2014.08.27 Wednesday

日曜学校におちいさい皆さんが減った理由

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      お知り合いの敬愛するS先生が、おちいさい皆さんが教会学校にいなくなったのは、牧師の責任か、教会学校の教師の責任か、という面白い問題提起をしておられたので、少し調べてみた結果をちょこっと載せておこうかと。Deepなヨーダーの話は、マニアックすぎて受けが悪いみたいなので、ここらで、ちょっと一休みしながら、箸休めとしたい。

     ヨーダー、いいですよ。なんで、平和を大事にされるキリスト者の方が、「ボンフェファーやバルメン宣言ばかりやるのか?」と思う。ツツ大司教とか、ヨーダーも、ご一緒にしてくれるといいのにぃ、と思ってはいる。

    日曜学校におちいさい皆さんがいない

     では、本論。

     日曜学校におちいさい方々(子供)のいる教会は多いだろう。でも、全くいない教会もあるし、そもそも、それをやめてしまった教会もあると聞く。

     ところで、それはさておき、日曜学校に子供が減った理由は、まず、子供の絶対数が少ないというのはあるだろう。全国の統計であるので、本当は地方ごと、都道府県ごと市町村ごとに議論しないとまずいのであるが、それは皆さんへの宿題ってことで。

     こういうの書くと、「必ず不信仰だ」、「お前に信仰が足らん」とかいう人が出てきそうな気がするけど、まぁ、そのご批判は甘んじてお受けしよう。しかし、現実を知らず「祈ればなんとか」ってのもどうかとは思うけど。現実を見据えた上で、祈りをもって進むことが大事ではないか、と。まぁ、

     以下のような分析は、CS関係の図書で、すでに分析が乗っていて、対策が打たれているとは思うのだが。

    政府の学校統計から

     政府統計の総合窓口っていう、政府統計がタダでダウンロードできるサイトから拾った、全国の小学生の数ってでエクセルでちゃちゃっと作ってみたのが、以下の図1なのだなぁ。出典は、文部科学省の全国学校基本調査がソースらしい。皆さん、これくらいのことは知ってますよね。
    Fig1
                 図1 小学生数の経年推移

    減り続けている小学生人口

     1975年(昭和50年)をまぁ、基準にとりたい。ミーちゃんはーちゃんが小学校に入学するかしないかのころである。ベビーブーマー世代がひと段落して、また、児童の数が増え始めた上がりはじめのころなのである。特撮で言うと、仮面ライダーとかミラーマンあったかなぁ。アニメで言うとタイムボカンとか、名作天才バカボンとか、微妙なラ・セーヌの星とかが流行っていたころである。ラ・セーヌの星は、某地方局の夕方の再放送で高校生の頃にキッチュなアニメとして、見た。


             ラ・セーヌの星のオープニング

     児童数が、1975年には1036万人ちょいであるから、結構いたのだ。ピークが、1981年1200万人ちょっと切るくらいであるから、そこそこのボリュームがあったとみていい。なお、この世代は、バブリーな先輩たちの就職活動を横目で見ながら、自らは就職氷河期に直面した団塊ジュニアの皆さんである。就職先が少ない、人数多いと、ろくでもない状況だったのを覚えている。

     ところで、一時期は、1200万ほどいた小学生が、2014年には、660万人ちょいだから、ざっと、おおむね半分より心持ほど少ない数の児童数が小学校から、いなくなったとみていいであろう。

     そもそも、子供が減っているのだ。小学校に行くと空き教室がガラガラ、デイケアセンターになったり生涯学習センターなぞに施設転用されたり、地域の集会所に転用されたり、団地付近の小学校だと、割と活躍期間が短いまま(たとえば、10年未満)、閉校の憂き目にあった小学校も多い。

    変わる生活時間と行動
     また、生活時間も大きく変わっている。近くの市立図書館に行って、NHKの放送文化研究所が、経年的に実施している生活時間調査の統計書から、1975年と2010年のデータをぽちぽちって打って作ったのが以下の図2から図5である。

    日曜日のテレビ番組視聴の時間帯の変化

    Fig2
    図1 小学生(10歳以上)が日曜日の特定時間にテレビを見ている比率


     まず、この図を見ていると、1975年9時台に、テレビ見ていた層は10%くらいであるが、2010年調査では、30%前後ある。つまり、1975年には、小学生10人に1人はテレビを見ていたが、今では、小学生10人のうち、3人のテレビにかじりつきである。9時といえば、日曜学校をやっている教会も多いのではないかなぁ。

     その時間帯は、実はお子ちゃまにとっての番組(やや低学年向きの戦隊ものなどやプリンセスもの)の放送がある時間帯ではある。おもちゃメーカー、学習机メーカー、文具メーカーがこぞって商品化してくれるので、じいさんばあさんの財布やら、パパママの財布から、これらのメーカーさんとキャラクターの販売権持っている会社に献金がささげられることになる。

     意外だったのは、小学生にとっての日曜日のテレビゴールデンタイムは、ちびまる子ちゃんやサザエさんの時間帯ではなく、7時台に移っているという現象である。「鉄腕Dash村」とか、「さんまのからくりテレビ」なんかの放映時間帯である。小学生から見放された「ちびまる子ちゃん」と「サザエさん」なのだなぁ。ふーん。なお、昔関西では、この時間帯カルピス劇場の時間帯で、「フランダースの犬」とか、「アルプスの少女ハイジ」なんかのアニメやっていた。パヤオ氏が噛んでたような気がする。



    こちらは変顔ハイジ
     (おじいさんが、ののちゃん元県議に似ているような気も…)


     もう一つ意外だったのは、、日曜日の昼間のテレビ見ている率の低さである。日曜日の昼といえば、その昔「クイズドレミふぁどん」など、結構子供番組っぽいのをやっていたが、今、テレビを日曜日の昼間に見ているのは、5%程度である。この時間帯、ミーちゃんはーちゃんは、教会に張り付いているので、どんな番組やっているのかはよく知らない。しかし、家族そろってご飯食べながら家族で楽しめる番組を見るということが成立しなくなっていることはわかる。

    レジャー【外行き活動】の変化


     Fig3
    図3 小学生が日曜日にある時間帯にレジャーに行っている比率

     この図を見ていると、ほぼ傾向としては、大きく変化していないが、9時台から10時台は、1975年には、小学生にとってレジャー時間としているものが、40%を超えていたのに、2010年では、30%をやや超える程度である。日曜学校のゴールデンタイムは、レジャータイムのピークの一つであるものの、その時間は、別の活動が入っているということだろう。じゃ、それ何かって考えてみたい。

     その前に一言触れておこう。1975年に比べ、18時から19時台がレジャータイムになっている小学生の割合が増えている。日曜日の夕方が、レジャータイムになった関係で、18時から19時に、日曜日の子供がテレビを見る比率が減った分、レジャーに費やしているようである。その意味で、夕方の楽しみ方をテレビではなくて、外で楽しむ人々が増えたってことだろう。

    日曜日の午前中、塾で勉強?

    Fig5
    図4 日曜日の時間帯別の学校等で過ごす小学生の比率

     恐らく、午前中のレジャーが減った時間9時から11時の時間帯、それは、自宅外での学習時間にあてられているようである。縦軸のスケールが違うので注意が必要であるが、9時から11時にかけて、学校にいるか塾にいるかしているようなのである。15−18%の小学生が、塾なのか学校なのか、よくわからないが、日曜日の朝に勉強しているか、学校でやっている学習活動(体育クラブも含まれるかも)に行っているようなのだ。恐らく塾だと思うが。日曜学校の時間帯、子供はテレビにとられ、塾にとられているのだ。

    日曜日の昼からもスポーツしているのかな?

    Fig4 
    図5 日曜日の特定時間帯にスポーツをしている小学生の比率(レジャーに含まれる)


     この図5を見る限り、日曜日の午後はスポーツタイムになっている。昼過ぎから夕方16時くらいまでが、スポーツしている感じだ。各地にスポーツ少年団とやらができたり、リトルリーグとか、そこでサッカーやったり、野球やったりと、しているみたいだ。ミーちゃんはーちゃんが教会から自宅に戻るために電車に乗る5時ちょっと前に、泥だらけのサッカー少年団のお子さん方と電車でよく乗り合わせるが、彼らは練習がえりだったり、試合がえりだったりするのだろう。

    日曜学校なんか出る暇ないじゃん

     このデータをいじってみて、本当に思った。現代のわが国では、日曜学校なんか行く暇、日曜日には、小学生にはないのである。午前は、ちょっとだけテレビ、それが終わったら、塾、そして、塾終わったらスポーツ少年団、この子たちいつ休むんだろう、と真剣に思っちゃう。小学生、いと哀れなりである。

     日曜日は、安息日である。ボケっとする日ではなく、神との平和を確認する日であり、神の安息に思いをめぐらし、神のことを考える日なのに、それすら許されぬとは。なんという現実、なんという悲惨。

     小学生のころから、サラリーマンのおっさんみたいな生活して、サラリーマンのおっさんになって、何が面白い人生なのだろうか。真面目に考え込んでしまいそうになった。

    日曜学校をこれまでの形で維持するのは

    現代の日本では、
    困難かも

     こうやって統計データ見てみると、もはや、日曜学校という教会にとって日曜日が大事だから、日曜日に日曜学校という教会の理念だけでは、子供たちへの伝道はどんどん難しくなるし、日曜学校に子供がいない、それは、牧師のせいだとか、日曜学校教師のせいだとかは言いにくい、と思うのだが。

     日曜学校は、定かではないが、炭鉱労働者でもあった子供たちの唯一休養日の日曜日に、読み書きを聖書を通じて教えるという教会の一種の貧困者への対策も一部にあったかのように記憶している。英語の文献でちらっと眼の端をかすったはずなんだが、どれだったか、忘れた。違ってたらスマソ。

     そして、これが英国の初等教育に関する公教育制度へと1800年代につながっていったはずなんだが…。教職課程途中であきらめたので、この辺の知識がない。いずれにせよ、日本での初等公教育の開始時期と英国での初等公教育の開始時期にそれほど大きな時代的な開きがあるわけではないことだけは言及しておく。

    教会学校のそもそもの目的は何だろうか

     教会学校のそもそもの目的とは何か。それは、子供たちに神を紹介し、神が我らに与え給いし、神のことばを手渡していくこと、トラディシオしていくこと、残していくこと、聖書の言葉に力があると思いそれを残すことではないだろうか。このブログ記事の最後の本ではないが、聖書の言葉を「天の国の種」として、子供たちに、どんな実が成るか、花を咲かせるかわからずに、渡していくことだろう。

     芽は蒔いてすぐ出るとも限らない。5年や10年で出ず、40年、60年たって出る種もあるのだ。大賀ハスのように2000年たって出るやつも植物界にはいる。そんな感じで、老人ホームで、「主 我を愛す」を嬉々としてお歌いになる80過ぎのご老人もおられるのだ。

     日曜日がだめなら、別の日もあるのではないか。とはいえ、今度は、CS教師が足らんかも知らんけど。なかなか難しいけど、なんかやりたいなぁ。
     
    子どもが子供を呼ぶ日曜学校

     子どもは、自分がいいと思うと、遠慮会釈なく自慢する。それが子供だし、子供らしいと思う。つまり、子どもが子供を呼ぶのが塾の世界だったり日曜学校の世界だったり、妖怪ウォッチの世界だったり、ポケモンカードの世界だったり、仮面ライダーカード(古ッ。お許しあれ)の世界だったりするのだ。しかし、そもそも、子供がいなければ、子供は集まらない。地域に根差した子供がいなければ、教会学校は成り立たないような気がする。

     個人的には、日曜学校時代、先生一人、生徒一人という究極の日曜学校教育をミーちゃんはーちゃんは受けさせてもらった。それはそれでありがたかったが、つまらなくもあった。同世代の友達、だれもいないんだもの。これって、結構子供にしてみたら、つらいと思うよ。

    教会に同世代のいない
    教会内おひとり様クリスチャン

     実は、ミーちゃんはーちゃんにとって、教会関係で同世代のお仲間とか、ちょろっと話しできる相手とか、相談できる相手が一番増えたのは、FBやって、同世代の信徒さんの友達やら、かまってくれる牧師さんができてからなのだ。それも、自分より若い信徒さんから紹介してもらってからという実に残念な状況。

     こういう、教会にいるけど、教会では同世代では、友達のいない、教会同世代おひとり様クリスチャンって、地方部には案外多いんじゃないかなぁ。

     そういう同世代のいないおひとり様クリスチャンをこれから増やしたいのか、ってことも含めて、30年とか40年単位の視点に立ったことを、考えたいよねぇ。G.G(グランド・ジェネレーションらしいけど、要するにジジイ)になりつつあるものとしては、それを感じるなぁ。

     それでは皆さん、ごきげんよう。


     


    評価:
    ---
    キリスト新聞社
    ¥ 1,620
    (2013-05-16)
    コメント:面白いよ。是のバックナンバーに、日曜学校を考える篇があるはず。

    評価:
    ---
    日本キリスト教書販売
    ¥ 1,620
    (2013-08-22)
    コメント:韓国中国特集ですねぇ。面白かったよ。

    評価:
    バーバラ・ブラウン テイラー
    キリスト新聞社
    ¥ 2,376
    (2014-03)
    コメント:絶賛、推奨中。

    2014.09.01 Monday

    教会に中学生の皆さんが減ったかもしれない理由

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       お知り合いのS先生からの問題提起というか、議論のきっかけを頂いたので、

      日曜学校におちいさい皆さんが減った理由

      という記事を書いて、NHK の国民生活時間調査をもとに小学生(高学年のみ)の1975年と2010年の間の比較を行って、そのデータからつらつらと思いつくまま書いてみた。そうしたら、敬愛する塩屋のK先生からご紹介を受けたみたいで、一気に日曜学校におちいさい皆さんが減った理由のビューワーさんが増加し、先月末の記事にもかかわらず8月のトップ記事に。また、この記事を書いている時点で、109もいいね!を頂戴し、SNSの拡散パワーに驚いている。SNSの拡散パワーは、知ってはいるつもりであったが。

      調子くれて中学生もやってみました

       教会でユース担当をしている知人が、面白い、って言ってくれたので、中学生版をしてみようか、という話になったので、ちょっとしてみようと思って、データを取りに行ってみたら、意外と面白い話が分かったのでご紹介しようかと。

      前回は、百分率としてご紹介したが、今回は、データ入力の手間の関係から1000分率に変更してご紹介する。要するに、表示されている数値を10で割ると百分率になるので、その点だけご了解ください。

      中学生のテレビ視聴の変化


       中学生のテレビの視聴が、1975年から2010年でどう変わったかを考えてみたい。
      Fig5JHS
      図1 テレビとネットの視聴状況の変化

       この図を見ると、朝9時台でのテレビの視聴が10%近く増加しており、従来ピークであると思われた6時代が7%ちょっと減少している。また、前回の記事でも指摘したように、正午前後のテレビ視聴者数が減っており、家族で日曜日のお昼間にテレビを見るという習慣は小学生ほどではないものの、かなり減っている。

       テレビそのものの視聴に関しては、日曜日の夕方6時台での視聴率は、1975年にも40%程度であったが、2010年でもテレビで35%程度と高止まりしており、夕方7時ごろは、2010年でもテレビ視聴しているものの比率が40%を超えている。その意味で、ファミリータイムとしての午後7時から8時台がテレビをみんなで見ているという状況がうかがい知れる。この図からは、夕方6時ごろから夜9時台までの中学生のテレビの視聴率が高いことがわかる。

       なお、ネットを見ている中学生のピークは日曜日の午後5時ごろの10%となっている。マイノリティではあるものの、一定のシェアを占めるメディアになっていることがわかる。

       テレビの代替減少として、ネットを見たときに、中学生の1975年のテレビ視聴率と2010年のテレビとネットの視聴率を合計したもので、図を作ったものが以下の図2である。

      Fig6JHS
      図2 テレビ(ネットを含む)を視聴している中学生の比率

       この図2を見る限り、朝9時に25%程度の中学生がテレビないしネットを見ており、朝9時頃がテレビやネットを触っている午前中のピークとなっている。この図からは、さらに午前中のテレビ等の視聴時間帯の前倒しと、ピークのボリュームが落ちていることがわかる。また、ネットとテレビを合わせても、日曜日の正午前後のこれらの視聴率は低下しており、テレビ等の視聴に関する生活行動の変化がこの35年の間に発生したことが推測される。

       図1と図2の比較でも、テレビとインターネットを利用しているものの比率を比べた場合、昼間に落ち込み、午後3時台の上昇がみられるものの時間的傾向は非常に類似している。テレビ視聴の1975年に比べての2010年の夕方の落ち込みの傾向は顕著にみられているものの、夜9時台と10時台の視聴率の大きさは1975年と大きく異なっている。

      日曜日の昼からが中学生のレジャータイム


      Fig3JHS
      図3 レジャーを過ごしている中学生の比率

       レジャーを過ごす生徒の比率を見てみると、午前中では1975年と1990年とでほぼ変わってはいない。しかし、正午ごろからレジャー(外出)して過ごす生徒の比率が、15%から20%程度増加しており、とりわけ、日曜日の午後9時でも、外で過ごす生徒の比率が15%強とかなりの比率になっており、夜型生活への移行が見られる。前回の小学生のデータから明らかになった傾向よりも、この夜行型生徒の比率の増大は、より顕著である。

      日曜日と中学生のスポーツ
      夜型化する中学生


      Fig4JHS
      図3 スポーツで過ごしている中学生の比率

       まず、この図について注意喚起しておきたい。縦軸は百分率(%)ではなく、千分率(‰)であり、%換算にすると、ピーク値でも10%未満であり、クラブの最盛期であっても日曜日の活動がさほど増えてはいないことがわかる。この背景には、1975は、学校は週6日制(土曜日午後までが中心)がわずかながらも影響しているかもしれない。着目すべきは、日曜日の午後の減少で、5%ほどであるというものの、日曜日の午後にスポーツしている中学生の比率が下がっている点である。

       あともう一つ、19時から21時の時間帯の増加であるとは言うものの、その増加である。この背景には夜間コートや温水プール等のスポーツ施設の整備が影響しているものと思われる。

      日曜日の自宅外学習の急伸

       次に自宅外学習のグラフ図4を見てみよう。
      Fig1JHS
      図4 授業・学校内活動をする中学生の比率

       この図4から見る限り、1975年には、ピーク時でも5%に達しなかった自宅外学習者の比率は、2010年には、ピーク時、日曜日の午前9時から11時台で30%を超えており、恐らく、この時間帯、塾かクラブという形で学校に行っているものと思われる。

       同調査では、どこにいるのかが主な関心であるため、塾なのか、図書館なのか、学校内での活動(クラブなのか)は判然としないが、現状を見る限り、塾かクラブで学校等に通っているものと思われる。日曜日の午後3時でも15%以上の中学生が塾などで勉強しているか、学校内にいるかであることがこの図からわかる。

       ここではややこしいのと統計の取り方が変わった可能性があるので、図示はしないが、1965年には、自宅外で学習する生徒の比率が午前から10%を超えており、午後4時に13.1%となり、ピークを迎える。恐らく1965年当時は、住宅事情等の関係から、図書館等の公共施設の利用が模索され、あるいは友達の家で勉強を一緒にするというスタイルも一般的であったのであろう。このあたり、サザエさんやドラえもんのテレビを見ていると、実は、こういう表現がちらちら出てくるので、そのような時代の反映であり、あのあたりのアニメの設定が1965年から1970年あたりにありそうなことも、このあたりの統計と重ね合わせると面白い。
       

      Fig5
      図5 学校で授業などを受けている小学生の比率(縦軸は百分率%)

       図5はほかの図とは、軸のスケールが違うことと、とりわけ縦軸の数値が百分率表示であることに関して留意が必要であるが、塾などの日曜講習や学校でのクラブの参加者が日曜日の午前中、小学生でも15%を超えているのと同様、中学生は同比率で行けば、30%を超えている。その意味で、日曜日の午前中は、中学生を塾で勉強するか、クラブに参加するか、という行為が中学生のかなりの部分に相対している感じがする。


      Fig2JHS
      図6 日曜日の中学生での学校外などで学習者の比率

       この図を見て驚いたのだ。2010年に自宅で勉強する中学生の数が日曜の午前10時で約15%、日曜日の午後12-17時で15%前後、日曜日の21時台で17%強減少しており、学校外(おそらく自宅)で学習する中学生の比率が非常に下がっている。恐らく、これは、週5日制の定着とともに、土曜日にシフトがある為ではないかと思われる。

      日曜日の中学生の睡眠時間

       つぎの図7には、中学生の時間帯ごとの睡眠の変化をグラフに示したものである。これを見る限り、6時代から起きてごそごそしている中学生が1975年より増えている。DVD BlueRayという録画機器の普及に合わせ、深夜帯アニメなどの録画されたものを見ている可能性があるものと思われる。しかし、10時から11時にかけて睡眠中の中学生も増えている半面、21時以降睡眠してないものの比率も、1975年よりは多い。

       Fig7JHS 
      図7 中学生の日曜日の睡眠時間

       とはいうものの、1975年より大きく変わったのは、早朝、夜の睡眠以外の活動をしているものの比率の増加である。

      データから裏付けた変容のまとめ

       このように、NHK国民生活時間調査の1975年と2010年調査を利用した比較でみると、この35年余りの間に、中学生の多忙化(学校(クラブを含む)なのか塾なのかはよくわからないが、急速に中学生が日曜日の午前中に拘束されている中学生の比率が高いことがわかる。

       この学校あるいは塾での日曜日の午前、午後の早い時間帯での学校等で学習しているものの比率の高さは、図3にも表れており、中学生のレジャーの時間帯が基本的には、日曜日の午後の3時から5時周辺であることであることにも反映されている。

       レジャー全体について、中学生と小学生を比較した場合、レジャー全体については時間帯別の活動状況は、この35年で小学生の日曜日のレジャー活動状況はさほど変わらないものの、中学生では、日曜の午後の活動構造が、大きく変わっていることがわかる。もともと自宅で学習していた、あるいはスポーツをしていた層の生徒が、レジャーに向かったことがあるのであろう。詳細な分析は土曜日の生活時間帯の変化を含めて、検討すべきであろうが、その部分は、諸賢にお譲りしたい。お近くの市立図書館かどこかで、データを参照されたい。

      中学生クラスを考える際のヒントもあるかな?

       教会にとって、中学校になると、塾とかクラブにとられるというのが、図3の午前中のレジャーをしている人の比率にも表れている。このような状況を考えると、ユースプログラムにとっての時間は日曜日の午後、それも遅めの時間ということになるかもしれない。

       現在、CS教師をしていないが、自派の夏季キャンプ等でCS担当させてもらったりする経験から言えば、小学生の時期は日曜学校にいるものの、中学生になると、夏でも学校行事などもあり、キャンプに来れない、1泊2日をとることが難しい、3年生になると受験で浮足立ってしまって、参加できない、なんてこともある。結構、中学生は、時間を学校とか塾とかに拘束されている感じがあるのは、なんとなくわかるが、中学生の行動が、おおむねこうなっていそうだということで初めて認識した部分、特に、レジャーの時間帯の変化は、今回やってみて、へぇ〜〜〜〜と思うことが多かった。

      キリスト者として思うこと

       日曜日は聖なる日であって、学校行事を入れるべきでないというのは、原理原則を考えれば、キリスト者としてそうは思うが、学校の方や塾の方では、それを恐らくは理解したり、対応してくれないだろう。社会の多数派はそうは思っておられないからである。それを変えてくれ、といったところでも、無視されるだけであろう。

      社会の変化の対応の一環のなかで
      中学生伝道を考える
       もちろん、原理原則に従って、日曜日の朝こそ、ユースも、っていう考え方もあるし、それはそれで重要だと思うが、もし、神のことばをより広い中学生にも続けて残していきたい、というのであれば、日曜日の午後の時間帯、あるいは、日曜日の昼時、っていうのは意外と重要かもしれない。

       そのような状況を考えれば、実にユース伝道というのは時間設定も難しいし、ユースの皆さんやティーネイジャーの皆さんへの伝道の内容や工夫ってのを、それぞれの教会の実情やら、その教会が置かれた環境の中で、何をしようとするのかを牧師先生だけでなく、多くの信徒が参加できるように、そういう環境の中で、考えるのがいいのではないかなぁ、と思う。

       次回や次々回は、人気がなくても、個人的に面白いと思っているヨーダーの紹介を続ける。そののち、高校生編や大学生編もやってみたい。20代編とかも考えてもいいかなぁ、と思う。






       

      2014.09.06 Saturday

      続 教会に中学生の皆さんが減ったかもしれない理由 (2010年平日土曜編)

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          FB上のお友達のS先生から、中学生は平日も忙しいのでは、とか、M先生から、土曜日は?とかいうコメントいただいたので、ついでにやってみました。ただ、1975年はデータ疲労のめんどいので省略。今時点の中学生さんの動きを追ってみました。

         今回は%表示です。

        中学生の平日の学習状況

        まず平日から
        平日学習
        図1 平日の場所別時間別学習者比率

         図1は平日の中学生の時間帯別の学習場所を示したものである。この図からは、中学生の学校での15時くらいまで拘束されていて、17時くらいから学校での時間を過ごすものの比率と自宅等で時間を過ごすものの比率が逆転する。18時以降は、塾ないし自宅で学習するものの比率が急速に向上する。9時台が中学生の自宅ないし塾での勉強時間のピークとなっている。18時以降20%を超えていて、9時ころピークを迎え40%の中学生が、塾ないし自宅で勉強していることとなる。まぁ、塾だとは思うけど。

        土曜日の中学生の
        時間帯別場所別による学習状況

        土曜日学習
        図2 土曜日の場所別時間別学習者比率


         では、土曜日がどうなっているのかを示した図が、次の図2であり、自宅ないし自宅外で勉強しているものは、おおむね9時以降5%から13%程度の間で、時間的に変動している。

         しかし、この図を見ていて面白いのは、土曜日の朝でも中学生の40%ぐらいが学校にいるし、8時から16時くらいまで学校にいる生徒は20%を超えている。中学校の先生には、土曜日はない人が多いのだろう。せっかくの週休2日だというのに。

        中学生と雑誌、書籍などの
        文字系メディアの接触

        メディア

        図3 土曜日の中学生の新聞 雑誌、マンガ、本の時間帯別接触率


         新聞は、1%といっても、サンプルが83サンプルなので、一人見ているか見てないか、ですね。新聞、人気ないなぁ、
         雑誌マンガ本に至っては、三つまとまっても、83人中4〜5人が見ている程度、活字離れは、すでにマンガまで入れてもこの状態。中学生向けの児童書とかって発想もあるけど、もう、キリスト教関係では、さらに市場が小さいので、無理かもしれない状態。

        土曜日の中学生の
        テレビ・ネットの視聴状況

         じゃ、テレビやネットはどうよ、って話になりますよね。

        テレビ ネット

        図4 土曜日の中学生のテレビ、ネットの時間帯別接触率


         テレビは、午前7時くらいから10時くらいまで15%程度の視聴している中学生がいるが、午後からは5%程度で推移する。18時以降、急速に中学生でテレビ見ている生徒の比率が増加し、午後9時には、40%超の中学生は何らかのテレビを見ている。日曜日のピーク時間が19-21時であるのに比べ、土曜日は、21時台のみが鋭いピークを見せており、その意味で日曜日19-21時台が中学生の中での一定の視聴が期待できる時間となっていることがわかる。
         ネットについては、午後5時以降5%以上で推移しており、土曜の午後5時から23時あたりが、中学生にとって趣味でインターネットを触る時間のピークタイムとなっていることがわかる。この段階では、スマートフォンの普及時期なので、この5年間でどう変わったか、の調査が待たれる。

        レジャー活動全体について

        レジャー

        図5 土曜日に中学生でレジャーとして時間を過ごしているものの比率

         この図5を見ていると、土曜日にレジャーをしている生徒の比率は、ピーク時の14-17時でも35%程度しかない。前回の記事では、日曜日の午後4時ごろ45%以上であったから、土曜日の午後が、ユースにとってのゴールデンタイムというわけでもなさそうだ。

         しかし、現代の中学生って、すごく忙しいのね。土日の午前は学校で、レジャーができるのは、土曜の午後2時以降5時まで、日曜の午後2時以降5時ごろがピークって、結構厳しいよねぇ。現代人はテレビが欠かせないっていうけど、中学生がテレビ土曜日に見ているものの比率が多いのは、夕方6時以降10時までなので、こういうタイムスケジュールで行動している中学生伝統ってのは、それなりのものがあっても、中学生はそこに参加すらできないのかもしれない。




         

        2014.09.12 Friday

        続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

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          基本的なこの記事の出発点

           S先生という、ミーちゃんはーちゃんとネット上でインスパイアリングな指摘をくださって遊んでくださる奇特な先生からのインスパイアを受けて、現在の教会学校の開催時刻と子供たちの生活時間がミスマッチを起こしているかもしれない、という疑念をデータをもとに紹介したところ、是又、ときどき、ミーちゃんはーちゃんのブログを御紹介してくださっているNobu牧師というありがたい方から、

          時間だけやったら、あかんのちゃうん?
          子供の人間関係とかも大事なんちゃう?

          という至極まっとうなご意見をいただいたので、そのことについて、今日からしばらくは考えてみたいと思う。このブログは、こういう「べたな話題」もときには取り扱う。本来は、NTライトとか、ヨーダーとか扱っているのが個人的には幸せなのだが、あの手の記事は、ややこしいのであまり人気がないことも確か。

           一回の記事が長すぎる、ってご批判いただいたので、短め(それでも長い)にしてみる。それでも長い、というご批判はあろうが、分割するので、このシリーズは一大長編連載になる予定です。

          厳密なデータ解析の結果ではないけど
           なお、ミーちゃんはーちゃんのところでは、生徒さんの年齢層が余りいらっしゃらないので、とりあえずオンディマンド方式で日曜学校をミーちゃんはーちゃん以外の方にお願いしているので、以下の考察は、質問紙調査等のデータとその解析に基づかない一般論であることをまず、お断りしておく。一般論は、一般論であるので、その議論に属さない反例は多数存在することもご承知置きいただきたい。

          ソーシャルキャピタルの視点から

           Nobu先生ご指摘の、誰かに誘われて、という形での日曜学校、教会学校に参加するというのは、参加の動機としては非常に大きいものと思われる。これは、ほかの年齢層の人々でも結構多いのだろうと思う。なぜならば、人間はネットワークの中で生きる生物だからである。このことを指摘した研究に、『ソーシャル・キャピタル』による地域社会構造の分析をしたものに、ロバート・パットナム(2006)の『孤独なボウリング』がある。子供でも、子供の「生活の質」あるいはQOL(Quality of Life)や学習を支えるその『ソーシャル・ネットワーク』や『ソーシャル・キャピタル』が存在すると思うのだ。

           ソーシャル・キャピタルはちょっと前には、カッティング・エッジな話題だったのであるが、ご存じない方のために簡単に説明しておくと、そして、ごくごく平たく言うと、

           困った時にお助けしてもらうためのに頼れる人間関係のような何か、

          である。もうちょっとフォーマルにいえば、

           人間が生きていく上で、困った時、お互い助け合うことで、問題解決を容易にしたり、社会の構成員間に存在する人間ネットワークを介した、自主的な相互扶助による互恵的行動によって、社会での個人または社会そのものの活動を円滑に機能させ、社会や個人の目的を実現するために、その個人や社会的集団が用いることのできる互恵的に利用できる諸力のプール

          ということもできるかもしれない。その意味で、ソーシャル・キャピタルは、その個人がお付き合いしている人間関係のネットワークに付随、あるいはその中に目に見えない形で存在するものであるといえよう。

          人間関係ネットワークの図式化

           ところで、人間関係ネットワークをモデルとして考えてみるとき、それぞれの個人は、ノード(点)であり、個人と個人との間の人間関係は一般にリンクとしてとらえられるように思う。

           例えば、アニメ「サザエさん」の中で描かれているカツオくんにとってのソーシャル・ネットワークとソーシャルキャピタルを形成する人間関係のリンク関係を図にしてみると、以下の図1のようなものかもしれない。Link:と書かれた後ろの数字は、アニメ中に描写された人間関係のつながり、あるいはお付き合いしている人の数であり、それを以下リンク数と称する。双方向的なので、ここでは偶数になっている。


          図1 カツオくんを取り巻くソーシャル・キャピタルを形成する
             ソーシャル・ネットワーク

          個人(ノード)とお付き合い(リンク)

           ここで、注意すべきことは、それぞれの個人(ノード)には、それそれの個人(ノード)が他のどの個人(ノード)とつながっているお付き合い(リンク)があり、お付き合いしている人の数(リンク数)という重みがあり、そのリンク数で重みが図れるとネットワーク理論などではお考えのようである。リンク数の大きいノードもあれば、リンク数の小さいノードもあるのである。

           リンク数の大きい個人(ノード)は、社会にある他の個人(ノード)への影響も大きく、リンク数の少ない個人(ノード)は、社会にある他の個人(ノード)への影響は小さい。サザエさんのアニメで言えば、カツオくんのノードと花沢さんのノードと連結するリンク数は大きい。その意味で、アニメのストーリー展開における花沢さんはそんなにしょっちゅうでてこない割に、かなり重要な場面展開をもたらすことが多い。

           逆にカツオくんが淡い慕情を抱いていると思われるかおりちゃんや早川さんは、重要な場面展開はもたらすことが少ないという意味で、カツオくんの生活環境や状態には決定的な影響度をもたない個人(ノード)である。

           中島君はリンク数自体は少ないがカツオくんにとってみれば関係が強いという意味でリンクは非常に太いため、カツオくんの生活の質、生活環境に影響を与えるという意味では、カツオくんのソーシャル・キャピタルやソーシャル・ネットワークに大きな影響を与える存在である。このようにみるときに、これらのリンク数や関係の深さ、つながりの太さは、現実の社会の中では、より多様なものであろう。その意味で、単純な関係性のリンク数だけでとらえるのは問題があるが、人間関係論の場合、それを定量的に評価するための数値指標は作るのが困難であるため(まあ、面会頻度とか、電話の数、会話時間とかで代理指標を作ることは不可能ではないが)、このような実証研究はあまりされていないようにも思う。大体調査するの難しいので。まぁ、この種の調査として大きい内閣府社会経済総合研究所の調査でも、定量風の調査は、やってないことはないが、それもあまり詳細なものではない。その内閣府社会総合研究所による報告書は、ここから報告書が入手できます。

          ウェブサイトとその相互関係

           ところで、これを初期のコンピュータネットワークでした事例が、Linked Open Dataでの有名なウェブサイト関係の関係図としてある。それを図2に示す。


          図2 Open Linked Dataの図 (Wkikipedia Linked Open Dataより)

           この図で言えば、DBPedia はシステム全体への影響の大きいノードであるが、FreshmeatやOpenguidesはシステム全体への影響の小さなノードである。

          ドラえもんで考えるソーシャル・ネットワーク

           計算機ヲタ以外にはわかりにくい話なので、わかりやすくドラえもんを例にとり、考えてみる。例えば、子供の社会でいえば、ガキ大将的な存在は、負の影響、正の影響を含めその個人の影響は極めて大きい。ドラえもんの登場人物でいえば、ジャイアン型のキャラクターの影響力は大きい。彼がコンサートするとなれば、その歌がいかにひどいものであっても、子供たちは、好き嫌いにかかわらず出席させられてしまう。ぶんなぐられるのがいやだから、という側面もあるけど。ジャイアンリサイタルについてはこちらから。


           ジャイアンのコンサート シーン

           ところが、同じドラえもんのキャラクターの中でも、出来杉君型キャラクターだと、ドラえもんの話の中では、その登場人物への影響力が限られており、リンク数の小さな影響力の小さな個人(ノード)ということになる。

          子供社会においても成立する
          ソーシャル・ネットワーク

           このように、個々人の持っている人間関係ネットワークのリンク数は、実に多様であり、その多様なリンク数をもつ子供が地域の子供社会において存在するとともに、学校(とりわけ公教育が行われている公立小中学校)という社会的枠組みの中で、そのリンク数やネットワークは、年次進行と共に変化しながら、維持変化されていくことになる。

           また、中学校で私立中学校への進学や、公立中学校での他の小学校からの生徒との交流の開始などによって、そのネットワークは大きく変容することとなる。また、転居などに伴う転出入によってもネットワークのそのものは大きく変容し、そして異なる学校への転出入に伴って、子供はそれを手がかりの少ない中で再構築することになる。そして、このリンク数の大小は新しい概念の普及やある組織への加盟がどう進むかにかなり大きな影響を与えることとなる。

           このあたりのことをお考えになりたい方には、次回、初代キリスト教界を例にこのネットワーク理論とそこで使われるモデルに少し触れるが、「新ネットワーク思考」をぜひ、お読みいただきたい。



           次回へと続く
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          コメント:コミュニティと人間、その中の人間ネットワーク、それが個人の生活の質を支えるソーシャル・ネットワークとの関係に関する名著

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          コメント:これ、重要なことを指摘している。キリスト者は、最初の1章だけでも見ておいた方がいいかも。

          2014.09.13 Saturday

          続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

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             前回の記載は、ソーシャル・キャピタル、ソーシャル・ネットワーク、人間ネットワークの説明と、それが人間にどう影響するのか、その中でのネットワークを構成するノードとなる人物とネットワークの全体、一部との関係を述べた。前回の記事は、こちら。

            続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1


             新約聖書を人間ネットワーク理論から見ると
             ところで、以下のリンクで紹介するアルバート・ラズロ・バラバシ(2002)「新ネットワーク思考」の本の第1章に出てくるが、(英文なら当該個所がここからアクセスして、 Introduction のセクション(左側のFirst Pages)を読むと、ご覧になれる)パウロは、キリストを宣教するにあたって、影響力の大きい人々がいるところであるユダヤ会堂に出て行って、そこでの 影響力を持つ人々(たとえば、ルデヤとか、アクラとプリスキラといったギリシア世界の地域のユダヤ教社会におけるかなりヘビーウェイトなノード)が存在する空間(すなわちユダヤの会堂)でイエスがキリストであると宣言した、と同書では指摘している。

             そこらの街角で、出たとこ勝負でパウロは路傍伝道をしていたわけでないことは思い起こしてもいいかもしれない。あるいは、当時の学問的専門家であり、ギリシア世界におけるかなりヘビーウェイトな人物たち(ノード)が集まっているアテネのアレオパゴスで語ったのであるし、あるいは、ほかの使徒たちも、神殿においてイエスをユダヤ社会に影響力をもつ人々(ノード)を中心に宣べ伝えたためにユダヤ社会との軋轢を起こしていたのではないだろうか。


            Sermon of St. Paul in Athens by Raffaello Santi (1483 - 1520)


            キリシタン時代の人間ネットワークから見た
            布教と伴天連追放令

             大河ドラマで、官兵衛と称する番組をしていて、秀吉のバテレン追放令がでているので、キリシタン時代の人間ネットワークをこのネットワーク理論をもとに考えてみたい。

             最初にパーデレ、カトリック司祭が日本に到着したころ、社会的弱者やハンセン氏病を含む病者への伝道・救援を中心としてコンフラリア・ミゼリコルディアの精神で、対応していたことが分かる。 そのことの動画が、危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかたと題して、英栄一郎司祭によって2011年7月に行われている動画がこちらでご覧いただける。

            http://ricc.holyring.jp/?proc=japaneseslash2011sslash20110727_pm

            ところで、当初、このような社会的に影響力の強くない、社会的弱者、病者、孤児を中心に奉仕することで伝道していたものの、その悪影響として、これらの信仰は弱者の信仰であるから、何らかの対応を取らねばならぬ、ということで、大名クラスへの伝道へと方針転換したことを大河ドラマのキリスト教監修(竜馬伝と官兵衛は直接講義中「監修した」との言及があった)を多数しておられる上智大学の川村先生は、最近の公開講座でご指摘であった。そのリンクは以下の二つ。

            上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その1


            上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その2




            上智大学100年のポスター(小学生の社会科の時の人気者、ザビエル君)

            伴天連追放令
             大名クラスに伝道の主眼がきりかえられ、殿がキリシタンになられるのであれば、我等も、とその配下の家臣団が入信し、そして、家臣団以外の地域住民も、ワシらの殿さまがキリシタンなら…と陸続と入信した模様である。

             だからこそ、その影響が大きくなり、自分自身の国家建設、豊臣家による統治の障害となりかねないため、秀吉君は伴天連追放令をだしたのだろう。一応、バテレン追放令とそのローラ語訳を記載しておく。

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            一、日本ハ神國たる処きりしたん國より邪法を授候儀 太以不可然候事


             日本は神国なので〜、キリシタン国より変な魔法みたいなものをもらってくることは、むちゃくちゃありえないことと考えてね〜。おっけ〜?


             一、其國郡之者を近付門徒になし 神社佛閣を打破之由 前代未聞候 國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事


             地域の人々を呼びあつめて信者にさせて、神社や仏閣をぶっ壊した破壊工作があったことは前代未聞だよ〜。大名小名といった国や郡などの知行地を任されているサラリーマン社長の皆さんに管理をさせているのは、しばらくの間のことだからさ〜、天皇陛下や関白家から出る命令を守って、その意をくんで適当にうまくやってね。おっけー?普通のいろんなお仕事している皆さんも、変なことはしないようにさせようね。わかったー?


             一、伴天聯其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之佛法を相破事曲事候条 伴天聯儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰國候 其中に下々伴天聯に不謂族申懸もの在之ハ 曲事たるへき事


             バテレンさんたちはさぁ〜、頭がいい方法を使って、心を操って、だんだん、パトロンのおとーさんをもつんじゃないかと思うんだけど〜、これはさっき書いたみたいに、地域の仏教をとんでもなくすることなので、気をつけてね〜。しちゃーだめだよ〜。あと〜、バテレンさん達が日本には〜、いることはできなくなっちゃんたんで〜、今日から20日以内に強制退去させるから〜、その用意をさせるからね。わかった〜?その間に、バテレンに普通の人たちが変なことをしてしまったら、それは、ダメだからねー。おっけ〜?


            一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を經諸事賣買いたすへき事


             黒船さんたちは、ビジネスだから、特別だからね〜。これからもずーっといろんなビジネスやってね〜。よろしく〜。


            一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候条 可成其意事


              これから〜、お寺のことを邪魔しない人たちだったり、商人である人たちはもちろんオッケ〜だからね〜。どんなキリシタンの国からきても、行ったり帰ったり、どんどん外国に行ったり、外国から来たりしても全然「オッケ〜」だからね〜。なるだけみんな頑張ろうね〜。


            -----------------------------------------------------


            ということで、まぁ、國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。つまり、「一時的に領国領地を代理で、支配している領主が、勝手をしてはならん」ってことだったらしい。

             川村先生のご講演を思い出すと、当初、社会的弱者を中心に伝道が模索されたものの、その副次効果もあり、次第に、当時の社会において、影響力の大きい大名クラスに伝道が進めていかれたようである。そして、日本全国に広がっていき、その挙句の果てに、上記で紹介した英 隆一郎司祭の動画によれば、当時の人口の10分の1から5分の1位の人口比を占める20万人ほどキリシタンがいたことがイエズス会の記録で分かっている(らしい)(補記 なお、この当時の日本全国の人口はおそらく1000万人代後半から2000万人程度と考えられるので、100分の1から50分の1くらいの方が適切かもしれない。こうなるとあまり現在と変わらない。まぁ、当時キリシタンは日本全国にまんべんなく存在していたわけではなく、九州地方、西国を中心とした地域に集中していた模様。東北や北関東地方にもキリシタン集団があったことはほぼ確実であるが、割と人口が多い地域は痕跡がかなり消されているので追っかけるのが大変であるようである)。

             このことは、記録マニアでもあった、ローマ教皇庁の記録でも跡付けられるらしく、日本国内を40人の司祭で回していることをお話になっておられる。つまり、当時は、50000人に司祭一人という状況だったらしい。

            川村先生の講演内容を
            ソーシャル・ネットワーク理論で考えた
             つまり、当初は、病気や貧しさ、親族などの支援ネットワークのなさから、社会的ネットワークにおけるリンク数の小さな社会の影響度の弱いソーシャル・ネットワークのノード(個人)を中心に伝道していたのだが、それがそのまま広がった場合、一定の社会の影響度の弱いノードの集団という印象がついてしまうため、下剋上、戦の連続という悲惨な影の漂う社会風潮の中で、既存宗教集団の比叡山形や門徒衆系の人々との対立などに辟易としていた社会の影響度の大きいノード(個人)である大名クラスへの伝道という形が取られて行き、そして、それが、大名クラスでの影響力の大きいノード(個人)である、大友家(当時の九州の名家の一つで、島津家と対抗するくらいの勢力はあった)や高山家などがキリシタン化していく中で、一気に大名家ネットワークに広がり、そして、家老クラスの名家ネットワークに広がり、また、領民クラスにまでキリシタンが広まっていく、という形を取ったと考え得よう。

             しかし、このタイプの伝道方法は、影響力が大きいノードが変身することで、その影響の深いノードも次々と変身する、オセロのような現象が起きる点であり、聖書で言うと、岩地にまかれたために根が生えないような状況ではあろう。なかなかド根性ダイコンは育ちにくいのである。なお、川村先生によれば、ド根性大根のような隠れキリシタンの皆さんは、まったく別のソーシャル・ネットワークの論理(こんふらりあ・みぜりこるぢあ:慈悲の組)により維持されたらしい。


            ど根性大根

            子供のソーシャル・キャピタル形成の場所
             本来の話に戻そう。ちなみに、1960年代までは、子供の『ソーシャル・キャピタル』が育成される場は、学校の教育実施中においては、公教育の場である小学校、中学校の学級であり、そこは、学校教諭が監督する社会が形成されていたと思われるし、放課後は、公園そのものが都市部において少なく、下水道管などのコンクリート管が建築途上の空き地や開発地やお寺や神社、教会などの境内地(それがあればであるが。所謂ニュータウンでは、それら宗教関連施設がないことの方が普通であり、新興住宅地では、宗教空間から空間的にも切り離されている。これで無縁社会とならないほうが不思議)が子供たちの交流の場になっていたし、小学校の校庭などが交流の場となり、そこで、子供たちが『ソーシャル・キャピタル』が育成されていくことになる。

             要するに、当時の子供たちのたまり場は、これらの場所であったし、雨の時は、 お互いの自宅などや、神社の境内等が利用されたであろうし、娯楽の少なかった1960年代中葉までは、一部教会などが提供する教会学校や日曜学校などが子供たちの紐帯を外形的構造物で支えてきた、と考えられるであろう。これらの境内地や公園、空き地は『ソーシャル・キャピタル』の醸成の場であった。これらの公園、寺社、教会の境内地が持つ、公共財的性質(利用の非排除性、そのサービスへのアクセスがあまねく渡るという意味で非競合性がある、という意味で)あるいは、地方公共剤、クラブ財的性質が、これらの寺社地やオープンスペースが子供社会における公共圏を形成させる場、となることもあったであろう。

             次回へと続く


            2014.09.14 Sunday

            続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3

            0
               これまで、おちいさい皆さんが教会学校に来るか来ないかにおいてかなりの要因となる人間関係について、一般的な形として、ソーシャル・キャピタルと、ソーシャル・ネットワーク、そして、カトリックのキリシタン時代の日本宣教状況について触れながら、ソーシャル・ネットワークと宣教とのかかわり、お小さい皆さん方のソーシャルキャピタルの醸成の場について触れてきた。今日は、その歴史的変遷について、もう少し触れていきたい。


              続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

              続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

              キリシタンについての補足

              なお、前回のところでも、少し触れたが、下記リンクで紹介する「カクレキリシタンの実像」では、川村先生のご講演を一歩超えて御説明になっておられる。要するに、「カクレキリシタン」集団は、日本型地域集団の亜種で、一応、非仏教、非神道型の信仰を持った集団であり、現在想定される敬虔で熱心なキリスト教ではなく、国際貿易や出世などの実利を目指したキリシタン(なんちゃってキリシタン)だった可能性があることを指摘しておられた。個人的には、そう思う、だって、5000人に一人の司祭で、おまけに領主さまに取り入るためにキリシタンになった層は、お武家層や領民層で多かったはずだから、宮崎先生ご指摘の通り、深い理解をもったキリスト者というわけではないと思う。

              1970年代以降のお小さい方々にとっての
              ソーシャルネットワーク育成の場の変遷

               1970年代から、当時の住宅公団(現都市機構 あるいは UR)や自治体出資による住宅供給公社、民間不動産開発業者(デベロッパー)の開発がおこなわれ、多くの新興住宅地(団地)に人々が住むこととなった。そして、千葉の光ヶ丘団地開発時点に見られるように団地に住むことが、理想の生活と映画などでも喧伝された。(以下の動画参照)


               団地が理想の生活とされた時代のニュース映画の動画


               都市の郊外への進展や、その過程の中で、自治体における開発規制や自治体と民間デベロッパーが締結した開発協定により、公園や公民館、児童館、集会施設などが整備されていくこと になり、これらの整備が進んで行き、これらの整備により子供たちの『ソーシャル・キャピタル』の育成の場も多様化していった。


              学習塾の急拡大と
              お小さい方の公共圏の空間的拡大

               さらに、1980年代ごろから、公教育の補完教育機関、とりわけ名門高校、名門私立高校受験のための準備教育を行う学習塾のプレゼンスが子供たちの生活で増していく(図1)。

              図1 事業所企業統計を利用した全国の学習塾の事業所数


               それまでは、習いごとといえば、ピアノ、習字、そろばんが主力であったが、1970年代以降において、小中学生においては、いわゆる受験志向型、(学校の 授業内容のキャッチアップを目指す)補習修型の両方を含め学習塾のプレゼンスが高まっていく。そして、そこでの週1回から2回程度の塾施設での学習のために集合することで、また、塾などが提供する夏期学習機会などの機会を通して、一つの学校内に留まらない、やや広域の人々との交流が生まれ、『ソーシャル・キャピタル』が構成されていくことになる。その意味で、従来は地方公共在的性質を持つ公園、寺社、教会の境内地などで従来は行わ れてきた公共圏の形成の場の一部(あるいは相当部分)が私的空間である塾という空間へと移っていくこととなる。また、世帯では、共働き世帯の増加に伴う、 学童保育が学校でなされることになっていく。図2に学童保育について、全国学童保育連絡協議会による調べの結果を図示する。


              図2 全国の学童保育所数(全国学童保育連絡協議会調べ)


              異界への窓口としての
              公園・空地・寺社・教会・塾

               ところで、公園や、寺社、あるいは教会等の境内地、道路上や、商店などの店先やその付近の空地、都市内の未開発地である都市内空地などに集まる子供たちにとって、これらは一種の地域社会における人間ネットワークの枠やその縛りを抜け出すための異界、または、異界への窓口ともなっていたのであり、いわゆる公教育施設や制度という枠組みとらわれない形で、地域的により広い範囲の子供たち(児童・生徒)の間の人間ネットワークあるいは、『ソーシャル・ネットワーク』を構築する機会や出会いの場を与えていたが、1970年代以降は、塾によってそれらの『ソーシャル・ネットワーク』を構築する『場』であった、パブリックアクセス可能な地方公共財的性質をも持つ公園、空き地、寺社、あるいは教会の境内地がもっていた機能が、塾というより広い空間的領域とを切り結ぶことを可能とする場としての機能代替が起きたように思われる。なお、この議論は、統計的データに裏付けられているわけではないし、今、そのことを1960-80年代までにさかのぼって調査することは現実的ではないし、よしんば現時点でその調査をしたとしても、バイアスが生じるだけであり、その有効性は限界があるものとなるであろう。
               
               なお、以下の図3は1955年以降の東京都における都市公園の整備状況を図としてまとめたものである。なお、この作図に当たっては、国土交通省国土政策局国土情報課(2013)  国土数値情報 ダウンロードサービスからダウンロードしたデータをもとに、供用開始時にお応じて表示をすることで、GIFアニメーションとして作成した。


               図3 東京都を例にした、都市公園の時系列的整備状況


               この図を見る限り、1970年ごろに急速に都市公園が整備されて行き、この時期に開発が進められていったことが分かる。その意味で、本来必要だった時期になかった公園が、それを必要とする子どもたちが減ってから、急増しているというのは、何とも皮肉であり、今後、公園はとっても大きくなられた皆さん(高齢者)のソーシャル・ネットワーク造成の場になっていくのかも入れない。

              次回へと続く




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              コメント:江戸中期、後期のキリシタンについて一般化したイメージの危険性がわかる。

              2014.09.15 Monday

              続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その4

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                 これまで、ソーシャルネットワークや、人間関係ネットワークの基礎を見て、伝道とネットワークとのかかわりを触れ、キリシタン時代の伝道とネットワークを触れ、子供のソーシャル・ネットワーク構築の場所としての公園、塾、学童保育とその整備状況、その時系列的変化と空間的整備状況等に触れた。


                続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

                続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

                続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3


                 いよいよ、今回からは、おちいさい皆さん(子供たち)の人間関係論を形成する要因などに触れていきたい。

                おちいさい皆さんのコミュニティと遊びの役割

                 さらに、198373(南の国のコメント王子からのご指摘感謝)年発売のファミコン、その後継機である1990年スーパーファミコン、1994年にプレイステーションが発売されるなかで、子供たちの遊びも変化することになっていく。

                1973発売 ニンテンドーファミリーコンピュータ初号型


                 つまり、従来、公園、学校の校庭、都市内空地、寺社、教会などの境内地などから、電源のある私的空間である家庭の中に誘導していく。また、携帯型端末であるゲームボーイ発売が1989年、ニンテンドーDSが2004年に発売されるとともに、家庭や屋内から子供たちを解放し、屋外で子供たちが集まって遊ぶことを可能にしたものの、戸外遊びが復権したわけではなく、戸外でゲームボーイなり、塾の行き帰りにDSをするようになっただけのことである。

                 いずれにせよ、子供たちの遊びがその機械を利用することで生まれてくるにより、コミュニティが形成されて行くようになる。そして、ヴァーチャルな空間における交流によって、子供たちの『ソーシャル・キャピタル』を生む背景にこれらのゲーム機での交流が生まれ、そして、そこで繰り広げられる関係性が、子供たちの公共圏の一部としても流れ込んできたように思う。おそらく、このようなことは、現在の60歳代以上の方にご理解してくだされ、とお願いしても無理かもしれない。


                ゲームボーイ初号型

                おもちゃとおちいさい皆さんのソーシャルネットワーク

                 しかし、ヴァーチャルなものの交換に価値を見出すことは子供にはかなり困難な作業であるので、友情やコミュニケーションを載せる装置として希少性が生み出されやすいものにその価値システムを憑依させるものが子供たちの中に持ち込まれることになる。古くは、1971年仮面ライダーカードであったり、1973年プロ野球カード、近年では、1996年ポケモンカード、ポケモンのキャラクター、1988年ミニ四駆、1998年遊戯王カード、1999年ベイブレード、2013年妖怪ウォッチ(←いまここ)というものであったりするのだ。


                「ナウで、ヤングな」お小さい皆さんに大人気の妖怪ウォッチ

                 つまり、公園、学校の校庭、都市内空地、寺社教会などの境内地などの公共的な空間を中心とした子供たちの公共圏の形成から、いったん家庭とかにこもる形になり、携帯型ゲーム端末やカードゲームの登場により、もう一度は電源の問題からは解放されることになるが、それと同時に、共通するモノ、あるいはヴァーチャル空間に存在するモノやキャラクターを介した、あるいはそれらに憑依させる形で、公共圏が構成されることになる。

                ヴァーチャルなキャラクターを介した
                おちいさい皆さんの公共圏形成
                 ここで重要なのは、公共的な空間を介した子供たちの関与に関して、公園デビューのように、その場に自分自身を曝露するために自分自身が身体を運べ、身体性を伴って公共空間に現れるかどうか、ということに加えて、そのような場(1980年代以降は、塾とか、他者の家庭とか)に参与するための関係性を具体的なモノに憑依させたもの(つまりおもちゃなどの共通のもの)をもっているかどうかも問われることになってくる。関係性を構成するための憑依させる対象のモノ(カードやゲーム機器、そして、その中に存在するヴァーチャルなキャラクター)の所有の有無の問題が子供たちの公共圏を構成する要素に一定の役割を果たすようになってきていると思われる。だからこそ、課金型のゲーム屋がもうかるようにできているのであり、子供はよくわかってないから、親のところに何十万という携帯ゲーム屋からの課金が生じて後、親は慌てることになるのである。

                 余談から元に戻すと、つまり、関係性を憑依させるための対象をもつものと、持たないものとの間で、人間関係のネットワークに関与できるかできないかの断絶が起きているように思われる。あるいは、モノを持っているかどうかが、人間関係における関与の可能性が生まれるかどうかの基礎となっている可能性がある。(すまん、メタのメタの概念になっている)ごくごく平たく言ってしまえば、あるもの(ゲーム機、カードゲームで用いるカード、ゲームソフトウェア、その中でのキャラクター)をもっているかどうかで、「友達ができる」、「ともだちができない」、友達の付き合い方が変わっていくのだ。つまらないことだ、そんなことはないはずだ、そんなことではダメではないか、と社会の規範というか、徳目的な側面を重視するキリスト者的な大人からは批判されるかもしれない。そんなことで友達づきあい(『ソーシャル・ネットワーク』や『ソーシャル・キャピタル』)が変わり、小中学生のQOL(生活の質、遊び仲間の関係の質)が変わるということに疑念をもったり、それはおかしいというかもしれない。

                 しかし、子供たちの現実は規範や徳目では動いていない。子供の世界を傍でじっと見ていると、どうも本稿で指摘したようなモノの所有やバーチャル空間でのゲームなどの参与の有無によって、子供たちの世界は動いているのではないか、と思われる。つまり、リアルな物理的な公共空間(公園とか学校とか塾とか)の中におけるリアルな関係性の中に、携帯ゲーム機やゲーム機の中でのヴァーチャルな関係が断続的に、わずかではあるけれども、その関係が時に顔を出したり、あるいは、そのヴァーチャルな関係がリアルな関係にどっぷりと持ち込まれたり、ているように思われる。

                キリスト者家庭のおちいさい皆さんの
                ソーシャルネットワークの脆弱性

                 この手のものに批判的な目を向けるキリスト者の両親のもとで育つと、これらのものに触ることが大きく制限されることとなり、そのため、これらのものへのアクセスを制限された子供は、その『ソーシャル・キャピタル』というか、『ソーシャル・ネットワーク』は制限されたものになるのではないだろうか。その意味で、その子供たちは、子供たち社会の中でのリンク数はおのずと小さなものとなり、影響力の小さな個人(ノード)となっていると思われる。つまり、ドラえもんの世界における出来杉くん状態になっていると思ってもらえばよい。おまけに、子供たちが割とたっぷりと遊ぶ時間が取れる曜日である日曜日には、教会にいることが求められたり、義務付けられたりするのだから、これで、キリスト者仮定の子供に子供社会における影響力を持て、というのは、どうなんだろうおか。

                 その意味で、キリスト者家庭の子弟の持つ、『ソーシャル・ネットワーク』、『人的ネットワーク』は、平均的な児童・生徒とはことなり、この両者の間での生活の質は異なるものとなろう。したがって、それから生み出される『ソーシャル・キャピタル』もおのずから異なるものとなるのではないか。

                 現代の60歳以上の層では、そもそも、日本社会自体が貧しく、おもちゃのある家庭の方が少なかったため、上記で指摘したような問題は生じなかったはずであるが、その時代を自分が過ごしたから、といって、その時代の生き方を現在の小中学生における理想とすることや、その姿で生きることを現代に生きる子供たちに強要することにはかなり無理があるのではないか、と思っている。

                 次回、西洋型教会におけるソーシャルキャピタルと、ヴァーチャルキャラクタ問題と子供たちのソーシャルネットワークの問題を扱う。(水曜日公開予定)






                2014.09.17 Wednesday

                続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その5

                0
                   これまで、ソーシャルネットワークや、人間関係ネットワークの基礎を見て、伝道とネットワークとのかかわりを触れ、キリシタン時代の伝道とネッ トワークを触れ、子供のソーシャル・ネットワーク構築の場所としての公園、塾、学童保育とその整備状況、その時系列的変化と空間的整備状況等に触れ、前回は、日本のお小さい方々の中での、キリスト者家庭のお小さい方々のソーシャルネットワークの脆弱性についても触れた。


                  続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

                  続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

                  続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3

                  続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その4



                  アメリカ社会における教会と
                  ソーシャル・ネットワーク

                   欧米社会では、いい悪いは別として、教会はジョン・ヨーダーのいうコンスタンティヌス的教会という存在でつい数十年前まではあったし、社会における共通基盤として存在しているた。現在でも、社会の中で一定の役割を果たしたし、日曜日に教会に出席するだけで、ソーシャル・ネットワークが自然に発生するし、一定程度のソーシャル・キャピタルを享受できる。

                   西洋型社会で社会の基盤ともなっていた教会、コンスタンティヌス的教会も、時代の変遷、とりわけ、近代社会の国民国家への移行に伴って、行政体による教会からの事務の移行が進んでいったこともあり、ソーシャルキャピタルの形成の土台も大きく毀損されて行くことになる。ソーシャル・ネットワークとソーシャル・キャピタルを初期のころから研究しており、それを一気に広めた、下部リンクで紹介しているパットナムの「孤独なボウリング」によれば、綿密な調査と統計データへの裏付けを用いて、近年のアメリカ社会における教会の弱体化と教会が提供していた、あるいは提供しているソーシャル・キャピタルが脆弱化しつつあることを述べている。


                  日本社会における教会と
                  ソーシャル・ネットワーク

                   しかし、残念ながら、日本の社会におけるキリスト教世界は、キリスト者数が少なく、極めて小さいがために、教会にいることで発生するソーシャル・ネットワークは、一般社会のソーシャル・ネットワークに比べて優位性をもっている、とは言い難い側面を持っていると思う。

                   さらに、教派における聖書理解の統一性を保持するために、これまで、人間関係の縛りが教派内にとどまることが求められる側面、教派内ではかなりの密度の濃いネットワークが形成される半面、福音派を中心として、教会内部、教派内部でのソーシャル・ネットワークが極めて強い半面、教派内の教会間でのソーシャル・ネットワークは存在しえても、一般信徒レベルでは、教派をこえるようなソーシャル・ネットワークや水垣渉氏のいう越境性をもったキリスト教的なソーシャル・ネットワークは、わが国では極めて弱かったのではないだろうか。

                   ただ、明治初年頃の第2次キリスト教ブーム(第1次キリスト教ブームのキリシタン時代もそういう側面はあるが)においては、江戸末期から明治維新ごろにかけて、社会制度の激変の中でその存在理由を問われた下級武士、ある程度の実力者でありながら、社会から冷遇されたインテリのソーシャル・ネットワークの中で広がっていったという側面があるため、その中でのソーシャル・キャピタルを提供した、ということは言えるかもしれない。そして、もともと存在した、学校(農学校とか、英学校とかの、いまの大学の前身)に存在した元下級武士の指定間の人間ネットワークに乗って広がっていったという側面もあるのではないか。


                  現代日本社会における
                  お小さい皆さんとソーシャル・ネットワーク

                   ところが、前回の記事の最後でも少しふれたように、熱心なキリスト教徒の家庭に育てられる子供の場合、往々にして、その子供の良心が持つ教会内でのソーシャル・ネットワークの志向性が強い、あるいは、その教会内ネットワークへの評価が高いために、教会外でのソーシャル・ネットワークを軽視する、あるいは、評価が低いものとして、往往にして親から示されることもあるのではないだろうか。


                  ドラえもんにおけるソーシャル・ネットワーク

                   そのため、キリスト教徒家庭の子弟の教会外ソーシャル・ネットワークは、教会内ソーシャル・ネットワーク、あるいはそれぞれのネットワークにおけるリンク数(平たく表現すると友人数)は小さいものにならざるを得ない。その意味で、教会外でのソーシャル・ネットワークの中では、社会の構成員への影響力の大きいウェイトの大きいノード(ジャイアン型ノードや花沢さん型ノード)ではなく、ウェイトの小さいノード(出来杉型ノード)、すなわち、子供社会の中で遊離したノードになっている可能性はないだろうか。

                  出来杉君型ノードに伝道を強いることの無理

                   そういう(出来杉型ノード)状態に置かれている子供に、教会学校や日曜学校に親や、日曜学校、教会学校の教師から、お友達を誘っておいで、といったところで、社会の中での影響力は限られている出来杉ノードであることを強いられているため、子供社会の他の構成員への影響は小さい。

                   それでもなお、誘おうとした場合、自分以外の社会の構成員から冷淡な反応に繰り返し直面することになり、その子供の自己評価や尊厳にかかわる価値観自身を大きく毀損することも起こるのではないか、と思うのである。

                  ある論理を現実無視で
                  個人に要求すること
                   それを大人の論理だけで、要求することは、果たして適切なのであろうか、あるいは、子供のノードとしての特性を無視し、子供たちを子供たちの社会から切り離しながら、それと同時に、その社会の中から、関係者を教会に呼び寄せようということは、一種のダブル・バインド状態ではないか。ダブル・バインドがカルトのツールであることを考えるとね。

                   もちろん、個人属性があり、人懐こく、何でも人と話し、お付き合いの得意な人や子供もあろうが、そういう人はすべてではない。そういう個人の性質を無視し、また、個人が持つ人間ネットワークの特性やノードとしてのリンク数などを無視して、子供たちを教会学校につれてくることを求めることは、どこか無理があるように思うのだが、どうだろうか。

                  次回 ラポール形成とキリスト者家庭でのダブル・バインドについて




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                  コメント:良い。特に最初の2章で、アメリカ社会における教会の地位の低下とソーシャルネットワークでの役割の低下がふらられている。

                  2014.09.18 Thursday

                  続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その6

                  0
                     これまで、ソーシャルネットワークや、人間関係ネットワークの基礎を見て、伝道とネットワークとのかかわりを触れ、子供のソーシャル・ネットワーク構築の場所としての都市空間とのかかわりなどに触れ、前回は、日本のお小さい方々の中での、キリスト者家庭のお小さい方々のソーシャルネットワークの脆弱性についても触れた。そして、前回の記事では、アメリカ社会における教会がソーシャルネットワークとして脆弱になっていること、そして、個人的の社会ネットワーク状況や能力を無視した伝道を求めることや、生育過程の友人関係の中での制限とお小さい方の交友関係の制約がもたらすものを触れた。

                    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

                    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

                    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3

                    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その4

                    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その5



                    子供たちには無理ゲーにみえるかも

                     前回軽く指摘しておいたが、「教会外の友達はあまり・・・」と言われる一方で、「あなたはイエス様を信じる子供なのだから、他の子供と同じようにしてはいけない」と言われつづけ、「(塾や習い事やスポーツクラブなどで現代のお小さい方々にとって割と少ない遊ぶ機会となっている)日曜日には教会に行きなさい」という形で地域の子供コミュニティからは一方で切断されつつ、出木杉型ノードとなる(子供たちの幅広いネットワークから比較的人間関係が切り離された存在(ノード)となる)ことを求められつつもも、「お友達を教会に誘いなさい」と言われたところで、「そもそも論として、人間関係を作る時間でもある日曜日に拘束されているために、このお小さい方の周辺のお小さい方々の中での幅広い人間関係が薄いのに、どうやって誘うのだ。」という疑問がミーちゃんはーちゃんの中にいま渦巻いている。

                    日曜学校は、信仰者の伝道訓練の場所ではないかも

                     仮に、親のことばに素直に従って、誘った他のお小さい方々から「何が面白いの?」と聞かれて、自信をもって、「こう面白い」、「こんなメリットがある」と答えられるお小さい方って何人くらいいるのでしょうか。あるいは、日曜学校、教会学校に、一流のストリーテラーをご用意されて、お小さい皆さんをお迎えされている教会がどの程度あるのでしょうか。もちろん、これらのことをご配慮されている教会は多いでしょう。

                     しかし、その一方で、信徒訓練の場、信仰を以て間もない方のOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)的な伝道体験の場として日曜学校が用いられているのも確か。自分でもわけわからずにしゃべる人たちの話を聞いて、お小さい方々が面白い(突っ込みどころ満載という意味では、おもしろがれるかも)と思うかもしれない。下手をすると、長年教会学校に通い続けている教会学校の生徒さんの方が、聖書の雑学や人物には信仰をもって間もない人たちよりもはるかに詳しいことの方が多いのもこれまた現実ではないでしょうか。その場合、長年教会学校にいる教会学校のベテランのお小さい方々たちは、罰ゲームとして聞かされている感覚になるだろうし、「まぁ、しょうがない聞いてやるか」的な感覚をお小さい方々が持つことを、だれが責められよう。


                    Jim Henson's Story Teller



                    「子供たちを私のところに来させないさい」と
                    宣もうたイエスに叱られた弟子の一人として

                     これは逆切れして申し上げているのではなくて、子供たちにとって、面白い、メリットがある、行ってみたいと思わせるものが、お小さい方々がアイスブレーカーが用いられ(ベネッセの『とらじろう』のような鉄板キャラなどが存在する形)、お小さい方々たちに理解されやすい形で語るべきことを私自身は語りきれていないように思うのです。それは私の能力不足が多分にして影響しているとは思いますが。もちろん、私もキリスト教徒のはしくれに入れてもらっているとは思いますので、「キリストのことばに力がある」、とは思っておりますし、「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。」というイエスのことばは知ってはおりますが、それが実践できているかは別問題。

                     時々お伺いするお話しやら、御相談の中に、キリスト教会の一部には、自分たちの保とうとしているものや、自分たちがなしているものが聖であることをあまりに重要であると評価しているなどの理由が存在するがために、結果として、「お小さい方々を(来させることを)邪魔している」かに見える教会もないわけではないのがなぁ、と思わざるを得ない実例を拝聴することがございます。つまり、子供との広い意味での緩やかな連携やつながりや信頼関係を構成するものを、信仰者としての大人がもちえていないのにもかかわらず、教会の信徒さんや牧師さんのお家のお小さい方々のみに、教会のことをあまりご存知ないお小さい方々との緩やかな連携をもつことを期待するのは、いかがかと思うのですが。

                    緩やかな連携や信頼関係は
                    何かの共有がきっかけで生まれるかも

                     数年前、小中学生向けのキャンプに参加したときに、お茶らけで「紅の豚」で主題歌として使われた「ときには昔の話をしよう」という歌の替え歌リンクはコチラ)を御紹介したのですが、お小さい皆さま方には、結構受けていただきました。そして、子供たちがその曲に反応しているのを見て、その場におられた何人かの引率者の方々は、大変驚いておられました。つまり、私(当時50前)とその場にいたお小さい方々たちとの結びつきが生まれ、私が用いたアイスブレーカーが世俗のアニメである「紅の豚」の主題歌で、お小さい方々と私の距離が一瞬にして短縮されたことに驚いておられました。


                    加藤登紀子嬢が歌う「時には昔の話をしよう」

                     なお、ミーちゃんはーちゃんは、「飛ばない豚はただの豚だ」の名言通り、ただの豚である。


                    紅の豚の予告編 最後に「飛べない豚・・・」の名言が出てくる

                     FB 上の友人のナベさんという方がお知り合いの女性信徒が、飼っておられる愛犬を通してお小さい方々たちとのゆるやかな連携・信頼関係を図っている例を教えてくださったが、それも一つのゆるやかな連携・信頼関係の作り方だと思う。緩やかな信頼関係を構築するために用いるものは、野球でもいいし、美少女アニメだろうが、ジョジョのようなアニメでもいいし、プラレールでも、ゲームでもなんでもいいとは思うのだなぁ。

                    多極化する中での

                    ゆるやかな連携・信頼関係構成の困難さ

                     しかし、田中明彦先生が、「新しい中世」で御指摘のように、現代の関心分野が多様化し、多極化し、その中で社会的ネットワークが構築されているような現代社会の中にあって、一つの教会がすべての人に対して、すべての分野をまんべんなくカバーするようなゆるやかな連携・信頼関係を校正するための共通の何かが存在したり、また、それをすべて一つの教会で保有することは困難であることも確かであるし、持つ必要もないであろう、とは思う。それは、多様な教会群全体として提供していければいいのではないか、とミーちゃんはーちゃんは考えている。何でもかんでも自分ところの教会で、というのは無理になっているのだと思う。

                     しかし、お小さい方々だけでなく大人であっても、これらのゆるやかな連携・信頼関係の基礎となる共通の何かは、ある人と他の人の間の氷の壁をぶち破り、話し手と聞き手の間にある心理的な壁を破壊する強力なアイスブレイカ―となると思うのだ。ただ、特定の対象(たとえば特定のゲームとかマンガとか、美少女アニメとか)に敵意を教会が向けた瞬間、そういう関心を持つ人たちのゆるやかな連携・信頼関係の構築は極めて困難になるのではないかなぁ。


                    ダブルバインド、ってきつくないすか?
                     ところで、キリスト者のご家庭では、ご両親は、一方で、ブレーキを全力でかけながら、もう一方で、伝道ということで、適当にお小さい方々を焚きつけ、アクセルを吹かす、という非常に矛盾した立場(世にダブル・バインドというらしい)をお小さい皆様に押し付けていないだろうか。それで、ダブル・バインドを押しつけられたお小さい皆さん方が嬉々として教会に来たり、教会にお小さい皆さん方が増えるとすれば、それこそ、神の介在、神の支配がその教会におありになる、としかいい得ないように思うのだが、違うかなぁ。


                     次回最終回へと続く



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                    コメント:よいよ。現代のネットワーク化した社会とそこで生きる人間理解にとっては重要かもしれない。

                    2014.09.19 Friday

                    続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その7(最終回・完結編)

                    0
                       さて、これまで、ソーシャルネットワークや、人間関係ネットワークの基礎を見て、伝道とネットワークとのかかわり、子供のソーシャル・ネットワーク構築と都市空間、キリスト者家庭のお小さい方々のソーシャルネットワークの脆弱性、生育過程の友人関係の中での制限とお小さい方の交友関係の制約、そして、キリスト者家庭の子供が、あまり意識してないかもしれないが、ダブルバインドに直面している可能性などにさらっと触れてきた。今回最後のテーマとして、個人に頼る伝道方法の危険と現状の打開策について触れて、本シリーズを終わりたい。

                      そもそもの出発点。 生活時間編

                      日曜学校におちいさい皆さんが減った理由

                      教会に中学生の皆さんが減ったかもしれない理由
                       
                      このシリーズ。

                      続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

                      続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

                      続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3

                      続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その4

                      続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その5


                      続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その6


                      個人に伝道を頼る危険性

                       確かに、キリスト教がこれまで伝播拡散する際に、ネットワークの影響力の大きいノード(たとえばコンスタンティヌスとか、大友宗麟とか)への伝道をして伝わってきたことは間違いないし、明治期以降の日本においても、当時のハイテクであった雑誌メディアを駆使した内村鑑三先生やら、社会運動にもひるまずに向かって言った賀川豊彦先生やらがおられた。それは影響力を持ったし、また、信徒も急激に増加したであろう。

                       それは悪いことでもない。一定の評価はされてしかるべきであろう。

                      人はメシアにはなれません

                       しかし、それは、そういう際立った働きをする個人とその信仰を痛める可能性があるのだ。それは、人間は、神ではないし、メシアではないからだ。限りあるいのちがあるものだからなのだ。いずれ、如何に際だった働きをしても、この世から消えていかねばならない。モーセ先生であっても消えて行かれたのだ。だからこそ、教会の指導者の継承が絶対に必要なのである。

                      カルト化の危険と個人依存

                       それと、個人に頼った伝道をすることは、教会という共同体自体が多様性を失うことに他ならない。というのは、個人に頼った伝道となってしまえば、本人は意図してないとは言え、どうしても似たような人が集まってしまうのだ。その結果、何となく、雰囲気のそろった人しか来なくなってしまって、本来神が愛したもうた世界の多様性を反映しないものになるからである。それは、これまでの連載でチラチラ触れてきたが、本来、多様性を持つ人々が公共空間であるべきはずの教会を単一的な社会となる一種の社会クラブのような存在にしてしまいかねない危険性を持つのだ。そんな存在は、クラブという飲み屋か、イギリスのパブだけにして置いていただきたい。

                       また、同質性がきつくなると、社会集団の構成員に同化を求める精神性が強くなるので、カルト化の問題を生む素地となりやすいような気がする。その意味で、教会が多様な人々が多様な人々と、神と共に歩む社会であるとええのになぁ、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

                      どうすればいい

                       では、「どうすればいいのか」、「もう一度子供たちが教会に集まるにはどうすればいいのか」と諸賢はお尋ねになるかもしれない。そんなものわかれば、ミーちゃんはーちゃんも苦労はしない。

                       答えはないし、特効薬はない、と思うのだ。

                       なぜかと言うと、それぞれの教会ごとに特性や徳性が違うし、味わいが違うし、性質が違うのだ。教会は家電製品やコンビニのおにぎりのようなマスプロ製品ではない。神が個別に働きかけ、作り上げられていくものだと思う。また、一つの教会であっても、時間的にも同質性は保証されない「生き物」あるいは、『生かされているもの』ものであることを、我等はもうちょっと考えたほうがよいかもしれない。

                       少し考えてみてほしい。ボルトという現在、100m走での世界記録保持者がいるが、彼にマラソンを走らしたところで、世界最速になれないのだ。そもそも、マラソン選手と100m競争の選手は求められているものが違うのだ。それをいっしょくたに一般化して議論して何になろう(と、一般システム理論の徒が言うなって?でもそうなんだから仕方がない。一般化しようとすると、「人はそれぞれそもそも違う」という観測によってはじめて、メタ概念としての観測結果である「世の中のものに個別性が存在する」という一般理論が成立する、という事実は指摘できる。ww)。


                      ボルト ジャマイカって好きだなぁ

                      人と出会い、共に生きるものとしてのキリスト者
                       お小さい方々が教会にあつまるにはどうすればいいのか、という一般的なお答えはない。ただ、共に生きようとする人と共に人はともに生きようとするということだけは忘れてはならないし、少なくとも、教会人が自分と違う他者と出会い、受け入れることを恐れてはならないのではないだろうか。

                       このことを、ジャン・ヴァニエは『人と出会うこと』で指摘していたように思うし、そのためにイエスは、自らの神の座を捨て、そして、この地で人として人と共に生きられたのではなかったか。人を支配するでもなく、人の指導者となるでもなく。そして、ボンフェファ先生は、ナチスドイツ支配下のドイツで、若者と共同体を作りながら「共に生きる生活」を実践された方である。そして、教会が神と共に、そして神とともに生きる人々とともに生きる者の集合体であることを「共に生きる生活」で示されていたと思う。これらのことを考えたい向きに最下部のリンクにて関連書籍を紹介する。

                       宣教地として、人を獲得する、人をとりあえず集めるという思考法から脱出し、人と出会い、神と人ともに生きるという思考法に移行するキリスト者とキリスト教界に移行して行ってくれたらなぁ、と素朴に思う。キリスト者が社会のメジャープレーヤーとなって、コンスタンティヌス的教会形成を目指すのではなく。

                       それは、お小さい方の伝道というか、お小さい方々と我々が出会っていく中で、我々とお小さい方とのちっちゃなアイスブレーカーをたくさん積み重ねていき、時間とともに変わっていくお小さい方とのコミュニティの中で、そこにおられるナザレのイエスを共に見つめることなのだと思う。イエスやパウロを教えるでもなく、イエスやパウロの言ったことのみを教えるでもなく。

                      キリスト者の大きい皆さんや、
                      もっと大きい皆さん方にお願いしたいこと

                       そして、キリスト教界の大人の方にお願いしたいことが一つある。皆さんの身近におられるお小さい方を皆さんの道具や、宣教のための手段にしないでほしいと言うことです。彼らの生き方や彼らのいのちは、親のものではないし、周囲の大人のものではない。子供たちを無理強いしないでほしい。

                       お小さい方の生き方やいのち、それは、そもそも、神のものであり、神からお小さい方一人一人に委ねられ彼らのものである。その神のものをあたかも自分たちのものであるかのように流用や自分たちの伝道という目的の為に利用するのはお止め頂きたい。目的が伝道であり、仮に崇高なものであると仮定したとしても、それは神の権限と尊厳を教会の大きい方が侵害することになるのではないか、と思う。

                      Jusus Campから ボーリング場で、神に示されたと大人に伝道する少女



                      子供をミニ伝道者とすること

                       そして、子供が子供らしくお小さい方が生きることができるといいなぁ、それを神は喜ばれるのではないかなぁ、と思う。こまっちゃくれたミニ伝道者、伝道にいのちをささげるミニキリスト者として生きるように仕向けることは可能であるが、その様に子供に強いることを神が望んでおられるのだろうか、ということは考えてもいいかもしれない。

                       そんなのは、ミーちゃんはーちゃんはいやで御座る。それは、神が与えたもうた選択肢を大人の都合で選択肢を本人の理解や意思とは関係なく狭めてしまうからだ。そして、西洋だと、子供十字軍、日本では、陸軍少年航空兵、お隣の中華人民共和国では紅小兵、近年のアフリカでの少年兵、クメールルージュ下での子供に犯罪性の判断をさせたりする黒歴史とどっかつながっているからである。

                       さて、ここまでこの長い連載にお付き合いいただいた皆様に、心から感謝いたします。

                       業務連絡
                        Nobu先生  
                          御要望にお応えして、このシリーズ作成しましたので、先生のブログで
                         感想などお聞かせいただけたら、幸甚です。



                      評価:
                      ヘンリ・J.M.ナウウェン
                      女子パウロ会
                      ---
                      コメント:いい本だけど、英語の方がわかりやすいかも

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