2015.05.23 Saturday

南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(1)

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     Smith先生という南長老教会の方の講演会に行ってきた記録である。この講演シリーズでは、アメリカのカルヴィニズムや改革派神学の歴史をふれる、ということであった。K学院長先生のたってのお願いもあり、ここで公開する。

    アメリカ南部における改革派の定着前史

     これを考える際に、フランス植民地とリフォームド信仰(ユグノー)の存在から考えたい。

     フランスにおける1562年の宗教戦争と弾圧があったが、この弾圧の2週間前にジャン・ルボーが新大陸に出版し、フロリダのSt John川の踏査など、ティミチュアインディアンの居住地域を調査した。このティミチュア族は、身体的にも整っていて、礼儀深い人々であったと記録されている。


    米国国会議事堂に描かれたティミチュアン族の姿とその村落


     現在のジャクソンビルのキャロライン砦が設置されたが、フランス統治は短期間で終了した。この砦などをスペイン軍が攻撃し、1560年には、踏査隊も捕獲された。同地を守るフランスの海軍軍船もハリケーンで難破して投降している。この際フランス人捕虜は、人間的に取り扱われるものと考えられていた。しかし、スペイン舞台は、プロテスタント信仰を棄てないものを虐殺した。ほぼ全員殺害。300人以上が虐殺された。

     St Augstineの南で、虐殺された、このことから、この地は、Fort Matanzasと呼ばれたが、スペイン語で虐殺砦とおいう意味である。この事件に端を発する、国際間問題が新大陸経営に関与をさせることとなる。フロリダの出来事は、ヨーロッパ諸国の争いでもなく、政府の存在意義の原則とも言えない。宗教的な背景があったことは看過されてはならないだろう。

    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3d/Ft_Matanzas_2008.JPG
    Fort Matanzas

    北部での改革派植民地
     北アメリカでの真の宗教と反キリストの宗教の併存が継続した。フランスの改革派共同体の主要メンバーは、ルイ14世によるナント勅令で祖国を追われたプロテスタントたちであった。現在のニューヨークやチャールストンはユーグノーの受容地となった。同時代の改革長老派の移植者としては、ポール・ルベールや初代連邦裁判所長官 John Jayなどがいた。

     フロリダから50年以上経過し、改革長老派によるバージニア州のジェームスタウンに英国植民地ができる。この英国植民地は宗教的にはアングリカン的であった。Via Media 中道を維持した。特に、アングリカンにおける39か条は、改革派神学の痕跡を認めることが出来よう。合法的な宗教として、監督教会ではあったが、ノンコーフォミストはアメリカでは、国家による干渉(おそらく本国英国政府からの干渉)から守られることを期待した。最初の牧師とその後継者は、ケンブリッジ大の卒業生、ピューリタニズムのひとであり、ウィリアム・ウィティカー及びアレクザンダー・ウィテカー父子であり、1611年到着している。




    ウィリアム ウィテカー


    画面中央左の白い服着て立っている人がアレクサンダーウィテカー

    Forest Whitaker
    ウィテカーというとこの人が思い浮かんだ。名バイブレーヤー

     この2名は、バージニアにおける使徒としての高評価を得た。1620年にプリマス植民地が形成された。マサチューセッツに到着した、ピルグリムたちの人たちは、改革派信仰であった。この人たちは、分離主義者で、当時、英国国教会は、腐敗しきっていて、改革できない程であると考えており、英国国教会にとどまるのは、罪ですらあると思っていた。JamesI世にとっては、これらの分離主義者は頭痛の種であり、ピューリタンたちを圧迫したが、彼らの一部はオランダに逃れていた。JamesI世は植民地経営の道具として、これらのピューリタンを使うことにし、植民地建設を容認した。メイフラワー号盟約を締結した10週間後、ケープコッドに到着したが、この到着地は、当初の目的地より、北側に上陸することとなった。この1611年11月 11日に、新世界における政府の樹立の契機となった、メイフラワー盟約を締結している。

    James I of England by Daniel Mytens.jpg
    James I世


    再現されたメイフラワー号

     自己契約による政府の樹立は他の植民地に広がる。ピルグリムたちの到達者の内、最初の冬を過ごした後、60名しか生き残らなかった。このような経験から、ピルグリムの勇気や忍耐がアメリカの精神性、やればできるという自信ということにつながっている。このピルグリムの人々は、実際的な人々であった。

     ピルグリムたちの礼拝論は、良心Concious、一種の理性に基づく礼拝であり、単純にして、聖書に基盤を置く礼拝であった。この無楽器での詩篇歌による賛美からなっていた。安息日だけを休日とサンクスギビングデーのみであった。


    The Simpsonsに描かれたThanks Giving

     イングランドを脱出し、アメリカに来ることの合法性の理由とその考察という論文がでており、アメリカを植民地化することの合法性が述べられている。Robert Cushmanの合理化の理由としては以下の点がある。

     異教徒の回心が期待できること、土地は、未利用で空地であること、インディアン〔ネイティブアメリカン〕は土地を所有してないし、インディアンの酋長は、土地の利用を許可した。James I世王の土地にいるということではない。
     
     Cushmanにしてみれば、荒れ地を開拓したり、主権を尊重するのは、福音の力と有効性を示すことになる。盲目の未信者たち〔ネイティブアメリカンのことらしい〕に示すことになる福音の力と有効性を示すことになるだろう。プリマスにおける礼拝の純粋性は、ピューリタンによるマサチューセッツデー植民地にも引き継がれていく。
    >>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
    まぁ、当時にしてみれば、そういうことだろうが、個人的には、この論理は、どう見ても自己正当化としか思えない。そもそも、高密居住、集中的土地利用をしてきたヨーロッパ人、とりわけ英国で、ディセンター(分離派)と呼ばれ、信仰上の理由で冷や飯を食ってきた英国人にとってみれば、手つかずの土地が手を広げて、待っていたように見えていて、土地利用に関する文化的仮定の違いに悪乗りした、と今は批判されかねない部分もないわけではないが、当時の人々にそこまでの知識を求めるのは、無理ゲーというものだろうとミーちゃんはーちゃんは思う。

     ピルグリムたちは英国から出奔した人々であるが、ピューリタンたちは、教会の改革を求めていた人々であった。スチュワート朝英国では、その宗教改革は自体は進んでいなかった。1630年ピューリタンたちが、マサチューセツを目指した。11船からなる栴檀で、ジョン・ウィンスロップは、アラベラ号でクリスチャンチャリティを示す船の上での説教をした。そして、マサチューセッツは、丘の上の町となり、ニューイングランドは、古いイングランドの模範となるべきだと説教した。このことは政治家によって用いられることになる。教育への関与などと同様に、世俗化された解釈になって、オリジナルのものとは異なることになった。(このあたりは、森本あんりの反知性主義の冒頭参照)このことから、ピューリタニズムへの挑戦と凋落をみることができるのではないか。理想となる世界はこの地上には存在しないという経験をアメリカはする。

    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/The_Arbella_--_Gov._Winthrop%27s_Flagship,_The_Pioneers%27_Village,_Salem,_Mass..jpg
    アラベラ号

     罪はすべての人々へ、その影響を与える。丘の上の町となるべきピューリタンの植民地建設を目指したニューイングランドでも、うまくいかなくなる。社会の中心部分から問題が発生する。ロジャー・ウィリアムス(ロードアイランド)などが現れ、ピューリタンの正統性、教会国家の関係、幼児洗礼の問題において挑戦するような行動を取った。アン・ハッチンソン(クェーカーではないが関連はあるもの)という異端。インナーライトを主張し、予定論の拒絶をした。なお、彼女と彼女の一族は、ニューヨークでインディアンによって殺害されることになる。

     ピューリタンの子供の問題。2世、3世は信仰上の問題を示した。信仰を持たないものの子供や孫はどうなのか?半信会員制度がスタダードによって始まる。

     聖餐式が、回心させるための手続きとみなされたHalf way Covenantはプロテンタティスティズム上の問題。大覚醒は、この半信会員の反動ではなかったか。それはピューリタンのやり方の再発見とみなされた。セイラムの魔女事件、ピューリタンたちは、大学などで批判された。アーサーミラーの戯曲のクルーシブル。オカルト的な動きがあったし、法的な方法論で問題はあったが、悪魔がこれらのことを用いて、ピューリタン社会を破壊した。1世紀後に19世紀初頭になれば、ピューリタンの子孫は、ユニテリアン化していく。

    http://collegian.morton.edu/wp-content/uploads/2014/03/lisa.jpg
    セイラムの魔女事件を揶揄したThe Simpsonsからのワンシーン。

     中西部のコロニーに目を移していくと、オランダ系改革派、ニューネダーランドとしての植民地に居住することになる。デルマーバ半島からコッド岬の領域であり、代表的な都市としては、ニューアムステルダムであり、現ニューヨーク市である。

    植民地の宗教的風景
     
     英国がオランダ植民地を抑えてから変わる。1664年の降伏文書の中で、オランダ改革派の存在も認められることになる。ドルト会議、カルビニズムの5特質、TULIP 恵の教理とともに、伝統的な改革派教会の秩序を維持した。長老主義による教会政治がおこなわれた。
     Marylandのスノウヒルのフランシスマッカニー(アイルランド長老教会)がせっちされ、改革長老教会としては、1706年に最初のカンファレンスが開かれ、1717にシノッドが経営された。

     当時の長老教会の問題は、説教免許なしに説教することであった。1693年ニューヨークでエピスコバル教会のマカミン(?)が逮捕される。この裁判で無罪となり、First Amendment とは直接は関係しないものの、宗教上の自由の根拠となる判例がでる。

     その後、スコットランドとスコットアイリッシュの移民が大量に押しかける時期を迎え、貧しい膨大な移民による問題が発生し、植民地に点在する形で展開していく。貧しさの中での、物質主義への逃避が起き、牧師が少なく、人格的にも学識的にも問題がある人々を、牧師として受け入れないといけなかった。改革長老派は、それを防止しようとした。

     1710年ウェールズ人の開拓地で説教していた人物がいたが、この人物には説教免許がないため、罷免され、結果として、按手されたのは1715年であった。また、実際に懲戒ケースとなった事例も多くあり、懲戒案件は、牧師も信徒にもあった。結婚の問題でも、相手が少ない孤立した植民地での問題もあった。生みの苦しみのようなものであった。

    大覚醒(リバイバル)について

     第1次覚醒運動、第2次覚醒運動にふれたい。このようなリバイバルのパターンは教会史に繰り返し見られる。信徒であっても異端化は見られる場合がある。これは、人間の罪の結果であろう。エレミヤが書いたように、回復の道へと導かれる。リバイバルは18世紀初頭にニューイングランドのMiddleコロニーで見られた。ドイツ改革派のアムステルダム中会で按手を受けた牧師のフリーハウゼン牧師が嚆矢である。

     聴衆に真摯な信仰よりも、正当な信仰告白にのみ依存している人々にそれでよいのか、と挑戦した。この系譜にある人々は、長老教会では、ギルバート・テナント 英国系では、ジョージ・ホィットフィールド、 会衆派ではジョナサン・エドワーズである。

    ざっと当時のアメリカの雰囲気もよくわかるのでお勧め

     ホィットフィールドは、英国での宣教で知られていて、野外説教で高名である。アメリカに来て、アメリカとしての一体性、統一性をもたらそうとした。アメリカ人とは何かをということの形成に一定の役割を果たした。ジョナサン・エドワーズの「怒れる神の手の中にある罪びとたち」という説教は、非常に詳細な描写による譬えは忘れられないものである。

     改革派の中にも偽善者的人物がいたし、第1次大覚醒は神からのリバイバルであったろう。とはいえ、感情的な行き過ぎや例外的な問題もあった(この辺は 森本あんり氏の『反知性主義』(最下部) が参考になろう)。礼拝、教会政治。教会人と信徒の間での分裂した。

     この事案をめぐり、改革長老派の多数派は、ニューブランズウィック州の改革長老派の代議員の参加を拒否した。シノッドの権威を助言機関としてシノッドの権威を貶めた、と批判したのである。より具体的には、他の教会への干渉、ニューブランズウィック州の動きと同意しない人々を問題死したと批判し、さらに、神のことばにないことを説教、自分の感情中心であったと批判した。

     この分裂を旧体制派Old Sideと新体制派New Sideの分裂となった。17年間の分離後和解し、再び一つの共同体となった。新派では、牧師の適切さは宗教的な経験による判断によって行われ、それは、学問的や正統的なものではなかった。なお、分離状態にあった時期、両方とも成長した。しかし、New Sideでの成長は著しかった。新規到着をしてきた移民を中心として増加したと考える。

     改革派は、教会における影響力を増した。テナントは学校を設立し、それは後のプリンストン神学校であり、プリンストン大学の全身でもある。

     このリバイバルが、アメリカ人であるという意識を醸成することになった。1770年に独立宣言のキーファクトの一つがこのリバイバルである。このリバイバルにおいては、牧師が意識醸成に大きな役割を果たした。革命への支持は、教会でも行われ、英国政府から一方的に与えられた概念への反抗を正当化することになる(まさに、この辺が森本あんり氏の「反知性主義」で見事に描写されている)。暴政への反逆は許されることを示したのである。

     ジョン・ウィザースプーンはアメリカは一つの長老主義者であり、ニュージャージ大学の学長でもあり、愛国的な教育を行った人物である。彼は、独立宣言の署名人の一人であり、独立宣言署名者のうち、唯一の教職者であった。



    ジョン・ウィザースプーン

    http://img.cinemacafe.net/imgs/articlemain/79200.jpg
    ウィザースプーン先生の子孫の一人、リース(個人的にファンなので)

    南北戦争時代を背景にした彼女の出演作

     ジョージ・ワシントン時代のの90%は長老主義者であった。アメリカ独立に長老主義は非常に大きな寄与をした。特に、社会的な地位は重要であった時代であり、そこで一定の社会的地位を持っていた(この辺、森本あんり氏の反知性主義の本の中でのリバー・ランズ・スルーイットのエピソードが面白い)。オハイオ、インディアナなど中西部のフロンティア開発でも一定の役割を果たした。スコッツアイルランド的の長老主義が広がり、訓練された牧師が少なく、講壇に説教者を供給できなかったために、なかなか広がらなかった。

     メソジストやバプティストは、説教者として平信徒をどんどん採用した(この結果、森本あんり氏の本にもあるように、「メソジスト派は、字の読めるバプティスト、バプティスト派は、靴を履かないメソジスト」と揶揄されるほどであったらしい)。その結果、これらの両教派の指数的拡大に比べ、長老教会は大きく数の上での後れを取った。この結果、牧師の要請面での問題に直結する形で、アメリカの神学的特性は、もともとのカルヴァン主義から、アルミニアンへの移行することになる。神中心なものから、人間中心なものへの移行をしていくのではないか。
    >>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
    個人的には、アルミニアンの関係者に知り合いが多いので、「神中心のものから、人間中心なものへ」のくだりは言い過ぎだと思うが、信徒レベルではこういわれても多少仕方がない部分もあるかもしれないとは思う。言うなれば、神のみに重点を置いたカルヴィニズム的なものから、人間側にも多少ウェイトがかかったアルミニアン的な聖書理解、神と人間という料側面を考える神学理解の移行と言った方が正確かもしれない。
     この結果、王権を前提とした社会から民主主義社会への移行があり、そして、第1次大覚醒があって、アメリカの社会構成が変質してきた。19世紀のある歴史家は、メソジズムがアメリカに与えた影響について、キリスト教が内的なもの、心理的や感情的なものになってきた、と指摘している。内側に向かうことは、霊的な暗がりが発生し、クリスチャン世界での神の国がこの世で実現することは考えられない。神権政治的な背景における改革主義的な生活要素から、内生的な敬虔主義的なものになり、ローマの修道院主義的なものへキリスト教が変質していく。

    >>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
     まぁ、メソジスト的なものに変質した以上、そもそもの出発点のジョン・ウェスレー先輩のおっしゃったことが独り歩きしたメソジスト的な世界が繰り広げられやすい以上、この傾向はいたしかたないもの、と思われる。しかし、ローマの修道院主義とは、ちょっとひどいなぁ、と思った。修道院ってひとくくりにできないほど多様だし、霊性が、修道会ごとに違うんのでねぇ。
     また、アルミニアンが増えたから、アメリカで民主制へ移行というのも、ちょっと違うかなぁ、と思う。そこまで言うなら、独立運動にかかわった長老主義者のことは問題にされることになりそうだし。
     第2次覚醒運動は、19世紀初期におきた。Camp Meetingを中心に起き、バーティンストーンによる長老教会でのキャンプでおきたものである。このキャンプミーティング自体、スコッティッシュコミュニオンに由来を持つものである。この時には、犬のような鳴き声、大きな笑い声、身体的な表現がみられた。バプティストやメソジストのようなところで、このリバイバルは、さらに進展する。長老派の中では、贖罪の神学に影響した。チャールズ・フィニー(この方については『森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(10)』や『福音派が生まれたころの世界むかし話(4)』を参照)のような牧師がカルバン主義を否定することになった。人間の意思による信仰ということが強まってきたのではないか。時代的には1820-1830年に相当する。


    第2次大覚醒当時のキャンプミーティング
    犬が手前にいるのは犬のような鳴き声のメタファー、下着姿で祈る女性が描かれている。

    まとめ 改革派の歴史に学ぶこと


     本日の改革長老派の歴史に学ぶこととしては、3つのテーマがあるだろう。 
    1)    殉教と迫害
    2)    摂理の神秘
    3)    宣教的な宣言

    殉教と迫害
     この代表例は、ユグノーたちの犠牲である。改革主義に対する憎しみ(個人的には、カトリックに対する憎しみをかなりご講演中時折感じましたが)は、北米だけでなく大陸でもあった。北米では、改革長老派の寛容が逆に働いていたし、伝統的モラルに対する反対もあったし、罰金を科せられる例もある。将来投獄されるような状況もそれほど先でない将来にあるかもしれない(再臨論にはまっている人からしたら、艱難後再臨説か、と思ってしまった)。

    摂理の神秘
     ピューリタンで始まったが、下降線をたどるばかりでしかなかったように見える。丘の上の町の光がなぜ消えたのだろうか。なぜ、信仰を表明できないのか。なぜかはわかない。神の神秘の中で、神の怒りが落ちるものへと変わってしまった。
     しかし、神は、信仰者を天にふさわしいもに作り替えられる。ヘブル人への手紙11章で示された殉教者は、神の究極の約束や勝利を受けてない。新約的なキリスト者には、反対は常にあるものだし、困難な道であることはそもそも言われていることである。
     アメリカの長老派は(そして日本の長老派も)、パウロのように、言わなければならない。失望すべきではないし、われわれは責められており、踏みつぶされられており、見捨てられているが、滅ぼされない、と。神の手の中にある栄光にあるのではないか、長老派が神の栄光を作り出すのではない(これやったら、神になっちゃいますもんね)。

    宣教的な働き
     Calvinがなくなった翌年フランスのシャーロット砦事件が起きている。熱心さとやさしさのゆえに正統的な教えを維持できなくなる場合がある。Old Schoolと New Schoolの分裂で見られる。また、後年リベラリズムが南北の長老派の主流に影響したことを見ることができよう。
    >>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
     この講師のSmith先生にとっては、リベラリズムは天敵のようでした。ここまで嫌わんでもいいじゃないか、とは正直思いました。

     伝道的なエンジンとして、改革派の信仰があった。改革長老派は、伝道的でないとされるが、常に最前線にあって働いてきた。
    >>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
     最前線にあって働いてきたけども、結局やり方が悪くて失敗しました、ということのように聞こえました。まぁ、この辺、米国社会における社会的階級や人種的な関係もあるので、一概には言いにくいが、基本、改革長老派、コーカシア系アメリカ人のキリスト教であったという側面はあろう。しかし、この講師のSmith先生は、Deep SouthのCity Centreの、コーカシア系の「やさしい、柔和な女、すなわち柔和で、やさしく、足の裏を土に付けようともしない者」(申命記 28:56)なら、入って行かないような地域で伝道活動されている方としての矜持からのご発言と理解した。
     改革長老主義は民族的な多様性とユニティをつなぐ要因となりうる。21世紀において、エスニシティを言う文化歴史学は、気候要件と地理的要因が歴史の要因となるであろうと主張しているが、民族的気候的地理的要因であるかもしれないが、それとともに、知的や宗教的要因が歴史のカギではないだろうか。
     現在まで、改革長老派は、イタリア人やユダヤ人への伝道、ヒスパニック、フィリピン人、スーダン人、韓国人、中国人、日本人、開拓地とは違った形であるが、御子の犠牲を中心として語っている。これが、改革派信仰の物語を作っているのではないだろうか。

     なお、以上の速記録は、当日参加した際の現場でのノートのみに基づいているので、ありうべき過誤は、ミーちゃんはーちゃんにあることは、付言しておく。

    感想
     これ、ある神学校の神学教育の一環として行われたのであるが、参加者でこの講義をどこまで楽しめたか、というとかなり疑問ではないか、と思う。この記事の以下の部分で紹介する様な日本語で読める基礎的文献を読んでいないと、かなり消化不良を起こしたのではないか、と思う。
     
     アメリカ政治史、アメリカ文化史、アメリカ文学などの講義が大学の文学部系統で実施されているが(ミーちゃんはーちゃんも、明石先生という方のアメリカ史概説を大学時代に受講したことがある)、基本、この種のキリスト教史についてはほとんど触れられないので、キリスト教史的な要素が多大に影響しているにもかかわらず、そこが抜け落ちていることが多く、高等教育機関で学習したものでも、アメリカの実情、アメリカ人の感覚の実層に近いところの理解はできていないのではないか、という思いがある。それは、最近、アメリカ政治史の研究者の会合で発表させてもらった時にも、それは強く感じた。第二次世界大戦は、アメリカという神政国家’Theocracy)と、日本型天皇制神政国家の戦いであったのではないか、とお話しした時、日本人の研究者はきょとんとしてたが、Maine大学とフィリピンのDe La Salle大学の教員には、大受けであった。

    アメリカが亜種のセオクラシーの一種の影響階にあることを示すGod Bless Ameria.


    セリーヌ・ディオンによるUSS Harry S Truman艦上でのGod Bless America

    US Navy 030117-N-9851B-027 The Military Sealift Command ship USNS Spica (T-AFS 9).jpg
    上の歌が歌われたUSS Harry S Truman(ミニッツ級空母)

    Battle flag with red background with the number 75, crossed canon barrels and phrase "Give 'em Hell"
    USS Harry S Trumanの戦闘旗(地獄を食らわせろ、ですって)


     個人的には、講師のSmith氏の主張に全部同意するものではないが、アメリカを理解するために、このような宗教史に関しては、アメリカ史、アメリカ政治、アメリカ文学等アメリカ学関係をする高等教育機関では触れられるべし、と思っている。





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    コメント:絶賛お勧めしています。

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    コメント:初期植民地の宗教事情を知るために重要。

    評価:
    森本 あんり
    ¥ 1,836
    (2006-05)
    コメント:良い。アメリカ史とアメリカキリスト教史を概観できる薄いけれども重要な本。入門としては最適

    2015.05.27 Wednesday

    南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(2)

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        前回に引き続き、南長老の歴史に関するSmith先生の講演会の記録を載せたい。今日は冷戦構造と、南長老教会編である。


      冷戦時代  核のホロコーストの時代概観
      南部長老教会と冷戦
       40年にわたって、ソビエトとアメリカで維持された具体的な戦闘はなかったものの、戦争状態に近い状態が維持された。この冷戦構造は、Super Power間の問題であり、国家間紛争の側面と同時に、共産主義と自由主義の間での競争でもあり、また、第2次世界大戦後の
      の外交上の問題であるが、それ以上の問題でもあった。より具体的には、神なき共産主義と神のある民主主義的世界の対決でもあり、イデオロギー的対決の側面もあった。この紛争は、宗教にも無論影響したが社会全体に影響したといえる。民主主義的な世界観が教会の支持を得たかと言えよう。

       しかし、現実は複雑であり、一意に、教会がどちらかを支持したということは言えない。一部には、左派のように共産主義的な概念を支持した人々もいた。社会的福音へのコミットメント、平和主義など、共産主義的な概念に親和性が高い考え方に見られるように、アメリカプロテスタントには幅広い考え方がある。アメリカの軍事外交政策への否定的視線を向ける人々もいる反面、アメリカの愛国主義もいるという状況であった。右派・左派とも、両方とも現代社会においては、完全な自由への抑圧があるという側面で課題があると指摘していた。
      ミーちゃんはーちゃん的感想)
       リベラル=親共産主義、というのはいかにも荒っぽいと思う。必ずしもそうでなくても、結果として同じであることはあるが、その背景や思考法はかなり違うと思った。もうちょっと丁寧が理解が必要ではないだろうか。福音派左派やそれを超えて、リベラルと分類していただいているミーちゃんはーちゃんだからそう思うのかもしれないが。


      長老教会と冷戦構造
       長老主義と教会における改革運動の観点から、冷戦構造を考えてみたい。長老教会の内部の分離と冷戦に関する態度の間に関係があり、戦争あるいは平和に関する賛否両論が内部の分離に影響している。近代の戦争と平和の問題に関しては、長老主義者の表面化したもの、表面化していない存在であっても、相当の影響があったと言えよう。ミズーリ州で最初に冷戦に関する宣言が出されたのは、長老系の大学フルトン大学のキャンパスであった。

       ウッドロー・ウィルソンは、長老教会の牧師の家系の出身者であり、アイクと呼ばれたアイゼンハワーはDCの長老教会の会員、戦後の国務長官のうち4人は、長老教会の出身であった。例えば、ダレス国務長官は熱心な教会員であり、コンディと呼ばれるコンドリーサ・ライス国務長官は長老教会の牧師の娘であった。このように、長老派の諸教派は、公的な世論の形成に影響した。


      28代大統領 ウッドロー・ウィルソン

      ダレス国務長官

      おっかない顔したコンディことコンドリーサ・ライス嬢

      I Still Like Ikeを掲げるAbe Simpson


      The SimpsonsのAbe SimpsonがI Still Like Ikeと上げているシーンがある。

       神学的側面から考えてみたい。神学的な要素がいかに冷戦期の変革へとつながったのか、ということを考えてみたい。
      ミーちゃんはーちゃん的コメント)
       この時期のアポロ計画などのロケット開発や宇宙開発は、実はこの冷戦構造があるし、スペースシャトル開発や、航空機開発などいわゆるビッグサイエンス時代を迎えたが、その背景には、この冷戦構造がある。
       また、計画理論や一般システム理論なの度の展開なども、この時期の冷戦構造を背景にしている。
      不安定の世代 
       冷戦期には、社会主義的平和主義的が主張される場合もあり、いわゆる、左翼神学やラウシェンブッシュに代表される社会的福音の神学などがある。

       20世紀の神学的な大きな対立は、ファンダメンタリスト対モダニスト(あるいはリベラル派)であった。北長老教会では、1936年に北長老教会内の改革派的な人を追い出した。その代表的な人物Machenである。


      ギリシア語テキストでお世話になったMachen先生

       MachenはOld Princeton派であり、ファンダメンタリストの中の知的ビッグの一人であった。このことが、改革長老派の中での大分裂につながり、PCUSAは、保守的な信仰を持ったグループで形成された。

       ラディカルな方針はモダニストたちによって主張された。左派教界人は平和主義者とかなりの部分で重なるといえる。これらの人のキリストのこの世に来られた目的は、すべての父となる家を提供することと理解され、人類すべてが兄弟と理解される。

       強硬な平和主義が教会の教理になったが、それと同時にヨーロッパやアジアにおいて共産主義と対決する環境に直面した。この中で、PCUSAは戦争を支援した。この戦争への賛成への背景には、必要な悪が主張された。

       長老主義者は、世界秩序を新しく構築するように政府に働きかけた。連邦教会協議会で主張された6つの平和の柱は、ダレス元国務長官が議長を務める委員会で議論された。
      なお、特に、FCCは国際的社会主義の立場に立っており、第二次世界大戦後、このグループに親和性の高い左派長老主義との対論のテーマとなった。特に、エキュメニカル組織共産主義のシンパ(ここまで言わんでよいだろう)が入っている。しかし、1950年には支持者を失って、解体する。その後、NCCは同じメンバーによって、同じような取り組みがなされた。長老主義者がかなり入っている。なお、北長老教会は、FCCやNCCの影響下にあり、全面的な非武装を目標としていた。

       北部教会の主流派での考え方は、南主流派においても起きた。例えば、反共産主義者でもあったNJ州のカール・マッキンタイヤは、それが原因でUPCUSAから離脱することになる。
      ACCC あるいはICCCが設立され、NCCとかWCCへの対抗軸である動きがなされた。


      カール・マッキンタイヤ先生

      ベトナム戦争と左派改革長老教会
       ベトナムを中心とする東南アジア紛争へ関与することの反対がアメリカで発生したが、1966年PCUSAは戦争に反対した。1967年には、ベトナム戦争は教会の喫緊のモラル問題になる。米国としてはベトナム戦争から撤退できない状況だし、撤退せずにいると核戦争になるのではないかという危機感があった。

       カンボジア侵攻時には、UPCUSAは戦争終結を主張した。ベトナム戦争を継続することで、名誉や倫理的な改善は得られないため、戦闘をやめて、ベトナムから撤退することを主張した。

      保守的な長老主義の立場
       保守主義者カール・マッキンタイヤは、共産主義と闘うことを賛成し続けた。50州すべてを訪問し、アメリカが勝利を得るまで戦うべきであると主張した。保守派の長老派の雑誌媒体では、ベトナム戦争中、記事と社説でその主張をし続けた。

       PEF Presbyterian Evangelical Fellowshipという海外選考団体は海外に宣教師を送った。1930年代に起きたことと似ているが、教会の中心的な運営組織は反対し、1971年に南長老教会は海外宣教委員会を非難した。

       オクラホマのチョクトー族の酋長でもあったジミー・レオンズは、愛国的、海外宣教会を形成することを主張した。というのは、当時の親共産党的な教会内の動きは、必ずしもキリスト教の言う愛想のものではない、という点を主張したのである。

       PC in America、即ち、PCAが生まれた。この団体は、福音主義では最大の長老教会群であり、世論形成にかなり大きな役割を果たした。冷戦期における政治を巡るベトナム戦関与の論争は、1973年の南部長老教会の分裂において大きな役割を果たした。 

      デタントの時代
       リベラルな長老派の中で、南北にかかわらず平和の問題は議論された。1980年、平和構築のための宣言がUPCUSAの定例教会でだされた。

       PC(USA)(合体後)は1983平和の証をするために、国家に対して、社会的不服従をすることができることを示唆した。リベラル寄りの長老派は「平和構築」は冷戦が終わることでも終わらず、平和の概念は社会的変革、社会主義を許容するために用いられたきらいがある。


      デタント時代のTimeの表紙

      http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/F-4B_VF-151_CV-41_TU-95.jpg
      1970年代に撮影されたアメリカ海軍戦闘機F-4によるソ連空軍ツボレフの迎撃態勢


       保守的な長老派であるPCAは、1977年に冷戦に対する宣言を明らかにした。テネシー州のフランク・シャポーという、共産党政権下の反バリーから逃げてきたハンガリー人牧師は、韓国から地上軍を残すよう大統領と、議会に要請してはどうかと呼びかけた。北朝鮮の非人道性を鑑み、1978年の定期大会において、無神論的な共産主義への反対のため、大統領や連邦議員に手紙を書いてみたらどうかどうかとていあんした。1978年、ジミー・レオンズは、無任所牧師として東南アジアに行き、東南アジアの難民キャンプの写真を撮り、巡回しながら広く社会に示した。

       80代のクロフォード夫人は1940₋80年代の自伝を書き、彼女の歩みの敬虔の中で、左派の教会人たちがキリスト教のメッセージをマルクス主義的表現としようとしたか、ということを陳べている。

      PCA(保守派) 核戦争の倫理 
       核戦争時代は、大きなチャレンジであるが、核時代First Comingと再臨の間の時代に挟まっている。贖いの歴史の視座で支配されている。強権的な政権のおける市民を開放するために、市民が犠牲になるような直接攻撃の可能性もあるのではないか。この一般市民を含む戦争は、最後の手段としては残されているかも。原則は絶対的な否定はできない。この立場は、多大な注意をもって扱わないといけないし、非武装の市民への攻撃にさらされない限りではあるが。
       自由な市民生活を保障することと、核による被害を考えねばならない時代であった。特に某国のような強権的国家における事実上の奴隷制をどう考えるのか、ということは考えなければならない。

       核戦争の先制攻撃や報復攻撃が世界を滅ぼすとは限らない。伝統的な軍事行動をまず考えるべきかもしれない。核戦争の先制攻撃による平和主義は、核兵器の平和主義とは別物で、倫理的にとることのできない立場である。

      ミーちゃんはーちゃん的感想)
       この辺は、個人的にはそうまでいえるか、とは思っている。核戦争自体、その後処理たるや、もう目が当てられないことは無視されているのではないか。さらにいえば、先制攻撃権を認めるとすると、これまで、真珠湾攻撃にかんして日本海軍と日本国を批判してきた米国政府と国民の態度との間に矛盾が生じるような気がする。
       RPCNAは、保守的な立場の長老主義にしては珍しい立場であり、神と御言葉への服従を認め、イエスの王権を認め、教会は預言者的性格を持つとする。教会は平和を作る人であるとしている。神を忘れた国家は死滅していることを示しながら、殺人は神の心にかなわないことを明らかにしている。RPCNAは1982年にソ連と米国政府に対して、神の正義に召された僕として正しく歩むよう勧めている。

      ミーちゃんはーちゃん的感想)
       個人的には、ジョン・ヨーダーやウォルター・ブルッゲマンに親和性が高いので、この立場には、同意できそうだよなぁ。
       キリストの王権が合衆国憲法の根本原理の中に含まれていると思われる。しかしながら、この部分は、1960年代に現実的には修正されてしまっているが、その語改革長老派は、政治的プロセスに関与することを否定し、治的な中立性を告白してきた。
      RPCNAは武力や力という偶像崇拝という側面ではソ連もアメリカも神の裁きの中にあるとしており、RPCNA倫理に関しての神学的基礎は、保守的ではあるが、その点においてリベラルと違う。
      ミーちゃんはーちゃん的感想)
       このようなリベラル、リベラルでないとかいうラベル張りは、本当に役に立つのか、と思ってしまう。こういう先入観を与えるようなラベル張って意味有るんでしょうか、と講義を受けながら思った。

       PCAの保守派は、アメリカの現実政治への強調をし、問題はあるが、ソ連よりましであるとした。さらに、RPCNAすべての国家は欠点を持つことを指摘している。そもそも、どのような政権であれ、キリストの王権から言えば、欠点がある。

      ミーちゃんはーちゃん的感想)
       個人的に、これはかなり自明ではないかと思った。
       19世紀中葉から20世紀にわたって、諸国家における平和へのコミットメントが改革長老派によって行われてきた。特に、第1次世界大戦も、シノッドは平和であることの気球に関する宣言を出している。また、リベラル派との論争や、その他の平和や政治的問題に関して、1920-30年代エキュメニカル運動のいくつかと連携して行動をしている。
       
      結語
       冷戦に関して、長老派は一つにまとまっていなかった。 
       保守派は、ソ連と共産主義は教会に対する脅威を唱え、自由に対する脅威であることを主張した。特に、政治哲学において、社会悪への解決策を模索しようとし、とりわけ改革長老系の保守派は、市場主義により実現しようとした。

       国際主義派は、リベラルな長老主義であり、国民国家は古い概念であるとし、国連が世界平和の役割を果たすべきだとした。ある面での「正義の平和」であり、富の再分配が重要で、それにより平和は実現可能であるとかんがえる。 

       これに対し、保守派は、国連は、アメリカに対する脅威であると考え、共産主義テロの土壌などであるとした。

       冷戦時代は、神の国とその義に対する戦いとして改革長老派は捉えてきた。とはいえ、 個人的な回心を正義の根幹とみなし、構造的な変革(国連による平和の実現)を重視した人たちとの対立がある。

       議論に用いられる語彙に関する対立がみられた。同じ言葉を使いながら、別のことを言っていることが極めて多くみられ、このような対立が現在もなお、続いている。


      ミーちゃんはーちゃん的感想)
       いや、聖書解釈でも、この種のことは結構あるんじゃないかと思う。同じ系統の信仰者集団でも同じ語を使いながら、それぞれがさしている内容がかなり違うことがあり、議論の過程の中でおかしいなぁ、と思いながらも、かみ合わない話をしていることは結構あるんではないか、と思った。
       残念な傾向であるが、しょうがないなぁ。
      全体を通しての感想
       ミーちゃんはーちゃんは、このご講演を聞きながら、改革長老とはいえ、ある程度の類似性があるものの、名実はかなり論争と分裂とその後の合従連衡を来る返しているんだなぁ、ということを想った。 

       それと同時に、アウトカムとしての類似性が似ているからと言って、平和主義とリベラルが同一であるかのごとき義論は制度がちょっと荒いかなぁ、とは思った。アウトカムでくくれば、サービスの規模はかなり違うが、金融機能を提供するという意味でくくってしまえば、日本銀行であろうが、信用組合であろうが同じになってしまうが、その構成原理や組織運営は相当に違うからである。

       その意味で、議論のレゾルーション(解像度)をどの辺に設定するのか、ということは案外大事ではないか、と思った。このご講演に関しては、もちろんメインの講義内容の主要ターゲットが改革長老派の歴史的発展経緯と政治的なかかわりであるが、改革長老派の方に重点がありすぎ、政治的現象、社会現象とのかかわりやその解像度が荒すぎて、もうちょっとバランスとって議論した方が面白かったと思う。

       ただ、アメリカ近現代史、特に外交し、政治史は講演者にとっては当然のことであったのであまり細かく説明されなかったということはわかるが、これ、事前知識なしに聴くのは、相当辛かったのではないか、と思う。



      評価:
      ウォルター ラウシェンブッシュ
      新教出版社
      ¥ 6,588
      (2013-01-07)
      コメント:多分必読文献だと思う。これを読まずして、リベラルを語るのは、片腹痛いと思う。

      2015.05.30 Saturday

      南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(3)聖書と科学1

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         南長老派の歴史に関する講演会に行ってきたので、そこでの内容をおまとめしておこうか、と思う。よろしければ、御笑覧のほどを。今回はあまりに長いので、2回に分けます。

        科学について
        アメリカ改革長老派(カベナンター)と地質学及び創造論


         非常に幅の広い議論を含むが、広く共通する部分を考える。創世記1章の理解の基本性質について、特別啓示、自然啓示、認識論、聖書そのものから考える。聖書を解釈し、これまでの解釈者の系統の中で、その示唆を考える。とりわけ初期のプロテスタントの理解を考えてみたい。

        地質学とプロテスタントの対話


         特に、創世記1章から地質学と想像を考えたい。

         少なくともルターとカルバンは字義的な6日創造説をとっていた。アウグスティヌスのアレゴリカルな解釈の一部を批判し、Calvinは地球の年齢は、6000年だと思っていたようであり、創造に要した日数は、6日であったと思っていた。

        プロテスタント一般と科学

         プロテスタントとサイエンスの関係を考えてみた場合、世俗的歴史家、宗教的歴史家でもプロテスタンティズムが科学の根源であると指摘するものが多い。宗教改革は霊的な改革のみならず、革命的世界観の基礎となる。
        (ミーちゃんはーちゃん的感想
         宗教改革はある意味で、既存権力であったカトリック教会への挑戦であり、その権威への疑念を呈することで、権威への挑戦を行い、その後の非常に多様なプロテスタントの原点となるし、そして、それがアメリカに入り、反知性主義の原点となる)
         宗教改革は実験科学に影響、聖書に求め、聖書解釈における帰納法的解釈に依拠している。スコラ主義における推論を拒絶し、聖書そのものに目を向けさせることになった。様々な解釈法がある中で、改革派的な聖書理解では、一つの意味しかないことを明らかにしている。つまり、文法的、歴史的釈義によるとともに、聖書テキストの証拠により、神が啓示しておられることを読み取ろうとした。アイセジーセスという語もあるが、テキストに向き合って理解をしようとした。プロテスタントの科学者たちは、聖書の啓示、自然啓示にもこのような理解の精神を当てはめようとした。

        科学と聖書をどう考えるか


         聖書というテキスト、自然というテキストのいずれも神の啓示であると考えた。推測ではなく、適切に解釈することを主張していったのである。自然啓示、あるいは科学の場面では、実験に依存しつつ、実証データから解釈し、結論を得るという態度が重要である。

        (ミーちゃんはーちゃん的感想
         ただ、現在科学では、このデータの取得性、観測におけるバイアス、厳密に言うと、測定論あるいは測度論の問題が含まれており、そこの議論はあり、基本的なアイディアとしてはこの表現は間違いではないのではあるが、若干の問題があるのではないか、と思った。)

         科学の歴史は、真空の中にある様なものではない。歴史的、文化的、社会的な中にあり、これらの諸側面で混乱が発生した。マルクス主義に関する歴史家、クリストファー・ヒルは、「産業化時代の英国は上下さかさまだった世界」として揶揄した。

         フランシス・ベーコンが演繹的なアプローチを科学にもたらした。ベーコン的演繹法が生まれたが、それは、クリスチャンの世界観を受け入れていた文脈で発生した。16世紀心までの科学者は、名目的ではあったかもしれないが、聖書への一定の敬意を持っていたと言えよう。16世紀から17世紀にも聖書の規範性を否定する科学者、あるいは異教主義、無神論者が科学者の中にもいた。

        近代合理主義と聖書

         19世紀は、カントなどの合理主義的な聖書に対する批判が現れ、その他の考え方から聖書が批判される側面もあり、クリスチャンたちの科学に対する考え方にバイアスを与えた。

         教会は科学のことを、神学の下僕か婢女にしてきたが、しかし、この時代から宗教と科学の緊張関係が生まれた。科学者と聖書との緊張関係はあらゆる科学に影響し、天文学、生物学、化学、物理学など幅広い学問分野に影響した。

        (ミーちゃんはーちゃん的感想 
         神学に優位性を言いたいのはわかるが、婢女と書いて”はしため”と呼ぶのは、結構きついなぁ、と思う。とは言いながら、18世紀くらいのイングランドでは、神学者や牧師が”余暇”であるいは”余技”で、あるいは神学の”派生研究”として科学に関する研究をするのは結構当たり前であったので、そういう主張をしたくなるのはわからないではない。例えば、グリニッジ天文台の初代天文台長は、英国国教会の司祭でもあったジョン・フラムスティードであるし、そのあとの2代目天文台長は、ハレーすい星で有名になったエドモンド・ハレーであるが、彼もまた同じく英国国教会司祭でもあった。ニコラウス・コペルニクスは暦の関係(当時はカトリック教会等がカレンダーに大きな影響を持っていたので、こういう研究は教会化教会付属のセミナリオでやっていた。セミナリオは、いまのセミナーとがゼミの語源となっている)で天文学をしていたのである
         ミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事の関連分野の一つでもある地理学の基本のキである、緯度経度の測定に天文学は欠かせなかったし、それを司祭がやっていたというのが面白い。
         なお、この部分に関して知りたければ、深井智朗著 神学の起源をお読みになられることをお奨めする)
        地質学的理解をどう考えるか?
         とりわけ、地質学に関して、この問題と深い関係がある。プロテスタントの教会は、科学に敬意を持っていたが、そのうち、地質学との妥協へとつながっていく。多くのクリスチャンは、聖書を再解釈し、創造の具体的な日数を考えるとき、この地質学の理解の影響を受けることになる。2つの地質学的問題と聖書理解の問題を取り上げて考えてみよう。

        1)    地球の年齢
        2)    地球規模の洪水

        の二つである。1820年代までは、古い地球説。ノアの大洪水の実在を主張してきたし、激変理解(カタストロフィズム)に立ってきた。

         1830−33年のチャールズ・ライエルの地質学の原理が信仰と地質学理解との関係を大きく変えることになる。ライエルの議論によれば、全ての地質学的な構造は長期プロセスで実現するとされている。ラッセルという長老主義者は聖書の教えと一致させうるか、ということに取り組んだ。しかしながら、ライエルの著作の前においても、地質学的な関心は長老派でも高いものであった。


        チャールズ・ライエル先輩

         サミュエル・ミュラー(19世紀のアメリカの長老主義者)はニューヨークで牧師をしていたが、プリストン神学校が1812年の設立後に2番目に採用された教授である。1803に彼の書いた論文集が「18世紀の概観的回顧」というタイトルで出版され、18世紀アメリカにおける科学芸術、文学における革命と発展の描写をしている。 

        http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f9/SamuelMiller.jpg
        Samuel Miller先輩

         同書の中にも地質学に関するミラーの議論を所収されており、地球の自然科学の歴史を振り返ると1800年前にはわかっていないことがかなりあった。ミラーは地質学上の発見における発展をとらえる中で、土壌組成学は基礎であるとしている。

         地質学は、人間の作った空想的なものであり、知的好奇心を満たすもの、それ以外の何物でもないとした。これらの理論は、思想的な夢のようなものであり、理性的な判断というよりも空想で結果を生み出しているようなものではないか。仮説を導くための理論であり、真の歴史から導いているのではない。
        (ミーちゃんはーちゃん的感想
         基本科学はまず仮説を立て、その仮説の真偽性を間主観的に検証するものなので、仮説を導き出すため、とか言われると、そもそも、仮説を立てるような科学研究ができなくなり、科学的研究の進展や、既存理念の追従以外の研究はできなくなりかねないなぁ、と思った)
         ミラーは、地質学は神の啓示に反していると結論した。現代において、数多くの理論がなされたが、一部には有益なものもあったが、その大半は空想的であり有益なものではない、とミラーは批判した。

         ミラーにとっては、神と聖書の優先は明らかであった。すべての理論は、神の誤りなき御ことばに依存すると主張している。本当の科学になればなるほど、自然科学が聖書の記述にあっている、と主張した。

        (ミーちゃんはーちゃん的見解
        本当の科学になればなるほど、聖書の記述にあっている、という主張は創造科学の関係者でよくみられる表現であるが、そもそも「文字通りの聖書の表現」が古代語で表明された神の思いにおける、という意味での聖書の文字通りの表現であるというならいざ知らず、近代言語である他の言語系、それが英語であっても、フランス語であっても、日本語であっても、スペイン語であっても、その翻訳言語の聖書での文字通りとは限らないと思う。これは一種測度論における問題でもあり、言語において科学的な測度がどの程度保障されるか、という問題をまず議論せずに、このご主張をするのは、信仰的態度あるいは信仰的告白と呼ぶべきものであり、科学的態度ではないと思う。まぁ、このようにご主張される自由はお認めしたいし、信仰的態度は尊重したい。)


        改革派での再検討
         この創造論に絡み、トーマス・チャルマースがスコットランドで、大分裂を生み出し、スコットランド自由教会が生まれた。このチャルマースは、ギャップ説を唱えた。1833年には、チャルマースは地質学の正統性を批判している。ただし、チャルマースは、クリスチャンが思っているよりは地球は古いと考えていた。チャルマースは創世記における創造の記述は無からの創造以外の何かではないかと言い出している。このため、創世記1章と1節と2節の間にギャップがあると主張している。

        トーマス・チャルマース先輩

         19世紀中葉、地質学上の発見が受け入れられた後、聖書における地球創造の扱いに対して批判的な考え方が出てきており、牧師や、教会関係の敬虔な学者、教育者にも、この傾向は認められる。

         何故カルバン主義者たちがなぜ、従来の古典的な聖書理解を棄て、こういう理解の再検討をしていったのか。それは、化石の発見が相次ぎ、このことに関する理解が生まれてきた。この中で、画一主義的な原則が追及され、創造理解において徐々にな変化が生まれていった。サミー・モルテンソンは産業革命の影響が教会に影響したとしている。

         聖書解釈の問題として、創世記11章を字義的に理解するかの問題として、古い地球説をとられていったが、聖書の霊感説をとり、世間から非科学的な頑固者とみられないように、合理性を主張したいと思う人々もおり、それがこのような理解につながったのではないだろうか。

         一般啓示(自然科学と良心による啓示)と特別啓示(聖書における啓示)との関係を考える中で、聖書を科学の発見の光の下で解釈し始めた。
        (ミーちゃんはーちゃん的感想
         まぁ、もともと、科学一般の前身である自然神学自体、そもそも神学的思惟であったことは間違いない。この辺りはA.E.マクグラス先生の自然と神学をめぐる議論をお書きになったいくつかの本があるので、そちらをご覧いただくとして、まぁ、南長老教会の講演者の方からすると、もともと神学から派生した科学、また地質学という、子孫からその母体となった神学がその派生したもののいきついた先で再解釈されるという一種いわば逆縁的な関係は耐えられない、という感じでもおありになったのであろうが、それでも、キチンと対話するというのが科学的態度というものであり、それを改革長老派の科学関係者はされてきたと思うのだが、先に神学優先があるようなことが言葉の端はし(英語で聴いても)からあふれ出てたのは、残念だなぁ、と思った。二重の意味で)
        感想
         今回の部分を再度おまとめしながら思ったのは、科学的アプローチというか、学問的アプローチである対話ということの重要性である。頭ごなしにガンガンやるのは科学的な対話の態度ではない。正邪を決めることも科学的な対話の態度ではない。科学的な対話の態度は、お互いが思索能力及び観測能力において限界があることを素直に認めながら、お互い共通の素材、共通の対象について、相互に観測された結果から得られた理解と構造を検証していくことであって、相互に関する深い尊敬と敬意に基づくものであると、個人的には思っている。どこぞの番組で以前はやった「朝まで生○○」でやっていたようなあのような下品な怒鳴り合いは、対話でもなければ、ことばによる殴り合いだろうと思う。未だに、あの手の議論を議論だとか、対話だとか思っている御仁が多いのが、この国の残念なところだと思う。国会論戦と呼ばれるものを見ても、言葉尻をとらえるような言葉による殴り合いばかりで、本格的な思想と思想との対論がほとんど見られないのが残念である。党首討論でもそうである。討論というのか対話には、テクニックというよりは、その人の中身が問われるので、まぁ、選良と呼ばれる人々がしていることが斯くの如くであるということの意味はどういうことか、推して知るべしではあるなぁ、と思っている。

         そうそう、地質学といえば、『世界を変えた地図』という本が非常によろしい。地質学の発展史がわかるし、古生物学(化石)関係者や地質学関係者に司牧関係者が多いことがよくわかる。なぜ、地質学が英国でかなり早期に発展したかもわかる。それは、英国が石炭が各地でとれたこと、また、石炭層があちこちで発見された際に、その石炭層の上下両面の地層的特性が各地でほぼ均一であるという現象や、石炭運搬のために運河が建設されたのだが、そこでみられる地層の並びが数10キロ離れていてもほぼ同じ並びをしていることから、地質学や地層学は進んでいく。

         英国が石炭による産業革命を果たさなければ、ミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事の一部である地理学Geographyのお隣さんの地質学Geologyは発展しなかったのかもしれないと考えると、何となく複雑な気持ちがする。

         次回へ続く



        評価:
        サイモン・ウィンチェスター
        早川書房
        ---
        (2004-07-21)
        コメント:地質学の英国伝発展史がわかる。

        評価:
        森本 あんり
        新潮社
        ¥ 1,404
        (2015-02-20)
        コメント:お勧めしている。

        2015.06.01 Monday

        南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(4)聖書と科学2

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           この記事は、前回の記事 南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(3)聖書と科学1 (2015/05/30) からの続きである。今回もよろしければ、ご清覧いただけると幸甚である。

          チャールズ・ホッジ先輩の見解
           チャールズ・ホッジは、「科学は進歩し、宇宙理解は科学によって進展する」と考え、聖書が教えている教えの新しい理解、解釈の可能性を示した。プリンストン神学校の歴史を書いたカルフーンは、ホッジは「地球がさらに古いという理論を作れるなら、私はそれに合意するだろう」としている。1863年にホッジは、「御言葉と科学の間には調和がある。神の啓示が聖書で真実であるように、自然においても真実であり、みことばで解釈すべきであって、科学で聖書を理解するときもそうであるべきである」としている。ホッジによれば、二つの悪を避けるべき、聖書の真理を無視した科学理論を打ち立てる悪と、科学的な真理と矛盾する解釈に固執する悪があるとしている。ホッジに代表される科学に関する理解は、福音主義の科学者に聖書と自然理解の調和を目指すものであった。


          チャールズ・ホッジ先輩

           クリスチャンの地質学者の内、キリスト教理解に立つ地質学は圧倒的立場となって、原理主義的な地質学者(おそらく当時の地質学的知見に固執する地質学者)と立ち向かうことになった。

          ダブニー先輩の見解
            科学理論に合わせるために聖書を再解釈するという傾向には、批判があり、南部の長老教会の神学者は、このような傾向に南側の独立戦争の開始前に警鐘を鳴らしている。代表的な論客は、バージニア人(南部人)のロバート・ダブニーであり、彼はジャクソン将軍の軍事顧問であった。 

           Southern Presbyterian Reviewの1861年の7月号で、ダブニーは、モーセによる記述に敵対的な仮説を出している人こそ、立証責任があるとした。モーセの記述どおりという理解を撤回する必要はなく、それのみが唯一の真理と証明されるまでは、仮説としておいておけばいいということを指摘し、この理論に関して不確実性の可能性を指摘した。なお、彼は、ベーコンすら批判しており、推論は正しさの可能性に依拠しているのではないかと指摘している。

          Robert Lewis Dabney.jpg
          ロバート・ダブニー先輩
          (ミーちゃんはーちゃん的感想
            この辺、推論は全部だめで、証明されなければならない、ということに関して、それは近代の科学的な方法論点から言っていくつかの問題があるのではないか、 という突っ込みをしてみたかったけどやめときました。ご講演者の方は、お立場として語っておられるとして受け止めました。)

            ダブニーは、創造者と創造をみとめるなら、自然との類比における真実性を認めるならば、具体的な創造の方法が特定できなくても問題ないのではないか。論理で推測することは非常に困難であり、そもそも文字による歴史的なことが始まる前のことを類推するのは困難であることを指摘した。ダブニーはJames Woodrow(ウッドロー・ウィルソンの親族)とは、数十年にわたって神学上の議論を交わす相手であった。

          ウッドロー先輩の見解

           彼ら二人は、進化論を巡る議論に引き込まれ、ウッドローは、アダムのからだは進化を遂げたものだ、という論文を公刊した。ウッドローの考え方は、あらゆる科学に影響し、生物学的進化にも影響し、教会と創造論に影響していった。


          ジェームス・ウッドロー先輩

          Woodrow Wilson (Nobel 1919).jpg
          ウッドロー・ウィルソン先輩
          http://www.pankin.com/pleasure/wwbridge.jpg
          ウッドロー・ウィルソン大橋(ワシントンDC)

           このような地質学の議論は、論戦の第1ステージとでもいうべきもので、19世紀には、進化論を巡る議論になる。
           17世紀を通して、長老教会における地質学的関心は高かった。今日も発刊されているクリスチャン・オブザーバーという長老教会の雑誌には、いくつかの論文が掲載されており、これらの論文が掲載されたことから、いくつかの結論が導かれるだろう

            1)地質学は論争の原因を含んだ学問体系である
            2)科学に対する関心は、牧師たちだけでなく、
              一般でも高かった
              相当専門的な記事があり、それが一般紙で議論されていた
              (科学万能時代)
            3)大半の南長老の著者は、かなり古いという点は合意
            4)科学的な発展を無視するのは教会にとって損失であり、
              世間から哄笑の種になると考えていたようである
            5)創世記の前に、創造があったとする説がある。1日の理解を
              どうするか問題、地質学と聖書理解を合致させる傾向が見られた
            6)古い地球を受け入れていたが、進化論を受け入れてはいなかった
            7)地質学上立場を弁証的に理解しようとした努力が見られた


          創世記における一日の長さを
          どう考えるか問題

            20世紀、21世紀に入ると、モダニストとの対論がより激しくなり、内部での理解の対立、教会外の人々との論争が起きた。教会人のうちいくらかの人々は、キリスト教信仰の原理主義的なものを棄てることにもなった。創造における日数、様々な生と死の教理に関する福音そのものに関するものも、色あせたものになってしまう。

           モダニスト、原理主義者との対決の中で、長老主義者たちも、創造に関して、その日数の長さがいかなるものであるかということは、議論はなされなかった。解決積み問題であるとされていたからである。伝統的な長老主義者たちは、1936年にはこの問題は議論にすらならないとしている。

           長老主義者にとって、一日を1世代とする立場もおり、また、一日を一日とする立場のものもあった。OPCのメルディス・クレインは、フレームワーク仮説を主張したが、クラインの主張は、創世記1章における日数は、文字通りの24時間という意味ではなく神の創造のみ業の詩的表現ではないかとした。

           1937年分裂では、Bible Presbyterian ChurchがOPCと分離し、さらに、このBPCも、別れるEvangelical PCと分離し、1956年、この分派の多数派は、1961年EPCと改名する。さらに、この多数派の人々は、1965年にRPCNA General Synod ERCESを形成する。そして、創造理解は、Day Age Viewで理解することになる。カベナント神学校(セントルイス)では、1日を1世代説にに大きく影響されていた。つまり、一日を長い時代(AEON)と見たのである。

           2002年には、RPCNAはウェストミンスター信仰告白における創造の理解の意図は、6日の内にの表現は一日は24時間である想定していることを発表した。しかし、24時間でない説の人々も受け入れるし、それを原因として任職拒否や戒規の対象とはならないこととなっている。

           1973年に、PCUSからPCAの教派的な離脱の意義の一つは、進化論を受け入れるかどうかという点であった。しかし、日の長さを多くの普通の信徒は、6日だとは思っていたし、牧師もかなりの部分、そう理解していた。ある面で、正統性をチェックする基準もない。1982年に南部の長老派から離脱した人々であるRPCESが合併するときにこの理解の正統性が問題とはなったが合併の段階ではDay Age Viewということを言うことに関する議論されなかった。
          NJ中会に対する不満が議論された時、24時間が一日というのが問題視(NJの唯一の解釈ではないとした)、字義通りの24時間1日説を否定したことを問題視された。このことで、定期停会の司法委員会で紛糾し、1日24時間以外の説を唱えたNJ中会の立場を否定しないのが多数派であり、必ずしも、一日としないという理解を受けとめた。多数派レポートと少数派レポートを聞いて、多数派を受け止めた。2:1でNJ中会への非難決議が却下された。

           1998年このことを受け、創造論部会が創設され、創世記1−3章に関する聖書的、解釈的、神学的解釈の研究がすすめられ、ウェストミンスター信条における6日の間の原意を研究し確定する努力が行われた。

           Greenville神学校では、神学研究会議での6日間か?ということが議論になった。
           4つの見方があり、
          1)    文字通り6日説
          2)    1日1世代
          3)    フレームワーク仮説
          4)    アナロジー的な一日理解 Analogical Day
          が述べられた。

           Analogical Dayとは、PCA の St Luisにある神学校のJack Collinsによる、割と新しい理解である。一日とは、神のWorkDayのことであり、文字通りの24時間と限らず、神のリズムの中での区切りの概念である。

           2000年、創造部会が結論を出すが、その結論は、一日の理解に関して、4つの理解があるが、その議論をまとめた情報をすべての人が手に入れられるようにするべきであること、2年間、この議論を留保し、新しい決議をしないこと、とした。

           定例大会は、歴史的には、改革派信仰では、神学者によって主張されたことから、多様性を認めてきた。定例大会はこの立場に立ち、多様性を認め、歴史的な創造の事実を認めている限りは、これ以上の議論は留保するという立場は、きわめて重要である。

            創世記1章は、聖書の最初の章でもあり、聖書理解の根幹をなすものである。神が創造者でないとしたら、福音を評価できなくなってしまう問題が発生するし、神は旧約聖書の時代から真実に啓示しているかという問題となり、聖書の根幹を崩しかねない。歴史的に創世記は正確な表現かを議論し、仮に聖書の記述が歴史的でないとしたら、他も崩れ、何を信頼しているのかということになり泣けない。特別啓示を自然啓示あるいは限界のある科学の視点から解釈されうるかという問題があるし、その妥当性は問われることになるのではないか。

           CRCNA(オランダ系改革派)に起きた神学的崩壊を知っているなら、自然啓示に解釈を認めるのは、合理主義やリベラリズムになってしまいかねないことは理解できよう。 CRCNAが同性愛を認めることや女性教職の按手、異なった聖書解釈によるのではないか。聖書が言う記述から外れることで、重要なことまでもが影響されることになりはしないか。

          (ミーちゃんはーちゃん的感想
           ここまで、オランダ改革派のことを言わんでもいいやんか、とは思った。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いみたいなもの云ひのような気がする。)

          いくつかの結論
           長老主義者の科学への興味があった。より具体的には、

          1)    すべての造られたものは、神の働きとその栄光を示す。
          2)    科学は宗教のはしため(弁証学)

            スコットランドのコモンセンス哲学 Common Sense Rationalismになった。このなかでも、Samuel Millerは科学は不十分であるとしたし、Charles Hodgeは、みことばを自然啓示というよりは科学を通して解釈しようとするなど、かなり多様な立場が見られた。

           自然啓示と特別啓示の関係は、地質学の立場で聖書を理解できうるか、という問題である。2001年のPCA定期大会で、北ジョージア中会からの提案を却下している。この提案とは、一般啓示にある科学的証拠を研究することで教会が神の創造に関する統一的理解するための研究をするという提案であった。この提案に対する否定的見解は、一般啓示を用いて理解することは、ウェストミンスターに反するとした。しかしながら、全員が定例大会を支持しているとは言えない。その多様性の中で受け止めるべきものであろう。
          (ミーちゃんはーちゃん的感想
          結局、改革長老派では議論しつつも多様性を認める、そして、これが原因となって、改革長老が離合、分裂、合併ということが多数行われたということだけはわかったが、なんか大山鳴動して、という感じはぬぐえなかった)

           長くてすみません。

          感想
           科学と信仰の関係は、英国や欧州ではあまり議論にならず、米国では社会を二分する大きな政治問題化する。というのは、恐らく、英国や欧州における多元的対話の世界ではなく、そもそもが正しいか誤りかという白黒決着させる議論の方法論が、国民性の中にしみついており、そのことが、教育という分野や医学の問題などで政治問題化しやすいということなのだろうと思う。典型的には、スコープス裁判などは実際には、州の教育プログラムとして進化論のみを扱うのはいかがかという議論であったものが、いつの間にか、議論の論点がずれてしまい、進化論が正しいか創造論が正しいかという議論のすり替えが起きているのである。残念なことではあるが。

           なお、中絶問題は、プロライフ(中絶反対)にせよ、プロチョイス(中絶容認)にせよ、本来的には、一種の医学の可能性と医の倫理問題として始まった議論ではあるが、これが政治問題化するところがアメリカではある。

           こういう法廷における正邪あるいは正しいあるいは間違いを決めていこうとする2元論的な思想がアメリカであり、その中におけるグレーさをあまり認めないがないのが、日本という國であり、裁判で認められたものが全てになってしまうというのが、アメリカという國なんだろうなぁ、と思う。このあたりのことは、深井先生の『神学の起源』や、森本先生の『反知性主義』をお読みいただけると、お分かりいただけると思う。

           18世紀から21世紀は、近代という思想が支配した時代であり、科学の時代であり、ユニバーサルであること、つまり、一様に同質的な普遍性が当てはまるものという前提が支配した時代であった。それが本当に妥当しているかどうかということは議論されることなく、与件、前提あるいは公理として想定され、どうも議論が行われたように思う。

           本来的には、議論は白黒つけるものではなく、より真実と思えるものに接近するためのものであるが、日本でも、米国でも、議論を白黒つけるものとして理解しようとしておられる人々が一定数居られて、裁判で勝ったら何でも正しいのだ、とか、無茶なことをおっしゃる方が案外多いのが実に残念である。それこそ、木を見て森を見ずどころか、落ち葉を見て森を水の義論だと個人的には思っている。



          評価:
          サイモン・ウィンチェスター
          早川書房
          ---
          (2004-07-21)
          コメント:良い。こういう本がずっと出る国であってほしいと思う。

          評価:
          深井智朗
          新教出版社
          ¥ 1,944
          (2013-05-31)
          コメント:良い。ご紹介しております。

          評価:
          森本 あんり
          新潮社
          ¥ 1,404
          (2015-02-20)
          コメント:アメリカ人の言動の背景がよくわかる。

          2015.06.03 Wednesday

          南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(5)礼拝論と賛美論 その1

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             今回も南部の長老教会の関係者のSmithさんという方の講演会に行ってきたので、その方の講演の中から、礼拝についての部分を現場で取ったメモをもとにした、講演会参加記を記してみたい。恐らく、このシリーズは、あと3回続きそう。

            賛美についての規範的原理
             カルバン派の伝統の中伝教理の中でも、礼拝の規定的原理については議論が多かった。改革派の中でもたくさんの文献がこの数十年出ている。賛美の形式に関しても、教会の中で様々ん議論がある。改革派のすべての人々は、礼拝の原理を守っているわけではない。賛美に関する規定的原理とは何か、という改革派の中での概観の前に、賛美の規定的原理とは何か、について触れていきたい。

             改革派以前と改革派以降の信条において、賛美に関する規範的原理という概念は出てこない。この概念は、20世紀なるまで登場しないが、改革派の賛美に関する基本的な原理を要約しているものである。礼拝の規定的原理は単純であり、何が命じられているものであり、それは神の命令とも受け取ることが出来よう。

             カトリックであっても、聖公会、ルター派の人々のように礼拝において、禁じられていること以外ではかなり揺れ動いている。改革派的な賛美の規定的原理は、聖書で明示されたことに制限された礼拝の様式論である。礼拝の規定的原理は、様々な方法で示されているのではない。むしろ、賛美における実際の行動と、様式を規定している。ルター派とは異なり、かなり保守的な姿を守っている。ピューリタン運動中、この原則は確立されたものとなった。

             ウェストミンスター信仰告白での規定にもあるように、賛美の規範的原理は、キリスト者の自由と良心の自由とかかわっている。そのほかの改革派信条の中での規定的原理がある。ハイデルベルグ教理問答集における第96問をもとにあることを考えるべきであろう。

            長老派の信仰の変容

             このような信条や16−17世紀に改革派書信条は確立され、18世紀の改革派は19世紀が始まる頃までにはその妥当性を問われることになった。というのは、ヨーロッパおよび北米での敬虔主義の台頭があり、改革派信仰に影響を受けた「ニューイングランドが丘の上の教会の役割を示す」という主張されたは有名だが、しかし時代の経緯とともに、その確立されてきた信仰そのものが失われていく。特に、スコットランドの分離派の中から、アメリカ長老主義に影響があり、教会論的混乱が生じた。従来の信仰を堅持しようとする動きは起きたが、それと同時に他の従来には見られなかった考えも生まれてきた。

            世俗主義の台頭
             世俗主義の台頭が起き、アメリカの長老主義はウェストミンスターの再解釈による多様性、多源性への寛容が発生してきている。神の統治は全世界における普遍的なものであるが、全世界的に適用されるものは一つであるものと感がられたが、そうであっても、長老教会の礼拝理解の中に有害なものが入ってきた。
            (ミーちゃんはーちゃん的感想
             しかし、有害、とか言わんでもいいじゃないか、と素朴に思った。有害とするかどうかは立場によると思うけれども。ある立場を堅持するという視点からは有害であるが、それについていきかねる人々にとっては、有益なような気がしたが)
             リバイバル運動の影響が改革長老派の中に入ってきた。霊的な高揚を求めていくものが出てきたことの反動として、教理的な原則を崩していく傾向が見られた。合理主義の台頭は聖書中心へのチャレンジでもあり、人間の側に引き寄せるヒューマニズム的な動きへとつながった。
            (ミーちゃんはーちゃん的補足
             リバイバル運動は、一種の庶民における宗教的情熱で、社会の割と上層の社会階層の人が占めた長老派からは、あまりよく思われていなかったふしがある。ある面、18世紀の西部開拓時代に文字が読めるバプティストである、と揶揄されたメソジスト派や靴を履かないメソジスト派と揶揄されたバプティストの人々を中心とした運動でもあり、森本あんり著「反知性主義」の主要なキープレーヤーの人々である。とはいえ、長老派もその出発の段階で、ジョナサン・エドワーズ的な伝道方法をとっているので、反知性主義的な側面を持っていないとは言い切れない可能性が大である。この講師の方は、リバイバルとか大嫌いなことはよくわかった。そこまで言わんでもいいぢゃね?とは思ったけど)



            リバイバル運動の極度の興奮状態を描いた版画

             古典的な長老教会の伝統の中にあっても、合理的理由付けの側面から考える傾向が見られた結果、原理的なことが失われた。詩篇のみの賛美、無楽器派的な賛美は、忘れ去られかけていった。
            (ミーちゃんはーちゃん的補足
             今回、改革長老派の講演会に参加させていただいて、詩篇歌なるものを初体験したのだが、詩篇歌といっても、メロディはどっかで聞いたことのある讃美歌のメロディであり、その歌詞が原則詩篇であり、人間的な表現「我々は天国に行こう」とか、「信仰を保つために何でも捨てるつもりがある」とか言った表現がないだけである。お知り合いのE先生が詩篇歌、詩篇歌というので、よほど特殊な讃美歌だと思っていたが、そうではなかった)

            改革長老派の皆さんの詩篇歌

             長老教会は、他のキリスト者集団や社会から影響されてきた。福音派的なものの影響も受けたし、ロマンティシズムの影響も受けてきたる。ある面では、アングリカニズムの典礼重視志向に向かっていく。北部において、リベラリズムの影響も受けている。保守的な人々は、教派をまたいで活動するが、礼拝の具体的なありようよりも重要なことがあるのである。というのは、様々な影響を教理が弱められていくのである。20世紀の終わりまでに教派内で礼拝の教理の再検証の動きが発生してきた。1940年以降、礼拝の再検証が起きた。また、1940年代までに改革派の教理が弱まっていくという懸念が強く生まれてきた。

            改革長老派の中の多様な礼拝に関する動き

             カルバン派の教えは名目的なものになっていった。保守的な人々は、神学的な根源を探られていくことになった。アメリカ北部の正統的長老教会でこのことはみられた。1920-1930年代はPCUSAは、モダニストとファンダメンタリストの間の論戦に巻き込まれていくことになる。典型的には、メイチェン先輩がその代表的存在である。メイチェンは、リベラル派から教派を追われ、免職され、正統長老教会へ移籍する。このメイチェンの関係者たちは、正確で、厳密かつ注意深いグループであった。OPCは基本的に研究委員会で論争に対応し、考えてきたのである。


            Machen先輩

            キリストの処女降誕 これの前の版を持っている

            Machen先輩の名著 入門者向けギリシア語 これで勉強した


            ジョン・マーレー先輩

             あるいは、ジョン・マーレーがこの派の人の一人である。自由長老教会で育って、礼拝と安息日の順守を重視した。特に、霊感された賛美と無楽器派賛美されるべきとした。このような議論の中で、公的な礼拝の中では、霊感されてない詩篇歌以外の賛美歌も歌ってよいのかという議論が起きる。OPCの委員会が設置され、1946年に礼拝の規定的原理に関する報告書が出た。この礼拝の規定的原理に関する議論に関して委員会が2分され、多数派と少数派の報告書が出た。マーレーとヤングは少数派で、霊感された歌のみに限定すべきだとした。これに反し多数派の代表的存在のマースデン(有名なマースデンの親父殿)は礼拝の中では讃美歌は歌われてよい、とした。この中で、礼拝の規定的原理という語が使われた。少数派は、多数派が前年の委員会の決定をひっくり返すし、この規定的原理を崩していった。しかしながらこの動きは聖書的な根拠を欠いている。数年後マースデンも少数派と同じ結論に達した。

            George M. Marsden
            マースデン先輩(お子さんの方でミーちゃんはーちゃんが読んだ本の著者)

            この本は面白かった。おすすめ。

            賛美と祈祷の関係

             賛美と祈祷は本質的に同じであると講演者は考える。OPCは賛美と祈りを混乱させたのではないだろうか。その結果、礼拝の要素が混乱してきた。ウェストミンスター神学校の学者より、他の信者の理解を優先することになったのではないか。

             PCUSAの中から保守的な人たちが除名された時、この問題と正面切って向かい合うようになる。様々な論文がサザン・プレスビテリアン・ジャーナルの神学論文集の中に見られるようになった。そして、PCUSAと南長老派との合併に反対するような論文がなども出てくるようになった。PCUSAに代表される北長老教会は、ウェストミンスターに関する扱いはかなり緩いものであり、このまま合併すると。南長老が正統的な信仰から離れるのではないかという懸念が表明された。ハフ教授は、儀式に熱心で聖書に示されたより霊的な礼拝をすべきであるとした。このような詩篇歌軽視の傾向は、世の中の動きに巻き込まれていった結果ではないかと指摘している。

             人々に好まれる礼拝へと移行する誘惑に巻き込まれる可能性が出て、より世俗的な動きになり、よいショーのようなものと合致するものにするという危惧がある。


            ショー化した教会が行き着いた先の不祥事がこんなんかな?
            CNNで報道されたテレバンジェリストの皆さん 実に残念である。

            Vos先輩父子

             教会は、公的礼拝を考えるべきだ。神に喜ばれることは何か、という研究をすべきではないか。アハブがしたような奇妙な祭壇を築くのではなく、悪い傾向を捨て去るべきだ。ヨハネスボスは、J.G.VosはプリンストンのVosの息子であり、贖罪の歴史を研究した人物であるが。Vosの立場はメインライン教会から北米改革長老教会へ移るという結果をもたらした。また、ペンシルベニアの北米改革教会のジェノバカレッジへ移籍した。Vosは、アカペラ賛美の代表的人物であり、礼拝における規定的原理の勝ちが人々に確信させられなければ、誤った礼拝、礼拝の習慣なものになるとし、保守的な礼拝の形態を守ろうとした。


            Vos(父)

            http://bluebanner.org/gfx/vos.jpg
            J.G. Vos(息子)

             聖書の偽りの礼拝とは何か?結婚の誓約に反したような旧約聖書の不実な妻のようではないか。J.G. Vossは正しい礼拝のスタイル維持しないと、妥協にいたり、偽りの神に仕えることになると主張した。1950-1960年頃、改革派の正しい礼拝への覚醒が起き、多くの教会人は、カルビニズムに回帰した。

            (ミーちゃんはーちゃん的疑問
             なんで、回帰したのだろうか?聞き忘れた。でもおそらく当時の世俗音楽への反動ではないか、と思う)


            改革派内の復古現象

             イギリス由来のバナーオブトゥルースが登場し、16−17世紀の本を再発行する形で、ピューリタン文章の紹介をしたり、現代の著作家も出版し始める。歴史的なもの、ピューリタ二ズム的な文書や歴史的な文章などを数多く出版し、教会とは何かを示した。そして、この出版以降に伝統が見直されることになる。

             そして、改革派の礼拝と長老派の伝統に関する神学者の研究が推進されていく。ウィリアム・ヤングはOPCでの少数派の意見書の署名人であるが、彼は、ロードアイランドなる大学の哲学の教授であり、クリスチャンオピニオン誌で論文を公表しており、17世紀のジョージ・ギレスピーなどの著作に影響を受けた。神学的著作を引用しながら、礼拝の規定的原理を明らかにした。


            このおじさんがWilliam Young先輩らしい


            ジョージ・ギレスピー先輩
            Rev. George Gillespie

             その中で、彼の主張は、聖書の本質的有線であり、聖書のみが誤りなき基準であること、神の主権が表明されるべきこと、また、人間の全的堕落の結果、人間的なものは神に受け入れられないこと、また、キリストの王権性が賛美されるべきことなどであり、教会統治などを教会は新しい方法としてつくってはならないということである。

             人間的な諸要素は、偶像崇拝の問題へとつながり、出エジプト20章の第2戒に抵触するものである。人間が生み出したものを賛美に用いることは偶像崇拝へとつながる可能性がある。これの類例は、旧約聖書に多数みられ、エレミヤ7:31では、高いところをベンヒノムの谷に作ったという事件がある。このことは、人間の思想に基づく礼拝は、罪の結果、数多くの悲惨を生み出すことを教えてはいないだろうか。人間の思想に基づく礼拝を次々捜索していくことは、神の命じられたことではないし、みこころにかなわないことであろう。ほかにも数多くの事例があり、創世記4章内の、カインとアベル事件、ナダブとアビブ事件、異なる火による祭儀の問題、民数記20章におけるケデシュ事件、第1サムエル13章におけるサウルが勝手に礼拝しちゃった結果、神の前から退けられる事件や、ダビデが神の箱に触っちゃった事件など、非常に多く見られる。


            感想
             まぁ、改革長老派の皆さんは、非常に詩篇による賛美歌がお好きで、それこそ、正しい賛美だとお考えであるいうことは、「参りました」というくらいよくわかりました。

             それと、議論好きというか論争がお好きというか、何かあると委員会作って、論争し、決着がつくかと思えば、それで決着がつかず、レポートという意見書みたいなものを作って、場外乱闘してはるし。いやぁ、議論における場外乱闘がお好きなウェスレー派の牧師先生とお友達(実は一つ下の高校の同窓生w)なんだけど、それ以上に、議論の世界におけるプロレスしてはるなぁ、と改めて感心した。

             まぁ、それと、詩篇歌といっても、グレゴリオ聖歌のような讃美歌ではなくて、ごくごく普通の讃美歌であったので、へぇ、という感じを抱いたのもまた事実。じゃぁ、そのメロディの正統性とかどうやって保証するのかなぁとか思いました。そのうち、ぽにょのメロディとか、「さんぽ」のメロディに乗せた詩篇歌とか、出てきたら、って考えてしまうと、何が伝統的で正統的なのか、って思わず考えてしまう。

             後、聖歌というか、賛美歌なんかで、やたらと戦闘的な讃美歌があるけど、あれを起点に聖書理解をくみ上げる人たちもいるからなぁ。


            Onward Christian Soldiers マライア・ジャクソン(歌) 
            しかし、こういうアフリカ系アメリカンの体格の良いお嬢さん方に囲まれたら、どうもすみませんでした、って言いたくなるよね。

             まぁ、この間、日本国中のあちこちで油まき散らした人の精神性もこれに近いのかもしれない。自分は主の兵士だ、だから、攻撃しまくってやる、って感じだったのかもねぇ。あぁ、頭が痛い。



            Give me oil in my lamp 


             神様からもらった油はご自分でお持ちのランプの中にどうぞ、お止めいただいて。
             油は外でまき散らすものでもないような気がいたします。炎上するなら、どうぞお一人で炎上していただいて、と存じます。

             まぁ、ものは見様ということはあるが、以下の讃美歌の歌詞だって、実はかなりギリギリの線ではないかと思っている。以下の讃美歌から妄想して、「シオンの山にオラ行くだ」といいだす人たちはあんまりいないかもしれないが、この聖歌にインスパイアされて「天国はほら、シオンみたいなところで、そこに向かって登っていくの」とか言いそうな人が居そうな気がするしなぁ。最近の山崎ランサム和彦さまの連載、じゃないけれど。





             詩篇歌でなければならない、というほどに個人的に讃美歌にこだわりはないけど、個人や集団の霊性に対して、讃美歌のもたらす影響は結構重要だなぁ、と改めて思った。まぁ、日本で、以下の3曲に霊性を感じる人って、どのくらいいるのだろうか。国民性もあるしね。


            Swing Low Sweet Chariot
             アフリカ系アメリカンのスピリチュアルソング


            God Bless Africa (Xhosa語だそうで)


            しかし、2曲目(2分30秒あたりから)がすごい。
            もう死もない、って南アフリカのアパルトヘイト時代を考えるとね。




            評価:
            ---
            Oxford University Press, USA
            ---
            (2006-01-13)
            コメント:大変面白かったです。英語も読みにくくはない。アメリカの原理主義とその社会の繁栄を考える上では、重要な1冊ではないか、と。

            2015.06.06 Saturday

            南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(6)礼拝論と賛美論 その2

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               この記事は、前回の記事 南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(5)礼拝論と賛美論 その1 (2015/05/30) からの続きである。今回もよろしければ、ご清覧いただけると幸甚である。


              http://commondatastorage.googleapis.com/prpbooks%2Fimages%2Fauthors%2Fweb%2FWilliamson_GI.jpg
              G.I.ウィリアムソン先輩

               G.I.ウィリアムソンは、合同長老教会の人物で、ニュージーランドの改革長老出身の人物であり、ウェストミンスター信仰告白の研究者。礼拝における規定的原理に大きな影響を与えた人物である。
               彼は、要求されている礼拝、要求されてない礼拝の違いについて述べているが、命じられていることのみされている礼拝が重要だと主張した。

               南長老教会は1940年代に長老教会からの分離し、南長老教会ジャーナル、長老教会ジャーナルへと移行した。

               ある面で、1958年という年がエポックメーキングな重要性を持つ年である。1960年代に、実験的な礼拝がもてはやされていく問題への対応が求められることになった。時代は、Weedと呼ばれるような麻薬によるサイケデリックが求められた時代であったのだ。

               モントリオールで、New Ways New Daysということが言われ始めた。(Political Backgroundとして、ベトナム戦争の影響があり、それに対する反対運動とヒッピー文化等のカウンターカルチャーの登場などが影響したものではないか、と思われる。)


              当時はやったヒッピーの皆さんの服装 これが当たり前だった

              「Psychedelic」の画像検索結果
              Counter Culture Movement)

               日曜日の朝礼拝、サイケデリックな集まりが行われ、教会でありながら、聖書的なものが見られない状態もあった。霊とまことによっての礼拝は消えてしまった感じであった。イエスが井戸のそばでサマリアの女と出会ったときに、霊とまことを以て父を礼拝する時代が来るといわれたのに、そうはなっていなかった。様々なイメージやメダルや、ろうそく、自由な表現での祈祷、むち打ちや薬物など非常に多様な人間的な要素が入ってきた。場所に教会は制約されないとはいうものの、ちょうど、ヒンズー教徒が針の上に乗り、巡礼の山に蛇を以て上がような行為ではなかったろうか。つまり、サイケデリックなディスコテーク音楽を礼拝堂に持ち込むことになる。これは、教会の世俗化ではないか。これは神礼拝と言えるのか。ということになる。


              ディスコテークといえば、ご存じ、サタデーナイトフィーバー

               1940年代に改革派グループの中での礼拝の再検証、北部の人たちで形成される主流派が自由主義的な傾向に走ったものの、南部は自由主義型の礼拝論に対抗しようとした。1950−60年代には、神学的下降を経験していったがそれを回復する動きがみられた。礼拝にかかわる教理の理解の整理が進められた。神の教会の豊かさを守るために 神学的リベラリズムへの戦いを行う中で、ピューリタニズムの再検討がなされた。

              (ミーちゃんはーちゃん的感想
               しかし、ここまで戦闘的にしなくてもいいかなぁ、とは思った。戦いだの、という語を使うことは個人的にはいまいちだと思う。)


              混迷の1970年代

               1970年は、不明化と混乱の時代であった。 RPCNAでは、20世紀の様々な動きの中でもアカペラでの詩篇歌賛美が行われた。なぜこの教派が伝統的であったかの理由はあまり明確ではない。1974年には、礼拝の聖書的教理が出版された。この中で礼拝の規範原理が取り上げられることになった。教派内の中で多様な考えがあり、RPCNAとしても讃美歌への考え方が一貫していなかったことが示される。

               フランシス・シェーファーがいるが、1960₋70年ごろにおもに活躍した。ラブリの設立者である。彼は、真実の真実とはなにか、を追求し、相対化された真理への対抗概念を主張するとともに、クリスチャンライフスタイルの問題を取り上げた。このことは彼の主張であるラディカル・ホスピタリティに示されていると言えよう。西側の死に絶えつつある文明に文化の改革を目指しての運動であった。この中で、文化の再構築が目指されることになる。福音長老主義が形成され、福音長老教会、RPCESを経て、改革長老エバンジェリカルシノッドが形成される。彼らは、近代への京あきとしてのかかわりを考えたグループであった。20世紀の終わりに、近代の形式や自由を利用しつつ、絶対的な真理を保とうとした。

              (ミーちゃんはーちゃん的感想
               いやぁ、シェーファー先生改革長老派系だったとは、不明にしてはじめて知りました。前期シェーファーと後期シェーファーはかなり味わいが違うことが、のらくら者の日記で以前指摘されておりましたが、後期シェーファーがアメリカのエヴァンジェリカル・ライトに与えた影響は多いのでねぇ)
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              フランシス・シェーファー先輩

               その中で、一定の柔軟性を容認したため。教会の権威に関する混乱が生じた。何が本質的で、状況依存的であるかを誤解したといえるであろう。シェーファーの様な有能な人でも、こういう過ちをやることがあることは留意すべきであろう。しかし、シェーファーたちの動きは、ある意味、時代の産物でもあった。この中で、礼拝の規範原理が再発見され始めたのである。その意味で、フランシス・シェーファーは原理主義的な人物としての礼拝理解の代表者であると言えよう。

              PCAの形成

               1973年、継続する長老教会運動がPCA内に組織された。その結果、南部の長老教会からからこのグループは離脱していくことになる。ミシシッピ州ジャクソンの改革神学校の教員であったモートン・スミス氏がいたが、彼は、元の教派からの離脱の擁護記事を書かせた。PCUSの礼拝論の下降に関して、彼は様々なものを書かせたが、その中で、礼拝は教会のしるしであり、大教理問答集と小教理問答集から規範原理を示した。リタージカルな暦や、教会歴は、安息日の重要性を下げるとして批判した。この教会歴というものは、その根拠もないものであった。リタジーにおける強調に関する不安感が高まっていた。

               1968年には、モントリートでサイケデリック礼拝が教派主導で行われた。実験的な礼拝を総会が批判しなかったことが批判され、サイケデリック礼拝が教派の黙認のもと行われることとなった。真の教会から、この礼拝の部分において離れたものとなった。
              (ミーちゃんはーちゃん的感想
               割とミーちゃんはーちゃんは同じことを繰り返すのは、個人的に性格が飽きっぽいこともあって嫌なのだが、さすがにサイケデリック礼拝を挙行する気力も能力もない。同様に、ラップ礼拝とか、プログレッシブロック賛美とか、ヘビメタ礼拝もできない。そんな根性なしであることを想った。世の中には、ヘビメタ礼拝はあるらしいけど・・・)


              Heavy Metal Worshipで出てきた讃美歌 FYI

              礼拝の堕落

               礼拝の堕落は、画像やシンボルが用いられるうちに始まるのではないか。十字架やキリスト像などが教会堂や日曜学校で見られるようなイエスの画像が登場することとなった。継続する長老教会運動が起きると、純粋な礼拝を守るための希望になった。この純粋な礼拝を求めることは、教会の改革になった。教理における正統性と礼拝における正統性が一致しているものが目指されたと言えよう。これに反して、PCAでは、礼拝に関して一致していないことを示す結果となった。

              (ミーちゃんはーちゃん的感想
               いや、これ言い始めたら、東方教会は堕落しきっていることになる。いやぁ、ピューリタンの皆さんの純粋性へのこだわりは尊敬を覚えるけど、しかし、ロシア正教やギリシア正教の皆さんは、聖書が読めない人々への対応をしてきたからこそ、伝統的に画像の利用やろうそくや様式性の理容をしてきたのであって、その歴史的営為の本質を顧みずに、このように切ってすつるに何がある、とやるのはどうかなぁ、と個人的にはおもう。)
               特に幅広い福音派と一緒に様々なことへの対応をする中で、改革主義や長老主義に立っていない人もいた。(あたりまえである)

              礼拝は何のためにあるのか?

               礼拝は、礼拝自身のためにある。聖書により厳密に規定されている立場であるものの、多くの福音派のかなりの部分はや多数派は、礼拝は伝道の手段としての立場をとっている。

               Smith論文(この講演の著者なので、事実上のステマ)の主張がまとめられており、キリスト像とか画像が教会堂で示されることの否定をしたものである。1973年、ジョージア州アトランタでの歴史的ウェストミンスター長老教会でこの問題にかかわる討議が行われたが、この教会の教会堂には、キリスト像を描いたステンドグラスがあるその前でこれらのことが議論されることになった。

               1970年、ウェストミンスター神学校との関係の中で、ポイスレス教授は、排他的な詩篇利用(詩篇だけを賛美とする)に関する2つの論文を書いたが、礼拝の規範原理を支持しているように見えるものの、実態としてはそれを無形化しているものであった。礼拝の異なる区別性を否定する立場であった。同論文は、リダスカリアの立場のものであり、詩篇のみの賛美をいうものの、祈りや説教と同じような要素であるとし、賛美歌は、祈りや、説教、訓告の別手段だといっている。この立場には問題があり、公的礼拝における朗読と説教の区別が問題となってしまう。

               聖書を礼拝で読むことと、説教をすることの間に連続性が強調されてしまう。神の御言葉の特別性が失われるという面がある。適用される価値があるから特別であると主張されているが、それは完全に逆立ちした議論であり、聖書のみが神のことばであり、そう取り扱われる必要があるといえるだろう。

               この論文では、礼拝における諸要素を否定している。礼拝に諸側面があるといっている。礼拝規範原理が軽んじられると、礼拝の軸がなくなることになるといえるだろう。しかしながら、この議論は、割と広く受け入れられた。

               ウェストミンスターの神学校のジョン・フレームの影響は強くみられた。彼は、1980年以降カリフォルニアのエスコンディアに移って、そこで20年奉仕をした後、フロリダの改革神学校の教員になった。彼の礼拝に関する考え方は奇抜なものであり、異彩を放つようなものであり、いくつかの問題点を含むものであった。

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              John M. Frame先輩

               礼拝の要素は御言葉として規定されているが、それをジョン・フレームは、諸側面であると換言し、定められたものとしてない天が問題である。このため、礼拝における様々な表現の可能性が出てくることになった。

               例えば、御言葉の朗読すら、礼拝の要素であるとは限らない。フレームの理論では、御言葉の説教は規定されてないことになる。説教を歌にしてもいい、となると、説教を謳いながらすることを禁じられないなど問題が出てくる。

              New Lifeの礼拝について
               C.John Millerというフィラデルフィアのペンシルヴァニア正統長老教会の人物がいるが、伝道熱心で知られ、恵み深い人ではあったが、非常に柔軟な礼拝形式を採用し、彼の理解は改革派神学の枠組みではかなり奇妙なものであった。1977年、神学生であったマイケル・ブッシェルは排他的詩篇主義を擁護する論文を書き、1980年に最初に出版され、その後、2011年の改定が最後となるまで3度書き換えられた論文がある。規範的原理が基礎である、と主張した論文である。カルビン主義の子孫は、礼拝の規範的原理を重視すべきであるが、それを軽視する場合、カルバン主義者と言えども実際は名目的なものになっているのではないかと主張している。


              Jack Miller AKA C. John Miller先輩

              Micheall Bushell先輩

               規範原理は、守るか守らないかではなく、礼拝の規範的原理それこそが改革主義の信仰であるといえるのではないだろうか。

              1970年代のまとめ

               教会の中で、PCAが組織されたが、何に対抗してかではなく、何のためにできたかを考えた組織であった。この結果、教派の中での亀裂が生まれた。保守的、伝統的な南長老主義の形式を守る敬虔主義であったが、伝道のための手段として礼拝と考えるグループが見られた。フィラデルフィアは、ウェストミンスター神学校でも実験主義的礼拝論が持ち込まれるなどのことが見られた。

               聖書神学的なアプローチが流行り、組織神学な方法が影を潜め、組織神学なカテゴリカルな研究が困難になる そして、非公式な神学校で、New Life Worshipが入ってくる傾向が見られた。礼拝の中で、リタージカルダンスのような要素が組み込まれもした。
               マイケル・ブッシェルは、ウェストミンスターの信仰基準に立ち戻り、それに忠誠を果たすべきとしたといえるだろう。

              1980年代のまとめ
               ケビン・リードは、長老主義ヘリテージ出版という出版社が発足し、長老主義を擁護をする出版社を設立した。
               1984年にジェームス・ジョーダンへの批判を行った。高教会的な国教会への傾向をカンタベリー物語とまで批判した(胴もあまりにひどい、と言いうことをご主張したかったらしい)。ジェノバ神学校の補助を受けた新聞でタイラーの精神世界が入っている論文が出版されたことを強く批判した。それは、教会活動の堕落であり、見せかけだけでけのもの、腐敗であり堕落であることは、明らかであるとした。改革派の規範原理を否定、教会の中での迷信的不当な行為を導入し、告白に立った長老主義を否定している。(ここまで言わんでも、と正直思った。さすが戦闘○○の血が・・・やはり、ピューリたんは女子キャラがよいなぁ。)


              教派擬人化マンガ の ピューリたん

               1995年にケビン・リードは、聖書的礼拝という本の中で標準的な説明を行っている。聖書は、神が命じられたこと以外の要素を禁止している、とした礼拝における聖書的な定めを陳べている。
               人間的な革新的なものが流入することに抵抗している。1988年にカール・ボーグ(この人初出なんで詳しくは改革長老派の詳しい人に聞いてくれ)という人は、礼拝の聖書的規則という記事を書いた。これが、規範的原理の標準的な擁護論であった。規範的原理を批判することは、ローマカトリックへの魔術的批判力を失う。規範的原理を緩め教会にいろんなことを持ち込むことは、灰の水曜日などカトリックの教会の礼拝、ペテロの祈り、司祭への告解、教皇権の尊重など、教会の悪事があった時代に戻すことになる。(またまた戦闘的な…)

              「Carl W. Bogue」の画像検索結果
              Carl Bogue先輩

               16世紀以前の状態に戻すことになる。カール・ボーグは、PCAにおける伝統主義者の代表的人物であり、伝統主義者は広い意味を持つとした。

               改革長老はないでは、礼拝の規範原理を認める人から、そうでない人まであったことを認めるている。また、楽器を使ったり、賛美のあり方への多用な試みがなされた、しかしながら、改革長老派の伝統は、コンテンポラリーなもの、実験的なものを否定するというの点で一致していた。とはいえ、伝統主義者たち以外のものもあり、別方向への動きもあった。
               たとえば、マルチメディアを利用したものを、いわゆる「礼拝」の中で行うべきであるとした。1983年のインスピレーショナル礼拝という語を用いられ、マルチメディアを利用されたし、スライドショーの中ではイエスの画像が利用された。PCA総会で、マルチメディアプレゼンテーションが実際に行われた。(よほど、講演者のスミス氏にはショックだったのであろう)PCA以外の聖歌隊により、ロック風の賛美が行われた。このことに対して、50人の役員が抗議文に署名した。このようなプレゼンテーション手法によるものが主流になっており、改革派の礼拝理解に反するものであり、非改革派的な伝統の受容であり、聖書的原理とか、改革派の独自の神学を反映してない。

              (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
               いや、改革派を守ることは大事か知らんけどぉ、しかし、それに汲々としておられるんじゃあ~~~りませんかぁ。何のための礼拝か、何を礼拝はするものか、を忘れて、改革長老派の伝統を守れ、ということしか行ってなくて、非改革派的なものを何が何でも絶対排除、改革長老派のスタイル死守ってことになってないかなぁ、と思いました。まぁ、お立場からのご発言とは受け止めたので特にコメントは申し上げませんでしたが。)


              吉本新喜劇 チャーリー浜による「じゃあ〜〜〜りませんか」

               総会では、好意的にリタージカルダンスとかバンゴの採用とかを好意的に受け止めた。そのような行為は、礼拝は、まずもって神への感謝を示すために行われるべきものであるべきではないか。夕方の集会が礼拝を含む限り、聖書的であり、規範的礼拝の原則に沿うべきであろう。伝道中心の集会あれば、これらの方法がとられてもかまわないとは考える。

               しかし、礼拝を大きく変容させることに関しては、本質的な理解に立って和解を得ようとしているという以上の困難性を感じるし、教会員の中の考え方に混乱を生み出すものではないだろうか。

               そういう多様な概念や方法論、音楽携帯の導入という行為の正当化に関して、夕方の集会と礼拝(要するに伝道のための集会を指すらしい)とその他のプログラムとの融合が目的であり、その他のプログラムは宣教命令の実現手段の一つと理解したことが問題であった。

               しかしこのようなものの導入により混乱が生じるのである。礼拝の規範原理が意味を持つなら、礼拝の中にいろいろな人間的なものを含むべきではないだろう。
               1980年代には、ピューリタニズムの再覚醒があったが、それと同時に、カトリック的なハイチャーチ的なものへと向かっていった人もいた。PCAは表面上ウェストミンスター信仰基準を堅持しているとみられたが、歴史的な長老派理解から外れていたようである。過去の歴史を振り返れば、PCAの将来には、わずかな希望しかないのではないか。

               終わってから質問したことの中に、詩篇歌というが、地域や教会によって当てているメロディーは同じか、というと、違うことがある、ということと、メロディはかなり自由に採用されるのか、とお聞きしたら、採用されうる。南部のフォークソング等も讃美歌のメロディとして採用されうる、という話であったので、あぁ、なるほど、そういう世界で、多少はメソジストの巡回伝道師がしたようになじみのある楽曲の利用もないわけではないのだなぁ、だから、なんとなく慣れ親しんだ曲の上に詩篇を載せて詩篇歌として歌っておられるのだ、ということはわかった。

              感想

               個人的に改革長老派の信者じゃないので、別に改革長老派の中で、バトルを繰り広げていただこうが、大激論を繰り広げていただこうが、実に結構なのだけれども(基本関係ないので)、まぁ、実に戦闘民族という言葉がふさわしい、とは思った。その激しさが、アメリカを作り上げたともいえるが。

               上記の紹介文中でも時に触れたが、時間がなかったということもあるのだろうが(それに合わせて、原稿をきれいにまずは整えておいてほしいとは思ったが)、結構いきなり初出でそれまで説明がない人が、ポッポと出てくるのには正直参った。

               あと、改革長老派の伝統を清く正しく美しく守りたい、という講師のSmith氏の情熱はよくよく伝わったが、情熱のあまり、他の人の礼拝形態を過去の因縁も関係性も文脈もなくぶった切るようなご発言がかなりあり、それはどうかなぁ、と思った。

               まぁ、この後、この講演会に誘ってくださったありがたい改革長老派のE先生とFacebookでやり取りしたのだが、恐らく、この詩篇歌をどう維持するか、とりわけ、アメリカにおける多様な民族性の霊性の中で、どのように維持されていくのか問題になりそうだ、ということのやり取りをさせてもらった。

               しかし、ミーちゃんはーちゃんは、ふざけたところのある人間なので、ジブリ音楽のいくつかのメロディに乗せて、詩篇歌を謳う時代がそのうち来るのではないか、と思いながら、一人でニタニタしていた。


              さんぽ


              ポニョ

               この連載も、あと2回で終わり。




              2015.06.13 Saturday

              南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(7)礼拝論と賛美論 その3

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                 この記事は、南部の長老教会の歴史研究のシリーズである。今回もよろしければ、ご清覧いただけると幸甚である。このシリーズの今回と次回は、讃美歌編である。

                礼拝について
                 1990年、10年以上の議論の成果として1992年に「神の前における礼拝」というエッセイ集が出た。PCAのFrank J. Smith(この講演の著者)とDavid Rackmanによるものである。
                 20世紀の様々な改革長老派的な視点からのすべての礼拝の要素を扱ったものが出版された。礼拝の規範的原理を説明している。礼拝とは何かという入門書で、礼拝は別のものから区別されるべきであるとSmithは指摘した。

                礼拝とは
                 礼拝とは、ダイアロジカル(対話的)なものである。即ち、神と人との対話の性質を持っている。そして、それは聖書に規定されている。礼拝の要素は、科学的における分子結合のイメージのメタファーである。科学の分子結合がそうであるように、各要素は基礎的で、分解不可能であるものを示している。科学の用語では、これ以下に分割はできないものであるように、礼拝の諸要素に分割できないものがある。そしてそれを統合したものが礼拝である。礼拝の形式は要素抜きには構成できないし、要素から離れて各要素は存在しないし、形式自体として礼拝の様式は存在しない。要素は、ある種パッケージ化された契約である。礼拝の各様式と全体は、形式と目的と内容をもっている。

                 礼拝とは、神のことばだけが存在するのではない、を述べることであり、礼拝を形成する何かがあることを具体的に指し示すことである。

                John Knoxから考える礼拝論

                 Kevin LeadによるJohn Knoxの議論の論文が出ているが、Knoxは規範的原理のために献身的に奉仕し、礼拝の純粋性のために奉仕した人物である。Leadは教会は礼拝の規範的原理の再確認すべきであると主張した。あきらかな根拠がないかぎり、礼拝内では、定められた要素以外は認められるべきでないとしている。これは、Sola Scriputuraの精神の延長で考えるべきではないだろうか。

                礼拝を巡る論争

                 Kevin Leadは誤った礼拝の不道徳性の理解を失っているのではないか。誤った宗教理解や行為は、学問的なものではなく、人間の魂を破壊するものである。道徳の堕落の一種ではないか。これらの原理からの堕落の理解は、誤った宗教理解の中で、この理解の緊急性を示している。

                 反論として、James Jordanは論文集でリタージカル・ネストリアニズムという本を出した。ネストリウス派は、初代教会の異端的な教会であり、異端であると批判した。そして、Smithらの礼拝の規範的原理は、礼拝の規範的原理におけるミニマリストだし、ディスペンセーショナルな理解であるとすらいった。ミニマリストであることとは、あまりにも理性主義的であると主張している。Smith論文(この講演した方の論文)では、霊的な礼拝と言いながら、非物質的であり知性的に理解していると批判されており、哲学的な方向性において、異教的だとまで主張している。


                James Jordanさん


                 反論としては標準の改革派的長老主義的プロテスタントにおいては、禁欲主義ではない。礼拝における外見的な派手さを反対ているからと言って、禁欲主義的ではないのである。標準的改革長老主義は、聖書的区別と旧約聖書における儀式的礼拝と新約における天に向かう礼拝との区別している。

                 Jordan氏は聖書的礼拝の規範的原理を否定している。神学的誤解は、規範的原理を理解していない。組織神学とのかかわりにおいて取り扱わないといけないことから来ている。組織神学は、聖書的原理を理解しようとする。Jordan氏は、組織神学を固守しようとしなかった。伝統的改革派的組織神学の否定は、学問的で、理知的、グノーシス主義的で律法主義的なもとなると理解したことに由来していると思われる。その結果、礼拝についての規範主義性をもJordan氏は否定している。

                礼拝の規範的原理をどう擁護するか

                 Morton SmithらGreenville 長老主義神学校の創設メンバーは、礼拝の規範的原理を擁護する本を出している。Old Path Blue Banner Magazineなどが、歴史的ピューリタン的出版社からこのような本が出ている。

                 John Frameは、礼拝の規範的原理を疑問視する論文を公表している。礼拝の規範的原理の理解の混乱が続いていた時期に様々な。ウェストミンスター信仰告白を裏切らないと言いながら、裏切っていたのではないか。生活一般と特別な礼拝の厳格な区別をあいまいにした。このような厳格な区別をいい加減にすることは、ピューリタンの保持してきた歴史的規範的原理は意味がなくなる。

                 このことから大きな問題が生じた。霊とまことによる礼拝の新しい聖書的な見方という書籍論文を出して、

                 フレーム氏は、信仰告白の原理を言明しながら、その信仰告白そのものを意味無くしてしまった。広義の礼拝ということで、規範的原理を人生のすべての部分に適用することを生み出し、新しい人間的な制度の存在を示そうとした。規範的原理の基礎を示した本の中で、規範原理を内側から崩壊させた。礼拝の要素や部分に関して、ウェストミンスター信仰告白について、深刻な問題があり聖書的な根拠がないと主張している。公的礼拝にあるような具体的なことを書き尽くしていないといっている。ピューリタンの聖書理解の中で、細かな礼拝規定の諸要素までは聖書内にリストがあるとは言わないが、基本的な行動原理について、権威付けがないとは言えないであろう。

                 フレーム氏は礼拝の諸要素という概念の問題は諸要素を区別していないという点である。礼拝の要素や部分というよりは、アスペクトというべきではないか、と主張する。たしかに、要素がなく側面があるとすれば、礼拝の規範的原則に何が残るか。ルター派またはアングリカンの見方から違うといえるのだろうか。

                 フレーム氏は、礼拝の中でなすことのリスト化に至る。あいさつ、祝祷、聖書朗読、説教と聖霊の賜物としての預言と異言の祈り、祈り、誓い、信仰告白、聖礼典、教会会規、献金、交わりの表現がある。これは標準的な分類ではない。ドラマを説教にしてしまう。説教と教えを一体化させることで、正当化しようとする。このフレーム氏のリストからは大幅な間違いがあるのではないか。交わりの表現を以下集中的に考えたい。

                 礼拝は垂直的であるとともに、水平的でもある。神の栄光が称えられるとともに、隣にいる信徒との関係も重要である。交わりの食事、聖なる口づけ、お知らせも礼拝の一部であると考えるに至り、人間を称賛することも容認された。神に対する最高の賞賛を容認に抵触しない限り、という限定条件付きであるが。拍手やハグや、歌ったり、握手したりすることは間違いではないとされた。このような礼拝論は、何と言っていいのやら、という印象がある。

                 改革派の神学者が、礼拝の中で、人間という限りあるものに対して栄光を与えることはかなり驚くべきことである。そもそも、神の時間のためのものの一部を人間に与えるとはどういうことかを考えるべきであろう。


                リタージカルダンスの例

                 フレーム氏らの思想の結果、ダンスも教会の中で認めることになる。このフレーム氏の見方をどう考えるか、プロテスタンティズムそのものに反対していないといっても、礼拝の規範原理を否定していると言わざるを得ないのではないだろうか。さらに深い神学的問題を生み出していった。

                 というのは、3つの違った視点を同時に持つことが重要であることをFrame氏は言っている。状況的、規範的、実存的要素の3つであり、これら3つは平等であるといっている。礼拝の規範的原理はこれら3つのうち一つに過ぎないものとされている。この結果、主観主義に陥り客観的な聖書的根拠を失っているのではないだろうか。

                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                 しかし、講師のSmith先生は、結局は、このJohn Frameという人のお考えが容認できないほどSuperDooper大嫌いだ、ということはよくわかった。
                 なお、このリタージカルダンス、いくつかYoutube動画を調べてみたら、結構アフリカ系アメリカ系教会員が多い改革長老派の教会と、韓国系の教会に多いことが分かった。まぁ、この完成は、ミーちゃんはーちゃんにはない。むしろ、静かで必要にして簡素、しかし様式性を持ちながらも、霊性にあふれる礼拝がよいなぁ、と思っている。
                 T David GordonはPCAの牧師は、伝統的な見方の擁護者の一人ではあるが、とはいえ礼拝の教理の中で3番目のカテゴリーを作り出した。要素と状況に加え、形式を導入し、多様な形を主張した。用語や内容の固定がなされず、柔軟に理解されてよいといったがある程度容認されるものではあるが、みことばの朗読の内容は固定されたものであるはずであり、旧新約聖書において限定されたものであるはずである。同じように、歌うことも、賛美も、固定されたものであると講師としては主張したい。礼拝とはどのようなものかに関しては、聖書それ自体が形式は自由なのか固定なのかを決めるべきであろう。

                テリー・ジョンソン氏の立場

                 1987年、PCAの牧師であるテリー・ジョンソン氏は、インディペンデント長老教会で奉仕していた。彼はダウンタウンで伝道し、会衆の様々な支援をした。伝統的な教会賛美の形を主張した。言葉だけの韻律詩篇歌集が出版された。

                 1996年にジョンソン氏は、「礼拝の中で導く」という本を出版し、今日の実践を推進しようとした。ジョンソン氏は、穏健的な規範的原理の立場の中心的人物で、礼拝の要素を限られたものに限定することを試みたとはいうものの、形式概念を広くとり、公的な礼拝において、霊感されてないものを賛美として使うことを試みるなどした。

                 規範的原理に関する賛否両論の議論が数多くなされている。多くの書店から、保守的な視点の書籍が出ている。
                (ミーちゃんはーちゃん的感想 
                結局、現代受けとか、目先変わったことやったことに関する反動なんだろうなぁ、と思った)
                 改革長老派のリベラルに近い側では、礼拝の規範的原理は疑問視されてきた。ウェストミンスター神学校のフレーム氏のように、礼拝の表現を状況依存的に扱ったために、様々なものが礼拝に侵入してい来る結果となったPCAでの大多数の一致により同じような用語は用いられているがその実相は多様なものである。

                 一部の人々の中には、画像などの象徴を用いることと聖書の象徴の違いが不明確になってきており、儀式的な教会で、霊的高揚を感じ、彼が告白してきた礼拝との統合で混乱する人々が出てきた。州軍のチャプレンとして奉仕したある牧師の場合、多くの諸教派のつながりができた結果、一般的なプロテスタント様式との一致を図ることの正当化が求められたりすることで、改革長老派以外の伝統が流入してくることになってきた。ピューリタンの規範的原理に従うキリスト者が少ない現状がある。

                礼拝の多様性の問題とピューリタニズム

                 ピューリタンの礼拝的原理の数の問題で決まらないことは重要ではあるが、もうちょっと長老主義者は公同教会から学んでもいいのではないか、と思い始めた人々が出始めた。ゴア博士のような人々は、長老主義ピューリタンの礼拝にくさびを打ち込んだ。ウェストミンスター神学者会議の修正は振り子のようだった。

                 Calvinとその後継者、イングランド、スコットランドの違いは、自然な論理的な発展であり、この発展は一種のパラダイムシフトではないかと考えた。つまり賛美や礼拝に関する前提が変わったのではないかと考えるようになった。

                 ピューリタンの礼拝の理解は誤りを生んでいる可能性があり、ピューリタンの合理主義は、こころの活動に限定するようになり、バランスを欠いていて、ピューリタン自身の禁欲的な傾向に新プラトン主義とストア派的なものが働いているのではないか、と指摘した。

                 ゴアは、契約的生活こそ、礼拝だといっている。ジョンHホワイトが礼拝の規定的原理を守ると言いつつも、礼拝の規範は、生活の規範的原理の一種であると考え、ピューリタンの礼拝の規範的原理の本質を失わせていったのではないか。

                 彼らの目からは、礼拝の規範と生活の規範は同じものであるとされた。フランシス・シェーファーは創造の中で、形と自由はともに基礎づけられている、バランスよく言明されてないといけないと主張した。


                 ゴアは、最終的に契約的礼拝原理という本としてまとめているが、その中での重要な要素としては礼拝の契約的原理は、どのような方法でも礼拝する自由を含む、としている点である。聖書に一貫する限りにおいては礼拝の中で受け入れられる、とした。

                 このような考え方とピューリタンの考え方との大きな違いがある。ピューリタンにとっては命令されたものか、非合法なものかのどちらかでしかなかった。
                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                 この二律背反的な論法がどうもアメリカ型の改革長老派に割と特徴的な気がして、というよりは、アメリカ人がこの二元論的論法が大好きなので、それが改革長老派に入っているのかなぁ、という気がする)
                 もし、聖書に直接命令されているのであれば、直接命令されているものであり、論理的必然性から示されるものとなるであろうし、また間接的に示されるものであれば、一般的なものとして示されていると思われる。

                教会の公同性をどう考えるか(ゴア氏の所論をもとに)

                 ゴア氏は、プロテスタント一般は、ローマンカトリックや東方教会から学ぶことができるのではないか、といったのである。プロテスタントの教会は非典礼的なことに落ちてしまっているのではないか。改革長老派は今日的な理性主義的なものに偏って、教えることばかりの改革派的なものは、東方正教会の神秘性が何らか貢献できるのではないだろうかという指摘もしている。

                 礼拝が、公同の礼拝であるならば、他の伝統からも学ぶことができる可能性があるのではないか、という指摘をすると同時に、他の教派における聖書的伝統は真理があいまいかもしれないけれども、という主張はしている。
                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                しかし、改革長老派ってのは、本当に自派の教義というか教理にものすごい矜持というか、自信があるのだなぁ、と思うなぁ。こういう話聞かされると) 
                 この他派(とりわけ正教会?)から学ぶことに関しては、明確にNoといわないといけない。サクラメントの理解と礼拝の神秘性の理解を混同している。改革長老派として、ゴアは、改革派の伝統に気づいていないのではないか。ゴア教授の場合、彼は保守的な改革長老派の信徒数を恥じていることの繁栄の可能性があり、(アメリカにおける)カトリックや東方教会系に対する数の少数性に引け目を感じているのではないか。礼拝は文化的に敏感なものであり、礼拝の変容は、神の救済の一部を示すものである。聖書と文化との関係は、聖書が文化を受け入れるものではなく、聖書を社会のものとすることであろう。改革長老の礼拝論の神髄は、社会において文化的な受容がなされたときになされうるのではないか。

                (ミーちゃんはーちゃん的感想
                 ここまで言われると、かえって清々しいし、恐れ入りました、って感じは受けたけど、まぁ、しかし、なんとなくある種のにおいも感じないわけではないかなぁ。別にいいけど。)
                感想
                 個人的には、様式論的美的センスは教会の中で、もう一度再考されたらいいなぁと思うのである。再興ではなく、あくまで再考である。
                 もちろん、もともとが理知的なので、思想信条的には改革長老派の理解とそう遠くないと自分では思っている(こういうことを書くと違うとE先生からはおしかりを受けそうであるが)のであるが、理性だけですべてのことを説明できるとは、さらさら思いもしていないので、このあたりどう考えるのか、ということは考えないとまずいかもしれない。

                 まぁ、「おうどん」で人々を魅了するような、「おうどん攻撃」する教会もどうか、と思うが、しかし、ガチの理屈づめで味わいのない教会というのもなんか人工調味料のみで味付けしたうどんスープのようでねぇ、とも思う。まぁ、それぞれ、一人一人、霊性の傾向が違うから、それぞれが適切に考える方がいいかなぁとは思った。キリスト教は多様な伝統であり、改革長老派もその伝統の大切な、特にアメリカでは極めて重要な一つであるとは思う。


                歌川広重画 淀川 手前の船が淀川川下りで見られた物売りの舟






                2015.06.15 Monday

                南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(8)礼拝論と賛美論 その4

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                   今回も、南部での改革長老教会の歴史に関する講演会に行ってきたその時の講義録をご紹介したいと思う。今回が最後である。これまでのご清覧を感謝するとともに、今回もよろしければ、ご清覧願いたい。

                  改革長老の礼拝のコアとは何か

                   聖書の中の礼拝の変化を想定することは、聖書外の要素の礼拝への導入を正当化するためにかなり用いられてきた。聖書外のものを含むように礼拝を変えてしまうのなら、礼拝の教理を外れていることになる。そのような環境の中で、長老教会にとどまるかの意味が果たしてあると言えるのであろうか。

                  様々な展開とその問題

                   2000年にさらに、PCAの二人の牧師が規範的原理に反対する本を書いた。セントルイスの牧師である、ジェフリージェレマイアは礼拝のリニューアル運動の中に入っていた。2003年に主の礼拝、契約的更新の恵みという本が出版された。この本で明らかにピューリタン信仰に対して、マルキオン主義的な悪影響を与えるものであった。同署は、非常に異端的なもので、旧約聖書の神と新約聖書の神は違うとした。ピーター・グレッグハートは小児聖餐の支持者であった。様々な空想的な考え方に賛成してきた。2003年に、沈黙から歌え、というタイトルの本を書いた。ライハートは、礼拝の規範的原理を批判したのである。礼拝の規範原理は実際において、解釈論的に木のようなものであって、神学的にはマルキオン的であると主張した。なぜ、礼拝の規範的原理が木のようかものであるかに関して、彼は礼拝の一つ一つの行為を明確な独立したものとしたことにあるとみている。
                  (ミーちゃんはーちゃん的感想
                   この部分で、木というメタファーで何を言いたいのかは、英語を聞いていてもよくわからんかった)
                   マルキオン主義的だと批判するのは、旧約聖書を無視している点である。象徴的なことは、教会の中で信仰の義認と洗礼にのみいろいろ言われた。特にパウロの新しい視点に賛成したことで、改革長老派教会から追われた。聖書のみの原則と礼拝の規範的原理に関する本が出た。

                  (ミーちゃんはーちゃん的感想
                   パウロの新しい視点、NPP(パウロの新しい視点 New Perspective On Paul)の肩を持つと、改革長老派では居辛くなるのね。そらぁ、NPPやN.T.ライトは、基本的に改革長老で厳しいはずだわ)
                  改革派内の回帰運動
                   DGハートとミューターは改革派の礼拝の基本に帰れということに関する本を出版した。伝統的な礼拝論を擁護した。礼拝における規範原理を当てはめることで、神が明白に命じていることのみをするべきであり、それ以外は禁じていると主張した。礼拝の規範性の原理に対して、聖書の朗読や、沈黙、ろうそくに火をつける、旗を飾るに関しては禁じられると同書で主張している。

                  (ミーちゃんはーちゃん的感想
                   ここまで悪しざまに言わなくてもいいんではないかと思った。形だけの批判であり、その奥にある省庁を考えていない、物言いではないか、と思った。ただ、それを地教派に取り入れるかどうかは、それぞれのキリスト者集団の中における判断だろうと思うけど。)

                   D.G.Heartは2003年4月に本を出版し、アメリカの長老主義の本当の区別はリベラルと福音派の区別ではなく、フォーマリストと、反フォーマリスト、敬虔主義者と非敬虔主義者、形式主義者、非形式主義者の間の区別であるとした。

                   リバイバル運動の人気があったことと、アメリカでのキリスト教の個人主義的表現が礼拝の形を守ることは難しいものとした面があったことを指摘した。19世紀の中盤までは、歴史的プロテスタンティズムの中で、教会の高踏的な見解は重要な主張であった。教会の高踏的な側面を高く意識するカルヴァン主義はアメリカ社会の粗雑さに対する一種の解毒剤でもあり、ある福音主義者集団の中で、カンタベリー(聖公会)やローマ(カトリック教会)、コンスタンチノープル(正教会)の手助けとなっているかのごとくみられる傾向を生んでいた。

                  改革長老派の中での相転移

                   アメリカ長老主義のなかでの礼拝の皮肉的な現象としては、保守的な長老主義者が礼拝に関して新しいもの好きで、リベラルな長老主義者が逆に保守的・伝統主義的な態度になっているの点である。アメリカの長老派のこのようなねじれは18・19世紀のリバイバリズムの影響である。

                   感情的な回心体験に主眼を置くリバイバリズム的な運動は、改革派の高踏的な教会主義とは一緒にならない。20世紀に入って、実用主義的な伝道への系統が、他の考え方を抑えるための切り札になり、ジョン・フレームが提唱するような礼拝理解への変容を可能にし、わかりやすくすることになってしまった。
                   
                   ウェスレー主義の文化によって派生したペンテコステ的な運動が生まれる中でのジレンマに悩んでいる。この時代に依拠して、形式を無視するという動きである。改革派的な敬虔さ、単純さといったコアの部分をどう提供できるか、ということが問われているのであろう。カルバン主義的な礼拝の厳しさは、あるいは神に喜ばれることは、現代のアメリカ人にとっては悪臭を発するものであるかのごとく思われるかもしれない。アメリカの長老主義たちはジレンマの中で身をかわそうとするなかで、カルバン主義的の適切さにかんする一体性尊厳を保持できなくなってしまった。
                  (ミーちゃんはーちゃん的感想
                   しかし、まぁ、ペンテコステ派の派生形の中には問題がないものがないとは言わないが、それは時代と社会的環境の中で生み出されていき、変質していったのであり、ここまで言わないでもいいかなぁ、と思った)
                   2003年に開催された北米改革長老の総会で、歴史的伝統に疑問を呈され、礼拝に関する研究の委員会が設置された。その結論としては、礼拝の規範的原理は、聖書の礼拝の教理の本質的部分であり、その基準となる議論が示された。 

                   未だにこのような礼拝に関する興味が続いている。伝統的アプローチの弁護する書物と学問的歴史的評価をしたD.G.ハートの本が出ている。

                  礼拝の規範的原理を巡る整理

                   2005年から今まで、告白する長老主義者という雑誌で、この礼拝の規範的原理に関する議論が続いている。保守的メインストリーム改革長老教会では、この礼拝の規範的原理の否定は続いているものの、なんとなくわかるかという程度の扱いでしかない。大きい教派の中にあって、礼拝の規範的原理は、周辺的な扱いをされていることが多い。礼拝の規範的原理は、聖書からのものというよりは、キリスト教文化の中で語られるようになっている。こういう考え方への賛同者も確かにいるが、大きな教派では公的なレベルで逆方向に向かっている。こういうことは大規模な教派群の中でのピューリタニズムの再発見が期待されるし、大きい教派群は様々な礼拝の規範的原理の動きから取り残されるかもしれない。

                  1)1930−40年に改革派の再発見がカルビニスムのルネサンスへとつながり、礼拝の規範的原理への関心を喚起した。
                  2)RPW 改革派的な重要性を主張した
                  3)RPWは、要素と状況が必要であり、要素を棄てるのは、もったいないという議論になり。裏口からさまざまの礼拝をするために多様な表現方法を持ち込むのはどうか、ということが議論され始めた。。
                  4)保守的な長老主義は、礼拝の規範的原理を信じているが、統一して何を意味するかがなく、混乱がそれで生じている。
                  5)リタージカルダンスのような奇妙なものが礼拝の規範的原理以外のものが持ち込まれ、正当化されている。
                  6)ごあのような教理を否定するものはいるし、修正主義者もいるし、フレームのように再定義する人のようなものがいる。無視する人もいる。適当に使っちゃう人もいる。グリーンビル長老主義神学校などもある。
                  7)歴史資料の研究の観点から考えるのと、新しいものを考える人は、ピューリタンとカルバンの間にくさびを打ち込もうとしているようなものである。ピューリタンはカルバンを否認せず、その神学基礎の上で考えている。
                  8)礼拝の聖書的規範原理は、組織神学の理解に依存していて、組織神学は聖書神学だけではない。
                  ウェストミンスター神学校は、贖いの歴史を強調し、組織神学まで弱体化させている。
                  9)礼拝の規範原理を拒否するものは、義認の否定などの変なことが起きる場合がある。ノーマン・シェパードはその反例であるといっている。シェパードの礼拝の教理をかたちづっくった経緯は興味深い。ジョン・フレームを見ると、神は純粋な霊である以上のことであると言っている。
                  10)礼拝の規範的原理に関しては、音楽という面で議論になる。音楽以外のことにも関わるが音楽論争が感情的になり過ぎており、議論の焦点があっている。

                  インターネット時代における礼拝議論

                   過去20年にわたって、ピューリタン的礼拝の関心があり、インターネット上で議論されている。同時に、対抗する考え方もあり、高踏的な教会という側面を持つ改革派的な形がある。契約の更新、ニューライフアプローチ、などに見られる現代の礼拝の例は、礼拝のもう一つの形、契約的な礼拝。保守的で福音主義的な教会は、礼拝の規範原理を固く持つ人たちを追い出すことが多いようである。長い目で見れば神の祝福を経験しないことになるのではないか。今日の教会は、コミュニケーションする機会がある。16世紀の印刷術と21世紀のインターネットが対応関係にあるだろう。印刷でのコミュニケーションより、もっと早く反応が始まるし、インターネットの各種さいやそこでの議論の深まりと共に礼拝的な規範原理は、神の手の支配の中で、広がるのではないだろうか。新しい倫理的問題、戦争、迫害、ローマカトリックの改宗政策などがある国やイスラムの台頭などがある。宗教改革時代も同じ問題に現代もなお直面している。だからこそ使徒的、預言者的礼拝に関する視野が重要なのである。教会の黄金時代がやってくる期待に心合わせている人々は、様々なものが飛び交っている現代であるとは言うものの、キリストの花嫁に捧げられる主の命令に従った自覚的礼拝がささげられる時が来ることは、極めて重要になるのではないか。

                   伝統的な長老主義的な聖書による規範による制限された礼拝は勝利することは確信しているが、人間の心が変容させられる時にそれは起きるのだと思う。福音そのものが勝利するのは、それが現実のものになるときであり、丁度ノアの時代のように神の支配により、全地を水が覆うようになる時現実になるのだ。

                  質疑応答の時間から

                  Q. 改革長老で、ギリシア正教やカトリックの典礼を参考にする背景にオックスフォード運動とパラレルな関係のある背景があるのではないか?
                  A. おそらく、19世紀のオックスフォード運動は、ロマンティシズムの背景ではないだろうか。ヨーロッパで起きたものがアメリカにも大きく影響した。当初、北側でこの種のギリシア正教やカトリックの様式を参照にする運動が、結果的に南側にやってきたと認識している。ただし、美的な点を強調するものは、聖書的なものとは逆ではないか。(この辺が、美を重視するライトとは方向性が逆なんだよねぇ。その意味で、出がらしのだしを必死になってそれを守らなければ、という感じを受けた)

                  Q.ロマンティシズムとヒッピー文化の改革長老派が礼拝の規範的原理への挑戦ともいえる動きにつながったのではないか。
                  A.恐らくその面があるだろう。それと同時に、19世紀が重要なのではないだろうか。教会の崩壊は19世紀後半にはじまり、理知的な信仰であるリベラル派との戦いとエバンジェリカルの中にからはじまった。19世紀にはじまり20世紀に広がった。モダニスト対ファンダメンタルズの戦いのなかで、教派の境界が緩まった。その結果、教理の特徴点を軽視する傾向がある。包括的なリベラルとの戦いの中で、独自性を保つのは、知的なトレーニングが必要。
                   JGVossはその中で、信仰における基本線がどこにあるのかを示した。


                  ミーちゃんはーちゃん的感想

                   まぁ、今回の講演者の方は、非常に保守的な無楽器的なアカペラによる詩篇歌とピューリタン的な礼拝にこだわりがあるんだなぁということはわかった。現代人をどお酒用が何だろうが、この幅にはまる人だけ、どうぞ、って感じもしたなぁ。まぁ、相対化し、多様なキリスト教の概念がある中でも、自分たちのスタイルを守られたいのは、よくわかったので、どうぞ、その方針を今後とも堅持しつつ、多様なキリスト教の伝統の一角を極めて明確に保持していっていただけたら、と思う。




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