2014.12.08 Monday

工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきた(その1)

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     お知り合いのO先生から誘われた研究会で、京阪電鉄沿線のK先生の教会で開催された工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきた。個人的には、「あめんどう」さんの『トゥルニエを読む(上)』で工藤先生のご著書に触れ、そして、できる限りの図書は集めてきた。しかし、この『トゥルニエを読む(上)』が版元在庫切れなのは残念な限り。

     余談はさておき、当日の先生がお話になられた。印象に残った言葉とそれを聞きながら思ったことを記載してみたい。

    誤解を生みやすい用語の使用
    内部用語の問題

     日本のキリスト教界は、業界用語を使いすぎる。内部だけで通用する符牒を使いすぎではないか。
     まぁ、これはキリスト教界に限らない。学会でも似たようなものだ。ただ、一応、学会は、専門家同士が情報交換する場であるからこれでも構わないのだが、教会の場合、一般の方も来られるので、内部だけで通用する符牒(未信者、求道者、お交わり、お証しなどなど)を多用するのはまずいだろう。まぁ、これは、「もっとキリスト教界に生きやすくする本」にも書いてあった。

     この前、ナウエン研究会で、来会者の方で「祈り」とか「救い」っていうイメージが通常の日本語とあまりにかけ離れているので、困惑することが多い、というコメントを直後にもらってしまったので、このあたりのことを、丁寧に語る努力をしないといけない、と思った次第。選挙の名前連呼もそうだが、説明もなしに「祈り」とか「救い」とかを連呼だけしないようにしないとね。

     講演者に対する礼儀がプロテスタントでは十分なされてない。
     耳が痛いが事実だと思う。外部から講演者としてお招きするのに、その人の書いたものを読んでないとか、聞く気がない参加者ばかりの講演会だと、確かに講演のパワーが落ちる。退屈そうにされたら、嫌気がさす。大学の非常勤だと、学生になめられて、そういうケースが多いから、もう慣れたけど。明らかに動員されているのがわかるのはね。こっちは真剣勝負でやってんだからさ。

     禁書になりかねないタイトル「信仰による人間阻害」という挑戦的なタイトルの本を出したが、禁書になるような本は価値がある。大きなものにはならないけれども、水面下で生き続ける。そして、人を励まし続ける。


     まぁ、ミーちゃんはーちゃんのブログも、結構、乱暴な記事は多い。そんなこと言ったら、教会の恥、とかいう部分ギリギリ一歩手前(超えている場合があることも認めよう)のことまでやることがある。まぁ、「品は南鳥島沖でどっかの漁船が地引網で持って行ってしまったので、もちあわせてはいない。」からしょうがない。しかし、かえって、石を投げたような
    現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
    あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた
    などは、結構ロングテールで読まれているし。

    人間を扱う割に
    臨床という発想のない教会


     人を理解することにかけていたキリスト教があるのではないか。人の魂の問題を扱うという臨床しているにもかかわらずケースがない。


     おっしゃる通り。まぁ、これまで、結構信徒数が多いので、個別のことまでやってられなかったという側面と、医療の場合は、守秘義務ということをきちんと頭ん中に叩き込まれた医師・看護師・ケースワーカーを含めたチームで医療行為を通して、クライアント(患者)を支援するという体制がとられているけれども、これまで、牧師一人が対応ってケースも少なくなかったんだろうから、ケースの積み重ねもないように思うし、信徒に至っては万民祭司だといいながら、祭司職の義務である守秘義務について、分かってない人多すぎるし。祈り会で個人情報ダダ漏れというのは、どう考えてもあかんやろう。

     このあたりのことは、以下で紹介する「牧会相談の実際」が非常に良い、と思う。

    達成・拡大志向のキリスト教
    キャシャーン牧師?
     これまでのキリスト教は、クリスチャンになったら問題が解決するなど特殊な祝福論に影響されすぎではないか。繁栄することをよしとする聖書理解、達成・拡大志向を含む聖書理解が見られたのではないか。
     ミーちゃんはーちゃんは繁栄の神学とそもそも、そりが合わないので、こういうのを持ってないが、こういうことを臆面もなく語られる方々に結構出くわす。それは違うのではないか、と申し上げるのだが、なかなか理解していただけないことが多い。特に、このタイプの方は、「自分がやらなければ、だれがやる」というキャシャーン型の暑苦しい信者さんが多いので、かなわない。キャシャーン牧師もいそうな気がするけど(しかし、キャシャーンを知っているということで年がばれそう)。



    キャシャーンの挿入歌 冒頭で有名なせりふ 「キャシャーンがやらねば…」が出てくる。

    奇妙な熱心さ?
    他人に熱心さを強いる非常識

     キリスト教会特融の奇妙な熱心さがあるのではないか。キリスト教界のでは当たり前でも、世間では非常識なことがある。
     あるなぁ、と思う。例えば、「伝道するため」という大義名分があると、結構無茶な依頼が飛ばされてくることがある。あるいは、「それはあかんやろう」というような依頼を飛ばしている場面に出会うことがある。
     例えば、ある信者さん(Aさん)に、「伝道のため、Aさんがよく知らない人(Bさん)のところに行って伝道してあげてください。」とか、「教会に誘ってあげてください。」とか、「Cさんというある教会の信徒さんの息子さんがお近くにいるので、訪ねてあげてください。」とかである。依頼する本人は悪気なく頼むのであるが、頼まれた方はどうしたもんだか、と思ってしまう。「Cさんは、日中訪問したがおられなかったようですよ。」とご回答すると、今度は、「深夜か早朝に行ってあげてください。」と言われたこともある。

     「はぁ?」である。

     そんな、マスコミの記者や芸能ジャーナリスト(これはジャーナリストという言葉に対して、かなり失礼だと思うが)が、話題の人をオッカケするような、夜討ち朝駆け(赤穂浪士や戦国武将ではあるまいし)を普通の人にお願いするって、「どやさ」である。

     今なら、ストーカーまがいで警察沙汰になりかねない。しかし、そういうことを言っても、伝道を依頼する相手が望んでいるかどうか(実際には、関わり合いになりたくないと思っておられることが多い模様)も確認しないまま、自分では手を下さない割に、若者にこの種の面倒な伝道活動を簡単にお願いしてくださる方の言動を見るたびに、次の聖句を思い出すことが多い。
     しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。(口語訳聖書 マタイ23:3-5)
     どうぞ、ご自分がまずおやりになってください。遠隔地で行けなくても、郵便やメール便を出すことくらいできるでしょう。Amazonや楽天から本を頼んで受け取ってもらうこともできるでしょう。不要なら、BookOffにもっていって、現金化することもできるのだから(買いたたかれることは確実だけど)、そっちの方がよほどメリットがあるではないか。苦境のキリスト教書業界も売り上げが上がるし。

    『信仰』のためなら何でもOk?

     言うべきことを言うことは重要ではないか。信仰のため、伝道のためだから、という理由であれ、なんであれ、無料はよくないのではないか。要するに、話し手にも聞き手にも一種の適切な緊張感が生じる。


     まぁ、言うべきことを言うために、コンサルタントは金もらっているのであるから、コンサルタント料金をもらっているのにふさわしいことを言った方がよいと思う。医師なんかは健康に関するコンサルタントである。ミーちゃんはーちゃんもプロボノ(無料、ボランティア)で技術コンサルテーション頼まれることがあり、することもあるけど、プロボノだと、ずるずる引きずる、クライアントが甘えが出る、どんどん要求がエスカレートする、など、いろんな不都合が出ることもある。特に、共依存関係になってしまうことがあり、本質が見えなくなることもある。その意味で、少額でもいいから、有償というのは大事かもしれないなぁ、と思った。

     間違った理由で苦しまないように、という理由でこれまで本を書いてきた。


     これは大事だと思う。意外と善意とか、親切心から出ることが、非常に悪意に満ちた結果を生み出すことが多い。典型的には、借款型のODA(海外援助)などが典型である。このことはキリスト教界でも多々見られるように思う。キリスト教の信徒の方は、超がつくほど脳天気で、純粋で、無垢な方が多い。ミーちゃんはーちゃんはそうではないので、アザゼルか羊さんの中の黒ヤギさんになった気分になることが多い。善意なら、えられる結果がよいはずと思い込んでいる方があまりに多く、唖然とすることも多い。

     聖書の内容は神のことばとしての権威がある、と思っている。しかし、それが誤用(間違った理由の根拠として適用)されると、ろくでもないことが起きることは何度も見てきた。本来泣くべき葬儀の場で、「いつも喜んでいなさい」という言葉を根拠に、無理やり「故人は神のみ元に参りました」とにっこりすることを強いられるという、無理ゲーさせられるとか、聖書は大切だから、という理由で、あまり文字を理解する能力が十分でない方に「聖書は読まないといけない」と迫るとか、もう論外である。

     本当に間違った理由で人を苦しめるのを、特に、弱い人々、若者、知識のない人、気の弱い人々、キリスト者2世…を苦しめるつもりもなく、ご自分の思う、善や善意の押しつけの結果、他者を苦しめるのをいい加減やめてほしいと思う。自分がしていることがどういうことかをまず考えてほしい。そして、神とか聖書を持ち出すのを、まずやめてほしい。

    Barbara Brown Taylorの名言をご紹介しておく。

    "...Human beings never behave more badly toward one another than when they believe they are protecting God.” ― Barbara Brown Taylor



    "人間は、自分自身が神のため、と思っているとき以上に、相互に対してろくでもないことすることはない"

     これに関してはキリスト者としてこころしなければならない。なぜならば、神は我らの手をそもそも必要としないからである。パウロ君も言っているではないか。


     また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。( 使徒 17:25)

     「神のために、神のためにと、人間ができること、人間がしたいことを、人間がしたいと思う方法で必死になって努力する」というクリスチャンほど、「神のために人間が何かをしなければならないのだ」ということは、「神は人の手によって、人間が適切だと考える方法で仕えられる必要がある」と主張することになるのではないかなぁ。その聖書理解って、大丈夫なのだろうか。

     次回へと続く。




    2014.12.10 Wednesday

    工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきた(その2)

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      さて、今回も、京阪電鉄沿線のK先生の教会で開催された工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきたお話の続きをば。太字は工藤先生のお話のポイント。

      教会は信徒を自由にしてるかな?

       真理はあなた方を自由にするのではなく、教会は信徒を不自由にする傾向があるのではないか。


       まぁ、今の教会見ているとそうですよね。これは、日本でもそうだし、アメリカでもそうだと思う。こう思ったから、「福音の再発見」を日本でも翻訳して出そうと思ったのだなぁ。

       出版の再発見に至る経緯は、こちらを 福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙

       本来、ナザレのイエスは、神の愛の中に我らを招くために、この地上に来られ、我らを閉じ込められた檻の中から、解き放つために、その御手を我らに伸べられたのだと思う。しかるに、別の檻を作って信徒をその中に閉じ込めている側面もないようなあるような。


      意外と重要な繊細さ(バルナラビリティ)

       ナウエンはカトリックの司祭であるが、彼の本が大きく影響をしたのはプロテスタント教会群である。そして、彼の書いたものはプロテスタント教界の限界を示したから読まれたのだろう。

       それまでのアメリカの福音派の教会は、傷を恐れないキリスト教であったり、傷を大事にしないキリスト教で、ちょっとなんか、不都合があると、不信仰じゃないか。と言っちゃうところがあったであろう。ある面、キズの受けやすさ(バルナラビリティ)を認めてないキリスト教であったであろう。

       これはあるなぁ、と思う。必死のパッチできつくてもはくいしばっているキリスト教の美学みたいな儒教もどきのキリスト教はあったように思う。人間が弱さを持った存在であるがゆえに神を必要とするのに完璧でなければキリスト者にあらず、みたいなところはあったよね。鉄人28号は、鉄でできているから大丈夫か知らんけど、人間は鉄ではできてないし、鉄人でもないし、石でできた人でもない。その柔らかさを十分に評価していないといわれたら、そうかもしれないよね、と思う。


      ファンタスティック・フォーのザ・シング(石男 この方は石でできているかも)

      ちなみに、パウロの言葉を書いておこう。

      IIコリント
       3:3 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
       3:4 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
       この講演会全体でそうであったが、出版社 あめんどう さんと、そこの社主兼CFO兼CIO兼編集者兼倉庫係兼お茶くみのOBCさんの話が繰り返し出てきていたのが、非常に印象的であった。個人的に、あめんどうさんは一押しの出版社である。お買い物は是非あめんどうさんの直販サイト http://amendo.ocnk.net/product-list/1で。

      キリスト教あるある 
      祝福主義
       祝福主義に毒されたキリスト教になっているのではないか。
       これはあるかもしれない。病気になると喜びを失い、悲しみに合うと、自分が不信仰ではないかとオロオロする。人間とは所詮その程度のモノなのに、それにもかかわらず、祝福を求め、ちょっとのことで揺れ動くそんな信仰者が量産されているかもしれない。

       しかし、まぁ、ミーちゃんはーちゃんが好き勝手ほざいていても、ミーちゃんはーちゃんはキリスト教徒であるとは思っている。リベラルとお呼びになりたければ、リベラルとお呼び。そんな人にラベルはって遊ぶ人よりも、我の父は、すべての被造物をつくり給いし方なれば、我を無限の愛を持って愛されることを確信しておるので、気にしてもしょうがないとは思っている。


       闇よりも光、失敗よりも成功を現在の日本の教会は、求めてばかりいるのではないか。

       残念ながら、わがキリスト者集団でも、この手の方は多いので、困ってしまうのだが、ひかりばかりいるピーカン脳天気なキリスト者も深みがなくて困るような気がするのだが。もちろん光は尊いものであるが、闇があってこその光である。特に今、アドベントの時期であるので、そう思うのかもしれないが。

       カリフォルニア州でもないから、いつも光の当たる方にいるのは不可能ではないかと思うのだが。


      Keep on the sunny sideを歌うカーターシスターズの皆さん
      南部訛りがブルーグラス風でよい

      教会に巣食う妖怪?
      みんな妖怪のせいなのね?そうなのね?


       現在の教会は、レンブラントの放蕩息子の絵の背景に溶け込んだ厳しい顔をした放蕩息子の兄のような人物がいっぱいいる教会となっているのではないか、新しい出発したらどうか。

      レンブラントの放蕩息子の帰郷
       
       上記の絵のぼろぼろの服を着ているのが放蕩息子、それを抱くのが父、そして、その父の後ろの暗がりの中に何人か化け物と見まごうような人物がおり、その右に黒い帽子を被った執事様の人物がおり、その右側に放蕩息子の兄がいると解されている。なおこのレンブラントの放蕩息子の帰郷は、あめんどうさんから出ているヘンリー・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』のカバーに使われている。

       工藤先生は、教会には、このおっかない顔をした放蕩息子のような兄がやたらといっぱいいるという話をしておられた。また、背景の中にもぐりこんでいる亡霊のような人物、もう、地上やその教会にいなくなった過去の牧師や宣教師の影響が満ち満ちていたりはしてないだろうか、と結構厳しいことをおっしゃっておられた。

       教会の揉め事は、過去のやり方や過去教えられたことだけが事実だと思い込んでいるこういう亡霊や古狸(フルダヌキ って、工藤先生)のような人がいっぱいいるんじゃないか、そして、新来会者を遠ざけているんじゃないか、って、まぁ、強烈なことをおっしゃっておられた。

       そういえば、敬愛する藤掛先生も、現代日本社会と妖怪の話を書いておられたのでご紹介しておきますね。

      「妖怪ウォッチ」から学ぶ心の世界(配布レジメ)

      「妖怪ウォッチ」シンポでの質問に答えて

       この記事への、尊敬する鹿児島の久保木先生(南の国のブログ王子)の応答はこちら。こちらは教会とそこに巣食う妖怪とその対応がちょっこし出てくるよぉ。

      妖怪のせいなのね♪ 外在化なのね! 前編
      妖怪のせいなのね♪ 外在化なのね! 後編

      カトリックに学ぶ教会のありよう


       森 一弘先生の「これからの教会のありようを考える」は参考になるかもしれない。

       この本は読んでないので、今度読んでみようと思う。これまでのカトリック教会の闇の部分にも踏み込んで、書かれているらしい。

      プロテスタントは潔くない。自己正当化が多すぎる。


       はい。これはミーちゃんはーちゃんもそう思います。まぁ、プロテスタント(プロテスタティオ : しぇからしく異議申し立てをするもの)ですから、理屈っぽくって、自己の聖書理解を正当化しようとするあまりに結構、やいやいいうことに力入りすぎかもしれません。もうちょっと、肩の力を抜いていもいいのかもしれません。

      「小さいこといいことだ」への転換


       人から話を聞くときには、小さいことは大事かもしれないし、本当に話が分かる人は少ない。

       このことは、非常に大事だと思う。教会や自治体で、なんか講演会とかやると、理解力のある人もない人も、関心のある人もない人も、とりあえずネームバリューで呼ぶことが多い。外部の人にとって見ると、如何に業界内で有名でも、「あのオジサン、だれ?」という名言で、うちのキリスト者集団の大物説教者について大声で尋ね、会堂内をアナ雪状態に凍り付かせた来会者の言うのと同様だと思う。

       それを、講演者に申し訳ないから、と動員掛けると、興味ない人まで来てしまって、話が拡散する。それよりも、真剣に聞いてくれる人とひざ突き詰めて話す方が面白いというのはある。カッティングエッジな話は、確かにそういう小さなグループで起きることは確かである。ビジネスとしては、少人数ではビジネスにはなりにくいのではあるけれども。

       類例については、いつも拝読しているミーちゃんはーちゃんに負けず劣らず捨て身のブロガーさんのブログ、I don't know who I amのブログで、この記事 教会とクリスマス で紹介されていた。

       まだ、プロテスタントは、産業社会の思考法である、規模の経済追及主義・規模拡大志向の陥穽(落とし穴)に陥っているのかもしれない。もう、山本直純さんもお隠れあそばらっしゃったので、なんかの一つ覚えみたいに「大きいことはいいことだ」を繰り返すのはやめたらどうかと思う。シヴィックなんかの名車を生み出した国民として。


      森永エールチョコレートのCF 実に1960年代的である。


      ガンバリズムからの脱却


      これまでのキリスト教はガンバリズムが支配しており、脱皮することが必要ではないか。


       まぁ、日本はこれまで宣教地であった。宣教が先に立ち、信徒の充実という側面が見られなかったように思う。西洋型クリステンドムというのか、ヨーダーの言葉を借りれば、コンスタンティヌス型キリスト教が存在しておらず、そういうクリステンドムを経験したい、というその焦りがプロテスタント諸派にあると思う。それが、勘違いで出ると、ひょっとすると、某「日本を●するキリスト者の会」などの、日本の伝統宗教と習合したキリスト教につながるのかもしれない。それは、誤った伝道方法だと思うし、ヨーダー先生がおっしゃるように、キリスト教会とキリスト者は、国家に対して預言者の役割を果たすべきなのに、手段と目的が混乱し、日本にキリスト教を広める目的のために、手段として日本の伝統文化を正当に評価するはずだったのが、日本の伝統文化を高唱することが目的となってしまって、手段であったものが目的化してしまった例であろう。

      老いの問題とキリスト教 これからの課題
       質疑応答で面白かったことをふれたい。

       如何に老いるか、を力説する必要があるだろう。老いの問題を信徒への聖書理解を示す中で伝える必要があるだろう。パウロの晩年のピレモンの手紙などが参考になるであろう。晩年のパウロが、老人としてのあわれみで育てる姿を見ることができるのではないか。
       その意味で、教会が人を信徒を生み出す力が衰えているのではないか。キリスト者のパッションとして、育てているのだろうかを再検討した方がよくはないか。素敵な老人がいる教会が増えるといい。


       日本は諸賢御存じの通り、高齢化が急速に進む社会である。日本のキリスト教界も急速に高齢化が進んでいる。その中で従来通り、若い人、若い人と求めることはいかがなものであろうか。現在のテレビCMでは、コエンザイムQ10だの、プラセンタだの若く見えることを売り物にするCMばかりである。元気な老人は、いいのかもしれないが、無理に若作りしたおばちゃんは痛いのである。


       また、小姑みたいな人がいっぱいいて、いちいち箸の上げ下ろしをご指導を受けるような社会って息がつまりそうではないか。そういう意味で、もっとのびのびと人を息をつかせる人間力に富んだ、素敵な老人がいる教会が日本でもちょっと増えるといいなぁ、と思う。その意味で、老人パワーに満ち溢れた、痛くない教会が増えたらいいと思うのだが。

      あと工藤先生からの告知

       今度の日曜日の午前5時から、来週土曜日の午後1時から 工藤先生も関与されていた「からしだね」がNHK E-テレのこころの時代 http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2014-12-14/31/28104/で放送されるそうです。ご清覧をお勧めいたします。

       以上おしまい。

      2015.06.17 Wednesday

      工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その1

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          よい本が多過ぎて、紹介したいのに、なかなかすすめられなかった本の一つが、本日ご紹介する本である。この書の冒頭部分にある記述が衝撃的であった。
        信仰者の善意とも思える言動が、まかり間違えば一つの暴力ともなることを教える話である。(『真実の福音を求めて』 p.11)
        具体的には本書を読んでもらいたいのだが、末期がん患者さんに対する教会の次のような態度である。
         この人を最も苦しめたのは教会の人々の祈り、またその熱心さであった。癒しを強調するその教会は、病や問題を抱えた人々のため日夜祈ることを以て隣人愛の表れとしていたから、朝に優に、その人のためのとりなしが教会全体の大きなテーマであったという。(中略)しかし、病状は人々の祈りとは裏腹に信仰悪化の一途をたどっていった。
         その人は私に言った。
         「先生、私は教会員の電話も、また教会に行くのも怖いのです。いや、怖くなってきたのです。特に牧師夫人の一言が…。」
         聞けばその内容は次のようなことだという。はじめは病のみならずその人の生活全般へのとりなしの祈りであったから、その人は人々の善意で孤立感から救われ、祈りの結果としての快癒を願っていた。ところが、病気が望ましくない方向に変わると、案の定、病気が回復しないのは祈りが足らないのではないか、信仰が足りないのではないか、という東夷詮索、叱責に変わり始めたという。
         (中略)事態が思うようにいかなくなると、ついにそのやるせなさを本人(病人)の方にもっていくのが常だからである。そしてその苛立ちは、この人にはもっと深い画された罪がまだあるのではないか、何か本人にかけがあるのではないかなどという怒りの反転ともいえる現象に発展する。(同書 pp.12-13)
         何、教会が悪意でしてこういうことになるのではなくて、善意の行き着いた先にこうなるのがかなわないのである。そして、人を遠ざけてしまうのである。自分たちがこれだけ祈ったら聞かれるはず、という思い込みがあるがゆえに、それが聞かれないときにおいて、「自分たちが祈っても聞かれないのは、病人が悪いからだ、問題があるからだ」という問題のすり替えをしてしまうのである。

         聖書は祈れとは書いてあるが、祈ったら聞かれるとも書いてない。まぁ、「もとめなさい。そうすれば与えられます」とは書いてあるが、「求めなさい、そうすれば、あなたが願った通りにそのものが確実に与えられます」とは書いていないような気がするなぁ。

         こういう思い込みによる聖書のことばへの手前勝手な思い込みの挿入ってのは案外多いかもしれない。そして、まず最初に何をもとめるのか、ということを忘れているのである。

         聖書は病気を治すことを求めよ、と書いているのではなくて、「神の国とその義をまず第1に求めよ」と書いているのではないだろうか。「その義」に関しては、「クリスチャンであること」の冒頭3章位をご覧いただくとよいのではないか。

        「一般化の危険」について

         一般化というのは、近代が生んだ最悪の病であると、個人的に思っている。要するに一般化とは、詳細な検討もなしに、みんな同じだ、と平均値に収束させてしまうことである。平均値とは、一種の多様性あるものの代表値であり、個別そのものでないことは、もう少し認識されてよい、と思っている。
         私たちは何か自分が特別な体験をすると、つい一般化してしまう弱さを持っている。(中略)
        しかし、一人ひとりの生がみな異なるように、神のお取り扱いもみな異なるというのが実際だろう。
         また、信仰の体験談は励ましとなると同時に、つまずきにもなりうると言う現実がある。恵みの体験も使い方(表現)を間違えたら、人との断絶を作りかねない。
         例えば、一生懸命神の恵みを証ししているようでいて、いつの間にかそれが自分の自慢話をしていることが少なくないし、(中略)私たちはその優越感がつまずきの石になっていることに案外気が付かないものである。(pp.14−15)
         しかし、この一般化というのは、実に社会のあちこちに潜んでいる。「すべからく子供というものは、給食を喜ぶものだ」とか、「子供が音楽を奏でれば、それは喜ばしいものだ」とか、「いつまでも若いことが望ましい」とか、もう無茶な一般化が学校や社会でまかり通っている。そして、それが人を苦しめているのではないか。どんなにある子どもにとってひどい味だと思える給食やアレルギーや豚肉やエビに対する宗教的禁忌に関係なく食べさせる。ろくでもないことである。そんなもの喜んで食べられるはずがないではないか。それを喜んで食べろなどとは、もはや、罰ゲーム、ハラスメントである。そのようなハラスメントは、日本だけでなく欧米各国で起きた。その行き着いた先が、アウシュビッツではないか、と思っている。

         ドイツのユダヤ人迫害は、ドイツ民族は優秀であるべきであるという一般化と、キリスト教的な信仰の表明から出たことは忘れてはならない。

         しかし、本人は超真面目に証しているつもりでも、全く証になっていない事例には、過去何度か遭遇したことがあるし単に自慢話や見せびらかし、ひどい場合は、研究ごっこのような話を信徒大会というか、修養会でした巡回説教者に出会ったことがある。しょうがないなぁ、と思っていたが、まぁ、それは、人間が罪あるものである故のことであろう、と思っている。

        迷うことや疑問

         迷うことや質問を持つことは案外大事であり、とりあえず、現実的な問題に直面する中で、疑問を持っていく中で多様な神学がこれまで歴史的に形成されてしてきたことは、案外知られていない。
         前著『信仰による人間疎外』によって「信仰生活が楽になりました」という人たちが一番多く反応を示したのは、「健全な信仰は多分に、健全な不信仰を含む」という一文である。(中略)そういう反応を示した人たちの多くが、迷うこと、悩むこと、疑うことは不信仰のしるしででもあるかのように思い込まされていたからである。(同書 p.17)
         この迷いのない、決断主義というのか、陰のなさというのは、どうしたものか、と思う。まぁ、その辺が反知性主義が現象面で現れると、『迷うこと、悩むこと、疑うことは不信仰のしるしででもあるかのように思い込まされて』いるということに現われるのかもしれない。このことは、信徒だけではないらしい。まぁ、牧会者たちも信者でもあるのだから、ある面当然といえば当然であるが。
         このことに関するある牧師の反応が面白い。
         しかし、いったん信仰を持ってしまうと、私たち教会人の間には、『疑ってはならない』、『信じなければだめだ』という思いが強く、よい疑問を生み出す心が失われるのではないでしょうか。
         疑問に思うことがよく考えていることの裏返しであるとするなら、単純に疑うことは不信仰、というような発想は信仰の広がりを阻害する要因ではないでしょうか。(同書 p.21)
         じつは、こういう信仰の広がりが、実は神学を形成してきたことをご存じないということから来ているのかもしれない。しかし、それを口にできない教会というのは、どうなんだろうか、とも思う。まぁ、教会が大きくても、小さくても、こういうことは割と起きているようである。

         明石で実施しているナウエン研究会では、まぁ、教会でない、他教派から来ておられる、信仰のバックグラウンドが多様な方が来られるので、結構、びっくりするような根源的な質問が寄せられて、こちらがびっくりするとともに、案外聖書の内容が誤解されて語られていることが言語化されるシーンに出会うので、非常に面白いが、それと同時に深刻さを感じる。

        いまさら質問箱が必要

         ところで、先に紹介した工藤先生の本に反応を寄せられた牧師の方がされたことが面白い。「いまさら質問箱」という取り組みをされたようである。 
         「いまさら質問箱」とは面白い発想である。というのは、私たちの中にはこの牧師が言うように一度教会員になってしまうと、素朴で単純な疑問が浮上しても、今更そんな初歩的なことを人前にさらすのを恥じる思いがあるからである。
         (中略)
         「人を怖れずに、それら(引用者註 疑問)を分かち合う友を作り、大切にしよう」という発想も、何か人を安心させる。わかるということは、何がわかっていなかったかということを明らかにする心の作業でもあることを考えると、新しい疑問の中に信仰の深化があるともいえるからである。
         (同書 pp.23〜24)
         この部分を読みながら、案外日本の教会は宣教地の教会としての使命が重すぎ、何が何でも伝道しなければ、ということに凝り固まってしまっていて、疑問を分かち合い、わかったことを考えるということは、牧師先生や神学者の人の頭の中だけの問題になってしまい、それを咀嚼した結果を食中毒や食あたりを起こしながら、そんなものだと思って食べているという実情があるのかもしれない。個人レベルでの新しい素朴な疑問の中に、案外重要な信仰の深化、それは個人のものであるかもしれないが、案外、牧会社の頭の中を、神学者の頭の中を揺るがしかねない重大なものが含まれてしまっているという可能性を忘れてはいないだろうか。

         ただ個人だけで独立して考えていると、いくつか問題が生じる可能性が高い。というのは、伝統や共同体に支えられない聖書理解は独善になりやすく、結局寺社や文化財への油脂噴霧事案のような突飛な残念な理解に行っても歯止めがかからないからである。

        第2章 新たな律法主義の台頭から

         工藤先生は面白いことを言っておらえる。社会のある傾向である。
         私の個人的な経験を言うと、私たちの現実においてはその生活の大半が”ねば志向”に支配され、”ねば志向”で営まれているために、それが信仰生活にも持ち込まれている危険性に人は案外気づいていないのではないか、ということである。ところが、この断想(藤木・工藤著 『福音は届いていますか』ヨルダン社 p.62)は、真面目さが人生の、また信仰生活の勘違いを招くというのである。 (同書 p.25)
         この”ねば志向”も、個人的には近代という時代が生まれたものではないか、と考えている。”ねばよ〜”とか”ねば”としょっちゅううるさい「ねばーる君」ではないが、近代は、すべての人が真面目に、同じように行動することが求められた時代でもある。そのことは、モダンタイムスで、チャールズ・チャップリンが極めて先鋭的に切り取ったものである。


        チャールズ・チャップリンのモダンタイムスの予告編
         
        ねばーる君
         
         工藤先生は、「真面目さが人生の、また信仰生活の勘違いを招く」とまでご指摘である。現在のキリスト教界の一部は、この真面目さのトラップに引っかかっており、延々と「勘違い」をし続けているのかもしれない。真面目さが社会の基礎概念の割と評価の大きな柱の一つである日本社会では、この真面目さに基づく信仰生活の勘違いの場で現れやすい、というのはあるかもしれない。社会全体がそもそも真面目に生きることをよしとするがあまり、このような勘違いの影響は大きいかもしれない。

        宗教と脅し

         ところで、カトリック信者の大半が未成熟な人が多いことに心痛めた司祭がトゥルニエを尋ねたときのことを次のように書いている。
         トゥルニエの答えは「プロテスタントも同様で、過半数は正規なく物悲しげで打ちひしがれている」というものであた。そしてトゥルニエは、その原因は聖書にあるのではなく、宗教家が間違った理由で人々を脅したところにあると指摘する。その脅しとは、いま私が述べた道徳主義のことである。(同書 p.26)
         道徳主義的な脅しの問題は、実は、19世紀から20世紀前半に世界中を跳梁跋扈した禁酒法時代と案外深いかかわりがあるのではないか、と思う。もちろん、パウロは道徳は無視してよいなどとは書いていないし、道徳は尊重されるべし、とは書いているが、神格化すべしとまで書いていないのではないか、と思う。

         明治期において、妾問題、あるいは売買春問題が大幅に改善することに、キリスト教的な道徳や婚姻概念や女性解放運動に関しては、確かに非常に大きな役割を果たした。しかし、とはいっても依然として、疑似売買春もどきのAKB48総選挙が社会でもてはやされ、一方で所謂売春宿は相も変わらず亡くならないという事実、不倫は公然と横行しなくなったものの、それが横行していることは、藝能欄が教えてくれる。あれが特殊な社会のものだから記事になるのではなく、普通の人との共通性が感じられるから売れるのではないだろうか。

         それはさておき、行き過ぎた道徳主義とでもいうべき、ある狭い枠の中でしか人々を生きることを強いるような宗教家の間違いや、それに基づく脅しが、人々を苦しめ、キリスト教に失望させ、ナザレのイエスは魅力的だが、キリスト教は嫌い、という人々を大量に生んできたのではないだろうか。

         ある所で、クリスマスメッセージを語った後、後かたずけをしながら、ある女性信徒の方が、得々と、「今日は神の裁きまで語れたわ」とおっしゃったことがある。個人的には絶望を感じた。神の愛を語り、神の招きを語り、神の愛をコンパクトにまとめて、まだナザレのイエスをご存じない方にお話しした直後に、このご発言である。この方にとっては、私の話は、神の愛ばかりを語りすぎ、神の義が欠けていた、ということなのだろう。それはそうかもしれない。愛の反面としてではなく、もし、人への裁きだけが語られたのだとしたら、と考えると恐ろしい。

         誰も、怖い、恐ろしいイエスには寄っていかないにもかかわらず、神の裁きを語られてそのような神の印象だけが残っているとしたら、とこの時のクリスマス会の時のことを考えると、今なお絶望的な痛みを感じている。

         確かに、ジョナサン・エドワーズ先輩は、神の怒りを語った。しかし、そのコンテキストは、キリストの愛に甘え、いい加減になっていく、神の愛をある程度熟知している人々に対してであったはずであるが、それでも、彼の説教で、気絶するもの、自殺するものが量産されたのである。それを神の愛を六すっぽ知らない人々に言う意味がいかほどのものであろうか、と思うときに、パターンにはまった聖書理解の伝達の恐ろしさを今なお思い出す。

        脅しの恐ろしさ

         工藤信夫さんは次のようにも書く。
         ここで、私は改めて思うことが一つある。それは脅しの恐ろしさである。(中略)それだけ問題を感じるなら、その教会に行くのをやめ、別の教会に移ったらよさそうに思ったものだが、ほとんどの人はなかなかそうはしなかった。(中略)そのことの背後に、教会を離れたら神の裁きに合う、罰を受けるという罪責感があるらしいということであった。(同書 p.28)
         こういう、最初に出会った教会を離れると神の裁きに合うという理解は案外多いかもしれない。本当はそうでないにもかかわらず、こういう現象は日本でかなり見られるようである。まぁ、日本の牧師先生クラスタでも、他教派のことはあまりご存じない先生方が結構おられることに驚くし、まぁ、特定の教会の牧師をしておられたら、自分のところからいなくなられると、結構それはそれで経済的にしんどいし、教派内で、いろいろ言われることにつながるらしいので、信徒を死守したい気持ちがあるが、あわない人々を強制的にそこにとどめる意味というのはないなぁ、と思う。

         ちょうど、カルト問題を考えていたころ、京都におられる村上さんという方の教会で開催されたカルト問題の私的研究会にお邪魔した時のことを思い出す。そこで聞いた話であるが、結局カルトは、この枠組みの内部は安全であるが、この枠組みから外れると、そこには悪魔が跳梁跋扈し、悪が渦巻く世界であるといって、カルト教会の枠内にとどめようとするということがあるらしい。そのことはそうであろうと思う。

         この背景には、日本の聖書学校や神学校と呼ばれるところで、神学的な系譜をたどる歴史神学が軽視されていることがあるかもしれない。歴史神学を少しでも考えてみるとき、歴史的な神学の発展史を振り返ることなので、その多様性と幅広がりを味わうことができるはずなのだが、伝道だけを考え、そのための促成栽培的な教育をしている場合においては、このあたりの本来のキリスト教の豊かさ、幅の広さ、奥行き、あるいは懐の広さのようなものが失われてしまうかもしれない。

        神の座を占める道徳

         道徳が神の座を占めることに関しては、このブログのいくつかの記事で示してきたが、そのことに関して、工藤さんは次のように言う。
         こうして人にはいつしか、宗教と道徳主義を同列においていることに気づかないという悲劇が起こる。しかし私が注目したいのは、道徳主義の決定的欠陥は、すぐさまそれがさばきの精神に結びつっくということである。自分を責め、そして人を責める。そのうえ、人間はすぐ自分を絶対化しやすく、他の人ととの比較においてその優劣を競う決定的な弱さを抱えた存在である。そして道徳主義の中心は神ではなくて人間主義であるから、ことはさらにややこしくなる。(同書 p.29)
         確かに、道徳主義は実は、神中心的な顔をしながら、工藤さんが言うように、人間主義、人間中心主義という偶像崇拝なのではないか、と思う。キリスト教の皮を被った、偶像崇拝なのである。イエスがパリサイ派の律法学者や、サドカイ派の律法学者を厳しく叱責し、批判したのは、神のことだと言いながら、神から人を遠ざけた、そのことではなかったか。ユダヤの神は豊かに愛し、豊かに許したもうたことを人々の目から隠しつつ、人々に表面的な律法の文言の順守を迫ったことにあったのではないか。そして、結果として、本質的な神との交わりからの排除を果たしたことを批判されたのではなかったか。

         地理情報学でよく知られていることの中に、国民性による形の取り方の違いというのがある。ある地形の形を計算機上で下にひいた航空写真をもとに図形を製作することを日本人などアジア系の人々に依頼し、その面積を測定すると、平均値としては実面積より小さな図形の面積になる傾向があることが知られている。つまり、日本人を中心とするアジア人に依頼すると、線の内側で形の内側をとるということが意図的に行われるために、面積がやや小さめに出やすい傾向があるようなのである。ところが、アメリカ人にそれをさせると、平均値は、実面積に近づく傾向があるらしい。

         この結果を受けて、私の指導教員のお一人の方は幼稚園以来、塗り絵をするときにも線をはみ出さないように教える日本の教育に由来するのではないか、ということをおっしゃっておられたが、個人的には、これは北斎漫画など、浮世絵版画の影響だと思っている。

         であるからこそ、日本は世界に誇るアニメ大国になれたのだと思う。線を超えないで色塗りしてくれるので、工数が格段に減るからである。


        北斎漫画

        よいこクリスチャンと教会

         よいこといっても、この方々ではない。

        よゐこ

        あるいはこの雑誌でもない。

        ミーハー氏が生まれたころのよいこ
        (オリンピックアスリートが着ていた制服もどきのデザイン)

         要するによい子とは、大人の道徳律に疑問も先挟まず、それに対して挑発的な態度もとらず、素直に見える人物である。それは抑圧につながるのではないか、と工藤先生はご指摘である。
         さて、教会における道徳主義の強調は、臨床的に言えば”よい子づくり”を起想させる。先ほどのトゥルニエの表現によれば、お行儀のよい子である。ところが、精神科臨床でも、よいこは後々多くの問題を引き起こすことが広く知られている。(同書p.30)
         これについてあまり意識することはなかったが、先にあげた小学館の現在は統廃合されて幼稚園になった雑誌のよいこというタイトルがあらわすように、基本的には、ある種の日本の親にとっての理想形であったわけである。

         日本は、あまりに、育てやすい「よいこ」ばかりに目が行き、本来的な人間の姿ばかりに目が行かない側面があると思う。また、日本のキリスト教が明治期以降、幅広く、西洋倫理、ないし西洋道徳であると伝道の方便として用いられてきたために、結果として、キリスト教の新鮮さ、キリスト教としての感情の重要性を失っていたような気がしなくもない。残念なことではあるが。そこらのことに関して、工藤さんは次のようにお書きである。
         果たしてキリスト教の目標は、よい子づくりなのだろうか。あるいはまた、私がこれから考えようとしている放蕩息子の兄のように、いつも父の家にいて一見何ももめ事を起こさない人物を作り出すことにあるのだろうか。(同書 p.31)
         教会でも、問題行動を起こした起こしたということで、すぐに陪餐停止とする教会もないわけではないと聞く。また、教会出席をさぼると、すぐ電話がかかってくるというような教会もあるやに時に聞く。教会は学校や会社のような合目的的組織だろうか、と最近はふと考えることも多い。教会が、伝道を主にした共同体であれば、それは合目的的な組織となりうる。日本では教会が、そのような合目的的組織に成り下がっているのかもしれない。

        キリスト教世界の見落とし

         工藤さんは、教会が問題を抱える背景に、本来の人間理解に関して見落としてきたものがあるのではないか、ということに関して次のようにお書きである。
         こうした問題の根底には、私たちがそれを良しとし、また良しとされてきたキリスト教理解に多くの見落としがあったのではないかということである。(中略)人間側の問題、たとえて言えば聖書理解の浅さ、狭さ、偏り、あるいは教会という組織、集まりそのものが持つ構造と限界、またそこに集い、参加する人々の様々な不適際がこうした病理現象を生じさせているのではないかということである。
         そして、これらの悲劇に加担する決定的な要素は、自分の犯している精神的暴力に一向に気づこうとしない自己義認、あるいは日に気づけない感性の鈍さ、自己正当化、人間の絶対化という高慢さにある。(同書 p.31)
         本日紹介したN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』の紹介記事ではないが、本来、神から共同体を形成することに招かれていながらも、その共同体を自らの精神的暴力性(これは罪の結果であると思うが)で内部から崩壊させていき、そして、自己正当化、人間の絶対化という偶像崇拝に走るのである。

         つい最近、香ばしい話題を提供していただいた、日本国内の寺社や城郭などに油撒きしておられたキリスト教関連団体の代表の方の、根源的問題も、この自らの精神的暴力性、自己正当化、人間の絶対化があるのではないか、と思っている。これに関しては、村上密さんが次のブログ記事「奇妙な儀式」で、その問題をご指摘である。詳細は、ブログ記事をご覧いただきたい。

         また、I do not know who I amのブログでは、似たような事例が【体験談】弟子訓練って牧師にいいように使われるってことでしょ で取り上げられていた。実に悲惨な「弟子訓練」を経験された「たけのこ」さんのお会いになった、教会の自己正当化、人間の絶対化の結果の精神的暴力性の悲惨な結果が、紹介されていた。残念なことだるが、これもまた、現在の日本の教会の姿ではある。わが身の反省として、この問題をとらえていく必要があるなぁ、と思う。

         次回放蕩息子の兄について



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        コメント:絶賛おすすめ中である。

        評価:
        工藤 信夫
        いのちのことば社
        ¥ 1,188
        (1993-07)
        コメント:10年以上たっても、その重要性は失われていないあたりが。

        評価:
        Alister E. McGrath
        IVP Books
        ¥ 1,412
        (2007-01-30)
        コメント:日本語訳がほしい気がする。

        2015.06.20 Saturday

        工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その2

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           本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は放蕩息子の兄と現代の教会についてである。

          教会と放蕩息子の兄
           教会の中に巣食う放蕩息子の兄は案外少なくない。そのことを工藤信夫さんは次のように表現し、そして、このような放蕩息子の兄の存在が若者がいなくなる原因になっているのではないか、ということをTim Keller先輩の本からご紹介である。

           この本(引用者註 Tim Kellerの『放蕩する神』)の中に、「なぜ人は、イエスには好感を持つが、教会を敬遠するのか」(p.24)という注目すべき指摘がある。そしてこの現象を生み出す要因の一つが、私がこれまで再三述べてきた私たちの持つ道徳主義であるという。(中略)
           著者(引用者註 Tim Keller)がニューヨークで牧会を始めて、その教会は1年で2〜300人となったが、その大半は「熱心なクリスチャン家庭で育てられ、そこからできるだけ遠く離れるために逃げ出した人」(『放蕩する神』p.76)だった。そしてこの現象の背景に、彼らの育った地元の教会には放蕩息子の兄タイプな信徒が多く、このために若者にはなじめなかったのではないかということがある。(『真実の福音を求めて』p.32)

           案外、このことは大事だと思う。日本でもこの種のことは多いのではないか、と思う。教会が熱心になればなるほど、内部での均質性が高まり、その中の固有の道徳が醸成され、さらに先鋭化されると、そういう道徳の親衛隊みたいな人が出てきて、さらに道徳を先鋭化させていく傾向は人間の社会の中で普遍的にみられるようである。

           このコミュニティの尖鋭化に関しては、本日紹介したN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』の紹介記事のNTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その7の中でコミュニティとしての暴走という部分で紹介したとおりである。教会でもこのコミュニティの暴走ということは起こりうるし、近代という均質化の仮定が広く普及した社会の中では、よりこの種の問題は起きやすい、と思われる。

          同質であることを強いる教会と放蕩息子の兄
           教会が持つ敷居の高さを生む同質化圧力とそれにかかわる放蕩息子の兄的存在に関して工藤さんは次のようにお書きである。
           その(引用者註 教会の持つ若者への)敷居の高さとは形式的な信仰、道徳的な価値観、社会的立場の高さで、それがそのまま教会に持ち込まれ、真面目で律儀、律法主義的な伝統的新興がもてはやされ、そのために既成の価値観から離れた若者にはなじめないというのである。(同書p.33)

          まぁ、これも「教会あるある」である。教会あるあるに関しては、こちらを。

           冗談はさておいても、案外この種の若者の馴染めなさは、既成の価値観から離れているかどうかにかかわらず、割と教会に集まっているメンバーの相が固定化しているがゆえに起こりやすいのではないか、と思う。明治のキリスト教業界の四村の一人、かの明治の横浜バンドの看板牧師、植村正久も、説教の中で、「吾輩の教会には車夫工員の類は要らぬ」に近いことを言っていたらしいから、かなり均質な社会的集団の信者からなる教会運営が明治のころからなされていたようである。

          https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b0/UemuraMasahisa.jpg/180px-UemuraMasahisa.jpg
          植村正久

           実は、プロテスタント派の教派別伝道地の比較検証の作業をしてみようかとも思っているのだが、どうも、地域特性がありそうなのである。まだ、直感のレベルの段階である。プロテスタントの教派ごとにかなり地域特性が似たところに立地しており、地域による住民特性が大きく異なるようなところには立地せず、一種のキリスト教会の地域的すみわけが起きているのではないか、という仮説がある。見検証であるが。

           植村正久の言う「車夫工員」タイプの方が多い教会には、そういうタイプの方に特徴的なプロテスタント派があり(どことは言えない)、いわゆるホワイトカラータイプが多い教会には、逆にブルーカラータイプの人がほとんど見られないという、一種の教会の社会的すみわけが起きている面というのはあるかもしれない。こういうことを言うと差別的だといわれるのだが、しかし教会が地域的存在である以上、この種のことは起きるのである。空間経済学でよく知られていることであるが、空間は差別的なのである。少なくとも距離という意味では。

           工藤さんは、「既成の価値観から離れた若者にはなじめない」と表現しておられるが、近代の規制の価値観からのはずれよりも、現代の若者の分衆化されたポストモダン社会における文化というか価値観こそ、既成の価値観からの外れっぷりったらありゃしないのである。

           1970年代までは、大衆として若者文化があり、若い男性であれば、「週刊プレイボーイ」「マガジン」「サンデー」「ジャンプ」などを読み、若い女性であれば、「セブンティーン」を読むものと通り相場が決まっていた。大体、それしかなかったのである。

           現状で、「サンデー」も「マガジン」もかろうじて最大発行部数を誇っているが、その発行部数自体は落ち続けており、「モーニング」や「ビッグコミック」「メンズノンノ」「ターザン」など結構男性誌の新興勢力も増えているのである。女性誌では、ポップティーンだの、二コラだのが出ている。そんなポストモダンな若者にとって、みんな同じ人民服(あるいは背広など)のようなスタイルをお仕着せできなければならない教会に魅力を感じる人はごくわずかではないだろうか。


          人民服(緑色の服  文革時代 これもコミュニティの暴走であった)
           現代のキリスト教界では、この種の軋轢は非常に大きいのではないだろうか。

          教会の均質化圧力
           先にも触れたことであるが、NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その7の中でコミュニティとしての暴走という部分でも触れたように、ある特定の理解に支配された教会は出現しうるし、そのような人々が案外多いのではないか、と明石でのヘンリー・ナウエン研究会での参加者からのご発言にもそれは感じられる。

           いくら教会はすべての人に開かれたところといっても、こうした断層的な偏りはどこにでも存在するのである。(中略)教会に真面目で熱心な人々が集まると、その集団を支配する精神がいつの間にか人間的努力、道徳主義、律法主義になりやすいからである。(同書 p.36)

           これで苦しまなければいいのであるが、逆に真面目な人だけにこれで苦しむのである。自分が十分できていない、自分はダメだと、同じことの繰り返しが表明されるのである。いくら「それは自己中心であり、神の恵みとはそんなに安易なものですかねぇ」とお話ししても、結果的には、結局自分は努力が足らない、祈りが足らない、聖書の読みが足らないとご自身のことを責められる方が多い。

           まぁ、文字数たくさん読んだから聖書に詳しくなるというお百度を踏む感覚で聖書の文字を追う人は別として(これは読んだうちに入らない、と思う)、そもそも、庶民が聖書を読むようになったのは先進諸国ですら、つい170年ほど前であり、それまでは司祭や牧師、現在の大学に相当する修道院内の人など学のある人たちしか読めなかったし、触ることすらできなかったのである。それでも、200年以上前の人々はクリスチャンであり続けた、というあたりのことはもう少し理解されてもよいのではないか、と思う。それをよしとしているわけではないが。

          サリエリ型の信仰

           そして、工藤さんは映画アマデウスの中に登場してくるサリエリに関するTim Keller先輩の表現を借りながら、そのタイプの信仰の問題を語る。

           サリエリは神に祈り、神を賛美しているかのように見えていて、その実、自分自身を称賛していたのである。そしてケラーは(引用者挿入 放蕩息子の)兄タイプの問題点を次のようにまとめる。
           「注目すべきなのは兄タイプの持っていた優越感です。…兄タイプは、勤勉に働くこと、道徳的で、エリートであり、知的で経験豊富になることに自分のイメージを置こうとします。結果、そのようなイメージを持たない人たちに対する優越感を生みます。実際、他者との競争、比較ことが、彼ら兄タイプの達成感をうる主な手段なのです」(放蕩する神 p.64)
           ケラーは、人間の本当の罪とはこのようなものではないかという。つまり、目には見えない敵意、優越感、攻撃心、さばき、見下し、競争、比較、争い、ねたみ、そねみなどなど。そして困ったことに、通常それは私たちが容易に気づかない代物であり、それはモーツアルトのような人物が現れないと”あぶりだされない”隠れた、神に対する反逆なのである。(真実の福音を求めて p.42)
           参考のために、映画アマデウスの予告編を紹介しておこう。


          映画アマデウス 予告編

           歴史家的側面から見れば、まぁ、ちょっと困った事実とは即さない部分も多々ある作品ではあるが、個人的にお話として面白い映画とは思った映画である。

           ある面で、一見下品で、色欲魔的な罪人されやすいモーツアルト(彼のミドルネーム、アマデウスは神に愛されたものという意味を持つ)と優等生タイプで、品行方正なサリエリとを比較対照させながら、どちらが本当に罪深いのか、という問題を投げかけた作品である。まぁ、この種の比較は、結局どこに行くかというと、アベル(モーツアルト型)とカイン(サリエリ型)に行きついてしまうのである。そのことに関しては、拙ブログの 上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半 と 上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半  とをご覧いただきたい。


          Cain&AbelW.Blake
          ウィリアム・ブレイク画 アベルとカイン

           カインは歴史上初の殺人者として、非難されることが多いが、そのカインですら神に愛されたものであることは、カインへの神の庇護を見れば明らかである。
          口語訳 創世記
           4:15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。
           4:16 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
           確かに、彼は罪あるもの(主の前を去る者)の存在として生きたが、その存在にすら庇護を与え給うのが神なのではないだろうか。この創世記の4章の記述はそのことに我々を招くのではないだろうか。


          サリエリの交響曲 ヴェネツィア

          宗教的熱心さと”福音の本質”

           工藤さんは、この種の熱心さにとそれが案外福音そものの対極にあるかもしれないことに関して、次のようにお書きである。

           ここで私が注目したいのは、彼らの熱心さがイエスの攻撃の的となっただけでなく、宗教を唱えていながら素朴な人々をもっとひどい地獄に陥れていると糾弾されていることである。藤木牧師によれば、宗教的な熱心さは比較の論理で起こり、そこには選民思想、エリート意識(特権意識)という”おごり”が伴うゆえに、それはいつしか福音の本質を見誤らせるというのである。換言すれば、これらの考え方、生き方が”信仰による人間疎外”という現象をもたらしはしないかということである。というのも”福音の本質”とは一言で言えば、パウロが肉の努力によらず、血筋によらず、神の恵みと記した”神の恩寵”であり、その対極が”自己努力”におる”自己義認”、つまり人と比較し、競争する世界だからである。(同書 p.46)

           しかし、なんですなぁ。本人たちは一生懸命”福音だ”と思ってやっていることが、その対極である自己義認であるとは。これこそコメディというか、悲喜劇である。そして、どちらが正しいか、どちらが聖いか論争あるいは競争をはじめてしまい、非常に近視眼的な視点でしか物事がみられなくなる。所詮、人間的努力でやる義や正しさ、信仰深さなど、神の目から見たら、芥子粒以下、埃以下の微々たるものに過ぎないのであるが、それを針小棒大よろしく、そのごくわずかな糸ぼこり一本以下のような誇りをエベレストのように思いこみ、それを競い合うなど、ちょっと引いてみてみれば、実にナンセンスなことだと思う。

           まぁ、ミーちゃんはーちゃんとて、このような特権意識、エリート意識を持ったことはあるので、人様のことを言えた義理ではないが、しかし、なんか、そんなことはどうでもよくなり、神の憐みの中に身を浸したいと思っているミーちゃんはーちゃんがいる。



          評価:
          工藤 信夫
          いのちのことば社
          ¥ 1,296
          (2015-06-05)
          コメント:大絶賛紹介中である

          評価:
          ティモシー ケラー
          いのちのことば社
          ¥ 1,404
          (2011-01)
          コメント:この本も大絶賛である。

          評価:
          ピーター・シェーファー
          ワーナー・ホーム・ビデオ
          ¥ 2,549
          (2003-02-07)
          コメント:レンタルでもいいかも

          2015.06.24 Wednesday

          工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その3

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             本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第3章「教会の姿」についてである。

            信仰の友の不在

             同じ教会に信仰の友と呼べる人がいる人は幸せであるが、案外そういう存在がいない人が多いのではないか、ということが以下の工藤先生のご指摘のような気がする。実際に、ミーちゃんはーちゃんはこのことで苦しんだ経験もある。同世代は一人もいないし、かなり突っ込んで、話ができる人が普段通っている教会内にはいなかったのである。
             そこに参加してくる人々の多くは、自分のうちに生じた信仰上の疑問や悩み(それは、すこぶる健全なものであり、自然なものであり、常識的なものであると私には思われたのだが)をおもいきって、それこそ信仰や教会を同じくする人たちに話してみると、そのほとんどが退けられたのみならず、冷笑と批判、非難にさらされたのだという。つまり、「聖書にこうかいてあります」「そういう質問をもつあなたがおかしい」「不信仰ですよ」等々と。中には、そのこだわり、つまり、自分の中に宿った不安やまよいが、どうしても自分のこころから離れず、かといって、今述べた事情で教会のだれかれに話すわけにもいかず、果てはそれにこだわる自分がおかしいと自分を責め、神経症やうつ病、精神病院入院経験にまで追い詰められたという人がいるのだから、事態は深刻である。つまり、この問題は、私たちの周りには、信仰を同じくする心の友、信仰の友がいるようでいて、案外、実際には存在しないこと、いや、こと教理、教義に合わないとなれば、「昨日の友は今日の敵」になりかねない現実さえも起こりうるのである。(『真実の福音を求めて』pp.50-51 オリジナルは、『人生を支え導くもの』いのちのことば社 pp.31-32)
             実は、同じような理解をもつ人が教会にいないという事案はかなりつらかった経験である。こんな本を読んで面白い、とか思っても、相手にされないというのか、言うだけ野暮と思うので、言えないし、言わないことがこれまで多々あった。個人的には、ナウエンが割と気に行っているので、ナウエン研究会を明石市で主宰するほどであるのだが、一度、同じ系統の教会群の中のある人にその話をして、ナウエンて言うカトリックの司祭がいましてね、と話した瞬間、その人の顔が一瞬凍りつくのがわかって、話をやめたことがある。

             また、ある時は、同じ教派の少し年上の人に「カトリックの司祭の本を読んでいましてね」というと、「カトリックはけしからん、カトリックは下らん、信仰がわかってない、聖書を読んでない」とかなり熱くおっしゃる方がおられたので、「どんなカトリックの信者の方をご存知なのですか?どなたか、司祭の方をご存知ですか?カトリックの礼拝に参加された経験は?」とお聞きしたところ「職場のカトリックの同僚がいる、司祭には知り合いはいないし話したこともない、礼拝はもちろん参加したこともない」ということであった。その方のおご理解の内容は、どこかで聞きかじってきたご自身の経験に基づいているらしかった。お話を伺うと、ごくごくよく知られているルター先輩や、カルヴァン先輩が言ったご指摘に、自分の悪口を混ぜて語っておられるのをお聞きし、頭を抱えたくなったことがあった。

             今は、牧師先生の集まりに混ぜてもらったり、各地で開かれる研究会に参加したり、ネットでの研究会に参加させてもらったり、FacebookやTwitterでいろいろとご教示くださる先生方との主にバーチャルなお付き合いがあるので、あまり気にはならなくなったが、ミーちゃんはーちゃんのキリスト教書ヲタク系のおはなしにお付き合いいただける人って、あんまりリアルに出会わなかったのですねぇ、これが。

            正論、それは人を黙らせる

             正論というのがある。それは問答無用で、その正論に従うことを要求するまつがいのない議論ではある。しかし、その正論が人が取りつく島をなくし、人の心を閉ざさせてしまうのである。そのことに関して工藤さんは次のように書いておられる。
             正論が共同体の起源であるべき交わり、信頼、発展の芽を摘み取ってしまうのである。
             私がキリスト教会における道徳主義の弊害を畏れる理由がそこにもある。もし教会が道徳主義にむしばまれるなら、そこでは正論が通って愛が閉ざされ、優越思想や冷ややかな裁きごころが支配的になるであろう。(『真実の福音を求めて』 pp.52-53)
             世俗の仕事は、正論を言うことが仕事なので、正論を言う癖がついてしまっていて、日常生活でも正論を”ボン(Bomb)”と言って空気を凍らせることは得意中の得意なのである。だから人のことは言えない。

            http://kazesoku.com/wp-content/uploads/2013/12/wpid-P1040017.jpg
            ミカンは凍らせるとうまいけど、空気を凍らせると食えたものではない

             しかし、正論が空気を凍らせ、取り付く島をなくしてしまいやすい部分はあるのだが、人はそれだけで取り付く島をなくすわけではなさそうである。時に学生と講義が終わってからだらだらと播州方言でしゃべっていることがある。すると、学生が意外そうな顔をする。どうも、普段は講義中は無意識に標準語で話しているようなのだ(学生があまりにうるさいと、英語で講義することにしている)。そういうことって、案外あるかもしれない。



            セイロン
            http://auctions.wing.c.yimg.jp/sim?furl=auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra219/users/1/3/5/9/lutetia0202-org-142796257221656&dc=1&sr.fs=20000
            Fortnum & Mason のCeyron(正論)


            フジサンケイグループの正論

             セイロン、Ceyron、正論と三段落ちして遊びました。

            教会とはどんな場所
             教会とは何か、ということに関して、工藤さんと藤木さんという方が共著で書かれた本『福音は届いていますか』の中から、次のような部分が引用されていた。
             教会とは、雑然としたものがたがいにいたわり合って調和してゆく、そのこと自体を目的とする団体なのです。教会にあっては、調和は何かをするための条件ではなく目的であることを忘れないようにしましょう。(同書 p.54 藤木・工藤著 福音は届いていますか p.143)
             なお、この本はヨルダン社という書店から出た本で、同社が現在営業していないために現在入手可能になっている本からではあるが、この藤木さんの指摘は非常に重要であると思う。この本自体いい本であるが、ある筋からしか手に入らないのが残念でならない。

            企業化する教会

             アメリカにはメガチャーチという巨大な教会がある。サンディエゴに行った時、Rock Churchという教会に行ったが、まぁ、そこは金曜日の夜から、日曜日にかけて、一日に何度もアメリカのモール、イオンさんのモール2つ分くらいのドでかいキャンパスで聖書メッセージが語られていた。説教はあまり変ではなかったが。
            教会とは断じて何かをするための組織、集まりであってはならないとするのだが、現実には企業的感覚、つまり、一定の能力、共通した価値観の人々を集め、being(ともにいる)より doing(何かするため)に傾いた教会が存在するのである。私が『信仰による人間疎外』をテキストとして各地で学び会をした折、少なからぬ人々が、「私が行っていた教会は企業倫理そのものでした」と明言されたことからもわかる。
             トラクトを配る、伝道する、奉仕する、祈る…次々の活動目標を掲げられ、それに協力、参加しない、出来ないものは排除されている。E.H.ピーターソン著『牧会者の神学』(日本キリスト教団出版局)に驚くべき表現があるのを発見した。
             アメリカの牧師たちは『企業経営者』の一文に縁法してしまった。彼らが経営するのは『教会』という名の店である。牧師は経営者感覚、即ち、どうしたら顧客を喜ばすことができるか、どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか、どうしたら顧客がより多くの金を落としてくれるような商品をパッケージすることが出来るか…そうした経営者的な感覚に満ちている。(以下略)
            (同書p.58)
             しかし、企業倫理が支配し、人集めをし、人集めをすることが伝道だ、と思いこんできた教会運営方針が、アメリカの教会だった部分がある。というのは、以前、森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(12)でも既にご紹介したが、それがそのまま日本に流れ込んできたように思うのだ。

             引用部分の引用部分にピーターソンの本からの引用部分があるが、そのなかで、「どうしたら顧客を道路沿いにある競争相手の店から自分の店へ引き寄せることができるか」という表現があるが、これはリバイバル時代にアメリカの教会でおきたことであることが、森本あんり著反知性主義に書かれているが、アメリカでは、リバイバル時代に起きたことをいまだに150年以上たってやっているのだ。世俗の仕事で、エリアマーケティング論というまぁ、金儲けの道具を学生相手に教えているが、教会にそれをそのまま持ち込んだアメリカの教会があるのではないか、と思う。一見かっこいいし、一見羽振りがいいだろうが、それと同時に失敗も多いことは、テッド・ハガードらやRobert H. Schullerをあげるまでもないだろう。Robert H. SchullerのCrystal CathedoralはLos AngelsからSan Diegoに行く際の定期観光バス内で案内されるほどの観光名所でもあったようだ。

            File:Crys-ext.jpg
            Crystal Cathedral

            人間関係の濃密化に伴う閉塞性社会の形成

             人間関係の濃密化に伴う問題について、工藤先生は次のようにお書きである。
             信仰者の集まりもどうしても同志的なものになりやすく、それが排他的になりやすいことは周知の事実であるが、風通しが悪くなり、透明度を失い、閉鎖的になって行くこの傾向は、あのおぞましいオウム事件以来、人々が宗教集団に警戒的になったことを考えたら自明のことである。(中略)それゆえこの同志的、閉鎖的、排他的方向は危険な病理に違いない。(同書pp.59-60)
             カルト化事件は、別に宗教団体に限らない。連合赤軍も、排他的になり、閉鎖的になり、やけになって連合赤軍は集団リンチ事件を山中で起こし、挙句の果てに浅間山荘事件を起こしている。ブランチダビディアンは、ATF(タバコアルコール取締局という法執行機関の一つ)や地元警察、FBI、地元の州軍とドンパチやらかしたし、オウムは選挙に負けたことをきっかけに、疑似国家建設へと向かって行った。



             宗教集団に限らず、人間が煮詰まるとろくでもないことを起こすのは、どうも自然の理である。これは、前回の記事でも紹介した、NTライト先輩もコミュニティとしての暴走としてお話ししておられる。

             そういう意味でいけば、バベルの塔事件という旧約聖書の事案の中で人が全地に散らされる事案が記録されているが、あれは、神に自分の力を見せつける形として逆らおうとしたから、というのもあるだろうが、実はあれは人が集まっているとろくな事が起きないから、ということで、神が憐れんで意図的に人が人を傷つけあう前に人の言葉を混乱させて、人を全地に散らされたのだと思う。


            バベルの塔

             まぁ、こういうろくでもないことを起こすのは、人間が欠けがある存在、罪ある存在なのだろうなぁ、と思う。人間はどうやっても神になれない、ということであろう。

            まだまだ続く



            2015.06.27 Saturday

            工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その4

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               本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第4章「信じ方の問題」についてである。

              独善と教条化と疎外
               よく考えてみれば、これのみが正しいとかいうことを避けられれば、独善も起こらないし、教条化も起こらない。しかし、これのみが正しいという言説はかなり見られる。では、なぜそれのみが正しいか、という根拠を十分に詰めることなく、意外と安易に「この辺がデファクトスタンダードだよね」ということで、「正しい」という主張がなされやすい。深い思索もなくある主張が勝手にデファクト・スタンダードであるとして、独り歩きときに、結果的に、非常にまずいことが起きるような気がする。計算機業界では、案外このような傾向があるから、困ることが多い。
               疎外の問題は、信仰の絶対化、独善と、教条化に密接な関係があるといって良い。なぜならば、この3つは異なるものを排除するという構造を持っているからである。そして困ったことに、教条化も独善も、そう簡単に分かったつもりにはなってはいけない真理を、自己流の狭い解釈で絶対化するばかりでなく、それを他人に押し付けるという暴力性を帯びている。(中略)人にはそれぞれ見方、感じ方があって、”みんな違って、みんないい”などと考えるいとまもなく、他者尊重も地道な自己反省も吟味も伴わない。これは、宗教者の本来あるべき謙虚さ、求道心からは程遠い姿勢である。(真実の福音を求めて pp.63-64)
               まぁ、こういうことを考えると、「そして困ったことに、教条化も独善も、そう簡単に分かったつもりにはなってはいけない真理を、自己流の狭い解釈で絶対化するばかりでなく、それを他人に押し付けるという暴力性を帯びている」という工藤さんの指摘は極めて重要であると思う。更に、このような暴力性が狭い集団で発揮されると大変困ったことになる事が多い。

               真理はそんなに簡単にはわからないのだが、自分が分かる形で提示されると、あぁ、それが真理か、と思い込み、そして、それを他人に押し付けてしまうのだ。そして、社会が狭ければ狭いほど、その集団での反響が常に起きるため、その安易な図式化、あるいは安易で省略された真理と呼ばれるものの真理性がさらに強化されることになり、そして安易な省略さえた心理と呼ばれるものが絶対視化されていく。単純化された真理を真理として受け止めてしまうという状況の場合、その暴力性ゆえに被害者であると同時に、単純化され先鋭化・絶対化された真理を他人に押し付けるという意味で、加害者となっていく。これがカルトにみられる基本的構造である。そして、その単純化されたものはさらに先鋭化・絶対化されていく。

               そして、それにわずかでも疑念を差し挟もうものなら、そういう疑念を持つ方がおかしいとされ、その社会から排除される傾向を持ちかねない。その意味で、そもそも一種同質的な人が集まっていることの多い教会という極めて同質的な世界で、その教会社会の人口規模問題が小さければ、より異質な人々は、どうしてもその教会という社会の隅におかれる傾向があるのは、実に残念な構造である。

              自己批判、疑うことの重要性

               自己批判するためには、批判意識がいる。その意味で、批判や疑う心というのは、非常に重要なのである。そして、自らしっかりと考えるという作業は丸呑み・丸受けという作業に比べて、人にもよるが、よほど時間がかかるし、困難な道であると思う。このあたりの事に関して、工藤さんは、藤木さんの断想を引用しながら、次のように書いておられる。 
               無限の添削
               人を試みながら徐々にその姿を現してくるのが、宗教的真理でありましょう。試練に会い、誘惑にさらされ、混迷に陥り、その中で確信していたものが崩れたり、分らなかったものがわかってきたり、そういう手間のかかる道を通って出なければ、それは現われてきません。だからそれに対しては明快と性急は禁物です。不明確さに絶えて自分の問題点に気づき、緩慢さに耐えて自分と改めていく、その今期の良い自己添削こそ、それにたしてふさわしいのです。信仰は、自分に対するこの無限の添削でもあります。(『灰色の断層』p.34)
               この断想で注目すべきは、信仰の道は本来”手間のかかる”という性格を持ち、その世界では、”明快と性急”は大いに警戒すべきものであると言われていることである。(中略)藤木牧師は、信仰の世界は手間、暇をいとわない地道な努力の積み重ねだといわれる。ところが、私たちはこの地道な努力を好まない。”独善と教条化”の方が動きやすいからである。(同書 pp.64₋65)
               現代社会は、明快と性急で満ちている。単純明快という意味では、自動販売機のボタンを押したら、その商品が出てくるのが当たり前の社会である。日本の自動販売機は、実に単純明快である。アメリカの自動販売機は、そのあたり、実に複雑で、25セント(クォーター)硬貨二つで、ソフトドリンクのペットボトルが1本出るのが標準だとボタン付近で主張しながら、時に、ソフトドリンクのペットボトル2本出てきたり、ある場合、お金だけ持っていかれて以上終わり、という目にも合う。実に非常に複雑な気持ちにさせてくれる。日本の自動販売機は、それに比べ、非常に単純明快であり、勝手に日本出てくるということがないように出来ている。

               その伝でいけば、日本の新幹線は、まさに、明快で性急である。駅に行って、乗れば、性急に目的地に連れて行ってくれる。時速300キロ近い鉄道車両を最短4分間隔で確実に運行する技術なんて、他の国は持っていない。こういう明快で性急な技術は日本のお家芸なのである。

               最近、こういう、明快で性急な、というよりは、明快で短兵急な成果だけが求められる研究ばかりがもてはやされ、国立大学の文系学部廃止論などが一部で声高に叫ばれているが、明快で短兵急な成果だけを求められた犠牲者が、オボちゃんだったことは忘れられてはならないと思う。彼女は、実にマスコミ受けの良い明快で性急な結果だけを求める日本社会が生み出したかわいそうな犠牲者に見えて仕方がない。そもそも、人間自体がよくわからない気色悪い存在を、単純化して分かった気になる方が、どうかしていると思うし、それを自分がさも分かった気になれるからと、安易にもてはやす方がどうかしていると思うのだが。

               この事件も疑うことが足らなかった事件であると思う。


              オボちゃん

              カリフォルニアの青い空のような脳天気な信仰

               この藤木さんの断層をお読みになられたある所の読書会での信徒の方のレポートが面白い。
               私たちが神から与えられていた人生を歩むとき、神への疑いや不信を抱かずには過ごせないと気が多くあります。このような思いを抱くのは決して自分だけではないと思うのですが、『信仰』を共にする方々との交わりの中でこの自らのうちに潜む『不信仰』や『疑い』を打ち明けることを拒む雰囲気が教会内にはあるように思うのです。
               例えば、私が信仰や神に対する疑いの思いを打ち明けると、『信じていればいいのですよ』という聖書の言葉で切り返されたり神を信じていながらも不安を抱くことについて訴えると、『まだまだ信仰が足りないね』と返答されたりすることもありました。そのような聖書的正論で切り返されると、自分は『不信仰』であるという『罪意識』にさいなまれる負の連鎖に陥ってしまいます。(同書 p.66)
               しかし、神はいるのか、この苦難は何だという問いを発生し続けたのイスラエルの民である。しかし、ヨブは、疑ったのである。そして疑い尽した挙句に、神と出会う。そして対話する。サラは笑ったのである。しかしイサクをその手に抱くことになる。ヨナに至っては、神の言うことなぞ聞きたくないといいタルシシュに向かっていく。神に逆らい続けながらも、しかし、イエスが直接言及された数少ない預言者の一人となる。

               神が降りてくるかどうかを見てみようといったのは、信仰深いはずのユダヤ人たちであったというのは、非常に面白い。まぁ、実際に手を下したのはローマ帝国なのであるが。ヤコブは神の言葉をそのまま受け取ることなく、祝福を求めて神の使いと戦ったのではなかったか。

               澄み切ったカリフォルニアの夏の青い空のような、一点の曇りもない単純な信仰はそれはそれでよいのかもしれないのだが、しかし、そこには、カリフォルニア的脳天気というようなものも一緒にあって、なんとなく陰影とか、味わいとかのあまりない大味な風景が広がっているように思うのだが。まぁ、好みの問題である。こういう大陸的な光景がお好きな方は大陸的な大味さを楽しまれたらよいのだと思う。最初はいいが、個人的には飽きた。特に運転するとき、つらい。こんな感じのところを運転するときには、クルーズコントロールが絶対に欲しい。



              たかが知れている人間
               工藤さんの本を読みながら、人間とは実に厄介な存在だと思った。所詮、神の目から見たら、たかが知れているのだ。しかし、ちょっとの差を見つけては、どっちが正しい、どっちが熱心、どっちが聖書的って、もう誤差の範囲のことを競い合う。実に残念な存在であると思う。
               『福音は届いていますか』という本で多くの読者が楽になったという項目は、私たち信仰者の心を悩ます、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(I テサロニケ5:16−18)というみことばの解説である。多くの信徒にとって「いつも」「絶えず」「すべての事について」というこの3つの勧めが心の負担になってしまっているのである。しかしそれは努力目標であって、必ずしも現実的ではない。人間はそれほど高尚なものではないし、人間の集中力など、たかが知れているからである。(同書 p.69)
               上の文章のように、「人間はそれほど高尚なものではないし、人間の集中力など、たかが知れている」と実に清々しい。それが少しの違いでさも高尚だと自分自身を思い込んだり、牧師や伝道者や宣教師をそうだと思い込みたくなったりと、まぁ、実に残念な存在だと思う。

               まぁ、そんな風に勝手に推測されて、身動きが取れなくなった、牧師や宣教師や伝道者は、そして、その牧師や宣教師や伝道者の御連れ合いやお子さんこそいい迷惑ではないか、と思う。Ministryの最初の方の号に牧師館からのSOSや、牧師の家庭に生まれて、という特集があったが、そこで語られているその勝手な信徒の推量や了見や基準を割り当てられ、それに沿って生きなければならないとしたら、実にお可哀そうな存在である。

               人は泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うものだと思う。エサのいらない猫被った生き方なぞ、窮屈でしょうがないではないか。

               あのパウロ大先輩だって、
              【口語訳聖書】ローマ書
              12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
              とお書きであったような気がするが。

              コントロールするのが好きな時代の赦しと受容

               先に、現代人はあまりに安易で、それも性急に理解したがる性向があり、それも、具合が悪いことに、自分の好むような解決の結果を欲する(あるいは時に神に強要する)傾向にある。忍耐力がないのである。ナウエンは、Finding My Way Homeという本の中の最後のセクションの中で、そのようなこらえ性のない現代人の信仰ではない、Waitingの信仰について書いており、それは、Open Endedな信仰であるという。
              A waiting person is a patient person. The word "patience" implies the willingness to stay where we are and live the situation out to the full in the belief that something hidden there will manifest itself to us. Patient living means to live actively in the present and wait there. ... Patient people dare to stay where they are. Waiting, then, is not passive. It involves nurturing the growth of something growing within.

              There is more. Waiting is also open-ended. Open-ended waiting is hard for us because we tend to wait for something that we wish to have, but we do not know it or when we will have it.

              Finding My Way Home Henri J. M. Nouwen, pp.97-98
              われわれ現代人は、基本的に自分が望む結末の受容を望むし、そのことがあるがゆえに”赦し”が言及されることがあまりに多いのではないか。Open Endedではなく、Targeted Endsを求めるのではないか。しかし、神の関与の不思議さは、人間が結末を定めようとしても、そうはなってないことを示しているように思う。マリア(イエスの母の方)は、神の使いに対して、「それがどのようなものかはわかりませんが、あなたがそうおっしゃるなら、そうなりますように」といってたような気がするし、それが主の祈りにおいて、「みこころが天においてなるがごとく、地においてなりますように」の祈りなのではないかと思う。その意味で、次のことばを個人的には深く思いめぐらせている。
               教会人にとって”赦し”と”受容”がそう簡単ではないことをわきまえ知ることは、忘れてはならない信仰者の要諦であるような気がする。
              (同書 pp.72₋73)
               現代人は、下のコントローラで遊ぶタイプの予定調和にあまりに慣れ過ぎているのかもしれない。


              任天堂さんの昔懐かしコントローラ




              評価:
              工藤 信夫
              いのちのことば社
              ¥ 1,296
              (2015-06-05)
              コメント:絶賛おすすめ中。

              評価:
              Henri J. M. Nouwen
              Crossroad Pub Co
              ¥ 2,127
              (2004-09)
              コメント:問答無用に良い

              2015.06.29 Monday

              工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その5

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                 本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第6章「宗教者の暴力」についてである。

                キリスト教の社会的影響と
                キリスト教による疎外

                 キリスト教は日本では、西洋の世界標準の評価の高い倫理を含むものとして受け入れられてきたし、それと同時に、その倫理であることが多くの人々を教会から排除してきた。
                 確かにキリスト教は数多くのすぐれた人物を輩出してきた。それは歴史的事実であり、そのことが私たちの誇りとなって今日の信者を励まし続けているのは承知のことである。またキリスト教が日本の教育・思想に与えた影響も枚挙にいとまのないほどである。それで「キリスト教」「クリスチャン」といえば、権力、暴力などとは程遠り世界のように人は考えてしまう。しかし宗教の世界こそ、目に見えない暴力の働くところである。(中略)
                 ヘンリ・ナウエンは『まことの力への道』(あめんどう)の中で、次のように述べている。
                 『経済的、政治的力よりも悪質なものが存在します。それは宗教上の力です。神がこの世界を見られる時、涙を流されるだけでなく、怒りをも覚えられます。というのは、神に祈り、賛美をささげ、神に向かって『主よ、主よ』と叫ぶ人のうちの多くもまた、力によって腐敗しているからです。
                 (中略 ミーちゃんはーちゃんによる)
                 もっとも狡猾で、分裂を引き起こし、人を傷つける力は、神への奉仕と称して使われる力です。私は、『宗教によって傷つけられた』というおびただしい数に私は圧倒されます。牧師や司祭による心無い言葉、ある種のライフスタイルをとる人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けたこころの傷。こうした傷はこの世界から拒絶されたことにより、長く人々の記憶に残ることが多いものでう。…の家族である教会の兄弟姉妹から歓迎されてないと感じ、神のもとを去っていきました。愛を持って迎えられることを期待したのに、実際は宗教の持つ力にさらされてしまったのです。『真の力への道』pp.14−15 太字は工藤さんによる)」
                 (真実の福音を求めて pp.74₋75)
                 クリスチャンこそ、戦闘民族的であり、クリスチャンとそれ以外の皆さん(ユダヤ系の人々とムスリム系の人々)、クリスチャンとクリスチャンで、血で血を洗う様な事件をやたらと起こしているのは歴史を見れば明らかである。まぁ、宗教が騙られて、素朴な激情型(劇場型かもしれない)の人々を大量動員するために、実態的には政治的闘争に宗教をコーティングしました的な紛争、利益を巡る経済紛争に宗教をコーティングして、アラモードに仕上げてみました、というところがある。

                 まぁ、明治期以降は、日本ではキリスト教とは幸いにして圧倒的少数派に甘んじたので、キリスト教側から積極的に日本国内で、ケンカを売り歩いたということはあまりないが。しかし、もし、社会のマジョリティなら、キリスト教徒は率先して喧嘩を売り歩いたのではないか、と歴史家には絶対に許されぬあらぬ想像もしたくなる。

                 上記のヘンリー・ナウエンの文章内でミーちゃんはーちゃんが最も気になった部分は、「ある種のライフスタイルをとる人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けたこころの傷」という部分である。この部分は、Finding My Way Homeを、明石のヘンリーナウエン研究会で読んだ時に、実に刺さってしまった部分で、一瞬その解釈と解説を口ごもりそうになった部分である。

                 そうなんですよね。ちょっと人と変わっていることや、その人が持っている一時的条件のため、教会から受け入れられないのではないか、ということ思い、他の人と比べ変わっていることや、自分の価値観が言い出せない、あるいは受け入れられていないという思いを持つ方も多いのではないか、と思う。そのうち、ちょっと変わっていることを表明できない方々は、エサのいらない猫被って生きないといけないことになる。実にそれは、その人らしさを殺すことになりかねない、と思うのだが。


                Comic Twitter !さまから 川原泉 『笑う大天使』 白泉社刊 第1巻より

                 こういうマンガを思い出していたら、キリスト新聞絶賛連載中の伝道十宣隊キョウカイジャーの中に、United Church of ChristのFacebookページで紹介されていたGive Out Dayの映像の話があった。

                 どうもアメリカのテレビで流れたCMらしい。どこまで流れたかは知らないが、以下の動画で紹介する映像は非常に象徴的である。個人的には、赤ん坊を持つ母親や、障碍者、老人、恐らくヒスパニックの人々や、同性愛者が跳ね飛ばされるのは、実に印象的である。ナウエンが言っているのも以下の2つの動画と同じことではないか、とは思った。

                 こういうことを書くから、リベラルというラベルを有難くも張っていただけるのであるが、それは甘んじて、受けよう。ミーちゃんはーちゃんは自分自身がリベラルだとはこれっぽっちも思ってないけれども。あなたがラベルを張るのも勝手なら、ミーちゃんはーちゃんが剥がすのも勝手なんじゃございませんこと?


                UCCの教会のTVCM 教会から天へ編



                UCCの教会のTVCM 教会門前の教会内に入ってよいかを判断する用心棒編
                (アメリカのバーには入口を管理するバウンサーと呼ばれる人がいるらしい)

                神の名を騙る教会内暴力

                 神の名を借りて人々に自分の希望を押し付ける宗教者の言動について、ナウエンの著書から引用しながら、次のようにお書きである。
                こう指摘して、ナウエンは、神の名を借りて人々に力を行使する宗教者の暴力を次のように表現する。
                 「今日のように、経済的にも政治的にも不透明感の大きい時代で、最も大きな誘惑の一つは、他の人々に力を行使する手段の一つとして信仰を利用する事です。そして、神の名を借りて人間の命令を押し付けることです。ですから多くの人々が、少しでも宗教と関係していると聞くと、うんざりして背を向けてしまう理由がよくわかります。福音を述べ伝えるためにこうした力が使われると、善き知らせはすぐに悪しきもの場合によっては最悪の知らせに変わってしまいます。それこそが、神を怒らせるものです。(同書 p.17 引用者註 太字は工藤さんによる)
                (同書pp.76₋77)
                 神の名を借りて、と工藤さんやナウエン先輩はお書きであるが、ミーちゃんはーちゃんに言わせれば、神の名を騙って、である。「あたしゃ、キリストの弟子になったのであって、牧師や長老の弟子になったんじゃ、ありませんぜ。特定の教会で確かにバプテスマを授けてはもらいましたが、その教会のメンバーになる為じゃなくて、神の民になるために受けたんですぜ」って時に言いたくなるって、それは乱暴だろうか(まぁ、乱暴だと思うが)。この結果、お一人様クリスチャン(この記事と過去の記事参照)になっている方もおられると思う。

                 以前このブログに天国の記事にかんして、コメントくださった方があったが、まぁ、牧師にいいように使われて、牧師は献金巻き上げてドロンされて行方不明という事案をご紹介くださった方があるが、まさにこの事例などは、神の名を騙って自らを太らせた聖職者が福音を述べ伝えるためにこうした力が使われると、善き知らせはすぐに悪しきもの場合によっては最悪の知らせに意図的な取り替え工作の被害にあわれたんだなぁ。これが。特に、献金や奉仕を巡って、このような問題は案外多いのではないだろうか。

                教会運営と献金にまつわるアレコレ

                 下手をすると、こういう被害にあって、他の教会に行って、さらに追加の被害にあう事例も結構あるから、これが日本のキリスト教界がいまだに発展途上期ではなく、揺籃期ですらないかもしれない、と思うゆえんである。文化財への油散布事案にしてもね。

                メサコンという罠

                 以前にもこのブログのこの記事(メサイアコンプレックスの防ぎ方)で、メサイアコンプレックス(メサコン)を取り上げたことがある。
                 私がトゥルニエのこの指摘を拙著『援助者とカウンセリング』や『こころの病とキリスト者の関わり』(いのちのことば社)に引用したのは、人と人との間に働くこうした暴力が人間関係に普遍的な現象であるだけでなく、宣教という場で心の援助に携わる人々にもことさらに気づいてほしい事実と思ったからである。実際こうした心理は昔から”メサイア・コンプレックス”などとして問題視されてきたテーマである。(同書 p.78)
                 先に紹介した記事(メサイアコンプレックスの防ぎ方)で、ちょっとくらいキリスト教徒の一部であるからといって、他人をさばきまくる人々の話をご紹介し、本来われわれが何を見るべきかのお話を申し上げたのであるが、明治期以降、キリスト教が西洋の最新の道徳基準、世界基準(大体そんなものはない、あると思う方がどうかしている)だと思い込み、それを聞きかじったくらいで、「これがキリスト教であるぞよ。イエスの主張であるぞよ。神のみ思いであるぞよ。一同の者控えおろう。この聖書が目に入らぬか?」ってやった人々はおられたのだろう。かなわないことであるが。ちなみに、水戸黄門は完ぺきなメサコンドラマである。


                水戸黄門 印籠のシーン

                パワハラと教会内暴力
                 まぁ、ミーちゃんはーちゃんも何度か教会内暴言やらは拝見したことがある。生身でも何回か直接言われたことあるし。基本、ミーちゃんはーちゃんは交流分析で言うFree Child(自由な子供のエネルギー値が常時異様に高いので、素面でも酔っているようなものである)状態であることが多い。だからこそ、前回の冷凍ミカンは美味しいが、凍った空気は食えないとは知りつつも、正論Bombを平気でやる。基本、大学院に入院した連中は、これができるから、研究者で生きていける。
                 さて、教会内のコミュニケーションと言語的暴力の話を見てみよう。
                『信仰による人間疎外』を欠いた25年前には、まだこうした”力の行使”は問題視されなかったが、今日ではこうした間違った力の行使はパワハラ(パワーハラスメント〉としてとらえられて来ている。これからキリスト教の世界の中では、立場が上にあるものが下のものに向かって行う暴言暴力は息をひそめるかもしれない。しかしこれまでキリスト教の世界の中で、ナウエンが言う、神への奉仕と称して使われる様々な力によって自由また対等であるべき言動が封じられてきたという現実を踏まえておくことは大切なように思われる。
                     (同書 p.80)
                 教会内でのパワハラもどきの手口に関しては、先にも紹介したI don't know who I am のサイトに詳しいので、そちらを参照してもらいたい。まぁ、あれも、これもと、実に悲惨な事案のオンパレードである。本来、ナウエン先輩が言うように教会内では、「自由また対等であるべき言動」であるべきものが、秩序維持・治安維持という美名のもとに、国家総動員体制もどきの相互監視体制なんて、あぁ、やなこってである。
                 個人的には、残念ながら、教会では言語による暴力、暴言は無くならないと思う。

                権威に逆らうキリスト者
                 本来、キリスト教はローマ帝国という権威に逆らった人々であった。しかし、コンスタンティヌス帝以降のキリスト教は、国家であり、国家を超える存在としての教会であり、権威であった。それは意図せぬ副次的効果であったとしても。しかし、それで、キリスト教がヨーロッパを席巻することになったのであるが。
                 もう一つ、トゥルニエが主張した「神の貧しい人々」とは、力を謳歌する社会ときっぱり袂を分かち、お金とも学歴の力とも縁を切った人々の事である。そしてトゥルニエが注目したのは小さなグループに属する人々で、彼らは長年歴史を動かしてきた権力構造に本能的に反発し、背を向けた若者たちであり、私たちの世代には懐かしい「ヒッピー族」の出現にさかのぼると言う。トゥルニエはこうした世代の出現も新しい期待の星であるという。組織も巨大化すれば力の誘惑が働き、金銭もたくさん集まると妙な誘惑がうずまくことは明白の事だからである。こうしてトゥルニエは次のように言う。
                 「教会は、あまりにも長い間、一方的に教える立場をとってきた。一方的に騙り、教義を定め信仰もう問答を人々に暗唱させてきた。しかし教会のこの絶対的力の時代は過ぎ去った。こうした新しい状況を教会が受け入れるなら、教会は人々との対話に入ることができ、その子どらの真理探究を助けることができるに違いない。しかし、そのやり方は以前とは異なろう。もっと謙虚に、教会全体の利害を忘れ、魂を征服することを求めず、魂に仕えることを求めてゆく以外に方法はあるまい」(暴力と人間 p.262)
                 (同書 pp.83₋84)
                 ヒッピー文化自体、アメリカのベトナム戦争や公民権運動と表裏の関係にあり、一種の反体制運動としての側面を持った。基本、アメリカの支配層の文化を体現する教会文化であるものへの反抗でもあったのだ。
                 こういう構図になる。

                  ベトナム戦争を遂行しているのはだれか
                     米国政府である
                  ベトナムで、無辜の民を殺しているのはだれか
                     米国政府である
                  アメリカ国内で、アフリカ系市民を迫害するのはだれか
                     米国政府である
                  これらをアメリカ国内で協力に支持しているのはだれか
                     教会ではないか

                ということで、一種の政体的、政治的オルタナティブの提示を求めたのが、ヒッピー文化であり、ヒッピー運動であり、戦争遂行に反対であるという意味で、別のキリスト教的オルタナティブを提示しようとしたのが、いわゆる福音派左派、ないしリベラル派の運動であったと言えよう。その信仰の味わいはかなり違うが。

                 そのヒッピーの彼らが、一種アジア的、ネイティブアメリカン的な風貌になるのは、行き過ぎた西洋モデルに対するアンチテーゼとして、思想性を持っていた、持っていたように見えたのが、アジア、とりわけ、インドであり、アメリカ国内では、ネイティブアメリカンであり、そこにあるスピリチュアリティに彼らがオルタナティブ(代替案)としての手直にある、経験した、あるいは経験が少ない代替案の一つであったということはあろう。

                http://blog.denimtherapy.com/wp-content/uploads/2009/08/woodstock.jpg
                昔懐かしWoodstockのHippie風ファッション

                 キリスト教内で、このヒッピー文化的な背景を持ち、福音派左派的な運動をしている人物に、ソジャーナーズ(寄留の民)と呼ばれるキリスト者集団のジム・ウォリスがいるが、彼の人物像を示す文章を後藤敏夫さんの本からもう一度、ここで引用しておきたい。

                http://westernjournalismcom.c.presscdn.com/wp-content/uploads/2013/02/Jim-Wallis-SC.jpg
                空手チョップを披露するジム・ウォリス先輩 
                (空手チョップを披露しているように見えるだけでした)

                 私自身の歩みと響き合うものがありますので、もう少し具体的に彼のこころと信仰の旅を紹介します。ジム・ウォリスは、デトロイトで、ブレザレンの信徒説教者の子供として模範的に育ちます。しかし、黒人問題をきっかけに教会を離れ、大学では新左翼のような立場で公民権運動やベトナム反戦運動に没頭します。 (中略)
                  ウォリスが、学生時代、週末に帰宅した際のことです。大学の騒動の中心人物として息子の名前が新聞に出ていて、父親は怒っていました。そこで、ウォリスは 自分の現在の思いや行動に最も強い栄光を与えた二人の人の名前を上げるというのです。父親や新聞に出てくるような急進的な人物か、大学の左翼的な教授の名前を聞くつもりでした。しかしウォリスは、それはお父さんとお母さんというのです。人の痛みに心をかけること、苦しんでいる人に思いを寄せること、真実を大切にして人を差別しないこと、困難な課題や問題に対しても臆せずに立ち向かうことーこれらはみんなお父さんとお母さんから学んだことだ、自分はお父さんとお母さんが大切にしている価値を、お父さんとお母さんが見ようとしない世界に当てはめようとしているのだ、とウォリスはいいました。私は、ここに福音派が考えるべき大切なことが示されていると思います。
                後藤敏夫(2007) 改定新版 終末を生きる神の民 いのちのことば社 pp.75-76.



                マイケル・サンデル教授(日本でもハーバード白熱教室で超有名)との対談

                弱さの神学のもたらすもの

                 このブログの反知性主義シリーズでも紹介してきたが、基本、アメリカの神学は、基本的に神の祝福を求めてアメリカ合衆国の建国が始まったこともあり、基本、”強さの神学”である。そのことの限界について、工藤さんは次のように述べておられる。
                私が彼の言う「弱さの神学」に心惹かれるのは、私たちが目指したのは”強さの神学”ではなかったと思うためである。つまり、”神の力を借りてでも強くなろう。強くあろうとする”信仰姿勢である。しかし、そこにあったのは力を求める人間のあくなき欲望、貪欲、そして身の程を知らない高慢さであったような気がする。(p.85)
                近頃ネットのキリスト教クラスタで香ばしい香りを撒き放ってくださった、神社仏閣での油脂散布事件を起こしてくださった油男さんの事件にしても、なんか、”弱さの神学”がもたらした事件ではなく、どうも彼の講演を見ていると、明らかに”強さの神学”が日本というある文脈で行きつくところまで行きついてしまった残念な結果のような気がする。力を誇示し、征服し、討伐しようとしておられる御姿には個人的にある種耐えがたいものを感じている。

                 しかし、油男さんのシュールな画力には、実にある種の感動を禁じ得ない。


                油男さんの講演会の模様
                57分辺りから下手くそな運転の難の動画が出てくる。このあたりからが秀逸
                60分辺りからのシュールな画像が超秀逸

                 まだまだ続く。



                評価:
                ヘンリ ナウエン
                あめんどう
                ¥ 1,620
                (2005-07-20)
                コメント:絶賛しております。

                評価:
                ---
                The Crossroad Publishing Company
                ---
                (2015-04-27)
                コメント:英語版。明石のナウエン研究会では、2015年2月から読み始め、ほぼ2015年7月中に読み終わる予定。

                評価:
                後藤 敏夫
                いのちのことば社
                ¥ 918
                (2007-08)
                コメント:絶賛している。

                2015.07.01 Wednesday

                工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その6

                0
                   
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                   本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「日本人のメンタリティと疎外」についてである。

                  自己の意見表明をしない日本人
                   海外に行ってみて思ったのは、自己の意見や意思を表明しておかないと、完全に置いてきぼりされてしまうし、それで苦情を言おうものなら、「あんた、私が聞いた時に、自分の意見を言わんかったじゃないか」と言い返されてしまうのが落ちなのだ。察する、とか、惻隠の情とかいう言葉は問答無用の「主張したかしなかったか」が全ての世界である。

                   「自分の感じていることや自分の考えていることを説明するのをタブー視する傾向」、またそれをよしとしない性向が、今日の日本社会のみならず、教会にも厳然とあるのではないだろうか。(p.89)
                   もう、自分の思いを言わない、これは平安朝の貴族社会からの伝統ではないかと思うくらい、自分の意見を言わないなのが、日本の社会なのであり、まぁ、非常に長期間維持されているので、仕方のないことなのかもしれない。そのあたりは、以下にお示しした「なんて素敵にジャパネスクでもご覧いただければ、わかりやすいかもしれない。


                  院生時代に悪友から読まされたが、読んで良かったと思っている

                   アメリカの教育では、基本的に自分たちが思ったことを小学校1年生から、Show and Tellという形で教育する。国語教育としての一環として、Oral Presentationとそれを通した表現力を教育という形で、展開していくのである。


                  Show and Tellの重要性に触れた動画


                  実際の幼稚園児が魔法の箱のおもちゃを紹介するShow and Tell
                  先生の驚きっぷりがとってもアメリカン

                   この本心を言わない文化の中にある日本の教会に北アメリカ大陸で自己表現を徹底的に求められる社会の中で教育を受け、そういうものだと思っている帰国者クリスチャンが入ってくるとどうなるか。それは以下の図のようなものではないか。
                  http://dg.galman.jp/img/00gr6_86304/%E3%81%A9%E3%82%88%E3%83%BC%E3%82%93.gif

                   それを迎え入れた教会の方は教会で、日本社会や自分たちの文化の破壊者となりかねない存在として帰国者クリスチャンを迎え入れることになる。そして、教会内文化不適合が起きかねないようである。

                   北アメリカ大陸でものすごいコストをかけ、世話をし、さぁ、これから実を結ぶ稚苗として、日本の地に根を下ろせ、そして、きっと何十倍、何百倍の信徒へと…という思いで北アメリカ大陸の教会から日本に若いキリスト者を送り返すのであるが、大抵の場合、その文化的ギャップに苦しみ、まぁ、教会に行かなくなってしまうし、行っている人はそれなりに大変な思いをされている模様である。いわゆる立ち枯れを起こしてしまっているように思う。

                   この日本人の顔した外人は結構日本社会で面倒な存在なのである。実は、ミーちゃんはーちゃんは、この日本人の顔した中身外人なのではある。w敢えて、日本語通じないふりをすることもある。

                  口から生まれたアメリカ人
                  耳から生まれた日本人
                   日本人の多くの方は、聞いて、それで満足し、わかった気になってしまう。しかし、それにはいくつかの問題があるのだ、聞いたことを受け取った側が誤解し理解して再拡大されてしまうことがあるのだ。その意味で、聞いたことについて話すというリパーカッションというか、振り返りが案外重要であるのだ。そのことについて工藤さんは以下のようにお書きである。

                  自分の本心を言わない「物言わぬ文化」、これは、アメリカにわたったらすぐに直面する課題である。向こうの大学の講義は、とにかく何か言わないとだめなのである。教授が冒頭短く問題提起すると、すぐ学生はディスカッションを始める。自分の意見を言わない学生は置き去りにされる。また、人と同じようなことを言うと評価されない。斯くして昔からよく言われているように、日本人は何を考えるかわからないという事態が現実のものとなる。つまり、日本人の文化は、その多くが腹芸といわれる世界なのである。何を言うかよりも、何を考えているかの腹の探り合い、人の話は聞いても、自分の意思、感情を言わないのである。
                   これは教会の講演会でもよく経験することである。私の場合、午前中に礼拝で話をした後、その内容を深めたり分かち合って広げたりした方が良いと考えて、午後に話し合い、分かち合いの会を設定するのだが、半分以上いや4分の3は帰ってしまう。つまり日本人は話を聞く方に親和性があっても、話す、分かつこと、そしてそれを人に知られることに抵抗がある。しかし自分の感じていることを話す、分かつことは自己確認のためにも大切なことである。(pp.89₋90)
                  アメリカワシントン州で教えた経験でいうと、アメリカのかなりの学生は、現地の大学教員をして「奴らは口から生まれてきた」と言わしめるほど、しゃべることに熱心で、人の話を聞くことに慣れてない。大体聞いていない。そして、隙あらば、突っ込んでくる。油断も隙もありはしない。

                   まぁ、口から生まれてきたアメリカ人学生の間で鍛えられたので、議論へのカットインの技術だけはついた。All right, All right, you said that, but… ってカットインすれば、議論には割り込めるのだ。ただ、後いう内容を考えてないと自爆する結果に終わるので、きちんと関連性があるように見せながら、カットインすることがコツであるが。


                  13分辺りから、アメリカでのディスカッションってこんな感じになる。

                   しかし、彼らの人の話を聞いてなくて、勝手に議論する時に、こういう画像を表示したくなるほどである。

                  http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/stop-talking-and-let-me-speak.png
                  しゃべるのをやめて、私に話させろのポスター

                  http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/keep-calm-and-carry-on-8044.png
                  パロディされてしまった大英帝国の第2次世界大戦中のポスター(オリジナル)

                  そういう大学のシーンは、この映画の中でよく表れている。

                  映画「大いなる陰謀」から学生によるクラスディベートのシーン

                   日本人は聞いているふりをしているが、案外、コアの部分で聞いていないものである。いや、説教なんか、特にそうかもしれない。そして、おまけに自分の意見を言う機会とその表明方法を知らないからこそ、説教とか、授業とかはほとんど、ひまつぶしと思っているみたいである。試験とかで脅さないと、聞いていないみたいなのだ。

                   最近、学部の講義では学生の近くによって、学生の意見を聞きまくりながら授業をするのが習いになっている。まぁ、このメリットは、学生の注意と関心をスマートフォンの画面から講義に向けさせるという側面はある。すると、彼らがいかに聞いてないか、他の授業で習っているはずの知識が、自分自身の中で整理されていないかがわかるので、面白いのだが。w

                   日本人の「聞く」ということは、聞いて終わり、得た知識は個人の中で退蔵させて、腐らせて終わり、ってあまりに残念ではないかなぁ。それがあるから、文系学部廃止論とかわけわからんことが声高に主張される背景なんだろうけど。w

                  信仰をエンジョイしないキリスト者
                   しかし以下の工藤さんの記載は、実に深刻であると思う。
                   私の友人がイギリス遊学で得た信仰体験である。彼女は、チェコから来たクリスチャンの友人に、「日本人はとてもpolite(ポライトー丁寧で礼儀正しく、周囲に気配りしながら、自分の行動をとり、発言するという意味)だけれども、私たちから見ると信仰をenjoy(エンジョイ―楽しむ)しているとは思われない…」(今を生きるキリスト者 p.161)といわれたという。
                   この発言は、私たち日本人の信仰は同質性、均一性を重んじる文化の上にあると告げる。だから、「一人ひとりが違って当たり前、むしろ違っていることが大切」という、個性を重んじる西洋型キリスト教は、その深いところで容易に日本人には浸透しないのではないだろうか。(pp.92₋93)
                   本来、NTライト先輩がお書きのように、本来、福音とは、Simply Good Newsであったはずで、Enjoyableであるはずなのに、いつの間にか、どよ〜〜〜んとした空気感が漂っていて、生き生きとしてないというのか、死体と同居したような信仰のようになっていないだろうか。まぁ、日本では、仏教もそうだが、葬送儀礼と宗教の結びつきが強すぎ、宗教が本来持っている生の側面、生き生きとした側面があまりに軽視されているような気もする。

                   これまでの繰言になるのであっさりとすますが、産業革命以降、人間の同質性が洋の東西を問わず、平均値的人間をよしとする(これは、製造の側面、供給サイドからの論理であるが)ことが問われた中で形成されたキリスト教という側面も無視できない。なぜかというと、明治から昭和初年にかけて当時の最先端と思われていた、大量生産、大量消費社会実現のために構想された、社会の均質化のためのシステム(学校、軍隊、産業組織、生産システム…)という欧米文化と一緒に日本国内に流れ込んできたため、キリスト教も、この社会の同質化のシステムの一部と理解された可能性が高く、日本型のキリスト教として定着していったのだと思う。西洋型のキリスト教は、ある面、西洋という土壌に土着したキリスト教であるし、日本型キリスト教も、日本という文化土壌に土着したキリスト教であるから、どっちもどっちであるとは思っていて、真偽論争するだけ、無益であろうと思っている。ただ、日本で、本来福音が持っていたみずみずしさのようなもの、Simply Good News性とでもいうか、とらわれ人からの解放感がなく、解放されるのではなくある概念への閉じ込め感の強いのは、イエスの主張とは真逆だとは思っている。

                  徳治政治が支配するキリスト教界

                   基本的に中国文化圏の政治論は、政治学の教科書を見れば、徳治政治であることは描かれている。徳治政治とは、儒学に伝統に言う仁徳を有する者が全てを丸く収め、社会の論争を治めていくタイプの政治的伝統の概念である。アジア圏の中国文化圏には、この形態の政治体制が多い。
                   今形を成しつつある教会も、そのルーツをさかのぼれば、信仰熱心な信徒の家庭集会からスタートしていることが多い。その場合、長老格の人物は影の実力者という形で教会の実権を握っている。そして若い牧会者もその人の意向にかなっている間は、良き牧師として受け入れられているが、それこそ長老の怒りに触れたら、たちまち左遷の憂き目を見るのである。そのうえ、そこに集う信徒も、義理、人情にまつわるような様々しがらみによって、支配者になかなか逆らえない。同調性と変化の確執である。(pp.94₋95)
                   この徳治政治は、日本国内でも昔の自民党(今もだ、という説もあるが)派閥政治、領袖政治などにもみられ、さらに言えば、ご近所の国の将軍様も、基本的にこの形である。方向は違うとはいえ。


                  いやぁ、将軍様は実に仁徳に満ちた方の御様子である。

                   しかし、最近思うのだが、あまりに西洋型の建物付の教会のイメージがあり、それがあまりにも前提とされること、さらに公共施設がオウム真理教事件を契機に宗教系団体への貸し出しを渋るようになり、建物付でない教会運営は考えることが難しい人々が多いが、本来的にはそんなものではなかったのである。それは以下の使徒行伝の記事に見られる。
                  【口語訳聖書】 使徒行伝
                   16:13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。
                   16:14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
                   16:15 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。
                  そもそも、降水量が極端に少なく、気温の温暖な地中海地方では、教会とは、人けのない、町の外側のごみ溜めもどきの川のほとりで行われていたものであって、今みたいに巨大な礼拝堂を持つようになったのは、ローマ帝国の国教化前後であり、特に、北ヨーロッパの冷涼な気候地帯や、北西ヨーロッパの降水量の多い地域に進出するまでは教会堂を持つなどという概念はさらさらなく、ごみ溜めのようなところで集まっていたのである。これなら、だれも文句は言われまい。
                   しかし、現在、多くの日本の教会でも、西洋の教会でも、教会員の数が少なく教会がどんどん売りに出され、転用されている。まぁ、それも仕方ないし、それに合わせた教会運営の形も模索されていいと思う。アメリカでちょっと前に話題になったHouse Church運動なんかはこの種のものだろう。

                  http://static2.stuff.co.nz/1320953958/902/5948902.jpg
                  売り出されたNew Zealandの教会

                  http://swipe.swipelife.netdna-cdn.com/wp-content/uploads/2009/06/church-home-northumberland.jpg?aec60b
                  住宅に転用された教会(内部映像)

                  愛について
                   「愛」というラテン語Amorを日本語に最初に訳す時に、神の御大切と16世紀に日本で伝道していたパードレたち(伴天連の皆様)が翻訳していたことはよく知られていることであるが、もともと古代仏教における愛は、愛憎という意味が含まれるため、かなり否定的にとらえられている語である。渇愛、愛は苦の原因と考えられており、美しいものとされていなかったためである。それほど”愛”という感じとそれが指し示すものは、古い日本では情念うずまく世界に関する語なのである。今では、すっかりサニタイズされてしまったが。その”愛”という言葉に関して工藤さんは以下のようにお書きである。
                  ところが年齢とともに、時代に日本人には愛という言葉より「慈悲」「慈愛」の方に親和性があるのではないだろうかと思うようになってきた。「石の文化と木の文化」の譬えが適切かどうかはわからないが、日本人の使う「愛」という言葉の中身には柔らかさ温かさが含まれているような気がする。つまり、西洋人の使う「愛」といいう言葉に含まれる明確さ、強さ、激しさが内奥に感じるのである。日本人の使っている「愛」(love)は「好き」(like)というニュアンスに近いのではないだろうか。(同書 pp.95₋96)
                   いつのころからか、恐らく、明治のころから、西洋文明とキリスト教の到来とともに、愛はき良いもの、柔らかいもの、温かいものとしての積極的な読み替えが我が国において行われ、そうでなければならないという形で、ギリシア哲学やギリシア思想を背景とするキリスト教というフィルターを通してヒューマニズムでサニタイズされた結果、本来、聖書の持っている愛のどろどろしたような部分が、きれいさっぱりサニタイズされてしまったのではないか、と思っている。

                   そもそも、聖四文字YHWHなる方は、ご自身について次のようにイスラエル人にお語りである。
                  【口語訳聖書】出エジプト記
                   20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。
                   20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
                   20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
                   20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
                   20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
                   20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
                   聖書の神は、サニタイズされた愛の神ではなく、激情の方であり、修造とは比較にならない程濃い方なのである。現代の日本人には暑苦しすぎる方であり、まぁ、古代仏教の方からすれば、「だから苦に陥るのである」といわれても仕方がないほど、激情型のご性質をお持ちなのである。まぁ、時につらいことはあるとは思うが。


                  シジミをとるために冷たい水の中でちょうどいい感じの修造君

                   なお、熱いといっても、個人的には、松岡修造氏的な、こういう根性論は大嫌いである。問題の根本的解決にならないことがあるし、これが特攻作戦というろくでもない計画、精神論で何とか現地でせよという大本営の無謀な作戦参謀の作戦立案につながり、多くの資源と人命を奪ったからであるが。

                   また、本省の最後の工藤さんの指摘が痛い。
                   私はこの山浦氏の、日本人のメンタリティに「愛という概念はなじまないのではないか」という指摘は、「信仰による人間疎外」というテーマを考えるとき、ないがしろに出来ない視点を提供してくれているように思う。というのは、キリスト教は愛の宗教であると強調されるあまり、愛の共同体と思って近づいたものの、非常な仕打ちを受けて苦々しい思いでそこを去った人々が決してすくなっくないと思うからである。換言すれば、人は愛(love)によって受け入れられると思ってキリスト者、あるいは教会に近づいたのに、そこにあったのは愛とは名ばかりの支配、干渉、さばき、争いの支配する世界であったという悲劇があまたあったのではないだろうか。
                   ”愛”という言葉の吟味が必要な気がする。(同書 pp.97₋98)
                   キリスト教は、愛の共同体を確かに語る。しかし、日本で一般に普及している愛は、19世紀に日本にアメリカから伝わったヒューマニズムというフィルターを通した愛として普及しているのであり、また、キリスト教はそれを語ってきた部分がある。聖書の言う根本的な愛の理解、とりわけ、ヘブライ的な愛の理解を十分に持たないまま語ってきたのではないか。まぁ、これは、キリスト教側の問題は多いにせよ、同じ語が実に多様な意味を持つ現代社会の問題であるとは思うが。

                   しかし、一糸乱れぬ行進を理想とするようなことを教会が言うようになったら個人的にはお終いであると思っている。なぜならば、それは本来人間的な理想という神ならぬものを神としているに近いのではないか、と思っているからであるが。

                   まだまだ続く




                  評価:
                  工藤 信夫
                  いのちのことば社
                  ¥ 1,296
                  (2015-06-05)
                  コメント:絶賛おすすめ中

                  評価:
                  N. T. Wright
                  HarperOne
                  ¥ 2,414
                  (2015-01-06)
                  コメント:良い。

                  2015.07.08 Wednesday

                  工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その7

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                     本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「いくつかの提言」についてである。これまでの主張の上に立ち、工藤さんは実務家(医師)としていくつかの提言をしておられる。それを今回と次回でご紹介したい。

                    On the Job Training....日本の職業訓練
                     司牧の訓練に関して、工藤さんは次のようなご指摘をなさっている。
                     牧師にふさわしからざる人々が牧解の現場に出て、そこに混乱に陥れるという問題が出現する。この点カトリックは一人の司祭を育てるのに10年をかけるという話を耳にしたことがある。その間厳しい訓練と学びが課せられるのである。せいぜい2,3年の神学教育を受け、しかもさしたる卒後教育のシステムもなく、在野に放り出された人物が、いくばくかの神学、聖書の知識を積んだからといって、人の一生にかかわる牧会に携わることに大きな限界があるのは目に見えているだろう。(真実の福音を求めて p.101)
                     カトリックの司祭の方何人かとお話しした経験から言えば、カトリックの司祭になろうとされる方の中には、実際にはいろんな方がおられるようである。司祭としての訓練の中で、その人自身を見極め、その人自身も、その周辺の人々もその方の特徴を見極め、かなりの選別がされるようである。そして司祭になってからも、かなりのモニタリングが行われ、その中で選別されていくようである。そのようなスクリーニングと職分の割り当てをしていったとしても、いろいろ不祥事が起きる訳で、実に厄介だと思う。

                     工藤さんが指摘されるように、アメリカや日本などのように、確かに2,3年の神学教育だけでは不十分だと思うし、自己教育、生涯教育と自己研さんをきちんとしておかないと、頭脳と思考の化石化が進み、社会が変化してしまったことに追随できず、不適合を起こすような側面も多いと思う。

                     何、この生涯教育と自己研さんがないことによる問題は、牧師だけで起きる訳ではなく、通常の社会人においても起きる。

                     ご高齢の方が現役を退いてしまって、現場の環境や現場の実際を把握することなく、ご自身が現役であったころの数年前、十数年前、数十年前の前提と状況を前提にお話しされると、実に滑稽なことが起きるのである。アイゼンハワー大統領を推薦するAbraham Simpson氏のように。


                    アイゼンハワー大統領を未だに支持するAbraham Simpson氏

                     要は、牧師の社会人経験の有無に問題があるのではなく、その人が社会人として、社会の現状に関して情報収集し、そのことに思いを巡らせているかどうかの方がよほど重要なのである。そして、その司牧と教会員がおかれた時代の社会や環境状況に思いを巡らせながら、聖書に取り組む、神学するといってもよいかもしれないが、それができるかどうかで、それを牧師の勤労経験の有無にすり替えてはいかんのだろうと思う。

                     大学は数年前から、FDということで、漸く教員についても研修が始まったが、それまでは、研修はなく、関心のある教員個人が個人的にするものであって、全体として質的向上を図るというような取組みは、最近始まったことであると言える。

                     各個別教派でも、このような研修制度をとっておられるところもあるだろうが、案外そういう機会は少ないのかもしれないし、これまで距離が障壁になって、こういう研修制度自体が少ないのかもしれない。そのあたりの事に挑戦されておられるネット時代の前衛となってこられた司牧の方々はおられる。

                     まぁ、ローマ教皇のツィートにはびっくりすることが多いが。カッティングエッジ技術のうまい活用法ではないか、と思っている。 


                    いろんな意味で、Cutting Edge lol

                    教会の失敗学
                     失敗学ということがある。技術は、この失敗学の学問である。過去の失敗に学び、その問題の構造を明らかにし、そして、その問題を防止し、同じ問題が繰り返されないようにするのが、一種の工学的発想である。その意味で、完全ということはないことは、工学は前提として持っていると言えよう。

                     例えば、以下の動画で紹介したタコマ橋(ワシントン州タコマ市)の場合、周波数と橋の共振の問題が発生して落橋した。


                    タコマ橋落橋の決定的瞬間

                    こういう問題が発覚することで、その後の海峡橋や長大橋梁では、周波数帯の違う部材の複数化などいくつかの対策が打たれている。このあたりは明石海峡大橋などでもきちんと反映されている。このあたりは、長大という企業がノウハウをかなりお持ちである。
                     ところが(牧会事例研究会が始まってから)40年たった今でも、こうした方面の研究会はあまり知られていないようであるし、実際的な指導者も皆無といってよいのではないか、と思われる。しかし私が心配するのは何よりもそういう学び会に足を運ぶ牧師、教職が極めて少ないということである。
                     そこで私が思ったことは、牧会者の閉鎖性という問題である。それぞれの牧会者は、日ごとその牧会に悩み苦しんでいるはずであろうから、他に助けを求めてよいはずであるが、どういうわけか、自分の失敗や落ち度をつかれたり、失敗から謙虚に学ぼうとしたりしない傾向があるような気がする。「自己開示性」が乏しいらしいのである。(pp.101₋102)
                     自己開示性が乏しいということの背景に、個人的には繁栄の神学とか、自己義認化が関わっているような気がする。そして、そのかなりかなり先の背景として、義認の教理があるような気がするのである。

                     教会が義の場所である、教会が美しい場所であるべきである、という思い込みがこのような閉鎖性を生むのではないか、と思うのである。そして、牧会者にとっても、義の取次者あるいは紹介者に過ぎない自らが義でなければならないという思い込みが日本という文化コンテキストにおいて、ある面、暗黙の裡に想定されているからかもしれない。

                     その結果、失敗はない、と強弁したり、失敗した時に、うまくいかないから、また今度の機会に、とはならない側面につながったりするのだろうと思う。そして、新しいことに心を閉ざし、精神的な閉鎖性を持つのであろう。このことに関しては、厳しい物言いになるとは思うが(個人的には司牧の方を応援したいとは思っているので)、工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その5で指摘した閉鎖性の問題と深いところではつながりがあると思っている。

                    万能特効薬としての聖句切り取りと祈り

                     確かに聖書には、様々な神の知恵が示されている。しかし、それはコンテキスト(物語)といってもよいとは思うが、中で示されている神の知恵であり、それを切り取り、その一部のみを示してしまうと、もともとの意味をなさなくなるのではないか、と思っている。そのことに関して離婚問題で司牧に相談した人が絶望の淵に陥れられた、というか、唖然として開いた口が塞がらない状態に陥れられた方の例をとりながら、工藤さんはご説明である。

                     私はここ数年、かなり深刻な熟年夫婦の離婚の相談にかかわってきたが、最後の”とりで”と思って相談に行った教会の指導者の多くが、「祈っていますか?主に従うようにご主人に従いなさい」といった内容のアドバイスをくれるだけであったということを耳にした。私のところに来た人はそのおめでたさに「話にもならない」と一笑に付したが、宗教者の現実認識は時代錯誤も甚だしいものが少なくない。(同書 p.104)
                     一つの例を示そう。以下の図1をご覧になって、この絵の良さがわかるであろうか。


                    図1 ある部分の拡大図

                     もちろん、これだけでも、この絵画の画家の技量の確かさは明らかであろう。だって、この画像はツィツィアーノの工房の作品の一部であるから。されこうべを抱える打ちひしがれた女性の画像である。これだけを見たら、基本的には、人生の死にまつわる虚無感を描いた作品であろうと思われるかもしれない。しかし、この部分から、この絵の全体部分の絵を知らずにこのツィツィアーノ工房の作品が何に関して書いた絵画であるのかと想像できるだろうか。

                     しかし、本記事の最下部の図2を見てもらいたい。

                     ツィツィアーノの作品は、幼児から始まり、成人になり、そして、後に死していく姿を描いた、人生というものの構造を描いた作品なのである。そして、誕生付近と死のシーンが近づけられていることで、この両者が案外近いのではないかという中世人の死生観理解が表れている絵になっている。

                     これをもし、上の図1だけで議論したら、どれだけおかしいことになるかはわかるであろう。その意味で、全体性というものが案外重要であるが、我々は、分析的思考に慣れ過ぎて着るために、このような細部だけを取り出して、議論して、全体であると理解する傾向はあると思う。

                     それが悪く出ると、聖書のある部分だけをある状態に当てはめ、あたかもそれだけかのような物言いにつながる可能性が十分にある。つまり、離婚を考えているという人には、この聖句、病気の方には、この聖句、悩みの中にある人にはこの聖句、家族のことで考えている人にはこの聖句と聖句の切り売りをして、あたかもそれが聖書からの教えであるかのように言う人々も中にはおられる。典型的には、我が家にご訪問をくどくいただいているエホバたんの皆さんは、最近それを手書きのメモでくださるから、ご苦労なことで、と感謝しつつ拝読させていただいている。わが身を振り返るのには、非常に良い鏡像を得た感じではある。

                    教会内パワハラ問題
                     教会内パワハラの問題は多数あることは、様々なブログを見れば明らかである。その昔、もう少し真面目にカルト研究をしていた時に、アングリカンコミュニオンの某教区を巡る諸問題やAERAで取り上げられた諸問題、このブログでも何回かご紹介しているI don't know who I amのブログでご紹介されている内容や、いろいろ話題になった茨城県県南にあった教会、京都にあったプロテスタント教会、浜松の方のカルト化した教会の問題、北海道の方のカルト化した教会の問題、沖縄のカルト化した教会の問題、など、いろいろ情報を集め、なぜ、このような問題が起きるのか、ということに思いをめぐらしたこともある。結局、一般化された答えはなく、あるとすれば、キリスト者になったからといって、神の前に書けある存在である問題(罪の問題)からは誰一人としてこの世界にあっては結局のがれえないということ位である。
                     また、ここ3、4年の間に、あちこちでパワーハラスメントの問題が大きな社会問題となってきているが、私の学び会に参加している人が、最近DVのシェルターを立ち上げたところ、宗教者の家庭でもこういう問題が少なくないことを知ったという。ところが困ったことにこうした問題に対応する窓口も相談機関もほとん どないというようなのっである。そしてもっと悩ましいことは、そういう問題があることを教団の外部に知られたくないとの意識が強いらしいということである。「罪の隠避は福音的でない」という発言はキリスト教界の閉鎖性、密室性の欠陥を素直に認めた上での発言であろうし、森和弘氏は第3者機関の指導を提案しておられる。(p.104)
                     皇室もストレスフルな世界であるようだが、それに劣らず、牧会社の課程もストレスフルであることは、Officeふじかけ さまのご指摘やMinistryの特集号などでも指摘されているところであり、そして、その問題は外部に漏れることがなく、内部で処理しそこなった挙句、問題が大きくなって社会的に取り上げられ、AERAで紹介された牧師のハラスメント事案のような形であると言える。カトリックの司祭のパワハラ、セクハラ事案に関しては、アメリカのカトリック教会を大激震させ、大きな影響が、カトリック関係者の中に出た。カリフォルニア州サンタ・バーバラのシスターの一部には、住んでいた修道院の土地を教会が賠償のために売り払ってしまったために、移転された方もおられたほどである。

                     確かに森和弘司祭が「罪の隠避は、福音的でない」というご指摘は、重要だろうと思う。隠避してしまえば、結局罪を抱え続けることになるので、本人も解放されないし、被害者も解放されないからである。このあたりは、告解の伝統を持つキリスト教の一伝統であるが故のこと、と思うし、そういう伝統を持たない福音派の一部が、福音的(どういう意味でか、は別として)であろうとすることにこだわり、宣教論的なコストベネフィット分析の結果、隠避しようとする傾向とはずいぶん違うなぁ、と感じた。まぁ、何でもかんでもあからさまにすればよいというものではないが、内部の問題は内部できちんとカタをつける、というのがまっとうな世間様の感覚だとは思っている。



                    図2 全体画像

                     まだまだ続く。





                    評価:
                    工藤 信夫
                    いのちのことば社
                    ¥ 1,296
                    (2015-06-05)
                    コメント:よい、

                    評価:
                    畑村 洋太郎
                    講談社
                    ¥ 596
                    (2005-04-15)
                    コメント:お勧めする。

                    評価:
                    戸部 良一,寺本 義也,鎌田 伸一,杉之尾 孝生,村井 友秀,野中 郁次郎
                    中央公論社
                    ¥ 823
                    (1991-08)
                    コメント:戦史研究を事例とした失敗学的考察。一読をお勧めする。今だからこそ。ひどい目に合うのは、結局民主主義体制の中で、意思決定にかかわったとされる大衆だったりはする。

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                    2015.07.20 Monday

                    工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その8

                    0
                       
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                       本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「いくつかの提言」から後半についてである。

                      牧師のいくつかのタイプ

                       牧師のタイプということで、いくつかのタイプがあることを工藤さんは、藤木正三著 『生かされて生きる』(いのちのことば社刊)から次のような引用をしておられる。現物がないので、以下はミーちゃんはーちゃんによる孫引きである。

                       職人型と言うのは、職業としての牧師に迷いがなく、伝道、教会のプロとして教会にかかわることに誇りと責任を持っていてい、きちんと処理していく、信徒の側から言うと、一番安心してついて行けるタイプです。
                       学者型と言うのは、信仰を相対的・理性的に批判しうる思考の幅を持ちながら、神学的にしっかり信仰を理解して、教会を導くタイプ。信徒の側から言うと勉強させられながらついて行くタイプです。この二つのタイプは両立します。
                       芸術家型というのは、信仰に迷いが在り、牧師である事にも迷いが在り、それを告白する場として教会を生きているタイプ。信徒の側から言うと、信じるというよりは、生きることを考えさせられて、生かされている存在としての自分に深まって行くことを促されるタイプです(藤木著『生かされて生きる』pp.52-53 『真実の福音を求めて』pp.105-106)
                       昔のキリスト教関係者には、植村正久にしても、賀川豊彦にしても、中田重治にしても、どちらかというと、親分肌というか、職人型のタイプが結構多いような気がする。その意味で、腕まくりしながら演説ぶっているというか、説教ガンガンやっているという雰囲気がある。まぁ、当時の時代背景から考えて、学生や失業者など暇を持てあましている大量の人々がいたので、こういう説教パターンは案外受けたのかもしれない。まぁ、この時代の説教パターンが結構いまだに残っている教会もあるかもしれない。なお、賀川豊彦先輩は、学者肌でありながらも職人肌の部分もある程度強いと思う。


                      植村正久先輩

                      中田重治先輩

                      賀川豊彦先輩

                       この時代の説教者のうち内村鑑三は、学者肌でありながら、芸術家肌である様な気がする。このタイプの説教者を何人か存じ上げているが、これらの方々は、非常にナイーブなちょっと線が細い方が多いような気がする。そういう牧師さんたちの説教はなかなか魅力的なものがある。

                       ミーちゃんはーちゃんは牧師ではないが、説教は時々するので、その意味で、完全にキリスト者としては学者型の人間であるといってよいだろう。まぁ、世俗の仕事が一応学者の端くれでもあるので、そうである可能性が高い。

                       この辺の牧会者の分類は議論の前提でもあるので、ここに関しては、あぁ、何となくそうかなぁ、と思う、にとどめたい。

                      疎外問題が起きやすいタイプ

                       工藤さんが述べておられる一種の教会内疎外の様な課題を抱えることが多いタイプの牧会者とはどのような人々であろうか。
                       さて、このように三つに分けた場合、学者タイプや芸術家タイプの教会では本書が問題にしているような表だった疎外は比較的少ないのではないかと思われる。(『真実の福音を求めて』p.106)

                       『真実の福音を求めて』の著者が問題にしているような親分肌、職人気質だと、問題を生むというのは、わかる気がする。基本、親分肌・職人肌のリーダーで有名な人物だと、立志伝中の人物でもあることも多く、創業期の本田宗一郎氏などのように一代で後の大規模な組織を形成するような人物であるから、まぁ、めちゃくちゃな部分はある。気に入らないことがあると、すぐげんこつが出るというか、スパナ持って社員を追い回したりとかである。ある面道理ではないから、困るのだ。牧会者が職人肌だとだめだとは言わない。しかし、職人肌だと、パッションが優先するので、学者肌のように話し合いができない人もいたりはするので、あわない人が出てくるのも確かではある。


                      学者肌の司牧の問題

                       ただ、学者肌の司牧の問題は、感情的な対立ではなく、神学上や学問上、聖書理解の問題となりやすいことを次のような文章でご指摘である。
                       学者タイプの教会には、教義をめぐっての論争、分裂が怒るかもしれないが、対人関係のトラブルは少ないかもしれない。というのは、っこういうタイプの牧師の関心は学問におかれているため、人間に対する関心は二義的なものになるかもしれないからである。(中略)と言ってもこのタイプの教会は、正論やその正統性をめぐっての議論に発展すれば、その内実たるや寒々としたものになる恐れがある。トゥルニエは『生の冒険』(ヨルダン社)の中で「神の名において語ると称する人々の争いほどしつこいものはない」と明言している(同書 p.223)
                       これにはミーちゃんはーちゃんとしても多々思い当たる節がある。というのは、学者肌の人間にとって、いい加減なことを言われること、本当に理解していない可能性がある方が思い付きやその場でなんの深い考えもなく、物を言う人のその一時しのぎのような、あるいは深い理解に基づかない安易な発言に我慢できないのだ。普段、自分自身が、深く思いを巡らせていることがぞんざいに扱われたような気がして、それに耐えられないので、言わなきゃいいのに、言ってしまいたくなる、のではある。このことから、正統性を巡る議論に発展しやすく、そして、「内実たるや寒々としたものになる」という議論をやってしまうのである。

                       学問の世界は、この理解を巡る研ぎ澄まされた刃でチャンチャンバラバラのチャンバラをやる世界であることが多く(特に欧米系ではそうである 朝まで生○○なんてのはおままごとに見える世界であり、レベルが低く見えてしまう世界であり、素人が手出しすると怪我しかねないのだが)、つい遠慮会釈なくそのチャンバラの技術をお見せしてしまうのである。そして、議論の切れをよせばいいのについ見せてしまうのである。つい本気が出てしまうのである。まぁ、それは学者としての善意でもある。

                       そのあたりは、映画『大いなる陰謀』で、ロバート・レッドフォード扮する大学人とあほなお気楽脳天気な学生の対話などによく表れている。大学人の悪い癖は、自分の興味ある関心はやたらと詳しいが、それ以外はどうでもいい、と思っているところである。その辺が非常につらいところではある。


                      映画 大いなる陰謀 予告編

                      職人肌の牧師の問題
                       職人肌の問題は、ある面で、教会に関与することをこまかなことまで、一生懸命やって、そして、教会運営を大事にしておられるように思われる。ところがこの熱心さや個のかかわりが案外問題を生むのではないか、と工藤先生はお書きである。
                       問題は、職人タイプの牧師である。『生かされて生きる』に出ているような、「職業としての牧師に迷いがなく、伝道、教会のプロとして教会にかかわることに誇りと責任を持っていて、きちんと処理していく、信徒の側から言うと、一番安心してついて行ける」と言えば聞こえはいいが、実際は経営者であり、信徒管理、教会運営とい言う大きな問題をうちにはらんでいる。
                       その一つは、牧会という名の干渉である。私がこのことに気づいたのには、二つの忘れがたいエピソードがある。(『真実の福音を求めて』p.107)
                       なんでも皆さんのためにやってしまう司牧は、ある面、信徒の成長の機会と自由を奪ってしまい、信徒を依存体質にもっていく部分はあるかもしれないと思う。ある面、神に信頼して生きるという信徒の冒険の機会を奪ってしまうのではないか、と思うのである。

                       ここで、経営者的要素、信徒管理、教会運営という語が牧会という語の代わりに出てくる。イエスは、少なくとも群衆を相手にしたし、その管理なんかは全く意に介さず、あまりに長時間一緒にいるのを見て、あぁ、この人たちはおなかがすいているので、弟子たちに何か食べさせてやりなさい、という程度のまぁ、ある面無神経男的な発言が結構見られる。そして、だれが来ているのか、だれが来ていないのか、ということもああ力にしていなかったように思う。まぁ、神であるがゆえに、それくらいのことはやろうと思えばできたはずだし、いとも容易に人ひとりに注目をなされていたとは思うが、そんなことはおくびにお出さず、過ごしておられる姿のように、福音書の中で示されたイエスを見ていると思えてしまう。子どもが泣いていても、騒いでいても、それを見て怒るでもなく、子供たちを追い出そうとした弟子たちに、「それって、どうなの?」とニコニコ笑いながら言っておられるような雰囲気がある。

                       ここで引用した部分の最後の部分の続きに実に印象的なエピソードがあるのだが、それは、是非、『真実の福音を求めて』をお買い上げいただき、ご清覧頂けたら、と思う。ぜひそうされることをお勧めいたします。

                      まだまだ続く




                       
                      評価:
                      工藤 信夫
                      いのちのことば社
                      ¥ 1,296
                      (2015-06-05)
                      コメント:大絶賛、おすすめしておる。

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