2014.10.04 Saturday

教会やめたい?(その1) 問題の着想

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     教会内迫害、ということについて、シリーズ化してみたい。多分、連載としては長めになるだろうし、結構厳しいネタになると思う。ヨーダーほどわかりにくくはないとはおもうけれども。ヨーダーについては、このリベラルのやつ、わけわからん専門用語、ジャーゴン並べやがって、と思っておられる方も多かったようだ。一応参考図書を推薦しているので、それを読んでいただけると嬉しい。ミーちゃんはーちゃんは、ブログは読者を選ぶ、と思っているので。

    このネタを思いついた背景


     このブログ、キリスト教会大好き人間が書いているブログであるにもかかわらず、このブログに検索語として、このブログに来ていただいている方のうち、かなりの頻度で

    「教会 行きたくない」
    「教会に行きたくない」
    「キリスト教 やめたい」
    「キリスト教やめたい」
    「キリスト教 辞める」
    「教会 離れる」
    「キリスト 教会 行きたくない」


    という非常に悲観的な語で当サイトに検索エンジンから誘導されてこられる方が多い。そういう現象を見ていると、お悩みになっている信徒さんご本人の皆さん方、牧師先生や信徒代表の方の悩みの深さというか、信徒の中でひょっとしたら「やめたい」と思っている潜在層が多いけど、抜けるに抜けられなくて、困っておられる方も多いかもしれない。

    なんてこったい

     ミーちゃんはーちゃんはキリスト教の牧師ではない一介の平信徒ではあるけれども、キリスト教が好きであるし、何より、ナザレのイエスとイエスのことばが気が狂うほど、キリスト基地外(クリスチャンのもとになったクリスティアノスには、このような蔑視的な意味も含まれたらしい)と呼ばれてもいい、と思うほど好きである。ある友人からは、この前、「もう、実質上牧師同様なんだから、”牧師ではないごっこ”はやめたら」、とは言われたけど。まぁ、キリスト者集団(教派)的な縛りがあって、一応『牧師ではない立場』を堅持しておきたい。ふりだけでも。とはいえ、「教派的・・・」とか言うと、「うちは教派ではありません」というおっかない人がいるから、かなわないのだけど。

    なり方は教えてくれるが、やめ方を教えない
    キリスト教会

     キリスト教会では、どうすればクリスチャンになれるか、ということは教えてくれるが、通常そのやめ方まで教えてくれない。

     通常、ある会社の会社員になれば、ある会社の社員のなり方は会社が教えてくれるし、会社のやめ方も新人研修のときにちらっとは教えてくれる。大抵は忘れているから、前例を見習うことになるのだが。なぜ会社がこういうことを説明するかというと、会社員になるということは、「社員」つまり、ある企業というソサエティ(社会)の一員になるという契約を結ぶから、契約解除の仕方も教える必要があるからである。学校だって、一応、生徒手帳やら、大学便覧やらに退学やら休学やらの手続きくらいは簡単に書いてある。

     火災保険にせよ、生命保険にせよ、こういうものにも契約書があり、契約時にはこういう契約書には、どう言う時には保険契約が保険支払い義務を負う組織(つまり、保険を販売した会社)が支払い義務を負う、または、解約できる、あるいは、保険金支払いを受ける個人や企業がどうすれば、解約できるか、そのためには何をしないといけないか、なんてことが見るも無残なほど小さい字でそれも薄めの色の印刷で保険契約のしおりという、「これの、どこがしおりやねん」といいたくなる分厚いしおりには、一応書いてあるし、お客様相談センターに電話して相談することもできる。

     ところで、生命保険会社は通常の株式会社法人の形態をとっておらず、相互会社となっていることが多い。近年は株式会社形態をとる生命保険会社が増えてきたが。建前の上では、生命保険の場合、保険契約者は、株式会社である法人と対立的に契約するのではなく、相互会社の社員となって、相互会社の一部となるという親和神話(ひかる様のご指摘、ありがとうございました)的な契約をすることになっていることを一応触れておく。まぁ、相互扶助の一環としての生命保険を販売する法人が存在すると思った方がよい。

     ところで、キリスト教会の会員のなり方は、むちゃくちゃ荒っぽいことを言うと、

    「私はイエス様のおっしゃっていることが素晴らしいと思います。イエス様が言っていることは正しいと思います。そして、イエスを神であり、私の神の不在の問題を解決される方として受け入れたい(救い主として信じたい)と思います。(そして、付帯契約事項(オマケ)として、この教会の一員となりたいと)思います。」
    ということを牧師とか、教会の人に言うと、あとは、いろいろ聖書のことやそのほかのことを教えてくれて(教会内のお作法とか、教会内外の交友関係、特に男女交際関係を含む割と細かな注意事項が含まれる場合もあるが、ただ、教会側では、暗黙知としてお持ちであるものの、明文化されてない場合もあるため、信徒になってから、「え、そうなの?」ということも少なくない、らしい)、いろいろな手続きが踏まれ、バプテスマとなり、教派によっては別のプロセスがある場合もあるけれども、これでたいていの場合は、信徒になれる。

    信仰を持つことは、付帯契約事項を含むか?

     ところで、問題は、この付帯契約事項の部分ではないか、と思うのである。キリストは好きだけれども、キリストは個人の神の不在の問題を対応してくださる方としてともに生きたいと思うけれども、信仰生活を送るのが、いまいる教会だけと限られるのかに関しては、信仰を持つ際の合意事項に含まれるかどうか問題というのはあるのではないか、と思うのである。

     教会側の暗黙知というのか、一種の明文化されてない知的データベースとそこから派生する教会特有、教派特有の信者としてこういうような行動が望ましいとされているかもしれない行動規範や行動スタイルを尊重することはあっても、それを順守・墨守することまで、キリストとともに生きるということの付帯契約事項に含まれるかどうか、ということ(付帯契約事項まで含めて)まで納得して信徒になっているかどうか、ということは、案外明らかではないのではないか。

     ところで、このような信徒になるための教えてくれることの中に、日本ではキリスト教のやめ方とか、キリスト教界をやめるやめ方とか、キリスト教界のやめ方は含まれていないことが多いように思うし、個人的経験としても、それを説明したことはないなぁ。講壇からも、また、最初は説明しない方なぁ。ただ、バプテスマを受けたいという方とのお話しの中では、バプテスマを受けたいと相談されたら、軽くは説明しているかなあ、うちのキリスト教会の場合。

     なぜやめ方は説明しないだろうか?

     次回へと続く。






    評価:
    D.M. ロイドジョンズ
    いのちのことば社
    ---
    (2005-05)
    コメント:良かったです。Dr.の教会論。これの再販が出ないのが何とも残念。

    2014.10.06 Monday

    教会やめたい?(その2) 教会のやめ方

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        前回の記事で、当ブログに「教会やめたい」、「教会 行きたくない」とか言う検索語で到達されておられる方がかなりおられること、それも検索エンジンのかなり上位でたどりついておられることをご紹介し、会社とかならやめ方を教えてくれるし、契約などでは、その契約の効力停止(つまりやめ方)が明確に書かれていることをご紹介した。

      前回の記事は、こちらから。

        教会やめたい?(その1) 問題の着想

       教会はやめられるのか、というお話しをしたい。

      教会はやめられるか?

       結論から言おう。

       教会はやめられる。

       やめたければ、やめて、無教会という一人教会を実施することもできる。何、心配する必要はない。日本にも先行事例がござる。最下部のリンクの「内村鑑三の人と思想」でご紹介されている内村鑑三先生である。補足で触れたように、今週10月11日 土曜日の午後1時から、E-テレ(NHK−教育TV)で資料から内村鑑三の生涯を再現しようとしておられる鈴木先生のお話が、「こころの時代」であり、内村先生も不敬事件の結果、教会からはじかれるようにして、無教会の思想へいたったあたりの説明をしておられた。おすすめしておく。

       あと、不敬事件とその背景に関する読み物としては、明治期から昭和初期までを含む国家とキリスト教の関係を概観できるマンガでもある。マンガとしては、やたらと文字の多いマンガ(このブログの著者が言うな、というのはあるが)である、「マンガで読む日本キリスト教史 タイムっち」も合わせて推奨しておく。

       ただ、個人的には、よほど聖書を読み込んでいない限り、おひとり様無教会は、お勧めはしない。なぜかというと信仰は共同体性の中ではぐくまれるからだし、内村先生も、うっとうしい教会の「やれこれをしろ」「やれこうでないといかん」「やれこういうことでないといかん」という「しきたり(律法と呼ぶ人もいる)」には辟易して、その挙句の果てに不敬事件で教会から追われるようにして、教会を飛び出しておられるものの、結局は信徒共同体「無教会主義教会」という表現上は実に矛盾した存在を実践なさっておいでであった。

       その意味で、キリスト教会は、個人の信仰を表明するものの総体という側面もあるが、共同体の信仰という側面もある。だから安易にやめない方がいい。これは素直にそう思う。そして、共同体を通してのみ感じられる霊性のダイナミズムもあると思うのだ。

       なお、もう物故者であるが、ミーちゃんはーちゃんのお知り合いにそれをかなり長期間にわたって、野山でのおひとりでの礼拝を実施された、いま生きておられれば、100歳を優に超える方を存じ上げているが、かなりきつかった模様である。

      クリスチャンはやめられるか?
       
       では、クリスチャンはやめられるか?ということを問うてみたい。個人的には、これは無理ゲー、だと思う。あなたが、神とともにいたいと思い、神の前に一度手を伸ばしたのだとすれば、クリスチャンはやめられないと思う。もちろん、自分で、「やめた」という振りをすることはできる。どこぞの教会の信徒から、「あなたは信仰の破船に遭った」とか、「クリスチャンと呼ぶに値しない」、「悪魔の手先」と言われようが、あなたの行動が、キリスト者として(一時的に)ふさわしい状態でなかったとしても、あなたはクリスチャン、ないしは、キリスト者であり続ける、とミーちゃんはーちゃんは思う。

      なぜか?

       神がそのように約束されたからである。もし、私たちが神のもとに立ち返りたい(悔い改めたい)のであるとすれば、辛抱強く神は我々を受け止め抱きとめ、憐れまれる方であるからである。旧約聖書を見られよ。神の民であったイスラエルが、何度裏切り、何度神の前に立ち戻ったことか。異教の神に現を抜かし、遊女に走り、不貞に走り、口寄せや霊媒師に走ろうが、神はそれでも民が神の前に戻るように説得され、戻った時には、受け入れたもうたからである。大体、イエスはこのようにおっしゃっておられる。
       そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
        (口語訳聖書 ヨハネ14:18)
      面白いことに・・・
       「教会 やめたい」、「教会 行きたくない」で検索してくる人はいても、当ブログに来られる方の検索語として、「クリスチャンやめたい」、「クリスチャン やめる」はめったにないのである。どうも、これらのことを考える限りにおいては、内村先生同様、うっとうしい教会での「やれこれをしろ」、「やれこうでないといかん」、「やれこういうことでないといかん」というしきたりに辟易してたり、教会内での人間関係に疲れが来ているだけなのだと思う。

       本来、イエスのことば
      マタイ  11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(口語訳聖書)
      であることばに従って、教会に行けば、こころを休ませるはず、と思ってたら、豈図らんや、かえって心が休まらず、「何だこれは」「これはいったい何!?」になった経験をした人は少なくないのではないだろうか。それで、「教会に行きたくない」になったり、教会 やめたい」という検索語につながるのであろう。



       次回「休ませてあげるのはだれか問題」へ続く


      補足
       無教会に内村先生が向かうことになった経緯に関して、下記のリンクで紹介しているご著書をお書きになられた鈴木範久先生が今週

      土曜日2014年10月11日(土曜日) 午後1時から


      のNHK教育(E-テレ)でお話しになられる。これは、昨日の朝5時から放送された番組の再放送である。非常に参考になると思うので、この連載に関係するので、ご紹介して、御視聴をお奨めしたい。

      http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2014-10-11/31/12966/

      こころの時代〜宗教・人生〜
      「内村鑑三 その面影をたずねて」




      内村鑑三先生のお写真



      お話しされる鈴木範久先生



      内村先生が発行された雑誌 「聖書之研究」


      幕末から昭和を生きた思想家でキリスト教伝道者の内村鑑三。その思想はいかに生まれたのか。丹念な資料収集や関係者の言葉などから浮かび上がった人間・内村の面影とは。

      立教大学名誉教授の鈴木範久さんは、半世紀以上にわたって内村鑑三を研究してきた。著作の研究だけでなく、内村が生きた時代の資料を収集し、内村の 足跡を実際に訪ねるなどしながら、内村がいかに生きたのか、また、その思想がどのように生まれたのかを明らかにしようとしてきた。厳しい人というイメージ もある内村はどのような人物だったのか。また、その信仰に基づいた生き方はいかに深まっていったのか。その面影をたずねる。

      【出演】立教大学名誉教授…鈴木範久,【語り】石澤典夫




      評価:
      岡田明
      キリスト新聞社
      ¥ 2,160
      (2013-04-25)
      コメント:内村が経験した不敬事件の背景を含め、明治国家とキリスト教、戦前の大日本帝国とキリスト教の概観にはわかりやすくて良いと思う。

      2014.10.08 Wednesday

      教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題

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          これまでの記事で、「教会をやめたい」という検索語で当ブログに来る方が多いことやら、信徒のなり方は教えてくれるもののやめ方は教えてくれないこと、 教会のやめ方はあって、いかなきゃいいこと、でもそれじゃ、まずいこと、教会をやめた内村鑑三先生のこと、でも、無教会教会というのを作っちゃったほど、 キリスト者にとって共同体が大事なこと、そして、教会は行かなくなってもクリスチャンじゃなくなることはないこと、神のもとに立ち返ること、そして、教会 はこころ休ませてくれるところ、と思って行ったのに…という人が現れること、について触れた。過去記事は、こちら。

        教会やめたい?(その1) 問題の着想

        教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


        休ませてあげるのは誰か?

         「休ませてあげるのは教会か?」「休ませてあげるのは教会の牧師か?」「休ませてあげるのは教会の信徒か?」問題であるが、答えは、いずれもNo!である。

         もちろん、そういう役割を果たしておられる教会があることは存じ上げている。それは尊いと思う。そういう役割を果たしておら得る牧師先生が居られることも存じ上げている。そいう牧師先生が居られるところの教会員の方は幸せである。信徒として、そのような神の民の回復の実現のために自ら、自主的に携わっておられる方もおられる。それも本当に尊い。頭が下がる。

         しかし、すべての教会がそうだと思って、教会に行ったり、キリスト者のところにったりすると、ろくでもない目に遭うこともないわけではないことは知っておいた方がよいかもしれない。

        教会は愛を語るところなのでは?

         教会は愛を語るところであるといわれる。もちろん、それはそうだ。しかし、それは人間の間の愛をも語るが、まず第一は、神への愛であるのではないか、と思うのだ。まず、そこが出発点ではなかろうか。神に対する絶対的な依存で神をドラえもんのようにあしらうのではなく、神に信頼を置き、信頼する神が一人一人の生を肯定し、関与しておられるというところから始まっている。そして、その神の愛のあとに続くものとして、被造物たる人への愛となっている。つまり、神への愛を語ることがまず第1で、そして、他者と私への愛の順ではないかと思うのだ。それを誤解している方が多いのではないか、と思うのだ。

         もちろん、キリスト教会には、お若いころの賀川豊彦先生だとか、大都会岡山で孤児伝道した石井十次先生とか、イギリスで孤児伝道したジョージ・ミューラー先生とか中国で孤児伝道した、ハドソン・テーラー先生とか、カトリックではマザー・テレサ等が居られるが、まず、神への愛、そして、人々への愛であったとは思う。ヒューマニスト、ヒューマニズムの方々がおっしゃるように、人の絶対化が先にありき、ではなく、少なくともまず神への愛があるような気がする。

        仏教の慈悲との違い

         ところで、先日、仏教者の方の研鑽会に横入りさせてもらった(こういうことするから、リベラルとか、エキュメニカル活動家というラベルを張っていただけるのであろう。何で参加したかというと、単純によく知らないし、もうちょっと知りたいし、面白そうだから参加しただけなのであるが)ときに聞いた話なのだが、仏教の世界では、「愛」は生への執着を生み、そして、苦を生む存在なので、非常によろしくないとされていたらしい。

         仏教的な背景の中で、善とされるのは、「慈悲」らしい。悲しむ者に対する憐れみ、無条件に生きるがゆえに苦しむ者に対する憐れみのこころらしい。苦しみの中でも、特に死というものに対して、失われることに対して、嘆き悲しむことの離脱ないしは解脱がいわゆる悟りの境地のようだと感じた。この研鑽会で、死とそれに伴う悲しさからの離脱ないし解脱を理想とするのが、どうも仏教的な思想らしいことが改めて感じられて、それはそれで面白かった。

         キリスト教は死の離脱ではなく、死を越えての神とともに生きる生に向かうところであり、生きるにしても愛するにしても、生の消滅そのものに向かうのではなく、神が関与するが故の愛、神が存在するが故の生、と考えるところが仏教とはかなり違うかなぁ、と思った。

        神のみが人を休ませるのではないか?
         根本的に、休ませるのは、人を回復させられるのは、神でしかない、というのがミーちゃんはーちゃんの当座の回答である。牧師でも、人でもなければ、人の集合の教会でもない。牧師や、信徒や、人や、信徒の集合体の教会の後ろ側にいて、それを支配していて、それらを通して個人に関与される神でしかないのではないか、と思うある。カランから出たアブラハムを、エジプトや迫害されれたイスラエルの漂泊する民をも荒野で、導きたもうのは神なのだ。いや、むしろ、神は人は、その居住が定住型であれ、そうでない状態であれ、神を離れては霊的には漂泊する存在ではないか、語っておられるような気がしてならない。

         アブラムは、カランという父祖の地を離れ、放浪の民となることであった。
         イスラエルは、自らをわが父はさすらいのアラム人と呼んだ。
         うまいものがたらふく食えたエジプトの地から出て、
         荒野をさまよう羽目になった。
         王国が建国したと思ったら、バビロンやアッシリアに連れ去られた。
         バビロンから帰ってきたとおもったら、またぞろローマに責められて、
         地中海世界のあちこちに散らばるはめになった。
         イエスはイエスで、人の子には枕するところすらなくといい、
         我らに向かって、「あなた方は世界に出ていき」と言われている。
         パウロは流れ流され、あちこちふらふらしていた。
        というようなことを考えると、漂泊する民となり、その中で、神とその関係を深めることを求めておられるような気がする。そもそも、神というお方は、彷徨うわれらにとって、砂漠のオアシスのような存在なのかもしれない。それは確実に変わらずに存在するが、我々が諸般の事情によりふらふらするし、せざるを得ないから(それは我らが義ではないから)こそ、放浪するものとして存在するのだろう。その時に、立ち戻るべきは、教会でも牧師でもなく、神なのではないか。唯一休むことができるとすれば、不動点でもある、砂漠の中のオアシスのような存在である神ご自身にもどること、すなわち神のもとに戻ることのみにて得られる神と非常に親密な関係なのではないか、と思う。

        おすすめ本

         このあたりのことを読みたい方は、ヘンリー・ナウエン著、工藤信夫訳 わが家への道 
        をご推奨する。お買い物は、こちらのあめんどう直販サイトで。3000円以上で送料無料ですし。この本1年ほど前までは、1年くらい版元切れになっていたので、ある時に買っておかれるとよろしいかと思われます。

         他のナウエン本、特に、ナウエンと読む福音書も、お勧めである。この本の英語版は、Finding My Way Homeであるが、割と平易であり、英文としては読みやすいものの、実に、味わいの深い文章で書かれている名著である。


         愛や休ませてもらうことを、信徒や、教会や、牧師に求めるのは、車のエンジン音がおかしい時に、その根本原因である車の修理をするために、修理工場に行くのではなく、車に関することだから、と自動車用品店に行って買ってきた消臭剤を置いてみたり、その音の不快さの原因を直さずに、その音がききたくないからということで、カーステレオで、大音声のヘビメタをかけまくるという行為と同じなのではないか。


         次回、教会やめたい? 教会内・教会外迫害?ということについて述べていきたい。




        評価:
        価格: ¥1,620
        ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
        コメント:よい。読みやすい。われらが返るべき場所は神しかないことを示すナウエンの名著。

        評価:
        H. Nouwen
        Darton Longman and Todd
        ¥ 1,208
        (2001-10)
        コメント:英語もそう読みにくくはない。平易でありつつ、味わいのある文章でもあり、英語が得意な方にはこちらもお勧めしたい。

        2014.10.11 Saturday

        教会やめたい?(その4) 教会外迫害?教会内迫害?

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           これまでの記事で、「教会をやめたい」という検索語で当ブログに来る方が多いことやら、信徒のなり方は教えてくれるもののやめ方は教えてくれないこと、教会のやめ方はあって、いかなきゃいいこと、でもそれじゃ、まずいこと、教会をやめた内村鑑三先生のこと、でも、無教会教会というのを作っちゃったほど、キリスト者にとって共同体が大事なこと、そして、教会は行かなくなってもクリスチャンじゃなくなることはないこと、神のもとに立ち返ること、そして、教会はこころ休ませてくれるところ、と思って行ったのに…という人が現れることについて触れた。


          教会やめたい?(その1) 問題の着想

          教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


          教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題


           今現実に教会から陸続と流出している状況を踏まえると、一種、教会内難民みたいな状況が実は発生しているような状況なのではないか、という問題について触れたい。

          教会から脱出し続ける、キリストが好きな人たち

           「日本人の(福音派)教会滞在期間3年」「教会の賞味期限は3年」説ということがまことしやかに言われていて、日本人が教会に耐えられるのは高々3年であり、3年後にはほぼ教会から人がいなくなるという話がある。例えば、水谷氏のこの記事 マルタ依存体質からマリヤ体質へ福音提示の単純化=宣教の効率化≠宣教地の愚民化 の記事である。もちろん、学生の時に教会に行き、信じたものの、実際に就職し、仕事をし始めてみたところ、仕事が忙しく大変だったり、日曜日に勤務があるなど、仕事と教会の両立に耐えられないという現実もないわけではないだろう。

           しかし、なんでこれだけ、教会から脱出して行くのか、と考えたら、もはや、「教会外社会や人から教会が迫害されている」、教会外の社会や人から「クリスチャンだから迫害されている」という部分も無論ないわけではなかうが、「教会やめたい?(その1)」の記事でも触れた、ある教会内でその特定の教会の(明文化されてないことが多い)規則に従順なクリスチャンから、その特定の教会の(暗黙の)規則に従順でないと判定されたクリスチャンへの(一種の)迫害というか、威圧圧力が発生していて、「まるで難民のように教会から陸続と脱出中という状況なのではないか、 と思われなくもない。

          同質化圧力の結果、押し出される人たち

           というのは、ある面教会が内部論理の完結、内部の同質性の重視という性格をもった場合、幅ひろい他者を受け入れ、幅ひろい他者とその考え方を内包するのではなく、ある考えに従っていくようにかなり高圧的に仕向けていく、あるいは、違う考えを持つものを排除していくという特性を持ちかねない。この結果、ある考えを堅持したい信徒がある考えを尊重しないという理由で別の信徒を迫害することになりかねない。そして、あれかこれかの議論に終始したりすることもあるだろう。また、あれもこれもと含められるようなメタ思考ができなかったりする人もいるかもしれない。あるいは、他者を対等な関係でとらえるのではなく、一段低いものと見たりすることがあるのではないか。また、こころない信者の発言や言動に傷ついたりした方もあろう。クリスチャン2世であっても、その一族の中で、一番最初にキリスト者となった第1世代との聖書理解が違ってきてしまったために、教会から居づらくなって、押し出されてしまうように、ひっそりと教会を去る人はいるような気がする。

           自分と考えの違う立場の人に、「福音派」とラベルを張ったり、「リベラル」とラベルを張ったりすることはないだろうか。実際にそういう言動を取ったりすることで、ある信徒群が他の信徒群を迫害していくことになりかねない。ラベルを張ってしまえば、自分と無関係にできてしまうのだ。そして、放浪者、難民の様にキリスト教界を漂う人々もいなくはないだろう。傷つけた教会だけが悪い、それは教会にあるまじきことだ、とはミーちゃんはーちゃんは言わない。これは、この連載で次回触れる。もちろん、こういう不幸はないほうがいいに決まっているが。

           何、これはいまに始まったことではない。ちゃんと聖書の中に書いてある。

          使徒
           6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。(口語訳聖書)

          Iコリント
           11:20 そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。
           11:21 というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。
           11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
           使徒時代の当時から、物理的に排除されたり、軽んじられたりした人はいたのである。その意味で、この種のことは、いまの日本のキリスト教会に始まったことではない。

          傷ついて行く人々と傷ついた癒し人

           あるいは、信仰の一環として、と思って捧げてたものが、別の一部の教会関係者のために流用されたりという事例に直面し、きよい人の集まりだと思ったら、とんでもない食わせ物がいたり、という教会の現実に躓き、倒れ、傷を負い、という事例も全くないとはいえないであろう。なお、自慢ではないが、ミーちゃんはーちゃんは食わせものの一人だと思って置いていただけると助かる。

           クリスチャンではあることは続けたいものの、この種のことの躓いてしまったり、傷ついたキリスト者で教会を離れてしまった人も多いだろう。しかし、待ってほしい。あなたが傷ついた以上に傷ついた人、いまなお傷つき続けている人がいるのだ。

           それはナザレのイエスなのではないか。あなたのために傷つき、現在のわれわれ一人一人の神の不在の状況と教会のこの現状に傷つき、それでもなおそれをご自身の受苦の一部として受け取っておられる方こそ、ナザレのイエスではないか。そして、ナザレのイエスは、その状況を回復されるとイエスがお約束であるがゆえに、ナザレのイエスは魅力的なのではないのだろうか。

           このあたりを考えたい方には、英語が読める方だとThe Wounded Healerをお勧めするが、日本語版の傷ついた癒し人をご紹介しておく。非常に読みにくかったけど。

          日本語だと、イエスの御名で、の方がいいかもしれない。お買い物はあめんどう直販サイトで。

           次回「誰も正しくない」へと続く。

          追記 2014/10/11:午後))
           上のような例は、『迫害』とは言えないのではないか、というご意見も公開当日の午前中にいただいたが、実際には、やんわりとであれ、正面きってであれ、「出ていけ」と言われたり、「陪餐停止」「破門」を道具に反省を求められたりするケースがみられるキリスト教会などでは、迫害に類似、あるいは相当するケースもあるのではないだろうか。




          評価:
          Henri J. M. Nouwen
          Darton,Longman & Todd Ltd
          ---
          (2014-04-28)
          コメント:英語がよめる人は、これ読んだ方がいいかも。

          評価:
          ヘンリ・ナウエン
          あめんどう
          ¥ 1,026
          (1993-04-01)
          コメント:おすすめである。お買い物はできれば、あめんどうブックスで。

          2014.10.13 Monday

          教会やめたい?(その5) 誰もが正しくない

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             これまで、教会をやめたい人が多いこと(その1)、教会はやめようと思えばやめれるけど、キリスト者はやめられないこと(その2)、休ませてあげるのはだれなのか(その3)、教会内の迫害かも(その4)という話をしてきた。

            教会やめたい?(その1) 問題の着想

            教会やめたい?(その2) 教会のやめ方


            教会やめたい?(その3) 「休ませてあげるのはだれか」問題


            教会やめたい?(その4) 教会外迫害?教会内迫害?

             ところで教会内における迫害は、正義、正しさの問題とどこかで裏と裏がつながっている、と思う。

            迫害する側も迫害される側も
            自分は正しいと思っているという構図

             なぜなら、神に(真実に)従うが故に迫害されるのだ、という思いが迫害される側にあり、神に真実に従おうとするがゆえに排除(迫害)しなければならないのだ、という思い込みが迫害する側にある。まさしく、パウロなどは、回心前は、神に真実であろうとするが故に片っ端からキリスト者をユダヤ法(律法)に則り、検挙し、捕縛し、刑罰を加えていたのである。

             しかし、迫害というか、威圧というか、人々を片隅に置くことは、「教会やめたい?その4」で使徒行伝の4章や第1コリントから紹介したように、そこに正義があるから、あるいは、神の義があるから、必ず、それが起きるのではない。いや、後ろ、意外としょうもないところで、しょうもないことを発端にこれが起きるような気がしてならないのである。相互理解の不足というか、誤解から生じる迫害というか、圧迫されたかのようになんとなく不安というか不満な状態に陥る、というのが、意外に大きいようにも思うのだ。

            不幸な罵り合いじゃないすか?

             不幸な誤解や相互理解に基づく罵り合いに近いことを、キリスト教会は繰り返してきたように思う。最近では、ミーちゃんはーちゃんは、「福音派はアメリカのお馬鹿な人の集まり」とも揶揄されたし、「リベラル神学は悪魔の手先だ」と福音派の一部の人々からは言われちゃったし。

             それこそ、ろくでもないキリスト教社会なのかもしれない。しかし、このろくでもないことを起こす人々を、神は愛した給うたのである。


            Suntory BOSSのCF このろくでもない素晴らしき世界 大相撲篇



             そして、はたから見れば、その「不幸な誤解や相互理解に基づく罵り合いに近いもの」を迫害と呼んでよいのであろうか、とも思う。しかし、人間は主観に影響されるので、不幸な誤解とその結末を称して、迫害と呼ぶこともあろう。

             「私自身(ないし、それを支える信念や理解のシステム 神学でも信仰の
              内容でもよい)が(理不尽に)貶められた」
                ↓
             私と私の神が軽んじられた
                ↓
             これは私の神と私の信念(システム)が正しいが故の迫害である


            となる人もいて、そして、このように思うと、お互いに罵り合う結果になりそうである。自分自身にこそ、神の義があると思うし、正しいと思うからこういう理解の図式になるのではないか。傍から見れば、なんと滑稽な図式ではないだろうか。小学生の兄弟同士が「お前の母ちゃん***」と言い合っているようなもんである。だって、同じおかぁちゃんから生まれてきたんだろう。その程度のことである。

             お互いどっちもどっちなのである。神を除く人間すべてが「そう正しくない」のではないか。それを「どちらが正しい」、「どちらが聖書的だ」と言って張り合っているようにしか見えないのが残念でならない。まぁ、こんなことを書くから、「リベラル」だの「エキュメニカルの徒」だのというありがたい称号を賜るのだろうけど。

            神はそんなに軽いお方か?

             所詮、人間が人間に対して罵り合いをしているだけであり、神は、そんなことで貶められるようなそんな軽い存在なのだろうか。ダビデのような不敬虔ものの存在も含めて、神の民として、神はともに歩まれた方ではなかったのか。ふがいないイスラエルの民を、そしてふがいないわれらをも愛したもうた方ではなかったのか。

            徒党を組む人間をも用いたもう神

             とはいえ、現実社会において、教会の中で居づらくなることは起きる。それは教会といえども人間の集まりであるし、人間はあつまれば徒党を無意識的にであれ組む存在であるからである。そのことはちゃんと聖書の中で書かれている。党派心をもつもの。しかし、それを追い出せとは言っていないのではないか。パウロ先生は、ピリピ人への手紙で、

             ピリピ
            1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
             1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
             1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(口語訳聖書)

            と書いておられ、ま、かなわんなぁ、とおもいつつも、まあ、神のことばが、それまで神のことなぞを知る由もなかった人々に、競争心や見せかけが出発点でも、宣べ伝えらているのなら、一応しんどいけど、OKじゃね、って言われているように思うのですね。ここで苦しめられるはずとされているのは、パウロであって、神ではないし、苦しめられても、まぁ、福音が伝わるなら、ま、OK、喜んでもいいんじゃね、とおっしゃっておられるように聞こえてしょうがない。無理やり、武士は食わねど高楊枝的な殉教者精神ではなく。

             いや、「分派に関しては除名しろってテトスで言ってんじゃない?」って説もあろうけれども、これ、割と標準的な訳を読み比べて見ると面白い。

            口語訳聖書
            テトス  3:10 異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。
            新改訳聖書第3版
            テトス 3:10 分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。
            新共同訳聖書
            テトス  3:10 分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい。


             まぁ、ミーちゃんはーちゃんには聖書翻訳をうんぬんしようとする能力も気力もないので、3つの翻訳がかなり味わいが違っていて、その違いが面白いなぁ、と思う、とだけはここで記載しておこう。多分、ここでの訓戒って、行政処分の時みたいに、一方的なものではないと思うのだが。むしろ、訓戒ということで、きっちり話せ、ということだろうと思うのだが。


             次回は、一回軽めのネタを挟んで、次々回にやめたくてもやめさせてくれない教会について




            2014.10.18 Saturday

            教会やめたい?(その6) やめたくてもやめさせてくれない教会?

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               これまで、教会をやめたい方がおられること(第1回)、でも、教会はやめられるけどキリストとともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人もだれも正しくないこと(第5回)と進んできたが、今日は、やめたくても、教会をやめさせてくれない教会について、触れていきたい。

              市役所のようだった
              ヨーロッパの教会の役割

               いまは、市民社会とそれをめぐる法制度が成立しているので、市民社会に関係する行政情報は、地方自治体が、基礎自治体(普通の人が一番身近で、自分が管轄する法的な役割と権限を与えられている組織、市とか、町とか、村)に付託された(やってね、って法律で定められていて、建前上は国民から負託を受けた国が自治体にお願いしたことになっている)責務(市町村役場がいやでもしなければならない事柄)として、出生、死亡、転居、所在所情報、婚姻状況の把握(住民基本台帳記載事項)の管理を、国民からの届け出制にのっとって、やっていることになる。一応、届け出制であるから、時々それに漏れが生じて、戸籍のない日本で生まれた子供がいて、教育を受けそびれたりする。あるいは届け出してないために、内縁関係とかいう言葉が生まれたりする。そういえば、ついちょっと前に話題になったが、160歳を超える江戸生まれの人が生存者として、戸籍台帳に乗っていることがあったりした。さすがに住民基本台帳ではなかったようであるけど(おそらく、住民基本台帳の方は職権で削除されたのだろう)
               Aged200_2010
              岐対馬で書類上200歳の人が戸籍上生存していたことを伝える朝日新聞ウェブ版の記事

               自治体は、基本的に業務として、申請されたものを申請された通りに、淡々と、かつ粛々と処理を進めていくのであるから、死亡届が出ない限り、100歳超えても記録し続ける。市長がテレビに出るため(失礼、御長寿の方の長寿を祝賀していることで全市民が喜んでいることを市民を代表してテレビで伝えるため)に御老人のところにお伺いする時に、妙に嫌がられない(死亡届を出さず、生きていることにして年金をもらっているケースもあるらしい)限り発覚することもないだろう。親族が「市町からの祝福などはいいですから、ほっておいてくだされ」と言っている以上、よほどのことがない限り、役所的には放置するしかないし、発覚しないことになる。異常値のチェックをやるメリットも役所的には、あまりないし(だって、住民基本台帳から計算される人口が減ると翌年度以降の地方交付税交付金に響くことがあるらしい)。年に1度くらいやるデータチェックではチェックすることはあったとしても。


              百歳の方のご自宅を訪問する牛久市長さんの動画

               ちなみに、この動画が検索の最初に出てきただけで、別に牛久市長がどうのこうのということを言いたいわけではない。牛久は美しい牛久沼がある非常にいい街である。


               本論にもどすと、ヨーロッパで近代国民国家ができるまでは、ヨーロッパでの出生死亡、婚姻の記録をつかさどってきたのは、国家や王ではなく、教会であった。つまり、国においてするのではなく地域における最小限の共同体としての村々の小さき教会が教会教区の業務の一環として仕方なしにしていたのである。王様は、何人兵隊が取れるか、ってことはあんまり何も考えずに、村に行っては、兵隊となる若者や壮年を強制徴募してきていたのである。

               まあ、近代国家以前は、王様同士が姻戚関係というのもあり、そのあたりの圧力も微妙に戦争の勃発や収束に影響を与えているという面はあるけど。

              国家間戦争と
              近代国民国家と教会

               ところが、大部隊展開型の近代戦をやるとなると、兵隊が何人くらいいそうか、ということの見当をつけるために、人口統計が重要になり、国家が国民の人数を把握しておくことが必要になる。この辺は、下記で紹介するAgainst the Godsという本に記載があったと思う。実は、いまの住民基本台帳やら、戸籍は、兵隊徴募(昔で言えば、赤紙発行)のための制度であり、ヨーロッパでは、教会から国家が強制的に取り上げたものなのである。

               ヨーロッパで近代国家が成立したちょうどその直後に日本は明治維新をやったもので、フランスに対する戦争マシンみたいだったプロイセン、プロイセンに対する戦争マシンみたいだったフランスの双方を見比べて、自分たちに都合のよいフランスの法制度を導入したと思われる。まぁ、フランス革命を経て、割とカトリック教会に冷たかったフランスの法制度、というのもあったのかもしれないが。

               その意味で、近代国家が登場するまでのヨーロッパ諸国において、その解領域を支配する地方自治体というものが明確に定義されておらず、個人の身分証明を出す機関は、国や自治体ではなく、教会であった位、地域と教会というのは一体のものであった。教会の制度って言うのは、その当時は、選択できたり、改編できたりするものではなく、生まれたら教会で登録されて、結婚したら、教会で登録されて、死んだら、教会で登録されるという人間のライフイベントはすべて教会で記録され、地域の人々の行動文化を支配するシステムになっていたようだ。いまも、日本の教会の多くはその時代の教会事務管理システムを若干手直ししながら、流用している場合も少なくないのではないか、と思う。

               住民の移動や居住地選択の変更能力が低かった時代以前、地域とは教会の教区(パリッシュというらしい)そのものであり、教会とは地域そのものの中心であり、個人にとっては、居住地選択やら職業選択やらがないのと同様に、教会の選択の余地がない世界であったようだ。しかし、19世紀になり近代市民国家とその制度が整う中で、地域と教会の紐帯(結びつき)は緩やかなものとなり、その地域住民と地域と教会の強制的な結びつきが消えてゆき、個人が信仰形態をさまざまな宗派の教会の中から、限定付きでも選べるようになったのだと思う。その自体を経てからは、ヨーロッパ大陸や、アメリカ大陸では、地域の教会ではなく、地域にある移動可能な領域に存在する様々な教会の中から、どの教会に属するか、という教会が選ばれて行く存在になっていったようである。

               その意味で、有無を言わせず、1つの定食しか出せない定食屋のような選択の余地のない(つまり、その教会のルールがすべてを支配し、それに否が応でも従うことになる)教会から、選択の余地のある(ルールの比較検討が可能で、一番よいと思うルールの教会を選べる時代の)教会になってしまっているのだが、教会の各種システムはそれに合わせて、教会の側で変更されているのか、と考えると、どうだろう、と考え込まざるを得ない。

               選択の余地がそもそもないのだから、近代国家が出来るまでは、やめたくてもやめられない教会しかヨーロッパにはなかったと思う。そもそも、職業選択の自由もなければ、居住地の自由、移動の自由、教育の自由は限られた時代でもあったので。

               今回取り上げたいのは、そういう教会ではない。

              やめたくてもやめさせて
              くれない教会
               
               今回と次回で取り上げたい教会は、前近代国家時代の教会ではなく、選択される対象になっているにもかかわらず、やめさせてくれない、やめさせないための仕組みを持っている教会のことである。

              信徒愛のため辞めさせない教会?

               一つは、自分たちの信仰が優れている(ほかはダメということが暗黙に想定されている場合が多いようだが)教会である。つまり、いいものを触れておいてもらいたいという愛情からゆえに辞めない方がいい、という方がおられる教会である。 

               とはいえ、合わないと思っているにもかかわらず、そこにいなければいけない、と言われるのは、言われる方にしたら、言われる方はつらいのではないか。水谷氏のブログ記事での

              自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト者の他者愛

              等の例であればまだかわいいが、相手のため、と言いながらも、結果的には、相手のためではなく、どこかで自分たちの教会の論理が優先しているという、自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト教会の信徒愛となっていないだろうか。

               個人的な感想なのだが、自分のところ以外に正しいものがないから、という理由で、囲い込みを始めると、カルト化しやすい素地を教会内に作り上げる可能性が非常に高いと思うのだが。

              ババ抜き教会?

               もう一つは、教会員がこれ以上減ると困るから、やめたくてもやめさせてくれない教会があるとすれば、もうそれは、最後に残った人にドンと負担の来る状態、つまりババ抜き状態となるのであり、末期的状況を指し示しているのではないだろうか。

               教会員が減ることは結構深刻な影響を個別教会、個別教派に与えるので、実はかなり深刻な影響を持つのだが、現下の日本では、この状況に直面している教会が地方部、都市近郊部で続出しているような気がしなくもない。都市部(特に郊外部)でも、間もなくこのような状態を迎える教会があるのではないか。

               これまで、このための備えを個別キリスト教会がしてきたか、と言われると実に心もとないのではないだろうか。人口の高齢化、若年人口の減少は、すでに、日本の地域のキリスト教会が直面する地域の人口変化とすごく大きい方が教会に集う聖書的教会が評価される社会へ と 日曜学校におちいさい皆さんが減った理由 でふれたとおりである。

               その面で、個別教会も、これからの人口減社会にどう向き合っていくのか、どう自分たちを変えていくのか、ということは考えていった方がいいかもしれない。もう右上がりで人口が増え、教会にもどんどん人がやってくる社会は来ないので。

               次回、第7回 伝統を守りながら変えていく教会(前篇) 守るべきものと変えていくべきもの をお送りする予定。






              評価:
              価格: ¥2,851
              ショップ: 楽天ブックス
              コメント:データ化や確率、リスク分散をどう図るか、といった技術の背景について書かれた本。日本語訳もあるけど、読んでないので何とも。

              2014.10.20 Monday

              教会やめたい?(その7) 伝統を守りながら変えていく教会(前篇)

              0

                 これまでの6回の連載で、まず最初に、教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)、でも、教会はやめても、キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)について触れきた。今回は、伝統を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方を触れていきたい。

                マクグラス先生のお書きになられたものから

                 この辺りのことに関しては、何度か触れてきたが、今回は、マクグラスの講演とマクグラスが引用している文章を手がかりに考えてみたい。  

                ミーちゃんはーちゃん自身は、過去この記事「ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論」で示したように、かなりクラッシックな聖書無誤論に立っている。超保守的と言ってもいいほどである、とは思う。個人的に伝統を割と重視している、というか保守的な人間だと思っている。能天気に何でも変えればいい、新しければ、新奇であればそれでいい、とは思っているわけではない。それは、「伝統について、地に手をつけて考えた」の記事でふれたとおりである。

                マクグラス先生の経歴の面白さ

                 まず、アリスター・E・マクグラス先生は、もともとマルクス主義者、唯物主義の分子生物学を学ばれ、大学期にキリスト教の伝統を知らずに過ごすのはまずいかな、相手のことも批判する以上はよく知っておくべきだ、ということからキリスト教の歴史をおっかけ始め、結果的に信仰を持ち、神学者になってしまったというミイラ取りがミイラになっちゃったような経緯をお持ちの方であったと記憶する。(違ってたらすみません)

                マクグラス先生の伝統観

                 A・E・マクグラス(2004)「ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割」(稲垣久和監訳・教文館)の中から伝統の部分を少し長くなりますが引用してみたいとおもいます。元は、英語の講演内容を稲垣先生のグループが翻訳されているものなので、多少言語依存の部分があるとは思います。

                「伝統」という語は、「譲り渡す」「残す」「伝える」といった意味を持つラテン語traditioという言葉からきています。ある意味では、それは完全に聖書的な考え方です。パウロも、彼が他の人から受けたキリスト教信仰の確信を彼らに伝えているのだ、ということを、読者に思い起こさせているのですから(Iコリント15・1−4)。この言葉は、他の人に教えをつたえるという行為と−それは教会内でなされなければならないとパウロが主張したことですがー、このようにして伝えられた教え自体を意味しています。このように伝統は教え自体と考えることもそれを伝える過程と考えることもできます。特に牧会書簡は「あなたにゆだねられたよいものを守る」ことの大切さを強調します。(IIテモテ1・14)。しかし新約聖書は、「伝統」という概念を否定的な意味においても用いています。それは「聖書に基礎をおいていない人間の考えや実践」といったことを意味します。そういったわけで私たちは、主が、神のことばと相反する、ユダヤ教の人間的な伝統を公然と批判されているのを見出します(例えば、マタイ15・1−6、マルコ7・13参照)
                 一見したところでは、福音主義の人たちは、少なくとも新約聖書が肯定的に用いている意味では、伝統と言う概念に異議を唱えるとは思えません。しかし、福音主義の中ではこの問題に関しての懸念があり、これらを識別し、考慮することが重要です。二つのことが特に重要です。

                1 神のことばに対比して、伝統は人間が作ったものとみなされることができます。新約聖書は、確かにこのタイプの伝統について記しており、そのような伝統とそれがもたらす結果の両方を強く批判しています。この考えをさらに発展させて、トレント公会議は人間の伝統と聖書に同じだけの重きを置いているようだと注意を促す福音主義者もいますが、そうであるならこれは聖書を優先するという宗教改革の強調とは相容れません。これは重大な問題であり極めて真剣に扱う必要があります。このため、あとからわたしたちは、宗教改革で論じられたこの聖書と伝統に関する論争を注意深く考察します。

                2 伝統には伝統主義者と言う意味も含まれています。それは以前の世代のプレッシャーであり、私たちが以前の世代の人たちとまったく同じように考え行動し続けることを要求します。そのようにして福音主義を16,18,19世紀の世界観に閉じ込めてしまうのです。「伝統」にどのような形であれ、権威を与えることは、福音主義が死者と夢中歩行することを強要することであり、それは現代のサンフランシスコで18世紀の服装をするのと同じほど滑稽なことです。キリスト教が人々からどのように見られているかに非常に敏感な時代に―「求道者に配慮した」礼拝が増えているのを見てください―、伝統への関心は全く場違いであるように思えます。伝統は同時代性に真っ向から対立するのです。

                 J・I・パッカーにとって「伝統」とは、聖書が過去どのように読まれてきたかを考慮しながら聖書を読む意欲です。それは長期にわたって存続するキリスト教信仰の共同体的側面に気づくということであり、多くの福音主義者たちの浅薄な個人主義に疑問を投げかけます。聖書の解釈には、一個人が識別可能なものを超えたものがあります。伝統とは、信仰における私たちの先人がどのように聖書を理解してきたかに積極的に十分な重きを置こうとすることです。それは、聖書解釈を含み、キリスト教信仰の共同的性質を強く思い起こさせることになります。 (pp.81-83 太字はミーちゃんはーちゃんによる)
                と書いておられる。個人的な理解に最も近い伝統理解と聖書解釈の理解だと思っている。

                マクグラス先生の福音主義は、
                普通の福音主義じゃないかも

                 なお、マクグラス先生がおっしゃっておられる『福音主義』とは、通常、現代の欧米、日本で使われている『福音主義』とは違う可能性があることを触れておかねばならないだろう。ルターやカルヴァンら宗教改革者の伝統に連なる『福音主義』という可能性があり、プロテスタントの総称として使われている可能性が高い。その意味で、米国で使われているEvangelicals あるいはEvangelicalism、その訳語である『福音主義』とはかなり違う可能性があるような印象を受けている。ミーちゃんはーちゃんのような浅学のものが指摘するまでもなく、先学のどなたが既に指摘しておられるとは思うのだが。

                 次回 伝統を守りながら変えていく教会(後篇) へと続く。



                評価:
                A.E.マクグラス
                教文館
                ¥ 1,944
                (2004-06)
                コメント:よい、とおもいます。現代のキリスト教を考える手がかりをくれると思います。

                2014.10.22 Wednesday

                教会やめたい?(その8) 伝統を守りながら変えていく教会(後篇)

                0
                   これまでの7回の連載で、まず最初に、教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)、でも、教会はやめても、キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)伝統を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方(第7回)で、議論の参考になるマクグラス先生のご本の記述を紹介したが、今回は、時代に伴って変化していく社会に対して、教会がその時代ごとに解釈を変えてきた伝統の上に乗っていることについて、触れていきたい。

                  教会のグループごとの特性

                   教会は、それぞれ個別のキリスト教集団ごとに、さらに、個別教会ごとにある種の癖がある。それはその教会が成立し、存続していく過程の中でうまれた必要悪ともいうべき伝統というものが影響するからである。聖書理解にしてもそうである。ルター派にはルター派の特殊性があり、改革派には改革派の特殊性があり、カトリックにはカトリックの特性があり、東方教会には東方教会の特性があり、それぞれのグループの中でも、その教会ごとに微妙な文化というか伝統があるように思う。特に、儀式などやプログラム、細かな行動様式とその細部などにその影響が表れる。とはいいつつも、一つのグループの中の個別教会の比較をしようとすると、一つのグループの中では、その教会の司牧の考え方やその境界の過去の歴史的経緯の結果、それぞれがかなり個性的であり、かなり多様性がみられることもまた事実ではある。

                  組織文化と伝統

                   ところで、それぞれの儀式やプログラムが繰り返されていく中で、伝統がつくられ、習慣が生み出される。このことは教会に限らない。最近、ある方が、ツイッターで、どこぞの銀行から出向で赴任して来た人の例として、
                   ●●銀行(当時)から出向していた人の「何々致度」にはびっくりした覚えがある。
                  という表現があったのであるが、こういう文書表現などは、一種のその銀行の伝統をそのまま継承してしまったことだと思う。まぁ、日本のビジネス慣行は、藩政時代のお武家さまの習慣というか慣行を日本の企業文化にそのまま横滑りさせているので、こういうことがまま起こる。例えば、商談をしに行く際に日本では二人していくのは、戦国時代から江戸時代に他所を訪問した際にそこで攻撃を受けた際に、一人が攻撃を一手に引き受け、もう一人の足の速い方を逃す伝統に依拠している、と思う。戦国時代や江戸末期の殺伐とした環境での習俗を延々、明治維新後も続けているところがねぇ。

                  継承すべき伝統

                   では、残すべき伝統というのか、継承すべき事柄とは何であるか、というと、これまでその教会が行ってきたことすべてを継承するのではなく、明確に聖書に記載されていることはそれを継承し残し、そして聖書にキリスト者が立脚するというところは残すべきだと思う。その意味で、基本聖書を中心にしていきたい、とミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。

                   ところで、個々人、そして、教会の構成員が共同体として残すべきだと、聖書に基づいて考えてきたことはある程度残すべき候補には上がるが、聖書に基づいて考えたから、いわゆる「聖書的だから」と表現されることだから、残すのではなく、それに対しての不断の検証をしながら、どうするのか、変えていくのか、変えていかないのかは考える余地があるのではないか。ある時期には、それが聖書的であると考えられたことでも、ある時期では、聖書的でなくなることは結構あるからである。

                  アフリカ系アメリカ人奴隷問題を
                  例とした聖書理解の変容

                   わかりやすい例を挙げると、アフリカ系アメリカ人奴隷のご先祖様と聖書理解に関することである。詳細は、参考文献であげた西岡(2014)をご覧いただきたい。

                   ある段階まで、アフリカ系アメリカ人を奴隷とすることは是とされていた。というのは、所有者がヨーロッパ系移民ばかりであったからである。キリスト者が、キリストを知らないアフリカから連れてきた人々を働かせながら伝道対象にもできるから、奴隷制度は聖書的だとか、聖書に奴隷が出てくるから、聖書的だとか訳わからない論理もあったようだ。

                   しかし、アメリカのキリスト教会が奴隷廃止に向かっていく議論のきっかけは、実は、人道的な理由というよりは、ネィティブ・アメリカン(アメリカ原住民)の酋長クラスが奴隷をもったまま、キリスト教会に入信することができるかどうかが発端になって、アメリカの奴隷制度とキリスト教の相克が起きたことが、今年の日本基督教学会の報告であった。

                   まぁ、その報告をお聞きする限りは議論がいろいろあったらしいが、「ネイティブアメリカンの酋長クラスが奴隷を持ったまま、キリスト教会員になれるかどうか問題」が焦点化するまでは(ヨーロッパ系移民が管理、監督、所有する限り)奴隷の所有は、あまり深く考えられたり、議論されたりすることなく聖書的であると一応判定されていたが、「ネイティブアメリカンの酋長クラスが奴隷を持ったまま、キリスト教会員になれるかどうか問題」を出発点とする議論がなされた以降では、奴隷所有は聖書的でないという判断がされるになったらしい。私の研究ではないので、よくしらないが、詳しいことをお知りになりたい方は、西岡みなみ(2014)『19世紀前半のアメリカ合衆国における北部聖職者の奴隷制理解』の論文を著者の西岡氏にご依頼して、お受取りいただいて、ご検討いただきたい。

                   この例はかなり極端な例であるが、聖書的とされるものが、時間の経過とともに変化した例である。つまり、奴隷を持つネイティブアメリカンの酋長がキリスト教に改宗するという新しい現実が発生して初めて、それがきっかけとなって聖書理解や「聖書的」が指し示す内容がはじめて検討され、変わっていった事例である。

                  ある聖書理解が生まれた背景と
                  その時代背景

                   この事例に示されるように、聖書的であると判断されたら、未来永劫まで、それは聖書的でないかもしれないのである。時間とともに聖書をもとに、個人であれ、信徒個人からなる教会であれ、教会群からなる教派であれ、それぞれが置かれた状況の中で、不完全ながらも、聖書に基づいて考え、行為を行っていくということが伝統を守る、伝統を残すという意味であり、伝統とその理由を考えず、また、その意義も考えずに、単純な行為や思索、理解の継承とその墨守をすることが保守的だというわけでもないし、伝統の重視ということでもないと思うのだが。我々も年を取っていくし、社会も変化していくし、教会も構成員が変わっていくし、我々の言葉の使い方も変わっていくし、聖書の言葉の奥にある神の御思いの原則は変わらないにしても、聖書のことば自体も、翻訳聖書だけではなく、翻訳の底本になるべきものもわずかではあるけれども、微妙に変わっていくからである。

                   だって、神様だって、あんまり納得できない事柄に対しても渋々ながら、応じてやれ、と言っている事例だってあるからである。

                  Iサムエル
                  8:5 言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。
                   8:6 しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、
                   8:7 主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。
                   8:8 彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。
                   8:9 今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。
                   8:10 サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、
                   8:11 言った、

                  (中略)

                   8:19 ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。
                   8:20 われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。
                   8:21 サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。
                   8:22 主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。
                   こういうことを思いめぐらしながら、守るべきものが何か、ということを定期的に点検しながら、変えるべきものは何か、ということを考えることは重要なのではないかなぁ。

                  過ぎ越しの祭りの継承と説明

                   過越しの祭りに関しても、次のようにおっしゃっておられる。

                  出エジプト記
                   12:24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。
                   12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
                   12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
                   12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。
                   ここで、過ぎ越しの犠牲をささげる理由を子供たちが問うた時、問答無用で守れとは言わず、その理由をきちんと説明し、自分たちが何者であり、なぜ、それをするのかを子供たちに説明してやれ、そして、子供たちにそのことの意味と意義を解き明かしてやれ、とおっしゃっておられる。子どもたちに説明する前に、自分たちで思いめぐらすこともあるであろう。儀式とその根源に繰り返し繰り返し触れ、そして、考え、そして伝える(Traditio)ということは案外大事なのではないか。そういうことをしないと、キリスト者から教えられたことを守った結果、キリスト教徒は知らないまま、儀式だけを継承した、(子なる神である)フィリオに「肥料」を当て、ユーカリスト(聖餐)を「八日の七夜」という文字を当てた日本のキリシタンと同じことになってしまうのではないか。


                   個人的にはそう思う。ちょうど下のネスカフェ・ゴールドブレンドのちょっと前のCFにあるように。

                  まもりならがも変えていく が印象的なネスカフェ・ゴールドブレンドのCF

                   次回、最終回に続く。

                  参考文献

                  西岡みなみ(2014)『19世紀前半のアメリカ合衆国における北部聖職者の奴隷制理解』 日本基督教学会第62回学術大会 発表 2014年9月9日

                  http://nc-gakkai-kg.webdeki-blog.com/data/nc-gakkai-kg/file/file20140802014720_7cdce.pdf
                   


                  2014.10.25 Saturday

                  教会やめたい?(その9) 最終回 教会やめてもいいけど、やめる前に変わろうよ。変えようよ。

                  0
                      これまで、教会をやめたい、という方々について、教会が信仰の付帯事項について説明不足かもしれないこと、教会はやめられること、なぜ、教会の伝統が生まれるのか、伝統とは何か、伝統を作り出していくこと、守るべきものと変えるべきものを考えながら、何を自分たちの価値をしていくのか、ということを説明してきた。これまでの記事は、以下の通り。

                    教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)
                    でも、教会はやめても、
                    キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)
                    教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)
                    一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)
                    私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)
                    伝統についてのマクグラス先生の所論(第7回)
                    を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方(第8回)


                    最後の最終回として、今日は今回のシリーズを振り返りながら、本シリーズを軽くまとめていきたい。

                    他人がどうこう言おうが
                    キリスト者でいられるよ
                     教会は、やめれるし、やめたければ、やめればいい。転会の方法というのもあるし、無教会という方法もある。しかし、あなたが神に愛されていることを知っている以上、キリスト者はやめられないだろうし、おやめになりたいとも思われないだろう。あなたが神と共に生き続けたい、キリスト共に生き続けたいと心の片隅でもいいから思っていて、神の元に戻り続ける限り、あなたは他人がどういおうと、キリスト者であり続けると思うし、神はご自身の民として受け入れたもうと思う。牧師や教会の人や、教会役員が何と言いつのろうとも。

                    教会のいう「聖書的」はある時代には
                    「聖書的」と考えられただけだっただけかも?

                     教会の側は、無意識に過去の歴史的経緯でできてきたことを、自分たちのしていることは聖書的だと思い込んでいて、無批判に過去から継承してきたことをそのまま続けている場合が多いことも紹介した。しかし、教会の前提条件としている社会や個人、個人の生き方が聖書的であると思ったことが成立した時期のものと異なったり、変わったりしている以上、制度自体も見直しが必要であり、変更が必要なのではないか、と思う。

                    大体普通の人が聖書が読めるようになって、
                    200年前後じゃないですか?
                     そもそも聖書が読める人(というよりは文字が読めて、ある程度正確に意図が理解できる人)が普遍的に存在するまでは、聖書は聖職者にお願いして、説明してもらう方がよかったわけではあるが、印刷術が西洋に流入し、社会の基幹技術の一つとして普遍化し、商工業の隆盛や、初等中等教育の普及が進み、実用の学として読み書きが普及したからこそ、普通の人が聖書を読むという習慣が生まれたし、また、聖書が各国語に翻訳され、翻訳聖書が普及したからこそ、様々なキリスト教の理解の多様性が広がってきたといえよう。

                     その意味で、一般人が聖書を読む、読まなければならない、読む特権にあずかれる、という伝統は比較的最近に生まれた伝統であることがわかる。西洋でも、普通教育が始まる19世紀以降の伝統なのである。

                    絶えざる変化を続けてきた教会

                     つまり、こうやって見たならば、キリスト教の伝統とは、社会の現実の変化に対して、内部からさまざまの問題意識を持った人々が陸続と生まれ、従来の考え方にチャレンジし、そして、それらのチャレンジを受けながら、柔軟に対応したり、しなかったりしながら、残すべきもの、あるいは、共有すべき共通性は維持しつつも、たえざる変化を遂げてきたといえるのではないか。

                     であるとすれば、まぁ、教会での魔女狩りにあっているとか、隅っこにおかれたとか、迫害を受けたとか、いじめられたとか、いびられたとか、そういうことが起きていたとしても、我らがキリストにあって、あるいはキリストを通して、キリストにおいて、神に立ち戻ろうとする以上は、キリスト者であることには変わりがないといえるのではないかなぁ、と思うのだなぁ。教会を流浪の民のようにふらふらと動いていたとしても。

                    「分派だ!」といいたがる教会も
                    もとはどこかからの分派だったりして

                     ところで、これまでのあり方を変えようとか、変えたいとかいうと、すぐ、「分派だ」とか「分裂を生ぜしめる」とか「教会を軽く見ている」とか、既存教会の方はおっしゃるかもしれない。ところがちょっと待ってほしい。そうおっしゃる教会ですら、どの程度以前かは別として、どこかのグループからの分派の結果生まれたものであるのではないだろうか。今、このキリスト教界の戦国時代状況に近い群雄割拠状態のために、キリスト教会は、特に日本のキリスト教界は、尊敬するAさんによれば、

                    日本の教会は、
                    神学的ごった煮状態。やみ鍋状態

                    らしいですから。教会から離れたい皆さん、残念だけど、教会から離れちゃった皆さん、どこかに、あなたに合う教会は意外と近くにあるんじゃないか、と思います
                    。あなたがご存じないだけで。トラウマから解放されたら、ちょっとだけ覗いてみるのも悪くないかもよ。

                    最初に出会った教会だけが教会じゃないよ

                     最初に出会った教会だけが、教会のすべてではありません。世の中にはいろんな教会が、同じ神をキリストにおいて or キリストを通して or キリストによって、近づこうとしているだけで、その方法論が、その教会のグループの設立時期やその設立時期の環境、その後の歴史的経緯とその教会が通ってきた歴史によって、違っているだけだと思いますよ。一つでつまずいたから、ほかでもそうなるとは必ずしも限らないんじゃないですか?

                    他の教会を紹介してほしいかなぁ?

                     そして、牧師先生方や神学者の方々には、もう少し他派の方々の動きや、聖書理解にも目配りいただいて、君には、こっちの方が合うかもね、みたいな他の教会を推薦するような、教会運営があってもいいかなぁ、と思いますし、そういうところをお願いしたいところです。自分のところだけで考えないで。

                    教会内
                    霊的バイオレンス?
                     個人の特性によって、合う、合わないというのはあると思いますので。あわない教会で、躾と称する信徒が新入会員に対する嫁イビリまがいの対応や、旧大日本帝国陸軍も真っ青のいじめに近い初年兵ならぬ初年信徒教育(さすがにビンタはないと思うが、カルト化した教会では罵声を浴びせる、くらいはあるかもしれない)をしてみたり、ヒソヒソ話で他人を変えてみたり、説教で変えようとしてみたり、というのは、一種の教会内霊的バイオレンス(ICSV:In-Church Spiritual Violence )ではないかなぁ、と思うのです。これは、かなり言い過ぎかもしれませんが。

                     最初に出会った教会がそこの教会だからその教会から抜けられないと主張するのは、DVでも何でもいいから、暴力で死ぬまでその夫婦が分かれられなくするというのと同じであり、一種の教会内霊的バイオレンス(ICSV)の温床になるかもしれません。こういう話は、こちらでも日本語変換をしたときにちょろっと書いた

                    未熟なキリスト者が未熟なキリスト者を世話する
                    のが教会かも

                     そして、牧師先生、教会員、神学者を含めたすべてのキリスト者の方にお願いしたいことは、よくわけのわからないような整理されてない未熟なキリスト者を圧力や力や躾、無言の威圧、あるいは、「これは伝統だから」、「(私が信じる)聖書的なことだから」という理由でその行為に至った自らの背景や歴史的経過を考えることなく押し切るのではなく、未熟なキリスト者の皆様を同じ未熟なキリスト者として(どうせ、経験があるといっても、高々70年程度でしょ。神様の人間の世話してる期間は少なくとも数千年単位じゃないですか)温かく見つめ、見守りながら、お互いに聖書に照らしながら、どう考えるのか、教会の現状で何が変えられないもので、何が変えられることなのか、現在行っている様々な教会運営をめぐるその伝統や方法論が生まれてきた背景がなんであったのかということを考え、その歴史的経緯を照らしながら、聖書という共通の土台にあって、整理しながら、考え、そして、新しい伝統を作ることに、これまでの宗教改革者(あるいは前々回ご紹介したマクグラス先生の用語によれば、たぶん福音主義者)のように、勇気をもって向かっていただきたいなぁ、ということでございます。

                    最後にニーバーの祈りを、変わること、かえること、ということで、覚えたい。

                        God, give us grace to accept with serenity
                        the things that cannot be changed,
                        Courage to change the things
                        which should be changed,
                        and the Wisdom to distinguish
                        the one from the other.

                        Living one day at a time,
                        Enjoying one moment at a time,
                        Accepting hardship as a pathway to peace,
                        Taking, as Jesus did,
                        This sinful world as it is,
                        Not as I would have it,
                        Trusting that You will make all things right,
                        If I surrender to Your will,
                        So that I may be reasonably happy in this life,
                        And supremely happy with You forever in the next.

                        Amen.

                      神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
                      静穏のうちに変えられないものを受け入れ
                      変えるべきものを変える勇気を
                      そして、変えられないものと変えるべきものを
                      峻別する知恵を私に与えて下さい

                      一日を瞬間瞬間生き、
                      一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
                      平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
                      ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
                      この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
                      私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
                      あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
                      あなたの御思いに身を委ねることで、
                      私が受け取るにふさわしい幸福さの中での人生を過ごせますように、
                      そして、あなたの隣に私をおらせ、
                      これからも、これ以上ない幸福を永遠に味わうことができますように。



                     あー長かったですが、思う存分書いてみました。

                     お付き合いいただき、ありがとうございました。


                    次回は、本稿の記事をうまくまとめた本が見つかったので、それを紹介したい。


                    評価:
                    アーサー・ミラー
                    20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
                    ¥ 3,300
                    (2006-02-10)
                    コメント:社会的熱狂のもたらす悲劇を開拓時代のニューイングランドの魔女裁判を事例に描いた名作。批判の対象は反共主義時代のマッカーシズムの模様。

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