2014.12.27 Saturday

イノベーション・パラダイムシフト・ネットワーク外部性・聖書理解(その1)

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     いつも拝見している「のらくら者の日記」のブログ記事で、

    イノベーションとしての信仰義認

    という記事をあげておられた。池田信夫氏の書籍を引用しながら、

    「信仰義認」という「パラダイムシフト」
     ある視点(非キリスト者のパウロ主義)から見ると、「信仰義認」は「カトリック的な聖書理解」からのイノベーションというか、パラダイム・シフト(多分、Kuhnがオリジナルかも)に見える。

     ということをお書きであった。これはその通りと理解できるであろう。ある程度、行為性(たとえば聖地巡礼への参加)が重要だったものから、「信仰」が重要、「Sola fide」というパラダイムへ移動したのだから。ただ、案外誤解されているのは、「信仰のみ」と訳されることで、信仰だけがあればよい、と日本語の理解で誤解されておられる方が結構おられるが、実は、他にもSolaがある。「五つのソラ」をご覧いただきたい。ところで、NTライトは、Paul in Different Perspectivesの中では、それに、聖霊のみ を加えておられたが。
     ちなみに、信仰のみ、について、最近、少し見直しが入っていることを書かないといけないかもしれない。これは、現場の作業員みたいなことをしているミーちゃんはーちゃんの手に負えないので、こちらをどうぞ。

     ピスティス・クリストゥー


    イノベーションやパラダイムの受容

     また、イノベーションないしパラダイム・シフトが起きる背景として、特定のパラダイムに依拠する研究では不具合が出てきて、それに対する別のパラダイムが選択されるかどうかは、一種の人気投票のようなデファクト・スタンダード・ゲーム(ゲームは、ゲーム理論の意味でここで使っている)に対する人々の動き、すなわち、新しいパラダイムを採用するかどうか、旧来のパラダイムが採用されるか、ということで決まる、ということをご指摘であった。


     これを見ながら思ったことを少し書いてみたい。

    学問分野と最新分野への研究の集中の背景
     学問分野としては、こういうことはまま起こる。研究とはそういうものだと思っている。ある方向性をもった研究分野が学問分野では主流になる。たとえば、ある時期は、マルクス経済学がはやれば、みんなマルクスをやるし、ケインズ経済学がはやればケインズ経済学をやる。さらにマネタリスト派の経済学がはやれば、マネタリスト経済学をかなりの部分の人がやる。いいか悪いかは別として、カッティング・エッジ(最新)の研究をみんなで詰めるのが研究ということでもある。もちろん、学者の全てがはやりの研究に集まるか、というと必ずしもそうではない。

     しかし、最新の(と思われている)研究でないと、論文を書いたところで、評価の高い専門性の高い雑誌には載らないし、勘違いしたレフェリーなどが時に誤解したコメントを寄せてくる。例えば、そんな古臭い研究は意味がないとか。それだけならまだしも、学会の主流に一種の異論を申し立てるような論文を評価するレフェリーやエディター(編集委員)がいなければ、雑誌掲載はほぼ期待できない。

     そうなると、終身の職位を持っていないとアメリカの学校なんかでは冷や飯を食わされることがある。最近、日本でも、若手(いまの40歳以下)では、この手の終身の職位をもたない、教員や研究者が急増している。このタイプの身分だと、論文が掲載されないと、如何に重要な研究であることが後日分かっても、その段階では、下手をすると退職である。まぁ、下手をしなくても、研究補助金の大幅カットなんてことが待っている。

    オボちゃんの悲劇

     オボちゃん(あの、ST●P細胞は・・・の方)なんかのところでは、おそらく時限付研究員で、成果を求められ、何とか世界的雑誌に成果を出すことが求められ、世間の耳目を集めないと、研究プロジェクトがやばい、ということの中で、あの事件になったのではないか、と類推する。オボちゃんは、どうも多くの皆さんは誤解しておられるようだが、正規職員であるものの、いわゆる任期付きの研究者のようだ。



    ネットで拾ったオボちゃんの図


     いま、多くの大学で、この任期付きの研究者や教員が増えている。任期付きの雇用に関しては、いくつか問題があると思うが、それは、ここで述べたいの問題の本質ではない。

    技術標準とマジョリティルールズ

     「のらくら者の日記」でご指摘の点は、まさに、神学研究のはやりすたりの問題を取り上げておられるようだ。技術標準から始まって、このマジョリティ・ルールズ(Majority Rules)の問題は、一見全く関係のないような聖書理解や、信徒の生き方まで、ある標準を採用している人たちの数、ということが重要になってくる場面があるかもね、ということではないか、ということを思った。議論や理論の筋がよかろうが悪かろうが、大多数を握ったほうが結果的に勝ち、という世界である。

     なお、ところで、技術標準には、小はネジの規格(ネジの規格の標準系として、インチネジとメートルネジがある)から始まって、大は発電所の規格まで似たようなことが起きている。この辺りは異なる製造品種の複数の製造企業に御勤めであった「のらくら者の日記」の先生には「イエスに説教、釈迦に説法」であろうけど。なお、ペテロは、イエスに説教している。イエス様からお小言を頂戴しているが。

    本題に戻そう。

    ネットワーク外部性とマジョリティ・ルールズ

     これは、経済学の用語で言うと、ネットワーク外部性(Network Externality)ということなのだろうと思う。つまり、市場において、ある技術標準と別の技術標準のどちらが市場を席巻できるかは技術的な優劣によらず、市場規模によるという話である。より大きな仕様車のネットワークに乗っている方が、規格が同一であることによって自ら何も努力しなくても利益(メリット これを経済学では地代という。なぜならば不在地主で土地を貸している場合、土地を持っているだけで、何も努力しなくても不労所得としての地代が入ってくるからであり、それと似た構造があるからである)が転がり込んでくるという、おいしい世界が待っているからだ。より大きな利用者を獲得することが大事であり、当初無料でサービスを提供しても全くOKなのである。

    PCのOSの例

     情報技術系の昔話で恐縮であるが、その昔1980年代初頭ごろには、CP/M-86 というインテルの8086(いまのパソコンの中央演算装置の原型)で動くOSがあった。もうひとつはMS-DOSである。お若い方はご存知ないだろうが、いまのWindowsの基本的原型というかベースの一つである。なお、個人的には、MS-DOSの上に仮想WindowsをのせたMS-Windows 1.0というのを触ったことがある。日本市場ではリリースはされなかったと記憶している。

     結果は皆さんご存じのとおりである。CP-M/86を知るのは、昔このOSを触った人か好事家だけである。ソフトウェア産業など、初期の開発投資に資金がかかり、利用者が増えれば増えるほど、開発会社がウハウハになるソフトウェア産業でも似たようなことが起きる。NintendoさんとSonyさんがそれぞれコンテンツ(所謂ゲーム・ソフトウェア)を必死で抱え込もうとする背景には、このような構造があるとされている。

    LINEやFacebookがただの訳

     LINEは同種の無料通話の中で、ユーザー間無償ということで、サービスを提供し、いち早く市場を席巻し、利用者を増やすことで、このネットワーク外部性を利用者に提供し、膨大な地代を利用者に発生させた。ソリャ、携帯端末をもった大学生高校生ガンガン使うから、それは巨大インフラになる。ほっといてもそこそこ便利であれば、ご新規さんを自分からあまり広告打たなくても、利用者や既存メディアが取り上げるので、ほぼ努力なしにご新規さんを獲得できる。あとは顧客が逃げないように、新規の機能を追加しておけばよい。
     Facebookもそういう構造だと思う。ただ利用者層は、年齢的にFacebookの方がはるかに高いが。


    携帯電話とネットワーク外部性

      携帯電話会社も似たようなものである。同じ機種での回線利用者が増えれば増えるほど、請求書の発行システムや施設や販売マニュアル、通信マニュアルなどを含めた共有化ができるので、一人の顧客当たりの費用は小さくなる。つまり、固定費が高い産業であればある程、どれだけの利用者を確保するかが問題になるの である。その面で、KDDIauさん、NTTドコモさんがiPhoneを端末として欲しがったのには、ドコモさんやauさんではiPhoneを当初販売し てなかったので、特定端末(iPhone)が利用できないことによるネットワーク利用者の減少に伴う利益の損出が、おそらく看過できないほどの状態を生み出した のであろう。

    通信よもやま話

     一応書いておくが、固定電話回線であれ、無線電話回線(携帯電話の回線)であれ、集中局以上の通信網では、その回線数(帯域の量)は全員が全員通話するフル通話には絶対に耐えられないほどの回線量というか帯域量しか用意されていない。だから、災害時とか新年の明けオメ・コールや明けオメ・メールが集中的に発生する場合、通話や送信が集中するために相手につながりにくくなる。

     これを業界用語で、輻輳(フクソウ)による呼損(コソン)が発生した、という。

     今年も、通信会社の技術者は、この「呼損が出ている、つながらない、つながりにくい」という現象の防止と発生した時の対応に頭を悩ませそうである。別に2014年12月31日の24時ちょうどに送信しなくてもいいのではないか。サーバーやと、エンジニアにいじわるするのをやめてやってほしい。ハッカーじゃないんだからさ。バルス祭りみたいなことしていじわるしたくないんなら。

     
    バルス祭りの瞬間(バルト祭りではない)



     なお、緑電話は優先的発信が可能であるように指定されているので、災害時には、まず、緑電話へGo!である。


    NTTの緑電話(輻輳時にもこの端末からの通話は、優先される)

     余談で、記事が長くなったので、次回へと続く。


    2014.12.29 Monday

    イノベーション・パラダイムシフト・ネットワーク外部性・聖書理解(その2)

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       前回の記事では、「信仰義認」が一種のパラダイムシフトであり、イノベーションとも呼ぶべきものではないか、ということをご紹介されている「のらくら者の日記」の投稿をご紹介し、その上で、学術研究が所謂『最新の研究』に集中する傾向があること、技術標準のうちどの技術が生き延びるかは、基本最大多数の利用者が最大であるということが多く、技術の優劣に関係ない、あるいは、ネットワークの利用者が最大であることでネットワーク外部性が発生し、ネットワーク運営企業とネットワーク利用者に利益(地代)が発生する、ということとその実例をいくつか紹介した。こういうネットワーク外部性は、最近のミクロ経済学の基本的なテキストにも乗っているので、そちらを参考されたい。

      神学または聖書理解に
      流行り廃りがあるワケ

       神学も学問であるとするならば、流行り廃りはあるはずであるし、深井先生の本やフスト・ゴンザレスのキリスト教史関係の本を読んでいただければ、神学の変遷がある程度つかんでいただける。

       ある方はおっしゃるだろう。「聖書が真理の書であるなら、なぜ、聖書理解としての神学と神学的思惟に変遷があるのか」と。

       当たり前である。聖書は変わらないが、人間を取り巻く環境と人間と環境との関係が変わるからである。人間が時代のいきものであるから、その時代に生きる人々に語るためには、使う用語から、アプローチの仕方まで変わるからである。保守的であろうとすればするほど、その表現は変えていく必要があるのかもしれない。同時代人がシニフェをシニフィアンを通して指し示すものとして受け取るために、シニフィアンを変えていく必要があるからこそ、シニフェをきちんと表現しようとする理解の体系、つまり、シニフィアンの体系としての神学は変わらざるを得ないのは理の当然ではないか、と思う。

      神学あるいは聖書理解の多様性

       ある神学理解である国、ないし、ある時代のキリスト教が全て覆われるか、というとどうもそうではないことは、マクグラス先生の「総説キリスト教」をお読みになられればすぐわかる。キリスト教とはそもそも多様な存在だと思う。もちろんベース部分は共通でありながらも、そこから派生した様々な理解や儀式の様式論、考え方は実に多様なのであり、それがすべて「キリストのからだ」をなしていると思うのだが、中には自分たちとその仲間の教会だけが「キリストのからだ」であり、他のキリスト者集団が不純なものが混じっているといったり、ひどい人になると、悪魔の手先扱いする人々が時におられる。個人的にはかなわないなぁ、と思っている。

      マジョリティ・ルールズ?
      それって、赤信号みんなで渡れば怖くない?

       神学者の先生方の世界は知らないが、平信徒レベルであれば、基本的にマジョリティ・ルールズの世界が広がっているように思う。自分たちや、マジョリティの言っていることをうのみにして、自分で考えずに、みんなが行っているから正しいと思う、というような主張が結構見られる。それって、いいのか?と思う。それこそ、

       赤信号、みんなで渡れば怖くない。
       

      の世界ではないか。

      赤信号みんなで渡れば怖くない (1分辺りから数秒後)

       神学にだって、ネットワーク外部性は発生していると思う。あるキリスト教集団で生きるためには、このネットワーク外部性は大きい。程度問題はあるにせよ、神学の世界で生きるのならば、流行りの神学を一定程度おっておけば、渤海の現場ではどうか走らないが、神学の世界では神学が学である以上、批判や避難されることもないだろう。バルトや社会派の一時期の隆盛はそれだったのだと思う。とはいえ、信徒と大きく違う神学的思惟や背景を持つ牧師先生は長続きしない。教会に不協和音が必ず起きる、と思う。

      パラダイムシフトが起きるわけ

       他の学問がそうであるように、神学も似たようなところがあるのではないか、と思う。ある神学が社会の中において幅を利かせ、それで多くのことを解決した(あるいはわかりやすく説明できた)ように見えた時に、世間というか、キリスト者とキリスト者を取り巻く環境が変わるので、多くのことを説明したとする聖書理解や神学に破綻が生じて、齟齬が発生する。必ず齟齬はでてきてしまうのだ。あるいは、疑問に思う人々が出てくるのではないか。もちろんそれがすべてだとは言わないが。

       疑問に思う人が出てきたときに、その疑問を持つ人々がそもそも少ないし、疑問をもったとしてその人々の大半は、「まぁ、みんなが言うのだから」あるいは、「それが主流だから」ということで、それに疑問を持つのをやめてしまうことが多いように思われる。

       その中で、あえて疑問を持つ人は、非常に少ないし、他者から理解されない中で、疑問を持ち、それを言い続けられる人は少ない。ミーちゃんはーちゃんは、基本コドモなので、これをやれる。

       この突拍子もない考えが、あれ、案外そうかも、ということが広く一般に受け止められると、パラダイムシフトは一気に起きる(これは次回以降の連載でもう少し詳述つする予定)。

      相手の論理と言語で説明する必要性

       ただ、ミーちゃんはーちゃんのように、いいたいことだけを言っているようではダメなようだ。相手の論理と、相手の論理を構成する用語を理解し、それを使いこなしたうえで、自分の論理や理解を相手の土俵で、相手の用語で自説を相手に届くように話す必要があるのだ。それができて初めて、対話となる。しかし、ここまでできる人は少ないと思うのだなぁ。

       学問の世界でパラダイム・シフトやイノベーションが起きるためには、こういうことができる人の存在が必要だと思う。だから、学問の世界はちまちまとしたイノベーションが起きているのだと思う。拾楽の枠を大幅に超えるジャンプのような研究は少ないことは素朴に認めたいと思う。

      パラダイムシフトが起きるためには

       そのためには、現在のパラダイムに違和感を持っている側が、相手の土俵で、相手の論理を使いながら、相手のことばを使って、説明する必要があるのはもちろん、批判された側も、批判する側を理解しようとする精神をもって、対話をする姿勢があって初めて、パラダイムシフトは起きるのだと思う。つまりオープンな精神性を、その社会が持っているかどうか、ということが問われているようだ。

       それをどこかの組織のように、「そんなことは聞いたことがない」といい、「ある理解とそれを保持している人のみが受け入れ可能で、それ以外はあかんのちゃうか」と言って切り捨てるようでは、あかんのちゃうかと思う。こういうある種の理解のみが支配する世界は、結構アメリカの福音派で多いらしいし、日本の福音派系の教会でも多いかもしれない。

       アメリカの福音派での新しい理解への対応について、アメリカの福音派の神学者が書いた記事のご紹介はコチラ。


      福音派と聖書 米国の場合 その1


       日本の福音派は米国の福音派に大きく依拠していることは歴史的にほぼ間違いない、と思っている。1月に、大阪の大学で、このことを英語で話すことになってしまった。行きがかり上しかたがない。クリスマスも正月も返上でいま必死でプレゼン資料作っている。

       ところで、パラダイム・シフトや革新的なことがなかなか受け入れられないことは、学問の世界や信仰理解の世界でマジョリティ・ルールズが働いているだけではない。ほかでもあるようである。知り合いのコメの育種家が開発して、非常に良い特性を持つコメの品種が固定種となったらしいのだが、様々な大人の理由で、それの普及をさせないということになった。こういう事例というのは結構あるらしい。実に残念なことである。


      「レヴィナスと愛の現象学」から考えた
       最近、内田樹氏の「レヴィナスと愛の現象学」(文春文庫)を読んでいて、こういう記述に出会った。

       レヴィナスはほとんど障害をかけてハイデガーを批判したが、それはハイデガーを哲学史から抹消するために出派にあ。レヴィナスはハイデガーの存在と時間を読んだ時の衝撃を【一読して、ただちに彼が歴史上最大の哲学者の一人であることを知った。(…)どのような仕方で哲学史を編纂しようと、ハイデガーの名がそこから漏れることはない」という最大級の賛辞とともに回想している(EL., p87)。その一方で、レヴィナスはハイデガーとナチズムのかかわりには手厳しい非難を向けている。

          赦すことのできるドイツ人は多くいます。けれども許すことの
          できないドイツ人もいます。ハイデガーを赦すことは困難です。         QLT, p.56)

       しかし、この評価の揺れはレヴィナスがハイデガーからその「最良の部分」を受け継ぐこと、ハイデガーとの「対話」することを、少しも妨げなかった。なぜなら、「条理途上リトの堂々たる戦い、怒りもねたみもない戦闘、そこにこそ正統なる思考は存立しそれこそが地に平和をも足り式すのである」(DL, p.48)という言葉こそレヴィナスの揺るがぬ信条だからである。レヴィナスの批判は誰に対するものであれ、敬意の表現であり、哲学史上の位置にふさわしい信を送るためのものである。レヴィナスにとって「批判すること」は「対話する」ことと同義である。「パリサイ人」レヴィナスが求めているのは終わりなき対話なのである。(pp.104-105)


       こういう「人格や人物、引き起こした出来事」と「哲学なり、理解」の切り分けが大事なんだと思う。人格と哲学や聖書理解を混同している人、どの世界でも多すぎなんで、困っている。誠意と信実、あるいは中身のある「パリサイ人」でない、なんちゃって「パリサイ人」が多すぎて困る。

      キリスト教界と異論

       以前、これらの記事でも紹介したが、


      枠を出ることの重要性を示す名著 預言者の想像力

      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5)

      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(10)

      本来キリスト教会自身、また、キリスト者自身、預言者としての性格をもつものであろうと思う。常に自分たち自身のあり方を見つめ直し、神の御思いが何であるかを探るのがキリスト教会が置かれている役割ではないだろうか。それを思う。そして、他人への尊敬と愛をもって、神の愛の世界に新しい他者を受け入れていくのがキリスト者としてすることではないか。自分や自分たちと意見が違うから、と言って切り捨てするのではなく。

       以上で一応、この連載は終わりです。とは言いながら、次回はこの連載の派生記事を少なくとも3回、継続する予定です。お楽しみに。






      評価:
      フスト ゴンサレス
      新教出版社
      ¥ 5,400
      (2010-05-25)
      コメント:このシリーズ、高いけどいいよ。

      評価:
      アリスター E.マクグラス
      ---
      (2008-07)
      コメント:いい本なのになぁ、翻訳はちょっと(かなり)問題があるけど。

      2014.12.31 Wednesday

      イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (1)

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        ゲーム理論の説明


         イノベーション関係でのらくら者の先生が面白い記事をお書きであったので、調子くれて記事を書いていたら、ゲーム理論がわかるように説明してほしいと言われたもので、わかるように説明してみましょうか、と安請け合いしたものの出来るかどうか不安ですが、やってみようかと思っています。

         まずは、例題として、男女間のバトルという有名なゲームから説明してみようかなぁ、とおもいます。まず、男性と女性二人の好みが違いのある人が1台しかないテレビで、どちらか一方の放送をライブで見ようとしている状況を想定してください。それぞれの好みを次のようなものだと想定してください。

        問題の設定

         男性は、アメフトのローズボールをテレビのライブ放送で見るのが好きで、女性は、フィギュアスケートをテレビでライブ放送しているときに見るのが好きな状況を考えるましょう。この時、うちにはテレビが1台しかなく、さらに、同時刻にローズボールとフィギュアスケートのうちどちらか一つを見るかしかないとします。

         この時にどっちの番組を見ることになるか(もめごとが起きかねない状態)、というようなことをモデルにして、単純化して考えるためのツールが、基本的にはゲーム理論ということになります。

         ビデオがあるではないか、という話はいまのところなく、この二人はどちらかしか選択できないものとしましょう。ビデオがあるではないか、というのはどちらかというと、メタ思考的発想です。

        ゲーム理論って何じゃらほい?

         もう少し言うと、社会にある様々な行動や選択の結果生じる利益や損失を考慮に入れながら、その社会の中で関与する人々の間でどういった選択が行われ、その結果どのようなことが発生するのか、ということをごくごく単純化して、わかりやすい例にしたうえで考え整理するのが、ゲーム理論の考え方なんです。


        結果がどうなるかの閉じた扉の先を予測するのがゲーム理論


        最もシンプルなゲームの設定

         かりに、ローズボールをライブで見た場合の男性の嬉しさは、3万円分の現金プレゼントをもらえた時の憂いさとしましょう。しかし、女性は、いやいやローズボールを見るのに付き合って見るので、悲しくはないけれどもつまらないので、いまと大差ない状態としましょう。つまり、うれしさは0円分と想定します。

         逆に、フィギュアスケートを見た時の女性の嬉しさは、現金3万円プレゼントと同じぐらい嬉しいとしておきましょう。その時、男性は、悲しくはないけれども、我慢してみるので、うれしさは現在と変わらず、0万円分としておきます。

         両者ともに、自分自身の選択に固執し喧嘩が発生すると、お互いにそれぞれ、非常に不愉快な思いをするので、それぞれにとっての嬉しさは、-2万円としておきましょう。これも問題をわかりやすくするための設定です。

         この時、それぞれがどちらのチャンネルを主張するのか(このチャンネルに当たるものを戦略と呼びます)、そして、どういう状況が生まれるのか(これをと呼びます)、そこで発生する嬉しさや哀しさの状況(これを利得と呼びます)が最終的にどうなるかということを考えるための枠組みが、ゲーム理論です。

         上のゲーム(設定)のような場合、男性にとっても、女性にとっても、どちらかを取ることが、より有利となる選択肢(優位となる戦略、またはドミナント戦略と呼ぶ)としては存在しておらず、その点で男性にとっても、女性にとってもどの番組を見るかが決められない(どちらの戦略を選ぶのがよいかが決められない)ような状態は一度で決まらないことになります(こういう状況を安定的な均衡解が存在しない、といいます)。どのような状態になるかは、現在どの選択肢(戦略)この嬉しさ(利得)だけでは定まらないことになります。

        それぞれの利得が変われば、解が変わる

         ところで、上の問題を少し変わったときのことを考えましょう。女性の出身校が、ローズボールに出場していることに気付いたとしましょう。すると、女性もローズボールをみた場合の嬉しさが現金3万円プレゼントを受け取ったときと同じようになったと仮定します。

         また、インフルエンザがフィギュアスケート選手の間で流行って、フィギュアスケートの人気選手が軒並み出場辞退し、フィギュアスケートの番組そのものに女性もあまり興味がなくなり、女性も男性もその番組を見ることになったときの嬉しさが0万円となった状況を考えましょう。

         さらに、お互いが違う選択をしたとしても、どうってことなくて、それぞれが、「ああ、相手は自分のことを思いやってくれているのだ」と嬉しくなって、嬉しさが1万円分の現金プレゼントをもらったのと同じ嬉しさだ、ということを考えましょう。

         こうなったとき、男性にとっても、女性にとっても、テレビで一緒にローズボールを見ることが一番うれしい状態となりますから、選択される戦略は男性にとっても女性にとっても、ローズボールを見る、ということになります。つまり安定均衡解として、ローズボールを見る、が選択されることになります。なお、この場合、男性にとっても女性にとっても、ローズボールを見るというのが、ドミナント戦略になります。

         こういう、世の中にあるもめごととか、ちょっとしたもめごと状態を、それぞれがある選択(戦略)を取ったときに、それぞれにどのような利得(メリットやデメリット)が生じるのか、という枠組みに落として考えるのが、ゲーム理論の枠組みです。

        パスカルの神と人間の関係のゲーム理論

         まぁ、一応キリスト者のブログでもあるので、これに関して、聖書とのかかわりある事例を紹介したいと思います。人間が神を信じるかどうか問題に関して、パスカルがパンセの中で、完全な形でないまでも、ゲーム理論的なアプローチで説明しています。ただ完全なゲーム理論的な枠組みではなく、その手前の状態で説明しています。その説明では、神がいようがいまいが、結局人間には、神とその存在に賭けるのがよい、ということを指摘していますが、神とその存在にかけることそのものが信仰そのものでないことも指摘しているらしいです。パルカルの研究者じゃないんでわかりませんが。詳しくはパンセをお読みくだされ。なお、この議論では、誤解や問題設定が歪められていることも多いらしいようですが。詳しくは、Wikipediaでの「パスカルの賭け」がかなりまとまっているので、そちらを参照していただければ、幸甚です。



        Pascalの賭けとHomer Simpsonの賭け

         なお、Homerの賭けのばあい、そうですね、神でないものを神とするなら、神から離れるよね。その場合、神は怒るというよりは、悲しみのあまり気が狂いそうになるかな。

        ゲーム理論のさまざまの拡張
         これらのゲーム理論は、最もシンプルな場合で、この種の研究は、この前提を変えたらどうか、あそこの利得を変えたらどうなるか、で解はすぐに変わってくる。お互いが情報を交換しあえる場合(シグナリングの有無)、繰り返しがあるとどうなるか、学習があるとどうなるか、社会全体のパイを一定と考えるとどうなるか(ゼロサムゲーム・非ゼロサムゲーム)と、まぁ、非常に細かな拡張モデルはかなりございます。

        ゲーム理論の応用分野

         それを個別の企業の動きや産業社会の構造を説明しようとするものとしては、下記で紹介するTiloreのThe Theory of Industrial Organization(確か600ページくらいあったと思う)がよかったように思います。ちょっと古いけど。この本では、産業組織論(産業社会での企業間関係を分析する学問)や労働経済学という経済学の分野でのゲーム理論を適応した多数事例がございますし、論文ベースでは、日本の護送船団方式や日本企業の系列形成の背景などを説くのにゲーム論を使ったものや、なぜ、社会で人や企業が群れるのか(Herding)に関する研究、金融論でのシンジケートローンの組成、まで、ちょっとミーちゃんはーちゃんが袖触れ合った研究分野だけでも、ごまんとございます。

         あとは、確率的に選択肢のどちらを選ぶのかが変わる場合とか、そんなの入れると、もはや数学の世界になってきて、主観確率を扱うベイズ統計がどうのとか、拡張したゲーム理論はいろいろでございます。この辺は合意形成を題材に取った、Raifaが比較的入門的で読みやすかった記憶があります。それでも、400ページ越えだったと思います。

         おそらく、旧来の主流派から脱して、従来なかった標準への移行という形で発生するイノベーション、そして、それが定着するという社会過程は、群れを形成するゲーム理論の一応用分野だろうと思います。


         次回へと続きます。次回は、日本のキリスト教界の15年戦争期の歴史を例にとり、ご説明します。あと、キリスト教徒として天皇制に関して、ミーちゃんはーちゃんが思うことと、なんでそんなことを思うのか、という個人的背景と、英国の王室と英国人についても少しふれます。(正月早々、こんな話題を、って思うかもしれませんが、たまたま、めぐり合わせでございます。)







        評価:
        Howard Raiffa
        Belknap Press
        ¥ 4,570
        (2007-03-31)
        コメント:ゲーム理論を、合意形成に当てはめるためのモデルの説明と、そこでどのような買いが生まれるかを示した本。数式がちょっと出てくるのですが、まだ少ない方。

        評価:
        Jean Tirole
        The MIT Press
        ¥ 9,181
        (1988-08-26)
        コメント:1990年代初頭にこれで、勉強した。いまでは古典かもしれない。

        2015.01.01 Thursday

        経済学・ゲーム理論・意思決定論・心理学 その1

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           敬愛するのらくら者の日記この記事にお応えして、というか、突き動かされて連載してたら、昨年末には、ご丁寧に、拙ブログ記事をご紹介いただき、誠に恐縮しております。

           あの、のらくら者の日記のブログ主様、「先生」は、ご辞退申し上げます。できたら、○○さんでお願いできたら、と。

           恐れ多くって。このブログ、与太話として書いているブログでもあるんで。

           で、今日はお正月特集ということで。次回からは、イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (1)の続きに戻るってことで。

           のらくら者の日記の記事で、

          物理学を突き詰めると「宗教(学)」に行き着き、経済学を突き詰めると「心理学」に行き着く・・。これが私の印象です。経済学と心理学の関係、「ゲーム理論」で感じてみて下さい。併せて(しつこいですが)、ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(邦訳 上巻・下巻)もお薦めしておきます。
          ということで、経済学を突き詰めると、どうなったか話があったので、何で、経済学と心理学が接近してしまったのか、というあたりの与太話のきっかけのあたりのお話をしてみようかと。

           正月のひまつぶしに、お節もいいけど、カレーもね。の感覚でお読みいただけたら、と思います。


          キャンディースの出ていたククレカレーのCF


          経済学ってどんな学問だっけ?

           経済学ってのは、基本的に、モノの値段がどう決まるかとか、国家としてのお金のめぐりがどうなるかとか、資本ってなんだ、働き方がどうなっているのか、人が幸福にするには、えらい人は何をしない解けないのか、人が飢えないために偉い人がどうお金と付き合うのか、ということを考える学問なんですね。

          学問の世界での若輩者としての経済学
           昔は、こういう分野のことをPolitical Economyといい、アメリカの大学などでは、神学部の最終学年で、神学の一単元として、神学部長先生が教える科目を出自にしております。その意味で、経済学部っていうのは、神学なんかに比べたら、ぽっと出の新参者の学問で、大きな顔を大学ではできない学問なのです。ヨーロッパでの経済学の起こりは、不勉強で分かりませんが、神学、法学、医学と比べると、まぁ、若輩者もいいとこ若輩者の学問なのです。その意味で、ひよっこの学問ですし、西洋の学の体系から見れば神学、法学などから比べると、はなたれ小僧の学問なのです(経済学部関係者の皆様には申し訳ないですが)。なお、情報工学などは、もっともっとはなたれ小僧なので…。高々この70年ほどの学問です。

          神の家としてのこの地上を運営する学
          だったはずの経済学

           このEconomyという言葉は、経済学部でちゃんと習った人なら、ご存じのことと思いますが、ギリシア語のoikos(家)という言葉から生まれており、恐らくですが、神様から人間がこの地球を家として与えらているものを、どのように人々と一緒に生きる場所として美しく保つか、ということを考える学問として設定されていたはずなのです。

           しかし、現実の経済の発展に伴って、人間は神様から家として与えられたこの地(神が人と共に生きる場としての神殿、として神と人が共に生きるべき場)を強盗の巣にしてしまった、ってイエス様から怒られてしまってもしょうがないほど、神殿であるべきこの地に関して誤用された状況について考えるような学問になってしまったのです。

           「経済学が悪いから、ろくでもない資本主義経済が生まれた」のではなく、「資本主義経済のような残忍なというか貪欲な人間の姿を解析しようとした結果、経済学が指し示す分析対象としては、ろくでもない結果が出てくる」というのが、経済学に関してミーちゃんはーちゃんとしては、ちょっぴり擁護しておきたいです。この辺、誤解されていることも多いので。

           資本主義のカウンターパートである共産主義も、今の中国の官僚の不正やスターリン政権下でのロシアというかソビエト連邦にみられるように、ろくでもないことは同じだ、と思っております。資本主義も、共産主義も、人間が神から離れた結果の不幸な現実の表れだと思っております。

          昔々の経済学

           アダム・スミスあたりの国富論(この本の英文原典が大学院のミクロ経済学のテキストだった)でも、基本的なミクロ経済学の基礎概念が数学をあまり使わずに説明されておりましたが、この時代の想定は、同じような中小零細企業や農家などの生産者がやたらとたくさんあって、また、その中小零細企業や農家の生産物を欲しがる消費者もやたらとたくさんあったとき、同質的なものがたくさん提供される中(以上の同質的な多数の生産者同質的な多数の消費者同質的な取引対象(財)の取引が、全員が一堂に会して、相互にそれぞれの動きを監視しているような状態 これを完全市場といいます)で、提供される商品や農産物と価格の関係がどうなるのか、その時に、だれがどんな風に利益を得て、だれがどれだけの費用を払うことになるのか、それは公正と言えるのか、ということを議論する学問がそもそも経済学の起こり頃の学問(古典派)でした。ある面で言うと、記録メディアのDVD-Rなどのようなありふれたもの(コモディティ)がネット販売されている状態だったといってもよいでしょう。

          派遣労働者の経済学と制度

           あるいは、派遣労働法が改正されたのちの現在のように、単純労働に関する作業者が派遣されるようになり、その個人の能力や特性があまり大きく影響しない単純労働作業に短期雇用者が導入されるようになると、企業の仕事の具合によって人を増やしたり、減らしたりすることができるようになります。人手が余る状況では、安い賃金でも人は何もないよりましですから、賃金は減ります。人手が不足の状況では、賃金は高くなります。自分自身の努力や能力や才能に関係ないコモディティ化した働き方の世界では、どれだけ似たような作業をしたい人がいるのか、によって賃金が決まってしまうのです。これが以前の派遣労働法制で、単純労働の派遣雇用の禁止が定められていた理由です。昔は、単純労働者を雇いたい場合、特別の例(建設業など)を除いて原則社員として雇わなければならなかったのです。

          日本の大学1年生の経済学
           基本的に、大学の入門クラスでやる経済学(英国では、高校生がこれ以上のことを高校生でしている。もちろん受講科目数が少ないからできる話であのですが)ってのは、こういう一般的な財(特に特徴がなく、市場で取引される量だけが問題になるもの)についての価格と供給量の議論と、なぜ、違うコモディティ(ミカンやリンゴ)を持っている人同士で交換すると社会全体がハッピーになるのか(市場を介した交換により豊かな社会になるのか)の議論などをして、あと国全体の経済の動きとして、不況って何か、不況から脱出するためにどうすればいいのか、なぜ、国全体の貯金額が増えると経済が拡大しやすいのか、といったことを考えるマクロ経済学をやって終わりになる感じですかねぇ。半期週1コマだとここまでいかない。時間数にもよるけれども、教えている感覚で言うと、通年で週1コマだと、もうちょっと行ける感覚はあるのですけれども。

          経済学におけるメタ思考

           こういう入門クラスの経済学理解だと、問題があるのですね。

           なぜかっていうと、世の中数量だけじゃあないんです。味とか、手触りとか、色とか、品質ってのが大事なんです。お米でも、コシヒカリもあれば、ササニシキ、キヌヒカリ、ヒノヒカリ、ミズカガミ、ドマンナカ、モリノクマサン、ミルキーウェイ・・・と非常にたくさんの品種があり、それぞれに食味が違います。もうお米でも数で勝負の時代ではなくなっているようです。いわゆる経済学者と呼ばれる方々には、この辺の事情があまりお分かりでない方もおられ、農地のなんたら、とか言っておられますが、どこでも、モリノクマサンやらミルキーウェイ、ニコマルなんかはできないのです。稲の生育に関する気象特性があるのです。品種改良すればいいではないか、と言いますが、品種改良は数十年の年月を要する気の遠くなるような作業が必要なのです。

           数量だけが大事であれば、皆さん、国民服や人民服を着ていればよろしい。しかし、今の日本で、よほど変わっている人以外、国民服も人民服も着てないでしょう。まぁ、ユニクロは、「現代日本の人民服説」はそうかもしれないけど。でも、ユニクロだって、服の色は一色ではないですよね。赤もあれば、黄色もあるし、グレーもあれば…の状態なわけですよ。


          赤い人民服をお召のYMOの皆さん(左)と1970年代ごろの人民服をお召の毛主席(右)


          勅令(天皇陛下直々の思し召し)による国民服だそうで

          「奸臣による偽勅じゃね?」などと言ったら非国民だったそうだ。

           大体、国民服であれ、人民服であれ、素材も、デザインも同じな服を着て面白いはずがない。中学生や高校生の不良が言うことは正しいといえましょう。みんな同じじゃ、人間は基本的につまらないのだろうと思います。

           したがって、不良の女子学生はスカートの丈やソックスの設定、髪の毛の色やパーマ、不良の男子学生は、ズボンのタックの数、詰襟のカラーの長さや、上着の丈の長さ、ズボンのはき方、靴のはき方、服地の裏の刺繍などで実に微妙な差異をもたらそうと必死で努力するような一種の職人技をしてくれるので、文化的に観察している分には面白い。今は、男子学生は、ズボンをできるだけ、腰から低い位置に下着が見えるように、下げてはくのがおしゃれらしい。なお、これは、アメリカの刑務所や少年施設(ジュビーって呼ぶ)で、自殺防止のためにベルト着用が禁じられているため、パンツ(ズボン)がずり下がらざるを得ないことに由来しているらしい。こういうパンツ(ズボンは古いらしい)のはき方をすることで、「オイラは少年施設に入るような不良だから」って見せているようです(いらない無駄知識w)。

          コモディティ化を脱することが重要

           話をもとに戻すと、人はコモディティ化(みんなと同じようなもの)した商品ではすでに満足しない社会になってしまったようです。社会自体の豊かさが出てくると、人間は他人と同じもので満足しないのである。ミーちゃんはーちゃんは、寒さ熱さがしのげればいい人なので、服にあんまりこだわりがないから、女性の方が同じ服を被って慌てるシーンなんかを見ても、何で?と思ってしまうが、それはどうもおしゃれな人にとっては、「あってはならない」ことらしく、モーセの十戒なみに重視しないといけない規則らしい。

           最近の小学生は、妖怪ウォッチでほかの人が持ってない妖怪を持たないといけないらしいので、小学生ですらすでに、コモディティとしての財では不満足になっているという何とも贅沢な社会に今住んでいることになる。個人的には、チロルチョコやベビースターラーメンのようなB級グルメをこよなく愛している。

          品質が重要になる豊かな社会で

           ところで、社会が豊かになって、品質が重要になってくれなってくるほど、価格での競争は意味を持たなくなるわけです。そして、企業は品質で競争しようとするようになります。少々高かろうが、他人と違うものを持っていることに価値が生まれてくるわけですから。そうして、高級品は記号として消費されることになります。どこかの国では、大きな教会の牧師さんは、アメリカではメルゥシィーディースと呼ばれるいかついドイツ車に乗ることがお約束のようですが、そういうお約束は記号としての消費ではないかと思うのです。

           関西では新地(通路として通過したことはある)のおねぇさん方や、関東での銀座(教文館に行ったことはある)のおねぇさん方だけではなくて、いろんなところのおねぇさん方がグ●チ(昔はっちぽっちステーションに出ていた料理と歌がうまいオジサンではない)やプ●ダ(これを切ると悪魔になるという伝承があるのかもしれない)やシ○ネル(黒塗りをして、R&Bを歌う人たちではない)を持つことが流行っているらしいが、これも、ある意味で、富の象徴としての消費なのだろうと思うのです。



          エリックかけブトンとして歌うグ●チさん(こういうの大好き)


          悪魔が着る服だという噂のもとになった映画のTrailer


          シ○ネルズという似た名前の服屋と関係のあまりないR&Bバンド

           実は、この脱コモディテイ化社会というのが、経済学の発展を大きく変えました。そして、経済の構造も変えているわけですから、経済学としては、これを探求の対象にします。その結果として、次第に、心理学とかの学問分野に近づいていきます。なぜ、神の家であるこの地を運営するための学であったはずの経済学が心理学に近づくのか、ということはわかりにくいと思います。それに関しては、次回触れてみたいと思います。



          2015.01.02 Friday

          経済学・ゲーム理論・意思決定論・心理学 その2

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             お年玉第2弾です。

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               経済学・ゲーム理論・意思決定論・心理学 その1

            では、クラッシックな経済学は、完全市場(市場参加者が多数で、市場への影響力が少ない、完全情報で、みんなが価格などの情報を瞬時に共有できる、同質的なコモディティ化が進んだ取引対象)といったかなり現実的な仮定を置いた対象に関しての分析を進めてきたことなどについてご説明いたしました。

            車は車ですけど、完全市場ってどこまで?
             しかし、現実は、そうは問屋が卸してくれないのですね。世の中に完全市場なるものはほぼ存在しないようです。メルゥシーディスと呼ばれる車も、大八車も車は車であるが、だいぶん違うだろう。下記の車も車という点では車ではある。

             

            今まで見た中で一番かっこよかったクラフトマンシップが光輝く
            手作り感満載のトヨタ車

            なお、この特殊車両のエンジンは、1驢馬力

             前回の記事では、ブランドや、商品の品質などの差別化で企業が競争始めたことについて触れました。しかし、企業をとりまく環境は、それだけではないのですね。

            完全市場は少ない企業の競争環境

             企業の競争環境は、純粋の完全市場ではなく、寡占市場、複占市場、独占市場など、一人の市場での行動が大きく他者に影響を及ぼす状態が生まれてきたし、さらに技術的な特徴、品質や規格などでも他社と差別化を図り、競争市場でありながら、一種の独占市場を形成することができるようになったのです。

             スーパーで買うことが多くなってきたポリエチレンバッグ(白い買い物袋)も、グッチやシャネルのバッグも、モノを運ぶという機能では同じなのだ。その意味で袋物市場という意味では完全競争市場に近い市場なのだ。クサヤを入れようが鮒ずしを入れようがドリアンをいれて運ぼうが、袋は袋であるのです。

             しかし、そこに、グッチやシャネルのデザインやロゴを入れるだけで、その袋は単なるモノを運ぶという機能は同じであっても、そこに価値の違いが出てきて、独占的にグッチやシャネルの店でしか提供されないから、購買者にとっては独占市場になっちゃうのですね。ブランドや意匠権などの知的所有権が発生する場合、知的所有権を確保することで、独占市場にできちゃうんですね。これが。

             グッチやシャネルのマークの付いたクサヤを入れるポリエステルバッグなんかがあったら面白いけれども、それをやると、商標法違反で立件はまず確実です。なぜならば、ポリエステルバッグにそんなものをつけたら、これらのマークに安物のイメージがつくので、ブランドの価値がかなり下がってしまうからです。

            知的所有権を使った競争市場からの脱却

             商標権など知的所有権の発生で、独占市場になってしまえば、しめたものになっちゃうのです。独占市場の場合、実質上相対(あいたい)取引になるので、通常の競争市場での価格を無視できるか、意識するにしてもあまり意識しなくてもよいことにできるのです。つまり、グッチは、ポリエステルバッグの価格を意識せずに自社製品の価格をつけることができることになります。

             こういう独占市場や寡占市場、複占市場の分析は、もちろん従来の市場における生産物の供給量と、市場の需要量、そこで決まる価格の観点からも分析できなくはないのですが、それ以上に、ゲーム理論で理解する方がよいことになります。世の中、市場で何らかの形で競争する場合にしたって、相手はそんなに数は多くないのですから。


            寡占だからこそできること
             
             数が少ないと何が起きるか。お互いに話し合いで解決しようという雰囲気が生まれることになります。つまり、協調行動の可能性が大となります。つまり、Head to Head Competitionというか、頭と頭をぶつけるような競争関係は、事前に合意形成ができれば避けられることになり、無益な競争を避けることができるのですね。

             つまり、談合とかができれば、より高い利益〔利得〕を企業は得られることになるので、談合やオープン市場での価格品質競争よりも、密室での調整が重要になってくるばあいもあるようです。

             こういう合意形成に関して、前回ご紹介したRaiffa先生は研究しておられ、どのようにして相互に有利な価値状態に達するのか、ということを研究しておられるようです。

             つまり、相手がどう動くのが相手にとってどういう意味を持つのか、という戦略的行動とその分析が非常に重要になるようです。

            情報と行動
             その意味で、相手の動きを予測しながら、自らの行動を変えてくことになります。つまり、海戦ゲームのように限られたデータから、相手の動きがどのようなものか、ということを想定しながら、自らの行動を決めていくことになるのですね。


            海戦ゲーム 

             まだ、海戦ゲームの場合まだ簡単です。というのは、艦船の位置は動かないから楽なのだが、実際の潜水艦などの場合、相手は移動しながらであるから、どこにどのような手を打つのか、ということで結構悩まなければならなくなるのですね。

             実際の潜水艦では、ソナー手という音響機器で相手の艦種と移動方向、作戦行動の状態の動きを確認し、相手の位置を確認するという手段があるのですが、それとても、なかなか難しい、らしい。ステレオで聞けないので、位置精度が悪いらしいので。

             そういう意味で、行動するうえでどの情報を使うのか、そのうえでどう行動するのか、ということが生存のためにも重要、というか、命にかかわることになります。その意味で、集められる情報のうち、それをもとに判断する必要に迫られるということだそうです。


            潜水艦のソナー室

             映画The Thirteen Daysというので、コミュニケーションに関する面白い記述があったのでご紹介。言わずと知れたキューバ危機の際に、実際のロシアの商業輸送船とアメリカの海上封鎖体制の戦闘艦との間の位置関係で、コミュニケーションをとろうとしているのだ、と海軍提督にと喧嘩しているマクナマラとの怒鳴り合いのシーンがあるのですが、そこで、これまで見たことのない言語と文法でソ連と対話しているのだというシーンがあります。これなどはまさに、血を流す直前の外交という戦争ギリギリのところでのコミュニケーションをうまく描いているようにおもいます。



            13 Daysのキューバ危機のワンシーンで戦闘艦を使ったコミュニケーション

            情報の利用・相手の動きを読む心理戦

             情報を使うと同時に、相手の行動がどうなるかを読むというのは、キューバ危機の時もそうだし、企業の競争の場合でも相手の行動を読む心理戦になっていくように思います。

             さて、ここまで触れたように、実際の企業活動は、商標権を利用する、特定の技術を採用する、といった方法で、ちょっと条件を変えるだけで、完全競争市場から抜け出し、独占ないし寡占構造に市場を移行させることができるのです。寡占構造になれば、これまで指摘したとおり、相手の動きを読む心理戦になりかねないのです。

            不完全市場と心理戦

             自分が直面する市場を、不完全競争市場にかえられるからこそ、企業にとっての利益が増えるという側面が出てくることになります。この不完全市場の中での完全市場との行動の違いを説明しようとする試みが、70年代以降研究が進められ多と言えようかと思います。

             そののち、その研究成果が産業組織論、特に新しい産業組織論と呼ばれる分野で熟成していくことになったといえようかと思います。また、服部先生ご紹介のKahneman & Tverskyでは、本来人間の記憶や行動そのものが合理的であろうはずがなく、それを経済モデルに取り込んで、現実の行動できたのが、Kahneman & Tverskyの貢献といえましょう。

             そして、従来の合理的な経済行動をとる古典的モデルや新古典派的モデルを想定し、その行動を数学の一種の微分方程式体系として構成し、そこで解を求めるような研究には限界があることを示したのは最大の貢献だろうと思います。そのように、一種のゲーム理論によるモデル化が持ち込まれることで、実際の不完全市場での企業の行動が経済モデルとして表現可能になったと思うのですね。

             意思決定論では、意思は一種の心理的要素を多分に含むので、結構心理学の研究成果が生かされていることが多いです。最下部で紹介するMitroffを読んだ時も、そんな感じだったです。

            経済学は心理学となるか?

             経済学が、神から与えられた地をどのような運営をするのか、の学問から発展していくうちに、近代経済学は、金銭というものの交換とそれからもたらされる社会がどうなっているのかに関しての分析するのを中心とする学問になってしまった。もちろん、厚生経済学のような、社会全体における幸せをどう評価するのか、より公正な社会は、どうすれば実現できるか、というような学問分野もございますが。

             こういうあたりのことを考えおりますと、経済学のすべての分野は心理学にならないけど、経済学の交換に関する部分に関しては、本来人間の効用(嬉しさ)を扱うので、本来的には、心理学的要素とは切り離せないはずのものだったにもかかわらず、人間の心理を切り離して、経済学という枠組みの中で扱えるもののみを扱うようになったと思います。経済学の交換と金銭の枠組みにこだわることを、経済学としてきた、というようなところはないと言い切れないと思います。まぁ、それだけ、経済現象が複雑であるし、どんどん、現実が変わってきたというのもまた事実だと思います。

            これからの本命は公共圏とコミュニケーションかも

             先ほどの映画13Daysではないですが、戦闘艦や潜水艦を使ったコミュニケーションもあれば、金銭と財やサービスの交換も公共の場所としての市場を介してのコミュニケーションでもあるとはいえるとおもうのです。

             その意味で、実は、これらのものがコミュニケーション理論で扱えるのではないか、それもゲーム理論を使って、ということを言い出したのが、ドイツの哲学者のユルゲン・ハーバマスというおじさんであるといっていいとおもいます。

             彼の言いだしたのが、公共圏とそこで繰り広げられるコミュニケーションに関する理論という概念だとおもいます。なお、この公共圏という概念は、政治学の分野では、新しい公共という概念に移り、稲垣和久先生らのグループでのキリスト教と公共圏への広がりもあるようです。その意味で、近代社会後の社会(ポストモダン社会)を考えるうえで、この概念は欠かせないように思うのです。

             その意味で、のらくら者の日記での予想は半分正解という感じもしますが、ちょっとずれているかもしれないなぁ、と思っています。これからしばらくの経済学は、公共圏とコミュニケーションという形での展開として進んでいくのではないか、と個人的には思っております。

             一応、ハーバーマスの日本語版の本をご紹介しておきますが、日本語はお世辞にもスラスラ読めるとは言いにくいので、英語版かドイツ語版をお勧めいたしたいとおもいます。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんはドイツ語は、読めませんがオリジナルはドイツ語らしいです。




            評価:
            Ian I. Mitroff
            Berrett-Koehler Pub
            ---
            (1998-01-15)
            コメント:ずいぶん前に読んだのですが、非常によかったと思います。

            2015.01.03 Saturday

            イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (2)

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              イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (1)

              では、ゲーム理論について説明し、何かもめごととか、企業間や企業と政府、政府間での競争など、社会でおきていることをモデル化して、どういう状況が生まれるのか、ということについて考えるための手法であることを御説明しました。

              マジョリティ・ルールズとゲーム理論

               それで、本論の突然変異とゲーム理論のお話しに行く前に、マジョリティ・ルールズをゲーム理論で考えてみたいのです。これ、いくつかの表現の仕方(リーダーとフォロワー あるいは 対決型)がありますし、ゲーム理論の一つだけのフレームに納めるのはちょっと無理なのだけれども、それを承知の上でやってみたいと思います。多分対決型で考えるのが一番わかりやすいと思いますので、それで考えます。

              キリスト教界の15年戦争期の
              ゲーム論的表現の一例

               正月早々ちょっと香ばしい話題で申し訳ないのですが、15年戦争期のキリスト教徒と天皇遙拝問題で考えてみたいと思います。ゲーム理論のモデルにおける参加者として、まずキリスト教界を考えます。このキリスト教界にとっての選択肢(戦略)としては、戦争中、

              A)天皇遙拝するという選があります。

               この選択をすれば、政府をはじめ国民全体からの非国民扱いから外れ、キリスト教界も日本国民だと立派に言えるとしましょう。しかし、もう一方で、

              B)天皇遙拝しないという選択もあります。

              このBの選択をすれば、政府も国民も皆が口をそろえて、非国民扱いするとしましょう。キリスト教界にとっての選択肢は、おそらくこの二つしかなかったでしょうし、なかったと仮定します。なお、非国民扱いになれば、キリスト者への配給は激減し、非国民扱いでなければ、通常と同じような配給があると仮定します。これが利得(ペイオフ)です。

               もう一方の参加者として、当時の日本の国家というか、日本国民を考えます。当時の日本国民としての選択肢(戦略)は、キリスト教界の人々を

              a)非国民扱いする



              b)非国民扱いしない

              という選択肢のみであると仮定します。大正デモクラシーの反動で、明治初年と似たような、国粋化に向かってまっしぐらの状態です。なにせ、美濃ミッション排撃の歌まで歌われたそうですから。その意味で、ゲームの一方の参加者である日本国民の大半にとって、選択肢はキリスト者の宮城遙拝に関係なく、キリスト者を非国民扱いしないという選択もあったでしょう。ただし、この時、キリスト教徒を非国民扱いすれば、ごくわずかであっても、一人当たりの配給が増え、非国民扱い扱いしなければ、配給は同じと考えます。まぁ、妥当な過程だと思いますが。

               こういう問題設定の結果、キリスト者の側にとってみれば、配給や社会的な非難ということを考える時(もちろん単純化しすぎだ、ということは認めます。神以外のものを神とするという点での航海などがありませんから、現実は確かにそんなに簡単ではなかったでしょう)、天皇陛下は素晴らしいお方だ、現人神だといい、宮城遙拝をして、という選択が、信仰という面を除けば、キリスト教徒にとってもドミナント戦略です。物質的な面だけを考えれば、少しでも悲劇は回避できますから。国民にとってはキリスト者を非国民扱いにする、というのがドミナント戦略になります。つまり、日本のキリスト教とは、宮城遙拝をし、国民はキリスト教徒を非国民扱いするという状況で安定均衡となります。まぁ、これが、15年戦争の時に起きたことかもしれません。おそらく、マジョリティ・ルールズの社会が日本国民にも、日本のキリスト教徒の中でもできていたのではないかと思います。


              Wikipediaから借用した皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会 の写真

               なお、ゼロ戦は、後期2600年に帝国海軍に正式採用されたので、零式艦上戦闘機と呼ばれた。

              戦争当時のキリスト教指導者の葛藤も

               となると、キリスト教との指導者としては、多くの関係者に苦難の道を選ばせるか、あるいは、聖書の言うことに反しても、それは礼拝ではない、尊敬の念だといいながら、戦争中の苛烈な環境の中、まだましな生き方をキリスト者が与えられる可能性のある道を選ばせる方のどちらかを選べ、と言われたことになります。つまり、宮城遙拝をするというマジョリティと同じ行動をするという選択をすると、それなりのメリットというか、利得として通常の配給が得られる(配給が減らない)という地代が得られます。しかし、あえて宮城遙拝を拒否するというマイノリティを選択すると、メリットはないどころか、利得として、通常の配給から配給の量が減らされるというろくでもないこと、あるいは地代の消滅というか大幅な毀損が降りかかってくるので、デメリットしか存在しない、という状況が生まれるわけです。この中で、デメリットしかない道を選ぶのは、信仰者とはいえ、常識人には厳しいと思います。

              キリスト教と徳治政治

               なお、ミーちゃんはーちゃんは、現時点では、教会で「テレビに映されている天皇陛下が人格者のご様子であるから素晴らしい」というご発言を聞くたびに鼻白む思いを持ち(キリスト教会人が言わない限りは、関係ないので、あぁ、そうなんですか。よかったですね、と思います)、そういうご発言をする方のお話しを当面聞く気がなくなることだけは申し上げておきます。

               それは、もちろん、ミーちゃんはーちゃんは一部の論者からは、リベラル扱いされているほどに、左巻きだからかもしれません。しかし、それ以上に、教会で「人格的に優れているように見える天皇陛下は素晴らしい」というのであれば、人格的によければ、キリスト教徒としてのあり方とは無関係に教会で評価されるということを意味するからです。それなら儒教的な世界観、陽明学的な世界観、あるいは徳治主義ではないか、と思うからです。それはキリスト教と似ていますが似て非なるものではないか、と思います。日本では、この種の人格と信仰が区別されない、あるいは意図的に混同される事例が少なくないように思います。

               その点、英国人は、Rowan Atkinson氏を含め、王室に一定の愛着を示しつつも、きわどいことをして見せます。そのあたりの付き合い方は、我が国においても見習ってほしいものだと思います。


              Mr. Beanから
               4分30秒から4分42秒あたりがイギリス人の王室意識が表れていて面白い。


               話を元に戻しますが、15年戦争当時のキリスト教界の指導者は相当悩んだと思います。その判断の当否については、何も言うことはできません。自分がその立場だったら、当時のキリスト教界の指導者と同じことをしなかったとは言い切れないからです。

              ミーちゃんはーちゃんと
              15年戦争時代の関係者

               とは言いますが、まぁ、うちのキリスト者グループでも、アイルランド人宣教師の一人は、まともに日本語も話せない中、逮捕投獄され、都立松沢病院(当時から精神科が有名)に強制的に収容され、松沢病院での赤痢による死亡が確認されています。アイルランドの赤いユリにその辺のことは乗っています。

               また、私も直接お世話になったちょっと変わった方だった石濱義則という方は、まぁ、そもそも不適切発言が原因とはいえ、逮捕投獄され、広島刑務所に収監中、広島で被爆し、それでも生き残り、戦後しばらくして、名誉回復措置を受けています。『あの戦争の中にぼくもいた』をご参照ください。

               同じグループのキリスト者の中にも、必ずしもそのような被害を受けなかったかたも、我がキリスト者グループにはおられます。ほぼ全員の責任者が神の国理解に関して思想犯の可能性を含め事情聴取を受けていますが、逮捕投獄はなかった集団もあります。だからと言って、当時の社会風潮に対し、徹底抗戦して、逮捕投獄となるべきだった、とも思いません。それはその当時のそれぞれのご判断はご判断として、尊重されるべきだと思います。教義は個別の教会(集会)ことに異なるというのが我がキリスト者集団の伝統ですから。こういう個別教会の独自性の追求が必ずしも良い、とも思いませんが。

              マジョリティ・ルールズと
              預言者的性質

               ところで、マジョリティ・ルールズの世界の中で、一人、預言者的に荒野で叫ぶことは、精神病院へGo!になるか、非国民として社会から排除されるかです。要するにつぶされる運命が待っているのです。これは、マジョリティが数量的にも内実的にも安定している場合に発生します。内村鑑三の不敬事件も、マジョリティが数量的にも内実的にも安定的に存在した状況で、起きた事件であったと言えるのではないでしょうか。

               まぁ、個人的には、内村鑑三の不敬事件とその余波は、戊辰戦役で、それぞれのキリスト者の所属する藩が討幕側(政府側)についていたか、佐幕側(幕府側)についていたかの背景があるように思えてなりません。明治期に活躍したキリスト者にとっては、基本、明治維新は自らの精神構造に大きな影響を与えていたことは想像に難くありません。

               次回へと続きます。なぜ、手のひらを返すようなことが起こるのか、また起ききたのか、ということをゲーム理論を念頭に置きながらご紹介したいと思います。




              評価:
              井上浩
              伝道出版社
              ---
              (2006-09)
              コメント:歴史の一資料としてご参照ください。

              評価:
              価格: ¥0
              ショップ: ---
              コメント:少年向け小説にしてありますが、石濱義則さんの御親族がお書きになられた歴史小説。

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              ショップ: ---
              コメント:入門書としてはお勧めではないかと。

              2015.01.05 Monday

              イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (3)

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                 これまで、ゲーム理論とそこで用いられる用語、どんな概念になっているのかについての基本概念についてご説明し、15年戦争期のキリスト教を例にとりながら、ゲーム理論の応用やそれでなぜ、日本のキリスト教が皇宮遙拝に走ったのか、キリスト教との預言者的性質などについても少しふれました。

                イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (1)

                イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (2)



                マジョリティ・ルールズが崩壊する時
                革命という突然変異がおきるとき

                 では、ゲーム論的にこのマジョリティ・ルールズが崩壊する過程について、少し考えてみたいと思います。マジョリティ・ルールズが機能しなくなるのは、ゲーム理論的には、そのマジョリティにいることで、利益というか、地代とも呼ばれる、そのグループに属しているだけで発生する利得というか利益が得られなくなるからではないか、と考えられそうです。

                 マジョリティ・ルールズの背景で人がマジョリティにとどまるのは、マジョリティに属することで、何もしなくてももたらされてきた利益(地代)が発生しつづけているからです。しかし、環境や社会制度が変化し、それぞれの参加者に何も利得というか何もしなくても発生する地代が減少したり、あるいは地代や利得そのものが得られなくなることが発生する場合があります。

                 こういう事態が発生して初めて、マジョリティの一部が、そのマジョリティから脱出し始めます。まさしく、地滑り、雪崩などが起きはじめるときとよく似ています。

                 ちょうど雪崩がそうであるように、数が多いから、量が多いから、長らく安定しているから、と言って常に安定しているわけではありません。安定均衡しているように見えても、その中に内在する不安定さ、あるいは、社会心理における移ろいやすさ、あるいはボラティリティというものがあるのだと思います。社会においては、それが突然変異に見える現象を起こすのだと思います。

                 それに、環境要因も大きな影響を及ぼすとは思います。ある条件に適合しすぎた集団は、その条件が変わってくると、現状の社会党か環境に不適合を起こし、表面上は多数を占めていて、安定しているように見えたとしても、マジョリティ・ルールズを規定する表面上の多数さの基盤が実質的に大きく損なわれていることがあります。この場合、ある条件に適合しすぎた集団内に不具合、不安定な状態が生まれているのだと思います。たとえ、表面的には安定しているように見えても。

                日本歴史でのパラダイムシフト
                 一番わかりやすい例で言えば、戊辰戦役の時の錦の御旗事件などが、典型的ではないかと思われます。

                錦の御旗 明治神宮崇敬会のサイトからの転載

                 表面上は、幕府を中心とした社会が存在していましたが、それと同時に、幕府への不満も高まっていたのでは、と疑われる部分があるわけです。まぁ、幕府の専横(特に開港場のみとはいえ、聖地日本に異人を受け入れる)という形で下級武士などの社会的不満を抱える層では、表現されていたようですが。それが、突然、戊辰戦争での戦闘中、幕府とは別の権威性である錦の御旗が掲げられることで、突然、その不安というか幕府への不満というか、現実との不適合が表面化し、討幕運動へとなっていったわけです。無論、それまでにも、天保の大飢饉のような経済不安と不満、そしてその反映でもある「ええじゃないか」が社会の中に発生していたことも遠因として指摘できようかと思います。

                 同様の事例として、近代日本で言えば、ポツダム宣言受諾に関する国家元首としての天皇の意思が示された前と後での日本のマスコミの論調や文化人の掌の返し様を指摘することができるでしょう。

                日和った現在の大新聞
                 前日まで、聖戦続行!朝日新聞毎日新聞も、読売新聞も言い募ったわけですから。いま偏向報道騒ぎでバッシングされている朝日新聞も、それをたたいている読売新聞も、やや中立的とはいいながら、ちょろっとバッシングしている毎日新聞も、私個人からしたら同じ穴の狢(むじな)ではないか、と思います。その程度のものでしかない、と思うのです。マスコミというものは。それを忘れて天下の公器とか、わけわからんことを言うから…

                 15年戦争期に関しては、国家元首(昭和天皇)の思いというパラメータによる環境の変化をきっかけとして、国民もマスコミはこぞって、聖戦断行を言わなくなったんですから。そのような手のひらを返すような精神が大和精神であり、美しく取り戻すべき日本精神だとしたら、個人的にはご遠慮申し上げたいかも、と思います。

                 この環境の変化は、様々な要因で発生するものであり、どれか一つの原因ということはおそらくないものと思われます。

                 例えば、ポツダム宣言受諾の詔勅(国家元首としての天皇による宣言)のその前に、これなどは窮乏生活による国民経済の疲弊という環境変化と、連日の空爆による倦戦気分の蔓延などの環境の変化の結果がかなり限界に来ていて、それを天皇の国家元首としてのポツダム宣言受託宣言を機に一気に吹き上がったとも言えるかもしれません。まぁ、一部には、8月15日以降にも、まだ皇国は…ということで、徹底抗戦を主張する向きもあったらしいですが。

                世界の歴史のパラダイムシフトの事例

                 西洋で言えば、ナチスドイツの成立の段階(ワイマール帝国への疑問視)や、東ドイツの崩壊の例をあげることができると思いますし、中欧では、チャウシェスク支配下のルーマニアの例を引くことができるかもしれませんし、あるいは、ごく直近の例で言えば、ロシアの通貨ルーブル暴落も例に引くことができると思います。ちょっとしたきっかけで、世論というのは、動いてしまう様に思えてなりません。あるいは、第2次世界大戦後フランスで発生したドイツ人将校と付き合うことで利益を得ていたフランス人女性へのひどい仕打ちなどもこの例に入るかもしれません。

                マルセイユ解放時に髪を切られるフランス人女性


                 これまで東洋でも西洋でも革命の論理とは、この表面上の数だけでは把握できない、社会に潜む渦みたいなものをどう利用するかによって、その成否が決まるというところがあると思いますし、それこそのらくら者の日記の方が大好きなMI-6とかの世界は、このために世界中に調査員をばらまいておられ、地域情報の収集に多大なコストをかけることで、国全体の崩壊を防いだり、その影響が直撃することを避けるための準備をしていると言えましょう。あるいは、革命側に資金を提供することで、国全体を崩壊させたりすることをしている面もあろうかと思います。その意味で、革命と突然変異とは深い関係にあるように思います。

                金融論でのパラダイムシフトとしての金融危機

                 実は、金融論の世界を横から眺めておりますと、まさに1990年代後半あたりを突然変異が起きた時とできるのではないか、と見ております。このころに、従前から始まっていた金融自由化ということで金融業態の業態規制がなくなってきて、金融業界の垣根や立地規制が自由化されたその直後に、木津信用組合の経営破たんがおきました。この木津信組さんの経営破たん(とそれに伴う短期資本市場の機能不全)とそれに伴う金融システムの全面崩壊を防止するために、日銀特融がなされるなど、まさに革命前夜の雰囲気がございました。この破綻とその処理の結果、あるいは、旧兵庫銀行の経営不振というよりは、乱脈経営の結果の経営破たん問題など、旧相互銀行系を中心とした金融機関の軒並に近い経営不全問題が明らかになり、もともと業態間規制が緩くなっていたこともあり、2000年代には、金融界の風景が、一転したことを、銀行業を中心とした金融機関の店舗分布の研究(この辺がもともと専門)からも確認しております。

                 これまでの議論をかなり粗っぽい議論でおまとめをしてしまいますと、もともとのゲームの枠組みで得られたゲームの利得構造を規定する環境が次第に変わってしまうことで、利得の発生状況がゲームの参加者間でじわじわ変わっていくことで、マジョリティにおいて得られる利得そのものが減少している状況下において、それがある現象を出発点として、あるいはある閾値(いきち)に達した時に急速に動くのだろうと思います。

                立地理論モデル研究とパラダイムシフト
                 その昔、立地理論モデルを研究対象にしていたころ、商店街モデルの栄枯盛衰モデルを考える際に、同質の2地点間で店舗が自由に立地変更ができるとき(たとえば、モールと、ダウンタウンの商店街のような場合)、消費者に商店間での探索費用(見比べるために歩き回る費用)と商業施設間での移動費用(消費者がバスとか電車に乗って移動する費用)が存在する時に、不均衡な立地均衡が現れる可能性があることを示したことがございましたが、その時の研究でも、消費者が負担する探索費用と商業施設間の移動費用のパラメータの比率から計算されるある種の閾値が、二つのうちの一極に集中するかしないかの閾値となりました。

                 マジョリティであったものがマジョリティであることを失い、社会があるオプションから別のオプション(突然変異)に移す時の、心理的なコストとマジョリティにとどまることによる利得(メリット)の関係で、ある閾値が存在しているのだろうと思います。その閾値を超えた時に、ちょうど摩擦でギリギリのところでとどまっていた安定均衡が雪崩のように崩れ、一種のドラスティックな変化、あるいは一種の突然変異に見えることが起きるのではないか、と思います。

                 ちょうど、プラレールの上に、プラレールの電車をのせて、次第にプラレールを傾けていくと、ある角度(閾値)を超えた瞬間、急に動き始めるような状態、をお考えいただくと適切ではないかと思います。

                閾地とパラダイムシフト

                 このような心理的なコストの変化というか、閾値として、状態がある値を超えるかどうかは、ある状況や環境の変化(例えば、国家元首の発言・国家元首の逝去・あるいは戦場での総指揮官の死去などで)に伴って発生し、それまでに徐々に蓄積されてきた環境の蓄積から得られたコストとしての閾値を急に下げてしまうのではないかと思います。その結果、別のオプションに移ることを防止していた、閾値が急に低下したことが表面化することで、マジョリティにとどまることの利得構造が変わる可能性が大きいようです。

                 さらに、また、マジョリティの人数が減ることで、そのマジョリティに属することで得られる利得そのものが減少してしまう結果、社会全体が突然変異したように見えるだけなのだろう、と存じます。


                 この辺りが、イノベーションのゲーム理論としてパラダイムシフトや、突然変異が発生する原因の一つの説明になるのではないか、と思います。

                 うーん、ここまで書いてみて、説得的かどうか、いまいち自信がないですが。あと1回、プラットフォーム戦略としてみたときのエキュメニカル運動というか、聖餐問題、あるいは信徒受入れ問題に関して、ご紹介してみようと思います。もう一回だけ続きます。




                2015.01.07 Wednesday

                イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教(4)

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                   これまで、ゲーム理論とそこで用いられる用語、どんな概念になっているのかについての基本概念についてご説明し、15年戦争期のキリスト教を例 にとりながら、ゲーム理論の応用やそれでなぜ、日本のキリスト教が皇宮遙拝に走ったのか、キリスト教との預言者的性質などについても少しふれました。そのうえで、3回目の連載では、閾値(限界を迎える値となるための要因が存在し、その値を超えた瞬間に、丁度斜面の上に静かにとどまっている雪がどっと落ちて雪崩になるように、社会の動きが変わることがあることをご説明しました。

                   一応、本日でこの連載は終了ですが、過去記事は以下の通り。

                  イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (1)

                  イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (2)


                  イノベーション・ゲーム理論・聖書理解・日本のキリスト教 (3)

                  共通化・互換化に伴う問題

                   今回、何らかの共通性や相互共通関係ができたときに、どういうことが起きるのか、ということについて触れてみたい、と思います。

                   のらくら者の日記の記事で、

                  リスク支配戦略による「プラットフォーム競争」です。『プラットフォーム競争で勝つのは安くてよい商品とは限らない:技術競争は「標準化」ではなく進化的な生存競争だから、すぐれた規格が競争に勝つとは限らない。むしろ新しい「突然変異」を拡大する多数派工作が重要だ』

                  という御指摘がありましたが、このあたりのことをキリスト教界を例にして、ご説明してみたいと思います。

                  キリスト教界とプラットフォーム戦略

                   キリスト教界にプラットフォーム競争があるか、というと、それにふさわしい例か、適切な例示かどうかは、あまり自信はないのですが、相互陪餐認証問題ということがそれに類似性が一番近いか、と思います。

                   相互陪餐認証が微妙に教義が異なるキリスト教界の集団間で完全に進みますと、信徒にとっては、どこでも自分にとって、都合のよい、便利な地域にある教会の聖餐式に参加できるようになります。この時、次のような状況を考えます。

                  相互陪餐の極端な事例

                   一方は、ある地域(たとえば、日本全国)の中に2つしか教会がないキリスト教界の集団(これをキリスト教団Aとし、それぞれが、教会員が20人と30人)と、その地域の中に1000を超える教会(これをキリスト教団Bとし、それぞれの教会の教会員が100人平均)があるキリスト教界の集団を考えます。

                   高齢化が進む中、どちらが厳しい状況の直面するか、ということを考えると、論を待たずに教団Aでしょう。しかし、この教団Aと教団Bには、聖書理解に関する大きな違いが従来あるとされ、教団Aの指導者は教団Bの教会に行くことも、教団Bの信徒の友人と話すことも、教団Bの信徒と通常の商法上の行為すらしてはならないと強硬に主張していたとしましょう。

                   カトリック教会のプロテスタント教会に対する対応は、16世紀から17世紀ごろの西ヨーロッパでは、ほぼこれに近いようなものであったと言えるのではないか、と思います。現在ではかなり変わっておりますことだけは言及しておきます。

                   しかし、教団Bの20人規模の教会の牧会者がなくなり、おまけにお年寄りの女性信徒しかおらず、一人欠け、二人欠けしていくことが発生し、ご年配のご婦人お一人だけの教会になったとしましょう。この教会を維持するかどうか、と考えたとき、教団Aでは、これまでの教団Bとの関係のあり方を改め、よくよく子細に検討した結果、教団Aの従来の指導者が言っていたほど、教団AとBの間に差がなく、教団Bに行ってもよい、聖餐も相互に認証する、と方針の変更がされ、同様に、少数側の教団Bの側が教壇Aとの相互倍さんが可能である、と態度を変えたとしましょう。この時、恐らく起きることは何か、というと、恐らく教団Bの消滅が待っていると言えると思います。

                  相対的な数の多さの優位と
                  相互陪餐がもたらす結果
                   つまり、相対的な数の多さで、互換性、あるいは相互受け入れがある場合、より大きい方は、より大きくなり、より小さい方は消えていくことが多いようです。実際に18世紀の大帝国領内で、国教会分離派が多数生まれましたが、結果として、国教会分離派として残ったものは、ウェスレー派、クェーカー、ブラザレンなどごく一部であり、残ったものには残ったもの特有の背景があるようです。詳しくは、英国の教会史をご自身でお調べいただきたいと思います。このあたりの本は、Wipf & Stock の British Evangelical Identities Past and Present, Volume 1 などや Studies in Evangelical History and Thought のシリーズなどをまずお読みになることをお勧めします。

                  消滅を防止するために

                   相互陪餐による信徒集団として消滅することを防止するためには、より小さなものは大きいものに対立的な態度をとり、より大きなものに信徒が移るのを防止するのがドミナント戦略になります。そして、可能であれば、存続できそうなサイズのものを核となるものとして、いくつか残し、そこに資源を集中し、複数の核からなるシステムとして存続させるという方法論です。

                   しかし、このドミナント戦略には副作用があります。どこか一つの大きな核がその正統性を持つかどうかは別として、偶然の結果として全体の代表的な立場を持ってしまい、本人たちの意図とは関係なく、中心性をもつ存在に祭り上げられてしまう可能性を含めて、中心と周辺という構造が生まれてしまいやすいという副作用があります。また、自派以外の集団である他者の意見を遮断し、他者の意見に耳を貸さないということは、その集団における自己正当化が進みやすく、指導者を本来の神の座につけるということが起こりやすくなるのです。指導者がなりたくてなる場合(それはかなり悪質な例ではあると思いますが)、悪質でなくても、周りが持ち上げてしまい、指導者や指導的な教会が神の座についてしまう場合もないわけではありません。こうなると、ある面、カルト化を生む素地を内包してしまうのです。

                  プラットフォーム戦略とストロー効果
                  地域の独自性の消滅

                   このことは、地方と呼ばれる地域社会で確実に起きている話なのです。ストロー効果と呼ばれる現象です。どういうことかというと、地方と東京の間に新幹線や高速道路をつくることで、本来、地方の活性化、東京からの資本の進出や、新しく居住する住民の増加をもくろんでいたのに、東京から日帰りができるようになってしまえば、地理的空間で分断されていないたったのと同じ効果をもつために、わざわざ地方に支店を置く必要がなくなります。

                   こうなると、地方での支店がなくなり、地方に東京からの資本が進出するどころか、すでに進出していた資本が消え去ってしまう、そして、それに伴って、地方経済はガタガタになるという非常に逆説的な問題が発生するのです。インターネットや電話の普及も似たような側面があると思います。

                   現実に触る、触れる、身に着ける、という必要のあまりない、どこで買っても同じような製品は通信販売に伴うデータ処理と輸送の高速化、通信手段の普及と通信費用の低下によって、通信販売事業者での販売が最も望ましいという現象が生じます。これなどは、地域的な分断による発生した不労所得である地代が、通信手段の発達に伴って消滅するという事例と考えることができると思います。輸送費用問題(このあたりも、専門に近いので言いだすとうるさい)を除けば、どこかに一か所拠点を造成し、そこからすべての商品を配送するというのが日持ちのする均質的なモノに対するドミナント戦略になります。

                  裁定取引と均一市場化と通信

                   こういう地域的な市場の分断による不労所得というか地代の発生に基づき、価格差を使って利益を出すことを鞘取り、ないし裁定取引(Arbitrage)と言います。鞘取りに関してはこちら(Wikipedia)をご覧ください。

                   この鞘取りの影響は非常に大きいので、これを防ぐ手段がどの国のどの時代の経済的活動でも試みられてきました。例えば、世界で初のコメの現物先物市場を生み出した大坂の堂島のコメ市場では、旗を振ってコメ市場の価格の上昇下落を伝える情報手段を作り出していたのです。そのための通信基地が西国(中国・四国地方)を中心に設置されていました。その一つが旗振り山です。

                  旗振山(253m)山頂と旗振茶屋
                  兵庫県神戸市須磨区にある旗振り山 旧摂津国と播磨国の境界にある





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                  旗振山から神戸市中心部と大阪湾方面を望む (鎌野直人様 撮影)

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                  旗振山から播州平野と淡路方面を望む (鎌野直人様 撮影)

                   こういう通信手段の整備により、従来地域ごと(九州とか四国 あるいは現在の都道府県レベル程度)に存在した地方のコメ市場は堂島米市場での価格が参考市場以上の実質指標、実質価格、全国統一価格になってしまう状況を生み出しました。つまり、地域市場の分割ができなくなったのです。ある面、地理的に分断されている中で生じていた情報の非対称性が米のバイヤー間ではなくなったわけです。

                   現在でも東京証券取引市場(第1部・第2部)もあり、大阪証券取引市場(第1部、第2部)もありますが、実質的には、両市場での特定の同一銘柄の株式の価格は同一になります。それは、もし漁師情感に価格差があれば、価格差がある限り裁定取引が発生して、結果的には同一価格になってしまうからです。個人的には、大証と東証が並立している意味は、通信手段が発達した現在においては、あまり意味がないんじゃないか、と思っています。

                  鎖国するしか…

                   つまり、鎖国をし、外部からの情報の流入を阻止しない限り、似たような相互参入可能なものの間では共通化が進んでしまい、より大きな方に吸収されてしまうという結論になるからこそ、この互換性、プラットフォームの共通化戦略を避け、自分自身のプラットフォームと同じグループに属するものを最大化し、実質的に他のものが存在しない、あるいは、それを採用することが意味のない結果となるように技術的な鎖国化政策を実現することが、現代の組織なり、ある概念なりの存続にとって重要なものになっている、と思うのです。

                   つまり、鎖国をして情報の非対称性を生み出してしまえば、情報の発信源の言うことを人は聞かざるを得ない、ということになるのです。これが、革命政府が樹立した時に革命政府側がするべきことなのです。つまり、放送局と新聞の占拠と、そこからの情報の独占的発信により、情報の非対称性を生み出すことです。

                  徳川幕府による政策運営の
                  デファクトスタンダードの確立
                   徳川幕府は、鎖国することで、統治に関する事実上のデファクト・スタンダードを実現し、大規模なサブグループの形成の傾向がみられそうなグループのところでは、天領を配置する、譜代大名など徳川親藩の小藩を配置し、スパイのように情報収集し、少しでも怪しい雰囲気があれば、改易(領土の変更)をすることで、別の地域の領主にして通信を困難にさせ討幕連合を作らせなくする、領土を細かく細分化する(現在でもやたらと飛び地の多いのは、その結果でもあります)、討幕連合を作りそうな大名は、口実をつけてお取り潰しをする、徳川御三家であっても、攻めてこないように天然の要害(大河川など)での交通を阻害するということで、敵を排除する戦略をとり、支配のプラットフォームにおける徳川家への忠誠という形でのデファクトスタンダード化を行ったといえようかと思います。それは、幕府にとって、実は最適化戦略であったといえようかと思います。

                   いまだに茨城県が関東近県でありながら、工業化・住宅などでの開発が気持ち(かなり)遅れているのは、水戸徳川対策を含め、利根川が付け替えられた結果(もともと、利根川は現在の隅田川・大川であった)が影響しているようですし、尾張徳川、紀州徳川対策には、大井川、富士川に架橋をしないことで対応したのです。

                   しかし、こういう地域分断化の結果として、現在の地域ごとのご当地野菜(下仁田ネギや泉州水ナス)やご当地食、ご当地の言語(方言)が生まれ、それがまた、日本の文化的多様性と複雑性を生み出し、文化の豊かさを生み出したわけでもあるわけですから、なかなか面白いものだと思っています。



                  国土交通省のサイトから拝借した江戸期と現在の河川変遷図

                  まとめ

                   この連載の最期はプラットフォーム戦略としての分断化戦略の結果生まれた藩や天領などの配置による地域分断政策と鎖国政策が、方言や小渕恵三さんの娘さんの政治資金問題で最近脚光を浴びた下仁田ネギ(下仁田ネギは、鍋物にするとおいしいです)の話を生み出した話になってしまいましたが、このことは政権の安定のためには、分断して統治せよということを誰が発言したかはよく知りませんが、ローマ時代の属州統治もこの分断統治が原則でしたし、マキャベリも君主論の中で似たようなことを言っていたと思います。

                   ところで、同質的なものが大量にそれも隣接して存在するというのは、実は効率的なようでいて、ある面、滅びるときも効率的に滅びてしまうので、システムの存続を図るためには、同質的なものは分割して隣接させない、そして、イノベーションの発生を防ぐ、というのが、システム安定化のための要件かもしれません。

                   個人的に、信仰者として、信仰の内容とか教義とか、聖霊の働きを大胆にかつ極端に無視ししてモデル化して、ここまでゲーム論的というか、意思決定論的に分析していいのかなぁ、という気もしましたが、まぁ、こういう意思決定論的なものの見方をすれば、過去の歴史的な動きは割とあっさりと考えることができて、表現できるかも、と思いましたので、おまとめしてみました。まぁ、限界あるけどね、と御笑覧いただいていただければ、なにより幸甚でございます。

                   もちろん、個人的にはモデル化とそれに伴う省略の問題は熟知しておりますので、全能感に浸って、ふなっしーのようにヒャッハーってやっているわけではございません。御安心を。


                  ロックなふなっしー


                   ということで、一応、この連載は終わりでございます。お付き合いいただきまして、ありがとうございました。


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