2015.04.13 Monday

ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(1)

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    薄いが重要な本

     若い友人に勧められて、ラッドの『終末論』を読んだ。薄い本であるが、内容は非常に濃く、また重要な内容を示している本である、と思った。アメリカ経由の日本の多くの福音派のキリスト教徒の場合、J.N.ダービー J.N.Darby(この記事参照)が言い出し、Scofield Bibleと共にアメリカ中に広がり、また、それにサンキー Sankey と ムーディ Moody(この記事参照)が伝道大会で言及することでお墨付きを与え、この150余年の間広がり続けている特殊な終末論であるDispensationalismを批判的に言及した、そしてそのポイントだけを分かりやすく示した名著であるといってもよいと思う。

     なお、このブログの読者の大半の方はよく聖書理解のことをご存じなので、ほぼ説明の必要がないと思うが、終末論とは、「この世界の究極の形が神との関係においてどうなるか、神との関係が最終的にどうなるか」に関する理解であるとミーちゃんはーちゃんは思っている。単なる、世界の終わりにどんなことが起きるのか、ということを聖書を無理やりにこじつけ安易に予測する理解のことではない、と思っている。

     今、日本では、多くの福音派のキリスト者が、聖書を現実に無理やりにこじつけて、これからの世界がどうなるか、ということを予測するという視点で聖書が将来のことを語っていると思っておられる方が少なくはないようであるが。

     個人的には聖書の主要メッセージは将来の出来事予測ではないと思う。まぁ、それは個人間で理解が違いがあるので、致し方ないところではあるが、終末理解とは、これからの将来の予想や予測だけでは絶対にないと個人的には思っているし、将来予測以上にもっと重要なことが終末論には含まれる、と思っている。


    SEKAI NO OWARI のPV(実に終末論的なバンド名である 本文とは無関係)

     ただ、先にも触れたように、 アメリカ経由の日本の多くの福音派のキリスト教徒(改革派系をのぞく)の場合、ディスペンセイションDispensation理解が聖書理解と分離しがたい形で、あるいは聖書理解そのものとして伝えられているため、この本に対する非難や、訳者に対する批判は非常に苛烈なものがある模様であるが、それは井の中の蛙状態であるからではないか、と思う。かのダラス神学校 Dallas Seminaryも20年近く前にDispensationalismはお棄てである。要は、日本では知られてないだけである、と思う。

    Dispensationalismの背景

    多くの福音主義者は、聖書全巻は神の霊感のもとにある聖書記者により記されたということから、聖書はどの個所もすべて同じ神学的な価値を有するという結論が下されると考える。そして、聖書のうちにある多くの預言はジグゾーパズルの断片の集まりのようなものであり、それらをぴったり組み合わせれば、現在と未来の両方に対する神の贖罪を目的とする巨大なモザイク画が出来上がると考えるのである。(終末論 p.7)
    Dispensation理解の背景として、近代を支配した極端な等価主義(それぞれの個人はすべて同じ価値を持つ、とする反知性主義的な考え方であり、これが聖書に適用されると、それぞれの聖句ごと等しい神学的価値を持ち、それぞれの聖書箇所は確実に一義的(単一の意味をもつものとして)に解釈可能であるとする考え方)をラッド先輩は御批判である。

     このような字句通りの解釈で、等価主義的な聖書理解をするようなナイーブな仮定を持つ人がいるのか、ということで「のらくら者」先輩からご指摘(そのことが記載された記事はこちら「聖書論って!」)を受けたので、それに関して、個人的には、それに近いかなりナイーブな仮定を持つけれども、実はそこにコミュニケーション論的にはいくつかの課題があることを指摘した拙ブログの記事「ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論」を公開しているところである。こういう記事を書くから、リベラル扱いしていただけるし、危険人物扱いしていただける。実にありがたいことである。リベラル派の方々ほどミーちゃんはーちゃんは賢くないし、キケンでもないと思っている。

    聖書をどう理解するか
     聖書の理解の仕方には、「一つの記事(表記)は、一つの出来事としか対応しない」という一対一対応させる理解の仕方と、「一つの記事(表記)は、複数の出来事と対応可能である」という一対多対応させることができる理解の仕方とがある。個人的には1対多対応すると思っている。図で書くとこんな感じである。


    このことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。
     私たちは二つの物語、つまりイスラエル民族の物語と教会の物語を手にしている。このジレンマのように思われる事態をどう扱うべきなのか。
     これには、二つの根源的に異なった回答が提示されており、預言研究に携わる人は、すべて二者択一を迫られる。第一のものは、神は二つの異なったプログラム、すなわちイスラエルのためのプログラムと、教会のためのプログラムを持っておられると結論する。
    (中略)
     預言を解釈する第二の方法は、啓示の漸進性を認識し、旧約聖書を新約聖書に基づいて解釈することである。ディスペンセーション主義者は通常これを契約神学と呼ぶ。旧約の契約と新約の契約の統一的な要素を強調しているからである。(同書 pp.8-9)

     ラッド先輩は、ディスペンセイション神学の系譜で育った方であるとご自身でお書きであったが、基本的には、啓示の漸新的な聖書理解と多義性を前提とした理解に立っておられるので、一つの聖書箇所が、時代と環境の中におかれたユダヤ人やキリスト教徒それぞれにとって、様々な意味を持つもととして理解されうるし、そうであっても聖書は神のことばとして受け取り可能である、ということを示しておられるようである。それを契約神学とディスペンセイション主義者が呼ぶことは、個人的に果たして適切であるのか、という疑念だけはここで提示しておく。

     あと、ここで、上記の預言の1対1対応に関連して、創造科学の関係者の一部に時に見られる聖書の正当性を示す為に用いられる似非科学手法について触れておきたい。その似非科学とは、「聖書の預言の成就確率がきわめて高い」というご主張である。そもそも、確率はサイコロを振って出た数のように、事象がきちんと定義されている(Well Defined)からこそ計算できるのである。「聖書預言と現実社会の事象が1対1対応する」という前提と、預言の実現という事象空間がきちんと定義可能であって初めて、預言の成就確率が計算できるのである。しかし、ラッド先輩のように預言の内容が多義性を持つ場合、つまり、預言が指し示す事象が複数存在しうる場合、そもそもそういう確率を計算することすら無意味であるというのが古典的な確率論の立場であると思うが、それを超越し、多義的な事象に対して実現確率を明確に定義できる最新理論があるのなら、ぜひともご教示いただきたいところではある。

    苦難の僕をどう理解するか

     イザヤ書53章は苦難の僕の預言と呼ばれることもある。少し口語訳聖書から冒頭部分だけ、引用しておこう。

    【口語訳聖書】イザヤ書
     だれがわれわれの聞いたことを
    信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
    彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
     さて、この部分をどう解釈するか、についてラッド先輩は次のようにお書きである。

     ここに正に、基本的な解釈法が適用される。イエスとイエスの後継の使徒たちは、旧約聖書の預言をイエスの人格と使命という視点から再解釈した。『人の子は、栄光をもって到来する前に、地上に現われなければならない。そして人のこの地上における使命は苦難のしもべの役割を果たすことであった(原訳文は傍点)』(同書 p.20)  
     この表記を見る限り、旧約聖書のメシア(救世主)預言を、イエスという特定の人格を持ちかつ神である極めて独自の対象であるナザレのイエスに当てはめて、イエスの弟子たちがこの旧約聖書の内容と表記を再解釈し直していることをご指摘である。つまり、聖書理解の多義性の前提に弟子たちが立っていたことを示そうとしておられるのである。

    多義的に幅広く旧約を解釈した弟子たち
     さらに、この多義的な解釈の可能性について、次のようにもラッド先輩はご指摘である。
    私たちは今、キリスト論で見た同じ事象を終末論の領域で見ている。旧約聖書の諸概念が根本的に再解釈され、予見されていなかった適用を与えられている。旧約聖書では字義通りのイスラエルに適用されているものが、ローマ人への手紙9章25節ではユダヤ人も異邦人をも含む教会に適用されているのである。(同書 p.29)
     まぁ、一応ローマ書で指摘されている個所を引用しておくと、こんな感じである。
     聖書口語訳 ローマ書
    9:25 それは、ホセアの書でも言われているとおりである、
    「わたしは、わたしの民でない者を、
     わたしの民と呼び、
     愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
     こう見ると、パウロ先輩にしても、イエスとともに歩いた時代の弟子たち先輩にしても、実に幅広く聖書を多義的に解釈していることを知ることになる。パウロ先輩がお書きになって新約聖書に残っているお手紙にしても、新約聖書福音書記者先輩にしても、もともと、聖書を多義的にお読みになっておられた形跡は、旧約聖書の引用を見れば、よくわかるであろう。
     マクナイト先輩は、『福音の再発見』の中で次のような図を使ってご説明である。チャンと旧約聖書全体を読んで理解することが大事なのであって、本来旧約聖書の理解に多義性があることをこの図でお示しになりたかったようである。


    スコットマクナイト著 福音の再発見の図をもとにミーちゃんはーちゃんが作成 

    聖書理解は何を基礎にすべきか?

     聖書理解の特徴について、ラッド先輩は次のようにお書きである。

     ディスペンセーション主義者は”霊的”解釈を旧約聖書を解釈するうえで最も危険な方法であるとみなしている。ジョン・ワルブード教授は、これを現代のローマ・カトリック、現代のリベラル派、現代の非ディスペンセーション系保守の立場の著者たちを特徴づける解釈であると書いている(The Millennial Kingdom 1959, p.71)しかし筆者は霊的解釈を採用しなければならないと思っている。なぜなら筆者には、旧約聖書において字義通りのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用していることがわかっているからである。筆者が霊的解釈を採用するのは契約神学の立場をとっているからではなく、神のことばに縛られているが故である。(同書 pp.31-32)
     ラッド先輩のご記載されていることの中で、一番大事なのはこの部分、即ち「(ある)神学の立場をとっているからではなく、神のことばに縛られているが故である」という表現だと思う。しかし、多くの場合、神学理解が先に立ち、聖書テキストが完璧に後回しになるという不幸な事例が福音派の一部の皆様の間で多々見られるが、本当に「これってどうよ」って思うのだなぁ。翻訳聖書の一部の日本語翻訳の表記や欽定訳の表記に縛られて作り上げられた、気宇壮大な神学を聖書のコンテンツだと思って、一部の表記にこだわって生み出されたその気宇壮大な神学をなぞるように、聖書のかなりの部分を無意識的に捨て去りながら(読み飛ばしながら)、自分たちは実に聖書に忠実だ、と思いながら聖書を読んでいないだろうか。まぁ、どう思おうが勝手であるけど。

     しかし、ワルブード教授とやらがあげておられる”霊的”解釈に関連してあげられているキリスト者集団は、基本、一部の福音派の方々が大嫌いなローマ・カトリック(そのくせテレビに出たマザーテレサは福音派でも言及されることが多い模様。恥ずかしくないか?その態度。個人的には、カトリックにも尊敬に値する方が多いと思っている)、福音派の皆さんから悪魔の手先扱いされているリベラル派(でも、現代のリベラル派、って「現代の」って形容詞がついていることに関して、読者よ悟れ)であるので、またぞろミーちゃんはーちゃんに、カトリック好きとか、リベラル崩れとかラベルが貼られそう。ミーちゃんはーちゃんに適当なラベルを勝手に貼ってもいいけど三位一体の教理はだれが言い出したか、よ〜〜〜く考えよう。

     しかし、現代の米英の福音派神学では「霊性」が大きな関心を占める中、福音派は「霊性」まで、封じ手にしてしまうのかどうかを、いまミーちゃんはーちゃんはぼ〜〜っと、眺めている。

    大衆レベルでの天国観のおかしさ

     大衆レベルでの天国観のおかしさについて、ラッド先輩は次のようにお書きである。
    私たちは死んだら「天国に行く」。大衆に普及しているこの考え方によれば、天ごっくは至福の状態―すなわち「永遠にうるわしい世界」―であり、信仰者は真で死の皮をわたると、天国の門をくぐる。信仰者は天国で、肉体を離れた至福の状態にあり、「不死の者たちとともに、そこに住む。」
     そのような考え方は、どれほど広く普及しているにしても、聖書の神学というよりギリシア的な思想の表現である(pp。40-41)
     いやぁ、ミーちゃんはーちゃんの周りのキリスト教世界の皆さんは、死んだら即召天されたりして、天国に召喚してもらえるカードを持っている方も結構おられるらしい。まぁ、ミーちゃんはーちゃんは不信の者であるからか、そういう天国召喚カードは見たことも触ったこともない。しかし、そんなミーちゃんはーちゃんにラッド先輩は、心配しなくていい、とおっしゃってくださっておられる。だって、それは、「聖書の神学というよりギリシア的な思想の表現である」ですって。つまり、「ギリシア的なフォークロアをマジでキリスト教と思ってないか」ってラッド先輩は御批判されておられるようなのである。

    ギリシア的な肉体観と徳概念

     ギリシア的な肉体観と霊理解について、ラッド先生は次のようにお話である。
     肉体は現象的な世界に属し、魂は本来的な世界に属する。肉体は、講義グノーシス主義の思想とは異なり、それ自体悪であはないとされるが、魂にとって重荷であり障害である。ソーマ・セーマ、つまり「肉体は魂の墓場」である。賢人とは、肉体の情欲や食欲を鍛錬し服従さえ、魂を養うことを学んだ人である。魂の最高の機能が知性である。そのように「救い」も―ギリシヤ的な概念としてではなく、聖書的な概念としてー死に際して魂が肉体から解放され、本格的な世界への飛翔するものと考えられるようになった。(p.41)
     しかし、この間ある体格の良い友人が、切り捨て教徒の看護師の方から、「標準体形は神様の御心だから、体重を落とすように言われた」といって憤慨していたが、きっと、その看護師の神様は、ギリシア的なストア哲学風の世界の神様のことをおっしゃっておられたのであろう。ヘブライ的なメシアではなく。なんか、ヘブライ的なメシアは、「あなた方は心配したからといって、すこしでも身長を伸ばすことができますか」って主旨のことを弟子たちにおっしゃてたような気がするけど。多分、これもミーちゃんはーちゃんが持っている日本語聖書にしかない記述なのかもしれない。友人を憤慨させた看護師の方は、きっと別のもっと正確な翻訳聖書を読んでおられたのかもしれない。

     悪質な冗談はさておき、この肉体観、世界に対する嫌悪感にギリシア哲学世界を経たキリスト教は毒されているので、肉体は、魂にとって重荷であり障害であるとし、肉体を服従させ、鍛錬させることをよしとするストア派的な哲学がどこかに残っていて、これが、キリスト者を苦しめていると思う。聖書の言う徳とギリシアのストア哲学的な徳がどこかで混乱しているのだと思う。

     アパセイアというギリシア語を尊敬するU先輩のセミナーで習った。スチューデントアパシー(無気力型生徒)の語源となったのが、アパセイアであり、アパシーは無気力を意味する語であり、その語源がアパセイアであるるらしい。

     ところで、実は、何事があっても驚かない精神性(不動心)のことがアパセイアであり、これはギリシア的な徳目の一つであるが、聖書的な徳ではないのではないか、というのがU先輩のご意見である。個人的には、実にもっともなご意見であると思っている。確かに、うれしさのあまり舞い踊るダビデ(そしてミカル夫人にバカにされる)とか、怒りに任せて、神様からもらった十戒の石の板を割るモーセとか、旧約の人物には、アパセイアと無縁の人物が多い。新約にだってヤコブとヨハネには、ボアネルゲというあだ名が献呈されている。ペテロ君だって、アパセイアと無縁の人物である。

    旧約聖書の世界理解

     旧約聖書の世界理解は、現代のキリスト教の一部の福音派の方がたのように、世はどうせすたれ、滅びるのだから、という理解でなかったし、誠心誠意こめて向き合っていくべき対象であったことは確かであるが、ラッド先輩はそのことに関して次のようにお書きである。

    旧約聖書は、この世界を異国の地やどうでもよい舞台のようなもので、人間が天国へ迎え入れられることを望みつつ一時的な地上の生を全うする場でしかない、とは見ていない。人間も世界も共に創造の秩序に属しており、言葉の真の意味において、人間の運命に世界は深くかかわっている。(訳書では太線部は傍点)(同書 p.42)

     個人的には、Sojournersとか福音派左派と呼ばれる人々と聖書理解は近い(左派といってもマルクス主義は厨二病の一環としてのはしかのように、既に罹患したので、もう飽きている)ので、この地にあって神に生かされている存在として生きたいと思っている。その意味で、ラッド先輩の人間も世界の一部として想像の一部にあり、人間の命運に世界は深くかかわっているという表現もそうであると思うし、また、世界の命運に人間は深くかかわっていると思っている。

    旧約聖書の死後理解
     ついこないだ、京都在住の古代仏教の研究者の方とユダヤキリスト教的な死後理解について、そして、救済論理解について、Facebook上でやり取りする機会があったのだが、キリスト教の死後世界の理解は案外、誤解されて理解されており(それは仕方がない、キリスト教世界でも大衆レベルの理解では天国召喚カード型の理解が支配的であるからである)、本来的な意味での神における終末(Telos)がきちんと表現されていないからである。そのTelosに至る前の死生観の問題について、ラッド先輩は次のようにお書きである。
     死後の存在についての旧約聖書の概念は、その人間観と密接に関係している。魂あるいは霊は、神の世界への避難しようとして物質界を脱出するのではない。むしろ、人間はシェオールへと下る。シェオールは地の下、地の底にある場所と考えられている。(同書 p.44)
    個人的な理解では、モーセ時代以前の死後に関する理解はいざ知らず、少なくともイエス時代の旧約の死後理解は、上記の「ラッド先輩説に一票!」だと思う。さらに、ラッド先輩は次のようにもお書きである。
     死についてのへブル人の概念は、いのちは体と一体化してしている確信も証言している。シェオールにおける使者の例において、神との意識のある交わりは失われている。それゆえ、シェオールへ下ることはいのちを意味しない。(同書 p.46)
     ここで重要なのは、「神との意識のある交わりは失われている」という表現であり、一種眠っているということと理解されうる理解である。このことは、復活理解と非常に深くかかわっている。

     というのは、イエスにまつわる復活物語で、結構、「寝ている」と表現されている事例が多いのだ。少女に対して、タリタ・クミ(訳すと少女よ起きなさい)とアラム語でおっしゃった事例や、既に眠ったもの、という表現があるのであるし、イエスの復活そのものにしても、日本語では復活した、と訳されているが、ギリシア語表現を見る限り、イエスは、「目を覚まされた」とも理解できる表現のようにも思う。だからこそ、マリアと出会ったとき「おはよう」とイエスは言われた、ということの意味があると思うのだ。

    新約聖書とパウロの死後理解
     パウロの死後理解に関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。日本に伝わった聖書理解は、基本ギリシア世界を経由しているので、どうしてもギリシア的2元論に支配されているように思う。それを見直した方がよいのではないか、というのが欧米に遅れることふた昔、漸く最近日本でも着目され始めた見解であり、それは我が国の聖書理解にとって喫緊の課題ではないかと思っているけど、こういうことを言うとリベラルの軍門に下ったとかありがたいラベルを張っていただける。
     肉体を人間の自我が最善の状態に至ることの妨げと考え、肉体を脱ぎ捨てて「霊的」領域に到達することを期待するギリシヤ的二元論に対し、パウロは正反対の位置に立っている。パウロにとって、復活は最も大事なことを意味していた。パウロは死後の死者の状態については、神から何の指針も与えられていなかったようである。パウロが語ることができたのは、「裸」の状態にあるということだけであった。(同書 p.53)
     特にパウロの死後理解は、ギリシア哲学とギリシア文学及び文化の影響下にある人に伝道する中で、ギリシア語の限界を受けながらも伝えていくため、歪んで誤解されて受け取られて行ったことも少なくなかったのではないか、と思っている。
    要約すると、パウロの証言は、死に瀕していた強盗に対するイエスの言葉と符合している。神の民は死後、イエスと共にいることになる。しかし、新約聖書は中間状態の特徴について詳細な説明をほとんど提供していない。(同書 p.54)
     これらラッド先輩の二つの記述に見られるように、新約聖書は中間状態の特徴に対して口を閉ざしているのに、我々は、かなり饒舌にああでもない、こうでもない、とごくわずかな表現を手がかりにあらぬ事を言ってきた(それはミーちゃんはーちゃんもやってきたことは認める)のではないか、と思うのだ。本来、わからないことはわからない、というべき時に、神の民の神のことばへの敬虔を見せるべき時に、軽々しく、神の民の神のことばへの軽薄を見せびらかしてきたのではないかとこの本を読んで反省させられた。

     ミーちゃんはーちゃんは、森本あんり先生のおっしゃる意味で「知性的」、即ち、「振り返りができる」キリスト教徒でありたいと思うし、新潮社編集部さんのおっしゃるような”世界を席巻する危険な「反知性主義」”に毒されたくはない、と思う。それが、如何にキリスト教を自称しようと。

     続きは原則月曜日公開(多分、あと2回くらい)。それ以外は、しつこく富士山とシナイ山を読んでいく。








    2015.04.20 Monday

    ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(2)

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       以下は、個人の感想であり、所属教派、所属キリスト者集団、所属キリスト教会(集会)の主義主張とは必ずしも一致しないものであることはあえて一言触れておく。

      不幸な論争をもたらした再臨理解
       キリストの再臨をどう考えるか、という問題は、終末論の一部であるけれども、すべてではない、と思っている。とは言いながら、ラッド先輩がおっしゃるように、この問題は実に悲劇的な論争となってきた。
       
       多くの福音主義の教会において悲劇的論争の主題となってきた一つの問題を取り扱わなければならない。第1章で論じたように、ディスペンセーション主義は、キリストの再臨は二つ存在する。もっと正確にいえば、キリストの再臨は2段階で起こる、と教える。ディスペンセーション主義では、神の二つの民ーつまりイスラエルと教会ーが存在し、そして神は二つの異なった計画ーつまりイスラエルに対する計画と教会に対する計画ーをもっておられる通していることを私たちは見て来た。(終末論 p.73)
      終末において、イエスキリストの再臨と来臨の区別やその時期がどうか、というのは、個人的にはどうやっても特定できないし、特定したところで何か生まれるか、ということを考えた時に、その細かな論点整理をするよりは、その先に何があるのか、神との和解の実現ということに思いをはせる方が、よほど楽しいのではないか、と思う。本来の神との関係の回復こそ、聖書の主要な主張ではないか、と思っている。

       しかし、こちらがそうは思っても、この種の議論に御関心の深い方々は、それでは気が済まないらしく、延々と自説をご紹介くださるので、あぁ、そうですか、なるほどなるほど、それはよかったですね、と御回答することにしている。

       以下、本文中で指摘されている再臨を示す3つのご、パルーシア、アポカリュプシス、エピファネイアについてご紹介。


      再臨を示す第1の言葉 パルーシア

       再臨を示す言葉は3つあるとラッド先輩は指摘されており、その第1のものはパルーシアである。主の出現や臨在を示すパルーシアと空中携挙と呼ばれる理解に関しては、ラッド先輩は次のように指摘しておられる。

       キリストが艱難期の前に再臨し、死んだ聖徒たちをよみがえらせ、生きた聖徒の教会を携挙するという教えは、ディスペンセーション主義者のもっとも特徴的な教理である。私たちは、大艱難前にキリストが再臨されるとする見解を新約聖書が支持しているかどうかを判断するため、新約聖書で使用されている用語を吟味しなければならない。
       新約聖書において、再臨を描写するために3つの言葉が使用されている。第1に、「到来」「出現」また「臨在(プレゼンス)」を意味する「パルーシア」がある。これは主の再臨に最も頻繁に使用されている用語であり、教会の携挙に関するものとして使用されている。

      【新改訳改訂第3版】
       I テサロニケ 4:15−17

       4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
       4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
       4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
       キリストが秘密のうちに再臨するということを右の箇所の中に見出すことは極めて困難である。(同書 pp.74−75)
       日本語や英語の翻訳聖書の元となった、聖書のほぼオリジナルに近い(オリジナルは見つかっていないので、時代ごとにその底本とすべきギリシア語底本も時代ごとに代わってきたし、おそらくこれからも変わり続けていくとは思うが)言語底本の用語に基づき、来臨と訳されているパルーシアをどう解釈するのか、ということを述べておられる。

       ミーちゃんはーちゃんなぞは、つい、4章17節の引き上げられ、という語に引きずられがちであるが、案外重要なのは、4章16節の『主は、(中略)ご自身天から下って来られます。』という部分が大事なのではないか。どの高度に降りてくる、とは明確に書かれていないので、空中とすることも可能であろうし、地上とすることも可能ではないか、と思う。個人的には、地上かなぁ、と最近は思っている。まぁ、現在の日本では、雲は空中に浮かぶと思っている方が多いようであるが、地上にも雲が降りてきた話は出エジプト記に在ったような気がする。それは気のせいだろう。まぁ、あれもこれも想像の域を出ない一種の知的スポーツでしかないように思う。起きてみてわかればそれでいいし、その様な事象が起きる前にかなり長い時間の眠りにミーちゃんはーちゃんはつきそうな気がしてならない。

      再臨を示す第2の言葉 アポカリュプス
       このアポカリュプスという語、権限という語であるが、黙示録に関する英語であapocalypticという英語の語源だろうと思う。そもそもアポカリュプスという言葉自体、アポ(離れて、外す)とカリュプテイン(覆う)というギリシア語の合成語である模様である。つまり、覆われたものはずす、という意味である。以下のノーベル物理学賞のメダルのカバーがかけらているものからカバーを取り外されようとしている状況のような感じも持つ語でもある。


      アインシュタイン先輩が授与されたノーベル賞のメダル

       この語に関してラッド先輩は次のように書いておられる。なお、黒の太字にしたところは、もともとの本では、傍点が付されていた文章である。

       主の来臨について使用されている第2のことばは、「顕現」を意味するアポカリュプシスである。艱難期前再臨説の立場の人々は、キリストのアポカリュプシスあるいは顕現を、教会の携挙とは区別し、キリストが審判をもたらすため栄光のうちに到来する艱難期の終わりの出来事として位置付ける。もしこの見解が正しいとしたら、キリストのアポカリュプスは第一義的にクリスチャンにとって祝福された望みではなくなる。顕現が起こる時、聖徒たちは既に携挙されており、肉体にあってなした行為に応じて報いをキリストの手から受け取っていることになる。彼らは既にキリストとのいのちの交わりのまったき喜びに入っている。すなわち、キリストのアポカリュプス(訳注:顕現)は、悪しきものの審判のためであり、教会の救いのためのものでなくなる。(中略)艱難期前再臨説によれば、キリストの秘密裏の再臨における携挙は祝福された望みであり、好ましい待望の的であるが、顕現はそうではないことになる
       けれども、このような教えを聖書に見出すことはできない。私たちは「熱心に私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:アポカリュプシン)を待っています」(Iコリント1:7)。艱難前再臨説によれば、私たちは顕現などは待ってはいない。携挙を待っているのである。教会はキリストのアポカリュプスの時まで苦難に会わなければならない。(同書 p.79)
       終末理解と艱難理解の混乱の結果、いろいろな季節、陳節、論理的なウルトラCが各種開発されたのであるが、実は、このことに関しては、別のところ(この記事の最後のあたり)でも触れたが、この理論ができた当時の社会的背景、つまり18世紀末から19世紀初頭にかけての社会不安がその成立の背景にある。つまり、18世紀末から19世紀初頭、ヨーロッパでは革命のあらしが吹き荒れ、血で血を洗う戦争や内戦が起きたのだ。その中で、ディスペンセイション説が形成されたため、終末理解との関連で、艱難理解、つまり、革命的現象の中での流血事件と艱難とが重ね合わされ、様々な理解が生み出されたのではないか、というのはかなりいい線をいっている理解ではないか、と思っている。

       その地で血を洗う時期に作詞作曲された、現在のフランス国歌でもあるこの曲の歌詞の日本語訳を見ながら、その意味をお考えいただけると嬉しい。イギリス人の大好きな呪いの言葉Bloodyという語がふさわしいほど、血みどろの歌詞である。


      初音ミクさんで、フランス国家 La Marseillaise (日本語訳詞付き)

       もう少し、ラッド先輩は、このアポカリュプスについて説明しておられる。より具体的には、この顕現の時は、我々が完全なものとされ、神の養子としての完全な神との関係を取り戻すということである。その部分を引用してみたい。
       ペテロは同じ表現を使用している。いま私たちはキリストの苦しみを共にするものとされている。それはキリストの栄光が現れる(訳注:アポカリュプセイ)時にも、喜び踊るためです」(Iペテロ4:13)。(中略)さらに、ペテロは私たちの信仰の真実性が「イエス・キリストの現れ(訳注:アポカリュプセイ)の時に賞賛と光栄と栄誉」(Iペテロ1:7)をもたらすと語っている。(中略)しかしこの箇所は、キリストのアポカリュプスの目的の一つは、信仰の忠実さゆえの光栄と栄誉を御自身の民にもたらすことであると断言している。最後にペテロは、私たちが恵において完全なものとされる望みは、イエス・キリストの顕現の時にもたらされると保証している。(p.81)
       概して、終末理解 eschatology は艱難理解と取り違えて議論されがちであるが、艱難がどの時点でおきるのか、ということの理解は、繰り返し、何度でも、しつこくいうが、個人的には艱難理解や艱難の時期否定理解とは別物であり、最終的な状態として神と人との関係がどうなるかが本命ではないか、と思っている。もし、終末理解が艱難解再臨との時間関係の理解、いつ発生するかの議論と混乱されているとすれば、ことばはすぎるかもしれないが、それはハルマティアと言われても仕方がないかもしれない。この場合のハルマティアは、もともとのハルマティアの語義でもある、的外れという意味で用いている。

       本来、神に在って完全とされるということが終末理解の際重大事であるべきであると思っている。ただ、ラッド先輩と意見をことに数rのは、個人的には「私たちの信仰の真実性」ではなく、あくまで、「ピスティス・クリストゥー」が賞賛と光栄と栄誉をもたらすとミーちゃんはーちゃんは考えている点である。

      再臨を示す第3の言葉 エピファネイア
       再臨を示す最後のギリシア語は、輝き、あるいは、輝くこと、明白にすることという意味を持つエピファネイアである。なお、この語から、公現祭、顕現祭とも呼ばれ、クリスマス直後に東方の博士とイエスが面会した日を祈念する日とされている。

       キリストの再臨について使用される第3のことばは、エピファネイアである。これは「輝き」を意味し、従って艱難前再臨節の体系によれば、艱難期が開始される時の教会の携挙やキリストの来臨を指しているのではなく、艱難期の終わりにおける、世界に審判をもたらすための、聖徒を伴ったキリストの顕現を指しているのである。キリストは「来臨の輝き(訳注:エピファネイア)」(IIテサロニケ2:8)をもって不法の人を滅ぼしてしまうのであるから、実際にそれは顕現の意味において使用されている。キリストがエピファニー(訳注:輝き)をもって出現するのが艱難期の終わりであることは明らかである。
       しかしキリストのこのエピファニーは、キリストのアポカリュプスと同じように信仰者の望みの対象である。もし教会が前もって携挙の時に望みの対象を受け取っていたのなら、そうなることはあり得ないからである。パウロは「私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:エピファネイアス)の時まで」(Iテモテ6:14)命令を護り、傷のない、非難されるところのないものであるよう勧告している。生涯の終りにおいて、パウロは「今からは、偽の栄光が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」(IIテモテ4:8)と語り、(中略)パウロが報酬の日として期待している「その日」がキリストのエピファニーの日であるとしか結論できない。従って、それはクリスチャンが愛情を注いでいる日、クリスチャンの望みの対象である。(中略)艱難前再臨説は報酬が与えられう審判を携挙と顕現のに位置付けている。しかしここでは、それは艱難期の終わりのエピファニーの時に位置付けられている。それは顕現と同じ時である。(同書 p.82−83)
       このように見てくると、ラッド先輩は、艱難前再臨説をご批判であるけれども、我々はそこに目を奪われて、問題を矮小化してはならないと思うのだ。パルーシアであれ、アポカリュプシスであれ、エピファネイアであれ、基本的にこれらすべては最終的な神の終結、神のテロス Telos(実は、終末論をあらわすeschatologyという語は、テロスのラテン語表記に由来していたと思う)に関する語であるとしておられることに目を向けるべきであって、艱難の時期などを焦点化させることは聖書理解に歪みを生じさせるのではないか、と思う。そこに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

      用語の混乱と終末論の混乱

       他の部分でもそうだが、我々が普段日本語で読む聖書は翻訳聖書であるという側面を忘れてはならないだろう。聖書翻訳者の方々のご苦労は想像することすらできないが、そこで翻訳された言葉から勝手に自分のお好みの聖書理解をごくわずかな表現をもとに造り出すことには、かなり問題があるのではないか、と思っている。それよりも、全体を通して何が基本的で重要なポイントか、ということを抑えつつ、考えていくということが重要だろうと思っている。
       教会の携挙とキリストの顕現との区別は、神のことばによってどこにおいても主張されていないし、キリストの再臨に関係する用語によっても要請されていない、と結論できるだけである。(中略)パルーシア、アポカリュプス、エピファニーは単一の出来事である。キリストの再臨を二つの部分に分割することは、立証されえない推測にすぎない。(p.85)
       まぁ、これまでラッド先輩のおっしゃることをご紹介してきたが、とは言え、それぞれの語を別々のものと理解することも可能であるし、いや、ラッド先輩のおっしゃるように、それは一つだ、とすることも、理屈のうえでは可能である。ただ、いずれのケースにしても、立証されえない推測でしかない、という可能性があるような気がするなぁ。あくまで目を向けるべきは、神と人との関係がどのようになるか、艱難の通貨の有無やその時期よりも最終的に神が実現される完成された世界という聖書のメインテーマに我等の視点を据えるべきで、時間や順序がどうなるか、ということを議論することではないのではないかなぁ、と思っている。

       最後に、ラッド先輩の言葉を引用して、再臨や来臨を区別することの無意味さを考えたい。
       この学派の極めて最近の著者たちの一人は、教会のためのキリストの来臨はキリストの再臨ではないと主張している。この見解はキリストの来臨と再臨とを区別する。このような区別は全く立証されていない。キリストの再臨を描写するために使用されている言葉のうちそのことを支持するものを見出すことはできない。「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。言い換えると、それは不自然、かつとてもありえない区別である。キリストのパルーシアはキリストの来臨であり、キリストの来臨はキリストの到来であり、キリストの到来はキリストの再臨である。
       主の来臨について使用されている語彙は、キリストの二つの到来または到来の二つの局面があるという見解に、いかなる指示も与えていない。反対に、キリストの来臨が単一、かつ不可分な栄光に満ちた出来事であるという見解を立証している。

      ラッド先輩の「「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。」ということは、非常に重要でないかなぁ、と思う。自分たちがある思い込みで聖書を読んでしまっていて、聖書本文から結構離れているということは意外に多いかもしれない。

       まぁ、英語の聖書にしても、日本語の聖書でも、翻訳聖書だけにいろんな問題が出てくる。そして、その表現をもとに、様々な解釈が可能であり、その解釈をさらに発展させることも可能である。ギリシア語テキストの聖書でも翻訳聖書でも、解釈が困難なところは、無理に解釈し、決めつけず、こうじゃないかな、くらいで止めておくのが凡人にして平信徒のミーちゃんはーちゃんには適切なのだろうと思っている。










      評価:
      価格: ¥1,944
      ショップ: 楽天ブックス
      コメント:薄い、コンパクトであるが重要なポイントをしてきた名著だと思う。

      2015.04.20 Monday

      緊急公開 「福音主義イスラエル論」を聞いてきた 福音主義神学会西部部会 2015 春季分科会参加記

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         福音主義イスラエル論について、ラッドの『終末論』をお訳しになられた安黒務先生がお話になるので、聞きに行ってきた。

        安黒先生の取り組みの出発点
         安黒先生の出発点は、ある神学生からの「イスラエルを祝福のために祈れを現代の日本におけるキリスト者としてどう考えたらよいのか?」という問題点から出発した、安黒先生のディスペンセイション神学を巡る思想のごくごく一端のご紹介に終わってしまった。

         イスラエルの祝福を祈るというのは、「世俗国家としてのイスラエルをどう考えるのか?」という問題と実に密接に結びついており、ユダヤ人と一口に言っても、実に多様な人々からなっており、ユダヤ人でも、超保守のウルトラ保守の厳格主義のユダヤ人から、トーラーを何とも思っていないリベラルなイスラエル人もいるし、ヘブライ語をしゃべらないアラブ系のイスラエル人も含むのが、世俗社会のイスラエルである、と安黒先生はおっしゃっておられた。

        現実の世俗国家としてのイスラエル国の多様性
         なお、一応、イスラエルの公用語は、ヘブライ語とアラビア語であるし、多民族国家なのである。このあたりのことは、仲良くしていただいているイスラエルの海岸ペタにある学校で教えておられるレビ先生からも教えていただいているのだが、福音派の中では、こういう理解している人はミーちゃんはーちゃんのその周辺では少ないような気がする。

        聖書理解の分類学
         この世俗国家としてのイスラエルをどう理解するかであるが、神学軸の方向性としては、ディスペンセイション主義聖書理解(神学)を南に置きと北に契約主義聖書理解(神学)をおいて、横軸に社会学的軸を置いた分析軸による理解を提示をされた。聞き取った限りは、バーガーさんという方の神学的分類法らしい。

        安黒先生ご提示の分類学

         個人的には、神学的な縦方向の分類軸が、これでいいのか、また、その語を用いるのが適切なのかどうか疑問であると思っている。


         まぁ、こういうのは、マーケティングの世界でもPPMと呼ばれる有名な図がある。PPMとは、以下のPuff the Magic Dragonを謳ったグループではない。



        PPMという分類法

         PPMとは、プロダクト・ポートフォリオ・マーケティングとよばれ、自社製品群をどう考えるかに関する図回峰である。このような分類法は、コンサル業界では、よくある分類法であるが、欠点もあるので、そのあたりは少し考えた方がいいかもしれない。


        Marketing Campus様の図
        オリジナルは http://marketing-campus.jp/lecture/noyan/040.html

         旧約聖書は、イスラエルの歴史とイスラエルの歴史と未来の救いであり、新約聖書は、教会の歴史と未来の救いとして理解できる、そうしないと、教理がまぜこじゃになってわかりにくいものになる、と安黒先生はおっしゃっておられた。

        新たな単純化と誤解が出るかも?

         しかし、この話を聞きながら、ここまで単純化して、新約聖書と旧約聖書とで内容が違うといっていいのか?と思っていたら、鎌野先生と金井望先生がすかさずツッコミを入れておられた。また、塩水と真水論で旧約聖書から新約聖書の漸進的一体性を説明しておられたが、この説明砲で本当にいいのかなぁ、と思ってしまった。個人的には、このようなメタファーでは不十分だと思う。特に、わかりやすいからといって、単純化することに潜む重大な欠点があるのではないか、と思うのだ。わかりにくいものを分かりにくいままで、理解しようとすることは案外大切ではないか、あまりに単純化すると、新たなるディスペンセイション主義理解もどきを作っているだけではないか、と思うのだ。

         安黒先生は北と南を分ける軸が、使徒的聖書解釈であるということであるが、基本的にマクナイトの理解はこの使徒的聖書解釈に固執すべきで、それより先に行く、ということではなかったような気がする。安黒先生はこの使徒的聖書解釈をより延伸して、その部分を契約主義聖書理解と読んでおられて、それに向かうのがよいと思っておられるらしい。

        キリスト教シオニズムとのかかわり

         キリスト教シオニズムをディスペンセイション主義的聖書理解 VS 契約主義聖書理解でとらえておられたが、個人的には、神学の対比軸の方向性でいいのか?とは思った。というのは、通常用いられる契約主義聖書理解とは違いがあるものを、安黒先生がおっしゃっておられる分類軸は示しているのであり、誤解を生じかねないからである。どうもこの分類の軸の設定の仕方は、サイザーという人によるものらしい。 

         北西の隅のAの契約主義的な聖書理解では、使徒的な実践(つまり、困ったユダヤ人を異邦人が助けるとか、ユダヤ人と異邦人も神が一つであると認め、それぞれが共に、社会の中で生きる権利を保障するという実践)が可能になるということらしい。それだけのことのために、わざわざ契約主義的聖書理解という形で称することにどれほどの意味があるのだろうか、というのがミーちゃんはーちゃんによる素朴な疑問であった。

         世の中には、キリスト教パレスティアニズムというのもあるので、このあたり、どう考えるかは安黒先生がご提示なる図では不十分ではないか、と思う。まぁ、よく研究されている方だとは思うが、ちょっと不満点もあった。それはミーちゃんはーちゃんが、理解が足らないからだろう。

        ラッドの本の位置づけ

         ラッドの終末論の本は、ディスペンセイション主義が起こした結果の問題に関するターゲット絞った特殊な内容であり、より一般的なものではない、ということらしいが、ラッドの本を読む限りはそうとも言えない部分も主張しているような気がするのは、ミーちゃんはーちゃんの気のせいかもしれない。

        質疑応答から

         質疑応答の中では、ディスペンセイション主義は、日本のキリスト教のかなりの部分に教理と不可分な形で、入り込んでしまっていて、また、現実の聖書理解を社会状況の中で、変質させた実にさまざまなバリエーションがディスペンセイション主義理解の中にあるので、その点は注意すべきで、一番の原型になった、ジョン・ネルソン・ダービーのディスペンセイション主義を理解すべきだ、ということを安黒先生は、おっしゃっておられた。

         パッションがおありで、熱弁を振るわれたのはよくわかったが、どうせならもうちょっと、注目点を絞って、Coolに何が問題になるかをきちんと説明された方がよかったように思うご発表ではなかったか、という印象を持った。

         なんか、バルトがバルメン宣言書いた時と同じような気持ちであるということをおっしゃっておられましたが、それにしても、もうちょっとクールでもよかったかなぁ、と。バルト先輩が今日の安黒先生の思いを聞かれると、頭を書きながら、「いやぁ、それは・・・」といわれそうな気がする。


        労働の意義に関する講演は、近日中に別途改めてご公開の予定
        2015.04.27 Monday

        ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(3)

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           なお、以下の文章は、所属教会及び所属キリスト者集団の公式見解ではなく、特段断らなくとも、通常の読者ご賢察のとおり、ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解と思いを記したものである。

           さて、今日も、Ladd先輩の「終末論」の第6章反キリストと大艱難から、少し考えてみたい。 

          第6章 反キリストと大艱難から
           ディスペンセイション説の根幹をなす聖書理解の根底となったダニエル預言の解釈について、ラッド先輩は次のようにダニエル書を引用しながら、お書きになっている。なお、原文では新改訳聖書が引用されていたが、ミーちゃんはーちゃんは口語訳を利用している点が違う。その点は御容赦賜りたい。

          口語訳聖書 ダニエル書
           9:24 あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
          この箇所は、ディスペンセイション主義者によって反キリストとイスラエルとの関係の観点から解釈されている。一つの国民としてパレスティナに帰還したイスラエルが神殿を再建し、いけにえの制度を再考することが当然のことと思われている。反キリストは最後の7年間(1週は7年であると考えられる)にイスラエルと契約を結ぶ。しかし、その7年間の半ばに反キリストは契約を破り、エルサレムのいけにえとささげものとをやめさせ、ユダヤ人に対しひどい迫害を始める。ディスペンセーション主義による解釈を施されたこの箇所は、ディスペンセーション主義の終末論の体系の基礎をなしている。
           しかしながら、この解釈が正しいものであるかどうかは全く明らかになっていない。福音主義に立つ学者の多くは、その言葉の解釈として、終末論的な解釈よりも、メシヤ的な解釈のほうが適切であると理解している。それは神の贖いの目的を明らかにしている。(終末論  pp.89-91)
           しかし、「ディスペンセーション主義による解釈を施されたこの箇所は、ディスペンセーション主義の終末論の体系の基礎をなしている」とは、まぁ、手厳しい。確かに、この説にはまった人の聖書は、ダニエル書とエゼキエル書と黙示録だけが他に比べて開かれる回数が異様に多い場合があるので、この部分だけ聖書が手あかで黒くなったり、他のページよりこの部分の頁が飛び出したりしていることが少なくない。

           その上、「この解釈が正しいものであるかどうかは全く明らかになっていない」ですって。私が言ってんじゃないですからね。ラッド先輩がそうお書きなだけで。

            まぁ、もうちょっと穏やかに言うなら、「このディスペンセイション的な解釈は、仮説であって、検証が必要な解釈である」ってぐらい私なら言うでしょうけどね。基本的に聖書が、ヘブライ語のカタカナ表現でメシア、ギリシア語のカタカナ表現でキリスト、日本語で言えば、購い主、王の王、「昔いまし、今いまし、後に来られる方」のことって理解のほうが大事なのではないかなぁ、と思うのだなぁ。そして、より重要なこととしてラッド先輩がおそらくおっしゃりたいのは「これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです」という部分のほうに着目があるべきだ、という趣旨の主張であろう。個人的にも、このダニエル書の引用部分は以下のイザヤ書61章のかかわりで読まれるべきではないか、と思っている。

          口語訳聖書 イザヤ書
           61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
           61:2 主の恵みの年と
           われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
           61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために
           植えられた者ととなえられる。
           61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
           61:5 外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。
           61:6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。
           61:7 あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。
           61:8 主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。
           61:9 彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者は
           これが主の祝福された民であることを認める。
           61:10 わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
           61:11 地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。
          終末論と終末計算
           仕事柄、数学は時々お世話になるのだが、終末理解は、終末の日の確定にかなり熱心に御取組みであるものの、ミーちゃんはーちゃんには理解不能な算法をご使用になられる場合が多い。字義通り解釈といいながら、突然、週が年になったり、日が年になったりと、まぁ、いろいろ単位系が変わる。科学者や工学的実務家にとっては単位系、あるいは測度と呼ばれるものは思索をする際の基準であり、「いのち」なのである。それがころころ変わる、それも時代やその人の御都合や、再臨が来たり来なかったりするという理由でころころ変わってはならぬものであるのだ。そもそもそんなことをやり始めたら、トートロジー的な無限ループに入ってしまう。

           以下の動画で紹介するクロノメーターという航海に用いる時計ができるまでは、カンと印象に基づき航海したので、座礁する艦船が後を絶たず、クロノメーターがなく、経度がよくわかってない時代の航海術の結果、多くの死者が出た。下の動画の冒頭10分は、その様な当時のカンと印象に基づく航海時代を描いている。なお、動画で紹介した映画そのものは、そのような時代に世界で初めてのクロノメーターを作ったハリソン父子と、数百年後にそのクロノメーターを修復するイギリス人の元軍人の物語を描いた映画である。長いので、最初の6分間を見るだけで十分だと思う。


          Longitudeというクロノメーター製作者に関するドラマ

           その時代預言の計算に関して、ラッド先輩は次のように言っておられる。

           マタイの福音書24章は、3つの部分にわけられる。3-14節は終わりにいたるまでの時代の特徴を描写している。その主要な主題とは、神の国とキリストの再臨以前には確立されていないということである。戦争、飢饉、自身、偽キリストがこの時代を特徴づける。(中略)しかしながら、その様な出来事は、世の終わりがどのぐらい近いかを計算できるようなしるしを意味しているのではない。(同書 p.93)
           しかし、ラッド先輩、手厳しい。「戦争、飢饉、自身、偽キリストがこの時代を特徴づける。・・・しかしながら、その様な出来事は、世の終わりがどのぐらい近いかを計算できるようなしるしを意味しているのではない」ですって。なんか、世の終わりの近さを計算するに全能力をおかけになり、研究されているその姿は尊いとは思うが、上のLongitudeの冒頭で出てくる英国海軍提督のように、「自分はこう思う」という提督の御見解に対して無条件に同意することを他の艦長たちに求め、挙句の果てに座礁して、Her Majesty Ships か His Majesty Ships を沈め、多くの犠牲者を出した提督の姿と、この説とそれにもとずいた奇妙な算法、即ちミーちゃんはーちゃんに理解不能な算術で終末の実現日を御高唱なさり、信仰の破船に多数の方をお導きなっておられる方々の姿が重なってしようがなくて、上のLongitudeという動画を見ることがちょっとつらかった。

          反キリストとキリスト者の困難

           米国や英国は、キリスト教がでかい顔している社会であるし、英国は、キリスト教会と国家が蜜月であった時期があった。しかし、日本ではそういう環境にない。江戸初期のキリシタンがどこまでキリストを理解していたか、聖書を理解していたのか、ということはかなり謎であることは、以前このブログの中のこの記事「カクレキリシタンの実像」から、現地化の問題を考えた でもご紹介したが、困難の中や政治的社会的圧迫の中におかれたキリスト者にとって終末は希望になる。レヴィナスを起点に19世紀から20世紀にかけてのユダヤ人神学者の研究に着手しないとまずいかなぁ、と思っているのだけれども、未だできていないが、今読んでいる範囲ではどうもユダヤ的な(そもそもユダヤって何か、って言い始めると収拾がつかなくなるので、その辺はごにょごにょとで御容赦賜り度)社会の中で、この脱世界的な終末論があまり見られないのはなぜだろうと考えている。

           「そのときには、世のはじめから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもない追うな、ひどい苦難があるからです」(マタ24:21)とあるように、反キリストの出現は、イエスに従う者たちへの恐るべき迫害の開始となる。これが「大艱難」という語の元となった。ここで注目すべき点としては、新しい性質のものは何もないことである。イエスはすでに、弟子たちに世に在っては迫害を予期すべきであると語っていた。(同書 p.95)
           このラッド先輩の議論で重要なのは、「注目すべき点としては、新しい性質のものは何もないことである。イエスはすでに、弟子たちに世に在っては迫害を予期すべきであると語っていた」という御指摘ではないだろうか。山上の説教の中でも、このように言っておられる。
          口語訳聖書 マタイ福音書
           5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
           5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
           基本的にこの部分は、信仰者の預言者性をナザレのイエスは御指摘なのではないか、と思う。ある面、神の支配の中に生きるのは、一種の預言者性を持つということではないか、と思う。とは言いながら、米国や英国では、キリスト者であることは預言者性を持ちえない。このことは、この間、枚方市で開かれた牧会者を中心としたあつまりの中で、メノナイト派の方が来ておられて、メノナイトは迫害されて何ぼ、みたいなものがその信仰体系のどこかにある、ということを言っておられた。その意味で、ヨーダー先生のご主張というのは、実にメノナイト的なのだ、ということを思った。そして、米国のメノナイト系教会に行くと、日本のメノナイトは、日本的で異教的な世界にある日本のメノナイト教会こそ、真にメノナイト的って言われて、結構ドン引きする、というようなご主旨のことをおっしゃっておられた。

           というのは、米国でキリスト者であることは、あまりに至極当たり前のことでありすぎ、中には、自分たちはアメリカ人だから無条件にキリスト者だと思っているという人々を生み出すほどだからであり、その中で社会に異論を唱えるというメノナイト的精神性というのは限られるからである。
           そのことに関して、このようにラッド先輩はお書きである。

           米国においては〔キリスト者であるからと言って〕、敵意を経験することはほとんどない。実際、多くの都市において、教会の会員であることはビジネスや社会的立場に有益である。この事実は、神の民が圧倒するような迫害で苦しむことをおそらく神は赦されないだろうと油断させ、多くのクリスチャンを歌種に陥らせる。彼らは教会が第艱難のはじまる前に起こる携挙において、世から取り去られる「艱難前携挙」の教理に対する信仰を大切にしている。(同書 p.96)
           アメリカ人的な感性からすると、自分たちの国は神の国だと思っているので(この辺りは、リチャード・ニーバーのアメリカにおける神の国をお読みになられることを強くお勧めする)、艱難に会うことすら想定したことがなく、その面で、アメリカ経由のキリスト教の場合は、それが与件というか前提になっており、それでしか解釈しない傾向はあると思う。

          艱難時期は仮説か、一義的に定義可能か?
           艱難解再臨の関係は、実はあまり明確ではない可能性があることに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

          ジョン・ワルブード博士はこの本〔引用者註 Ladd(1956)〕に応答する形で、「真相は、艱難後再臨説も、艱難前再臨説も双方とも聖書においてはあいまいなものを一切残さない明白な教えではないということである。聖書はどちらか一方であるとははっきり明言しているわけではない」とかいている。」(同書 pp.96-97)

           ラッド先輩によれば、Walvourd(1957)では、「艱難後再臨説も、艱難前再臨説も双方とも聖書においてはあいまいなものを一切残さない明白な教えではないということである。聖書はどちらか一方であるとははっきり明言しているわけではない」とは書いているものの、再刷以降では、この記述が消えていることが同書で指摘されていた。Walvourd先生も、強硬なご批判を受けて、あえてチャレンジングなことを書かなくとも、ということになられたのかもしれない。でも、わかんないものはわかんない、というのは素朴な立場で、一番まっとうだし、一番学問的な立場だと思うが、それを赦さないのが、森本あんり先生がお書きになったアメリカ社会における『反知性主義』ではないか、と思う。アメリカには、知性の塊のような大学もあるが、基本その国民の大半に、反知性主義と言われても仕方のないような考え方が跋扈する社会ではあることは、数年住んで現地の地方紙を読み、地元民のかなりの部分の人々と触れてみればよくわかるのだが。

          神の支配(神の国)と人間

           最後に世俗国家の一つにすぎないイスラエル国が何をしようと、何でもいいからイスラエルを支持すべきだとかいいかねない反知性主義的な親イスラエル論者の方は、次のラッド先輩の表現をどう考えるのであろうか。

          神の国は人の手によっては建てあげられず、歴史によっても生み出すことはできないということである。(同書 p.98)
           これは、旧約聖書から一貫して流れるテーマである。勝手に神の領分にはいって行って、自分自身で神の栄光と思うものを縦あげようとして行った人々の末路をエゼキエル書は、こんなふうに表現しておられるのではないだろうか。

          アッシリアの墓は穴の最も深い所にあり
          その周りには仲間たちの墓がある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
          かつて、生ける者の地で恐れられていた。
          そこには、エラムとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
          割礼のない者で、地の最も低い所に下って行く。生ける者の地で恐れられていたが
          穴に下る者と共に恥を負う。
          殺された者たちの間に、床が設けられた
          エラムとそのすべての軍勢のために。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていたが
          穴に下る者と共に恥を負い
          殺された者の間に置かれる。
          そこには、メシェクとトバルと
          そのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周囲にある。皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていた。
          彼らは、遠い昔に倒れた勇士たちと共に
          横たわることはない。この人々は、武器をもって陰府に下り
          剣を頭の下に、盾を骨の上に置いていた。これらの勇士は
          生ける者の地で恐れられていた。
          お前は割礼のない者の間に
          剣で殺された者と共に
          打ち砕かれて横たわる。
          そこには、エドムがその王たちと
          すべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが
          剣で殺された者と共に置かれ
          割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。
          そこには、北のすべての君主たち
          シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが
          辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と
          共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。
          ファラオは彼らを見て
          失ったすべての軍勢について慰められる。ファラオも、そのすべての軍隊も剣で殺されたと
          主なる神は言われる。
          まことに、わたしは生ける者の地に
          恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は
          割礼のない者の間に
          剣で殺された者と共に横たわる」と
          主なる神は言われる。
          (口語訳聖書 エゼキエル32:23-32)
           私の聖書が間違っているのだろうか、それとも、親イスラエル論者の方の聖書には、別表現されているのだろうか。きっとそうに違いない。


          追記

           LaddのA Theology of the New Testamentに関して津の「のらくら者」の方が面白いことを御教示くださった。
          最近は I. H. マーシャルの新約神学が標準的な教科書なのだろうか。それでも、ラッドの本(A Theology of the New Testament)は依然その価値を失っていないと思う。ドナルド・ハグナーによる改訂版(1993年)には、ウィクリフ・ホールから当時2人の教師が協力した。D. A. Hagner と D. Wenham は、F. F. Bruce 門下の兄弟弟子の間柄である。

          おお、そんなこともあったのか。賢くなった。しかし、なんでしょうね。Laddに協力する、このディスペンセイション仮説を産んだプリマス・ブレズレン派でありながら、世界的に高名な新約学者F.F.Bruce先輩のお弟子の方が、関係しているってねぇ。Bruce先輩はあまりディスペンセイション説に好意的でなかったと聞き及んでいる。

          参考文献

          Walvourd, J.(1957), The Rapture Question, p.148, Dunham. 



          評価:
          ジョージ・エルドン・ラッド
          いのちのことば社
          ¥ 1,944
          (2015-03-03)
          コメント:お勧めしている。ディスペンセイショナリスト的終末論の問題の指摘をしておられる。

          2015.05.04 Monday

          ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(4)

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             なお、以下の文章は、所属教会及び所属キリスト者集団の公式見解ではなく、特段断らなくとも、通常の読者ご賢察のとおり、ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解と思いを記したものである。

            復活の特性について

             さて、今日も、ラッド先輩の「終末論」の第7章 復活と携挙から、少し考えてみたい。まず、ラッド先輩は、旧約聖書にも復活の記述がみられ(死者の復活問題はサドカイ派とパリサイ派はお互いに議論を紛糾させる原因となったことは新約聖書に記載されている。ただし、実態としては、聖書理解の名を借りた権力闘争だと個人的に思っている)、新約聖書にはそれをさらに明らかに死者の復活があったということの記述がある。ラッド先輩は、イエスの復活について、議論をしている。その部分を引用してみたい。
             福音書の説明から浮かび上がってくる3つの事実は以下のものである。同一性―中心点である。復活されたイエスは十字架につけられ、葬られ同じイエスであった。連続性―イエスは、身体的な感覚に衝撃を与える肉体を以てよみがえられた。後述するように、パウロは復活の身体的性質を主張している。非連続性―イエスは肉体を以てよみがえったが、それは同じ肉体ではなかった。新しい力を保有し変貌させられた肉体であった。(終末論 p.116 太字部分は傍点が付されている 以下同様)
             復活のからだの特徴について、ラッド先輩は「同一性」・「連続性」・「非連続性」があることを御指摘である。この理解は案外大事かもしれない。われわれは、3つの特性のうちどれか一つのみが起きると無意識的にアプリオリに考えているかもしれない。同一性鑿を強調したり、「連続性」鑿を強調したりするかもしれない。しかし、将来はどうなるのか、ということはよくわからない、と言わざるを得ない。まぁ、それをどれだけ議論したとしても、創造の域を出ないことばかりであり、得られることは喧騒と対立だけの気がするので、「わからないものはわからない」ということでいったん保留するほうが適切な態度だと思う。全部がわかる、とするのは個人的には人間の傲慢ではないか、と思う。

            サドカイ派の混乱とイエスの復活
             個人的にはNTライト先輩やジョン・H・ヨーダー先輩に心酔してたり、アリスター・マクグラス先輩がりスペクトしていたりするために、「リベラル派」という実にありがたいラベルを張っていただくこともあるが、個人的には、上記の先生方もお認めの様に、復活は事実起きたと思っているし、それがキリスト教の根幹をなすと思っている。聖書の権威性を認めない、近代思想の支配された結果、復活の事実まで否定するリベラル派であると、ミーちゃんはーちゃん自身は、自分自身のことに関して思っていない。イエスの復活の辺りに関しては、これまたミーちゃんはーちゃんが東京まで講演を聞きに行った、ボウカム先輩のイエス入門を読まれることをお奨めする。なお、この講演会で最近物故者となられた、故植田真理子先生が講演会前にエアコンの前に張り付いておられるのを目撃したという衝撃の経験をした。

             個人的には、「復活のないキリスト信仰」はクリープを入れないコーヒーより格段にまずいと思う。この復活がないと困ることを、サドカイ派の人々の発言から、ラッド先輩は次のようにお書きである。

            使徒の働きは、サドカイ人たちが、「ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例に挙げて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て」(4:2)と語っている。(中略)復活についてユダヤ教には広範で多様な見方が存在していた(Ladd, I Believe in the Resurrection of Jesusを見よ)。それではなぜ、イエスの弟子達―つまりこの新しいメシアを奉じる宗派が復活を宣べ伝えたことに、サドカイ人は困惑したのか。
             答えは、その弟子たちが単なる未来に対する望みという教理を宣べ伝えたのではなかったという事実にある。弟子たちは未来を保証する現在の出来事を宣べ伝えていた。イエスにおいてなされた死者の中から復活を宣べ伝えていた。いまや復活は単なる未来の出来事、教理、望みではなかった。復活は彼らのまさに只中で起こっていたのである。もし彼らの宣べ伝えていたことが事実であるのなら、それは反論の余地のない形でサドカイ人の教理を否認したことになるのである。(同書 pp.118-119)
             この部分を読みながら、「いまや復活は単なる未来の出来事、教理、望みではなかった。復活は彼らのまさに只中で起こっていたのである」という部分は、先にもご紹介したイエス入門でボウカム先輩がおはなしになったことと、基本的に通底していると思う。この同時代性というか、この確信というのが、弟子達の活動の原動力になったし、単に「実際見たんだからさぁ、言いたいだけじゃん」とあまり深くも考えずにやっていたのがイエスのエルサレム付近にいた弟子たちの実際ではなかったか、と思う。そして、そのことを直接目撃できなかったパウロは、私のように月遅れのものと、実に後々まで、彼にとってのセンティメントというか、使徒職に就いた初代の弟子たちとの確執のもとというのか、使徒であることにまつわる後ろ暗さを抱えていたような気がする。

            人間と神との関係
             神が人の近くに来た、人の近くにともにいるという概念、イエスは、インマヌエルと呼ばれるべきであるとされたということは、キリスト教の根本概念を支えていると個人的には思っている。そのために復活は必要であったし、イエスは、そして神御自身は、その実存そのものを弟子達に具体的に示す必要をお感じになられたとは思うのだ。

             しかし、神への信仰はなぜイエスの復活への信仰にかかっているのだろうか。
             答えは明らかである。聖書の神は人間から遠く離れ、超然としている神ではない。長期にわたる一連の歴史的な訪れを通して人間に近くおられる神である。ある学者は、旧約聖書の神を「やって来る神」として描写している。新約聖書が帰しているのは、神のこの自己掲示が、受肉において―御子において私たちに語られた言葉において、全き形でもたらされたということである。「言葉は人となって、私たちの間に住まわれた」のである。(同書 p.120)


             これと同様の視点を、「富士山とシナイ山」で小山先生は別の事例をもとにお書きである。このことは、「『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)」の「現代日本における天国意識」で御紹介した通りである。
             神が人と共に住むというヘブライ人には理解不能な出来事が、御生誕でも発生し、復活でもさらに発生し、我々の人間の世界で生きられたし、今も我々と共に生きている、汝とともに生きたいと神御自身がおっしゃられることこそが、まさに聖書の主張であることを、ラッド先輩はおっしゃっておられるように思う。

            ギリシア人は肉体意識と復活
             ギリシア人は、肉体を悪しきものと見てなかったことは、エピクロス派なの度の哲学を見てもわかるが、ストア派の哲学を見ると、魂の修練とのかかわりで肉体が髭されていたことが分かる。ストア派にせよ、エピクロス派にしても、人格の父子というのは、理念系の哲学というのか、概念構成というか、ある個人の思想の結果生み出された哲学としての不死であったのではないだろうか。そのあたりに関して、このように書いておられる。
             ギリシア人は、肉体を実際に悪しきものと見てはいなかったが、魂の修練を妨げるものと見ていた。賢者とは、魂の修練において肉体を鍛錬し、抑制する人のことである。人格の不死の思想はギリシア人につまづきを起こさなかった。しかし肉体の復活の思想は、ギリシア人には容易に受け入れることのできない真理であった。(同書 p.122)
             これに関連して、第1コリントでは次のように書いてある。
            【口語訳聖書】 一コリント
             1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
             1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
             1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
            ギリシア人が求めたものは、人格の不死というよりは知恵の不死ではなかったろうか。しかし、それは、ユダヤ的な神の力ではなく、「神の知恵」とヘブライ社会で呼ばれるものは一味違ったものであったように思うが、キリスト教がヨーロッパを通ることで、この知恵とギリシア的な知恵が混乱し、あるいは習合したのではないだろうか。
             この辺りのことは、山崎ランサム先生の御国を来たらせたまえ(2)を参照されることをお奨めする。

            ギリシア的な霊とヘブライ的な霊と身体性
             ギリシア的な霊性あるいはギリシア的な霊の概念というのは、人間の肉体とある程度分離可能なものであると考えられていたのではないだろうか。現代の日本人の霊性理解も、それに類するものである。この辺りのことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

             パウロは、このことを血肉の体で蒔かれ、霊的な〔訳注 RSV.新改訳では「御霊に属する」〕からだによみがえらされる(15:44)と要約している。パウロが使用しているギリシヤ語を字義どおりに翻訳することは不可能である。「魂の(Soulish)からだで蒔かれ」という訳は英語では何の意味もなさない。ここにおいてパウロが言わんとしていることは、それは生命が吹き込まれたからだ、人間の霊魂のいのち(プシュケー)に似つかわしいからだであるということである。それはプシュケーからつくられたからだではない。同様に、復活のからだは、霊から造られたからだではない。それは、神の御霊によって変貌させられ、神の御霊の新しい世界に似つかわしいからだとしての「霊的」からだである。これらの事実を勘案すると、魂のからだという言葉の最良の翻訳は「血肉の」からだ、つまり、現在の弱く、衰え、死へと運命づけられた血肉のからだである。ある人々は、もし「血肉」を持つ復活のからだを信じていないなら、本当のところは聖書を信じていない、と考える。復活とは肉体の復活なのか、というところに問題の核心があり、パウロはこの点に疑いの余地を残していない。(同書 p.124)
             ヘブライ的な霊性は、肉体と分けて考えることが出来ないように出来ている。創世記2章に出てくるが、創世記2章の中では、人に神の息吹〈ルーアッハ〉が吹き込まれることによって人間となっているし、いのち概念とルーアッハは非常に深い関係性の中にあるように思われる。その意味で、人の血肉といのちと魂〈ルーアッハ〉は非常に密接に結びついているように思えてならない。そのことを、ラッド先輩は、「魂のからだという言葉の最良の翻訳は「血肉の」からだ」であるという御指摘なのだろうと思う。

             しかし、「もし「血肉」を持つ復活のからだを信じていないなら、本当のところは聖書を信じていない」とは、ラッド先輩手厳しい。この辺りのことは、Surprised by HopeでもNTライト先輩がふれていることと、非常に深い関係があるし、ダラス・ウィラードの「心の刷新を求めて」でふれられていること、とも深いかかわりがあるように思う。

            不信者の復活はあるか? 

             これまた、非常にいやらしい問題を含んでいるものであるが、日本のような非キリスト教世界の中では大きな問題を意味合いを持つ問題である。

            パウロの書簡における一つの問題は、不信者の運命について全く言及がないことである。パウロが生徒たちの復活をキリストの復活にきわめて密接に関係づけているので、悪しき者の運命は墓の中に残されたままに違いない、と結論しがちである。
             しかし、他の聖書箇所ではこの点に言及されている。(中略)ヨハネ福音書は、全ての人の復活に関し、さらなる証言をしている。イエスはこう語っておられる。「このことに驚いてはなりません。墓の中にいるものが皆、この声を聞いて出てくる時が来ます。善をおこなったものは、よみがえっていのちを受け、悪を行ったものは、よみがえって裁きを受けるのです」(5:28-29)。私たちは、あるものは「永遠のいのち」に、ある者は「そしりと永遠の忌み」に目を覚ます、とあるダニエル書12章2節を思い起こす。ダニエルとヨハネが二つの復活を予期しているなどということは不可能である。(同書 p.128)
             この部分に関して、不信者も復活があることをラッド先輩はお書きであり、その意味で、現在日本のキリスト教世界でも、そしてアメリカの中でも広がっている天国理解が以下に課題があるものであるかをきちんとご指摘である。

             また、この辺りの記述を見ていると、死者がすぐに天に昇るという希望的観測とか、天で地上を見守っている死者とかは、非常にナンセンスではないか、と思う。そのような本を、Maria Schriverというシュワちゃんの元奥さん(家政婦に手を出して切れられて離婚されてしまった)が本を書いているが、まぁ、昔、ちっとは流行したスピードワゴンの井戸田氏のギャグである「あま〜〜〜〜〜〜い」といいたくなるような内容らしい。そのあたりのことも、他のキリスト教の先輩から伝統的に伝えられたことや、讃美歌に書いている内容からではなく、もう少しきちんと聖書のテキストから考えないとまずいかなぁ、と思っている。個人的には、讃美歌を聖書注解書が割にして、自分自身の聖書理解の根拠にするのは絶対にまずいんじゃね、と思っている。



            シュワちゃんの元奥さんが書いた天国本



            著者のMaria Schriver氏
            (西宮と縁もゆかりもなかった『ののちゃん県議』のまねをしているわけではありません)


            スピードワゴンの流行りネタ 「甘い言葉」

             この辺りのことをお尻になりたい方には、山崎ランサム和彦先生の主の祈りについての「御国を来たらせたまえ(1)」の記事が大変参考になるのではないか、と思っている。



            評価:
            価格: ¥2,052
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:薄いけど、キリスト教の根幹にかかわる極めて大事なことが書いてある本。お勧めする。

            評価:
            ダラス・ウィラード
            あめんどう
            ¥ 2,592
            (2010-03-30)
            コメント:読みやすくはないが、非常に重要な本だと思う。

            2015.05.11 Monday

            ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(5)

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               今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日は、第8章 審判 から引用しながら考えたい。

              生活の中で大切なこと

               基本的に審判というのは、案外理解されているのだろうか、と思う。裁判官的な神の前に立つことを意識していないだろうか。そして、この問題は、生活、とりわけ信仰生活とのかかわりが重要なのである。案外忘れられていることではあるが、パウロは生粋のユダヤ人であり、ユダヤ的な背景を持ちながらギリシア世界の中に生きるキリスト者に、それがどのような意味を持つのか、を陳べた人物であった。この辺りのことは、New Persipective on Paul(NPP)と呼ばれるもう新しくないPaul研究でかなり議論されるようになっている。

               行いによって義と認められることがないという場合、パウロが意味しているのは、人間の功績や誇りの意識をもたらす、外的基準 ― ユダヤの律法 ― による行いのことである。これはあらゆる行いが重要ではないという意味ではない。(中略)外的な律法が出来なくなっていることとは、人の心を変え、罪深い誇りを捨てさせ、全存在をもって神を愛し、自分と同様に隣人を愛するようにさせることであった。このことを御霊はなしてくださったのである。(終末論 p.132)
               行い、ということが出てくるが、あくまで律法的な外形基準を順守することではなく、その奥にある者を求めることを案外我々は忘れがちである。これは、キリスト教会においても同じなのではないか。自派の中で積み重ねられた文化としての行動規範が新たなる外敵基準になっていないだろうか。例えば、「仕事や旅行で他所に行くことになった時、多少無理しても自派の教会に行った方がいい」とかいうことの行動基準が基準となり、「神を神の民と共に礼拝する」ということを忘れていないだろうか。何のために礼拝をするのか、ということを忘れていないだろうか。
               ナザレのイエスは、 律法の中で最も大切なものとは何か、と聞かれた時、まず、「心を尽くし、思いを尽くし、鹿らを尽くして、あなたの神である主を愛せ」を話されたその直後、「あなたの隣人をあなた自身の様に愛せ」と言われたことを我等はもう少し覚えるべきではないだろうか。マタイ22:35から40を読んでもらいたい。そして、もう一度レビ記の19章をもう一度読んでもらいたい。このレビ記由来の律法の要約であるとされた語のその少し後にはあなた方の中にいる在留異国人の話しが出てくる。案外、このことは無視されてはならないのであろうか。特に、日本という違法社会の中で生活するキリスト者にとって。

              神の怒りとは何か?
               審判と神の怒りは非常に深い関係にある。しかし、我々は、神の民とされたにもかかわらず、そのことの意味を本当に分かっているのだろうか、と思う。あれをしたから、これをしたからまずい、という個別具体のことに神がお怒りなわけではなく、「われわれが神の前から失われていること、死んだ状態であること、愛するものが大きく毀損されていること」、すなわち「罪の状態」にあることに御怒りなのである。あるいは、新約聖書で言えば、愛の結果のスプラングニゾマイ(はらわたが煮えくりかえるほどの状態、憐れみとも訳される)なのではないだろうか。
               その怒り(主の日の差し迫った怒り)は終末的なものであるだけでなく、神と人間との現在の関係をも性格づけている。現在の悪の時代において、キリストの外では、人々は御怒りを受けるべき子らである(エペソ2:3)。人々のあらゆる不経験と不正に対して、神の怒りが啓示されている(ローマ1:18)。
                神の怒り付いての新約聖書の概念は、異教の神々の怒りという観点からは理解できない。異教の神々の怒りは、相応するささげ物によって慈悲に変えることができた。神の怒りとは邪悪な者すべてに対する神の執拗な敵意であり、それを見過ごしたり、うまく説明して片付けようとしたりするのは全く愚かなことである。新約聖書における神の怒りとは、神がどう感じているかを告げる情動ではない。(中略)怒りは罪に対する神の人格的な反応である。罪とは司祭な問題ではなく、人間の休場は、人間が自らそこから救い出すことができないものである。(同書 pp.133-134)

               ジョナサン・エドワーズ先輩は、神の怒りに関する有名な説教を書いたことで知られる。アメリカの高校生は英語(国語)の授業で習うほどの名文であり、名説教である。しかし、それを聞いた人々の中に神へのおそれというよりは自分自身のアカンさ加減に関する失意が生じ、本来見るべきではない自分自身のふがいなさばかりを見、本来見るべき神との関係そのものが忘れられ、繰り返し発生するアメリカでの大覚醒運動へとつながって行く。

               もちろん、ジョナサン・エドワーズ時代のニューイングランドでは、本来目指していたピューリタン共同体が崩壊を見せており、「おまいさんら、これでいいのか?」と問いたくなったエドワーズ先輩の気持ちもわからなくはないが、しかし、その反作用が、パリサイ派の関係者が我も我もと形としてのバプテスマに集結したのと同様のことが、リバイバルとして、我も我元悔い改め、宗教的熱狂を産んでしまったあたりに人間の何とも言えないアカンさ加減(罪)を感じる。まぁ、ミーちゃんはーちゃんとて、その仲間であるので、人様のことを言えた義理ではない。


              ジョナサン・エドワーズ先輩

              義認ってなんだろうか?
               義認に関しては、つい最近も、Piper先輩とNTライト先輩の御対論が起きているが、案外義とは何か、義認とは何か、というあたりのことは、まだまだ十分に議論されているかと言われたら、あるいはその理解が広がっているか、というと意外と不十分なのではないだろうか。その部分に関して、ラッド先輩は、次のようにお書きである。

               本質的な問いは、義認とは一体何か、である。パウロの思想において、義認とは宇宙の律法者及び審判者である方による無罪宣告である。義認、つまり無罪とは、主観的倫理的な本質のものではない。それは信仰者が全ての人の審判者と正しい関係に入っている、と神が宣言する客観的な関係のことである。関係とは実在する客観的な事実である。(同書 p.136)
              ここで、ラッド先輩は、法廷義認的な義認論と思えることが記述が、無罪という言葉で書かれているが、むしろ重要なのは、「主観的倫理的な本質のものではない。それは信仰者が全ての人の審判者と正しい関係に入っている、と神が宣言する客観的な関係のことである」という指摘は極めて重要でないか、と思う。つまり、福音という語のユーワンゲリオンの語義は、よい宣言であるが、それは、神の側の宣言であり、「神である私があなたとともにいたい」という宣言であるように、「神がこのものを私にふさわしく、私とともにいるものである」と宣言するものであり、人間の側の事情とはあまり関係しないものではないだろうか。案外、この部分の誤解は、多いのではないか、と愚考する。

              十字架上でおきたこと
               十字架上で起きたことは神と人との和解であり、それがいかなる意味を持つのか、どのようにして起きたのかは、われわれの領分のことではなく、神の領分のことではないだろうか。この十字架でイエスが息を引き取ったその瞬間に、神と我らの和解が成立したのではないだろうか。よくわからないけれども。

               しかしキリストの死において、神はご自身のを示された。それを扱うのに値する通りに罪を扱われた。
               ここに奥義がある。十字架上で何が起こったのか、私にはわからない。それは人間の想像力の限界を超えた領域に及んでいる。しかしイエスの死において、イエスは私の死を被った。(同書 p.137)

               しかし、この部分で気になったのは、「扱われた」という訳語である。原文を読んでないとわからないのだが、おそらくHandleではないかと思うが、もしHandleであるとすれば、処理する、対応する、あるいは手の中に落ちた、とした方がよかったかもしれない。要するに、罪の問題が神の手の中で適切に対応され、神との和解と神と一体となることが実現した、という理解なのではないか、と思う。

               次回も8章の後半部分をご紹介する。




              2015.05.18 Monday

              ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(6)

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                 今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日も、第8章 審判 から引用しながら考えたい。

                審判をどう考えるか

                 審判とは、愛の神の概念と一番一致しにくい概念であるが、神と人との間の親しい関係の中に隙あらば入り込もうとする諸仏や諸勢力を完成する姿においては排除しようとする神の愛の表れと理解するのが一番適切かもしれないと思う。そのあたりのことをラッド先輩は次のようにお書きである。
                  悪しき者の審判はそれ自体が目的ではない。ただ世界における神の支配の確立において必要な行為である。神はご自身のもとに人々を引き寄せるためになしうる全てのことをなされた。もし人々が神の恵みを拒むなら、神の審判に直面するしかない。最終的には、神はその聖なる御心に反対するものを赦すことはできないからである。 (終末論 p.149)
                 神の愛を無制限に広げてしまうと、万物救済論的になり、聖書から大幅にかい離してしまうが、神と神の愛し給うたものとの関係に溝を作るもの、そこに毀損を生ぜしめるものは置けない程の神の圧倒的な愛という形で理解すべきなのだろうなぁ、と思う。従わないから、容認できないのではなく、むしろ、本来の神と人との関係に障害物を置く行為を容認できない、ということで理解するのがよいのかもしれない。



                システィナ礼拝堂のミケランジェロ工房作「最後の審判」

                小さき者へのアプローチ
                 上智大学の川村先生のご講演にご参加した時、カトリックの奉仕の精神は、実はマタイ25章に由来するというお話をお伺いし、そして、貧しき者に対する対応は、あるいは小さき者に対する対応は、基本的には、神に対する愛、つまり、レビ記19章に記された、隣人(それには在留異邦人を含む)に対する愛から生まれているという御解説を伺ったが、それはその通りであると思うが、ディスペンセーション主義者は、それを走破介さず、「ユダヤ人の」という限定付きで、「ユダヤ人の」小さき者に対する救援や援助と理解するらしい。そのことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。
                 ここ(マタイ25章35-36 あなた方は私が空腹であったとき、私に食べるものを与え、私が渇いているとき、私に飲ませ、・・・の部分)は、ディスペンセーション主義者にとって重要な箇所である。ディスペンセーション主義者はこれらの審判を、最後の晩餐とは別個のものとするからである。(中略)ディスペンセーション主義者は、このたとえ話を、どの人がキリスト教の千年王国に入ることを赦され、どの人々が締め出されるのかを決定する、諸国民に対する審判について述べたものと理解する。「わたしの兄弟たち」とは、イエスの同じユダヤ人の兄弟たちであり、彼らは大艱難時代に回心し、キリストの千年王国の差し迫った到来を告げ知らせながら異邦人の間に出ていく。異邦人の諸国民のうち、イエスにとってのユダヤ人の兄弟たちを親切に扱い、歓迎し、メッセージを受け入れた人々は千年王国に入ることを許され、彼らをののしり、彼らとそのメッセージを拒否した人々は千年王国から締め出されるのである。(同書p.149)

                  このためシオニズム運動関係者や現在の世俗国家でしかないイスラエルやメシアニックジューに対する評価がこのディスペンセイション主義者の間で極めて高く、現在の世俗国家としてのイスラエルを正に判官びいきではないか、といいたくなるほど、贔屓のひきたおをしをしかねない勢いで、絶賛賛美される向きの方がおられる。そこに異論でも挟もうものなら、弾き飛ばされるのが落ちなので、まぁ、どうぞお好きに、と申し上げている。その贔屓の引き倒しの勢いで、日本人を持ち上げようとするのが、日ユ同祖論である。頭が痛い。偉い高い。 この説についての問題点をラッド先輩は次のように指摘しておられる。

                 メシアニックジューの方を存じ上げているので、あまり否定的なことを言うつもりはあまりないが、必要以上に持ち上げてしまうのはどうか、と思っている。あるメシアニック・ジューである人物の解釈のみに正統的な解釈がある(あるいは必要以上に高い評価を与える)とするのは、パウロ研究の新しい見方のみが正統である(あるいは高い評価が与えられる)とし、他のすべての考え方を非正統であるとするのと同じくらい危険だと思う。
                 
                 要は聖書理解の可能性の幅というのか、可能性をより広く持つことが重要なのであって、どれか一つのみを正当とする考え方は、ある面偶像崇拝的であり、人間の理解を過剰に評価しており、結果として、神の名を濫りに唱えることになっているのではないか、ということを考えざるを得ない。

                 ところで、この小さき人々たちをユダヤ人に限定することができない可能性があることを福音書のイエスの言葉を根拠にして、ラッド先輩は、次のように言っておられる。
                 ここには、考慮されなければならない釈議上の問いが3つ存在する。これは大きな白い御座の裁きと違う審判なのか。御国を受け継ぐという報酬は千年王国に入ることを意味するのか。イエスの兄弟たちとは、「肉による同族の者」つまりユダヤ人のことなのか。
                 諸国民が神の御座の前ではなく、人のこの御座の前に現れていることだけを根拠にして、この審判を大きな白い御座の裁きと別のものとすることはできない、ということは明らかであると思われるる。すでに見てきたように、この二つのものは同一とみなされる。(中略)
                 第2に祝福された者たちが入るのが千年王国でないこと、千年王国から締め出されることがそれ以外の者の運命ではないことは、テキストそのものから明白である。テキストそのものが「こうして、この人たち〔悪しき者たち〕は永遠の刑罰に入り、正しいひった地は永遠のいのちに入る」(マタイ25:46)と語っている。永遠の刑罰と永遠の命である。(中略)
                 第3に、イエスの兄弟たちをユダヤ人の兄弟たちと理解すべき釈議場の理由はない。反対にイエスが弟子達をご自分の霊的な兄弟と考えていた釈議場の証拠を見出す。(中略)「見なさい。私の母、私の兄弟たちです。天におられるわたしの父の御心を行うものは誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:48-50)。こうすることによって、霊的な関係は生来の人間関係より優っていると述べたのである。(同書 pp.150-152)
                 ある面、聖書全体を通しての解釈が案外重要ではないか、と思うのである。特定の聖書を特定の前提のもとに読み込んでしまえば、ある面倒でもできてしまう現実があることは、説教壇に立つものであれば、誰しも経験しているし、その誘惑にかられることは、よく知られている事実である。だから、異端や異教がキリスト教から生まれるのである。


                小さな人はだれか?社会的福音との関連で

                 小さな人はだれか、という小さな人の確定問題は案外難しい。すべての困難の中にある人として、そして、社会的福音を進める出発点になった(いった本人はそうはいっていないにもかかわらず、それが日本に持ち込まれて誤読されている可能性が大であると思うが)ラウシェンブッシュ(こういうのを出してくるからリベラルだとラベルを張られやすいのであるが、そういう前にラウシェンブッシュのオリジナルを読んでほしい、と思うのだな。)の主張においても、この貧しい人は、ある面で、キリスト者の労働者であり、キリスト教世界の中にいる貧しい人々という意識でおおむね書かれていると思う。しかし、それが異教世界である日本に持ち込まれ、万人救済的な世界観と習合して、無条件に小さき人を増やしてきた部分はあるのではないか、と思う。詳細は、ラウシェンブッシュのオリジナルに福音派の人々がコメントをつけたキリスト教徒社会の危機を読まれて検証されたい。

                 このたとえ話には、大変違った解釈も存在し、それは多くの福音主義者に信奉されている。それによると、イエスの兄弟たちとは、世界中の貧しく、空腹で、裸で、権利をはく奪されている全ての人を象徴している。御国を受け継ぐ祝福された人々とは、イエスの弟子道の本質的証拠である愛の生活を生き抜いた人々のことである。そのような人々は神に自らの業によって救われている。ただし、その業は律法主義的な前項ではなく、イエス・キリストに対する献身的生活から溢れ流れる業(あるいは、御霊の実)である。
                 この釈義に神学上の反対意見はない。(中略)しかし、イエスの兄弟たちを、不幸の中にある全ての人とする解釈を釈義上支持するものは他に存在しない。それ故、私たちは前者の解釈(イエスの弟子たちが福音を陳べ伝えるときに、困難に直面する)を支持する。 (同書 p.154)


                 まぁ、ここで、ラッド先輩ご指摘のように、小さきものとは、山上の説教の冒頭部の中で言われている神の国を歩もうとした、神に愛される生き方をした人と考えてよいと思う。しかし、個人的にラッド先輩に申し上げるとしたら、「生き抜いた」とか「イエス・キリストに対する献身的生活から溢れ流れる」とか書くと、誤解されませんかねぇ、ということである。こういう風に書いてしまうと、中心が神から一気に人間側に来てしまい、神の救済の中心性が失われてしまって、カルト化する原因にもなりかねないのがねぇ。ちっと残念だったかなぁ、とは思った。救済は神のものであって、人間のものではない、人間的行為によるのではない、というのが聖書の主張であるが、その辺を誤解しているキリスト者というのは案外多いかもしれない。

                 それでは、本日はこれまで。ごきげんよう。さようなら。


                 次回9章の内容をもとに考える。最終回。

                評価:
                価格: ¥6,588
                ショップ: 楽天ブックス
                コメント:社会的福音が福音派的的でないと思いこみで批判する前に、この本を読まれ、特に本書に含まれる福音派からの応答を読まれることをぜひお奨めしたい。

                評価:
                ジャン・バニエ
                あめんどう
                ---
                (2010-08-20)
                コメント:再販されないかなぁ。いい本なのに。

                2015.05.25 Monday

                ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(7)完結編

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                   今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日は、第9章 神の国 から引用しながら考えたい。

                  神の国の意味とは何か
                   終末における神の国のそもそもの意味について、ラッド先輩は、次のようにお書きである。実は、ラッド先輩ご主張のように、翻訳語で読む聖書は、どうしても、翻訳語そのものの語義の影響を受けるし、翻訳語自体もその語義が時間と共に変わって行くので、どうしても限界があるし、そのあたりのことを含めて、おおむね30年に一度改訂とか見直しが行われることになる。

                   この主張をより正確に理解するために、アイオーンという特定のことばを考察しなければならない。ギリシヤ語の聖書には、英語で「世界」(world)と四訳される二つのことば、コスモスとアイオーンが存在する。これは粗雑な翻訳であり、極めて大切な真理が読者に伝わらないようにしてしまっている。コスモスは「秩序と調和のとれた全体」を意味している。それは、全体としての宇宙、全体としての人間、また神に対する罪深い反逆においてみられるものとしての人類についても使用される。英語の「イーオン」(aeon〔訳注:分限に近い長い時間〕)の語源であるアイオーンは、明確に時間的用語であり、不確定な長さの時間を意味する。ギリシヤ語には永遠を意味する言葉がなく、エイス・トン・アイオーナ(その時代の中へ、その世の中へ)という簡単な言い回しが使用される。(終末論 p.156)

                   しかし、ラッド先輩は英語のおそらく欽定訳聖書に対して、粗雑な翻訳とおっしゃっておられる。本来世界と訳された語は、本来のギリシアであればAeonであり、時間的に永遠に続く世界という意味を持った語であるらしい。それは、日本のスーパー界のビッグ、Aeonさん(イオンさん)であることは前にも触れたが、本来永遠なのだな。永遠なのは、巨人軍だけではない、と思う。

                  AEON さんのイオンレイクモール
                  (ディズニーランドより来場者数が多いって)


                  長嶋の選手時代の引退セレモニー「わが巨人軍は永遠に不滅です」


                  天の国と神の国は別物か?
                   英語でもそうであるが、天の国と神の国が別物であると主張される方々がおられる。基本、日本語聖書においてもマタイでは天の御国であり、マルコでは神の国になっているが、その議論に対して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

                   もちろん、この二つの箇所(引用者注:マタイ19章、マルコ10章に現われる若者との天の国には入れるかどうかに関する対話)から違いを見つけることはできない。マタイで「天の御国」となっている最初の箇所は、マルコでは「神の国」となっている。テキストに相違を見出そうとするなら、相違をテキストに読み込む必要がある。テキストから相違点を導き出すことはできないのである。にもかからわず、ディスペンセーション主義者はこの二つの語には相違があるとし、その上に神学全体を基礎づける。(同書 p.158)
                   聖書の表面の奥にある意味を考えずに、翻訳聖書に書かれた表面的な違いに引きずられて、聖書理解を作り上げていくことで、文脈や流れを感じれば、これらは同一であると考えられるとするのがおおむね妥当な見解だと思うが、字義どおりにこだわるディスペンセイション主義者の皆さんは、その細かな違いにも、「神の言葉であるから違うのだ」とかなりこだわりを持って、それをもとにかなり細かく微に入り細をうがった聖書理解の体系を御構築になられているばかりか、それをバックアップする様な聖書理解までご考案になられているように思う。しかし、ある説をもとにし、それを体系化し、その体系化したものでさらにあたかも別なものから証明したかのような表現をするというのは、基本、トートロジー(循環論法)として知られていることのように思われる。

                  天の御国と神の国の違いはあるか
                   では、なぜ、天の御国や神の国という表現が使われたのだろうか。このことに関して、ラッド先輩は次のように説明する。

                    では、この相違をどのように説明すればよいのだろうか。それはユダヤ人が普通のこととして「天」という語を「神」という語の代わりに使っていた、という単 純な歴史的事実によって説明できる。(中略)例えば、放蕩息子は家に帰ってきたとき、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前にも罪を犯しました」(ル カ15:18)といった。(同書 p.158)
                   これは、天は神の御座であるというユダヤ的な理解に基づく。いまの日本人の天という語の語感にない天理解が旧約時代にあったという説がどうも有力らしい。
                   以前に、NTライトの講演をご紹介した記事が あるが、その質疑応答で、NTライトは、天国とはどんなところか、と聞かれて、神はCEOのような方で、その方がおられるところが点であり、ちょうど CEOオフィスとCEOが会社全体を代表するように、神がこの地を代表し運営方針が決まるように、神がこの地の支配するところが点ではないか、ということ をこたえておられるが、その辺が参考になるかもしれない。

                  神の国は誰のものか?
                   第三神殿の建設とか、ユダヤ人の帰還事業とか、神の国を人間側でその実現を図るという動きがあるが、それに関してラッド先輩は次のようにお書きである。
                   神の国とはキリストにおいてなされる神の贖罪的支配であり、敵を滅ぼし(直接的には言われてはいないが)神の民に神の統治の祝福をもたらす。
                    これらのことは必然的に、以下のような結論を導く。まず、神の国は神の業によるのであって、人の業によるのではないということである。神の国の建設という ような、ある人々が使っている用語は、聖書には見出すことができない。確かに、神の国のための働きがあるということは言えるだろう(マタイ24:14,使 徒8:12,28:31)。しかしこの国はいつも変わることなく神の国、神の支配である。(同書 p.162)
                   神の国の建設といえば、まるでオウム真理教である。まぁ、こういうので言えば、前にも紹介した、ブランチダビディアンとか、結構強烈なキリスト教会もある。


                  第3神殿をお奨めの皆様の動画


                  ブランチダビディアンの皆様の末路

                   個人的には、第3神殿の話しは基本的に支持しないし、かりに第3神殿が建設できたからと言って、第3神殿の建設により、神の国が建設されるとするのは、ルカ11章の中にある次のみことばと矛盾するのではないかなぁ、と思うが、違うかなぁ。
                  【口語訳聖書】ルカ
                  11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
                   第3神殿の話しは、完全に個人的にはどうかなぁ、と思う話であるし、ブランチダビディアンの動きには、ヨーダー先生の弟子として、武装して、ATF(アルコールタバコ火器及び爆発物取締局)やFBIとドンパチするなんざ、それはキリスト者のすることか、といいたいが、これがアメリカ福音派の影響を受けたグループであったことは考えておいた方がいいかもしれない。

                  Left Behindもやるらしいけど…
                   さて、Christianity Today(もともと、ウィ▽アム・フ▽ンクリン・グ▽ハムII先輩が編集してた方)のWeb版の批評記事で、4点満点中0.5点という評価され、批評記事のタイトルが、Not a "Christian movie." Not even close.(クリスチャン映画ではないし、それにかすりもしないほどのものである)とまで酷評された映画ではあるが、パニックムービーと見たほうがいいだろう。


                  Left Behindの予告編

                   まぁ、それは以下の千年王国前再臨説にかなり依拠した私小説に基づく(だって、所詮、Tim LaHaye 先輩がお書きになった私小説でしょう。私小説では、モルモンの書も上智大学では、私小説と評価されていたなぁ。ソースはコチラ Q69 の回答を参照)映画だからしょうがない。
                    ディスペンセーション主義千年王国前再臨説という、もう一つの千年王国前再臨説に言及すべきである。恐らくこれは、米国で最も人気のある千年王国前再臨説である。イスラエルは土地を回復され、神殿を再建し、旧約聖書の生け贄の制度は再び設けられる。この時点で、一つの国家としてのイスラエルについての旧約聖書のすべてが文字どおり成就される。これは、神が明確に二つの民を持っておられるという確信からの推論である。そこでは、イスラエルと教会は二つの異なった計画と別々の祝福を持つ。神のイスラエルに対する計画は神政的であり地上的であり、教会に対する神の計画は普遍的であり霊的である、と主張される。(同書 p.168)
                   案外、曲者なのは、「文字どおり」という部分である。この「文字どおり」がギリシア語における「文字どおり」なのか、英語における「文字どおり」なのか、日本語における「文字どおり」なのか、同じ語でも「天の国」でも人によって、その理解しているもの、頭の中に浮かぶものが違うので、何が文字通りなのか、ということはもう少し考えたほうがよいかもしれない。

                   また、ラッド先輩は「確信からの推論」とまで書いておられる。解釈ですらない、ということほどの意味だろう。先に確信があって、それに合わせた推論、つまり、思い込みによる解釈であり、それは解釈学的に裏付けられないのではないか、と疑問を呈しておられるのではないか。

                  復活は最大にして最重要の奇跡、
                  真の終末的出来事
                   さて、今年のペンテコステも終わったが、復活は、実にキリスト者にとって意味深い出来事なのである。まさにロシア正教の「ハリストス復活」「実に復活」の掛け合いの如く、復活は、我々にとって「実に復活」というべきことだと思う。福音派では、この種の交読文がないのが、「実に残念」。


                  ロシア正教の復活祭の儀式 「ハリストス復活」「実に復活」


                  アメリカ人が歌った「キリスト復活」「実にキリスト復活」の讃美歌

                   さてされ、ラッド先輩は復活のことに関して、次のようにご指摘である。
                    キリストの復活それ自体が終末的出来事である。キリストは死者の初穂であり、それは終末が開始されたことを意味する。神学者はこの神の国の現在性とイエスの復活という真理を「実現された終末論」とよぶ。終わりの日に起こる出来事の断片が枝のように折られ、歴史のただなかに植えつけられたのである。(同書  p.175)
                   「この神の国の現在性とイエスの復活という真理を「実現された終末論」とよぶ」という神学者の表現は非常に重要だと思うのだ。神の国の現在性、即ち神がこの現在においても支配者であり、すでに神の支配、神の国が我らのうちにあることを忘れてしまうと、神の国は将来死後に行くところだけのことになってしまい、「死後の天国教」になりかねない。キリスト、メシア、ハリストス、救い主の復活はまさに、この地上に天国というか神の国が一気にあふれ出たものではなかったか、と思う。

                   そして、神の国が実現した完全な姿は、NTライトのSurprised by Hopeではないが、そのあまりのすごさにイスラエル人がモーセに驚いた以上の驚きがこの地上、やってくるのだろうと、思う。

                   ということで、この連載は、今回でおしまい。

                   安黒先生、大変有益な本をお出しいただき、ありがとうございました。心から、御礼申し上げます。この本を勇気を持って出版することに望まれたいのちのことば社、関係各位にも、賞賛と感謝の辞を以て、本シリーズを終わります。

                   諸賢各位におかれましても、お付き合い頂きましたことを感謝いたします。






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