2015.01.26 Monday

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

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     ミーちゃんはーちゃんは、ちゃんとした神学教育を受けていないので、 西洋の神学傾向についても無知であるし、日本の過去の神学的思惟に関しても無知であるので、必死になって本を読みながら、本の著者と対話するような感じで西洋や北米、日本の神学的思惟に関する教えを請うている。

     前回の記事

    歴史に学ぶことの大切さ

    で日本の自大主義的な神学文書でもある 日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰 問題に下記の本で触れていたので、いつか書きたいなぁ、と思っていたら、トンチャン様に先を越されてしまった。しまった。

     まぁ、気を取り直して、富士山とシナイ山から、シリーズものとして、この本の良さと、福音派のお馬鹿もののミーちゃんはーちゃんが考えたことをご紹介したい。実は、この本の著者の小山晃佑さんという方は、ミーちゃんはーちゃんの親せきみたいなキリスト者集団のお出の方である。ミーちゃんはーちゃんとは、頭脳の点でも、品性の点でも、知識の点でも比べ物にならないくらい、ものすごい方であることはわかっている。

     なお、これから連載する記事は、どこかの個人や団体を批判するものでもなく、歴史的に何が起きたかをミーちゃんはーちゃんなりに見詰め、なんでこうなっていったのか、ということを考える、歴史的反省に立つものである。もちろん、バルメン宣言なんかを見てもいいんだが、やっぱ、自分の中の精神性を批判しないとね。

     この小山先生は、戦災というか空襲を東京で体験された、皇国の少年としての日々を過ごさせられつつも、日本とアメリカが戦争している期間中に洗礼を受けられた方である。

    小山さんのアプローチの出発点

     まず、この本の第1章で、小山さんのこの本でのアプローチの出発点が語られ、影響を受けた方のお名前と文章が出てくる。

     文化的および神学的な視座からする私の偶像崇拝研究において、エイブラハム・ヘッシェルの言葉は、導きの霊感として常に私とともにあった。
     預言者の関心事は神の経験としての人間的な出来事である。我々にとって歴史は人間的経験の記録であるが、預言者にとって歴史は神の経験の記録なのである。
    (原注 Abraham,J. Heschel The Prophets, Harper and Row 1962, p.172 A・J・ヘッシェル『イスラエル預言者 上』 森泉弘次訳 教文館 1992 p.333『富士山とシナイ山』p.14
                          
     このヘッシェルという方。まぁ、すごい。神の経験として歴史をみるという視点。神になるのではなくて、どのような悲惨があろうとも、そこに神の臨在と神の忍耐があり、そしてその経験を記憶していき、記憶していくというのは、「健忘症以前の歴史性を記憶しない民」とトンチャン先生にズバッと指摘されて、「あ、図星!グサグサ」と来てしまったミーちゃんはーちゃんにとってはこういう視点は、思いもよらなかったのですね。

     なお、訳者注によれば、ヘッシェルという方は、ホロコーストを生き抜いた20世紀最大のユダヤ教神学者の一人で東方ハシディズム派のカリスマ的指導者ツァデキーム(義人)の系譜にまつわる子孫で、この方のお師匠さんのお一人がマルティン・ブーバーだったそうです。この方、イギリスに亡命した後、米国に渡っているらしいです。なお、この方は、マルチン・ルーサー・キングの公民権運動などにもかかわっていたそうです。(前掲書 訳注 p.411-412 を参照のこと)

     なんかツァデキームというヘブライ語由来の音を聞くだけで、恐れ入ってしまいそうになる。なお、皆さんがよく御存じのツァデク由来で聖書に出てくる言葉は、メルキツェデク(ツェデク 義 の メルキ 王)なのだな。

    ヘッシェルさんからの小山さんへの影響

     余談はさておき、このヘッシェルから受けた小山さんへの影響に関して、本文中、3つ示されている。
     私がヘッシェルから受けた神学的啓発は三点に要約される。第1は、神の経験の記録としての歴史という思想が、真夏日に思いがけずそよ風が吹いてきたように、私にとっての神学の力動的性格を定義してくれたことである。こうした視座からみると、人間の歴史に計り知れぬ重要性も見えてくる。第2に私は神学がほとんど定義上、自ら偶像崇拝に転落する誘惑にさらされていると悟った。「歴史は神の経験の記録である」ということと「神の名を濫りに唱える」ということの間には、危険なほどの微妙な区別があるにすぎない。こうした困難な状況は真の預言者と偽りの預言者との対立にも反映されている。第3に、ヘッシェルによって豊かにされた歴史の重要性の意識ゆえに、人類の諸文化のはらむ意味と価値が重要であることを私は確信してきた。人類の歴史は常に文化史である。文化の衣装をまとわぬ赤裸々らな歴史などあり得ない。歴史が神の経験史であるということは、神学と文化とが相関関係におかれていることを含意している。(前掲書 p.16)

    神学はダイナミック(力動的?)なものではないか?

     力動的性格というのを、訳者の森泉先生は聞いたことがないとおっしゃっておられるが、フロイトの影響を受けているのではないかとご指摘であった(訳注 p.412-413)が、これは、おそらくダイナミズムまたはダイナミックの訳語だと思う。

     これは、神学をどうとらえるか問題で、山崎ランサム和彦先生がご自身のブログすでに記事を公開されている、例の 日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰 問題ともかかわる問題であると思う。なお、山崎先生ご自身が解題された論文(大韓民国の白石大学でご発表になられた論文と聞き及んでいる)をもとに、シリーズ連載をちょっとおねだりしたら、公開してくださった。ありがたい限りである。

     なお、この論文を事前に拝見した際に、論文の末尾部分で提起しておられた(事前に拝見したので、知っている)神学の静的(真理追求の結果収束するという性質)と神学の動的(神学といえども、歴史的経緯の制約やら影響を受けるという性質)の問題と力動的(おそらくダイナミックという部分)とは深くかかわっていると思う。

     ミーちゃんはーちゃんとしては、神学は定常的収束を目指しつつも、時代の背景の影響もかなり大きく、時に動きに揺れというのか方向性の偏向があることがありうる、ということを、キリスト教史を見る限り思うので(といっても、ちゃんと勉強しているわけではない)、基本的に動学的ダイナミックなものとしてみたほうが、妥当性というか、間主観的に合意可能性が高いと思う。

     神学は、それこそ、その神学以前の時代の思想や人物の思惟の影響を受けつつ、絶えず見直しがされているプロセスだと思うので、根本的に動学的なもの、ダイナミックなものだと思う。これは、このブログ記事でも紹介した、深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ その7 のシリーズで紹介している深井先生の本を見る限り、神学と社会との間には深い動学的関係(歴史的展開を含めた関係)がみられると思うのだが。

     個人的には神学は静学的(静止している対象を分析するアプローチ)ではなく、動学的(移動し、変化し、変容している対象を分析するアプローチ、はるかにこの方が扱いが困難)なものとして理解したほうがよいと思っている。

     本論にもどそう。

    日本の宗教史と信仰形態と
    キリスト教神学との比較の本

     この本自体「私にとっての神学の力動的性格を定義してくれた」ことから、社会的変化の神理解、神学的考察をすることの重要性を、近現代の日本の神理解、信仰理解を再定義しなおし、「神学がほとんど定義上、自ら偶像崇拝に転落する誘惑にさらされている」ことを、1941年から突入しそれ以前からの宗教団体法や政府管理のもとに信仰を置こうとする動きへの対応への失敗を経験した日本の経験をもとに、我が国のキリスト教を例にとりながら、「人類の歴史は常に文化史である。文化の衣装をまとわぬ赤裸々らな歴史などあり得ない。歴史が神の経験史であるということは、神学と文化とが相関関係におかれている」ことを明らかにしようとしておられる。その意味で、非常にチャレンジングなことを、日本の文化的、宗教的、民衆信仰的な環境を知らない英語をしゃべる人たちに伝えようとした(ミーちゃんはーちゃんにしてみれば、考えたくもない作業である。日本の宗教史や信仰形態を、日本人が日本人にすらまともに説明もできないのに、日本を知らない人たち対象にどうやってやれというのだ、と素朴に思う。最近、ミーちゃんはーちゃんも似たような経験をしたので)本でもある。いやぁ、実に意欲的。この本、基本的に、我が国キリスト教の近現代史を取り上げながら、この著者のヘッシェルから受けたインスピレーションを詳述し、論こうした本なのだ。読みやすいとは言わないが、大事な本だと思っている。

     なお、アメリカでは、神学と文化が相互関係におかれていることは、ラインホルトニーバーの弟の、リチャード・ニーバーの書籍を読んでおく方がよかろう、と思う。

     この本の紹介、延々と続きそうな予感が。








    評価:
    価格: ¥4,104
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:絶賛。日本で伝道したり、神学したりしたい人には、必読文献ではないか、と思われ。仏教、儒教、日本の古層神道、国家神道を含めて整理されている。

    評価:
    H.リチャード・ニーバー
    日本キリスト教団出版局
    ¥ 5,508
    (2006-02)
    コメント:この種のことを考えたい向きには、この本ばかりでなくリチャード・ニーバーの本くらいは読んでおいたほうがいいだろう。

    評価:
    ヘルムート・リチャード ニーバー
    聖学院大学出版会
    ¥ 3,240
    (2008-03)
    コメント:絶賛の本の一つである。日本のキリスト教がアメリカから大きく影響を受けている以上、本記事のようなことを考える際には、知らずに済ませるのはまずい本の一つ。

    2015.01.28 Wednesday

    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

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      前回

      『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

      小山さんが影響を受けたヘッシェルとこの本の基本的視座のご紹介に引き続き、小山さんの「富士山とシナイ山」を紹介しながら、自分自身を含め、日本におけるキリスト者としての反省を進める意味で、このことを考えることをじっくりと取り組んでいきたい。

      広がる問題意識の輪

      こういう企画ものを

        トンちゃん様のブログ

      の記事から触発されて「富士山とシナイ山」を読んで思ったことに関するシリーズ化を決定していたら、敬愛してやまない

        山崎ランサム和彦さまもブログで、
         「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」の考察を公開中

        伊那谷牧師様もブログで、
         「日本基督教団の歴史資料」の公開中でいらっしゃる。

       素朴な感想として、おねだりしてみるものであるのだなぁ、と思っている。また、この場をお借りして、お二人の碩学の方には、こころからの御礼申し上げたい。  

       それぞれの皆様が独自の視点での連載と考察のご講解やら、史料のご提供を始めていただいて、実にうれしい限り、ウハウハ状態になっている。いやぁ、こういうのが、それぞれ読め、そして考え、反省できるようになったのは、実に味わひ深い。あくまで、考えるための素材であり、批判のためではないのはお三方とも共通していると思う。

      さて、本題に。

      シナイ山と富士山の比較

       出エジプト記19章17-22節の引用があった後、小山先生は富士山とシナイ山を比較しながら、次のようにお書きである。

       日本人としての私の心は長年の間、この山(引用者註 シナイ山)について当惑を覚えて来た。「…全山が激震し…神は炎の中を頂に降り…神は雷鳴をもって応えた…」この山は一体何だというのだろう。これはまた何という神であろう。騒々しいニューヨークの地下鉄の車内で会話をするさえ困難なのに。雷鳴轟く雰囲気の中で神の声を聞き分けなければならなかったモーセの方に同情した。(中略)私としては、むしろ静寂で平穏な雰囲気の中でモーセが語り、神が応えるというような展開の方が好ましい。シナイ山は「神学的な」山である。それが特別な山になるのはそれ自体の特性(引用者註 遠目に見える、見た目に均整が取れている)の故ではなく、そこに神が顕現したが故である。この山において、およびその山の周辺で起きたことは、神の性格を象徴的に表現している。全山が「降臨する」神の象徴なのである。(中略)富士山はこの山への畏敬が米作以前の縄文時代にさかのぼりうる古代の山岳新礼拝の伝統に根ざすという学説があるほどの「霊」山である。(中略)谷間は地獄と呼ばれ、陽光まぶしい山頂には「楽園」と仰がれた。本書において私が富士山に言及するときは、日本における古来の山岳宗教の伝統を指している。
         (『富士山とシナイ山』 p.23)

      山上は楽園(ドリームランド)

       山上が楽園といえば、富士山のふもとには、富士急ハイランドがあるし、神戸市須磨区の鉢伏山には、山陽電車が運営する遊園地と言えない遊園地があるし、生駒山山上遊園地(B29対策のための防空監視部隊が駐屯)や姫路には手柄山遊園、比叡山山頂遊園等があった。



      須磨浦山上遊園


      生駒山上遊園地


      姫路市にある手柄山遊園(ここはふもと)


      比叡山遊園地(現在廃園)にある展望台(展望台は稼働中)

       「まさに山頂はドリームランドである」とふざけている場合ではない。とは言いつつ、資本主義が進み、近代化が進んだ現在においても、非効率性があるにもかかわらず設置されているのはおもしろい。なお、ケーブルカーなどの運営会社にとってみて、こういう遊園地を山上に設置するのは、利用客を山上に誘致しやすくするためであり、遊園地を山上に設置する意味はあるのである。

       なお、ミーちゃんはーちゃんは、バカなのと、空中写真がある時代でもライブで一望できる利点があるので、山の上とか、高いところに行って、全体像を見るのは好きである。

      モーセに同情?

       しかし、小山先生はおしゃれな方である。

      騒々しいニューヨークの地下鉄の車内で会話をするさえ困難なのに。雷鳴轟く雰囲気の中で神の声を聞き分けなければならなかったモーセの方に同情した。

      って、モーセに同情しておられるし。

      騒々しさの中でも語られる全能者

       実は、大事なのは、この富士山という日本の神学のカギとなる山とシナイ山という聖書の神学のカギとなる山の比較というか、違いなのである。

      私としては、むしろ静寂で平穏な雰囲気の中でモーセが語り、神が応えるというような展開の方が好ましい。


       日本の神社は、その静謐をもって神社の雰囲気と神と人との対話を醸し出す。しかし、旧約聖書の神は、ニューヨークの地下鉄の騒音顔負けの中で人に語られる(というよりは人を招かれる)神であることが違う。だからと言って、教会堂でやかましくしましょう、してよい、というのではない。どのような状況の中でも神は語られる、という点がどうも根本的に違うのであるし、次回以降後述するように「神が人間の側に近づく。それも、空を裂いて、ひねまげて地に来られる」という点がそもそも違うのだ。騒音の中でも、人と語り合いたくて仕方がない神、ということがあるのではないかなぁ、と思う。

      降臨される全能者の重要性

       その意味で、

      シナイ山は「神学的な」山である。それが特別な山になるのはそれ自体の特性の故ではなく、そこに神が顕現したが故である。この山において、およびその山の周辺で起きたことは、神の性格を象徴的に表現している。全山が「降臨する」神の象徴なのである。(中略)富士山はこの山への畏敬が米作以前の縄文時代にさかのぼりうる古代の山岳新礼拝の伝統に根ざすという学説があるほどの「霊」山である。


      の中の、シナイ山は神が顕現したが故神学的な山であるということ、とりわけ『「降臨する」神の象徴』ということになっていることは重要だと思うのだなぁ。つまり、われわれが行くのではなくて、『神が降りてくる』ということは、非常に旧約聖書的にも重要なテーマであることを主張しているように思うのだなぁ。

      現代日本における天国意識
       いわゆる天の国理解(あるいは天国理解)や死生観理解、世界の完成の理解(終末理解)において、この『神が(この地に)降りてくる あるいは やってくる』理解ということは最近案外重要ではないかと思っている。

       というのは、ミーちゃんはーちゃんの周りでも、「天国は行くところ」「天国は登っていくところ」ということの強調が強すぎて、案外、地上に降りてきた神(シナイ山が典型、神殿が典型、ナザレのイエスの降誕が典型)としての理解が、なさすぎるのではないか、と思うのだなぁ。

       この件に関して、小山先生は修験道の山(富士山)とシナイ山の比較をしながら次のように述べておられる。

       シナイ山に関する決定的な言葉は「主は…炎の中を…降った」という部分である。対照的に富士山の伝承においては、人間が彼ら自身の霊的修行のために山に「登った」というのが基本的方向性である。(中略)山は霊的および身体的修行を積むための宗教的な空間を表象している。日本民族における山岳修験道の世界は、その情動的および哲学的内容において、主なる神が炎の中をシナイ山の頂に降臨するというイメージからはほど遠い。
       「主が炎の中を降った」という象徴は、神が人間の霊や手によって飼いならされることはあり得ないということを、人間に告げている。火はあえて近付くものを焼き尽くすであろうから。シナイ山のこうした宗教的及び文化的世界において語られるのは危機と断絶の言語である。(前掲書 pp.23-24)
       こう考えると、実は、「神が降った。」ということが重要であり、そこは目指すものではなく、それが人間に近付くしか、神と人間の間を埋めないのではないのか、ということが小山先生のご主張のようである。

       しかし、われらは山に登る民族であり、そして、神に近づきうると考え、最終的に天国に昇ると漠然と考えているのだ。そして、天国から人間の生活を見下ろしていると考えている民族のようだ。なお、これは日本人だけの発想ではなさそうだ。実は、アメリカ人の天国意識も存外よく似ているらしいのだ。

       この概念を極めていくと、シュワちゃんの元奥さんのMaria Shriverさんが書いた、こんな本になるのではないかなぁ。



      What's Heaven? シュワちゃんの元夫人
      マリア・シュライバー氏著


      NTライトの本での天の国

       『富士山とシナイ山』のこの部分を読みながら、NTライト読書会でSurpised by Hopeを去年読んでいたときに、同署の中で取り上げられていたこのマリア・シュライバー的聖書理解の妥当性、という話を思い出した。

       一応、その部分は、ミーちゃんはーちゃんが要約を担当したので、ここにその部分の要約を再掲しておきたい。

      Exploring the Options から
       死に関して、二つの極点の周りをぐるぐる回るような軌跡が見られる。

      ■第1極

       ある人々は、死は、獲物を狙うかのようなものであるとみているものの、通常、それと同時に、将来的に死は打ち勝つことができるものであるとも考えていることが多い。18世紀末ごろまでは、墓碑銘にはラテン語で、resurgam (私は起き上がる)と書かれたものが多く、これは、死後は寝ているだけ、という認識があったことを示している。この眠りの概念に関しては、10章で詳細に検討する。

      ■第2極

        もう一つの方は、聖フランチェスカの讃美歌(多分、ものみなこぞりて)に示された信仰で、我々の最後の瞬間を鎮めるようなものである。多くの讃美歌や祈りや説教は、この地上での死を和らげるようなもので、このため、死を友としてとらえ、その友がよい良い場所に連れていくものと、とらえるのである。この傾向は、19世紀によく見られるテーマであり、自ら安楽死を迎えるような近代的な世俗の考え方の中に見られるものである。


      Mr.Bean版での ものみなこぞりて


       伝統的にキリスト教は、信仰をもち、主に祝福された人々は上方にある天国に生き、悪辣な生き方をしたものは地獄に行くと教えてきた。これは現代でも多くの人に共有されている。

       この例で代表的なのが、ケネディの姪で、シュワルツネガー・カリフォルニア元州知事の元妻のマリア・シュライバーのベストセラー本で、「天国って何?」というタイトルの絵本である。
      http://www.amazon.com/Whats-Heaven-Maria-Shriver/dp/0312382413/

      (↑ ちら見ができます)

        シュライバー本によると、天国は、ふわふわの雲の上にのって話したりすることができる場所で、夜には、宇宙で一番キラキラに光るお星の隣に座ったり、生きている間、いい子ちゃんにしていれば神様が連れて行ってくれるところで、死んだときには、神様が天国から天使を遣わせて、引き上げてくれるとこで、自分に 自信をもつことを教えてくれたおばあちゃんは星や神様や、天使たちと一緒にいて、私たちを高いところから見ていてくれるの。
       そして、おばあちゃんが地上にいなくても、おばあちゃんの霊は、私の中にいるの。

      こういう概念が、西側世界の人々の多くの人々が大なり小なりもっているものであり、それを次第に信じるようになるとともに、真実として受け入れはじめ、そして、子供たちに教えてきた。この内容は、このジャンルの理解において典型的なものであるが、いくつかのレベルにおいて聖書の主張とは大きく異なるものである。

       聖書は、死後天国に行くことや地獄に行くことをほとんど語っていない。西側で育ったクリスチャンの多くは、新約聖書で、天が言及される時には、天を死後クリスチャンが行くところとして言及されているものだ、と思い込んでいる。


       マタイの福音書で、イエスは天の国について語っているが、これは実は神の国について語っているものの、一般には、天国に行くことをイエスが実は語っているものと多くの人々は思いこんでいる。


       新約聖書における天という語は、死後に行くところや地上を抜けていく場所のような概念を語っているのではなく、天での神の支配があるのと同様に、この地上における神の支配を語っている。この誤解の根は非常に深く、単にプラトン主義の残滓というよりはキリスト教の概念全体に感染しており、多くの人々は現代の世界や現代の身体は、非常にくだらないもので、恥ずべきものだと思い込んでいる。


       黙示録そのものが誤解されており、黙示録4-5章の出来事は、現在起きていることでもあるのである。天国は、将来の終着点ではなく、現在も別次元で起きていることなのである。黙示録21-22章についても、贖われた霊が天国に道をなしていくのではなくて、新しいエルサレムが地に降りてきて天と地を一体化とするのである。

       多くのクリスチャンたちが、偉大な聖書理解があるにもかかわらず、歪んだカスカスの聖書理解で満足してしまっているのではないか。そして、これが、よく見る絵や讃美歌、祈りや神学や歴史の中で強化されているものと思われる。

       今日の教会の中では、複数のものがこんがらがっているのだろう。現在多くの人々は、地獄というものを信じていない。これは前世紀(20世紀)以来この傾向が強化されており、それと同時に皮肉ではあるが天の約束が先細りになっているのである。天への死後の旅は非常に頻繁に見られるものであるが、聖書にも初代教会時代の思想にもほとんど見られないものである。この天への死後の旅は、古い煉獄理論の近代化・衛生的加工(おどろおどろしい部分が取り除かれた)されたバージョンである。

       多くの人々は、神が際限なく神の愛によって言い寄よるように、悔い改めていないものに信じる機会を与えているという、万人救済論をもっている。

       この結果、ある人たちは、天は我慢ならないほどの退屈さであると主張したり、そこで、神は、人々にほめたたえられることだけを望んでおられる、と解釈したり、地上でのろくでもない、貪欲な生活が投影されて、神から怒られる、というようなイメージが語られることもある。


       まぁ、NTライトさんによると現在のいわゆる「天国理解」というか、神の国(天の国)理解がかなりひずんだものとなっているらしい。Facebookのアカウントをお持ちの方で、この種のことに興味がある方は、こちら https://www.facebook.com/groups/288504731222965/ をご覧ください。来週から、Simply Christian(邦訳が間もなく出る模様)の読書会が始まります。 

       次回、東アジア型宗教における連続性と聖書の非連続性の議論へと続く。


      2015.01.31 Saturday

      『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

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         これまでの記事で、

        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

        小山先生の立ち位置とそれに影響を与えたヘッシェル、富士山への信仰とシナイ山への臨在を介して示される神への信仰の違い、そして、天国観・あるいは死生観というのか、天国理解の問題を触れた。今回は、もう少し日本の文化に関する記述を見ながら、考えてみたい。

        佛教とキリスト教

         まず、佛教とキリスト教との違いについて、小山先生は

         神はわれらの歴史に深く関与している。神は我々の世界を見捨てはしない。神は我々の世界に何度も何度も立ち帰ってくる。これは仏教でいう般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)、即ち人間性の限界を超えた究極の智恵である。聖書に照らせば、この神の知恵は人間の創造や機体のかなたにまで達することを意味 する。とはいえ、神の知恵を「この世を超脱した」あるいは「この世のしがらみを超えた」彼岸の知恵と介してはならない。世界を救済するためにこの世に深く関与している知恵である。大乗仏教の般若波羅蜜の教えは、この世を超越して「彼岸の」世界に赴くべしと説く。しかし聖書の神は二度も罪深い人々のもとに来る神である。神は胸騒ぎを知る神である。(前掲書 p.26)
        と小山先生は、佛教(大乗仏教)と キリスト教との共通性、人間的な限界を超えたメタ概念としての超越性に関する智恵(般若波羅蜜と表象しておられる、と思う)を求める点は、確かに仏教とキリスト教は共通であるが、佛教側が「あちらに行く側」「行っちゃう」ということとかかわっていることと比べ、聖書の神が「こっちに来る」「来ちゃう」ということが 大きく違う、とおっしゃっておられるようなのだ。

         日本では、信仰心を持つと、現実の世界から離れるという意味で、信仰者を「あっち側へ行っちゃった人」ととらえ がちであるが、キリスト教の信仰者は、その地にどどまる人でもあると理解した方がいいのかもしれない。聖書の神は「あっち側からこの地上に来ちゃった神」 なのであり、辺境にいる偏狭な我らのところに来られるところにその特徴があることをきちんとここで述べておられる。

        東南アジア的な視座と聖書の視座

         日本文化の視座は、腐敗と死が広く見られる現象であるにもかかわらず、自然の連続性に対する信頼によって性格づけられている。自然によって魅惑されている民族はいわば連続性志向の民族である。神と人類が連続している。生きとし生けるものはすべて同じ生命原理(サンスクリット語で「ジーヴァ」)を共有している。連続性は非連続性と比較すると神秘的かつ創造的に経験される。こうした観察は日本についてばかりではなく、基本的にアジア文化全体についてなされている。シナイ山の伝統は言う、神と人類は連続していないと。救済は単に世代交代を通して我々の生命が永続化されるようなことではない。他方、アジア的霊性は連続性を背景にして非連続性を肯定的に認識する。ここには、連続性が非連続性に意味を付与しているという微妙な強調がある。聖書的霊性からすれば逆である。連続性に意味を付与しているのは非連続性なのだ。(富士山とシナイ山 p.27-28)

         この部分をもう少しミーちゃんはーちゃん風に解説してみたい。オリジナルの『富士山とシナイ山』の本文を見ていただいたら、わかるのだが、本来、腐敗と死によって、断絶があるはずなのに、日本および東南アジアという方が正確なアジア(あるいはアジアから西アジアを除いたアジア)では、神と人とが連続的に生きている社会だ、という指摘、あるいはそういう視座から、比較宗教的な視点で考えてみるのは、面白いかもしれない。日本は死ですら、川に流されることで清浄化されるという概念があるような気がしてならない。流しびな(そういえばもうすぐ「ひな祭り」)の伝統なんかもそれに関係しているような気がする。


        鳥取県智頭観光協会による「流しびな」の写真
        智頭町には、姫路から列車(智頭急行)でどうぞ。

        アジア的な霊性の理解

         たとえば、水木しげる著の『のんのんばぁとオレ』等では、人間と自然は非常に連続性に満ちている世界が生き生きと示されているし、お墓参りなどの祖霊信仰、儒教的な祖霊崇拝などは、いわば連続性志向であるし、人間が悟りを開いて仏になるという仏教的な世界観(多分間違ってないと思う)から考えれば、一種の連続性をもったものといえるだろう。インドネシアでの精霊理解等も、この種の連続性で理解されると思う。

         あるいは、輪廻転生というようなインド的な世界観はまさしく断絶ではなく、永遠の連続性を指向しているともいえる。その意味で、繰り返されるエンドレスなものがたりでよく、それを繰り返すことに何の異議も、疑義も唱えられず、「まぁまぁ、水に流そうや、そんなことを行ってもしょうがないじゃないか。まぁまぁまぁ。」となるので、トンチャン様の言うように、「健忘症以前!」と批判されてもしょうがないほど、忘れ去る、あるいは意図的に忘れ去ることができるのだと思う。

        どの神様も同じじゃないと拒否する聖書

         さらに言えば、日本人の方からよく言われる「結局、どの神様でも同じなんじゃないですか。信仰することはよいことなのだから。」というご意見は、まさに、アジア的霊性が持っている連続性の中に断絶(非連続性)を取り込む動きであると言える。連続性が非連続を巻き込もうとする動きであると言えるかもしれない。
         これを非寛容であるとし、日本的、あるいはアジア的信仰を寛容とする誤解が多くの場合見られる。それは、寛容の定義がまずいのだと思う。結局この種の背景にあるのは、日本的アジア的信仰は連続的なとらえ方で、非連続(生と死)をとらえるのに対し、聖書を基礎とする信仰は、非連続(生と死)を前提にして、非連続というか、時空間的な枠外の存在をとらえているところが違うのだと思う。

         そのことを、本書の後半で小山先生は具体歴な例を挙げつつ、論述していき説明しておられた。次回は、日本的、アジア的な神が連続的にとらえようとするものの、実は、寛容ではなく、偏狭な神であることを小山先生が論述しておられるところを御紹介する。

        旧約聖書と新約聖書における不連続性

         しかし、旧約聖書の世界は、エデンの園の門に燃える炎を置き人と神が断絶し、モーセに対して、燃える芝のところで「ここは聖なる地である。靴を脱げ」と命じ、断絶を示し、新約聖書でも、がちょうどラザロの金持ちの話に象徴されるように、断絶あるいは非連続を前提にしているような気がするのである。旧約聖書の冒頭からして、非連続であるような気がする。「そもそも」あるいは「天地の始まりに」という断絶から始まっている。断絶(始まりがあること)が前提になっている。連続は、この世の始まりの段階で否定されているように思われるのだ。そこを、案外、ミーちゃんはーちゃんは、これまでうまく語ってこなかったと思う。

         聖書の言う「永遠」と「連続」はどうも違うようなのだ。その意味で、その理解がずれてしまうと、完結あるいは完結(テレイオス 終末とこれまで約されてきた)がきちんと理解できず、その結果としての神の国理解、神とともに生きるや、神の義と神の愛の関係に狂いが生じ、そして、聖書理解とその結果としての信仰生活でおかしげなことが起きるのではないか、と思うのだ。


        Thomas Coleによる失楽園の挿絵

         次回へと続く





        2015.02.02 Monday

        『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

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           これまでの連載


          『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

          『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

          『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)


          では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神(仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。

          国家と国民に関する
          ミーちゃんはーちゃん的理解

           今日から数次にわたり、いよいよ戦争中に起きた問題について触れる。これに関しては、山崎ランサム様が公開しておられるし、伊那谷牧師様もきちんと資料をご提示してくださっている。国策(国家の政策)としての方針があるからと言って、それに国民が粉骨砕身すべきというような理念系は持ち合わせていないので、当時ならば、ミーちゃんはーちゃんは非国民と呼ばれたであろう。国家より大事なのは、個であり、個人であり、個人からなる国民であると思っている。国家を守るために国民があるのではなくて、国民を守るために国家があるのだとおもっているし、それをしない国家は見捨てられる。それが投票による革命であろうと、国外脱出という足による投票であろうと。

           世界史を見てみればわかるが、国民国家なんてのは、この300年くらいのたわごとである。一応、現在社会通念上、与件となっているので、一応の評価はしている。ただ、国家が国民を守る装置というのは、世界史で普遍的にみられる概念だと思う。

          異教的エキュメニズムとしての
          日本の国粋主義イデオロギー

           1931年日本が満州に軍隊を派遣して開戦し〔満州事変〕1945年の敗戦まで続けた15年間、日本の指導者たちはアジアとアジア以外の自国国民及び他の諸民族に対して悪魔的な激越さに達する暴力をふるい続けた。政府の政策に批判的だった日本国民は地位から追放されたり、暗殺すらされた。右翼的指導者たちが絶対権力を掌握し、天皇崇拝の慣例が全国民に強制された。「世界の果てまで及ぶ天皇の御稜威(みいつ)」、つまり異教エキュメニズムの一種が国粋主義イデオロギーの本質であった。その結果、〔国民の〕精神的および身体的諸力のすべてが天皇制の力によって呑み込まれ、後者は傍若無人に勢力を拡大していった。それはまさしく異教的「栄光の神学」であった。(『富士山とシナイ山』 p.34)

           これミーちゃんはーちゃんが書いたわけではないですから。小山先生が書いていらっしゃるのですが、個人的には、痛いほど、あたっていると思います。まさに、小山先生がご指摘のように、キリスト教界が異教的エキュメニズムに飲み込まれたからこそ、「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」等という重篤な厨2病患者的言辞に満ち溢れた文書を日本のキリスト教会が、ホイホイとアジア諸国に送るという黒歴史が生まれたのだと思います。

           戦争期にこれらのことの具体的事例を敬愛してやまない、伊那谷牧師先生がここの所ご紹介いただいております。なんとありがたいことか。


          第1回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(1)「大東亜戦争と我等の覚悟」
             土山鉄二
          第2回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(2)「皇道と基督教」
             亀谷凌雲(「仏教からキリストへ」の著者として有名)

          第3回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(3)「海外伝道」
             喜田川 廣

          第4回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(4)「新体制下における日本聖化基督教団の成立とその使命」
             土山鉄次

          第5回 70年前の戦時下における福音派教会の文書(5)「兵隊さんへ ヨイコドモの慰問文」
            これはきつかった。


            
          日本のキリスト者がした宣言
           こういう文書を読んで、反省するのも面白いのですが、それはまた別の機会に。小山先生の文章に戻りましょう。青山学院に2万人のキリスト教徒がいる前で、次のような宣言がされたらしい。(原文はカタカナ交じり文の句読点なしらしいので、翻訳者の森泉さまが直してくださったものを採録したい。

          神武天皇国を肇めたまひしより茲に2600年皇統連綿として弥弥光輝を宇内(=世界)に放つ。この栄えある歴史を懐うて、吾等転た感激に耐えさる者あり。本日全国にある基督教徒相会し、虔んて天皇陛下の万歳を寿き奉る。惟うに現下の世界情勢は極めて波乱多く、一刻の偸安(=かりそめの安心)を許ささるものあり。
          西に欧州の戦禍あり。東に支那事変ありて、今たその終結を見す。この渦中にありて我が国は能くその針路を謬ることなく国運国力の進展を見つつあり。是れ寔に天佑の然らしむる所にして、一君万民尊厳無比なるわが国体に基くものとして信して疑わす。今や此の世界の変局に処し、国家は体制を新たにし、大東亜秩序の建設にまい進しつつあり。吾等基督教徒も亦之に応し、教会教派の別を棄て、合同一致以て国民精神指導の大業に参加し、進んて大政を翼賛し奉り尽忠報国の誠を致さんとす。
          依て茲に我等は此記念すへき日に方り左の宣言をなす。
          1.吾等は基督の福音を伝へ、救霊の使命を完ふせんことを期す。
          1.吾等は善キリスト教会合同の完成を期す。
          1.吾等は精神の作興、道義の工場、生活の刷新を期す。

          右宣言す。
          昭和15年10月17日
          皇紀2600年奉祝全国キリスト教信徒大会
          (昭和15年10月24日「キリスト教世界」第2951号)(前掲書 p.37-38)


          でも、これでもわからりにくいでしょうから、ローラ語風に翻訳してみたいと思います。
          神武天皇ってひとがねぇ、なんか日本って国を始めたってことになっている年から、大体今年でさ、2600年になるらしいんだけど、天皇さん家はさ、ずーっと続いているらしくって、それってすごいじゃない。世界でもめったにないことなんで、すごいんだから。こういうすごいことを思っていてると、ネぇ、みんな、感激しない?あのねぇ、今日日本全国のキリスト教の関係者の人があつまってね、天皇陛下さん家がさぁ、長く続くといいなぁ、とお祝いしたいのよ。いろいろ考えてみるとねぇ、よくわかんないけどぉ、今の状態ってのは、いろいろごたごたしてるじゃない。ちょっとの間だってさぁ、安心もできないくらいに。
          西の方見たら、ヨーロッパで戦争してるでしょ。東のほうではさぁ、品事変があって、未だに固唾居ちゃったりしてないじゃない。でも、こんな時でもさぁ、日本の国はうまくやってるんで、國がうまくやれてるじゃない。これは、きっと点が助けてくれているんだけど、その背景には、天皇を中心とした国があって、それがものすごーく立派からで、日本の国のあり方が立派なものだからなんだと思うんだよね。今ね、世の中が変わっているでしょう、だからぁ、國はやり方を変えて、アジアのみんなのための望ましい在り方を作り出そうとしてんじゃん。だから、キリスト教のみんなも、これに合わせて、教会とか、教派とかなんかに関係なく、みんな一緒になって、日本人全体のさぁ、精神的なことをよくすることを一緒にやって、自分自身から天皇を中心とした政治に協力してさぁ、天皇さんたちのために、国のために何かやるために一生懸命してみよっかなぁ、と思うんだよねぇ。

           だから、今この特別のいい日にね、こんな宣言してみよっかなぁ、って思ちゃってね。

          湊川神社で参拝された神戸高商(現神戸大学)の皆さん
          神戸大学様のサイトから


          国家への忠誠とは何か

           この部分に続いて、小山先生は次のように書いておられる。

           カトリックとプロテスタントを含む日本のキリスト教界は、「カエサルの物はカエサルに、神のものは神に返せ」(マルコ12章17節)というイエスの言葉が突如のっぴきならぬ重大性を帯びるに至る危機的な状況に置かれた。イエス・キリストの名と天皇の名が対立した。日本のキリスト教徒たちは自ら発した宣言に一抹の不安を感じた。国家が国民に天皇への絶対的忠誠を要求するということは、カエサルの名において本来神に属する事柄に対する支配権を簒奪する行為を意味するのではないかと。全ての事柄が国家に属する全体主義の下では、イエス・キリストの御名は日本帝国の栄光をたたえる国家主義的イデオロギーに従属させられる。(前掲書 p.37)

           この部分を読みながら、国家への忠誠ということを考えた。本来、国家に対する忠誠は無条件的忠誠なのだろうか、と。あるいは、キリストあるいはメシアに対する忠誠と何が違うのだろうか、と。そもそも、絶対的忠誠ということがありうるのだろうか、ということを。

           何、国家を転覆してみたい、とか、反逆してみたいというのではない。

           国家が国民を守るための装置であるとするならば、それが国民を守らないことを知りながら、それに無条件に忠誠を果たすことは意味があるのだろうか、ということを考えたいだけである。仕事先に対しても同じことである。

          ブラック企業ならぬブラック国家
           以前、働くことについていくつか書いているが、個人が労働時間と才能を提供してその対価としての賃金(給与という)を得るという対等の関係であるはずのものに、過剰な思い入れをすることを求め、本来以上の関係性を強いて、特定の企業に忠誠を果たすことを求めた企業を、人はブラック企業と呼ぶのだろう。

           その伝でいえば、国家が個人に絶対的忠誠を求めることができるのか問題で言えば、それを求めた瞬間にその国家はブラック国家となるのではないだろうか。

          国家を維持するということ

           諸賢の内には、アメリカで市民権を獲得するときの誓いOath 

          "I hereby declare, on oath, that I absolutely and entirely renounce and abjure all allegiance and fidelity to any foreign prince, potentate, state, or sovereignty, of whom or which I have heretofore been a subject or citizen; that I will support and defend the Constitution and laws of the United States of America against all enemies, foreign and domestic; that I will bear true faith and allegiance to the same; that I will bear arms on behalf of the United States when required by the law; that I will perform noncombatant service in the Armed Forces of the United States when required by the law; that I will perform work of national importance under civilian direction when required by the law; and that I take this obligation freely, without any mental reservation or purpose of evasion; so help me God."


          の中に I will support and defend the Constitution and laws of the United States of America against all enemies, foreign and domestic; とあるではないか、という向きはあろうが、このall enemiesのうちにDomesticが含まれること、また、アメリカ憲法修正第2条には、武装する権利、また、民兵を形成する権利が記載されているが、これは、国民に対して牙をむく国家に対する抑止力という側面もある。大体、アメリカ独立戦争は、国民に対して牙をむく英国という国家からの独立を目指して、国家システムを護持しようとした革命でもあるといってよいのではないだろうか。

          国家システムを何が何でも
          守らないといけない国民は幸せか
           他国のことはよく知らないので、何とも言い難いが、何が何でも国家を守らないといけないとするというのは、本当に国民にとって幸せな国家であろうか、というと、そうでもないように思われる。それが、トウの国家の皆さんにとってお幸せだというなら、そうなのだろう。ミーちゃんはーちゃんはそうは思わないが。

           と書いてきてふと思った。そもそも、全能者である神に絶対的忠誠すら果たせない我らが、他のものに絶対的な忠誠を果たせるという想定そのものが問題だとは思うが。

           余談に行き過ぎた。本論に戻す。

          何に価値を置くか問題
          何を愛するか問題

           問題は国家への忠誠というよりは、何に我々が価値を置くか、というところが問題なのだと思う。キリストが先なのか、日本という国家の栄光が優先なのかが問われたのだと思う。聖書は神を超えて、国家を優先することがよいのか?と言っているような気がする。特に旧約聖書は。次の箇所を思いめぐらしている。皆さんよくご存じの申命記6章である。

           6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
           6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。(口語訳聖書申命記から)
          尽すのは、国家ではなく、私の神、主のような気がするが。「主」を「アメリカ合衆国」に変えたり、「日本国」に変えたら、モーセ爺さん大激怒してきそうな気がする。小山先生は、そのことをシナイ山と富士山いう言葉で表彰しておられるような気がする。

          神社参拝は国家的慣習?


           神社参拝令について小山先生は次のように書いておられる。

           神社参拝令の布告は、とりわけ日本の植民地だった朝鮮においてあの対立〔イエス・キリストの名と天皇の名の〕を先鋭化した。日本政府によって提案されたプロテスタント側の指導者層の一部によって受け入れられた解釈は、どちらかといえば単純だった。そもそも神道は宗教の範疇には入らない。国家的慣習であると。即ち天皇の御真影に敬意を払うことを宗教的行為とみなす必要はない。日本国民の国家的慣習の一部であるというのである。こうした解決法は天皇の御真影に頭を垂れながら教会においては神に礼拝をささげるという矛盾を理論上除外する。当時の日本キリスト教団統理、富田満は、はるばる朝鮮にまで足を延ばす全国旅行をして、政府は教会を迫害してはいない、日本人の通常の生活様式の一部であるもの、即ち神社で皇室に対して臣従の例をささげることをキリスト教徒に要請しているにすぎないと説得した。こうした主張は朝鮮では最も無力であった。かの地のキリスト教とは天皇崇拝とイエス・キリストを主として崇めることは両立不可能であると力説してやまなかったからである。この確信ゆえに朝鮮では殉教者の血が流れた。(pp.37-38)

           この部分の記述を見ながら、また、この連載の発端となった「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」を見ながら思うことであるが、この人たちは、意図的かどうかは別として、呪文のように「国家神道は習慣である」「国家神道は日本の文化である」「国家神道は宗教的行為ではない」と人々に言い聞かせながら、自分にも言い聞かせることで、自分たちもだまそうとしていたのではないか、と思うのだ。

           ここに朝鮮に富田さんという方が出かけて行った時の話が出ているが、朝鮮半島で「国家神道は習慣である」「国家神道は日本の文化である」と言ったら総スカンを食ったという話が出てくる。

          韓国独立運動とキリスト教

           現在の韓国のキリスト教の隆盛の背景には、もちろん他の要因も多数あることは事実であるが、実は反日独立運動とキリスト教が、国家神道の神社参拝令への反対ということとダイレクトに結びついたからではないか、と思うのだ。朝鮮半島のキリスト者たちが気骨を以て、神社崇拝、宮城遥拝に断固たる態度を示したからこそ、それが反日独立運動ともつながっていったのであろうし、戦後その姿が評価されたようにも思えてならない。ただ、学生時分の大韓民国出身の友人によれば、韓国のキリスト教にも、儒教なのではないかと思われる節が多々あるようにもあるらしい。それは日本のキリスト教でも先祖崇拝のところが出てないだけで、年功序列型の長老(年長者)支配と年長者の思い付きで教会や教団が振り回される姿などは、基本的に同じではないかと思えてならない。

           次回開戦時期をめぐる記述から神と人の関係を考えるへそして、偏狭な神をどう考えるか、ということへと続く。

           
           

          2015.02.04 Wednesday

          『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(5)

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            『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

            『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

            『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

            『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

            では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」 の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神 (仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。そして、戦争がはじまったころ、日本のキリスト者が国家に対してした宣言とそこで抱えた不安、その背景にある神道理解について触れてきた。
             戦争のころ、現人神(あらひとがみ)と呼ばれた方が開戦に関してどのようであったのかということを示した部分から考えてみたい。

            黙って聞く神、その意図を推測し、
            自分に引き寄せ理解する民
             ところで、東條英樹の開戦直前の御前会議を締めくくることばとして、臣民は責任を自覚しており、陛下の開戦のご英慮に従い、戦争での勝利に邁進し、陛下の御心を平安にし奉るべく粉骨砕身する旨の所見を以て締めくくったことが記されている。

             そして、次のような小山先生による表現がある。

              記録によると、その日の会議中「天皇陛下は声明がなされるごとに同意のしるしにうなづかれ、不機嫌そうな表情は見せなかったという。陛下はご機嫌うるわし くあらせられ、我々は畏れ多い気持ちに満たされていた!」出席者は「畏れ戦き」、「恐れ多い気持ちで満たされていた!」神聖な天皇は人の言葉を話さず、黙 してうなずいた!神聖な方であるゆえに、天皇は歴史を超えている。(『富士山とシナイ山』p.39)

             こういう精神があったことを小山先生は伝えておられる。だからこそ、国民に向かって天皇がラジオで終戦の詔勅が流れたとき、あり得ないことが起きたことを国民は悟ったのである。神は人間の言葉をしゃべることはなく、静かに聞き取る存在として想定されていたのだと思われる。丁度、神社の神が、祈る我等の言葉にいちいち反応すると想定していないように。

            国家の責任者の責任回避と御聖断

             その段階での政府担当者たちの態度と責任に関して次のようなことを記載しておられる。かなり激しい言葉ではあるが引用する。

             この危機的瞬間において、国家の指導者たちはまともな人間として持つべき責任感を棄てた。この運命的決断を下すために集まったにもかかわらず、彼らの一人が「人間性を超えた方」であるがゆえにその決断に対して責任を感じたものは一人もいなかったのである。人間の水準を超え、歴史を超え、人間的道徳を超えた存在としての天皇が、決断を下したのだ。指導者たちは必要に応じて自己正当化のためにこの超歴史的人物を引き合いに出すことができた。彼らは「畏れ戦いた」が、同時に同胞国民に対して責任を取る義務から解放されたのである。天皇崇拝を強制されたが自らの福祉のために天皇を用いえぬ国民は苦難にさらされた。(pp.39-40)

             なんだかなぁ、であるが、結局当時の指導者の皆さんは、「おまわりさん、決断したのはこの人です」と天皇のご聖断を持ち出し、自らは責任逃れをし、天皇のご聖断に面倒なことを全部おっかぶせ、そのうえで、適当に自分の思いをビシバシとはめていったということなのではないだろうか。しかし、そういうことのできない人々は割を食ったということなのだろう。とは言いながら、民の中にもうまい汁を吸った人はいたような気がして、そのあたり、指導者と民、みたいな単純な理解はまずいかなぁ、と思う。

            教会における「おこころ」と御聖断

             しかし、私たちも同じことを教会の中でしているかもしれない。天皇を聖書あるいは聖書の神に置き換え、指導者たちを自分(信徒)たちに置き換えれば同じことではないか。聖書の言葉に責任をおっかぶせ、「聖書がこう語っている」と聖書を担ぎ出し、さも信仰深い顔をしながら、自分の利益を誘導するように「神様からのお導きがありました」といい、本来神の前にとるべき責任を放棄し、神を引き合いに出して、自己の責任を回避していないだろうか。正直に言う。ミーちゃんはーちゃんはこれをやったことがある。反省することしかできないが。

             〔見解や視野の狭さを意味する〕parochialism の語源は、人間の現実感が自分の教区の範囲内に限定されていることを意味する地理的な概念であるが、その重大な意味があらわになるのは、その精神的及び知的含意を念頭において理解されるときである。(中略)全ての国家は独善的である。こうした根本的な意味において、すべての国は偏狭な世界観を持っている。(p.43)
             しかし、「parochialismの語が、(中略)精神的及び知的含意を念頭に理解されるところである」というところを見て、これ、今日の日本のキリスト教界を見るように思った。これを現代の日本のキリスト教界に合わせると、キリスト者の現実感が、自分の教会ないし自分の教会を含むキリスト教軍の範囲内に限定されていることを示す概念である。つまり、教会が独善に陥ることの原因が、実は、無知、相対化ができないこと、他者を知らず、他者を尊敬できないところにあるのではないか、と思う。そして、教会は独善的になっているのかもしれない。そうでないところや、そうでない方を存じ上げているが、それがどれほどあるかに関しては、少し疑問。そのいみで、すべてのキリスト教とキリスト者は、偏狭な世界観を持っているのかもしれない。このあたりの反省は非常に重要ではないか、と思う。

            世界の中心でおこころを叫ぶ
            そして他者を断罪する
             最期が、この第2章のタイトル「偏狭な土俗神ー魅力的だが破壊的な神」のイメージと深くかかわる言葉で締めくくられている。

             私は神について二つのイメージを持っている。一つは地方限定の偏狭な神、もう一つは普遍的な公正な神である。どうやら両者には緊張関係があるらしい。この緊張関係はヒロシマ以来私にとって生命をかけた精神的戦いとなり続けた。地方限定の偏狭な神に対する崇拝は、〔日本の場合〕天皇への強制的献身の形式をとった。多神教的日本が一神教的国家となったのである。国民は徐々に自分たちも神聖な民だと感じるようになった。国家神という制度の下では、おのずから日本は世界の中心に位置するようになる。日本のすることはなんであれ「正しき天の御旨」の表現と考えられるようになり、したがってこれを疑う者はだれであれ国賊となった。
             (中略)

            日本の神は日本語しか話せない。国際的経験がないので、当然、視野が狭くなる。指導者たちが日本精神と「正しき天の御旨」とを同一視したとき、この偏狭な自国中心主義が世界誌の地平に姿を現した。ここでは本質的に有限なるものが無限の意義を与えられたのではないだろうか。(p.44)

             一部の方は、地方限定の偏狭な神、とか、「視野が狭い」とか、大激怒を誘発しかねない表現が見られるが、文句があるなら、故小山先生におねがいしたい。ミーちゃんはーちゃんがこれを取り上げているのは、実は、この構造が、現在の日本のキリスト教界に時に見られるように思うからである。というのは、自分自身の御旨(お心)を、神の御心とし、自分は本来全くせいではない罪あるもの、かけあるもの、不完全なものでありながら、「自分たちも神聖な民」であると思い込んでいないだろうか。また、われわれが「本質的に有限なるもの」であることを忘れ、「無限の意義」があると思い込んでいないだろうか。

             そして、自分と自分たちの教会をキリスト教界の中心に位置させてはいないだろうか。挙句の果てに、自分たちや自分の教会がすることはなんであれ、「正しき神の御こころ」の表現と考えこれを疑う者はだれであれ悪魔の手先としていないだろうか。仮に自分の考えを疑うものが牧師や教会のメンバーであっても、牧師やメンバーが不信仰であると責め、悪魔の手先呼ばわり、けがれている呼ばわりしていないだろうか。神の愛の家で。実に残念なことである。

             何、これは、日本だけの特性でないことは、イエスの言葉に明らかである。まぁ、日本ではまだ顕彰碑が立っている人はいないかもしれないが。

            ルカ

             11:47 あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。
             11:48 だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
             11:49 それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
             11:50 それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
             11:51 そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。

            【口語訳による】

             次々回に第3章にはいるよ予定。しかし、当面終わりそうにないですね。なんか、大連載になりそうな予想。この本は、ジョン・H・ヨーダーの神学を読んで以来の知的興奮状態なんですなぁ。まぁ、それもきっついので、次回は軽めの話題を適当に休み入れようか、と思っています。



            2015.02.11 Wednesday

            『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(6)

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               これまでの連載


              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(1)

              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(2)

              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(3)

              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4)

              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(5)


              では、第1回でヘッシェルからの小山さんへの影響とその視点から考え始めた問題、第2回第3回で、「富士山とシナイ山」の本による精神世界の比較の中での神への関係性の違い(聖書では、神と人との断絶、神が降りてくる、人間側に神が近づく、に対し、アジア的な信仰では、神(仏)と人間との連続性、人間側が神に近づく、人間側から神の世界へ移る)をふれてきた。

               そして第4回、第5回では、大日本帝国末期の戦争前後移行から、日本の多神教世界が変質し、日本特有の型の一神教型の信仰となったことを『シナイ山と富士山』からご紹介し、それと同じような自己義認構造が、日本のキリスト教界にあるかもしれない、ということをご指摘した。

               本日は、『シナイ山と富士山』の第3章「荒地と化した東京」からご紹介したい。

              我が国が経験した二つの超大国との戦争

              まずは本文からのご紹介を致したい。 

               日本は長い歴史において二度超大国との戦争に従事した。第1は13世紀の蒙古民族との戦争、そして今は20世紀における合衆国との戦争である。前者がアジア内での戦争、文化的には地域内戦争であったのに対して、後者は、文化、宗教、文明のいずれにおいても極めて異なる国同士の戦争であった。(中略)660年を隔ててこれら二つの国際的戦争が起こった時、日本政府は国民に神社と寺院に「敵国の降伏と神国の勝利」を祈願するように要請した。13世紀には国家あげての祈りが応えられたかのように見えた。実を言うと戦後戦士(ミハ氏註 武士)たちの間では神々や仏たちに対する強烈な嫉妬的感情があった。(中略)私は思うにあらゆる戦争的状況は「戦士集団」と「神々」との間にこの種の緊張感を醸し出したのではないだろうか。総国民的祈願は合衆国相手の戦争では功を奏さなかった。「神風」は吹かなかった。皇祖たちの霊は日本国を保護することができなかった。その結果国は滅ぼされた。建国以来初めて日本民族は自分たちの部族的神々への信頼を深刻なほど揺さぶられたのである。(富士山とシナイ山 pp.57₋58)

              古代の神々と戦争

              この部分を読みながら、ダビデとゴリアテの対峙を思い出した。

              サム上【口語訳】
               17:43 ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。
               17:44 ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。
               17:45 ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう
               17:46 きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。
               17:47 またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。

               古代の戦闘においては、神の名において戦闘がなされることが多い。古代ローマ帝国においてもそのような側面があったと思う。軍事的勝利は、太字で示したように、即ちその集団が拝する神の勝利であり、軍事的敗北は、即ちその集団が拝する神の敗北であった。このあたりのことは、エリヤとバアル神殿の祭司たちとの対峙(列王上18章参照)にも表れている。

               恐らく多くの古代人はこのような世界観で生きていたものと思われる。

              嫉妬する武士、手放せない引退牧師?
               しかし、この部分を読みながら、あれ?と思ったのは、武士たちが抱いたとされる嫉妬的感情のことである。南無八幡大菩薩と言いながら、いざ、それがかなってしまうと、割とあっさりと、自分たちの頑張りはどうしてくれるのだ、という思いにとらわれる姿である。意外とこういうことは多いのではないかなぁと思う。

               我々も、信仰面で類似のことを感じることがあるかもしれない。例えば、ある人が神との関係との回復があるように(福音派的な物言いをすると「救われる」ように)と祈る。しかし、いざそれが起きてしまうと、「あれ、なんだったんだろう。自分の努力はどうしてくれるのだ」というような思いにとらわれることはないだろうか。

               もっというと、開拓時代から苦労されて、非常に大きい教会になった教会の開拓牧師がおられるとする。熱心に働かれたであろうし、苦労もされたであろう。そして、熱心に神にその関与というか支配があることを求められただろうと思う。しかし、いざ、ある時期が来てて、その教会から離れる(引退する)べき時期が来ても、なかなか引退できない、様々な手段を使って、院政のように引退牧師として権勢を誇るということはないだろうか。まぁ、多くの教会ではそういうことはないと思うが。

               こういうような状況は、上記の武士たちの神々への嫉妬と似たようなものではないだろうか。自分自身の評価を気にしていることが背景にあるのではないだろうか。

              自己義認の課題

               自己義認と偶像崇拝の関係について、戦争中の例をとりながら、小山さんはこのように書いておられる。

               神聖な神話の専制的支配の下で、国中が麻痺したようになった。日本人学者中最良の人たちの著書が発禁処分にされた時、理性の行使は罪とされたも同然となり、国民は「日本は正義の国、それに敵対する国は悪魔の手先」という不合理なスローガンを日々の糧のように聞かされ、読まされた。世界は善き民と悪しき民というに陣営に分割された。つまり日本人は善良で、合衆国の国民はあらゆる悪の要だというのである。そんな大雑把で反理性的な見地の妥当性を問い直そうとするいかなる理性的な試みも、かの神話を擁護する政府によって即座に社会の反愛国的危険分子の仕業として処分された。自分が属する国を義の国と決め込むのは偶像崇拝にほかならない。使徒パウロの次の言葉は国家的及び個人的自己義認を鋭く告発している。

               すでに指摘したようにユダヤ人もギリシャ人も、すべての人は罪の力の下にあります。いかに記されているように。「義人はいない、一人もいない。〔神意を〕悟るものはなく、神を探し求めるものもいない。みないずれも道に迷い、無益なものとなった。善をなすものはいない。一人もいない。」
                  (ローマの信徒への手紙 3章9-12節)
                                  (同書 p.59)

               これを見ながら思ったことは、同様なことは教会で起きているのではないか、ということである。こう書き換えれば、ほぼ同じではないだろうか。黒太字部分が書き換えた部分である。

               神聖な聖書理解という名の神話の専制的支配の下で、キリスト教会中が麻痺したようになった。過去のキリスト者中最良の人たちの著書が禁書処分にされた時、理性の行使は罪とされたも同然となり、教会員は「自分たちの教会群は正義の教会、それに敵対する教会群は悪魔の手先」という不合理なスローガンを日々の糧のように説教で聞かされ、読まされた。世界は善き民と悪しき教会というに陣営に分割された。つまり自分たちの教会群は善良で、他の教会群はあらゆる悪の要だというのである。そんな大雑把で反理性的な見地の妥当性を問い直そうとするいかなる理性的な試みも、かの神話を擁護する信徒や牧師たちによって即座に社会の反キリスト的危険分子の仕業として処分された。自分が属する教会群を義の国と決め込むのは偶像崇拝にほかならない。使徒パウロの次の言葉は教会的的及び個人的自己義認を鋭く告発している。

              とすれば、思い当たるキリスト教界の一部の人々はいるのではないか。日本のキリスト教会は3.1運動(日本支配下の韓国における独立運動)が起きた当時、韓国に対して、このようなことを言わなかっただろうか。そのあたりのことを知りたい方は、当ブログの記事を見てほしい。

               あるいは、ミーちゃんはーちゃんは、上記のように子供時分から、そう教えられていたので、大学に行くまで、このような無知と誤解と、自派に対する偶像崇拝を行っているキリスト者でありながら、素朴に持っていたことは告白したい。一部のキリスト教会群では、似たようなことを教えていないであろうか。

               自派に対する自信はあってよい、と思う。しかし、それを偶像とするのはいかがなものであろうか。自派だけが完全無欠の信徒とか自派だけが完全無欠のキリスト教とか、思っていないだろうか。

              カルト化とのかかわり

               これが行き過ぎると、教会はカルト化するのではないか。他者を認めず、他者の声に耳をふさぎ、他者を排除する。自派の教会以外に行けば、間違った教理を含んでいるので行くべきではない、とか、平気で言ってないだろうか。そして、閉鎖性を持った社会を構成してはいないだろうか。

               また、この話の中に、善か悪か、白か黒か、1か0かという極端な二項対立の中に問題をおしこめ、表面的な理解で、全か悪か、白か黒か、1か0かで考えていることは多いのではないか。Facebookやツィッターで流れてくるニュースとニュースのコメント見ていると、キリスト教クラスターの中で、この種の表面的な親イスラエルか、そうでないか、反現政権かそうでないか、反原発かそうでないか、という2項対立的な表明をする方々はいる。それはそれでその人の立場であるのでかまわないのだが、割と単純な考えだと思うし、そして、こういう単純化された思いが、カルトの教会につながるのではないか、と思う。そういえば、オウム真理教も毒ガスサリン噴霧されたと主張した事件で言っていたような気がする。


              オウム真理教のサリン事件に関する動画


               なお、オウム真理教事件の終末論は、キリスト教の一部の現存するグループの特殊な終末論の影響を受けていることは、念のため言及しておく。

               同様の事件は、米国のカルト ブランチダヴィディアンでも起きている。


              ブランチダビディアンに関するCNNの特集プログラムの一部



               キリスト教が本来禁じる偶像崇拝をしているキリスト教ってどやさ、って感じなのだが、案外こういうこと、結構あるんじゃないかなぁ、とは思う。自分自身に対する自己正当化(自己義認)、それも偶像崇拝、そして、表面的なことで判断して、黒か白かということは本当に考えねばならないことではないか、とこういうことをやりやすいのではないだろうか。
               政治的な神話によって理性から逸脱する行為が及ぼす破壊的影響は、間もなく倫理が追放されるにいたることである。倫理は個人的及び集団的な人間の行為の理解に関心を有する人間から発生する。人間の行為について批判的に省察することは、隣人の存在を真剣に受け止めることを要求する。他者の存在を無視する倫理即ち人間の道徳性は、何であれ、人類の共通善に逆らう自己中心的な思想体系である。(中略)日本の神話的倫理は、日本国民にとって良いことを有利なことを目指していた。最終段階ではおそらく指導者層にとって都合のよいことのみを目指していた。その結果が日本の道徳的な堕落であった。自己中心的な倫理は ーこれを若し倫理と称しうるとしての話だがー 偶像崇拝的である。(同書 p.59)
              なんか、こういうことを見ていると、カルト化した教会ってのは、指導者層にとって都合のようことを目指すカルト的倫理、ってことではないかと思う。それは 大日本帝国カルトが、道徳的に堕落した、と小山先生がご指摘されていることと似ているのだろう。そして、自己正当化、自己義認が起きることが多いキリスト教カルトが道徳的に堕落しやすいことと深い関係にあるのだろうと思う。

                カルト的キリスト教が非常に具合が悪いのは、そうなっていく出発点においては、カルト化しようなんぞという悪い意図がまずあるのではなく、まともに福音を一生懸命伝えようとしているうちに、自分たちが持っている信仰や聖書理解が正しいという政治的な神話を集団内に形成されるのであろう。そして、その挙句の果てに隣人の存在を受け止めず、その聖書とのずれが拡大していった結果として、道徳的な堕落に陥っていきやすくなるのではなかろうか。その結果として、カルト教団内に不道徳が、倫理の名のもとに、倫理と誤解されて、広がっていくところにあるのではないか、とも思うのだ。そして、出来上がっていくものは、キリスト教の名を騙る偶像崇拝的な疑似キリスト教的なものを核に据えた、疑似キリスト教的な社会集団になってしまうのかもしれない。

               何とも残念なことである。


               次回 「第4章 聖なる神は偶像崇拝を拒否する」 へ続く。



              2015.02.14 Saturday

              『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (7)

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                 本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

                フェティシズムと偶像崇拝
                 偶像崇拝とフェティシズムの類似性について、小山先生はこのようにお書きである。非常に印象的であるので、ぜひご紹介したい。


                 木や石、銀や金で作られた偶像は、ものでできているがゆえに神ではありえない。イェヘスケル・カウフマンによれば、フェティシズムとしての偶像崇拝は、聖書が偶像崇拝について述べる第一義的見解である。「フェティッシュ」という語は、「巧みに造られた」を意味するポルトガル語「フェティコ」を語源とする。フェティシズムは、ある種の自然的あるいは人工的なものが超自然的価値を付与されており、したがって崇拝の対象とされてしかるべきであると考える魔術的な宗教態度である。偶像と偶像崇拝に対するこうした聖書的な位置付けは、複雑な現代世界における複雑を極める社会的及び政治的現象を記述するには、余りにも単純かつ静態的で適合しないと、我々は考えるかもしれない。恐らくティリッヒが偶像崇拝に与えた定義は、この問題の本質を一層明らかにする概念的なイメージを与えてくれるであろう。ティリッヒによれば、すでにみたように、偶像崇拝が生じるのは、「本質的に制約されたものが無制約的なものと理解されるときであり、本質的に有限なるものに無限の義が付与されるときである」。例えば、人間の文化は制約されたものであるが、ある特定の文化が無制約的なものと理解された時、偶像崇拝が発生する。たとえば日本文化が「神」がかりのような振る舞いを始めたときがその一例である。テクノロジーは部分的なものである。(中略)然しながら、テクノロジーへの執着が人間実存の普遍的意味を帯びるに至るや、偶像崇拝が生まれる。我々の心的能力は有限である。そうした限界を退けて、それに無限の意義を付与することが偶像崇拝である。(『富士山とシナイ山』 p.64)
                 意外と印象が深いのが、「自然的あるいは人工的なものが超自然的価値を付与」という側面ではないかと思う。聖書は超自然的価値は、人に語り掛ける聖書の「神」のみであるとする。案外、人間は地球上のどこにいるか関係なく、自然的人工的なもの、本来永続性のないものを神としてきたのかもしれない。

                 富士山は、今の富士山と江戸期の富士山では違う。阿蘇山もそうである。これらは比較的安定はしているが。富士山は、江戸期に宝永山という宝永の大噴火でできた山がある。本来、比較的安定的、という程度のものであり、山といっても流動的なものであり、ある時の姿は有界なものなのである。

                 小山先生のティリッヒからの偶像崇拝に関する引用が痛い。

                「本質的に制約されたものが無制約的なものと理解されるときであり、本質的に有限なるものに無限の義が付与されるときである」
                 こういうことをわれらは、よくやる。もちろん、伝道者や牧師への尊敬の念というのは重要であるし、また、聖書の研究者にも同じことが言える。しかし、それが、限界を越えて、有限(有界)なるものが無限の義をもち、無限の義なる存在となる時、偶像崇拝になるのだ。

                 国家にしてもそうである。この「無限の義」ということは、時間的にも能力的にも関係することである。本来、われらが崇拝すべき神、あるいは畏れるべき神は時間的にも空間的にも能力的にも有限なる存在であるすべての被造物(より正確に言うと、有界である存在)を越えた存在(有界でない存在)であり、有界でない存在であるがゆえに、われらが崇拝するにあたる(畏れる)存在である、というのが現下の個人的な理解である。

                 あるキリスト者グループでは、そのグループ内の指導者的存在に、無限の義が付与される場合や、グループ内の指導者的存在に無限の義を付与しようとする信徒の存在があることが多いらしい。いくらその指導者がすぐれているとしても、その指導者は、神ではないし、キリストでもないし、メシアでもない(基本的にメシアとキリストは、前者がヘブライ語由来であり、後者がギリシア語由来なので、同じことである)。そのようなものに無限なる義を付与しようとする動き(たとえば、絶対的な服従を強いるなど)をすること自体、ナンセンスなのである。

                技術と偶像崇拝

                 ミーちゃんはーちゃんは、これでも技術者のはしくれ(そうは見えないという意見があるのは承知しております)であるので、技術の限界と技術がもたらす副作用を知っているつもりである。そして、どんどん提唱される技術が、その利用が開始された瞬間に呪いのように副作用を発生させ、その副作用に対応するために新しい技術がさらに開発される、ということになっているので、石川五右衛門の名言「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」ではないが、「技術屋や 浜の真砂はつくるとも 世に銭儲けの 種(仕事のネタ)は尽くまじ」である。マッチポンプと言うならお言い。それが技術であり、カイゼンであり、改良なのだろうと技術者のはしくれとしては、思う。


                また、つまらぬ物を斬ってしまった」で有名な石川五ェ門ではない。

                 とはいえ、先を見ずにいろいろやってしまうのも技術者の一番悪いところ。こういう技術はごまんとあって、ご迷惑をおかけしている部分もあることは、存じ上げている。技術者のはしくれとして、お詫び申し上げたい。

                 先日、ある方とのFBの板で、技術をめぐる話が出たときに、技術者には倫理が必要で、倫理や哲学を教え、技術を倫理や哲学の下に置かないとまずいのだ、ということに似た話になったことがあるが、まさに、それはそう思う。

                自文化中心主義という偶像崇拝
                 ちなみに、大杉先生がお書きの自文化中心主義に関するあとがきは重要なので、ぜひご覧いただきたい。あえて言おう。自文化中心主義は、フェティシズムであり、偶像崇拝の懸念が濃いと。


                天皇の永続性、万世一系、君が代
                 天皇の永続性と永遠と聖書のアイオーン(AEONって、イオンかい?そうです)ということについて、小山先生は次のように書いておられる。 

                天皇の永遠性は皇位継承によって維持される。日本人の理解では、「永遠」は長い継続的時間を意味している。それは「永久不滅」ではない。ギリシア語の単語アイオーン同様、具体的な語感を帯びた語である。アイオーンは元来「生命力」「生涯」を指す。それは人類固有の生物学的時間と関係はない。それゆえギリシア人はアイオーンを「存在者に割り当てられた相対的時間」として理解した。この「永遠」概念は日本人の「永遠」理解と類似している。なぜなら、日本語の「永遠」は生命力が途切れない長い連続的時間を暗示しているからである。この日本的哲学は明治憲法において「行為が連綿と受け継がれる万世一系」という言葉で厳粛に表現されている。
                 無害な日本的永遠性となりえたかもしれないものが、ひとたび天皇に類のない聖の源泉という特権を付与する皇祖皇宗の諸霊の概念と結ばれた時、それは国民にとって有害なものとなった。日本の宗教史において皇祖の諸霊と穀物の霊とは結ばれている。最も神聖な日本帝国の祭儀の一つは、新たに即位した天皇が即位した季節の間中、穀物の霊と「交霊する」儀式である。日本国民の活力を表彰する穀物神は、神聖帝国の参加において日本の活力が聖なる国と概念と同一視されるや、前者はたちまち無垢性を喪失した。(同書 p.84 )

                 日本での永遠概念が永久不滅ではない(むちゃくちゃ長いけど終わりがある時間概念)、というのは初めて知った。素朴に永久不滅のこと(有界性をもたない時間概念)だと思っていたが、そうではなく、一定の有界性をもった言葉だったらしい。しかし、戦争中絶対概念、絶対神聖の概念とこの「永遠」概念がくっつくとき、「万世一系」の「万世」がそもそもの有界性をもった「永遠」が無限性をもった「永遠」に代わってしまったのではないか、と思う。そして、はかなさが暴力性に変わった。その暴力性とはかなさの共存は、自殺型ジェット爆撃機にたおやかな「桜花」ってつけるほどであった。4月になると、必ずこの機体を思い出す。


                旧日本海軍の航空機 桜花


                皇祖の諸霊と穀物の霊

                 小山先生は「日本の宗教史において皇祖の諸霊と穀物の霊とは結ばれている。」ということをご指摘であるが、これは存外重要なことかもしれないが、現在ほぼ忘れられている。
                下記に動画を張っておいたが、6月ごろにニュースで流れる皇居での田植えの儀式は、実は穀物の霊と酵素の諸例が結ばれていることを示す儀式であろうと思う。



                日本の伝統文化を表象する皇居における田植の儀式



                草食系日本男子の原型か?

                  基本的に日本は、肉食系の祭祀制ではなく、草食性、穀物食性の祭祀性なのだということは思う。まぁ、近年の日本青年に草食系ばかりだという御意見もあるかもしれないが、もともとの日本文化が草食系なのであるので、本家帰りしたこととして、日本文化が大好きな全共闘時代の年長者の方には寿いでもらうべきこと かもしれない。

                 いや、明治以降全共闘世代の皆さんが現役でった頃までが、肉食系が日本文化における例外的存在として、存在したのかもしれない。明治期以降、昭和60年代まで日本社会において、肉食系文化が幅を利かせた特異な時代であった時代のような気もする。

                 余談はさておき。

                神聖帝国と国家神道

                 小山先生のお書きになられた「日本国民の活力を表彰する穀物神は、神聖帝国の参加において日本の活力が聖なる国と概念と同一視されるや、前者はたちまち無垢性を喪失した。
                」という部分に関して読んでいると、本来無垢な草植(草食のもじり)系の神は、聖なる国と万世一系との概念で、突然変異をしてしまったのかもしれない、と思ってしまう。そして、そもそもの多様な自然物崇拝の世界のなかに、一種暴力的な帝国制度が導入され、神聖帝国が構想された結果、神聖性を担保するために無理矢理に国家神道という枠組みのをもちこもうとする中で、その中の最高神を定義せざるを得ず、その最高神としての天皇が構想され、その中で、一種のヨリシロというのか人柱としての中心性までも人間宣言が出るまで、天皇という存在に持たせてしまったのかもしれない。それも、本来の有界性を越えて。

                 これは、しんどいだろうと思う。いかに明治帝や昭和帝が英邁であろうとも、勝手にその役割と中心性をその子孫に割り当てられたら、その子孫は、かなわんだろう、とは思う。

                 そして、勝手に君が代は、千代に八千代位はいいかもしれないが、それを越えた永続性をある一家に求められるのは、その御一家にとってみれば、それは祝福というより、呪いに聞こえているかもしれない、と最近の情勢を見ながら思いたくなってしまう。昔の落語に「厄払い」というのがあるが、そこでの文句を思い出した。

                君が代と落語「厄払い」

                 君が代の中に千代に八千代にと出てくるが、まぁ、ごろ合わせという部分も大きいが、まぁ、これは昔からの寿ぎの言葉と同じような類似性をもっている。日本における古典学の学識がないミーちゃんはーちゃんが思いつく唯一の例は、落語なので、落語の「厄払い」をご紹介して、日本に伝統的なこういう寿ぎの言葉の紹介としたい。

                あぁ〜ら目出度や、目出度やな。
                目出度いことで払おなら、鶴は千年、亀は万年。

                浦島太郎は三千歳、
                東方朔 (とぉぼうさく) は九千歳 (くせんざい) 、
                三浦の大介百六つ。

                かかる目出度き折からに、
                如何なる悪魔が来よぉとも、
                この厄払いが引っ捕え、
                西の海へさらり、
                厄払いましょ

                以下の動画の8分辺りから、上に示した昔の厄払いの口上が出てくる。


                昔の節分行事などを含む厄払い行事が触れられている桂米朝師匠の落語「厄払い」

                 おあとがよろしいようで。

                 次回、宇宙的生成論およびイデオロギー的中心から ご紹介の予定でございます。




                2015.02.16 Monday

                『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (8)

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                   本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の第7章「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

                  日本における富士山信仰と中心性

                   今日は、「富士山とシナイ山」における、宗教的思想の比較における富士講についての小山先生の記事を引用しながら考えてみたい。

                   民間宗教専門の日本人学者宮田登は富士講の豊穣神信仰的性格を指摘している。職業と弟子たちは男女の調和、宇宙世界における男性原理と女性原理との調和の大切さを強調した。(中略)最期に柴田花守(1809-80)は山岳崇拝の教えを国家主義的な皇帝崇拝と結び付けている。彼の説くところによると、富士山は国家の安全の土台であり、全地の脳髄である。花守の国家主義的な富士山信仰は、彼の晩年近くになって芽生え始めたばかりの天皇崇拝に強い影響を及ぼした。富士山な始原の子宮及び全地の脳髄と見られた。この富士信仰を通して人類救済成就の新時代が到来するであろう、と富士講の長の一人、伊藤六郎兵衛(1829-94)は言う。
                   富士山は素朴な山岳崇拝から独特な歴史観へ、社会倫理から豊穣信仰へ、さらに政治思想へと展開していく、複雑な宗教的および心理的要素からなる山である。よりによってこの山において、日本民族は彼らの宗教的独自性を表現する機会を見出したのだ。

                   富士山の宗教史は富士山の世界とシナイ山の世界との相違点を浮き彫りにする。富士山は原初の夫婦神、世界の脳髄、両性の調和的関係性が成立する聖所、及び新たな弥勒時代の象徴であるといわれる。富士山は世界の基軸axis mundiである。他方、シナイ山にはこの種の「崇拝対象」といった属性は付与されていない。シナイ山の「大霊」とか「子宮」とか「脳髄」とかについて云々する人は一人もいない。シナイ山はそれ自体に備わる固有の宗教的価値をもたぬ山である。(富士山とシナイ山 pp.134-135)
                   個人的には山岳修験道については詳しくもないし、富士講についても詳しくはない。茨城県の大学で都市計画の勉強をしていたころにフィールドワークとして都内を回った時や、濃地図をもとに江戸の都市計画をリサーチしていたころに都内にあるいくつかの人造富士山(せいぜい数メートルクラス)を見て、興味をもって富士講の研究のリサーチをちょろっとしたことくらいである。ちなみに、その関連でいうと、ええじゃないかは、伊勢講とちょこっとつながっていて、ということくらいしか知らない。

                   本文から引用した中で(中略)と表示しているところには、かなり性的な事柄が、祭祀制と深い関係をもっていた旨の記述がある。日本における富士信仰は、かなり基本的なところで性交渉と深い関連要素をもっていることは知っていたが、ここまでとは知らなかった。「道祖神」で画像をググってもらうと、まぁ、すごいのが出てくる。これも日本の民俗信仰の一断面ではある。



                  道祖神の例安曇観光タクシー 様のサイトより)


                   まぁ、古代神話はどこまで行っても豊饒性、子孫繁栄とつながっているので、当たり前といえば当たり前であるが。西洋で有名な豊饒神はアフロディテ、ウェヌス(ビーナス)、アシュタトテ(アシュタロテ)、フレイヤーなどがある。まぁ、この種のものには、事欠かない。

                  豊穣神としての筑波山と富士山と江戸

                   まぁ、茨城にいたころの筑波山は、男体山、女体山からなっており、まさにこの山岳信仰を絵にかいたような山である。関東平野は平たいので、これが目印の一つとして、過去利用された。東京の日本橋から北北西に延びるルート(国道6号線 旧水戸街道)は日本橋方向から筑波山が昔はヴィスタ(視線の先にある目標物)として利用された。同じく日本橋から南南西に延びるルート(国道1号線 旧東海道)は、富士山を向いている。


                   茨城県南部で車を運転しているときに迷ったら、とりあえず筑波山を探すことが一つの位置特定の方法であったことを思い出す。時刻と太陽の位置と筑波山さえ分かれば、ほぼ自分の10キロ精度で位置が特定できた(まるで航海術の世界だった)。

                   余談はさておき。

                  日本の天皇崇拝と日本の表象としての富士山
                   富士山と日本の天皇崇拝との関係について、小山先生は先の引用の中で、次のように書いておられる。
                  花守の国家主義的な富士山信仰は、彼の晩年近くになって芽生え始めたばかりの天皇崇拝に強い影響を及ぼした。

                   日本の象徴として富士山が使われ、その先に天皇崇拝があるような童謡というか歌は多い。「1年生になったら」「富士の山」「ま白き富士の嶺(これは替え歌「いつかはしらねど」が聖歌にある)」等、まぁ出るわ出るわ。全部が天皇崇拝とか富士崇拝とは言わないけれど、間接的に、サブリミナル風に天皇崇拝とつながっていなくはなさそうな気がするなぁ。


                  いつかはしらねど(ま白き富士の嶺)by ZouAzarashi さん(FB友 友情出演) 


                   図像学的にも、硬貨ではないけれども、紙幣には、日本の象徴として富士山は使われている。そういえば、現行の5000円札にも(めったにお目にかからないので気がつかなんだ)、現行の1000円札にも、旧500円札(昔、お小遣ひをこれでもらっていた記憶が)にも、大々的に富士山が印刷されていた記憶がある。個人的には陰謀史観をもっていないので、1ドル紙幣に自由石工連合のマークがついているだの、いないだのとか言うことに興味はないが、もし、自由石工連合云々を言うなら、陰謀史観論者は日本と日本銀行は、富士講連合に仕切られているとか言わなければならないだろう。所詮、バンクノート(銀行券)は小切手の代用だと思っているので、個人的には気にならない。


                  昔懐かしの500円C号券(お小遣ひはこの紙幣で提供されていた)

                  富士を通した人類救済理論

                   しかし、

                  この富士信仰を通して人類救済成就の新時代が到来する
                  ってのは、結構、大きな影響をもっているような気がする。某オ○ム真理教が、参議院選挙に真理党という名前でご出馬していたころ、富士宮道場(当時総本部)が結構テレビに出ていたが、それもこのへんと関係するのかもしれない。また、3の平方根(富士山麓にオウム鳴く)で一躍有名になった、上九一色村にサティアンを置いた理由もこの富士信仰とつながっているような気がする。多分、関係していると思う。だって、ポアして人類救済とか称しておられたようだから。当時、尊師は。


                  世界の中心としての富士山

                   小山先生は、

                  富士山は世界の基軸axis mundiである。他方、シナイ山にはこの種の「崇拝対象」といった属性は付与されていない。
                  とご指摘であるが、それはその通りだと思う。日本人にとって、どこか中心は富士山だと思っているところがありそうな気がする。なお、現在日本の人口重心は、岐阜の関市あたりにあるし、国土(土地)の重心は、新潟沖の日本海の中にある。個人的には、富士山が世界の基軸だと思ったことはなかった。

                   中世の地図では、世界の中心はエルサレムとなっている地図が古地図の世界には現存する。世にエルサレム図という。エルサレムは中心だけど、確かにシナイ山が中心になった地図や概念というのは寡聞にして聞いたことがない。ただ、日本人はあこがれで、シナイ山を特別視する向きの方々もおられるかもしれないけど。


                  「イエルサレムは世界の中心!」を主張するイエルサレム図。インドが最果て・・・

                  聖書の中心性は何とかかわりがあるか

                   エレミヤ書7章1-7節の引用があった後、次のように小山先生は続けておられる。

                   エレミヤの見地に立てば、エルサレム神殿の中心性を強調することはうなしい。ユダの民が国の安全を望んでそうしても、「欺きの言葉」出しかない。国に安全を与えるのは社会正義の確立である。ユダヤの民は神殿が象徴しているものの意味、すなわちお互い同士正義を実行しなければならない。ユダの中心的象徴は寄留の外国人、孤児、寡婦など共同体内の弱者に、周縁に押しやられている人々に親切と配慮を尽くすよう要求している。周縁の人々への配慮を示さなければ、中心的なものも「欺瞞的存在」と化す!民に住むべき場所を用意するのは社会的正義の行為である。「聖なる」中心的象徴物の名を唱えることでない。(同書 pp.147-148)
                   聖書の中心である神は、ユダヤ社会の中心もさることながら、社会の周辺も視野に入れて、親切と配慮をつくするように要求している。下記の出エジプト記を一例として紹介しておきたい。
                  【口語訳】出エジプト記
                   22:21 あなたは寄留の他国人を苦しめてはならない。また、これをしえたげてはならない。あなたがたも、かつてエジプトの国で、寄留の他国人であったからである。
                   22:22 あなたがたはすべて寡婦、または孤児を悩ましてはならない。
                   22:23 もしあなたが彼らを悩まして、彼らがわたしにむかって叫ぶならば、わたしは必ずその叫びを聞くであろう。
                   22:24 そしてわたしの怒りは燃えたち、つるぎをもってあなたがたを殺すであろう。あなたがたの妻は寡婦となり、あなたがたの子供たちは孤児となるであろう。
                   22:25 あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。
                   22:26 もし隣人の上着を質に取るならば、日の入るまでにそれを返さなければならない。
                   22:27 これは彼の身をおおう、ただ一つの物、彼の膚のための着物だからである。彼は何を着て寝ることができよう。彼がわたしにむかって叫ぶならば、わたしはこれに聞くであろう。わたしはあわれみ深いからである。
                   聖書の神とは、神と人との関係を重視されるとともに、人の中での義(Justice)を求めておられることは、極めて重要なことではないか、と思う。神だけ見て隣にいる人を見ない、自分たちだけ、ということを神は望んでおられないようである。人の中でもJustice(公義というか義)と平和が成立することを望んでおられるようである。

                   実際、イエスもこのようにおおせである。

                  【口語訳】マタイ
                   12:28 ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。
                   12:29 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。
                   12:30 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
                   12:31 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。
                   12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
                   12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」
                   これらにあるように、神を一方的にあがめるのが大事なのではなくて、神を愛する(神と人とが一致するというか調和的な関係に入る)ことと隣人(含む外国人)を愛することが重要であり、一方的に礼拝することよりも儀式を守ることよりも、何よりも大事であるとおっしゃっておられる。

                   なお、聖書の中に示されている神は単なる義の神ではなく、憐れみの神であることは、もっと認識されるべきことだ、と思っている。

                   しかし、多くのキリスト教国と分類される国家で「神のイエスが福音として宣べたこと、とらわれ人に開放が、貧しいものへの回復が、虐げられた者の回復、といった義が実現」しなかったことは、正直残念ながら認めざるを得ないと思う。実に残念なことだが。しかし、これが神ならぬ人間の現実なのだろうと思う。


                   次回、同章から、中心性とイデオロギーについて触れたい。



                  2015.02.18 Wednesday

                  『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (9)

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                     本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

                    中心性と全体性が誘導する偶像崇拝

                     大日本帝国時代、日本は世界の中心であるというのは、これまで何度か触れてきたし、富士は世界の中心であるという概念が天皇制の確立と共にあらわれてきた、ということを前回ふれた。

                     では、世界の中心であるということはどういう意味を持つのだろうか、ということに関して、小山先生は、このようにお書きである。 

                     したがって、「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。(中略)それは己の栄光をいや増す為に他の人々を管理し、操作し、食い物にしてしまう暴力的状況である。リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。「わたしは全体性と完全性を意のままにしている」「わたしは万物の中心に立つ」と主張することは、「私は神を自由に操れる」ひいては、「私は神である」というのと変わらない。端的に言って、これは偶像崇拝そのものである。(『富士山とシナイ山』 p.150)
                     確かに、
                    「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。
                    という部分を読みながら考えてみれば、ある国家が中心になった時代があった。PAX ROMANA、PAX BRITANICA、PAX AMERICANA (ローマ帝国よる平和 大英帝国による平和 アメリカ合衆国による平和)が代表例であるが、これらのいずれにしても PAXの後につく言葉がその世界観の中での中心となってきたことは論を待たない。軍事的にも、政治的にも、経済的にも。そして、PAX ○○が成立している時代には、その中心となる○○に向かって、人とモノとカネが集まってきたような気がする。

                    また、
                    リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。
                    という指摘には、非常に思わされることが大きかった。リベラリズムと訳語があてられているが、人間中心、人間がなんとかできるという思想の危険性であろう。しかし、いくつかの面で教会を自分の手中にしている、意のままにできると思っている人々はいないだろうか。教会を意のままにしたいという思いはなくても、「斯くあるべきだ」と思い込んでいる人々はいないであろうか。それこそ、人間中心に自分の意のままに、自由に扱えるという意味において、これは、一種のリベラリズムではないだろうか。

                    イデオロギーの危険性

                     いかなる場合であっても、人間中心の思想(○○イズム)やイデオロギーが非常に問題を起こすことについて、小山先生は次のようにお話しておられる。

                     人間の存在する所どこでもイデオロギーは存在する。我々は我々自身の生活現実と歴史に関するある種の包括的見解を持つことなしには生きていくことはできないのだ。

                    イデオロギーとは、人間と社会、合法性と権威に関する情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念及び価値体系で、日常的、習慣的強化の結果獲得されるものである。

                     イデオロギーは人生、人間的実存、及び人間共同体に関して最終的発言をする能力を持っていると自負する傾向がある「情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念、価値体系」である。イデオロギーはすさまじく強力な心理的、哲学的衝迫性を帯びている。他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする。(同書 pp.154-155)
                     しかし、小山先生がご指摘のように、我々は、このイデオロギーから解放はされえない。人間であるがゆえに、この種のイデオロギーに束縛されており、閉じ込められているのだ。それこそ、罪の結果と言えよう。大和魂とか、日本精神とか戦時中に世上言われたもの(何を以て大和魂というのかも人によって違うようであるので、留意は必要であるが)も、このイデオロギーの一種ではないか、と思う。

                     そして、イデオロギーが神話性を内在的に持っているという指摘は重要だろうと思う。神話性を持たざるを得ないのは、それが合理的な理性的なものでは、それを理論的に検証したり、その一部を否定することが可能となりやすいからかもしれない。しかし、イデオロギーがかなわないのは、他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする部分である。個人的には、毛主席がお元気で、中国での農産物の生産から、鉄工所までの生産をご指導しておられたころに、毛沢東思想にはまりかけたことがあるので、こういう他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りという部分はよくわかる。あのころは、クメール・ルージュが元気だったし、ソ連は共産主義国だったし、そういう国で何が起きたかを調べれば、イデオロギーがいかに事実を包み込み、同じものを見ながら、違う理解を与え、他者を威圧するか、ということはかなり明らかになるであろう。東西冷戦構造は、イデオロギー対決でもあった。



                    今日のソ連邦の表紙。県立図書館においてあった記憶がある

                    イデオロギーと宗教の類似性

                    イデオロギーと宗教の類似性について、小山先生は次のように述べておられる。
                     イデオロギーは、それが資本主義であろうと、共産主義であろうと、愛国主義であろうと、人種主義であろうと、あるいは皇帝崇拝だろうと、最後の言葉を発したい欲望を有する点で「宗教的」である。無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。モスクワのレーニン廟に群れなすロシア人は、マレーシアのクアラルンプールにある国立モスクに群れなすイスラム教徒に劣らず恭しくふるまう。「無神論的イデオロギー」すら、固有のイデオロギー的体制を厳粛な儀式の様にするそれ自身の「神」(god)を有している。このような文脈において「神」(god)は「中心性コンプレックス」を意味する。(同書 p.157)
                     しかし、「無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。」ということは非常に面白い。社会システムであるはずの(無神論的)共産主義と同じく社会システムである(有神論的)資本主義はいずれもかなり唯物論的な社会システムであるのにもかかわらず、たしかに、宗教のようにふるまっている。政治と宗教の話を食卓でするな(食事がまずくなるので)、という話があるが、まさしく、どちらがよりまともか、という相対的な義でしかないことに関する競争が、自分たちの社会システムのものの見方(世界観)を巡ってそれがあたかも絶対的な義に関する競争として行われるからだろう。この絶対性が、イデオロギーの宗教性でもあると思う。

                     これが、リアルな国際政治の場だと、ミサイルだの戦闘機だの、爆撃機を持ちて行われるからかなわん。最近、政治学関係者のカンファレンスに行くようになって思うのは、結局神学論争や宗教論争のようなことを具体的な政治経済的ツールで表現されている世界観で焼き直しているに過ぎないのではないか、というあたりのことであるのだ。

                    二つの有神論的国家の争いとしての政治的闘争

                     その意味で、1940年代前半に日本がアメリカと向き合った戦争は、クラウセヴィッツ風の表現をすれば、聖書型有神論的資本主義型軍国主義と日本型有神論的資本主義軍国主義の血を流す政治的闘争、あるいは血を流した外交であったといえるかもしれない。その意味で、両者の神の正義性をそれぞれの国民の血を流すことで、証明してみせようとした、壮大な人的・物的資源を浪費行為であったと思えてならない。厨2病が基本、能力の浪費行為であるということを考えると、厨2病患者が戦争ヲタクになりやすいのは、基本浪費行為であるからかもしれないと重篤な厨2病患者であるミーちゃんはーちゃんは思う。

                     東西対立が激しかったころ、丁度モスクワオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、ロサンゼルスオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、があったころの映画として、下記のハドソン川のモスコーという映画を紹介しておく。当時の冷戦期の雰囲気と80年代、ディスコ音楽が流行り始めのころの雰囲気がよくわかる。サタデー・ナイト・フィーバーというジョン・トラボルタが、まだ、やせていて、りりしいころの、ジョン・トラボルタの出世作がつくられていたころを描いた映画である。そういえば、高校時代の体育教官の一人が、故 斉藤仁氏と大学時代同級生だったらしいので、何かというとこのモスクワオリンピックと斉藤仁がウンタラカンタラというお話に付き合わされたことを思いだした。



                    Moscow on the Hudson ロビン・ウィリアムスが若々しい
                    イデオロギー対決が華やかなりしロシアとアメリカの関係を背景に描いた名作

                     次回 第11章 テクノロジーは能率性と意味との葛藤を引き起こす からご紹介したい。





                    2015.02.21 Saturday

                    『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (10)

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                       本ブログ、最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。本日からは、第11章 テクノロジーは能率性と意味との葛藤を引き起こすからご紹介いたしたい。

                      テクノロジーと歴史性

                       まず冒頭の小山先生のご発言が意味深い。
                       
                       貪欲と色欲に対する我々の戦いは熾烈でかつ骨の折れるわざである。テクノロジー的能率性を駆使して実行することはできない。だがこの戦いには、人間的意味の可能性が掛けられている。歴史的なものはテクノロジー的能率性のカテゴリーの下に包摂されえない。歴史的なものとテクノロジー的なものとの間には苛立ちの関係がある。(『富士山とシナイ山』 p.199)
                       貪欲と色欲って、ダイレクトに言われてしまった感じだなぁ。いやぁ、テクノロジーってのは、結構貪欲系や色欲系のものと絡むことが多いのだなこれが。サイバー詐欺もそうだし、ネットが広がったのも、結構色欲系のサイトがあって、ということもあるし。だから、未だに、ネットは不謹慎な世界と、思われている。別にそう思われてもいいけど。

                       バイクや車も、ある面、色欲系ではある。テクノロジーと色欲系がくっつくと「艦これ」とか、ろくでもないことが起きる。息子さんのお話だと、2014年のセンター試験にミッドウェー海戦が出題されたので、このゲームの参加者(通称提督)の受験生は「うぇ〜〜〜い」と、大喜びしたとかいないとか。



                      DMMさんのサイトにあったキャラクター「赤城」

                       しかし、本来苛立ちがあるはずの歴史的なもの(過去を志向)とテクノロジー的なるもの(未来を志向)を併せ呑むヲタクの力というものには、驚くべきものがある、とだけ論評しておこう。

                      宗教とテクノロジー

                       宗教とテクノロジーの関係について、小山先生は次のように書いておられる。

                       最期に、宗教は救済を約束する。救済は未来と結ばれた概念である。来世の次元を示唆する概念である。宗教の未来と彼岸は過去の宗教的経験の視座からは十分に説明されえない。宗教的現在は未来に向かって傾斜する現在である。テクノロジーも同様未来に向かって傾斜している。後者は、その驚異的能率性によって我々が伝統的に宗教のうちに意味してきた意味にとって替わることを示唆している。(中略)回復する望みなき患者の命を救いうるのは宗教ではなく医療技術である。テクノロジーは驚愕的行動を通して宗教に挑戦しているのである。(同書 p.201)
                       ここを読んだ時、素朴にオウム真理教のことを思い出した。彼らは、宗教とテクノロジーをある面、見事に融合したと思うのだ。先ほどの『艦これ』ではないが、彼らは救済を求めながら、ポアという方法論のために大量にサリンを作ろうとした。作り損ねたからよかったけど。そして、貧民の武器と呼ばれたAK-47 を作ろうとしたり、ヘリコプターを買ってみたりと、非常に特異な発想で自ら(あるいは松本智津夫被告か?)を救済者に据えようとしたのではないか。非常に日本的な宗教観というか宗教的コンテキストの中で。その意味で、オウム真理教は、非常に日本的な宗教的な何か、を持っているのである。あるところで、富士山信仰とくっついていたり、キリスト教的なハルマゲドンを持ち込んでみたりと。

                       そして、テクノロジーに基づいたものを用いて、救済だと称して、伝統的な宗教に挑戦したといえよう。マハーポーシャという安いパソコンやがあったので、やばそうな名前だなぁ、と思っていたら、実はオウムの別働隊だったと後で気が付いたという残念なお知らせ。買わなくてよかったと思っている。

                      コスモスとテクノロジーの微妙な関係
                       宇宙飛行士が宗教に走ったり、数学だの物理学だのを極めていくと、だんだんおかしくなる(あっちの世界に行ってしまう)のは、それぞれの世界あるいはコスモスが持つ、イコン(アイコン)と論理がそうさせるのかもしれないと思う。

                       コスモスという語は我々に自然の秩序的イメージを与える。いわば知恵のイメージである。コスモスには「イコン」(イメージ、川のように見ることができるもの)と「ロゴス」(言葉、「水の動き」の合理的説明のような一定のイコンの内部で生起していることについての合理的理解)との神秘的統一がある。(中略)コスモスが知覚されるときは常に、我々はイコンとロゴスに接触するであろう。コスモス的イメージは我々の想像力を目覚めさせる。コスモス的な言葉は我々に教え、理解と合理性を与えてくれる。(中略)コスモスは宗教的である。イコンとロゴスの神秘的統一性は世俗主義を退ける。(同書pp.202₋203)
                       そういう意味でいうと、マッキントッシュは、非常に宗教的な世界なのである。もう、信仰といってもよいかもしれない。個人的には、アップルと言う会社は嫌いではないが、あまり好きでもないし、その会社の設計思想には、なるほど、と思うことはあるが、設計思想がよいからといって、それに追随することはしていない。

                       個人的には、何らかの形で、自分自身が抱えるタスクが解決すればよいのであって、そのために使えるのなら、何でもいいと思っている。その意味で、個人的にはコンピュータ技術について、帝国主義者ではない。確かに昔は、イラストレータやフォトショップといったデザイン系のソフトウェアが使えるのは、マッキントッシュだけであり、マッキントッシュの中に入っているモトローラ68000系のCPUだけであったから、というだけであったが今は、確かマックの中もインテル系のx86系統のCPUになっているはずである。

                       また、現在、パクリといわれようがなんといわれようが、ほぼ多言語対応が可能になったMS-DOSの後継OSである、Windows系や、UNIX系のOSでも、使用上多言語対応上の問題が実用上ほぼないので、別に問題解決できたら、どれでもいいと思っている。要は使えればよい、と思っているのだ。



                      The Simpsonsで揶揄されるApple の利用者の皆様

                       上のアニメに示すように、基本的には、アップル自体も一種の宗教性が強い会社である。まぁ、それはアップルだけでなく、ソフトウェア会社が一種の開発思想や設計思想に基づいて開発するので、どうしてもそういう思想性に走りやすい傾向になりやすいのはよくわかるけれども。なお、上の動画を紹介しているからと言って、ミーちゃんはーちゃんはApple Userの皆様に敵意はない。


                      テクノロジーとイコノグラフィー

                       テクノロジーとイコノグラフィーの関係について小山先生はこのように書いておられる。 

                      テクノロジーは自然の上に能率的かつ行政的なイメージを刻印すること(つまりイコノグラフィー、図像学的操作)から発生する。それは実験的冒険的、積極果敢な精神の表現である。(中略)こうした力強いイメージ書き込み(Image Writing)を行う能力は、元来テクノロジーが原子のコスモロジー的世界(世界生成論)イコン(図像)から受ける霊感に由来するのである。航空機、最も最新式の旅客機すら、鳥のイメージを維持している。北ボルネオの川をこぐシンプルな二人乗りカヌーも、核潜水艦もいずれも魚のスマートなイメージと合理性を暗示しているのである。テクノロジーはコスモス(自然的、調和的)のイメージと言葉に基づく計り知れぬ能率性を想像する啓蒙の一種である。(中略)能率性は啓蒙である。これが人類に対するテクノロジーの霊的及び宗教的メッセージである。この意味において、我々のテクノロジー的時代は啓蒙時代なのである。能率性は啓蒙であると告白するなら、テクノロジー的意味において我々は宗教的なのである。(p.203)
                       こう書かれると難しいが、この文章を見ながら、実は宮崎駿アニメの「風立ちぬ」を思い出していたのだ。「風立ちぬ」の主人公の飛行機の設計者がサバの味噌煮を食べているときに、サバの骨を取り出し、そこにインスピレーション(霊感)を受け、飛行機の翼断面形状に同じ断面形状があることを言い出すシーンがあるが、これなどは、まさに、飛行機などがもう完全にイコノロジー由来であることを如実に示していたのである。

                       飛行機ヲタクのミーちゃんはーちゃんは、飛行機の美しさを語らせたらまぁ、収拾がつかなくなるので、やめておくが、非常に美しい機体が世の中には存在する。3次元連立微分方程式体系を解くような流体力学をミーちゃんはーちゃんに教えてくださった大学時代の恩師が講義中に教えてくださった(今はもうその言葉位しか残ってない)ことのなかに、

                      「合理的なものは人間の目から見て美しい。美しくないものは、逆にどこか不合理を含んでいて、非効率の原因を含んでいる」

                      ということをおっしゃったが、なるほどなぁ、と思ったものである。

                       しかし、飛行機の設計の世界も実はかなり宗教的なのだ。ボーイング社とエアバス社では、ここまで設計思想が違うかというほど設計思想が根本的に違う。第2次世界大戦中のドイツ系の戦闘機とイギリス系の戦闘機(特にスピットファイアー)との間ではここまで違うか、というほどの設計思想の違いがある。つまり、設計そのものが一種宗教性を帯びているようにも思うのだ。そのあたりのことは、風立ちぬの中盤以降を見るとよくわかる。

                       なお、風立ちぬを見た直後の記事は、こちらから


                      風立ちぬ の予告編

                       テクノロジーも、実は非常に宗教的なのだ。宗教的というのがまずければ、ある独自の世界観を持った世界が並立しているといってもよいかもしれない。技術者の端くれとして、それは思う。ある世界観(技術体系)にはまってしまうと、別の世界観(技術体系)は理解しにくくなる(なぜならばそれだけ余分に考えないといけないし、根本的に違う思想であるから、それぞれの設計思想という技術体系ごとに用いる言語が違うからである)。まるで、バベルの塔の世界であるなぁ、と技術者の端くれとしては思う。

                       旅客機というのは、翼にドンガラつけただけの機体が多いので、つまらんことが多いのであるが、最近空を飛んでいるBoeing 787の翼形状を後ろから見た画面には、ほれぼれとするほど美しいと思った。ただ、この機体の機首は、工作効率性のためか、雅趣がなくてちょっと残念であるけど。


                      Boeing787

                      次回もまた、この本からのご紹介の話題を続けたい。

                       

                      評価:
                      ---
                      ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
                      ¥ 3,681
                      コメント:好きな作品の一つ。飛行機ヲタにはたまらん。

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