そういう方々とお話したり、そういう教会と出会う度に、頭が…になりそうで。

                   ここで、ジョナサン・サックスさんのご主張の、「私たちの似姿を持たない人の中に神の似姿を見ることです」という表現は、極めて大事だと思う。基本的にこれが旧約聖書、新約聖書全体を通して我々に神が示そうとしておられることではないか、と思うのだ。

                   聖書の基本的なご主張としては、ある人(クリスチャン)のみが神に創造されて、イスラム教徒や仏教徒、無神論者やリベラルの徒や輩は神に創造されていなかった、などということは主張してないと思うのだ。ミーちゃんはーちゃんは聖書の一部を読み飛ばしている可能性があるので、クリスチャンのみが神に創造されたものであるというような記述があれば諸賢の方々から、ぜひご教示賜りたい。意見を変えることにミーちゃんはーちゃんは、やぶさかではない。

                   

                   余談はさておき、KMNさんのご意見とジョナサン・サックスさんの主張をミックスし、多少加筆するすれば、
                   

                   「(鼻で息するものであり、神ではなく罪がある、あるいは満たしがたい欠落部分がある)私たちの似姿を持たない人の中に『神のかたち』を見出し、そして、ともに神にあるものとして、神の似姿、神のかたちとなるべく、神と共に生きるようになれたらいいなぁ」ということを素朴に思う、ということではないか、と思うのだ。
                   

                   それなのに、あぁ、それなのに、自分とちょっと違う考えを持っていると、この人は自分の似姿(それが人間としての思想や信仰、聖書理解の同質性ではなく、神の似姿にいつの間にか変換される これが怖い)をもってないから、教会に来てもらったら困る、とか、神から聖絶指定と指示があるとか(そんなことは神は理由なく、めったに言わないように思う)、ディスりまくっていいとか、炎上させて苦ませればいいとか、悪口言って困らせればいいとか、怪文書をあちこちに送りつけて、その後始末をさせればいいとか(東海地区重のH先生、心からご同情申し上げます)、まぁ、すごいことが起きるのがキリスト教会のようである。

                   まぁ、リーダーシップのダークサイドではないが、クリスチャンには、ダークサイドがある。それが、「神のかたち」であるべき人間が「神のかたち」そのものになりえない理由である。

                   以前にお伺いしたキリスト教会や、過去にお会いした経験があるキリスト教の信徒の方に、教会や信徒はご自分を含め、音声言語で語って伝道する兵隊や道具のようにしか見ておられないような発言をされる教会やそういう教会の信者の方がおられる。よもや牧師先生や神学校の先生方ががそういうことはおっしゃらないだろうと思っていたら、この前のある所で、ある神学校の先生が、信徒や教会は伝道の道具と誤解する人が出ても、仕方がないかな的な趣旨のご発言(前後のコンテキストをガン無視してその発言を聞いた場合、どうしてもそう聞こえてしまう)があって、ちょっと唖然とした記憶がある。

                   勇気を出してずいぶん前にご投稿いただいたCaledonia様のご投稿を受けての記事 あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。 でもご紹介しているが、ある一部のクリスチャンには、自分の似姿(自分と同じ聖書理解をもつ人物)でないと、「切って捨つるに何がある」よろしく「それはリベラルの考え方だ」といって批判されたご母堂様がおられた(おられる)ようである。

                   まぁ、ミーちゃんはーちゃんのFacebookにも、そのような形で「N.T.ライトはおかしい」とか、「N.T.ライトの終末論はおかしい」、とか、「間違っている」とコメントを下さる方がおられる。確かに、そういう記述のあるサイトもないわけではない。その時の「おかしい」とか「間違っている」は個人的には、「その方の聖書理解とは一致しない」という意味であるように思う。そう思うことにしている。
                   

                   まぁ、そういう方のご批判がN.T.ライトの原典(英文)をお読みいただいてのご批判なら、いいのであるが、日本語の翻訳書も読まず(2冊くらいしかない)、どこかに書いてある内容をそのまま引きうつして、コメントして下さる方もおられる。個人的には、かなり残念だと思う。
                   

                   個人的に、「おかしい」とか、「間違っている」と思うならば、N.T.ライト先輩がアリスター・マクグラス先輩にしたように、英文で正々堂々と反論を出版社を介してなり、セント・アンドリュース大学を通してなりの方法で、ご本人や出版社に英文でお手紙するなり、面談を申し込んで、直接お話しになるべきであり、ミーちゃんはーちゃん風情にコメントするべきではないのである。
                   

                   ミーちゃんはーちゃんが書いたことで間違いがあったり問題であるとお感じであるなら、それは受けて立ち申す。もし、間違っている、不適切である、と思ったら、本ブログの当初の運営方針通り、訂正いたす所存である。コメントいただけたら、コメントには、コメントでお返しするなり、記事にするなりして基本お返ししているところである。本文と無縁と判断いたした内容は、迷惑コメントとしているところである。
                   

                   ところで、神の似姿は被造物たるすべての人にあるのでは、というお立場でお取組になられたマザー・テレサや西成で働いておられる本田哲郎司祭あるいは、それと行動を共にされた枚方パーク付近の教会におられる司祭のお話をお聞きすると、この神のかたちを見出すということにいかにミーちゃんはーちゃんが不完全かと思わされることが多い。つい、伝道の対象、説教すべき対象と認識してしまい、愛すべき神のかたちを見損なうことが多いは事実である。それは正直に認める。まず、「伝道せねばならない」という思いが浮かんだときには、個人的に「まず、そこかい」と自分で突っ込むようにしている。
                   

                  クリスチャンであることもやめたくなる人も
                   あんなクリスチャンと一緒にされたくない、ということで、教会を離れる人もいるだろうし、極端な場合には、クリスチャンであることもやめてしまう人がいるのである。

                   クリスチャンは、それと反対の行動をとることが多い。自分たちに敵対する人々のことを「世俗的ヒューマニスト」、異端者、背教者と決めつけて悪魔のように見なし、こころの要塞に引きこもる人もいる。数年前の自身の回心について小説家アン・ライスは率直にこう語っている。「私はクリスチャンでいることをやめました…キリストは信じていますが、『クリスチャン』でいることや、キリスト教の一員であることはやめたのです。この喧嘩腰で、敵対心が強く、議論好きで、評判が悪くて当然の集団に属していることに、耐えられなかったのです。」同性愛の人々に対する敵意が、この決断に至った理由であると彼女は語った。(pp.49-50)



                  Anne Riceさん

                   調べてみたら、このAnne Riceさん、女子が好きそうなバンパイア物も書いているし、魔女物も書いているし、なんか官能小説もお書きの模様である。こういう書籍類に興味は全くないので、詳細な内容はよくわからないが、まぁ、こういう書籍を公刊する人にとっては、キリスト教会は居心地はよくないだろう。だって、教会で、「いやぁ、バンパイア物書いてます」「魔女物を書いています」「官能小説を書いています」とか正々堂々と言ったら、「何考えとうねん」と突っ込みの一つや二つ、あるいは、集中砲火を浴びるだろう。アメリカだと生卵とかRotten Tomato(映画やビデオの評価雑誌ではなく、もともと腐ったトマト)が地域によっては投げられることもあり得る。

                   ライスさんは、「この喧嘩腰で、敵対心が強く、議論好きで、評判が悪くて当然の集団に属していることに、耐えられない」とお書きであったが、それはそうだろうなぁ、と思う。内部にいて批判を受けない分には、耐えられないということはないにせよ、いったん批判を帯びたら、かなりねちねちと、それも正々堂々とではなく姑息な手段で批判を受ける状態が、米国でも日本でも待ちうけているからである。まぁ、それに関しては、 Ted Haggardを受け入れることができるだろうか? でも触れたところではある。

                   なお、このRiceさん、最近ではどうした風の吹きまわしか、イエス伝をお書きのようである。日本では発売されていないようだけど。

                   実は、いま読んでいるSearching for Sundayの著者Racheal Held Evansは、同性愛者ではないが、同性愛者の友人がおり、その人のことを考えると、教会の前庭に掲げてあった、同性婚を認めないテネシー州法(南部バイブルベルトで、スコープス裁判という進化論を公教育で教える問題の当否を扱った裁判がおこなわれるなど、かなりガチな保守的な方がおられる州の法律)の制定に賛成すべし(住民提案1号だったらしい)という立て看板が教会にデカデカとおいてあることにショックを受けて、もともといた教会に行かなくなり、もともといたその教会から去った人であるが、まぁ、それまで集っていた教会から彼女が教会を去ったら、あらぬうわさを流された話が出てくる。以下で紹介する。

                   まず、教会を去った時に何が起きたかというと、以下のようなことを直接言われたらしい。
                   神の道は我々よりいと高きものであって、我々は疑問を持つのをやめ、神に信頼すべきだ。
                   あなたの生き方の中にある罪がつまずかせているのではないか。悔い改めれば疑いは消えるだろう。
                   聖書以外のものを読むのをやめるべきである。あなたの読んでいる本があなたを迷わせている。
                   私の教会に来るべきだ。
                   ご自分のプライドをチェックし、神に従うべきではないか。

                  "God's way are higher than our ways. You need to stop asking questions and just trust him."
                  "There must  be some sin in your life causing you to stumble. If you repent, your doubts will go away."
                  "You need to avoid reading anything beside the Bible. Those books of your life are leading you astray."
                  "You should come to my church."
                  "You should listen to Tim Keller."
                  "You need to check your pride, Rachael, and submit yourself to God."

                  (Searching for Sunday p.52)
                  と言われたそうである。日本でも、そんなもんだとは思う。この記述以降の部分には次のような記述があった。教会に行っていないときにもブログを書いていて、教会に対する疑問に格闘していることを書いた時にMe too(私もそうなの)とコメントの言葉が非常にうれしかったことを書いてあった。そのような内容の後に、目をくぎ付けにされた次のような文章があった。


                  Rachael Held Evansさん Wikipediaより
                  (日本語変換)

                  私が思っているようなことを書くことは、受け入れがたい意見を放送するようなもので、それは、服からちらっと赤いブラジャーを見せるようなものだ。悪い噂は、町中では、それがさらに増幅されて伝わった。参加していなかった(あるいは、参加してはならんと言われた)日曜学校(引用者註 米国では大人の聖書クラスがある教会も多い)で繰り返しに話題にされたし、両親のところには、私が聖書の無誤性に疑問を呈しているという言葉が寄せられた。フェイスブックのメッセージには、誰かから聞いた人からの情報として、これまた誰かから聞いたこととして、「レイチェル・ヘルドが仏教徒になったらしい」と聞いた、というメッセージが寄せられた。
                  「仏教徒?でも、私はまだ仏教徒になるほど修行ができてないの」と返事をした。
                   あとお定まりの文句は「祈ってます」であった。

                  (原文)
                  Blogging about these things meant airing my unpopular opinions like red bras on a clothesline, which meant talk around town only amplified.  I became a recurring topics of conversation in the Sunday school classes I did not attend (or so I was told). Word got back to my parents that I'd been questioning biblical inerrancy on my blog. I received a Facebook message from a friend who had heard from someone, who's heard from someone else, that I'd become a Buddhist.
                     "A Buddhiest?" I wrote back. "Oh, I'm not disciplined enough to be Buddist."
                    "Praying for you" is all I heard in response. (Searching for Sunday p.62)
                  とろくでもないことが起きるのである。まぁ、こういうブログを書いているから、こういうことはミーちゃんはーちゃんも時にある方からお伺いするが、とりあえず、私のブログの記事を全部お読みになってから、書面にてご意見を伺いたい、と申し上げることにしているし、実際にそう申し上げたことが数度あるが、実際にそうされたうえで、直接書面でご意見をお寄せいただいた方はまだない。

                  敵対関係をあおり、
                  立場の違う「神のかたち」をあざける人々

                   米国では、さまざまな問題を政治的に考える風土、これはもう風土としか言いようがない。なんでも政治的な参照枠を先に置き、実際の問題をあることへの賛否に単純化させ、それに対して賛成か反対かを論じあうことが民主主義であると思っている部分が多分にアメリカ人にはある。もちろんそれは民主主義の一形態ではあるが、民主主義の中の熟議的民主主義は含まない。

                   その典型が裁判で、訴因に関してのみ、賛成か反対かを言い募り、全員が納得して、一つの結論に達するまで議論する。もちろん、全員一致が原則であるので、全員一致とならない場合がある。その場合は、裁判長が、Mistrial (審理無効)を宣言し、裁判はやり直しになる。そして、小学校のクラスから、大学院くらいまで、また新聞、テレビ、日常会話など日常生活の端々にまで、この対立する二つの軸を作りだし、その対立軸間での論争に問題を落とし込む議論の進め方の構図がごくごく普通である。

                   そして、これはアメリカ合衆国でのキリスト教の世界にもこの様相が持ち込まれるのである。そして、どちらが正しいか、どちらが間違いか、という問題に問題が矮小化され、議論が進められていく。全体的にどんな風に間違いであるか、ではなく。
                   政治はとりわけ、愛の反対である敵対関係をけしかけ、対立する文化が繰り広げる喧騒に介入するクリスチャンは、考え方の異なる人々を「リベラル」とか「不道徳」とまでいってあざける傾向にある。(同書 p.50)
                  こういうことがおこなわれる世界では、最初の問題の立て方というか、考えるべき内容がどのようなものであるかをきちんと定義し、議論の参加者がそれを共有し、合意したうえで議論することが極めて重要である。この問題の立て方をいい加減にしてしまえば、膨大な時間と労力と知力の損失と堂々巡りが発生してしまう。しかし、それは往々にして起きる。問題解決のアートでは、この問題設定の重要さを忘れた議論を問題解決の第3種の過誤としてMitroff and Fotheringhamという人が次のような定義をしている。「考慮すべき内容(問題)を誤って定義して、不適切な定義による設定された内容(問題)を一生懸命解こうとする」として知られていることである。案外、日常生活では、この種の議論が多い。

                   まぁ、4年前のブログ記事 あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。 や いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた でも取り上げたが、Caledoniaさまは、ご親族やその関係の取り巻きの方から、自分とは考えの異なる人々(自分の似姿でないもの)というレッテルをはられ、責め立てられ、必殺祈り攻撃を受け、大変厳しい思いをされたようである。実に残念なことである。

                   この自分の似姿でないものの「内容」としては、教会に持ってくる聖書の種類、教会に来る時の服装、ふだん読んでいる翻訳聖書の種類(アメリカでKJVがデフォルトの教会にNIV持って行ったら実際に白眼視された)、教会堂でのお茶の入れ方、教会堂の掃除の仕方から、クリスマス会などのイベントに対する考え方や内容、伝道と称される行為についての方法、伝道で用いる用語、講壇から司会などでの話すスタイル、教会堂の建設計画に至るまで、「その教会の人々の似姿(とその理想形)」と一致しているかどうかを問われることがある。その乖離の程度がどの程度かによって、立ち話によるご高説拝聴とか、牧師とか教会役員やその家族による呼び出しとか、必殺祈り攻撃にあうとか、怪文書が出回るとか、教会での吊るし上げとか、いろいろあるようである。個人的には、そんなことまで聖書は規定しないと思うし、KJVとかにこだわるなら、どうせなら、ギリシア語のテキストとか、ヘブライ語のテキストにこだわればいいのに、キンドルかPCもって教会に来られたら、とは今では思っている。
                   
                   前述のような厳しい経験をRacheal Held Evansさんは経験をされて、教会に行きそびれたものの、いろいろな教会巡りをした挙句、よい教会に巡り合われ、そこに定着しておられるようである。



                  まだまだ続く


                   
                  評価:
                  フィリップ・ヤンシー
                  いのちのことば社
                  ¥ 2,592
                  (2015-11-05)
                  コメント:お勧めしております

                  評価:
                  ゲーリー・L・マッキントッシュ,サミュエル・D・ライマ
                  いのちのことば社
                  ---
                  (2013-06-06)
                  コメント:非常に大事なことが書いてあるので、一読をお勧めしたい。

                  2015.11.23 Monday

                  いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(9)

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                    対話のためのアルテ

                     メディアに現われるキリスト教への批判的な視点への対応をどうしたらいいのか、キリスト教自身が批判されたら、あるいは我々自身が批判されたり、攻撃されたように感じたらどう考えればいいのか、ということは、このブログをお読みの皆様方には、明らかであろうが、ヤンシー先輩が書いておられる内容と、そのもととなった、マーティン・マーティさんのことばがなかなか味わい深い。
                     多くの著作を持つシカゴ大学のルター派の学者マーティン・マーティは、メディアが発見した新無神論についての記事に反論しないのかと読者に聞かれたことを『クリスチャン・センチュリー』誌に書いている。そして、「自分自身のため、そして関心のある人々のため」の助言リストも一緒に乗せた。その一部を次に記す。
                    • うろたえないこと。米国にはこれまで似たようなことが何度かあったが、乗り越えてきた。
                    • 記事を書いた人にお礼状を送りなさい。この無関心な時代に論争点を提起し、関心を示しているのだから
                    • あざけらないように。このような記事を書く人の多くがあざけっているのだ。そうしたからと言って私たちに何になるのか。
                    • 勝ち誇った口のきき方をしないように。97対3で、私たちが彼らよりも数でうわ待っているという人たちもいる。その通りであるなら、信仰者たちにとってなぐさまになるが、だからと言ってそこに何の意味があるのか。
                    • 議論しないように。神が存在するか否かの議論は成り立たないー確固たる答えを持っている人が勝者になるからだ。良い質問を出して、それらに答えようとする会話からならだれでも得るものがある。
                    • 記事を書いた人たちは、彼らの専門外のテーマについて煽情的な議論をしている。そうした議論に取り合うよりも、その人たちの書いた良質な専門書を読むように。それらの本から学ぶことがあるのかもしれない。
                    • 宗教の名で恐ろしいことがなされてきたし、今もなされていることについて、彼らの言い分に同意するように。しかし、それが宗教のすべてでないことにも目を向けさせるように。内部からの宗教批判のほうが鋭く、より重要である。
                    • あなたが信仰者であるなら、誰かの言動が宗教に反感を持つ人たちに正当な理由を与え、このような類の本の需要を生み出していないか、よく考えてみるように
                    (隠された恵み pp.59-61)
                     こういう方法を対話の技法、対話のアルテと呼ぶ。説得(折伏もどき)の技法が得意なキリスト者の方や恫喝の技法が得意なキリスト者の方にお出会いをしたこともあるが、なかなかこういう対話の技法をお持ちの方には出会ったことがない。このあたりのマーティ先輩がご主張様な内容はもう少し考えられてもいいのではないか、とは思う。



                    Martin Martyさん

                     こういうのを読むと、誠に恐れ入りました。まだまだ修行中でございます、とは言いたくなる。批判には批判を、目には目を、歯には歯をとガチでぶつかりたくなる誘惑ということに人間はすぐ引っかかる。また、確かに旧約聖書はそれを容認するかのような表現もある。しかし、イエスは、目には目をとされたかどうか、を考えてみると、問題をより大きな目で見て、大きくとらえて、それってこういうことでないか、ということを言われているようなのである。例えば、不倫現場でとらえられた女性だけを律法規定を順守して石打にしようとする群衆に向かって、「その石を投げてもいいけど投げたらどうなるか、わかるよね」と言われたように思うのだ。

                     キリスト教会関係者に、自分たちの正当性を示すために、自分の信仰以外を持つ他者を貶めてみたり、相手の言うことを聞かなかったり、そもそも相手を何とも思ってない人々も多くおられる。そして、同じ聖書理解の傾向の仲間同士て群れて褒め合い、他者の議論を聞きもせず、さもわかって自分たちが正しいと思い込み、ご満悦しておられる人々も時にお出会いすることがある。実に残念なことである。

                     一番困るのは、アマチュア研究家風の人である。アマチュアで研究してはならないということではない。アマチュアでも立派な研究成果を上げておられる人はおられるし、アマチュアでも学問のルールにのっとって研究され、立派な研究をしておられる方を何人も存じ上げているところである。

                     たちの悪いアマチュア研究家風の人は、結論先にありきで、それを主張するための何かを繰り出すばかりで、その議論の前提となっている結論がそもそもどうなんでしょうか、という点を考えようとするとそもそも対話しようという気がなく、ほらこんな証拠が、あんな証拠がということを繰り返すばかりで、前提の妥当性、枠の妥当性に関する対話に至らない。そういうのを、研究ごっこというらしい。こちらの研究ごっこのQ&Aがなかなか秀逸であるので、研究ごっこかどうかは、各自適宜ご判断をば。
                     
                     なお、当ブログは、基本研究ごっこの域を出ないことはお断りしておく。

                     なお、本書が、いのちのことば社から出た意義は大きいと思うのは、上のマーティン・マーティ先輩のことばのこの部分と重なるからである。「内部からの宗教批判のほうが鋭く、より重要である。」従来、こういう本は、キリスト教会の暗部を示すものであり、証にならないから、ということで出さないでほしいとかいわれることが多いようで、まぁ、自分に向かって唾するようなものだから、やりにくいのはわかるが、これをあえて「いのちのことば」社という体質の伝道団体が出したことを高く評価したい。まぁ、こういう自己批判を回避する方がよほど証にならんと思っているのは、ミーちゃんはーちゃんの性格と頭がおかしいからだろう。

                    くらえ「あなたは間違っています」攻撃
                     「あなたは間違っています」はTBSのテレビドラマ「小公女セイラ」のセイラさんのキメ台詞、「あなたは間違っています」というのがあったのだが、まぁ、キリスト教徒の一部に「あなたは間違っています」にちかいことを連発する人も案外多いらしい。そのあたりに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
                     宗教を持たない人々に、「クリスチャンとはどのような人々ですか」と尋ねてみれば、「独善的」、「排他的」と言ったことばが帰って来るだろう。クリスチャンは自己防衛するために他者の考えを否定するので、上から目線の裁く人間という印象を与えているかもしれない。同じようなものを自分の中に見るとき、「あなたは間違っている」と人から言われたらどう感じるか、思い出してみる。それは自分の信仰を無神経につきつけるとき、相手がどんな気持ちになるかを知るための強力な手掛かりになる。批判されて信仰の道を見出した人に、私はであったためしがない。(同書 p.61)
                    ヤンシー先輩のことばが、またすごい。「クリスチャンは自己防衛するために他者の考えを否定するので、上から目線の裁く人間という印象を与えているかもしれない」ミーちゃんはーちゃんも、そう思います。

                     自分の信仰を他者に無神経に突き付けるときの事に関連して、ヤンシー先輩は、「あなたは間違っています」といわれた時の言葉を思い起こされるようにしておられるようであるが、ミーちゃんはーちゃんは、必ず、以下の番組のセイラさんのことば「あなたは間違っています」を思い起こすようにしている。




                    何でも聖書に答えがあるといいたがるクリスチャン

                     まぁ、ミーちゃんはーちゃんは、聖書無謬論的な教会で育ったために、聖書の中に何でも回答があるという大人(大半は今は物故者)の方々のお話を有難く拝聴してきた。しかし、まぁ、世俗の仕事をするようになってから、それはどうなんだろう、ということを思うようになった。仕事で、さすがに4元連立微分方程式を使うことはなくなったが、聖書の中にはかなり詳しく読んだが、4元連立方程式の解法はなかったように思う。読み飛ばしているかもしれないので、聖書に解法が載ってました、という方はご教示願いたい。あるいは、プログラムの逆アセンブル法も、聖書にその具体的な方法論は記載されていないような気がする。

                     しかし、聖書の初心者向けの講演の中では、「聖書の中にすべての解決があります」というような表現が安易に用いられることもあるし、実際にそういう「中年の主張」のようなものを拝聴したことがある。「青年の主張」なら「青いのぉ」と聞き飛ばすこともできるのではあるが…。そこらあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のようにお書きである。
                    私たちクリスチャンは、すべての答えを手にしているわけではない。目には見えないが神は存在し、人生には”騒々しさ”だけでなく、大切なものがあること、見かけがどうであれ、この世界は人格を持った方の愛により作りだされたものであると信じながらも、つまづきながら進むのだ。そして、いつしか倫理的な問題と混同して、神の国の優先順位をないがしろにしていることに気づく。私たちには、自らを誇る理由などないのである。(同書 p.62)
                     まさにおっしゃるとおりである。「見かけがどうであれ、この世界は人格を持った方の愛により作りだされたものであると信じながらも、つまづきながら進む」しかないのだと思う。自分には受け入れられない食べ物を天からぶら下げられてこれらを食え、と言われた夢を見たペテロ爺さんもいたのである。



                    キリスト者は、「いつしか倫理的な問題と混同して、神の国の優先順位をないがしろにしている」というのは痛い表現だと思う。性倫理(同性愛とか)生命倫理(人工中絶)の問題を聖書理解の問題にすり替えて神の国の人を愛する、神のかたちを他者の内に見るという最も大切なものを忘れて、同性愛者とか人工中絶経験者の相手の事情も知らずにディスりまくるとかまぁ、ややこしい人も中にはおられる。

                    引用文の最後に、「私たちには、自らを誇る理由などないのである」という表現があるが、個人的には、そのヤンシー先輩、「御意。禿同」と申し上げたい。自分たちに「豊かさ」を与えてくれた神を誇りたいという発想からかもしれないが、いつの間にか自分たちの与えられている「豊かさ」の自慢大会をされる方もおられるし、自分たちの倫理性(それがどういうものであるか、本当にあるかどうかはもう少しよくご吟味された方がいいかもしれないが)を与え給うた神を誇りたいがゆえに、ご自身の「倫理性」を誇られるようなことを公言される方もおられる。こういうご発言を拝聴させていただくたびに、主客逆転するのは、どうしたものだろう、と思うのである。短絡的な発想や、単純化の結果であるとは思うのだが。


                    ナウエンの伝道 探し求める伝道

                     ミーちゃんはーちゃんは、ナウエンの読書会をリアルで開催するほど、ナウエンの著作が面白いと思っている。日本語に翻訳された本はほとんど集めまくった。本は陶器と同じで、出会ったときが買い時であるが、ナウエンの本の場合、時に翻訳であちゃーという思いを持つ本がある。
                     そういう本が多いのではあるけれども、内容は非常に良い。従って、読書会では英文テキストで読んでいる。
                     司祭のヘンリ・ナウエンは、南米への宣教旅行の中で謙遜を学んだ。貧しく学のない人々に自分の知識を伝えようと思って南米へ赴いたが、半年間の滞在中に、こう結論する。(中略)「謙遜こそがキリスト教の真の美徳です。救うことができるのは神おひとりであることに気づくとき、私たちはのびのびと奉仕するようになり、真に謙遜な人生を生きることができます。」ナウエンの伝道は、「真珠を売る」ような、あるいは良き知らせを触れ回るといったやり方から、愛すべき人々の中にすでにある「宝を探し求める」姿勢へと変化を遂げた。宗教ではなく、恵みを選ぶように変わったのである。(同書 pp.62-63)
                     私たちは、どこかで神に成り代わり、人々を救うと思っているのかもしれないが、ナウエンはこういっている。「救うことができるのは神おひとりであることに気づくとき、私たちはのびのびと奉仕するようになり」という指摘は大事ではないか、と思う。そんなことは、わかっていると諸賢は言うかもしれない。それならばよいのだが、案外、「神」とか「神のこと」という看板というかブランドをかさに着て、どこぞの両替商みたいになっているかもしれない。

                     真珠を求める真珠商の話が聖書の中に出てくるが、我々は、それを他者に高く売りつけるために、神に高く売りつける様なことをしているのかもしれない。神がそこにおかれた一見価値が低く見える真珠に価値を見つけて、それを宝とし、生命をかけてくだらなく見える人間を買い取ろうとしたイエスの姿を我々は忘れているのかもしれない。


                    まだまだ続く





                    評価:
                    フィリップ・ヤンシー
                    いのちのことば社
                    ¥ 2,592
                    (2015-11-05)
                    コメント:絶賛お勧めしております。

                    評価:
                    ヘンリ J.M.ナウエン
                    聖公会出版
                    ---
                    (2009-07)
                    コメント:これ、いいんですよ。でも今、絶版ですか。頭が痛い。恐怖の国において神の愛を見つけることについて書かれています。

                    2015.11.25 Wednesday

                    いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(10)

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                       今日も、ヤンシー先輩の『隠された恵み』を読みながら、考えた事をちょっこし書いてみたいと思う。

                      迷うことの意味
                       近代社会では、出発地から目的地をいかに効率的に、短時間で結ぶのか、ということを目標に施設設計をするのが常であるし、そのターゲットを実現 することこそが、望ましいことであると暗黙の内に想定している。廻り道が嫌いなのであるし、目的を持たない行為というのは、軽視される傾向にある。

                       近代の時代では、迷うことはあまり良しとされていない。迷うことの意味も意義をも認めず、それは無駄であり、時に悪とされる。なぜならば、すべからく人は合理的であり、合目的的に行動するものと思われているからである。そのために、迷わないように様々な仕掛けを作り出していった。新幹線しかり、飛行機しかり、鉄道しかり、学校しかりである。しかし、個人的には迷うことの意味というのは大きいと思う。ヤンシー先輩は、この迷う人々について、次のようにお書きである。 

                      特定の宗教を持たない人々のことを、「邪悪な人々」とか「救われてない人々」ではなく、「迷える人々」とみるようにしたら、その人たちとの関係がどれほど違ってくるだろう。「迷える人々」という言葉を聞くと、そうした人々を猛烈に非難してきたリバイバル説教者を思い起こす人たちもいる。しかし、私は「迷える人々」に、それとは異なる、もっと深い思いをこめている。コロラド山中でハイキングをしている時、道標を見失ってコースから外れてしまった経験を何度かしている。うろたえながらもパニックを起こさぬようにして、地図と磁石を見つめる。そなえもなく山で夜を明かすことの危険は分かっているが、すでに貴重な時間とエネルギーを使ってしまっている。(中略)(別の登山者に)追いつくと、その人は親切に私の地図をとって、現在地と進むべき道を教えてくれる。そしてわたしは、もう迷っていないと実感するにつれ、不安が薄れていく。帰り道がわかったのだ
                       しかし、そんな風に山で遠回りをしたおかげで、思いがけない宝物を見つけたことも事実だ。ほとんどの人たちが知らずに終わる景色や発見に出くわしたのだ。(『隠された恵み』pp.71-72)

                       信仰を持たない人々や別の宗教を持つ人々を「邪悪な人々」や「救われてない人々」と呼ぶのは、日本のキリスト教の一部でもあると思う。尊敬される、大事にされるどころか、軽蔑され、伝道の対象、私たち教会によって救われるべき悲しい人々にされてしまうのだ。これは、耐え難いだろうと思う。事実、ミーちゃんはーちゃんが参加させてもらったことのある教会で、「どうも、このキリスト教の救いの概念が耐えがたい」と言われた方もおられた。「なぜ、あなた方から救われなければならないのだ、助けられなければならないのだ」とおっしゃる方と出会ったこともある。

                       キリスト者の側がキリスト者による救済を意識してお話していなくても、聞く方としては、「キリストによる開放」「キリストにおける神との関係の確立」ではなく、「キリストによる救い」は「キリスト者を介した救済」と受け取られる場合も存在してしまい、自らを弱い立場のものである烙印がおされることに耐えがたい人々もいる様である。ある面で言うと、これもまた、近代のもたらした病であり、近代の「人間中心思想」がニーチェの言う迷いを持たない周囲に依拠せず存在している「超人」(傍からすると、痛いだけの自己満足の方にもなりかねないが)概念を生み出したように、全ての人が努力して超人になろうとした結果、そういう人のこころの琴線にキリスト教が触れられなくなってしまっているようにも思うのだ。そして、キリスト教もその近代思想の影響を受け、さらに、世間を自分たちより一段と低く見る傾向から、キリスト者こそ「超人」であり、全てのものを超越した存在で神に一直線、最短コースでつながっている存在であるかのように「事実とは異なる」ことを主張してきたような気がする。その結果、バプテスマを受ければ一丁上がりであるとし、バプテスマを受けた日から、即戦力であることを期待するようなキリスト教の一部の人々も生み出してきた。それではまずいと思うのだ。


                      究極超人あ〜る こういう超人ならいいのだけど

                       「バプテスマ」を契機とした物語の内に生きることは、N.T.ライト先輩の「クリスチャンであるとは」でも紹介されている。プロセスとしての信仰であり、信じるということでもあると思うのだ。目的地はバプテスマではないし、終末における「天」でもないということであると思うのだ。迷いながらも、苦しみながらも、自分の不信仰さに時に嫌気がさしながらも、神と共に生きることが信じる、ということだと思うのだ。

                       個人的には、人間は不信仰の内に生き続けるのである、と思っている。不信仰はペテロ君やトマス君だけの専売特許品ではない。何せ、復活のイエスを見ても尚疑うものがいたのであり、その事をイエスは云々されていない。
                      【口語訳】マタイによる福音書
                       28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
                       28:17 そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
                       28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
                       28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
                       28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
                       なお、信仰者の疑いに関しては、山崎ランサム様のブログのシリーズ 「確かさという名の偶像シリーズ」の第1部          10 が良い。

                       なお、最近参加した「信じる」ことに関する宗教間対話のイベントで、ティリッヒという人が信仰の裏側に必ず疑いが存在するというような指摘を最下部で紹介している書籍でしていることを知った。まぁ、疑う以上神の存在を前提としているわけで、その意味で無神論的ではないことになる、ということだろうし、疑うということは神に求め、神を求める作業なので、一種の信じることでもあるようなのだ。

                       後、迷うことの中に、他の人の知らない景色を見るという表現が出てくるし、N.T.ライト先輩の「クリスチャンであるとは」でも、その意義が出てくるのだが、その迷っているときに突然藪から棒ににゅっと出てくる感じで突然の他者性をもって神がある人の人生に現れること、即ち聖書の行間や、人々の会話や、時に讃美歌などを通して、啓示されるのではないか、と思うことがある。その意味で、迷いとは、神と出会う極めて重要な機会であり、そこに神ご自身の複雑さと美しさを見る瞬間があるのではないか、と思うことがある。

                      途方に暮れている人々
                       ミーちゃんはーちゃんは、腹時計と太陽さえあれば、GPSがなくても、カーナビがなくても、大まかな方向を見定めることはそれほど難しくないという特性を持っているので、ナビゲーションシステムがなくても、大抵の場合は困らないが(時に、道路が曲がっており、元の出発点に戻れないことがあるのは、事実であるが)、自分が目標だと思って進んできた結果、帰り道がわからなくなるというのはよくある話かもしれない。それが恐らく聖書のギリシア語におけるἁμάρτημαの意味かもしれないと思う。

                       ミーちゃんはーちゃんの大学時代のご学友に品川あたりの方がいて、その方が幼稚園児のころ、三輪車に乗って、東京タワーを目指していってみた話があった。幼稚園児で三輪車で行けると思うあたりが東京人である。関西人には、そういうことは思いもつかない。その品川あたりにお住いのご学友がご幼少のみぎり、東京タワーに本当に三輪車で行った結果、確かに東京タワーにはついたのだが、家に還ろうと思ったら、東京タワーほど大きくなくて、見つけられなくて、途方に暮れてしまった旨のお話をしてくださったことがある。人間とは、このご学友のようなものかもしれない。何か目当てになるものを目指して進んでいった結果、ついてみて、さて、あぁ、こういうところか、とわかったとして、いざ家に戻ろうと思っても戻り方も、どうやっていいかもわからない状態になってしまって途方に暮れてしまった状態かもしれない。

                       ヤンシー先輩は、そのような様々な人生での喪失や迷いを経験したバーバラ・ブラウン・テーラーの以下の文章を引用しておられた。

                       このように、自分の思いと異なるところにおかれた境遇を、最初は喜べませんでした。しかし今、元に戻りたいとは思いません。迷っていた間に、道を間違えなかったら発見できなかったはずのものを見つけたのです。正気の人なら決して選ばないような人生を私は生きて来ました。そして、人々から見落とされてきた宝物を見つけました。それは思い描いてた人生の報酬にはるかに勝るものでした。こうしたことは、迷うかもしれないけれどもあがらわず、むしろ霊的な訓練としてその道を進むことにした理由のほんの一部です。その時に、聖書は大きな助けになりました。神のために最高の働きをしたのは、まさに迷っている人々であったことを思い起こさせてくれるからです。(pp.72-73)

                       ををを、かっこいい。迷った人々が神のための働きをした、ここまで言い切れるところがすごい。近代人である我々は、迷う人を準備が足らないとか、わかってないとか、問題があるとかいいたがるけれども、神は、そのような迷う人をお持ち委になられた、ということは案外大事であると思うのである。信仰の人アブラハムとは言うが、彼はある面迷う人であった。カランを出るかどうか迷い、子供が与えられないことで迷い・・・とまぁ、褒められた人ではない。ダビデもバテシェバの色香に迷った人である。
                       

                      バイブル・ハンターのバテ・シェバちゃん
                      (いのちのことば社、ぎりぎりをついてくるなぁ、と思った。
                      フィギィア化したら、売れるんじゃない?と言ったら却下されたw)

                      「迷っていた間に、道を間違えなかったら発見できなかったはずのものを見つけた」というのは、案外あると思う。近道と思って、そこにたどり着いていたと思っていても、そこで見落としていることが案外多いのではないかと思う。聖書を読んだスピードを競う人々がいる。1年間で、3回読んだとか、10回読んだとか。それって意味が全くないとは言わないが、そこで見落とされているものが多いかもしれない。個人的には、そう思う。

                       しかし、迷いの中にある中で見えるものがある、とは思うのだ。ある面で、迷うことを意図的に考える場合もある。それは、prayer labyrinthというものである。意図的に自分自身を迷いの中におき、そして様々なことをゆっくりと歩きながら、思いを巡らす時間をとるためのものである。一種、Googleも講演者として呼んだティク・ナット・ハーンのマインドフルネスともつながる概念であると思う。ゆっくりと歩きながら、こころを巡らせ、呼吸を整えながら丁寧に生きることを考える、というのは、実は、開発者にとってみて案外大事なのだと思う。結果に目指して一心に合目的的に進みながら、その目的や結果にばかり目を合わせていってしまうために近視眼的な思考にとらわれることから、開発者が脱出するためには、かえって迷いの中に自らを置き、そして、そこから考えるという作業は案外重要なのだと思う。


                      Prayer Labyrinthの一例


                      Googleでの講演 ティク・ナット・ハーン

                       なお、Googleがティク・ナット・ハーンを呼ぶ気持ちはよくわかる。なぜなら、仏教とシステム開発の技法は非常に良く似ており、細かなところまで神経を張り巡らして、丁寧に作っていくことが良いシステムの必須条件であるからであり、普段からこの種の訓練をしておくことは、システム開発者にとって有効であると思う。マジな話。

                      家に帰る物語としての聖書
                       聖書の物語は、家に戻る物語である。放蕩息子の話もそうだし、アブラハムのロトの救出物語もそうであるし、失った銀貨の物語もそうだし、1匹の羊のもの譬えもそうだし、ザアカイの話もそうである。本来あるべき場所に戻す、というのが聖書の物語である。ヤコブは、ミイラにされても何でも、カナンの地に戻るのがその物語であるし、バビロン捕囚にしても、哀歌も、イザヤ書も、本来あるべき場所にあるべきものが戻る話ではある。そこらあたりのことに関して、ヤンシー先輩は次のように書いておられる。
                      私は長年にわたり聖書を研究しながら、聖書全体を貫く重要なテーマ、すなわちこの壮大な書物を一言で言い表すと、どのような言葉になるかを探ってきた。そして、こういう結論に行き着いた。「神は、ご自身の家族を連れ戻す。」聖書が全巻を通して語っているのは、痛ましいほど長く複雑な過程を経て、強情な子どもたちを家に連れて帰ろうとする神の御姿である。確かに聖書は、黙示録における大家族の再開で終わっている。
                       イエスのたとえ話の中心テーマは失われた状態であり、それは放蕩息子のたとえ話において最も感動的にとらえられている。(pp.72-73)
                      ヤンシー先輩ご指摘のように、「痛ましいほど長く複雑な過程を経て、強情な子どもたちを家に連れて帰ろうとする神の御姿」はバビロン捕囚でもそうだし、出エジプトもそうだし、旧約聖書自体がそうである。それを象徴する言葉が、怒りでもなく、心地よい風のように語りかけられた「あなたはどこにいるのか」である。

                       神が言われたのは「あなたは、間違っている」「あなたは道を迷っている」「あなたは逆らった」「あなたは私の怒りを買った」でもなかった。人間の存在場所を知っていても、あえて「あなたはどこにいるのか?」と神との関係を求めていることが聖書の中心テーマであると思う。その意味で、神と人がともに住むことを示している黙示録は、確かに終末であるし、人間の回復がなされるという神の目的が達成されていることを象徴的に示している聖書の部分であるということがふさわしいように思う。破壊や悲惨を神が目的としておられるのではなく、まさに、神が人とともに住み、もう神が「あなたはどこにいるのか」「あなたと時間がすごせなくて残念であると思う」ということが終了する世界こそが、神が望んでおられるような気がするのだ。悟りを開くことでも、精神が鍛えられ、超人になることでもなく。


                      まだまだ続く。








                       
                      評価:
                      フィリップ・ヤンシー
                      いのちのことば社
                      ¥ 2,592
                      (2015-11-05)
                      コメント:お勧めしています。

                      評価:
                      ティリッヒ
                      新教出版社
                      ¥ 1,080
                      (2000-07-01)
                      コメント:かなりよさそう。全部読んでないけど。

                      評価:
                      N・T・ライト
                      あめんどう
                      ¥ 2,700
                      (2015-05-30)
                      コメント:お勧めしております。

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