2012.10.19 Friday

NTライトセミナー第1回目の参加記(元アドレス)

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    2012.10.19 Friday

    NTライトセミナー第1回目の参加記

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        お茶の水で開催されたNTライトセミナーの参加記を書いてみようかと。また、このブログでのメモは、各パネリストやフロアの皆さんからの正確な発言ではなく、かなりミーちゃんはーちゃんが感じたことや、ご発言の趣旨の解釈が含まれておりますことをお断りしておきます。なお、青字の部分は、ミーちゃんはー ちゃんの感想、独り言、思ったことです。また、キリスト新聞社刊の「宣教って何だ」についてはまたあらためてご紹介の予定。

       まず、この会の最初は、Uさんの開会のことばとお祈りから始まりました。

       そのあとすぐ、最初は出版社A代表のOさんからOさんの個人的な信仰歴との関連で、信徒の立場から、聖書理解をさらに深めることになったNTライトについてのお話がありました。

       最初は、ワシントンポストやABCテレビで取り上げられた、携挙は神話的だ(多分、コレ)というお話が非常にアメリカ人の(いわゆる福音派と呼ばれる)多く人々にとってショッキングなことととらえられたことがふれられました。携挙でイメージされる天国観は、ギリシア思想の影響を受けて作られたものである可能性が述べられました。

        その後、Oさんがキリストと出会ったキリスト者集団が持つ天啓史観(いわゆるディスペンセーション主義)との出会いについて、70年代から80年代中葉のハル・リンゼイの「地球最後の日」が出たり、オイルショックやニクソンショックがあったり、ノストラダムスの大予言が出たりという社会文化環境の中で、宇野正美というオジサンがだんだん、変わった預言理解に傾倒していって、それが信者間で話題になっていたことや、グレース・ハルセルというジャーナリストが 書いた千年王国主義に立つ原理主義グループに潜入して(イスラエル聖地旅行にひそかに潜り込んで現地まで行かれたらしいが、そんなことしなくても、どっかのその種類の教会に行くと、得々と語ってくれて頭が腐るほど聞かせてくれたのに)書いたレポート「核戦争と待望する人々(朝日選書)」'下記リンク参照) が紹介された。

       Oさんご自身がディスペンセーション主義者の皆さんに抱えていた違和感、預言成就のためとはいえ、戦争行為という暴力の 容認、平和と開放と自由がイエスの主張であるにもかかわらず、それが無視されているありさまがずっとくすぶっておられたようであった。そこに、ライト先生登場で、本来の聖書に全体としての主張の中のコンテキストで読んでいくことを示された、ということをお話になられておられた。

       使徒時代に は、神の国理解、天の国理解が天上の雲の上で下界を見下ろすような霊的な世界ではなく、ユダヤ的な理解をしていたはずで、いわゆる中世の天国と地獄、ダンテの新曲、中世の絵画にあらわされたような、異教徒と戦った十字軍兵士などが天国に行ってほめられる、システィナ聖堂の天井にある最後の審判に描かれたよ うな天国理解がどこかでずれており、神の国理解の再定義をしていく必要があることをNTライト先生の本を読んでお感じになったそうである。実際の絵画の画 像を見せながら、ご紹介くださったが、プロジェクターがあれば、とは思った。

       また、Amazing Graceなどの歌いなれた聖歌にも、この種の感じは含まれており、それがかなり信徒の理解に影響しているのでは、ということであった。

       また、ライト説によれば、地上に神の国が到着した、というのが神の国理解であり、life after life after deathという構造になっているのではないか(参考動画はこれかな)、 という理解の重要性をお話になられた。その意味で、イエスは、「神の国」の働きを開始した旧約的な神の国理解でとらえるべきで、そこから、現実世界の問題 との対応をどうとっていくかの大切さ(世界観が影響する)をNTライトさんは問うておられるのであり、新天新地を待ち望みつつ、今ここに生きることの大切 さを述べておられるのではないか、と呼んでおられるとのことであった。

       このご意見に対して、Kさんは、ライトが我々に迫っていることの 一つは、天国観の再検討ではないか、ということを述べられました。Tさんはカナダのリージェント・カレッジで開催された牧師向けのセミナーで、福音書の テーマとは何か(The Gospel in the Gospels[ライトさんが大好きなギャグ]) について聞きに行ったところからライトを知ることになり、もともとルター派的なところにいたのだけれども、現在の福音自由教会がディスペンセイション神学 の影響を強く受けたところであるので、若干、気持ちが揺れる部分があったりするということをお話になられました。

       またKさんが、第2ペテロの3章6節には、「焼き尽くされる」という表現があるが、その部分の釈義というのか解釈の問題があり、別訳もあるし、どう訳すか、どう解釈するかが問題、ということをお話しなられた。

        そのあと、Tさんから、ディスペンセイション主義の終末論や、スコフィールドの解釈以外のものも問題で、ディスペンセイションでは、そもそも聖書理解の体系ともいうべきものであり、7つにぶった切って考えることが問題で、その結果、どうしてもこの世から逃避的になり、神様が来る再臨を待つような信仰になる のではないか、ということお話になっておられました。

       Uさんからは、この辺りの議論がきっちりされているのが、Surprised by HopeというC.S.ルイスのSurprised by Joyを明らかに下敷きにした本であることや、アメリカで仮死状態で天国に行ったと主張する子供の話がTime Magazineで取り上げられ、その話とNTライトの理解が乗った特集号があった、そうです。

       まぁ、現在のような聖書理解になっている根源としては、プラトン主義の霊肉二元論であり、それがいまだにキリスト教の天国理解や神理解に影響を及ぼしている、ということらしいです。

        2番目にお話になられたKさんからは、NTライトの専門領域は、「史的イエス」と「パウロ研究」であるものの、ライトは『複雑』で『ダイナミック』な聖書の権威観を持っていることをご紹介されたように思います。そして、NTライトの聖書理解における権威観のポイントとして、聖書の文字で書かれた文章そのも のに権威があるのではなく、聖書の文字で書かれた文章を書かせた神に権威があるのであって、神から派生する権威性を持つ文書が聖書であることを見逃すとエラいことになるというご主張のようだ、ということをお話ししてくださった。

       特に、聖書権威観として、「神の自己啓示(情報コミュニケーション)」として理解した場合、論争の具としての聖書のことば理解となりがちで、とお話になっておられた。まさしく、いけるパリサイ人化してしまうキリスト者の姿である。うちのキリスト者集団の関係者が以前はやたらと多かった某北関東国立大学の聖書研究会では、日夜、この種の聖書のことばを使ったさばき合いが起きた、と聞いたことがある。

       さて、Kさんは、5幕からなる劇に見られる聖書の権威としてNTライトがみており、
      旧約部に関しては、

       O1 創造(創世記1−2章)
       O2 堕落(創世記3-11勝)
       O3 イスラエル(アブラハムからメシアの直前まで)
      新約聖書に関しては
       N1 イエス(十字架の死と復活)
       N2α 新約聖書/初代教会(「イスラエルのストーリー」を成就するイエスを語り宣言する)
       N2ω 究極の終末(ローマ8章Iコリ15黙示21-22章)

      と なっておりこのような演劇の基本の大まかに演技する方向性が神から示されたのが、キリスト者であり、演技指針である聖書に示されたの方向性に従いつつ、即興で演じることがキリスト者の役割であることがはなされた。進行している現代という時代の中でドラマは進行しているのであり、それに合わせてキリスト者 は、即興での演技をしていくのである、ということのご説明があった。具体的な固定的な行為の拘束が聖書の目的ではないこともお話になられた。

       Kさんは、新約と旧約の中で、流れの転換、場面の転換があり、一つの断絶があると理解しているとお話しておられた。

       フロアからの質問で、どう聖書を読めばよいのか、という質問が出たが、逐語霊感説や無誤論、無謬論に立つ聖書の読み方は、近代的な真理観、啓蒙主義的な聖書理解の遺物であり(あーあ、言っちゃった。うちでこんなこと言ったら、石投げられそう。Tさんのところも、そうかも)、もっとダイナミックな現実社会での行動の指針を与える書物としての聖書としてNTライト先生はとらえておられる、ということのお話があった。

       また、マクグラスの言うような伝統の意義(詳しくは、キリスト新聞社の「聖餐」で 見れるかな)をNTライトはどう考えているのだろうか、ということが取り上げられていたが、カルビンにしても、ルターにしても彼らが抱えた現実の問題に適応して聖書から考えたのであり、現代人も同様に自分たちの問題として、問題をとらえなおすべきであり、伝統の相対化が重要ではないかというお話がありまし た。決して、線形的な発展論という意味でのLinear Progressをライトは想定しているわけではない、ということだそうです。

       ミーちゃんはーちゃん風に言うと、そう、各教派で掛けることになっている教派メガネをはずして聖書を読むことが大切なのね、というお話でした。

        これに関して、Tさんからは、聖書を解釈するにしても、右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい、というのは、クリスチャンはダスキンさんのレンタルドア マットになりなさい、という意味ではなく、当時のユダヤ人が抱えていた聖書理解に立ち返ってイエスの言葉を理解することでわかってくる、ということでし た。このためにも、当時の聖書理解に立ち戻ることが重要、というのがNTライト先生のご主張であることをご説明された。特に、ユダヤ人が反ローマ帝国のゲ リラ活動(今のパレスティナゲリラ見たいなこと)すると、その反動として、イスラエルが壊滅すること、神殿崩壊につながることを主張することになるので、「お止めになられたら」というイエスの政治的発言であることなどをご説明になられた。

       3番目には、Uさんがお話になられ、ライトが非常に歴史的な感覚が鋭く、さらに細かなところまで丁寧な目配りがされており、また深いこと、その歴史感覚と聖書理解の結びつきがあること、聖書の権威性の現代的な意味について、Simply Christianの第6章IsraelやPaul:A Fresh Perspective(読みかけで家に置いてきた)Challenge of Jesus 7章 Walking to Emmaus in a Postmodern Worldからご説明された。

       Simply Christianのなかでは、NTライト先生がホロコースト記念館に立ち寄られた時、感じられたヨーロッパの『クリスチャン』文化の中に潜む反ユダヤ性 の部分(62-63ページの私訳)をご紹介になられ、この辺りにヨーロッパ人としてのNTライトを感じる、とおっしゃっておられた。ホロコーストを海の向こう(大西洋の向こう)のけしからんナチスドイツの出来事、と単純にかたずけられないユダヤ問題を内包し続けるヨーロッパ人としてのNTライトが出ている のでは、というご指摘であった。

       そーいえば、確かに、映画「炎のランナー」でもユダヤ人差別が出てくるし、映画「日の名残 沈むころ」でもユダヤ人差別が出てくる。結構、ヨーロッパにとってはユダヤ人問題は現在もなお進行形であるのだろうと思う。

       2点目に当時のユダヤ社会の時代背景からみた闘争としての十字架の話があったが、これは、ライトの講演で、映画『パーフェクトストーム』でたとえられていたやつだ。なお、ミーちゃんはーちゃんは、映画の宣伝CFとThe Simpsonsのパロディ(Season 18 Episode 10)でしか見ていない。

       これを図にすると

        宗教   − 哲学(文化) − 政治(軍事)
       ユダヤ教   ギリシア哲学   ローマ
       ヘブライズム ヘレニズム    ローマ法

      の社会であることがあり、それが聖書理解やイエスのことばの背景にあることが触れられた。
      ライトの解釈の枠組みとその世界観として、

            →  Narrative  ←
           ↓     ↑    ↓
          Symbol  ←  →  Praxis
           ↑     ↓    ↑
            → Questions   ←

      というNarrative(物語)、Symbols(エレメント・律法・安息日・神殿)Praxis(生活習慣)Questions(では、どういきるべきか?)がそれぞれ複雑に入り組み(ダイナミックに入り組んでいて)それが聖書の世界観を構成しているのでは、というご説明をされた。その意味で、近代の世界観を聖書の世界観へ回帰させる必要があり、全部のものごとが川の流れのように切れることなくイエスのところに集まってくるような解釈の考え方が、ライトの特徴であり、分断されないところが特徴だろう、というお話がされました。

       最後にポストモダン社会としてのエマオの途上にかんしては、現代の多文化化、多元主義が進んだポストモダン社会の中で、キリスト教が社会の中心でなくなったという意味で、ヨーロッパ人の生活感覚として、キリスト教がヲワッタ観があり、その中でも、Foundational documents(How God Became King p.111)としての聖書の重要性がふれられていた。

        パネルの方からは、今を生きるヨーロッパのキリスト者として生きるNTライトのすごみ、キリスト者の歴史認識を教えられる、というご意見(Oさん)や、 NTライトでは、新創造ではなく再創造のほうが近く都市のイメージで、神の国が述べられていることが述べられ(Kさん)、Oさんの「創造から再創造」に対して、むしろ「創造から新創造」ではないか、なぜなら再創造だとエデンの園に戻ってしまうが「新天新地」では都市のイメージで表現されている。また1コリント15章では朽ちてしまう体がwill be transformedとあるように変えられていくのだ、という趣旨のご発言がございました。「ユダヤ人=福音に敵対」という単純な構造ではなく、「 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。(ロマ 11:28)」をみれば、ユダヤ人は、神に愛されたものであることが書かれているのに、後半部分が読み飛ばされている。その意味で、NTライトのヨベルの 年をアフリカ諸国への借金棒引きという形でイギリスで実現していったあたりのNTライトの歴史観と聖書理解に裏打ちされた現実社会とのかかわりを見ることも 重要ではないか(Tさん)というお話もあった。

       最後にお話しされたTさんは、ダニエル書の解釈についてのイエス解釈との関連をお話し され、ダニエル書7:13-14での「人の子が雲に」という部分がイエスがユダヤ人から総スカンを食った原因であることのご説明があった。なお、人の子が 栄光の座に就く、人の子が支配することが完成したのが、ユダヤ人の王として行った十字架であり、復活や十字架は王の王、主の主の業であることを見ることが 重要であることの説明があった。一部のキリスト者は、ともすれば、ひたすら再臨を待ち望みがちであること、さらに、再臨に飛びつきがちなキリスト者にとっ て、神の支配がはじまった場所としての十字架を見ることが重要ではないか、とお話がされた。

       ダニエル9章24節の70週の最後の1週目 にいるのが我々だ、という聖書理解がディスペンセイション主義的な聖書理解の影響を受けたキリスト者集団では幅を利かせており、艱難前に携挙されるので、 「あとは、不敬虔なものとユダヤ人に任せておけば、みなよろし」みたいな理解が幅を利かせているけれども、「それもどうななのかなぁ」というお話があっ た。

       というのは、この70週に関する議論が当時のユダヤ人の間で盛んにされており、最終的にユダヤが勝つという軍事的政治的根拠のない 強硬論が当時のユダヤで幅を利かせており、このような聖書の読み方がユダヤ人を滅ぼすことになったのではないだろうか、という提示がされた。その意味で、 ディスペンセイション神学の影響下は、2000年前のユダヤ人の聖書理解(預言理解)をそのまま引き継いでおり、その理解から出てないかもね、というお話がされた。(これは、ミーちゃんはーちゃんにしてみると、当たり前なのだな。だって、ディスペンセイションを言い出した人たちは、自分たちこそ、初代教会の正当な後継者と、あまり明確な根拠なく思っているので、基準は、2000年前の使徒時代のユダヤ人に戻るしかないのですね。)

      追加情報
       ただ、どうも、ご発言者のTさんによると使徒たちは、ダニエル書をきちんと理解しておられたのだけど、一般のユダヤ人は強行論だった、ディスペンセイション主義の方は、使徒的でないダニエル書やエゼキエル書の読み方をしているのでは?ということだそうで(うちの中では面と向かって、そんなことはいえそうにないので、これがまた困りものなのですが…)。そういえば、ぜロットとも呼ばれる熱心党員なんかが出てきますね。熱心な人は行き過ぎる傾向が時にあるようで・・・。


       さらに、ダニエル12章23節からは、この復活預言はイエスにおいて最初に実現したものであることがあることが示された。さらに、ダニエル書は全体を読むと、悪と積極的な戦いを展開しなくても、神が最終的な勝利を与えてくださるということが記されているということをお話しされようとしておられたようであった。

        その意味で、ダニエル書は、異教の国の中でダニエルにとって、YHWYこそが神であり、そのことに死をかけてまでも忠実であったということが重要なのでは ないか、と思う。このダニエル書は、1世紀のユダヤ人に愛読されたものであり、その意味で、今のディスペンセイション主義者も、このユダヤ人と同じような 読み方をしているかもしれませんねぇ、というお話があった。

       NTPG(New Testament and the People of God)はユダヤ人にとってイエスとは何か、ということを示した書であるし。Jesus Victory of Godは十字架は神の勝利であることを示した書である、というお話があった。この話を聞きながら、荒野の試練の中で、イエスが悪魔に行った、あなたの神で ある主を試みてはならない、の「あなたの神である主」はすごい意味を持っているのだなぁ、ということを改めて確認。

       それから、フロアからの質問で、ライトの最近追加された部分のある本 Scripture and the Authority of Godでは、結婚と安息日の問題が取り上げておられ、ライトが割と保守的な性倫理と聖職者像を持っていることなどが紹介された。

       また、この質問の関連で、安息日の有効性に関しては、ライトはどうも、ユダヤ律法をユダヤと他民族を分けるための識別子(マーカー そうか、律法は拡張子なのだな) である可能性があり、それが現代を含めて拘束性をもつものではないこと、イエスの十字架で、諸民族の間の隔てというのか区別が廃棄された後、律法は識別子としての意味を持たなくなったこと(なぜかと言えば、すべての民族が神の民となれることになったから)その中心軸(転換点)として十字架と復活があること が述べられた。そして、そのことを弟子たちが主の日などを含め、具体的な形(praxis)にしていったのではないか、という説明があったように思う。

        「十字架と復活がターニングポイントになるのか?」というフロアからの質問に関しては、その意味で、ユダヤ的聖書を包括するようなものとして、キリスト者 的聖書があるのであることや、十字架と復活がターニングポイントだというのであるというよりも、新しい時代になった、ということ、新しい創造の時代が始 まったという歴史認識に立ち、使徒たちが歴史認識をもとに、さまざまな儀式や習慣を読み変えていったのではないだろうか、ということがKさんから提示された。

       また、マルコ13章とその並行記事が、世の終わりや終末記述であると理解してきた歴史的理解があるが、本来、これらは、そのよう に十字架にイエスがつくことが王としての完成させることだ、と理解できなかった当時の使徒たちに十分理解されたのだろうか、ということをかんがえると、こ の部分は本来、これから起こる十字架に関するテキストではないだろうか、ということがKさんから示された。

       Tさんからは、中間時代のユダヤ人が読んでいたもの(旧約外典)の理解というのは重要で、この部分を見ないと、当時の人がどのようにイエスの発言を理解していたのかどうかは分からな い、というお話もあった。そう、ミーちゃんはーちゃんも、外典は大学院以来最近フランシスコ会訳を手に入れるまでは、読んでいない。

       あと、この話の中で、そういう意味で言うとイエスの十字架の死と復活は、転換点というのか、筋力や動力の動きを変えるジョイント(関節)みたいな役割をしているんだろうなぁ、という感想を持った。エネルギーの流れとしては同一方向なのだけれども、エネルギーの方向性が拡散波動していくような感じかもしれない。イエスの十字架と死と復活は、その意味で、光を拡散させるレンズというのかプリズムみたいな感じかもしれないなぁ、と思った。

       あ と、ミーちゃんはーちゃんが個人的にウケたのは、「説教の中で、このようなもっとダイナミックな聖書解釈をお話しするのだが、聞いてくださっている信徒の皆さんがこれまでの伝統的な聖書理解の枠組みに大きく影響されておられるみたいなので・・・・」とちょっと困っておられるような発言や、「聖書釈義に困る と、テキストとしてちょっと、NTライトの書いたものを参考にする」とか、そういった発言もできて、「そっかー、そーゆーライト先生の本の使い方もあったか」、と改めて感心した次第。

        しかし、この研究会、とっても面白かったが、ディスペンセイション的聖書理解にどっぷり、自分たちがその聖書理解に大きく依存していることにすら意識がな い人々や、エゼキエル書と、ダニエル書と、黙示録だけをかなり頻繁に開けるために、その部分の聖書の端っこが膨らんでしまっている人たちもいる我がキリス ト者集団の片隅にいるものとしては、「ををを。ディスられた。」と思ってしまった。「すいませんのぉ。神秘主義者的なところのあるJNダービーさんが根拠薄弱なある女性が喋ったかなり特殊な聖書理解に乗っかって、わけわからん体系を作り上 げ、スコフィールドさんが聖書にディスペンセイション神学理解を聖書にくっつけて売りあるいたりしたもんで、北米のバイブルベルトに普及させてしもうて・・・」、「オズワルド・J・スミスさんも、スコフィールド版聖書をかなり熱心に読んでいたみたいだし・・・・」。なんか、ちょっこし肩身の狭い思いをした研究会でもありましたが、普段思っていることが、ワサワサ出てきたので、楽しくもありました。

       私は、自派の中では肩身が狭いですが、適当にこんなブログを書いて、遊んでおります。パネリストのお一人のKさんにもかわいがってもらっているし。

       今回、Uさんのお顔をまじかで拝見できたこと、Tさんとライブでお会いできたこと、KさんとOさんには再会できたこと、鹿たんと瞬間フェローシップできたことだけでも、来たかいがあったというもの。楽しい一日でした。

       だれかー、関西でもこういうのやりませんか?ぜひ、関西でも・・・。

       まぁ、ミーちゃんはーちゃんは、ヒラ信徒なので、NTライト先生を知らなくても、しょうがないし、そもそも、ミーハーな人間なので、面白いものは、単に面白い、と思って騒いだところでも、お許しいただけるかなぁ。

       あー、今回も長かった。ここまでお付き合いいただいた皆さんに、心から感謝。


      評価:
      ハル・リンゼイ
      いのちのことば社
      ---
      (1982)

      2013.06.15 Saturday

      2013年6月に開かれたライト読書会の記録 その1

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        2013年のリアルでのNTライト読書会に出席してきたので、ご報告をば。今日の記事は相当マニアックなので、内輪受けようでござる。

         なお、濃いグレーは、その時出た話の概要、こちらの紺の字は、ミーちゃんはーちゃんの感想。

         では、どうぞ。

         今回読んだテキストは、こちらPaul in Different Perspectivesです。読書会の主催者のK先生が気になったのは、こちらこちらでご覧いただけます。今日のポストは、オリジナル読んでないとまーったく面白みに欠けると思います。まぁ、それでもできるだけ面白くするようにしてみました。

         K先生からの開会のあいさつで、最初はテキストに沿って、始めましょうか、ということでテキストに沿いながら話がはじまったのでした。

        一音一
        大切にして
        聖書を読むことについて


         今回読んだ講演録は、ずいぶん自己弁護的でPolemical(論争的)な感じがする。アメリカでNTライトさんが、改革派の皆さんから、言われたことがどうも背景にあるみたい、ということでかなり宗教改革にこだわったしゃべりっぷりになっておられたようである。

         そして、ことあるごとに、宗教改革原則を持ち出しておられ、ティンダルの話を出しながら、NTライト先生、一シラブルとて、気を使っている、とおっしゃっておられる。また、聖書原典に忠実でないのはいかがか、とおっしゃっておられるが、英訳聖書でも大変だが、日本語聖書ではなお大変ではある。

         この辺、聖書翻訳に携わったことがないので、何ともいい難いが、まぁ、どう翻訳しても不満は出て来る訳で、それでもあと数ミクロンでも実態に近づけたい、と思って翻訳しておられる方には頭が下がるし、ヘブライ語や、アラム語、ギリシア語で読まなくてすんでいるのは助かるなぁ、と思いはするが、それと同時に失われている部分は多いのだろうなぁ、とは思った。


         その意味で、Kingdom Bibleはよいのだけれども、ある面、意訳しすぎている部分がある。ピレモン書の註解書を読んでいた時、信仰と愛は主イエスキリストと聖徒にかかるとしているようだ。ライト先生は、Kingdom Bibleで語順そのままで訳している部分がある、とのご紹介があった。

         Kingdom Bibleがいいかどうかというのは、一概に言えない部分がある。Kingdom Bibleの想定読者層はは教会に来ている人。NTライト先生の聖書翻訳には2バージョンあり、Kingdom BibleとNew Testiment for Everyoneのシリーズがある(ようです)。

         NTライトさん、個人訳までしているんだ。へぇぇ。と思ってしまった。まぁ、したくなる気持ちもわからないではない。別の訳を他者が使っていて、えぇぇぇぇ、それ、その翻訳の意味を取り違えてません?そんなご無体な・・・、という解釈を拝聴させていただいたりすることもあるし。また、どう読んでも意味がわからん翻訳とか、意味がわかりにくい翻訳とかの場所もあるしね。さて、新改訳の第4版の改定作業中とも聞くので、まぁ、いい訳のが出ると嬉しいなぁ。ミーちゃんはーちゃんはNTライトオタクにはまだなっていないので、いずれも持っていない。

        ユダヤ人と異邦人が一つになることの意味


         この辺から、読書会のテーマの文章に戻るが、文脈から言って、ユダヤ人と異邦人共に一つになるという点に強調がある。つまり、食事を一緒にする仲間、というような強調点がある。ここで、ティンデル訳と欽定訳を相手にしているけれども、現代訳では、ライト先生のような理解が普通に反映されているように思う。


          ここまで書きながら、思い出したのだが、イエスの弟子たちは、パリサイ人から、「おまえ、やくざや不良と付き合って、なめたまねしてんじゃねぇぜ。そんな馬鹿な奴らとつるんでねぇで、ちゃんとした俺さまたちと付き合え。」といちゃもんつけられていたのであった。まぁ、それと似たようなことかもしれない。サマリアのスカルの井戸のところで、女性に水を求めたイエスに対し、サマリアの女性は、『そんな、私どもみたいな人間には、ユダヤ人様には水を汲んで差し上げる資格すらありませんのに』に近い感覚でしゃべっていたわけだから、ユダヤ人にとって、『異邦人と一緒に食事をする』というのは、今の日本人の感覚でいえば、サルと一緒にご飯を食べる、みたいな感覚だと思う。食事規定も厳しいし。


         ここでの信仰者全体としての一体の理解は、福音派の信仰義認、Ordo Salutisではこぼれてしまいやすい面、すなわち、信仰生活の具体的な側面に関しての信仰義認を提示している。救済論ではなくて、具体的な食卓を一緒にする、というポイントを見逃さない方がいいかもしれない。

        神の怒りの拡散波動砲のターゲットは
        十字架上のイエス?

         義認論は、ローマ書の3章で語られていることだが教理の土台。異邦人への怒り、ユダヤ人への怒り、これらすべてが十字架のイエスに向けられた、と理解されるが、ガラテヤ人への手紙だと、神にあるものの平和としての義認として、なるほどと理解されやすいが、ローマ書の場合、信仰義認の理解が少し違うように見えてくる。

         なんか、こないだどなたかがツィッターで話しておられたが、義認論では、人類に対する神の怒りが拡散波動砲の用にぶつけられて、それゆえ義とされるという理解があるようである。うーん、スターウォーズ的なコンセプトでいえば、デススターにスーパーレーザー攻撃加えて破壊するようなものであるらしい。まぁ、ジョナサン・エドワーズの説教も、そこに焦点当ててるように聞こえる部分あるなぁ。そりゃ、拡散波動砲撃たれた方はかなわんわ。


         ガラテヤでは、ユダヤ人異邦人問題が明らかになってきて、分裂の問題が生まれたがためにこのような形での信仰義認となるのではないか。しかし、ライト先生としてはローマ書の釈義を再検討する、新しい視点を当てる必要がある、そして、義認をどう考えるのか、を再検討した方がよいかも、と言っているようである。

        キリスト銀行における
        罪のスワップ取引ww

         改革派の皆様がライトを攻撃した背景には、2重転化、キリストの義がクリスチャンに転化、クリスチャンのものがキリストに転化されるという一種の相殺取引のような理解部分と齟齬を起こすからかもしれない。むしろ、キリストの義にともに預かるものになるということをライト先生は強調しているように思われる。改革派の皆さんの理解のUnion of Christの中に二重転化がどこかで入り込んじゃったのかもしれない。

         ここで、罪のキリスト銀行における神に対するスワップ取引みたいな話が出てきたのが面白かった。へぇ、そんな解釈あるのぉ、という感じだった。そりゃ、スワップ取引に失敗したら大損こくから、恐怖で縛られてしまうよね。
         そもそも、罪概念をどう考えるのか、結構重要だと思う。どうしても、キリスト教倫理に反することが罪、みたいな理解の人もいるし。最近だと、これ、話題になってたよーな。多分、完全な誤解だと思う。でも、この手の誤解は、他の人から何回か聞いたし、アメリカ人の高校生がそう言っているのを聞いたのだが…という相談を持ち込まれたこともあるが、もしそれなら、「産めよ、増えよ、地を満たせ」という神の祝福の宣言は無効になるので、多分それは誤解だと思うですけど・・・相手は、クリスチャンとはいえ、高校生ですし…とは答えておいたけれども。


        参加型の信仰、観客型の信仰

         キリストに起きたことは、すべて、キリスト者に起きる、ということをライト先生はお話になられたいようである。同種のことを、リチャード・ヘイズもいっている。本来の、Union of Christが忘れられているのではないか。

         キリストの生き方に参与するというParticipationalist Viewということがかかれているが、これは、 Sandersが言ったことでもあるようにおもう。。

         多分、この参加型の信仰の形態ってのが大事なんだろうと思う。どうしても、牧師先生がやっちゃう文化、牧師先生にしてもらうのが大好きな文化ってのが、歴史的に日本のキリスト教界においては醸成されているようなので(ミーちゃんはーちゃんとこは、例外中の例外らしい)、どうしても、ランボー牧師を求めちゃう教会の姿があるのだろう。無益だから、やめればいいのに。相互に神経すり減らしてどうすんです、と思ってしまっているのだな。

         ユダヤ人もギリシア人も関係ないは、食卓問題とかかわるだろう。信仰とは行いの反対なのだ、信仰の結果救われるのだ、となるとパウロ書簡は読みにくいものになるのではないか。ライト先生が言っているのは、ヤコブ書みたいな感じで言っていると理解する方がよいだろう。行いを一切含まない、ピュアな信仰のことを言っているのではないだろうか。

         あまりに、信仰による義を強調して読んでしまうと、ローマ1−3章で、神の怒りがふれられていて、4章で行いが要らないになって、5章以降はどうもおまけになっちゃうのではないだろうか。

         しかし、なんか特定の個所に重きを置く聖書理解って一体・・・と思うよね。せっかくさ、一生懸命パウロじいさんやら、ペテロじいさんやら、ヨハネじいさんやらルカじいさんが書いているのにさ、おれ、気に入らないから、ってさ、ポイポイのポイって捨てていいんだろうか。ゴキブリホイホイ捨てるんじゃないんだからさ、そんなに簡単にポイポイしてよいのだろうか。


         新約聖書学の伝統の中では、信仰義認の話が出てくるのは、論争的な背景で出てくるのであって、Polemical Doctrineだとライト先生はおっしゃっている。
         
         律法か信仰か、行いか恵みか、当時は、行為義認ではなかったはずだ。Sandersは当時のユダヤ教は、行為義認の宗教でない。と文献学的に示した。(サンダースは、そうはいっていないという説もある、らしい。)

        律法・旧約聖書をどう見るか

         これまで、信仰だけを純粋に取り出そうと、従来はしていたのではないか。ライト先生がカリカルチャ的に書いているのは、律法はダメ、ハードルが高い。だから律法ではだめだ。人間はろくでもないから、だから信じるだけ、と新しい信仰義認というシステムが出てきた、とこれまで理解されていた。

         そして、旧約聖書を守ることが不可能なことを旧約聖書が示した。簡単な方法を示したのが新しいものに変わった。歴史的にはそういう傾向が出てきた。

         しかし、この傾向って、「イエスの言葉を読んでないんですかい。ダンナ、困りますぜ」だよなぁ。どう考えても。だって、「イエスは、この天地がほろびることなんか、律法がほろびることに比べたら、プッ、ゲラだぜ」(ここまでお下品ではないが)って言っているような気がするなぁ(ルカ 16:17)。

        信仰と行い

         カルバンは、信仰だけでは救われないと言っている。聖歌と行いが必要だといっている。今みたいな、信じたら、はい、あなたは天国です、というような安直な方法論に堕している。
         そういう部分が改革派の中にあるものだから、ライトさんに対して、改革派が過剰に反発しているのではないか。これまで、信仰と行いは、一種の対立軸でとらえられ、受け取られてきた。

         しかし、一つの神の民として考えると、信仰義認は、神の前に個人が義とされるかではなく、異邦人とユダヤ人が神において一つにされることと関係しているとライトは主張しているのではないか。信仰義認は、神の民が一つにされる。という理解が適切なのかもしれない。

         ライトは、教会論主張しているのであってて、救済論を捨ててしまったと批判される場合がある。あるいは、ライトは神の怒りを軽く見ている。神の怒りが言 及されない。と批判する人もいる。また、神の罪に対する怒りが爆発してないのはおかしい。神というのは、100点でないと満足しない神なので、キリストが 100点であり、キリストの転化があってはじめて神の怒りが満足されるという理解が薄いのではないか。

         といっても、まぁ、どうも今回のレクチャーの記録(ライトの講演記録のテキスト)を見ている限り、かなり、改革派の一部の方からのうっとうしい論争を挑まれ、どうも、それが一段落して、のころらしいので、かなり改革派の一部の皆さんに気を使ってしゃべっているようだ。別に改革派を否定するとかはしてない感じがしたんだけど、まぁ、誰にでも行きすぎはあるんで、せっかくいいものをお持ちなんだったら、もうちょっと冷静になられたら、って感じではないかなぁ、と読みながら思った。


        宣言としての福音


         No Other Lordの部分では、福音の定義を考える上で、euangelionが皇帝の就任宣言を意識させるというのは、新約聖書学者では常識になっている。このあたりが、一般の信徒レベルの福音理解とはかけ離れていて、『福音』が独り歩きしている感じがする。新約聖書では、宣言ととらえるべきであるのだけれども、いつの間にか、救いの教理を語るのが福音と誤解されている。一種、福音とは、(神による救いという)裏側を持った宣言であるが、説教ではそういう話をしている人は少ないのではないか。

         ライトは、従来型の福音も、否定はしていない。しかし、その後ろ側に、こういう意味や視点もあるのではないか。ライトは決して、救済論やこれまでの福音の内容を否定しているわけではなく、どちらかというと、再定義しているといえるのではないだろうか。

         そうか、新約学では、最近、euangelionが宣言と理解するのが一般的なのか。この種の話をミーちゃんはーちゃんが最初に知ったのが、「福音の発見」である。まぁ、この辺りのある程度詳しい議論は、福音の発見福音の発見ぜひお読みくだされ、と選挙が近いこともあるので、ちょっと連呼しておこう(ステマである)。

         ガラテヤ3:8での「異邦人が救われる」とは意味が違うかもしれない。異邦人の聴衆には、宣言という形でのeuangelionであれば、「あぁ、なるほど」とわかる(メイク・センス)するという部分があるのではないか。もちろん、救済は背景としてついてくるが、宣言する、の強調点が外れたのでは福音としては、神の側の主権が外れるので、あまり、意味がないのではないか。ある面、一方的な宣言(アナウンスメント)だけだと理解すべきなのではないだろうか。

         神の側の主権、これが意外と重要なのだが、それが抜けると、どうしても自分が何した、かにしたということが重視され、いつのまにか、自分が中心になり、神の位置づけが軽くなり、「神の座に人間があれ、座ってません?」ということにもなるのかもしれない、と思った次第。

         ということで、次回、次次回へと続く。あータイミングが悪い。ボーカム先生の講演記録もあるしねぇ。ひょっとしたらボウカム先生を優先するかもしれません。その際はご容赦賜りたく。

        評価:
        晴佐久 昌英
        カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
        ¥ 1,470
        (2010-01-20)

        2013.06.19 Wednesday

        2013年6月に開かれたライト読書会の参加記 その2

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           前回の続きでござる。今回とこれの後継記事は、完全に内輪ウケ用(あと、読書会に参加できなかった方向け)の記事ですので、ご関心のない方には、何、コレ?のはずです。しかし、ご関心のある方向けに、ミーちゃんはーちゃんが参加した読書会の記録を残しておこうかと。個人用のメモの意味もござるし。

           一応、濃い青字は、前回引き続き、ミーちゃんはーちゃんが思ったことについて記したものでござるが、ここに書かれた記録は、発言の趣旨かなぁ、とミーちゃんはーちゃんが思ったことを書いたので、意図と違うことを記録・記憶しているかもしれませんので、その辺はご理解賜りたく。

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          信徒へのEffective Callについて

           Effective Callについてであるが、人が信じるのは、Effective Callが神からの感じられるかどうかではないだろうか。しかし、この考え方だと、一般の信徒さんの多くはご不満に感じられるのではないだろうか。

           さて、これまでの福音派の場合、政治的なことを言うことをかなり嫌がる側面があり、どうしても、福音の内容を個人の魂とかかわるものととらえがちになる傾向があったように思われる。政治的なものを排除したのは、間違いだったのかもしれないようにもおもわれる。

           同盟の何人かの牧師さん達は東日本大震災以降、特に主張され始めている方はいるし、Missio Dei の概念などもこれとかかわる。その意味で、社会派の福音とのオーバーラップも出てきているように思われる。

           ローザンヌ会議以降、世俗にかかわることの重要性を考え始めており、キリスト者の責任とは、霊的責任プラス社会的責任を考えるべきではないか、という見解が出始めた。

           この部分を聞きながら、ラウシェンブッシュのキリスト教と世界に出てくる評者たちなどが典型的かな・・・と思ってしまった。これまで、ミーちゃんはーちゃんは、キリストを霊的な世界、個人の救いの世界の中だけに閉じ込めてしまっていたような気がする。そして、世間様のこと、社会のことと教会生活の間にものすごく高い塀を立てて、境界線をピシッと線を引いていたような気がする。しかし、おそらくそれではいけないので、社会のことも、教会のことも、それが一貫したものとして考えるべきなのではないか、と迫られている感じがする。


          信仰を持つことが
          政治的宣言であった使徒時代

           救いの条件として、イエスが主(メシア or キリスト)と初代教会の人々は主張したのだが、当時のローマ社会においては、その主張そのものが政治的言明(Political Statement)であったと考えるべきであろう。

           その意味で、ライトの啓蒙主義からの回復を目指していると考えることができよう。

           現代においては、宗教多元主義の問題と対処しないといけないのであるが、そもそも、寛容さをどう考えるのか、ということは考えるべきであるかもしれない。イエスが主であるということは、一種の政治的表明(ポリティカル・メッセージ)でもあることを、もう一度考えた方がよいかもしれない。

           特に、2000年前は、キリストへの信仰をもつことは、相当政治的な決断であったはずである。今はローマ帝国時代と比べ、より世俗主義的なものになっているかもしれない。ガラテヤ書も、そもそもポリティカルな話のコンテキストで考えるべきかもしれない。

           キリスト者であることがポリティカルステートメントであった時代というのか、教理の関係で、ポリティカルステートメントにしちゃったキリスト者がいた時代が、日本でも15年戦争中にあった。もう、15年戦争すら忘れられているので、そういう部分は忘れ去られているけれども。
           まぁ、キリスト者であることが社会における少数者である以上、現在の日本社会でも、一種のポリティカル・ステートメントになっているはずなのだが、現代の日本社会の背景、思想的底流の中に、キリスト教文化を経て生み出されてきた人権思想や民主主義がながれているので、あるいは、その覆いをかけられているので、ポリティカル・ステートメントにはなってないという実情があるように思う。その辺の社会思想や社会システムとキリスト教について、もう少し考えたいと思う。



           なぜ、ガラテヤの非ユダヤ系の人々がユダヤ教の会堂や会衆にひかれたか、という視点で考えた方がよいかもしれない。紀元70年ごろの政治的自由、市民的自由の関係を考えるとき、当時のローマ市民やギリシア人などが戦争などに、引っ張られた。ライトは、ガラテヤで、ユダヤ人が特権をもっていた可能性を指摘している。

           このガラテヤ書だけよむと、純粋に宗教的な問題に聞こえてしまうかもしれないが、パウロだけでなく、多くの市民がかなりひどい目にあっていたようである。しかし、ユリウス・カエサルのころから、ユダヤ人は一定の特権を持っていたようである。たとえば、その特権の中には、安息日に自由に集まれる。お金を輸送してよいとかの特権があった。それに対するやっかみが起きた。ユダヤ人は皇帝に嘆願して、ユダヤ人としての特権を認めてもらったのではないか、というギリシア人側の意識があったかもしれない。

           この辺のお話を聞きながら、ローマ社会において、生産資源となった農業用土地という資産を持ちえず、また、その生産資源を取得する方法であった、ローマ軍への兵役に就くことをもしなかったユダヤ人は、流浪する中でもビジネスとして成立する、あるいは流浪するがゆえに成立する金融事業、資金決済事業、商業しか生存するビジネスモデルがなかったのだろう。
           まぁ、ローマ帝国領の拡大に伴い、実際の物流、資金流動を担う担い手も必要だったし、ローマ人は民族として、どうもこの種のことがあまり得意ではなかったのかもしれない。この種のことは、フェニキア人とかギリシア人に任せてきていたという側面があったように思う。それは、ローマ人自身が農耕民族として産業の基盤を農業においていた、ということもあるのではないかなぁ、とか思った。



           ガラテヤはこれまで、キリストの分裂と理解されてきたことが多かった。特に、律法遵守型のイエルサレム教会と律法を軽視した異邦人教会という対応で理解されてきた(ジェービス・マーティン)。

           しかし、歴性的背景を考えてみると、ユダヤ教を信じてきて、すぐさま、律法やめようとはならないだろうし、律法は無効だ、律法をまもることで、呪われよ、とパウロは聖書の中で、言いまくっているだろうか。あるいは、律法の奴隷にとどまり続けよ、と言いまくっているのだろうか。

           この辺りを考える際に、NTライトのJesus of Victory of Godは参考になるかもしれない。

           従来の代償刑罰ではなく、補囚の裁きのクライマックスとしての十字架があり、そこで神の裁きをキリストが受けたと理解しているようである。従来理解されてきたような代償刑罰とは違うものと考えたほうがよいのかもしれない。十字架で、イスラエルの捕囚が完全に終わった。そして、新しい福音にかわった、と理解するほうがよいのかもしれない。

           第2コリント5:21を考えるとき、神の義が我々に転化される、と理解したほうがよいのかもしれない。

           この辺の義認論の味わいの違いが、いろんな人から誤解を受けている原因なのかもしれないし、この辺りをこの時の公園でしたかったのかもしれないなぁ、と思った。当時のローマ支配下におけるユダヤの困窮、二重支配(ローマとヘロデ)プラス祭司による宗教的支配などもあり、3重支配を民が受けていて、飼うもののない羊のような状態であったのかなぁ、だから、捕囚(新たな自国における捕囚状態)が続いている、という理解が成立するのかもなどと思った。

          Bare the Image Image of God

           NTライトさんは、Becoming Human や Dehumanizationについてよく触れるように思う。そして、To Become true Humanということの理解があるようである。ローマ5章ー8章のなかで、万物ということが何度も出てきて、また、完璧な人間を見る、という側面で理解しているのではないか。その意味で、完全な創造のころの人(神と人との間に豊かな関係が回復する)になるのが救い、と理解できるだろう。

           うーん、このBecoming Humanという概念は重要なのだと思う。神とともに生きるとならなければ、神を意識し、他者を愛して生きる(まさに、マクナイトの言うJesus Creed)とならなければ、競争社会(ホッブス風にいえば、万人の万人に対する闘争)になってしまうので、意外とこの人間とは何か、という人間論をキリストの発言を考える前に考えたほうがいいのかもしれない、と思った。


           神の創造主Creatorの側面を強調すれば、被造物全体を考えざるをえないのではないだろうか。しかし、罪だと人間のことに強調が置かれる。その意味で、ローマ書では、被造物全体の救いのことが語られているのではないだろうか。

           その意味で、救済をもっと広い意味でとらえるいるように思われる。

           ある面、個人の救済+全被造物の救済として、救済を考えている部分もあり、そういう視点からだと、エコロジーも視野に入ってくるのではないか。クリス・ライトの救済の場合も、エコロジーも含んでいる視点で描いているように思われる。

           人間の役割と創世記の最初の3章に示される人間の理解をどう考えるのか、それを古代的なコンテキストだけでなく、現代的コンテキストにおいてどのように考えるのか、ということが問われているのだと思う。それに関して、現実の社会でのキリスト者として生きるということについて、マーシャルさんは、「わが故郷、天にあらず」という書籍の中で、生き方について触れておられたように思う。この辺、おそらく、Gorden T. Smith のBegining Well何かとつながってくると思う。

           Participationist View(さまざまなことに主体的に関与していくキリスト者像)と義認論をうまく結び合わせるのが難しい。契約に対する従順さが義認論の背景にあるのではないか。

           Faithfulness Rightous とは全く失敗がない人であり、契約に忠実な人だといえよう。旧約聖書において、失敗にはAtonementというリカバリーのためのシステムがある。ところで、Dikaioのなかには、Covenant Membershipという概念はないのではないだろうか。

           Rightous(正しい・義)という概念については、 契約概念なしには理解できないだろう。従来は、イデア的な人間をRightousとしてきた。しかし、契約に忠実な人間に対して、Rightous概念が向けられているように思われる。

           Rightousは悔い改めのなかで、達成可能と理解できるだろう。例えば、ノアは、欠けがないとされた。神との契約に忠実に歩むそんざいであった。旧約聖書は、イスラエルと神との関係でRightousが語られており、集合的な意味で、議論しているのではないか。

           この辺りの議論を聞きながら思ったのだが、この辺、ユダヤ社会における贖罪の儀式や贖罪のいけにえの理解、あるいは、ヨベルということの理解、さらにイエスの『「わたしは憐れみを好むが、いけにえを好まない」ということの意味を行って学んで来い(心に刻んでこい)』という当たりの発言の理解と関係しているのではないかなぁ、と思う。


           一方、人間一人一人をみれば、完璧な人がいないので、義とされない。確かに、イスラエルは失敗したが、贖いの手段があった。それにより義とされた。義(ディカイオー)は、みんなから突っ込まれやすいポイントではある。

           では、神の栄光と神の義がどうつながっているか?ローマ3:24を見れば、神の怒りがつみあがって、それが十字架上で、爆発して、神の義を満足した、と考える人々もいるが、必ずしも、ルターはそうじゃないといっているように思われる。

           ルターは、義に関して、神が人間に無償に与えるステータスだ、といっている。神の義が転化される読み方ではないとしているようだ。神が約束を守る。神の忠実さが、義であるということではないか。

           神をストーリーの中心に置くのはわかるのだが、神の栄光は、神の義が(人間側に)受け取られることで、神は栄光をうけられる、と考えるべきであろう。
           
           旧約的な世界の中で、ユダヤ人が十分、神との関係を守れず、本来の祝福された立場を貶めているのであるが、それが、全人類にとってキリストの関係ゆえにもどる、という点での理解があるように思われる。

           NTライトが律法について、どういっているか、を考えてみることが重要かもしれない。ライトは、パウロが言うような律法をどうとらえているか、を考えることの重要性を指摘している。

           エレミアみたいな形で、心に書かれる律法、聖霊によって実現する律法を指摘しているところがNTライトとしては、重要だと思っているのだろうし、その辺が特徴といってよいだろう。

           必ずしも、モーセの律法とは矛盾しないものであり、エレミアが言う律法は文字ではない。自分の生き方自体が律法の成就であると考えているのではないか。パウロが律法を守らなくてよい、とりわけ、食物規定を守らくてよいという理解に関しては、NTライトの理解とダンの聖書理解も類似性がある。異邦人とユダヤ人を分けないような律法はモーセの律法と矛盾しない。

           律法の行いは、救われるためにやっているわけではないという意味でも、NTライトとダンとの間に一定の類似性がある。パウロが否定しているのは、教会の一致を妨げるものを批判している。このような主張は、サンダースの主張とも似ている。

           キリストに参与することで律法を成就することになるのだろう。キリストによって律法は成就すると考えられる。律法というのは、モーセ律法の内実がキリストの十字架において成就したという理解は重要であるだろう。ローマ書のなかの、信仰の原理による、という表記があるが、その表記は、信仰の律法によると、少なくとも脚注で表記する必要はあるし、英語系の聖書ではそのような対応がなされている。信仰の律法によって、と表記することで意味を持つ。その意味で、エレミアのビジョンが今ここに実現している。

           律法とは、あなたの心に書き付けるものであり、パウロは律法を細かく書くことは否定しているようである。


           この辺、イエスもパウロ先生も心に刻むということを何回かご指摘のようなので、この辺りもう少し、意識しながら新約聖書と、旧約聖書(申命記あたり)を合わせて読まないといかんのかなぁ、と反省している。


           ローマ書の翻訳として、「信仰の原理」を「信仰の律法」とした翻訳を広く受け入れられるかについては、聖書理解を大きく変える可能性があるので、かなり厳しいかもしれない。特に、脚注ではなく本文で入れてしまうと、一般の読者の側が、ついていけないかもしれないが、少なくとも、脚注に入れる必要はあるだろう。NRSVは脚注に入れることを採用している。

           この辺は、京都の宇治で開かれたセミナーでも言われていることなので、より詳細については、以下をご覧いただきたく。


          第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (1)

          第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (2)

          第9回 聖書と牧会セミナー 参加記 (3)最終回

          2013.06.22 Saturday

          2013年6月に開かれたNTライト読書会参加記 その3

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             前回の続きでござる。この3回の記事は、完全に内輪ウケ用(あと、読書会に参加できなかった方向け)の記事ですので、ご関心のない方には、何、コ レ?のはずです。しかし、ご関心のある方向けに、ミーちゃんはーちゃんが参加した読書会の記録を残しておこうかと。個人用のメモの意味もござるし。

             一応、濃い青字は、前回引き続き、ミーちゃんはーちゃんが思ったことについて記したものでござるが、ここに書かれた記録は、発言の趣旨かなぁ、とミーちゃんはーちゃんが思ったことを書いたので、意図と違うことを記録・記憶しているかもしれませんので、その辺はご理解賜りたく。

            では、ディスカッションの内容をご紹介いたしたく。

            キリストの信仰か、キリストに対する信仰か
            Faith of Christ, Faith in Christ



             信仰を持つことにかんして、福音(euangellion 本来は信仰の布告)を聞いて、その布告を信じたから、永遠の命をもらえる(決心主義)という理解があるが、これだと、信仰の結果として、永遠のいのちとなってしまうことを、暗に皮肉っているように思われる。『救い』に関する理解を、人間の信仰中心から、神中心にNTライトは、戻そうとしているのではないか。

             神のことばが述べ伝えられた人に聖霊が働いて、信仰が起きる。効果を持つ役割を果たすもの(Effective Agent)あるいは関係の回復のカギは神の側にあるとしている。信じない人の存在も神の責任になる。

             福音の大切さと、個人の覚醒の大切さ、を伝えている。ローマ書の3章28節では、神の誠実さ、神の真実を信じる人に与えられる、すなわち、神の真実を信じる人が義とされるの意味ではないだろうか。

             Sola Scriptura, Solus Christus, Soli Deo Gloria,  Sola Fideに、Solo Spirituをライトが独自に付け加えているが、福音は、聖霊が与えられることで理解できるようになるから、というライトの考えが反映しているのではないか。
             さらに、ローマ8章をクライマックスといっている。

             終末論(eschatological)なポイントから見ると、聖霊の働きが重要にかかわってくる。聖霊が勝手に働いて、自動的に変えるのではなく、人間の意志とか努力と聖霊が共に働き、聖霊がそれを認めているという形ではないか。Justificationという本で、そのことについて語っているライトの文章は非常に美しいと思う。

             この辺のお話しをお聞きしながら思ったのは、神の一方的な宣言(契約)という概念は、非常に重要だと思うのだが、いつのまにか、個人の関与、参与が「神とともに生きるという」ことを超えて、神のために何かする、神のために何かしたい、という思いに変わっていってしまい、非常にまずい結果を生み出したているように思う。カルト化した教会などでの背景にあるのは、この一方的な神の宣言(人間側には一切関係のない契約)の弱体化であり、Perticipation(参与、関与というよりは、一緒に旅をするというような感じが一番近いかも。その意味で、指輪物語やナルニアのメタファーは極めて大事だと最近気づいた。)がContribution(貢献、具体的な行為による利益提供)という概念に代わってしまうという本当はまずい傾向なのだと思う。


            ただ信仰によりて
            Sola Fide


             Extra nosは私たちの外という意味であるが、これは、自分たちの内側に義がないということであり、外側(神)に義があるということを理解することは大事ではないか。
             大切なのは、十字架だけでない。むしろ復活の重要性を言っているように思う。しかし、多くの場合、十字架だけで救いや聖書について、議論している。この辺をライトは皮肉っているように思われる。
             個人主義的な救いばっかりを言っているから、という皮肉をNTライトさんは言っているのではないか。特に、西洋の個人主義の上で聖書理解をしている人々について、JustificationばかりいっているひとはMe & My Salvationをいっているに過ぎなくて、コミュニティというか共同体の概念がない。

             そうなんだよね。これ、ヘンリーナウエンのナウエンと読む福音書を読んだ時に、ショックを受けて、しばらくナウエンばっかり読んでいた。そのうちジャン・バニエとか手出しをしたが。そして、ナウエンのこの杯が飲めますかとマクグラスの「聖餐」のDVDを見ながら、ほぉ、なるほどと思ったことがある。ミーちゃんはーちゃんは、聖餐式の意味を完全に誤解していたし、誤用していた。ぶどうの木の例えをもう少し考えなおしてみると、確かにイエス(幹)と私(枝)なのだが、実は、幹を介して枝同士がつながっているのだ。そのことをすっかり認識していなかったミーちゃんはーちゃんの黒歴史。


             歴史が受容してきたものは、リバイバルにしても、ある種その時代における必要があって醸成されてきたものであるが、そのことが生んだ副産物についても刈り取りをしないといけないのではないだろうか。

             キリスト教を大衆に受け入れさせる意味では、リバイバル主義的なこれまでの義認論は意味があったけども、それはFull Gospelではないのではないか。

             ここでいうリバイバル主義は、近年流行りらしい第●の波とかとは関係がなくて、北米で見られたジョナサン・エドワーズ以来、現代(典型的にはフ○ンクリン・グ○ハム、あ、かいちゃった)にいたるまでにみられる決心主義的な回心を迫るあのやり方である。確かに、わかりやすさの意味はあったんだけど、そこで、止まっちゃって、大量に回心したのに、気がついたら、あれ、教会堂は翌週ガラガラ、なんてことが起きたのだったのですね。
             そして、その影響下に生まれたミーちゃんはーちゃんも、その副産物、ミーちゃんはーちゃんがまいたんじゃねぇんだけどなぁ、とも思いながら、必死に地道に副産物を回収中。しんどいなぁ。


             その意味で、神が関与される新天新地におけるNew Creationの強調が重要であろう。特に、イエスの復活(Resurrection)を出発点とする新しい創造をどう考えるのかが問われているのだろう。イエスの復活から出てくる新しい創造であるNew Creationは重要で、そこに基盤を置くから福音が重要になってくる。

             E.P.SandersやD.A.Carsonは、ライトの理解に関して、結構えげつない批判している。そこまでいうといいすぎというD.A.Carsonへの批判もあるくらいひどいものであったのではないか(ということらしい)。

             その辺のひどさは、のらくら者の日記から、どうぞ。こちらのリンクでございます。 この話を読んだときに、あれ、南部にいるという噂のある白いシーツ来て夜中に火遊びする不良のおじさん達のことみたい、と正直思ったのだな。その映像がこちら。映画ミシシッピーバーニングのTrailerでござる。なお、類似テーマを扱った映画としては、他に、評決のとき(これは若いサンドラブロックが出ている)、なんかもある。

             ところで、法廷的義認論を言ったのは、メランヒトンである。さらに言えばNew Creationは改革派の人がよく言うのであり、福音派は人たちはあんまり言わない。

             D.A.CarsonのChrist & Cultureを読んでいる限りにおいては、あんまり変な感じはしなかったのだが、まぁ、大学者も賞味期限があるってことで。ま、しょうがないんだよね。人間だから、次第に心の柔らかさが失われて行くってのはさ。さ、体も心もストレッチ体操しとこう。(意味不でスマソ)


            NTライトの死生観
             天国とは何か。New Creationにしても、死者の復活は終末の終末に起きることが、先行して最後の出来事が起きたのがイエスの復活だろう。新しい創造がイエスの復活から始まった。
             単なる死生観は思弁ではない。パウロは、イザヤ書にみられるような聖書理解をしているとNTライトは言っているようである。最終的には、New Heaven and New Earthであるのであり、死後の世界の天国は最終的な目的地ではなく、テンポラリーなものであるという理解であろう。
             最終的な死者の復活が起きるまでは、休んでいる、というイメージではないか。キリストにある死者として眠っているということなのだろう。最終的に残ったものはトランスフォームして新天新地に移るということだと思う。そして、全体としての新しい天新しい地における回復があって、死んだ人も新しい創造を楽しめ、被造世界が回復されるというイメージではないか。その意味で、全世界の救いがメインテーマになると考えているのかもしれない。

             復活、十字架をどう考えるのか、というのは意外と複雑なんだよね。いや、実は面白い話なんだが。

             いつ律法が終息したのか。新しい神の支配が生誕の時点で始まったのか。十字架での死亡の時点を持って始まったのか、いやいやそうではなく、死からの復活したイースターの朝に始まったと考えるのがよいのか、まぁ、いろんな所説があるらしい。まぁ、一平信徒(ま、牧師先生の見よう見まねでたまには説教もどきもするけどさ。あ、The Simpsonsに出てくるフランダースほどひどくはない、と自分では思っている。)としては、そんな神学的遊びも面白いんだけど、何より大事なことは、神とともに生きる
            新しい生活、神の霊とともに生きる生活が始まったし、今もそれができるし、今ここでそのことがミーちゃんはーちゃんは十分味わってないけれども、その神が共に歩まれるってことを、体験することかも、って思うのだな。(といっても、金粉は降ったためしがない。多分信仰が弱いのだろう。)

             死亡をどうとらえるのかは、埋葬や葬儀の形式や様式にもかなり影響を与えるばかりでなく、志望する前の生き方や遺族の生き方そのものにも、大きく影響を与えるので、このことは意外と大事なような気がする。しかし、わからんことはわからんので、当面ほっておくしかないかなぁ、という感じ。

             それよりむしろ、今、ここで、「なりふり構わず動く私と、なりふり構わず共にいたもう神」という神とのぐずぐずの生き方をもう少しちまちまと味わうことにいたそうかと。


             次回のNTライトセミナーは、10月9日の実施予定で、みんなで盛り上げよう。講演者とリプライをつける形にする予定だそうで。楽しみ。

             あまり、ご関係のない皆様には、誠に申し訳ござらん、とお詫び申し上げます。 m(_ _)m
             


            評価:
            ヘンリ・ナウエン
            あめんどう
            ¥ 2,415
            (2008-04-30)

            評価:
            ヘンリ・J.M. ナウエン
            聖公会出版
            ---
            (2001-03)
            コメント:衝撃を受けた1冊。聖餐式の認識が変わった。

            2014.05.21 Wednesday

            NTライト Kansasで語る(1)

            0
              結構重要なネタをしていると思うので、メモ代わりにするだけじゃもったいないんで、皆さまにもちょっとシェアしようかと。

              元ネタは、こちら、から



              Facebook上で、約ひと月前、NTライトがKansasでの講演を紹介していたので、聞いてみた。聞きとりながら概要をまとめるとこんな感じかも。

               オープニングは、アメリカのユニテリアンでのイギリス人のアクセントのみが受けたとジョークの話をしていた。

               パウロが言っている福音の宣教について話す予定であるとまず宣言。

              福音ってこんな感じだったかも

              福音とは、ある人にとっては非常に喜べるけど、別の人にはチンプンカンプン。
              このことを
              アトランタ滞在中にイングランドがオーストラリアに勝った時の話でしていた。
              アメリカ人はきょとん、となりにいたオーストラリア人はふしぎそう。大英帝国にいる娘は大喜び。
              (ラグビーのギャグやや滑り気味かな・・・。イギリス人だったら爆笑だと思うけど。)

              GoodNews(福音)とはそんなものだ、ということで、福音というのがどういうものかの解説
              福音の根幹に何があるかの議論
              福音とはまったく新しいものだった
              復活はないとした、復活が信じられないドイツ人学者との対話
              復活が新しい意味を人々に与えた。復活や福音はStrange Gift
              あまりに素晴らしいので、どこに行けないわからないほどのプレゼントに似ている。
              新しい神の知り方を与えたものと言える
              愚かでスキャンダラスだった福音
              重要な3つのこと

              神を知ることと天と地がつながるところ、
              神を指し示すところである教会

              ◆神とは何か?神を知るとは何か?
              Godと言うことばは?付きでギリシアでは議論されたものであった
              ネルソンマンデラとセルフィーする神が描かれたマンガの話で天国とはそんなもんじゃないという話。
              天と地が結びついている、わかれているわけではない。
              Unknown Godは現代の存在している。
              カテドラルに来る刊行客や見物人など多くの現代人は、Unknown Godと同じでは?
              娘の友人で
              無神論者がカテドラルを回った後、泣いていた。意味もわからなくても感動していた。それはカテドラル自体がイエスを指示していたから
              まずイエスを見ることで、神が見えるのではないか。その重要性。
              天と地が一つになるということの重要性。

              正義、公義とイエス
              そして教会

              ◆正義に対する若者の情熱
              民主主義と正義との関係
              アメリカ人いじると受けるアメリカ人
              イザヤ11章
              イエスと正義との関係
              ローマ8章に示されたパウロのビジョン(すべてが新しくの意味)
              痛みや悲しみがあるところに立ち、祈ること、神の愛と平和を伝えること、それが教会の目的。薄っぺらい勝利主義を伝えるところではなく(禿同)
              18世紀(啓蒙主義)が変えた神の理解
              天に行く方法を伝えることもいいけど、正義をどう実現するかも福音なのではないか。
              Powerの再検討としての福音が存在
              イエスは、地獄に入れるためのいじめっ子としてきた神ではないよ。

              西側の教会の危機とアウトリーチ
              ◆西側の文化の現在の危機と機会

              Postmodern DentistとPreModern Dentistのギャグ(虫歯を直すのに、近代前の治療方法でも嫌だろうし、どうなるかわかんないような変わったポストモダンの治療を受けるのも嫌だろう。現在の治療を受けたいのではないか)
              18世紀が世界観を変えたとしているが、そもそも新しい世界が生まれたのは、イエスが復活した時だろう
              モダニストの問題Progress哲学(エピキュリアン思想)の問題
              キリスト者の物語は愛の物語であり、権力の物語ではない。
              どのように世界が変わっていくのか、キリスト教が変えていく世界のものがたり
              2-3世紀のローマ迫害下でクリスチャンになった普通の人々
              貧しく病気の人々が教会で教育とケアを人々に与え始めたのが教会。
              だからこそ、ローマ時代に人々が教会に集まった。
              Bishopの業務仕様書(聖書)にある病者と貧しい人々のケア
              愛を求めて人が集まり、そしてそれが教会の外に流れ出ていった。
              理論に関する議論に勝ったからではない。
              知恵とヴォケイションを求めて祈ることの重要性
              これはモダニスト、ポストモダニストが語れない物語、愛の物語を生きるべきではないか。(なんか、ボンフェファーの話を聞くようだ)

              質問タイム
               Q復活についてKingdom is still contingentという問題。
               Aイエスは、復活後、宇宙旅行したのではないミーちゃんはーちゃん 大爆笑)
               天とは、CEOオフィスのようなものだ。そこに権威が存在し権能をもつ人物がいる
              (超わかりやすい)

               神は、戦車を送って解決するのではなく、山上の説教の方法で解決する

               QNTライトは何をしようとしているのか?
               A西側の人々はステレオタイプなキリスト教イメージをもっている。
              それを打破しようとしている。
              (そうしてください、日本のキリスト者のためにも)


               Qパウロが律法Torahについていることについて
               A神の裁きについて 物語がレイヤを重ねるようにパウロは書いている。
                神の不思議な目的をお持ちの方である。
               神は悪いことしか律法で言ってないという理解がクリスチャンに蔓延しているのは問題

                カルバン派とルター派の理解の違いが存在。
                アブラハムの家族が、問題と解決を両方とも併せ持って生きている。(これ重要)
                アダムの問題でもある。

               Q教会と社会的正義について? マーケティング的なキリスト教への対応はどうすべきか?
               A問題を抱えた地域での学校経営に乗り出した話から得られた知見。
              あれた地域にある荒れた公立学校を教会立学校に変えたときの経験。
              教会立になって、授業にきちんと来る教員になったこと。
               このように社会において様々なキリスト者の生き方を通してインパクトを与える
              (賀川豊彦みたいだ。)



              こんな感じでしょうかね。()はミーちゃんはーちゃんによる。

              感想
              スケールの大きな聖書理解

              やはり、復活が軽く扱われることは問題なのだ、と思った。復活こそ、世界の大転換点であり、ノアの洪水のときに天から上の水がどっと流れ込んだように、イエスの十字架の時に点から神の国の一部がどっと流れ込んだんだろうなぁ、と思うてしもうた。スケールでけぇー。

              天国教だけじゃダメみたい
              この地上で、神の国と地が結びついたのだろう。だってイエスは、ルカの福音書で、天の国はあなた方のただなかにある、とおっしゃっておられる。そのことの意味を味わいたい。そうか、天国教だけではいかんのだなぁ。内村先生スマソ。内村先生は、御自身のことを天国教だと書いておられるが、それじゃいかんのです。「この地でも神の国」教、『この地における神の国支配」教でないと。

              教会という建物再考
              以前にも、「
              教会という建物について考えた」や「教会とオープンネス ー現代社会における教会」というブログ記事でも既に指摘していることではあるが、教会の建物すら、神の国を指し示すべき、ということは考えるべきかもねぇ。教会堂は西洋建築の華、大輪の薔薇か牡丹みたいな存在なのよ。建築業界では。でも、この西洋建築の華、日本ではあまり大事にされてない気がする。そりゃ、しょうがないんだけどね。よくわからずに使ってきたし、建築してきたから。ソリャ、腐っても2000年近く宣教地であれば、それなりの者ができるんだろうなぁ。形ばかりまねしても仕方がないんだろう。

              教会は何をする場か?
              しかし、天国に行くということも語ることも大事だが、
              それとともに、痛みや悲しみがあるところに立ち、祈ること、神の愛と平和を伝えること、それが教会の目的と解説しているところはいいなぁ、と思った。まるで、ナウエンの本、ジャン・ヴァニエの本を読んでいるみたいだった。教会は、薄っぺらい勝利主義を伝えるところではなく、重厚で、濃厚な神の愛を不完全な形ながらあらわすところである、というように聞こえた。福音の中に地上における正義を含むというところは、非常に重要な視点であると思う。これは、カンポロやSojournersのJim Wallisとの主張と共通性があるように思えてならない。

              語るなら基礎を抑えて語ってほしい
              また、最後の部分で、教会は、そしてキリスト者は
              愛の物語を生きるべきではないか。という部分の解説は、なんか、ボンフェファーの話を聞くとこうだったのかなぁ、というような印象を本気で受けた。

              このことについて、ある方のツィートをうけて

               
              NTライト君によれば、教会ってのは、神の愛が社会の外側に流れ出ていくところなのだそうで。権力のコミュニティではなく、愛のコミュニティであり、神の愛がこの世界を変えていく物語のプレーヤーなのだそうで。キリスト教の愛が世界を変える現実を示す場見たい。」


              と書いたところ、

              社会への影響力の達成のために、牧師が政治・経済評論家のように社会情勢を説教することはどの程度効果があると思いますか?」


              と尋ねられたので、個人の考えとして、

              あまりないと思う。よほどちゃんと勉強してない限り。教会は愛のコミュニティをまず説くべきで、牧師の経済現象に関わる床屋政談の場にするのは、あかんやろ、と思う。」


              とつぶやいた。このつぶやきは、牧師が発言してはならん、ということではない。発言するなら、近代経済学、ミクロ、マクロ、(マルクス経済学も一応)、厚生経済学の基礎を抑えたうえで語ってほしいということなのだ。

              学部の1―2年生でわかる基礎的初歩的な議論を踏まえずに、それらの理論体系を無視して情念で経済現象を語れば、基礎的なことを学んだ、ちょっとまともな学部生からすれば、「この牧師先生の議論は信用ならん、ひょっとして、語っておられる聖書の内容までもおかしいのではあるまいか」とならないだろうか。扇動されやすい人々ならいざ知らず、一応最高学府であることにしてもらっている大学で学んだことになっている以上、批判的思索をするのは当然だと思う。それを「牧師のいうことを聴けないのか」と逆切れするなら、もはやカルト一歩寸前だろう。敬愛するマクグラス先生は、薄いけどいい本で、Doubting(疑うこと)という名著を書いておられる。

              面白かった質疑応答

              後、質疑応答が面白かった。イエスは復活後天に昇ったことに関して、宇宙旅行したのではないと言ってみたりするところは面白かった。あと、旧約聖書の「天」、すなわち神がおられるところ、神の御座、をCEOがいるところ(社長室)みたいだ、と言ったのには、うまい、と思ってしまった。

              あと、パウロの律法理解も面白かった。特に、
              アブラハムの家系につながる、イスラエル民族自体が神に逆らい続けるという問題と神がそこに臨在するそして、イエスが神として臨在するという解決を両方とも併せ持って生きている、それがモーセ5書の主張という視点は、非常に重要だと思った。

              しかし、ライトってのは大英帝国人らしい
              大英帝国人。元ダラム司教だから、当たり前か。ブラックジョーク好きってのがね。しかし、大英帝国人風のジョークはアメリカ人の若者には受けないなぁ。この回の講演では、結構、滑りまくりに滑ってた。笑っていいよ、ここは笑わないと、って突っ込み入れたかったなぁ。




               
              評価:
              Alister E. McGrath
              IVP Books
              ¥ 1,415
              (2007-01-30)
              コメント:薄いけどよいよぉ。英語もそう難しくはない。

              2014.05.24 Saturday

              NTライト Kansasで語る(2)

              0
                 前回は、この講演の前の講演を御紹介したが、この講演では、ライトのジョーク炸裂、超さえている。午前中の講演とは大違いでした。めっちゃ面白かった。必聴。(ただし全編英語、字幕なしですけど)


                あ、今回も超マニアック。難解。一般向けではありませんが、割と重要なテーマと思います。



                パウロの主張をどう考えるか問題について


                ユダヤ思想とパウロ

                パウロが来た世界のことを述べてるらしい。
                パウロは暴徒のような人物(ある面でいうと、ユダヤ社会にとって革命的であった)
                パウロは新しい人間になる方法、イエスにつながる忠誠を誓う新しい方法を提示した
                   (この辺、ジャン・ヴァニエJean Vanierとつながるか?)

                神の新しい創造にまねかれているというメッセージを伝えた。
                20世紀は全く異なった人間になる方法を示してしまった。
                パウロは新しい方法論、クリスチャン神学ともいうべきものを生み出した。
                古い境界線を越えて、一つになる方法こそ、十字架ではないか、と
                パウロは示した。
                聖なる一体としてのコミュニティ(Holy United Community)を示した。
                それはユダヤの理想でもあった。

                メシアニックモーメント、すべての者が神にあって一ついなることを示した。

                教会とは
                教会とは、地域を超えたコミュニティ(Translocally Community)。(まさに、教会ってこれだよね。)
                ギリシアにおける哲学:セオロギア(Theologia) とは、3つ(物理学、倫理学、論理学)に分割された世界に関するもの
                パウロの中心的な議論は、大人(人間)になること。(ジャン・ヴァニエ見たい。)
                教会は聖性をもつ存在であるべきだし、一体であるべきだ。
                キリスト教神学のユニークさとは、我々が成長して、どんどんと変わっていく現実の問題に挑戦していくこと。大人であることとは、そういうことではないか。
                もしキリストのうちにあるなら、新しい創造だ、とパウロは言っている。
                この意味は、もし、キリストのうちに新しい神との関係のモデルを見ることができる。
                   (神の愛に飛び込むってことやね多分)

                これが新しい知識とパウロが言っていることではないか。

                神と人との関係

                我らが神のオブジェクトでありサブジェクトであって、神はわれらのオブジェクトではない。
                   (ほ〜〜〜オブジェクト指向思考だ。
                    オブジェクト指向プログラミングは30年前にはやったプログラム作成理論)

                突然やってくるびっくりするような知識としてパウロは提示しているのではないか
                いま、新しい世界が生まれようとしていると指摘しているのではないか。
                神のかたち(似姿)とは、人間となることができる、ということだろう。
                Sandersの授業の話。

                聖書の物語(ナラティブ)性について

                アブラハムの重要性は、レスキューオペレーションの初めだと、ラバイ(ユダヤ教の教師)が言っているらしい。
                全ての地が神の地となる回復というのが、新天新地。
                どのようにものがたり(Narrative)が働くのか、よくわかってないのではないか。
                聖書の神学は本来ものがたり(Narrative)の神学。

                ダニエル書の9章に出てくるダニエルの祈りを考えるとものがたり(Narrative)ということが分かるのではなだろうか。
                聖書のナラティブとは、聖書的コラージュだと、ライトが言っている。

                地と天と神殿の関係

                いまここに向かって、イエスに向かって、将来からの神の希望が流れ込んでいるということがあるのではないか。
                エゼキエル書の天使の記述をもとにUFOと天使が共通だと言ってきた人がいるというジョークの紹介。
                パウロはイザヤと詩篇を特に重視している。
                小預言書では、第2神殿が再建されても、神の栄光が満ちたと言っていない。
                しかし福音書は、イエスによって神の栄光が満ちたと言っている。
                パウロもそういっている。
                Dwell(御座に座す、住まわれる)という神殿用語で、パウロは神の栄光が来たことを語って言っている。

                聴け、イスラエルよ(申命記6章)とパウロの神学

                Shema(聴け、イスラエルよ 申命記6章)でいわれることは、神のプロジェクトに関与することである。
                70人訳とパウロの主張の平行関係をみると、パウロは露骨にこのShemaの部分を下に引いていることが分かる。
                ピリピで受けた教えとそして何をするのか、ということをバランスとらせて語っている点に注目すべきではないか。
                ガラテヤとローマで、新しい出エジプトをパウロは語っている。
                火の柱、雲の柱として神がイスラエルの民と共にエジプトを出たことに関してのジョークの紹介(ニュージーランド大司教がロトの妻についての日曜学校の生徒からの質問への回答をしたことに関するジョークの紹介)。
                 日曜学校生徒「大司教様、ロトの奥さんについて、知っていることを教えてください。」 
                  大司教「夜は退屈の柱で昼間は塩の柱だった」

                    (こういうブラックジョークコモンウェルス人。大好きだ。)

                いろんな人が、この神の国に入る、神の国に関与できるという点が重要である。
                ガラテヤ3章のアイスクリームをくれたまえジョークの紹介をしていた。ガラテヤ3章に関する議論でライトとロイ・ガストンが夕食の席で大議論していた時のことらしい。

                 ロイ・ガストン「神の国には、イスラエル人の家族と異邦人の家族の二つがある」
                 NTライト「神の国は一つのファミリーみたいなものだ、2つの似たファミリーがあるのではなく」
                 でっかいアフリカ系アメリカ人のウェイトレス「皆さん、デザートは?」
                 ロイ・ガストン「
                ガラテヤ3章アイスクリームを (ガラシアン・スリー・アイスクリーム)
                 NTライト(ウェイトレスに向かって)
                 「このロイ・ガストン先生はね、神の国には、二つの家族があるんだって」
                 ウェイトレス(ロイ・ガストンに向かって)「神のことばを信じない人は即地獄行きだからね!!」

                 おもしれ〜〜〜〜

                (冗談の解説をするのはつまらんのだが、さんざっぱら差別されて、社会の隅に追いやられたあげく、60年代からの公民権運動でやっとアメリカ社会に受け入れられたとおもているアフリカ系アメリカ人にあるひとが「神の国には二つの家族がある」ということは、神の国でも、「仕えてもらえる白人」と「仕えることを求められるアフリカ人」という構造を生み出すことを意味する。この意味を直感的に理解したアフリカ系アメリカ人のウェイトレスは、「二つの家族がある」というガストンに向かって、ガラテヤ書3:28「 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」を理解したうえで、「そんなことを言うやつは地獄行くからね」という表現になったんであろう。しかし、ライトさん、この辺知ってて、ガストンが「二つの家族があって…」と言っているって言わんでも。

                 なお、NTライトは地獄や天国を中心にするキリスト教の思想があまりお好きではないらしい。大激怒した時のカリフォルニアのレストランのアメリカ人の表情って、こんなだったかも。



                あるいはこんな感じかな


                実は、ミーちゃんはーちゃんは、Woopiのファンである。

                義認とは何か?

                義認の神学の核は、義と認められて天に行くということではない。
                新しい世界とその中のすべてのもの(被造物すべて)がすべて義と認められるということだ。
                (義認の教理は人間の義認より、もっと広い、ってことか)

                人々が正しく置かれるということは、それが義認なのだ。
                確かに複雑だし、もっというべきことがあるけれども、神が始めたことが何か、ということにもっと目を向けて義認を、そしてパウロが主張しているということを理解すべきではないだろうか。

                神にあって一つであること

                一つの神、一つの民、それがキリストの周辺にあるし、それが本来の目的ではないか。神の国を内在化させるということに困難を覚えているけれども、もっと一つであるということを考えるべきではないか。

                終末論について(48分くらいから)
                パウロの将来理解についてであるが、単に天に行くことではない。

                Raptureが大英帝国生まれで、アメリカでポピュラーになっている。(大爆笑)
                (ライトは、携挙理論RaptureがJ.N.Darby(この人のかんたんな人物解説はこちら)により、英国で発生し、それがアメリカに飛び火し、そしてLeft Behindシリーズを出すにいたったことを話している。映画もできたらしい。ちなみにミーちゃんはーちゃんは、このレフトビハインド的世界観に違和感がある)

                天の理解の解説

                NTライトが携挙にあわなかったら、天に行ったときライトはどうなるのか。という雑誌の質問投稿の話。
                この質問者は、天とは、この宇宙のさらに外にあると思っているのか、と思い、NTライトは考え込んでしまったらしい。

                天に国籍があるということはどういうことか。
                国籍があるとは、ローマの植民地と同じ関係にある。(これ、なかなか重要)
                神がこの地上に来る、というのは、
                ちょうど、ローマ植民地に皇帝がそこに来るというようなもの。
                それと同じようにイエスがこの地上に来る、と新約聖書全体として
                言っているのではないか。我らが天に行くのではなくて。

                政治、コミュニティ、古代思想とパウロ

                パウロと政治とか、パウロとコミュニティとか、パウロと古代の思想

                政治的ダイナマイトであったパウロ
                古代においては、権力、コミュニティ、秩序が重要で、パウロはそれを書いている。
                18世紀的な環境での聖書読みが生じさせる問題。誤読につながるのでは。
                1世紀の歴史的文脈や歴史的社会の文脈の中でパウロを読むべき。(これがライトの主要な主張)

                コミュニティとパウロの関係は重要。
                パウロにとって、おカネをどうするかは政治的な問題と理解している。

                パウロは、人が死ぬまで議論した人物(使 20:9 のユテコ事件)というジョーク。
                アレオパガスでの演説で、人々を神へとナビゲートしている。

                パウロと祈り

                パウロと祈りの重要性
                祈りの神学をパウロが言っている
                神学は教会の中心だとパウロが言っているのがわかる。
                祈りとしてのShema(申命記6章、聴けイスラエルよ以下)に戻るべきではないか。
                Ben Akivaに戻るべき。彼は残虐な拷問の中でもShemaを唱え続けた。
                なぜか、彼がそれを愛してやまなかったから。神を愛することを、愛してやまなかったBen Akiva。
                パウロが殺される際には、イエスの福音書に上がっているギリシア語のシェマーを引用したのではないか、と思っている、と言って、ギリシア語で福音書の中にあるシェマーの部分を引用しこの講演を締めくくっている

                ミーちゃんはーちゃん的感想

                 Paul in Fresh Perspectiveのごくごく一部しか読んでないので、よくはわからないが、まぁ、この講演は、NTライトのパウロ理解炸裂、みたいな感じの講演だったんだろう。(読め、って。すいません。あれ、字が小さいんで老眼が進んだ身にはつらい。)

                Holy United Communityの重要性

                 いくつか気になるところを。パウロのいう一つになる、というのが、聖なる統合された共同体、Holy United Communityの形成だというのが、重要なんだと改めて気付いた。わが国では、絆、とか一つだ、というと、すぐ、金太郎飴化(マクドナルド化、MacDonalization 最下部の本三唱。みんなおんなじになる、同じにする)を目指すけど、多様なものが、神の霊にあって、一つにまとめられること、それが重要だ、というのがNTライトの重要な指摘なんだなぁ、と改めて思った。まさに、結婚て、Holy United Communityだし、教会も、Holy United Communityである。その意味で、ユダヤ人、異邦人の枠組みの無益さとかを思う。

                義認論

                 ライトの義認論は、いろいろと克服すべき課題があるかもしれないことだけは承知している。それの神学的当否について、ミーちゃんはーちゃんはとやかく言えるほどの知識もなければ才能もない。しかし、これまでミーちゃんはーちゃんがさんざっぱら聞いてきた「イエスが私たちの罪ゆえに神に裁かれ、死んだから、キリスト者は義となった、したがってキリスト者だけが天国に行って神と共に過ごす」というような理解よりもかなり幅広くNTライトはとらえていることだけは今回の講演を聞いて直感的にわかった。そして、その幅広い義認の中で、被造物の回復(救い)をとらえようとしていて、それが、エデンの園の回復である終末における新天新地だと理解していそうだ、そこと結び付けて、NTライトは考えていそうだ、ということはわかった。
                 ライトの義認論に関しては、ライト研究家ではないミーちゃんはーちゃんに聞かないで、直接ライト先生と御対話いただきたく。ライトの全著作、相当分量あるので、日本人で読みこなすの、相当大変だとは思うけど。

                終末論

                 あー、JNDarby のDispensation説。どうしたもんでしょうね。

                パウロの祈り

                 Shema Israel(聞け、イスラエルよ)は、熱心なユダヤ人は、最低4回日に唱えるらしいが(リベラルなイスラエル人はしないらしい)、これ大事なんだろうなぁ。

                その部分の申命記口語訳はこちら。
                 6:4 聞きなさい。イスラエル。は私たちの神。はただひとりである。
                 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。
                文語訳はこちら

                イスラエルよ聽け我らの神ヱホバは惟一のヱホバなり
                汝心を盡し精神を盡し力を盡して汝の神ヱホバを愛すべし

                とおもって、YoutubeでShema Israel を引いたら、こんなの出ました。



                 ↑
                これって聖餐式の原型じゃね?


                 しかし、今回の講演は、ライトの大英帝国風のウィットに富んだジョーク炸裂の、大変楽しい講演でした。こんなふうに講演とか説教してみたい。無理だけど。





                評価:
                N. T. Wright
                Fortress Pr
                ¥ 1,778
                (2009-01)
                コメント:割と薄くて読めなくはない。

                評価:
                ジョージ リッツア,George Ritzer,正岡 寛司
                早稲田大学出版部
                ---
                (1999-05)
                コメント:よいよ。

                2014.10.14 Tuesday

                第3回ライトセミナーに行ってきた。前半

                0
                   冒頭、この読書会の世話人代表の小嶋先生から、

                  来年にかけてライト元年になるのではないか。やっとSimply Christian が出版されるというところまできた。日本でライトが広く浸透するまでにかなり時間がかかっているが、翻訳書が出てくると変わるかもしれない。今回は、交流を主体にディスカッションを主体に行いたい。

                  というご挨拶があった後、早速パネルディスカッションの1に移った。

                  ライトの聖書理解、ってどう思う、座談会
                   第一部は、パネルディスカッションというよりは、ライトについて何でもありの一般読者から見たNTライト座談会という感じのセッションであった。20代から30代の神学生の方と男性信徒とと女性信徒の方がパネラーとして話してくださった。

                   まず、1999年ごろから読み始められた司会者の小嶋先生とライトとのかかわりのご説明があり、まだ日本であまり読んでいる人がなく、何となく、イメージ先行、評判先行という側面があるのではないか。ライトの聖書理解に関して誤解があるのでは。無理解がかなりあるのではないか、と問題提起された。
                   
                   以下のおまとめは、ざっとしたまとめなので、以下お読みいただく方は、読者の方はその点お含みおきいただきたい。

                  ライトの名前を聞いたのは、いつ?そして、その印象は

                   読書会のマクグラスのキリスト教神学入門を読む中で、史的イエスとサンダースとの関連で、ライトが言及されていたので知った、という方もおられましたし、NTライトのFacebook上の読書会で、面白そうなことをやっているなぁ、読書会の話が面白いと思って見ているとおっしゃる方もおられましたし、神学校で学んでいる中で、近年の義認論の修正の議論の中で知ったこと、従来語られている福音よりも、ライトの主張ははもっと広いのではないか、という印象を持っている、というお話がありました。

                  ライトって、どんなイメージの人?

                   司会の小嶋先生からは、「欧米のものを翻訳して用いられることは多いが、翻訳が普及し、人気が出るとマクグラスが典型的だが、一挙に著作がまとめて出る傾向がある。英米の神学者でも、翻訳されてない著者も多く、著作が日本語で翻訳されも日本で定着する人は少ない。そんな中での、ライトのイメージはどんな感じでしょうか」という問いかけがありました。

                  パネラーのイメージ
                   「組織神学のクラスで最近の英米系の神学者の議論を読んでいるが、影響力がすごくある人ではないかと思う。義認だけではなくて、聖書の見方を新しくして行こうとしているように感じる。そして、非常に幅広い人ではないか、と思う」というご発言もあった。

                   「別の方からは、これまでキリスト者として持ってきた概念に揺さぶりをかける感じがある。聖書の主張だ、と思いこんでいることに対して、揺さぶりをかけられている感じがする。とはいうものの、普段教会で聴くメッセージとライトの主張は、そこまで大きく違うのか、というと、あんまり変わらない気もする」というご発言もあった。

                   また、「ある方のライトの批評を読んだ印象からでしかないが、ある神学傾向に対して、ライトは聖書神学の立場から聖書から解釈をする場合、このあたりの整理が足らないんじゃないか、と指摘しているような気がする。あと、ライトさんは、特定の聖書理解はお好きではないなんだ、ということは伝わる。」と応答があった

                  ライトの聖書理解の印象ってどんなの?
                  ポイントって何?

                   司会の方から、「ライトの聖書理解は、信用していいのか。ここがポイントではないか。というあたりでどう感じておられますか、義認論以外の部分で、どこがポイントだとおもいますか。ライトの聖書理解はこんな感じではないかというあたりについてはどう考えておられますか」という発題があった。

                  パネラーのイメージ
                   ある方から、「聖書が神のことばという時に、神が示したという側面と、人が書いたという側面があり、その両方を持って聖書を見ているような印象がある。ライトは、(リベラル派の方が否定する)復活の際に、肉体の復活や、超自然的なことも重視し、否定しているわけではない。新約聖書を読んでいく時に、中間時代を重視しており、当時のユダヤ教にこだわっている感じがある。Simply Christianの中に現れた天と地の理解などは、あまり考えたことがなかった。天と地が一つになることが新約聖書に示されているという指摘は非常に印象的であるが、その様な理解にいまだ十分に批判的になれてない」というご発言があった。

                   別の方からは、「所謂無誤性、無謬性には、あまり触れておらず、むしろ、聖書の全体像のナラティブを重視している印象がある。特定の聖書理解では、この世界をネガティブにみる傾向があり、この世界についての神のみこころの実現という側面が抜けやすいのをストップさせてくれるという側面がある、という印象を持っている」というご発言もあった。

                   また別の方からは、「現在消化できていないのは、サンダースの言ったような理解をどうとらえるのか、というあたり。契約の民とユダヤ教文書と新約聖書との取り扱いをどうしたらいいのか、というあたりがよくわからない。サンダースについては、自分としては、少し警戒する部分もゼロではない。NTライトの議論は、すごく参考になると思いつつ、ちょっとだけ警戒心を持っている感じ」という主旨のご発言もあった。

                  NTライトに直接聞いてみたいことは?

                   司会者から「ライトがいたら、これを聞きたいとかいうことはどんなものがありますか。あるいは、ライトの本が来年にかけて、出版されるのだが、これをもっと知りたい、といったことはどんなもの?」という発題があった。

                  パネラーからの質問

                   ある方は、「NTライトは、いろんなことに対して書いていて、いろんなことを書きたい人であることはわかるのだが、ライトにとって何が中心テーマか、ということが聞いてみたいかな?ライト自身の歩みを知りたい。」というお話しがあった。別の方からは、「聖書をどうとらえているのか。聖書論でしょうが聞いてみたいかなぁ。刑罰代償説について、実際そこを聞いてみたい。」というご発言があり、また別の方からは「まず、日本語で読みたい。地に住みながら神の前に誠実に生きる、という生き方について、もっと知りたい。この地の生き方と、将来の永遠のいのちとの連続性について聞いてみたい」という話が出ていた。

                   司会者の小嶋先生から、「フロアからの感想や疑問について、お聞きする前に、ライトの自叙伝はないが、自伝的な文書がNTWright.comにあり、カナダにいたころ、世界観的アプローチをするようになり、この世を大事にしようと主張し始めている。ライトは、自分のことを講演などでは、結構しゃべっている印象がある」と応答があった。

                  フロアからのご発言要旨
                   ある牧師の方から「史的イエス研究では、シュバイツァーが有名であるが、ライトは、その人たちとも対話しようとしている雰囲気がある。聖書を読んでいく時、イエスの主張の中には、王として、イスラエルの王としての側面があるが、これは政治的なメッセージでもあった。イエスはこの地上で、内側から変えていくのかということを説かれた方ではないか。しかし、あるグループでの伝統的なキリスト者理解は、この世にたして預言者的、批判的な立場をとるように教えられてきたが、それ以外の立場の取り方があり得るかもしれないと思うようになっている」というご発言があった。

                   このご発言に対して、小嶋先生からは、「パウロと史的イエスがN.T.ライトにとっての大きなテーマであるとおもう。The New Testament and the People of Godの後に、イエスと神の勝利などがあり、キリスト教と政治の問題を扱っている。政治とキリスト教は分離しているのはまずいのではないか、と思っている節がある。」という趣旨のご発言があった。

                   別の方からは、「ライトを一読者として見ていると、ストーリーやものがたり、Narrativeという要素が強くあると思う。これまで、信仰のみ、といった時に、神の国の関与という側面、特に行いと信仰の一体化というような部分が意識されてないのではないか?とライトが主張している印象がある。」というようなご発言があった。

                   また別の方からは、N.T.ライトという存在を教義学者だろうか、聖書学者と捉えるのが良いのだろうか。」という問いもあった。
                   この問に対して、司会の小嶋先生から「新約聖書学者といえよう。史的イエスとパウロ研究では指導的学者であると同時に、教会人でもあり、キリスト教界の指導者としての側面もある。さらに、専門書を書く教師・学者でもあるが、一般向け著書も多い。現代の脱キリスト教化しつつあるヨーロッパをもう一度、キリスト教の世界に引き寄せようとする印象がある」という応答があった。

                   というあたりが、第1部のおまとめです。第2部については、もうちょっとしてから公開します。

                   ネ、面白そうでしょ。はしょった部分もかなりあるので、それは参加しないと、わかんないかも、です。ぜひ、次回は時間が許せばご参加いただきたく。






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                  コメント:買ったけど、睡眠導入剤になっている。字が小さい、分厚い、重い。日本語訳が出ると嬉しいなぁ。

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                  コメント:割と読みやすかった気がする。The New Testament and People of Godに比べての話しであるが。キリスト者とはどういう存在か、ということを示した本。

                  2014.10.18 Saturday

                  第3回ライトセミナーに行ってきた。後半

                  0
                     今日は、この間あったN.T.ライトセミナーというか、座談会というか、ディスカッションの会の概要をご紹介する。

                     前半の紹介はコチラ
                         第3回ライトセミナーに行ってきた。前半

                    N.T.ライトの翻訳本をめぐるよもやま話

                     冒頭、ディスカッションの口火を切る形で、小嶋先生から次のような趣旨のご発言があった。
                    「N.T.ライトの翻訳で、Simply Christianが出て、それに続く本が何冊か本が出ると、読む本として選択肢ができる状態になっていくだろうし、そう遠くない未来に、The New Testament and the People of Godの邦訳本が出るといううわさもある。このThe New Testament and the People of Godは、ライトの聖書理解に関する根幹を示す基礎的(入門的ではない)な本で、多くの人に読まれてほしいと思う。この本はアカデミックな英書でも最初の本である。全18冊シリーズのEveryoneの出版も検討されており、これらの出版が行われれば、ライトが広く日本に浸透するのではないか。」

                     そうか、睡眠導入剤のがわりのNew Testament and People of Godを読まんといかんのか。あの小さな字で、ぎっしりの文章が書かれたあのおっきな本が必読。気分がめげそう。日本語翻訳がいいのがでると、いいなぁ。

                     現在翻訳中のほんの一部の紹介や、現在英国にお住まいのThe New Testament and the People of Godの翻訳作業にあたっている方から、その一部の抜粋の紹介もあった。ミーちゃんはーちゃんが聞きとったことの中から、抜粋の抜粋とその印象をまとめてみるとこんな感じかもしれない。

                    ーーーーー抜粋の概要ーーーーーーーーーーー
                     近代の啓蒙主義は、キリスト教を批判しようとしてきた(し、その点でキリスト教の起源に批判的な目を向けてきた)。ところで、キリスト教の起源を探ろうとすると、自分自身の信仰の内容にも疑いの目を向けることにもなりかねず、それを回避してきたのではないか。あるいは、キリスト教の成立史を知ることで、自分たちの信仰の基盤が揺らぐことにならないかと気にしすぎではないのか。歴史をきちんと知らなければ、結局自分たちの理解に合わせたイエス像に無理やりに合わせてしまうのではないか。そのため、歴史ときちんと向き合うのではなく、素朴な信仰が我らにはあるという形で対応しようとしてきたのではないか。聖書の中にある「超自然的」な聖書記述に対応するために、「合理性」に対して「超自然性」を言い募ることは、結果として近代合理主義の追認をしていることになるのではないか。

                     現代はポストモダニズムの世界であるが、それは近代合理主義に一定の抑止力とはなっているものの、(近代を前提としているという意味で)近代主義への正面切った反論とはなっていない。そして、幅広い人たちとの聖書や自分たちが信じている内容についての説得や正当化ではなく、対話をしていかないといけないのではないか。(茶色字部分はミーちゃんはーちゃんが思ったことやミーちゃんはーちゃんによる挿入)。
                    ーーーーー抜粋の概要ーーーーーーーーーーー

                    N.T.ライトは、多くの人と
                    話したいんじゃないかなぁ

                     この抜粋を聞きながら、護教というのか、弁証学というのかも大事だけど、それって、本来的には、キリスト教会内外の人々や社会との対話だったはずなのに、どっかで、相手を論破する方向に行ってしまい、余裕のある対話というか対論になってないこと、ミーちゃんはーちゃん自身を振り返ってみても、結構あるよなぁ、と思うてしもうた。多分、余裕がないというのか、神への信仰が足らないんだろうなあ、と思うことしきりであった。

                    周縁と継承

                     出版の準備状況などの紹介があった後、ある出版社の方からは、出版に至る経緯というか背景が紹介され、日本語として読める翻訳にするための困難さや、タイトルをどうつけるかが重要であること、日本では、英米やヨーロッパ大陸の聖書関係の良書の翻訳があまりなされておらず、世界のキリスト教界の主要潮流から取り残されたガラパゴス化(正倉院化)が起きている可能性があるのではないか等のご発言があった。

                     しかし、この、ガラパゴス化というのか、正倉院化というのは、実は周縁学などでも取り上げられており、周辺のかなり古い形の習慣や文化、信仰の形態などが、周辺にこそ残っているということは実はあったりする。その有名な事例が、以下の図で示す日本アホバカ分布図である。このアホバカ分布図の成立略史とその後の学会における影響に関しての松岡正剛氏の紹介記事はこちら。 松岡正剛氏は、編集に関してめちゃ有名人になってしまわれた。


                    日本アホバカ分布図


                     わがキリスト者集団を振り返ってみると、出発点となったブリテン島とその周辺諸島では文化や行動様式、他派との交流の結び方はかなり変化しているのに、日本や、中国、ニュージーランドや、オーストラリアなどでは、いまだに19世紀のキリスト教のわがキリスト者集団の行動様式がきっちりと残ってたりするしなぁ。周辺であるが故に残ってしまう(取り残されざるを得ない)ということの意味を改めて感じる。

                    出版社と読み手との関係

                     その後のディスカッションでは、出版社や販売店が読者を育てるという側面もあったのではないか、これまで翻訳書の世界では、読者側は、受け手のみの役割として想定されており、読者側の視点がなかなか反映されてこなかったことがあるのではないか、という指摘がなされ得ていた。

                     これを聞きながらミーちゃんはーちゃんが思った感想であるけど、悪くいえば、「ほれ、翻訳してやったから、読ませてやるぞよ」的な部分はあったような気がする。特に悪訳ともいうべき翻訳書を見ると、その企画自体は尊いけど、英語で読むほうが楽な本が多いなぁ、と思う。悪訳の存在は、キリスト教書でも、他の専門書でもかなり同じだと思う。そーいえば、昔I●MのGP●Sというシミュレータのコンパチのシミュレータのマニュアル、ひどかったなぁ。もろ、機械翻訳かけました、以上終わり、見たいなすごくえげつないマニュアルをありがたく拝読させていただいた時の怒りが今よみがえる。

                     他の世俗の学問分野の翻訳書の例であるが、「せんせ〜、院生の1年坊主に翻訳させたでしょ?」と聞いたら、「ばれた?」と言われたこともあった。

                     閑話休題。

                    読者が出版に関与するために
                     読者が出版に関与する方策を考えないといけないこと、アマゾンなどの書評では、翻訳の問題と内容の問題が区別されずに書かれているので、潜在的な購買者や読み手の中で、混乱が生じかねないこと、これまでの日本国内のNTライトの議論は、本をきちんと読まずに議論がされてきたのではないか、という疑惑があることなどの話題が出た。

                     また、キリスト教書の流通問題に関するディスカッションとして、図書販売に当たっては口コミが結構影響力を持っていること、教会図書としての購入はよいのだが、結局本として買わずに回し読みして終わりになるのではないか。牧師を含め、かなり広範なキリスト者の層が本を読まなくなっているのではないか、という指摘があり、そして、出版点数はあるものの、諸般の発行部数は下がり、出版社も減少し、キリスト教専門書店も減少している、電子書籍もあるがそれ特有の問題、のご指摘などもあったんだなぁ、これが。

                     特に、九州・北海道では書店数自体がかなり悲惨な状況になりつつある様な雰囲気があるなど、キリスト教書全体にまつわるディスカッションも聴かせてもらえた。
                    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                    感想

                     思うところの多い、セミナーというかディスカッションの時間となった。

                     しかし、コミケとかで売っているあまり人気のないうっすい本や、中学校の適正規模校の生徒数の中央値(15クラス大体600人)より発行部数の少ない本が多いらしいキリスト教書の現状って、どやさ、って思ってたけど、それが改めて、それがキリスト教書の実情なんだ、と思ってぞっとした。

                     地方のキリスト教書店さんがご努力されているのはわかるし、涙ぐましい努力をして、教会への訪問販売とか、店頭での良書紹介しておられるのはわかるけど、そもそも、従来の書籍流通という形での情報の伝達が現在、限界にきているのかもしれない、という思いを新たにした。

                     しかし、悩みの多いキリスト教書業界なんだなぁ。





                    評価:
                    価格: ¥2,808
                    ショップ: 楽天ブックス
                    コメント:文化や言語の伝承、保存、空間関係にかかわることについて、まとめられた本。参考になる。

                    2015.05.30 Saturday

                    NTライト本の出版のお知らせ

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                      出ました。

                       何?

                      N.T.ライトの新刊 Simply Christianの翻訳本
                       あめんどう刊 NTライト著 上沼昌雄訳

                       クリスチャンであるとは

                      買ってきました。

                       そのNTライトの新刊 本格的一般向けキリスト教書


                      購入直後、OCCビルの隣のカフェで

                       出るぞ、出るぞと噂先行ぎみでしたが、本当に出ました。

                       まだインクのにおいがする本を手にしました。

                      翻訳もよい

                       東京に出張があったのと、飛行機の最終便だったことをいいことに、寄り道して、現物を回収して帰りました。昨夜空港と飛行機の中で読みました。6章まで。いやぁ、翻訳は、わかりやすく直訳調でないものの、原文(の意図)に忠実で、かつ読みやすい。

                       あ、一応、英文で、ちゃんとオリジナル読んでます。はい。

                      フォントや印刷もよい
                       ナウエン本は、年寄りに配慮して、フォント大き目でお出しでいたけど、こちらはやや若い人向けであるためかフォントはこれまでの本に比べやや小さめ。ちゃんと書籍用の上質紙が使われている。フォントは小さいとはいえども、老眼が厳しくなっているミーちゃんはーちゃんにも問題ないほどの大きさ、新聞よりやや大きめのフォントかなぁ。もちろん、行間も広めなので、読みやすいことこの上なし。この辺のバランス感覚の良さが、「あめんどう」さんの美点かつこだわり。いやぁ、素晴らしい。

                       Soap Operaを翻訳したところを昼ドラになってたけど、昼メロかメロドラマの方がよかったかなぁ、とか、ごくごく一部わずかに気になるところはあるけれど、ここまでは、大満足。続きが気になるけど、朝3時起きで、最終フライトなので、自宅に戻ったら、ヘロヘロ状態で、続きは今日に持ち越し。

                       では、一足お先に。

                       ほら、読みたくなってきたでしょ。

                      読みたい人は・・・

                       読みたい人は、こちらの「あめんどう」さんのサイトから直接注文を。2冊買うか、他の本1冊買うと送料無料ですし。是非とも。


                       あぁ、それと、大阪の駅前の第2ビル、ことば社さん系統のキリスト教書店オアシス梅田があるビルで、こんなのがある模様。定員が20名なんで、ご希望の方は、お早めに。すでに10名ほど、定員が埋まっている模様です。

                       入場料は無料です。席上献金をお願いするかもしれませんが。



                      大阪で開かれるN.T.ライトのセミナー




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