2015.01.24 Saturday

ブログ緊急公開 歴史に学ぶことの大切さ

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     トンちゃん先生が、大変興味深いことを書いておられる。

    金の子牛の上の主(ヤハウェ):「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」について思うこと

    日本基督教団より大東亜共栄圏にある
    キリスト教徒に送る書簡

    いやぁ、日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰 は、神学的脅迫状。ご説の通り。

     1944年(昭和19年)の復活節に、日本基督教団統理者富田満の名前で送られた「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」――この 「現代的使徒書翰」とうたわれた、キリスト教信仰を皇国史観の風呂敷に包んだ神学的脅迫状を初めて読んだのはいつ頃だったでしょうか。
    読めるようにサイトを紹介しておきましょう。あまりに悪質な模倣ですが(替え歌を乱発してふざけているミーちゃんはーちゃんは、人のことは言えた義理ではない)、まぁ、読んでみてくださいな。個人的には吐き気がしましたけど。

    日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰


    自分の国の歴史を知らないって、ねぇ。

    神学校でも西欧の教会史は正式科目として学んでも(それが重要なのは言うまでもありません)、日本キリスト教史はおまけとも言えない扱いでした(私たちプ ロテスタントにとっても重要な意味を持つキリシタン史はもちろんのことです)。それは福音派にキリスト教史を専門にする教師が育っていなかったことにもよ ると思いますが、ほとんどの神学校において、そしてほとんどの教会においても、またほとんどのキリスト者においても、今も基本的に変わっていないことだと 思います。
    これ、ものすごく残念な傾向だと思う。過去の歴史的反省もなく、過去の自分たちの聖書理解の反省もなければ、勝手に神の名を騙ることをやった残念な日本人のキリスト教史は、現代においても、神の名を騙ることをやりかねない人間だからこそ、学んでおく必要があるのだが、そのことに関して、トンちゃん先生は、こんな風にもおっしゃっておられる。

    健忘症以前?


    健忘症以前の歴史の記憶を持たない神の民ということを思わされ、
    あーあ、いっちゃった。

    シナイ山と富士山

     それにしても、下記で紹介する富士山とシナイ山でも小山先生が書いておられたことがあっさりとまとまっている感じである。日本で、伝道や宣教にかかわる方は、同書を一読されることをお勧めしたい。
     富士山とシナイ山、大体読み終わったので、近日中にご紹介したい。


    ただ、私の印象では、戦後、教会指導者も、同時代を生きたキリスト者たちも、沈黙するか、モーセに対するアロンの被害者的な釈明(出エジプト32:21〜 24)を生きて来たように思われます。そのことが日本の教会の戦後責任であり、日本基督教団のみならず、様々なかたちで今にまで続く教会の問題や課題につながっていると思えるのです。

    おまわりさん、コイツです。をやった我ら

     要するに、我々も、戦後の指導者たちも、「おまわりさん、この人です」で、当時の指導者や軍部やA級戦犯のみなさんにおっかぶせ、私たちは知らんぷり、ってのをやっちゃったことをおっしゃっておられるのだろう。


    おまわりさん、コイツです。の画像

     まぁ、基本、明治以降の日本の宗教史、政治史、経済史、戦争史、文化史ともかかわる問題なんで、簡単ではないが、簡単でないからしなくてよいということにはならないだろう。

     このトンちゃん様のご指摘は、まさか、ブログ記事500回記念ということはないとは思うのだが、重要だと思うので、緊急公開した次第。是非、お読みになられることをお勧めいまします。




    評価:
    価格: ¥4,104
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:めっちゃくちゃ、いい。現代日本での伝道を考えたい向きにはぜひとも読んでおくべき、佛教、神道、儒教的な日本の歴史と伝統を含めアメリカ人に向けて書いた本なので、現代日本人にも有益な情報源となろう。

    評価:
    古屋安雄,大木英夫
    ¥ 3,456
    コメント:お勧めである。

    評価:
    隅谷 三喜男
    ¥ 2,592
    コメント:大変おすすめである。

    2015.02.19 Thursday

    日本型神学を目指したが故の「日本基督教団より大東亜共栄圏…」

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       先日、ある関西での私的な神学サロンに行ってきた。ある京阪沿線の教会で行われている研修会であるけれども、研修会と称するよりは神学サロンという方が近いであろう。基本様々な異なるキリスト教の伝統にのっとっているキリスト者グループから牧師さんたちを中心とする参加者がいろんなネタを持ち寄りながら、ああでもない、こうでもないという楽しい会である。

      サロンのような場での聖戦を巡る議論
       そこで、「聖絶」をどう考えるか問題(予定原稿を見る限り、聖なる戦争、義なる戦争が存在するかどうか問題)のサロンのはずだったはずだったのだが、講師の方の教会員の方がご逝去が近いということで、講師が不在になってしまった。そこで、サロンのホスト(といっても、博多弁でしゃべるヒロシのようなホストではない)の先生が、ご自身のご関心の深いアメリカ神学と聖戦意識を中心にいろいろネタを持ち出しながら話していった。


      一世を風靡したヒロシ

      サロンのような場での話題

       その中で、クルセードという言葉を何の気なしに発言したジョージ・W・ブッシュのように、なぜ、すぐさま聖戦意識になるのか、というあたりを切り口に議論を進めていった。アメリカの憲法修正第1条や教会の関係、アメリカ社会における教会の意義とか、アメリカ人にとって、自由と平等が宗教のようなものであり、それが攻撃されると突然怒り始める国民性だの、アメリカの戦争のためには、何らかの正義の根拠が求められることや、キリスト者の大統領ばかりなのに、戦争していることが多いとか、また、戦争否定の人が多いメノナイト派などでも戦争に対する態度は一様でないとか、カトリックとプロテスタントを巡る現在の関係とか、カトリックの聖書学のあり方に学ぶところが多く、非常に癖のない聖書理解をご提示しておられるとか、とおはなししておられた。

       そのなかで、日本の神学を考える上では、やはり、国家とキリスト教を考えるためには、アウグスティヌスまでもどって考えざるを得ないとか、日本の天皇制をもっときちんと分析する必要があるとか、ドイツルター派の思想と大日本帝国と、大日本帝国憲法との関係などを含め、日本の神道理解を文化的レベル、古代神道のレベル、国家神道のレベル、中世民衆史のレベル、民族誌のレベルにわけて、議論する必要がある、などといった高尚なディスカッション(決して雑談ではなかったことは断言しておこう)を楽しんでいた。

       
      ジョージ・W・ブッシュのIraqでの戦闘開始の時の発言(アメリカでその時に見ていた)


      基本、アメリカの神学の影響を受けた日本
       その中で、日本の教会の成立史の検証が必要であり、明治時代のキリスト教が、倫理としてのキリスト教として受け入れられていたこと、一方でユニテリアン的な合理的なキリスト教の影響がありながらも、それに否定的なあまり、聖書原理主義的な動きが生まれたり、それがそのまま、日本の戦前の教会になだれ込んだことや、日本社会で教会が存在することの意義とか、大正期のキリスト教が、倫理の上に教理の理解を深めようとしていたことなどの非常に真摯かつ紳士的で実に印象的な議論がなされていた。

      アメリカ神学の否定と戦争中の日本の基督教
       その議論の過程の中で、北のお百姓トンちゃん様のブログ記事 金の子牛の上の主(ヤハウェ):「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」について思うこと  をブログでご紹介したら、山崎ランサムさまがブログで、もともとご発表論文だったものを記事としてご紹介してくださったり、沖方牧師で大ヒット連載が終わったばかりの大杉さまがまた、ブログで、過去の歴史的文書のご紹介やら、そのおまとめやらをしてくださっていたり、また、敬愛している関口さまが、また、ブログでカール・バルト(以下、バルトと表記する)だから「日本基督教団より…」となったのではないか、と応答を書いてくださった経緯をちょこっとお話ししていた。そうしたら、ホストを務めてくださった、久○さまが、戦前のバルト神学の受容の問題をお話ししてくださり、基本、バルトは、自由主義(リベラル派の)神学であり、いわゆる自由主義神学、科学万能の時代の神学が支配して、それを自由主義神学の内部から否定というか超克しようとしたのがバルトであることをお話ししてくださった。つまり、聖書を合理的に取り扱おうとするリベラル系のドイツ神学の中で、啓示をどう考えるのかを考え、その中でバルトは科学万能時代を支配しようとしたシュライエルマハー(?)との対峙、即ち自由主義神学の中からその限界を超克しようとした、ということは重要ではないだろうか、ということをご指摘いただいた。また、日本は、1930年代まで、アメリカの神学の輸入とその日本での再解釈を倫理の面、そして、教義の面で検討してきていて、アメリカとの関係がまずくなる中で、ドイツの神学を取り込もうとした時に彗星のごとく現れていたバルトに心酔する人々が出てきて、それを吸収しようとしたのではないだろうか、というご指摘があった。

      人生いろいろ バルトもいろいろ

       なお、以下の3枚の絵はカール・バルトとは直接関係ない。


      アニメ バルト

      「バルト 大相撲 日本相撲協会」の画像検索結果
      把瑠都(日本相撲協会)


      ロラン・バルト

       何、これらの写真は三段落ちをして遊んでみたかっただけである。お付き合いいただき感謝。

       なお、カール・バルトはこの丸眼鏡のおじさんです。

      新教出版さんのカール・バルトの本の表紙のバルト先生の写真



      非米国依存の選択肢としてのバルト神学かも?

       このお話を聞きながら、あぁ、アメリカや大英帝国の神学を否定しようとしたがゆえに、結果として、それらの国家と対峙関係にあったドイツに目を向けざるを得なかったのかもしれない。従来幅広い日本のキリスト教が、伝道や教会運営の面で米国にかなり大きく依拠し、神学的思惟に関しても科学万能の時代、金ぴか時代のアメリカに依存してきた結果、アメリカの神学を席巻していた自由主義神学、リベラル派的な神学を否定しようとするためには、自由主義神学を内部から突き崩そうとしたドイツ神学、中でも、バルトに向いていかざるを得なかったのは、ある面、理の当然か、とミーちゃんはーちゃんは思ったのである。なお、フランスなどの他の西洋諸国は、基本カトリック国なので参照不可であったり、北欧は研究者が少ないので、目が向かなかったのかもしれない。

      非米国型合理主義的信仰の否定
      としての日本の神学とバルト

       それ故にやたらと勢いがあって、鼻息の荒かったドイツ神学、さらに、その中でも、合理的な志向性以外のものも受け入れ可能に見えたバルトが選択されたのだろうかとミーちゃんはーちゃんは思ってしまった。つまり、合理的なものだけではない事柄を受け入れ可能に見えた神学としてバルト神学が選ばれた可能性はないだろうか、ということを考えた。すなわち、日本精神、『やまとごごろ』をキリスト教に接ぎ木する存在として、バルト神学が選ばれてしまったという不幸なことがあったのではないか、ということを思ってしまったのである。そして、バルト神学風の非バルト神学が日本で作られた結果、「日本基督教団より大東亜共栄圏にあるキリスト教徒に送る書簡」という文章がつくられたのではないか、という実に厨二病患者らしい気宇壮大といえば聞こえがいいが、めちゃくちゃな仮説を思いついてしまった。

       確かにバルトは、ナチスドイツに抵抗したというよりは、多分ナチスドイツをスルーしたのではないだろうか、と思う。まぁ、スイス人だったということもあるのでしょうけど。このあたりは、ドイツ語をきちんと読める碩学と日本の歴史神学に興味をお持ちの方に是非ご検討していただきたい作業仮説だなぁ、と思う。ミーちゃんはーちゃんは、ドイツ語読めない(読んだら頭が痛くなる)ので、あきらめている。自慢ぢゃないが、第2外国語はフランス語であったので。

       まぁ、キリスト教学を傍目で面白がっている素人が考えたことなので、個人的には帰無仮説(Null Hypothesis)と対立仮説(Alternative Hypothesis)を

      H01:大日本帝国にふさわしい神学だからこそバルト。(帰無仮説)
      H11: H01でない(対立仮説)

      H02:バルトだからこそ、「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒への手紙」(帰無仮説)
      H12: H02でない (対立仮説)

      として設定して、H01とかH02の仮説棄却されたら、まぁ、それはそれで、そうだったか、と思うだけである。誰か、この帰無仮説H01とかH02とが意味がなかったと証明してくれないかなぁ。まぁ、無に帰するようなナンセンスな仮説だから帰無(Null)仮説というのだが。

       誰か、まろのために、やってたも〜〜〜(久しぶりにおじゃる丸登場)







       
      評価:
      J. I. Packer
      Eerdmans Pub Co
      ¥ 1,410
      (1984-07-01)
      コメント:良いと思います。

      評価:
      ---
      ジェネオン・ユニバーサル
      ¥ 1,000
      (2012-11-02)
      コメント:アラスカで伝染病のための薬品を運んだ名犬バルトのアニメ

      2016.02.06 Saturday

      上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(1)

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        今回は、上智大学大阪サテライトキャンパスでの川村先生の公開講座に出席してきたので、その記録を2回でお知らせしようか、と。

        高山右近先輩について
        高山右近が今年列福(現在は内定状態)されるが、その生涯を年表風に書いて並べて解説すると面白くないものになってしまう。それは、一般の社会の歴史や戦国時代史とキリシタン史が分かれていて、その関係がよくわからなくなるからである。キリシタン史の研究者は、概してキリシタン史のみを語る傾向にある。実は、高山右近の高槻にいたことが重要であり、畿内のキリシタン全部が高山右近と畿内の政治情勢とがかかわっている。なかでも、河内が畿内のキリシタンの土壌であるが、それは、河川交通が河内では発達していて、非常に便利であり、河内が京都や大阪と密接につながりがある要因が見逃されている。

        高山右近が活躍した時代は、室町幕府が傾いていって、織田信長が登場する時代であり、摂津とはいえ、高槻と河内が関連した動きをしている。高山右近の高槻入城は乗っ取り事件といわれるが、和田惟政から奪い取った形の入場である。この高槻入場は、荒木村重の反乱とパラレルに考える必要があり、高槻の裏には荒木村重の存在がある。荒木の反乱と回心の時期が微妙に重なっている。(この辺の詳細、今回はつまびらかならず)

        高山右近は、本能寺の変で山崎の戦では、大勝利をおさめ、最前線にいた人物であるが、賤ヶ岳では戦わずして逃げている。その意味で、英雄的な側面と、ダメな人が高山右近の中で、併存している。



        この賤ヶ岳の戦いの後、高山右近は明石に転封されるが、加増されているから、栄典だ、とキリシタン史を見ればおもいやすいが、そうでもなさそうである。この時期を一つで考えると、伴天連追放令とのかかわりを考え、秀吉と高山右近との関係をもう少しきちんと追った方がよいのかもしれない。この後、川村先生は、今年教文館 から出る本のステルスマーケティングをこっそりしておられた。

        前半は、フランシスコ・ザビエル の世界史的意義を考えたい。ある意味で、当時のヨーロッパ社会における、日本の情報発信者であり、初めて、ヨーロッパの地図に、日本を載せた人でもあるし、後のオリエンタリズムにつながる、日本への期待を持たせた人ともいえる。(さすが、上智大学の去年のポスターみたいなことをおっしゃる)


        後半は、ヴァリニャーノが日本に西洋からのキリスト教を持ち込むときの障害にどう対応したのか考えたい。


        日本を中心とした交流史
        これまでの交流史はどちらかというと一方向的な交流を想定してきた。つまり中心があって周辺がある形、ある種帝国主義的な形の影響を考えてきたが、実はこの時代というのは、双方向的交流で考えた方がよい。ジョセフ・フレッチャー Joseph Fletcher(1934-84)という西アジア史の専門家がハーバード大学にいたが、彼の説によると、1500年前後は、は世界史的な大きな転換点であり、一種の統合の歴史 Integrated Historical Momentであったとされている。それというのは、様々な自己完結した領域型国家が様々な観点で交差しており、ムガール帝国、明、サファヴィー朝イラン、オスマントルコ、モンゴル周辺諸国、モスクワ公国が交差している。
        その状況の中、ポルトガル領インド(海からアジアに入るヨーロッパ人)を経由して そして日本にザビエルは来ている。

        接続された歴史
        サンチアゴ・スブラフマニヤムというインド史の研究者であり、UCLAの教員が名古屋大学出版会から『接続された歴史 -インドとヨーロッパ-』という本を出しており、その中で、「接続された歴史」という概念を提案している。

        当時の文化は、多様な文化が併存する状況(juxtaposition)であり、共存co-exustanceの強調があった。それは、文化の混交、総合ではないと考える方がよく、18-19世紀の帝国主義の時代に起きた文化の総合や混交とは異なる。双方向的な交流が生んだ、文化の併存状況であり、ヨーロッパが中心で支配するという構造ではなく、他の地域へのヨーロッパの影響は、それほど強くない。ヨーロッパにNoといえた時代である。東洋進出でも、1500年前後とその後の18・19世紀の東洋進出は、同じ東洋進出でもかなり違う。

        大航海時代の日本情報
        1502年 「マルコ・ポーロ」のポルトガル語版が出版される。編纂版が出版され ジパングをはじめて認識された。ベネツィア人ニコラオが書いたとされる。
        1543年 エスカランテ報告が存在しているが、一応自己申告で来日経験ありとする記録にある。メキシコ総督メンドーサによるアジア艦隊の一員として到着したとされるが、その後捕虜としてリスボンにいたことがわかっている。

        1548年 ジョルジュ・アルバレスの日本報告がある。ヤジロウをザビエルに紹介したことが書かれており、記録によれば、マラッカでザビエルとヤジロウが出会っている。ザビエルに依頼を受け、日本情報を書いている。
        1548年 ニコラオ・ランチロット(ゴアの聖パウロ学院院長)の日本情報があるが、かなり、日本情報が集まっていた

        1574年 フラン・ロペス・デ・ベラスコ 新大陸の日本記事がある。

        この時期、世界に認識され始めた日本という存在がある。

        地図に存在する日本を追ってみたい。(これは地図マニアの血が騒いだ)


        インド北部と大タタール図
        赤線部分を拡大しました。日本だそうです。
        Tabula superioris Indiae & Tartariae maioris (http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/start/sel=13/)

        半島なのか島なのかはっきりしない。ドイツ語表記

        ボルドーネの世界島嶼集の世界図の極東部分の中にも同じ図があり、書物の中に島国として書いた、ヨーロッパ最初の印刷物の一つとして挙げられる。

        1550年 セバスチャン・ミュンスターのアジア図の中にも表れており、四国が Tonsa 土佐と表記されている。


        ミュンスターのアジア図 http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1550-KB1-1/zoomone/


        拡大図

        この島は銀の島ということが知られている。1540年代には、フィリピンのスペイン商船が太平洋航路を経由して、フィリピンとメキシコを移動している。地図の面白さは情報があればあるほど詳しい地図が書いていかれることになる。その意味で、新しい情報があれば、その情報が書き加えられていくのが地図である。


        1570年 アブラハム・オルテリウスのアジア図
        http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1570-KB1/zoomone/より

        Tonsa(とさ) Bungo(ぶんご) Amanguco(やまぐち)の文字が見える。

        なお、石見銀山1533年に精錬された銀輸出が盛んになり、当時の世界の1/3の銀を産した時代があり、それが文字として銀鉱山の存在が地図上に記載されることになる。


        1570年刊行のアジア図 大シャム国(元) 
        http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1570-KB2/zoomone/


        1570年刊行のアジア図 大シャム国 日本付近拡大図
        Tonsa Bungo Amanquno(とさ、ぶんご、あまくさ?)がみえる

        Bandumia(坂東が出てくる。恐らく、足利学校のあったあたり)、Meaco(みやこ)Minas da plata(銀鉱山)の文字が読める。


        1595年 ルイス テイシェラLuís Teixeira 日本図 

        1595年 ルイス テイシェラLuís Teixeira 日本図 拡大図
        日本国内の地域に関する相対的位置関係の精度は向上している。ただし、朝鮮半島は島として描かれる。


        ゲルハルト・メルカトルアジア図 
        http://laures.cc.sophia.ac.jp/laures/pageview/type=map/image=JL-MAP-1600-KB1-5/zoomone/


        ゲルハルト・メルカトル アジア図 拡大図 
        鹿児島 (Cangoxuma)、 都 (Miaco)、 山口 (Amanguco)、 坂東 (Bandu)、Negru(根来?)等がみられるが、総体にかなりいい加減な配置となっている。(アジア図だから、かなりいい加減だというのはあるかもしれない)


        ポルトガルとスペインの世界
        日本にはポルトガル船でやってくるのは、トルデシリャス条約 1893年であり、これは、ポルトガルスペイン国王間での取り決めである。それ以前に、東漸した地域はポルトガルによる強化圏で、西側は東経38度線までとした。これ以前にポルトガル王スペイン王の了解なく惹かれた、 Line of Pope Alexander VIという世界史的境界線がある。

        とはいえ、現在のフィリピンはスペイン領であるが、ボルネオ島やマラッカ諸島は、スペインがポルトガルと交渉して、支配権を確立した結果である。

        スペイン 地球西廻りで征服し、植民地化を行った。その結果として支配地域のキリスト教国化を反対者がほとんどいない形で、征服が先にあり、そのあと宣教していった。なお、長崎殉教した28人のうち、23人が、フランシスコ会の中でも、最も厳格派の洗足派であった。また、スペインが、レコンキスタを行って領土回復したこともあり、レコンキスタのメンタリティにあふれた国家であった。

        ポルトガルは地球東回り 「抗争」か「順応」かで宣教していった。簡単に崩せなかった、イスラム教徒やインドのヒンドゥー文化、そして中国・日本という、独立して存在している簡単に凌駕できない文化が存在する中で伝道していった。その意味で、白地図の上に線を引くようなことができなかったアジアに対し、中南米は軍隊で、熱したナイフでバターを着るように伝道できたスペイン系のカトリック教会がある。サラゴサ条約(布教保護圏の領域決定に関する条約)では東経133度線が教会なのであるけれども、日本の存在は認識されなかったため、日本に関する宣教地の分断はされていない。

        インドより西側のポルトガルの植民地は、ゴア、カリカット、コーチン、マカオであり、海上基地とその周辺を抑えるような植民地経営をしていた。ところが、アメリカや、アフリカでは、内陸までが領土とされており、かなり経営が違う。
         


        ポルトガル海上帝国 Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Portuguese_Empire から

        ------個人的感想-----
        この図を見ながら思ったのは、アジアを経営する場合、兵站距離が伸びることなどもあり、拠点型であったのであろう。これと同じようなことした地中海世界の国が過去にあったことを思い出したのだ。それはベネツィアである。詳しくは、塩野七生女史の『海の都の物語』でも読んでもらうことにして、完全に拠点型のアドリア海、地中海、黒海世界の支配をしたのである。まさに本土人口の少ない場合の海洋国家(海軍軍事国家)としてのベスト戦略をアジアで実際に行ったのが、ポルトガルであり、後の大英帝国である。

        ベネツィアの支配領域図 https://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Venice
        ------個人的感想-----

        印刷物と宗教改革時代
        ゴアのイエズス会あてのザビエル書簡(1549年11月5日付) ザビエル書簡がトリエント公会議で、多くの司祭が悲嘆にくれた公会議の中で読み上げられることになり、その結果、トリエント公会議の司教団はどうもが善やる気が出たようである。そして、この書簡が、印刷され、1552年に印刷された最初の書簡集がでる。

        AVISI PARTICOLARI delle Indie di Portogallohttps://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/senk17.htm
        京都外国語大学所蔵


        宗教改革は、当時のIT革命であった印刷文化に支えられた時代であるからこそ、起きたといえる。慶長少年使節団に謁見した教皇は、一つの島(ブリテン)を失った( 英国国教会の成立のこと)がその代わりに一つの島(日本)から人がきた、と痛くお慶びになられたようである。


        トルセリーニにより1594年にザビエル伝が刊行されている。(画像のソースはこちら http://blogs.yahoo.co.jp/dogstar500ml/12669004.htmlから拝借)  おそらくここの挿絵がそのご教科書に乗る小学生の社会科のヒーロー、ザビエル(小学生男子は禿が好き)の原型になったものと思われる。

        アレッサンドロ・ヴァリニャーノの自筆原稿が残っているが、ヨーロッパの紙とインクだとぼろぼろになっているし、裏移りがひどいが、同じヴァリニャーノの自筆原稿でも、和紙に黒墨で書いたものは、裏移りがしていない。バリニャーノ自筆書簡と書名を比較することで、現在伝ヴァリニャーノの書簡はほぼ真筆であることが確定で来ている。なお、イエズス会員については入会時の自筆のサイン署名が残っているのでそれで参照できる。なお、当時の日本の神(わし)が西洋で高く評価されたことは、江戸期長崎からの輸出品の最大のものの一つが和紙であったことからも分かる。

        歴史資料としての宣教師文書
        フロイスの記述を証明する考古学成果がいくつも存在する、約20年くらい前の1990年代くらいまでは、宣教師の偏見があるかもという説があったが、現在では発掘調査などによりその正確性が確認されている。特に、フロイスはメモ魔であり、岐阜城に関しても、山上とふもとの宮殿があった、とフロイスは記載しており、信長はふもとの宮殿に住んでいたという記事が残っている。岐阜城は稲葉山の山上に位置するという説が有力であったが、近年の発掘結果によれば、ふもとの方が大きい館であることが明らかにされるなど、その信ぴょう性が発掘結果からも確認されている。また、安土城の礎石研究から、宣教師の記載にある空中通路(本丸と天守閣を結ぶ空中廊下)の存在が、確認されている。

        キリシタン大名としての大友宗麟
        豊後の大友宗麟は、なかなか評価が定まらないが、非常に面白い人物である。今、大分は南蛮都市ということで売り出しをかけている。駅前にはザビエルの銅像が立ったりしていて、陶板画の世界地図なんかがあるらしくって、駅前広場が面白いらしい。


        大塚オーミ陶業株式会社様からの借用 https://www.ohmi.co.jp/news/9700/

        戦国時代大名でありながら、キリシタンになって、薩摩に敗北した人という江戸時代の大友宗麟のがた落ちしたイメージのみが伝わっている。それはある面、江戸時代の色眼鏡での見方の影響を現在も尚、受けているといえよう。大友宗麟は、6か国の守護であり、南蛮文化の取入れを行った人物であり、その点では面白い人物であるとは言えるのではないか。

        大友宗麟は豊後府内病院とその周辺を整備し、病院を建てさせた。府内古図といおう大分市内の古都があるが、この子図を見る限り、天守閣が中心ではなく、城下町はないような形となっている。大友館が真ん中にある。府内古図の中にキリスト教施設だいうす堂があり、宣教師がいたとされるし、ミゼルコルディアという組もこの中にあり、そこにもパーデレがいた。なお、この敷地内から、墓の跡地が見つかり、ここから乳幼児の骨が出てくるが、豊後で、戦災孤児が多かったという宣教師の記述に一致し、こういう戦災孤児を教会で世話したことが想定される。

        この教会敷地の中に、貧者の家があったことが知られており、宣教師の医療補助を手伝った12名の信徒がいたことが知られている。五野井隆史 東大史料編纂所 研究紀要14 2004 がその内部構造の研究をしているが、1560年代には病院はなかったんではないかと思う。なお、病院は 重い皮膚病患者のケアをした病棟が別棟であったものと思われる。

        コスメ・デ・トルレスは文化適応主義として、日本宣教の方策をとったが(これに関しては次回分で紹介)、それとともに、この医療による奉仕は、極めて重要であった。ルイス・デ・アルメイダという人物であるが、もともとユダヤ教徒の商人であったが、改宗したのち、イエズス会入会し、彼がささげた試算により、極貧状態にあったイエズス会が豊かになった(そんな過去があったなんて知らなんだ)。そして、豊後で病院での医療にあたる。そして、それを補佐した人々が、日本最初のボランティアとしての存在であり、病院を手伝い、信徒グループを形成した。それが、慈悲の組の形成とつながっており、コンフラリア(友愛会)である。

        『ヨーロッパ中近世の兄弟会』では、その詳細が紹介されており、コンフラリアはその一種で、豊後大分では、死者の埋葬と病院の経営にあたっていたようである。平戸の葬列について、1555年 ルイス・フロイスの記述があるが、これは、ヨーロッパのコンフラリア式の埋葬を完全コピーしたものであり、サカラメンタ提要にある埋葬するときの歌を歌ったことなどが記載されている。なお、高山右近はそれを高槻で完全コピーして再現したようである。その意味で、治療の手立てのない病人の世話 Careと死者の埋葬という役割を担っている。

        死者や病者に関しては、触穢思想との関連、日本にけるタブーの抵触をだれがするか問題と深くかかわっており、死者や病者のケアすることは、直接触穢概念と向かい合うことであった。それをあえてしたのが、慈悲の組(こんふらりあ・みぜりこるぢあ)の活動である。なお、触穢の思想は10世紀にはあったことが知られている。

        こういうことを考えると、キリシタン史をキリシタン史ですることは意味がなく、当時の歴史的環境と接続して考えないといけないのではないか。
         
        -----------今回の個人的感想-----------

        『新しい中世』という本がある。インターネットが出始めのころ、これから情報技術社会がつながることで世界システムがどう変わるのか、ということを書いた本である。つまり、公共圏という言葉を使わずに、公共圏が小規模化し、分散多元的に存在する可能性を示した本である。
        まさに、多様な文化が併存する状況(juxtaposition)であり、共存co-exustanceの強調が起きるのではないか、ということが記されていたのであり、それが空間を超え、サイバー空間上に小さな文化コミュニティを形成しながら、文化的にそれぞれのグループが別のグループに影響しあいながら、世界が形成されていくのではないか、という現象を示した本であったように思う。

        ちょうど1500年代の大航海時代の始まりには、このような多様な文化が併存する状況(juxtaposition)で空間に制約される形で併存し、それが大航海時代という時代で実物の人間というメディアを通して触れ合うことを通して、変容もしていくし、他の文化の併存状況を認知していくこと、そして、当時の国際通貨銀という物質のメディアを通して、それぞれの社会構造が変化していくことなどをたらたらと妄想しながらニタニタしていた。(擬音語が多いのはしょうがない。関西人であるからである)

        それはそうと、アメリカという新大陸で、軒並みつぶしてしまえみたいな形で布教したスペイン、その後の多くの信仰集団が併存した市場化したキリスト教社会の原型を作ったアメリカ建国の父たち、そしてそうでありながら、何でもアジア的なもの、日本的なものを否定しまくり、キリスト教プロテスタントならなんでもいいという感じで日本で戦後伝道したキリスト教伝道者たちの姿を考えると、アメリカ南北大陸で、ちょうど温めたバターナイフでバターを切り出すようにして伝道できた過去を持った人たちの精神性が日本の戦後伝道とその副作用を未だに負わされている日本のキリスト教の信者たちというのは、まぁ、ろくでもない罰ゲームの後処理をさせられているような感じがするが、まぁ、聖書主義というのであれば、基本的に個々の信徒が聖書に向かいつつ、誰かから与えられた伝道方法を固守するのではなく、自分でどうしたらいいのか、やりながら考えた方がよほどよいような気がするか、違うだろうか、ということを考えた。
         
        しかし、アメリカ人の都市計画は、対象を何もない原野を切り開いてきた人たちの都市計画であるので、計画の対象地を白地図で、そこに銅線を引いても問題ないと考えるタイプの都市計画であった。自分が暗に大学生のころ理想とした都市計画もそんなもんだったし、どうも、今になって思えば、ミーちゃんはーちゃんの師匠筋の先生方も、お若いころはそういう都市計画をまい進されたのかもしれない(その結果が日本住宅公団、現URのいわゆる団地であるのかもしれない)、と思うようになってきたが、まぁ、日本のように長期居住がされている地域に手出しするには、そうというの構想力と適応的な手法が必要であるが、若者であったミーちゃんはーちゃんにはそんなかったるいことや権利関係の後処理をするなんてめんどくさいことはやりたくなかったのである。今では愚かだったと思うけど。

        なお、この回は、地図屋としてのミハ氏を狂喜乱舞させた。今回は古地図の変遷の歴史でもあったので(メインはそっちではない)、非常に楽しかった。

        そして、今回思ったのは、キリスト教教理史や日本のキリスト教史の資料は随分整備されてきて、日本でも手に入りやすくなったし、資料はそろって来ているけれども、一般の歴史との接続がキリスト教側でも弱いし、逆に政治史や近世史をおやりの方々の宗教音痴は絶望的な気分になる。この辺、もうちょっと適切にやる必要があるようには思う。
         
        この連載は後1回続く。

         
        S.スブラフマニヤム
        名古屋大学出版会
        ¥ 6,048
        (2009-05-25)
        コメント:図書館でどうぞ

        ---
        東京大学出版会
        ¥ 10,584
        (2014-10-06)
        コメント:マニアックな本なんで図書館でどうぞ

        田中 明彦
        日本経済新聞社
        ---
        (2003-04)
        コメント:図書館にはあると思う。かなり1990年代には流行ったので。

        2016.02.08 Monday

        上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(2)

        0

          今回も、上智大学の公開講座で川村先生のお話を聞いた記録をご紹介したい。前回 上智大学公開講座2016年1月30日に行ってきた(1) からの続きである。

          ------------------

          16世紀 浄土真宗(一向宗)、日蓮宗、キリシタンがかなり人々の間に影響を与えた。こういう民間ネットワークの形成、領域を超えた政治介入を嫌う組織の存在を当時の支配者である織田信長・秀吉がきらった面があるだろう。高山右近を明石に転封したのは、このような民間ネットワークからの切断・分離を狙ってのことではないか。

          ところで、当時のメキシコ・フィリピンの太平洋航路は、スペイン海軍船で運用されたが、ポルトガル人は、スペイン王に戦争しても勝てないと、警告した記録があり、簡単に日本をスペインが南アメリカでやったような形で占領できると思うな、といっている。
          こう思った背景には、日本人をポルトガル人が怖れていた部分があるかもしれない。鉄砲伝来といっているが、彼らは現物の鉄砲を見せはしたが、渡したわけではなかった。ある面、鉄砲を見た日本人が独自に考え出した。19世紀の武器の輸入品とは違うのである。
          -----豆知識------
           実は、鉄砲の製造で難しいのは、爆発力に耐えうる銃身の構成と銃尾にあって黒色火薬の爆圧を受け止める部分である。銃身が爆発に耐えるように、鋳鉄に鋼鉄の帯を巻き付けるかたちで、強度を増すことができた。問題は銃尾である。銃尾を一体形成するためには、よほどまともに鋳造する(青銅砲はこのタイプ)必要がある。このために、西ヨーロッパでは教会の鐘を作る鋳造職人が青銅砲の製造にかかわっていく。ところで小銃の安全確保を確実にするためには、滑空銃内部の保守が必要である。この保守の容易性を考えた際には、銃身と銃尾が解体でき、銃身の内部(当時は銃身に螺旋が切られていない滑空銃であり、ライフル銃ではなかったために命中精度が悪かったことが知られている)を清掃できるようにするために、銃口から銃尾に向けて筒状になっていることが求められる。この時に問題になるのが、尾栓と呼ばれる銃尾のふたの部分である。黒色火薬といっても銃身内での爆圧はかなりなものになるので、この鼻尖をどうするのかが問題となったのである。当時の日本には、摩擦と組み合わせによって部品と本体を固着する「ねじ」という構造が一般に知られておらず、このねじに最初に出会ったのが、火縄銃でなかったか、といわれている。


          マンガに出てくる『日向ねじ』(本文と何の関係もありません)
          -----豆知識------

          文化邂逅のプランナー アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
           現代ヴァリニャーノという人物の存在がほとんど知られていない。マカオにあるセントポール教会の祭壇に葬られたとされている。

          この人物の出生地は Chietiであり、スペイン王国配下のナポリ王国の一部である。その意味で、他文化の中で生きた人であり、1539年 イタリア半島に生まれ、その後、パドバ大学で学び、1566年に、イエズス会に入会する。
          その後の略歴をまとめるとこんな感じである。

          1573年 東インドの巡察師に任命される
          1579年 最初の来日 巡察師として身に来ている。
          1590年 インド総督使節団として来日
          1598年〜1603年まで日本滞在

          ヴァリニャーノの出身地、ナポリ王国は、スペイン王国配下であり、公用語はスペイン語、イタリア語であった。その意味で多言語多文化世界の中で生育する過程を通して、国際人としての素養を身に着けたといえよう。ポルトガル植民帝国の意識とは別種のものがあった人物である。

          ところで、この時代イタリア出身者は、自分の帝国がない状態であり、イタリアという統一国家すらなく、多数の都市国家の集合体であり、その意味でも、この人物には、都市国家民としての出身意識があるのであり、その分だけ帝国で育った人物よりも、相手及び自己のの文化を相対化しやすい立場であったといえるのではないか。

          ヴァリニャーノは、パドヴァ大学、そして、ローマ学院 (当時のイエズス会の学校)で、天文学・数学を学んだイエズス会の人物であり、ザビエルから30年たった、第2世代の会員である。若くして、ローマでの役務につき、修練院の副院長をするなど、かなり出世頭であり今では考えられないほどの大抜擢であるといえるのではないか。彼は、順応 Accomodatioということを考えたが、このヴァリニャーノの順応は、統一化を図ろうとする16世紀の世界における常識ではない概念である。それは、現地民である日本人を現地の指導者とすることを考えたのは、ヴァリニャーノであり、現地人が指導者となるように取り組まれた事例は日本以外にはほとんどなく、本国スペインの征服概念とはずいぶん違う宣教方法である。

          他文化へのアプローチ
           他文化へのアプローチの仕方には、いくつかある。

          同化 Assimilation  
            本国と同じようにしろ。(これは日本帝国時代の朝鮮半島、台湾、南洋支配で取られた方策)
          順応 Accomodation
           相手に合わせて自分の形を変えながら、自己に関する本質的なものは変えない
          適合 Adaptation  
            ある文化体系があってそれに適合する形に相手も自分も変えていく
          文化的変容 Inculturation
           文化の中に含むような形にする

          ヴァリニャーノは、Inculturationをすると、そもそも別の文化になることになるので、これを避け、自己のものっている信仰自体は、変化はしない形をとることで対応しようとしていったと考えられるのではないか。

          この観点からすると、Accomodationの定義は、仮に合わせていく過程であり、妥協や調停などで個人や集団間の緊張を除去して適切で友好的な関係を作りだしていく過程でもある。

          ヴァリニャーノの著作に日本イエズス会士礼法指針という本があり、原題は日本の習俗と気質に関する注意と助言であるが、この書籍の中に、3つのポイントがあり、ヨーロッパからの宣教師が、日本社会のなかで尊敬を受けるか、威厳をいかに保てるか、そうでありながら、親密の情を如何に示せるか、ということが記されている。

          ヴァリニャーノがこの本を書いた過程で、大友宗麟らの宣教師たちがむちゃくちゃしてたことに対する助言が活かされているのではないか。助言としては、日本人のやり方を見ながら行動し、自分たちのやり方で無理やり通すな、ということが言われている。

          とくに、うちとけさせるためには、挨拶をしなさい、杯と魚のやり取り(宴会に出なさい)、Casa(かざ 教会の敷地内)に住む他人たちとの共存の仕方を覚えなさい、とかいている。宣教師の階級制度は、京都の大徳寺の制度に則って、相似的、比喩的理解を促すような制度後世にしている。

          また、茶室の効能を利用するため、教会敷地内には、茶の湯の間を設け、茶の湯について心得のあるものを置けとまでかいているし、日本人は清潔好きなので、教会敷地内を清潔にしろ、といっている。そして、いつでも使えるように、茶道具をイエズス会の家(かざ Casa)においておけ、と書いている。この本をヴァリニャーノは、来て2年目で書いており、恐らく2年で書いたということの裏側には、多くの人の助言を得て書いていると考えられる。

           ミサの所作と茶の湯の所作が似ていることから、千利休はSt. Lukeじゃないか、という方もおられるが、それは、違うだろう。もし、仮に、茶の湯とミサの類似性があるなら、記述があってもいいはずだが、ヴァリニャーノなどの記録には、その記述はなく、別のものとして書いている。共通しているところがあるにしても、同一のところから出発したという具体的証拠は今のところは見つかっていない。

           とはいえ、ヴァリニャーノは、Accomodationとして、日本の尺度に合わられるところは、合わせながら宣教していったといえる。

           ところで、カトリック教会では、中国宣教を1582年以降実施しているが、そこでは日本の宣教の失敗を活かしている。マテオ・リッチ(ヴァリニャーノの弟子) 1582年に伝道を開始しているが当初は、天文学と数学の知識を皇帝から信頼を獲得していった。

           そして、キリスト教徒でありながら、現地化するため、儒者服を着て活動し、中国宣教を孔子の儒学とのかかわりを考えながら、先祖崇拝への配慮しつつ、実施した。それは、中国典礼問題(完全ヨーロッパ式を排して、儒教の儀式にそってやった)ことと重なる。そして、儒者は被り物を被るので、普通の司祭も被り物を被って典礼を実施した(通常、ヨーロッパのカトリックでは高位司祭職のみ)。


          マテオ・リッチ(画像左 http://www.cathoshin.com/2013/05/17/ricci/)カトリック新聞から拝借
          儒者服を着ているマテオ・リッチ

           マテオ・リッチは、儒教は宗教ではなくて、中国人の習慣であり、キリスト教と両立可能とした。とはいえ、この後にやってきたドミニコ会士がこれを見てびっくりすることになる。そこで、中国のキリスト教は全くキリスト教と違うことをしていると、ダメだししたのである。そのうえに、迫害が発生し、その後信徒ががた減りしている。

           なお、中国典礼問題は靖国問題と同じであり、戦争中の上智大学の靖国神社参拝事件と同じ問題を生んでいる。この安く神社参拝問題と絡んで、戦争中、上智大学がお取り潰しになりかけた。そこで、シャンボン司教が文部省に行って、靖国敬礼が宗教ではないと認めたら、上智大学側として何も問題なしにできる。文部省が、靖国参拝が習慣であり、尊敬であるとされたので、解決を付けたことがある。

          ----靖国参拝問題に関して----
           この問題は、結構ギリギリの選択を迫られた結果としての上智大学の選択であったとはいえ、宗教と世俗の信仰や習俗との関係を考えるうえで、かなり微妙な構造を持っている。そして、習俗なのか礼拝なのか問題は、その人の信仰の在り様にかかわる問題であると思うが、個人的には、そのあたりの切り分けは、難しい。非キリスト教であるからといって、他者の理解を切って捨ててよいものであると一方的に自分たちの主張をすることには、慎重である方がよいのかもしれない。個人的には、神社参拝はする気もないし、したくもない。それは、ヒットラーに対しても敬礼する人々の中で、個人的には敬礼したくないのと同じである。
          ----靖国参拝問題に関して----

          日本最初のヨーロッパ式教育機関 セミナリオとコレジョ
          ヨーロッパの初等中等教育の伝統にそって、日本でも教育がされるようになり、
          リナシメントrinascimento・ウマニスタUmanista (ルネッサンスの人文学風)の教育が行われていた。ラテン語教育がおこなわれ、イエズス会の中等教育の始まりであり、スコラ学と人文学の教育規定に従って脅威ックされていたようであり、特に、ラテン語文法が重視された。イエズス会の学事規定に従い、ドリルと反復中心の教育がなされ、さらに、討議の技法に関しても配慮されていた。

           また、習熟度別教育を実施するために、試験をするという現在にも通じる教育方法がとられ、これは、パリ大学でとられた方式でもあった(パリ大学とは、イエズス会の創始者ロヨラとザビエルが学んだ学校でもある)。

          世界に2枚しか現存が知られていないグレゴリウス13世の功績という印刷物の中に、府内コレジョ、有馬セミナリヨ、安土セミナリヨ、臼杵のノヴィシアード などの画像が出てくる。それほど、注目されていた教育機関であると考えられるのではないか。

           ヴァリニャーノは、ラテン語は普遍語として手抜きを許さず、ラテン語を徹底して教育した。この後に、ギリシア語教育を持ってくるのがヨーロッパではふつうである。

          コレジョの教科書は、イエズス会講義要綱に従っており、このイエズス会の講義要綱は手書き版である。その中には、天球論(天文学)とアニマ論(霊の理解:人間論)が含まれている。そして、その後に神学綱要が置かれている。
           これの一部の日本語翻訳版がイギリスのオックスフォード大学のモードリンカレッジ所蔵であることが1996年に発見されている。

          このタイプの天球論はクリストファー・クラヴィウスのもので、マテオ・リッチがヴァリニャーノの弟子の一人であった。そして、このクラヴィウスの翻訳書が渾蓋通憲図説というk立で中国に伝わる。

          アニマ論(霊性論)
          当時の霊性理解に関して、次のように分解されて理解されていた。

          植物的アニマ Anima Vesetativa(生魂)、
          動物的アニマ Anima Sensitiva(覚魂)、
          理性的アニマ Anima Rationalisとして理解され、この理性的アニマが人間を人間たらしめるもの
          と分けて考えられたらしい。

          アニマというラテン語音を使って、ラテン語音を残すことにこだわっているが、その根源は Deus を大日と意訳して問題を起こしたザビエル時代の反省が生きているのであろう。なお、霊魂というと幽霊を想像するのが日本人であるので、魂と使わずアニマと呼んでいるものとかんがえられる。

          ラテン語版と日本語翻訳版は、ほぼ1対1対応しているが、少しだけ日本語版が長く、ラテン語のオリジナルテキストにない部分が付与されている。その付与されている17ページに関しては、書き込みが多い。特に付加がある部分は、アニマの不滅のテーマに関してである。この背景には、日本人の魂論と、キリスト教の魂論が違う事を説明するためであったと思われる。

          人間は、体とアニマからなり、アニマは不滅であるとする。アニマはこの世のすべてを来世に持ち込むことになり、善をなすものはパライソの至福状態へと移され、悪をなすものはインヘルノの永遠の苦しみへとつながる。そこで、アニマの不滅を強調することはすなわち、来世賞罰の強調につながりかねなかったからである。

          なぜこのようなことを日本人に力説するのか、ということは、当時の日本人から、この理解への抵抗感が恐らくあったことではないかと思われる。輪廻転生的な世界観での敗者復活の機械が存在しないことに関する抵抗があったのではないか。魂の不滅論と法華宗の僧侶と対話し、かなり真面目に対論している。ところで、必ず上りがある法華宗的な仏教や六道の考えにどう対応するのか、ということが求められるのだろう。

           その意味で、この追記部分は、日本人の宗教観倫理観に触れる一側面を語っていて、来世の賞罰が現世における勧善懲悪の教えにつながることを説明し、理性的アニマの知性を自由に用いて、善悪を判断し、それを実行する、また、その努力をなすことを教えたのではないか。その意味で、修徳の概念を示そうとしたものと思われる。

           この時代のカトリックの人間理解は、ペラギウス主義(性善説的)ではなく、日本に多く存在したアニミズム的、汎神論的本覚思想(もともと仏である)でいうような、草木国土悉皆成仏との対立があったのではないか。しかし、宣教師たちの修徳的生き方の勧めは、悪そのものが善ともなりかねないような、日本の宗教的理解への反対論として展開された。ある面で、当時のカトリックの理解が、一種の倫理主義だった面があったようにも思われる。その意味で、当時のカトリックの司祭団に日本人から寄せられたの質問の集大成としての講義要綱であり、それに回答してから、キリスト教の教えを伝えようとしたヴァリニャーノがいたようである。

           ところで、どこまで既存の文化や習俗に妥協するか。抵抗がある時にどう対応するのか、の問題であるが、ヴァリニャーノは、既存習俗や宗教の教義自体は取り入れず、融合するつもりは日本への16世紀の宣教師がなかった。

          人間の自発的行為を大事にした宣教師がいたが、主に仏教徒と論争している。しかしながら、神官とか、神道の教義との対話の記録はない。

          学問と合理性の上にのってキリスト教を説明しようとしたのがイエズス会であったが、このような態度をフランシスコ会は、生ぬるいとした。その代わり、単刀直入に殉教して見せることで布教することを試みた、苦行を重視する人たちがメキシコから来た。それに比べると、イエズス会は順応型であったといえるだろう。

          なお、長崎で殉教した26聖人のうち、3聖人はイエズス会関係者であるが、その一部には、イエズス会に直前に入会したものもいた。実際、石田三成は、イエズス会はあえてスルーをしようと考えていた、という記録が残っている。伝道に関する、方法論の違いがあり、フランシスコ会は貧民の場所で、十字架の苦しみの説教をして確信犯で捕まるために来ているので、あのような殉教のかたちをとることになったのではないか。
          後、質疑応答の場面になったが、あるご妙齢(正確にはご高齢)の信徒さんが、延々とキリスト教はどのようにあるべきかということに関する自説をご主張になり、実りある質疑応答にならなかったのが、実に残念であった。

          ----個人的感想----
          宣教論を巡る現地文化の対応ということを考えると、現地化をどう進めていくのか、というのは非常に大きな問題を個々のキリスト者に迫る。強硬に自分の信仰を言い募る方法論もあれば、完全に現地化して、現地の信仰と習合する方法論もあるだろう。あるいは、そのバリエーションはかなり多数あって、どれか一つが絶対に成功する方法論ではないと思うからである。それはなぜかといえば、伝道は、機械が機械に対してするものではなく、人間が生身の人間にするものだからであり、人と人の組み合わせによるので、そのあたりは、それぞれの人で考えながら、適切に対応するしかないのではないか、と思っている。
          ----個人的感想----

          以上、この連載終わり
           
          A.ヴァリニャーノ
          キリシタン文化研究会
          ---
          (1970)
          コメント:参考文献として。図書館で見るので十分かと。

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