2014.08.23 Saturday

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1)

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     今回からのシリーズは、かなりハードかもしれません。入口は思いっきり下げてみようかと思いましたが、かなり難解。ミーちゃんはーちゃんの問題というよりは、お化けのような神学者、ジョン・ハワード・ヨーダーの問題かもしれません。

    Yoda?Yoder?
    Master Yoda 最近、ジョン・ハワード・ヨーダーに関心を寄せている。面白い御仁らしい。このヨーダーさんなかなか魅力的。

     ヨーダーと言っても、緑色したスーパーマンとも称される、隣の写真に示すようなMaster Jedi Yodaではない。

     ちなみに、個人的に、Master Jedi Yodaは嫌いではない。

     スターウォーズで個人的には、ダース・ベイダーに続いて、好きなキャラクターかも。
     
     そうそう、ダースベーダーって、こういう気の抜けたのもいいやね。この栗コーダーカルテットって人たちはやたらと技術レベルが高いのに、こういうことしてくれるのが、いいやね。

    栗コーダーカルテットによるダースベーダーのテーマ

    神学者 ジョン・ハワード・ヨーダー

     このヨーダー(神学者のほうね、左の写真に出てくるYoderさんのほう)さん、結構ファンがいるらしい。このヨーダーさん、後に紹介する本によれば、メノナイト・ブラザレンというかなりマニアックな少数派のキリスト者集団のご出身らしい。

     それより少数派のプリマス・ブラザレンのミーちゃんはーちゃんがが言うなって?

     それは御説の通り。

    ファンの多いジョン・ヨーダーさん

     ツイッターでミーちゃんはーちゃんがフォロー中のJohn H.Yodaさんの5月4日の投稿が次の画像。JodaとJoderの合成写真、おもろすぎワロタ。ミーハー氏とギャグやらなんやらの感覚が一緒。痛いほど似ているのもね。

     
     ところがである。この神学者の方の、John H. Yoderであるが、平和主義・非暴力主義をかなり言った神学者であるものの、セクハラ疑惑・暴行疑惑が付きまとっているらしい。Wkipedia情報。

     そういう意味で、神学者の方のJohn H. Yoderさんであるが、倫理学関係の研究者でありながら、というあたりが神学者、倫理学者としての取り扱いがどうもいろいろ悩ましい、らしい。いろいろありすぎて、正面切って応援しにくい事情もあるらいい。

     
    Yoder入門書?
     とりあえず、原著に手を出してもいいのだけれども、その前に、という意味で入門書ということで「どこが入門書?」という思いもしなくもない東京ミッション研究所 編のジョン・H・ヨーダーの神学 −平和をつくりだす小羊の戦いー を読んだ。いくつか言いたいことはあるが、何となくヨーダーという巨人の全体像を見るには、非常によい本のような気がする。(新教出版社のステマではなく)この入門書のフリをした論文集、第2章から第5章までが秀逸。(第1章は、まとめのまとめなので、つまらなく見えるだけなので、第1章がよくないという意味ではない。)

     この本の中からいくつか拾ってみたい。(今回は、第2章 中島真実論文から)

    ヨーダーの教会論

     ヨーダーの教会論について、同論文では、次のように紹介されている。
     
     ヨーダーは、キリスト者にとって世界の見方と行動の仕方を訓練する共同体とは「イエス・キリストが主」と信仰告白する教会なのであるという事実に注目する。すなわち、イエス・キリストが主であるということは、イエスの出来事において創造主なる神が歴史的に決定的な形で(終末論的に)ご自身をあらわされたということで、そのことを信仰の告白となし、それに基づいて存続する共同体としての教会がキリスト者の生き方を方向づけるのであり、これこそが「神学的」倫理学においてまず注目されるべきことなのである。(p.35)

    と述べたうえで、同論文では、ヨーダーからの次のような引用をしておられる。
     教会の自己理解に関いて一貫性を与えている理法は演繹ではなく物語である。(p.36)

    とか紹介されている。教会が物語として神を語るというのは違和感があるかもしれないが、以下に紹介するように、それはヨーダーの神学においてこの物語という概念要素は、極めて重要な役割を果たすようなのである。

    物語と教会のアイデンティティ
     さらに、物語と教会のアイデンティティについて次のように記述されている。
     
     ヨーダーが着目するのは教会の特殊な物語とアイデンティティである。しかし、彼はそれらが特殊だからと行って、ある特殊なグループの内部に閉じ込められるようなものとはみなさない。むしろ、後述のようにそもそもそれは表現され、伝達され、継承される性質のものであるし、そのように扱われるべきものである。ただしその手段もやはり一般化によって無時間的真理についての理性的説明を設定することよりはむしろ、いかになぜ教会が誕生し、存在し続けていることかを物語ることなのである。ところが、こうした物語は一貫した概念や筋道をもっている一方、物語る形式は語り手の時と場所によって多様である。
     (中略)
    このように、物語という形式は、統一性と多様性の構造を教会の指針伝達に備えさせるのである。即ち、教会にとってのこの一貫性は自らの特殊な物語を貫くイエスは主と言う信仰告白を通して与えられ、もう一方でこの告白がそれ自体の豊かな内容を教会の具体的証言や伝達の中で多様な形で開示するのである。(pp.36-37)

    というふうにヨーダーの教会理解が紹介される。このなかで、「一般化によって無時間的真理についての理性的説明を設定する」ということで、一般化した形で、教会ってこんなところですよ、と教会を語ることや、そういうものとして教会について語ることがキリスト者にとって多いかもしれないが、そのことの問題点を指摘しておられれる。多くの場合、メタ思考(メタ思考ってのは、問題を一旦はなれてその周辺を見て考えること)ができないので、語られる方も、語るほうもそれで満足してしまう。そして、その問題設定の枠組みから出れなくなってしまう。

     ところが、メタ思考ができているヨーダーにとってみれば、そんな一般化した議論は無意味であって、それよりも、ヨーダーの諸論によれば、「むしろ、いかになぜ教会が誕生し、存在し続けていることかを物語る」ことが重要であるらしい。それを、「教会の具体的証言や伝達の中で多様な形で開示する」ことにミーちゃんはーちゃんが取り組んでいるか、と聞かれると、非常につらいものがある。これには、こころがグサグサ。

     ちなみに、メタ思考、本当はもっと複雑なんだけど、わかりやすく示していたサイトがあったのでご紹介。

    メタ思考では、いったん自分の視点を離れて、もっと自分の頭のうえの高いところに視点を移してみるのです。まるでヘリコプターで上昇するように視界を拡大してみるのです。 

    眼下には相手である顧客が怒っている姿が見えます。対応に困っている自分の姿が見えます。その後ろには、会社の上司たちの姿も見えます。

    このように高い視点から俯瞰してみると、今までと違った考えが湧いてくることがあります。 なによりも状況を客観的に眺められるので、それまでの閉鎖的環境から抜け出て余裕ができるのです。新しいアイデアがひらめいたりします。

    視点を変えてみる、こと


    概略をつかむうえでは、これでOKではないかと。

     次回へ続く。


    2014.08.25 Monday

    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2)

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       前回の投稿では、ヨーダーさんのごくごく粗っぽっく紹介しながら、下記に表示されている本のご紹介をし、ヨーダーが教会をどう考えていたのか、そして、教会は現在もなお、神の物語を物語る存在であることをご紹介した。

       前回の記事は、こちらから。

        Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

      では、今日の本題に入りましょう。今日は短め。
       
      教会におけるイエスの中心性を
      叫ぶヨーダー
       さらに、ジョン・H・ヨーダーの神学の第2章では、ヨーダーにとってのイエスの中心性について、次のように記載されている。
        さらに大切なことは、ヨーダーにとってこのことは単なる聖書解釈の問題なのではなく、生き方の問題なのだと言うことである。すなわち、もしある行動体がイエスを主と告白するならば、その生き方は主と告白した方への従順によって形成されなければならない。そしてこの従順な歩み方がテキストの意味を物語り、多様な表現の中での指針の統合や多様な人々からなる共同体のまとまりを可能にするイエスの中心性を指し示すのである。(p.47)

      とお書きになっておられる。とりわけ、『その生き方は主と告白した方への従順によって形成されなければならない。そしてこの従順な歩み方がテキストの意味を物語り、多様な表現の中での指針の統合や多様な人々からなる共同体のまとまりを可能にするイエスの中心性を指し示すのである。』の部分は、エペソ4章やガラテヤ所3章由来の解釈だと思う。
       4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
       4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
       4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
       4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
       4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
       4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
       4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
                 (口語訳聖書エペソ人への手紙)

       カルト化した教会では、『一致』と言えば、『一つ』と言えば、皆が牧会者ないし、そのグループの代表的人物の聖書理解をマクドナルドの店員の『いらっしゃいませ。ご注文はどうされますか?』よろしく再現したりすることを指すらしいのだが、ヨーダーの面白さは、教会における一致を考える際に、多様な表現、多様な人々からなる異質なものが一つに集められた共同体という側面が強い点のような気がする。こういう思考って、大事なんじゃないかなぁ。

      非メタ思考とメタ思考
      そしてヨーダー

       メタ思考ができない人やそんなことをしたくない人は、楽なので、自分自身を多少ぎくしゃくしても、他人の「ものさし」に合わせるという形で自身の行動をマクドナルド化し、また、それが効率が良いと いうことで他者についてもマクドナルド化しようとする愚を犯す。しかし、「それでいいんかい」、「あんたたちメタ思考しなくていいのかい」、「それって、問題をとらえたことになっているのかい」とメタ思考をする人たちは、その人たちの過程そのものを疑う、結構本質を突いた議論を吹っかけてくる。こういう論法、多分多くの人にとっては、虚をつかれた感じになるので、虚をつかれたほうは慌てふため き、その自分の弱さやあわてている状態をさらけ出したくないために、虚勢を張ってみたり、相手を罵倒することで真実を隠そうとすることもあるとかないかなぁ。

      我らが置かれたこの時代と
      教会の関係

       さらに、本論文の最後で次のようなヨーダーの問題提起をしておられるが、これは、キリスト者全体にとって有益な指摘ではなかろうか。

       ヨーダーによれば、その様な考えかたが発生する状況は、教会が周辺社会を支配する政治・経済・思想に癒着して、ある種の暴力的構図が存在してきた事実(コンスタンティニアニズム)(引用者註 ローマ時代に国家と教会が一致して政治体制化したことに由来する教会を統治システム化しようとする動き)に 原因があるという。けれどもそれは、教会の信仰告白の内容やそれに対する誠実さに問題があるのではない。むしろ、教会が一方で普遍的領域を強引に想定して 周囲に押し付け、もう一方で「イエスは主」という信仰告白に不誠実であったことの結果であるという。(pp.61-62)

       うーん、参りました。ヨーダー先生。御説御尤!

       基本的にキリスト者が切り捨て者になりやすかったり、キリスト者が一般の人にとって、結構暑苦しい存在に映るのは、『教会が一方で普遍的領域を強引に想定して周囲に押し付け』という精神構造があるからだろうし、その押し付けようとするのものが、聖書やイエスの本来的な主張である「神を愛せ」そして「人を愛せ」ではなく、『「イエスは主」という信仰告白に不誠実』 であったために生み出された倫理的な生き方として、パターン化されたものに堕してしまったことを、信徒とか、来会者の皆様に求めているからなのかもしれない。その意味で、教会が『「イエスは主」という信仰告白に不誠実』であるがゆえに、ギリシア哲学に乗っ取られたのであろう。その意味で、その点の猛省を迫られたような気がする。ハイ。哲学的反省いたします。

       次回、3章の紹介へと続く。

       


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      コメント:手ごろで読みやすく、ざっとした理解をするには最適。重要なことが書いてあると思うよ。

      2014.08.30 Saturday

      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)

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         はい。今回もハードなジョン・ヨーダーさん特集の第3回目。今回も厳しいかも、です。お子茶間向けではありませんので、あしからず。ま、面白ネタも併せてご紹介でしていく予定ではありますが。


        Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)


        Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)



         今回も、『ジョン・H・ヨーダーの神学』 東京ミッション研究所ヨーダー研究会編 新教出版社 からご紹介。

        世界とキリスト者のかかわり

         今回のご紹介は、第3章 ジョン・ハワード・ヨーダーの神学 藤原淳賀論文から

        ヨーダーは、キリスト者は世界を力や暴力によってコントロールしようとすべきでないと主張する。(中略)事実、ヨーダーはあまりに結果や効果に執着しすぎているという批判さえ受けることがある。彼は現実的に結果の出る非暴力的な道に強い関心をもっている。しかしながら、彼は、人でなく神が歴史の主であることを、そしてキリスト者はその実現にふさわしく行動することを主張する。(p80)
         なんか、力でテロと対抗し用とするために、「十字軍Crusade」とおっしゃったキリスト教徒を自称するアメリカの元大統領がおられましたが、もし、ヨーダーが生きていたら、何と思ったか、と思います。この人のおっしゃっている法と秩序って、かなり昔のテキサスの法とテキサス風の秩序なんじゃないか、と真剣に悩みそう。



        MSNBCの録画動画


         当該部分に関するホワイトハウスの、公式発言録からの9月16日の記載部分 http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2001/09/20010916-2.html から。

         ・・・・

        Q            Mr. President, the Attorney General is going to ask for enhanced law enforcement authority to surveil and - things to disrupt terrorism that might be planned here in the United States.  What will that mean for the rights of Americans?  What will that mean -

                     THE PRESIDENT:  Terry, I ask you to talk to the Attorney General about that subject.  He'll be prepared to talk about it publicly at some point in time.  But what he is doing is, he's reflecting what I said earlier in my statement, that we're facing a new kind of enemy, somebody so barbaric that they would fly airplanes into buildings full of innocent people. And, therefore, we have to be on alert in America.  We're a nation of law, a nation of civil rights.  We're also a nation under attack.  And the Attorney General will address that in a way that I think the American people will understand.

                     We need to go back to work tomorrow and we will.  But we need to be alert to the fact that these evil-doers still exist.  We haven't seen this kind of barbarism in a long period of time.  No one could have conceivably imagined suicide bombers burrowing into our society and then emerging all in the same day to fly their aircraft - fly U.S. aircraft into buildings full of innocent people - and show no remorse.  This is a new kind of  -- a new kind of evil.  And we understand.  And the American people are beginning to understand.  This crusade, this war on terrorism is going to take a while.  And the American people must be patient.  I'm going to be patient.

                     But I can assure the American people I am determined, I'm not going to be distracted, I will keep my focus to make sure that not only are these brought to justice, but anybody who's been associated will be brought to justice.  Those who harbor terrorists will be brought to justice.  It is time for us to win the first war of the 21st century decisively, so that our children and our grandchildren can live peacefully into the 21st century.

        ・・・
         この時、Bush元大統領がそのために闘うといった「アメリカ人が平和に暮らすため」という表現があったが、アメリカ人が現在、平和に住んでいるかってお言うと、どうもそうでもないように思うのだなぁ。世界のあっちこっちでアメリカ人とアメリカ軍、反感かいまくりんぐだし。今度は、ISISがらみで、シリアに乗り込みかねない勢いだし。オバマ君もなぁ、不運というか、間が悪いというか。

         それが世界の警察官を自称し、そうであるとも思っている人が少なくない、アメリカという国の宿命だし、その国民の宿命ではないかと思う。

        ヨーダーの主要概念としての
        神の国と神の支配(序)

         ところでで、ヨーダーの話に戻すと、ヨーダーが考えている倫理というのは、非常に限定的で、それが適用される教会が極めて限定的である、そして、神の国(神の支配)ということについて、ヨーダーの主張について、藤原先生は、次のようにご指摘です。

        ヨーダーが考えているのは、キリスト者やそれ以外の人々を含めた「すべての人のための倫理」ではなく、自覚的信仰者からなる教会(Believer' Church)のための倫理である。ただそれは教会外の人に全く無縁なものではなく、彼らは教会から学ぶことができるとヨーダーは考えている。(中略)ヨーダーは決してナイーブな人物ではなく、現実を甘くみていたわけではない。そのうえで、中間時における神の国が、キリストの来臨とともにいまだ完成には程遠いにもかかわらず、実現し始めていることを強く主張する。(pp.80-81)
        この部分読みながら、 

         キリストの来臨とともにいまだ完成には程遠いにもかかわらず、実現し始めている

        という部分は、NTライトの終末の議論とも、近いかなぁ、と思うのですね。この、完成にはほど遠いにもかかわらず、実現し始めているというのが、信仰の一つの姿なのかなぁ、と思う。

         キリスト者も完成されたものではなく、完成には程遠いものの神と民となっていくことが実現していく存在として、この地上で生きることになるのであろう。完全に回復する完成の時は、さらに先にあるけれども、その一部は、この地上でもすでに実現しているのだという理解というのは存外大事だと思う。                            

        これまでの神の国論争
               
         ところで、神の国、っていうと天国とか、死後の世界っていう人たちがいる一方、イエスご自身は神の国は既にあなた方のうちにある、とも言われているわけで。そのことについて、次のような藤原先生の解説がある。

        20世紀の終末論は、神の国を「既に」と「未だ」の二つの間で論じられてきたといってよい。ヨハンネス・ヴァイスやアルベルト・シュヴァイツァーによって終末論は大きな転換を見た。ヴァイスは神の国を未来の出来事と見、シュバイツァーは神の国をイエスの存命中に実現されると考えられていたにもかかわらず起きなかったものとする。また、C.H.ドッドの「実現された終末論」はシュバイツァーの反対の極に位置する。彼はイエスと共にすでに神の国が実現していると考える。(p.81)

         アルベルト・シュヴァイツァーってのは、アフリカでの医療やヒューマニズムとの関係で有名ではあるが、実は、この部分に関しては、あまりよく知られてないのだが、イエス伝、歴史的イエス、Historical Jesusの議論では避けられないご仁として有名なのである。そこで、21世紀の今日までの神の国論争について、藤原さんは、これまでの議論をおまとめして、


         今日もっとも広く支持されているのが、「開始された終末論」(inaugurated eschatology)である。神の国はイエスと共に人間の歴史の中にすでに始まっているとする。しかし、それはいまだ完成しておらず、その完成は将来を待たなければならない。(p.81)

        としている。ここまでの議論をおまとめすると、ヴァイスとシュバイツァーは味わいが違うけれども、結果的に神の国は実現しなかった、未完の神の国(0 ゼロ状態)と見ているが、ドッドは完成された神の国(1 フルに完成している状態)と見ているということらしい。しかし、神の国の状態は、真っ黒状態と真っ白状態の間のグレー状態にあるのではないか、とヨーダは言っているらしい。それについて、

         ヨーダーは、彼の時代の新約学のかなり厳密な研究に基づいて神学を構築している。そして彼の神学の根底にあるのは、神の主権と既に始められた神の国あるいは「開始された終末論」である。神の国はいまだ完成してはいないが既に始まっており、人の罪にもかかわらず、神が世界と歴史の主であるという確信が顕著にみられる。我々はヨーダーを理解するにおいてこのことに注意しなければならない。(p.82)

        と藤原先生はお書きである。結局、ヨーダーさんがお怒りの相手は、霊肉二元論的な「白か黒か」論争、「完成したか、完成してないか」っていう極めて単純な問題の枠組みに納めてしまうことの問題なのだろうと思う。個人的には、これって、現実的な問題を考える際に、「間違った問いを立てると、間違った解決にしか至らない」ということの典型だと思うのだ。

        神の国論争から見たヨーダーのメタ思考
        メタ思考をキリスト教図書販売店の例で考える

         問題そのものの建て方を含めて考えないといけない、ってことなのだろう。この「問題そのものの外側にいったん自らを置いてみて、問題を眺めてみて、何が問題なのかを考えるか」ってのがメタ思考なのだと思う。

         最近、キリスト教図書を扱う書店の閉鎖が東京都の西の方とかでも相次いでいるらしい。そこで、この問題を考えてみると、一つの問題の立て方として、

         「(キリスト教図書を扱う書店が閉鎖されるとキリスト者が困るので、書店員さんがかわいそうなので、・・・と理由はいくつもあろうが)、どうしたらキリスト教を扱う書店書店を閉鎖しないで済むか」

        という問題の建て方もある。こう問題を立ててしまうと、「キリスト教書を扱う書店の存続」そのものが考える際の参照枠の前提になってしまい、「書店をどうしたら、存続できるか」というところに焦点が絞られてしまう。この結果、

         1)献金しましょう
         2)もっと本を買いましょう
         3)ボランティア書店員を募って、人件費を図りましょう
         4)キリスト教出版社の仕入れ条件をよくしてもらいましょう
         5)祈りましょう
         ・・・・


        というような解決策になってしまう。一見正しいように思える。そして、でてくる結果もよいように思えるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。

        メタ思考で考えてみる
        キリスト教書販売店の諸側面

         ところで、書店には、いくつもの側面があることも確かである。

         ■キリスト教書の流通と展示による出版物現物の提示で信仰者の信仰生活に資する。
         (キリスト者の信仰生活に資する本が出版されているとして、ではある。それがそうなっているかどうか、我が国では怪しいという話もないわけではないが)

         ■地域のキリスト者の幅広い人々の間の間接的な情報交換や情報提示の場を提供する。
         (別に本屋でなくてもいいわけで、図書館でも、喫茶店でも、パン屋でもいいだろう)

         ■書店員さんが生活のための給与を得る場

         ■出版社が、自社製品を展示してもらう場
          ・・・・・
        などなど、とあるわけである。ところで、この書店という業界、極めて19世紀から20世紀的なビジネス(ブリック&モルタル型ビジネス)であるわけで、ずいぶんと今の時代に合わなくなりかけているような気もする。アメリカの書店業界なんかでは、すでに、ノン「ブリックアンドモルタル型ビジネス」への対応が急がれているような気がするのだ。

        キリスト教書店が閉店したらどうすりゃ…

         もし、従来の書店が持っていた機能が何らかの形で維持されればよいのであって、それがどういう形で代替され、そのことによってもたらされるメリットはなんで、そして、デメリットはなんで、その中で、我々としてどうするのか、我々の日常の行動としてどう変容するのか、そして、欠けるものや現状で不足するものがあるとすれば、それを自分たちでどう実現していこうとするのか、ってことを考えないとまずいのではないか、と思うのだ。それが、メタ思考ってことでもあるんだと思うんだよね。

         その意味で、問題を考えるときにゼロか1かで考えるのではなくて、もう少し幅広い見かたや、そもそもの問題の背景を含めて考えたらいいとは思うのだよね。それがメタ思考ってことなんだとも思う。

         次々回へ続く。次回は「おちいさい皆さんが減った理由」が、かなり受けたので、その続編として、中学生編を社会調査データに基づいてしてみようかなぁ、と。

         

         
        評価:
        ---
        新教出版社
        ¥ 2,052
        (2010-03)
        コメント:全体像が分かる良い本のようだ。

        2014.09.03 Wednesday

        Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4)

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           第1回目では、ヨーダーって人がいることを紹介し、第2回目では、教会におけるイエスが中心であること、教会と現代社会についてヨーダーがどう考えているのか、そして、第3回目では、ヨーダーが不戦論と終末論、神の民としてよとどうかかわっていくのか、の藤原論文を手掛かりに考えた。ヨーダーが教会をどう考えているかってことを述べて来た。
           これまでの過去記事は以下の通り。


          Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)


          Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)


          Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

           今日も長めで、ややこしいかなぁ。聞き慣れない言葉が多いと思うので、ご容赦賜りたく。
           
          ヨーダーが戦っている対象
          という節から

           ヨーダーさんが戦っているというのは、ちょっとねぇ、平和主義者にしては変なんで、意味としては、真剣に対話しようとしている人とはだれか、ってことかなぁ。この対象に関して、藤原論文では次のようにご指摘である。

           ヨーダーが戦っている相手は何か。それはコンスタンティヌス帝のキリスト教とし て象徴的に表現される国教的キリスト教とその倫理である。それは、(中略)キリスト者以外にも受け入れることが可能ないわば水増しされたキリスト教的香りのする倫理である。(中略)それは、教会がエスタブリッシュメントとしてのステータスを得、力によって世をコントロールすることを表している。これは、中世ヨーロッパの国教的キリスト教世界だけでなく、教会と国家の分離がなされているとされているアメリカにおいても見られるとヨーダーは考えている。アメリカにおいては、制度としてのエスタブリッシュメントではないが、社会の中心に位置するという教会のステータスと、キリスト教的に世界に影響を与えていくという教会のメンタリティー(引用者註: マニフェスト・ディスティニーのことかと思われる 詳細は下記の森本あんり氏の著書を参考)が、主流派教会にあるといってよいだろう。(p.83)

           しかし、第3章担当の藤原淳賀さん、すんげーことをさらっとお書きである。ミーちゃんはーちゃんも、この部分は、「うんうん、そうそう、体感的にそう感じますねぇ」と思ってしまった。なんか、繁栄の神学とか、もう、完璧に、「キリスト者以外にも受け入れることが可能ないわば水増しされたキリスト教的香りのする社会における成功法」ではないかと思うのだ。では、伝統的な教派のみならず、福音派だって、キリスト教的な香りのする哲学を説いてきた部分(だって、同時代ってだけで影響を受けるし)もあるし、あるいは、キリスト教的な香りのする何かを説いてこなかったか、と言われたら、ミーちゃんはーちゃんは、それをしてました、と正直に認めたい。


          コンスタンティヌス帝の彫像
          (↑この石膏像に高校時代の美術のデッサンで苦しめられた)

          社会のマイノリティとしての
          キリスト教の価値


            日本の教会は、マイノリティーとしての明確な独自性を創造的に示してくることができず、キリスト教が受け入れられている時代(国際主義の時代 【紹介者 註:おそらく、1860-1880年の明治初期の第1次ブーム、1900年―1925年までの大正期から昭和初期の第2次ブーム、947-1964年ごろにかけて の15年戦争後の第3次ブームが相当すると思われる)には、社会の中心から直接影響力を与えようとするコンスタンティヌス的なメンタリティーによって導かれてきた。そのような性質は、宣教師たちによってもたらされた主流派キリスト教の中にDNAとして入っていたものであろう。しかし、キリスト教に批判的な時代(国粋主義の時代 【紹介者註:おそらく、明治中期以降の内村不敬事件の時代、戦前期の大政翼賛会が形成され昭和維新とか言っていた時代、1970年代以降のベトナム戦以降の時代】)が来る。その時日本の教会は妥協と生き残りに向かった。(p.84)
           しーらない。ミーちゃんはーちゃんが言ってんじゃないんです。藤原先生がお書きになっておられるんですから、それもどうも古屋安雄先生の所論に乗っかってのご議論らしい。この前でそう明言されておられる。まぁ、おそらく、キリスト教のマイノリティ性、その実相は、カトリックでも同じで、そして、キリシタン時代の伝道もそうで、最初は弱い人々への援助から始まり、それじゃ、イメージ悪くなるんで、支配者側への伝道も、って事になり、武士階級への伝道となり、キリシタン大名が続出したらしい。この辺の事情は、以下の川村先生の公開講座の時の講義メモをご覧いただきたく。



          上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その1


          上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その2



           そして、「殿がキリシタンなら、お仕えする我らも」ってことになり、挙句の果てに、下々のものも「御領主さまがキリシタンなら、われらも」ってことになる。これを危ぶんだ秀吉君は、このコンスタンティヌス的なメンタリティ、ってまずいじゃん、って伴天連追放令をだす。なお、バテレン追放令は、その通り読めば、バテレンに帰ってくれ、って言ってるのと、パワハラまがい(スケートの聖子おばさんは、どう見てもセクハラ)で改宗迫るな、ってことを言っているようだ。ローラ語ウルトラ訳はこちらから。

          バテレン追放令とキリシタンの講演会に参加して(2)



          コンスタンティヌス的キリスト教の影響

           コンスタンティヌス的キリスト教がもたらしたものについて、藤原論文では、さらにこのようにまとめておられる。

           (1)教会が社会的ステータスのみならず、その意識においても「エスタブリッシュメント」となった
           (2)クリスチャンの意味するところが変わった。以前はキリスト者となることを自らの意思で選びとられなければならなかった(Believers' Church)が、すべての人がクリスチャンとされるようになった。
           (3)神の民でなく、政府が歴史の主たる担い手と考えられるようになった。そして「教会」は軍や郵便局と同様に、宗教・道徳を担う国家の一つの行政部門となった。
           (4)キリスト教倫理が二重構造になった。国家の「クリスチャン」に当てはまる最低限のキリスト教的倫理と、高い動機をもち世俗を離れる自覚的キリスト者(修道院)の倫理に分かれた。
           (5)倫理学が実用主義になった。教会が支配者側に立つ時、「新約聖書が教会に求めていることよりも、『全体の善にとって』もっとも望ましいこと」を求め、社会を動かそうとするようになる。(中略)ヨーダーは、それを「倫理の工学的アプローチ」と呼ぶ。
           (6)教会は社会をコントロールするために自然道徳を自らに適用した。(中略)新約聖書のイエスと生き方よりも、結果によって手段を正当化するために、より自然に近いと考えた旧約聖書の教えや異邦人の知恵(ギリシア哲学)に重きを置いた。(p.85 改行はミーちゃんはーちゃんによる)
          とお書きである。

          アメリカ中西部での
          社会の主流派としてのキリスト教
           まず、(1)に関しては、確かに、米国では、『キリスト教』と呼ばれる、キリスト教の香りのする何かは、エスタブリッシュメント、主流派であった、と思う。どのキリスト教が主流はなのかは、地域によっては違うけれども。

           まぁ、キリスト者でないものは人間扱いされなかったことは、東部や太平洋岸(ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州)のような地域ではいざ知らず、南部や中西部では、ちょっと前までそんな感じだったと思う。そして、中西部や南部では、今でも、という説はあるが、20年くらい前まで、圧倒的にキリスト教と呼ばれるキリスト教の香りのする何かを大量に含むキリスト教にかかわる人たちは、社会の主流派であった。東部では、メインラインと呼ばれるリベラル派のプレゼンスが高く、中西部では、一般に福音派と呼ばれるキリスト者のプレゼンスが高かったように思う。

           そのため、南部とか中西部とかいうところ出身で宣教師とかというかたちで、海外に伝道しに行った人は、自分の存在意義や信念体系を全く疑問に思わず現地の状況もガン無視して、現地の人々に語った、と思う。そして、自分の持つキリスト教以外の、現地の人々の思想、行動、言語を貫く、思想とか理念とか、論理は理解ができない部分があったと思う。

           そして、日本に特にアメリカ経由で入ってきたキリスト教の日本人関係者(牧師も信徒)も、この主流派の人たちの思考法や思想をそのまま維持する部分もあったと思う。その結果、キリスト教を教える側が自分たちこそ正義であり心理の保持者、というコンスタンティヌス的キリスト教を思想性とシンクロし、社会に対するウエメセの構造を教会とその関係者が持つ原因の一つとなったと思う。

           ところで、大英帝国は、良くも悪くも植民地支配を割と早くからしてきた。当初から、これらの植民地で異文化をもつ人々と、うまく付き合い続けたとは、とても言えないが、インドやパキスタンなどのアジアやアフリカでキリスト教以外の信仰体系と付き合わざるを得ず、多少は考える部分はあったような気もしないでもない。

          政治制度や西洋の制度に影響したキリスト教

           (3)については、ドイツや大英帝国史、イタリア史なんかを見ていると、そうだろうなぁ、と思わざるを得ない。ドイツは教会に代わって国家が徴収する教会税がちょっと前まではあったって聞いている。今はどうか知らないけど。役所が住民を世話するという意識がないので、近代国家(というよりは、国家総動員体制で戦争し始める18世紀)に入るまで、ヨーロッパでの人口統計は、教会によるしかない。国管理の戦争をするようになって初めて、国民皆兵、血税(本来、血税というのは税金のことではなく、血を流すために戦争に行く義務のことを指したが今は、それはどっかに行っている)という名の戦争に生かされる義務を国民が勝手に国家から負わされてしまったために、国家が管理せざるを得なかったのだ。つまり、近代国家の事務の代わりを教会がしていた形である。ちなみに、日本ではパスポートは、都道府県ごとに発行しているが、それは、法定受託事務である。まぁ、あれも、一種の通行証やら、援助要請状であるので、中世カトリックの巡礼の皆さんが、教会に巡礼の最中にこの人キリスト教徒なんで、教会に宿泊させてくださいね、っていう証明書みたいなところもある。実は、ヨーロッパのホテルの出発点は、割とこの巡礼宿から影響を受けてるって話も聞いたことがあるようなないような。ホテル学や観光学が専門じゃないので、ご関心のある方は、英文とかヨーロッパ語の文献で調べてね。

           (4)については、未だにあると思う。最低限のキリスト教というか、国家(というよりは国家で広くいきわたっている文化や習俗)とキリスト教の結びつき強すぎて、個人の信仰の確立とは関係なく、最低限のキリスト教ですらないキリスト教徒が欧米には、掃いて捨てるほどいることは確か。アメリカいるとき、「僕はアメリカ人だからキリスト教徒だ、君は日本人なのにどうしてキリスト教徒なのだ」と聞いて来た若者が居られたことを記載して終わっておく。今思い出しても、腹立つから。

           (5)は、教会でもあるんじゃないかなぁ。聖書そのものよりも、会衆とか、一部の声のでかい会衆とか、教会的伝統への配慮という、一種の訳のわからない、全体善と称される、根拠のないものが優先されて、聖書の主張が度っか飛んじゃうこと。この辺、現実の教会運営上ではかなりうっとうしい問題をもっていると思う。

          コンスタンティヌス的キリスト教が行き着いた先の
          自己愛としてのキリスト教
           (6)については、上沼昌雄先生も、そのように指摘しておられるようである。先生のブログ記事の一部を転載しておく。

           イギリスの聖書学者で歴史家であるN.T.ライトは、信仰義認が最終的な(まさに)目的であるとすると、それは結局 me and my salvation だけを求めていることになると指摘しています。同じことをニーチェも言っています。『「霊魂の救い」−−わかりやすく言えば「世界は私を中心としてめぐる」--キリスト教がこのうえなく徹底的にこれを蒔きちらしてしまった。』(反キリスト43)ライトもニーチェもそれがどこから来ているのかを見抜いています。ギリシャ哲学の霊肉・善悪二元論であって、肉の世界を離脱して霊の世界に救いを求める世界観です。プラトニズム化されたキリスト教です。

           N.T.ライトは歴史家として聖書学者として、目的設定は、もっ
          と大きなことにあると言って、旧約聖書からの神の民に対する神の目的が、神の御子であるキリストによって成就したことに視点をあわせています。聖書全体の流れの中で、最終的に神の国の実現のために救いに預かり、召されている責任を語ります。キリストによる救いは、私たちがそれに預かることで、神の国の実現ために働くためなのです。信仰義認だけであれば、それは自己愛の信仰になってしまいます。

          ということだそうで。

           今日も長くなったので、このへんで。次回は、コンスタンティヌス的なキリスト教(つまりキリスト教的な何かのほうが大きいキリスト教)との対抗関係などを内村先生を参考にしている部分のご紹介いたしたく。




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          コメント:アメリカの国家と教会の歴史を簡単に知るには最適の本だと思う。わかりやすいし。

          2014.09.08 Monday

          Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5)

          0
             今日はヨーダーに戻って考えていきたい。個人的には、大事なネタだと思うのだが、あまり受けがよくないので、うーん、なんなんだろう、と思いながら、それでも書いておこう。かいておくことに意味もあると思うから。

             これまでの投稿記事は、こちらからどうぞ。
             
            Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

            Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

            Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

            Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

             これまでの記事で、だんだんメタ思考とは関係なくなってきたんだけど、そのうち出ますから。この記事でも出ます。今回もまだ3章の藤原論文の紹介とコメント中。ダラダラしてスマソ。

            預言者的存在としての内村鑑三とヨーダー

             そのうえで、ヨーダーを日本の読者が読むための補助線として、内村鑑三を例にとり、コンスタンティヌス的キリスト教との対立について、次のようにお書きである。

             内村(鑑三)の一人一教会主義というのは明らかに行き過ぎであるが、彼の預言者的視点は、ヨーダーの主張を理解するうえで役に立つであろう。そしてその預言者的思想には、不可避的に独立と苦難が含まれることになる。預言者は荒野に立ち、罪を批判する声を上げる。そして、しばしば迫害に直面するのである。内村の中には、潮が引いて行くように教会から去っていく人々のキリスト教信仰とは異なる、魂を貫いている福音を認めることができる。(p.86 太字部引用者による)
            と絶賛しておられる。そうだろうとは思う。ある面で言うと、会衆に面と向かって、そして、社会に向かって、言いやすいこと、受け入れやすいことを言うだけが、牧師の役割ではないし、社会に対して、異議申し立てを具体的にしなくても、神の民として疑義を持つ、異議を持つことは、ある面でキリスト者の役割だろうとは思う。というのは、ウエメセではなくても、社会と共有できかねる部分があるからである。「ウザい」と思われるほど、社会に対して疑義や異議を申し上げていくのがよいか、というと、かどうかは別として、社会と対抗的な立場をとらざるを得ない場面が出てくる。それは、キリスト教が幅を占めるアメリカ社会においても、そういう場面が出てくる。それがアメリカのキリスト教界がそうしているかどうかは、かなり疑問であるが。キリスト者が持つ預言者的性格に関して、下記のブルッゲマンの本もよいと思う。
             厳しい環境に置かれて、信仰が保てるかどうかは、個人的に自信はないし、そして教会からそっと離れていく人々を批判する気はないが、しかし、キリストへの信仰とは、そして、神への信仰とは、エペソ4章6節にあるように

              すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(口語訳)
            という視点に思いを巡らせたい。ある面で、キリスト者は、イエスの弟子でもあるということを忘れてはならないのだろうと思う。

            キリスト者倫理とピューリタン

             キリスト者と社会のかかわりとして、どのようにあるべきかということに対してのヨーダーの考えを藤原先生は、次のように指摘しておられる。
             ヨーダーは、キリスト教倫理のあり方としてこの両者(引用者 注 祭司的チャプレン 権力を祝福する祭司として、権力を肯定するあり方・ピューリタン・チャプレン 社会に目に見える外面的な高い基準を押しつけ、保てないものや保ちたくない人は押しつぶされるかその社会から追い出されるあり方)を否定する。(p.87)
             キリスト者は高潔であり、倫理的に生きる存在であるという理解が日本社会に定着しており、その面で、これまで高い評価を社会一般から受けるとともに、キリスト者が社会から敬遠され、煙たがれる存在ともなってきた原因の一つであったと思う。そして、キリスト者の主張することには、関心がないわけではないのだが、その世界に一歩足を踏み込むことでその倫理、行動パターンへの制限が増加することを恐れて、信仰の世界に足を踏み込むことをためらう人々も極めて多いと思う。特に、この傾向は、明治期の北アメリカ経由で入ってきたキリスト教に関して、非常に大きいと思う。

             ヨーダーが倫理として主張するのは、外面的なものではなく、あくまで神との関係であることについて、藤原論文では、ヨーダーの文章を引用しながら教会と倫理、社会と教会の関係に関して、次のように指摘している。

             「私(ヨーダー)は、マジョリティー・エスタブリッシュメントが教会としてほとんどの役割を果たした後、マイノリティの視座からいかなる補足的役割が必要かと問うものではない。むしろ私は、教会が(実際に)マイノリティーとしての位置にある世において、教会がいかにあるべく召されているかを問うのである。」(引用者補足 Priestly Kingdomからの引用)教会には、H・リチャード・ニーバーが言うように、「世に関する神に対する責任」(responsibility to God for society)があるのは当然である。しかしそれは「神の事柄に関して世に対する責任」(responsibility to society for God)ではない。この両者の違いは大変大きい。前者が神への忠誠と応答として社会にかかわるのに対し、後者は国家への忠誠と教会の存在意義の承認のために宗教的な事柄を担うのである。教会が、世の中心に立とうとするとき、その福音の独自性を失うことをヨーダーは正しく指摘している。(p.88)
             この部分を読みながら、世に関する神に対する責任とは、ミーちゃんはーちゃんが思うに創世記1章28節における神から与えられた使命、

            神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
            と深くかかわるのだろうと思う。この部分を「人間がこの地球を煮て食おうが焼いて食おうが問題ない」と誤読し、「この地を使い捨てるような、ゴミ箱にするような使い方ができる」という根拠として使っている人々もおられるとは思うが、それは違うのであり、神に対するこの世界Kosmosに対する責任を放棄している立場であろうとは思う。天国に行くだけがキリスト者の生の目的ではないと思うのだ。むしろ、できることは限られていようと、神に対するものとして、神の権威を認めるものとして、神が造り給いしこの世界に対しての責任ある生き方をしていくことは重要なのだろうと思う。その責任ある生きているかと言われれば、非常に不安を覚えざるを得ない。しかし、その方向に向かっていきたいとは思う。

             ヨーダーのキリスト者のあるべき姿とか何かに関して、藤原論文では次のようにまとめておられる。

            ヨーダーの一貫した主張は、まさにイエスが主であり、我々の倫理の最終的権威をもっておられ、最後の決定権はそれ以外のどこにもない、ということに尽きる。(太字は、引用者による。中略)ヨーダーにとってイエスの権威が問題の核心であるといえる。(p.89)
            この部分は、すべてのキリスト者にとって異論のないところではないだろうか。それを我々の勝手な思いや、勝手な考えを倫理として、他者にこうあるべきだ、として我々が倫理の決定権を握っていないだろうか。さらに、その自分たちが勝手に定めた倫理を、こうあるべきだ、と人に押し付けたりはしてないだろうか。そして、人々がご自身に近づくことを求めておられる神を人々から遠ざけているとしたら、ろくでもないことをして化しているかもしれない、と反省することは重要ではないか、と思う。

            「ヨーダーの教会論」の部分から
            日本社会と日本の教会を考えてみた

             藤原論文では、日本の近代のキリスト教史(中でも黒歴史部分)に触れながら、次のように述べておられる。
             
            ヨーダーは「社会に対してより肯定的態度をとることによって社会を修正することを求める人々」に対して「『積極的態度』によって彼らが独立した足場を捨て去るときに、現実は修正を行うことができない」という。そして教会の他者性を主張している。これは日本に関して言うなら、日本文化をより肯定的にとらえ、日本の文脈にあった日本的なキリスト教を求めるような試みである。祭司的に社会にかかわり、社会を受け入れ、承認していくときに、実際には変革の可能性をつくり出すよりも現状維持を強化することになるからである。単に日本文化を否定する必要は全くないが、教会が他者性を十分に持つことなく文化をむしろ受容的にとらえていくとき、文化を選択的に批判的にみていく目が甘くなるのである。戦時中に日本のための「とりなし」を強調した日本の教会にもこのような姿を見ることができるであろう。(太字部分は引用者による pp.92-93)
             日本の教会群の中には、日本人からなるキリスト教界であるから、日本人に伝道できるように、日本の文化を受容的に受けて止めていくべきだし、そのことを積極的に肯定すべきだとお話になる向きもキリスト教界の中にあるが、ミーちゃんはーちゃんがそのような考えに違和感を抱くのは、まさにそうすることで、本来のキリスト教としての立場が甘くなるし、言うべきことが言えなくなる部分にあるのだ。現地化ということは必要であることはミーちゃんはーちゃんも認める。それは重要であるとは思うのだが、そこで譲ってはならない、核とは何か、ということを、現実に即して考え続けることが必要なのだろうと思う。

             特に、15年戦争期に、宗教団体法に悪乗りし、まさに、国家にとっての承認を受けたことに欣喜雀躍し、国家にとっての祭司的役割を担い、八紘一宇という概念を祝福するというのはどうかと思う。その反省はすべきだろうと思うが、まだ、この時代を生きた人々がいるということから、そのことへの反省というのか、哲学的反省が十分ではないのではないか、というある神学生のツィートを見かけたが、特に、包括組織を構成していない、戦前からある日本の福音派の場合、この部分の反省は十分なのだろうか、ということを思わざるを得ない。一部にその反省をする動きがないわけではないが、福音派とラベルが貼られたキリスト教界全体でのそのことへの反省が浸透しているかどうかについては、かなり怪しいと思う。

             しかし、この部分などを読みながら思ったことは、

             極楽浄土でハスの葉に半跏思惟像で座るイエス様のイメージを持つキリスト者、
             「父母を敬え」を儒教的日本文化に即して年長者を尊敬すべきだ風に解釈するキリスト者、
             天皇家をメシアが出る家系とするようなキリスト者、
             日ユ同祖論に走るキリスト者

            の皆様(これらすべてははリアルにお出会いしたことのあるご自身をキリスト者とする方々である)なんか、完全に「文化を選択的に批判的にみていく目」が甘いのではないかと思うのだね。まぁ、そう思うミーちゃんはーちゃんの聖書理解がおかしいだけなのだろうと思う。

             ところで、ミーちゃんはーちゃんが思うに、文化を選択的に批判的にみていく目というか、他者性をもって文化を見て、問いを立てるってのが、メタ思考だと思うし、キリスト者が社会に生きる中で、その社会の中におかれる一部を形成するものとして、あくまで他者性を持つこと、預言者的役割のだとおもう。つまり、そばにいながらも、あるいは同じ地点かその周辺の地点に立ちながらも、他者性をもって、自分という存在、自分を取り巻く社会という存在、自分が属する教会を、フルぼっこにしたり罵詈雑言大会にするのではなく、愛情と問題意識をもって、見つめなおすという作業がメタ思考だと思うのだけど。

             批判と言うと、日本では、1950年代左翼運動、その後の革マルだの中革派だの批判哲学に基づかない一種の暴力革命主義がはびこったので、罵詈雑言大会をすることが批判だという認識が広くいきわたっている(典型的には、某テレビ局の朝まで生何とか)が、批判哲学の系譜では、そういうのは批判や哲学的反省とは言わないような気がするのだが、違うかなぁ。

             また、長い投稿となったので、このへんで。次回は、まだ、藤原論文を引用しながら、教会による社会の変革を考えてみたい。



            評価:
            価格: ¥3,024
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            コメント:預言者の性格を考える際には、最適の一冊。是非お読みになられることをお勧めする。

            2014.09.10 Wednesday

            Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6)

            0
                前回は、藤原論文を中心にヨーダーの教会論を中心に、教会と社会との位置関係というか距離の取り方、世界とどうかかわっていくのかを考える際のキリスト者の視座のお話をしてきた。

               これまでの過去5回の連載記事は、以下の通り。


              Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

              Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

              Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

              Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

              Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)



               で、今日は、藤原論文での、「教会による社会の改革」、「ヨーダーの問題点」と「結論」と題された部分から引用しながらミーちゃんはーちゃんがいつものようにたらたらと考えたことを述べていこう。

              「教会による社会の改革」から
               まず、藤原論文の「教会による社会の改革」の部分から見ていこう。

               ヨーダーの主張は以下の2つにまとめられるであろう。(1)世に対するコントラスト・モデルになること、そして(2)パイオニアリング・コミュニティティとして世に具体的な代案を提供することである。
               教会が世におけるコントラスト・モデルとして、神の基準を示す。それによってよの罪がより明らかにされる。神の基準は、世がそのうちに持ち合わせていないものであり、キリストの体なる教会によって示される必要がある。
               そして教会は、パイオニアリング・コミュニティとして、世における神の意志を率先して提示し実現していくという。さらに教会は、世が自らに適用することのできる代案を提案する。実は、ヨーダーはここにおいて世と教会の継続性を前提としており、キリスト教信仰へと改心することなく世が改善される可能性を前提としている。スタンリー・ハワーワスが、教会と世との断絶を強調するのに対し、ヨーダーはその継続性を彼よりも強く見ており、世が教会から学ぶことができると考えている。 (p.96)

               この議論から示されるように、教会は世の中にありながら、神はこのように考えておられると、神の基準がどのあたりにあるか、を指し示すことにその意義があるとしているようである。この点、キリスト教倫理学者のハワーワスとは違うと指摘しておられる。そのあたりのことを知りたい向きには、大学という組織と教会という視点が極めて強い本であるが、下記リンクで紹介した「大学のあり方」をご清覧願いたい。

               「神の基準に従え」と世間の人々に言い、それを強要しないまでも、それをキリスト教社会においても、非キリスト教社会においても、神との関係において、聖書からは自分はこう考えているということで示すという役割があるのではないか、とジョン・ヨーダーは言っているらしい。しかし、このように表現すると、すぐ、過去のこれまでの日本社会におけるキリスト教が持ってきた、一種の暑苦しさ、つまり、

               「教会が偉くて、世と表現されている世間の人々はそれに追随すべきものである」

              という教室モデルをすぐお考えの向きもあろうか、とは思うが、ヨーダーはそういう存在として教会を考えておらず、もっと、多様な考えのある人々の中で、多様な考えの一つとして教会が考える価値、その価値の源泉は、ナザレのイエス、すなわちキリストにしかない、という価値を指し示すものだ、とヨーダーは言っているように思われる。それは、これまで、ヨーダーの価値の源泉におけるキリストの中心性との関連でお締めしたとおりである。

              社会におけるパイオニアリングコミュニティとして
               
               その教室モデルが当てはまらないことは、この世界におけるパイオニアリングコミュニティとしての教会というところにも表れており、本来、キリスト教は、よりメタ思考に近い指向性を持つことができるため、既存の枠組みを超えたところからの問題意識をもち、社会おける問題、あるいは不具合の指摘ができるはずであるし、過去そうしてきた。そして、それが社会を変革に導くし、だからこそ社会の中にある意味があるのだ、という理解がヨーダーにはあるようである。

              花子とアンも関係するよ

               例えば、イギリスの奴隷貿易の停止、アメリカでの奴隷制度の廃止問題、1960年代的公民権運動は、既存の社会の規範や規則、法律自体を問題視して、それを積極的に説いていった部分があるがゆえに、結果として社会が変わったし、日本では、花子とアンの主人公の村岡花子は婦人矯風会(要するに廃娼運動 今で言えば、性奴隷としての「花魁」、「芸者」、「舞妓」などとしての女性を巡る社会制度や社会のビジネスとしてのHuman Traffickingの廃止)と関係していたらしい。なお、同時期の女性へのDV抑止の観点から社会問題として焦点化した禁酒法は、個人的には、その精神は正しいものの、方法論として完全に失敗であったと思う。

               ところで、社会改革と教会のかかわり方について、藤原論文では次のように指摘している。

               ヨーダーの考える教会は、修道院のように世から隠遁するものではない。彼は、クムラン的隠遁主義、パリサイ派的分離主義、サドカイ的現実主義、熱心党的暴力革命というイエスの時代の4つの選択肢を示しそれらをすべて否定する。そしてイエスの世に対する創造的なかかわりを教会のあり方として「オリジナル・レボリューション」と呼ぶ。それは非暴力的にノン・コンフォーミストとして創造的にかかわる生き方である。
               ここで創造的にということに触れたいのであるが、ヨーダーの非暴力は受動的に虐げられることを待つ無力な態度を意味していない。(中略)ヨーダーの平和主義は、積極的かつ創造的な平和づくりと言う表現のほうが適切であると思う。(p.95)

               キリスト教倫理学のハワーワス(最近出た「大学のあり方」(下記リンク参照)という本は、ハワーワスの考え方がよくわかるので、お勧めする)が世間と断絶的な立場、つまり修道院的なうちに向かって極めていくような倫理的先鋭化を目指す立場をしゅちょうしているようであるが、ヨーダーはそれではまずいのではないか、ということがヨーダーの思想の中にあるようである。なお、西洋とアメリカの一部の大学はその出発点は、学問司祭養成所であった修道院に根拠を置いていることを一言触れておく。

               ヨーダーは、この地に神からおかれた存在として、この地の中で生活しながら、イエスの生き方に倣うものとして普通に生きていく中で、世の中に神の思いの神と人との平和の結果もたらされる、地における平和をもたらしていくべき存在として、教会があるのである、とご指摘のようだる。その意味で、要するに世間の中に教会があってこそ意味があるということをご主張になられたようである。

              過去の日本社会とキリスト教

               藤原論文であげてある、イエス時代の社会改革運動を

              クムラン的隠遁主義
               (修道院的存在理解)
              パリサイ派的分離主義
               (自分たちを一段と高い教師とする存在理解)
              サドカイ的現実主義
               (戦前のキリスト教界のように国体を尊敬し、国家の忠実なしもべとしての存在理解)
              熱心党的暴力革命
               
              (学生運動的な社会破壊者としての存在理解)

              に分類しているが、日本の過去の教会の動きで割と当てはまるものがあるので、面白かった。改行したあとの()内はミーちゃんはーちゃんによる。なお、ミーちゃんはーちゃんのところのキリスト者集団は、クムラン的隠遁主義と、パリサイ派的分離主義があいまったところの立場の方が意外と多いような気がする。雰囲気で言うと、申命記28:56の

              あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない

              という雰囲気の方が多いような気がする。ミーちゃんはーちゃんは、下品で、乱暴であるため、足の裏で地面を踏みまくり、ではあるけれども。

               キリスト教界の中には、社会と私たちは無関係、選挙での投票行動などは論外、とかいう方もおられる。そして、社会の方々を教えようとか、社会の方々に向かって、自らを教師のような役割として任じ、「聖書こそ真理であるぞよ」というノリで聖書そのものではなく、ご自身の聖書理解を振り回す方もおられる。個人的には、「かなわんなぁ」とは思うけれども。

              世界をケアするものとしてのキリスト者の生き方

               しかし、アダムの末として、この世界を支配するものではなく、この世界をケアするものとしての存在として、我々がつくられていることを考えるとき、藤原論文の表現を借りれば、

              それは非暴力的にノン・コンフォーミストとして創造的にかかわる生き方である。

              ということになろう。特に、創造的に余とかかわる生き方については、下記リンクでも紹介する「わが故郷、天にあらず −この世で創造的に生きる」が非常に参考になる(この本は絶賛推奨中である。絶版本でrけれども)。ところで、この本、現在では入手困難であるが、この9月23日、早稲田奉仕園で行われるいのフェス(このリンクをクリック)で「福音の再発見」とともに、特別に提供する。ご所望の方はお早めに。特に、「わが故郷、天にあらず −この世で創造的に生きる」は、お若い方、ユースのリーダーの方にお勧めしたい名著である。

               なぜ、キリスト者は、非暴力的に世間と創造的にかかわることができるか、といえば、おそらく、ヨーダーからすれば、キリスト者は、本来終末に完成される神の国(神の支配)の生き方を不完全な形としてこの地上で現在先取りしており、神の国の民、すなわち、神の支配に服する民として生きるように教会は召されていると主張しておられるようである。つまり、未だ完全な形としての神の国は実現していないが、すでに、不完全な形として実現している神の国の姿を持つものとして、生きるようにキリスト者は召されているのではないか、ということがヨーダーさんの言いたいことのようである。

              「ヨーダーの問題点」から

               藤原論文では、ヨーダーの問題点として、いくつか示されている。それは、ヨーダーの聖書理解が、聖書理解として、啓示それ自体とその重要性を指摘している点であり、それを強調することで、啓示文書としての聖書の聖典を読み込んでいくことになる解釈者と神の啓示そのものをどのように区別、峻別するのか、という点での論点整理が不十分であったり、戦争理解を中心とした共通理解が幅広いキリスト教界の中で生まれにくいこと(これは、イラク戦争時にアメリカ滞在中に強く体験した)、そして、人類に間接的に啓示されているもの(たとえば、自然とか、非キリスト者社会における法と秩序とか)が存在することへの対応が弱い、といった、聖書聖典を極めて重視するファンダメンタリスト的な理解の問題があることも指摘されていた。

               さらに、現代社会に教会がおかれている意味の指摘はするものの、では、教会がどのように現実社会と連携をとっていくのか、といった現実世界とのリンクの弱さなどが同論文では、指摘されていた。詳細はオリジナルにお当たりいただきたい。

              「結論」から ヨーダーの平和主義
               長くなったが、藤原論文からの紹介は、あともうちょっと。お付き合いいただきたく。

               ヨーダーの平和主義には、自らの血を流してでも平和を実現するという覚悟が必要とされるであろう。ヨーダーの平和主義は殉教を常に視野に入れている。(中略)しかし我々の教会が困難な時代に「逃げた」ことを覚えていなければならない。ヨーダーの平和主義が日本に与える一つの有益な影響は、平和の代償を思い起こさせるということである。(pp.100-101)

               日本のキリスト者の平和運動では、15年戦争の前の時代、そして15年戦争期のキリスト教界のあり方への反省、同じ国家全体主義を持ったナチズムへの対応を図ったという意味で、バルメン宣言や、ボンフェファ的な何かへの評価が現在の日本のキリスト者の中でも非常に高い。そして、キリスト者の平和運動、平和への希求ということがなされようとし、血を流してまで創造的に抵抗しようとし、最後には、熱心党的暴力革命により、ヒトラー暗殺計画に加担し、平和への代償を自らのいのちをもって支払ったボンフェファ先生の評価がやたらと高いのであるが、また、日本でも、ホーリネス運動関係者や、キリスト集会と呼ばれるキリスト者の集団でも、殉教者や投獄された信徒は存在するが、賀川豊彦先生を含め、「信徒を守るため」という側面はあるので、単純に批判できないにせよ、キリスト者社会のかなりの部分は、藤原論文の表現を借りれば、確かに

               我々の教会が困難な時代に「逃げた」

              のであり、そのことのキリスト教にかかわる何かは、十分な反省をしていないのではないだろうか。もちろん、不十分な形とはいえ、日本キリスト教団は宣言を出しておられるし、個々の教団派宣言を出しているかもしれない。それを体系的、網羅的にまとめ、15年戦争前から姿を変え、形を返しながらも継続して存在する教団が、それぞれ、戦争終結時、その後において、それに対してどのような措置をして、けりをつけたのか、という研究の存在をミーちゃんはーちゃんは寡聞にして、知らない。そこも、平和の希求を研究する際には重要なのではないだろうかと思う。

               藤原論文を読みながら、ヨーダーがいいなぁ、と思ったのは、以下の表現である。

               ヨーダーは、(中略)その故に新約聖書に示され実現しつつある神の国のヴィジョンを終末的理想(イデア)として遠くに眺めてあきらめてしまう倫理に異を唱える。あれは終末的理想であるとしてイエスの教えと生き方から、あまりにも簡単に目をそらし、受肉から十字架へと飛んでしまう神学に異を唱える。ヨーダーの倫理を一言で言い表すなら、「イエスはあなたにとって主なのか」という問いである。(p.101 太字は引用者による)
               つまり、キリスト者が生きるときの倫理として、キリストの弟子として、あるいは、キリストに従うものとしていきているのか、を問われた感じがする。あなたは、お題目のように聖書に記載された内容から導かれる表面的行動のみに従っているのか、ということを問われた感じがした。イエスの行動とそれを支えた行動原理、ごく端的に言ってしまえば、以下のイエスの言葉に集約されるものはあなたにとってどういう意味を持つのか、ということをこの論文を読む中で、ヨーダーから問われた気がする。

              「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
               心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
               次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 
                   (新改訳聖書第3版 マルコ12章から)

              上記のイエスの発言を日常生活の中で、日々生きる中で、どのように考えるのか、ということをすべての信徒に問うているのではないか、とヨーダーは指摘しているようである。

               イエスの公生涯とそれにならうことをすっ飛ばしたキリスト教にしてしまい、神の国に自らの席というか、あたかも、花見の時やプロ野球の外野席の場所取りのように神の国における場を確保するためだけに必死になり、そのための手段として十字架を機械的に利用しようとするキリスト者への強烈な批判として「イエスはあなたにとって主なのか」を問うところが重要なのであり、それを完全な形では個人の弱さのゆえに貫徹しかねるとはいえども、それを求めて判断することを、我々が考えるべきでないかと指摘するヨーダーの問いかけは重要なものであると、ミーちゃんはーちゃんは考えている。

               ということで、藤原論文紹介とそれでたらたら思ったことは終わり。お付き合いいただき、こころから監査h。次回は、Nobu牧師のチャレンジにお応えしたものの第1回乗せ、そのあと、次々回からは、第4章谷口論文を述べる。

              (ちょっと修正加筆しました。後出しじゃんけんでスマソ)



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              コメント:大学と教会、大学と社会を考えるための手がかりを与えてくれる本であり、アメリカの大学がどのような出自を持つかがよくわかる名著。

              評価:
              ポール マーシャル
              ---
              コメント:ノンコンフォーミストとして、イエスのオリジナルレボルーションに連なるものとしてキリスト者としての生き方を説いた本。

              2014.09.22 Monday

              Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7)

              0
                  前回は、藤原論文を中心にヨーダーの教会論を中心に、教会と社会とのかかわりと、結論として、日本の教会としてどうヨーダーと向き合っていくのかという藤原論文の視点を紹介した。

                なお、これまでの過去6回の連載記事は、以下の通り。
                 
                Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

                Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

                Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

                Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

                Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

                Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)


                 今日は、第4章矢口論文「J・H・ヨーダーの平和神学、平和倫理」から紹介しながらいつもの如く、たらたらと考えてみたい。

                平和主義はキリスト教で一般的ではない?

                 ジョン・ハワード・ヨーダーは平和主義の立場に立つ神学者として知られている。そのこと自体がヨーダーをユニークな存在とする。なぜならば、平和主義はキリスト教の一般的な考え方ではないからである。(pp.109-110)

                 一瞬、「平和主義はキリスト教の一般的な考え方ではない」という部分を見たとき、「・・・・」となってしまった。確かに、キリスト教は、これまで、神学論争を繰り返してきたし、キリスト教の一部に、黒い革表紙のHoly Bibleって書いてある本の一部の記載を先頭マニュアルもどきに使う人もいるし、ネット業界では「戦闘民族説」まである。それだけ、弁証論というのか、自己の聖書理解の発展を追求する先鋭化が進んできたことは間違いない。

                正義の戦争はあるか?
                 2002年にアメリカにいたときは、2001年にニューヨークに民間航空機を使って、テロが行われたいわゆる911事件があったために、アメリカ国内がWar on Terrorという見方一色に包まれて、あれ、アメリカ人の皆さんも「超ご機嫌ななめ状態?」なのか「集団ヒステリー状態?」になっていた。もう、「ウサマ・ビン・ラディンをぶっ潰せ」モードになっていたのが、いつの間にか「打倒フセイン」モードになってしまって、「大量破壊兵器を持つ国はぶっ潰せ」モードになっていたけど、そういうんだったら、まず、アメリカ合衆国とロシアをまず破壊しないといけないんじゃないか、と素直に思ったものであった。ただし、そんなこと言ったら、強制送還されかねない雰囲気があった。これに関して、矢口論文では、次のようにご指摘である。

                 「正義の戦争」は聖書的裏付けをもたない。イエス・キリストのことばとは無関係である。一般にはキケロなどにだ表されるローマの政治哲学がそのルーツとされる。現在のパレスティナ地方で帯同したキリスト教は、1世紀のローマ帝国の中で展開し、その過程でギリシア・ローマの言語、思想、文化、風種と接触し、ある時はそれを拒絶し、またある時はそれを受容し、さらにはいろいろなものを融合していった。(中略)キリスト教内部で、「正義の戦争」が大きな批判にさらされることなく継承されてきたことは注目に値する。キリストの中心性を固持する伝統においても、戦争の問題だけは見逃される傾向が認められる。戦争を問題視してきたのは、キリスト教内の少数派なのである。(pp.111-112)
                 下記リンクで紹介するPreston SprinkleさんのFightでも指摘されていたことだが、戦闘するのは、「神の義の実現として当然だ」とされすぎていて、「戦争をするのは当然だ」、「国家の権能として戦争をするのは妥当だ」と言われてきて、「正義の戦争」はキリスト教の世界の中で当たり前のものとされてきたらしい。残念な傾向である。それは、普通の世間の人が持つ、『羊のような温和で柔和なキリスト教徒』の皮を一枚めくると『狼のように凶暴で、戦闘的なキリスト教徒』が待っていて、このあたりどう処理していいのかわからなくて、日本の多く人々が突然怒り出したり、突然、神の名を口にし、決死の形相で伝道するキリスト教徒に当惑することも少なくないのだろう。

                「羊」の皮で偽装した「虎」?
                 キリスト教のかなりの部分では、確かに、『羊のような温和で柔和なキリスト教徒』の皮を被った『狼のように凶暴で、戦闘的なキリスト教徒』がいないわけではない。特にこの傾向はアメリカのキリスト教界の中でかなり強いような気もする。

                 ところが、キリスト教における平和主義を主張する、ジョン・H・ヨーダーさんが、実は、そもそもその少数派の中のアナバプティスト派のメノナイト・ブラザレンのご出身だったものなので、今一つアメリカ社会の中でもメジャーでない雰囲気はある。まぁ、少数派で変わっていて、かなり閉鎖的な社会をつくるアーミッシュとも関連が深い、メノナイト・ブラザレンの代表的神学者であるヨーダーさんは、メノナイトの出身だというので、自動的にセクト的(分派的・分離派的)というラベルが貼られてきたような気がする。

                キリスト者としてカトリックに求められる
                平和を生み出す民として生きる
                 そういうこともあって、彼が言ったこともほとんどのキリスト教徒や神学者からは、わしらと直接関係ないし、と思われてたし言われたらしい。残念な傾向である。しかしである、

                 ヨーダーは自分の立場がカトリックであることを主張する。この場合の「カトリック」はローマ・カトリックのことではない。ラテン語の原義にある「普遍的」という意味である。(中略)イエスを、メシアと認めるすべての信者の耳に響かなければならない内容だと主張する。(中略)ヨーダーは一歩踏み込んで、平和を生きることが、ディサイプルシップが、すべてのキリストを信じる者にとって「規範」なのだという。それは信仰の核心部分にかかわる、と。(p.114)
                ということらしい。本来的に、キリストの弟子であることは、普遍的に平和的であることをもめられ、神の国の支配を表す、そして平和を作り出すことになるのではないか、というのがヨーダー先生のご主張のようである。まぁ、これはそうなのだろうと思う。だって、山上の説教の中で、イエスはこう言っておられる。

                マタイ福音書
                 5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
                と書かれているのである。我らが神の子であるならば、平和を作り出すものであるはずであるし、もし、我らが平和を作り出すものであるとするならば、神から「我が子らよ」と呼ばれるのではないか、というのが、イエスのご主張なのではないか、というのがジョン・H・ヨーダー先生のご主張らしい。その意味で、神に造られしものである他者を尊重するものとして、神に造られし我らが生きるべきではないか、共に生きる在留異邦人を軽んじてはならない、と仰せになった旧約の神を我らがどう考えるのか、を問うておられるようである。

                 次回へと続く
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                コメント:アメリカの福音派の海兵隊出身の若手の神学者のPreston Sprinkleの書いたキリスト教徒戦闘をどう考えるか、の本。

                2014.09.24 Wednesday

                Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(8)

                0
                   さて、前回からは、「ジョン・H・ヨーダーの神学」の第4章矢口論文を紹介しながら、キリスト教と平和運動、「この世に平和をもたらすものは神の子と呼ばれる」とナザレのイエスが言ったにもかかわらず、平和をもたらすことができなかったキリスト教会についてヨーダーがどういっているのか、ということをたらたらと考えて来た。
                   
                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
                   
                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

                  ヨーダーとイエスの政治経済学

                   そして、ヨーダーの主著とされているイエスの政治について、矢口論文は次のように評している。
                   『イエスの政治』の2章は「近づく神の国」とい う表題がつけられ、そこでヨーダーは「ルカによる福音書」の社会倫理的解き明かしを試みている。ヨーダーによると福音書のイエスは国や義、法、金、敵を話題にする。それは社会倫理にかかわるものである。政治にもかかわる。イエスが神を語る時のことばは抽象的なものではない。イエスの祈りさえもが政治的な言葉遣いによる。従って、福音書のイエスから社会倫理を排除すること、つまりイエスを非政治化することには、イエスの言葉と行動自体が反対する。 (p.119)

                  この記述を見る限り、ヨーダー先生にとって、神の国とは、死んだ後行く天国の話では全くなくて、この世にもその一部が反映されるものであり、それは、「義、法、金、敵」といったこの地上の物事と深くかかわる具体的な事柄となっていて、それを、神の民がどう考えるかを問うていると議論しているようである。ヨーダー先生にとっては、神の国(のその一部)は、もっとリアルなものだということらしい。もう少しいうと、ヨーダー先生の議論は、「クリスチャンは、神の民として、この地上の生において、様々なものとかかかわる中で神の国を不完全ながらも実現する存在」ということなのだろう。つまり、この世でキリスト者として生きるということは、これらのものと距離をとり、教会や信仰の世界に立てこもり、世捨て人のように生きることではない、という理解のようだ。そして、自分のおこころではなく、神の御思いを政治的にも神と共に実現していく存在だということらしい。

                  ヨベルの年と神に造られた人間としての回復


                  旧約聖書にあるヨベルの年と基督にある社会の再編、人間の回復、教会論として、ヨーダーが述べていることを矢田論文は次のように整理している。

                   「主の恵みの年」を旧約聖書のヨベルの年と結びつけることによって、それが経済的、政治的再編成をもたらすことをヨーダーは見抜いた。12名の選出、つまりイスラエルの初穂は新しい社会的実現の確立として読める。それは信仰共同体の形成である。社会政治的行為である。(p.120)

                   この辺、NTライトなんかが、ヨベルの年ということで途上国の債務放棄を先進国はすべきだ、を言いだしたことと深い関係がありそうだ。つまり、ヨベルの年として、先進国が後進国に化している開発援助関係に関する債権を一部放棄することで、人々の自由な動きや生き方を制限するような拘束となりかねない借金から解放するべきだと主張したようだ。それは、我々が、神の前に払いきれない借金をイエスという神を通して棒引きしてもらったから、ということもあるようだ。つまり、イエスのいう「救い」とは、「罪からの脱出」ということだけでなく、「より自由な神の人として生き生きとした生の回復」ってことなのだろう。


                  教会の政治的役割について語るNTライト

                  社会的権力をも支配するイエス

                   多くの場合、誤解されていることではあるが、イエスは、社会的権力を直接自分自身が振り回すことを拒否しているものの、しかしその社会的権力をすら支配する神の国の支配者としてこの地に来られたというのが旧新約聖書を通してのメシアの姿だと思う。
                   社会的権力をイエスが拒絶したことが、社会性や政治性、経済性の否定を意味するのではないということである。力や権力、暴力を基盤としない「イエスの政治」性、「イエスの経済」性、すなわちイエスの社会倫理が新約聖書の中に現存するのである。(中略)ヨーダーの意図は福音書と新約聖書の他の部分、とくにパウロ書簡とが社会倫理に関して断絶していないと示すことにある。「イエスの示した生き方が[新約聖書の]多様な語義的・文化的様式の中に継承された事実」(イエスの政治117頁以下)を示そうとするのだ。(p.121)
                  ここを読みながら、思ったことはヨーダー先生が、「イエスの政治」性、「イエスの経済」性が新約聖書の中に書かれているということを指摘しておられる点である。特に、これから就職しようとする若い人々に対して、信仰が重要であり信仰が重要であるがゆえに実業である労働とか就労することを否定的にいう人々がキリスト教界の中にいないわけではない。しかし、そもそも、イエスの福音書における言動を見る限り、この世界と分離的に生きておられるわけでなく、無視しているでもなく、それと共に生きる生活が示されているし、パウロにおいても、そのことが継承されておられることをヨーダー先生はご指摘である。その意味で、キリスト者であるがゆえに、社会に生きる意味があるのであり、キリスト者であるがゆえに教会やキリスト教業界に立て篭もることだけが、キリスト者の生き方でないことを示しておられるようである。

                  持続的メシア共同体としての教会
                   そして、持続的メシア中心の共同体としての教会について、矢田論文では、次のように言及がなされている。

                   生活を共有する中で、神の国さきがけを体験している共同体である。個人的問題としての善悪や人格的向上が否定されるわけではない。しかし、メシア的共同体の生き方は、社会のための生き方なのである。それが共同体であるのは、契約を交わした人たちが教えあい、赦しあい、重荷を分かち合い、互いの証を強めあうからである。
                   新しい驚くべき
                  生き方、即ち敵を愛する生き方を具現する共同体の存在は、それ自体新しい社会現象である。個人的レベルで問題提起したり、人々の関心を集めたりすることを否定しようとしているのではない。ただ、世の中を変えることができるのは、この世とは異なる価値体系を堅持する持続的共同体だけなのだと言いたいのである。(p.126)
                  ここで、おもしろいのは、「教会の生き方は社会のための生き方」という指摘であると思う。これまで、ミーちゃんはーちゃんのいるキリスト者集団では、社会を否定的に扱うあまり、教会共同体での生き方は社会のための生き方というものではなかった。社会は伝道の対象のみとして見ていたり、社会は悪魔の支配するろくでもないもの(→自分たちだけはまともである、ということが暗黙に想定されている)としてみる見方が支配的であった。しかし、ヨーダー先生はそうではなく、社会と共生する、社会にいる人々にキリストと共に生きる価値観を持つ集団、そのような共同体が存在することで、社会の中で、神の存在を示し、そして、伸ばされた手を示すとともに、社会からのばされた手を受け入れていく場として、神という教会の中心におられて、神を価値体系の根源に据える教会があるということの重要性を説いておられるようである。

                   次回へと続く
                  J.ディオティス・ロバーツ
                  日本基督教団出版局
                  ¥ 4,536
                  (2008-12)
                  コメント:抵抗運動のなかで生きたキリスト者の生涯の比較と抵抗活動の源泉についての本

                  2014.09.27 Saturday

                  Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(9)

                  0
                       前回は、矢口論文からヨーダーの平和主義を中心に、ヨーダーの主新教派とのかかわり、平和主義をどう考えるのかという矢口論文の視点を紹介した。

                    なお、これまでの過去8回の連載記事は、以下の通り。

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
                     
                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(8) (09/24)


                     今日は正義の戦争をどう考えるのかを引用して、矢口論文が提起した問題などから考えたメディアと戦争等に関することをたらたらと述べていきたい。今日は長め。

                    正義の戦争と情報
                     矢口論文では、正義の戦争問題と情報について、メディアとのかかわりで、次のようにご指摘である。まず、これをもとに、メディアの問題を考えていきたい。
                     正義の戦争の基準を明確に理解しても、正確な情報がない限り、基準に照らした判断ができない。しかし、戦争や戦局に関する情報は、強力に戦争当事国によって操作されることを私たちは知るようになった。有事の際には情報操作が起きるのである。従って、教会が正確な倫理的判断をするためには、独立した情報収集のネットワークが必要となる。そこまで考えなければ、正義の戦争は抽象論になってしまう。(p.137)
                     ここで指摘されているとおり、近代社会において成立した国民国家によって戦争にまつわる情報は、操作されることは、日本の15年戦争期の報道を思い起こせば非常に明確に知ることができよう。戦争推進本部でもあった大本営は、ミッドウェー海戦で帝国海軍にとっての虎の子部隊である連合艦隊がボロボロにされた時、アメリカ側の被害のみを意図的に伝え、それも過大に伝え、戦闘の実情を粉飾したとさえいえる。ガダルカナル島での戦争の際には、全軍バラバラになっての敗走で前線兵士たちが病役と絶望的な飢餓状態に陥っても、なおさらそれを「転身」と言ってのける粉飾をした。戦争期に国策としてメディア統合の結果生まれた現在の全国紙の前身である朝日・毎日・読売は国家総動員体制の下、大本営発表を垂れ流しにし続けたメディアでもある。今日で終わる「花子とアン」の舞台の一つであるJOAK(NHKラジオ第1の東京放送局のコールサイン)はもともと国の行政機関のノリで、大本営発表を流し続けたのである。それを反省して、放送法では冒頭で原則を述べている。
                    第一条  この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
                    1 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
                    2   放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
                    3 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
                     なお、放送法は、放送にあたるものであり、戦前は新聞法があったが、現在では新聞法はわが国にはないので、個別法の制約を受けることなく、憲法に記載された言論の自由が追求できることは付記しておく。テレビが不偏不党を謳うのは、この放送法第1条に依拠している。

                    アメリカの「正義の戦争」とメディア
                     アメリカは、第2次欧州戦争、15年戦争終結後(いわゆる第2次世界大戦)、旧ソ連(現ロシア)及び中国(といっても、中国は影響力が限られたので、朝鮮半島とインドシナ半島で対決したのみ)との冷戦期に入り、世界各地で直接ソ連と対峙しないものの、間接的に対峙してきた。そして起きたのがベトナム戦争である。ベトナム戦争は、ベトナムに民衆的近代国民国家を確立するという点では、確かに「正義の戦争」であるかに開戦当時はアメリカ人には見えたし、統合参謀本部と当時の三軍の長(アメリカ大統領の別称)は、そのことを盛んにアメリカ国内世論に向けて語った。

                     そして、「ベトナム(というよりはアジア)に近代的民主主義を確立する」という「正義」のための「正義の戦争」であるがゆえに、戦争当初はかなりオープンに取材チームを受け入れた。そして、最前線まで彼らを案内している。その雰囲気は、ワンス・アンド・フォーエバー We Were Soldiers という映画にちらっと出てくる。しかし、戦争が後期になるにつれ、悲惨な現場の雰囲気や戦闘状況がアメリカの家庭のリビングルームのテレビで放送されたり中継されたりするにつれ、厭戦気分がアメリカ社会の中に広がっていく。もちろん、その裏側ではヒッピーたちの運動や、ババ・クリントン(ビル・クリントン元アメリカ合衆国大統領)が徴兵拒否したりとか、徴兵逃れをしたりすることなど社会の両面から起きたことはあるのだけれども。

                     なお、1960年代初頭のアメリカにおける『正義』は、コンスタンティヌス的キリスト教』であり、(共産主義への対抗としての)民主主義』であった。この二つはかなり別物であるはずなのだが、当時のかなりの部分のアメリカ人の頭の中では、同一化していた模様である。

                    ベトナム戦争後のアメリカの
                    正義の戦争とメディア

                     アメリカという国家は第2次世界大戦開戦以来、国連部隊ないし、連合国部隊という位置づけの中で、世界各国に出て行っては戦争をし続けてきた国であり、国民とその予備軍(アメリカで一定期間軍役につくと、アメリカの市民権が得られる仕組みになっている)に負担を強いてきた国である。その中には、本当にそれをする意味があったのかと思われるような戦闘行為や、あやふやな「どこぞの国が大量破壊兵器をもっているかもしれない」という情報をもとに小ブッシュがはじめてしまったWar on Terror等という戦争もあった。

                     このあたりのことを考えたい人には、ミーちゃんはーちゃんはかなり左巻きな人であるので、マイケル・ムーアの「華氏911」をお勧めしておく。ミーちゃんはーちゃんは体格と性格がマイケル・ムーアそっくりなのがねぇ。

                     ベトナム戦争以降の戦争、特に、このWar on Terrorでは、部隊の作戦情報の漏えい防止と部隊活動の安全性の確保、取材チームの安全性の確保をもとに、戦闘地での取材は著しく制限されるようになった。米国と戦闘地での断絶は、インターネットの世界の前には意味をもたず、情報の非対称性がそもそも成立しなかったからである。近年は、軍事無線がなくてもiPhoneで連絡を取り、iPhoneでGoogle Mapsを見ながらゲリラ部隊の皆さんも戦闘に利用できる時代である。つまり、ゲリラがスマホで使える時代であるが故の現象でもあるのではあるが。

                     この結果、本来「正義の戦争」であるがゆえに、従来は堂々と取材させていた統合幕僚本部と統合作戦本部の皆様方が、取材チームにそうさせなくなっていったのである。それに伴い、アメリカでは、教会が以前は期待できたメディアによる「教会が正確な倫理的判断をするための(政府とは)独立した情報収集のネットワーク」の役割を既存のアメリカ合衆国におけるテレビや新聞といったマスメディアに依存できない現象が起きた、ということなのであろう。その意味で、「倫理的判断をするための(政府とは)独立した情報収集のネットワーク」が存在しなくなった現状では、矢口論文の指摘する

                    「正義の戦争は抽象論になってしまう」

                    状態がアメリカでも、そしてわが国でも起きていると言えるのではないだろうか。もう、日本の教会にとって「正義の戦争は抽象論になってしまう」という経験を、わが国では15年戦争期にも経験したし、そして、現在もなおその様な状況を経験し続けているのではないだろうか。ガザ地区の悲惨やISISをめぐる空爆、ボスニア空爆を見ても。あるいは、一連のオウム事件に絡む松本サリン・河野さん事件を通しても。

                      振り返って我が国のキリスト教メディアを見るときに、既存の大新聞等が「教会が正確な倫理的判断をするための(政府とは)独立した情報収集のネットワーク」ではない現況にかんがみ、キリスト教メディアがそれに代わるかというと、取材力(人員)や資源・資金力において実に心もとない現状にあるような気がしてならない。 

                    平和主義者としての
                    ヨーダーのユニークさ

                     ところで、ヨーダーという平和主義者が平和主義者なのに、正義の戦争論にかかわっているのだが、その背景について、矢口論文では、次のように説明している。
                     第1にエキュメニカルな対話を開くためである。ヨーダーは対話相手の論理と言語を用いて対話に臨んだ。正義の戦争の伝統に立つ教会と対話するため、対話相手と同等、あるいはそれ以上に正義の戦争のことを知る必要があったのである。第2に、正義の戦争は容易に十字軍的な聖戦へと流れてしまうからである。聖戦がひとたび起こると、集団ヒステリーの中で思考が停止し、あらゆる極端な軍事行動が始まりかねない。それが歴史の教訓であろう。結局、正義の戦争の見張り番となることで、無意味な被害者を生みださないことにつながる。(p.137)
                     まさに、アメリカで、War on Terrorが叫ばれた2001年の911のころ、アメリカという近代国家も、大概は能天気なカリフォルニア人も集団ヒステリー状態であった。2002年にカリフォルニアで1年過ごしたのだが、そこで、在外研究者対象としたセキュリティ関係の講習会で、2001年には、ロサンゼルスでもパスポートを持っていないのと、発音がおかしいだけで警察に通報され、コーカシア系(白人)でブロンドの北欧人の留学生がパスポート不所持で逮捕されたというような話を聞いた。普段から外国からの観光客の覆いロスアンゼルスでもそんな感じだというのだから、もうこれは集団ヒステリー以外の何物でもない。2002年から2003年もまだそのヒステリーの残滓は残っていた。

                     以前にも触れたが、小ブッシュ政権は、イラク戦争を始めるにあたって、十字軍(Crusader)という用語を使っている。その時のホワイトハウスのブッシュ元大統領の発言記録はこちら。まさに、十字軍的な聖戦に流れてしまっていた感じがある。カリフォルニアの現地校の熱心なキリスト者の先生と仲良しになったのだが、その先生によると、キリスト教的な観点から平和を維持すべきだと思っていたが、学校の先生用ラウンジで戦争の是非についてすら話すことができない状態であった、と言っておられた。

                     カリフォルニアにいた頃通っていた、割とリベラルな教会でも、元軍人が多かったこともあり、「イラクに行っている兵士のために祈ろう」とか、「我らが大統領は、日々神への祈りをもって政治決断をしている。こんな大統領のいるアメリカは素晴らしい」とかいう年長の信徒さんなんかもいて、普段の柔らかい物腰の皆さん方だったんで、「この人たちの頭の中は、こうなんだ」とちらっと驚いた記憶がある。

                    対話における他者理解について
                     個人的に重要だと思うのは、ヨーダーの対話の手法であるとされた「第1にエキュメニカルな対話を開くためである。ヨーダーは対話相手の論理と言語を用いて対話に臨んだ」という矢口論文の指摘である。

                     我々が他の宗教的背景を持つ人や他の宗教者の方々と対話するときに、国家総動員法における一体化を目指したエキュメニカルではなく、多様性と他者を尊重しながらの一致点tの相違点を求めるようなエキュメニカルを目指すものとしてのヨーダーのような対話の技法を持っているだろうか、という点である。つまり、相手の論理と言語を理解して、自分自身で消化した上で対話というか護教的な対話に臨んでいるか、弁証しているか、と言われたら非常に心もとないのではないか。自分の論理を自分の言葉で振り回し、「これが真理であるぞよ、恐れ入れ、聞く耳もないものも聞け」とやっていることは、ないだろうか。

                     それこそ、情報の非対称性(話している相手が話者の主題が十分理解できていない、そのことに関する情報が十分ない状態)を悪用して、対抗できない人たちに、無理やり自分が福音であると思い込んでいるものを無理やり他者に突っ込んでないだろうか。それは、どうもヨーダーの方法論ではないようだ。現代のポストモダンの世界において、このようなヨーダーの対話の技法、対話のアルテは重要なのではないか。それは、他者の意図と意味をくみ取るという、傾聴の精神にもつながるように思うのだけどなぁ。

                    次回、最終回。大団円へと続く。




                     
                    評価:
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                    2014.09.28 Sunday

                    Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(10)

                    0
                        本日は例外的な緊急繰り上げ公開を致します。

                       さて、前回は、矢口論文から正義の戦争をどう考えるのかを引用して、それから思うことなどをいつものようにだらだらと、紹介した。なお、これまでの過去9回の連載記事は、以下の通り。

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
                       
                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(8) (09/24)

                      Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(9) (09/27)

                       今日は本シリーズのタイトルのもととなったメタ思考の問題を触れている、本書最後のネイション論文から引用して、メタ思考をすることの意義をネイション論文をもとにジョン・H・ヨーダーの主張から考えてみたい。

                      誤解されやすいヨーダー
                       ネイション論文では、ヨーダーの主張が多くのキリスト者の間で誤解されているということを指摘している。
                       既に述べたように、メノナイトを含む多くの人々がヨーダーを誤解した理由は、すでに主流となった考え方(トレルチやニーバー)の枠組みを通じて、ヨーダーを読んだことである。しかし、ヨーダーは枠組みそのものを変えようとした。問われている事柄への応答にヨーダーの主な関心があったのではない。問いそのものを書き換えたのである。(p.155)
                       これと似たようなことは、イエスが語られたことでも起きていたように思う。当時のユダヤ人、特に、律法学者たちは当時の旧約理解の枠組みの中でのみ、イエスの言動を理解しようとし、イエスが神としてこの地を歩んだことで、その枠組み自体が変わったことを告げようとしたことに気づかず、イエスがおかしいと批判しすぎたことと似ているかもしれない。Meta思考ができない人は、Meta思考ができないがゆえに、従来の枠組みにしがみつき、従来の枠組みのみで、自己定義をしたり、自己の行動をするのではないだろうか。その意味で、Meta思考の結果出てきたものは、通常の人には理解できないものなのだろうと思う。つまり預言者的役割を持つ人には、どうも非常に高いコミュニケーション能力が求められるのかもしれない。

                      重要な「神の国」=「キリストの支配」

                       ヨーダーの「終末論なしの平和?」という論文の中で、ヨーダーの議論の重要なポイントとして、ネイション論文では、次のように指摘している。
                       わざわざ、字体を変えて〔英語では大文字〕引き立たせて書かれた「キリストの支配」という句を読み飛ばしてはならない。この「キリストの支配」という句はその書物の中心的な主題であり、同時に聖書が示す概念であることを忘れてはならない。それはまず教会の現実の中でなじみ深い概念だ。教会は、キリストの支配に対して「はい」と言った人の体である。(中略)新約聖書に従えば、歴史の中心的意味を担うのは ー帝国や国家ではなくー 教会である。(中略)聖書的概念として、教会はポリス、即ち政治的存在であることを私たちは理解しておく必要がある。(中略)教会は、社会に対して証する社会的存在であるからだ。
                       このような事柄が注目されることはまれである。教会それ自体で社会的現実である、というヨーダーの主張を軽く扱ってはならない。忠実な弟子としてのあり方を通して、教会は現実社会の中で愛がどのようなものかを示すとヨーダーは述べている。この福音に対する証が不十分であったとしても、悔い改め、信仰、聖霊の力によってその証は可能となる。教会が歴史の意味の確信を担うのだから、最も大切な政治的な目標は、現実の生活を通してキリストの到来を宣言する教会が存在すること ー忠実にイエス・キリストに服従することー となる。(p.158-159)
                       このキリストの支配ということは、神の国理解と深くかかわる。多くの人は、神の国というと天国のこととか、将来の死後の世界を想定するかもしれないが、神の国とは、新約聖書を丁寧に読むならば、決して将来の天国のことではなく、この地で実現した現実の神のこの世への関与であり、キリストの愛した教会(キリスト者から形成される存在)に満ち満ちていることなのだ。教会という建物や聖堂は、物理的空間において、このキリストの愛した教会を収容する建物である。そこは、本質の一部を表すが、一部に過ぎないのではないか。だからと言って軽んじていいものではないが、あまりにそれを尊いものとすることは、一種の偶像崇拝に近いものがあるのではないか、とも思う。


                      教会(エクレシア)は、建物ではないかも

                       教会堂の建物よりも、人あるいはキリスト者の集合体としての「教会」を通して働かれる神が尊いものであり、聖なるものであるとおもうのだが、ちがうだろうか。そして、神が人間に対して示したもうた愛を示すキリストに従うものの集団としての方が、儀式の場、神の栄光が表れる建物としてよりも重要だと思うのだが違うかなぁ。

                       そもそも、ナザレのイエスは、「人の子には枕するところもない」と自らを言い給いし方であるし、また、パウロにしても、シナゴーグや教会堂ばかりで礼拝していたわけではなく、町はずれの屋外で礼拝したり、他人の家の中で聖餐式を行っていたのではなかったのかなぁ、と思う。現在のような教会でばかり礼拝したり、聖餐を行っていたりしたわけではない。

                       しかし、だからと言って、現在の教会堂や聖堂を聖なるとすることに異論があるわけではない。それは確かに聖なるものであるが、しかし、長老たちは天の国が完全に実現した時に、神から与えられたもうた冠を自ら投げ出すほど、将来の聖性は、現在の地上の聖性とは比較にならないほどのものではないか、と思う。

                      二元論的な理解のおかしさ
                       本連載の最後として、孫引きになるが、ヨーダーの発言をネイション論文から拾っておきたい。
                       信仰的だが不適切な二元論と、適切だが不信仰な妥協、この二つのいずれかを選ばなくてはならないという観念から解放されなければならない。それは、世とのかかわり方倫理主義との関係を断ち切ることによってなされる。受肉は世とかかわることを示している。イエスご自身は、軍事的占領と地下組織の戦争という政治的な大混乱の中に生きた―ただし罪は犯さなかったが。世とのかかわり妥協と同じとみなすこと、そして罪が人間の本質的な要素であるとして、妥協と同定することは、キリスト論的には正統と言えないばかりでなく、実のある考えを生み出さない。そのような考えでは、戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになるからである。(The Christian Witness to the State pp.57-58)(p.163)(下線はジョン・H・ヨーダーの神学では傍線)
                       現在のキリスト教の多くの世界で、問題を考えるときに、「信仰的だが不適切な二元論と、適切だが不信仰な妥協、この二つのいずれかを選ばなくてはならないという観念」から現実を考えるのに慣れきってしまっていて、創造的に考えることができないのではないか。神が人に与え給うた創造性を十分発揮できていないキリスト者とかキリスト教会は多いのではないか。また、「そのような(世とのかかわりを妥協とみなすような)考えでは、戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになるからである。」ということは、非常に重要な指摘をしていると思う。

                      いのフェスで考えてみた

                       先日参加したいのフェスについて、教会堂でアイドルが歌ったり、怪獣ショーが行われたりすることに憤慨する向きもおられたようであるが、それは、ある面、ヨーダーの言をかりれば、「戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになる」といえるのではないだろうか。あえて、人間が設定してきた規則ギリギリのところを乗り越え、普段教会に来ない人たち、そのことに触れないままその生を終えるかもしれない人たちにも、キリストの存在と愛があの日の早稲田奉仕園では示されたとは考えられないだろうか。あなた方にも、そして、このふがいないミーちゃんはーちゃんにも、キリストはその愛を豊かに示されたのと同様に、あの日バンパイアをスコットホールで自称した少女にも、「戻って来い、我が子よ」と我らに言い給うイエスの存在が示されたとは考え得ないだろうか。まぁ、十字架の前でも消えなかったので、バンパイアであることは彼女が生きようとしている物語、または、彼女が演じることを求められていると考えている物語のキャラクター設定であることがよくわかるが。

                       罪とは、恐らく人間が拵え、「絶対的だと考えている規則に違反すること」ではなく、「神の生における不在である」ことを考えるとき、そのことの解決策として、ナザレのイエスが「戻って来い、我が子よ」述べたもうたことが伝えられるのなら、それは一つのありようではないだろうか。

                       バンパイアを自称する少女の理解のなさを責めるのもよいが、しかし、ふがいない我らも、あの少女とどの程度その理解に違いがあるのだろうか。ひょっとしたら、あまり違わないかもしれないことを思い出したい。

                       そしてわれらが忘れてはならないのは、イエスが公生涯を始められるにあたって、高らかに宣言された際の次の聖書の言葉であろう。
                       この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイ 4:17 口語訳聖書)
                       この宣言は、「終末である天国行きが近いから、悔い改めが必要」なのではなくて、「天国、すなわち、神の支配が満ちている天の支配が、天の支配の側から我らに近づき給うが故に、すなわち、我らがそこに招かれているがゆえに、我らは、神の御座に近づくという本来的な悔い改めをする必要がある」と理解できるのではないか。悔い改めとは、自分の過去を反省したり、自己の不甲斐なさを認めるといったようなmそんな薄っぺらいものではないはずではないか、我らが神の前に立ち戻ることこそ、聖書の言う悔い改め(すなわち、天、即ち、神の御座への立ち返り)なのではないだろうか。教会という建物への集いではなく、天の御座の前への立ち返りをすべての人に求めておられるのが、神なのではないかなぁ。

                       アイドルが聖堂で歌うのがけしからんというなら、ウィ●アム・フ▼ンク●ン・グ▼ハムが甲子園で、大人数集めて決起集会もどきをするなど、それこそ、高校球児や熱烈な阪神ファンにとって神聖なる甲子園に対する冒涜というそしりを受けなければならないかもしれない。個人的に野球はどうでもいい話の一つであるし、グラハム一族はミーちゃんはーちゃんにとって完全に賞味期限切れなので、いずれにせよ、どうでもいい話であるが。

                      勝利主義時代の伝道の誤り

                       最後に、ミーちゃんはーちゃんの大嫌いな「勝利主義の信仰」について(世間的な勝利主義者であることを求める人々はかなわないと思うけれども、愛してはいる。しかし、イエスの教えを、聖書の理解を勝利主義で塗りつぶす行為は、聖書の主張からはずれていると思う)、ヨーダー先生の表現を引用して終わりたい。あいかわらずヨーダー先生手厳しい。
                       勝利主義の時代の間違いは、イエスとのつながりを捨てたことではなく、自らの力を誇り隣人を軽んじることでイエスを否定したことにあったといえよう。(中略)その誤りは、この世にキリスト教を伝えたことにあったのではなく、伝えた内容が十分にキリストを証ししていなかったことになる。キリスト教世界が熱意と信用を喪失してしまったことの対処は、イエスについてより少なく、宗教について多く語ることではない。むしろ、その逆である。(The Disavowal of Constantine, in The Royal Priesthood, p.257.)(p.181)
                       ヨーダー先生いわく、勝利主義の問題は、「自らの力を誇り隣人を軽んじることでイエスを否定した」とまで言っておられる。これはその通りだと思う。神がついている自らには力があり、隣人に神から与えたもうたもの(発展途上国の自然や資源、農産物など)を奪い去ることも神の計画だ、と聖書の主張を誤って読み込んでしまっているのだ。イエスは旧約聖書の2大概念を整理されて話された時、(マタ  22:37)『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』(口語訳聖書)といわれ、それと同時に、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』とも仰せられた方なのではないかと思う。

                       その意味で、ミーちゃんはーちゃん自身、伝えようとしている内容が「十分にキリストを証ししていなかったこと」がなかったかどうか、「十分にキリストを証しするよう」に語っているか、生きているかは自ら問われなければいけないとは思っている。そして、教会の中心であるナザレのイエスが、何を語ったのか、をきちんと聖書の中から、パウロも旧約聖書の中から当時のギリシア人、ローマ人にイエスが神であることを語ったように、ミーちゃんはーちゃんもまた、今おかれた場所で、今あるメディアでナザレのイエスが神であることを伝えていきたい、とこの部分を読みながら思った。

                       以上で、この長期連載を終わりたい。お付き合いいただいた皆様に、こころから御礼を申し上げる。長くて、だらだらしていて、スマソ。



                      評価:
                      価格: ¥3,024
                      ショップ: 楽天ブックス
                      コメント:高いけどいいよ。ヨーダーと共に読むことをお勧めする。訳文もよい。

                      評価:
                      ポール マーシャル
                      いのちのことば社
                      ---
                      コメント:絶賛である。神の国に生きるとはどのようなことかを示す名著。

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