2015.07.04 Saturday

木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの を読んだ その1

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     本日から、木原 活信著 いのちのことば社刊『「弱さ」の向こうにあるもの』をご紹介したい。



    著者らしさがよく現れた本
     基本的にこの本は、著者が弱さを抱える人々との関わりあるいは支援に実務家として、そして研究者としてもあたってきた経験から、キリスト教的な意味で、「弱さ」をどう受け止めるか、ということに関して、学術的ではなく、かなり具体的な日常の視点でまとめた本である。また、本書は、一種著者の自叙伝的な側面を持ちつつ、聖書と社会福祉とのかかわりを、ナウエンなどの所論を下敷きにしながら、弱き人々と共に生きるとはどういうことか、他者を愛するとはどういうことか、をコンパクトにまとめた書物であると言えよう。また、時々に引用されるPopsやJ-Pops(といっても、最近のものというよりは著者らしく、いまやクラッシックになりつつあるPopsであるが)が著者が無類の音楽好きであることを示している。ただ、惜しむらくは、ナウエンをかなり読んだ人をならば、あぁ、これはナウエンのこの辺の思想を受けたものだ、ということは類推がつくが、そうでない人にとっては、もう少し詳しく知りたいと思っても知ることができないという意味では、少し不親切な本ではある。まぁ、ナウエンの研究書に関しては、別の書物があるので、それを読んでくれ、ということであろうが。

     詳細はおいおい、いつものように引用しつつ、紹介していくが、強さを絶対善と暗黙に仮定する現代社会の社会通念の中で、弱さの問題、人間のはかなさの問題をどう考えるかを著者の経験などに基づき、具体的事例なども示しながら、示唆を与える本である。この本は、来年のオフィスふじかけ賞の有力候補ではないか、と思う。

    弱さの逆説
     木原さんは、弱さの問題をパウロの視点から次のように説きおこす。
     私は個人的に、使徒パウロという人物にあこがれる。あんな勇敢で大胆で聡明で、そして強い信仰の人になってみたいと本気で思ってきた。しかしパウロの人生のカギになっているのは、この勇敢さや強さではなく、むしろ「弱さ」そのものであったと気づく様になったのは、実は最近の事である。推測するに、パウロという人が人生をかけて格闘したのが、この「弱さ」であったようである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.15)
     確かに、パウロには、障害ある種の弱さの問題に付きまとわれたといえよう。これは木原さんがご指摘のように、肉体のとげ(それがなんであるかはわからないし、それを詮索することは知的スポーツとしては面白いが、結論が出ない問題の一つである)がその一つであると同時に、パウロ自身が認めるように、イエスと同時代・同一空間を共有しながら、しかし、使徒的役割を果たしながらも、直接的には弟子であることはなかった、あるいは、なれなかったという弱さを抱えつつ生きた人物である。その意味で、パウロは、非常に大きな働きをしつつも、その心のうちにイエスの直接の弟子であった12弟子たちには、常にどこかで引け目を感じ続けて生きていた人物でもある。

    弱さにおいて働く神
     繁栄の神学とか、反知性主義的な社会が生み出した強さの神学はある面で、自己中心的な聖書理解(ミーちゃんはーちゃんの用語で言う「オレ様神学」)になりかねないものがある。その自己中心的な聖書理解は、神の前に自分自身を明け渡していることになっているかどうか問うたほうがよいのではないか、ということに関して、次のように木原さんは書いておられる。
     神の恵みが完全に表れる姿、それはむしろ「弱さ」の中にこそあるという、このパウロのメッセージは、そう簡単に実感できないばかりか、理解すらできないかもしれない。物理的には、人間が無力であると、つまり無力の状態の器であると、それだけ神の力が増しやすい。つまりからの器であればあるほど、神の力が宿りやすいということで、ある面理に適っているともいえる。
    (中略)
     「○○力」の形成・獲得というのは、メディアを通じて我々の中に飛び込んでくる。現代の力や強さへのあこがれは相当のもので、その前提にあるのは、強くなければならないという「まなざし」である。(中略)しかし、強くありたいというのと、強くならねばならないというのは、別問題である。(同書 pp.18-19)
     この部分を読み「○○力」の表現を見ながら、今の大学の置かれた即戦力型の能力開発を重視しようという類の話しを思い出してしまった。結局、パスカルが言うように、人間本来が「考える弱き葦」であることを忘れ、問題に対して、当座5年とか10年位のクイックフィックス(短期的な解決策、安易な解決策)を当てはめる力を持ついわゆる社会にすぐ役に立つ「強い人間」を促成栽培で育てる事ばかりに目が言っているような教育が求められている気がしてならない。「弱き葦でありつつも、柔軟性を持つ人間」を育てることではなく、「堅くて強さをもつ一種融通のきかないコインの様な人間」を育てることが今は大学にすら求められているのかもしれない。まぁ、コインは通貨以外にも使い道がないわけではないが。


    近代の教育システム批判の漫画


    勝ち続ける人生、
    陽のあたるところだけを歩もうとする人生
     個人的には、繁栄の神学、強さの神学が好きではない。正しい間違っているかどうかは知らないが、このブログの中で何度も好きでないことをふれてきた。なぜ、個人的に好きではないかはあまり真面目に考えたことがなかったのだが、その理由が木原さんのお書きになられたもので少し感じるところがあった気がした。
     亡くなられたミュージシャンの尾崎豊さんは、当時の若者にカリスマ的な影響を与えた歌手であるが、「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」といった。それは、ある面で、現代社会の風潮や世相を彼なりのことばで反映したものだと思う。自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない。(中略)そういう人にとって弱さを認めることは、自己否定以外の何物でもない。(同書 p.19)
     繁栄の神学、強さの神学は、下手をすると、「自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない」強さこそ正義であり、正義であるが故に、自分の本来の主人であるべき神を忘れ、一人の弱き葦であるべき人間という自分自身が神として正当化されうることにつながりかねない危うさを持っているからである。つまり、自己反省というもののない、反知性主義とつながっているからである。

     そのため、藤掛さんがオフィスブログで触れられた「背伸びした生き方」「強行突破型の生き方」「神が祝福してくださるから何も心配はいらない」という、「塔を建てる前にその費用を考えないような生き方」に突き進んで行きかねないものを持っているからではないか、と思っている。そのことを本書を読みながら感じた。

     個人的には、尾崎豊よりも息子が幼稚園の頃好きだった下側の動画、ジャム・ザ・ハウスネイルの挿入歌「猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身、全霊(神が造りたもうた)ボクでありたい」(3分10秒あたりから)と思っている。


    勝続けなければならないと主張した尾崎豊


    ジャム・ザ・ハウスネイル
    猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身全霊ボクでありたい という歌詞が印象的だった

    人間存在の意味
     人間の存在をどう考えるか、というと、近代の社会が産業社会であることを要請されたこともあり、産業社会にどう貢献できるか、ということだけが課題になってきた。その面で、人間の評価は、生産性とそれにどう貢献できるかということで評価されることが大きかった。

     最近はあまりこの分野をしていないのであるが、世俗の仕事で過去教えたこともある、Operations Research(作戦計画に由来する語)や経営科学などは、この生産性をどう企業や組織内であげていくかということに血眼になる学問体系であったし、これらの学問体系は社会から需要されていることもあり、無批判にこの生産における価値を人間の価値のかなり大きな部分であるとして、Presumption(暗黙の前提)やAxiom(公理)としてきた側面があると思う。まぁ、そこに焦点を絞ってのみ、研究をしていた、という位の側面はあると思う。そのあたりの事に関して、木原さんは、次のように書く。
     そもそも生産性のみが役に立つということが、すべてを図るモノサシかというと、これには疑問がある。いや、もしそれしかないというのなら、そこには問題が生じるように思う。役に立つということを考えるには、多様な基準があってしかるべきではないかと思う。
     我々の現代社会は、ただ行動や能力(doingやhaving)で評価してしまう。しかし果たしてそれが絶対の基準なのか。いやむしろ、ただ存在すること(being)を見つめると視点とまなざしを持たなければならないのではないか。これこそ現代社会が最も忘れてしまっている視点ではないだろうか。(同書 p.26)
     経営科学やOperations Researchが日本に初めて入った1960年代は、計数可能な生産性の側面にばかり目が行っていたが、現代では若干、この辺の暗黙の前提に関してかなり緩和されてはいるような気がするが、しかし、これらの学問分野の多くの前提自体は、計量化、定量評価可能なものにかなりウェイトを置いて着目し、その最大化を図るという側面がある。

    計量志向を揶揄するマンガ

     実際には、企業の役割や意味は、こういう社会に対する生産によるアウトプットのみで評価できるわけではない。それは、公害という不幸な経験を通して、企業活動や生産の社会への負の外部性、あるいは、フィランソロピーのような活動による社会への正の外部性なども評価されねばならないと考えられるようになってきたからではあるが。

    多様な価値観・創造の多様性

     ミクロ経済学の生産理論や生産関数論で取り扱われるように、近代は均質性、同質性という大きな前提を置き、人々に関しても、財やサービスという市場で取引されるものも、同質性を前提とした大量生産、大量消費による規模の経済(たくさん作れば、平均生産費用と限界生産費用が減るというメリット)が享受されることにより社会はより豊かなものになってきたし、それが、近代社会発展のからくりでもあった。大雑把に言えば、であるが。

     しかし、それは、リスクの拡大という負の外部経済を社会に残したことは、企業コンプレックスの撤退に伴い財政的にも経済的にも疲弊している地方の企業城下町を見れば明らかである。典型的には、あてにしていた工場が企業の生産物市場の国際化に伴い海外移転した町では、シャッター通りが広がる。あるいは、トヨタの経営状況が悪くなると、税収が一気に激減し、年度途中で予算が回らなくなった事案に直面した、愛知県内の公立教育機関の先生の話をお聞きすると、実にこのようなどこか一つに地域経済が大きく依存しているということの危うさはわかる。もっとわかりやすい例でいえば、何らかの理由で、東海道新幹線が止まると、東京駅がマヒするという日本社会の危うさは、近時もリアルで経験された方もあろう。
     単一な価値観ではなく、多様な価値観が認められる世界、このことは役に立つということ、弱さを考える上でもキーになるように思う。冷静に考えてみると、案外、役に立つと思っていたことは大したことではなく、むしろ役に立たないと考えがちなことが役に立つことは大いにあるのではないだろうか。(同書 p.27)
     その意味で、複線的な社会であることが望ましいにもかかわらず、真理は一つ、解は一つしかなく、自分の持つ理解以外は不正解とする視野狭窄を生み出しかねない近代の概念に我々は毒されているのかもしれない。




    神に出会う場所
     自分自身に自信がある人は、神そのものを必要としないのではないかと思う。そもそも、自分自身では何とかならないことがある、というある種の弱さが認められなければ、神は本来的には必要なくなる。神に出会うためには、この弱さが必要なのかもしれない。

     農業社会から工業社会に変容し、サービス化社会に変容する中で、社会生活がある程度予測可能、制御可能になってきたのであるし、社会に潜むリスクを回避する仕組み(FX市場などや証券および商品先物市場など)や、社会的弱者の救済方策も不十分ながらも、一定程度整備がされてきた結果、昔の人なら、その声を聴きたいと願ったか細い声である神の声の必要がなくなるということである。人間の力ではどうしようもない大きな変動(メタ概念が支配する変動)に対し、「神よ、なぜこのようなことが起きるのですか」と問うのは、ごく自然かつ日常的なことであったであろう。それが、大概のことが予測可能になった、制御可能になったと思い込んでいる社会(本当はそうであると強弁できないことは、技術者としては良く思う)においては、このように自分の弱さを思い至るのは、地震や火山噴火、災害などが発生した時だけ、となりかねない。この結果、この災害や、人間の力を超えた現象に直面し、どうしようもない時にのみ人間にとってもメタ存在である神の名が持ち出される(日常的に人間にとってのメタ存在である神のことを普段考えていないわけだから、持ち出されるという表現がふさわしい)ことになる。

     現在の世俗の仕事では、農業者の方とのおつながりもあるので、農業者の方とお話ししていることも多い。農業者の方は、日常的に、気象など、この自分ではどうにもならない環境に直面しているが故に自分自身の弱さを感じておられるのだなぁ、と思うことが多い。なに、農業者を理想化しているわけではないが、自分を超えたものの存在はより身近に感じる機会は多い、というだけのことではある。

     ナウエンは、With Open Hands(日本語訳では、『両手を開いて』 女子パウロ会)で、人間は、コイン(自分の努力や成果)をしっかり握りしめた状態で、そして神に向かっているという表現がある。如何にそのコインが神の目から見たときに、無きに等しくても、それを手放すことが難しいことを指摘し、本来、神が差しのべた手を受け止めるためには、その握りしめたコインを手放す必要があるにもかかわらず、それを離せないことを指摘した文章がある。それと同じことを、木原さんは、弱くもろい器であることを自ら認める、という表現でご指摘になっているような気がする。
     弱さを通して私たちが学ぶことは、結局は、誰かが弱いというのでなく、私たち人間は、共通に弱くもろい器だということではないかと思う。そして、それは決してマイナスではない。むしろ逆説的ではあるが、「役に立つ」とは何なのか、それ自体にも改めて疑問を持つことで、生命や生きることの神秘を教えられる気がする。弱さに目を向け、ケアし、ケアされ時に、役に立つ、役に立たないということを超越させる存在そのものに目を向ける何かがある。
     そして弱さとは、人間の深さと同様に奥深い。そして、その深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある。私の場合、それは弱さを受け止め担うイエスそのものである。「弱さ」こそ究極の神に出会う深遠な場所、そう思えてならない。(p.29)
     しかし、「深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある」という表現は、最近刊行されたN.T.ライト著「クリスチャンであるとは」(あめんどう刊)の冒頭最初にあるか細い声、声にならない超え、残響としての声を思い出させる。

     人間が様々な方策を弄し、これぞ完璧な社会、問題がない社会を造ろうが造るまいが(個人的には、それは神がなければ、結果的にはバベルの塔と同じことであると思うが)、我々にその残響のような声として、私はここにいる、ということを神は我らに語りかけておられるし、それが十字架の上で見る影も無くなった姿をさらしたナザレのイエスがその弱弱しい姿、そして、裂かれた姿をさらすことで、私はここにいるということをナザレのイエスは神の人間に対して開かれた姿を示しておられるのだと思う。ナウエンと読む福音書のイエスの死と十字架に関する部分は、これらのことを如実に示していると思う。下記リンクで示す、『ナウエンと読む福音書』、『クリスチャンであるとは』も、是非お勧め致します。

     ところで、ここで、木原さんは「井戸」という概念を取り上げておられるが、これは上沼昌雄さんの著書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』で取り上げられているメタファーと通じるものがある。

     続きは来週土曜日公開予定。これまた、長期連載覚悟である。お付き合いいただけたら、これ実に幸甚。



    評価:
    ヘンリ・ナウエン
    あめんどう
    ---
    (2008-04-30)
    コメント:絶賛致して居る。

    評価:
    上沼昌雄
    いのちのことば社
    ¥ 1,944
    (2008-09-24)
    コメント:村上春樹の小説などを引用しながら、闇の中にいる我等、そこに訪う神のみ姿で示されている。非常に印象深い。

    評価:
    木原 活信
    いのちのことば社
    ¥ 1,728
    (2015-07-08)
    コメント:お勧めしてます。

    2015.07.15 Wednesday

    木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その2

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       本日も、木原活信著 いのちのことば社刊 『「弱さ」の向こうにあるもの』第2章 「弱さと居場所」から、引用しながらご紹介してみたい。

      大学に居場所のない学生

       本章の冒頭、居場所がないということを訴える学生の話が出てくる。日常、この世代の学生に触れていても気づくことである。大勢の学生が楽しそうにクラブだ、サークルだと青春を謳歌している中で、一人ぽつねんと寂しそうに離れて座る生徒がいる。そういうのは大学の教員としては、案外気になるのだ。
       イエスは自分には場所がなかったけれど、私たちに居場所を用意するというのだ。
       この場所(トポス)という言葉は、不思議な響きのある場所である。端的に言うなら、社会福祉(実践)とは、「誰にでも居場所(トポス)を与えること、あるいはそれを作り出すこと、特に居場所のない人に場所を提供すること」である。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 p.34)
       いま、世俗の仕事では、学生関係の世話(就職の世話から、お悩み相談(これはあまりない)まで)をしているが、最近のこの仕事関係での学内外会議の話題は、大学生の保健室登校である。大学のキャンパスには来るのだが、保健室によってからでないと、あるいは保健室で一休みして、それから、教室に出没する学生さんがいるのである。国公立大学でもそうである。

       そして文科省の肝いりで、学習に障害がある学生への支援を大学がきちんとすることが求められる時代になっているのだ。詳しくは、全国の国公私立大学長あて文書でもある発達障害のある児童生徒などへの支援について をご覧いただきたい。

       この居場所の問題は、N.T.ライトの最新刊「クリスチャンであるとは」第3章、互いのために造られて という部分で触れられている人間は人間と共に生きるようにつく荒れていて、そして、それは神が三位一体としておられるからこそ、その形に似るものとしてコミュニティを求めるのではないか、というあたりとの関係があるようにおも合われる。

      誰しもがソーシャルキャピタルが必要
       居場所といえば居場所なのだが、個人を取り巻くソーシャル・ネットワークといってもいいと思う。FacebookやGoogle+やTwitterは、ソーシャル・ネットワークのメディアであるが、ソーシャル・ネットワークそのものではない。


      昔のSNS(うまい)の道具

       ソーシャル・ネットワークとは、その人そのものの生活を支え、わずかではあるが個人では解決がしにくいような日常的な問題に対して、その解決の補助を可能するような人間関係の紐帯の事である。それが、R.D.レインという精神科医によると、普遍的な人間的欲求であるという。そのことに関して、木原さんは次のように書いている。
       独創的な思想を20代後半から次々と発表して「反精神医学」といわれた著名な精神科医RDレインはこのことを見事に言い表して、こう説明した。
       
       すべての人間存在は、子供であれ大人であれ、意味、即ち他人の世界の中での場所を必要としているように思われる。・・・少なくとも一人の他者の世界の中で、場所を占めたいというのは普遍的な人間的欲求であるように思われる。」(『自己と他者』志賀・笠原訳 p.167)
      (同書pp.35-36)
       先の話で言えば、最近行政界隈で当たり前のことばになったソーシャル・キャピタル(社会的人間資本)はソーシャル・ネットワーク上に発生する資本であり、個人の生活をより豊かにするものである。ひきこもりなどの問題は、このソーシャル・ネットワークがなくなることを意味するのである。あるいは大きく毀損されることを意味するのである。この社会的資本があるから、個人は自己の存在意義を確認できるのであり、個人は自分自身の生における意味や役割を見出すことができるようには思う。しかし、本書の後半で出てくるが、これに依存しすぎて、依存関係になる場合がある。その場合は、基本的に境界線を明確にし、依存関係を適切なものにしていく必要がある。

      居場所はありますか?
       個人にとっての居場所があるか、という問いである。これはリアル空間における居場所ではなく、どちらかというと認知空間における居場所であると思う。
       それでは、読者の皆さんには本当の居場所があるかと問われれば、どうであろうか。あるとすればどこに。先に引用したレインによると、もし居場所がないというなら、人間の本質的な欲求が満たされてないことを意味している。これが精神的な病の根幹にあるとレインは主張する。確かに、物理的な場所ではなく、他人の世界の中で、場所(意味空間)を必要としている感覚はわかるように思う。夫婦にとっては配偶者、子供にとっては親、学校では友人、恋人であろう。(同書 p.38)
       教会は家だと言われ、居場所だと教会は主張する。しかし、教会の主張としては居場所であるが、実際にそうでない教会も案外多いのではないか。いや、正確に言うとある特定の人々にとっての居場所になってはいるけれども、そこから外れた人々にとっての居場所になっていない教会はあるかもしれない。

       先日Love Wins祭り( Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw ) のときにご紹介した動画を再掲しておく。この人は、私たちのメンバーなので、この教会に入ってよい、この人は私たちのメンバーでないので、入ってもらったら困る、とさすがに、海兵隊上がりや非番の警官をアルバイトで用心棒(Bouncer)として雇っているアメリカのダウンタウンのガラの悪いバーもどきの厳密な管理をしている教会はないかもしれないが、本人がカミングアウトした瞬間に、ボタンが押されて、戦闘機のゼロゼロ脱出システムのように、教会外に掘り出すことはないかもしれないが、じわじわと来会しにくくされ、追い出すような包摂力のない日本の教会は全くないとは言えないし、実際そのような被害にお会いになった方を何人か存じ上げている。そういえばこの間、コメントいただいたマダムLさんなんかもアメリカの教会でそういう目にお会いになられたかも、である。


      ベトナム戦争期活躍したF104のゼロゼロ射出システム
       

      教会の門の前に立つこわもても用心棒さん United Church of ChristのCF


      どこぞの教会にはあるかもしれない、新来会者射出システム United Church of ChristのCF

       まぁ、高齢者ばかりの教会に若者は居辛いし、若者ばかりのノリノリ、ウェーイの教会は、高齢者につらいだろう。その意味で、教会は特定年齢層や特定の社会集団が固まってないことが望ましいのだが、キリスト教人口が異様に少ない、そして、個別教会の構成人数が少ない現実日本の教会はそうなっていないことが多いので、この辺が難しいところである。

      弱さを知る必要
       まぁ、この前ご紹介した本田司祭の講演内容

      日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた

      日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想

      ではないが、受苦ということは非常に大きい意味があると思う。だからといって、「受苦しているから、はいそれバプテスマと同じです」ということまでは思っていないが、世俗社会からの隔離、排除などによる視線移動が苦しんだ人の内部で、起きている可能性は否定できない。それが理不尽なものであればあるほど、自己を超えた存在を訪ね求めることも考えられるからである。

       イエスは、徹底的に弱い存在になられ、死を通られたということ、そして休まれたというあたりのことは、ナウエンの美しい文章で、そして、翻訳者小渕さんの名訳で、「ナウエンと読む福音書」の最後の部分でうまくまとめられている。これもまた是非お勧めしたい本ではある。この部分を考えるためには読まれることをお勧めする。
       (引用者補足 イエスが弱い赤ん坊として生まれた)その明確な答えはよくわからないが、恐らく、いくつかの理由があると思う。
       その一つは、本当の理解者は、貧しさ、人生の辛さ(辛酸)弱さを知っている(体験している)必要があるということであろう。イエス自身は、最も小さいものになったことを通して、人間の弱さ、苦しみを理解できる、つまり、共感共苦(コンパッション)ができることを教えている。(同書 p.40)
       個人的には、最近まで、ピエタの意味があまりピンとこなかった。ナウエンを読むまで、本当にわからなかったのである。しかし、この受苦のキリストの意味、傷つき、痛んだキリストの意味をナウエンと読む福音書を読み、コンパッションを読み、わが家への道を読む中で、このことが少しづつわかるようになってきた。この裂かれたキリストと裂かれたパンは理念的に説明は受けてきたが直感的にあぁ、なるほど、となったのは、本当につい最近の事である。それだけ、外見的には幸せな人生を送らせてもらっていたのだ、と思う。


      ミケランジェロ作ピエタ(Wikipedia様から)

      支えられる体験
       信仰する、という動詞にπιστεύω(ピステオー)という語があるが、この後は他人に信頼して寄りかかるという意味がある。まさしく、弱くなっているからこそ、弱いからこそ寄りかかるのである。しかし、近代を支配した勝利主義的概念が支配する近現代においては、この弱くなることを許さない、老人でも若作りをする。その結果、以下の「とわに美しく」のようなスプラッター・コメディ状態になりつつある。プラセンタだのコエンザイムだののCF見ていると、もはやコメディである。70過ぎて30歳代に見えたら気色悪いではないか。


      とわに美しく(もはやスプラッターコメディであった)

      もう一つは、支えられるということそのものの中に深い意味があるのかと思う。本来、何物にも支えられる必要のないものが、あえて自ら支えられる状態になるということ、ここに深い神秘が隠されているのではないだろうか。(中略)このように支えられるという実践(実体験)は近現代には軽んじられるものであるが、人間の大切な神秘であるように思えてならない。(同書 p.41)
       まぁ、力学でもそうであるが、作用が動くためには作用点が必要で、作用点では、我々はある面で支えられているのである。そういうことを考えると、もう少し、最近復活させた富士山とシナイ山の連載ではないが、完全に訪問者として我らのところにやってくる神に我等はもう少し支えられ、神を信頼し神に依存するための知恵を深める必要があるかもしれない。



       まだまだ、続く。




      評価:
      木原 活信
      いのちのことば社
      ¥ 1,728
      (2015-07-08)
      コメント:お勧めする。

      評価:
      ロバート・D. パットナム
      柏書房
      ¥ 7,344
      (2006-04)
      コメント:名著である。

      評価:
      ヘンリ・ナウエン
      あめんどう
      ---
      (2008-04-30)
      コメント:再版が出ないだろうか。その日を心待ちにしている。

      2015.07.22 Wednesday

      木原活信著「弱さ」の向こうにあるもの を読んだ その3

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         本日は、木原 活信著 いのちのことば社刊『「弱さ」の向こうにあるもの』をご紹介したい。今回で第3回目である。

        コンパッションと小さくされたもの
         善きサマリア人の譬えからの部分で、木原さんは、次のように書いている。サマリア人とは誰なのか問題を考える際に極めて重要な視座を与える部分だと思う。
         つまり、このたとえ話は、嫌われ者で真の援助者になるには程遠いと思われたサマリア人だけが、逆説的であるが、苦しむ者の傍らに、ただ一人寄り添うことができたというストーリーである。(中略)ただ、「かわいそうに思って」(コンパッション −断腸の思いで共感、共苦して)近寄ってきたのである。祭司やレビ人と対照的である。
         この「かわいそう」と書かれた言葉は、ギリシャ語のスプランクニゾマイという特殊な用語で、相手の痛みに対して、自分のはらわたがよじれるほど、つまり自分の身体が痛むほどの強い反応を示すような表現である。聖書の中で、この表現はキーワードの一つである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.46)
         この前の日本宣教学会の本田司祭の基調講演の内容(詳細はこちら 日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた )ではないが、ある面、善きサマリア人は、ユダヤ人から小さくされたものであったのであろう。勝利者として手を差し伸べるでもなく、成功者として手を差し伸べるとしてでもなく、やむにやまれず、手を差し伸べた感じではなかったか、と思われる。この弱さの中に、生きた人物がナザレのイエスでもあった。世間から打ち捨てられた人々、取税人や遊女と呼ばれた売春婦、サマリア人、羊飼いや遊牧民、病気の人々や重篤な皮膚病を抱えた人、物乞いや身体障碍者の人々と対話し、そして、挙句の果てに、「食いしん坊の大酒のみ」今でいえば「パーティピープル」とか「パーティフリーク」と揶揄された人であったのである。まぁ、その意味で下記の礼拝説教題の様な人々として当時のユダヤ人からは捉えられていたと思うのである。


        ある教会の説教題

         主流派や成功者からは相手にされない群衆たちに対して、まさにかわいそうに思われたのが、ナザレのイエスであったのである。
        新改訳聖書
        マタイ 9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

        口語訳聖書
        マタイ  9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
         上記二つの引用部分で新改訳聖書では「かわいそうに思われた」と訳出され、口語訳聖書では、「深くあわれまれた」と訳されている語がスプラングニゾマイ σπλαγχνίζομαι なのである。その意味で、イエスは、善きサマリア人のように、小さくされた人々であり、その小さくされたナザレのイエスが小さくされた人々とともに、生きることで、ここに神の国がやってきた、ということを示したのが、イエスが主張した、「あなた方のうちに神の国がある」宣言であったのだろうとは思う。

        ウエメセ援助者とキリスト教会
         援助者としての教会や教会人と援助者の関係について、木原さんは次のように書いておられる。
         この「良きサマリヤ人」のたとえ話は、自分の正しさを示そうとして「私の隣人とはだれか」とイエスに質問した律法学者に語られたものである。「隣人とはだれか」と問うなら、自分を中心とした援助する側の枠組みでしか考える事が出来ない。しかしそれは、結果的に冷徹な傍観者と化してしまう。現代の教会やクリスチャンにも、何かこれと共通する点はないだろうか。その立場からは、援助される人、痛み苦しみなど、なかなか想像できない。自らを援助者と自負するものに、援助される側の真の苦しみを理解することはできにくい。(同書 p.47)
         明治期以降、日本のキリスト教は、海外の豊富な資源、豊かな神学的背景に依拠して伝道してきた。もちろん、明治期以降への日本の伝道者が全てそうだとは一般化して言う気もないし、そのつもりもないが、その一部やその精神性の中に、自分たちの持っているものがあまりに素晴らしいものなので、未開の東洋人(アメリカ人の目から見て)に憐れみの心で、それを是非とも分かち合いたい(分け与えたい)という思いがあり、文脈ガン無視の体系の中で、未開の東洋人に若干ウエメセで援助するという雰囲気になった人もあるだろうし、その感覚を持った人々もいたであろう。憐れみやかわいそうに思う、の意味が根本的に違うと思うが。

         NHKこころの時代で、先日再放送された筑豊田川で弱くされた、あるいは、小さくされた人々に長らく奉仕された犬養牧師の再放送で、犬養牧師自身が自分自身の伝道の方法論や態度の中に、この救済者の目があったことを素朴に認めておられた。一種のメサイアコンプレックスがあったことを認めておられた。

        苦悩に向き合うことと安易に用いられる「がんばれ」
         個人的には、日本的な語感の中で用いられる「がんばれ」という言葉が大嫌いである。半分、時に未だに抑鬱症状が出るからかもしれないが、頑張れないものはがんばれないのであるし、頑張れという他人の意思に沿って生きることほど、つまらないものはない、と思っている。それで世の中が回らなければ、世の中が回らなければいいのであり、大体そういう時には、だれか困った人が勝手に言わなくても頑張ってくれちゃう、とあきらめてしまえば、かなり楽に生きられる。
         木原さんは、この辺のことを中島みゆきのJ-Popsを引用しながら、次のように書いておられる。
         シンガーソングライターの中島美由紀さんの楽曲の中でも異色の「ファイト」という一曲をご存知であろうか。この歌詞をよく吟味すれば、解釈が困難で、実に奇妙な詩であることに気づく。
         冒頭の歌詞の内容は、実話に基づく話だそうである。中島さんのラジオ深夜番組に”あの子は中卒だから仕事を任せられない”と言われた少女かあの悔しさに満ちた字で書かれた手紙が届いた。その日の放送で、中島さんはこの少女に「がんばりましょう、努力すれば道は開ける」というような、言ってみればありきたりの言葉をかけてその場を済ませていたという。しかし、その少女の本当の苦悩に向き合うこともせずに、きれいごとで済ませてしまっていたのではないかとの多いが、この歌の一つの通奏低音になっているようである。
         続く歌詞には、奇妙と思えるセリフが独白の様な形でつづられている。(同書 p.49)
         まぁ、中島みゆきさんの「ファイト!」は、こんな曲である。


        中島みゆき ファイト

         大体中島みゆきの歌詞には、理解不能なものが多い(と思っている)。その昔、人生幸朗師匠が突っ込んでいる映像をテレビで見た記憶がある。その中でも、「責任者出て来い」といいたくなるような歌詞ではある。

         まぁ、歌詞の当否は別として、「がんばりましょう、努力すれば道は開ける」というのは、アメリカ型の反知性主義社会がもたらした負の側面である。この前提には、すべての人は等しく人権だけでなく、能力や才能や特性も同じであるという産業化時代、あるいは近代という時代が生んだもの、あるいは啓蒙思想の負の側面が含まれており、非常に反知性的な前提である。人はそれぞれ違う、という側面を無視しているため、逆上がりができない、したくない、その意味を理解できない人間に逆上がりをすることを強い、宗教的な理由でエビ・イカ・タコ・カニ・ポークが食べられない人間にもこれらを食することを強要する人々を生み出し、微積分学と全く無縁の生活を過ごす所謂文化人が、私は使ったことがないから、という理由のみでπ=3と全ての小学生に教えよと、ご主張になられる。そこまで言うなら、ネイピア数(e =2.71828....)も3にしてしまえばよい。実に反知性主義的なものも生み出した時代が近代であった、と思う。

         中学時代の教師が、「君たちには無限の可能性がある」とかいうことを卒業式付近に言っていたことがあるが、それは「君たちには無限の失敗の可能性がある」ということでもあるのだ。この成功するという方側面しか見ないこと、個人がその諸条件抜きに平等であるという悪しき前提を生んだのが、近代という時代であった。

         努力する機会すらない人に、まさにそれは失礼な話であるしそんな社会で生きることは、非常に劣悪な罰ゲームでしかない。

         しかし、ここで皆様にご質問したい。「神は人間に頑張れ、とのたもうであろうか?」と。

        自己を愛しすぎる若者たち
        自己が愛せない若者たち

         大学という現場にいると、まだ思春期の不安定さを引きずった学生たちに出会う。しかし、今の学生を見ていると意識高い系と呼ばれる自己肯定感、自己絶対感のある学生と、そうでない学生とに、ある程度分類できるような気がする。というか、中間層が減ったというべきか。

         中国人学生には、自己肯定感、自己絶対感のある学生が多く(例えば、プログラムが現実にできなくても、「プログラムはできます、簡単です」と言い放ち、ある程度できるのかと任せても、できておらず、できたとしてもプログラムのバグを指摘をしても、「これで問題ありません」とクライエントの意向と仕様をガン無視で言い放つ学生もいる)という例には、日本人学生の中でこのタイプの人々で出会う比率と比べると、5倍以上多い気がする。

         日本人学生の自尊心の低さを木原さんは次のように書いておられる。
         自己を大切にし、尊重することは人間にとって当然であり、その前提に立って、それと同様に他者を愛しなさい、ということなのである。
         だが改めてこの事を取り上げなければならないのは、その当然であるはずの前提が、今崩れてきていることを危惧しているからである。特に日本の若者の自尊心の低さの状況は深刻である。(同書p.53)
         意識高い系の人々のように自己を愛しすぎる学生、自己を大事にしすぎる学生は、それはそれでいろいろ珍妙な事件を起こしてくれるが、自己を大事にできない学生の方が、少し対応に困るし、対応のための時間はかなりかかる。まぁ、仕事なのでご対応はするが、かなり、手間をとられることは確かである。そして、本人は意図してないにせよ、違った意味で周りを振り回してくれるのである。大学に合格しても引きこもってしまう学生、論文を書けないと悩んでしまって一歩も進めなくなる学生など、カウンセリングの必要な学生がかなりの確率で発生するのである。これも大学が大衆化してしまった結果の一つであると思っているが。
         
        意識高い系症候群

         最近、意識高い系の学生がいるという話を息子や娘から聞く。結構うっとうしいらしい。まぁ、学生を見てもこの手はうっとうしい。講義中正々堂々と、TOEIC600点攻略法とかいう本を読んでいて、意識高い系学生を演出しておられるので、こういう学生には、オヤジの実力を見せつけてやることにしている。なんかこんな本も出ているらしい。



         個人的には、ソーシャルメディアが発達してきてから、人とバーチャルにつながりやすくなって、この種の意識高い系症候群患者の皆様が増えてきたような気もするが、カルトではないかと噂が流れた、東京のどこぞにあった東京○○○○の教会は、この種の意識高い系患者の皆さんがたくさんおられたようである。そして、意識高い系症候群患者の皆さんで集まって、教会活動をしていたもようでもあり、最後の方は、意識だけが高く現実の処理能力が低いため、目が当てられない状態になったのではないか、と思っている。
         ある場合は、短絡的であるが、承認の量や数に自分の幸福感が直結していることがある。(中略)それ(Facebook)がなにゆえ多くの現代人の心をひくのかという理由の一つとして、承認要求というものがその背後にあるのではないか、と思っている。(中略)学生たちが言っているような、「いいね!」の数が気になって仕方がないということは実感できない。けれども、頻繁に利用している人の中にはそうなっている人が少なくないようである。また別のSNSのTwitter等では、自分の書き込みを定期的にチェックしているフォロワーの数が指標になったり、友達の数を競って「数友」という現象まで起きたりしているという。(同書 p.56)
         意識高い症候群患者の皆様の問題は、スイフトのガリバー旅行記のラピュタ人のような宙に浮いたことしか言わない、言えない人たちなので、構想力はあっても、結果的に実行力と実力が伴っていないので、生活が破たんしたり、計画が破たんしやすいという傾向を持っていることである。


        天空の城ラピュタの原型のガリバー旅行記の挿絵

         こういう人への対応は、基本、皆さんご存知の『バルス祭り』をするに限る。しかし、ムスカ君は、結局意識高い系の原型なのね。昔は、こういう意識高い系のうっとうしい人たちを気障と当ててキザと読ませた。昔から意識高い系はうっとうしい、気に障る存在だったのである。


        バルス祭りの模様


        意識高い系にあるあるフレーズ

         個人的にFacebookやツィッターを使っているが、個人的には、広告宣伝のためのマーケティングツールだとしか思っていない。ピンポイントでピンポイントに必要な人への情報伝達ツールであると思って使っている。このブログは、その意味で、ピンポイントではない。ある面マスメディア的な広く浅くのメディアでしかないと思っている。まぁ、あと電子化しておくとだれかが予想外の単語検索で拾ってくれるので、一種の掲示板、ルターが贖宥状を張ったとされる大学の掲示板代わりの教会の扉の代わりだと思っている。ツイッターは、単語型のマスメディアの代替品だと思っている。

         しかし、Facebookはクローズドな世界で、かなり突っ込んだ議論ができるので、個人的にはバーチャルなディスカッションツールとして使う方がいいと思っている。

        リアル世界での承認の代替品としてのヴァーチャル承認
         マズローが指摘するところによると、人間の基本的欲求(その順序は国や文化によって違うという批判はあるが)の一つに承認要求というのがある。この商人が現在は、SNSなどの存在によって代替されているのではないか、というあたりの事に関して次のように木原さんは書いておられる。
         承認は、人間の表面的な行為をはかるだけである。先にも述べたように、現代人の最も深刻な状況というのは、その人のなした「行為」(doing)ではなく、その人自身の「存在」(being)としてありのままの姿をそのままで受け入れっられ、愛される間隔が喪失されていることであると思えてならない。つまりその人の行為がもし認められなかったら、自分存在自体やその存在価値が危うくなってしまうことになる。これは深刻である。承認欲求の裏には、このような存在への承認とでもいうべき基本的信頼感が欠落している裏返しがあるのではないかと感じることがある。(同書 p.57)
         ここで触れておられるDoingとBeingとの概念の関連の深い概念として、八子さんが書いておられた記事を受け、Becomingという概念をふれた本ブログのブログ記事 Doing Being Becoming Creating そして Recreation  という記事で思うところを書いたことがある。

         ここで、木原さんは承認欲求の裏側に基本的信頼感の欠落の問題として書いておられるが、そもそもが、集団への帰属意識の希薄化とそれに伴うリアルな人間ベースでのソーシャルネットワークの衰退が背景にあるのだと思う。つまり、これらのサイバー空間上でのネットワークに依存する人々は、最後の希望の地 Last Resort として、このサイバー空間に依拠しているのかもしれない。リアル空間でこのソーシャルネットワークを形成できなかった人々なのだから。

         秋葉原で自動車で突っ込んで何人もの人々を傷つけた方も最後の希望の場は、教会でも、地域社会でも、仲間でもなく、ネットであったし、最近ドローン少年として知られることとなった中学生なども、要するにネットの動画配信が彼にとってのラストリゾート(最後の希望の地)であった可能性があるのである。



        Last ResortというアメリカABCテレビのテレビドラマの予告編

         実に無益なことだと思うが、日本では、その個人が通過した、あるいは一時的に属する組織をあまりに過大評価する傾向を持つ人々が実は案外多いのではない か、と思う。学生の就職指導をしていて思うのだが、いわゆる一流企業を目指す学生が多いのである。そして、1回戦エントリーシート段階で、お祈りメールを 受け取ってしまい、そして、自信を無くす学生が多い。個人的には、経団連なんかと全く関係のない中小企業をまず選択し、協定を守る所がないところを受験 し、ある程度自信をつけておいてから、一流企業を目指す方がよい、と毎年繰り返し説明するので、最近は飽き飽きしている。

         大学入試でもそうで、大学の教育内容に関係なく、難易度ランキングや社会的評価だけを判断基準に大学が選択されているのである。それに何の意味があろうか。まぁ、大学人でも、この種のランキングで、おしり叩かれ、無意味な繁忙感だけが最近は続いている。

          いずれにせよ、会社と個人は内包関係ではあるが、等号関係ではないし、卒業大学と個人も内包関係ではあるが、等号関係でないのに、そのことが無視され、肩 書だけでものを語ろうとする人があまりに多く、看板倒れになっている方とお出会いすることも少なくない。そういう方とはお付き合いは避けている。

         大体出身校や所属組織で語ろうとする方ほど、案外その人に中身がないのである。その肩書きが外れたら、ぬれ落ち葉になっちゃう中高年のおっちゃんと同じではないか。企業をご卒業になられたら、大企業で、部長をしていようが役員をしていようが、関係なくなり、その人の内実が問われる点で同じである。このあたりの誤解が早く解けないか、と思うがなかなか解けないのだね。これが。

        成功や業績と無縁の神の評価
         旧約聖書の神は、基本的に弱いもの、弱いものへと向いているのである。上智大学の

        上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

        上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

        でも触れていると思うが、旧約聖書のYHWHは、弱いものへと降りてくる神なのである。そもそも、アカンたれの小さいものと呼ばれるイスラエルという民族を選び、ダビデという末息子を選び、見映えの良かったサウルを人格崩壊させ退け、自国民中心主義自国民のみ繁栄主義をとるのではなく、トーラー(律法)において、その民の中にいる在留異国人を保護させ、やもめの保護規定を置くという神でもある。

         新約においても、ナザレのイエスは、人々が相手にしなかった反ユダヤ社会的勢力の一員であった人々、つまり、取税人や犯罪者、サマリヤ人やカナン人のところにイエスは行っているのである。その意味で、スコット・マクナイト先輩やN.T.ライト先輩がご指摘のように、旧約聖書とナザレのイエスに至る一本の連続体が聖書には存在するようである。
        ここで大切な事は、人間の承認要求は、成功や業績という結果である行為を基準にすると、時として不充足感にさいなまれたり、結果的に果てしなく満たされない空虚感となってしまうことがあるということである。(中略)ところが神のまなざしは常に正確であり、不変である。しかも重要なことは、それは人間の行為ではなく、存在そのものに向けられるという点である。つまり成功しようがしまいが、その存在beingに対して、「尊い」と承認してくれるのである。(同書 p.67)
         繁栄の神学が個人的に嫌いであることは、これまで述べ続けてきた。それは、基本的に旧約聖書から連綿として続く神の正確と一致しないというか、そのある一部分だけを取り上げ、ものすごくバランスの悪い、人間よりの評価を重視する、世俗的な成功や豊かさを求め、それをもとに他者を評価し、そして、信徒を突き動かす性質を持ち、そして、本来人間を開放すべき福音が教会の公同パターンに閉じ込める呪いのようなものに変わるからである。

         このような囚われ人に開放を告げ知らせるはずの福音が、福音で無くなるのはどうかと思うし、すべての被造物の存在そのものが存在することに対して、「見よ、これらのものは良かった」と言い給いし神のイメージとは、繁栄の神学とその影響下にある人々が指し示しておられる神とはずいぶん違うかもしれない、と思うのである。

        まだまだ続く。




        評価:
        木原 活信
        いのちのことば社
        ¥ 1,728
        (2015-07-08)
        コメント:お勧めしている。

        評価:
        スコット・マクナイト
        キリスト新聞社
        ¥ 2,160
        (2013-06-25)
        コメント:イスラエルから現代に至る一貫した神の性質に関して書かれていて、本来の福音とは何かと考える手がかりになる書物

        2015.07.25 Saturday

        木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その4

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          基本的人権とは何か

           世の中に、より高位(メタ概念)の公理系から導かないと、トートロジー(循環論法)担って、結局何も言っていないことになるという議論はいくつかある。典型的には、「人権」とか人間の「尊厳」とかいうものが、典型的にそのたぐいのものである。この辺りに関して、木原さんは次のようにお書きである。
           人間は特別な存在であり、人間にはあらかじめ備わった「尊厳」が在るからであると言うが、その尊厳とは何かがあいまいなのである。この人間の尊厳こそが、実は、自明のように言われる基本的人権の根拠である。これは、神聖にしておかしてはならない権利とも言われるが、なぜおかしてはならないのか、これもあいまいである。
          (中略)
           この「尊厳」は憲法に於いても記載されているが、それが何かとあいまいにならざるを得ない。今日の社会福祉の規範、法律においても同様である。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 pp.70-71)
           例えば、世の中の測定にまつわる度量衡に関する概念には、幅を利かせているものに、ポンド・ヤード法系とメートル系の二系統あるが、なんで、ポンド・ヤード系を選択するのか、その根拠は何か、と言われてそれは、実はそうであると決めたから、としか言いようがないのである。つまり、これがメタ概念である。つまり、ポンド・ヤード法からはどうこねくり回してもメートル系の体系には論理的に移行できないのである。移行するためには屁理屈というメタ概念を要する。


          メタデータによるメタシステムの例
          メタシステムは、いわゆるビッグデータとか、データベーススキーマと深い関係にある


          メタデータとファイルの関係(日経ITProから転載)

           通貨の計数システムが12進60進であるのか、10進を用いるのかは、これも英やで決めるしかなく、クォータ(1/4)が日常言語でどの程度利用されるかによって、12進が便利か10進が便利かが決まる。クォータシステムが多用される英語圏では、12進の方が有利である。



          クオーターシステムがとられているUS Map System

           これと同じように、メタ概念がなければ、メタの下位概念だけでは相互参照の世界になり、より高位のメタ概念に下位の概念からは移行できない仕組みとなっているとしか言いようがないのが、現実社会なのである。

           しかしながら、個別性が重視される世界では、このメタ概念がないという前提が暗黙に想定されるため、相対の議論に陥ってしまいメタ概念にすら到達できないという課題を持つことになる。

          メタ概念がないとどうなるか
           メタ概念を導入するに失敗した事例が、木原さんの本には出てくる。なぜ、人を殺してはならないのか、という根源的な問いに対して、相対的な下位概念だけの論理をこねまわしても、結局トートロジーに陥るしかなかった大学教員の事例である。
           これは先のテレビ番組の某教授の論理形式や説明方法に問題があるのではなく、実は理路整然と歯切れのいい論理展開しようとすると、ある一定の仮説(前提)をもって来なければ明確に説明がつかず、無理に説明すると論理的には成り立たない話なのである。それは、動物や他の生物の中でも人間だけに特別に尊厳がある、という仮説(前提)である。(pp.72-73)
           もちろん、この背景には、対話相手との間に、メタ概念が存在するという共役部分があるかどうかが鍵概念になる。おそらく、このうまく説明ができなかった大学教員は、相手との間にメタ概念に関する一時的合意がないことを前提にせざるを得ず、その結果論理破たんを起こすトートロジーに陥ってしまったのだろうと思う。

          人間の尊厳の起源としての聖書の概念
           人間の尊厳の起源は、人間同士の中からは出てこない。そういうことの中から出てこないから、人間が社会的な生産能力や社会への貢献だけではなられ、そういう生産性に寄与できない人や社会貢献できない人を評価できず、その結果、それらの人が社会の外側におかれる事が生まれるのではないだろうか。
           実際、人間の尊厳は、日本では明治以来から紹介されており、それを自明なものとして受け止めてきた。その際、「天賦」の原理、即ち聖書由来の原理である。人間の尊厳とは、普遍的な概念になり、社会福祉では法律の条文の根幹をなす用語にも登場するものとなっているが、そのもともとは聖書が起源であるといってよいのである。(p.73)
          そうなると、障害者とか、病者とかは社会の重荷でしかなく、それらの人たちは尊厳がないかのように誤解されることになる。あるいは、社会の「平均的」でない人たち、飛び出した人たち、障害を持つ人々、奇人変人と呼ばれる人々や、セクマイと呼ばれる人たちや、ホームレスの人たちなどは、その尊厳すら脅かされかねないことになる。そのあたりのことを、一時期流行ったフォレスト・ガンプという映画はうまく描いていると思う。ガンピズムなんて言葉がありましたなぁ。今でいえば、このガンプ君、自閉症候群の可能性が高い。


          フォレスト・ガンプの予告編
          「ガンピズム」の画像検索結果
          ガンピズム と題された本

          聖書的人権論をめぐる欧米の理解
           Low and Order等のアメリカの裁判ドラマを見ていればわかることであるが、アメリカの場合、憲法に定められた人権というものが法曹界での基準となっている。それは、人間の間の法律論の世界の中で、前提になってしまっていて、そこは忘れられているのである。

           以下の動画で出てきているJack McCoyは一応アイルランド系の警官の息子で、カトリック信者であり、人権派で、過去学生運動にも積極的に関与してきた地方検事という設定となっている。



          Low and Orderのワンシーン

           この動画で見られるように、ジャック・マコイ自体は、人権派の検察官であるという設定であり、人権は宗教問題と切り離し、あくまで法律の前提として考えているということになっている(あくまで設定上)。近時アメリカで同性婚が連邦裁判所で認められた、ということに関しても、他州で認められた同性婚に関して、同性婚を認めていない別の州政府が、他州でも止められた同性婚を否定することが憲法問題として争われたのである。他州が認めた同性婚者であるからと言って法の支配の観点から、社会から排除され得ないとしたのがその判決の意図である。この背景には、これらの同性婚者であっても法的には人権があり、 それを同性愛者であることを以て社会から排除するのは憲法修正第1条の観点から見て、適切でないという判断が下されただけである。同性婚の消極的容認で あって、同性婚を合法化する制度化が積極的に推進されていると誤解して騒いでいる人たちが居られるようである。それは筋が悪い議論である、と思う。

           ところで、この件に関しては、将に、木原さんが以下でお書きのとおりである。
           多くの日本人には意外に思えることであるが、人間の尊厳の根拠は、聖書に基づく前提に成り立っているものなのである。無論だからと言って現代の欧米人ですら、それほど日常的に意識しているものではない。(同書 p.74)
          人権自体が前提になり、社会の前提として人権を想定することで、人権思想そのものを生み出した聖書理解から切り離されてしまったのである。そして、今回のように、同性婚をめぐる問題になったとき、聖書から導きだされた人権の問題が、同じく聖書が否定している同性愛の問題と正面でぶつかるから、国論を二分するかのような議論になるし、アメリカでは国を挙げてのから騒ぎとなるのである。

           しかし、この辺の部分を読みながら、N.T.ライト先輩の第2章冒頭の隠れた泉と水道の話しを思い出してしまった。ぜひ、『クリスチャンであるとは』もお求め下され。

          人の尊厳に関するの聖書の根拠

           では、人間の尊厳に関する聖書的根拠はどこか、といえば、創世記の最初で人間がどのようにして人間になったか、という部分に帰着するしかない。
           「神である主は土地(アダマ)のちりで人(アダム)を形造り、その鼻にいのちを吹きこまれた。そこで人は生き物になった」(創世記2:7)という記載がある。先の説明と合わせて、人間の特殊性として、人間が土地からつくられ、神の「いのちの息」を吹きこまれて「生きものとなった」という特別な尊厳のある存在であると聖書に記されている。つまり、これもまた、神の尊厳が根拠となっているのである。(同書 p.76)
           人間の実に神の霊が吹き込まれ、いのちの息が吹き込まれたが故に人は人となり、人に唯一の尊厳が与えられている根拠になっているのである。

           しかし、このアダムの話を読むたびに、塩屋の神学校の大先生とキラキラネームに関してツィッター上で対話したことを思い出した。アダムというキラキラネームにどんな字をあてるか、である。
          男でアダムも無理があるが、どうせなら、「土地」 とか「土」と書いて、アダムと読ませるのはありかも。
          と書いたら、塩屋のオサレな先生からは
          たぶん、ちょっと放送コードに引っかかるかも知れないけれども、土人アダムがもっともヘブル語にかなったキラキラ名か。
          というお返事が来た。まぁ、しょせん我等は土人、土の人の末である。だからこそ、地理学は面白い(そこ持っていくかという突っ込みは御無用で御座る)。

           
          おれたちひょうきん族のキャラクターだった『あだもちゃん』

           まだまだ続く。




          評価:
          木原 活信
          いのちのことば社
          ¥ 1,728
          (2015-07-08)
          コメント:絶賛お勧め中である。

          2015.08.03 Monday

          木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その5

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             今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

            罪あるものとして愛せない人間同士
             ついこの間の記事でも、人間同士が共同体形成をすることが困難であり、その中核には、共通項というか共通の対象が必要であることをご紹介した。そもそも、無条件に人間が愛し合えるほど、程度よくできていないのであるし、それが集まったものが教会でもあるともミーちゃんはーちゃんとしては思うのだ。今日は短め。
             神がまず愛をモデルとして示したので、それゆえに私たちもまた互いに愛し合うべきだと言うのが、聖書に教える愛の基本姿勢であり、これは新約聖書全体を貫く一貫した教えであると言っていい。つまり、意外に思われるかもしれないが、聖書は生身の人間同士が無前提に「互いに手を取り合って平和を語り合い、愛し合いましょう」と言うほど、人間が善人同志で、相互の愛が実現できるとは語っていない。逆に人間はとことん自己中心的であり、罪人であり、自分ではそうすることができない動物であるという現実を前提にしている。このようなどうすることもできない罪という課題を背負っているが、それゆえに神に助けてもらう必要があるというのが聖書の人間観である。その結果、神から許されて自由にされた人間が、その赦された愛に感謝し、赦された者同士が今度は、「互いに愛し合いなさい」というのが、聖書の言う愛のメッセージである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 pp.78-79)
             人間は、基本的に悪であり、他者としての神も、他者としての人間も、受け入れがたくできているという意味で、欠陥がある、あるいは、罪がある、というのが聖書の人間観であると思う。信仰を持ったくらいで、この罪があるという状況は改善せず、罪のある状態が依然として続くことは、キリスト教の黒歴史を見ていればある程度類推はつくのではないだろうか。所詮、人間は、鼻で息をするものなのである。

             ここで、木原さんは「神に助けてもらう必要がある」とお書きであるが、個人的にこの地上では、人間が神を迎え入れることができない以上、神の助けを完全のかたちで神の支配(神の国)が完全な形で実現していない段階では、受けることができないので、人と愛し合ったり、平和を語れないように思う。どちらかというと、とりあえず、不幸な黒歴史を生み出しつつも、それらの黒歴史は神からすれば容認できない行為であるのだけれども、「しょうがないなぁ」と神に言わせながら、神に容認してもらう、ということのようなきがする。その意味で、神の温情にかけ、そこにすがる、という感じではないか、と思う。

             そもそも、イエスによれば、モーセの律法は、申命記6章のシェマーと呼ばれる部分と、レビ記19章の中からの部分を引用しながら、次のように要約できるといっておられる。なお、レビ記では、あなた方の中にいる在留異国人を愛せ、といっておられる。
            【口語訳聖書】 マルコ福音書
             12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
             12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
             12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
             人間は、罪のある存在である。神を愛せないどころか、人も完全には、愛せないし、赦せないのである。しかし、神の愛は、そんなケチくさい人間の愛とは違い、問題だらけの人間を愛し、それこそ、スプラングニゾマイ(情熱で胃腸がおかしくなるほどの愛情を以てあわれんで)おられるのである。そうして、どうしようもない生を生きる我らに対しての愛を以て、そこでの人間性の回復と、そのどうにもこうにも仕様がない行き方をせざるを得ないとしても、最終的に神の完全な目的が達成されるとき、人間を神が完全な形へと回復させる、つまり、人間が人間して生きるようになるようになるようにするという約束こそが、聖書が語る福音の本質であり、本来、福祉は、すべての人が、人間が人間として生きるようにするということであることを次のように書いておられる。
             イエスの思いと言うのも、迷子になって入る子供を探し回るような切迫感を以て、あるいはそれ以上の桁外れの情熱をもって、今なお失われた人を探している。これこそが、聖書が語る福音の本質であり、それが福祉の源泉である。(p.83)
            第6章 支援すること から
             幼いころの木原さんが、カブトムシの飼育と脱皮の際、あまりにも早く手を出してしまったがために、そのカブトムシがお亡くなりになってしまった経験が支援のタイミングを考える出発点となったというお話が書いてあり、それに引き続いて、次のような印象的な記述がある。
             困っている人が入れば、すぐに助けてやりたい、こう思うのは、福祉専門家でなくても、誰にも共通のものであろう。しかし、そのタイミングをちょっとでも間違えると、相手は依存的になり過ぎたり、自分で立ちあがろうといているのに結果的にいつまっでもそれを出来なくさせてしまう危険性がある。
             先日のブログ投稿 孤独と受容を考える映画を2本 でも書いたが、人間が人間として生きるという姿の回復のために、キリスト教の愛というのは、何でもかんでも抱え込むことのない愛ではなくて、その人がその人らしく生きる準備をするために援助を受ける人の主権と意思を尊重しつつ「もてなし」をすることであり、人間が人間に戻っていくためのスペースを提供することだろうと思う。

             日本人の多くの方々は、大変親切である方が多い。時に、親切すぎて困ることがある為か、CMで一世を風靡した「小さな親切大きなお世話」といいたくなることが多すぎる。あまりに気が回りすぎて、時に息苦しく感じるほどである。しかし、この「大きなお世話」といわれる背景には、気を使いすぎていた結果、他人の主権や、他人の自由意思を奪ってしまって、本人の自由な行動の制約になるからではないか、と思う。

             アメリカに行くと、ほとんど助けてくれないことが多い(個人の自由に生きることがよいとみんなが思っているので、どうぞご自由に、ということがその背景にはどうもある様ではある)のであるが、How can I help you?と声をかけてくれることがある。基本的に相手の意思が重要であり、自分が助けが必要だ、と思っても、相手がそれを望んでいない以上助けないというのが原則である。

             学生のプログラム作成の指導をしていて思うことがあるのだが、プログラム的な発想のない学生につい手を出したくなるのである。も度たも度た、ろくでも書いてないコードを欠いているのを見ると、手出しして、書き直して、ほら、きれいでこれで動くでしょ、とやってみたくなる欲望にかられることが多い。しかし、それではいかんのだ。なぜか、というとそれは生徒の技量での成長を奪ってしまい、彼らの生きる能力を身に着ける機会を奪うからなのである。あるいは、プログラムを作成したり、システム設計をするという面で成功できないとしても、別の面で才能を開花させる可能性があるのであるが、そうであるにもかかわらず、その才能を奪ってしまうからであるのだ。じつは、このプログラム作成の納期が決まっていると、彼らが何とかたどりつくということを待つということ、これが結構難しい。特に締め切りが迫っている中で、待ってられないので、手出しをしてしまうことが多々ある。

             こういうことを考えていると、教会とは、人間が、キリストが存在したこと、ナザレのイエスがキリストであったこと、そのイエスが、今も人間と共に生きようとしていることを週に一度覚えることで、「神と共に生きるという人間の姿」をとる機会を提供するおもてなしをするための場所と人間による集まりであり、そして、人間が神と共に生きる人間であるもてなしを十字架の死の前にイエスが提供され、また、復活後エマオへ向かう道の途中で弟子たちにされた聖書の説明、そして、復活のイエスは自分を泊めろとも言わず、相手の希望に応じて相手の主権と意思を尊重し、一緒に泊まることにし、そのクライマックスで弟子たちにパンを裂き、杯を提供することで、もてなしを提供されたと思う。


            Matthias Stomによるエマオでのもてなし Wikipediaからの借用

             まだまだ続く。 



            評価:
            木原 活信
            いのちのことば社
            ¥ 1,728
            (2015-07-08)
            コメント:大変、よろしい、と思います。

            2015.08.10 Monday

            木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その6

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               今日は、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

               本章の冒頭、使徒の働きに出てくる神殿の門のところにいた障害者とペテロたちとの対話を取り上げながら、次のように木原さんはお書きになる。

              周縁に置かれた病者の人々
               ここで、冒頭、木原さんは障害者とペテロの対話の記述から病者たちが周縁に置かれていたことを説明して居られる。
               神殿の境内(宮)ではなく、「門のそば」、つまり門の外に置かれていたということである。当時のユダヤ教の掟では、ある種の傷害や疾病を欠陥、けがれとみなしていたので、その人は「欠陥」のゆえに差別されて、神殿の中には入れなかった。つまり、今日では自明である、人間として当然持つべきあらゆる権利からはずされて生きざるを得なかった。疎外され、差別をされ、生きるために施しを乞わざるを得ない、中心からはずされた「周縁者」であった。(中略)
               これは今日では考えられない状況であるとは言い切れない面がある。今、世界的にも社会福祉の中でテーマになっているのは、社会的排除(Social Exclusion)の社会問題である。障害者、貧困者、特定の民族、ホームレス、マイノリティなど、マジョリティの社会の中で異質と感じれらた者を、意識的か無意識かは別として、社会から仲間外れにして排除してしまうことを言う。この逆を社会的包摂(Social Inclusion)といい、世界的にそのための対策が講じられている。その点で、日本は大きな課題を抱えている。(同書 p.97)


              美しの門でのペテロたち(金銀はないといいつつ、結構服はゴージャス)

               人間が人間として生きることを許さなかった社会としての当時のユダヤ社会がある。しかし、これは当時のユダヤ社会ではない。つい最近まで、ハンセン病患者は、人間としての権利を失っていたことは、ハンセン氏病の治療施設とという名の強制収容所の歴史を少し紐解いてみればわかる。あるいは、日本では精神医療施設の中では、現在でも非人間的な対応があることを、最近のニュースで我々は知ったばかりではないか。




               ヨーロッパでもこの事は度々起きた。ナチスドイツによる障害者の排除と、その排除の思想に基づく優生保護法と呼ばれていた法律(現在では母体保護法と呼ばれているらしい)であり、我が国において人工中絶を実施可能にする法令の体系の基礎である法律である。

               本ブログで紹介している工藤信夫さんによると、世界中どのような社会にあっても統合失調症患者の出現確率は、学歴、職業、収入、民族、地域、文化に関係なく、一定の割合を維持しているという。一種普遍的な存在であるのだが、我々はその普遍的な存在を自分たちと違うということで排除し、そして、それを内包できない形で社会を形成している。所謂、社会のエクストラ・サニタリゼイション(過剰な衛生化)をしているような気がする。つまり、見たくないものは無視できるように社会の仕組みを作り上げて居り、社会参加の権利を奪っているのである。しかし、通常なのか、通常の範囲内なのかの差は、実にごくわずかしかないのであるが。

               ところで、この部分に関しては、少し説明しておく必要があるかもしれない。当時のユダヤ社会では、このような描写や障害者は先祖や、親、本人の罪の結果であるとされていたらしいことが、福音書の記述からわかる。

              【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
               9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
               9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
               9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
               9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
               9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」
              という記述や、あるいは
              【口語訳聖書】マルコによる福音書
               2:1 幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、
               2:2 多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。
               2:3 すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。
               2:4 ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。
               2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
               2:6 ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、
               2:7 「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。
               2:8 イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。
               2:9 中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
               2:10 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、
               2:11 「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
               2:12 すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。
              という記述のように、罪の問題と疾病の問題は深くイエスが語っていることの中に反映されているようにユダヤ社会で普通におきていたことであったことは覚えておいた方がよいかもしれない。

              立ちあがりと復活
               自立との関連で、立ちあがるという語を上げておられる。
               「立ちあがり」とあるが、これはギリシア語原文では「よみがえる」「目覚める」という言語と同義である。「立ち上がる」といえば、「自ら立つ」、つまり「自立」のことである。先にふれたように、社会福祉の世界では、近年、「自立と尊厳」が法律で明記されるようになり、それらが重要な柱となっていて、自立は最も重要な概念の一つである。ギリシャ語原文からすると、真の自立の原点はまずは「目覚める事」が必要であるのを暗示している。(同書p.99)
               しかし、たちあがる、というと、おじさん世代にとっては、往年のアニメ、機動戦士ガンダムのオープニングを思い出してしまう。


              この曲の2番に、立ちあがれ、というフレーズが出てくる

               実は、この起き上がるという語、イエスの発言の中では、復活という概念と結びついているようである。そのことは、タリタ、クミ(少女よ、起きなさい)とイエスご自身が呼びかけられたマルコの福音書の表現とつながっている。
              【口語訳聖書】マルコによる福音書
               5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
               5:42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
               5:43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。
              この聖書箇所の類似箇所では、こうなっている。
              【口語訳聖書】マタイによる福音書
               9:23 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。
               9:24 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。
               9:25 しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。
               9:26 そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。
               これらによれば、死後眠っているのであるとイエスは考えられ、その眠りからのおきあがり、すなわち、復活を「起きる」という語で示したようである。ところで、復活後のイエスの第1声は、口語訳聖書と、新改訳聖書と、新共同訳聖書では、次のように記されている。

              【口語訳聖書】マタイによる福音書
               28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。

              【新改訳聖書】マタイによる福音書
               28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

              【新共同訳聖書】マタイによる福音書
               28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
              と訳し方は「おはよう」となっていはいるものが多いが、これは、おそらく挨拶としての「おはよう」として声をかけたというのではなく、”復活をおきあがること”と理解しているイエスからすれば「私は復活した」という物言いではなかったか、とミーちゃんはーちゃんは考える。

               しかし、マルコの福音書は、援助と自立と復活と歩きはじめにおける場所を用意すること、そして自立支援の場所をよくあらわしている。ミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事で言えば、プログラムを書いて、処理システムを作り、クライエントが抱えていた問題に対する当面の課題が解決すれば、それで終わりにしがちである。まぁ、クライエントの内部の仕事の進め方まで手出しができないというのもあるからではあるが。しかしそれではシステムは定着しない。システムが定着するために、安定稼働するために、起こしただけではなく、朝ごはんを食べさせ、歩きはじめることができるようにすることが必要かもしれない。この辺途上国支援などでも案外似た様な問題があると、開発経済学の専門家からお聞きしたことがある。
               
               しかし、イエスも復活の前に完全な安息日を過ごされ、休まれたように、立ちあがる前には、誰かの庇護のうちに安息をもつことが必要なのかもしれない。

              まだまだ、この章が続く



              評価:
              木原 活信
              いのちのことば社
              ¥ 1,728
              (2015-07-08)
              コメント:絶賛ご紹介して居ります。

              2015.08.17 Monday

              木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その7

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                 今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章「社会的排除と福音」から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

                依存と自立
                 木原さんは依存と自立という項で、次のように書いておられる。この後から紹介するが、依存症等からの自立を阻害する要因として、「もの」・「組織」・「人間関係」を上げて居られる。非常に印象的である。以下では、まず第1の「もの」から紹介したい。
                 ところで依存症という病気があるのを知っているであろうか。人があるものに依存し、もし、それがないと生きられないという病である。アルコール依存症などがその一例である。(中略)依存症とまで言えなくて も、人間が頼ってしまって、結局、自立を阻害してしまう代表的なものが、少なくとも三つある。
                 一つは「もの」。例えば金銀。金銀の授与も、与える側、もらう側に主体的な関係や意味をなくしてしまうと、依存関係に陥ってしまう。もちろん金銀は必要不可欠であり、大切なものであることは言うまでもない。(p.100)
                 まず、確かに、謹厳や貯金総額だけではなく、ぬいぐるみや毛布など、人間は様々なものへの依存傾向はある。


                小さいころに依存していたぬいぐるみが喋ってしまった、という設定のTED
                このクマがおっさんなこと大爆笑である。



                The Peanutsの登場人物の一人 ライナス

                下記で紹介する『スヌーピーたちの聖書の話』の中にも、人間の弱さの象徴としてこのライナスの抱え込んでいる毛布についての言及がある。ナウエンのWith Open Handsではないが、我々は、金や銀(コイン)をライナスが毛布を握りしめるように、しっかりと握りしめ、わずかばかりのコインを手の汗で濡らしながらも、神の前に手を開いて、神の助けを求めない存在であるのかもしれない。

                 無論、近代の資本主義社会(中国の共産主義社会においても)では、資金やお金は大事である。ただ、それに支配され、使われるのではなく、それを使いこなす技術が必要なのであるのだが、そこらの混乱が多くみられるというのが実に残念である。この辺りの事をお考えになりたい方は、『お金と信仰』という高橋秀典さんの書籍をお奨めする。

                組織への過度の依存
                 人間は、組織への依存を生み出しやすい存在である。以下で木原さんご指摘のように会社人間もそうだし、型が気に依存する人々もいる。ヨーロッパではナチスドイツへ依存した人々もいた。あるいは、教会に依存してしまう人々も少なくはない。カルト化した教会に依存すると、ろくなことが起きない。
                  二つ目は「組織」。組織は我々には不可欠であるし、それを否定できる人は誰もいない。しかし「会社人間」に代表されるように、これも人の組織の関係が主従逆転となると、依存関係を生み出す可能性を帯びて入る。形式上それに同意して組織を機能させる事は必要であるが、手段と目的が転じ、個人の主体的な意思を阻害してしまうまでになると、いわゆる会社人間が形成される。滅私奉公の文化をもつ日本社会は、こういう状況を産み出す温床が多分にある。(同書 p.101)
                 何にせよ、手段と目的の逆転というのは、起きやすい。とりわけ、これまで工藤さんの本の紹介記事の工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その10 でご紹介したように思考や思索が停止した状態でそれが起きてしまいやすいと思う。そして、挙句の果てに思考や思惟が停止すると、もうそれは、機械的に突進していくハーメルンの笛吹き男状態、奈落に向かってまっしぐら、となってしまう。


                ハーメルンの笛吹き男

                 結構、会社人間の方々が退職すると大変なのである。会社での最終ランク(職位)にこだわったり、元々の会社の社格にこだわったりしておられ、「そんなの関係ねぇ」のおばさんたちがメインメンバーである地域社会で浮きまくりんぐになったり、教会に来て役員になりたがったり、なったらなったで、いろいろと困ったことを起こしてくださる困ったチャンになられる方も案外少なくないことが、このブログ記事の一つとして紹介した、工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その9 でも工藤さんは書いておられる。

                 なに、教会に、会社を退職された方が来てもらっては困る、と言っているのではない。教会とは、そういう社会のランクや社格といった様なものとは本来無縁のものであると思う。大体、パウロは、次のようにガラテヤ書の中で
                【口語訳聖書】ガラテヤ
                 3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
                ピリピ書には次のようにある。
                【口語訳聖書】ピリピ
                 3:4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
                 3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
                 3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
                 3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
                 しかし、数日の前の敗戦記念日(日本では終戦記念日と称する)に思ったことだが、結局日本国という組織を誇りとし、日本国という組織に頼った結果が、1945年以前は国威発揚であり、誇りになり、豊かさであったかもしれないが、1945年に結果的に敗戦という結果を突きつけられるということではないかと思うし、その組織に載らない、ハーメルンの笛吹き男に踊らない人々に1945年以前は「非国民」というラベルを張ったのではないかと思うのである。

                 その意味で、われらは神につながっているという点においてのみ、教会を形成しうるというその中心的な概念をもう一度考えたほうがよいのかもしれない。

                霊性を見失う教会?

                 個人的には、文章化しにくく、また、理解しにくいとはいえ、この霊性というのは極めて重要であると思っている。しかし、霊性が人間のうちにあるが故の問題もあると思う。つまり、慣習化したり、形骸化してしまう危険性である。霊性のための組織が、組織に過度に依存し、霊性を見失うこともないわけではないようである。この辺りの事に関して、木原さんは次のようにお書きである。
                  最近、スピリチュアリティ研究等の議論では、神との関係や人生の意味探究などを「霊性」と定義し、それを維持し体系だてる組織の総体を宗教と呼んでいる。無論、霊性を生み出し、保つ上で宗教は不可欠である。しかし、歴史的に見て「宗教」はそれ自体が目的になり、本来の目的を離れて巨大化し、やがて習慣的から惰性的になり、そして、形骸化、世俗化してしまうということが、これまで幾多の宗教・教団の中でもあった。個人が「組織」だけに縛られて、「霊的」意味を見いだせなくなったら、危険信号である。(同書 P.101−102)
                 個人的に教団を形成することに関して否定的なキリスト者集団の隅っこにいるが、近年のキリスト教界における暴走(カルト化問題や国粋化問題等)を考えていると、こういうのの防止においては教団の存在という一定の役割もあるかもしれないが、特定の教団に所属し続けながら、教団からの意見に耳を傾けない教会もあるらしいから、その効果というのは限定的かもしれない。しかし、木原さんがご指摘のように、教会等組織に縛られるというのは、イエスがその出身地ナザレで開いたイザヤ書の引用
                【口語訳聖書】 ルカによる福音書
                4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
                とされているイエスの福音が、解放であったことから考えると、ろくでもないことのように思うのは、私だけかもしれない。

                 霊性に関しては、N.T.ライト先輩も『クリスチャンであるとは』で1章を割いてご紹介して居られる。この本もお勧めである。

                人間関係への依存

                 人間関係は人間であること、キリスト者であることに関して、極めて重要な要素をもっていることは、先に紹介したN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』で示して居られる。その人間関係が依存に行きかねない要素をもっていることを木原さんは次のように書いておられる。
                 三つ目が、意外かもしれないが、「人間関係」そのものである。この依存関係は直接的であり、実に強烈である。人間への依存で、話題になっている恋愛依存・生依存等以外に、最近注目されているのが共依存である。あまり聞きなれない言葉かもしれないが、アルコール依存症などで、その依存症の夫を懸命にケアする妻が、実は依存する夫を助けることと行為自体に依存してしまっているという、皮肉で奇妙な依存関係を言う。(同書 p.102)
                 御自身、あまりに真面目、あまりにストイックであるがあまり、自死された桂氏雀師匠という落語家が居られるが、その桂氏雀師匠が、生前良く言っておられたことの中に「私が居なければ・・・ということは世の中にはほとんどないんで御座います。たいがいの場合は、私がいなくても大抵のことは何とかなるもんで御座います。どないんならんことはほとんどないので御座います」と言って居られたことを思い出すが、ひどい場合は、Münchausen syndrome と呼ばれる症状になったり、木原さんが御指摘のような依存関係になったり、ストーカー事件を起こしたりという問題行動になることがある。その意味で、境界線を引く、ということが案外大事なのである。

                神に委ね自立を促す必要性

                 案外難しいのは、子離れ、学生離れである。というのは、ある面、手をかけて、一生懸命育てた、という意識があればある程、その成長を喜び、手放ししてやればいいものを、ついそこからのメリットの享受を求めたりして、手放せない、ということが多いとも思う。そのあたりの事に関して、次のように木原さんは書いておられる。
                  パウロも、絶妙な言葉を残している。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」(Iコリント3:6)。これこそ、教育、福祉の基本原理だと思う。「私が成長させてあげている」のだ、等と考えていると、学生や子供たちやクライエントは、結局いつまでたっても教師やカウンセラーに依存的になり、本当の自立ができない。(同書 p.104)
                 この辺りの手を話すのに、効果的な手法の一つに、物理的に距離をとるという方法がある。物理的な距離が直接的な関与の機械を防止するのである。個人的にも学生との関係では、学生が卒業してくれるので、目が届く範囲にいないことで、適切な距離が取れるし、日本ではあまりそういう対応がない場合もあるらしいが、成人したら、独立して家を構えるという対応がある。アメリカやイギリスあたりだと、25歳を過ぎて親と同居とかしているとそれだけで疑念の目を向けられることもかなりの確率で経験するところではある。以下の動画で示すように、現在のアメリカでも、経済的な不振の故とはいえ、「3割以上の若い世代が親と同居しているなんて…」という論調で議論がなされているほど、子供の自立というのは、聖書における「それで人はその父と母を離れて」ということは案外今だに文化的なものとして定着しているのである。この辺り、日本にはない文化的側面である。


                ヤングアダルトな男性がニート化し親との同居者が多いことに驚く
                FOXニュースのニュース動画

                 ところで、日本の家庭は、現在もなお基本的に母系世帯である。母系における母親の地位を父親が簒奪した疑似父性系世帯が理想化されているが、万葉集や、源氏物語などの古代の物語文学にも表れているように、基本母系家族が理想であり、それを続けてきた。父性を重視している「フリ」をし始めたのは、武家政権での儒学の影響が強くなる江戸期以降であり、一般世帯にそれが普及し始めたのは、明治期の天皇制とも相まって、その武家的な世界観が広く普及されて以降であると個人的には、思っている。産業化社会が日本の社会モデルにされる以前から、日本の家庭における父親不在は、かなり明確であるうえに、実質的には母性原理が家庭の原則的な駆動論理として君臨していると思う。その意味で実質的な母性原理の上に外形的な父性原理でコーティングされているように思うのだ。

                 つまり、本音と建前の構造があり、本音(母性原理)で行くのかと思いきや、建前(父性原理)が出、建前(父性原理)で行くのかと思いきや、今度は本音(母性原理)が出るという状況があると思う。社会制度的には父性原理とみえるものを支配論理である、このような社会構造、人間の文化的原則が2重化している点で、日本の家族は非常に複雑なひずみを抱えて居り、日本のキリスト者のうちのある部分には、その現実で観測される家族の中のひずみが聖書理解に影響を及ぼしている部分があるかもしれない。

                現代の福祉の核にあるエンパワメント

                 エンパワメントという言葉がある。個人が主権をもって、決定できるという側面を強調した語である。この概念が主張されるようになったのは、実はかなり最近の事である。それまでは行政が丸抱えする様な福祉が言われてきたのである。
                 今日、社会福祉の援助では、このような事(引用者註 自立するための能力を付与すること)を専門用語でエンパワメントと読んでいる。それは、援助する側に頼るのではなく、仮にその支えがあっても援助される側自身が自らパワーをもらって、つまり力を付与されて(エンパワーされて)、主体的に立つことを意味する。(同書 p.104)
                 なぜ、従来、エンパワーメントではなく、丸抱え型の福祉が模索されたかというと、その背景は冷戦構造にある。冷戦期には、共産主義とのシステム間競争として宇宙開発競争から経済システム、そして福祉の分野まで様々な分野での優劣が、資本主義的システムと共産主義システムとの間で争われ、共産主義システムが政府による支援というスタイルをとったため、18世紀から19世紀の英国を中心とした西洋社会での産業革命の結果発生した社会的悲惨(孤児の増加、都市の生活環境の劣化など)を改善するために、国家の関与が求められたということに加え、システム間競争における福祉分野での競争でも優位性があることを示す為に、国家が国民に対する父親的存在として扶助するという「大きな政府」が模索されていたこと、優生保護法に見られるような社会の衛生思想に基づくサニタリゼイション(不都合なことがない振りをする、させる)が進んだ結果、国家への依存が強められた側面がある。しかし、それは、人間を無視するという対応であったのである。

                 しかし、1980年代以降の冷戦構造の終焉もあり、レーガノミクスに見られるように社会全体が小さな政府へと動いていくなか、個人と国家、福祉と国家とのかかわりも変化を遂げ、国家が何でもするのではなく、個人に主権を移し、参与を促す方向へと動いており、それが最近で言う、New Public Managementという語に代表され、「新しい公共」と称されている。ところで、個が主体的に公共にかかわっていく在り方を中心として社会を形成していく多元的な世界への移行が進められているのだが、現在の60歳以上、とりわけ70歳以上の方々のご発言(テレビの街頭インタビューで見られれる「政府は何をしているんだ」という発言)などを見る限り、社会の変化とは関係なく、未だにイデオロギー対立時代の国家、大きな国家を目指しているようなご発言に思えてかなわない。

                 これだけの財政赤字を抱える国家としては、「国民の皆さん、もう国家に頼るのはおやめくだされ、ひぇ~~~」と事務方(行政官)としてはとうの昔に悲鳴を上げているのだが、その理解は国民の皆様にはないようで、年金増やせだの、あれもしろ、これもしろ、と財源がない中で「どうしろとおっしゃるので?」と涙目で言いたくなっている、事務方の嘆き節が聞こえそうである。

                 まだまだ、続く。




                評価:
                木原 活信
                いのちのことば社
                ¥ 1,728
                (2015-07-08)
                コメント:お勧めしています。

                評価:
                ロバート・L. ショート
                講談社
                ---
                (1999-11)
                コメント:よい。入手できないのが残念

                評価:
                Array
                Ave Maria Press
                ---
                (2006-04-01)
                コメント:非常に良い

                2015.08.29 Saturday

                木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その8

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                   今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章「社会的排除と福音」から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

                  ナザレのイエスの名
                   美しの門の続きである。前回の投稿では、人間が依存に陥りかねないということについて触れた。この美しの門のところにいた乞食の前にペトロが指し示したものについて、木原さんは次のように書いておられる。
                   真にエンパワーされて自立するためにも、頼るべきものは何かという核心に迫る必要がある。3つの陥りやすい依存について触れたが、ペテロが示した「私にあるもの」は、通常の「もの」とはちがって、「ナザレのイエス・キリストの名」だった。

                   ナザレとは、イエスが育った町の名であるが、これが歴史上(地理上)の具体的なものであることが大切である。それは、観念論ではなく、実体のあるものである。神が神である限り、人間はそれ自体として実感するのが難しいが、神が肉を纏った人間の姿(身体)として歴史上に登場することによって、我々は神が初めてわかると実感できるのである。
                   ナザレから他に判ることは、それは、弱さの根本であるということである。(中略)とりわけ、「ナザレから何の善いものが出るであろう」と一種差別されていたことを示す言葉が新約聖書に記録されているように(ヨハネ1:46)、周辺の土地であったようである。(中略)ナザレという響きには何か侮蔑したかのようなものがあったようである。
                   ナザレは「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)イエスの象徴であった。それは先述した人間の住む宿屋ではなく飼い葉おけで生まれたイエス、「枕するところもない」イエスの「弱さ」の根源そのものを象徴する言葉であったであろうと思われるからである。それは底辺であえぐ者たち、社会の終焉で嘆く者たち、疎外され蔑まれている人たちに、真の意味でコンパッション(共感共苦)できる鍵となる言葉、それが「ナザレ」であったからである。(「弱さ」の向こうにあるもの pp.105−106)
                   ここで、重要なのは、名前が持つ個別性と具体性であると思うのだ。地理学関係をやっていると、個別の地点識別子として、緯度、経度とかの識別子の体系として数次の体系を使うことが多い。ところで、緯度経度であれば、まだ理解できる方は多いであろうが、日本平面直角座標系とか、普通の人にはわけわからん識別子の体系を使うこともあるし、最近では、ジオタグという技術もないわけではない。要するに地点特定の方法としては、どこかを起点とする数字による方法を使うことが多いのである。

                   個別性といえば、農家さんとお付き合いするようになって感じることだが、場所を特定する方法としての農家さんのジオタグの方法は、あそこの○○という工場の角を曲がって、川上に上がって3枚目の田んぼ、というタグ付け方法なのである。この方法は、大変困ることが多い。まぁ、田んぼ自体には、番地表示もなければ、地域名の表示すらないのである。しかし、そうであっても、農家の皆さんは、あそこの田んぼはコンバインが沈むとか、水はけが悪いだの、田んぼ1枚1枚に名前がついている。



                  手前が山田錦 奥側がおそらくキヌヒカリ

                  機械工場でも、産業用ロボットや製造機器に、女性名をつけることは少なくない、らしい。

                  人格と名前

                   個人的に、名前というのは識別子でしかない、と思っているので、別にどうでもいいとは思っている。しかし、そうでないという主張はある。それも理解できなくないが。
                   スイスの医師ポール・トゥルニエ(Tournier, Paul)は「名前はいのち」であるという。確かに強制収容所では、名前ではなく、敢えて番号によって人々を識別した。これは相手を人格化させないための巧妙な方法である。(pp.106−107)
                   番号を使った非人格化はナチスの強制収容所の発明ではなく、ヨーロッパでの監獄での習慣であると思う。刑務所に関する小説や書籍にはいくつかあるが、その中での代表的なものを下にいくつかあげておく。中でも、加賀 乙彦先生の死刑囚の記録は、死刑制度を考えるという意味でも、極めて重要な書籍の一つであると思う。一読をお勧めしておく。

                   そもそも、刑務所や強制収容所は、そもそも人権を剥奪するということが刑罰の一つであるという側面もあるが、日本の刑務所はその中でも人権への配慮がないことで世界的に有名であるらしい。特に一番問題なのは、留置場での対応や取り調べ中の人権保護が十分でないことである。アメリカだと、ミランダ条項というのがあり、
                  1. You have the right to remain silent.(あなたには黙秘権がある。)
                  2. Anything you say can and will be used against you in a court of law. (供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる。)
                  3. You have the right to have an attorney present during questioning.(あなたは弁護士の同席を求める権利がある。)
                  4. If you cannot afford an attorney, one will be provided for you.(もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、弁護人を提供する。)
                  ということをいうのである。この辺、疑わしきは犯人説とする傾向が、江戸以来1950年代(いや、現代もという傾向はある)位まで続いた我が国と、合理的疑い(Reasonable Doubt)があると、判断を保留する習慣が強い国とは大分違うのだ。疑わしきは罰せず、とは言うが、それは単に鼻で生きするものである人間が完全に判断しえないという立場から、判断を保留するに過ぎないのだ。

                   名前といえば、個人的には、改姓、改名が印象深い。アメリカの場合、割と名前が呼びにくいから、という理由や別に理由を言わなくても比較的簡単に改名ができる州がある。たいがいの州ではそう難しい話ではない。確かにスカンジナビア系の名前や、ギリシア系の名前は読みにくいのだ。あとは、愛称で呼びやすくする手はあるけれども。個人的には母音の多い国の言語での名前であるので、アメリカ人には発音が難しかった経験もある。そのことから、外国人には、名前の一部をとって、愛称を提示することにしている。

                   アメリカで大学院の講義をしていたころに、共同で講義をもった教員の皆さんの打ち合わせの時に、アルファベット表記された名前でも、非常に呼びにくい名前の中欧系の御家系の背景をもつ方らしい学生がいた。その学生の名前を間違えないようにしないと、という努力をしているのを見て、あぁ、この人たちの精神性というのは、人格と名前がついているってのは、こういうことなんだ、と思ったことがある。

                   ユダヤ的な名前の由来には非常に面白いものがある。有名な例は、ナバルの例である。
                  【口語訳聖書】 サムエル記 上
                   25:25 わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバルのことを気にかけないでください。あの人はその名のとおりです。名はナバルで、愚かな者です。
                  となっている。ナバル(נבל)とは萎れた、とかかれたといった様なものであり、どうしようもないほど、無作法という言葉ではないか、という意味と理解できなくはないらしい。大学時代のオリエント史を教えてくださった池田裕先生によれば、結構こういう不吉な名前がついたユダヤ人は多いらしい。要するにそういう状態にならないように、あるいは病気にならないようにするため、尚、池田裕先生の御著書に「わが名はベン・オニ」というベニアミンの名前の由来をもとに書かれた非常に印象深い本がある。その関係で考えれば、以下の木原さんの記述は非常によくわかるかもしれない。
                  名前というのは記号ではなく、人との関係性の中で意味をおぼさせるものであり、人格の宿る所なのだろう。そうすると、ここでいう「ナザレのイエスの名」とは、イエスの人格、その本体そのものであり、それによってあなたは立ち上がりなさい、というメッセージになる。(同書 p.107)
                  つまり、「ナザレのイエスの名によって」ということが人格、本体あるいは実体を指し示すとすれば、ナザレのイエスの名と人格的な関係、すなわち「知る」という関係に入るということなのだと思う。在る面それは、単に「対象としてイエスを認識する、識別する」という意味ではなく、J.I.パッカー先輩が、Knowing God(『神について』)でお書きになられたように、人格的な交流があり、一体となるという意味を含むのであると思う。ここで、シモンは、シモン・ペテロにおいて宣言したわけではなく、ナザレのイエスにおいて宣言したという点は少し着目して良いかもしれない。

                  包括者としてのナザレのイエス
                   ここで、木原さんは「イエスは排除ではなく包摂をこころみた」とお書きになっている意味は案外重要であるし、実はこれがローマの政治制度とも深い関係に在ると思うのだ。
                  ペテロにあったもの、それはペテロだけがひそかに持っている独占物や秘技ではなかった。当時はユダヤ人だけが神の選びの対象であったと考えられていたが、聖書によれば、ナザレのイエスという名は万民に及ぶものであった。「すべての人を照らすまことの光」とあるように、すべてを包むものであり、排除の論理ではなく社会的包摂の論理である。とりわけ、悩めるもの、自ら立ち上がることすらできないもの、絶望するもの、苦悩するもの、そこに光を与える方、これがナザレのイエスの名なのである。(p.108)
                  これに関して言うと、次のような記述がある。
                  【口語訳聖書】マルコによる福音書
                  9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
                   9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
                   9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
                   9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
                   9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
                   ここで、ナザレのイエスが行っていることは、キリストに反さないもの、キリストにつくもの、ナザレのイエスにつくものは、幅広く神の仲間、同僚であると言っているように思うのである。案外ことの事は大事かもしれない。

                   我々は、他のキリスト者が自分の行動パターンや価値基準とちょっと違うからと言って、それをもとにすぐ排除するものであるが、イエスはそのような排除を原則としなかったということがこのペテロの言明にも、またマルコ9章のイエスの言明にも表れている様な気がしてならない。

                   共和制から帝政初期ごろまでは、ローマが領土的に拡大したこともあったという事もあろうが、自らが征服した民族を排除したり、根絶するのではなく、包括して仲間(クライエントとその後見人)関係にしていったようである。これは、ローマ帝国の安定のために非常に極めて有効に機能した様である。そして、その包括性は、ローマカトリック教会には一部にせよ、引き継がれているようである。しかし、プロテスタント各派自ら包括の論理に納得してこなかった部分があるように思う。その結果、それぞれの教派が、基本的には多くの共通項を持ちながらも、それぞれ独自の部分にこだわった聖書理解に立ち、「我らこそ正統的なキリスト教である」という構造があったと思う。その結果、キリスト教全体に対する理解がない多くの日本人に対してそれぞれのキリスト教のグループは、それぞれが、「我らこそ正統である」と一種の自己主張として繰り返し主張して来たと思うのである。

                   もちろん、包括に伴う問題がないわけではない。小異を捨て、大同に付くとは言いやすいが過去の歴史があり、なかなかそれも難しいのも事実であるし、戦争時期に日本キリスト教団を政府に促されながら形成したり、教理的に越えがたい壁があったりとか、教理の違いが多いキリスト教界において、エキュメニカル運動には乗り越えるのが困難な大きな壁があることも事実である。

                  まだまだ続く



                  評価:
                  木原 活信
                  いのちのことば社
                  ¥ 1,728
                  (2015-07-08)
                  コメント:絶賛ご紹介中である。

                  評価:
                  吉村 昭
                  新潮社
                  ¥ 724
                  (1986-12-23)
                  コメント:昭和の頃に脱獄した囚人の根性をかけた脱獄の歴史と刑務官との関係を描いた作品

                  評価:
                  加賀 乙彦
                  中央公論新社
                  ¥ 734
                  (1980-01-23)
                  コメント:案外知ることのない死刑囚の状況に関して医務官として勤務した経験に基づいた本

                  2015.09.05 Saturday

                  木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その9

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                     本日も引き続き、『「弱さ」の向こうにあるもの』の9章、「高齢者と福音」の中からご紹介していきたい。

                    認知とは何か?
                     この9章の冒頭に、イギリスの認知症の老婦人が書いた詩が紹介されている。非常に印象的な死であるので、是非、この本を手に取っていただいて、読んでいただけたら嬉しいと思う。認知症の老人であっても、その認知のずれは部分的であり、その人全体が認知のずれにあるかのような単純化した他者のある人格的存在への理解が、認知症をもつ人々を苦しめていることを実にうまく描いた詩である。

                     我々は若ければ、認知は正常(これまた、問題のある語であるが)と考えがちであるが、若くても、認知に問題のある人は案外多い。それは、前回の記事 情報の非対称性と認知の非対称性 教会を巡る見えないカベ(1) でお示ししたとおりである。ミーちゃんはーちゃんは、その認知が歪んでいる可能性が大きいこと位は知っている。

                     個人的には、カーナビゲーションシステムは利用しないので、何とも言えないが、人が使っているのを見ると、基本、カーナビゲーションシステムは認知症であると思う。なんで、認知症のカーナビゲーションに言われにゃならんのかとは思う。カーナビメーカーさんには申し訳ないが。それでも、最近は随分ましになってきたが。




                     ところで、認知に関して言えば、この記事を書いているミーちゃんはーちゃんにして、懸垂曲線のシンプルな数式を見て、それが美しいと思うミーちゃんはーちゃんの様な認知は、どっか歪んでいるとは思っているが、しかしながら、個人的には認知が歪んでいない人はいないと思っている。

                     余談に行きすぎた。そして、この引用された認知症患者が残した詩について、木原さんは次のようにお書きである。
                     この詩は、意図せずして知らず知らずに若者世代が高齢者の思いを誤解していることを暗示している。また同時にケアを担う専門家集団ですら抱いている認知症高齢者に対する偏見や無理解も示しており、この点においては自戒をこめて反省を迫られるところである。このような中では、高齢者がその置かれている現代社会において安寧と長寿を願うことがいかに難しいのかという実態も示している。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.126)
                     とお書きであるが、よく考えてみれば、現代は若者も、年寄りも、また中年も、子供も生きにくい時代ではないか、と思う。しかし、それはとりもなおさず、どの時代にあっても、若者も、年寄りも、中年も、子供も、生きやすい時代はあったのだろうか、という疑問につながる。個人的には、そんな誰かにとって生きやすい時代というものはなかったのではないか、ということを確信している。それぞれの人が、それぞれの制約の中で、何らかの苦悩や困難を抱えながら、どの時代にあって生きていったのではないかと思うのである。現代は高齢化時代であるが、そこまで高齢化してない時には、人は病気で死んだのである。治療の手を施されることなく。それを幸せと言えるか、と言われたら、それほど単純ではないとは思うのだが。

                    永遠に若さを求める社会の中で
                     個人的に、生きることは老いることであり、生きることは病と死に直面することであると思っている。基本、エントロピー増大の法則は物理的な現象を支配している以上、ドラえもんでもいない限り、それに支配されるのである。しかし、人間はエントロピー増大の法則というしごく単純な原理を拒否しているように思うのである。この辺りの事について、木原さんは次のようにお書きである。
                     その証拠に、日本では「早くお迎えが来てほしい」と本気で願っている高齢者が以下に多いことか。確かに「老い」とは、「生老病死」としてかつてブッダが述べた「四苦」の一つである。仏陀によると、「老い」とは「生きる」ことそのものと同様に、人には避けることのできない「苦」であるというのである。その限りにおいては、人類は古代より、この課題とと常に向き合ってきたが、今もそれに対する有効な答えを見いだせていないということである。(同書 p.126)
                     要するに、物理現象の世界の中にとらわれている我等は、エントロピー増大の法則に物理的に支配されざるを得ないのであるが、しかし、聖書の中に、
                    【口語訳聖書】伝道者の書
                     3:11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない
                    とあるように、人は不幸にして、エントロピーの増大の法則に支配されざる世界、あるいは永遠の世界、永遠に生きる世界(神の世界)とかかわる存在として作られているために、物理学的にエントロピー増大の法則に支配されるものの、霊的にはエントロピー増大の法則に支配されない世界の存在を知るがために、死や老いという不幸と直面しなければならないのではないか、と思うのである。

                     ナウエンは、下記に紹介する 『最大の贈り物ー死と介護についての黙想』という本の中や『闇への道 光への道』の中で、死や老いは手放していくプロセスであると明白に語っている。そして、神と共に生き、神にあって生きる生活のための準備期間としての老いと死をとらえているように思う。これは重要なことではないか、と思うのである。がむしゃらに、自分自身によって生きる生活から、他者の手の中に委ねて、他者の手において生きる生活へと変容するための老年期ということは非常に重要であると思うのである。ある面、われらは、ペテロにイエスが言われた生き方と同じ道をたどるのではないか、と思うのである。
                    【口語訳聖書】ヨハネ
                     21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
                     21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
                     21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
                     TVのCMみてれば、白髪染めのコマーシャルだの、コエンザイム飲むと若く見えるとかどうのこうのとか、プラセンタが若く生き生きと見えるとかどうのこうのとかいうCMが流れている。ジジイや婆がジジイやババアであることを許してくれないのがどうも洋の東西を問わず現在の世界の状況であるらしい。そして、ジジイやババアがジジイやババアらしく生きることを許さないのが現在の不幸であると思っている。

                     そもそも自然、即ちエントロピー増大の法則に逆らってもしょうがないのに、それに逆らおうとする不幸ということを考えてほしい、とは思うのである。個人的には無駄な努力だと思っているし、年相応に生きるのが、一番自然だし無理がなくてよいと思うのだが。

                     そういえば、死と甥を考える映画として、以下の動画の予告編で示す In her shoes(イン・ハー・シューズ)という映画はよく出来ていると思う。もちろん、アベルとカイン、あるいは放蕩息子の兄弟関係を下に引いた兄弟姉妹の確執映画としても楽しめるが、老いをめぐる問題を考えるうえでは、非常によいと思う。それから、もう一本、老いと病の問題に関しては、「セント・オブ・ウーマン/夢の香り」も非常に印象的である。


                    イン・ハー・シューズ 予告編



                    セント・オブ・ウーマン 予告編

                     この前蒜山のバイブルキャンプ場で参加した研究会というかリトリートの食事の時に何気なしに出た話として教会における老人学、老年学がもっと必要ではないか、というお話しになった(実は、この会自体、かなりのテーマが司牧の高齢化とそれに伴う問題への対応というテーマに期せずしてなってしまったのであるが 深刻すぎて文章化できそうにない)。これまで、日本のキリスト教会は、若者や中高年層が中心的役割を占めてきたし、そのことへの対応のノウハウを蓄積して、さぁ、これからだ、と思ったころには、教会から若者はいなくなり、中高年層はいなくなり、みんな高齢化して若者が寄り付かない、少なくとも寄り付きにくい教会になってしまって、NHKで以前放送していた「お達者くらぶ」の様な教会になってしまっているところも少なくはないようである。まさしく年齢によるセグリゲーション(社会分化あるいは分節化)が教会でおきているようなのである。これに関しては、別に稿を改めて書いてみたい。

                    カイロスとクロノス
                     聖書の中で、時という言葉が出てくるが、日本語ではそれを指す語はほぼひとつしかないため、カイロスとクロノスの持つ意味の違いが認識されないまま語られていることが多いが、この語の意味の違いを十分理解せずに聖書に書いてある時は時だから、とお語りの向きも全くないわけではないようである。この違いは、実は非常に重要であると思うのである。
                     聖書で、時を刻む言葉には「カイロス」と「クロノス」という二つがあることを思い出した。
                     クロノスは、人間に共通に平等に流れる時間。いわゆる普通に流れるときの事である。それは、時計の刻み(時刻)、一日24時間、1年365日を機械的に、例外なく流れていく。これに対してカイロスは「転機となる重大な時」「永遠の時」「神の(介入する)時」である。それは一瞬一瞬のチャンスを意味づけ、それを刻んでいく。聖書によれば、「福音」とはイエスを通じ、人間の時(クロノス)に神が介入して、永遠の時(カイロス)となったことを示唆する。(同書p.129)
                     カイロスを永遠の時、とするのは、ギリシア語にはAeonという語もあるので、ちょっと厳しいかなぁ、と思ったが、神の介在する時、それはカイロスであるとは思う。ちょうど、N.T.ライト先輩の用語を用いれば、天と地が交わるとき、ないしは、天と地がかみ合う時のことではないか、と思うのである。

                     例えば、「これは私の愛する子」と天から声がした時は、カイロスであるし、「完了した」とイエスが言い、イエスが息を引き取った時もカイロスである。それをクロノスの側面だけでとらえるとまずいのである。クラッシックなディスペンセイション的世界観の理解では、このクロノスの側面における理解が強く、カイロスの側面が若干弱いのではないかと思う。個人的には、異言とか預言とかの問題は否定的であるが、必ず神が介入する時としてのカイロスは現代においてもあると思っている。

                     そして、このカイロス・クロノス理解と高齢者の問題に関してニコデモの例をあげながら、木原さんは次のように書いておられる。
                     この最も深刻な高齢者問題に対して、聖書が語る「福音」が示していることは、このカイロスとクロノスの理解であろう。ユダヤ人の指導者ニコデモがイエスを訪ねた時の問答(ヨハネ3章)には、カイロスとクロノスの差異が際立っている。地上の時間(クロノス)しか認めることができなかったニコデモに対して、上から(新しく)与えられる永遠のいのち(カイロス)を説くイエスの対比は興味深い。また、復活したイエスがエマオという村へ向かい弟子達に自らをかくして近づき、語りつつ歩んだあの一瞬などは、まさにカイロスの時であり、永遠の喜びの時である。それを地上で一瞬垣間見ることのできた幸いなものであった。(中略)しかし地上では、あくまで垣間見るだけであって、永続しない。(同書 p.130)
                     カイロス、クロノスがどうだこうだ論争というよりも、個人的には、神がちらっとこの地上で私たちに啓示なさる御自身の姿がある。それは聖書の一節を通してであることもあるし、本田哲郎司祭がご指摘のように他の人々と出会うことを通しても起きると思う。しかし、日本の多くのプロテスタント派は、本田司祭の講演会の質疑応答の時(日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想 でご紹介)の元神学校教師で引退牧師の方のご質問に典型的に表れているように、文字や言語で表現されたことに余りにこだわってきたように思うのである。そして、その文字や言語で表現されたことにこだわることに対して、御自身もご高齢である(認知症がちょっと混じっているから、そこは赦せと冗談めかして言いながら)本田司祭は、「そんなケチくさい考えで自分は聖書は読んでない」といい放たれた。将に、『闇への道、光への道』で、ナウエンが指摘した老人だけが持つユーモアさく裂、という感じのご講演であった。認知症がうんぬんは、ちとずるいなぁ、とは思ったが。

                    なお、この本に関しては、拙ブログでも

                    お勧めの本

                    「喪失」をめぐって、たらたらと考えた。

                    でご紹介しているところであるが、何せ入手困難であるのが何よりつらい。

                     余談はさておき、高齢の時は、神に対して手放していく、神に委ねて生きていくというときなのである。ちょうどイエスは、その高齢の時は年齢としては迎えなかったが、その最後の数日は、自らメシア(メサイア・キリスト)として、神の権能をもって状況を変えることが出来つつも、そうはされず、他人の手の中にあって生きることを受け止め、そうされたのである。ローマ兵の手にかかり、更に、ローマ兵が与えるものを口にすることしかできず、その全ての権能や栄光を示すものをまとうことなく、その下着まで奪われるという姿で、死に向かわれたのである。自分であることを捨てる、ということを示されたのが十字架の道行であり、十字架の死であり、そして死後の姿である。イエスは、自分の葬儀を演出するというようなアホなことは一切されずに、人の手にゆだねられ、神の手の中にみずからをおかれた時が将にカイロスであった、ということは、高齢者問題を考える上で、非常に重要であると思う。この辺りの事は、ナウエンと読む福音書のイエスの十字架にかかわる付近でよく示されているので、こちらを読まれることをお奨めしたい。




                     まだまだ、この連載も続く。


                     
                    評価:
                    木原 活信
                    いのちのことば社
                    ¥ 1,728
                    (2015-07-08)
                    コメント:お勧めしています。

                    評価:
                    ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
                    こぐま社
                    ---
                    (1991-12)
                    コメント:この本はめちゃくちゃいい。こぐま社さん、再刷しませんかねぇ。

                    評価:
                    ヘンリ・J.M. ナウエン
                    聖公会出版
                    ---
                    (2003-04)
                    コメント:めちゃよい。再刷希望中

                    2015.09.09 Wednesday

                    木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その10

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                       本日は、木原活信さんの『「弱さ」の向こうにあるもの』の第10章からご紹介したい。教会における障害を持つ人々やマイノリティに関する内容を扱った章である。

                      我が国に生まれたるの不幸?
                       近代日本もそうだし、近世日本もそうであるが、多様性を排除する傾向が強いし、近代の産業化時代に入ってからというもの、社会の中での共同行動をとれない、取らないものに関する風当たりは非常に強い。そのことに関して、精神医学の分野での名言であると思うが、昔の東大医学部の呉先生という方の名言があるらしい。
                      日本でも、それぞれに法律・制度があり、一定の施策がなされているが、障害者に対する根拠のない差別や偏見は依然強い。ようやく国連の障害者権利条約を2013年12月に批准して、国家としてもそれに向けた誠意ある対応を迫られることになった。その際、特に注意すべきは生涯をもつ人々への「社会的排除」の問題である。
                       かつて精神障害をもつ人々に対して、東京大学の呉秀三氏(精神医学)が「我が国十何万の精神病者はこの病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」(呉秀三『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其基礎的統計』1918年)と嘆いたが、これは日本の社会を象徴している。残念ながら教会も例外ではない。
                      (『「弱さ」の向こうにあるもの』p.134)
                      閉鎖病棟をはじめとし、日本の精神病院の状態は、どうも、刑務所以下らしい。リハビリとは言うけれども、それは真の意味のリハビリ(社会の中に居場所を見つけることができるようにする)ではなく、社会の中で、ごくごく平均値付近の70%範囲に入る普通の人間として『働ける』、つまり、生産的活動に従事できる人間にすることなのではないか、と思えてしょうがないのである。そもそも、人間が多様である以上、基本的に何らかの形でばらつきがあるので、何らかの意味で跳びはねた存在の人は居られるのである。



                      その名も正規分布と標準偏差σとの関係

                       あるめん、通常の社会的行動がとれない、あるいは、常識を疑ってかかり、常識を破壊しようとするような傾向をもつ社会に適応、順応する能力がない人々ための施設として、大学院という施設があり、そこに自主的希望入院してから、はや30年余りがたつが、個人的には入院していてよかったと思う。まぁ、日本の精神病院のように強制的拘束とか、強制的監禁はないが、社会にいると何をしでかしていたか、と思うと、自主的入院は正解であったと思う。学問は、基本的に既存のものを疑う傾向があるので、ある意味、「触るな危険」というような傾向をもつ危険な存在なのである。

                      異質なものへの排除

                       異質なものへの排除は、日本社会だけではないが、日本社会、とりわけその中でもキリスト教会におけるこの大数の法則中心極限定理(多数のデータを集めれば集めるほど、標本平均は、真の母集団の平均値に近づいていくという、統計学をやったことのある人なら知らないはずのないほど超有名な定理、統計学をやったといいながら、大数の法則や中心極限定理は高度なので説明できない、と言ったらその人の統計学の知識は、めちゃくちゃ怪しいと思ったほうがいい)みたいに、キリスト者であれば、一つの型にはまっていると思い込んでいる傾向があるようである。このあたりのことに関して木原さんは次のようにお書きである。
                       私に寄せられた声でも、次のような言葉があり、心を痛めた。「息子は自閉症なので、教会に発動ことができません」「性的マイノリティであることを告白したら、態度が豹変しました」「発達障害ゆえに、牧師や教会員に奇異に思われて交流の場に入れてもらえません」「表向きは優しい声をかけてもらえるが、でも深くかかわろうとすると実際は迷惑なようで……」。これが事実とするなら、このことに対して、イエスは何と言われるだろうか。おそらく、その人たちを排除しようとする教会に対して、激しく叱責し、憤るのではないだろうか。あるいはそこで排除された人々のために共に涙を流すのではないか。(同書 p.134)
                       案外、この種の概念は教会で多いのである。ある種の人々だけが集まっており、それ以外のタイプの人は排除されるという教会は多いかもしれない。表向きは優しい声をかけてくれる教会はあるだろうが、そんな表向きのことでだまされるほど、人間はお人よしではないと思う。

                       基本的に、以前、Love Wins祭り(Rob Bell著 Love Winsという本を紹介したブログ記事に、アメリカ最高裁が、州政府の差別的措置を違憲とする判決を出した日に、アクセスが集中した事件)でもご紹介したが、基本的にアメリカ系のキリスト教では、異性愛者でない人々に対してはかなり厳しい目が向けられる。そして、アメリカ系キリスト教が多いアメリカ社会では、いわゆるセクシャル・マイノリティ(日本ではセク・マイ、米国ではLGBT)と呼ばれる人々は社会から排除されてきたし、今なおその排除の傾向は強い。


                      United Church of ChristのCF『用心棒』編


                      United Church of Christ のCF 『排出座席』編

                       結果的に、この異分子排除の原則というのは、ナチスのユダヤ人排除と同じ概念であり、ネオナチ的なのである。これ以上は触れないが、ナチスに積極的、消極的協力した神学者や牧師も存在したし、大東亜共栄圏に積極的、消極的協力した神学者や牧師もいたのである。まぁ、一応それぞれけじめはお付けであるが。
                       一時的な状態だけ見て、うんぬんするというのは、実に非常にまずいと思うのではある。

                      キリスト教会はいじめ構造?

                       ヘイトスピーチやいじめに関して、木原さんは次のように書いておられる。
                       最近耳にするヘイト・スピーチには嫌悪感を超えて憤りを感じる。このような言動には、自分の価値観とは異なる異質な物の排除と言う意識がその根底にあるのであろう。こんなことがまかり通る社会に為って入るのかと思うと悲しい。自分と違うものとは交わらず、それを遠ざけ、排除して、同じ仲間だけで共同体を作るのは、学校などのいじめとも共通している。日本はこの傾向が顕著である。(同書 p.138)
                       ある関東地方の教会に行かれた神学生の方が、その教会が属するグループについてレポートされた事例をある方から拝見させていただいたことがある。そのグループの教会では、自分たちと同じ行動をとらないものを絶交する(聖餐の相互認証をしない、聖餐に参加させない、ということではないかと思われる)というのである。まぁ、カトリック教会の皆様からは、プロテスタントのいい加減な信者(ミーちゃんはーちゃんのような信者)は、聖餐にはあずからせてもらえないし、正教会の皆様の聖餐には参加させてもらえない。基本的に洗礼に関する秘跡が共通でないという理解かららしい。しかし、あるプロテスタント派の教会群では、同じグループでありながら、カトリックとプロテスタントとの関係と同じような扱いになる場合があるらしいのだ。しかし、こうなると、もはやBullyingといわれても仕方なさそうであるが、そう思っていると、今通勤時間に読んでいるRacheal Held EvansさんのSearching for Sunday という本の中に、次のような一節があった。

                        Fun Fact: more Christians were matryred by one another in the decades after the Reformation than were martyred by the Roman Empire. (Racheal Held Evans, Searching for Sunday, (Thomas Nelson 2015)S

                       面白い事実:宗教改革後数十年間には、ローマ帝国で殉教者にされた人々よりも多くの人々が、キリスト者同士の相互迫害によって殉教者になった。 
                      出典はフスト・ゴンザレス  Justo Gonzalez, The Story of Christianity, Volume II: The Reformation to the Prezend Day (New York:Harper One, 2010), 71.らしい
                       読んだ瞬間、あーぁ、と通勤電車の中で危うく声をあげそうになった。こういう黒歴史を記載すると顔をしかめるキリスト者の方々もおありなのは承知しているが、しかし、キリスト教の黒歴史も、それを無視してはNGではなかろうか、とは思っている。要はけじめと神への立ち返りという意味での悔い改めが必要だと思うのだ。

                      聖さと排除
                       ペテロが見た幻(籠(カゴ と読む、龍ではない)の中に入った食物を見て、ある食物を聖でないとか言ってはならず、それを食べよと結われた幻)の使徒10章の記述の説明があった後、木原さんは次のように書いている。
                       ところが、ペテロは、これ以降、劇的に変化したかと言えば、そうではない。神の意思が示され、頭では分かっていながら、微妙な行動に出る。それは新約聖書のガラテヤ人への手紙2章に詳細に記されている。当時、異邦人とのかかわりを良しとしないエルサレム教会の一部の人たちが巻き返しを図り、ユダヤ主義に回帰して異邦人を排除しようとする。ペテロは、その雰囲気にのまれ、彼らの手前「本心を偽って」再び異邦人をとし、そのかかわりを回避していく。それに対して、パウロは完全と抗議する。ペテロの優柔不断な態度と過ちを会衆の面前で、ずばりと指摘したのである。(同書 p.139-140)
                       基本的にキリストが死した時に、ユダヤ人と異邦人の間にある区別、差別、境界は撤廃されたことを、隔ての幕が避けることでこれらの区別や差別や教会の存在が無効であることが示され、ナザレのイエスが全ての人のためのメシアであり、キリストであることが示されたはずなのに、勝手に区別するとは何事か、ということなのである。ガラテヤ書3章には次のようにある。

                      【口語訳聖書】ガラテヤ書
                       3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
                       3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
                      この辺りに関しては、既にN.T.ライト先輩が、あるご講演でお語りであるので、コチラ  NTライト Kansasで語る(2)  をご覧いただきたい。
                       
                       全てのイエスの十字架は隔てをはずされたはずなのに、キリスト教徒の一部は、ユダヤ人を逆差別し、ホロコーストや、ポグロムは起こすは、白いシーツをかぶって、存在が気に入らないからと言って、アフリカ系アメリカ人を木につるすは、自分以外のキリスト教は間違っているからと言って、虐殺しまくるわ、とろくでもないことをしてきたのである。



                      白いシーツをかぶってコスプレしているわけでないKKKの皆様


                      ビリー・ホリデーの『奇妙な果実』
                       まぁ、悲惨。 とはいえ、ぜひ一度お聞きいただきたく


                      まだまだ続く


                      評価:
                      木原 活信
                      いのちのことば社
                      ¥ 1,728
                      (2015-07-08)
                      コメント:お勧めしてます。

                      評価:
                      Rachel Held Evans
                      Brilliance Corp
                      ¥ 1,888
                      (2015-04-14)
                      コメント:めちゃ、面白い。

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