2015.05.11 Monday

「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(1)

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     お付き合いいただき、いろいろ仏教のことを御教示いただいている魚川祐司さんが『仏教思想のゼロポイント』をお書きになられたので、拝読した。一言でいうと、かなり仏教世界の理解がかなり進んだ。おそらく、この本が、自分たちの中の人に語っているための本であるというよりは、他者との対話を求めているオープンマインドな本であるからではないか、と思う。

    労働を拒否する仏陀?
     個人的に、臨済宗のお寺の方とのつながりが深いので、臨済宗のお寺の方は、お料理したり、お掃除したりするのを拝見していたので、「普通そうなんだろうなぁ」と思っていたら、何と、仏陀は仕事をして対価を受け取るという形の労働を拒否してるんか、と追ってびっくりした。
     重要なのは、ここでゴーダマ・ブッダが明らかに、一般的な意味での労働 ーー 即ち、何かしらの仕事を提供して対価を受け取ること ーーを、拒否していることである。(『仏教のゼロポイント』 p.25)
     そうだったんだ。まさに、宇宙戦艦ニートにでてくるヒッキーではないか。仏陀様はヒッキーという時代の最先端を行かれた方だったのね。あ〜〜〜しらなんだ。


    宇宙戦艦ニート

    正しく生きるとは無関係な仏教

     キリスト教でも、明治以降伝わってきたキリスト教が、キリスト教倫理として受け取られ、本来的なキリスト教のそのものでないことをキリスト教としてきた部分が全くないわけではないので、人様のことを言えた義理ではないが、魚川さんの著書によれば、仏教にもそういうところがあるらしい。
     ゴーダマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用を持つものである。
     このことは、仏教を理解する上で「絶対にごまかしてはならないこと」であり、またこのことを明示的に踏まえておくことなくしては、ゴータマ・ブッダの仏教のみならず、「大乗」を含めたその後の仏教史の展開についても、その思想の構造を適切に把握することはできないと、私は考える。(同書 p.37)
     しかし、”「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用”という表現を見て、「あぁ、仏教って本当は革命思想だったんだ」ということを思ったのである。まぁ、キリスト自体も、ある面革命思想だったことを思うと、まぁ、何とある面で言うと革命思想という意味では似てるといえば似ているかもしれない。しかし、向いているベクトルが、キリスト教と仏教で逆方向というのはあると思うけれども。

    仏教って何?

     今の私たちの触れる所謂日本型の仏教は、「正しく生きる」みたいなことになっているため、案外本来の仏陀の思想をわかりにくくしているのではないか、ということを魚川さんは指摘しておられる。先に触れた明治期以降、日本に入ったキリスト教が結果として西洋倫理に化けてしまっていて、本来的なイエスの語った言葉のその「みずみずしさ」を失っているということを改めてパラレルな関係で捉える事が出来そうな気がする。
     このようにゴータマ・ブッダの仏教を理解することによって、私はその価値を、貶めようとしているわけではない。むしろ話は全く逆で、彼の仏教を「人間としての正しく生きる道」と言った理解に回収してしまうことをやめた時に、はじめてその本当の価値は私たちに知られることになるし、また「仏教とは何か」という根本的な問題についても、正しい把握をすることになるというのが、本書の基本的な立場である。(同書 p.37)
     魚川さんを囲む形で友人の知人QH氏ほか原始仏教の研究者、フリースタイルな僧侶たちの関係者、新聞記者、宗教学の大学院生とで、つい最近食事をする機会があったのだが、「仏教とは何か」が問題となったのは、基本、西洋人がインド学をしていく中で、仏教思想というものを析出する必要に迫られたなかで、仏教というものの大枠が定められたという話であり、それまではそれぞれが、それぞれがそれぞれが重要だと思う仏典(お経)を大切にしながら、仏教と思う思索と業をしてきたものを独立して実施してきたのがおおむねの状況らしい。まぁ、ある意味で、それぞれの仏ごとに涅槃(Nirvana)がある世界らしいので、そういうそれぞれ独特の仏教感があっていいのだろうと思うし、それを無理に一つにしてしまうような近代主義というのは、そもそも仏教的ではないのだろうなぁ、と思った。

    お門違いな期待が寄せられる仏教

     キリスト教に関しても、倫理を求めてくる人々がおられるが、それはたぶん違っている。キリスト教は、神との関係の回復を求める人に関する聖書理解と神との関係にかんするものである。類似のことは、仏教でもあるらしく、その点について、魚川さんは次のようにお書きである。

     そもそも、「科学性」や「合理性」がお好みなら、仏教の本等捨てて、自然科学の本を読めばよいし、「処世術」を知りたいのであれば、2500年前のインド人が語ったことにより、現代日本の状況に即応した自己啓発書でも読むほうが、ずっと参考になるだろう。先ほど述べたように、俗世の処世が仏教の問題なら、それが数千年の時間と数千キロの距離を超えて、現代日本にまで伝わったはずはないし、科学性と合理性のみがずっとすぐれているのだから、今更仏教を学ぶ必要など存在しない。(同書 p.38)

     いわれてみれば、これもキリスト教と同じである。「俗世の処世がキリスト教の問題2000年の時間と数千キロの距離を超えて、現代日本までに伝える意味」は確かに全くない。その意味で、キリスト教に求めるべきものは、断絶された神との回復を求めることであり、神の前に立ち返るというその思いなのである。 

     では、ブッダの教えとは処世術でないとすれば、なんであるかといえば、結局、聖書世界で言えば、結果だけ言えば、預言者的行動をした人物といえるだろう。そのことに関して魚川さんは王書いておられる。
     
     本書を通じて確認してきたように、ゴータマ・ブッダの教えというのは、人間が放っておけば自然に向かっていく流れの方向に、真正面から逆流することを説 くものである。「来たれ比丘よ。正しく苦を滅尽するために梵行を行ぜよ」という彼の言葉は、現代日本人の感覚からすれば明らかに「世の流れに逆ら」った、 「非人間的な生活」へと人を導くものだ。(同書 p.38)
     確かに、旧約聖書の預言者は、イザヤにしても、エレミヤにしても、エリヤにしても、他の預言者にしても、「非人間的な生活」は勧めなかったが、「世の中の流れに逆行し」た結果、結果としてはろくでもない「非人間的な生活」を送る羽目に陥っている。結果は似ているが、仏教とキリスト教、あるは聖書が示すこととの違いは、以下の魚川さんが指摘する部分に現れていると云えるだろう。
     ゴーダマ・ブッダの教えに従って渇愛(引用者註、何かを欲しくてほしくてたまらなくなるという気持ちと、ほしいという気持ちが気になってしょうがない状態)を滅尽した修行者は、「この世とかの世をともに捨て去る」。この、「この世とかの世をともに捨て去」った境地、即ち解脱・涅槃の風光こそ、時代や地域がいかに異なろうとも変わらない普遍的な価値であるはずであり、それがいかなるものであるかを探求しようとすることこそが、仏教理解の、まさにアルファでありオメガであるはずだ。(同書 p.38)
     
     では、この伝でいくと、キリスト教理解のアルファであり、オメガとは何か、ということを考えてみたくなった。個人的な見解であるが、キリスト教理解のアルファであり、オメガであるものは、キリスト、ハリストスとも呼ばれるナザレのイエスやイェシュアと共に神と共に生き、そのナザレのイエスが、状況や時代を共に超えて、この地上でのキリスト者の生を共にするということではないかと思うのだ。つまり、神と和解し、神に抱きかかえられることで一つになる経験と我等は我らでありつつも、神が我等と一つになり生きる、という神秘(言語で言い表し得ぬもの、ミュステリオン)そのものが、神の愛であり、聖餐が示すものであろう、と思っている。詳しくは、最下部で紹介する、アリスターE.マクグラス先輩の聖餐論をご覧いただきたい。

     つまり、仏教は、捨て去ること、永遠に続くシステムである輪廻からの解放がその風光であり、キリスト教は、生きること、永遠に続く神と共に生きることがその風光であるといえよう様な気がするが、違うかもしれない。多分、ミーちゃんはーちゃんのキリスト教理解が間違っているかもしれないが、個人的には聖書はそう言っているような気がする。

     キリスト者が仏教本を推奨するのはどうかとも自分で書きながら思わないではないが、キリスト教以外の異なる世界理解を持つ他者との対話の中でこそ見えてきたキリスト教に関する理解があるので、このシリーズまだまだ続きそうである。



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    コメント:キリスト教書ではないが、対話相手としての仏教の全貌がざっくりつかめる良い本。

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    コメント:マクグラス先生が語る聖餐。そこに示されるキリスト教のミュステリオン。

    2015.05.18 Monday

    「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(2)

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       今回も、魚川さんのお書きになられた「仏教思想のゼロポイント」第2章あたりから、ご紹介してみたい。

       なお、以下の英字表記では、文字に付されている記号は省略しており、ぜひ原著をおあたりいただきたい。

      煩悩や迷い

       仏教が煩悩からの脱出というものにかかわる問題意識であることは承知していたが、煩悩とは、個人が悩みを抱え続けていることだと思っていたが、そのことに関して、魚川さんは、割とわかりやすく書いてくれている。
       心に煩悩のある状態、すなわち「迷い」の状態とは、どのようなことを言うのだろう。仏教では伝統的に、その様に心に煩悩があって、こころがけがれている状態のことを「有漏 (sasava, s.sasrava)」と呼んできた。(中略)要するに煩悩が垂れ流され続けていて、こころがその影響下にある状態のことを「有漏」と言っているわけである。
       (中略)ブッダやアラカンが解脱を完成する智慧のことを「漏尽智(asavakkhaya-napa)」といっているが、これも漏が滅尽して、心から煩悩のけがれたがなくなることが、「悟り」であると考えられているからである。(仏教思想のゼロポイント pp.42-43)
       この「漏」という概念が、どうもキー概念であるらしい。そのことに関して、魚川さんはこう書いている。
       このような漏の影響下にある衆生の行動様式のことは、現代の日本語でいいかえるとすれば、「悪い癖」というのが適切であろう。それは主観的で盲目的な行為であって、「これは悪いことだ、無意味なことだ」と頭でわかっていたとしても、気がついたら、いつのまにかやってしまっていることである。仏教で「修業が必要とされる理由の一つがこれで、頭で正しい理屈を知っていたとしても、習慣的な行為を止めることができない限り、達成されたとは言えないが「悟り」というものの性質だ。(同書 p.44)
       ようするに、「漏」というのは、わかっちゃいるけどやめられない、という感じのことらしい。その意味で、植木等先輩のスーダラ節というのは、まさに「漏」の世界と言えるのかもしれない。お若い方は、スーダラ節をご存じないようなので、ご紹介しておきたい。


      スーダラ節

       まぁ、なんにせよ、依存の問題(アルコール依存、薬物依存、性依存、ネット依存、SNS依存など)という依存症の世界は、そのことに心が奪われすぎていて、そのこと以外のことへの対応が十分ではなくなり、社会的な生活に障害が出てしまうような事例であり、これは、もう「漏」という世界を超えて、治療が必要な場合に相当するであろう。

      縁起の重要性
       縁起ということは、社会の中における諸要素の作用反作用のことである。そのことに関して、魚川さんは、次のように書いておられる。
       この縁起というのは、前章で引用した成道後のゴータマ・ブッタの述懐において彼の証得した法の道理の一つとして語られており、また「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る」という有名な言葉にも表れているように、疑いもなく仏教の中心思想であるのだが、そのいいするところは極めてシンプルで、「縁りて起こること」という字義どおり、「原因(条件)があって世紀すること」という、基本的にはそれだけの意味である。
       そして、とくにゴータマ・ブッタの仏教について考える際には、縁起を常にこの言義から把握しておくのが、おそらくは一番誤りが少ない。(同書 pp.47-48)
       「縁りて起こること」を表す日本の故事表現に「風が吹けば桶屋が儲かる」ということがあるが、これは、現代のことばで言えば、因果関係である。この因果関係の束を考えるのが、システム理論であり、その因果関係の束で考えながら、世界を描いていこうとしたのが、ちょっと古いが、石油がなくなるという予測を出して世界を震撼させたローマクラブの「成長の限界」である。しかし、ローマクラブの予測によれば、もう既に石油は無くなっているはずだが、社会は人間の関与でできているので、ローマクラブの予測ほどにはうまく動かなかったし、またこの予測が出たことに加え、中東戦争やオイルショックなどの要因もあり、石油は現在でも枯渇していない。

       現在話題のビッグデータは、この論理的なつながりである縁起を逆演算してその論理的なつながりを明らかにしようとする一種の後付理論である。



      ビッグデータの説明の音声 かなり荒っぽいがまぁ、ポイントはついているかも

      「苦」とは何か

       苦に関して、仏教ゆらいの日本語表現にもあるように、「四苦八苦」という言葉にもあるように割と重要な概念である。そのことに関して、魚川さんは、次のようにお書きである。
       私たちが漢訳で「苦」という言葉を目にした場合、それは直ちに日本語の「苦しみ」を連想させるから、仏教における「苦(dukkha)」というものも、痛みや悲しみといった肉体的・精神的な苦痛を意味するものだと、一般には考えられがちである。
       しかし、そうだとすると、快楽には触れた生活、例えば、ゴータマ・ブッタが出家の前にしていたような生活はそのようなものであったとされているが、それは「苦」ではないのだろうか。そうとは言えない。今日天の説くところに従えば、たとえ誰かがある時点で快楽を感じていたとしても、その感受でさえ、「苦」であることには変わりがないのである。
       dukkhaという言葉を訳す時、現在の英訳では、しばしばunsatisfactorinessという単語が使われる。日本語に訳せば「不満足」ということになるが、これはdukkhaのニュアンスを正しく苦いとった適訳だと思う。
       (中略)欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態をこそ意味することを示しているからである。 (同書 pp.50-51)
       この「苦」の魚川さんの説明を読みながら、実は、これと同じようなことをキリスト教でもやっているということを想ったのだ。何かというと、発言者(聖書の場合は、イエスであったり、パウロであったり)の意図と受取人である現代日本人の理解者との間で、翻訳を挟んでしまったときに、大きなずれが出ている場合がある、ということである。
       典型的には、「救い」あるいは「天の国」、「誉」とか「栄光」とかというような、実に基本的なキリスト教の諸概念が、日本語に翻訳された瞬間に別の意味合いが出てくるのみならず、日本語的概念で理解された聖書の本来的な意味とは異なる意味での理解が独り歩きしてしまい、いつの間にか、神の裁きを起点とした「神の怒りの裁きから逃れることそのものが救い」であるかのような聖書理解のみが、あたかも「正しい」キリスト教の主張であるかのようにお語りになられる方もある。実に残念なことなのではないかと思うのである。
       確かに、公開中の「Telos理解」でキリスト教的な終末論をラッド先輩のご著書をもとにご紹介しているが、神の裁きは聖書の主要な主張のある面であるけれども、その裏面は、神との一体化、神による人間世界の抱擁というのか、和解でもあるEmbracementでもあることを忘れてはならないのだが、人間はどちらか一方を提示されて、それを受け入れることが簡単なために、複眼的思考ができないのである。そのことに関して、敬愛してやまない、津の「のらくら者の日記」のお方は最近のご投稿「生きてますよ」で、次のようにお書きである。
       18世紀のニューイングランドで起きた「大覚醒」について、これら2冊のそれぞれの著者の捉え方はまさに対照的です。ロイドジョンズはこれを聖 霊の大いなるみわざとして純粋に信仰的出来事と解釈します。他方、森本氏は関係者の信仰的背景を浮き彫りさせつつ、宗教社会学的現象として説明します。あ る意味両極端であります。しかし互いに極端であるが故に、私はどちらも真実であると思います。両極端の真理を無理に和解させる必要はありません。むしろ真理とは、内村鑑三が語ったように、2つの中心を持つ楕円形で ありましょう。ジョン・ストットもかつてこう述べました:"The truth is at both extremes, even if we cannot reconcile them.(真理は両極端にある。たとえそれらを調和(和解)させることができないとしても)" 楕円形は歪(いびつ)ですが、真理とは人間の目には往々 にして歪(いびつ)に映るものです。巡回伝道者の話の上手さには裏がある(森本氏)。しかし神はそれを聖霊のみわざとして大いに用いられた(ロイドジョン ズ)。事実は歪(いびつ)に映りますが、どちらも真理です。
       
      「真 理は円形にあらず、楕円形である。一個の中心の周囲に描かるべきものにあらずして、二個の中心に描かるべきものである。あたかも地球その他の遊星の軌道の ごとく、一個の太陽の周囲に運転するにかかわらず、中心は二個ありて、その形は円形あらずして楕円形であるという。・・・・人は何事によらず円満と称して 円形を要求するが、天然は人の要求に応ぜずして楕円形を採るはふしぎである。楕円形はこれをいびつと言う。曲がった円形である。決してうるわしきものでは ない。しかるに天然は人の理想に反して、まる形よりも、いびつ形を選ぶという。」
       
      「イギリス人、特に知識階級のイギリス人にはエキセントリック(eccentric)な人が多く、話をすると実に愉快だ。エキセントリックとは 辞書に「変な、変わっている、異常な、奇矯な」と定義してあるが、英語の strange, queer, unique, unusual などと違い、英国では良い変わり者の意味として使われている。」(以上、恒松郁生氏談 『ミスターパートナー』誌 2015年1月号 No. 316  p. 32)  
       
      「エキセントリック(eccentric)」とは、もともとは「中心(centre=イギリス英語綴り)をはずすこと」が語源ですが、これは奇しくも上記の内村鑑三が述べた「真理は二つの中心を持つ楕円形である」との言葉を想起させます。

       (のらくら者の日記 より)
       案外、こういう二つ、あるいはそれ以上の核、極、centreを持つということを、認識でき、それを現実社会の中で、うまく運用できる人は案外少ない。本来、大学という組織は、そういう多元的、多極的な見方をある個人の中で統合的に、一見矛盾する概念を共存させつつ、現実に対応させる能力を涵養する教育(それが本来のリベラル教育(教養教育)というものであり、左派風の教育のことではない)をするところが大学であるはずであるし、大学時代に確立しておくべき内容であるのだが、近時の某公党が狙っているような専門学校化ということを言うこと自体、それらの議論をしている人々が、本来的なリーダーシップ教育を理解もしてないし、大学教育と、社会のリーダーシップを持つ人材を育成するということを気にもしていない、ということだと思う。

       まだまだ、この連載、のんびりと続く。



       
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      コメント:わかりやすくて、仏教思想の基本形がなるほど、と思えるかたちで把握するにはいい本だと思う。

      2015.05.27 Wednesday

      「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(3)

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         さて、今日も、仏教のゼロポイントから、少し触れてみたい。いやぁ、この本は、今大学2年生の息子が目をキラキラさせて、読んでいる。高校までに習ったことや、これまで聞いてきたこととは違う仏教の革新性を知ったようだ。それは、この50を超えた人間ですらそう思うのだから、余計にそうだろう。

        無我とは
         まず、無我について魚川さんはこうお書きである。
         「無我(anattan s. anatman)」というのは、仏教の基本教理であるといわれている。だが、これらは同時に仏教史を通じて常に議論の的になり続け、また現代でも多くの実践者・学習者を混乱させ続けている概念である。(仏教思想のゼロポイント p.80)
         無我は基本的にかなり理解が困難であり、実践者レベルでも、学習者レベルでも混乱が生じているということだから、教えている方が混乱しているのかもしれない。あるいは、そのことの主要論点以外のものが含まれていて、その本質的な理解の妨げになっているのかもしれない。それは、ギリシア哲学の影響をかなり強く受け、現代のアメリカの文化的背景の中で様々な受けてしまっているキリスト教から、イエスが説いた破れのあるもの(不完全なもの、罪ある者)であるが故に、神と共に生きよ、ということが理解されないように。

         「無我」という概念には様々な矛盾が含まれるように思われるし、だからそれと相性の悪い輪廻説をゴータマ・ブッダは説かなかったはずだ、といった、誤解も生ずることになった。しかし、私の見方では、こうした様々な矛盾点は、いずれも「我」や「無我」の性質を適切に整理して把握し切れてないことから現れる、見かけ上のものにすぎないように思われる。(同書 p.81)

         ここで無我と輪廻説が適切に理解されてこなかったのは、見かけ上のことであり、本来的にはこれがかなり結びついていて、そこをきちんと理解することが重要である、ということをご主張なのであると思う。その意味で、ブッダの言ったはずのことをゼロポイントとして原点をきちんと与えさえすれば、これらの問題は回避できるのではないか?というのが、魚川さんのご主張なのだろう。これは、Historical JesusやNew Perspective on Paulという概念とよく似ているのであろうと思う。その実情の確定には困難を伴うが、それを少なくとも視野にいれて理解する努力くらいは必要なのではないか、ということであろう。

         このような主張の文脈を考慮に入れずに、「無我」という言葉のみに引っ張られて、ゴータマ・ブッダは言葉のあらゆる意味での「我」即ち実体我のみならず経験我まで余すところなく否定したと考えてしまうと、最初に伸べたような深刻な矛盾に直面することになる。ゆえに、「無我」というときの「我」が「常一主宰」の実態我であるということは、最初にしっかりと確認しておかねばならない。(同書 p.82)
         この問題は、近代の測度論の議論とかかわるのだが、観察者(つまり「我」とは何か、それが一種の架空上の、あるいは作業仮説としての不動点に立つと考えうるのか、という問題と類似の問題を提起していると思う。その意味で、ブッダが主張した「無我」の「我」とは、実態が、すなわち観察者としての実存は確定している、その観測者を取り巻く環境や、観測点そのものの不動点性というのか、安定性は確約されないにせよ、ということなのだろうと思う。

        無記 わからない、あえて言わない
         近代人は一つの教説があると、その教説ですべてをシステマティックに無制限に説明しようとする傾向を持つ。それこそ、近代思潮の特性であるユニヴァーサリズムの反映であるが、世の中そうは甘くないのである。全てのことに答え得ない限界を持っている、というわきまえは必要なのだろうと思う。そのことに関して、魚川さんは桂紹隆という方の理解を引用しながら、次のように書く。
         仏教学者の桂紹隆は、広くインド仏教思想史における「無と有」を巡る議論を参照した上でこの経典(引用者注 アーナンダ経)を取り上げ、「アートマンの有無に関して『沈黙』を守った『無記』の立場、したがって有と無の二辺を離れた『中道』という理解こそ、初期経典に記録される仏陀のこの問題に対する最終的な答えであったのではないかと思う」とのべ、「無我説」でも「非我説」でもなく「無記説」こそがブッダの真意だったのではないかと推測しているが、私もこの解釈に同意する。(pp.87₋88)
         このどちらとも言えない、あるいは無記という立場を取り上げて居られるが、これは近代人が心すべきことを示していると思う。我々は、超人になったような気になっていたり、イエスを知っていたりすることや、聖書をちょっとばかり知っていることで、自分自身は人間ではなく、すべてのことをわかっているという理解に立ち、他の人を裁いたり、他の人をおかしいと言ったりすることがある。世の中、そうは簡単に出来上がっていないのである。

         むしろわからないことをわからないというこの一種の経験的なかつ敬虔な「知る」という認知論的な立場について、もう少し思いを巡らした方がよいのかもしれない。

        システム理論と経験我と仏教の縁起
         個人的に一般システム理論をコンサルタントの道具として利用していたりするが、その世界は合理の世界での原因と結果の関係の構造を理解しようとする世界であり、基本的に、これまで、西洋哲学が、ギリシア哲学が、自然の最小構成物質は何か、ということを考え、原子(Atom)を考えたその線に則り、最小構成単位に分解して、バラバラに分解して理解する等方法論をとってきたが、これは、すべてのシステム内の諸要素は記述可能であり、記述すべきであり、「無記」という部分はないはずだ、という大きな暗黙のパラダイム、作業仮説以前の公理系に依存している考え方であるが、この40年位、割と受け入れられてきた考え方の中に、このような分析的な公理系の支配する世界に落とし込まない、Wholisticな理解、わからない部分はわからないとしながら、細かな議論の世界に入らずに全体の挙動を考えるという非常に動的で、かつ非分割的な理解体系が生まれているが、そのグループは、Mandara System Theoryとか、明らかに仏教的な概念を導入したシステム理論が現存する。

         以下に紹介する魚川さんの記述を見ながら、あぁ、なるほど、このシステム理論家のグループは、この常一主宰という概念を借りたのだ、と得心が行った。

         つまり、ゴータマ・ブッダは現象の世界(世間、loka)内の諸要素のどれかが実体我であるように考えることについては明確に否定しているが、常一主宰の実体我ではない経験我については、必ずしも否定していないということである。では、ここで否定されていない経験我、「自己を頼れ」という場合のその「自己」とは一体どのようなものであろうか。
         結論から言ってしまえば、それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の一時的な(仮の)和合によって形成され、そこで感官からの上方が認知されることによって経験が成立する、ある流動し続ける場のことである。(同書 p.89)

         システム理論屋は、システムを観測するものの、その観測点の定常性は確保できないため、常一主宰の実態がではないので、その経験がに頼るしかなく、そうなると、観測者も動的に変化するシステム内で位置付ける必要があり、そのための説明概念として曼荼羅とか、仏教的なシステム論理解を言いだしていたのだ、ということが、よくわかった。この仏教的なシステム理解やシステム理論は、日本人やアジア人が言い出したのではなく、分析的な方法論の閉塞性や行き詰まりにこまりあげた、分析的な英米のシステム理論家が言い出していたのであった。

         ここでいう「経験我」だが、但しそれは、原因・条件によって生成消滅する(縁生の)感官からの情報によって形成されているものであるから、もちろん無常・苦・無我という三相の性質を有しており、時々刻々流動している。したがって、その中のどこを探しても、固定的・実体的な、常一主宰のアートマンは見いだせない。だからその経験我は、「我ではない (an attan)」のである。(同書 p.90)

         ここらを読むと、なんだか不確定性原理のような話である。ある面で言えば、人間にとってはそもそも原点が定められないほどの存在である、という意味だろう。この辺が、システム論の実践家にとっては案外重要なのである。自分自身がわかって入ると思って、実際の問題に取り組もうと思った場合、自分が観測者としてシステムの近傍をふらふらしただけで、システムの挙動が不可逆的に変わってしまっていることがあり、本来目標とした観測対象の記述内容がもはや、観測時とかなり異質なものになっている例等、結構頻繁に発生する。

        あるシステムコンサルの現場事例から

         実は、お近くのある農業法人と情報処理関連のシステムの実証研究をしているのであるが、その法人に出入りして、調査をし、先方の要望を聞いてみるという行為そのものにより、既に問題自体と、対象主体が独自に動き始めており、変容してしまっていて、システム導入の必要性がなくなったりしていることがあるのだ。逆に、調査を行う外部のコンサルのようなものの存在が、対象となる法人の中に明示的な存在としてシステム内の人々に認識されることで、影響を与え、問題の解決をかえって困難にすることも出てくることは、しばしば経験することである。
         まさに、以下で魚川さんがお話ししていることが起きるのである。そして、苦を解決しようとして苦の原因になることがあるのである。

         世界(loka)において認知される諸現象(sankhara)は、内面(主観)的なものであれ外面(客観)的なものであれ、そのすべてが原因・条件によって形成された(sankhata,有為の)一時的なもの、すなわち縁生のものであり、したがって無常である。「無ー我( an attan)」だということで、ゴータマ・ブッダが否定したのはそうした無常の現象の世界の中のどこかに、固定的・実体的な我が存在していると思い込み、そしてその虚構の実体我に執着して、苦の原因を作ることであった。(同書 p.91)
         しかし、「無情」ということを考えると、理想の結婚、理想の職場、理想の教会、理想のなんたらとかいうことを言いやすい、キリスト者のうちの一部の人々については、ブッダからは、「自ら苦界に落ちてどうするよ」といわれそうである。

        輪廻と無我

         仏教は輪廻の概念とは切り離せないが、それはシステムは定常的なものではなく、原因とその反作用という非常に複雑なシステム内で相互に、活動的に影響しあう状態である、というもの言いであり、悪行の結果、餓鬼道に落ちたり、というのは、一時的なものであるということは言えそうである。
         輪廻と無情の関係を、魚川さんはこのように書く。つまり安定的な状態であり、確立された状態にない「無我」であるからこそ、システムは相互に影響を与え続ける、すなわち輪廻するということらしい。
         仏教の基本的な立場は「無我なのに輪廻する」ではなくて、「無我だからこそ輪廻する」というところにあることは、直ちにわかるからだ。(同書 p.92)
        より具体的には、
         それでは、「何」が輪廻し続けているのか?それは仏教の立場からすれば行為の作用とその結果、即ち業による現象の縁起である。つまり、行為の作用が結果を残し、その潜在力が次の業(行為)を引き起こすというプロセスが、ひたすら相続しているというのが仏教でいうところの「輪廻」の実態なのであって(以下略 同書 p.96)

         システム理論の著作者のゴールドバーグ氏の本の、確か「コンサルタントの秘密」中か「ワインバーグのシステム思考法」の中に、次のような事例が書いてあった。
         あるコンピュータの出力を処理する(今はこんなことはしないが、昔はディスクのほうが紙よりはるかに高価であったので)ために、非常にとんがった針状のものを出力用紙に差しこんで穴開けし、、位置決めをするための工具を作った会社があった。すると、持ち手の工夫がまずくて、手のひらを指す人や指をさしてしまう人が続出した。そこで、持ち手をつけたら、その持ち手が重たいので、針が空に向かって出るようになり、その上に坐って、ズボンのお尻を破る人が出てきた。・・・・と何か問題を解決するたびにその問題解決によって、別の新たな問題が発生した。

         まさしく、コンサルタントとは、他人の問題を解決しながら(あるいはしているふりをしながら)、新たな問題を作り出すような仕事なのである。まさしく、「輪廻」の世界に生きるのが、コンサルタントなのである。とはいえ、仕事の納期があるから、これでやるしかないのであるけれども。

        輪廻とは、無限に続く状態変遷

         つまり以下の引用文の様に、状態変遷し続けている状態が「輪廻」らしい。そら、システム理論家が引かれるわけである。
         つまり、輪廻というのは精神的と物質的の現象(名色)が継起し続けるプロセスのことであって、ある「人」が一つの生から別の生へと生まれ変わっていく物語のことではないというのが、引用文の言うところだ。(同書 p.98)
         システム理論家は、客観的に現象と対象を観察する、つまり、平たい言葉で言えば、ありのまま、観察するということをしているはずであるし、その目標とすることは、現実の問題(苦界)からの脱出支援であるのであるが、コンサルタントといえども、ブッダの言う意味での無我ではないために、新たな苦界を生み出すという輪廻の作業に携わっているのだ。苦界が解決して、ハッピーエンドになるのは、どうもディズニー映画の中だけらしい。
         つまり、実態の原因については、マルコフ連鎖の様に確立的に収束しないまま、延々と定常状態の近傍で、原因と結果とその反作用という世界の中で、不安定的に変遷しているのが、という感じなのかもしれない。

         ゴータマ・ブッタの仏教の本筋は、このように物事を「ありのままに知る (yahabhutam pajamati)」ことによって苦なる現象の縁起(=輪廻)から解脱するということにあるのであって、そのこととたんなる転生ではない、現象の縁起としての輪廻の理解とは、もちろん密接にかかわっている。(同書 pp.98₋99)


         アナ雪 高知語版の「生まれて初めて」
        高知ではカツヲのタタキに包まれることがあるらしい。


        鹿児島の名物、名所と共に「ありのままで」薩摩弁バージョン

         アナ雪の様な世界では、最後は王子様が出て、問答不要で音大解決してしまうので、この世界では、輪廻から脱出でき、悟りが開けた状態になってしまうのかもしれない。まさに、ディズニー映画とは、王子様によって悟りを開く世界を描いているのかもしれない。

         こう見てくると、システム論は作用と反作用を観察し、社会に起きている現象の構造を見て、対策を考えようという理論背景であるから、なるほど、ゴータマ・ブッタと同じ立場といえなくはないので、その意味で、これを発見したつもりになって、マンダラシステム理論とかいう立場が出てくるのはわからなくはない。

         次回に続く。



        評価:
        魚川 祐司
        新潮社
        ¥ 1,728
        (2015-04-24)
        コメント:非常に参考になる。釈迦の世界観とその反映である仏教のわかりやすい入門である。

        評価:
        G.M.ワインバーグ,木村 泉,ジェラルド・M・ワインバーグ
        共立出版
        ¥ 3,132
        (1990-12)
        コメント:システム理解とコンサルタントが知っておくべき秘訣のようなものが書いてある。SE業界に行く人には読んでおくことを勧める。

        評価:
        ---
        ---
        ---
        ()
        コメント:これだったかもしれない。この本もSE死亡している人や、SEさんは読んでおいたほうがいい。

        2015.06.20 Saturday

        「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(4)

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          今日も魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」を読んで面白かったことを紹介してみたい。

          輪廻からの解脱とは

           仏教思想の解脱を説明すると、そういう現実の世界から思想というか、観察あるいは観念の上で出ていき、その抜き差しならない、左様と反作用の世界の枠に捕らえられなくなることだ、とかごく簡単に説明していくと、時に、それは自殺することではないか、という人たちが出てくる。そのことに関しても、魚川さんはきちんと書いておられる。
           実際のゴータマ・ブッタは、もちろん自殺など勧めていない。少なくとも凡夫にとて、輪廻は現実存在する以上、自殺は(その悪業によって)状況をより悪化させるだけで、縁生の現象に翻弄される無常・苦・無我のプロセスは解脱しない限り死後もずっと変わらずに続いていくことになると、彼は考えていたからである。
           即ち、「輪廻はない」と考えて、生の必然的な苦から逃避するために自殺したり、あるいはそこから目を背けつつ、快楽だけを追い求めて一生を浪費したりすることではなくて、現実存在する輪廻を正面から如実知見して、それを割愛の滅尽によって乗り越えようとすることが、ゴータマ・ブッダ及びそれ以降の仏教徒たちの、基本的立場であった。(仏教のゼロポイント p.101)
           そう、概念の上でそれを客体視して、あるいは観察者として眺めて、それにとらわれて自分の生き方や考え方の処理する枠組みの動き(マヌーバー)が出来なくならないように考えるということがどうも、解脱であり、客観的な観測者の位置を保ちながら、それでも生き続けるというのが、どうも仏教的な概念らしい。つまり、思想により、無常や苦やから脱却しようというのが、ブッダが行ったことらしい。

          キリスト教の苦しみとの比較

           このことをキリスト教的に見てみるとどうなるか、ということを考えた。苦の問題、絶望の問題は、キリスト教にとっても重要な問いであり、そのことをキリスト者として考えることくらいちょっとはある。そして、人間からみれば、好ましくないと思われる状態(たとえば、ガンとか、白血病とか、不治の病とか、事故や災害、あるいは信仰のゆえに殺されることすら)の中におかれるキリスト者が存在することも多々あることは知っている。
           その時、ミーちゃんはーちゃんが知っている範囲のキリスト教が言ってきたこと、聖書が言ってきたこととは、苦界にありながらもその苦界を神と共に生きることであり、また、神が我らとともにあると確信しながら生きることであり、その苦界に向かっていくことのような気がする。その意味で、ごくごく荒っぽくいって、修行とか瞑想により思想的に達観して割愛の滅尽など、考えたことすらないと思う。むしろそのずぶずぶの関係の中で生きることを「神が共に居てくださる」という確信をもって選択することの膨大な記録であると思う。
           新約聖書でもそうであるが、旧約聖書になるとなおさら、そうである。不甲斐ない自分の姿と苦しみを時に神に怒りを以て訴え続けながら、生きている人たちの記録であり、その苦しみを時に乗り越えられない中で、生きている人の姿に、自分自身を重ねてきた部分があったのだろうと思う。

          ブッダは輪廻を解かなかった説と日本

           個人的には、基本ブッダは輪廻を積極的に説いたと理解していたので、両社は切り離せないものだと思っていたのだが、そうでない論者が日本に結構いたという記述を見て、あれれ、と思ってしまった。

           右のような諸点を確認した上で木村泰賢は、綿氏哲郎の示したような業と輪廻の世界観をゴータマ・ブッタの仏教を切り離そうとする解釈について、「かくの如きはあまりに突飛な説で、論外として可なりと思う」と評しているが、これは全くその通りだというしかないだろう。その種の「ゴータマ・ブッタは輪廻を解かなかったはずだ」といった主張は、本来であれば、この時点で命脈が立たれているべきものであって、それが現代日本でもまだ生き残っていること自体が、私にとっては不可思議だ。(同書 p.101)
          と書かれていたが。まぁ、あっさり、きっぱりと「ブッダは、輪廻の概念の中の人です」と気持ちよく言い切っておられる。さらに、

           だが、既にみたように経典から知られるゴータマ・ブッダの仏教は、倫理的にも文献的にも業と輪廻の世界観と切り離しようがない以上、その癌は仏教の全身に広がってしまっている。
           そのように全身に転移した癌を「治療」しようとするならば、「患者」を切り刻んで殺してしまうしかないわけだが、「はずだ」論者はそれをやる。つまり、文献を自分の世界観にとって都合のよい形に切り刻んで、そこから自分にとって都合の悪い首長の含まれていない部分を取り出し、それを「本当の仏教」として提示するわけだ。(p.102)
           ここで、ガンの例が出ているが、実は、現在西洋でも研究と概念整理が進められている西洋における非従来型のシステム理解にWholisticとかWholismという概念が存在する。これは、従来の西洋型のものの見方があまりに分析的であり、木を見て森を見ずだった世界観から脱却して、森全体を、森の生態系全体で考えようという立場である。

          分析する(Analysisということ)
           これには、ギリシア哲学というかギリシア科学が物質の本質とは、元素とは何か、何かを考えて以来の分析的アプローチの影響があるような気がする。分析し て、わけてしまって分かった気になり、全体を通しての影響を見逃してしまう、いわゆる木を見て森を見ず、をやってしまっていることは案外多いのではないか、とも思う。
           このギリシアの「ものとは何か」から出発した科学思想は分析的であり、こまかく分けていけば分かったとできる従来の西洋哲学的な思想の限界に気が付いた人たちが、システム論の世界や医療の世界で、現在実施しようとしているものであるが、中には、かなりオカルトチックなものも交じるので、かなり用心した方がいいかもしれない。まぁ、どっちせよ限界があり分らない、というのはいずれの場合もその通り、なのではあるが。
           この種の切り取り、カッペは、キリスト教ではよく見られる。典型的には、ディスペンセイション主義神学の立場に立つ人々においてその傾向が強い。自分の主義主張に合わせて聖書を切り張りし、そして、「はい、これがキリスト教です」と私のキリスト教をご提示なさる。それがいかに突飛な理解であっても。17世紀以降の近代社会と啓蒙主義の結果、個人主義化したキリスト教の残念な姿であるが。


          とにかく細かく見ようとするAnalysis


          カテゴリーエラーという問題
           人はどのような問題でも構想し、妄想することができる。それが本当に意味あることなのか、ということはひとまずおいておいても。質問しても、考えてみてもいいけれども、それがナンセンスなことも多いということは知っておいた方がよいであろう。
           解脱を証得するためにゴータマ・ブッダが説いたのは、今・この身・受・心・法の四念処を徹底的に観察し如実知見することであって、そうすることで、五蘊を厭離し離貪してげだつに達するというのが彼の教説の筋道だから、そこで輪廻に余計なこだわりを持つ必要はない、という考え方も間違ってはいない。縁起の理法を体得していない段階で輪廻について思索をすれば、それは例えば「一切漏経」でかたられているような、「私は過去世に存在したのか」「私は未来世に存在するのか」といったカテゴリーエラーの疑問にとらわれる結果を導くからだ。(pp.102-103)
           世の中の仕組みがよくわかっていない段階で、問題をとらえて、解決しようとすると、対処療法とも呼ばれるQuick Fixという解決方法とか、システム理論の世界で第3種の過誤(間違った問題を一生懸命に解く 近年の年金機構の個人情報漏れの議論は完全にこのパターンだし、朝日テレビの夜のニュース番組のキャスターのご主張とか、テレビ関係者のご主張は、完全にこのパターンが多いような気がする)として知られていて、本当にまじめに問題を解かなきゃいけない時に、そのことをせずに別の問題にすり替えて議論が進められてしまうということは多々ある。例えば、キリスト教界隈(クラスター)では、未だに創造論が正しいか、いや進化論が正しいかという不毛な問いを繰り返しているし、あるいは、プロチョイス(中絶容認)かプロライフ(中絶反対)かということの科学性や客観性を目指して、弁護士の金儲けの道具を作り出しているところがある。自分がどう考えるかということを言えばいいだけの話に、どちらが正しく、どちらが間違いか、という正邪論争で時間と資源の浪費をしているのであり、魚川さんの言うカテゴリーエラーの問題を解いておられるのだ。もう、いい加減にしたらいいのに、と個人的には思う。

           人間とは、つくづくメタ思考する(解脱の世界、悟りの世界、ニルヴァーナに達する)ことが難しいのだろうなぁ、と思ってしまう。




          評価:
          魚川 祐司
          ¥ 1,728
          (2015-04-24)
          コメント:仏教のわかりやすい入門書。おすすめできると思う。

          2015.07.13 Monday

          「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(5)

          0

             ここのところ他の投稿が多くて後回しになっていたのであるが、仏教のゼロポイントから、終末理解にかかわる部分をご紹介してみたい。

            仏教的涅槃とキリスト教的天国
             キリスト教での終末理解と仏教の終末理解というか、涅槃、ないしニルヴァーナ理解は、ある意味で良く似通っている。キリスト教の終末は、完全に生まれることも、死も、悲しみもない世界であるが、仏教でもそのようなものがあると想定するらしい。

             引用文(『ローヒサッタ経』)中の「世界と、世界の周期と、世界の滅尽と、世界滅尽へと導く道」という表現が、四諦のそれとパラレルであることからも分かるように、ここでの「世界」は、苦のシノニムとして語られている。だからこそ、「世界の終わり」は「生まれることもなく、老いることもなく、死ぬこともなく、死没して再生することもないような」ところ、即ち、生老死の苦の存在しない境地だとされるのである。(『仏教のゼロポイント』p.113)

             しかし、仏教の場合、どちらかといえば、概念世界の話であり、これとパラレルに、そして同時的におそらく輪廻の世界が存在するというのが、基本的な理解であると認識している。最終的にすべてのものが、外生的に滅亡する時がある、としているのかもしれないが。

             これに対して、キリスト教では、実際の天の国(すなわち神の国 すなわち神の支配)が現に存在するというのが聖書の理解である。それも、概念空間上ではなく、実際の地上の空間上でも存在する、というのが、イエスの主張であることが、福音書のいくつかに記載されている。
            【口語訳聖書】
            マタイ
            12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
            【口語訳聖書】
            ルカ
             17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
             17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
             その意味で、イエスがいた当時から現在に至り、将来に至るまでリアルな場所としての天の国はこの地上の中に、苦難の中であろうが、絶好調の中であろうが、神の国はキリスト者の中に、キリスト社外の中に混じりこんで存在しているという状況ではないか、というのが、少なくともN.T.ライト先輩のご主張である。しかし、この主張に納得し、恐らくそうではないか、と愚考するようになったのは、この10年内外のことである。

             それまでは、一種の浄土概念というか、涅槃理解というか、ニルヴァーナ理解というかとごっちゃになったような天国理解であった。あるいは、パラディッソあるいはパラダイス理解と混じった天国理解であったのである。マクグラス先生がおまとめになった西洋がこれまで蓄積してきた理解と近かったのである。

             しかし、N.T.ライト先輩の本を読むようになってから、福音書の言う点の国というのはそういうものではなくパラダイスと誤読したらいかんのではないか、ということを思うようになってきた。

            日常世界をどうとらえるか
             では、仏教は日常世界をどうとらえているのだろうか。このあたりのことに関して魚川さんは次のようにお書きである。
             例えば、私たちは日常生活でごく自然に「為政」を認識し、それに執著することがあるけれども、その「為政」というのは実際のところ、感覚入力を素材として捏ね上げられたイメージなのであって、比喩的に言い換えれば「物語」に過ぎないものである。(同書 p.119)
             結局悟りを開いた人にとって見れば、この現実世界は、結局物質を対象としつつ、間隔入力によって形成されたイメージの世界(たぶん「世間虚仮」の世界)であり、そこにかかわる意味がどの程度あるがないのか問題になってしまうのだろうと思われる。ここで、世間は「物語」でしかないと仏教思想が言っていることが面白い。続けて、魚川さんは次のように紹介する。
             「世界」というものは実際には仮象の物語に過ぎないものであるのだから、それが欲望する「私」の認知とは独立に、事実として有限であるか無限であるかなどというのは、全く見当違いの問いなのであって、そんなものには答えようがない。『ローヒサッタ経』に語られているように、認知が我執を伴っている限り、「世界」という仮象はどこに移動しようが生成され続けるし、我執が取れて分別の相(papanca 戯論)が寂滅してしまえば、その仮象も、いま・このこの身体において「終わり」になる。ただ、それだけのことなのである。(同書 p.122)
             要するに、認識が「世界」というものを生み出すので、実在としての世界がどのようなものかに関して仏陀は、「答えようがない」ということで、無記(つまり、答えようがないものは答えない、言ったって言っ実がない、だから書かない)としての立場を仏教典は取っているようである。実に、スルー力が高いといえよう。ところが近代の西洋を経たキリスト教になると、とにかく何でもかんでも森羅万象を説明し、何とか説明しようとするところがある。本来、聖書の神の神秘の部分まで、説明できないものに何らかの言語的な説明原理を当てないと気が済まないのだ。そして、挙句の果てに珍妙な説まで、砂上の楼閣のように作る傾向があるように思う。
             説明できません。なぜならば、私たちは神ではないので、という慎みはあったほうがよいかなぁ、とは思っている。このような何でも聖書から無理やり強弁しようとする傾向は、少し、筋が悪いと思っている。
             これで思い出した。BioLogos Foundationという組織が神学者と生物学者を集めて学術的な研究会をやった時にN.T.ライト先輩とフランシス・コリンズ先輩と一緒に作詞し、N.T.ライト先輩が歌ったYesterdayの替え歌である。個人的には、この替え歌の中で、N.T.ライトが歌っているように、I don’t know it does not say. Oh I believe in Genesis.とでもいった方がよほどすっきりすると思うが。


            創世記をうたうN.T.ライト先輩

            一応、概略の私訳歌詞をつけておく


            創世記 天が宇宙的なキスをしたことなのさ
            進化があるとしたら、こんな感じなのかもね
            だけど、僕は創世記を信じてるのさ

            DNA それは被造物を土と泥から作ってるものだけど
            銀河における二重の螺旋
            あ、創世記はDNAみたいなものだね

            4億年前? 神がどうやって作ったのかなぁ
            神は知恵と、真実と、愛で、そうだって語っているけどね

            創世記 エバとアダムはとっても幸せだったのさ
            でもその楽園はそれをみんなないことを残念がっているけどね
            でもね、僕は創世記を信じているけどね

            あっという間に、彼らは神のアドバイスを聞かなくなったのさ
            アインシュタインは神はサイコロ振ったのかって考えたけど
            結局、(それ以降)僕らは、悪の世界にどっぷりはまったまま

            何でアダムとエバは堕落したのか そんなの知らないし、聖書もちゃんと言ってない
            でも、なんかろくでもないことをしたんだよ
            でもね、今、神の新しい日が来るのを僕らは待っている

            創世記、王である祭司がしあわせであったところ
            新しいイェルサレムってそんな感じかもね
            あぁ、だから僕は創世記を信じているのさ


            英文原歌詞のディクテーション
            Genesis. Earth and Heaven in a cosmic kiss.
            Evolution must have been like this.
            Oh, I believe in Genesis.

            DNA shaping creatures from the dust and clay.
            Double helix in the Milky Way.
            Oh, Genesis means DNA.

            How He made it all 40 million years ago.
            Wisdom, truth, and love for he spoke and it was so-o-o-o.

            Genesis. Eve and Adam in a land of bliss,
            In a paradise we all now miss.
            Oh, I believe in Genesis.

            In a trice, didn’t listen to divine advice.
            Einstein wondered whether God played dice.
            We’re trapped within a world of vice.

            Why they had to fall? I don’t know – it doesn’t say.
            They did something wrong and we’ve longed for God’s new day-ay-ay-ay.

            Genesis. Royal priesthood in a holy bliss.
            New Jerusalem will be like this.
            Oh, I believe in Genesis.


            苦と「(認識が生む)世界」の滅尽を目指す仏教
             以下の魚川さんの文章を読んで、あぁ、仏教と聖書を中心とする信仰、あるいはキリスト教の違いというのは、ここかなぁ、と素朴に思った。
             ゴータマ・ブッダは、そのような如実の風向からすれば問うこと自体が無意味な質問を受けたときは、直接的には答えることなく、代わりに苦の滅尽と涅槃に導く、四諦の教えを説くのである。縁起の理法を知って現象を如実知見し、そうすることで苦と「世界」が滅尽すれば、そのような存在や非存在に関する問いの無意味であることは、自然に知られることになるからだ。(同書 p.123)
             仏教では、架空存在で我々を苦しめる認識の世界のバーチャルワールドである「世界」をなくしてしまえば、それに対して問うたところでナンセンスであろう、ということを仏陀は言っているのである。つまり、われわれが認識している世界は、NintendoやXboxの中に在るファイナルファンタジーや、スーパーマリオブラザーズの様なRPG(ロールプレイングゲーム)的な存在であり、それがバーチャルリアリティであるとわかってしまえば、そこがどうなっているのか、ってことはあんまり関係なくなるでしょ。今苦しいからと言っても、それはしょせんバーチャルワールドでの出来事なんで、だからとっとと、この世界というのはRPGだと早くわかれば?そんな世界の苦に向き合うことはナンセンスじゃない?と言っているようなのだ。

             ところが、キリスト教というか聖書では、この世界こそ、神がおられる(現状では、完全にではないけれども)場所であり、神が関与される場所であり、現実的には、楽園というにはほど遠い状況ではあるけれども、厳然として実存する世界であるという認識の上からすべてが展開するので、ヴァーチャルリアリティやバーチャルワールドとは認識せず、リアリティの基礎として理解しているといえると思う。

             この辺りの根源的な違いを考える時、日本で割と言われるどの宗教でも同じだ、という無茶な主張に、あぁ、それは違うよね、非常に表層的な見方だよね、とはじめて言えるなぁ、と素朴に思うことができた。その意味で、この本を読んだことは非常によかった。

            ものすごい執着を持つ聖書の神
            執着を止めれば?というブッダ
             もう一つ聖書の神と仏教が根本的に違うところが、対象への執着をどう考えるかという部分である。魚川さんは、次のように書く。 
            『スッタニパータ』に、「世界(loka)における諸所の煩悩の流れを堰き止めるものは気づき(sati)である。この煩悩の流れの防御を私は解く。その流れは智慧(panna)によって塞がれるであろう」と説かれていることが参考になる。つまり、自然のままに放っておけば対象への執着へと流れていく煩悩の働きを、まず止めるものは気づきであり、そしてその流れを塞ぐ、即ち根絶するのが、知恵であるということだ。(同書 p.125)
             本日連載を再開した(というよりはN.T.ライト先輩や工藤さんの本や木原さんの本等を紹介していたので、後回しにしていた)小山先輩の『富士山とシナイ山』シリーズで、そのうち紹介するタイの仏教者が小山先生との面白い対話を思い出した。小山先輩が、タイの仏教僧に聖書の神は、燃える情熱を持って人間を愛しているとご説明したところ、タイの仏教僧は、「そんな神は、瞑想修行が必要である」といったエピソードである。

             まさしく、この世界に執念や情念に近い熱情をもっている神と、そこから離脱を勧める仏陀ではまるで生き方が違う。ここで魚川さん言っている「気づき」はマインドフルネスという形で欧米にも広がっていて、キリスト教の一部にも明らかな影響を与えている概念であるが、その行き先が仏教系マインドフルネスとキリスト教におけるマインドフルネスが結果(アウトプット)レベルでかなり違っている様な気がする。

            仏教的マインドフルネス
            キリスト教的マインドフルネス
             仏教的なマインドフルネスは、認知にこころを巡らし、このバーチャルワールドである世界の中に在る何かに対する思いの有無をない関するという側面があるらしい。この辺りのことを魚川さんは次のように言う。
             つまり、認知が起きたときに、修行者の内面に対象への貪欲があれば『ある』と気づき、なければ「ない」と自覚する。そのようにゴータマ・ブッタの理法は明白で時を選ばず実践できるものであり、それが涅槃へと導くのだということである。(同書 pp.125₋126)
             つまり、しょせんバーチャルで実態のないものへのこだわりや執着とそれに対する貪欲に気付き、それがナンセンスであるからやめることで、執着とは無縁の涅槃(ニルヴァーナ)の世界に移行するという方向性を持つ。
             しかし、キリスト教の場合は、執着の塊のような神が居られるのである。キリスト教の場合も貪欲はNGだとイエス自身が次のように言っている。
            【口語訳聖書】ルカ福音書
            12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
             イエスの言葉をもう少し思いを巡らせてみると、要するに、他の地上の神でないものをたくさん持つことの喜びで心が占められてしまい、持物を持つことが神のような状態になっている時、たくさん持とうとしているものを作った神がその人の人生に見られるだろうか。本来の人間の姿である神とともに生きるのではなく、ものとともに生きることになってないだろうか、ということをご指摘であったのだと個人的には理解している。貪欲は神に対する目を曇らせるのであることを指摘しているのであって、苦と関係なくなることを意味しているのではないようである。というのは、この後に続くたとえ話が、豊作であった金持ちの話なのである。聖書は貪欲で神が見えなくなるのが本来の人間の姿ではないので、それじゃダメじゃない?と言っているようである。

            盲目的で習慣的な行為を止めるための
            マインドフルネス
             マインドフルネスに関して、魚川さんは次のように書いておられる。おそらく、これは仏教的なマインドフルネスだと思う。
             歩いているときには「歩いている」、立っているときは「立っている」などと、いかなる時でも自分の行為に意識を行き巡らせて(mindfulness)、そこに貪欲があれば「ある」と気づき、なければ「ない」と気づいている。そのような意識のあり方を日常化することで、慣れ親しんだ盲目的で習慣的な行為(=煩悩の流れ)を「堰き止める」ことが気づきの実践(sati)になるわけである。(同書 pp.126₋127)
            この中で、大事だと思ったのは、様々なことに思いを巡らせ(なぜ、私はこれをするのかということに心を巡らせ)それを日常化することで、「慣れ親しんだ盲目的で習慣的な行為(=煩悩の流れ)を「堰き止める」ことが気づきの実践」になるという部分である。これはかなりしんどい生き方であり、めんどくさい生き方なのである。しかし、このめんどくさい思考作業をすることが、仏教でいう涅槃に導くということかと理解した。キリスト教やユダヤ教では、おそらく、であるがこういう面倒な手続きというのか、それを日常的にやるということはあまり必要なくて、普段は生き生きと生きていながら、なんか間違えた(神と共に生きてない)ことにふと気づいた時に「すいません。神様、私が間違えてました。悪いんだけど、赦してくださいませんかねぇ」というお願いすることでの回復があるというのが、基本的なキリスト教の原型に近い部分ではないか、と思う。もちろん、マインドフルネスの実践をされておられる方は居られる方でよいとは思うのだが、それも行きすぎてしまうと、その概念のみにとらわれてしまい、「それこそがキリスト教です」という主張になると、それはそれで、その概念の補修になっており、自由な生き方ができなくなり、「福音(=何かからの解放)」ではなくなってしまうのではないか、と思う。仏教では、煩悩からの解放である涅槃の状態に行けるというのが、仏教的なセールスポイントであり、キリスト教的セールスポイントは、神と一緒に生きること、神に対する執着こそが解放であるということなのだろうと思った。

             もう少し続く。








            評価:
            魚川 祐司
            新潮社
            ¥ 1,728
            (2015-04-24)
            コメント:面白い。読みやすい。入門に最適

            評価:
            アリスター・E. マクグラス
            キリスト新聞社
            ---
            (2006-09)
            コメント:まとまっていると思う。過去の歴史をまとめているという意味で。

            2015.07.27 Monday

            「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(6)

            0

               今日も魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」からご紹介してみたい。今回は、解脱・涅槃に関する部分、この本の主要部分である、また、テーマともなっている第6章 仏教思想のゼロポイント からご紹介したい。

              日本社会と解脱
               日本で瞑想しておられる方、また、仏教徒の方は多いのだが、解脱をした、と役割として、立場として言う人は少ない。そのあたりの事情について、魚川さんは次のようにお書きである。
               現代日本には、「私は悟りました」とか「解脱しました」とか宣言する人は、僧俗を問わずあまり言ない。僧侶も瞑想実践者もたくさんいるのに、経典では次々と出ている解脱者が、現代日本ではほとんど見られないというのおは、考えてみると、どうも不思議なことのようでもある。
               もちろん、その理由の推測であれば簡単につく。第3章でも述べたとおり、日本では「悟り」と言えば円満な人格完成者としての仏の悟りのイメージが強いから、うかつに「悟りました」等と言ってしまったら、その意図背後の全ての行為に於いて、道徳的にも社会的にも完璧であることを求められることになり、面倒なことこの上ない。
               何より、「私は悟った」等の宣言するのは、どうにも謙譲の美徳を書いているように感じられるし、実際、珍しく「最終解脱者」を名乗る人物が現れたと思ったら、それがテロリストだったりする。要するに、「私などまだまだ道半ばです」と言っておく方が、あらゆる面で「よい」のだということである。(仏教思想のゼロポイント pp.131-132)

              最終解脱者を自称した方

               しかし、日本のキリスト教も西洋倫理の一環として入ったこともあるのだろうけれども、この一種の悟りの境地を目指すようなキリスト教も案外多い。特に、ディスペンセイション説以降のキリスト教でこのディスペンセイション説に影響を受けたキリスト教は、この世界のことを悪、くだらないことであり、つまらないことであると理解する視座を持つため、この世界からの分離を強く求めていく傾向がある。その結果、「家族との関係を切れ」とか、「学問をあきらめろ」とか、「仕事をあきらめろ」とか、無茶を言うキリスト教の信徒集団もあるらしい。まるでカルトである。

               個人的に知っている範囲で言うと、警察官になりたくて、なりたくてしょうがない方が、キリスト者になったゆえに警察官の道をあきらめた、という逸話を聞いたことがある。警察官になると、「日曜日に教会に行けなくなる」から、だそうである。アメリカでは考えられないと思う。警察官にどの程度のキリスト者かは知らないが、日曜日に教会に行けないから警察官をやめるなどというのは、あり得ないことである。まさに、下記で紹介したマタイの福音書における「安息日は何のためにあるのか」というイエスとユダヤ人の問答でのイエスの主張から外れていると思うのは、多分ミーちゃんはーちゃんだけだろう。
              【口語訳聖書】マタイによる福音書
              12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
               12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
               12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
               12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
               12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
               12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
               12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
               12:8 人の子は安息日の主である」。
               12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。
               12:10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。
               12:11 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
               12:12 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
               12:13 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。
               12:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
               この世を軽く見るあまり、すべての地におけるかかわりから離脱しようとされた結果、仏教的な悟りの世界もどきに入り込み、この世とのつながりにバランスを欠いた人々も時におられると聞く。実に残念なことである。

               旧約聖書の民は、荒野でのどが乾いたら、のどが渇いた、腹が減ったら、腹が減った、こんなことならエジプトにいた方がましだった、とピーピー泣き言をいうのだ。挙句の果てに以下のようなことも言う。
              【口語訳聖書】民数記
               11:4 また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。
               11:5 われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。
               11:6 しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。
              これが旧約の民の姿である。まるで、あるく煩悩様のような人々であるが、それでも、それをよしとし、これらの人々に求めるものそのものではないが、ウズラがやってきて、同じ民数記の記述によれば、
              「あなたがたがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである』」。(民数記 11:19〜20)
              と限界無きまで、完膚なきまで、神はイスラエルの民に食らわせるのである。まさに、「食らえ、ウズラ攻撃」である。この話の歴史的事実性に関しては、キリスト教業界で議論があることだけは、一応触れておくが、まぁ、砂漠を歩んだ古代人としてのイスラエルの民、ないしイスラエルの子孫の民からしたら、こんなレトリックで言わないといけない程の経験であったのであろうと思う。

               その意味で、旧約聖書の人も、旧約聖書の神も、小山先輩が出会ったタイの高僧からすれば、うちの寺院によって、ちょっと瞑想したり修行してはどうか、といわれかねない神であり、人々であったのであり、仏教的な枠組みではとらえがたい、あるいはそれでとらえることをはなから拒否するような神なのである。

               このあたりの事に関しては、『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (27) の悟らない聖書の神の下りで紹介しているのでそちらをご覧いただきたい。


              実存の転換としての涅槃
              実存の継続としての天の国
               先日、義父の葬儀説教を担当させてもらったのだが、実は、その前日に記念式をした時に、ちらっと天の国という話をふれたときにその場に居合わせた信仰者でない方が、天の国を明らかに死後行くところ、と理解していたようなので、翌日本番の葬儀説教で、天の国とは、神の支配の中名に生きるということであり、死後生きるところだけを指すのではなく、この地の延長で神と共に在ることであり、神と人共に生きることである、とN.T.ライト先輩のSurprised by Hope風の葬儀説教に急きょ切り替えた。

               案外、この「天の国」≒「天国」≒「極楽」≒「涅槃」≒「浄土」≒「西方浄土」という概念は日本人に広く受け入れられているようで、以前にも、このブログで、それはまずいんでないか、ということは触れた。これらの記事である。

              天国と極楽と西方浄土
              天国について (続)
              めぐまぐま様へのお返事

               しかし、涅槃とは以下でご紹介する文中にある「行道の完成である」という魚川さんのご指摘を読んで、あぁ、この辺がキリスト教とは根本的に違うのだ、と思った。キリスト教では、行道の完成などということは考えず、基本的に不完全系のままこの地を歩むという前提というか理解がある。系(システム)として不完全な人間であり、最終的に神が完成されるとき、被造物世界全体を完成させるときに、はじめて完全な人間となるという理解ではないか、と思うのである。
               そして、涅槃とは、決定的な実存の転換という視点は重要だと思う。
              涅槃を証得した者の実存のあり方は、その時点で決定的に転換するということであり、それは以降も変わることのない、行道の完成でもあるということだ。
               このように解脱、涅槃が本来はあいまいなものでは全くなく、決定的で明白な実存の転換であったと言う事は、現代日本人の好みにはあわないせいか、一応言及はされても、正面から問題化されて検討される事はあまりない。これは経典に於いて何度も繰り返し明示されていることである以上、少なくともゴータマ・ブッダの仏教について考えるうえでは外すことのできない、その教説の基本的な特徴であると考えるべきだろう。(同書 p.132)
               涅槃への移行や覚醒とも呼ぶべき解脱が、段階的なものやあいまいなものではなく実存の転換というのは、メタ思想を考えれば、非常によくわかる。次元が違うとでもいおうか。つまり、システム論の理解で言えば、サブシステムであるこの地上の世界からメタシステムであるこの地を包括したより高次の、あるいはより大域的なシステムへの転換が起きた、ということなのだとおもう。これは、空中写真測量またはGPS測量以前の測量(地べたをはい回って、三角関数使いまくりで三角測量する方法)と空中写真測量以降の測量(2枚の空中写真と写真ちゅに含まれる測量点をもとに、標高等を測定し、位置確定して測量する方法)の違い程の感じなのだと思う。あるいは、ドローン以前の風景と、ドローン以降の風景と、という理解でもよいかもしれないが。

              涅槃の境地とスルー力

               そして、その涅槃の境地は簡単であるかもしれないということに関して、次のように魚川さんはお書きである。
               6世紀の中国に僧璨(そうさん)という禅僧がいた。禅僧第3祖と言われる人だが、彼の著作である信心銘の冒頭に、「至道は無難、唯だ揀擇を嫌う、但だ憎愛なくんば、洞然として明白なり」という有名な言葉がある。「最高の道なんて難しいものじゃない。ただよくないのは選り好みだ。あれが好い、これが嫌だというのさえやめさえすれば、実にはっきりしたものさ」というわけでが、これはゴータマ・ブッダの現法涅槃を描写した表現としても、そのまま通用するだろう。
               前章で述べたように、私たち衆生にはその将来の傾向として、対象と好んだり嫌ったりして、それに執着する煩悩、即ち、貪欲と瞋恚が備わっている。こうした煩悩の作用に無自覚であり続けることによって、私たちは「物語の世界」を形成し、それに振り回されて苦を経験するわけだから、この瞋恚と貪欲、即ち「憎愛」の働きを止めさえすれば、そこは直ちに現法涅槃の境地になるのである。(p.134)
               要するに好き嫌いをやめてしまえば、そのことで苦しむことも無くなるし、貪欲も無くなるし、そのことで神経すり減らすことも無くなるから、そんなしんどい作業はとっととやめてしまって、気にしない生き方、スルーする力量の高い生き方をすればいいんじゃない、ってことがブッダの言った主張であるということなのであろう。
               しかし、聖書はこの逆を行くようであり、聖書の言う天の国はこのあたりの涅槃の境地とは別物である。あくまで、神にこだわり、神に執着し、神と共に生きる、ということの希望を欠けてしまうのである。苦には解決はないかもしれないけれども、この苦の中にも神がともにおられるということを確信しそして生きていくこと、それがキリスト教というか、聖書の言う主張であっていきながら、所持スルーしていって、苦しみを避ける生き方ではないように思う。ある面、ユダヤ教にしても、キリスト教にしても、求めていく生き方(神を求めていく生き方)を重視するのである。丁度ヤコブが祝福を求め、神と格闘したように。

               その意味で、炎上覚悟なのがキリスト教なのであり、炎上と無縁の世界を目指すのが仏教なのではないか、と思う。

              認識と無縁の世界か
               世界と認識は無縁か、という議論は科学ないし科学哲学にとっても重要な問題である。完全な客観という参照枠が存在するのか問題である。仏教は、基本的にはそんなものはない、といいのけているようである。そのあたりを魚川さんは次のように言っておられる。
               うまそうな料理を見れば食欲がわくし、毒蛇を見れば怖くて逃げたくもなる。そしてまた、机はやはり机だし、コップはやはりコップのままだ。つまり、いくら「そうしよう」と決めたところで、直ちに「ただ現象のみ」の認知への転換が起こったりはしないということである。
               そのこと自体は当然のことで、実際に私たちが「事実」と称している認識であり、その中で「ある」とか「ない」とか判断を行っている枠組みそのものが、仏教の立場からすれば、既にして分別の相(papanca)の所産なのである。そして、分別の相である「物語の世界」は、そもそもその形成の時点で、対象への貪欲と瞋恚を巻き込んで成立している。つまり、凡夫にとって「事実」であり、「現実」である「世界」というのは、最初から欲望によって織り上げられているということだ。(pp.134−135)
               基本的に科学というの現実への執着であり、執着である以上認識が生み出したものであり、認識の世界のトラップにはまっているということなのであろう。不確定性原理をうんぬんするまでもなく、そんなん、世界なんて認識の産物だから、そんなものを気にするのはおやめになったら、いかが?というのが仏教思想だと改めて感じた。つまり「世間虚仮」、すなわち、世界というものは、そもそも論からして、認識が生み出した次元の出来事であり、仮のものでしかなく虚構なのだ、日々虚構新聞の中に生きるのはやめて、もうちょっと苦しまずに生きられたらどうか、ということのおすすめがブッダのご主張ということになるのだろう。


              虚構新聞サイトのある日の状態

               キリスト教徒としては、この世界も虚構ではなく、神がつくり給いし被造物としての実体であり、関係性もまた神が与え給いしものであり、神ご自身が関係性を持つ存在であるという理解であるので、関係性自体虚構ではない、フィクションではない、という理解である。日本語で言えば、ノンフィクションの中に生きるということなのである。

               魚川さんは、「物語の世界」という言葉をお使いであるが、恐らく意味としては「絵空事の世界」、「実体のない虚構の世界」、「フィクションの世界」、「認識上存在している世界」における絵空事、虚構、フィクション、認識そのものをさしておられるのだと思う。しかし、聖書関連でいう物語というのは、フィクションではなく実体験の認識されたものの言語記述という意味での物語であり、虚構ではなく実体であるというのが出発点にあると思う。このあたり、日本語でそれを明確に語る語をきちんと定めておかないと、無用の混乱が起きるような気がしてならない。

              でも、脱却できない煩悩

               煩悩はどうもなかなか脱却できないものらしい。そのあたりの事に関して仏教的な理解からどのように考えるかに関して魚川さんは次のようにお書きである。
               実際、気づきの実践を行って、内面に生じる煩悩を自覚し、現象を観察し続けていても、確かに執着は薄くはなるが、根絶されるということはない。仏教の前 提に従えば、煩悩は過去無量の業の結果として生起しているものである以上、たかだか百年程度の一生の間、それを「堰き止め」つづけたところで、「煩悩の流 れ」が尽きてしまうことはないからである。いつまでも「道半ばです」と言い続けるのではなくて、「為されるべきことは為された」と言い切るためには、流れ を根絶させるための決定的な別の経験が、必要とされるということだ。(同書pp.135−136)
               この記事を読みながら、あぁ、やはり仏教というのは輪廻の世界を前提にしているのだ、ということはよくわかった。結局、輪廻の世界で号というものが相互に様々に連鎖しながら、動いている結果としての原罪があるので、煩悩は生じ続けるというあたり、なるほど、システマティックに考えるとそうなりそうだなぁ、という感じがしている。

               そしてそれを断ち切るたえに、あるいは、堰き止めるために、「為すべきことは為された」と認識して、それを主張するらしいのである。それが人間に果たしてできるかどうかは別として。

               亜流のキリスト教徒としてミーちゃんはーちゃんが思うのは、人間には、為すべきことが重すぎて為すべきことが人間にはできないので、この地に本来神である方が人間としての姿をとり、キリストあるいはメシアとしてわざわざやって来て、2000年前になすべきことである死後のいのちと復活があることを、自分自身の復活を通して示すということをやってしまったがために、そこに賭けることしかできないのだ、ということなのだろうとおもう。つまり、復活の存在であるナザレのイエスに仮託すること、それが信仰ではないか、と思う。自分自身が「なすべきことをなした」と思うのでもなく、主張するのでもなく、自分自身に代わってイエスが「為すべきことをなしちゃったもんね」ということを思うのがキリスト教の根本的な原理だと思うのだけど、違うかな。

              まだまだ続く




              2015.08.24 Monday

              「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(7)

              0

                 今日も魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」からご紹介してみたい。今回も引き続き、解脱・涅槃に関する部分、この本の主要部分である、また、テーマともなっている第6章 仏教思想のゼロポイント からご紹介したい。

                解脱とは何か
                 仏教、少なくとも仏陀が主張したことは、煩悩の消失であり、それが解脱であることは、多少は知っていたが、それが具体的にどういうことかに関して、テーラワーダ仏教の視点から魚川さんは次のように書く。
                 そのような煩悩・渇愛の最終的な滅尽であり、また、それによる実存のあり方の決定的な転換でもある解脱・涅槃の経験とはいったいいかなるものであるのか。テーラワーダ仏教では、それを不生不滅である涅槃(nibbana)という対象をこころが認識する経験であると捉えている。(仏教思想のゼロポイント p.142)
                 解脱とは、関係性から生じる苦悩(煩悩と輪廻のプロセスにより生じる苦)、そこへのこだわりや思い(喝愛)がなくなった世界が涅槃であるらしい。その状態に自分自身が達し、不生不滅である状態が存在する、ということが認識できた経験があれば、解脱したと言えるらしい。

                 ここでいう不生不滅は、輪廻(相互の関係プロセス)によって変動するような状態から離脱していて、何も新しいものが生まれず安定している状態であるので、それゆえに何化がなくなったりもしないから、そのことで苦しんだり、悲しんだり、こだわりが生まれたりといったことのない、永遠の安定状態が生じていることが認識できたら、解脱ができたことになるらしい。

                 ちょうど、完全な真空の下では、熱伝導すら起きないので、魔法瓶の中の状態が均衡状態ではなく一定の滞留が発生した後、完全に安定した、一種の安定状態に達している状態と似ているのかもしれない。

                 ところが、聖書に示された終末はそう言った何も起きていないという意味での安定状態ではないかもしれない。あまり黙示録で詳しくは書いていないので、何とも言えないが、どうも安定状態ということではなく、人間がそこで、神とともに生き生きと生きること、ということらしい。確かに不生かもしれないが不滅ではないように思われる。むしろ、神とともに安定均衡状態で生きる、というダイナミックな状況としての表現の方が適切かもしれない。しかし、まぁ、聖書はそのあたりのことは書いておらず、そこは、神との関係性が発生している以上、仏陀が主張したとされる解脱とはかなり違うようである。解脱とは、関係性も切れてしまって、その結果の安定状態であると考える。

                常とは何か、無常とは何か?
                翻訳文の日用語による理解の限界
                 我々は、文化的コンテキストや思想的コンテキストが違う対象にも日本語や他の言語で挑まなければならない。しかし、オリジナルの言語のオリジナルの環境下における文化的コンテキストで表現された古典的な宗教テキストを現代語の枠内でとらえることは案外難しいと思うのだ。
                 縁生の現象である所業は無常だけれども、それを超えた涅槃は無常でないということだ。涅槃は縁生のものではないので、だから、原因や条件によって形成されたものでないという意味で、「無為(asankhata)」といわれ、従って無常ではなく「常」なのである。
                 テーラワーダは厳格な無我説をとるので、常であり楽であるというけれども、「涅槃は我である」とは決して言わない。また、常というのも、楽というのも、私たちが(現象の「世界」の枠組みの中で)普通に思い浮かべる追うなそれとは性質が異なるというのは、しばしば説法などで注意されることである。(同書 p.143)
                直上で紹介した魚川さんの上や無為、我、楽という概念は、仏陀あるいはテーラワーダの世界の言語のことばを現代日本語でかなり近いであろうと思われる言葉で表現したものであり、いわゆる仏教用語、仏教研究者の間では一定に意味に関する合意が形成されているとは思うのだが、通常の日本語の枠内では、意味の幅がかなりある語ではないか、と思うのである。つまり、話者に定義しているこれらに関するそれぞれの語がどのような意味で用いられているのか、つまり仏教学的な学術語の枠組みなのか、通常の現代日本語における日常語の枠組みなのか、江戸期あるいは英暗鬼における日本語の枠組みなのかで、味わいが違うというのは日本語における古語辞典の存在(古典には、理系人間として苦しめられた記憶しかない苦い思い出のある言語体系であり、現代日本語ではないのではないかと思うが、古典語にはけむに巻く効果もあるので、最近また勉強し始めている)を見れば明らかであろう。

                 これは聖書研究においてもその通りで、我々は日本語で聖書を読んでいるのだが、そこで抜け落ちているオリジナルのギリシア語なり、ヘブライ語の意味合いがあることを忘れてはならないことに、もう少し気を使ってもばちは当たらないと思う。つい先日も、パウロが神を信じる人々という意味で使っている語が、人々という意味で民族と使っている翻訳があり、そのことで、いろいろある方からご教示いただいて、あぁ、なるほど、これは民族で理解したら、別の聖書理解になるな、ということを知る機会があった。こういうことを新設かつ丁寧に教えてくださる方がいて、実にありがたい限りである。

                信仰と一種の論理的断絶

                 ところで、もう少しこの楽とは何か、常とは何か、ということに関して、魚川さんが書いて居られることを引用してみたい。
                常であり楽であって、煩悩を根絶する(つまり、煩悩の流れを「塞ぐ」)力をもつ涅槃の経験は、気づきの実践を行って現象の無常・苦・無我を観察し続けることによって生じるとされ、テーラワーダの教理では、その過程で生じる様々な観智(vipassana napa)についても詳細に語られている。
                 無常であり有為(sankhata)である縁生の現象を観察し続けることで、無為の涅槃の経験が可能であるというのは、ある種の「飛躍」であり、合理的な説明のつけにくい、あえて言えば「神秘」であるが、とにかくそれは事実として起こることであり、それによって渇愛の完全な滅尽であるところの解脱は達成されると、テーラワーダでは考えられるわけである。理法(dhamma)が「現に証されるもの」であり、「来て見よと示されるもの(ehipassika)」であるということには、そういう意味もあるのだと彼らは言う。(p.144)
                ここで、魚川さんはマインドフルネスとも呼ばれるアメリカのGoogle本社でも導入されているらしい気づきの実践を行って、現象がどうなっているのかという観察を行うことで、無為であると気づくことについて触れておられるようである。なぜ、コンピュータ系のシステム会社やソフトウェア製造会社がこのマインドフルネスにはまるか、というと、彼らは実際の社会の中にシステムを入れそれらが利用された結果クライアントからの要望がかえってくるので、否応なく現世の社会を見つめなければならないからなのだろうと思う。その意味で、コンピュータ屋は、無常であり、有為の世界である縁生の世界における現象を冷徹に見つめ続けなければならないのであり、そこらあたりが、テーラワーダ仏教におけるアプローチと結果的によく似ているからなのだろうなぁ、と思う。

                 あと、ここで、涅槃の経験が神秘であり、一種の飛躍があると指摘されているが、それもシステム屋の世界とよく似ている。プログラミング言語数種類を渡り歩いた結果、チャンポンになるので時に非常に困るのであるが、ある問題に対応するのに、どの計算機言語を使うのか、とういのも一種の神秘でしかない。また、プログラミング開発の世界には、一種の神秘というのが存在し、非常に美しいコードが書けるかどうかは、かなり属人的な要素が大きく、Art(芸術というか才能というか)が働く部分があるのであり、一生懸命努力したからといって、いい大学を出ているかどうかとは無縁の職人芸的世界はあるように思う。

                 まぁ、キリスト教信仰にも似たところがあって、それを前ローマカトリックの教皇は、「信仰は一種のかけ」であると表現していたように思う。個人的にも、そう思う。理解とか合理性を一種超えたところ、説明ができそうで説明ができないところがあるのだと思う。それもテーラワーダ仏教とも似ていることに、非常に面白いなぁ、と思った。
                 「似ているから同じだ」にならないことは、日ユ同祖論に関する記事でお示ししたとおりである。三角定規とおでんのこんにゃくやコンビニのおにぎりは似ているが、同じではないとおりである。

                ニルヴァーナの実現について

                 涅槃への解脱、ニルヴァーナの体験について、魚川さんは次のように書いている。ここは、キリスト教と最も違う部分かもしれない。まず、魚川さんの記載を見てみよう。
                「世界」形成の原因である渇愛が消滅すると、認知が実際に変わるから、そこで初めて、「なされるべきこと話された」と、人は宣言することができる。それは「比喩」であったり、「いま・ここが涅槃に違いない」と思いこむことであったり、あるいは教法の知識によって「考え方を変える」といったレベルの話ではなく、「現実」や「事実」の認知そのものを変革する「決定的で明白な実存レベルの転換」に他ならない。
                 そして、その様な意味での「世界の終わり」を目指す行為、すなわち、これまでの実存形式の延長線上にはない場所に、決定的に到達しようとする試みが、縁生の現象によって、、同じ縁生の現象と対峙し続けた先に完結するとは考えにくい。(中略)その(煩悩の)流れを決定的に「塞ぐ」ためには、縁生の現象とは全く異なった、何か別のものが必要なのだ。(同書 p.146)
                 魚川さんによれば、認知の変容ということが取り上げられている。価値観の変容というかメタ概念への移行ということが取り上げられているようである。他の信仰心厚いキリスト教徒の方はどうか知らないが、個人的には、このような信仰心を持つことで価値変容があったという経験はない。第1世代のキリスト者であれば、劇的な回心経験があるらしいので、あながち否定はできないものの、第2世代のキリスト者にとっては、このような劇的な回心経験はあまりない。

                 どうも、涅槃経験とは、今風のことばで言えば、パラダイムシフトして、メタ概念からものを認知することで、従来の物事と違った見方ができ、煩悩の流れというかエネルギーの流入路に「蓋をしてしまう」、あるいは、水道のバルブを閉じるように閉じてしまって、煩悩の流れと切り離していくことらしい。

                 反知性主義と呼ぶことが適切かどうかは別として、森本あんり先輩の「反知性主義」という本では、リバイバル運動の中にあるキリスト教の中では、大衆伝道において、多数の人が集まっての野外集会などで、この種の回心経験が一種の集団的ヒステリーのような形で起き、それはそれで、かなり気持ちがいい経験らしいから、その快感を求めて、一生涯に何度も回心する経験を持つ人や、英語が全く分からなくても回心する人が出てくるらしい。一種の神秘主義だと思っているが、それがキリスト教的本質かといわれたら、そういう人もいるという程度の話であり、キリスト教そのものではないような気がする。なぜなら、一生涯に何度も回心して、キリストに従う決心になるということが個人的にはどうなのかなぁと思うからであるが、まぁ、人間は鼻で息するものであり、バアルと神との間をよろめき踊るのが人間であるから、回心を神の前への立ち返ることである、と考えれば、それもありかもとは思う。所詮、人間とはその程度のものであるからではある。

                 ところで、この解脱感を安易に味わう方法として、1960年代から1980年代までのアメリカのカウンターカルチャーの世界では、従来の枠組みを外す方法として大麻、LSDをはじめとした薬物が非常に多用され、それがアメリカ社会の暗部の一つである薬物依存者を大量に生んでいったし、未だにその社会的影響は多い。

                 日本でも、この解脱感を信徒に味あわせ、本来的な思考とマインドフルネスの実践の結果得られるべきはずの涅槃体験、ニルヴァーナ体験への近道として(個人的には、疑似体験に過ぎないのではないか、とは思うが)、信徒へのLSD使用に走ったオウム真理教があった。それこそ、チープな涅槃であり、一過性のものに過ぎないが、人間はそれでも、そのような世界にひかれていくらしい。あまりにも安易に。

                 まだまだ続く






                2015.09.09 Wednesday

                「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(8)

                0



                   今回も、前回の投稿以来時間がたったが、魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」からご紹介しながら、キリスト者として思うところを少し触れてみたい。

                  再生は生じないけれども
                  生はあると主張する聖書

                   世間様の中には、どの宗教も目指すところは同じだから、どれを信じてもよい、とご主張になられる向きの方々がおられる。結果としてどの宗教者のアウトカム(生き方としての結果)も似たもののようになることはあるが、仔細に検討すれば、それはかなり違う、と個人的に思うのである。アウトカムが同じであれば、アウトルックが同じであれば、同じであるとする議論は、子供銀行券の1億円札と1万円札は同じになるが、それは同じではない。なお、コンビニのデジタルコピー機などで、コピーした1万円札と1万円札はほぼアウトルックは同じであるが、コピー機から出た1万円札を使うと、刑法犯になる。同じではないのである。
                   テクストの少し前の部分では、同じ涅槃について、地水火風の要素もなく、この世界(loka)でも他の世界でもない様な領域(auatana)が存在し、そこには死も再生も存在しなくて、それこそが苦の終わり(anto dukhassa)であるといわれている。即ち、苦と「世界」の終わりであるとこところの涅槃とは、生ぜず(ajata)、成らず(abhuta)、形成されず(akata)、条件付けられていない(asankhata 無為の)者であり、そこでは縁生の現象が生成消滅しないから死も再生も存在しないというわけだ。
                   引用部で言われていることは、このような不生であり無為である涅槃が存在するからこそ、条件づけられた現象を出離することも可能なのだ、ということだが、その理路は先ほど述べたとおりである。有為の現象を越えたところに、無為の領域が存在するから、その覚知によって対象への渇愛は滅尽され、「世界」を終わらせることができるということだ。(『仏教思想のゼロポイント』p.148)
                   聖書でいう最終的な終着点(Telos PointやAeonで実現すること)は、確かに苦の消滅であるが、それは、人間側の努力によらない、神の一方的な完全さのうちにおかれることにある、ということであると個人的には考えている。苦の終わりは、思惟の結果の解脱によるのではなく、神から、あたかもナザレのイエスがすべての人類に差し出された如く、神が一方的に提供する神の国、神による支配の結果として実現すると思っている。
                   確かに、聖書の黙示録の中に、そこには死も涙もない、とは書いてあるが、そこは生で満ち溢れているかのごとく書かれている。四苦の中の老、病、死の三苦はないのだが、生はあり、その生は苦でなくなった世界が、最終的な終着点、神の御座の前の状態である、というのがキリスト教、並びにユダヤ教の世界観であると思う。
                   基本的には縁生の現象が生成消滅したり、渇愛のような現象は存在しないが、それは、個人的な覚知によらず、神の義が完成する、神がそもそもの世界の関係性を含めてすべてを完成することによるという、メタ存在がこの地に突入してくることに、つまり、この地上ではカイロスとしてしか現れえない瞬間的な関係性が、Aeonの関係性、永遠に続く関係性に代わるものとして描かれているように思えてならない。仏教用語を使うならば、覚知によって対象への渇愛が滅尽されるのではなく、キリスト教用語を用いるならば、神がすべてのものを完成させる、すべての人をその囚われから解放するがゆえに、より大きな愛に包括されるがゆえに、個人的な細かな関係において発生するさざ波のような現象論に関しては、神の大波の前にその効力がほとんど無視できてしまうほど小さい、という状況のことをさしているのではないか、と個人的に考えている。

                  楽とは何か
                   仏教の「楽」とは、無為、寂滅、涅槃であると以下の文章表現で魚川さんは書いておられる。
                  「生じては滅して行く、その寂滅が楽である」という無常偈後半の句は、生成消滅の存在しない寂滅境であり、また「最高の楽」であるところの、右に述べた涅槃について詠っているものである。この漢訳で言えば、「寂滅為楽(寂滅を楽と為す)」、即ち、不生であり無為である寂滅・涅槃こそが楽であり、仏弟子であればそれを目指すべきだというのは、ゴーダマ・ブッダの仏教における基本的な価値判断だ。(同書 pp.149-150)
                   これは、現代人の考える「楽」とはずいぶん違う。ここのところ、古代語で書かれた文献の内容を現代日本語で読んで、そのまま理解できるか問題ということに取り組んできたが、個人的には、非常に否定的である。そもそも、理解できていないという前提に立って議論したほうがより実り多いことは案外多いのである。
                   大体、現代日本語で話す者同士の対話でも共通理解しているかどうかというのはかなり怪しいのに、相手は、時代を隔てた古代語であり、地域も越えているのである。

                   さて、ここで、魚川さんによれば、ゴータマ・ブッダの基本的な価値基準を次のようにお書きである。
                  不生であり無為である寂滅・涅槃こそが楽であり、仏弟子であればそれを目指すべきだ
                   ここを読みながら、あぁ、なるほど、このあたりがキリスト教との違いが基本的に表れているなぁ、と思ったのである。キリスト教は不生を目指さず、神とともにある生を目指すし、無為を目指さず、神にある有為を目指す。生きることに意味を見出すのがキリスト教徒(キリストの弟子)であることだと思うのだ。
                   しかし、「キリスト教には天国がある」とご主張の向きもあろう。しかし、キリスト教のいわゆる現代日本語における『天国』理解は、ナザレのイエスが言った天の国、あるいは神の国理解、あるいはパウロの時代くらいのイエスの弟子たちが思っていた天の国理解とは似ても似つかない可能性がある、と思うのである。それを軽々しく、涅槃のような状態、死後の世界を天国と軽々しく言うから、混乱が生じてきているのだと思う。そして、お空の星になって、下界の人間界を眺め、守護聖人のような死後の世界概念がはびこっている。それは、日本に限られたことでないことは、最下部に示すMaria Schriver(シュワちゃんの元嫁)嬢のWhat's Heavenをお読みになれば、お分かりいただけるであろう。

                  苦からの解脱を目指す仏教と
                  近代の知的フレームワーク
                   この本で最もおもしろかったのは、以下ご紹介する魚川さんの記述である。あぁ、キリスト教だけでなく、仏教でも、同じことが起きているのだ、というあたりのことが面白かったのである。
                   まず、ゴータマ・ブッダは「すべての現象は苦である」という時、その苦の原因である渇愛を滅尽して、苦なる現状から解脱することを教えた。そして、苦というのは具体的に言えば、生老病死などの八苦である。ここまでは、だれでも承認するゴータマ・ブッタの仏教の基本教理だ。
                   さて、苦からの解脱が教えの本質なのであれば、それが達成された境地では、生老病死は存在しなくなっているはずである。だが、現実のゴータマ・ブッタの人生を見てみると、彼は老い、彼は病み、そして八十歳で普通に死んだ。ゴータマ・ブッタの仏教を、何とか近代の知的枠組みに回収しようと試みる人たちは、ここで大きな困難に直面することになる。(同書 p.151)
                   何が面白いか?っておっしゃるなかれ。この一文である。
                  何とか近代の知的枠組みに回収しようと試みる人たち

                   実は、近代の知的枠組みに、仏教を押し込もうとする人々がおられるというご指摘である。実は、キリスト教でも、この問題は起きている。自分が理解できないことを無理やりに理屈をつけて分かった気になる病は、舞狂でも、キリスト教でもあるという側面であり、わからないことをわからないという素朴さと正直さと謙虚さを失った近代人の悪弊を見る思いをしたのである。

                   その挙句の果てに、ウルトラCをやり始め、そもそもの仏典の主張や、そもそもの聖書の主張など、聖典文書と呼ばれる文書の本質的主張を読み取らず、これらの聖典文書の改竄のみならず、それにわけわからん解説を付けて牽強付会の中途半端な理解を他人に、これが仏教でござい、これがキリスト教でござい、ということを言い募る善意に満ち溢れている善男善女が繰り広げる悪意に満ちた結果が世界中に満ち溢れているように思うのだ。

                   仏教は祖先崇拝ではないが、祖先崇拝だとご教示くださった親類がおられ、祖先を大事にしないとは仏罰が当たるとご教示いただいた方がおられたが、キリスト教徒であるためか、仏罰に当たったためしはないし(ゴータマ・ブッダ様、スルーしてくださって、ありがとうw)、「仏教思想のゼロポイントなぞブログで紹介していたりする」とある教会の方からご指摘を受けたけど、信仰の破船状態にはなってないのはどうしたわけだろう(イエス様、ありがとう)。

                   近代人の思想枠の中に無理やり古代思想やキリストを押し込めて、理解した気になる半可通というのは、実に無益だと個人的には思う。

                  それ、無理筋ではないか、と
                   ブッダは老病死の四苦のうちの3つの苦を経験して入滅したが、それを仏教の主張である、これらの苦からの解脱者であるブッダの離脱、解脱、脱出を前提に、そんなものはなかった、それは弟子たちの誤解ではないのか、という実に奇妙な説をお唱えの方もある模様である。
                   ゴータマ・ブッタという歴史上の一個人は、現実において病んで死んだ以上、輪廻転生の世界観や、無為の涅槃の領域を考慮の対象から除外して、現象の枠内だけで、八苦からの解脱という彼の教えを解釈しようとした場合、それはたとえ話であると考えるか、あるいは「見方の変わった彼にとっては、私たちには老病死に見えるものも、もはや老病死ではなかったのだ」と、言い張るしかなくなってしまうのである。(p.152)
                   個人的には、無理筋、悪手であると思う。この種の無理筋は、キリスト教でもある。そもそもナザレのイエスは弟子たちの妄想説、弟子たちの希望的観測説、ナザレのイエスは死んでいなかった説、弟子たち集団ヒステリーに罹患していた説、民衆の待望概念を書き記した福音書説、まぁ、この種の無理筋には事欠かない。それも、これも、皆近代という枠組みの中に無理やり聖書理解をぶち込もうとした愚の行き着いた先である、と個人的には思っている。史的イエスの研究というのは、行き着いた先が無理筋になってしまった部分があるが、これは、近代の枠組みの中に無理やりイエスを押し込んで理解したいという欲望の行き着いた先ではなかったか、と思うのである。

                   ところで、史的イエスに関しては、日本語では面白いことが起きたことを知っている。英語であれば、Historical Jesusなので、間違いようがないのだが、日本語では、”シテキ”イエスと聞こえるので、”シテキ”に、詩的、私的、という漢字を当ててそれぞれが共通理解をしていると思い込んでいた事例があるらしい。

                   厚切りジェイソンではないが、Why Japanese people! と叫びたくなる。同音異義語って、ムズカシイですね。


                  厚切りジェイソンさんの持ちネタ

                   まだまだ続く。



                  評価:
                  Maria Shriver,Sandra Speidel
                  Golden Books Pub Co (Adult)
                  ¥ 2,018
                  (1999-02-15)

                  評価:
                  魚川 祐司
                  新潮社
                  ¥ 1,728
                  (2015-04-24)
                  コメント:非常に参考になる。

                  2015.09.23 Wednesday

                  「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(9)

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                     今日も魚川さんの『仏教思想のゼロポイント』から少しご紹介してみたい。今日も第6章 仏教思想のゼロポイント − 解脱・涅槃とは何か、という章からである。仏教の核心部分でもあるので、この賞は、少し丁寧にご紹介したい。

                    認知は変わる
                     前回、前々回で「変わる」ということがキリスト教においてあるのか問題を取り上げたが、その差異にも少し述べたが、人間は結構複雑で、「変わる」っちゃ変わるし、「変わらない」と言えば変わらないのだ。人間は様々の属性、特製の束としてとらえるときに代わる部分と変わらない部分があるのではないか、と思うのだ。比較的Open Mindedな人(柔らかあたまの人)は、その人の中に認識されている認知の相対の一部を変容させ、認識を変えることは簡単だが、それが不得意な人もいる。個々人の特性そのものは、変わらないことが多いようのである。
                    このような「見方の変化」は、「事実」として存在する渇愛の滅尽により、認知を「現実に」変化させることでもたらされるということは、あくまで強調しておかねばならない。つまり、それは教法の知識によって、それ自体は変化していない「世界」の「捉え方を変える」であるとか、「違う解釈」をするといった、「みなし」や「思い込み」のレベルで起こっていることではないということだ。
                     ゴータマ・ブッダは、「苦はないのではない、苦はあるのだ」といい、また「私は苦を知り、私は苦を見る」ともいった。そのように「現実存在」している苦は、「みなし」や「思い込み」によってはなくならないし、またゴータマ・ブッダがそんな教えを人々に解いて、それで彼らを納得させえたと主張するならば、それはあまりに当時の宗教者や修行者たちを、甘く見過ぎた解釈であると私は思う。(『仏教思想のゼロポイント』 pp.153-154)
                     認識が変わる経験ということが存在する、ということは個人的には否定しない。LSDや大麻をやって変わるというのは論外にしても、次元の変容、次元からの拘束を抜けた瞬間に瞬時に理解されうる経験というのは、個人的には、何度か幾何学や複素数世界の問題を取り組んでいるときに経験しているので、あぁ、それはあるだろうなぁ、と素朴に思うのである。しかし複素平面で議論しなくなって、何年になるだろう。「思い込み」や「みなし」ではなく、通常のユークリッド平面で議論していたら説明がややこしい問題が、複素平面を用いると、きれいに説明できてしまうことを経験するとか言っても、普通の方には理解不能かもしれないが、実に鮮やかな理解の体験、認識が変わった経験をしたのである。

                     ブッダが取り組んだ問題は、人生における「苦」の問題と「渇愛(しがらみ、手放したくない思い)」とのかかわりをじっくりと考え、しがらみや、手放したくない思いを抜け出すために、どうすればよいのか、という方法なのだと思う。ある面、誤解を恐れずに言えば、近視眼的な(自分が認知していることのみに縛られる)世界、あるいは、銃の照準器で対象を見つめる様な世界観で認識されている対象へのこだわりや注視を捨てて、より広い世界観で対象をとらえ直して「苦」と自分自身の中にある、照準器で相手をとらえその世界の枠組みの中に自らを閉じ込めるような生き方というか、認識から外れ、世界を再認識すること、あるいは思いを巡らせる方法がある、と示したのではないか、と思う。

                    現代日本における仏教の誤解
                     個人的には、魚川さんのおっしゃる現代日本の仏教に対する誤解、ということがどういうことを指しておられるのかは、よくわからないのだが、以下のご指摘は非常に重要であると思うので紹介しておく。
                    既に確認したとおり、初転法輪の内容は四諦である。法身偈の内容に要約されていたように、彼は苦の現実を認めたうえで、その原因を渇愛であると明確に特定し、その滅尽とそれに至る方法とをはっきり示した。
                     ここは非常に大切なところで、この点に関する無理解から、現代日本に見られる仏教に対する誤解の多くも起こっているように思われるので何度でも書くが、渇愛は凡夫に対しては「事実」として作用しており、それが彼らにとっては「現実」そのものであるところの、「世界」を形成してしまっている。ゴータマ・ブッダの教説が当時の真剣な求道者たちに対しても説得力を持ったのは、彼がそのような「世界=苦」の原因を渇愛であると特定し、それを自分は滅尽したと宣言した上で、人々にもその方法を教え、そして弟子たちがそれを自ら実践してみると、本当に「世界」が終わって苦が滅尽した ーあるいは少なくともそのように確信することができたー からである。(同書 p.155)
                     まぁ、平安期伝わった佛教の一部には、仏法の一部に付随する一種の加持祈祷のシステムが結構重視されてきたこともあった。平安朝以降は、苦しむ民衆の救済が仏教であるとして宣べられたこともあったので、それらを経た現代日本では、そのようなものとしてしか仏法を認識していない人が案外多いことを「誤解」として言っておられるのかもしれない。良くはわからないが。

                    世界の見方の変容が起きやすい人と起きにくい人

                     おもうに、「世界」の見方(認識の方法論とそれによって発する認識)が「変わる」人と「変わらない人」の間のグラデーションが世の中の人の間には存在していて、そして、物事の見方を変えにくい人は、渇愛に支配されているのだけれども、その事に気が付かず、自分がその世界に取り込まれていても、それをそのまま「世界とはこういうものだ」と思い込んでいて、人にもそのようにご主張の向きもあるのではないか、と思うのである。

                     これは、キリスト教の世界でも起きているように思うし、学問の世界でも起きがちではある。ある種のマインドセットに支配されていると、そのマインドセットの中でしか物事を見られなくなる、物事を見なくなる方が案外多いのである。

                     この前、イスラム国ISIS団の皆さんを国際法でどうとらえるのか、ということの某関西の有名私大で開催されたシンポジウムに参加してきたのであるが、ムスリム側から見たISISの特殊性ということが分かって非常に面白かった。人とお会いするという所用があって質疑応答部分のころには出発しなければならなかったのだが、同時参加した息子殿のお話によれば、日本側の法律学者の人々は、宗教法の重要性を理解せず、世俗法の枠組み、世俗的な国際公法の枠組みのみで議論しており、世俗法も知り、イスラム法も知っているエジプトの政治学者法学者と日本の法学者の議論の噛みあわなさっぷりは、実にひどかった、らしかったそうである。

                     このことは、世俗法の枠組みのみで考えている傾向は、政治学関係者向けに開催された某関西の国立大学で開催されていた国際フォーラムでミーちゃんはーちゃんが発表した時にも、感じたことである。

                     アメリカという国家とその政治思想を世俗法の枠組みの背景にあるキリスト教思想、特に宗教の多様性を抜きにして理解しようとするときに抜け落ちる視点があるのだなぁ、とそのフォーラムでディスカッションした時に強く感じたことがあるが、今回のISIS団に対して、日本側の参加者法律学者の皆様方が、西洋近代を経て成立した国際法の枠組み内で無理やり治めこもうとしていた結果、誤解とも取れかねないご発言を繰り返しておられたのを見るにつけ、我々の指向枠の一部となっている「世界」認識を外れて考えることの困難さを改めて思った。

                    近代における思想枠としての実証主義とその限界
                     近代は、計測と科学主義が支配した社会である。数量化し、定量化できない概念や現在いわゆる『科学』と呼ばれるもので説明できない現象を、割と簡単に、無視する傾向があり、それが近代的であり、進歩的であり、(したがって正しい)と思い込む傾向があるように思われる。その認識や認知や、測定や測定技法に限界がある、ということの議論は差し置いて。進歩的なものが必ずしも正しいと言えないことは、割とある事実であるが。
                     もし、進歩的なものが正しいとするならば、世界の多元的な宗教を取り込もうとした、オウム真理教や、大川総裁のところの「○○の科学」は最も正しい信仰ということになるではないか。この論理で、結構、まともと思われる人があの集団に関与しようとして言ったことは忘れられてはならないと思う。
                     すると、残る問題はそのような無為の涅槃の覚知が実際に起こるのかどうかということになるだろうが、それについてはテーラワーダの瞑想センターで、上座部圏のみならず、世界中から集まった実践者たちが、いま・この時も「現に証し」つづけていることである。
                     もちろん、「そんな経験は信仰に基づいた妄想だ」と、日本の書斎から主張するのは御自由だが、それが過去の仏教徒たちの認識や、「経典の通り実践を行ったら、経典の通りの結果が出ました」と報告している、現代の(非仏教徒を含む)実践者たちのことばよりも、正しいという保証はどこにもない。(同書 p.156)
                     ミーちゃんはーちゃんは、学問をするとされているところに自ら社会的入院して数十年になるので、それなりに科学の限界性、ツールの限界性、測定の限界性の問題、それから誤差処理にまつわる問題についての認識がある。科学ということの限界にも何度も論文と称するものを書く中で経験している。

                     キリスト教界において議論するときでもそうであるが、近代を経た時代、近代がかなり大きな顔をしている社会において、理性の働きを重視するあまり、理性で説明できないもの、合理的な説明に耐ええないと思われる(個人が勝手に思っているだけの事であるとはおもっているが)「そんなのは、使徒時代の弟子たちの妄想だ」「そんなのは神話だ」と片づけることがある。魚川さんの発言に倣って、今度、そういう発言を聞いた時には、「日本の書斎から主張するのは御自由だが・・・」と思うことにしよう。

                     しかし、霊性の問題にしても、悟りあるいは解脱経験の問題にしても、信仰経験の問題にしても、「個人的にこう思う」「個人としてこのような経験をした」と証言することは可能であるし、それは重要なことであると思う。それを、既存の科学を支配している認識論の世界に無理やり押し込み、実証主義に落とし込むという愚、その実証主義の論争の中で取り扱おうとして、真実性の証明を求める愚は避けた方が賢明だと思うのだ。

                     なぜなら、そもそも、現在の認識論の世界には限界があるからであり、そういうことを扱うことの正統性というか妥当性というか適切さ(能力を含めて)を認識論の世界が持ちえないように思うからである。

                     まだまだ続く




                    評価:
                    魚川 祐司
                    新潮社
                    ¥ 1,728
                    (2015-04-24)
                    コメント:非常にわかりやすく、仏教の思想的背景がわかる。読みやすくてお勧め。

                    2015.10.21 Wednesday

                    「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(10)

                    0



                       今日も魚川さんの『仏教思想のゼロポイント』から少しご紹介してみたい。今日も第6章 仏教思想のゼロポイント − 解脱・涅槃とは何か、という章からである。本日は仏教思想のゼロポイント、全ての出発点となった仏陀の経験である涅槃に関する解説である。仏教の核心部分でもあるので、この賞は、少し丁寧にご紹介したい。

                      涅槃とは何か

                       涅槃について、魚川さんは次のように書いて居られる。これを読んで、ある面で、輪廻が動きまくるこの現在の世界にいながらにして、その輪廻が動き回る世界から、切り離されて、その輪廻が動き回る世界を冷静に、あるいは冷徹に眺める世界が、基本的には涅槃である、ということを意識した。
                       涅槃は「精神的と物質的のプロセス」である輪廻、即ち、生成消滅する現象の継起とは全く性質の異なるものであるということ。そして、涅槃は輪廻のプロセス(現象)を徹底的に観察することでもたらされる以上、その限りにおいて輪廻と「関係している」ということは言えるが、それ自体が輪廻のプロセスの中にあるというわけではない、ということである。(『仏教思想のゼロポイント』 p.158-159)
                       つまり、どうも仏陀が主張した涅槃とは、通常想定されている死後に成仏していく極楽の世界ではなく、透明な思想的存在になって、その存在として地上の姿を眺めるという世界でもなく、霊的な存在になって死後この世にあらわれて地上の子孫たちを観察するでもない世界であり、現存社会に存在する存在として、心を巡らせ世界を丁寧にみることで実現する世界を見ながらも、世界とは関係なくなった、あるいは、そのことに心奪われ、悩まず、気になって気になって仕方ない状態ではなく、その結果として、苦からの解放された状態がどうも『涅槃』の状態であるらしい。理解が不十分なのは、ミーちゃんはーちゃんのマインドセットが仏教向けにできていないからだろうと思われる。まぁ、仏教者でもないし、それは仕方がないことだ、と諦めている。

                       これは、一般に言われている死後に行く極楽や死後に行く天国ではない。つまり、ほかのものから離れてすべてのことを対象としてかなり客観的に(執着したり、渇愛したりすることなく、即ち、対象にとらわれることなく)見ることができる状態のことらしい。

                       こう理解すれば、聖書が述べている世界と、仏陀がたどり着いた境地が同じであるということには絶対にならない。その意味で、「どの宗教も目指すところは同一である」という言明はかなり大雑把な議論であると言わざるを得ない、と思うのだ。

                      涅槃と煩悩と天国
                      そして、キリスト教のゼロポイント


                       仏教の原点、出発点、即ち、ゼロポイントではないか、と魚川さんがお書きの涅槃について、次のような記述がある。これは非常に重要ではないか、と思った。ここの理解が案外ミーちゃんはーちゃんはいい加減だし、また多くのキリスト者はいい加減なので、仏教とキリスト教の主張は同じであるとか、似ているということをいう人が後を絶たないのだと思う。

                       涅槃(nibbana, s. nirvana)の原義は、(煩悩の炎を)「消すこと」だとされるが、まさに火が消えるように、その時には対象と観察、即ち、継起する現象の認知が消失してしまう。現象の認知がないのに「経験(experience)」があるというのは理解の難しいことだし、「推論の領域を超えた」ことだ。だから、その「経験」の内実について、言葉で語ることは不可能である。ただ言えることは、それが起こった時には、煩悩の炎が実際に消えてしまうということだ。
                       本書の表題である「仏教思想のゼロポイント」とは、ここの事である。それは夢想であり無為であるという意味で「ゼロ」であり、ゴータマ・ブッダがこの経験をしたことが仏教の「始点」になったという意味での「ゼロポイント」である。そして、以降の仏教史はゴータマ・ブッダがこの経験をしたことが仏教の「始点」になったという意味での「ゼロポイント」である。そして、以降の仏教史はゴータマ・ブッダの証得したこの境地から、以下に・どの程度の「距離」をとるかという問題をめぐって展開していく。したがって、この「仏教思想のゼロポイント」を経典が記す通りの「決定的で明白な実存の転換」として素直にとらえ、その「性質」を理解しようとする試みが書けていたら、大乗を含めた以降の仏教史全てについて、その正確な理解はおぼつかない。(同書 p.159-160)
                       上の魚川さんの議論が一定程度の正確性をもつとすると、仏教のゼロポイントは、ゴータマ・ブッダが何物にもとらわれず、それにひかれることもなく、煩悩から離れる(煩悩の炎を消すことに成功した)ことにあり、その到達点であった煩悩の炎が消えた状態がその原点であることになる。

                       こういうことをみると、涅槃という語は、死後の世界のことを必ずしも意味しないような気がする。確かに地上の物質的なこととは関係なくはなるいが、古代仏教的にいえば、輪廻の世界から脱出できるかどうかはよくわからない。また、以下で述べるようにキリスト教の点や天の国とは、死後に行く天国ではないようにも思うが、死後の世界を天国と呼ぶという日本語の用法がある程度定着しているようである。ちょっと残念なことであるが。

                       しかし、その意味でいえば、キリスト教の原点は十字架の死(と復活)であり、イエスが「完成した」と言われ、神(天)と人間(地)の関係が回復した、あるいは、天と地がつながった点であると言える。その意味で、エデンの園の時代も原点であると言えるように思う。ある面で創世記は原点であるし、それがこの地上で完成した時点が原点であるし、そして、シナイ山ろくで天(雲の柱、火の柱)とイスラエル人とが共に歩んだ時も原点であるし、そして、Telosと呼ばれる将来に神とともに人が住むという時点も原点であり、ある視点から見れば、らせんがある点を通過するように、天と地が一つに結ばれるという意味での原点(人が生き、人になり、神との関係を回復すること)が複数あるのが、キリスト教の世界ではないか、と思うのだ。ちょうど下の図と太い黒の線が原点であり、時間の経緯とともに、最初、創世記での原点Aを通り、その後の過程の中で、出エジプトという原点Bを通り、その後、何度か預言者によってCを通り、・・・・と原点(天と地が一つになる)に立ち戻るのを繰り返しながら、時間は進んでいるという感じのような気がする。




                       ここまで考えて来たように、生の中で、極めて純粋な経験として、システム論的な観点からいえば、認知と対象との関係とそのわずらわしさが消失する体験とでも呼ぶことが可能な涅槃を原点にして、「苦」の問題を考えるというのが仏教的なアプローチであるように思う。この涅槃から苦の問題を見るため、修行とかその他の方法論によってメタ概念に達しようとする経験を目指すのが仏教であるように思うのである。


                       これに対して、そもそも、メタ概念である神が存在し、それがこの世に関与する原点が存在し、この地に神が介在し、そして共生する、共存することを原点とし、その原点の存在を認め、受け入れ、そこからこの地に神と共にあって生きようとするところが、キリスト教の特徴ではないかと思うのだ。

                       その意味で、結果としてこの地上で表れてくる現象面は似ていても、その現象の出発点、原点とその基礎の構造は仏教とキリスト教の両者で大きく違うように思う。

                      まだ続く






                      評価:
                      魚川 祐司
                      新潮社
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                      (2015-04-24)
                      コメント:仏教の出発点とその根本理解がよくわかる。

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