2008.05.18 Sunday

ヘブル書2章10節から3章6節

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    今回のお話は、2章の前半までの復習から入りました。


    基本的にヘブル人への手紙が、ギリシア語で旧約聖書を読んでいる当時の信者を対象に、イエスという人物を聖書からどのように考えるのか、ということを書いた書物であること、


    まず、1章の前半では、イエスが神であることの要約、1章の後半では、イエスが天使より優れたもの、すなわち上としての栄光をもつ存在であることを説明し、2章1-4節では、救いの偉大さ・救いの理解の源泉としての聖霊の存在についての解説であり、続く ヘブル書2章5-10節では人として性質を持たれたイエスキリストであることを説明しました。


    1章の後半は、3週間前に、私の担当でお話したのですが、2章は、ほかの方が学ばれたのですが、多少飛ばす形でお話されたので、復習をかねながら、もうちょっと詳しく学ぶことにしました。特に2章の後半は、時間的制約もあり、重要なポイントでもあったので、詳しくお話しすることにしました。


     


    実質、本題に入った部分は以下からです。
     ヘブル書2章11-18節では、人としてのキリスト・祭司としてのキリストというテーマが提示されており、この概念が、これからしばらくの間ブル人への手紙の理解を進める上での基本概念となりますので、これらの概念について、詳しく学ぶことをお話しました。


    特に、祭司について学ぶためには、 レビ記(できれば全部、できなくても、1−12章まで)を参照してもらいたいのですが、祭司とは、神と人の間にたち、神の前に立つ存在であり、人を代表する存在でもあります。



    とくに、レビ記1章をみていると、神と人と和解をさせる奉仕に当たる存在であることがわかりますし、レビ記3章では、和解について書いています。このことについては、シナイ山で神の怒りへの和解を参照され、罪(律法の精神(神を愛し人を愛する)との不一致)が発生したことへの解決が必要であることが述べられています。特に着目したいことは、レビ4章3・13・27でもいうように咎を覚える(神の前に神との関係が正しくないことを意識的に覚える、神の前に不安を覚える、明確に意識する)ということです。私たちは、罪を犯しますが、そこで、咎を覚えているかどうか、ということが重要であることをお話しました。


     


    次に、祭司の特殊性と普遍性について、お話しました。
    とくに、油注ぎを受けたもの(レビ8章12節)として、非常に特殊な存在ですし、さらに私たちは、油注ぎということは王と関連付けて考えがちですが、もともと祭司との関係であったこと、イエス様への油注ぎ(ナルドの香油が注がれたこと)を考えることが重要です。


    とはいえ、人間として普遍的な性質があり、 罪のための犠牲が必要な存在(レビ9章8節)でしたし、また、誤りを犯しやすい存在であるがゆえに、祭司は神の指示通りに行うことを求められた(レビ10章存在でした。神の指示のとおりに祭礼を行うことは、神がいい加減な方ではなく、神が義なるかたであること、その義の厳密性を示しているものと思います。

    次に、祭司としてのイエスキリストについて、考えてみると、イエスご自身は、人と神をつなぐ存在としてのイエスキリストという性質をもたれたこと、また、そのイエスがこの地上に来られて私たちに与えようとしているのは、人の意図しない罪の問題を含め、神の前に咎を覚えること(悔い改めの出発点)があることに基づく回復(救い)について出ることは重要かもしれません。


     


    では、ギリシア語を読むヘブル人の手紙の読者に向けて、イエスはどういう印象を持ったかというと、ヨシュアの予言の実現としてのイエスという側面もあるでしょう。まず、名前自身が世シュアのギリシア語読みがイエスであることから考えても、また、当時の地中海人にとって名前というものが持っていた意味について考えるとき、このことは当然であるといえましょう。


    イエスと世シュアとの関連はたくさんありますが、典型的には、民数27章17節を見ると、福音書の中で、イエスが群集を見たときの表現(たとえば、マタイ9章36節)のなかの飼うもののない羊を守るものという表現が重ねられています。マタイによる福音書では、この前に、中風(脳梗塞)の人の例・酒税人と罪びとと食事をするイエスとそれへの反感・会堂管理者の娘・長血をわずらう女・救いを求める盲人・悪霊につかれた人とその癒しなどがのっており、民の指導者がこのような阻害された人々に目を向けたことに対する反感を当時の指導者たちがもったことが示された後、この「民が飼うもののない羊」のようであるという表現が出てきます。


    ところで、 イエス・キリストという表現が出てきますが、イエス、すなわち、ヨシュアという名前は、?主が救われる(ヨシュア)ですし、クリストス(キリスト)は救い主という意味です。

    ■過ぎ越しのいけにえとしてのイエス
    イエスが十字架にかかったのは過ぎ越しのいけにえがささげられる祭りのときであったことから、明らかに、イエスの十字架の背景には、過ぎ越しのいけにえ、罪のためのいけにえとしてのイエスということがイメージされている。また、? バプテスマのヨハネのイエスへの呼びかけである、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)もいけにえをかなり意識した表現であろう。


    マタイ26章17節には、種入れぬ祭り民数28章17節(種入れぬパンの祭り開始日)が記載されているとおり、イエスも神の定めに従われたことイエスの祭司としての性質を考えるときに、重要であろう。その意味で、律法の完成者のとしてのイエス(ヘブル12章2節・マタイ5章17節)というご性質があることは忘れてはならない点である。


     


    ■祭司とイエス
    祭司は罪を犯しうる存在であったこと輪忘れてはならない。特に、祭司(人間でありながら、神と人をつなぐ存在)であったとはいうものの、兄弟という表現(同質性、信徒の中にいることの象徴
    2章11・12がある。この点は人間としての祭司である以上、避けることはできないが、イエスは、罪を犯しうる存在となったが罪を犯さなかった点は重視すべきである。ただし、罪の問題の解決の必要性を自身を通して経験されたことは、イエスの神と人をつなぐ上で、重要な意味を持つ。
    レビ系の祭司とイエスとの違い
     それを図にモデルとして簡略化して図に示すと、図のような形になる。もちろん、モデルであり限界はあるけれども、イエスとレビの違いを考えることが重要である。


    ■名が覚えられる存在(2章12節)としてのイエス
     詩篇22篇22節からの引用として、教会(エクレシア)の中でという表現があるが、もともとは会衆の中でという意味は、神にあって一つの民となされたものの中でという意味であり、神との関係のある人々の中で、すべてのクリスチャンの中で、名が覚えられるという意味であり、それこそが、教会で集まることの意味の一つである。

    ■解放者としてのイエス(2章15節)
    イエスは、われわれを死の恐怖からの開放したのであって、このことは、第1コリント13章50-57節でも語られているし、3章の中で繰り返し出てくるモティーフとして新しい地に入っていくヨシュアのモティーフが用いられている。このことから、救い、あるいはイエスの回復の最重要ポイントは罪から、その結果の死からの回復であり、このテーマに関しては、ローマ5章18-21節でも表現されている。


    ■信者の保護者としてのイエス(16節)
    16節にアブラハムの子孫という表現があるが、類似の表現は、ローマ4章9-24節(16節・23-24節)にも、ガラテヤ3章6-9節・29節にもあらわれる。また、ルカ3章8節では、血統よりも信仰の重要性が強調される意味で、イエスの自身による言及があり、石ころからでも起こされるアブラハムの子孫ということが語られている。


     この背景には、アラム語圏のユダヤ人の異邦人の改宗ユダヤ教徒への無意識の優越意識への対応という意味も含まれるように思われる。ところで、ここで、「助ける」という言葉のもともとの意味は親切心のうちに保護する、手をつなぎながら守る、非常に強く支援するというような意味があり、普通の日本語の助けるという意味とは少し違うようである。

    ■人としてのイエス(17・18節)
      人への同情心を持つイエス、忠実な大祭司(神への忠実さ)、 罪を持つものへの同情されるかたであり、ご自身を罪のためのなだめの犠牲とされ、 いける神の小羊としてのイエスとなられた方である。
     民数記28章にも示されるように、罪の解決のためには、犠牲が要される事は、罪が存在する、したことを意識的に意識するためにも必要であったのではないか。
     その意味で、単に許されるのではないがあり、普通の日本語の許しの概念とは異なる。


     特に、苦しみを受けられたイエス・人を理解する神としてのイエスということは、クリスチャンの立場を考えるときに重要である。(ヘブル4章15節を参照されたい)


    とこれまで抜けたところを少しカバーした上で、新しいテーマに入っていきました。


     


    3章の最初のところで、触れられていることは、まず、信者の特殊性であり、
    それを、天の召しにあずかっていると表現しているが、まず、信者は、神から呼び出された、召しだされた存在であり、呼びかけにこたえて、反応した存在といえるでしょう。ところで、ここで、あずかっているという語は、一部をなしているというような意味であるが、一方的に与えられる、というよりはもうちょっと積極的な意味を持っていると考えるのがよいと思う。


     


    ■信仰の使徒・大祭司
    次に、使徒としてのイエスということを考えることができるが、この表現は珍しい。イエスから任命されたものを使徒と考えがちであるというものの、より広い意味で用いられている。具体的には、使徒とはイエスから直接任命を受けたもの・イエスの直接の言動を知り、伝ええたものであるが、 イエスを使徒と表現するのは、新約聖書の中でここだけである。


     


    ところで、使徒とは何かを考えるとき、神の言葉を伝え、神の直接的な証言者であるといえる。ここの表現は、もともと「私たちの信仰告白、すなわち、イエスキリストが大祭司、使徒(神と人との間に立つものであること)を考えなさい」とも訳せるのであり、考えるとは、正確に測定するという意味を持つ語である。

    ■忠実さについて
     ここで忠実と訳されている言葉は、信頼する、とか信仰を持つという意味であり、もともと信仰という語と同じと考えたほうがよい。つまり、神に対する信仰を指し示す存在としてのイエスの正確を述べており、神への信仰のあり方とその重要性を多くの人に示した神であるイエスということを開設しているものと思われる。


    ■神の家全体について
    まず、モーセについてであるが、神の家全体のために、というよりは、神の家全体のなかで信仰を示したモーセと考えるほうがよいであろう。モーセとは、すべてのイスラエル人に神への信仰を示した人物であり、シナイ山での事件(出エジプト32章子牛の像の事件)などでも大きな働きをしている。つまり、信仰の指導者としてのモーセということを覚えるべきである。
    さらに、神と語り、人と語る存在としてのモーセという意味で、旧約聖書の中にあっても、非常に特殊な存在であり、イスラエル人の信仰を形作っていく大きな役割を担った。


    ■モーセよりはるかに優れたイエス(3・4節)について
    ここでは、イエスがモーセよりもさらに優れたものであることが強調されており、論理展開の重点もここにある。イエスは、アロン系の祭司の最大のものよりもさらに優れた存在として、イエスの存在があり、それは、創造者としてのイエス(4節)・被造物としてのモーセとしてその差は明らかである。
    ところで、ここで触れられている栄誉とは、人間からの評価を受けることと関係した語であり、栄光とは、神からの正当な評価として考えられている。



    ■モーセとイエスとの違い(5節・6節)
    ここでの表現は、新改訳でもそれを苦労して訳出しようとしているが、同一の語順で並べることで、イエスとモーセの違いを示している。モーセに関しては、神の民の中でとかかれていることから、被造物のとして、神の民全体の導く奉仕者としてのモーセとして示され、モーセ自体、将来現れるイエスの不完全な表象であるといえる。
    ところで、モーセとイエスの違いは、モーセが民の仲で、と表現できるのであるが、イエスに関しては、神の民の覆うようにとなっている。つまり、イエスは創造者、神の子として、神の民を覆う存在であるといえます。神の民を覆う(忠実に治めると表現)というのは、包括的な救いの完成を表しており、現在、完全に明確に示された存在として、すべての人の救いを与える存在となっている。


    ■神の家となること
    神の家となるということには、いくつかの意味がある。まず、キリストが神であるという確信を持つ人々の集まりであり、 キリストにおいていのちがあるという希望の栄光(誇りというよりは栄光)を持つものの集まりをさしている。


     さらに、ここでヘブル書の著者は、これらにとどまること、イエスキリストにとどまることの重要性
    を述べているが、ヘブル書のテーマ(今後繰り返し現れるテーマ)が示されている。類似の表現は、ヨハネ15章4節・使徒11章23節・ヘブル3章の後半、4章、6章、10章25節でみることができる。



    ■神の家というメタファー


     神の家と神の国の類似性を考えることは重要であろう。より具体的には、神の民が住まう場所であるとどうじに、イエスご自身が、あなた方のために住まいを(ヨハネ14章)と表現していることは心にとどめておくべきであろう。さらに、神の家は、神の民が一緒に集まっている状態であり、荒野でのイスラエルの姿を含めて考えうる。さらに、教会(集会)も神であるし、第?コリント3章の表現なども参考に考えることができる。また、イエスご自身の表現でも、神の臨在がある場所(神殿)がヨハネ2章16節でも示されている。


     


    2008.06.11 Wednesday

    ヘブル書のリレー講解の内容

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      今回の聖書研究は、今回は、大祭司としてのイエスと旧約時代における大祭司の比較のお話をしました。


       


       まず、大祭司は選ばれたものであること、そして、祭司としての役割を持つクリスチャン自体も、神から選ばれたものであること、そのことの意味の中には、神は私たち一人一人に計画を持っておられること、しかし、イエス自信は、旧約の祭司よりはるかにすぐれた神である祭司であることをお話しました。


       


      しかし、祭司とはいえ、人間であり弱さと罪の問題に直面せざるをえず、完全ではありえなかったがイエスは完全中身、完全な人として、神と人との間に立つ存在となっておられることをかなり詳しくお話しました。ここで、罪の問題をもう一度説明し、罪の中に犯罪は含まれるが、罪はより広い概念であること、神との関係の中で定義されるものであることをお話しました。


       


      後、祭司として、アロンが思い起こされますが、モーセが最初の祭司とならず、アロンが祭司となったことのおもしろさ、両者の比較をしてみました。


       


      また、シャレムの王、メルキゼデクとの比較でイエスが語られているが、旧約聖書に立ち返り、メルキゼデクについての復習をしました。クリスチャンは、パンとぶどう酒というとすぐ聖餐式を思い出しますが、実は当時のおにぎりとお茶(味噌汁)、のような感覚であった可能性があることもお話しました。


       


      また、イエスは人として歩まれることで、罪の問題、苦しみの問題に直面しましたが、しかしそのなかにあっても神様の意思を優先されていたことをゲッセマネの祈りを参考にしながらお話しました。


       


      そして、後、この中で語られているイエスのご性質として、従順なる方、苦しみを受けることを目的として生まれてこられたこと、とはいえ、完全な神に従う生き方を人としてされたこと、そして、救い主として完全な永遠のいのちに至る救いを与えることができる方であること、人と神とをつなぐ完全な祭司としてのご性質を持っておられることなどをご説明しました。


       


      今回は、参加者自体は少なかったのですが、信者の方がほとんどだったので皆さん熱心に聴いていただきました。ただ、講解というセッションであることもあり、信者の皆さんとの突っ込んだ話し合いができなかったのはちょっと残念でした。


       


       


      2008.11.04 Tuesday

      かわいい(?)モーセ

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        10月末の最終日曜日、教会で信徒の皆さんと一緒に聖書をともに学ぶ時間を持った。


         


        ちょうどヘブル人への手紙11章のモーセだったので、出エジプト記の1章と2章(モーセの出生の前後)の中から、3グループ(各グループ6-7人)に分かれて話し合いをしました。


         


         最初のうちは、参加者の我が長女(中学生)から出た、質問へのご回答タイム。結構、変な質問が出ましたねぇ。


         


        「ヘテ人って何?」


          (はいはい、これ、ヒッタイトです。)


         


        「なんで、赤ちゃんを殺そうとしたの?」


         (はいはい、これは、要するにヘブル人は、要するにエジプトと対立関係にあったメソポタミアの関係民族なので、敵対心が強いのですよ。)


         


        「なぜ、全ての民の赤ちゃんを殺そうとしたの?」


         (はい、これも、当時のアメリカというのは、今のカナダとか、アメリカみたいな多民族国家なんです。当時のエジプトには、今のリビアとか、トルコ(ギリシア)とか、イラン・イラクくらいの辺りまでの人たちが流れてできている国なんです。飢饉でくいっぱぐれた人たちが、生存のためにやってくるのが、エジプト。イスラエル人のご先祖様の、イスラエル(ヤコブ)も食いっぱぐれそうになってエジプトに来たの。だらか、エジプトが戦争で負けそうになると、みんなが反逆するわけで、危ないでしょ。男の子は、戦争の時に担ぎ出されるわけだからよ。)


         ここから私の余談。ところで、エジプトは小麦の大産地だったわけで・・・。エジプトをローマが支配するようになってから、パンとサーカスがローマ市民には無料で提供されたわけで・・・。言いはしませんでしたけど、ビールの発祥の地は、エジプトだったりします。いつのまにか、出エジプト記を通しての分かち合いが、なぜか、ローマ史講義になっている。まぁ、いっか。


         


         その後、助産婦の信仰とか、父母の信仰について触れて欲しい、というのが、長老の方のご意向。それも多少配慮しながら、1章の「神を恐れる」についてのお話をしながら盛り上がっていました。


         


         私は特に気にしなかったのですが、赤ん坊であったモーセへの記述に奥さんから疑問符が・・・。モーセがかわいかったので、という出エジプト記の記述。たしかに、ヘブル11章23節にも 「その子の美しい」と新改訳では翻訳してあった。 家内は読みながら、「美しいねぇ」と思っていたので、自宅に戻る途中、質問が飛んできました。出エジプト記を見ていると、旧約聖書の本文中にも「麗しい」(口語訳)とか「かわいい」(新改訳)、「かわいかった」(新共同訳)となっていた。うーん。なんだろう。


         


         私の個人的としてのイメージは、モーセは、ひげを生やした骨太の老人のイメージ。皺に苦悩と指導者としての責任が刻み込まれたような印象の人物。それが「かわいい」は似合わない。かわいいねぇ。そりゃ、子供は概してかわいいですよ。赤ん坊は。誰だって。でも、なぜにモーセだけ、かわいい赤ん坊の記述があるのか。もちろん、出生時のありかたが乗っている聖書の例としては、きわめて少ない。でも、「かわいい」って何?


         


         そこで、ん?とおもったので、原典。旧約聖書のヘブル語版を調べてみたら、Tobe(トーブまたはトゥブ)。あ、これ、創世記の最初で、「○○をよしとされた」とか、「非常に良かった」とか書いてある言葉。また、善悪を知る木の実の「善」がこの「かわいい」と訳出されている言葉。そうなんですよぉ。モーセは、神の眼から見て、「よし・善」とされた。あるいは、「神の器として選び取られたものであった」という意味があったんですね。なるほど。


         


         で、今週は、モーセについての学び。トーブという語と神の臨在との関係をお話しする。神の臨在があることそのものが、トーブであること。そして、出エジプト記の記述を通して、礼拝者としてのモーセ、指導者としてのモーセ、救出者としてのモーセとイエスとの共通性、紅海を渡ることを通してのバプテスマと形を通しての信仰の表現の重要性。半ばエジプト兵に追われた恐怖によるもととはいえ、「紅海をわたる」ことがイスラエルの民として、最初で最後の形を通しての信仰告白であった、という部分は、うちの奥さんに受けてしまった。


        2009.01.11 Sunday

        神の主権と人間の意志 ヨナ書1章から

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          今回の聖書メッセージは、神の主権と人間の意志というテーマをヨナ書1章から学ぶことにしました。

           

           ヨナ書の面白さは、大人も子どももそこから学ぶことができる点です。日曜学校でも、そのお話の面白さがあるので良く取り上げられます。子どもにとっての面白さは、嵐でタルシシュ船が難破すること、その後海に放り込まれたヨナが海の大きな魚にのまれる話、そして、ニネベに言って伝道するときに暑くてたまらない時に日陰を作っていたトウゴマが枯れて大激怒する話なんか、非常に面白いものがあります。

          大人にとっての重要性としては、イエスがヨナについて直接の言及があります。例えば、ルカの福音書11章29-31節には、ヨナの奇跡以外に与えられないという言及があります。また、ヨナ書では、旧約聖書のないようには珍しく、ヨナ書の中では見る異邦人との神との関係を見ることができます。
           ヨナ書におけるポイントとしては、神の計画と個人の意思の並立の問題を考えることができます。
           神の計画として、ヨナに対してニネベ(異教の神の世界・アッシリアの首都)への伝道への召命が明確に述べられています。このミッションは、ほぼ、実現しそうにないことへのミッションでもあります。この明確なミッションの表明があるわけですが、こういう経験をする人は少ないかも知れません。
           これに対して、ヨナという人の意思としては、ヨナはニネベにいかずにわざわざお金を払ってまで、タルシシュへいこうとしています。ところで、タルシシュがどこかはよく分からなく、旧約学者や、古代オリエント学者の中でもさまざまな議論があります。代表的な例としては、スペイン説・北アフリカ説(今のリビア)、イタリア説などさまざまありますが、おそらく、フェニキア人の居留地という説もあります。


           ところで、ヨナがタルシシュにいくこと自体を止めておられない神の存在を見ることができます。とめることができるにもかかわらずです。陸上でタルシシ行きを止めることもできるはずです。
           ここらか学べることができるのは、神の計画と個人の意思について、神は人間の意志に任す場合があるということです。具体的には、いくつか例がありますが、たとえ、それが御顔を避けるような行動でもその意思を否定されておられない事例がかなりあります。

           また、このヨナの事例は、クリスチャンであっても、罪の問題があること、あって当然であることを示していると思います。それと同時に、神は許容範囲を持つ方でもあります。その代表例は、エデンの園の善悪の知識を持つ木の問題の場合にも、人間の意思を尊重されました。もちろん、それを触らせないようにすることもできたのですが、そうはされなかったのです。

          地中海での商船としては、ガレー船です。ガレー船は、風があるときには、帆船として航行し、風がないときには、櫂(人力)で航行するような船です。ガレー船のこぎ手が商船員(自分達の商品を持って貿易)なわけです。このガレー船の船員は、自分達の座席の下に黄金や入稿、香辛料といった荷物をおくことができ、荷物を売買することで、商売をしていたようです。ヨナが乗船し、嵐が起きた結果、この船員達は、船荷を捨てていますが、荷物を捨てるのは、自分達の商品を捨てることでもあるわけで、それだけ危険な状態であったことを示しているのです。荷物を捨てると、喫水線があがるので、それだけ、水をかぶって浸水する危険性は回避されるのです。
           危機に遭遇した時、人は祈る用になります。(5・6節)それは、自分では超越できない環境に直面しない限り、超越者を求めないということがあるようです。
           ところで、非常に不幸な出来事である嵐の原因を探すために、くじを用いて、ヨナがその原因であることが分かってくるわけです。旧約聖書では、かなりくじが出てきます。公正な決定や不幸な出来事の原因追求のため、くじが利用されています。

           具体的には、アザゼルのためのヤギ(レビ16章9節)の例、アカンの例(ヨシュア記7章)、割り当て地の決定(ヨシュア記18章)、サウル王の決定(第1サムエル10章)、神殿の働きの決定(第1歴代24章)などの例があります。

          そして、原因として選ばれたヨナに対する船員の問が非常に面白いと思います。
          「あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」と聞いています。仕事は何か?(何によって収入を得ているのか?)という問に対する彼の答えの面白さは注目すべきでしょう。「私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」このことは、クリスチャンの姿を示しているといえるでしょう。礼拝と訳されている語は「恐れるもの」です。ヨナと同じように、私達も生きているすべてのことが、神に対する礼拝であり、すべてのことが神を恐れることの一環と考えることができるのではないでしょうか。
           ところで、ヨナの罪(10節)を考えることができます。神を恐れながらも、神の御顔を避けるこれも、クリスチャンの姿です。 

           クリスチャンだからといって、罪の問題はないものとみなされるが内在する罪がなくなるわけではありません。クリスチャンであっても、罪の問題はあり続けます。神の御顔を避けること、これが罪そのものなのです。パウロもこの問題を感じていたようです。例えば、パウロは激情型の人で、新約聖書にたくさんの文書を残した、初期の非常に重要な働きをした指導者ですが、ローマ7章23節のパウロの表明を見ると、彼も罪の問題を最後まで、抱えていたことが分かります。
           ところで、船員達の変化(14節)をみることができます。ヨナが、話していたことから、神とヨナとの関係の中で神を知ることになっていきます。元々は、彼らは自分の神に祈っていたわけです。しかし、14節では主に願っている(神(の名)を呼んでいる)わけです。危機の中で、つみある存在であり、神のみ顔を避けたヨナの存在を通して、創造者である神と出会うことになるわけです。その意味で、危機は、神と出会うきっかけとなる可能性となると思います。しかし、だからといって、他の方が、危機の時に押しかけていって、そして福音を語ることがすべてよいとは限らないと、私は思います。

           船員達の願いの中に非常に面白い表現があります。「罪のないものの血を私たちに報いさせない」という表現は、すべての文化やすべての世俗的な法律の基礎である公正さに関する概念と結びついていますが、それ以上に面白いのは、イエスは、罪のない方であったが、罪あるものの血(の責任)を受けたわけで、本来ありえない関係であったことが分かります。


           ところで、血は、罪と非常に深い関係にあります。例えば、アベルの血が叫んでいる(創世記4章10節)という表現や、罪のあがないのためには血が流される必要(出エジプト30章)などのように、罪の問題の解決のためには、羊や山羊の血が求められることになりました。
          船員達の祈りの表現として、新改訳では、「あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」となっていますが、新共同訳では、「主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」となっていますが、ここでは、すべては、あなたの御心のうちに関与される通りなのですから、といったような意味のようです。いずれの翻訳も、主(神・創造主・全能者)の主権を認める表現となっています。これがクリスチャンにとって、重要だと思います。

           神と人間との関係については、他の聖書その箇所でも、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19章21節)や詩篇33篇16−23節に見ることができます。また、箴言21章30−31節なども参考になるでしょう。


           ただ、注意してほしいのは、主の主権を尊重することは、即ち無計画であって良い、ということを必ずしも言っているのではないことです。キリスト集会には、無計画の伝統と傾向があります。例えば、A.N.グローブスのイラクの伝道やジョージ・ミューラーの孤児院伝道、その運動は、ハドソン・テイラーの中国伝道などに影響していきます。神の主権を求め、人間的なものによらないその信仰の姿は大切、美点の一つではありますが、神の主権を認めることと、無計画とは別だと、私は思うのです。
           重要なのは、神の主権を認め、神とともに歩んでいくことであり、人間の世界に関与しようとされておられる神であることを認めることだと思います。


           それと同時に、強調しておきたいのは、人間が神の計画を推進するのではないことです。時々、そういうことをお話ししておられる方がいるとのお話をお聞きするようになりましたが、人間が神の計画を推進するために祈るということは、人間が神となるということでもあり、神の思いを知りたいという思いは大切ですが、人間が神の思いを推進するよう祈るというのは、どうかなぁ、と思います。そのことは、マタイ6章のなかでの主の祈り野中でもいわれています。「御名がほめ称えられますように。みこころが行われますように(私達が神の主権を認めることができますように) 」 となっていて、神に栄光がきせられること、そして、神の主権が優先されるように祈るよう進められています。それを別の言い方をすると、イエスは、「神の国とその義をまず第1にしなさい」と教えておられるのではないでしょうか。私たちの思いではなく、神の思いが実現することを祈り求めることが信仰者にとって重要であることを、このヨナ書から学ぶことができるように思います。

          2009.05.17 Sunday

          詩篇19篇1-3節

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            最近、この記事をご覧の皆様、

            この続きをお探しのようですが、

            この記事の続きはここです。


            申し訳ありません。

            10節以降の続きは、ご自分でお考えください。

            申し訳ありませんが。

            この続きの説教原稿は手元にありますが、

            公開するつもりはございませんので、

            あしからずご了承賜りたく




             神の対話・神と人との対話


            詩篇19篇冒頭3節を味わう


             本日のサブテーマは、科学と詩篇ということで考えたいです。

            詩篇19篇1-3節を取り上げ、考えます。まず、被造物は神の栄

            光を示すために作られました。最初に作ら得たのは光です。次

            に作られたのが、空と水です。創世記の光ができる前は、そも

            そもは霊の世界だった可能性があります。議論はいろいろある

            でしょうが。

             

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            2009.11.21 Saturday

            日本人と教会 第2回要旨

            0

              今回の学びのスタンスについて、まず説明しておきたいと思います。

              私の学びのスタンスは、これまでも、「これが聖書的真理だ」と主張

              するものではありません。

               どちらかというと、これまでも、私にはこう見える、ということで

              お話してきたつもりですが、こんかいも、私に見えているイメージを

              お話したいと思います。

               以前から、強調しておりますように、考えるための糸口をお渡しす

              るのが、学びの主要な役割だと私は、考えています。

              前回を簡単に振り返っておきたいとおもいます。

               日本社会において、キリスト教会は、結果的に、地理的にも心理的

              にも社会の周辺部に置かれてきたようにおもいます。

               社会の内部にいないことを自ら選択してきたし、社会も外部に置い

              てきた部分があります。

               人々とともにいることをしない教会、地域のものとさせない教会の

              構築がおこなわれてきたようにおもいます。

               教会について学ぶ前に日本人の信仰概念の整理をしておきたいと思

              います。

               日本の信仰は、ユーラシア東部民族の伝統的精神世界や霊のとらえ

              方の上に乗った神話学に変形され、神道の原型に乗った形の仏教とな

              っていて、神道と仏教の混在があるわけです。日常生活に見る神道の

              原型は、井戸の神に対する信仰や、初詣、事故防止のプレートを車に

              つけること(お札のかわり)などに見られます。

               仏教と社会との関係を考えると、お葬式のときの出番や集会所とし

              ての機能があるわけです。だれも、結婚式に、密教の形の仏式では

              しないですよね。

               平安仏教はエリートや貴族のための仏教で、鎌倉仏教で時宗や日蓮

              宗のような大衆伝道型の仏教が発生し、江戸時代に現在の戸籍の前身

              となった宗門改め帳(檀家名簿)により、国民の組織化が進められた

              といえます。江戸時代の仏教僧は、漢字の文字が読み書きできるイン

              テリ層であり、であるからこそ、寺子屋、という概念が生まれたわけ

              です。ただ、平かなは、鎌倉時代には庶民にある程度普及していた形

              跡があるので、文字はエリート層だけのものでなかった可能性はあり

              ますが、社会的地位がある立場になるためには、かなり熱心に学習さ

              れたようです。

               日本人の信仰をめぐる諸問題ですが、先日の成田敞美さんのお話で

              「日本人は、メガネや針のようなつくられたものを信仰している」と

              いったニュアンスの表現がありましたが、日本人の「針供養・メガネ

              供養」は拝んでいるのではない様に思います。

              針供養とか、メガネ供養は、呪詛と言っていいと思います。呪詛は、

              平安仏教、密教の特徴です。なぜ、日本人が針供養とか、メガネ供

              養をするかというと、これらのものを使用した人の魂が、ボンドの

              ようにつかったものに付きまといそれが悪さをすることを封じるた

              めに、付きまとうものを奉り、褒め殺すものだと考えた方がよいか

              もしれません。

               雛祭り(流し雛)、灯篭流し(原爆忌)、神輿の海入りにしても、

              霊がとりついたもの流すことで、霊がとりつくことを防止する心の

              動きといえます。

               平安仏教(天台密教・金剛密教)ともに呪術要素をもっており、

              護摩行等に現れます。この密教は、修験道につながっていきます。

              恐山・大峰山・月山・…などが代表的な山岳宗教地です。

               よく、水子供養というのがありますが、これは、水子の霊を慰め

              るというよりは、仏として褒め殺ししているのに近いと思います。

              これは、伝統的な考えで、ヤマタノオロチも基本、褒め殺しと考え

              てよく、最後は本当に殺していまいますけれど。

               先日の民主党の小沢氏の発言が、日本人のキリスト教に関する

              よくある意識を示しています。読売新聞の記事では、「キリスト教

              は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に、というみだしのもとで、

              次のような記事がありました。

               民主党の小沢幹事長は10日、和歌山県高野町の高野山・金剛峯

              寺を訪ね、102の宗教団体が加盟する「全日本仏教会」会長の松

              長有慶・高野山真言宗管長と会談した。

               小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリ

              スト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした

              文明は、欧米社会の行き詰 まっている姿そのものだ。その点、仏教

              はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい

              宗教だ」などと述べたことを明らかにした。

               さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、

              独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。

              という記事ですが、なぜ、こう思われるようになったか、ということ

              を考えてみる必要がありそうです。

              日本人がキリスト教を忌避する理由ですが、その中に、押しつけがま

              しさがあるかもしれません。

               結果としてではあるけれども、自己中心主義・パターナリズムがあ

              るかもしれません。

               キリスト教が忌避される理由には、地域社会や家族といった共同体

              に害悪(不必要な対立)をもたらす存在だからというのもあるかもし

              れません。

               不幸にして、日本では、中産階級の人々が主な信者になり、中産階

              級のためのキリスト教になってしまった様に思いますし、そのイメー

              ジはかなり確立しているのではないでしょうか。たとえば、横浜バン

              ドの高名な牧師の植村正久は、「我輩の教会に車夫、職工の類はいら

              ない」と発言したようですが、このような態度が、信仰が広がりにく

              い環境を作り出してしまったのではないでしょうか。

               教会での説教でよく聞くフレーズとして、「神のない世界は、○○

              や○○が起きて、まったく秩序や平安がない人が多いですが、神を信

              じない人たちには希望がないので、救われる必要がある。」というフ

              レーズがありますが、この話は、キリスト者の目から正しく見えるか

              もしれませんし、その精神性は理解できますが、神のない世界に住む

              人からすれば、自分たちの生活が馬鹿にされた気分になるのではない

              でしょうか。

               そのことで、人々を遠ざけるとすれば、教会はそれでよいのでしょ

              うか?

               実は、この種のフレーズはアメリカ人の説教者がしゃべっていまし

              た。かれは、「キリストを知らない人々は、孤独を紛らわすために、

              飲酒し、飲酒運転で事故を起こすことがある。私の友人もそうだった。

              その友人は、天国に行けないのです。だから、友よ、キリストの許に

              行きなさい。」と熱心に説教していましたが、と言われても、飲酒癖

              を持っている人はそこに一人もいなかった。意味あるのかなぁ、と思

              ってしまいました。

              プレゼンテーションの仕方で人は心を閉ざすこともあれば、開くこと

              もあるます。

               要は福音を聴衆に合わせてどうプレゼンテーション(提供、提示、

              引き渡し)するかが問題ではないでしょうか。この部分が、日本の教

              会は、弱いのではないでしょうか?欧米型の19世紀の宣教方法(実践

              神学)を無批判に受け継いでいるのではないでしょうか?

              まさに日本のキリスト教はイエスは非日常のイエスとしてとらえてい

              たのではないでしょうか?

               聖書の中でのイエスは、少なくともそうではなかったようです。

              イエス自身、「主が貧しい人々(プトコォス)に福音をつたえるよう

              にと」とルカ4章18節でいっていますし、「あなたがた貧しい人

              (プトコォス)たちは幸いだ」とルカ6章20節でいっています。

               「あなた方は、貧しい人々(プトコォス)とはいつも一緒にいる

              が、」とヨハネ12章8節といっています。

               日本社会での教会の位置づけは、無意識のうちに「(霊的に)貧し

              い人々を福音に導く場所」という部分があり、どちらかというと、

              勝利者の側に立つ論理のところがあります。この立場は、戦後の多く

              の福音主義と呼ばれる教会の立場であり、宣教師や牧師たちの立場に

              時折見られたものです。この立場の問題は、正義は、宣教する側・指

              導する側にしかないことになります。

               この立場は正しいのでしょうか?

               当初は、プロテスタントは、「公会」と自身を呼んだわけですし、

              教えるところということではないという意識があったように思います。

              ヘボン訳聖書では、「集会」と訳されているそうです。このことは、

              鈴木 範久(2006)『聖書の日本語』岩波書店に書かれています。

               教会の位置づけは、もともと、「貧しい人々とともにあり、その中

              で神の国を見る場所」であり、教会構成員を勝利者の集団としない立

              場だったと思います。最近でいえば、解放の神学の立場(問題がある

              が)だといえます。この立場は、生協運動の主唱者である賀川豊彦の

              立場ですし、カトリック教会の一部の伝統的立場です。

               「相談したくなったら、教会に行け」ということが、佐藤 優(2009)

              の「神学部とは何か」新教出版社に記載されていますが、このように、

              キリスト教会の立場は、基本的に貧しい人々ともにあろうとしたはずで

              す。

               たとえば、アンソニー・グローブス、ジョージ・ミューラー(石井十

              次等に影響)、のような貧しい人とともにあろうとした多くの人がいます。

              この考え方は、中国インランドミッション(OMFの前身)につながってい

              きますが、この運動の代表的な人は、ハドソン・テーラーです。彼は、

              ジョージ・ミューラーの影響を強く受けた人物です。

               貧しい人々とともにあり、その人々とともにキリストを分かち合おうと

              したが、その人々に信仰や文明のもたらす『豊かさ』をたらそうと試みた

              とはいうものの、福音のもたらす救いを引き渡そうとした方法論の中に、

              時にやや強硬なもの、無理解や誤解に基づく方法が含まれたように思います。

               典型的には、マッジ・ベッコン著「主の御手の中で」に見ることができ

              ます。自分たちは神の側(正義)、他の信仰を持つ者はサタンの側(悪)

              という極端な二分論に近い考えが時に見られます。


              これをみるとき、Paternalismということを考えることができるかもしれま

              せん。この語は、父権主義:力のあるものが、弱いものの利益になるように

              配慮して弱い者の意思とは無関係に弱い者の行動に関与、介入する行為のこ

              とをいいます。そこには、善意が存在するのですが。たとえば、学校教育や

              義務教育・シートベルト規制等がこの種の代表例です。

               この思想は、啓蒙思想などは典型的にあらわれます。この立場に立つと、

              啓蒙される対象としての来会者・啓蒙する側としての伝道者という無意識の

              構造ができやすくなります。

              ところで、聖書で言う「証人」とはマァトスということばで、記録とか物証

              とか言った言葉を持つ語です。この言葉は、あることが事実であることを

              「呼び出されて」自分の理解や認識を口述する存在です。自分から触れ歩く

              のは、証人ではなく、押し売りではないでしょうか。証人の場合、どちらか

              というと、主導権は他者にあるます。

              証とは、キリストor神がいることを静かに指し示す行為ではないでしょうか。

              それを、いつの間にか、伝道という行為と意味をすり変えて理解していない

              でしょうか?証≠福音伝道ではないのではないでしょうか?結果としての福

              音伝道が実現することがいつの間にか、目的となってしまっていないでしょ

              うか?そのことを考えた方がよいかもしれません。

               伝道の方法の多様性は、伝道とは、ナザレのイエスが神であることを宣伝し、

              説得して回ることだけではないのではないでしょうか。全ての信者の役割が違

              う様に私は思います。信者の人生の目的は何でしょうか?それは、神と共に生

              きることでしょうか。それとも伝道でしょうか。

               アメリカで、強盗に伝道した女性信者の話がありますが、この話のように、

              伝道は、信仰の結果という可能性はないのでしょうか?

               信仰と文明(啓蒙思想・啓蒙時代の倫理)のごった煮としての伝道となって

              おり、時に、救いたいという熱心さのあまり、高圧的な伝道や「仏壇を壊して

              しまえ」的な伝道方法がないでしょうか。マッジ・ベッコン著「主の御手のう

              ちに」の記述中に「仏壇を壊してしまえ」というあり方をよしとする表現が散

              見されます。この結果、多くの人々とともに居られない環境を自ら作ってしま

              ったのではないでしょうか?
               私、個人としての反省すべき点を持っていますし、今までの伝道がおかしい、

              私の立場が正しいというつもりはありません。しかし、常に、反省するべきとこ

              ろがないか、振り返る必要があるのではないでしょうか?自らの聖書理解の中に、

              暗黙の仮定・前提・無意識の意識がないかどうかを検証すべきではないでしょう

              か?

               教会とは何でしょうか?何をするところか?
               
               マルコ10章13-16節に、激怒したイエスが出てくる(激怒したことは触れ

              られることが少ないが…)この場所から私たちが学べるものは、神の国は、受け

              入れるものたちのものではないでしょうか。

               子供の地位は、日本では比較的高いが、この当時社会からは黙殺されていました。

              黙殺された子供たちを受け入れるところとしての教会があったわけです。

               教会とは、みなさんにとって何でしょうか?少しお考えになってください。

               教会とは、私にとってまず、明け渡す場です。神に対して、そして人に対して明

              け渡す場です。このことは、ピリピ4章8節に書かれています。また、教会とは、受

              ける場でもあります。それは、神から受ける場であり、人から受ける場でもありま

              す。IIコリント7:7やガラテヤ1:12にこの根拠が書かれています。

              また、渡していく場でもあります。手から手へ、人から人へ伝えていく場でもあり

              ます。この根拠は、Iコリント2:12、15:3にあります。ぜひ、その場所をお読み

              になって、皆さんの教会についてのお考えを深めていただければ、と思います。
              2010.01.16 Saturday

              「イエスのことばにみる教会のイメージ」

              0
                教会について 3と題して、今日は、「イエスのことばにみる
                教会のイメージ」をお話ししたいと思います。

                これまでは、日本社会における教会と教会自体の位置を考えて

                きましたが、日本の社会構造の中での教会の中での信徒同士の

                関係について、お話していきたいと思います。さて、私たちの

                社会構造として、このような図1のようなものとしてイメージ

                されていないでしょうか。日本の社会は、割とこういう社会的

                精神構造になっていることが多いのではないかと思います。

                 このような社会構造は、政治の面では、中央集権、家族構成

                原理では、家父長主義と呼ばれるもので、この背景には、中国

                の儒教思想、なかでも朱子学的な思想で、その中に徳治思想が

                あり、近代社会の中でのパターナリズムへとつながっていきま

                す。

                 この考え方は日本社会の中で、根強く未だにあります。

                例えば、これまでは、国の無謬性、国は間違っていることをす

                ることがあり得ないとする立場がありました。典型的には八場

                ダム・諫早湾干拓事業で現れました。国が間違ったことをして

                いないという暗黙の前提をこれをつぶしかけちゃったのが、小

                泉政権で、その典型例が、ハンセン氏病訴訟だったわけです。

                 但し、国が父の様な存在で、国民をよい方向に導くというの

                は、毛沢東が非常に尊敬された時代の中国共産党、カンボジア

                のクメール・ルージュ、今はなきロシア共産党も、そういうと

                ころはあったわけです。いま私たちが最もはっきりした形で目

                にできるのは、北朝鮮です。

                 この考え方の背景には、基本的に同質性・統一化の世界を前

                提とした議論で、産業革命を支えた社会のあり方の世界観でし

                た。ただ、今は、このような考え方が成り立たなくなりつつあ

                る社会を迎えており、その意味で、時代の変換点に立っている

                様に思います。

                 キリスト教会のモデルとして、日本の教会は、このモデルと

                なっていないでしょうか。だれか偉大な指導者、過去の外国人

                伝道者の発言やライフスタイル、考え方が聖書に優先するとい

                う状況はないでしょうか?

                 つまり、日本人キリスト者の中に、家父長的、あるいは万世

                一系的な思想がそもそもあり、その線の上で聖書を読んでいな

                いでしょうか。私のお知り合いの聖書学校で学んでおられる方

                がある教会では、前の牧師さんはこう言っていた、前の宣教師

                の理解はこうだった、ということがかなり強く影響していてお

                り、そこを超えることがなかなか難しいということのようです。


                 中央集権型のモデルは、キリスト教会でもあり、2000年の伝

                統があります。日本だけでなく、ヨーロッパの産業社会でも

                200年くらいの伝統があります。ただ、この一人の指導者が

                集団を導いていく、というモデルは、いくつかおかしな教会の

                あり方を生んでいく可能性があります。たとえば、「○○兄弟

                は、すばらしい」とか、「○△姉妹の信仰は、すばらしい」と

                いう表現がありますが、この表現って、聖書的でしょうか。

                 時に、ではありますが、尊敬を越えて、個人崇拝のにおいが

                しないでしょうか?必要以上な思い入れがないかどうかを確認

                した方がよいと思います。無教会運動を構成した、内村鑑三に

                しても、なくなる直前の無教会運動を見て、特定の信者を高く

                評価した結果、個人的な指導に大きく依拠する先生主義が広が

                っている、と批判していたのも、無意識にこの構造が持ち込ま

                れた結果かもしれません。

                 現在、多くの教会で、牧師の継承問題時の障害があることが

                問題になっており、聖書を超えた権威性を持つ特定の個人の聖

                書理解もあるように思います。典型的には、ダービーなども

                結果として、このような問題を生み出していったと思います。


                 今日お話しする話を思いついた背景には、ヨハネ15章4−5節

                のことばがあります。

                 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にと
                どまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは
                実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにと
                どまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶ
                どうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わ
                たしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの
                実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすること
                ができないからです。」

                このぶどうの木と枝との関係を考えてみると、私のつい最近ま

                での理解をマンガ(図2)にすると、こんな感じでした。幹で
                あるキリストにだけ、個人としての枝がくっついており、枝

                と枝との関係があまり考えられていないところです。

                 もちろん、イエスとつながることは重要ですが、イエスとつ

                ながっているだけではなくて、隣の枝や、その隣の枝ともつな

                がっていて、いろいろな交流が、直接間接にあるはずです。

                 そのことをローマ12章でパウロは主張していないでしょうか?

                 その意味で、教会の一つのポイントは、信者間のダイナミズ

                ムにあると思います。信者間の自由意志の尊重と主権の尊重で

                す。

                 たしかに、一致していなさいという言葉は、エペソ書4章に

                ありますが、どちらかというと、一体であれ、と主張されてい

                るのであって、マクドナルドのハンバーグのように全員が全く

                同じようになれとは、一言も言っていないように思います。 

                これは、同質性と一体性の混乱だと思います。個人的には、

                望ましい教会モデルとして次のようなことをお話ししたいと思

                います。神との関係は再重要であり、特定の指導者が集会を指

                導していくのではなく、集会構成員相互の自由で水平的な関係

                を重要にしながら、相互に影響を確認しつつ進んでいく丁度、

                ヨーロッパの群舞のような感じでしょうか。日本で踊りという

                とどうしても盆踊りのようなものがイメージされますが、ここ

                でいっているのは、輪になって、肩を組みながら、一つ音楽に

                合わせ踊っていく群舞のイメージかもしれません。だれが指導

                者とか、指揮者というのでもない。

                 イエスは、信者のあり方について、何と言っているでしょう

                か。それを、マルコ12:28-31から見てみたいと思います。

                 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスが
                みごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての
                命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
                 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イ
                スラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
                心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あ
                なたの神である主を愛せよ。』
                 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せ
                よ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

                ここで、イエスが律法のポイントとして言っていることは、非

                常に重要です。神との関係があり、人との関係が律法に位置付

                けられている、ということです。特に、隣人(信者)との関係を

                考えてみると、この言葉が話された背景に着目すべきでしょう。

                 この言葉はユダヤ人社会に向けて語られたもので、ユダヤ的

                な隣人とは、神を信じる同じ民族です。その中で、律法学者は

                ある面指導者的な地位を占めていました。その指導者的な役割

                を果たしたラビ(律法学者)に向かって話している点に注目した

                いとおもいます。神の関係も大事だが、人との関係も大事だ、

                ということを主張していることです。つまり、水平的な関係の

                中にあって働く神ということの大切さを示しているのです。

                 ある方は、ここは日本だ。日本の中で考えるべきではないか、

                ということを言われるかもしれません。そうです。私たちは日

                本にいます。でも、聖書を通り越して日本社会の再現を教会で

                実現することの意味はどういうことになるでしょう。

                 前回、非聖書的なもの(ある人たちにとって当たり前でよいこ

                とと思い込んでいること)と聖書を混同することの危険性を英国

                や米国からの伝道者がもっていたことをお話ししました。

                 帝国主義は言い過ぎ、とケアンズさんからはいわれましたが

                ただ、その色で塗りつぶそうとするのは、やや帝国主義的だと

                思いますし、そのあり方は、問題だとは思います。

                 日本の文化は尊重し、伝道することは大切ですが、日本人固

                有の考え方を無理やり聖書的なものとこじつけてないでしょう

                か。非聖書的な日本的なものと聖書の理解を混同してないでし

                ょうか?

                 そこで、聖書が何を言っているのかをお考えいただければ、

                と思います。『日本の常識』や『歪んだ日本論』のめがねをは

                ずして、聖書について考えていただければ、と思います。

                なぜかというと、日本の教会は、日本人のためのものではあり

                ません。日本人から構成されていますが、誰のためのものでし

                ょうか?キリストのものではありませんか?ナザレのイエスの

                ものでないでしょうか。

                 このアイディアに影響を与えた参考文献をご紹介しておきま

                しょう。『イエスの御名で』というヘンリ・ナウエンの本です

                が、『あめんどう』から出ています。また、『嘆きは踊りに変

                わる』もあめんどうから出ているヘンリ・ナウエンの本です。

                 また、いのちのことば社が出していたD.M.ロイド=ジョンズの

                『キリスト者の一致(上・下)』も参考にしました。

                 読んで見られることをお勧めします。
                2010.07.18 Sunday

                ナアマンについて

                0
                   ナアマンのお話しに移る前に、まず、聖書

                  を読んでいただきたいと思います。旧約聖書

                  の中の、第2列王記5章1-19節です。

                   まず、ナアマンの背景について、簡単に触

                  れたいと思います。まず、ナアマンの出身国

                  のアラムについて、考えてみましょう。この

                  アラムという国は、イスラエルへの侵略の意

                  図のあった国でイスラエル王国(北王国)の北

                  東にあり、今のシリアあたりからイスラエル

                  (北王国)を侵略していた国です。侵略といっ

                  ても、拉致事件が多発したり、農作物を荒ら

                  したり、収奪するというようなことですが。

                  実は、中東における奴隷売買や拉致は、身代

                  金目当てで行われ、身代金が払えないとき、

                  代わりに奴隷として売り飛ばす、ということ

                  が行われたようです。その意味で、アラムは

                  国家的ビジネスとして、人身売買をやってい

                  たと言えるかもしれません。ところで、いま

                  だに誘拐(身代金目的)はビジネスとして行わ

                  れています。それがシチリアで行われている

                  ことは、塩野七海さんのエッセーに書かれて

                  います(たぶん、男たちへ、だったと思う)。
                   
                   アラムは、メソポタミアから地中海やエジ

                  プトへ抜ける通商路を支配した国家でして、

                  この地で話されていた言葉であるアラム語は

                  当時の陸上交通路での国際取引言語であった

                  と考えられます。海の上の国際取引言語が

                  ギリシア語であるように。今の英語みたいな

                  言語です。おそらく、イエスが日常的にしゃ

                  べったと理解されている言語も、このアラム

                  語と考えられています。旧約にも、一部のア

                  ラム表現が収録されています。(エズラの一

                  部、ダニエルの一部、エレミアの一部)

                   また、エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ

                  (マルコ15章34節)という表現はアラム語と

                  考えるのが妥当でしょう。
                   
                   ところで、ナアマンは、アラムの優秀な軍

                  事的指導者(II列王5:1)といえます。今

                  でいえば、参謀本部長か国防長官(主席大臣ク

                  ラス)です。しかし、ツァラアト(ハンセン氏病 皮膚病)

                  患者でもあったようで、この病気での悩みも

                  抱えていたようです。

                   ナアマンの妻のところの拉致してきたイス

                  ラエル娘(奴隷)から、サマリアにいる預言者

                  であるエリシャの話(II列王5:2-4)を聞

                  きます。
                   
                   サマリアとは、残留ユダヤ人と現地住民と

                  の混血が始まる前のサマリアでありまして、

                  とはいえ、多少の混血はあったと思われます

                  が、もともとマナセ族とイッサカル族の居住

                  地でありました。このサマリアにエリシャ

                  (II列王5:3)がいたわけであります。

                   ナアマンは、イスラエル王のところに行き、

                  アラム王からの手紙(親書)を持参して訪問

                  (II列王5:5-7)いたします。このような

                  親書を持参するということは、正式な外交団

                  のスタイルでありまして、かなり公式な訪問

                  となります。特に、軍の司令官であるナアマ

                  ンが親書を持って訪問するということは、国

                  交断絶や宣戦布告の場合もあるわけです。

                    だから、イスラエル王(ヨラム・ベン・アハ

                  ブ)は困ってしまうわけです(II列王5:7)。

                  アラム王がナアマンの件で、イスラエル王に

                  言いがかりをつけて、対イスラエル戦争を起

                  こすつもりだろう、と思い込んだのも無理の

                  ないことです。特に、ナアマンが戦車できて

                  いる事に注目(II列王5:9)しましょう。

                   地政学的にイスラエル王国を見た場合、他

                  国の軍隊から攻められやすい位置にあり、北

                  方の強国と2つの前線で隣接しており、2面作

                  戦を強いられる上に、防御線や防御面になる

                  山脈、大河、砂漠などいわゆる軍事的干渉帯

                  がすくない地域でもあります。その面で、非

                  常に厳しい環境に置かれていたのがイスラエ

                  ル王国です。

                   ナアマンの来訪に対し、イスラエル王が、

                  敗北宣言(服を引き裂く:奴隷としての立場、

                  敗者としての立場であることを示す中東の

                  文化的表現)したことにエリシャは反応して

                  います(II列王5:8)。
                   
                   そして、エリシャは、ナアマンを呼びつけ

                  ているのですが、これは、ある面で、失礼な

                  態度ではあります(古代中東の文化から考えた

                  とき、国交断絶の可能性もある態度と言える

                  でしょう)。そして、呼びつけておいて、使

                  者による伝言だけをしています(II列王5:

                  10)。

                   この使者はゲハジではない可能性がありま

                  す。無名の使者ですから、相当身分が低い可

                  能性もあります。したがってナアマンが馬鹿

                  にされたと感じたとしても無理はない、とわ

                  たくしは思います。
                   
                   このような状況で、エリシャがナアマンに

                  いったことは、ただ、ヨルダン川にいって、

                  身を洗えということです。もちろん、ここに

                  バプティスマとの関係性を見出すことも可能

                  ではあります。ただ、このような習慣は、

                  中東に見られた伝統的身体行為としての水浴

                  しろ、とナアマンに理解された可能性もあり

                  ます。
                   
                   エリシャは、ナアマンにきよくなります、

                  といっていますが、もともとのヘブル語は、

                  タァヘーァということばで、この語には、

                  「病気からきよくなる」・「罪の問題が解

                  決がつく」という両義性を持った言葉でも

                  あります。これは、ヘブル語の持つ両義性

                  であり、当時のユダヤ人たちが、それらに

                  ついて、同じことばを二つの意味合いで使

                  っていたことであり、それゆえ、病気の改

                  善と罪の問題は、相互に関係があるものと

                  捉えられていたことが分かりますし、だか

                  らこそ、イエスが、病気を治したときに、

                  誰が罪を許す権威をもつのか、と律法学者

                  が批判したことにつながっていきます。

                   さて、この部分の表現を見ると、ナアマ

                  ンは、エリシャが何らかの直接的な行為を

                  ナアマンに対してなし、彼と直接の関係性

                  を持つことを希望した (II列王5:11)

                  のですが、それは実現されず、伝言だけが

                  ナアマンに残されたのです。また、ナアマ

                  ンにしてみれば、泥まみれのヨルダン川で

                  すから、こんなことで、清くなるはずがな

                  い、と怒り心頭に達したようです。
                   
                   このナアマンの怒りは、ナアマンの予想

                  に反する2つのでき事に失意したためと思わ

                  れます。一つは、エリシャによる 具体的な

                  直接的な行動のなさであり、もうひとつは、

                  ヨルダン川の汚さでもあります。

                   人間の怒りは、想定が裏切られる事によ

                  ってもおこるのではないでしょうか。もち

                  ろん、人間が持つ予測が自分勝手な想定で

                  あったとしても、期待がかなわないときに、

                  人は怒りを覚えるようです。

                   しかし、ナアマンは変心します

                  (II列王5:13-14)。
                   
                   彼のしもべとなっていますが、ナアマン

                  の地位からすれば、佐官級か、士官クラス

                  と思われる随行員の一人の発言と考えるほ

                  うが普通だと思います。この随員の諌言に

                  よって変心します。「わが父よ」という

                  呼びかけがありますが、これは、この地方

                  の普通の関係性のようです。

                   さて、ナアマンについてのイエスの直接

                  の言及がルカ4:27にございます。エリシャ

                  時代に唯一いやされたのが、非イスラエル

                  人のナアマンだけ、という発言です。
                   
                   これは、異邦人における「きよめ」や神

                  の民としての復帰、神の民を考える上での

                  重要な示唆を与えます。新約聖書には、ナ

                  アマンとの類似性のある事件として、マタ

                  イ8章に現れる「百人隊長の信仰」がござい

                  ます。この2つは、異邦人への癒しがあった

                  こと、言葉にのみよったこと、奇跡として

                  現れた神の力があったことが、非常に共通

                  していると思えます。つまり、「ことば」

                  に対する信頼とそれに対応する信仰による

                  行為としてあらわれていることは、注目に

                  値すると思います。

                   ナアマンの言明「イスラエルのほかに、

                  神はいない」は、神を礼拝する場所が、

                  イスラエルである事を指し示すのでしょ

                  うか?神の存在を認めた表現と考えるこ

                  とができるようにも思えます。ただ、イ

                  スラエルの神に贈り物をしようとするナ

                  アマンの姿を見るとき、我々は、我々

                  の方法で、神を礼拝しようとするという

                  人間の姿をここに見ることができるので

                  はないでしょうか。人間の弱さとも言え

                  るでしょう。

                    この行為に対するエリシャの答えがユ

                  ニークだと、私は思います。エリシャは、

                  「主は生きておられる」、「私は受け取

                  らない」といっていますが、エリシャの

                  意図は、信者でない来会者から何も受け

                  取らない、ということを意図したのでは

                  ない、と思うのです。そのような解釈は

                  少し行きすぎのように思います。
                   
                   思うに、エリシャは、神の栄光と人の

                  栄光を混乱させることを、避けようとし

                  たのではないでしょうか?

                   2010年夏号のMinistryの中に、牧会

                  者と神の混乱について「あの方はここに

                  おられません」という記事がありますし、

                  皆さんご存じのところでは、京阪神の教

                  会に消火器が投げ込まれた事件の当事者

                  のことを思われるかもしれません。この

                  方は、牧会者と神との関係がずれておら

                  れたように見受けられます。

                   エリシャの発言をさらにこまかくみて

                  みると、エリシャは仕えている(ハァマァ

                  ード)と表現しています。この語は、私が

                  基礎としている、とか、私がその前に立

                  っている、という意味を持つ語です。こ

                  のことから、エリシャもキリスト者も、

                  神の前に立つ人としての性質をもつ、と

                  考えることもできましょう。

                   この表現が、18節に示されたナアマン

                  の疑問を生んだようにも思えます。ナア

                  マンは、リモン神殿での彼の行動につい

                  て、エリシャに問うています。

                   リモン神殿で、立場上(アラムの将軍と

                  しての役職上)身をかがめる事について

                  問うていますが、かれに、礼拝の心がな

                  いことを表明し、それが形式的なものと

                  してのナアマンの行動であるといってい

                  ます。
                   
                   このことは、実は意外と素朴で重要な

                  疑問を生み出すといえます。キリスト者

                  と戦前の宮城遥拝・内村鑑三の御真影礼

                  拝事件の評価をどう考えるか、というこ

                  とです。近時で言えば、学校行事におけ

                  る君が代や日の丸への対応を考える際に、

                  一つの参考とできることかもしれません。

                   この問いに対するエリシャの応答は面

                  白く、直接指示するのではなく、「安心

                  していきなさい」といっています。

                  この安心とは、シャロームであり、一般

                  的なあいさつとも考えられますが、どう

                  せよ、ともいっていないようです。それ

                  は、その行為がどうであれ、神の前に生

                  きる人が持つ平安(シャローム)のことに

                  も思いをはせることができるのではない

                  でしょうか。

                   ナアマンの問は、非キリスト者の中で

                  の異教との関係性を示しているのではな

                  いでしょうか。もう少し他の人々ととも

                  に生きる、という事、他の信仰にたいす

                  る否定をしていない点、アラムの信仰を

                  見下していない表現となっている事に少

                  し注目してみてもよいのでは、ないでし

                  ょうか。

                   最後に、皆様にお願いしたい事を申し

                  述べます。
                   
                   私は、今日は、いくつかの側面からナ

                  アマンを取り上げ、考えてまいりました。

                  これは解釈の可能性の一つにすぎません。

                  皆さんはみなさんなりのナアマンの解釈

                  があり得ると思います。ご自身で、ナア

                  マンのことについて、エリシャの発言に

                  ついて、思いめぐらせ、考えていただき

                  たいとおもいます。それが、聖書を読む

                  ということですし、聖書を通して、神と

                  交わることだからです。ぜひ、時間を

                  取って、ナアマンからお考えになられる

                  よう、心からお勧め申し上げます。
                  2014.06.14 Saturday

                  上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

                  0

                     先日上智大学大阪キャンパスで開催された公開講座、佐久間勤さんの「カインはなぜアベルを殺すのか」の参加記を残しておこう。非常によい講演会であった。 

                    現代社会と暴力
                     現代社会の様々な面においても、理性で話しあうよりは、世界のあちこちで力で自分の主張を通そうとすることがよくみられる。「力には力を」という悪循環が生まれているのではないだろうか。 そのうえで、旧約聖書の物語は、人間を考えるうえで役に立つのではないだろうか。一般的な理解として、旧約聖書の神は暴力やねたみの神であるといわれるが、必ずしも、旧約聖書は暴力の神を描いているわけでもないし、赦しを言ってないわけではないことは案外触れられていないように思う。
                     イエスは、旧約聖書のうえで語っており、それを理解するともっと深いことがわかるのではないか。

                    ミーちゃんはーちゃん的感想
                     NTライトは、完全にこの線で書いているように思う。そして、このご指摘は大事なことだと思う。


                    カインという人物とその子孫

                    創世記4章を読み、暴力の解決の可能性を旧約から考えてみたい。

                    Cain&AbelTiziano
                    ツィツィアーノ作、カインとアベル

                     スライドで上記のツィツィアーノの絵画をお示しになり、カインの顔が影に覆われよく見えないが、アベルの視線をみると、画面右端の天に昇っていく煙を見ているアベルなのではないか。これに対し、煙が斜めに上がっていきカインの捧げものは受け入れられていないことを示しているようだ。そして、アベル自体を殴り殺し、蹴り落とそうとするカインがいる。

                     佐久間先生によると、カインの罪の本質は、「私は弟の番人でしょうか。」という表現にあるらしい。自らの発言で、自分の罪をばらしてしまっている。
                     この殺害事件の結果、カインは、さすらうものとなり、カインの子孫は、街をつくり、家畜を飼うものの先祖になり、芸術家と技術屋の先祖となったのがカインであることを考えると、文明の先祖はカインであるといえるだろう。

                     神から追放される時に人は恐れを感じたのではないか。旧約聖書は、リアリズムはあまり考えていないように思われる。カインは、「人を殺したものは、自分もその目にあう」という暴力の連鎖とそして神からの守りがないことを恐れたのではないだろうか。
                     カインを傷つけるものは7倍が言われているが、カインの子孫レメクは、77倍に拡大している。

                    旧約聖書創世記(口語訳聖書)
                    4:23 レメクはその妻たちに言った、
                     「アダとチラよ、わたしの声を聞け、
                      レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、
                      受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
                    4:24 カインのための復讐が七倍ならば、
                      レメクのための復讐は七十七倍」

                    この表現に見られるように、暴力が次第に大きくなっている。時代を経て、文明は栄えるものの、暴力を抑えることができない状況がある。カイン自体は、自分の家をもたない根なし草であり、自分の本来の場所をもたない人々となっている。

                    アベルとその後継としてのセト

                     アベルの子孫は、子孫としての記述はないが、セト(シャト)が後を継いでいるようだ。セトの子がエノシュであるが、ヘブライ語でエノシュは、「人」という意味である。彼ははじめて祈っている人物であるが、その意味で、神との結びつきを求めようとするという意味で、本来の神と人間との間の関係をもったという言う意味で人間らしい人物であったのであろう。
                     もちろん、アダァムも人間 (追放されていない) 本来、その段階では、神と人とは結びついており、人間らしい存在として、創世記では描かれている。

                    アベル殺害事件とその結果
                    創世記4章を見れば、
                    1-16 カインの弟殺しとその結果が描かれている。
                      アダムから7代、レメクまでが描かれており、都市居住の始まりが記載されている。
                    17-25 カインの子孫
                    26 アベルの子孫 アダムから数えて3代目のエノシュが記載されている。

                     おそらくは人数的にも、小さなグループだったのだろう。経済力と言った力はエノシュに関しては、でてこない。少数者のグループだったのだろう。

                     現在の世界では、あまりに暴力が当たり前すぎて、考えていないが、人間が暴力を使うその原因を考えたい。
                     兄と弟で違いがあるとしがちだが、実は、年長、年少と言った縦方向の関係性をあまり意識していない聖書があるのではないだろうか。

                    カインとアベルの名と系図表現
                      
                     カインの名は、神によって得た(カーニーティー)にちなんでつけられたと系図のフォーマットに従って描かれているものの、アベルの名には説明がない。アベル=ヘベル(空しい)と同じヘブライ語の語根をもつ言葉である。兄、弟は、生まれた時から、差がついているようである。

                     聖書では名前は重要な情報源であり、その人の人物紹介友なっている。カインに関しては、名前の説明がついていて、系図としての定型句がついている。正式の系図の形式に則って記載されている。
                     ところで、名前には説明がある。重要な人物は説明がきちんとなされている。「○○は○○を生んだ。」12部族の基礎になったのが名前の説明がついているように、重要人物にはその名の由来の説明があるのが旧約聖書のせかいである。

                     カインについては、この子は神からの贈り物である。主によって得たカインということが物語られている。反面、アベルについては、説明もないし、系図としての定型表現もなしである。まるで、おまけみたいな子供だったかもしれない。アベル=ハベル(←ハベル 「空しい」と日本語聖書中のコヘレトで描かれていることを参照)であり、ある面、カインの蔭に隠れたアベルだっただろう。

                    名前の必要性

                     生まれた時から差がある。違うからこそ、個性がある。違うからこそ、名前がある。同じだったら、名前入らないですよね(言われて初めて気付いた。遅い)。違いがあることは、即、優劣に結びつきやすい。
                     しかし、この創世記4章には巧妙なトリックがあり、カインとアベル間で差があるけれども、差を意図的に感じないような表現(同じだということへの強調)を名前を交互に記載する文章表現で示している。
                     一見すると、カインもアベルも平等に扱われるような印象があるのだが、アベルの捧げものは受け入れられ、カインの捧げものは受け入れられない。意図的に神に怒るように仕向けているかのようにも思えなくもない。

                    カイン事件をどう解釈するか
                     様々な解釈の可能性があるだろう。もちろん、カインは悪人だからという解釈もあろうが、これは多分解釈としては、NGだろう。犯した罪に反応し過ぎている。
                     神は遊牧民を偏愛した、という解釈もありうる。とりわけ、古代社会は農民、土地持ちが重要であり、遊牧民は弱い民(預言者も言っている)であり、そこへの神の愛があったというのも、解釈としては弱い。農民かどうかはあまり重要なポイントではないのではないか。
                     弟を偏愛する神だからという説もあり、ダビデは末っ子であり、親からも忘れられたに近い存在であるだろう。これは多少関係するかもしれない。
                     物語から示唆されることとしては、供え物の問題と理解すべきではないか。労働の成果の封建方法と関係しているだろう、収穫の祭りの際の供え物 (申命記12:5-6)では、初穂と指定されている。おそらく、一番いいもの、初穂をささげることを求められているにもかかわらずカインはよく選ばなかったのではないか。捧げものに下院には詳細な記述がない。
                     アベルは律法の規定に従って捧げものをしている。古代人にとって、生命の最初のもの、最初のものは充実しているという古代人の思想があり、それをささげている。カインは、初穂をささげるべきであった。アベルは小さいもの、弱弱しい者でありながら、神の規定を守っている。

                    カインはなぜ、怒ったか
                     神は警告を与えておられる。しかし、怒りにまかせて弟殺しをしているのだが、その背景を考えておきたい。

                    カインの役割
                     アダムの長子として生まれる。そして、アダムと同じく土地を耕すものとなった。
                      人は土から生まれ、土を耕し、土地(地球)守るためにおかれたアダムであった。その意味で、カインは、アダムの跡継ぎ息子であり、家の長となるはずの人間 であった。一族を代表して神とかかわる王、祭司(これが油注がれたもの、メシア(へブライ語)キリスト(ギリシア語)へとつながっていく)としての特権を もったものであった。当時の世界にあっては、家という共同体が神との関係を示すものであった。おそらく当時は、村単位の人口サイズが、70-80人で、家 の人口サイズは60-100人であったであろう。村と家はほぼ同じと考えてよいのではないか。

                    神様からの祭司失格宣言
                     神への捧げものが受け入れられないことは、神から祭司失格、家長失格と言われたと等しいのだろう。そして、アベルに祭司(家長)の権利が移ったことを意味する(まるで、エソウとヤコブの話見たいとミーちゃんはーちゃんは思ったのだった)。

                     カインの怒りは、本来自分のものであるはずのもの、長子の役割を資格のない弟が持っていることにあったのではないか、当時の方法論としては、奪われたと感じたなら、奪い返すのが「正義」であった。そして、それが怒りへとつながっていったのだろう。
                     ところで、殺人=完全な支配、奴隷化の方法ではないだろうか。

                    祭司失格の背景
                     ところで、カインはカインからアベルに祭司の役割が移った背景を考えていないように見える。自分が正しいから、と思っていたのではないか。この正義観から人を殺したりする攻撃性が生まれ、人は攻撃的になっていくのではないか。正義を求めて、結果暴力に訴えるという
                    歪 んだ正義観になっていくのだろう。自分と自分の主張にとって都合のよい正義感が問題だ、ということを示すのではないか。これがアベルとカイン物語の中核で はないだろうか。その意味で、人間は、割と自らを反省せずに他人を悪にしやすい。その意味で、正義を振りかざさないと悪が行えないという性質をもっている と思う。


                    次回へと続く。


                    評価:
                    N. T. Wright
                    HarperOne
                    ¥ 2,208
                    (2008-02-05)
                    コメント:おもしろい。英文も多少読みにくいかもしれないが、こなせなくはないレベルだった。

                    2014.06.18 Wednesday

                    上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

                    0
                       今回も前回(上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半)に引き続き、上智大学で行われた佐久間先生による公開講座の記録をシェアいたしたく。

                      オルタナティブを提起する旧約聖書
                       対抗(オルタナティブ)社会という考え方がある。それは、預言者的な問題意識の提示であり、現在幅を利かせている生き方とは別の生き方を示すことである。(出た、ブルッグマンの預言者の想像力、佐久間先生もお読みかな?)このような読み方は聖書には最初からあるのである。
                       旧約聖書は、被害者(アベル)側から見た世界を描く文学という側面がある。カインとその子孫は暴力に走るが、しかしカイン以外の別のもの(将にオルタナティブであるアベルの子孫)に希望があると言っているようだ。


                      暴力を土台としない社会へ

                       神が与える秩序としてそうせいきはえがかれている。その意味で、いのちへの道を本来示すのが創世記であろう。神の国、イエスの神の国は、まさにいのちへの道である。アベルの子孫がイエスの系図である。小さいものとして生きながら、暴力を乗り越える生き方こそ、イエスの主張であないだろうか。

                       ミーちゃんはーちゃん的感想
                        まるでジャン。ヴァニエかナウエンの話しか、と思ってしもうた。

                      Cain&AbelW.Blake
                      ウィリアム・ブレイクのカインとアベル 

                       上の図に示した、ブレイク作カインとアベルは、後ろに太陽が描かれているが、これは、目のイメージであり、神の現存、神が見ているということを、太陽が見ているということで示しているようだ。
                       いのちの領域からさすらうカインの姿が描かれているようだ。そして、逃げ出そうとするカインの姿勢は、アベルの墓穴に片方の足が入らんかのような状態である。いのちの世界から追放され、死の世界へ片足突っ込んでる。そのいみで、暴力は死へとつながる。

                      カインは何をすべきだったのか

                       神は「何ということをしたのだ」とカインに怒っておられる。「血が叫んでいる。」友おっしゃっておられる。カインのどこが悪かったのだろうか。
                       その答えは、カインの応答に隠されている。「弟の番人(見守る ヘブライ語でハシャマァル)でしょうか」と答えている。同じヘブライ語は、父親であるアダムがエデンの園を耕し守る(シャマァル)にも使われている。このマァシャルという語は、ふさわしい世話をする、と理解するのが適切だろう。
                        カインもこの守るという役割を弟の世話を含め、引き継いだはずなのに、それをしていないことを自ら吐露している。地を守るという権能を継ぐべき責任であることをカインは認めているものの、「弟の番人か」と神の前に開き直っている。ほんらいなら、「知りません」ですむはずのところを、逃げじゃなくて、「弟とは関係ない。父から受け継ぐのは、土地なのだ」と言わんばかりの発想である。カインの中に、アダムから利益の根源の土地だけを引き継いだ、という発想があったのではないか。
                       本来、家族の安全を守る、すべての人がうまく生きられるようにするのが家の頭の役割。それを、カインは責任放棄している。そしてそのことを自白している。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想。自己の責任放棄を、それ自己弁護して自白してどうする状態ってどっかの教会でもあったように思うけど。ね、カルト化した教会とか・・・・

                       家長の役割は、本来すべきことは正しい供え物をし、家族を治めていくことであったであろう。生まれながらにして、差がついている。差があるけど、兄弟。上下の差。もつ者と持たないものの差。これは避けられないだろう。

                      リーダーとしての責任

                       その意味で先に生まれたものは有利なのである。上に立つものは、神との結びと兄弟の交わりに責任をもつ。差があるものだが、共に生きていけるように弱いものを守る。上のものは力をもち、自らを守るためにさらに力に頼る。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想。なんかね、イエスの時代に神殿をねぐらにして、自己の権威性の強化に走ったサドカイ派を思い出してしもうた。NTライトの読み過ぎかもしらんが・・・・

                       ここに出ている姿を見れば、人間が何をすべきかがわかるかも。暴力のアリ地獄の中に入っていくと結局滅びるのだ。違う生き方をすべきなのではないか。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想。なんかね、ジョン・H・ヨーダーのThe Politics of Jesusとかブルッグマンの「預言者の想像力」を思い出してしもうた。

                      旧約聖書が教えること
                       物語は現実を見せて、現実の本質をえぐることで、何を人間がなすべきかを問いかけているのではないか。このままの世界を放置したままでも、いいですか。何かしなければいけない、ということにまず気付くことが重要なのではないだろうか。

                      解決の可能性 ノア物語に見る回復
                       洪水物語でノアの契約が記載されているが、ノアの洪水物語は、悪の自滅と神の赦しを描いているのではないだろうか。「神が目を止められると地に暴虐と不法が満ち溢れていた。人間は生まれた時から心に悪を思い浮かべる。」と旧約聖書に記載されているように、人間が悪であり、ノアの子孫からリセットされようとしたという記述ではないか。

                       系図からいえば創世記5章はセト、エノシュ、ノアまで(10代目 完全数を示す象徴的な表現)オルタナティブの子孫の系図、その中で最も罪がないのがノアである。ある面、第2のアダムとしてのノアである。

                      神の怒りと悪
                       すべてのことは神から来るという想定があるのが旧約聖書の理解である。暴虐と不法をも用いる方としての神がある。神が単純に人類を滅ぼそうとしているわけではなくて、不法があるからさばきとしての災いが来る。
                       神の怒りと言いながら、自分自身が悪を呼び寄せているがゆえに、神が罰せざるを得ない残念な状況が生まれているのだろう。
                       このノアの物語の中には、神が後悔した、という記述があり、この記述からもわかる通り、神がやりなおそうとした物語である。そこに神のゆるしがはいっているとおもわれる。。
                       もう一度再出発。もう2度と洪水を起こして滅ぼさない。創世記8:21には、「人がこころに思うことは幼い時から悪いのだ。」とされている。洪水の前と後で同じことを繰り返しており、神の目の前に。人間は同じことを延々と繰り返しているのだろう。
                       人間が悪であり、悪を繰り返すことがすでに見ておられる神がおられ、もう2度と滅ぼさないと言っておられる。悪の存在を前提とし、悪に傾く人間を見守りながら、人と付き合う神であるのではないか。それが、契約としてあらわれるといえよう。

                      エデンの園で示されていた神の義と祝福
                        最初のエデンの園での祝福のだんかいでは、穀物が人間であり、動物は青草があたえられていた。その意味で、人間と動物は競合関係にはない。エデンの園を追放されてから、人間と人間の間に争いがおき、肉食はこの時点から始まる。肉食はある面、神から大目に見てもらっている状態だろう。動物の肉食 は仕方がないものとして、そして、本来の姿ではないけど、神からすれば、まぁ、ゆるすって状態なのではないか。
                       律法には、「血を食べてはならない。血を流すものは罰せられる」世界が登場している。そして、それは傷ついた社会であるものの、神は、傷ついた社会の中での回復もイエスを通して備えておられる。

                      苦しみの僕の歌から
                       苦しみのしもべの歌(イザヤ書53章)を考えてみたい。ここでの若えだとは、日本で想像する力強い若枝ではなく、もともと砂地の暑いところに願うわっていて、ひょろっとでた芽そんな弱弱しい枝のこととして理解すべきではないか。だからこそ、その後の節で、風格、輝き、容姿がないといっているのだ。この風格、輝き、容姿とは、本来王が持っている性質であり、それに抵抗する力をもちえない弱い主のしもべの姿で描かれている。
                       
                      )ミーちゃんはーちゃん的感想 えええええ。こんな解釈考えたこともなかった。そうかもしれない。そうすると、イザヤ書53章が別物に見える。

                       義人の苦しみは人々をいやすための苦しみであり、その人が悪いのではないという理解につながる。そして、それは、苦難における連帯・孤独の克服へとつながるのだ。

                      )ミーちゃんはーちゃん的感想 なんか、沼田さんの今年のイースターの説教みたいですねぇ。あれはいい説教でした。

                        孤独を感じ、孤独の中での無力感が、深い井戸の底、闇の中に人間を落としていくんだろう。しかし、その底に人のための苦しみを共有する人物がある。そこに友にいるイエスがいるがゆえに孤独がないのではないか。

                       それこそ、理不尽な苦しみの中でも、そこに共にイエスがおられる以上孤独ではない。一人ではない、人々のために苦しんでいる貫徹されたイエスの苦しみがある。それが十字架の意味ではないだろうか。十字架がオルタナティブとしての悪、暴力の根源をいやすのではないか。死や痛みを前にして孤独の壁を打ち破るものとしてのイエスの存在を伝えることは重要であろう。そして、暴力を取り超える一つの方法ではないか。

                       なんか、ホンマに上沼先生の闇を住みかとする私、闇を隠れ家とする神、ブッゲルマンか、ジョン・H・ヨーダーの本を読んでいるみたいな講演の結末でした。



                      評価:
                      価格: ¥3,024
                      ショップ: 楽天ブックス
                      コメント:高いけど、よい。キリスト者が神の思いを知ろうとするものとして、どのように生きるべきなのか、従来の価値概念と違うものとして生きるべきであることを示す名著。

                      評価:
                      価格: ¥1,080
                      ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
                      コメント:薄いけどよい。暴力のはびこる社会にキリスト者としてどう生きるかが問われる本。

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